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« 堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 三足鷄 | トップページ | 梅崎春生 B島風物誌 ブログ分割版 (その三) »

2020/11/05

梅崎春生 B島風物誌 ブログ分割版 (その二)

 

 敵の陣地からうちだす砲声が、しだいに間近になってきた。時たま近くにおちてくるらしく、密林をゆるがせて空気が震動した。

 水筒をいくつも肩にかけて、おれは裏の川まで水をくみに行った。とちゅうで木の根につまずいて、斜面をころがりおち、木の根で膝を傷つけた。おさえた掌に、血の色がべったりついた。しばらく立ち上れなくて、おれはじっと横たわっていた。

 川の近くでは、でんでん虫を三匹見つけて食べた。それは淡雪(あわゆき)のように舌の奥で溶け、芯(しん)のようなものだけが、咽喉(のど)におちて行った。それから急に食慾を刺戟されて、虫を探したけれども、食えそうなやつは一匹もつかまらなかった。水筒の紐(ひも)を肩にくいこませて、おれはあえぎながら、小屋にもどってきた。そして水筒のひとつを、また隊長の小屋にとどけに行った。

 隊長の小屋は、地面に枯葉をしきつめた一坪ほどの木の葉小屋である、関根中尉と不破曹長がいた。おれが入って行ったときの感じでは、二人はいままで激論を交していたらしかった。関根中尉は上半身を起して、まっさおな顔をしていた。おれが来たのも、気がつかない風だった。ここでもかすかに膿(うみ)のにおいがした。

「最後までたたかう。最後のひとりまでたたかってやるんだ」

 しぼりだすような声で関根中尉が言った。あと早口で二言三言口走ったが、それは聞きとれなかった。

 不破曹長は小屋のすみにうずくまったまま、頭を上げずにおれの方に掌をうごかした。水筒をそこにおいて、おれは戻ってきた。

 今朝は分量の関係で、一食分ずつしか食えなかったから、皆は元気がなかった。入ってゆくと、みんな不機嫌に眼をひからせて、おれを見た。昼間の食糧収集が危険になったから、輪番で夜間出動するようになってから、もう一週間になる。あのまっくらな密林のなかを、足裏の感触や顔にあたる木の枝の具合で、一歩一歩さぐり歩かねばならぬから、一夜さまよっても、収穫もたかが知れているのだ。そしてすでに、敵から安全なここら付近は、ほとんど取りつくして、足を危険地帯まで伸ばさねば、ジャングル野菜は手に入らないのだ。

 小屋のなかでは、歩哨や水汲みや炊事当番のほかは、皆ごろごろ橫たわっている。体力を最少限に使うことで、生きる命を一刻でも伸ばそうとするかのように。――それはまた、むなしく死を待っているようにも見える。ずらずら並んだみんなの頭から、髪はほとんど脱けていて、初生児のように柔かい毛がのこっているだけだ。破れた毛布からつきでた足は、脚絆(きゃはん)をまいているのもいるし、いないのもいて、服は一様にぼろぼろだ。干柿のような黒い皺(しわ)くちゃの尻がのぞいている。

 小屋のすみには、小銃や弾薬がひとまとめにおかれていて、湿気のために錆(さ)びかかっている。立ては頭がばさばさとつかえる低い芭蕉小屋だ。密林の凹地(くぼち)をねらってたてられているから、ここらはことに落葉がふかい。しきつめた落葉をがさがさいわせながら、みんなは寝がえりをうったり、ひょろひょろ立っては小便に出て行ったりする。軍律は、ここではもはや死んでいる。物憂い習慣として、のこっているにすぎない。言葉のはしばしや挙動のひとこまに、僅かに生きている。――そして人間の、生物の原則が、徐々(じょじょ)に、確実に、ここを支配しはじめているのだ。

 それにしても、皆は口をききやめない。言葉を発することで、自らの生きている保証をたしかめるかのように。言葉を出さないことが、不安なのだ。おれもそうだ。口を利かなければ、おれたちはどこが死人とちがうのだろう。皮膚は乾魚の肌のようにかさかさした鱗(うろこ)におおわれ、顔は血の気をうしなって、頭蓋(ずがい)そのままの形を見せている。このやせおとろえた頭蓋は、すでに論理には耐えられぬのだ。おれたちをここに追いこんだもの――それを追求する力はすでに失われている。何故おれたちが、ここで飢えねばならぬのか。断片的に意識にちらつくだけで、その根源をおれたちはどこかに置き忘れている。おれたちの会話は、だから、ほとんど出鱈目(でたらめ)だ。いらいらしているものは、いらいらしている理由を、人を嘲けるものは、人を嘲ける理由を、すっかり自分のなかから見失っている。……

