堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 三婦人
三婦人
元文の比、本鄕の里に「きよ」・「龜」とて、二人の女〔をみな〕、ありける。いかなる人にか學ひけん、歌よみ習〔ならひ〕てけり。ある時、西岸寺といふ古刹の前に、二人して櫻を詠〔なが〕め、歌よみて樂〔たのし〕み居〔をり〕けるに、七久保村にも、「さん女〔ぢよ〕」とて、是も同じく、歌、讀〔よみ〕けるが、その事を傳へ聞〔きき〕て、二人の許ヘ、一首を贈りける。
色も香も盛りと聞し花にまた
こと葉の花のいろも添ふらん
さん女
二人、直〔ぢき〕に、返歌、遣しける。
吹風に散らはをしけんさくら花
はや來て見ませ咲のさかりを
淸 女
もろともに見てそ嬉しき此寺の
はなのむしろにこよまとゐせん
龜 女
それより、さん女、肴〔さかな〕などものして、尋〔たづね〕ゆき、終日〔ひもすがら〕、三人して、興じけるとなり。
後に、また、「源氏」の題にて、三人、歌よみ、「源氏三枕〔みつまくら〕」となん、名づけて、今の世迄も傳へり。
むかし、王德の盛〔さかり〕に在〔ま〕せし御時〔おほんとき〕、文華〔ぶんくわ〕行はれけるに、婦人の文才ありしは、稀なり。
一條天皇の御時に、「朕〔ちん〕が人才を得し事は、前朝に恥かしからず」と誇らせ給ひしと聞ゆる御代にも、淸少納言・赤染右衞門等、わづかに、六、七人に過〔すぎ〕ざりき。まいて水篶〔みすず〕かる信濃の山深き里は、その頃までも、士君子の外は、男子さへ物知り、うたよむ事、まれなりし【「春湊浪語〔しゆんさうらうご〕」に載する、木曾義仲が男〔だん〕義高が、歌、讀〔よみ〕けるよし。また、近き頃、飯田城主脇坂侯、歌よみ給へる、名こそ、高けれ。もとより、武門高貴の御方は斯〔かく〕もありなん。いかで、農婦に、その技倆ある事、望〔のぞま〕んや。】
今や、文華行はるゝ目出度〔めでたき〕昇平〔しようへい〕の御代にあたりて、かゝる邊鄙〔へんぴ〕の賤しき婦人まで、かゝる樣〔さま〕ありしも、いとめづらし。
さん女は、殊に貧しく、すこしの店をひらき、往來の人に茶・酒など賣〔うり〕て業〔なりはひ〕としたりとなん。
[やぶちゃん注:和歌は手を加えずに表記したが、ブラウザでの不具合を考え、下句を分離させて示した。
「元文の比」一七三六年から一七四一年まで。徳川吉宗の治世。
「本鄕の里」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡飯島町本郷』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「きよ」向山氏の補註に、『河野清女(一七一〇-一七八八)、飯島村杉屋宮下七郎左衛門の女、河野太兵衛の妻。飯田の国学者依田梅山に師事、白隠禅師について禅を学ぶ』とある。サイト「箕輪町誌のデジタルブック 歴史編」の「箕輪町誌(歴史編)」の「第二節 和歌」によれば(デジタルブックで校合した)、
《引用開始》
『伊那歌道史』によると、依田梅山は天和元年(一六八一)江戸詰高遠藩士依田清大夫正伸の嫡男として生まれ、幼名は竹松、後に源之進または大沖(たいちゅう)といった。壮年のころ、建部丹波守に仕え、寺社用人として十人扶持を給せられたが、建部の死去を機に浪人の身の上となり、たまたま飯田藩士高沢丹下がその甥である縁故をたよって飯田に来て、元文・寛保のころ飯田知久町に仮寓して、近隣の志あるものに国学・和歌を教授した。また、高遠や飯島などへ招かれ、ようやくこの地にも和歌がゆきわたる機運になった。その門下に大出の井沢正恰(まさよし)がいた。このころ、依田梅山などのように諸国を巡歴して語学技芸を教え、ひいては、農村への文化普及をうながした人々の中に法印歌人鳳鳥がおり、「箕輪といえる里へあやしき法印の笈(おい)かけてさすらへ来れるあり、いずこよりいかなる人にやと尋ねけるに都方のものなり。西国三十三ヶ所の観世音を拝みめぐり、なほ当国善光寺へ志し来れりと。名は鳳鳥ときこゆけれどまことはあかさず。井沢なにがしの家にとどまりて、家の娘に琴など教へ(後略)」と飯田の福住世貞によって書き残されているので、箕輪町では、和歌はこのころからはじまったと思われる。
《引用終了》
とある人物である。
「龜」向山氏の補註に、『桃沢亀(一七一一-一七五七)、片桐村松村理兵衛の女、桃沢喜左衛門の妻、歌人桃沢夢宅は』、『その子である。依田梅山に師事、白隠禅師について禅を学ぶ』とある。「片桐村」は飯島町本郷の南の直近の上伊那郡中川村片桐であろう。
「西岸寺」飯島町本郷に現存する。臨済宗。まさにこの三人所縁の桜が現存する。サイト「巨樹と花のページ」の「伊那三女ゆかりの桜」によれば、幹周三・八〇メートル、樹高七メートルで、樹齢は四百年とある(写真有り)。
