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2020/11/15

堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 德本翁

 

 德本翁

 德本〔とくほん〕翁は長田〔ながた〕氏、乾室〔けんしつ〕と號し、また知足齋とも號しぬ。いづれの國の人とも知らず、或〔あるい〕は美濃といひ、或は三河といふ。醫に達し、よく「汗吐下〔かんとげ〕」の方を用ひ、巴豆〔はづ〕・附子〔ぶし〕・輕粉〔けいふん〕の如き劇劑といへども、其證ある時には瞑眩〔めんけん/めんげん〕[やぶちゃん注:漢方治療に於いて治癒する前に一時的に高熱・下痢・発疹などの症状が現れることを言う語。]を恐れずして用ひけるとなり。世の人、或は、「攻劇家」と名付〔あづけ〕て恐るゝ者もありけるが、沉痾・痼疾〔ちんあ・こしつ〕[やぶちゃん注:宿痾に同じ。長く治らない病気。]の癒難〔いえがた〕き病〔やまひ〕も、その手に愈〔いゆ〕るもの多ければ、世に「甲斐德本〔かひのとくほん〕」と呼〔よび〕しとなり。一貼〔いつてふ〕の藥の價〔あたひ〕、かならず、「十八錢」と定めり。ある時、乞士〔こつし〕[やぶちゃん注:比丘(びく)。出家得度して具足戒を受けた男子の修行僧。]の、病ありて藥を乞〔こひ〕しに、

「十八錢有〔ある〕や。」

と問ふ。

「なし。」

と答ふれば、

「汝、我〔わが〕藥を飮〔のむ〕事、あたはず。命〔いのち〕なり。死ね、死ね。」

と、いひしも、おかし[やぶちゃん注:ママ。]。

 また、或時、高貴の御方、病ありて召〔めさ〕れしに、御藥〔おんくすり〕、調獻〔てうけん〕し奉り、典藥の人々、治〔ぢ〕する事、あたはざりし御病〔おんやまひ〕、日あらずして、平愈し給ふ。

「厚く賞を賜〔たまは〕るべし。」[やぶちゃん注:これはその高貴な方の側近の者の謂いであろう。]

と、ありしかども、例の十八錢のつもり、受得〔うけえ〕て、去りぬ[やぶちゃん注:「つもり」は処方した数服の薬の分だけ、その一貼十八銭の倍数分の意であろう。]【一說にいふ。山梨郡に「德本屋敷」といふあり。これは 上より恩賞の事、强〔しひ〕て仰有〔おほせあり〕ければ、「さらば、友人の家敷〔やしき〕のなきものあり。此〔この〕ものに家宅〔かたく〕賜はるべし。」と望〔のぞみ〕しより、賜はる處なり、といふ。實〔じつ〕にや。[やぶちゃん注:字空けは底本・原本のママ。]】。

 後に、信濃に來りて、寬永庚午〔かのえうま/かうご〕の二月十四日、諏訪東堀にて終れり。墳墓あり。碑面題して「乾室德本庵主」と見ゆ。その持てる釜とて、今も東堀の御子柴〔みこしば〕氏に、ひめ置〔おき〕ぬ。遠き國までも聞傳〔ききつた〕へて、醫に志〔こころざし〕ある人は尋來〔たづねきた〕りて、請得〔こひえ〕て觀るもの、絕〔たえ〕ず、となん。

 德本の著〔あらは〕せる「梅花無盡藏」といふものあり、先子〔せんし〕淡齋、深くこれを愛し、

「仲景の規矩〔きく〕にかなヘり、宋の張子和に比すべし。」

と、いへり。

 療術の奇なるのみならず、その行ひ樣も、世の人にこよなう替りて、種々、めづらかなる事ども、今も口碑に存する事、すくなからず。「近世奇人傳」及び「醫家小傳」等にも見ゆ。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げポイント落ち。原本にはない。そのままで電子化した(一部に記号は追加した)。鍵括弧と読みを挿入した。]

〔元補註-山梨郡今井邨〔むら〕に德本屋敷ありといふ。

「本朝醫談」に、『予が藏する所の本卷尾に、天文十九庚戌〔かのえいぬ/かうじゆつ〕七月十二日雖知若齋道三[やぶちゃん注:後注するが、「若」は「苦」の誤字か、判読の誤りである。]を初〔はじめ〕として、永祿祇曉・天正露白齋等〔など〕の名あり。德本の名、見えず。且〔かつ〕「授蒙臣功方」[やぶちゃん注:後注するが、恐らく「授蒙聖功方」の誤字か、書写の誤り或いは判読の誤りである。]を以て考〔かんがふ〕るに、「无盡藏〔むじんざう〕」の書は、德本、これを雪門〔せつもん〕に傳〔つたて〕たる也。新に著〔しる〕したることは、あらず』。〕

