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2020/11/02

堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 告天子

 

 告天子

 近き頃、松本にて告天子(ひばり)を取〔とり〕けるに、「伊勢國にて放つ」と足に札〔ふだ〕のありけるよし。

 また、天山翁の「彥城日記」に、賴朝公の放てる、金の札、附〔つけ〕たる鶴を捕〔とり〕けるよし、見ゆ。彼は數百年を經て長生し、是は、かかる小鳥の數十里を超〔こえ〕て飛行する、いと、くすしきことゞもなり。

 

[やぶちゃん注:スズメ目スズメ亜目ヒバリ科ヒバリ属ヒバリ Alauda arvensis であるが、本邦には亜種ヒバリAlauda arvensis japonica が周年生息(留鳥)し(北部個体群や積雪地帯に分布する個体群は、冬季になると、南下する)、他に亜種カラフトチュウヒバリ Alauda arvensis lonnbergi や亜種オオヒバリ Alauda arvensis pekinensis が冬季に越冬のために本州以南へ飛来(冬鳥)もする。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鷚(ひばり) (ヒバリ)」を見られたい。和名は、晴れた日に上空高く飛翔して盛んに囀ることから「日晴(ひば)れ)」が転じたとする説が有力で、「告天子」は漢名であるが、同様に、雲の上の天界まで登るようであり、しかも生命の息吹たる春を高らかに告げるといったニュアンスであろう。

「天山翁」向山氏の補註に、『高遠藩士阪本天山』(寛保元(一七四一)年~享和三(一八〇三)年:但し、ウィキの「阪本天山」によれば、生年は延享二(一七四五)年とある)は『儒者であり』、『砲術家、諱を俊豈』(としやす)、『天山と号した。その砲術は、萩野流を改めて天山流を開き、また、詩文をよくした』とある。ウィキには、『高遠藩士・坂本運四郎英臣の長男として高遠城下の荒町に生まれ』、明和五(一七六八)年、『大坂の荻野照良に砲術を学び、帰郷して『銃陣詳説』などを著す』同七年には、『藩主内藤頼由の参勤交代に随行して江戸に出府し、荻生徂徠門下の大内熊耳』(ゆうじ)『に入門し』、『復古学を修める』後に『荻野流を研鑽して「荻野流増補新術」として「周発台」を発明し、自藩の砲術に採用された』。天明三(一七八三)年からは『藩の郡代も務め、治山治水に努めたが、反対派のために失脚し、三年間』、『蟄居閉門となった』。後に『脱藩し』、『大坂、彦根藩、長州藩、大村藩などで砲術と儒学を教授し』、享和二(一八〇二)年、平戸藩主松浦清』(号は静山。膨大な随筆「甲子夜話」で知られる)『から招待され』、『藩士の教育にあたった』。同三年、『長崎で病没』した。「紀南遊嚢」などの漢詩集を残している、とあり、また、『孫娘の桂が島崎重韶(島崎藤村の祖父)の後妻となった』とっもあった。「彥城日記」は不詳だが、以上のウィキの記載に彦根藩にいたことがあることから、その時の日記であろう。彼は本「信濃奇談」が板行される二十六年前に亡くなっている。

「賴朝公の放てる、金の札、附たる鶴を捕けるよし、見ゆ」「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶴」の中に、

   *

徃昔(むかし)、賴朝公の放(はな)つ所の鶴、今も亦、駿遠(すんえん)の田澤に來徃す。偶々、之れを觀る者有り。謂く、「翼の間に金札有りて、年號を記せり」と。

   *

とある。そこで私が附した「賴朝公の放(はな)つ所の鶴……」への注で、静岡県磐田市の「中遠広域事務組合」公式サイト内の「中遠昔ばなし」の中の「鶴ヶ池(磐田市)」にあるこの話に酷似するものを引用した。「磐田昔ばなし」よりとある。参照されたい。また、他にも鎌倉幕府を創建した源頼朝が、ある時、天下統一を祝って、鎌倉の鶴岡八幡宮寺から千羽の鶴を放ち、その鶴の片足には金の短冊が付けられており、壮観であったという話もあり、後世、川柳に「鎌倉の鶴は片足重く舞い」と詠われたともある(サイト「玄松子の記録」の「鶴岡八幡宮」に拠る。但し、史実上の資料にこうした事実記載はないと私は思う)。ともかくも、天山の「彦城日記」にあるというその記載は、実際に彦根でその鶴が捕らえられたという記載ではなく、そうした上記の静岡の伝承などを聞書したものに過ぎないではないかと私は考える。]

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