「七久保村」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡飯島村七久保』とある。現在は上伊那郡飯島町七久保。前の飯島町本郷と飯島町片桐の西に当たり、同地区の西部の大半はこの地区の木曾山脈の東側の一部を成す。
「さん女」向山氏の補註に、『那須野さん(一七〇五-一七五八)』とされ、『三十四歳のとき夫に死別、金鳳寺(現、長野県伊那市富県)の住職鉄文禅師につき』、『悟の境にいたり、後』、『鉄文の命をうけ』、『宝暦二年』(一七五二年)に『駿河国原宿に白隠禅師を尋ねている。依田梅山に師事。その女が上原氏に嫁したため』(再嫁ということであろう)、『上原さん』、『とも伝えている』とある。伊那市富県の金鳳寺はここに現存する。
○以下、三人の歌を整序して示す。「さん女〔ぢよ〕」の一首。
色も香も
盛りと聞きし
花にまた
言葉(ことば)の花の
色(いろ)も添ふらん
次に「淸女〔きよぢよ〕」の一首。
吹く風に散らば
惜(を)しけん
櫻花
はや來て見ませ
咲きの盛りを
次に「龜女〔かめぢよ〕」の一首。
諸共(もろとも)に
見てぞ嬉しき
此の寺の
花(はな)の莚(むしろ)に
來(こ)よ團居(まどゐ)せん
龜女の歌の「まどゐせん」とは、「三人で車座(くるまざ)になり、楽しみましょう」という誘いである。
「源氏三枕」向山氏の補註に、『源氏物語についておのおの百首の歌を詠み、依田梅山が選をしたもの。さん女四十六首、かめ女三十五首、きよ女三十五首がとられている。延享二(一七四五)年の成立』とある。
「文華」華麗な詩文作品。
「水篶〔みすず〕かる信濃」「水篶〔みすず〕かる」は信濃の枕詞(但し、近世以降)。「いはな」の私の注を参照。
「春湊浪語」江戸後期の土肥経平の考証随筆。以下は、下巻(巻之八)の冒頭にある「志水冠者」。ネット開始直後からお世話になっている個人サイト「Taiju's Notebook」の「日本古典文学テキスト」の同書の縦書電子化から引用させて戴く。一部の漢字を正字化し、読点と推定の読みを歴史的仮名遣で追加した。
《引用開始》
志水冠者
木曾義仲の嫡子志水冠者義高、鎌倉へ參るとて木曾を旅立(たびだち)けるに、母や、めのとに、「我、かへりまいらん[やぶちゃん注:サイト主による原本のママ表記がある。]程の形見」とて、七番の笠懸(かさがけ)を射てみせて、打立(うちたち)ける。其旅中にて、志水冠者、
はやきつる道の草葉や枯(かれ)ぬらん
あまりこがれて物を思へば
供に有(あり)ける海野小太郞幸氏(ゆきうじ)、かへし、
思ひには道の草葉のよも枯(かれ)じ
淚の雨のつねにそゝげば
とよみし。此時、志水冠者も幸氏も、共に十一歳なりし事、「源平盛衰記」にみへたり。志水冠者、かゝる年のほどにて、我家のわざながら、作法ある笠懸を射覺え、和歌を翫(もてあそ)ぶ事などの、かく有(あり)しこと、あながちに[やぶちゃん注:サイト主によって『原文「あながらに」』を訂した旨の割注がある。])田舍び、かたくなならん父の傍(かたはら)にて生立(おひいで)たる男兒も、仕る童(わらはべ)[やぶちゃん注:幸氏を指す。彼は義高の脱出の際には彼に変装して発覚を遅らせた。後に頼朝から忠臣として評価され、幕府に士官させている。]も、いかで、かゝるやさしき翫ごとの有(ある)べき。是等にておもへば、義仲のひがみ、かたくななることを、「平家物語」等に無下(むげ)に書(かき)たれども、さまでは、なかりけるならん。是は平家都落の跡へ、義仲、入(いれ)かはりて、法皇御所法住寺殿を攻破(せめやぶ)り、關白松殿(まつどの)の姬君を、押(おし)て妻とせし類(たぐひ)の暴逆の甚しかりければ、堂上(だうしやう)・地下(ぢげ)より下(しも)ざまに至り、あくまで木曾を惡(にく)みて、ことごと敷(しく)しるせしにぞ。志水冠者も、年を經ず、鎌倉にて、右大將家の爲(ため)に殺されし。いとおしくも[やぶちゃん注:サイト主による原本のママ表記がある。]、あはれにもある事なり。
《引用終了》
私は大の義高のファンである。何度も常楽寺裏の荒れ果てた塚に墓参りもした。彼については幾つも書いているが、ここは「北條九代記 淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎」をリンクさせるに留めよう。
「飯田城主脇坂侯」安土桃山から江戸前期にかけての大名で歌人。伊予国大洲藩二代藩主、後に信濃国飯田藩初代藩主となった脇坂安元(天正一二(一五八四)年~承応二(一六五四)年)。生前当時から武家第一の歌人とされた教養人であり、和漢書籍数千巻を蔵し、著作も多い。儒学をかの林羅山に学んだが、逆に、安元が羅山に歌道を教えるという師弟関係にもあった。詳しくは参照したウィキの「脇坂安元」を見られたい。
「昇平」世の中が平和でよく治まっていること。]