 今日も古川兵長は、薄荷(はっか)のようなにおいをもつ蔓草(つるくさ)の葉を探してきて、揉んではしきりに潰瘍に押しあてている。汁が傷にしむのか、顔をしかめて足をはたはたさせる。「この野郎。俺を蹴とはしやがって!」と笠伍長がおこる。「むこう向いてやれ。ボヤ助!」

 笠の眼はすごく光っている。本気で腹を立てているのだ。こめかみがおちくぼんで、赤茶けた髪が頰に密生している。この男がかつては模範兵で、序列はいつも右翼で、大陸戦線では殊勲甲のてがらを立てたこともあることを、皆はすっかり忘れ果てている。今みんなの眼の前にいるのは、やせこけた怒りっぽいひとりの下士官というだけだ。笠だけではない。みんなに過去はない。あるのは、飢えている現在だけだ。[やぶちゃん注:戦闘に於いて最も優れた殊勲を立てたことが認められると、各人が所持する「軍隊手牒」の軍務履歴の部分に「殊勲甲」記され、と記載され、無事、内地に帰還した際には当該の金鵄勲章が授与された。]

 古川はのろのろと向きを変える。そして顔をしかめたまま、ひとりごとのように言う。

「ああ。早くブインに戻って、農園にうえといた芋が食いたいや。なあ。伴」

 話しかけられた伴は、歪(ゆが)んだ眼をきらりとさせたまま黙っている。

 五味伍長がすみの方から、突然うなるような声を立てる。

「まだ、帰れる気でいやがる。お目出度い野郎だな。貴様は」

「だって、もう実っている頃ですよ」

「くせえ。くせえ」五味は頭を半分おこして古川をながめる。「また腐れ葉っぱを、つけてやがる。いい加減にしろ、おお、くせえ」

 揮発性の刺すような異臭が、その葉からひろがっている。それはおれにも臭いのだ。この小屋の膿のにおいは、常住[やぶちゃん注:「じょうじゅう」であるが、ここは副詞的用法で「常に・何時も」の意。]つづいているので、臭気でありながら、臭気でなくなっている。それはもはや、おれたちの、この小屋の、体臭そのものになっている。葉っぱのにおいが慣れきった膿臭(のうしゅう)をぬって、嗅覚をするどく刺してくるのだ。みんなは無感動な姿勢で、眼をとじていたり、古川の葉をもむ手付を眺めたりしている。

「――歩哨はどうしたんだ。まだ戻ってこんのか?」

 しばらくして、笠がとげとげしい声をあげる。

「誰と誰が行っているんだよ?」

 おれは小屋のすみに、膝をだいてうずくまっている。先刻たべたでんでん虫の後味が、舌の根にすこし残っている。ねばねばしたものが薄く貼りついた感じだ。舌を口壁におしつけながら、それをたしかめている。おれは関根中尉のことばを、最後まで戦うと言った語調を、ふと思い出している。[やぶちゃん注:「口壁」私は使ったことも見たこともないが、「こうへき」と読んでおく。口腔の左右の頰側(きょうそく:この言い方は歯科で普通に用いる)のことであろう。口腔の上顎側なら口蓋で、それと区別したものととる。]

「あいつら、やられたんじゃないか?」

 さっき転んだときの膝の傷が、ずきずき痛い。皮膚がべろりと剝けていて、一寸四角ほど白い肉が露われている。血管が赤い虫のように、いくつかそこを走っている。眺めていると、その部分が急につめたくなって行くような感じがする。

 五味伍長が、ひょろひょろ立ち上って、小便に出てゆく。この二三日、五味の歩き方は、なんだか手足の関節が外れたような恰好(かっこう)だ。そしてブリキのように薄い肩が、青ぐらい小屋のそとに消えてゆく。

 

 暁方、はげしい空襲がきた。空気をひっかき廻すような鋭い金属音が、密林の底におちてきたと思うと、轟然たる爆発音がおれの頰をひっぱたいた。小屋がぐらぐらと揺れた。おれたちは忽(たちま)ちはねおきて、毛布をひきずりながら防空壕へはしった。走る間も轟音はつぎつぎ起り、密林の樹樹はひとしきり地震のように揺れさわいだ。壕にとびこんでからも、四五発は間近におちた。そのたびに、歯ががくがくなった。

