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2020/11/06

梅崎春生 B島風物誌 ブログ分割版 (その三)

 

 朝早く、不破曹長は伴兵長をつれて、本隊へ連絡に行った。現陣地の保持は困難だから、陣地を後退したいという連絡らしい。

 おれは食事がすんで、小屋のなかにころがっていた。今朝ももちろんジャングル野菜だ。それも掌でにぎれるほどの量だけ。

「ああ、腹いっぱい食いてえなあ」

 誰かが溜息をつく。ふしぎなことだが、おれたちに肉体的な空腹感がもっともはげしいのは、食べた直後の数分間だ。眼球が内に吸いこまれるような強い食慾が、猛然と胃をつきあげてくる。そしてそれが次第に沈みこみ、鉛のように重い飢餓感になって、一日中つづくのだ。その絶え間ない飢餓感が、おれに内的な虚脱をもたらしてくる。

 小屋のなかは、今日もそれぞれの姿勢で、皆は横になっている。おれはぼんやり眼をひらいて、昨日と変らぬその光景を眺めている。うす暗い、色彩にとぼしいその光景のなかで、皆のからだは鼠色の毛布にくるまってならんでいる。しばらく眺めていると、それはおそろしく無感動な物体に見えてくる。思考や情緒をもたぬ、ほとんど意味のない物体の感じがしてくる。

(この連中は、迫ってくる死を、ただ運命としてうけとっているのか?)

 そんな疑問が、ふとおれの胸をかすめる。

 小屋のすみで、有馬が痛そうに呼吸をはずませながら、ぎくしゃくと起き上る。杖にからだを託して、よろよろと出口の方にあるき出す。足をふむ度に顔がゆがんで、見るからに痛そうだ。おれの足元をすぎるとき、密林の青ぐらい光が、有馬の顔にまつわるようにゆらゆらと動く。

(――暗いな)

 おれはそんなことをかんがえている。そして反射的に、あのぎらぎら輝く太陽が、突然おれの胸に浮び上ってくる。それはあざやかに、末期(まつご)の幻想のように、おれの胸のなかに鮮烈に結実する。胸の内側に生えた触手で、おれはおそるおそる、それをたしかめてみる。ぎらぎらと熱い実体だ。熱帯の太陽だ。さんさんと燃えながら、光を八方に発射する。 ――その光はまっすぐに地球に降ってくる。そこには青い海に囲まれた島がある。厚い密林に一面おおわれて、梢と梢はせり合いながら、むんむんと葉をひろげている。光はそこでさえぎられる。そして葉と葉のすきまから、屈折に屈折をかさねて、梢から枝へ、枝から幹へ、わずかな光がこぼれてくる。光はもとの色を失って、だんだん青ざめてくる。青ざめながら、その光たちは、あたりをぼんやり明るくする。錆色(さびいろ)の幹や、蔓(つる)草や、堆積(たいせき)した落葉、光にそむいた風のいとなみが、密林の底にひろがっている。屈曲した虫類。それを探す小鳥たち。苔(こけ)むした朽木(くちぎ)。立ち上る羽虫のむれ。それを僅かに照らすものは、あの真昼の太陽ではない。厚い密林層にはばまれて、太陽はすでに死んでいる。迷いこんだ青ぐらい光だけが、この風物に参加する。――そして、この傾いた芭蕉小屋に横たわる幾人かの人間も、その青ぐらい光のなかで、もはやほろびゆく風物にすぎない。ひっそりと生死をかさねる、密林の風物の一部分だ。ブウゲンビルと名付けられた大きな島の、この灼熱した風景の蔭に、これは息絶えかけた十七匹のミノ虫だ。

(こんなところで死ぬというおれたちの役割は何だろう?)

