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2020/12/31

南方熊楠「本邦に於ける動物崇拜」全電子化注一括縦書ルビ化版公開

南方熊楠「本邦に於ける動物崇拜」全電子化注一括縦書ルビ化PDF版を公開した。5MBで191ページ。再校訂と注再検証とルビ化でこれだけに丸三日を費やした。

正月籠城用として私からのプレゼントと致す。よいお年を!

2020/12/28

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(追加発表「補遺」分)+(追加発表「附記」分) / 本邦に於ける動物崇拜~全電子化注完遂

 

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(追加発表「補遺」分)

[やぶちゃん注:以下は、最後に書誌が出るもの(本篇発表に四ヶ月後)に追加掲載されたもので、「j-stage」のこちらPDF)で初出原文が視認出来る。]

 

補遺

 人類學會雜誌二九一號三二九頁[やぶちゃん注:先の「狼」の条。]に、予は御嶽玉置山等で、狼犬同源の遺跡を留る者と論ぜり、其後、上垣守國の養蠶秘錄を見るに、但馬の養父大明神も狼を使者とすと記せり、近頃柳田氏の遠野物語を覽るに、「猿の經立(フツタチ)、御犬の經立は、恐しき物也、御犬とは狼の事也」と見ゆ、(三六章)前日予何の心も無く、「ウツド」氏の動物圖譜中の「コルスン」(Cuon dukhuensis. 印度の西疆に產する野犬也、能く群團して猛虎を殺すを以て著名也、此獸、體色赭く[やぶちゃん注:「あかく」。]、足喙耳と尾尖黑しと有れど本草綱目に、黃腰獸、豹より小さく、腰以上は黃、以下は黑し、形ち犬に類す、小なりと雖も能く虎と牛鹿を食ふと云るは、此獸の事を多少誤聞せる記載かとも思はる)の圖を、𤲿家川島友吉氏に示せしに、昔し唐人が倭犬を𤲿きたる物あり、甚だ此圖に似たり、今の倭犬は悉く洋種を混じたれば、頗る固有の倭犬と異るに及べりと言れたり、本邦の狼と犬との關係に多少緣有る事なれば附記す、○同號三三三頁[やぶちゃん注:「鶺鴒」の条。]に、予大淸一統志に鶺鴒の產地を擧げたるは、媚藥に用ひしならんと言えり[やぶちゃん注:ママ。]、再び案ずるに、是れ籠鳥として弄びしならん、本邦にもその例あり、碧山日錄卷一、長祿三年四月五日、攝州太守幸公與春公相率而來、予以禮侍之、余有一石、高峻而成双尖、幸公曰、金吾宗全之孫、其呼爲次郞者、好鶺鴒而籠之、此鳥以石爲居也、然無貢者、此石可以當之云、固有欲之々色、乃納之、幸公悅之と記せり、○三三七頁[やぶちゃん注:「海龜」の条。]に、古え日本人海龜を神又は神使とせし由を述たり。今も然する所有るは、今年七月三十日の紀伊每日新聞に、「淡路志筑町[やぶちゃん注:現在の兵庫県淡路市志筑(しづき)。グーグル・マップ・データ。]の海岸へ、每年土用に、甲の幅三尺餘の大龜、一定の場所に來り、產卵するを、町民神として敬ふ、今年[やぶちゃん注:明治四三(一九一〇)年。]七月廿六日、該町辨財天祭にて人多く賑ひしに、夜十一時頃、龜出來しを見出し、海岸に人の山を築き、早速神官を呼び、町民は勿體無しとて、遠くより打眺むる由、龜穴を掘たる儘、卵を產まずに去れり、此大龜例年來るは、久しき以前よりの事にて、一定の場所へ、每年必ず十二列十二重に、百四十八(四歟)箇を產む、約三ケ月後ちに孵化する迄、子供近かづけず、產卵後直ちに其周圍に注連を張り、神官をして其發育を祈らしむる例也、然らざれば、狂波俄かに起て、海岸に居合したる者を卷込むと、扨孵化せし龜は、母龜共に遠く海に出で去る、其時町民打寄り、鄭重なる言葉を遣ひ、神酒を呑ませ歸すを例とす」と載せたるにて證す可し、紀州田邊邊の漁民は、海龜卵を下す地が波際を去る遠近を見て、其秋波の高低を卜(ウラナ)ふ也、○蜈蚣は今日專ら毘沙門の使者と信ぜらるれども、古えは他の神の使者とも爲せしにや、續群書類從卷卅所收、八幡愚童訓卷下に、淀の住人八幡に參り祈りしに、寶藏の内より大なる百足這懸りければ、是れ福の種也と仰ゐで[やぶちゃん注:ママ。]、袖に裹んで[やぶちゃん注:「つつんで」。]宿所へ還り、深く崇め祝ひしに、所々より大名共來て問丸と爲り、當時迄淀第一の德人也と見え、神宮雜用先規錄卷下に、皇太神宮神主荒木田氏の祖の名を列せる中に、牟賀手有り、是は蜈蚣を吉祥として名とせしにや、○蟹(同號三四一頁[やぶちゃん注:「蟹」の条。]參照)。越中放生津の諏訪社に白蛇あり、諏訪樣と名く、蟹多く引連れ出で遊ぶ、澤蟹多く出て諸人を迎ふるは、此地の不思議にて、大要使はしめと云ふ者に似たりと、三州奇談後篇一に見ゆ、○蜻蜓[やぶちゃん注:「とんぼ」。]類聚名物考卷二五八、錢を數ふる異稱の條々、禮家に云傳るは、蜻蛉結びを武家に用ゆ、此虫を將軍虫と云ふとあり、拙妻の亡父の話しに、蜻蛉を勝ち蟲と名け、武士の襦袢等の模樣に用ゆ、自身も長州征伐の時然せりと、神武帝蜻蛉に依て國に名け玉し事あり、雄略帝、此蟲が蟲を誅せしを褒め云ひし事も有り崇拜と迄無くとも、古來吉祥の虫と看做されたるを知るべし。(明治四十三年十一月人類第二十六卷)

 

[やぶちゃん注:「上垣守國の養蠶秘錄を見るに、但馬の養父大明神も狼を使者とすと記せり」江戸中。後期の養蚕家・蚕種商人上垣守國(うえがきもりくに 宝暦三(一七五三)年~文化五(一八〇八)年)。但馬養父郡蔵垣村(現在の兵庫県養父市大屋町蔵垣。グーグル・マップ・データ)の庄屋の家に生まれた。十八歳の時、養蚕の先進地であった陸奥国伊達郡福島へ赴き、蚕種を仕入れ、蚕種改良に励み、大屋谷養蚕の原種(但馬種)を創出、さらに丹波・丹後に養蚕業を普及させた。享和二(一八〇二)年四十八歳の時に著したのが、上中下の三巻から成る養蚕技術書「養蠶秘錄」で、これは最も代表的な江戸時代の養蚕書として知られ、「養父市」公式サイト内の「養蚕の神様上垣守国」によれば、『上巻で養蚕の起源を述べ、蚕名、蚕種、栽桑、蚕飼道具を図解し、中巻では養蚕の実務を述べ、孵化、掃立、給桑、上族、繰糸などの全般を解説し、下巻では真綿製法、養蚕の話題を書いて、和漢の古書』二十五『点を引用』し、『当時は文字が読めない人も多いため、大きな挿図を多数入れて、図を見るだけで養蚕が学べるよう』、工夫が施されてある。出石(いずし)藩の『儒学者桜井篤忠の手助けによって、江戸・大阪・京都の書林から刊行され』、守国の死後であるが、文政一二(一八二九)年には、かの『オランダ東インド会社のシーボルト』が、この「養蚕秘録」を『日本からオランダに持ち帰り』、その有用性を聴き知った『フランス政府は、オランダ王室通訳官ホフマンにフランス語訳を命じ』、嘉永元(一八四八)年には、『パリとトリノで農業技術書として出版』された。これは『日本文化輸出第』一『号であると評価されて』おり、『日本国内でも』、実に明治二十年代まで八十年以上に亙って『出版され続け』た、とある。国立国会図書館デジタルコレクションの同書原本の上巻冒頭にある「日本養蠶(こがひ)始(はじまり)之事」の中のここの、右頁四行目から、『但馬國に鎭座まします養父大明神なり』と始まって、養蠶の神と語り、左頁のポイント落ちの注の頭で(そのままに視認して電子化した)、

   *

因云(ちなみいふ)此御神は狼(おゝかみ)を使令(つかひしめ)とし給ふ猪鹿(しし)出て作物(さくもの)をあらす時此社に詣(まうで)て作守(さくまもり)の御靈(みしるし)を請(うけ)歸(かへ)り、田畑(たはた)の側(はじ)に立置ば狼(おゝかみ)來りて守(まも)る故(ゆへ)猪鹿(しし)作物(さくもの)をあらさず其事濟(すみ)て靈(しるし)を皈(かへ)し納(おさむ)れば狼(おゝかみ)も立去(たちさ)るなり又參詣(さんけい)の節(せつ)狼(おゝかみ)をつれ皈(かへ)らんことを願(ねが)へば其人の後(しりへ)につき添(そひ)來る事あまねく人の知(し)れる所にして農業(のうげふ)を守らせ給ふ靈驗(れいげん)斯(かく)のごとし

   *

とある。この本、個人的に甚だ気に入った!

『柳田氏の遠野物語を覽るに、「猿の經立(フツタチ)、御犬の經立は、恐しき物也、御犬とは狼の事也」と見ゆ、(三六章)』実は「經立」のルビは底本では『ツイタテ』である。「変だな」と感じて、初出を見ると、正しく(後述)『猿の經立(フツタチ)』となっているので、特異的に訂した。因みに初出「御犬」に『オイヌ』とルビしてある。さてもこれは、柳田國男が佐々木喜善の採取したものを書き改めた「遠野物語」(本記事初出の五ヶ月前の明治四三(一九一〇)年六月十四日に『著者兼發行者』を『柳田國男』として東京の聚精堂より刊行された)の一節で、私はブログカテゴリ「柳田國男」で原本の電子化注を終わっているのである。だから「原点と違う読みだな」と直ちに思ったのである。当該部は、『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 三六~四二 狼』で、以下が本文である。

   *

三六 猿の經立(フツタチ)、御犬(オイヌ)の經立は恐ろしきものなり。御犬(オイヌ)とは狼のことなり。山口の村に近き二ツ石山(フタイシヤマ)は岩山なり。ある雨の日、小學校より歸る子ども此山を見るに、處々(トコロドコロ)の岩の上に御犬(オイヌ)うずくまりてあり。やがて首を下(シタ)より押上(オシア)ぐるやうにしてかはるがはる吠(ホ)えたり。正面より見れば生(ウ)まれ立(タ)ての馬の子ほどに見ゆ。後(ウシロ)から見れば存外(ゾングワイ)小さしと云へり。御犬のうなる聲ほど物凄く恐ろしきものは無し。

   *

リンク先の私の注も、是非、読まれたい。

『「ウツド」氏の動物圖譜』博物学的読本を多数書いたイギリスの作家ジョン・ジョージ・ウッド(John George Wood 一八二七年~一八八九年)の「Illustrated Natural History」である。但し、挿絵は彼が描いたものではなく、イギリスの画家熱心な動物愛好家でもあったハリソン・ウィリアム・ウィアー(Harrison William Weir 一八二四年~一九〇六年)他である。

