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2020/11/06

堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 馬角

 

 馬角

 

Mumanotuno

 

[やぶちゃん注:底本の図。]

 

 芝尾村のある家に「馬角〔むまのつの〕なり」とて、ひめ置〔おき〕ぬ。享保の比、その家にて飼〔かひ〕ける馬〔むま〕、三年が間、年每に脫〔ぬけ〕ては、また、生〔しやう〕じぬ、とぞ。

 燕の太子丹が、秦に質〔じち〕たりし時、「馬に角を生せば國に還〔かへ〕さん」といひしは、世にあらざらん物を望〔のぞみ〕しなり。されば、西漢〔せいかん〕[やぶちゃん注:底本は『酉漢』であるが、意味が判らぬ。原本は「西漢」で意味が通るから、訂した。]文帝十二年、成帝〔せいてい〕綏和〔すいわ〕三年、および晉武帝大康元年、馬の、角を生ぜし事、彼〔かの〕史に見ゆ。本邦にても馬角もて珍寶とし、身延山等にもありといふ。【「身延鑑〔みのぶかがみ〕」に見ゆ。】ただし、「呂氏春秋〔りよししゆんじう〕」に、『人君失ㇾ道馬生ㇾ角』、また、「京房易傳〔けいばうえきでん〕」にも、『臣易ㇾ上政不レバㇾ順馬生ㇾ角』と見えたれば、禎祥〔ていしやう〕のものには、あらず。

 寬永年中、武州江戶に駿馬〔しゆんめ〕あり、耳の下に角を生ず。長〔たけ〕二寸餘あり。阿部對馬守重次、此馬角一雙を日光山東照大神宮の齋庫〔さいこ〕に進呈す。其說、「羅山文集」に見えたるよし、「漢語故事」にあり。

 

[やぶちゃん注:馬の頭部に生えた角状の角質の腫瘍(概ね良性のものが多いようである)。ヒトにも稀れに見られる。というより、本書の底本版では、「附錄」の最後に元恒自身が補遺したものとする編者註がある「人の額に角を生ず」の一条があるのである(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本にはない)。

「芝尾村」底本の向山氏の補註に、『現、長野県伊那市新山芝居。この馬角は現存している』とある。芝居という地名は確認出来ないが、スタンフォード大学の明治四三(一九一〇)年測量・昭和五(一九三〇)年修正の『内努省』版の古地図で、北西部分でそれぞれ上・中・下新山(にいやま:現在の当地の小学校名に拠る)の位置が判る。但し、「長野県伊那市 馬の角」の検索では、残念ながら掛かってこない。

「燕の太子丹」燕の太子丹(?~紀元前二二六年)は戦末期の燕の王族。姓は「姫」又は「姞」(キツ)、丹は諱。燕王喜の子。ウィキの「燕太子丹」によれば、『少年時代は、趙に人質として送られ、同じく人質だった秦の王族だった政と親しくしていたことがある。後に本国に帰国して、燕の太子となった』。『後年、丹は燕の使節として、かつて昔なじみの秦の秦王政に挨拶をしたが、秦王政から冷たく対応された。丹はこれに衝撃を受けて、秦は燕にとって災いをおよぼす国だと判断して、帰国した』。『帰国して秦の強大化を危惧した丹は、重臣である鞠武』(きくぶ)『へ如何にすべきか相談したところ、鞠武は「秦は三晋(趙・魏・韓)を脅かし、北に甘泉・谷口が天然の要害となり、南に涇水・渭水に沿った肥沃な大地を有する。肥沃な巴や漢中を独占し、右は隴・蜀の山脈、左は函谷関・崤山に守られている。人口は多く、また兵士も勇猛で、武器防具も満たされている」と評して秦と争うことの愚を献策したものの、丹はそれを聞き入れなかった』。『秦の軍勢の少数精鋭化により解雇された兵士たちを哀れに思って、それに反対した秦の元将軍である樊於期』(はん おき)『が、秦王政に疎まれて燕に亡命してきた。丹がこれを匿う様子を見せたのに対して、鞠武は「樊於期を庇うことは『飢えた虎(秦)の目の前に肉を置く』ようなもの。樊於期を匈奴へと追放した上で、三晋及び斉・楚、匈奴と同盟を結んで対抗すべき」と再び献策したものの、丹は政の非情な政策により命を狙われ、家族までも殺されて、行く宛てもなく秦に追われながら逃げ続けていた樊於期の窮状に哀れみを感じ、この策を退けた』。『鞠武から紹介を受けた田光に、丹は秦への対応策を相談したところ、田光より荊軻』(けいか)『を頼るように助言を受けた。丹は帰り際、田光へ「今まで話した内容は他言無用」と語ったことに対し、荊軻へ丹からの用向きを伝えた田光は「田光は自害したので、もはや漏れることはない」と荊軻に言い残して自ら命を絶った。これを荊軻より聞いた丹は深く悲しんだ』。『紀元前』二二七『年、丹は秦王政を暗殺するため』、『荊軻を刺客として秦舞陽を供に付け、荊軻の説得で自殺した樊於期の首と、秦に割譲すると偽った督亢』(とっこう:燕国の地味肥沃な領土であった)『の地図を持たせ、白い衣装と冠を着て易水の畔まで見送った上で、秦へと派遣した。しかし、荊軻は暗殺に失敗して、その場で殺された』。『同年、秦は事件の首謀者である丹を追討するために燕へと侵攻、燕は代と連合して戦うも』、『易水で敗れ、紀元前』二二六『年には国都の薊』(けい)『が陥落し、丹と燕王喜は遼東に逃れた』。『丹は秦将李信に追われ、衍水』(えんすい)『に身を潜めた』。『その後、燕王喜は代王嘉からの勧めもあり、衍水にいた丹に使者を送って殺害し、その首を秦に差し出すことで許された』。一方、「史記」の秦の武将白起や同じ王翦(おうせん)の『列伝では』、『衍水にいた丹は李信により捕虜にされたと記されており』、「史記」の「秦始皇本紀」では、『燕の首都薊が陥落した時に討たれたと記されている』とある。『その後も燕は、遼東の亡命政権の下で延命するものの、丹の死から』四『年後の紀元前』二二二『年に燕王喜が捕らえられ、滅亡した』とある。ここにある通り、「史記索隠」(唐の司馬貞による「史記」の注釈書で史記三家注の一つとして知られる有名なもの。全三十巻。先行の諸書を引用し、音韻・地理・人物の考証に優れる)に「丹求ㇾ歸、秦王曰、烏頭白、馬生ㇾ角、乃許耳」(丹、歸らんことを求むに、秦王曰、「烏の頭の白き、馬の角を生ずるあれば、乃(すなは)ち許すのみ」とある故事から、「決してあり得ないこと」の喩えとされる。

