堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 蛇足
蛇足
小町谷〔こまちや〕といふ里のある家に、夜半の頃ほひ、塒〔ねぐら〕の鷄〔にはとり〕、おどろおどろしく鳴けり。あるじ、驚き、見てければ、ふとやかなる蛇、ふたつ、塒に來りて、鷄を卷〔まき〕とらんとす。
あるじ、腹だたしくて、打殺〔うちころ〕しつつ、串〔くし〕に貫きて、火もて、燒〔やき〕ただらしければ、足、出でけり。
あやしうおそろしくおぼへ、大路〔おほぢ〕に捨置〔すておき〕て、人にも、あまねく見せけり。
「いと、あやしき事よ。」
と、いひあへりける。
陶隱居が「本草」注に、『蛇、皆、足あり。地を燒〔やき〕て熱せしめ、酒もて、汚ひて[やぶちゃん注:原本もママ。後注で述べるが、これは「本草綱目」の引用で、原本自体の「沃」の誤記であり、「沃(そそ)ぎて」の誤りと私は思う。]、その中に置〔おけ〕ば、足、出づ』。また、「酉陽雜俎」にも、『蛇は、桑柴もて、燒〔やけ〕ば、足、出づ』と見えたり。
蛇の足出〔する〕るは、常の事ならんに、古〔いにしへ〕より、『蛇は足なきもの』と、人々、思へるなり。「戰國策」に、蛇をつくりて足を畫〔かく〕を、「無用」のたとへとなし、東方朔が守宮〔やもり〕を射〔あ〕て、これを「蛇とすれど、足あり」といひしの類〔たぐひ〕、皆、「蛇には足なきもの」となせしなり。
古の人すら、かくのごとし。今の人は、論ずるに足らず。
[やぶちゃん注:蛇には後肢の残痕の骨があることは知られている。外部からも大型の原始的な蛇のボア(爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ボア科 Boidae)・ニシキヘビ(ヘビ亜目ムカシヘビ上科ニシキヘビ科 Pythonidae)のなどでは、総排泄腔の左右に蹴爪(けづめ)と呼ばれるその痕跡を見かけることはあるが、それでも足には見えない。サイト「CNN」の「化石の分析によって、後ろ脚がヘビの祖先にとって役立っていた可能性が示唆された」によれば、ヘビは七千万年に亙って『後ろ足を持っていたが、その後の進化の過程で失われた――。新たな化石を分析した結果として』二〇一九年十一月二十日のアメリカの科学誌『サイエンスアドバンシズ』(Science Advances)で、そうした『論文が発表された』とある。ヘビは一億七千四百万年前から一億六千三百万年前に出現し、『その後の進化で手足のない生態に適応したが、これまでの限られた化石記録からは変化の様子が分かっていなかった』。『従来の説ではヘビに手足があった期間について、四肢のない現在の体形に適応するまでの過渡期に過ぎないとの見方もあった』が、『新たに発見された保存状態のよい化石を分析した結果、長期間にわたり後ろ足があったことが判明した』。『分析対象となったのは、ナジャシュ・リオネグリナ』(ヘビ亜目†ナジャシュ属ナジャシュ・リオネグリナ Najash rionegrina)『と呼ばれる初期の』絶滅種で、『研究者はアルゼンチンのパタゴニア北部で』八個の頭蓋骨を『発見し、そのうち』の一『個はほぼ無傷の状態で見つかった』(リンク先に化石画像有り)。『ナジャシュには頰骨(きょうこつ)弓などトカゲに似た原始的な特徴がある一方』、頭蓋骨から『頰骨につながる骨がない点を含め、現在のヘビに近い特徴も併せ持つ。あごの関節の一部などにはヘビとトカゲの中間的な特徴も見られる』。『ナジャシュは』七千『万年の間、後ろ足を備えた体形で安定的に生息していた。この事実からは、後ろ足がヘビの役に立っていて、単なる過渡期ではなかったことがうかがえる』とあった。にしても、本邦産のヘビ類で元恒が平然と言うような真正の「足」がある蛇など、普通は、いはしない(先祖返りの奇形個体は別だが、極めて稀れ)。されば、これは何かを元恒が誤認していると言わざるを得ない。思うに、これは有鱗目(ヘビ・トカゲ・ミミズトカゲ)の♂だけが持つ外部生殖器の半陰茎(hemipenis:ヘミペニス:hemi(「半分割された」)+penis(「♂生殖器」))の誤認と思われる。蹴爪と同じように総排出腔の後方左右に一対あって、生殖行動の際、反転してニョッキリと体外に突出する。棘や鈎などの様態を持つことが多く、種によって形状に大きな違いがあるが、位置的にも後ろ足と誤認する可能性は頗る高いと思われる。
「小町谷」底本の向山氏の補註に『現、長野県駒ケ根市赤穂小町屋』(あかほこまちや)とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「陶隱居」これは明の李時珍の「本草綱目」に引かれている陶弘景の注と考えた。而して、「本草綱目」を調べたところ、巻四十三の「鱗之一」の最後の最後にある、「諸蛇」の中に(訓読は国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年風月莊左衞門板行本の訓点を参考にした。ここ)、
