北原白秋 邪宗門 正規表現版 大寺
大 寺
大寺(おほてら)の庫裏(くり)のうしろは、
枇杷あまた黃金(こがね)たわわに、
六月の天(そら)いろ洩るる
路次(ろじ)の隅、竿(さを)かけわたし
皮交り、襁褓(むつき)を乾(ほ)せり。
そのかげに穢(むさ)き姿(なり)して
面子(めんこ)うち、子らはたはぶれ、
裏店(うらだな)の洗流(ながし)の日かげ、
顏靑き野師(やし)の女房ら
首いだし、煙草吸ひつつ、
鈍(にぶ)き目に甍(いらか)あふぎて、
はてもなう罵りかはす。
凋(しを)れたるもののにほひは
溝板(どぶいた)の臭氣(くさみ)まじりに
蒸し暑(あつ)く、いづこともなく。
赤黑き肉屋の旗は
屋根越に垂れて動かず。
はや十時、街(まち)の沈默(しじま)を
しめやかに沈(ぢん)の香しづみ、
しらじらと日は高まりぬ。
三十九年八月
[やぶちゃん注:「野師(やし)」は香具師(やし)・的屋 (てきや) に同じ。盛り場や寺社の縁日・祭礼などに露店を出して商売をしたり、見世物などの興行をしたりする人。
「しめやかに沈(ぢん)の香しづみ、」の「沈(ぢん)の香」は、言わずもがなであるが、表面的にはその大寺院から漂ってくる抹香の香りを「ぢんのか」(実際の高級な沈香(じんこう)ではない)と言ったもので、それよりも、遙かに感覚的な詩語としての装飾音として使用されていると私は思う。則ち、前行の午前十時の「まち」の「しじま」の持つ「チ」「シ」「ジ」音が、「しめやかにぢんのしづみ」の「シ」「ヂ」「シヅ」へと、さらに最終行の「しらじらと」の「シ」「ジ」音へと、それらの音が、水面の波紋のように不思議に広がって、ハレーションを起こしながら、ティルト・アップして太陽を捉え、画像がホワイト・アウトしてゆく仕掛けとなっているのだと思う。]