「西漢」前漢(紀元前二〇六年~紀元後八年)の別称。中国史で、西の長安に都したことからかく呼び、東の洛陽に都した後漢(二五年~二二〇年)を東漢と称する。

「文帝十二年」文帝は前漢の第五代皇帝劉恒。紀元前一六九年。

「成帝綏和三年」成帝は前漢の第十一代皇帝劉驁(りゅうごう)。確かに、「漢書」の「志」の「五行志下之上」に(古版本でも確認した)、

   *

成帝綏和三年二月、大廄馬生角、在左耳前、圍長各二寸。是時王莽爲大司馬、害上之萌自此始矣。

   *

とある。しかし、これには不審がある。何故なら、綏和には三年はないからで、前年の綏和二年(紀元前七年四月十七日)に成帝は死去し、翌年に改元され、建平元年(紀元前六年)となっているからである。

「晉武帝大康元年」太康は西晋の武帝司馬炎の治世に使われた元号で、ユリウス暦二八〇年。

「身延鑑」貞享二(一六八五)年に身延三十一世の一圓院日脫上人が、日蓮宗総本山たる久遠寺の由来を後世に伝え、且つ、参詣者への案内書として編集したもの。但し、同名で後に書かれたものもあり、現物での確認が出来ない。

「呂氏春秋」秦の呂不韋(りょ ふい ?~紀元前二三五年:生まれは富商であったが、秦の丞相となり、始皇帝から相国仲父として尊信されたが、間もなく失脚して自死したとされる)が編纂した百科全書的史論書。全二十六巻。成立年は未詳であるが、その大部分は事実、戦国末の史料に拠ると想定されている。孔子が編したとされる「春秋」にならって呂不韋が当時の学者を集めて作成させたとされる。全体として統一されたものではなく、儒家・道家・法家・兵家・陰陽家などの諸説が混在しているが、それ故に古代史の研究上貴重な文献とされる。但し、現存するものには見出せない。しかし、「晋書」の「十二」に、『武帝太耀元年、遼東有馬生角在兩百卞、長三寸。按劉向說曰、「此兵家也、及帝晏駕尋賓賣毒酬兵禍、是其應也」。「京房易傳」曰、「臣易上政不順厥潤馬生角」。茲謂賢士不是又曰、「天子親伐馬生角」。「呂氏春秋」曰、「人君失道焉有生角」』とあるので、以下の部分が実はここからの孫引きであることが判る(わざわざ順序を変えて、あたかも別な書から引いたように見せているのではなかろうか? どうもこの中村元恒、好きになれない部分がある。

「人君失ㇾ道馬生ㇾ角」「人君、道を失へば、馬、角を生ず」。

「京房易傳」前漢の「易経」の大家であった京房(けいぼう 紀元前七七年~紀元前三七年)の著作とされているが、残っているそれは、「漢書」の「五行志」にしばしば引用されている「京房易伝」とは、まるで一致せず、「漢書」の引用の方が信頼できるものであるとされている、とウィキの「京房」にあった。なるほど……元恒先生、らしいですよ、そのまま正直に「晋書」の引用にしといた方が、よかったかも知れませんねぇ……

「臣易ㇾ上政不レバㇾ順馬生ㇾ角」「臣、上に易(か)はり、政(まつりごと)、順ならざれば、馬、角を生ず」。やはり「漢書」の「志」の「五行志下之上」からの引用であることが確認出来た。

「禎祥」瑞祥に同じ。

「寬永年中」一六二四年~一六四五年。

「阿部對馬守重次」(慶長三(一五九八)年~慶安四年四月二十日(一六五一年六月八日)は阿部正次の次男。三浦重成の養子となったが、実兄正澄の死で実家に戻り、父の家督を継ぎ、寛永一五(一六三八)年、武蔵岩槻藩(現在の埼玉県)藩主で阿部家第二代となった。徳川秀忠・家光に仕え、六人衆(後の若年寄)や老中を務めた。家光が死んだ日、堀田正盛らとともに殉死した。

「齋庫」新穀及び供物等を納める建物。

「羅山文集」江戸初期の朱子学派儒学者で林家の祖林羅山(天正一一(一五八三)年~ 明暦三(一六五七)年:羅山は号で、諱は信勝(のぶかつ)出家後の号である道春の名でも知られる)の膨大な文集。調べる気にはならない。

「漢語故事」不詳。]

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