 ……おれの幻想はふとそこで途切れる。今朝本隊に出発した不破と伴のことを、おれはぼんやり考えている。それは陣地を移動して、M川を越えてもっと奥に後退したいというに違いないのだ。しかしこの願いは、本隊の隊長によって、拒否されるだろう。関根隊をふくめたこの大隊は、裏を流れるM川の線を、六月末まで死守せよというのが、ブインから出た師団命令なのだ。いわば捨石としての役割であることを、皆は確実に知っている。おれたちが一握りのジャングル野菜に命を辛くもつなぎ、やがて青ぐらい風物と化し去り、次々蠟燭の尽きるように倒れて行っても、その命令の重さには微塵(みじん)のゆるぎもないのだ。その冷情を、おれたちは身に沁(し)みて受取っている。五味伍長がはきすてたように、(これが戦争だ!)という風の受取りかたで。――[やぶちゃん注:「M川」不詳。但し、先に出た「プリアカ」(Puriata)川からブイン方向へ直線で約十六キロメートル南下した位置に Mamagota という集落があり、川が貫通している(英語サイト地図「Mapcarta」のここ)。]

 小屋の外から、杖にすがって有馬がよろよろ入ってくる。排便が済んだのだ。破れた洋袴(ズボン)から、先日の傷口が見える。それは黄色く弾けて、潰瘍し始めているらしい。苦痛が彼の全身をおおっている。この二三日で、げっそり肉が落ちたようだ。物資収集やその他の雑用は免ぜられているとはいえ、身のまわりのことは自分でやらねばならぬのだ。誰も力をかしはしない。杖をはなしてくずれるように、有馬は毛布にころがりこむ。低くうめき声をたてる。おれはぼんやりと、その姿体を眺めている。食糧を五日分ほどかくしたという有馬の言葉を、おれはその時思い出している。

(有馬が怪我をした、きっとあの付近だな)

 有馬はほとんど歩行できないのだから、その後それをとりにゆく筈(はず)がない。まだそっくり残っている筈だ。――

 食道と胃がぎゅっと収縮するような感じが、おれをおそう。唾液が舌の根から滲みでる。舌で唇を舐(な)めながら、おれの眼付がしだいに険しくなってくるのを、おれは自分でも意識する。

 

 夜が更(ふ)けて、不破と伴はもどってきた。陣地退却の件はやはり駄目で、M川の線はどうしても確保せよという。現陣地があぶなければ、M川にそって、横にずれたらいいという。しかしそれでは同じことなのだ。今のところでも、M川の湾曲(わんきょく)のポケットにいる訳だから、横にずれれば、かえって敵の方に出てゆくことになる。関根中尉はその報告をきいて、まっさおになって怒っているという。[やぶちゃん注:先に示した地図を拡大すると、Mamagota を貫流する川は驚くばかりに湾曲、蛇行していることが判る。或いは、現在の彼らのいる場所は、この川の右岸なのかも知れない。]

 その伴のぼそぼそした声を、みんなはだまって聞いている。聞いているのか聞いていないのか判らない。やがて伴は、帰途におそわれた話を始める。それは敵ではなく、友軍の逃亡兵からだ。一人は不破曹長が射殺し、も一人は逃げて行ったという。

「塩はもらってこなかったのか。塩は」

 闇のなかで、不機嫌な笠の声が、伴のぼそぼそした声をさえぎる。

「はあ。塩はないです」

「ないです、と言いやがる……」

 憎しみをこめた声が、細くとぎれてしまう。おれのそばにいる五味の声だ。声は咽喉(のど)にからんで、ぜいぜいとかすかに濁って消える。

「製塩隊のドラム罐が、空襲で皆(み)んなやられたそうです」

 しばらくして、伴がそんなことを、ぼそぼそと答える。

 おれは眼を閉じて、ぼんやりそれを聞いている。身体がひどくだるい。身体ごと深い穴のなかに落ちてゆくようだ。瞼と瞼と合せてじっとしていると、眼窩(がんか)が落ちくぼんでいる感じが、自分でも判る。しかし皮膚の表面はへんに無感覚になっていて、暑いのか寒いのかよく判らない。膝頭の傷だけが、ずきずき痛い。昨日から、傷口が、熱帯潰瘍に移行したのだ。生きている表徴のように、それはずきずきと疼(うず)きをつたえてくる。そして毛布にこもった膿のにおいが鼻にのぼってくる。

