北原白秋 邪宗門 正規表現版 解纜
解 纜
解纜(かいらん)す、大船(たいせん)あまた。――
ここ肥前(ひぜん)長崎港(ながさきかう)のただなかは
長雨(ながあめ)ぞらの幽闇(いうあん)に海(うな)づら鈍(にぶ)み、
悶々(もんもん)と檣(ほばしら)けぶるたたずまひ、
鎖(くさり)のむせび、帆のうなり、傳馬(てんま)のさけび、
あるはまた阿蘭船(おらんせん)なる黑奴(くろんぼ)が
氣(き)も狂(くる)ほしき諸ごゑに、硝子(がらす)切る音(おと)、
うち濕(しめ)り――嗚呼(ああ)午後(ごご)七時 ― ひとしきり、落居(おちゐ)ぬ騷擾(さやぎ)。
解纜(かいらん)す、大船あまた。
あかあかと日暮(にちぼ)の街(まち)に吐血(とけつ)して
落日(らくじつ)喘(あへ)ぐ寂寥(せきれう)に鐘鳴りわたり、
陰々(いんいん)と、灰色(はいいろ)重き曇日(くもりび)を
死を告(つ)げ知らすせはしさに、響は絕(た)えず
天主(てんしゆ)より。――闇澹(あんたん)として二列(ふたならび)、
海波(かいは)の鳴咽(おえつ)、赤(あか)の浮標(うき)、なかに黃(き)ばめる
帆は瘧(ぎやく)に――嗚呼(ああ)午後七時――わなわなとはためく恐怖(おそれ)。
解纜(かいらん)す、大船(たいせん)あまた。――
黃髮(わうはつ)の伴天連(ばてれん)信徒(しんと)蹌踉(さうらう)と
闇穴道(あんけつだう)を磔(はりき)負ひ驅(か)られゆくごと
生(なま)ぬるき悔(くやみ)の唸(うなり)順々(つぎつぎ)に、
流るる血しほ黑煙(くろけぶ)り動搖(どうえう)しつつ、
印度、はた、南蠻(なんばん)、羅馬、目的(めど)はあれ、
ただ生涯(しやうがい)の船がかり、いづれは黃泉(よみ)へ
消えゆくや、――嗚呼(ああ)午後七時――欝憂(うついう)の心の海に。
三十九年七月
[やぶちゃん注:第一連最終行「うち濕(しめ)り――嗚呼(ああ)午後(ごご)七時 ― ひとしきり、落居(おちゐ)ぬ騷擾(さやぎ)。」の後のダッシュ一字分はママ。他のダッシュに比しても明らかに前後に半角の空隙がある。一篇中の対句から見ても、単なる誤植の可能性が高く、後発の白秋自身の編集になる昭和三(一九二八)年アルス刊の「白秋詩集Ⅱ」(国立国会図書館デジタルコレクション当該詩篇の画像)では通常の「――」になっているが、ここはあくまで見た目上の再現を優先した。「灰色(はいいろ)」のルビはママ。
「蹌踉(さうらう)と」足もとがしっかりせず、よろめくさま。
「闇穴道(あんけつだう)」唐の玄宗の護持僧であった一行阿闍梨(いちぎょうあじゃり)が楊貴妃との仲を疑われ、果羅(から)の国(未詳。「大唐西域記」巻一の覩貨邏(とから)国の略称か。重罪の者が流される国という。現在のアフガニスタン北部のアム河上流にあったともされる)に送られた時に通ったとされる重罪の咎人を送るに通させた難道の名。「平家物語」の巻第二の「一行阿闍梨」には、『件(くだん)の國には三つの道あり。「輪池道(りんちだう)」とて御幸(ごかう)の道、「幽地道(いうちだう)」とて雜人(ざふにん)の通ふ道、「闇穴道」とて重科(ぢゆうくわ)の者を遣はす道なり。この暗穴道と申すは、七日七夜、月日の光も見ずして行く所なり。しかれば、一行(いちぎやう)は重科の人とて、件の闇穴道へ遣はさる。冥々(みやうみやう)として人もなく、行步(ぎやうぶ)に前途(せんど)迷ひ、森々として、山、深し。ただ、澗谷(かんこく)に鳥の一聲(ひとこゑ)ばかりにて、苔の濡れ衣(ぎぬ)、干しあへず。無實の罪によつて遠流(をんる)の重科を被ぶることを、天道(てんだう)、哀れみ給ひて、九曜(くえう)の形を現じつつ、一行阿闍梨を守り給ふ。ときに、一行、右の指を食ひ切りて、左の袖に九曜の形を寫されけり。和漢兩朝(わかんりやうてう)に、眞言の本尊たる「九曜の曼荼羅」、これなり』とある。「九曜」とは大きな丸の回りを八つの小さな丸が取り巻く九曜紋で、古代インド以来の九曜星信仰という日・月・火・水・木・金・土の七曜に羅睺(らご/らごう:もとは日月を蔽って蝕を起こすとされた悪魔星で、仏教では阿修羅を当て、青牛に乗り、また犬の形象を持って描かれることもあった)と計都(けつ:日月を両手に捧げ、青龍に乗って憤怒の形相をした神像で表わされる。彗星のことともされる)の二星を加えたもので、仏教では天地四方を守護する仏神としての信仰と、妙見信仰の星辰崇拝との関わりから、土星を中央に、水と火、日と月、木と金、羅と計が対称に配され、仏教では羅睺を不動明王・土曜を聖観音・水曜を弥勒・金曜を阿弥陀・日曜を千手観音・火曜を虚空蔵、計都を釈迦、月曜を勢至、木曜を薬師とし、これを図像化したものを「九曜曼陀羅」と称し、平安時代には真言の本尊として崇拝された。特に道祖神的な信仰として好まれ、公家の牛車などの多くにこれが描かれたと伝えられる。但し、玄宗の護持僧一行が生きたのは貴妃が入内する前で、彼が流罪となった事実も全くなく、これは後世にでっち上げられた俗説に過ぎない。
本詩篇は「一八四」ページ(右ページ)で終わり、見開きの左側には、以下に示した石井柏亭の挿絵「硝子吹く家」(本詩集最終ページにある挿絵等のリストにこの名で出る)がある。]