堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 木乃伊
木乃伊〔元恒補註-「物類品隲〔ぶつるゐひんしつ〕」には「質汗〔しつかん〕」を以て「みいら」とす。按〔あんずる〕に「質汗」は藏器の說に出づ。〕
[やぶちゃん注:以上の二行割注は底本の標題の下にポイント落ちである。原本にはない。標題を邪魔する感じなので、特異的にポイントを落した。]
新野邨〔にいのむら〕に、いづれの比よりか、死人〔しびと〕の朽敗〔きうはい〕せざるあり。その姓名・履歷は知れる人、なし。たゞ「行者〔ぎやうじや〕」となん、呼來〔よびきた〕れり。是は越後弘智〔こうち〕法印の類〔たぐひ〕にやあらん【弘智が事、「東奥紀行」及〔および〕「北越奇談」等に見えたり。】。また、近き比に、諏訪の芹澤に死人を堀出〔ほりいだ〕せしが[やぶちゃん注:「堀」は原文もママ。]、棺などは、形もなく、皆、朽果〔くちはて〕ぬるに、尸〔かばね〕ばかりは乾枯〔かんこ〕して、そのままあり、是も、年古〔としふ〕りたる事にて、姓名などは知る人も、なし。【その尸は今もその里の泉澁院〔せんじふゐん〕にひめ置〔おき〕ぬ。】「南留別志〔なるべし〕」に見えたる、奧乃〔の〕秀衡〔ひでひら〕が、五百年の後までも朽敗せざりしは、棺槨〔くわんかく〕の制も備りければ、かくもありなん、こは棺も盡〔つき〕て、土の、膚〔はだへ〕にちかづきたるに、かくありしは、いとあやしき事にこそ。
私〔わたくし〕にかむがふるに、蕃藥〔ばんやく〕の「木乃伊(みいら)」となんいふ物、卽〔すなはち〕、これならん。死〔しし〕たる人、數萬人のうちには、おのづから、かかるものもあるものなるべし。また、必〔かならず〕、寒國〔さむきくに〕にのみ限れる事にや。「職方外紀」に『歐邏巴〔えうろぱ〕の一地に、死者を山に移せば、その尸、千載〔せんざい〕朽〔くち〕ず』と見へ[やぶちゃん注:原本もママ。]、「采覽異言」に、『臥兒狼德〔ぐるうんらんでや〕の地は、殊に寒國にて、人・物の生ぜざるに、和蘭人〔おらんだじん〕、ある年、その國、開かんと、衣粧・屋具を備へていたりしに、一人も歸る事、なし。翌年、尋〔たづね〕ゆきて見るに、坐する者は坐し、臥する人は臥しながら、死して乾哺〔ほじし〕の如くにてありし』となん。これ等の類〔たぐひ〕、皆、その「木乃伊」といふものにて、信濃及び越後のごとき寒國には、たまたま、かうやうの[やぶちゃん注:ママ。「斯(か)く樣(やう)の」(斯様(かやう))の音変化であろう。]者、出來〔いできた〕るも、たとへば、蠶〔かひこ〕の中に殭蠶〔きやうさん〕の生ずる類〔たぐひ〕にぞ有〔ある〕べき。「萬國新話」にも、その說、見ゆ。「行力〔ぎやくりき〕にて、かくありし」などいふは拙〔つたな〕し。「紅毛雜話」及び「采覽異言」に、木乃伊は熱暍〔ねつえつ〕[やぶちゃん注:強烈な暑さ。]にて人の焦爛〔しやうらん〕したるなど、いひしは、蘭人の妄語を從(うけ)られしなるべし【『唐僧義好といふものも、死して後百年を經て、化〔くわ〕せざりし』と「和漢太平廣記」に見ゆ。】。
[やぶちゃん注:以下は原本の罫上外にある頭書。底本は一部に誤判読がある。]
西京雜記魏王子且渠家無棺槨但有石牀廣六尺長一丈石屛風牀下悉是雲母牀上兩屍一男一女皆年二十許俱東首裸臥顏色如生人又幽王家百餘屍縱橫枕籍皆不朽唯一男子餘皆女子。
皇朝類苑引倦遊雜錄曰華嶽張起谷岩石下有僵尸直髮皆完。
關氏が著せる「發墳志」に、『上州茂呂村の石室の中に尸ありて俯伏〔うつぶ〕せるがごとし』云云。
「東奧紀行」に、『越後津川玉泉寺淳海上人の尸も百餘年腐敗せず』と見ゆ。