 

[やぶちゃん注:「德本翁は長田氏、乾室と號し、また知足齋とも號しぬ」「長田德本」は「永田德本」とも書く。生没年未詳で、戦国末期から江戸前期の医家として名高いが、市井の一医師として生き、伝記・所説とも不確かな部分が多い。出生地は不明だが(一説に愛知県碧南市音羽町とする)、永正年間(一五〇四年~一五二一年)に生まれ、寛永年間(一六二四年~一六四四年)に没し、百十七歳又は百十八歳の長寿であったという(一説には永正一〇(一五一三)年生まれで、寛永七(一六三〇)年没とする)。知足斎・乾堂・乾室と号した(後者二種の「乾」の読みが不明であるが、「乾坤一擲」のそれで「けん」と読みたい。本文はそれで振った)。長田徳本とも書く。戦火を逃れて諸国を巡遊し、その間、甲斐国に最も長く滞留したことから、「甲斐徳本」(かいのとくほん)とも呼ばれた。初め、当時、盛んであった後世家医方(ごせいかいほう:金・元代と、それ以後の医家の処方を祖述する医術の称。劇薬を避け、穏やかな薬を用いる点を特色とする。十五世紀末に田代三喜が明より齎し、門人の曲直瀬道三(まなせどうさん)と、その子玄朔によって体系化された。五行説・運気論に従うが、経験主義的な古方家の台頭や蘭学の移入によって廃れた)を学んだが、これに飽き足らず、独自の医説を建て、後漢末期の、今も「医聖」と称えられている官僚で医師であった張仲景(張機(一五〇年~二一九年)。仲景は字(あざな)。個々の患者の症状に応じて、独創的な治療を試みたとされ、古代から伝わる医学の知識と自らの経験をもとに「傷寒雜病論」(後に「傷寒論」と「金匱(きんき)要略方論」に分割された)を著し、これは後々まで、漢方医学の最も重要な文献となった)の医説によるべきことを主張した。疾病は鬱滞に起因し、多くは風寒によって発病すると説き、いわゆる汗・吐・下・和の治療法を唱え、作用の激しい薬を用いて病気を攻撃することを主旨とした。張仲景の「傷寒論」の中にある諸処方は、事実上、彼によって初めて本邦で行われたと言える。独自の処世訓をもち、医家の風俗矯正に熱心であった。「醫之辯」・「知足齋醫鈔」・「梅花無盡藏」(徳本流の医書。知られた同名異書に、室町中期の禅僧万里集九(ばんりしゅうく)の詩文集があるので注意されたい)等の著作がある(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「汗吐下〔かんとげ〕」基本的な漢方治療法の一つ。発汗させ、吐き出させ、下瀉させることを指す。則ち、発汗剤・催吐剤・瀉下剤を用いることを言う。

「巴豆〔はづ〕」キントラノオ目トウダイグサ科ハズ亜科ハズ連ハズ属ハズ Croton tiglium の種子を漢方で「巴豆」と呼び、「神農本草經下品」や「金匱要略方論」に掲載されている漢方薬で、強力な峻下作用があるが、本邦では毒薬・劇薬に指定されているため、通常は使用されない。種子から取れる油はハズ油(クロトン油)には多種のエステルが含まれており、精製されたそれは皮膚に附着すると、炎症を起こすほど強い。

「附子」モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum のトリカブト類。「ぶす」でもよいが、通常は生薬ではなく、毒物としてのそれを指す場合に「ぶす」と呼ぶので、ここは「ぶし」と読んでおくべきであろう。本邦には約三十種が自生する。漢方ではトリカブト属の塊根を「附子」(ぶし)と称して薬用にする。本来は、塊根の子根(しこん)を「附子」と称するほか、「親」の部分は「烏頭」(うず)、また、子根の付かない単体の塊根を「天雄」(てんゆう)と称し、それぞれ。運用法が違う。強心作用・鎮痛作用があり、他に皮膚温上昇作用・末梢血管拡張作用による血液循環改善作用を持つ。しかし、毒性が強いため(主成分はアコニチン(aconitine) で、経口から摂取後数分で死亡する即効性があり、解毒剤はない)、附子をそのまま生薬として用いることは殆んどなく、「修治」と呼ばれる弱毒化処理が行われる。