 やがていびきが、大きく小さく、闇の底からおこつてくる。いくつものいびきが、重なったりずれたりして、それは昧爽(まいそう)までつづいて行く。闇のなかで、まるで重いものを引きずって行くように。――[やぶちゃん注:「昧爽」明け方のほの暗い時。]

 

 有馬はいよいよ参ってきたようだ。

 腿の傷は潰れて、まるで大きな薔薇(ばら)の花を貼りつけたようだ。赤い肉が直径三四寸も弾けただれていて、まんなかに白く骨があらわれている。排便に立つほかは、一日中小屋のすみに寝ているが、この一日で肉がげっそり落ちて、乾した鯊(はぜ)のような顔になった。眼だけが力なく見開かれている。

 そのような有馬に対しても、皆はほとんど無関心のように見える。もはや誰も有馬に話しかけないし、有馬も一日中だまって横たわっている。言葉をかわすのは、食事をはこんでやるおれだけだ。食事をもって行ってやるたびに、有馬の眼球は、急にはっきり動いて、おれを見る。それは何か訴えるような眼付にも見えるし、うらむような眼付にも見える。それから上半身をぎくしゃく起して、青くさいジャングル野菜の水煮に食いつく。そばで待っているおれと、ぼそぼそと会話をかわしながら、またたく間に食べ終ってしまう。

「傷は、まだ痛むか」

 おれはそんなことを聞く。ひどく痛んでいることを、百も承知の上で、おれはそんな風にいう。そして俺はふと、次のような言葉をささやきたい衝動にかられる。

(逃げることはどうなったね?)

 おれは有馬の計画をすっかり知っている。それはこの漠漠たる密林をつきぬけて、どこか後方の海岸に出ようというのである。東方ブインにいたる海岸線は、数十粁のあいだに、海軍の見張所が二三箇所あるだけで、ほとんど部隊という部隊はいないのだ。うまくそこにたどり着ければ、魚や見をとつて、こつそり生き延びられるだろう。そこらにいた土民たちも、全部山奥ふかく逃げこんでいるので、それらからもねらわれるおそれは先ずない。その上、それらの古い農園や椰子園(やしえん)が残っているかも知れないのだ。そこで食いはぐれることなく、生きのびて居ればいい。もし敵か友軍かがそこに近づいてくるならば(それは何れも死を意味する)カヌーで近くの離れ島にわたる。そこにはまだ敵性化しない土民がいるにちがいない。彼等と一緒に生活しているうちに、戦争もすむだろう。戦争がすめば、いつかは、どこかの船がその島にもくるだろう。それに乗せてもらって、ヒリッピンかどこか、もっと住みいい土地にわたって、そこで一生をくらせばいい、というのだ。

 ――有馬は視線を腿におとして、じつと潰瘍(かいよう)を見詰めている。そして低くささやくように独語する。

「――どんな時でも、希望をなくすな、と国を出るとき親爺が言ったんだ」

 声がぽつんととぎれる。この言い方は、死ぬ前の小泉にそっくりだ。小泉も、故国のおふくろや女房のことなどをしきりに口にして、五味伍長から毒づかれながら、四五日経って死んだ。しかしもう小泉のことなどを、思い出すものは誰もいない。皆、自分の暗い行手をぼんやり見詰めているだけだ。そして有馬が自分の暗い行手に見ているものは、このように他愛もない幻想なのだ。

「傷がなおって歩けるようになってもな、お前は逃げないとおれは思うよ」

 おれは突然有馬にささやく。おれはそして自分の声が、変につめたいのに気がつく。有馬はぎょっとしたように顔をあげる。あの負傷したとき、おれにつかみかかろうとした時の表情と同じだ。おれはかすかな憎しみをもって、この男の顔をみつめている。――しかしおれは、何故この男を憎む理由があるのか?