『「コルスン」(Cuon dukhuensis. 印度の西疆に產する野犬也、能く群團して猛虎を殺すを以て著名也、此獸、體色赭く[やぶちゃん注:「あかく」。]、足喙耳と尾尖黑しと有れど本草綱目に、黃腰獸、豹より小さく、腰以上は黃、以下は黑し、形ち犬に類す、小なりと雖も能く虎と牛鹿を食ふと云るは、此獸の事を多少誤聞せる記載かとも思はる)の圖』「Internet archive」の「Illustrated Natural History」のここの右ページの図と解説(次のページにまで及ぶ)である。図のキャプションは「KHOLSUN, OR DHOLE.— Cuon Dukhuensis.」となっている。但し、この学名は不審。検索自体で全くかかってこないから、現在はシノニムでさえない。本種は食肉目イヌ科ドール属ドール Cuon alpinus である。ウィキの「ドール」によれば、別名をアカオオカミとも呼ぶ。現在はインド・インドネシア(ジャワ島・スマトラ島)・カンボジア・タイ王国・中華人民共和国・ネパール・バングラデシュ・ブータン・マレーシア(マレー半島)・ミャンマー・ラオスに分布するが、生息数は減少している。頭胴長は七十五センチメートルから一・一三メートル、尾長は二十八~五十センチメートル、肩高は四十二~五十五センチメートルで、体重は♂で十五~二十ログラム、♀で十~十七キログラム。『背面は主に赤褐色、腹面・四肢の内側は淡褐色や黄白色』を呈し、『尾の先端は黒い個体が多いが、先端が白い個体もいる』。『鼻面は短い』。『門歯が上下』六『本ずつ、犬歯が上下』二『本ずつ、小臼歯が上下』八『本ずつ、大臼歯が上下』四『本ずつの計』四十『本の歯を持』ち、『上顎第』四『小臼歯および下顎第』一『大臼歯(裂肉歯)には、歯尖が』一『つしかない』、『指趾は』四『本』。『乳頭の数は』十二~十六個である。『一次林』(原生林)『や二次林』(火災などの後の再生林)、『乾燥林から湿潤林、常緑樹林から広葉落葉樹林・針葉樹林など様々な森林に生息し、草原や森林がパッチ状に点在する環境やステップにも生息する』。『朝や夕方に活発に活動するが』、『夜間に活動する事もある』。五~十二『頭からなる』、『メスが多い家族群を基にした群れを形成し』て『生活するが』、二十から四十頭の『群れを形成する事もある』。『狩りを始める前や』、『狩りが失敗した時には互いに鳴き声をあげ、群れを集結させる』、『群れは排泄場所を共有し、これにより』、『他の群れに対して縄張りを主張する効果があり』、『嗅覚が重要なコミュニケーション手段だと考えられている』。『シカ類・レイヨウ類も含むウシ類・イノシシなどを食べる』。『齧歯類や爬虫類、昆虫、果実などを食べることもある』。『自分たちで狩った獲物や、他の動物が狩った動物の死骸も食べる』。『獲物は臭いで追跡し』、『丈の長い草などで目視できない場合は』、『後肢で直立したり』、『跳躍して獲物を探す事もある』。『茂みの中で横一列に隊列を組んで獲物を探しつつ追い立て、他の個体が開けた場所で待ち伏せる』。『大型の獲物は背後から腹や尻のような柔らかい場所に噛みつき、内臓を引き裂いて倒す』。『群れでトラやヒョウなどから獲物を奪う事もある』。『インドでは』九月から十一月に『交尾を行』い、『妊娠期間は』六十日から七十日で、十一月から翌年の四月にかけて出産し、一度に二頭から九頭を産む。『繁殖は群れ』の内でただ一頭の♀のみが行い、授乳期間は二ヶ月、『群れの他の個体が母親や幼獣を手助けし』、『獲物を吐き戻して与える』。『幼獣は生後』十四『日で開眼する』。生後七十~八十日で『巣穴の外に出』、生後五ヶ月で『群れの後を追うようになる』。生後七~八ヶ月で『狩りに加わる』。『生後』一『年で性成熟する』とある。

「本草綱目に、黃腰獸、豹より小さく、腰以上は黃、以下は黑し、形ち犬に類す、小なりと雖も能く虎と牛鹿を食ふと云るは、此獸の事を多少誤聞せる記載かとも思はる」「本草綱目」(「獸部第五十一卷」の「獸之二」)の記載は以下。独立項ではなく、「虎」の項の「附錄」の項に添えられてある。この点でも如何にも怪しげな記載であって、同じく虎を襲って殺す虎に似た「酋耳」(しゅうじ)、西域の野生の犬で虎を食うとする「渠搜」(りょうそう)というけったいな妖獣の後に、

    *

黃腰【「蜀志」に黃腰獸と名づく。鼬の身、貍の首、長ずるに、則ち、母を食ふ。形、小なりと雖も、小にして能く、虎、及び、牛・鹿を食ふ。又、孫愐(そんめん)云はく、「豰。音『斛』。豹に似て小なり。腰以上は黃なり。以下は黑し。形、犬に類して、獼猴(びこう)を食ふ。黃腰と名づく」と。】

    *

と記されてある。熊楠はその獰猛さを「多少誤聞せる記載か」とわざわざ述べているが、しかし、前の「ドール」の引用から判る通り、牛・鹿を襲うのは当たり前で、小型の弱った虎ならば、集団で襲い得る気がしている。虎ではなかったが、ドールが集団の狩りの様子を映像で見たことがあり、各個体自体の大きさより遥かに大きな畜類(牛の類だったと思う)を襲って、見事に成功していた。

「𤲿家川島友吉」(明治一三(一八八〇)年〜昭和一五(一九四〇)年)は日本画家。号は草堂。田辺生まれ。絵は独習。酒豪で奇行が多く、短気であったことから、「破裂」の別号もあった。熊楠とは明治三五(一九〇二)年に双方の知人の紹介で出逢い、以後、熊楠の身辺近くにあって、菌類の写生の手伝いもしたらしい。大正九(一九二〇)年の高野山植物調査にも同行している。日高の宿屋で客死した(以上は所持する「南方熊楠を知る事典」(一九九三年刊講談社現代新書)の記載に拠った)。

「碧山日錄卷一、長祿三年四月五日、攝州太守幸公與春公相率而來、予以禮侍之、余有一石、高峻而成双尖、幸公曰、金吾宗全之孫、其呼爲次郞者、好鶺鴒而籠之、此鳥以石爲居也、然無貢者、此石可以當之云、固有欲之々色、乃納之、幸公悅之と記せり」「碧山日録」は「へきざんにちろく」と読み、室町時代の東福寺の僧雲泉太極の日記。同書のウィキによれば、『東福寺の境内に「碧山佳拠」と呼ばれる草庵があり、それが名前の由来となっている』。記述は長禄三(一四五九)年から応仁二(一四六八)年に及び、寛正元年・文正元年・応仁二年などの『記述が欠落しているものの、長禄』から『応仁年間に言及した史料は希少であり、また筆者の立場上』、『寺院の運営、僧侶の仕事や生活に関する記述も見られるため、室町時代後期を検証する史料として貴重である』。『内容は太極の生活や私事と、僧侶としての渉外などの公務が中心となっている』が、『古代の名僧の伝記や語録の抜粋や、教典に対する太極の解釈や考証、絵画や書物の鑑賞も含まれている他、詩の覚書にも使われている』。『文正、応仁の頃の紊乱した世情が活写されており、この頃』に『台頭してきた足軽や、下層市民に関する記述が豊富』で、『中でも山城国木幡郷の郷民の活動や、清水寺の勧進僧が民衆に施した救済に関する記述は注目されている』。『それぞれの記事の末尾に「日録云」と称して、記事の要点の摘出と、太極自身の記事に対する感想を述べていることが特徴である。記事に付属する太極の論評』という形式には、「史記」を『初めとする古文書の影響があったと考えられている』という。『文体はかなり熟達しており、鮮明な個性と独特の雰囲気を醸し出しているが、それゆえに晦渋な点も多く、太極自身の経歴に不詳な点が多いことも、難解さに拍車をかけている』とある。平凡社「選集」版が訓読しているので、それを参考(従えない箇所が複数ある)に以下に訓読しておく。

   *

 長祿三年四月五日、攝州の太守、幸公、春公と相ひ率(ひき)いて來たる。予、禮を以つて、之れを侍(もてな)す。余に一石(いつせき)有り、高峻にして、双尖(さうとつ)を成す。幸公曰はく、

「金吾宗全の孫、其れ、呼んで、次郞と爲す者、鶺鴒(せきれい)を好みて、之れを籠(かごか)ひ、『此の鳥、石を以つて居(きよ)と爲すなり。然(しか)れども、貢(すすむにた)る者、無し』と。此の石、以つて之れに當(あ)つべし。」

と云ひ、固(もと)より、之れを欲するの色、有り。乃(すなは)ち、之れを納(い)る。幸公、之れを悅ぶ。

   *

「長祿三年」は一四五九年。「攝州の太守、幸公」不詳。識者の御教授を乞う。「春公」不詳。同前。「金吾宗全の孫」で「次郞」というのは山名政豊(嘉吉元(一四四一)年~明応八(一四九九)年?)のことか? 父は山名宗全の嫡男山名教豊。但し、或いは宗全の子で教豊の養子であったともされる。彼の幼名は小次郎である。

「淡路志筑町の海岸へ、每年土用に、甲の幅三尺餘の大龜、一定の場所に來り、產卵するを、町民神として敬ふ」調べてみたが、残念なことに、今はやって来てはいないようである。

「續群書類從卷卅所收、八幡愚童訓卷下に、淀の住人八幡に參り祈りしに、寶藏の内より大なる百足這懸りければ、是れ福の種也と仰ゐで、袖に裹んで宿所へ還り、深く崇め祝ひしに、所々より大名共來て問丸と爲り、當時迄淀第一の德人也と見え」「八幡愚童訓」は鎌倉後期に成立した石清水八幡宮の霊験記。作者未詳。本地垂迹説に従って書かれており、内容が大きく異なる多種の異本が現存する(まさに探すのに、それらに嵌ってしまって往生した)。国立国会図書館デジタルコレクションで写本(但し、非常に状態がよい)でやっとここに見つけた。カタカナをひらがなにし、句読点・記号を添え、一部に推定で読みを添えた。

   *

 淀の住人あり、世間、合期(がふご)せざりけるを[やぶちゃん注:時流に乗って上手く商売をすることが出来ずにいたが。]、測らざるに、安居頭(あんごのとう)[やぶちゃん注:陰暦十二月十三日から十三日までの間、石清水八幡宮に籠って精進潔斎する神事の際に選ばれて主役となる者。]さゝれたりければ、

「身にては叶ふまじき事なれども、神の御計(おんはからひ)にこそ有らめ。」

とて、すべていたます夫妻共に精進して、參宮して祈請しける程に、宝殿の内より大なり[やぶちゃん注:ママ。]百足、這はひかゝりければ、

『是れ、福の種なり。』

と、仰(あふぎ)て、袖につゝみて、宿所にかへり、深く崇め祝けり。

 誠の神思(しんし)にて有(あり)けるにや、所々より、大名ども、來(きたり)て問丸(とひまる)となりける程に、多(おほく)、德づきて、安居勤仕(ごんし)するのみにあらず、當時まで、淀㐧一の德人也。

 是は、心も誠あり、物をも賤(いやし)くせねば、内外相應の利生(りしやう)也。

   *

ここに出る「問丸」は、鎌倉から戦国時代、港町や主要都市で,年貢運送管理や中継取引に従事した業者を指す。平安末期の頃から、淀・木津・坂本・敦賀など、荘園領主の旅行に当たって、船などを準備する問丸が見られ、鎌倉時代になると、荘園の年貢米の運送・陸揚・管理に当たる問丸が現われ、荘園領主から「得分」 (問給・問田)を与えられていたものが、次第に商業的機能を帯び出し、やがて、独立の業者となった。貢納物の販売に当たって手数料として問料 (といりょう) を取り、さらに貢納物から商品の取引を専門とするよう転じて行った。戦国時代の問丸には、港町の自治を指導し、外国貿易に参加する豪商が出たり、遂には、運送などの機能を捨て、純粋な卸売業となり、配給機構の中核を構成するようになった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「神宮雜用先規錄卷下に、皇太神宮神主荒木田氏の祖の名を列せる中に、牟賀手有り」「神宮雜用先規錄」「宮内庁書陵部図書寮文庫蔵」の電子データの同書の「45」コマ目の右頁一行目に、

   *

荒木田牟賀手己波智賀祢子

   *

とある(父の名は「40」コマ目末尾も確認されたい)。

「越中放生津の諏訪社に白蛇あり、諏訪樣と名く、蟹多く引連れ出で遊ぶ、澤蟹多く出て諸人を迎ふるは、此地の不思議にて、大要使はしめと云ふ者に似たりと、三州奇談後篇一に見ゆ」「三州奇談」は加賀・能登・越中、即ち、北陸の民俗・伝承・地誌・宗教等の奇談を集成したもので、金沢片町の蔵宿(くらやど:藩の年貢米の売却のために置かれた御用商人)の次男で、金沢の伊勢派の俳諧師で随筆家(歴史実録本が多い)の堀麦水(享保(一七一八)年~天明三(一七八三)年)が、先行する同派の俳諧師麦雀(生没年未詳。俗称、住吉屋右次郎衛門)が蒐集した奇談集を散逸を憂えて再筆録したものとされる。完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定される。正編五巻九十九話・続編四巻五十話で全百四十九話からなる。私は既にブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を終わっている。当該話は正しくは「後篇」ではなく「續編」で、「三州奇談續編卷之一 靈社の御蟹」である。ガッツリと注も附してある。

「蜻蜓類聚名物考卷二五八、錢を數ふる異稱の條々、禮家に云傳るは、蜻蛉結びを武家に用ゆ、此虫を將軍虫と云ふとあり」「類聚名物考」は複数回既出既注であるが、最後なので再掲しておくと、江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で同刊本を視認したところ、ここに発見した(巻二百五十八の「調度部十五」の「財貨(金銀錢)」の内の「錢を數ふる異稱」の条中に、