 壕のなかには、今朝炊事した残り火が、白くかすかな煙をあげていた。おれたちは壁にぴったり身体をよせて、だんだん遠のいてゆく爆音の気配に、全神経をあつめていた。

 関根中尉は蒼白な顔をして、濠のいちばん奥にいた。軍刀でからだを支えて、じっと煙に眼を据えていた。そして押しつぶされたような声で、今朝の炊事当番はたれか、と言った。隊長の眼は不気味にひかって、次々おれたちを舐めるように動いた。

 

「当番はたれか。出てこい」

 当番の上西兵長と仁木上等兵を、隊長の右手がしたたかなぐりつけた。仁木はよろめいて倒れ、残り火に掌をつっこんだ。不破曹長がそれをたすけおこした。そこをすりぬけて、隊長は神経質に顔の筋肉をひきつらせながら、蒼白の表情のまま壕を出て行った。

 皆はおそろしい無表情な顔で、だまりこくっていた。不破曹長は視線をふたりに定め、低い声で言った。

「空が白んだら、炊事の途中でも、火を消せということを忘れたか?」

「はあ。消しました」とにぶい口調で上西がこたえた。

「消したのに、なぜ煙が出るんだ」

 そう言いながら、不破は仁木に視線をうつした。赤く火ぶくれた掌をだらりと下げて、仁木はぼんやり眼を見ひらいていた。へんに顔をそらすようにしながら、不破はふと沈んだ声になって言った。

「――空からは、煙がすぐ眼につくんだ」

 それからぞろぞろと防空壕をでた。不破曹長は隊長の小屋に、おれたちは自分の小屋に戻ってきた。爆撃のせいか、小鳥や虫の音が絶え、妙にしんとしていた。落葉をふむ音だけが、かすかにひびいた。

 小屋には毛布にくるまったまま、ミノ虫のように五味伍長が寝ていた。入ってくるおれたちの姿を、毛布から片眼だけを出して見つめていた。小屋には、被弾はないらしかった。その五味にむかって、笠がいやな顔をして言った。

「おまえ、何故にげなかったんだ」

「逃げたって、逃げなくたって、同じだよ」

 毛布のなかから、毒をふくんで反撥(はんぱつ)するような五味の返事がもどってきた。

 それから人員をあたると、歩哨についたものをのぞいて、姿を見せないのが二人いた。しらべて見ると有馬兵長と鬼頭上等兵である。しばらくたっても、帰ってこなかった。あるいは爆撃でやられたのかも知れないというので、それぞれ手分けをして、探しにゆくことにした。

 おれは伴兵長と組んで、密林のなかを探してあるいた。じっとりと重い汗がながれた。樹々の奥ぶかく視線をうごかしながら、あてどなく踏み入って行った。昨朝のようすから、あるいは有馬は逃亡したのではないかと、おれは漠然とかんがえていたのである。爆撃のために密林のあちこちが、ボコッと引き抜かれたように展(ひら)けて、まばらになった樹々のあいだから、陽光がほそく斜めにさしていた。地面をおおううず高い落葉は、じっとりと露にぬれていた。その上をうすいもやが、低く這っていた。空の青さが眼にふれると、おれたちは恐いものでも見たように、顔をそむけて暗みに道をかえた。

 たおれている有馬を探しあてたのは、おれたちである。小屋から二百米ほど離れた地点であった。半ば折れかかった大きな樹の根に、からだをもたせかけて、有馬は淡黒く瞼をとじていた。そこらあたりからなまなましい折れ口をみせて、枝や葉が散乱し、ところどころがぶすぶすいぶっていた。死んでいるのかと思ったが、おれたちが近づくと、有馬はくるしそうに薄眼をあけた。

「足をやられたんだ。足を」

 腿(もも)のところを破片がかすめたらしく、白く肉がえぐられていた。血はすでにとまっていた。割箸(わりばし)のようなものが肉につきささっていて、伴が指でそれを抜こうとした。有馬はくるしそうに一声うなり、口調にはげしい憎悪をこめて「よせ。化物め!」とうめいた。伴のガスマスクのような横顔が、一瞬するどく痙攣(けいれん)した。それは木の枝ではなくて、肉を破って突出た骨片であった。

「骨じゃねえかよ、これ」

そう言いながら、伴は身ぶるいしたらしかった。おれも顔をそこに近づけた。肉から突出た骨片は、鶏肉のそれを聯想させた。伴は側に立って、飛びだすような眼で、見詰めるらしい。呼吸を凝(こ)らす気配が、おれにも伝わった。咽喉(のど)につまったような声で、伴がまた言った。

