北原白秋 邪宗門 正規表現版 夕
夕
あたたかに海は笑(わら)ひぬ。
花あかき夕日の窓に、
手をのべて聽くとしもなく
薔薇(さうび)摘(つ)み、ほのかに愁(うれ)ふ。
いま聽くは市(いち)の遠音(とほね)か、
波の音(ね)か、過ぎし昨日(きのふ)か、
はた、淡(あは)き今日(けふ)のうれひか。
あたたかに海は笑ひぬ。
ふと思ふ、かかる夕日(ゆふひ)に
白銀(しろがね)の絹衣(すずし)ゆるがせ、
いまあてに花摘(つ)みながら
かく愁(うれ)ひ、かくや聽(き)くらむ、
紅(くれなゐ)の南極星下(なんきよくせいか)
われを思ふ人のひとりも。
[やぶちゃん注:標題「夕」は「ゆふべ」と読んでおく。
「南極星」北極星に対応するような南極星(明るい星)は存在しない(石坂千春氏のサイト内の「南天の星空 ~天の南極のさがし方~」を参照されたい)。個人的には「紅(くれなゐ)の」と形容したところで、天の南極の近くの本邦から辛うじて見えるカノープス(Canopus)を想起する。或いは本邦からは見えない南十字星も近いから、白秋の文字通り、南蛮趣味に色染めされた「邪宗門」の「サザン・クロス」と赤い「カノープス」の交点の幻しの星とでもとっておこう。]
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