   *

四錢、羽はね、禮家に云ひ傳ふるハ蜻蛉結を武器に用る此虫を將軍虫と云ふその羽四ツなる故云には出る所不詳

   *

とあるのを指す。

「蜻蛉を勝ち蟲と名け、武士の襦袢等の模樣に用ゆ」和装小物の「かくいわ芝田」のサイトのこちらに、『トンボは素早く飛び回り』、『害虫を捕らえ、また』、『前にしか進まず』、『退かないところから「不転退(退くに転ぜず、決して退却をしない)」の精神を表すものとして、「勝ち虫」と呼ばれ、縁起物として武士に喜ばれ』て、『戦国時代には兜や鎧、箙(えびら)刀の鍔(つば)などの武具、陣羽織や印籠の装飾に用いられた』とある。

「神武帝蜻蛉に依て國に名け玉し事あり」「日本書紀」第三巻の神武天皇三十一年(辛卯)(機械換算紀元前六三〇年)四月乙酉朔の条に(訓読は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年岩波書店刊黒板勝美編「訓讀 日本書紀 中卷」を参考にした)、

   *

三十有一年夏四月乙酉朔。皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘。而𢌞望國狀曰。妍哉乎國之獲矣【妍哉此云鞅奈珥夜】。雖内木錦之眞迮國。猶如蜻蛉之臀呫焉。由是始有秋津洲之號也。

   *

三十有一年夏四月乙酉(きのととり/いついう)朔(ついたち)、皇(すめらみこと)輿巡幸(めぐりいでま)す。因りて、腋上嗛間丘(わきのかみのほほまのをか)に登りまして、國の狀(かたち)を𢌞望(めぐらしお)せりて曰(のたま)はく、「妍(あなにゑ)や、國の獲(み)えつ【「妍哉」、此れをば「鞅奈珥夜(あなにゑや)」と云ふ。】。内木錦(うつゆふ)の眞迮國(まさのくに)と雖も、猶ほ、蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)のごとくもあるか。是れに由りて、始めて「秋津洲(あきつしま)」の號(な)有り。

   *

この「腋上嗛間丘」は一説に奈良県御所市柏原の国見山(グーグル・マップ・データ)に比定されている。「臀呫(となめ)」は蜻蛉の雌雄が交尾して、互いに尾を咥え合って輪になって飛ぶことを指す。

「雄略帝、此蟲が蟲を誅せしを褒め云ひし事も有り」「日本書紀」の雄略天皇四年(機械換算四六〇年)の以下。訓読は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年岩波書店c刊黒板勝美編「訓讀 日本書紀 中卷」の当該部を参考にした。

   *

秋八月辛卯朔戊申、行幸吉野宮。庚戌、幸于河上小野。命虞人駈獸、欲躬射而待、虻疾飛來、噆天皇臂、於是、蜻蛉忽然飛來、囓虻將去。天皇嘉厥有心、詔群臣曰「爲朕、讚蜻蛉歌賦之。」群臣莫能敢賦者、天皇乃口號曰、

野麼等能 嗚武羅能陀該儞 之々符須登 拕例柯 舉能居登 飫裒磨陛儞麻嗚須【一本、以飫裒磨陛儞麼鳴須、易飫裒枳彌儞麻嗚須。】 飫裒枳瀰簸 賊據嗚枳舸斯題 柁磨々枳能 阿娯羅儞陀々伺【一本、以陀々伺、易伊麻伺也。】 施都魔枳能 阿娯羅儞陀々伺 斯々魔都登 倭我伊麻西麼 佐謂麻都登 倭我陀々西麼 陀倶符羅爾 阿武柯枳都枳 曾能阿武嗚 婀枳豆波野倶譬 波賦武志謀 飫裒枳瀰儞磨都羅符 儺我柯陀播 於柯武 婀岐豆斯麻野麻登【一本、以婆賦武志謀以下、易舸矩能御等 儺儞於婆武登 蘇羅瀰豆 野磨等能矩儞嗚 婀岐豆斯麻登以符」。】

因讚蜻蛉、名此地爲蜻蛉野。

   *

 秋八月辛卯(かのとう/しんばう)朔戊申(つちのえさる/ぼしん)[やぶちゃん注:十八日。]、吉野宮に行幸(みゆきまし)ます。庚戌(かのえいぬ/しんじゆつ)[やぶちゃん注:二十日。]、河上小野(かはかみのをぬ)の幸(いでま)ます。虞人(かりうど)に命(おほ)せて獸(しし)を駈(か)らしめ、

「躬(みづか)ら射む。」

と欲して待ちたまふに、虻(あむ)、疾(と)く飛び來たりて、天皇(すめらみこと)の臂(ただむき)を噆(く)ふ。

 是(ここ)に於いて、蜻蛉(あきつ)、忽然(たちまち)に飛び來たりて、虻を囓(く)ひて將(も)て去(い)ぬ。

 天皇、厥(そ)の心有るをことを嘉(よろこ)びたまひて、群臣(まへつぎみたち)に詔(みことの)りして曰(のたま)はく、

「朕(あ)が爲めに、蜻蛉(あきつ)の讚(ほ)め歌、賦(よ)みせよ。」

 群臣、能く敢へて賦(よ)む者莫し。

 天皇、乃(すなは)ち、口づから號(うた)はれて曰はく、

倭(やまと)の 峰群(おむら)の嶽(たけ)に 猪鹿(しし)伏すと 誰(たれ)か このこと 大前に奏(まを)す【一本、「おほまへにまをす」を以つて、「おほきみにまをす」に易へたり。】 大君は そこを聞かして 玉纏(たままき)の 胡床(あぐら)に立たし 倭文纏(しづまき)の 胡床(あぐら)に立たし【一本、「たたし」を以つて、「いまし」に易へたり。】 猪鹿待つと 我がいませば さ猪(ゐ)待つと 我が立たたせば 手腓(たくふら)に 虻(あむ)かきつきつ その虻を 蜻蛉(あきつ)早(はや)咋(く)ひ 這ふ蟲も 大君(おほきみ)に順(まつら)ふ 汝(な)が形(かた)は 置かむ 蜻蛉嶋倭(あきつしまやまと)【一本、「はふむしも」を以て、「かくのこと なにおはむと そらみつ やまとのくにを あきつしまといふ」に易へたり。】

 因りて蜻蛉(あきつ)を讚(ほ)めて、此の地(ところ)を名づけて「蜻蛉野(あきつの/あきつしま)」と爲さしむ。

   *]

 

 

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(追加発表「附記」分)

[やぶちゃん注:以下は、底本「南方隨筆」にはなく、平凡社「選集」(第三巻・一九八四年刊)に附帯する。資料としては、これを外すのは適切とは思われないため、特異的に加えることとした。調べたところ、これは熊楠が明治四四(一九一〇)年三月発行の『東京人類學會雜誌』六二巻三百号に発表した名論文『西曆九世紀の支那書に載たる「シンダレラ」物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較研究)』の末尾に附されたものであることが判り、しかも幸いにして「j-stage」のこちらPDF)で同初出論文原文全文が視認出来ることが判ったので、それを元に電子化した。但し、この前の記載の書誌書式に合わせて最後の丸括弧部を補ったことをお断りしておく。初出誌では同論文の最後に全体が一字下げで記されてあり、最終行には下方に『(完)』(上記論文の「完」である)とある。]

   *

附記、本誌二九一號に、予が載たる野槌に似たる事、橘南谿の西遊記卷一に出づ、其略に云く、肥後の五日町、求麻川端の大なる榎木の空洞に、年久しく大蛇住り、時々出で現はるゝを見れば病むとて、木の下を通る者必ず低頭す、太さ二三尺、總身白く、長さ纔に三尺餘、譬ば[やぶちゃん注:「たとへば」。]犬の足無き如く、又芋蟲に似たり、土俗之を一寸坊蛇と云ふ、下略、(明治四十四年三月人類第六二卷三百號)

 

[やぶちゃん注:江戸後期の医者で紀行家であった橘南谿(宝暦(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行記「西遊記」(寛政七(一七九五)年初版刊行後、三年後には続篇も書いている。「東遊記」と合わせて、優れた奇事異聞集となっている)の、巻之一に続けて出る「榎木の大虵(だいじや)」で、呼称から見ても「野槌」である。私の知見のお節介で、既に「野槌」の冒頭注で全電子化をして注も附してある。されば、最後はすっきり綺麗に終わることが出来た。]

2020/12/27

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(初出追記分)

 

[やぶちゃん注:初出の最後に附された「追記」である。底本では、以下は標題の「追記」(ポイント大太字)を除いて、ポイント落ちで、全体が一字下げになっている。]

 追記 ○狸、熱田の大神は狸を愛し玉ふにや、師長公社前に琵琶を奏でし時、明神白狸に騎し現れ玉ひしと、源平盛衰記卷十二に見ゆ。

 建部綾足の折々草、夏の上の卷に、信濃の人野守てふ虫を殺せし話有り、頭は常なる小蛇の樣にて、指六つある足六所に附き、長さ一丈に足ざるに、太さ桶の如く頭尾遙かに細し、惡臭を放つ、と。野守は野槌と等しく、野の主の意なるべし、本文列擧せる諸例と併せ考ふべし、又斯る蛇の譚、西半球にも古くより存せし證は、十六世紀に、西班牙[やぶちゃん注:「スペイン」。]の「アルヅール、ヌニエツ」艦隊を率ひ[やぶちゃん注:ママ。]秘露[やぶちゃん注:「ペルー」。]に入し時、八千戶有る一村に圓塔あり、一大怪蛇これに棲み、戰死の尸[やぶちゃん注:「しかばね」。]を享け食ふ、魔此蛇に託して豫言を發すと信ぜらる、其蛇長二丈五尺、胴の厚さ牛の如く、眼頗る小にして輝くこと、頭至て厚く短きに相應せず、齒鐡の如きが二列有り、尾滑かなれども他は悉く大皿樣の巨鱗もて被はる、兵士之を銃擊するに及び、大に吼え、尾を以て地を叩き震動せしむ、一同大に驚きしが、遂に之を殺し了ると云へり(F. N, del Techo, ‘The History of Paraguay’ etc. in Churchill. op.cit. vol. vi, 1752. p. 14.) 既に東西兩半球に斯く迄相似たる譚多きを攷れば、野槌の誕[やぶちゃん注:「はなし」。]は、例令[やぶちゃん注:「たとひ」。]多くの虛言を混じ有るにせよ多少の事實に基けるを知るべし。

            (明治四十三年七月、第二五卷)

 

[やぶちゃん注:「師長公社前に琵琶を奏でし時、明神白狸に騎し現れ玉ひしと、源平盛衰記卷十二に見ゆ」「師長」は藤原師長(保延四(一一三八)年~建久三(一一九二)年)。安元三(一一七七)年、従一位・太政大臣。治承三(一一七九)年の平清盛のクーデターで、清盛によって関白松殿基房とともに解官された上、師長は尾張国井戸田に流罪に処された。その後、出家し、三年後に帰京を許された。彼は源博雅と並ぶ平安時代を代表する音楽家として知られ、ここで見る通り、殊に箏・琵琶の名手であった。指示するのは同巻の「師長熱田社琵琶事」。やや長いが、電子化する。所持する(平成五(一九九二)年三弥井書店版刊)「源平盛衰記(二)」で確認した。カタカナをひらがなに直し、漢字を正字化し、漢文表記部は訓読し(詩賦では白文を掲げ、後に推定訓読を施した)、句読点・記号・改行も増やして示す。踊り字「〱」は正字化した。一部表記を別本で変えた。

   *

 或夜當國第三宮、熱田の社に詣し給へり。年へたる森の木間より、漏り來(きたる)月のさし入て、緋玉垣色をそへ、和光利物の榊葉に、引立標繩(しめなは)の兎(と)に角(かく)に、風に亂るゝ有樣、何事に付ても、神さびたる氣色也。此宮と申は、素盞烏尊、是也。始は出雲國の宮造りして、八重立(たつ)雲と云三十一字の言葉は、此御時より始れり。景行天皇御宇に、此砌に跡をたれ給へり。

 師長公、終夜、神明、納受爲し、初には、法施を手向奉り、後には琵琶をぞ彈じ給ける。調彈數曲を盡し、夜漏、深更に及て、「流泉」・「啄木」・「揚眞藻」の三曲を彈じ給處に、本より無智の俗なれば、情を知人希也。邑老・村女・漁人。野叟、參り集り、頭を低(うなだれ)、耳、欹(そばだつ)といへども、更に淸濁を分ち、呂律を知事はなけれども、瓠巴、琴を彈ぜしかば、魚鱗、踊躍(をどりをどり)き。虞公、歌を發せしかば、梁塵、動搖(うごきうごき)けり。物の妙を極る時は、自然の感を催す理にて、滿座、淚を押へ、諸人袂(たもと)を絞けり。增て神慮の御納受、さこそは嬉く覺すらめ。曉係(かえ)て吹(ふく)風は、岸打波にや通(かよふ)らん、五更の空の鳥の音も、旅寢の夢を驚す。夜も、やうやう、あけぼのに成行ば、月も西山に傾く。大臣、御心をすまして、初には、

 普合調中花含粉馥氣 流泉曲間月擧淸明光

 (普合の調中 花 粉馥(こふく)たる氣を含み

  流泉の曲間 月 淸明たる光を擧ぐ)