「おまえ、なぜこんなところに居たんだ」

 有馬は閉じていた瞼を急にひらいて、顔を不安定にうごかした。そしておれの視線とぴったり合った。かすかな慄えが、ふと有馬の顔をはしったと思った。おれは自分の顔を、有馬から一尺ほどに近づけていたのである。

 背後で伴が、突然大きく息をはき出した。それはこわれた笛のような音を立てた。そして伴は落葉を踏んで身体を動かすらしかった。おれも身体を起しながら、何となくうしろを振り返った。伴はまばらに明るい爆撃の跡に、身体をねじむけていたが、そのまま押えつけたような声でつぶやいた。

「――小鳥のやつが、死んでいないかなあ」

「死んでいたって、木の枝や泥のしたになっているさ」おれの言葉も平静をうしなって、何かこわばった調子をたてた。

「いや」と伴はおれの方を見ないで、変に力(りき)んだ声をだした。「ちょっくら探してやろう」

 散乱する木の枝をがさがさ踏みつける伴の跫音が、遠ざかってやがて消えると、おれは有馬にならんで木の根によりかかった。そしてささやいた。

「おまえが、食糧をかくしているてえのは、ここらかね?」

 有馬は突然するどい声を立てて、おれにつかみかかろうとしたらしかった。しかし直ぐ腿の傷にひびいたらしく、右肱(みぎひじ)で地面をうって軀(からだ)を支えた。さえぎろうとしたおれの腕が、自然有馬をねじふせた形となった。おれの腕のしたで、有馬は顔を伏せたまま、あらあらしく肩であえいだ。おれたちはしばらく、その姿勢のままでいた。そしておれは、ゆるゆると腕の力をぬいて行った。

 しばらくして、有馬は深く呼吸をはきながら、上半身をおこした。見おろすおれの眼が、けものじみた光を帯びてくることが、自分でも判った。

 

 有馬を間にはさんで、おれたちは肩をくんだ。しかしいくらも歩かないのに、肩にかかる重さが、おれたちをよろめかせた。有馬も全然あるけない程でもないらしかった。足をひきずりながら、歩調をあわせた。黙って樹々や蔓草(つるくさ)の間をぬうごとに、有馬はしだいに何故か不安をかんじるふうであった。

「――小鳥は、いたのか」

 そんなことを変に弱々しい調子になって訊ねたりした。足をひきずりながらも、有馬はおれの方から、しきりに顔をそむけるようにした。

「いない。いるものか」暫(しばら)くして伴がとげとげしく答えた。「おまえ、俺の方はかりに寄りかかって来るな、もちっと、しゃんとせえ」

 先刻もどってきたときの伴の肩に、よごれた羽毛が一ひら貼りついていたのを、おれははっきり見ていたのである。おれたちのからんだ腕の骨が、ときどきごくりと鳴った。おれの横眼にうつる有馬の顔も伴の顔も、羊皮紙のような色になって、汗がしたたか額に滲んでいた。よろめく度に立ち直って、おれたちは呼吸をととのえた。

 小屋に戻ると、小屋のすみに有馬を寝かせた。寝かせるとき、有馬は乾いた眼をいっぱい見開いて、じつとおれを見つめた。それはすがってくるような重苦しいひかりを、おれに感じさせた。(そんなものを断ち切ることで、皆は生きて来たんだぞ!)おれは反射的にそんなことを考えた。毛布をかぶせてやりながら背後の話をきくと、鬼頭上等兵は、裏の川の近くで、爆撃のためでなく、弾丸に射ぬかれて死んでいたという。屍体はその場で埋めたらしく、おれが振りかえると、鬼頭の毛布の上には、弾丸のあとをとどめた水筒がひとつ、ころがされているだけである。鬼頭の所持品を上西兵長が整理しているところであった。小屋のなかにいる五六人が、何となくそれを眺めている。

 所持品の、汚れた布片や手紙の間から、折りたたんだ紙片がでてくる。上西がそれを拡げる。赤と青の綿を印刷した投降ビラだ。時々敵機から、ばらまかれるものだ。その中には、投降する際にはこのビラをかざしてこい、と記してある。上西は一寸眺めて、無感動に横におく。

「おい。そいつはかくしとけや」誰かがぽつんと言った。「曹長どんに見つかると、うるさいぞ」

 上西はそれをのろのろと拾いあげ、ていねいに畳んで、胸のポケットにおさめた。

「鬼頭のことは、報告したか?」

 笠伍長のとがった声が、その時小屋のそとから入ってきた。そして直ぐ、寝ている有馬の姿をとらえた。

「なんだ。貴様。どこをうろついていたんだ」

「あっちです」

 有馬は掌をわずかに出して、弱々しくこたえた。笠の声がそれにかぶさった。

「貴様、逃げようと思ったんじゃねえだろうな」

 有馬の眼は脅(おび)えたように、急にするどく光った。笠は腰をおろしながら、おれに眼をとめた。

「隊長どんに、知らせてこい。貴様だ」

 おれは止むなく、大儀な体をのろのろと起す。有馬の眼はおおきく見開かれ、立ち上るおれの姿におかれている。横たわっている五味伍長の足をまたいで、おれはひょろひょろと歩きだす。