 やがて暗く脅えた顔になって、有馬はおれから視線をそらす。上半身をたおして、もとのように横になる。執拗にそれを眼で追いながら、おれは飯盒(はんごう)をもって立ち上る。

 炊事壕まで飯盒をかえしにふらふらと歩きながら、不破や伴をおそったという逃亡兵たちのことを、おれは考えている。この密林のなかには、そういう兵隊がさまよいあるいていて、いよいよ食うに困ってきて、道路や部隊宿舎をおそって兵隊を殺し、所持品をうばったりする事件も、すでにいくつもおれたちの耳に入っている。そうでもしなければ、逃亡兵たちは、生きてゆけないのだ。海岸にでて、魚や貝をとりながら、安楽にくらそうなどと、それは夢物語にすぎない。そんなことが出来るなら、なにも友軍の兵隊をおそう必要はないのだ。そうだ。――それにもかかわらず、おれはもはや炊事壕にむかってふらふら歩きながら、あの魚や貝のことを幻想しはじめている。海岸に出たらいくらも食えるという、あの魚や貝や海藻のことを。白い魚肉や、水気をたっぷり含んだ貝の肉や、塩水のしたたる藻草。それらを口に入れ、歯でかみしめる感触。口腔のなかが乾いてゆく思いで、おれの想像はしだいに実感となってゆく。

 

 砲声が次第にちかづいてくる。敵の砲兵陣地がだんだん間近に移動してくるらしい。夜に入っても、砲撃はつづいている。間をおいて、密林の彼方から聞えてくる。まるで密林の奥深いうめき声のようだ。

 部隊本部との連絡は杜絶(とぜつ)した。昨日から今日にかけて、敵は確実に密林深く侵透してきたらしい。昨夜の食糧収集斑は、川のふちで狙撃(そげき)された。怪我人はでなかったけれども。

 皆は目に見えて衰えてきたようだ。あるくときも、膝をがくがくさせるような歩き方をする。だんだん口を利く度数が減ってくるようだ。塩分の不足のため、頭が霧でもかかったように鈍くなっている。

 関根中尉が、発熱してたおれたという。不破曹長が小屋にきて、それを伝える。風土的な熱病らしいが、薬がある訳もないので、ただ寝ているだけだ。不破が隊長代理となるという。それだけ言うと、不破は隊長小屋の方へ戻ってゆく。うすくなった肩を揺るようにしてゆく後姿が、妙にいたいたしい。

 その後姿を見送りながら、笠伍長がうなるように言う。

「曹長どんの決断で、退却できんかなあ」

 それには誰も返事しない。だまって思い思いの方向を、ぼんやり眺めている。眺めているだけで、なにも考えていないように見える。蠅(はえ)がぶんぶんとびまわって、天井の芭蕉にも、さかさに幾匹もとまっている。

 おれのそばには、古川がうずくまっている。古川も、傷口に葉の汁をつけることは、止めたようだ。すっかり諦(あきら)めたらしい。――うつろな眼で、潰瘍にとまった蠅をながめながら、じつと膝をだいている。

 

 そして今朝から、密林の中の温度がたかまってきた。湿度をふくんだ温気(うんき)が小屋にもたてこめて、外に見える樹々の葉は、そよとも動かない。

 歩哨から、仁木上等兵がもどってきた。ただひとりである。一緒にたっていた上西兵長の姿が、いつの間にか見えなくなったという。仁木はそのことを、にぶい愚鈍な表情で報告した。脚が短い、頬骨のはった、農村出の兵隊だ。