と云朗詠して、重て、

  願以今生世俗文字業狂言綺語之誤 飜爲當來世々讃佛乘之因轉法輪之緣

  (願はくは 今生 世俗の文字の業 狂言綺語の誤りを以つて

   飜りて 當來 世々讚佛乘の因轉法輪の緣を爲さんと)

詠まれて、御祈念と覺しくて、暫物も仰られず。

 良ありて、御琵琶を搔寄て、「上玄」・「石象」と云祕曲を、彈澄(すまし)給へり。其聲、凄々切々として、又、淨々たり。嘈々竊々(さうさうせつせつ)として錯雜彈、大絃・小絃の金柱の操、大珠・小珠の玉盤に落るに相似たり。

 御祈誓の驗にや、御納受の至か、神明の感應と覺(おぼし)くて、寶殿、大に動搖し、襅振(ちはやふる)玉の簾のさゞめきけり。靈驗に恐て、大臣、暫、琵琶を閣(さしおき)給けり。

 神明、白狸に乘給、示して云、

「我、天上にしては文曲星と顯て、一切衆生の本命元辰として是を化益し、此國に天降ては、赤靑童子と示して、一切衆生に珍寶を與(あたふ)、今、此社壇に垂跡して、年、久(ひさし)。而を、汝が祕曲に堪へず、我、今、影向せり。君、配所に下り給はずは、爭(いかでか)此祕曲を聞べき。歸京の所願、疑なし。必ず、本位に復し給べし。」

と御託宣(ごたくせん)有て、明神、上らせ給たりしかば、諸人、身毛、竪(よだち)て、奇異の信心を發す。

 大臣も、

「平家、係る惡業を致さずは、今、此瑞相を拜し奉るべしや、災は幸と云事は、加樣(かやう)の事にや。」

と、感淚を流し給(たまひ)ても、又、末、憑しく[やぶちゃん注:「たのもしく」。]ぞ覺しける。

   *

「建部綾足の折々草、夏の上の卷に、……」以下は、既に起項されてある「野槌」の疑似生物の追加情報。「折々草」は、江戸中期の俳人・小説家・国学者で絵師でもあった建部綾足(享保四(一七一九)年~安永三(一七七四)年)が明和八(一七七一)年に書いた随想的奇談集。当該話は「夏の部」の「野守とふ蟲の事」。国立国会図書館デジタルコレクションの明治四一(一九〇八)年冨山房「袖珍名著文庫」版(幸田露伴校訂)の当該話を視認して示す。加工用として、所持する「岩波新古典文学大系」版を読み込んだものを用い、また校合や語注の参考にもした。句読点を変更したり、増やしたりし、段落を成形した。記号も添えた。読みは一部に留めた。踊り字「〱」は正字化した。電子化しながら、『露伴なら、きっとここは書き換えるよな』と思う箇所がしっかり変わっているので、面白かった。

   *

 信濃なる松代(まつしろ)[やぶちゃん注:現在の長野県長野市松代町はここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。現在の松城城のある市街地の、北東部や南部は現在、同じ松代町を冠するが、結構、山深い。]に住む人、來(き)て、かたりき。

 其邊(わたり)の山里に、名高き力雄(ちからを)の侍りて、相撲(すまひ)なども取步(とりあり)きけるが、水無月ばかり、是(これ)が友どちと二人、山に入りて、柴刈りて侍る歸途(かへさ)に、淸水の流出(ながれいで)たる細道の、眞葛、這廣(はひひろ)ごりて、怪しき木蔭の侍る所を來(く)るに、一人の男は先に立ちて行き、かの力雄は、後(しり)に立ちて、刈りたる柴どもは、物に結附(ゆひつ)けて振り擔(かた)げたり。

 下る道なりしかば、彼(か)の難しき邊(わたり)を走り來るに、何にかあらむ、物踏みたる心地するに、眞葛原、騷立(さわぎた)ちて、桶の丸(まろ)さばかりなるが、起返(おきかへ)りて、足より肩に打ち掛けて、

「くるくる」

と卷きておぼゆるに、見れば、頭(かしら)は、犬などよりも大きく見ゆるが、眼(め)の光、異(あや)しく、我咽(のんど)を狙ふにや、高々と、さし上げたり。

 又、尾とおぼしきは背(そびら)をめぐりて、肩を打こして臍(ほぞ)の邊(あたり)まで卷きしめて侍り。

 此男(をのこ)、勇(いさ)みたるものなれば、事ともなくおもひて、

『是は、大蛇(おろち)なり。いで、口より引裂(ひきさ)かさむ。』

と、おもひて、荷(にな)ひたる柴をば放ち、左の手を伸べて、下の腮(あぎと)を、

「ひし」

と、とらへ、右の手して、上の腮をにぎりて、引裂かむとするに、叶はず。

 鎌は持ちたりしかど、先(さき)なる男の腰に挿(さ)させたれば、此所(こゝ)には有らず。

『さるにても、いづち、行けむ。』

と、おもひて、大聲をあげてよべば、是は、いと甲斐なき男(をのこ)にて、爾(しか)見るより、かたへなる木にのぼりて

「あや、あや。」

と見居たるが、

「此所(こゝ)なり。」

と、いふ。

「汝(おのれ)、言甲斐(いひがひ)なき者かな、其腰に挿したる鎌なむ、おこせよ。此奴(こやつ)、さいなまむ。」

と、いへば、なほも、木の末(うれ)[やぶちゃん注:木の枝。]に居りながら、鎌は拔きて、投下(なげおろ)したり。

 扨、足を上げて、下の腮(あぎと)を踏固(ふみかた)め、左の手にて、上の顎(あぎと)を持代(もちか)へて、右の手に鎌を握りて、

「や。」

と、聲をかけて、口より咽(のんど)をかけて二尺(ふたさか)ばかり斬り裂くに、苦しくや有りけむ、締めたる尾先を緩めて、ある限り、さし伸べて、地を打叩(うちたゝ)く事、五度(いつわたり)ばかりす。

 其響(ひゞき)、木魂(こだま)に答へて鳴動(なきとよ)めり。

 さて、見たる此僻物(くせもの)は、いと弱りて侍るに、鎌を上げて、三段(みきだ)、四段(よきだ)に、切離(きりはな)ちぬ。

 頭(かしら)は常なる小蛇(をろち)の樣(さま)にて、指の六(む)つある足なむ、六所(むつどころ)に附きたり。丈(たけ)は一丈(ひとたけ)ばかりに足らず、周圍(まはり)の太き所は、桶ばかりも侍りて、頭の方(かた)、尾の方は、遙(はるか)に細やかなり。

 扨、頭よりはじめ、尾の邊(あたり)は、傍(かたへ)なる谷に打込(うちこ)み、中にも太き所をば荷ひて、

「今日の名譽(ほまれ)を親にも見せ、所の者共をも驚かさむ。」

とて、持(も)て歸りにけり。

 親は甚(いた)く老いて侍るに、待ちつけて、

「などて、今日は、遲かりし。」

と、いふに、かの一丸[やぶちゃん注:大系版『ヒトマロ』とルビする。一塊り。]なるを取(とうで)ゝ[やぶちゃん注:ママ。]、

「斯(かゝ)るめ見しが、惡(にく)く思ひて、かく、斬責(きりさいなみ)て侍る。彼(あれ)、見給へ。」

とて、出(いだ)す。

 親、驚きて、

「よからぬ事をば、しつる。是は山の神ならむ。必(かならず)、祟(たゝり)いで來(こ)なむ。己(おのれ)が、子とは、思はず。家に、な入りそ。」

とて、おひ出しけるほどに、此男は、

「譽られむとて、持(も)て來つるを、思(おもひ)の外にも侍るかな。何(なに)の山の神ならむ、人を食はんずる奴は、たとへ、神にまれ、命(いのち)は取るべし。さるを、かく、懲らし給ふは、己が親にても、おはさじ。」

など、言爭(いひあらそ)ふを、里長(さとをさ)の來り合せて、彼(か)や斯(か)く言宥(いひなだ)めてけり。

 さて、其切りて持(も)たるをば、

「見む。」

と言ふ方へは遣はし、一日(ひとひ)も二日(ふたひ)も歷(ふ)る程に、いと臭くありつれば、捨てつ。

 此男も、いと臭き香(か)の移りて、着たる物どもをば、取捨(とりす)て、手も足も洗へども、更に其香の去らで、これには、惱みけるを、醫師(くすし)の良き藥を與へて後(のち)は、其香、やうやう、去りしとぞ。

 又、其醫師の言ふは、

「是は野守とて、大蛇(をろち)の類(たぐひ)にもあらず。」

と申せしよし。

 世に、井守、屋守などいふ蟲の、野に侍るまゝに、「野守」とは言ひけん。

 又、此男には何の報(むくい)も侍らざりしが、三とせ經て後(のち)、公(おほやけ)より、占置(しめお)かれし山に入りて、宮木を盜みたる罪の顯れ侍るによりて、命(いのち)を召れけり。

「是は、其(それ)が復讐(あだ)したる也。」

と、人々、いひはやしける、となむ。

   *

「F. N, del Techo」ニコラス・デル・テチョ(Nicolás Del Techo 一六一一年~一六八五年)はパラグアイの宣教師・歴史家。この驚くべき話はちょっと飛び散って来る一片も信じ難いのだが、何か、妙に具体で、象徴的な別の凄惨な事実を謂うているようにも感ずる。]

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(27:田螺)

 

 ○田螺、此物多少神異とせられしにや、常山紀談(續帝國文庫本六三七頁)に大阪陣に田螺を以て軍の勝負を占せし由を載せ、武備志にも此兆を出したりとあり、日本支那のみならず、柬埔寨[やぶちゃん注:「カンボジア」。]にも行はるゝこと、予の ‘On Augury from Combat of Shellfish,’ Nature c. 1897. に出せり、又之に就て、或る印度人同雜誌に寄書して、ボルネヲにも此占法有りと報ぜり、又奧羽永慶軍記卷卅六に、羽州山北の城主小野寺義通封を奪はれし前に、其小姓早朝登城の途中、大手門内の池より、大石を引出せる如く一尺餘り積れる初雪を左右に分ち、土を顯はしたる跡あるを慕ひ行くに、土堰を上り、塀三重を打破り坪の中に入て雪垣を破り、椽より上り座敷に入れる跡有り、入て見るに床の上に五尺許りの丸き物有て磐石の如し、能く能く見ると田貝と云ふ物也、元の池え[やぶちゃん注:ママ。]捨るに、六七人にて持行けり、翌年、城主遠流と成ると、田貝は蚌[やぶちゃん注:「どぶがひ」或いは「からすがひ」。]かと思へど、既に丸しといひ、這ひ行きしと云へば、是も田螺を指せると見ゆ。

 

[やぶちゃん注:腹足綱新生腹足上目原始紐舌目タニシ科Viviparidae に属する巻貝の総称であるが、本邦にはアフリカヒメタニシ亜科 Bellamyinae(特異性が強く、アフリカヒメタニシ科 Bellamyidae として扱う説もある)の四種が棲息する。最も一般的で私が幼少時に裏山の田圃でとったのはマルタニシ Bellamya (Cipangopaludina) chinensis laeta (独立種として Cipangopaludina 属のタイプ種であったが、その後、中国産のシナタニシ Bellamya chinensis chinensis の亜種として扱われるようになった。殻高約四・五~六センチメートル。分布は北海道から沖縄)である(なお、現在有害外来種として「ジャンボタニシ」の名で主に西日本で繁殖し観察されるものは、台湾からの人為移入種(食用目的)である原始紐舌目リンゴガイ上科リンゴガイ科リンゴガイ属スクミリンゴガイ Pomacea canaliculata で、御覧の通り、タニシとは全く縁のない種であるので注意が必要である)。他の三種は「大和本草卷之十四 水蟲 介類 田螺」の私の注を参照されたい。田螺と言えば、「田螺女房」が直ちに想起されるが、この昔話は本邦のオリジナルではない。晩唐の作者不詳の伝奇集「原化記」(原本は散佚)の「吳堪」で判る。「中國哲學書電子化計劃」の「太平廣記」の「異人三」の「吳堪」で原文が、サイト「寄暢園」のこちらで和訳が読める。

「常山紀談(續帝國文庫本六三七頁)に大阪陣に田螺を以て軍の勝負を占せし由を載せ、武備志にも此兆を出したりとあり」「常山紀談」は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒者湯浅新兵衛常山(宝永五(一七〇八)年~安永一〇(一七八一)年)の書いた戦国武将の逸話四百七十条から成る江戸中期の逸話集。明和七(一七七〇)年完成とされる。これは「常山紀談拾遺」の巻一にある「野間左馬之進田螺を以て勝負占(うらなひ)物語の事」で、熊楠の指示する原本のそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来るが、私は所持する岩波文庫版(森銑三校訂一九四〇年刊・下巻)で電子化する。