 

 夜は食糧収集に出た。五味と上西とおれである。小屋をはなれて間もなく、光は落ちてまっくらになった。まるでぬけ道のない洞穴のくらさだ。どちらをむいても暗さがかたまりになって鼻につきあたる。

 一番先頭を上西がゆく。その足がカズラをひきずる音や、小枝を折る音をたよりに、手探りでついてゆく。五味伍長の、絶え絶えな呼吸(いき)遣いが、おれのあとを追ってくる。ジャングル野菜がまとまって手に入るところは、八百米ほど隔てた湿地帯だけである。そこに行く外(ほか)はないのだ。全くここらには、農園のあともなければ、椰子(やし)の樹もない。その上夜の暗がりに、生命をおびやかすどんな危険が待っているかも知れない。夜でも眼が見えるという土民兵が、手探りですすむおれたちの姿を、じつと見守っているかも知れないのだ。その湿地帯ふきんは、夜の光がひらけていて、特に警戒を要するのである。そこに近づくにつれて、おれたちの歩みはだんだん鈍った。それはただ危険をおそれるためだけでなく、全身に食いこむ疲労のせいもあるのだ。

「もう、ここらで、やれや」五味伍長が背後であえいだ。

「おまえら、どこまで行くつもりか。目ぼしいものは、ありゃせんぞ」

 足裏の感触で、水の近くまで来ていることが判った。水の匂いのする方に、おれたちは静かにすすんだ。そしてときどき手足にふれる軟かそうな葉をひっちぎって、ケイテンの袋のなかに押しこんだ。水明りがぼんやり眼に入った。おれはそこらを這いまわりながら、手あたり次第の軟かい葉を押しこんで、六分目ほども満たしたらしい。神経の緊張と無理な姿勢のために、ぶったおれたくなるような深い疲労がきた。それと共に、膝の傷がずきずき痛み出した。この傷も、今朝ほどから黄色く膿を含んで腫脹(しゅちょう)していたのである。

 やがて三人がもとのところへ戻ってきたとき、五味はおれたちの袋のかさを探って、

「ポヤ助。三時間もかかって、たったこれだけか」

 五味の口調は毒々しいが、声はもはや消え入るような弱い響きをふくんでいる。強く声を出す力が尽きかけているのだ。この男から発散する膿のにおいは、すでに屍臭に近づきかけている。今晩も出かけるまで、小屋で丸くなって寝ていたのだ。しかしそうだといって、食糧集めの輪番を抜けるわけには行かない。

「ええ糞(くそ)。よりによってこんな暗い晩に、おれの番にあたるなんて。傷がギシギシ痛んでくるわい。こそこそ夜中に雑草あつめて食って、皆生き延びるつもりでいやがら。生き延びられるもんか。みんなお陀仏(だぶつ)よ」

 おれも上西もだまっていた。身体が綿のように疲れていて、返事するのも物憂(う)かった。それからおれたちは、背を曲げてよたよたと歩きだした。進んでゆくにつれて、五味伍長はまた次第に遅れ始めた。枝をはらうかすかな音が、だんだん距離をひろげて行った。おれたちは暗闇のなかに立ち止って、遅れた五味をしばらく待った。位置を知らせるために、上西がするどく口笛を吹いた。音は吸いこまれるように、密林の奥に消えた。そしておれがつづいて吹いた。枝や葉をわける音が遠くでしているが、それはなかなか近づかなかった。

「伍長どんも、長いことはないな」

「長いことはないな」

「もう、二三日保つかいな」

 つぎつぎにたおれた戦友を見てきたから、おれたちは衰えた人間の死期を、ほぼ誤たず知ることが出来るようになっていた。

「――もうこんな戦争も、いい加減いやになったなあ」

 闇のなかで、そう呟(つぶや)く上西の声がした。その声にむかって、おれはいらいらしながら言った。

「じゃ、逃げたらいいだろ」

 上西が身じろぐ気配がした。そしてまた沈黙がきた。その中を、五味の跫音(あしおと)が、やがてがさがさと近づいてくるらしかった。

 

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