[やぶちゃん注:「木乃伊」最初に定義を「ブリタニカ国際大百科事典」から引いて示しておく(ミイラはポルトガル語「mirra」由来で、英語は「mummy」(マミィ))。自然的に、或いは人工的に防腐処置が施されて、乾燥・保存された死体。皮膚・筋肉を始めとして内臓・血管などが乾燥し、通常は萎縮した状態で保存される。皮膚は普通、革皮様化して硬く、強く萎縮し、黒色・黒褐色・褐色などになり、頭髪も残る。人体の水分は、通常の死後直後で約八十%であるが、これが五十%以下になると、細菌が繁殖せず、腐敗が進行しないので、ミイラ化する。ミイラ化が完成するまでの期間は、環境によりまちまちであるが、手足の指先や鼻の先端などから始まり、普通、数週間から数年かかる。できあがったミイラは、乾燥した状態で保管されると、そのままの形で長く原形を保つ。生前の損傷や索溝がよく残るため、紀元前十七世紀のミイラについてさえ、どのような凶器で加害されたかが調べられた例もある。古代エジプトやインカなどでは人工的なミイラ化が盛んに行なわれた。エジプトでは紀元前二千六百年頃から、キリスト教時代に至るまで続けられた。これは、来世において霊魂の宿るべき肉体が必要であるとする信仰に基づくもので、この信仰はエジプト・インカ・オセアニアなどに共通している。普通、脳髄と胃腸は除かれたが、心臓と腎臓はそのままで、体腔に樹脂・大鋸屑(おがくず)などを詰め、体全体を天然炭酸ソーダで覆って乾燥させ、洗浄・塗油の後、鼻などの突出した部分の保存に特別の注意を払いつつ、亜麻布で覆った。この作業に約七十日かかったという記録がある。ミイラ製作は古代から、エジプトの他にもアフリカ・南北アメリカ・オーストラリアなど各地の民族の間で認められおり、中国では広東省南華寺のミイラが、日本では岩手県中尊寺の藤原清衡以下四代のミイラが知られている。なお、一言言っておくと、屍蠟(しろう)をミイラの一種と勘違いしている人がいるが、それは誤りで、永久死体の一形態という点では同じであるが、こちらは低温環境で、しかも水や泥や泥炭などによって遺体が外気と長期間に亙って遮断された結果、腐敗菌が繁殖せずに腐敗を免れ、遺体内部の脂肪分が変性し、死体全体が蠟状若しくは堅めのチーズ状になったものを指す。則ち、ミイラとは異なり、乾燥した環境ではなく、極度に湿潤で気温が低い場所で生成されるものである。
「物類品隲」平賀源内撰で、宝暦一三(一七六三)年に刊行された新時代の博物書である。源内の現代の科学史上での業績の中でも主著とされているもの。源内が江戸湯島で開催した「物産会」(前年の宝暦十二年五月頃に源内主催で行われ、一千点以上の物品が公開された)の総集編とも言うべき著作で、水・土・鉱物・動植物などを対象に、広く薬用となるものを採り上げ、図版等を付し、それぞれに簡単な説明を加えたもの(以上は主に「京都外国語大学図書館」公式サイト内のこちらの解説に拠った)。「騭」は「持ち上げる」意で、「対象物品の質を評価して示す」という意味か。以下は、巻四の「木部」の「質汗」(国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該画像)で(読み易く書き換えた)、
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質汗 和名「ミイラ」。先輩、「木乃伊」を「ミイラ」とするは非なり。藏器曰はく、『質汗、西番に出づ。檉乳・松淚・甘草・地黃、并びに熱血を煎じ、之れを成す。番人、藥を試みるに、小兒を以つて、一足を斷ち、藥を以つて口中に納め、足を將(い)れ、之れを蹋(ふ)み、當時、能く走る者の、良なり』と云ふもの、卽ち、「ミイラ」なり。
