堀内元鎧 信濃奇談 附錄 人の額に角を生ず・堀内玄逸墓表 / 堀内元鎧 信濃奇談~電子化注完遂
人の額に角を生ず
大河原田代といふ處に安右衞門といふ人あり。其母、七十餘〔あまり〕にして、額に一角を生じ、三年後、解脫〔げだつ〕して、又、生ず。「北窻瑣談」に、『備後國蘆内郡[やぶちゃん注:ママ。そのような旧郡はない。「蘆田郡(あしだのこほり)」の誤字か誤判読である。後注の引用を参照。]常村〔つねむら〕の農夫、八十餘にして、額に一つの角を生じ、翌年、解脫せり。漢の景帝の時、膠東〔こうとう〕下密〔かみつ〕の人、年七十餘、角を生ずと見えぬれば、古今、耆老〔きらう〕の人には、まゝある事にや』。
[やぶちゃん注:これは原本にはない。
「大河原田代」向山氏の補註に、『現、長野県下伊那郡大鹿村田代』とある。現在は旧地名が蘇っていて、長野県下伊那郡大鹿村大河原として、同村域の南部に当たっている(グーグル・マップ・データ航空写真)。
「北窻瑣談」京の儒医橘南谿(宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の遺著で文政一二(一八二九)年刊の随筆。これは、同書の巻之一の冒頭から十二条目にある。「国文学研究資料館」のオープン・データの同書の、ここで読める。電子化しておく。句読点を打った。読みは一部に限った。
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一 寛政四年庚亥(かのえゐ)[やぶちゃん注:これは寛政三年の誤り。一七九一年。]秋、備後國芦田郡(あしたこふり[やぶちゃん注:ママ。])常村の農夫、八十余歲にして、額(ひたひ)に一つの角(つの)を生じ、翌年、解脫(げだつ)せり。同二月、備中鴨方村(かもかたむら)西村拙斎翁より、文(ふみ)して申來る。唐土にも、漢の景帝の時、膠東(きやうとう[やぶちゃん注:ママ。])下密(かみつ)の人、年七十餘(よ)、角を生ず』といふこと見えぬれば、古今(こゝん)耆老(ぎらう[やぶちゃん注:ママ。])の人に、まゝ有事にや。
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この「芦田郡常村」というのは、現在の広島県福山市新市町(しんいちちょう)大字常である(グーグル・マップ・データ)。
「漢の景帝の時」前漢の第六代皇帝。在位は紀元前一五七年から紀元前一四一年まで。以下の話は、清の康熙帝が命じて編纂を開始させ、一七二五年に完成を見た百科事典「古今図書集成」に、
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景帝二年膠東人生角
按「漢書」「景帝本紀」不載。按「五行志」、『景帝二年九月、膠東下密人年七十餘、生角、角有毛。時膠東、膠西、濟南、齊四王有舉兵反謀、謀由吳王濞起。連楚、趙、凡七 國』。下密縣居四齊之中、角、兵象、上鄕者也。老人、吳王象也。年七十、七國象也。天戒若曰、人不當生角、猶諸侯不當舉兵以鄕京師也。禍從老人生、七國俱敗、示諸侯不寤。明年吳王先起、諸侯從之、七國俱滅。京房「易傳」曰、『冢宰專政、厥妖人生角』。
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とあるのを、中文維基文庫のこちらで見つけた。電子化したものは、そこに載るものを参考に、そこに載る原本画像と校合し、私が表記に手を加えたものである。
「膠東下密」漢代に現在の山東省済南市及び淄博(しはく)市一帯に設置された済南(さいなん)郡の内。但し、この地名は別々で、晋代に済南郡は平寿・下密・膠東・即墨・祝阿の五県を管轄した、とある。ここが済南市(グーグル・マップ・データ)で、東で淄博市と接する。しかし、上記の漢籍引用を見るに、やはり「膠東下密」とあるので、「膠東」が広域の旧地方名で、当時は「下密縣」がそこに含まれていたと考えた方がよさそうではある。
「耆老」六、七十歳の年寄り。「耆」は六十歳、「老」は七十歳の意。]
堀内玄逸墓表
堀内玄逸名元鎧一名鮏字魚卿號菅齋父中邨元恒信州伊那人母北原氏家世業醫元恒初試業各處元鎧生于上穗長于大出既而元恒就仕高遠專任儒職元鎧從季父玄三受業于山寺業已成出爲松本堀内玄堂義子玄堂其仲父曩出嗣堀内氏者也翌年仲秋有疾荏苒不愈今玆己丑二月十四日終沒亨年二十有三葬于松本城北澤邨賢忠寺後山元鎧爲人貞信懿實口絕不道人之過惡善事繼母矢野氏及義父母未有疎意是以皆視之猶所生合族感賞他人亦聞其死莫不哀慟其祖淡齋翁以善俳諧歌聞元鎧亦好之元恒聞其疾病走徃視之實危篤也請題一句頷而揮毫蓋其舊題得意句也舍筆卽瞑悲哉已葬元恒左祖右還其墓曰嗚呼汝之不壽命也松本汝祖先墳墓所在汝今死首其丘其安之文政十二年二月高遠敎授中邨元恒識
