北原白秋 邪宗門 正規表現版 柑子
柑 子
蕭(しめ)やかにこの日も暮(く)れぬ、北國(きたぐに)の古き旅籠屋(はたごや)。
物(もの)焙(あ)ぶる爐(ゐろり)のほとり頸(うなじ)垂れ愁(うれ)ひしづめば
漂浪(さすらひ)の暗(くら)き山川(やまかは)そこはかと。――さあれ、密(ひそ)かに
物ゆかし、わかき匂(にほひ)のいづこにか濡れてすずろぐ。
女(め)あるじは柴(しば)折り燻(くす)べ、自在鍵(じざいかぎ)低(ひく)くすべらし、
鍋かけぬ。赤ら顏して旅(たび)語る商人(あきうど)ふたり。
傍(かたへ)より、笑(ゑ)みて靜かに籠(かたみ)なる木の實撰(え)りつつ、
家(いへ)の子は卓(しよく)にならべぬ。そのなかに柑子(かうじ)の匂(にほひ)。
ああ、柑子(かうじ)、黃金(こがね)の熱味(ほてり)嗅(か)ぎつつも思ひぞいづる。
晚秋(おそあき)の空ゆく黃雲(きぐも)、畑(はた)のいろ、見る眼(め)のどかに
夕凪(ゆふなぎ)の沖に帆あぐる蜜柑(みかん)ぶね、暮れて入る汽笛(ふえ)。
温かき南の島の幼子(をさなご)が夢のかずかず。
また思ふ、柑子(かうじ)の店(たな)の愛想(あいそ)よき肥滿(こえ)たる主婦(あるじ)、
あるはまた顏もかなしき亭主(つれあひ)の流(なが)す新内(しんない)、
暮(く)れゆけば紅(あか)き夜(よ)の灯(ひ)に蒸(む)し薰(く)ゆる物の香(か)のなか、
夕餉時(ゆふげどき)、街(まち)に入り來(く)る旅人がわかき步みを。
さては、われ、岡の木(こ)かげに夢心地(ゆめここち)、在(あ)りし靜けさ
忍ばれぬ。目籠(めがたみ)擁(かか)へ、黃金(こがね)摘(つ)み、袖もちらほら
鳥のごと歌ひさまよふ君ききて泣きにし日をも。――
ああ、耳に鈴(すず)の淸(すず)しき、鳴りひびく沈默(しじま)の聲音(いろね)。
柴(しば)はまた音(おと)して爆(は)ぜぬ、燃(も)えあがる炎(ほのほ)のわかさ。
ふと見れば、鍋の湯けぶり照り白らむ薰(かをり)のなかに、
箸とりて笑(ゑ)らぐ赤ら頰(ほ)、夕餉(ゆふげ)盛(も)る主婦(あるじ)、家の子、
皆、古き喜劇(きげき)のなかの姿(すがた)なり。淚ながるる。
三十九年五月
[やぶちゃん注:「籠(かたみ)」「筐(かたみ)」「堅間(かたま)」「勝間(かつま)」などと表記・呼称し、目を細かく編んだ竹籠(たけかご)を言う。後の「目籠(めがたみ)」も目の粗い竹籠のこと。
「卓(しよく)」「ショク」は「卓」の唐音。本来は仏前に置いて香華を供える机で茶の湯にも用いるが、ここは無論、普通の食卓の意。
「新内(しんない)」新内節(しんないぶし)。浄瑠璃の流派の一つ。延享二(一七四五)年に宮古路加賀太夫が豊後節から脱退し、富士松薩摩(ふじまつさつま)を名のったのが遠祖で、この富士松節から出た鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)が鶴賀節を立て、幕府御家人であった初代鶴賀新内(延享四(一七四七)年~文化七(一八一〇)年を継いだ二世鶴賀新内が文化年間(一八〇四年~一八一八年)に人気を博して以来、新内節と呼ぶようになった。早くから劇場を離れ、座敷浄瑠璃として発展、花街などの門付芸「新内流し」て発展して行った。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげて、遊里の女たちに大いに受け、隆盛を極めた。ここはその夫婦の「流し」の情景。二人一組で、二挺の三味線を弾き合わせながら街頭を歩き、客の求めに応じて新内節を語って聞かせた。]
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