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「藏器曰」以下は、時珍の「本草綱目」巻三十四の「木之一」の「質汗」からの引用である。「西番」は西蕃(西域の蛮族)に同じ。以下の「番」も同じ。「檉乳」は落葉小高木のナデシコ目ギョリュウ(御柳・檉柳)科ギョリュウ属ギョリュウ Tamarix chinensis から採取した樹脂。「松淚」松脂であろう。「熱血」は不詳。生きた動物から採取した血液か。にしても、後に続くそれは、いかにも恐るべき乱暴な治験である。これは香や薬物として古くから知られた「没薬(もつやく)」、ムクロジ目カンラン科コンミフォラ(ミルラノキ)属 Commiphora の樹木から分泌される赤褐色の植物性ゴム樹脂「ミルラ」(Myrrh)の附衍的な解釈説明であろう。ミルラは古代エジプトのミイラ製造に於いて、遺体の防腐処理のために使用されていたことが知られ、そもそも「ミイラ」の語源は、この「ミルラ」から来ているという説もある。源内は薬物としての「ミルラ」と、遺体変成(人工的処理も含む)としての「木乃伊(ミイラ)」を同一でないと言っているのである。
「新野邨」向山氏の補註に、『現、長野県下伊那郡阿南町新野』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。今まで登場した信濃地区では、最も南に位置する。
『死人〔しびと〕の朽敗せざるあり。その姓名・履歷は知れる人、なし。たゞ「行者〔ぎやうじや〕」となん、呼來〔よびきた〕れり』「阿南町役場」公式サイト内の「生きながらにしてミイラ(即身仏)になった(新野)」に写真入りで、『新野の行人様(ぎょうにんさま)は、本名を久保田彦左衛門(くぼた・ひこざえもん)といい、今から約』三百七十『年前の生まれで、怪力で背丈が』六『尺ほど』(約一・八〇メートル)『の大男でした。真面目な男でしたので、多くの人に親しまれておりましたが、あるとき、山にまきを取りに行った留守中に家が火事になり、一瞬にして最愛の妻と子どもを失いました。深い悲しみに暮れ、この世の無常を感じた彦左衛門は神仏の力にすがることを思いつき、修行僧となり、厳しい諸国巡業の旅を』十七『年間続けました。新野に帰って来て妻と子どもの』十七『回忌を済ませると、瑞光院の裏山にある新栄山を最後の修行の場として、山頂に石室を作り、その中で念仏を唱えて自ら断食死して即身仏(ミイラ)となりました』。貞享四(一六八七)年『のことでした』と、時制も氏名も明記されてある。場所はここ。本書が書かれたのは、文政一二(一八二九)年である。現在、かくも口碑が伝わっているにも拘わらず、そうしたものをろくに採取もせずに、「どこの馬の骨とも判らぬ」的な物言いをする元恒が、やはり、私は大嫌いである。
「越後弘智法印」新潟県長岡市寺泊野積(のづみ)にある真言宗海雲院西生寺にある、日本最古の即身仏として知られる僧。公式サイトの説明によれば、現在、』『全国に約』二十四『体の即身仏がお祀りされてい』るが、『そのほとんどの即身仏が江戸時代以降に修行された行者』のもので、それに対し、『唯一、弘智法印即身仏だけが江戸時代からさらに』三百『年さかのぼった鎌倉時代の即身仏で、今から約』六百四十『年前のものとされてい』るとある。弘智法印の詳しい事績はリンク先を見られたいが、生まれは千葉県八日市場市(現在の匝瑳(そうさ)市)で、入定は貞治二(一三六三)年十月二日とある(入定自体は南北朝時代)。