   *

     ○野間左馬之進田螺を以て勝負占物語の事

野聞左馬之進物がたりに、田螺を折(お)しきの片隅に三ツ、又かた隅に三ツよせて、兩方へわけて一夜置くとき、其今歌勝負のまけの方を追こみ、かちの方は進み出ることなり。大坂陣の城中秀賴、木村、大野と稱して盆の一方に三ツ、また一方に闘東方家康公、井伊、藤堂と稱して三ツたにしを置て、一夜(や)置くにかならず關東方の三ツの田にし、内方の三ツのたにしを追込たるとなり。勝負の吉凶を兆ふこと是よりよきはなし、となり。武備志にも此兆を出したり。考ふへし。

   *

「武備志」漢籍。明の一六二一年に軍学者茅元儀(ぼう げんぎ 一五九四年~一六四〇年?)が編纂・刊行した兵法書。全二百四十巻で膨大な図譜を添える。「第八十」に以下のように出る。「中國哲學書電子化計劃」の原本画像を視認して起こした。電子化されたものが添えられてあるのだが、機械読み取りで全く補正が行われておらず、惨澹たる見るに堪えないひどい代物である。太字は原本では白抜きの圏点「﹆」。

   *

 占田螺

用兵之夜、將帥齋戒、奉主戰之神、稽首北斗、用新盆一面、中心界斷、分左右、左爲賊營、右爲賊營、用田螺兩個一個寫賊人軍將一個寫賊人放田螺在水盆中水用一寸深天明便見吉凶、放田螺之時、望北斗叩頭誠心頂禮、自然徴應、

   *

「予の ‘On Augury from Combat of Shellfish,’ Nature c. 1897. に出せり」「貝合戦に拠る占いに就いて」。『ネイチャー』誌へのイギリス留学中の一九八七年五月十三日投稿の短い論考。原文は「Internet archive」のこちらで確認出来る(左ページ右中段から次ページにかけて)。私は邦訳された「南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇」(二〇〇五年集英社刊)を所持しており、それで既読である。ここと同様に「常山紀談」を引き、その後に、「武備志」よりもさらに古い漢籍である馮拯(ふうしょう)の「番禺記」(九九〇年~九九四年頃成立)と陸偉の「睽車志(けいしゃし)」(十二世紀(金と南宋の時代)成立。但し、孰れも熊楠が見たのは後代に於いて引用されたもの)には、この占術法が嶺南で古来より行われてきたとあるらしい(原本を熊楠は見ていないため)、と述べる。これに続けて(田村義也氏訳。〔 〕は訳者による挿入)、

   《引用開始》

 先に挙げた湯浅の言に関連して、カンボジアの占いについてエテイエンヌ・エモニエ[やぶちゃん注:原文「Etienne Aymonier」(一八四四年~一九二九年)。彼はフランスの言語学者・探検家。今日のカンボジア・タイ・ラオス・ベトナム南部のクメール帝国の遺跡を体系的に調査した最初の考古学者である。]が述べていることも興昧深い。

「〔カンボジア〕王国に外国の軍隊が攻めこんだときには、多くの人々がクチャウを二匹捕って、たらいの底にお盆を敷き、そのなかに砂で小さな土俵を作り、水をいれてこの二匹の貝を浸ける。蠟燭を灯して香を焚き、王国の守護神を呼びだして、このささやかな海戦が、実際の戦争の行方を占ってくれるよう祈る。戦士を表す二匹のクチャウは、一方がひっくりかえるまで闘わされるのである」(「カンボジア人の習慣と俗信」、『フランス領コーチシナー旅行と現地調査』一六号一四二頁、サイゴン、一八八三年)

 今のところ、貝を闘わせて占う風習は東洋に限られているように思われる。世界の他の地域に、こうしたやり方の記録例はないだろうか。

   《引用終了》

とあって、この記事は終わっている。「クチャウ」は原文「K'hchau」で、熊楠は注して、占いの類似例から推して、これもタニシ科の一種である可能性が高いとする。また、エモニエの引用の最後にも注して(田村氏訳)、『この指摘は、ある日本の古伝承を想起させる。すなわち、「壇ノ浦の合戦[やぶちゃん注:中略]がまさに始まろうとしていたとき、熊野別当湛増(たんぞう)という僧兵が、源平いずれにつくか迷っていた。護持仏のお告げは、白い旗(つまり源氏)に仕えよであったが、これに確信がもてなかったのである。彼はそこで、仏堂の前で、白い雄鶏七羽と赤い雄鶏七羽とを闘わせ、(平氏の赤い旗を表す)赤い雄鶏がみな白い雄鶏に負けたのを見て、源氏につくことを決意した」(『平家物語』一一巻)』と記し、最後にも注して、『戦の行く末を占うのに、神託による類似のやり方については、木の枝を使うニュージーランド人の方法や、ゴート族の王がブタを用いる方法(ラボック『文明の起源』五版二四五頁、およびエンネモーザー『魔術の歴史』ボーン「科学文庫」版、二巻四五八頁のメアジ・ホーウィットによる「附論」を参照)などの例を挙げることができる』と言い添えている。なお、この論考投稿には、補足の続きがあって、同じ『ネィチャー』の翌年一八九八年二月十日の記事で、カンボジア人が使う占貝「クチャウ」について、タニシ科と推定したことについて補足した最後の部分で(田村氏訳)、

   《引用開始》

最近になって、M・A・パルヴィの記事「カンボジアその他への旅行」(『フランス領コーチシナ―旅行と現地調査』九号四七九頁、一八八二年)を読んでいると、私のその意見に裏付けを与えてくれるくだりに行きあたった。カンボジアの軟体動物の学名を挙げるなかで、この著者は、クショー(おそらくクチャウのフランス語における異形だろう)をラテン語名パルディナ Paludina に同定している。なお、近親属のリンゴカイ Ampulllaria は、カンボジア語名「タル」とされている。

   《引用終了》

と記している。「Paludina」はタニシ科 タニシ亜科 Viviparus 属(欧州・北米産種群)の古名。「リンゴカイ Ampulllaria」はリンゴガイ属のシノニムで、Ampullaria gigas は先のスクミリンゴガイのシノニムである。

「或る印度人同雜誌に寄書して、ボルネヲにも此占法有りと報ぜり」「Internet archive」のここの左ページ上部にある、熊楠の最初の投稿へのコメントで、

   *

    On Augury from Combat of Shell-fish.

  In your issue of May 13 (p. 30), Mr. Kumagusu Minakata. quotes several examples of augury from the combat of shell- fish. In Spencer St. John's “Life in the Forests of the Far East,” vol. i. p. 77, amongst various ordeals related by him as being practised by the Sea-Dyaks of Sarawak, he gives the following : —“Another is with two land shells, which are put on a plate and lime-juice squeezed upon them, and the one that moved first shows the guilt or innocence of the owner, according as they have settled previously whether motion or rest is to prove the case.”

CHAS. A. SILBERRAD.    

 Etawah, N.W.P., India, August 21.

   *

とあるのが、それ。「Sarawak」(サラワク)はボルネオ島にある現在のマレーシア領の西側三分の二を占めるサラワク州である。「Sea-Dyaks」の中のダヤク族というのは、ボルネオ島に居住するプロト・マレー系先住民の内で、イスラム教徒でもマレー人でもない人々の総称で、頭の「Sea」はダヤク族の中でも海辺部に住む人々の謂いと思われる。

「奧羽永慶軍記卷卅六に、……」「奥羽永慶軍記」は戦国時代の東北地方を中心に、天文元(一五三二)年から元和九(一六二三)年までを対象とした軍記物語。久保田藩領出羽国雄勝郡横堀村(現在の秋田県湯沢市)の医師戸部正直によって編纂され、元禄一一(一六九八)年に成立した。書名は、内容が永禄年間(一五五八年~一五七〇年)から慶長年間(一五九六年~一六一五年)を中心に記されていることに拠る。全三十九巻。写本のみが残る。

「羽州山北の城主小野寺義通」秋田の横手城主小野寺義通で、こちらの「秋田の歴史」の年譜には天正一四(一五八六)年、『小野寺義通、最上義光と有屋峠に戦う』とあるのだが、実は国立国会図書館デジタルコレクションの「史籍集覧  第八冊」に載る「奥羽永慶軍記」では(巻三十六のここ)、「小野寺遠江守義道流罪先祖事」となっており、とすると、これは小野寺義道(永禄九(一五六六)年~正保二(一六四六)年)ということになる。彼は彼のウィキによれば、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では、当初、東軍に与したが、『出羽の東軍旗頭が仇敵の最上義光であったことや、その最上氏が上杉景勝の攻勢に苦戦中であり、友軍の伊達政宗はそれを傍観していたことから上杉方に味方し、西軍に寝返った。しかし、西軍が関ヶ原で敗れたことで形勢は逆転』、『清水義親を大将として最上・秋田・由利党・六郷氏の軍勢が大森城へ押し寄せ』、『城内に侵入したが、城主である義道の弟・大森康道が自ら大長刀をもって切り込み』、『必死の防戦を図り、さらに弟の吉田城主・小野寺陳道や兄・義道の援軍もあり押し戻すことに成功した。柳田城へは鮭延秀綱が攻め寄せ、城主柳田治兵衛は孤軍奮闘の末、討ち死にした。東軍は大森城の包囲を続けつつ、城主不在の吉田城を狙ったが、陳道は大森城を出て里見義近率いる最上軍を攻撃、義道の救援もあって最上勢は引き上げた。戦後の』翌慶長六年に『徳川家康によって改易され、子の左京、弟の康道とともに石見国津和野に流罪とされた』とある。熊楠の語る奇怪譚は次のページの後半部に記されてある。その前には、大きな牛が一疋、義道の常の座敷に来て死んでいたという怪異が語られてある(義道は旗印の紋を牛にしていた)。以下、電子化する(カタカナはひらがなに改め、句読点・濁点等を挿入した。一部に推定で読みを歴史的仮名遣で附した)。

     *

 義道が小姓に、鳥海酉之助とて、生年十六歲に成しが、夙に起て、裝束、かひつくろひ、登城せんと、我家を出て、大手の門に入て、朴木坂(ほほのきざか)を二町ほど上りみれば、前代より有し池の中より、大石を引出せる如く、一尺餘り積れる初雪を左右に分、土を顯したる跡有り。酉之助、是を見て、

「あら、不思議や。此池より大蛇の出たる跡にてもあらん。ともあれ、附止(つきとめ)てみん。」

と思ひ袴のそは[やぶちゃん注:裾のことか。]を高く取て、其跡を慕ひ行き、道より弓手(ゆんで)を通り、土堰(つちづつみ)を上り、塀を打破る事、三重(みへ)にして、坪の内に入り、雪垣を破て、緣の上より上り、座敷に入し跡あり。酉之助、何(いづ)くまでも押入ける。

 酉之助伯父鳥海一五郞、高橋彌八郞なども追々來り、同座中に入て見れば、何とも知らず、床の上に五尺[やぶちゃん注:一・五メートル。]許の丸きものあり。

 酉之助、刀の脊を以て打て見るに盤石(ばんじやく)の如くなり。能々見るに、「田貝」といふものなり。

 義道、此よしを見て、

「不思議なるもの哉。元の池に捨よ。」

と下知す。

 中間、六、七人にて行けり。

 かゝる不吉の有しにや、翌年、遠流の身とは成しなり。

   *

「蚌」軟体動物門斧足綱イシガイ目イシガイ科ドブガイ属ドブガイ Sinanodonta woodiana 或いは、イシガイ科カラスガイ属カラスガイ Cristaria plicata 。熊楠がタニシにしたい気持ちも判らぬではないが、「蚌」の字は二枚貝を指し、上記二種は「五尺」はあり得ないものの、長径が二十~三十センチメートルにも達することがあり、それを「丸し」と表現しても何らおかしくない。「這ひ行きし」は確かに運動性能ではタニシの専売特許とも言えなくはないが、タニシは大きくなるオオタニシ Bellamya (Cipangopaludina) japonica でも七センチメートルに及ばないので、分は悪い。]

2020/12/26

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(26:蟹)

 

 ○蟹、金毘羅を信ずる者、蟹を食はず、其神使は蟹也と云、本草綱目に筆談云、關中無蟹、土人怪其形狀、收乾者懸門上辟瘧、不但人不識、鬼亦不識也、紀州の人家戶口に平家蟹、麒麟貝、「コバンウヲ」等を懸て、邪鬼を禦ぐことあり。

 

