北原白秋 邪宗門 正規表現版 桑名
桑 名
夜(よ)となりぬ、神世(かみよ)に通ふやすらひに
早や門(かど)鎖(とざ)す古伊勢(ふるいせ)の桑名(くわな)の街(まち)は
路(みち)も狹(せ)に高き屋(や)づくり音(おと)もなく、
陰森(いんしん)として物の隈(くま)ひろごるにほひ。
おほらかに零落(れいらく)の戶を瞰下(みおろ)して
愁ふるがごと月光(げつくわう)は靑に照せり。
參宮(さんぐう)の衆(しゆう)にかあらむ、旅(たび)びとの
二人三人(ふたりみたり)はさきのほどひそかに過(す)ぎぬ。
貸旅籠(かしはたご)札(ふだ)のみ白き壁つづき
ほとほと遠く、物ごゑの夜風(よかぜ)に消えて、
今ははた數添(かずそ)はりゆく星くづの
天(そら)なる調(しらべ)やはらかに、地は闌(ふ)けまさる。
時になほ街(まち)はづれなる老舖(しにせ)の戶
少し明(あか)りて火は路(みち)へひとすぢ射(さ)しぬ。
行燈(あんどう)のかげには淸き女(め)の童(わらは)物縫(ものぬ)ふけはひ、
そがなかにたわやの一人(ひとり)髮あげて
戶外(とのも)すかしぬ。――事もなき夜(よ)のしづけさに。
[やぶちゃん注:「たわや」「手弱女(たわやめ)」(「たわや」は「撓 (たわ) 」に親しみを示す接尾語「や」の付いたもの。「手弱」は当て字)の白秋による縮約(但し、「たわやか」を「たわや」と略す場合が古くからあるので問題はなかろう)で、「なよなよとした女性・たおやめ」のこと。]