「東奥紀行」(とうおうきこう)は江戸中期の地理学者・漢学者であった長久保赤水(せきすい 享保二(一七一七)年~享和元(一八〇一)年:本名は玄珠。赤水は号。常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)出身。自身は農民出身であったが、遠祖は大友親頼の三男長久保親政で、現在の静岡県駿東郡長泉町を領して長久保城主となり、長久保氏を称したとされる)著。宝暦一〇(一七六〇)年に水戸を出発し、塩釜・松島から奥羽・北陸を廻った際の紀行文。地誌的資料として優れる。寛政四(一七九二)年の刊本が早稲田大学図書館「古典総合データベース」で視認できる(PDF・漢文体)。その30コマ目の「北越七奇探るの記」に、『六日。即身佛、三島郡野積村最上寺に在り』(傍線と寺名は原文のママ)とある。
「北越奇談」私の「北越奇談 巻之六 人物 其三(僧 良寛 他)」を参照されたい。なお、「奥の細道」には記されていないが、「曾良随行日記」によって、芭蕉も拝観していることが判る。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 57 出雲崎 荒海や佐渡によこたふ天河』の私の注を見られたい。
「諏訪の芹澤」次の寺から長野県茅野市北山芹ケ沢のことであることが判った。
「泉澁院」上の地図を拡大されたい。但し、そのミイラ化したものと思われるそれは現存しない模様である。
「南留別志」荻生徂徠が書いた考証随筆。宝暦一二(一七六二)年刊。元文元(一七三六)年「可成談」という書名で刊行されたが、遺漏の多い偽版であったため、改名した校刊本が出版された。題名は各条末に推量表現「なるべし」を用いていることによる。四百余の事物の名称について、語源・転訛・漢字の訓などを記したもの。
「職方外紀」世界地理書。著者はイタリア人のイエズス会宣教師で、明代に活躍したアレーニ(Giulio Aleni 一五八二年~一六四九年)中国名・艾儒略(がいじゅりゃく))。一六二三年に漢文で著された地理図誌で、かの同じイタリア人イエズス会員でカトリック教会司祭マテオ・リッチ(Matteo Ricci 一五五二年~一六一〇年:中国名・利瑪竇(りまとう))の「万国図志」に基づいて増補したものとされる。全五巻で、巻一はアジア、巻二はヨーロッパ、巻三はアフリカ、巻四はアメリカ及びメガラニカ(当時、南方にあると考えられていた大陸。探検家マゼランにちなむ名称)、巻五は海洋に関する内容となっている。李之藻(りしそう)編「天学初函」(一六二八年刊)理編に収められており、キリスト教禁教の関係から江戸時代に印刷されることこそなかったが、多数の写本が残っており、江戸時代の世界地理学に大きな影響を及ぼした著作である。以下は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで原本が見られ(PDF)、その巻二の「西北海諸島」の項に(72コマ目から73コマ目にかけて)、
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近有一地死者不殮但移其尸於山千歲不朽子孫無能認識地
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とある。「無」は「亠」に「灬」であるが。「無」でよいかどうかは判らない。「不殮」は「葬らず」の意。場所がよく判らないが、スイスのような氷河地形の氷河が残っている地帯ならば、これは腑に落ちる。