[やぶちゃん注:熊楠が西洋の例を引かないのは、癌の英語「Cancer」、ドイツ語の「Krebs」が「大きな蟹」の意に由来し、神使というよりも、醜い病原のニュアンスを強く持つことを考慮したものと思われる。「細胞検査士会」公式サイト内のこちらに、『最初に癌をカニにたとえたのは、古代ギリシアの医師、ヒポクラテス』(紀元前四六〇年頃〜紀元前三七五年頃)『だと言われて』おり、特に『乳癌は体の表面から判る病気のためか、紀元前の古代ギリシアでは、すでに乳癌の外科的治療が行われていた』とされ、『癌の部分を切り取ったあと、そこをたいまつで焼くという、荒っぽい』外科手術を施していたらしい。『当時の科学の最先端を走っていたヒポクラテスは、そうやって取った癌の塊を切り刻み、そのスケッチを残していて、そこに「カニのような(カルキノス)」という記述をしている』という。これは『癌の部分が周りの組織に浸潤している様子が、手足を伸ばしたカニのように見えた』ものかとも思われ、実際、『進行した乳癌は、皮膚に引き攣れを起こすため、これがちょうどカニの甲羅のように見えるので「カニ」と言われるようになったという説明も多くあ』るとあって、『切り刻んだ乳癌の断面の様子が手足を伸ばしたカニのようだったのか、進行した乳癌に侵された乳房がカニの甲羅のように見えたからか』は『よくわか』らないものの、『ヒポクラテスが最初に「癌とカニ」を関連させたことは事実のようで』あると記す。『これが、ラテン語でひろくヨーロッパに伝わったため、英語でもドイツ語でも癌のことを、カニを意味する言葉でよぶようになったというわけで』あるとある。こうした嫌悪状況では、凡そ神使になり得ないのは容易に想像されるのである。

「金毘羅」ウィキの「金毘羅権現」から引く。金毘羅権現(こんぴらごんげん)は現在の香川県琴平町(ことひらちょう)の象頭山(ぞうずさん)に『鎮座する山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、本地仏は不動明王、千手観音、十一面観音など諸説ある。祭神は、天竺からの飛翔仏である』から、『日本の神々とは無縁であるが、明治初年の神仏分離・廃仏毀釈が行われた以降は、大物主とされた。その神仏分離以前は讃岐国象頭山松尾寺金光院(現在の香川県琴平町の金刀比羅宮)を総本宮とする日本全国の金毘羅宮および金毘羅権現社で祀られていた』。『象頭山松尾寺普門院』『の縁起によれば、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山に住する護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが』、『開山の由来との伝承から、これが象頭山金毘羅大権現になったとされ、不動明王を本地仏とした』。『クンビーラ(マカラ)は元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。クンビーラ(マカラ)はガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあることから、金毘羅権現は海上交通の守り神として信仰されてきた。特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上で金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現は祀られていた』。また、長寛元(一一六三)年のこと、崇徳上皇(彼が「保元の乱」で讃岐に配流されたのは保元元(一一五六)年七月二十三日)が『象頭山松尾寺境内の古籠所に参籠し、その附近の御所之尾を行宮』とした『と云われることから、御霊信仰の影響で、『崩御の翌年の』永万元(一一六五)年から『崇徳上皇も松尾寺本殿に合祀されたとされる』。『現在も金刀比羅宮本殿の相殿に崇徳天皇は祀られている』。『修験道が盛んになると』、『金毘羅権現の眷属は天狗とされた。『和漢三才図会』には「当山ノ天狗ヲ金比羅坊ト名ヅク」と記された。また、戦国時代末に金毘羅信仰を中興した金光院第』四『代院主で修験者でもあった金剛坊宥盛』(ゆうせい 慶長一八(一六一三)年没)は、慶長十一年に、『自らの像を作って本殿脇に祀り、亡くなる直前』「神体を守り抜く」と『誓って天狗になったとの伝説も生まれた』。『本殿の神体は秘仏で、宥盛像も非公開だったので、その後、法衣長頭襟姿の宥盛像が金毘羅権現そのものと思われるようになった。その宥盛像は廃仏毀釈で明治』五(一八七二)『年に他の仏像仏具とともに浦の谷において焼却されたとされるが、その時、宥盛像を火中に投じると』、『暴風が起き』、『周りの者共は卒倒したという。なお、奥社で今でも祀られているとも云われている』。『江戸時代になると、天狗の面を背負った白装束の金毘羅道者(行人)が全国を巡って金毘羅信仰を普及した』。『また、全国各地から讃岐国象頭山金毘羅大権現を詣でる金毘羅参りの際には、天狗の面を背負う習俗も生まれた』。『今は讃岐三天狗の一狗で金剛坊と呼ばれる(他は八栗寺の中将坊と白峯寺の相模坊)』。『塩飽』(しわく)『水軍は金毘羅権現を深く信仰し、全国の寄港地で金毘羅信仰を広めることに貢献した』。『江戸時代後期には、象頭山金毘羅大権現に詣でる金毘羅参りが盛んとなった。これに伴って四国には、丸亀街道、多度津街道、高松街道、阿波街道、伊予・土佐街道をはじめとする金毘羅街道が整備された』。『江戸時代の庶民にとって金毘羅参りの旅費は経済的負担が大きかったので、金毘羅講という宗教的な互助組織(講)を結成して講金を積み立て、交代で選出された講員が積立金を使って讃岐国象頭山金毘羅大権現に各金毘羅講の代表として参詣し、海上交通安全などを祈願して帰郷した』。『金毘羅講以外にも、こんぴら狗や流し樽などの代参の習俗もあった。陸上では犬、水上では流し樽(舟)に賽銭を入れて金毘羅権現に祈願する木札や幟とともに放ち、誰か見ず知らずの者に代参を依頼するもので、これらをみつけて代参した者には依頼者と同様にご利益があると信じられた』とある。眷族としての天狗、使いと見立てられる犬は出るが、蟹は出ない。サイト「神使の館」(本全篇に興味のある方は必見!)の「蟹~カニ 金毘羅神社(金毘羅大権現)の蟹」で、長崎県諌早市小野町にある金毘羅神社(グーグル・マップ・データ)に奉納された蟹の石像が見られる(先の地図データのサイド・パネルでも二つ(ここここ)見られる)。但し、筆者は『カニは奉納石像で』あるが、『神使とは異なる』と明言されておられ、『なぜカニが奉納されたかは不明だが、カニは干潟を代表する生物なので、漁業、航海の守護神である金毘羅大権現に豊漁・航海安全を願って奉納されたものと思われる。奉納者名に父とあることから、息子を漁か海で亡くしたか…』…と述べられ、蟹像は幅が九十センチメートル前後もある石製とある。平凡社「世界大百科事典」の「金毘羅信仰」の解説に蟹を使者とする記載が確認出来た。部分だけ引くと(コンマは読点に代え、アラビア数字は漢数字にした)、『金毘羅神には、魚介類に関する禁忌がある。カニを金毘羅神の使者として、信者は食べないという伝えは広い。カニを水の神の使者とする信仰の変化したものであるが、権現でも、カニを食べたあと五十日は参詣してはならないという厳しい規定があった。権現には、ほかにも、川魚は三十五日、アミは三十日といった、一般の神社にはない禁忌があり、金毘羅神の特異性を示している』とあった。

「本草綱目に筆談云、……」巻四十五の「介之一」の「蟹」の項の(非常に長い)、「發明」の中に、

   *

沈括筆談云、關中無蟹。土人怪其形狀、收乾者懸門上辟瘧。不但人不識鬼亦不識也。

   *

沈括が「筆談」に云はく、「關中、蟹、無し。土人、其の形狀を怪しみて、乾く者を收めて、門上に懸け、瘧を辟(さ)く。但だ人、識らざるも、鬼も亦、識らざるなり。」と。

   *

とあるのを言っているが、「沈栝」という著者名を落しているので、それが、書名であるのが判らない点が遺憾である。沈括(しんかつ 一〇三〇年~一〇九四年)は北宋中期の政治家・学者で、「筆談」とは彼の随筆集で中国科学技術史に於いて重要な文献とされる「夢溪筆談」のことである。その巻二十五の「雜志二」に、

   *

關中無螃蟹。元豐中、餘在陜西、聞秦州人家收得一乾蟹。土人怖其形狀、以爲怪物。每人家有病虐者、則借去掛門戶上、往往遂差。不但人不識、鬼亦不識也。

   *

「關中」「秦州」とあるから、内陸に於いては知られていない海産の蟹であることが判る(「螃蟹」は広義のカニ類を指す)。則ち、ヘイケガニやカブトガニ(彼らはカニ類(狭義には節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目 Brachyura)とは全く無縁な、クモやサソリなどが含まれる鋏角亜門 Chelicerata に属する節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ亜科カブトガニ属 Tachypleus )のような、異形のそれらの、内臓が背甲の外骨格に表象する凹凸が、おぞましい鬼面や威(おど)しの武具に似ることからの、呪的アイテムとして、恐らく中国でも古くから用いられていたことを示す記録であると思われる。詳しくは私の『毛利梅園「梅園介譜」 鬼蟹(ヘイケガニ)』の私の注を参照されたい。

『紀州の人家戶口に平家蟹、麒麟貝、「コバンウヲ」等を懸て、邪鬼を禦ぐことあり』「平家蟹」は節足動物門甲殻亜門軟甲綱十脚目短尾下目ヘイケガニ科ヘイケガニ属ヘイケガニ Heikeopsis japonica 或いはその近縁種(サメハダヘイケガニ Paradorippe granulata ・キメンガニ Dorippe sinica ・カクヘイケガニ Ethusa quadrata ・マルミヘイケガニ Ethusa sexdentata ・イズヘイケガニ Ethusa izuensis )を指し、「麒麟貝」は思うに形状のミミクリーから、腹足綱前鰓亜綱盤足目ソデボラ超科ソデボラ科サソリガイ属スイジガイ Lambis chiragra 或いはサソリガイ属クモガイ Lambis lambis であろうと思う(形状上から「麒麟」により似るのは後者である)。「コバンウヲ」顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区棘鰭上目スズキ系スズキ目スズキ亜目コバンザメ科コバンザメ属コバンザメ Echeneis naucrates (コバンイタダキの名でも知られるが、これは和名異名である)。孰れも、体型(殼形)が、異形であるから、類感呪術的に邪鬼を払う効果を期待するのは、極めて自然である。]

「御伽比丘尼」目録

 

[やぶちゃん注:第一巻の「序」の後にある。本篇標題と異なるものはママ(全てに添え題の頭の「付」がない)。やはり読みは一部に留めた。]

 

御 伽比丘尼巻之一目錄

 ㊀志賀の隱家(かくれが) 尺八の叟(おきな)

 ㊁夢のかよひ路 寢屋の恠

 ㊂あけて悔(くやし)き文箱 義に軽命

 ㊃女 さくらがり あやなし男

  巻之二

 ㊀輕口も理(り)は重し 好物問答

 ㊁祈(いのる)に誠(まこと)有(あり)福の神 心の白鼠

 ㊂恨に消(きえ)し露の命 葎(むぐら)がのべの女鬼(おに)

 ㊃問(とい)おとしたる瀧詣 戀の濡(ぬれ)ゆかた

 ㊄初聲(うぶこゑ)は家のさかへ 夜啼(よなき)の評

  巻之三

 ㊀菩提は糸による縫(ぬひ)の仏 遊女のさんげ咄(ばなし)

 ㊁昔ながらの今井物語 繼母の邪見觀音の慈

 ㊂執心の深き桑名の海 惡を捨たる善七

 ㊃恥を雪(すゝぎ)し御身拭(おみのごひ) ふり袖が喧嘩の種

  巻之四

 ㊀水で洗(あらふ)ぼんのふの垢 されかうべ消(きへ)し雪の夜(よ)

 ㊁なにはの医師は東後家(づまごけ) 誰(たれ)にか見せん梅の花

 ㊂命は入あひのかねの奴(やつこ) 一代せちべんおとこ

 ㊃虛(うそ)の皮かぶる姿の僧 越中白山のさた

  巻之五

 ㊀名は顯れし血文(ちぶみ)有 めぐりあふゐんぐわのかたき

 ㊁かねをかけたる鳶の秤(はかり) 天狗ものかたり

 ㊂思ひは色に出る酒屋 惜(をし)かな命ふたつ

 ㊃行暮(ゆきくれ)て此辻堂をやど 菊水の翁

              目錄終

 

御伽比丘尼卷五 ㊃行暮て此辻堂をやど付菊水の叟

 

    ㊃行暮て此辻堂をやど付〔つけたり〕菊水の叟(をきな)

Kikusuinookina

[やぶちゃん注:挿絵は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

 中比、近州(ごうしう)[やぶちゃん注:「江州」の当て読み。]の草津より、鎌倉へ、かよふ、あき人あり。天性(〔てん〕しやう)、心すなをにして、慈悲ふかく、しかも親に孝あること、いたれり。いとゞだに、旅は物うき習ひなるに、いづこも、世わたらひほど、いとかなしき物はあらじ。是は、老たる親を置〔おき〕て、としどしに、すみなれし宿を出〔いで〕て、はるばると、東(あづま)のかたへおもむき、「今ぎれのわたし」越(こえ)て、あつたのふりし宮井を拜み、