「輕粉」古くに中国から伝えられた薬物で、駆梅薬や白粉(おしろい)の原料にした白色の粉末。塩化水銀(Ⅰ)(「甘汞」 (かんこう)とも呼ぶ)が主成分で、水に溶け難く、毒性は見かけ上は比較的弱いが、習慣的に使用することで水銀中毒を発症する。「水銀粉 (はらや)」「伊勢おしろい」とも呼ぶ。

「寬永庚午〔かのえうま/かうご〕の二月十四日」寛永七年二月十四日はグレゴリオ暦一六三〇年三月二十七日。

「諏訪東堀」長野県岡谷市長地柴宮(おかやしおさちしばみや)周辺と思われる(グーグル・マップ・データ)。

『墳墓あり。碑面題して「乾室德本庵主」と見ゆ』平松洋氏のサイト「いぼとり 神様・仏様」の「永田徳本の籃塔(らんとう)・イボ神様 岡谷市長地柴宮・尼堂淨苑(尼堂墓地)」によって位置が判明した。先の岡谷市長地柴宮にある「尼堂墓地」で、この辺り(墓地北東部。グーグル・マップ・データ航空写真)にあるらしい。変わった形の墓である。蒼流庵主人氏のブログ「蒼流庵随想」の「永田徳本の墓~長野漢方史跡~」もお薦めである。また、「徳本薬草のまち 岡谷」という、永田徳本の生き方を学び、触発された有志による新事業展開プロジェクトの独立サイトも見つけた!

「その持てる釜とて、今も東堀の御子柴〔みこしば〕氏に、ひめ置〔おき〕ぬ。遠き國までも聞傳〔ききつた〕へて、醫に志〔こころざし〕ある人は尋來〔たづねきた〕りて、請得〔こひえ〕て觀るもの絕〔たえ〕ず、となん」――私はここを読んだ時、非常に不思議な気持ちになった。私は十数年前に遡るが、不思議な夢を見たことがあるからである。――それは――田舎で、私は、さる有名な医師の持っていた釜を持っているという人を訪ねて、桃の花の咲くそこへやってきたのであった。しかし、出てきた和装の女性は「もうとうの昔に穴が空いて壊れてしまいましたによって捨ててしもうたので御座います」と答えた。私は桃の花の満開の下を空しく帰ったのである。――

「先子〔せんし〕淡齋」話者中村元恒の実父(筆者元鎧の祖父)中村淡斎(宝暦六(一七五六)年~文政三(一八二〇)年)。医師にして伊那地方の著名な俳人であった。家代々の医業を継ぎ、江戸で桃井桃庵らに、京都で中西深斎・吉益東洞に古医方を学んだ後、郷里信濃伊那で開業した。また、俳諧では、かの加舎白雄の門人となった。本姓は吉川、名は元茂、医号は昌玄。別号に伯先・坎水園。著作に「古方薬品考」、俳書「祭草」等がある。

「仲景」私の冒頭注の太字下線部を参照されたい。

「宋の張子和」中国の医家であるが、「宋」は誤り(南宋と金は並立はしたが)で金・元医学の四大家の一人。名は従正。現在の河南省の出身で、医学に精通し、ことに古代の医書とされる「素問」(そもん)・や「難経」(なんぎょう)の学に優れていた。劉河間(りゅうかかん)の説を重んじ、寒涼剤を多く用いた。疾病の原因は「風寒暑湿火燥」の天の六気、「霧露雨雹氷泥」の地の六気、「酸苦甘辛鹹淡」などの外部の邪気が体内に侵入することによって発生すると考え、邪気の排除を力説した。「汗吐下」の三法によって攻撃する治療法を用い、ことに下剤をよく使用したので「攻下(こうげ)派」と呼ばれている。金の興定年間(一二一七年~一二二二年)に太医院(たいいいん:医療を司る国の役所)に召補されたが、まもなく辞して去った(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「近世奇人傳」「近世畸人傳」。近世の諸階層の特色ある人物百余名の伝記。正続各五巻。初版は京都で、正編は伴蒿蹊著に成り、寛政二(一七九〇)年刊(続編は三熊思考編で同 十年刊)。職業・貴賤を問わず、一芸一行に優れた者を「奇」とし、隠士・文士を多く扱うが、無名の町民・農民をも含む。記載は正編の第五巻。以下に所持する一九四〇年刊の岩波文庫版(森銑三校註)「近世畸人傳」で電子化して示す。一部で推定で読みを示し、記号を追加した。