「馬鹿野郎。見えなくなったつて。一体どこを向いていたんだ」

「はあ。いつのまにか、どっかに行って――」

 仁木は首をぐるりと動かして、あたりを探すような動作をする。歩哨は、一人入りの蛸壺(たこつぼ)になっていて、それがふたつ並んでいるのだ。掩蓋(えんがい)のしたにちぢこまって、眠ってでも居れば、隣の動作などは判らない。仁木の額からは、しきりに汗が流れる。

「直ぐ、曹長どんに報告してこい」

 笠伍長がいらいらした声で、怒鳴りつける。皆はだまって、それぞれの姿勢で聞いている。暑い、重苦しいものが、小屋全体にかぶさっている。その中を、疲れた足どりで、仁木は小屋の外へ出て行く。

 暫くして、ふたたび仁木が戻ってきた。隊長の命令で、全員手分けして、そこらを探せというのである。それだけ言うと、仁木は小屋の入口にぼんやり立っている。左手をのろのろ上げて腕で額の汗をふく。左の掌はこの間の火傷(やけど)で、赤く火ぶくれている。

「探せって、探して見つかるもんなら、苦労はせんわい」

「――お前、また隊長どんに打たれたのか」

 大儀そうに体をおこしながら、古川が訊(たず)ねる。古川の潰瘍から、膿臭がぷんと流れてくる。仁木は佇(たたず)んだまま、無表情にだまっている。片頰にうすあかく血が集っていて、殴(なぐ)られたあとであることが、一目でわかる。

「隊長どん。熱があるというのに、殴るとはよく元気が出るな」

 おれも体をおこしながら、上西が先日胸のポケットにしまいこんだものを、ふと思い浮べる。鬼頭の遺品のなかにあった、赤と青の縞のある投降ビラだ。その文面には、投降する際にはこのビラを両手にかざしてこい、と印刷してあった。――その日本活字ともちがう、一風変った書体が、突然おれの記憶によみがえってくる。……

 それでも皆は、のろのろと武装して、それぞれ小屋を出て行く。残っているのは、五味伍長と有馬兵長だ。五味も、昨日から寝たきりで、仕事をしなくなった。瞼を閉じて、じっとあおむけにねむっている。瘦(や)せこけた胸だけが、呼吸のためにゆるやかに起伏している。有馬は眼を開いて、どこかの一点を見つめている。暑いのか、両手を神経的にうごかしながら、時々ひくい声でうなる。

 小屋のすみから銃をとる。おれが引きずる床尾板が長く伸びた有馬の脚にふとぶっつかる。ぎょっとしたように有馬の眼球がうごいて、おれを見据(す)える。有馬の眼は、赤く血走っている。[やぶちゃん注:「床尾板」「しょうびばん」と読む。肩当て銃床付きの銃では、銃弾を発射する際の反動が衝撃力となって肩当て銃床(じゅうしょう)に伝わり、それが肩に伝わる。この反動作用を緩和するために、銃床の一番後ろに緩衝材として接合させる板を指す。]

「――上西が、逃亡したとよ。らくじゃねえや」

 おれはそんなことをいう。そして確かめるように、しばらく有馬を見おろしている。有馬は返事をしない。おれをじっと見据えているだけだ。

 それからおれは、小屋を出てゆく。銃がおもく、膝頭の傷にびしびし響く。皆それぞれどこかに行ってしまった。おれひとりで、どこへ探しにゆけばいいのか。むんむんと温気(うんき)のこもる密林のなかへ、おれは銃を引きずって歩きだしてゆく。

 ……おれはかぶさる葉や木の枝をわけながら、眼を光らせてあるいている。有馬が先日負傷した付近なのだ。おれは木から木を、凸地から凹地を、丹念に見てあるく。あの小屋から、まっすぐおれはやってきたのだ。粘液じみた汗が背筋をながれて、疲労がおもく息ぐるしい。錆色(さびいろ)の巨樹の肌をぐるりと廻ったり、蔓(つる)草をかきのけたり、羽虫のなかに顔をさらしたり、おれは次第にあせりながら、あの地点の周囲をぬってあるく。いらいらと時間がすぎてゆく。濃い汗が潰瘍にひりひりと沁み入る。