「采覽異言」新井白石が、宝永五(一七〇八)年に布教のために潜入して捕縛されたイタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチ(Giovanni Battista Sidotti 一六六八年~正徳四年十月二十一日(一七一四年十一月二十七日)はを尋問して得た知識などを基に著わされた日本最初の組織的な世界地理書。マテオ・リッチの「坤輿万国全図」や、オランダ製世界地図等、多くの資料を用い、 各州・名国の地理を説明しながら、所説に典拠を明らかにしている。全巻を通じて、世界各地の地名その他の地理的称呼は、マテオ・リッチの漢訳にならっており、「欧羅巴(エウロパ)」(ヨーロッパ・巻之一)・「利非亜(リビア)」(アフリカ・巻之二)・「亜細亜(アジア)」(巻之三上下)・「南亜墨利加(ソイデアメリカ)」(南アメリカ・巻之四)・「北亜墨利加(ノオルトアメリカ)」(北アメリカ・巻之五)の順に、整然と分類された世界各国の地理が漢文で書かれている。正徳三(一七一三)年の成稿であるが、その後も加筆が続けられ、享保一〇(一七二五)年に最終的に完成した(以上はウィキの「采覧異言」に拠った)。
「臥兒狼德」底本は編者のルビで『くるうんらんじや』とあるが、私は以下に電子化した「采覧異言」に載る表記をひらがなにして使用した。これは北アメリカ大陸の北東部にある世界最大の島でデンマーク領であるグリーンランドを指す。「采覧異言」には(国立国会図書館デジタルコレクションの明一四(一八八一)年白石社刊の活字本の当該条を視認した。但し、誤植と思われる部分が複数個所あり、それは別に早稲田大学図書館「古典総合データベース」の文政三(一八二〇)年の写本(PDF)で確認(27コマ目)、補正した)、
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グルウンランデヤ
臥兒狼德【又作㆓臥蘭的亞一。】
地最荒濶。南阻二歐邏巴北海一。北接㆓亞墨利加北界一。東西不ㇾ知其所一ㇾ極也。地氣寒凍。不ㇾ生㆓人物一。和蘭人。時逐㆓海鯨一。到ㇾ此而捕ㇾ之云。【和蘭人說。[やぶちゃん注:中略。鯨・ウニコル(イッカクのこと)などの話が載る。]古老相傳。昔本國人。踰ㇾ海[やぶちゃん注:「海を踰(こ)えて」。]止ㇾ此。衣糧屋具。凡可ㇾ禦ㇾ寒之物。無ㇾ不ㇾ備。明年有ㇾ人到ㇾ此。見二其坐者坐死。臥者臥死一。無ㇾ有二一人活者一。屍如二乾脯一。不ㇾ腐不ㇾ爛。土氣寒凍。若ㇾ此之甚。[やぶちゃん注:後略。]】
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「蠶〔かひこ〕の中に殭蠶〔きやうさん〕の生ずる類〔たぎひ〕」まず、私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蠶」に目を通された上で、次の項である「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 白殭蠶」を読まれたい。そこで私はまさにこの「白殭蠶」というカイコの病変現象を自分なりに追跡しているからである。
「萬國新話」医者で戯作者・蘭学者でもあった森島中良(ちゅうりょう 宝暦六(一七五六)年?~文化七(一八一〇)年)の書いた世界地誌の蘭学書。寛政元(一七八九)年刊。彼は平賀源内の門人で、文体も源内のそれに酷似させたことから「平賀風(ひらがぶり)」とまで呼ばれた。以上は、巻之一の「石に化したる人の話」(原本目次の表記)と思われるが(早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの原本の巻之一(PDF)の19コマ目から20コマ目)、それを読む(本文は「石人」)と、「納多理亞」という国(不詳。中近東らしい)の山中から石に化した人が出てきたと始まり、最後で『越後の國にある所の弘智法印も石人の一種なるべし』と言っているだけで、元恒の言っていることと同説なんぞではない。見当違いも甚だしい。
『「行力〔ぎやくりき〕にて、かくありし」などいふは拙〔つたな〕し』見えてきたね、排仏君元恒!