   *

 德本は永田氏、伊豆・武藏の間を行〔ゆき〕めぐり、藥籠を負〔おひ〕て、「甲斐の德本一服十六錢」と呼〔よばひ〕て賣〔うり〕ありく。江戶に有〔うり〕ける時、大樹君[やぶちゃん注:徳川将軍の異名。]、御病あり、典藥の諸醫、手を盡せども、しるしなかりけるに、誰〔たれ〕かまうしけん、德本を召〔めし〕て療ぜしめ給ふに、不日〔ふじつ〕にして平〔たひら〕がせ給ふ。されば、賞として、いろいろのものを下し賜りけれども、敢てうけず、たゞ、例の一貼十六文に限る藥料をのみ、申下〔まうしくだ〕したりければ、其淸白を稱しあへり。されば上〔かみ〕[やぶちゃん注:当該療治を受けた将軍。]にもしろし召〔めし〕けん、「何にまれ、願事〔ねがひごと〕あらば、申べき」よし、頻〔しきり〕に命ぜられしかば、「さらば、我友のうちに家なきを悲しぶものあり。是に家を賜らば、なほ、吾に賜はるがごとくならん」と、まうしゝほどに、卽〔すなはち〕、甲斐國山梨郡の地に金を添〔そへ〕て賜りぬ。やがて其ものを呼〔よび〕てとらせ、其身は、また、藥を賣〔うり〕て行へしらずなりぬ。彼〔かの〕地は「德本屋敷」とて、今も殘れりとぞ。此老〔らう〕の著述、「梅華無盡藏」と號す。近年、刻に付〔つけ〕り。藥方、古〔いにしへ〕によらず、頗〔すこぶる〕奇也。藥名も一家の隱名〔いんめい〕をもちゆ。

   *

「醫家小傳」不詳。

「山梨郡今井邨」山梨県甲府市上今井町と下今井町がある(グーグル・マップ・データ)。その辺りと思われる。

「本朝醫談」江戸後期の医師で、幕府医官奈須恒隆の養子となった奈須恒徳(なすつねのり安永三(一七七四)年~天保一二(一八四一)年:多紀元徳に学び、後に曲直瀬(まなせ)正盛の学説を研究、また、日本の古医書の研究を進め、「捧心方」・「大同類聚方」・「万安方」などの室町以前の医書の校訂を行った。本姓は田沢)の著作。以下は文政五(一八二二)年板行の原本のこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像。右頁中央に出る)。

「天文十九庚戌」一五五〇年。

「雖知若齋道三」戦国から安土桃山時代の医師曲直瀬道三(まなせどうさん 永正四(一五〇七)年~文禄三(一五九四)年)。道三は号。諱は正盛(しょうせい)で、他に雖知苦斎(すいちくさい)の医号を持つから、これは「苦」の誤字か、書写の誤りか、誤判読と推定される。本姓は元は源朝臣(宇多源氏)で、後に橘朝臣を名乗り、今大路家の祖とされ、日本医学中興の祖として田代三喜・永田徳本などと並んで「医聖」と称される人物である。

「永祿祇曉」医師名であるが、不詳。どうも、次の「天正露白齋」とともに、元号と同じものが頭にあるのは姓として不審。「永祿」の「祇曉」ではないか? 永禄は一五五八年から一五七〇年までの元号である。

「天正露白齋」医師名であるが、不詳。同前で、「天正」の「露白齋」ではないか? 天正はユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦では前年)。

「授蒙臣功方」先の原文を見ると、「授蒙聖功方」となっている二〇一四年に「第三十四回国際眼科学会(World Ophthalmology Congress:WOC)」に合わせて行われた展示会「本でたどる眼科の歴史」のリストに、曲直瀬道三の医書で「辭俗功聖方」という著作があり、その『内容はこの「授蒙聖功方」とよく似ている』とし、「辞俗功聖方」には『刊本がないため、これが先に著わされ、それを改題したものが古活字版始め、数種の整版、写本のある』「授家聖功方」で『あろうかという説が出されている。道三は医学の修得の階梯を定め』、「美濃医書」以下、九つに及ぶ医書を書いており、『これによれば』、「授蒙聖功方」は第二『段階の本であり、初学者向けの医書と考えられる』とある。これであろう。

「雪門」医師の門派らしいが、不詳。]

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