 ――そして突然、おれは立ちどまる。顔の皮膚がみるみる熱くなってゆく。銃がおれの掌からはなれてうずたかい朽葉の中へ、ずしんと倒れる。……

 おれの眼にその時とまったのは、紫黒色のこぶこぶをつけた太い幹の、眼の高さの箇所にえぐられた窪みであった。その木の洞(ほら)のなかに、芋の切れ端みたいなものや、パパイヤらしいものの形が見えたのだ。おれは突然自分の身体が慄え出すのがわかった。おれは寒天のようにふるえながら、更に二歩三歩踏み入って、顔をそこに近づけた。

 赤黒い点々が、それらの上をうごいていた。一糎(センチ)ほどの虫の群である。羽が硝子(ガラス)のように透き通っていて、この湿気に今日発生した虫たちであるらしい。虫はその頭部を、芋やパパイヤに食いこませながら、ぞろぞろと動いている。芋やパパイヤも、ほとんど内部は食い荒されていて、僅かに皮や蔓が辛うじてもとの形を保っている。

(二人で五日分はあるなどと、大袈裟(おおげさ)なことを言いやがって!)

 頭の奥がギリギリと鳴りだしてくるのを感じながら、おれはそう考える。食い荒された残りから推しても、もとの分量は、せいぜい二人を一日保つだけだろう。しかしその時おれの胸を、有馬は五日分は優にあると信じ込んでいたのではないか、という疑念がふとかすめる。おれの身体から、慄えが急速に引いて、代って冷たい笑いが腹の底からのぼってくる。

(有馬の唯ひとつの希望が、こんな虫たちに食いあらされている!)

 おれは暫(しばら)く、虫たちの動きに視線を定めている。虫たちは旺盛に身体をうごかして、貪婪(どんらん)に食い荒してゆく。おそろしいほど冷酷な確かさが、そこに営まれている。

 この食物をもって、逃亡しようという気持が、今までおれの頭のすみに確実に巣くっていたことを、おれはいまはっきりと気付く。頭の中が熱くるしく凝っているにもかかわらず、おれの頰はへんな笑いをきざんでいる。何となく可笑(おか)しい。その可笑しさも、厚い幕をへだてたようで、その根源がすぐにぼやけてしまう。――おれたちが一所懸命かんがえたり、たくらんだり、悩んだり、憎んだりするものを、この赤黒い虫たちが、こんなにも冷然と駄目にしてしまう。……

 暫くして、おれは銃をひろいあげる。銃はさっきよりも、三倍も重くなったようだ。それを引きずって、またおれは小屋の方に足を踏み出す。足の運びも、三倍も重い。

 

 上西の姿を見つけしだい射殺せよ、との隊長命令が、その夕方つたえられてきた。逃亡と認められたわけだ。その命令を伝達した笠伍長は、それだけいうと、毛布の上に頭をもたせて寝ころんでしまった。瞼を閉じて、こめかみの血管がひくひく動いている。

 ひどく暑い。身体の衰弱のせいか、耐えがたく重苦しい。上半身はみんな裸だ。みんなの胸は、洗濯板のように肋骨(ろっこつ)を浮き出させている。おれの胸も、一本一本肋(あばら)がとび出していて、指でおさえても、ほとんど肉がない。

 有馬のようすが変だ。そばに寝ているのだが、有馬の呼吸はまるで泣声のようだ。

「傷はどうだね」

 おれは時々きいてやる。そうすると有馬は息をやめて、顔をうごかし、血走った眼でおれを見る。そしてなにか言う。何と言っているのか、ほとんど判らない。うわごとのような響きがある。