「古鄕(こきやう)に殘し置〔おく〕父母〔ちちはは〕を守らせ給へ。」

と祈念し過行〔すぎゆく〕。比しも、霜(しも)み月、空、さだめなき時雨(しぐれ)して、行〔ゆく〕べき先もわかねば、とある辻堂にやすらひ、はれ間を待〔まつ〕に、ふしぎや、暮かゝるとは覺へざりし空、俄(にわか)に東西くらくなりて、遠寺(ゑんじ)のかね、幽(かすか)に、行〔ゆき〕かふ人もみえず。

[やぶちゃん注:「草津」滋賀県草津市。

「近州(ごうしう)」「江州」の当て読みであるが、歴史的仮名遣は「がうしう」が正しい。

「今ぎれのわたし」浜名湖の開口部にあった「今切(いまぎれ)の渡し」。

「あつたのふりし宮井」熱田神宮。ロケーションはここを退出して程ない場所という設定である。しかし、この順序はちょっと理解出来ない。これでは、鎌倉から草津へ戻る途中としか読めぬが、後で本人が「草津より鎌倉へまかる」と述べているからである。しかし、父母の無事を祈念するのであってみれば、鎌倉へ向かう途中と考えるのが自然である。しかし、後の本話柄の結末から、この順序の不審は、無化されるのである。ネタバレになるから、朦朧に言うなら――そこから異界に繋がり――時空間自体が捩じれて行く――のである。

 

 はるかなる山もとに、狐火(きつねび)、靑くともし、けつ、など、物すごく、

「此所〔ここ〕に、一夜をあかしなん。」

とて、ゆたんかたしき、なれこしふるさとの事など思ひつゞくる比、翁(おきな)壱人〔ひとり〕、まみえ來〔きた〕れり。

[やぶちゃん注:「ともし、けつ」「灯(とも)し、消(け)つ」。

「ゆたん」「油單」或いは「油簞」で、単衣(ひとえ)の布や紙に油をしみ込ませたもので、湿気や汚れを防ぐ敷物・風呂敷などに用いた。

「かたしく」「片敷き」。(油単を敷いた上に)自分の衣の袖を敷いて独り寝し。

「まみえ來〔きた〕れり」謙譲語の「まみゆ」ではおかしいので(厳密には後の方では彼のことを翁は高く評価し、確信犯の敬語を使用して彼に語っているので、実はそこまで読むと、ここが敬語であって、実はおかしくはない)、この場合は、あたかも彼に対面するためにやって来たかのように見えたというのであろう。]

 

 見れば草の葉をかさね衣となし、ふぢかづらをもて、帶とせり。眼(まなこ)、世のつねにかはり光あつて、いと愧(おそろし)きが、此男にむかひ、

「是は、いづかたへわたり給ふ人ぞ。」

と。

「草津より鎌倉へまかるものに侍り。」

と、いへば。

「痛はしや。冬の夜の寒けさ思ひやられ侍〔はべら〕ふ。いで、火を求(もとめ)、つかれをはらさせ申さん。」

と、火打〔ひうち〕とり出〔いで〕、うち散(ちら)せば、あたりの小石、忽(たちまち)に火となって、あたかも、いろりのごとく、皆、一所(〔いつ〕しよ)にかきあつめて、互(たがひ)に手をさし、足をあたゝめて、うさを忘る。

 時に、翁、こくう[やぶちゃん注:「虛空」。]にむかひ、打招〔うちまねけ〕ば、一人の童子、銚子(てうし)に盃(さかづき)そへて、持來〔もちきた〕るを、旅人にもすゝめ、我も打〔うち〕のみて、心ちよげ也。

 其酒味(しゆみ/さけのあぢ)、今もつて、たぐふべき物、なし。

 翁、又、傍(そば)なる木(こ)ず衞(ゑ)[やぶちゃん注:漢字表記はママ。「梢」。]にうそぶけば、時ならぬ、桃・生栗(せいくり)、なれり。取〔とり〕て、旅人にあたふ。是(これを)なむるに[やぶちゃん注:「舐むるに」。]、餘事を忘れて、更に、愁(うれひ)、なし。

[やぶちゃん注:「うそぶけば」「嘯けば」。「嘯く」は口を尖らして詩を吟ずることを指すが、ここは何か仙術の呪文のようなものを唱えたのであろう。]

 

 此時、翁、身の上をかたりて云(いはく)、

「我は、是より東、菊川といふ所の者に侍り。此川上には菊園(きくぞの)あり、此露(つゆ)の滴(したゝり)、こつて[やぶちゃん注:「凝つて」。]、河しもへながるゝ事、一とせに一度、我〔わが〕親に孝なる事、いたれり。故(かるがゆへ)に、天の惠(めぐみ)によつて、ふしぎに、此露をなめて、顏色(がんしよく)、不老(おいず)、雲を招(まねき)て、是に乘るに防(さまたげ)、なし。一日〔いちじつ〕に千里を遊行(ゆぎやう)し、終夜(しうや/よすがら)に數百里(す〔ひやく〕り)、歸る。今、とし隔(へだゝ)りて、五百餘歲、かんばせ、猶、むかしに、かはらず。唐(もろこし)にも南陽縣の菊水、下流を汲(くみ)て、仙道を得し爲(ため)し、世(よ)、擧(こぞつ)て知(しる)ところ也。されば、わ君、親に誠の道あること、我に勝れり。此故に、今、爰に出〔いで〕て、まみゆ。我、おもんばかるに[やぶちゃん注:「ば」はママ。]、君、來(きた)る月、ふりよの病(やまい)に死するの災(わざはひ)あり。さるによつて、此所にとゞめ參らす事、一年(〔ひと〕とせ)、災難をのがれ給ひぬ。今より更(さらに)患(うれへ)なく、長生(〔ちやう〕せい)なるべし。」

と、まめやかに語り、かきけちて、失(うせ)ぬ。

 角〔かく〕て、夜もしらじらとあくれば、此ふしぎさに、男、東(あづま)へも行かず、引かへし、國もとに歸る。

 父母(ちゝはゝ)、御覽ありて、

「いかなれば、此一とせが内、文の便(たより)もせざりける事よ。」

と、打恨(〔うち〕うらみ)給へば、其時、男、手を打(うち)、始終をかたり、

「わづか、半日(はんじつ)一夜(〔いち〕や)と覺へしに、扨は、一とせになり侍るにや。」と、今更に、驚(おどろき)ぬ。

 是より、東(あづま)へのかよひをとゞめ、ますます、孝をつくしけるが、いつとなく、冨(とみ)、榮(さかへ)の家となり、めでたき世わたらひ、しけるとぞ。

 金銀珠玉は世の器(うつはもの)にして、集(あつま)れる時、あるべければ、うらやむにたらず。たゞ珍寶にかへても、孝の道こそ、あらまほしけれ。

 

御伽比丘尼卷五全尾

 

[やぶちゃん注:「菊川」静岡県菊川市があり、ここを貫流する菊川もある。さらに、この内陸の端は、かの東海道の難所として知られる「小夜の中山」の直近であり、北の東部で接する静岡県島田市菊川もある(孰れもグーグル・マップ・データ)。

「菊園」これは地名ではなく、神仙の菊の花の咲いた園の謂いと読む。しかし、ここには隠しアイテムがあって、この静岡県島田市菊川には、「承久の乱」(承久三(一二二一)年で、討幕計画に加わった中納言藤原宗行が捕縛され、鎌倉へ送られる途中、七月十日、ここにあった菊川宿に泊まり折り、死期を覚って、宿の柱に以下の五絶を書き残した。

   *

 昔南陽縣菊水

 汲下流而延齢

 今東海道菊河

 宿西岸而失命

  昔 南陽縣が菊水

  下流を汲みて 齢(よはひ)を延ぶ

  今 東海道が菊川

  西岸に宿して 命を失ふ

   *

なお、「承久の乱」から約百年後に討幕未遂事件とされる「正中の変」で捕えられた日野俊基も、鎌倉への護送の途次、同じ菊川宿で宗行の往時を追懐して一首の歌を詠んでいる。

 古(いにしへ)もかかるためしを菊川の

       おなじ流れに身をやしづめん

現在、島田市菊川にある「菊川の里会館」(グーグル・マップ・データ)の前に、この「中納言宗行卿詩碑」と「日野俊基歌碑」が並んで建っている(ストリート・ビュー)。さても、「唐(もろこし)にも南陽縣の菊水、下流を汲(くみ)て、仙道を得し」という謂いのネタ元は、地名と相俟って、この藤原宗行の詩が元と考えられるのである。小学館「日本国語大辞典」の「菊水」に、『中国、河南省内郷県にある白河の支流。この川の崖上にある菊の露が滴り落ち、これを飲んだ者は長生きしたと伝えられる。また、この水でつくった酒。菊の水。鞠水(きくすい)』とあり、「海道記」(「東関紀行」・「十六夜日記」と並べて中世三大紀行文と称されるもの。貞応二(一二二三)年成立と考えられており、同年四月四日に白河の侘士(わびびと)と称する者が、京から鎌倉に下り、十七日に鎌倉に着き、善光寺参りの予定をやめて、帰京するまでを描く)から引用して、『池田より菊川「彼南陽県菊水、汲二下流一延レ齢」〔水経注湍水〕』とするところから、恐らく、この伝承が載る、現存する漢籍の最古のものは魏晉南北朝時代に書かれた地誌「水經注」(すいけいちゅう:撰(注)者は酈道元(れき どういげん:四六九年?~五二七年)で五一五年の成立と推定される)の巻二十九「湍水」の、

   *

湍水出酈縣北芬山、南流過其縣東、又南過冠軍縣東、【湍水出弘農界翼望山、水甚淸徹、東南流逕南陽酈縣故城東、「史記」所謂下酈析也。漢武帝元朔元年、封左將黃同爲侯國。湍水又南、菊水注之、水出西北石澗山芳菊溪、亦言出析谷、蓋溪澗之異名也。源旁悉生菊草、潭澗滋液、極成甘美。云此谷之水土、餐挹長年。司空王暢、太傅袁隗、太尉胡廣、竝汲飮此水、以自綏養。是以君子留心、甘其臭尙矣。菊水東南流入于湍。湍水又逕其縣東南、歷冠軍縣西、北有楚堨、高下相承八重、周十里、方塘蓄水、澤潤不窮。湍水又逕冠軍縣故城東、縣、本穰縣之盧陽鄕、宛之臨駣聚、漢武帝以霍去病功冠諸軍、故立冠軍縣以封之。水西有「漢太尉長史邑人張敏碑」、碑之西有魏征南軍司張詹墓、墓有碑、碑背刊云、白楸之棺、易朽之裳、銅鐵不入、瓦器不藏、嗟矣後人、幸勿我傷。自後古墳舊冢、莫不夷毀、而是墓至元嘉初尚不見發。六年大水、蠻饑、始被發掘。說者言、初開、金銀銅錫之器、朱漆雕刻之飾爛然、有二朱漆棺、棺前垂竹簾、隱以金釘。墓不甚高、而內極寬大。虛設白楸之言、空負黃金之實、雖意錮南山、寧同壽乎。湍水又逕穰縣爲六門陂。漢孝元之世、南陽太守邵信臣以建昭五年斷湍水、立穰西石堨。至元始五年、更開三門爲六石門、故號六門堨也。溉穰、新野、昆陽三縣五千餘頃、漢末毀廢、遂不脩理。晉太康三年、鎮南將軍杜預復更開廣、利加于民、今廢不脩矣。六門側又有「六門碑」、是部曲主安陽亭侯鄧達等以太康五年立。湍水又逕穰縣故城北、又東南逕魏武故城之西南、是建安三年、曹公攻張繡之所築也。】

   *

が震源地らしい。孰れにせよ、「世(よ)、擧(こぞつ)て知(しる)ところ」となったのは、専ら宗行の詩ゆえである。

「君、來(きた)る月、ふりよの病(やまい)に死するの災(わざはひ)あり。さるによつて、此所にとゞめ參らす事、一年(〔ひと〕とせ)、災難をのがれ給ひぬ」「貴君は、現実世界の今日現在の、来月に当たる月の内に、不慮の病(「やまひ」)によって、死する、という災難を受けることに、なっておる。そこで、貴君の孝なるを以って、今、この場にかく、半日一夜ばかり、お留め申し上げることと致した。さても。これは、現実世界にあっては、既に一年を経過していることに、なっておる。さすれば、最早、災難をお避けになったので御座るのじゃ。」。

 以下、奥書を示す。ご覧の通り、底本は字が大きく、それぞれに違ったサイズであるが、無視した。貞享四年は一六八七年。「龍集」の「龍」は星の名で、「集」は「宿る」意。この星は一年に一回周行するところから「一年」の意となり、単に「年」の代字となって、多く年号の下に記す語となった。]

 

   貞享第四龍集

    春孟陽吉辰日

      江戸神田新葦屋町

            西村 半兵衛

        書林

       京三條通 西村 市郞右衞門

                新版

御伽比丘尼 ㊂思ひは色にいづる酒屋付惜き哉命ふたつ

 

    ㊂思ひは色にいづる酒屋付惜(おし)き哉(かな)命ふたつ

 戀をめさらば、淺黃にめされ、紅葉(もみぢ)ゞを見よ、濃(こき)がちる、とは、誰(た)がまことより諷(うたひ)そめけむ。實(げに)、いせの海、あこぎが浦に引(ひく)あみの、たびかさなり、顯(あらはれ)て、身をあだしのゝ露にさらし、うき名を人の口にとゞむこと、まゝ多(おほき)事ぞかし。

[やぶちゃん注:「紅葉(もみぢ)ゞ」の「ゞ」は「葉」の漢字を繰り返す謂いで、読みは「ば」であろう。この俗謡、元を知らぬが、なかなか、いい。

「あこぎが浦に引あみの」「あこぎが浦」は「阿漕が浦」。三重県津市東部一帯の海岸(グーグル・マップ・データ)。伊勢神宮に供える魚をとる漁場として、殺生禁断の地であった。この浦で、平治という漁師が病気の母親のために、たびたび密漁をして、遂に見つかり、簀巻きにされたという伝説から、「阿漕が浦に引く網の」で「人知れず行う秘めごとも、たびたび行ううちには、広く人に知れてしまうことの喩え」の成句としてある。

「あだしのゝ露」ほんに、清運尼は「徒然草」がお好き!]