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炙以桑薪則足可立出【藏器曰蛇有足見之不佳惟桑薪火炙之則見不足怪也陶𢎞景曰五/月五日燒地令熱以酒沃之置蛇于上則足見】
(炙(あぶ)るに、桑の薪(たきぎ)を以つてするときは、則ち、足立ちどころに出づべし。【藏器曰はく、「蛇、足、有り。之れを見るときは、佳(か)ならず。惟だ、桑の薪の火にて之れを炙れば、則ち、見るに、怪しむに足らざるなり」と。陶弘景曰はく、「五月五日、地を燒きて、熱せしめ、酒を以つて、之れを沃(そそ)ぎ、蛇を上に置くときは、則ち、足、見ゆ」。と。】。)
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さても、元恒と元鎧は二人して誤りを犯している。一つは「蛇に足がある」と言っているのは陶弘景ではなくて陳蔵器であること(細かいことを言えば、「皆」とは蔵器は言っていないのも指摘しておく)、そして、不審極まりない「汚ひて」は「沃ぎて」の誤りであること、である。
「酉陽雜俎」(ゆうようざっそ:現代仮名遣)晩唐の官僚文人段成式(八〇三年~八六三年)撰の荒唐無稽な怪異記事を蒐集した膨大な随筆。八六〇年頃の成立。巻十一の「廣知」に、
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蛇以桑柴燒之、則見足出。(「蛇は、桑の柴を以つて、燒けば、則ち、足を出だすを見る。」)
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とあった。
『「戰國策」に、蛇をつくりて足を畫〔かく〕を、「無用」のたとへとなし』はい、漢文でやりましたねぇ、「蛇足」。同書の「齊策」の「齊二」の「昭陽為楚伐魏……」の条。
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昭陽爲楚伐魏、覆軍殺將得八城、移兵而攻齊。陳軫爲齊王使、見昭陽、再拜賀戰勝、起而問、「楚之法、覆軍殺將、其官爵何也。」。昭陽曰、「官爲上柱國、爵爲上執珪。」。陳軫曰、「異貴於此者何也。」。曰、「唯令尹耳。」。陳軫曰、「令尹貴矣。王非置兩令尹也、臣竊爲公譬可也。楚有祠者、賜其舍人卮酒。舍人相謂曰、『數人飮之不足、一人飲之有餘。請畫地爲蛇、先成者飮酒。』。一人蛇先成、引酒且飮之、乃左手持卮、右手畫蛇、曰、『吾能爲之足。』。未成、一人之蛇成、奪其卮曰、『蛇固無足、子安能爲之足。』。遂飮其酒。爲蛇足者、終亡其酒。今君相楚而攻魏、破軍殺將得八城、不弱兵、欲攻齊、齊畏公甚、公以是爲名居足矣、官之上非可重也。戰無不勝而不知止者、身且死、爵且後歸、猶爲蛇足也。」。昭陽以爲然、解軍而去。
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『東方朔が守宮〔やもり〕を射て、これを蛇とすれど、「足あり」といひし』これは、「漢書」の「東方朔傳」に出るエピソード。
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上嘗使諸數家射覆、置守宮盂下、射之、皆不能中。朔自贊曰、「臣嘗受易、請射之。」。乃別蓍布卦而對曰、「臣以爲龍又無角、謂之爲蛇又有足、跂跂脈脈善緣壁、是非守宮卽蜥蜴。」。上曰、「善。」。賜帛十匹。復使射他物、連中、輒賜帛。
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「上」は漢の武帝。これは南方熊楠が「十二支考」の一つである「田原藤太竜宮入りの譚」の「三 竜の起原と発達(1)」で、
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『抱朴子』に、「蜥蜴を謂(い)いて神竜となすは、ただ神竜を識らざるのみならず、また蜥蜴を識らざるなり」。晋代蜥蜴を神竜とし尊んだ者ありしを知るべし。『漢書』に漢武守宮(やもり)を盆で匿し、東方朔に射(あ)てしめると、竜にしては角なく蛇にしては足あり、守宮か蜥蜴だろうと中(あ)てたので、帛[やぶちゃん注:きぬ。]十疋を賜うた、とある。蜥蜴を竜に似て角なきものと見立てたのだ。
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と記している一件である。
「古の人すら、かくのごとし。今の人は、論ずるに足らず」どうも五条をやってみて感ずるのだが、元恒は少し、増上慢になっている感じがする。誰か、あの世で教えてやってくんな――「あんたが蛇の足だと思ってたのは、実はねぇ、雄蛇のチンポコなんだぜ?」――]