堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 鶴 附 鴇
鶴 附 鴇
文化の頃、木下の邊りに、鶴の一羽來りて、四、五十日がほど、去らず。
「いとめづらかなる事よ。」
と、遠近〔をちこち〕の人、來り觀る者、日每に絕へず。里老の語りしは、
「是より三十年前には、鶴、二羽、今のごとく來り居〔ゐ〕けるに、ある人、鐵砲もて、その一羽を打殺〔うちころ〕せり。その人、妻子まで、打〔うち〕つづき、死失〔しにう〕せ、其家も絕〔たえ〕たり。」
とぞ。
「いま、年囘〔としまはり〕にあたりて、來りたるならん。」
と、いひあへり。
これより先〔さき〕、享和の比、神子柴村〔みこしばむら〕にあやしき鳥の止〔とま〕りけるに、是もまた、鐵砲もて打取〔うちとり〕ぬ。大きなる鳥なり。爪に、水かきなど、ありぬ。名を知れる人もあらざりしを、先人〔せんじん〕淡齋〔たんさい〕、走り行〔ゆき〕て是を見、
「こは、九州にて『野鴈〔のがん〕』といふ鳥にて、『詩經』に『鴇〔ハウ〕』と見へたるは、是なり。」
といひし。果して然なりし。かゝる鳥のはるかに山谷を越〔こえ〕て、一羽、二羽ばかり來りけるこそ、あやしけれ。
[やぶちゃん注:底本では、標題は『鶴 附、 鴇』とあるが、如何にも読点がおかしいので、原本に従った。これは「鶴」(つる)「附けたり」「鴇」(のがん)と読むものと思われる。「鶴」は殆どの日本人が鳥綱ツル目ツル科ツル属タンチョウ Grus japonensis を同定してしまうが、この痩せた記述では、それに同定することは、到底、不可能で、本邦には多数種のツルが飛来する。詳しくは「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶴」の私の注を見られたい。さて一方の「鴇」であるが、これは「とき」と読んで、ペリカン目トキ科トキ亜科トキ属トキ Nipponia nippon に当てるのが一般的だが、古来、別に野雁(ノガン目ノガン科ノガン属ノガン Otis tarda)にもこの字を当て、この場合は、以下の叙述から、それである。ノガンは「山七面鳥」とも呼び。本種一種のみでノガン属を作る。本邦には中国東部・モンゴル・ロシア南西部(夏季にはロシア南西部)で繁殖し、冬季に中国へ南下して越冬する亜種ノガンOtis tarda dybowskii が、迷鳥として主に冬に記録されており、北海道から沖縄県まで各地で観察されている(以上はウィキの「ノガン」に拠った)。但し、記述に一部、問題がある。「水かき」があった、と述べている点で、博物図譜や海外のサイトの学術的画像や写真をいくら見ても、本種には水かきは視認出来ないからで、或いはノガンではない可能性をここに示しておく必要はある。
「文化の頃」一八〇四年から一八一八年まで。
「木下」底本の向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡箕輪町木下』(みのわまちきのした)とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「年囘」ここに飛来する年回期という謂いであろう。
「享和」一八〇一年から一八〇四年まで。
「神子柴村」同じく向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡南箕輪村神子柴』とある。先の木下の南直近。
「淡齋」やはり向山氏の補註に、話者『元恒の父中村淡斎』(宝暦六(一七五六)年~文政三(一八二〇)年)。『天明化政の儒医にして俳人。諱は元茂、淡斎と号し、医号を昌玄、俳号を伯先という。山寺村(現、長野県伊那市山寺)に住み、加舎白雄門の俳人として、蕉風の俳諧をこの地にひろめた』人、とある。
「『詩經』に『鴇』と見へたる」「詩經」の「唐風」にある一篇「鴇羽」(はうう(ほうう))。サイト「詩詞世界 碇豊長の詩詞」の「鴇羽」を見られたい。そこでも、また私の所持する「詩経」の注釈書でも「鴇」を野雁(ノガン)とする。野雁がバタバタとして木の枝にとまろうとするさまに託して、農民らの労役の辛苦を詠んだ労働歌である。]
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