北原白秋 邪宗門 正規表現版 微笑
微 笑
朧月(ろうげつ)か、眩(まば)ゆきばかり
髮むすび紅(あか)き帶して
あらはれぬ、春夜(しゆんや)の納屋(なや)に
いそいそと、あはれ、女子(をみなご)。
あかあかと据(す)ゑし蠟燭(らふそく)
薔薇(さうび)潮(さ)す片頰(かたほ)にほてり、
すずろけば夜霧(よぎり)火のごと、
いづこにか林檎(りんご)のあへぎ。
嗚呼(ああ)愉樂(ゆらく)、朱塗(しゆぬり)の樽(たる)の
差口(だぶす)拔き、酒つぐわかさ、
玻璃器(ぎやまん)に古酒(こしゆ)の薰香(かをりか)
なみなみと……遠く人ごゑ。
やや暫時(しばし)、瞳かがやき、
髮かしげ、微笑(ほほゑ)みながら
なに紅(あか)む、わかき女子(をみなご)。
母屋(もや)にまた、おこる歡語(さざめき)……
三十九年八月
[やぶちゃん注:本パート標題「古酒」は本詩に基づくものであろう。
「朧月(ろうげつ)」朧(おぼ)ろ月(づき)。
「差口(だぶす)」酒樽(さかだる)の栓。小学館「日本国語大辞典」に、「だぶそ」で見出しし、方言として、最初に「樽の栓」を挙げて、用例として『だぶそを抜く』として、採取地を山口県大島・高知県を示し、「だぶし」として対馬を、「だぶす」として高知県を例示している。]