[やぶちゃん注:底本では「于」を総て「干」とやらかしている。これは話にならないほど、誠にひどい。編者は判読や原稿完成を誰か別な者(漢文の知識が非常に低い)にやらせたのではないか? 解題を見ると、漢文原文を正しく訓読しているからである。前にも言ったが、これは凡そ学術書にあるまじき低レベルの杜撰である。「亨年」は原本もママで、編者は横に訂正注して『(享)』としている。そんな注を打つヒマがあったら、このいっぱいある「干」を「于」にさっさと直せよ! と文句を言いたくなる。最後の最後まで徹頭徹尾、頗る厭な電子化であった。これは若くして亡くなった元鎧の墓碑銘で、父元恒が記したものである。訓読を試みる。
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堀内玄逸墓表
堀内玄逸〔ほりうちげんいつ〕、名、元鎧、一名、鮏〔セイ/シヤウ〕。字〔あざな〕は魚卿〔ギヨケイ〕。菅齋〔かんさい〕と號す。父は中邨元恒〔なかむらもとつね〕、信州伊那の人。母は北原氏。家、醫を世業とす。元恒、初め、業を各處に試む。元鎧〔げんがい〕、上穗〔うはぶ〕に生まれ、大出にて長ず。既にして、元恒、高遠が專任の儒職に就仕〔しうし〕し、元鎧は季父玄三に從ひ、山寺にて業を受く。業、已に成り、出〔しゆつ〕たる、松本の堀内玄堂が義子と爲〔な〕る。玄堂、其の仲父〔ちゆうふ〕、曩〔さき〕に出でて堀内氏を嗣げる者なり。翌年、仲秋、疾〔や〕める有り、荏苒〔じんぜん〕として愈えず。今、玆〔ここ〕に、己丑〔つちのとうし/きちう〕[やぶちゃん注:文政一二(一八二九)年。]二月十四日、終〔つひ〕に沒す。亨年二十有三。松本城の、北澤邨〔さはむら〕賢忠寺が後ろの山に葬る。元鎧、人と爲〔な〕り、貞信にして懿實〔いじつ〕、口〔くち〕、絕えて、人の過惡を道〔い〕はず、善〔よ〕く、繼母矢野氏及び義父母に事〔つか〕へ、未だ、疎意〔そい〕有らず。是れを以つて、皆、之れを視れば、猶ほ、生ずる所の合族〔がふぞく〕、感賞するがごとく、他人も亦、其の死を聞きて、哀慟せざる莫〔な〕し。其の祖淡齋翁、以つて俳諧・歌を善くするを聞き、元鎧も亦、之れを好めり。元恒、聞くならく、其の疾病〔しつぺい〕、走り徃〔ゆ〕き、之れを視るに、實〔まこと〕に危篤なるや、題を請ふて、一句に頷〔うなづ〕きて、揮毫す。蓋〔けだ〕し、其れ、舊題にして得意の句なりと。筆を舍〔す〕つるに、卽ち、瞑悲〔めいひ〕なるかな。葬〔はふり〕は已〔をは〕んぬ。元恒、左に祖〔ならひ〕、右に還り、其の墓に曰はく、「嗚呼〔ああ〕、汝、壽命せざるなり、松本の汝が祖先の墳墓の在〔ま〕す所へ、汝、今、死して、首〔かうべ〕、其の丘へ、其れ、之れを安ず。」と。
文政十二年二月高遠敎授 中邨元恒 識
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別名や号から見ると、余程、元鎧は魚類が博物学的に好きだったように思われる。私は元恒は嫌いだが、或いは、元鎧とは話が合ったかも知れないな……
「上穗」長野県駒ヶ根市上穂南(うわぶみなみ)附近か(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「大出」長野県北安曇郡白馬村大出(おおいで)があるが、一寸、地理的に見て躊躇する(諏訪湖より遥かに北部分は本文中には全く出現しないことが大きな理由である)。
「季父」最も若い叔父。やはり医師であったことが、底本の向山氏の解題で判る。
「出〔しゆつ〕たる、松本の堀内」同じく底本解題によるならば、松本にあった中村家の出である堀内家を継いだ、ということらしい。
「仲父」叔父。
「荏苒」なすこともないままに歳月が過ぎてしまうさま。
「松本城の北、澤邨賢忠寺」現在の長野県松本市沢村にあった恐らくは曹洞宗の寺院。現存しない。明治初期に松本藩が行った廃仏毀釈の政策によって、賢忠寺は廃寺となったからである。松本市公式観光情報サイト「新まつもと物語」の「飛龍山賢忠寺跡・首貸せ地蔵尊」を見られたい。地図もある。何ということか!?!……元鎧は墓さえ存在しないのかも知れない!?!…………
「懿實」誠実。
「疎意」うとんじ、遠ざけること。
「猶ほ、生ずる所の合族、感賞するがごとく」ちょっと訓読に自信がない。底本解題によれば、ここは『皆の感賞するところであった』で、親族一同併せて生きた同時代人(たった二十二年間であったけれど)は皆、ということであろう。
「舍〔す〕つる」「捨つる」。
「瞑悲」目が眩むほどに悲しいこと。
これを以って「堀内元鎧 信濃奇談」は総てが終わっている。……最後にせめて、元鎧の冥福を祈る…………]
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