「紅毛雜話」先の森島中良の随筆。寛政八(一七九六)年刊。その巻二の「木乃伊」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本(PDF)の14・15・16コマ目(図入り)で視認出来る。
「義好」不詳。
「和漢太平廣記」藤井懶斎著の随筆「閑際筆記 和漢太平廣記」。正徳五(一七一五)年序。刊本を持たず、ネットの画像で縦覧したが、発見出来なかった。悪しからず。
「西京雜記」(せいけいざっき)は前漢の出来事に関する逸話を集めた書物で、著者は晋の葛洪ともされるが、明らかでなく、その内容の多くは史実とは考えにくく、小説と呼ぶべきものに近い。
「魏王子且渠家無棺槨但有石牀廣六尺長一丈石屛風牀下悉是雲母牀上兩屍一男一女皆年二十許俱東首裸臥顏色如生人又幽王家百餘屍縱橫枕籍皆不朽唯一男子餘皆女子」国立国会図書館デジタルコレクションの元祿三(一六九〇)年刊の版本の当該部(左頁四行目から)を見て(訓点が雑で殆んど役に立たない)訓読(読みは私が添えた)してみる。
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魏王子且渠(かつきよ)が家、棺槨、無く、但だ、石牀(せきしやう)の、廣さ六尺、長(た)け一丈なる石屛風、有り。牀の下、悉く、是れ、雲母たり。牀の上に兩屍あり、一男一女。皆、年二十許り、俱に東に首(かうべ)して、裸にて臥す。[やぶちゃん注:原文ではここに、「衣・衾、無く、肌膚(ひふ)のまま」と読むべきかの一節がある。]顏の色、生ける人のごとし。[やぶちゃん注:以下、中略されている。画像を見られたい。再開は次の頁の六行目からである。]又、幽王の家、[やぶちゃん注:有意な中略有り。]百餘りの屍、縱橫して、相ひ[やぶちゃん注:原文で補った。]枕して、籍(せき)す[やぶちゃん注:整然と並んでいるという意か。]。皆、朽ちず。唯だ一男子のみに、餘りは皆、女子たり。[やぶちゃん注:下略されている。]
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「皇朝類苑」南宋の一一四五年に江少虞が編した類書(百科事典)。
「倦遊雜錄」宋の張師正(一〇一六年~?)撰の小説集。
「華嶽張起谷岩石下有僵尸直髮皆完」無理矢理、訓読すると、『華嶽の張起谷の岩石の下、僵尸(きやうし)有り。直髮にして、皆、完(まつた)し』。私の世代あたりは、一発で「殭屍」、広東語音写「キョンシー」と読み換えられる。中国の死体妖怪の一種で、死後硬直した死体であるにも拘わらず、長い年月を経ても腐乱せず、動き回ることで知られる。個人的には非常に古い民俗社会の考え方で、人体は魂魄の入れ物に過ぎず、死体には邪悪な気が入り込みやすいとするものがルーツと思う。
『關氏が著せる「發墳志」』上野(こうずけ:群馬県)伊勢崎藩家老の関重嶷(せきしげたか 宝暦六(一七五六)年~天保七(一八三七)年:地誌執筆(「伊勢崎風土記」)や自然災害記録(天明三(一七八三)年の浅間山噴火記録「沙降記」)及び古墳発掘調査などで知られ、史学にも精通した)が著した「発墳暦」(はっぷんれき)のことであろう。
「上州茂呂村」群馬県伊勢崎市茂呂町(もろまち)。
「越後津川玉泉寺」新潟県東蒲原郡阿賀町(あがまち)津川に現存する。
「淳海上人」寛永一三(一六三六)年の入定であるが、明治一三(一八八〇)に火災で消失しており、現在は遺骨だけが安置されている。玉泉寺は真言宗で淳海上人は「火除け」にご利益があるとされて信仰されていたという。寛永十三年九月入寂で、七十八歳であった。サイト「即身仏のページ」の「第四章 思想背景ごとにみた即身仏 湯殿山系」の「淳海上人」によれば、高野山の偏照光院で慶長六(一六〇一)年八月に伝法灌頂を受けという。『淳海上人の特徴として、土中入定をしていない点と』、『堂に安置されたという点があげられ』、『これらの特徴は平安時代の初期即身仏や高野山系即身仏と共通するものであ』り、『淳海上人の安置される寺の親戚筋の寺院のすぐ近くに弘智法院の西生寺があること、高野山と湯殿山両方で修行したことなどから、淳海上人が近畿から東北へと即身仏信仰を伝播させた役割を果たしたものとみられる』とある。
正直、私は即身成仏には一種の真正の異常性欲としてのマゾヒズムを感じ、全く、興味がない。寧ろ、それに直前に失敗した人間らしい僧にこそ惹かれる。それは、例えば、定小幡宗左衞門の定より出てふたゝび世に交はりし事 附やぶちゃん訳注その他を見れば判る。悪しからず。お休みなませ――]