「え? タヌキ? タヌキがどうしたんだい」

 おれが訊ねる。有馬の浮かされたような熱っぽい眼が、急に脅えた光を沈みこませてくる。そして蓋をおろすように瞼をとじる。泣声のような呼吸が、また始まる。

 しばらくすると、有馬が呼吸をやめて、今度はむこうから何か聞いてくる。ぜいぜいと咽喉(のど)にかすれる音だ。

「ああ。逃げたんだ。上西は」

 おれがそう教えてやる。

「あいつも、野垂死(のたれじに)するよ。そしてお前のかくしていた芋も、虫が食い荒してたぜ」

 有馬の声は急にはっきりなったり、また急に訳がわからなくなったりする。急に泣声のようなうめきを立てながら、胸をひろげようとする動作をくりかえす。

 小屋のなかが蒼然とくれてくる。食糧収集のため、仁木たちが身仕度してひっそりと出てゆく。

 おれは毛布をかかえて、小屋の入口の方に寝場所をうつす。しかしここも暑い。風がすっかり死んでいる。

 闇がたてこめてくる。――おれも瞼をとじながら、上西のことをぼんやり考えている。暑いせいか膿の臭気がいつもよりひどい。そのむこうから、有馬のうめき声が高まってくる。

「うるせえ。何を泣いてやがる」

 しやがれた五味の罵声(ばせい)がする。その音も弱々しくかすれるのだ。

 寝返るおとや、いびきが、小屋のあちこちに起ってくる。そしてのろのろと夜が更けてゆく。

 

 その真夜中、有馬が発狂した。

 むんむんする熱気が、昏(く)れ方から夜中にかけて、俄かにたかまってきた。みんな毛布をはねのけて、死んだようにどろどろに眠っていた。歯ぎしりやいびきのあいまに、有馬のうめき声が断続してつづいていたが、それが突然鳥のような叫喚(きょうかん)になって、有馬は闇のなかに突然立ち上ったらしかった。

「退却するんだ。退却するんだぞ。そら。敵だ。敵襲だ!」

 手足をむちゃくちゃに振り廻すらしく、肉と肉とぶつかる音がして、皆が目覚めたらしい。あちこちで起き上る気配が、叫び声につづいた。

「気が狂いやがったんだ。こいつ」

 組みつく音がして、その間から、脚絆(きゃはん)もってこい、という怒号がひびいた。有馬はくらがりの底に組み伏せられたらしく、押しつぶされたような声を絞(しぼ)りあげてわめいた。

「迫(迫撃砲のこと)だ。伏せろ! ヒュルヒュルヒュル」[やぶちゃん注:丸括弧内は底本では二行割注。]

 声が途切れて、骨の鳴る音が聞え、うなり声と激しい呼吸にかわった。脚絆をしごく音がつづいて、有馬は後手にくくり上げられるらしい。有馬を押えつけているのは、三四人いる様子であった。

「猿ぐつわをかませろ!」

 怒鳴ったのは、笠伍長の声であった。枯葉を踏んだり、けちらしたりする音が、なおも少し続いたが、やがてそれも収まって、静かになった。皆の荒い呼吸づかいだけが、そこに残った。膿臭と汗の臭いが、むんむんと小屋のなかに立てこめた。

「すみっこにころがして置け」

 笠の声が、まだあえぎながら言った。

「明朝になれば、正気づくだろう」

 おれは闇の底にひらったくなって、その声を聞いていた。格闘には参加しなかったが、いきなり眠りを破られた動悸が、胸の中にまだ烈しかった。それから三四人で、有馬の身体を材木のように持ち上げて、小屋のすみに運ぶらしかった。それからまた、それぞれ、自分の場所にもどってゆく気配であった。

 そして朝になって、有馬は冷たくこわばって、小屋のすみに死んでいた。脚絆で足と手をしばられ、口を堅く布片がおおっていた。腿の傷から、深く出血したらしく、その下の枯葉がどす黒く染っていた。出血が原因なのか、体力が尽きたのか、窒息したのか、それは判らないけれども、有馬の体は細長くのびて、後手に廻したまま、朽木のように死に果てていた。

 

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