 

 爰に都の去(さる)邊(ほとり)に、何がしの左吉とかや、色ごのみのわかうどあり。幼(いとけなき)より父母にをくれ、腹がはりの兄なりける。治齋(ぢさい)といへる針醫(しんい/はりたて)のもとに、ひとゝなりし。かゝるすきものなりければ、和歌の道をふみそめ、筆の跡、つたなからず、誠に、やさおとこ、ともいふべし。

 其比、かでゆのかうじに、酒つくる家に娘あり。かほかたち、世のつねにすぐれ、みどりのまゆ、靑柳のいとめでたきくろかみ、たとしへなきすがた、又、たぐひなくぞ聞えし。深窓(じんさう/ふかきまど)の内にやしなはれて、歌・草紙・物がたりなど、誦(そらん)じて、いと情もふかゝりし。

[やぶちゃん注:「かでゆのこうじ」「勘解由小路」(かでのかうぢ・かでゆかうぢ)のことであろう。サイト「京都まにあ」の「勘解由小路町」(現在の京都市上京区勘解由小路町(かでのこうじちょう)に地図リンクと呼称の変遷が詳しく載る。次の「ほり川」の地図も参照されたい。]

 

 されば、いかなるえにしにや在けん。彼左吉を、あからさまにほの見しより、心も空(そら)になるかみの、むねとゞろき、足ぶるひして、是よりわするゝ隙(ひま)もあらず。されど、人づてしていふよしもなければ、心ひとつに、おもひわづらふ。

 左吉も又、此娘をかいまみてより、ひたすら、其事に身をせめ、

「哀(あはれ)、いかならむ、風の便(たより)もがな。」

と思へど、身をうき草の根をたえて、賴(たのみ)よるかたもなく、

「いと、せめて、戀しき時はうば玉の、よるのふしどに逢(あひ)みん夢を。」

と思ふより外もなかりし。

 かく、万(よろづ)、手(て)にもつかず、うかうか思ひくらしけるほどに、兄なりける治齋、いかり、腹だちて、其家を追出(をい〔いだ〕)しぬ。

 やるかたなく悲しみ思ひけれど、せんかた波のよるべたづねて、ほり川のすゑに、昔、召かひしものゝゐけるが、此〔ここ〕もとに日を送りゐる。

[やぶちゃん注:「ほり川」「堀川」。勘解由小路町の真西二キロメートル強の上京区堀川町(勘解由小路町を画面右端中央に入れておいた)。]

 

 誠に然(しか)るべきえにしや有けん、彼(かの)酒やの何がしより、手代の、男を尋(たづ)て、此やどへ來(きた)る。幸(さひあひ)、左吉、

「牢浪(らうら)の身なれば。」

とて、かの家に行〔ゆき〕、目見(めみへ)し、召かゝへられて、宮づかへしけり。

[やぶちゃん注:「男」使用人に使えそうな男の謂いであろう。

「宮づかへ」この酒屋は余程の大金持ちであったのであろう。されば、貴人の扱いで「宮仕へ」はおかしな謂いではない。]

 

 人躰(〔じん〕たい)、發明にし、諸道にかしこく、殘る所なければ、酒やの何がしも、あはれみ、殊にふかし。かく、いやしきつとめ、しながらも、君にあひみる事を、たのしみゐければ、娘も

『それぞ。』

と思ひ給ひしけしき、折々は、情ふかきこと葉(ば)の末など、いとうれし。

 ある夕ぐれ、むすめのかたより、

「此〔この〕つれづれの本、ひやうし、あしく侍るほどに、よきに仕(し)かへさせ給へ。」

と。左吉かたへ、いひ送らる。畏(かしこまり)て、事請(〔こと〕うけし)見れば、折出〔をりいだ〕したる所、あり。いぶかしくひらけば、

「 戀わふる日比の袖の泪川ながれあふせをこよひさためよ

まことに此比〔このごろ〕の御ありさま いとおしくこそ候へ かよひぢはかうかういたし置侍りぬ うしみつはかりに 御しのびあれ 何事も御げさんに」

と、かきたる、いたう心せき給へると見へて、筆の跡、さだかならず。

[やぶちゃん注:恋文なので、句読点を排した。添え歌の字配はママ。一首を整序すると、

 戀佗(こひわ)ぶる

       日比(ひごろ)の袖の

     泪川(なみだがは)

    流れ逢ふ瀨を

         今宵定めよ

であろう。原拠の歌があるのかも知れないが、これ見よがしな糞マニエリスムで、和歌嫌いの私は探索する意志がない。悪しからず。

「人躰(〔じん〕たい)」「じんてい」と読みたくなるところ。

「此つれづれの本」この、「退屈を紛らわすのに読んでいる本」ともとれるが、寧ろ、確信犯で彼女の愛読書を「徒然草」としているのではあるまいか? 愛読書故に「ひやうし、あしく侍るほどに」(「表紙、惡しく侍るほどに」。表紙が、ぼろぼろになってしまいましたから。)とあるのであろう。大尽の酒屋の娘が古本を買おうとも思われぬ。表紙が傷んだのは、間違いなく、彼女が何度も読んだからに外ならぬ。しかし、だとすると、作者、ちとあからさまにやり過ぎで臭い。寧ろ、後の展開から考えると、「伊勢物語」の方が、この娘の愛読書には合う(というか、かの「徒然草」を偏愛する娘なんぞとは私は、金輪際、付き合いたくないからである。芥川龍之介と同じく、私は僅かな段を除いて、「徒然草」が嫌いである(『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) つれづれ草)』を参照)。さすれば、やはり、「つれづれの」は一般の形容動詞ととるべきであろうか? しかし、やはり、「徒然草」だろう。エンディングで判る。

「かうかういたし」具体的に彼女の部屋に人知れず入れる時刻やルートが具体的に書かれていたのである。]

 

 此嬉(うれし)さ、卷返し、手もたゆくながめて、くれ行〔ゆく〕空より、更行(ふけ〔ゆく〕)迄を、千とせの心ちに、待〔まち〕わび、しのび行〔ゆく〕に、げに中戶(〔ちゆう〕ど)の關もなく、御ねやに入〔いり〕て、此とし比のおもひ、かたりもあへぬに、ほそくうつくしき手して、かきいだきよせ給へば、やおら、御はたへに此身をそへて、うつゝなきさま、此間の私語(さゝめごと)は、いふもさら也、千夜(ちよ)を一夜(〔ひと〕よ)になぞらへ、かたらふほどに、きつにはめなで、と、わびし。くだかけの聲、いそがしく、こひしらずのかね、きぬぎぬの別れをつぐるに、名殘をしみて、自(をの)がふしどに歸り入〔いり〕ぬ。

[やぶちゃん注:「きつにはめなで」「伊勢物語」十四段に出る和歌の一節。

   *

 むかし、男、陸奥(みち)の國に、すずろにゆきいたりにけり。そこなる女、京の人はめづらかにやおぼえけむ、せちに思へる心なむありける。さて、かの女、

 なかなかに戀に死なずは桑子(くはこ)にぞ

   なるべかりける玉の緖(を)ばかり

歌さへぞ、ひなびたりける。さすがにあはれとや思ひけむ、いきて寢にけり。夜深(よぶか)くいでにければ、女、

 夜も明けばきつにはめなでくたかけの

   まだきに鳴きてせなをやりつる

といへるに、男、京へ、なむ、まかるとて、

 栗原のあねはの松の人ならば

   都のつとにいざといはましを

と言へりければ、よろこぼひて、「思ひけらし」とぞ言ひをりける。

   *

「桑子」蚕(かいこ)。夫婦仲が良いとされた。「玉の緖」ほんの短い間。「きつにはめなで」の「きつ」は丸太を刳り抜いて作った水桶。「くたかけ」は、既注で、早朝から鳴いて恋人たちやらの夢を破る鶏の蔑称。一首全体は、「夜が明けたら、あの腐った鶏めを水桶の中に突っ込んで鳴けぬように殺してやるわ! 未だ夜も明けぬのに鳴いてしまい、私の大事なあのお方を帰してしまった!」の謂いである。「栗原のあねはの松」は宮城県栗原市金成姉歯(かんなりあねは)にあったという名物の松のこと。この一首は「松が人だったら、京への土産に是非とも持ち帰りたいものなのだが(あなたは、それほどの女ではなかったねぇ)」という残酷な謂いである。それを読み解けず、喜ぶ彼女がいたわしい。]

 

 是より、夜ごとにかよひけるほどに、人皆、それとおしはかりぬ。

 ある夜、又、雨、打そぼち、風、列(はげしき)に、娘、左吉が部(へ)やにしのび、

「わ君と、かくしのびあふ事、父母(たらちね)にしらするものゝありて、そこのかたは、ちかき内に、此家を追出(をい〔いだ〕)され、うきめにあひ給ふにさだまりぬ。我、又、君にわかれまいらせ、かた時、ながらふべきにあらねば。こよひの雨の紛(まぎれ)に、みづからをつれて、たちのき給へ。はや、とく。」

と、すゝめ給ふを見れば、白き小袖に、水晶の珠數(じゆず)、手にかけたり。

「扨は。思ひ切〔きり〕給ひける。」

と覺へければ、左吉、かひがひしく、おひまいらせ行〔ゆく〕。

[やぶちゃん注:「おひまひらせ」。「負(おひ)ひ參(まゐ)らせ」。娘を背負い申し上げ。次を読むまでもなく、「伊勢物語」の悲劇システムが起動してしまったのである。]

 

 くらさはくらし、雨さへ、いたうふりて、道もさだかならず。むかし、なり平(ひら)の二條(でう)の后(きさき)をぬすみ出〔いで〕給ひけむも、かくや。

 漸々(やう〔やう〕)はこび行〔ゆき〕ける程に、都の北にあたれる、ならびの岳(をか)につきぬ。

「迚(とても)、此身は召かへされて、ふたりもろ友〔とも〕、そひはつべきにもあらず。淺ましき恥を瀑(さら)しなんよりは。」

と、思ひ切〔きり〕て、女、

  逢事をいづくにてとか契へき

   きへんうき身の行衞しらねば

と口ずさみければ、男、

  逢事はおもひ入日の影たのむ

   にしのそらこそしるべなりけれ

かやうによみ捨(すて)、先〔まづ〕、女の心もとを、さしとをして、をしふせ、其身も、腹十文字に切〔きり〕て、女の上に、たふれ死しけり。

 おしきかな、夫(をつと)は廿五、女は十六の、秋の霜と、きえぬ。

 女の親も、夫の兄も、いと情(なさけ)なきものにて、なきがらを其儘に打捨置〔うちすておき〕ければ、此邊〔このあたり〕の農民、哀(あはれ)がりて、ひとつ塚に、つきこめ、しるしに松を植(うへ)ぬ。

 其比、何人〔なんぴと〕がしけん、双(ならび)の岡に、「無常所(〔む〕じやうしよ)求(もとめ)て」と書〔かき〕て讀(よみ)し、兼好が歌をほんあんして、たてけり。

  ひとつ塚松とならびの岡のべに

    あはれいくよの恥をさらさん

 

[やぶちゃん注:「ならびの岳(をか)」京都盆地北西部の京都府京都市右京区御室双岡町(おむろならびがおかちょう)にある古生層の孤立丘「雙ヶ岡(ならびがおか)」(グーグル・マップ・データ航空写真)。標高百十六メートル。国名勝指定。「徒然草」の作者卜部兼好が晩年を過ごした地とされている。古くより「双岳」「雙丘」「双岡」「並岡」など、さまざまな表記がある。

「逢事をいづくにてとか契へききへんうき身の行衞しらねば」整序すると、

 逢ふことを

    いづくにてとか

  契(ちぎ)るべき

      消えむ浮き身の

         行衞しらねば

無論、「浮き」には「憂き」が掛かる。

「逢事はおもひ入日の影たのむにしのそらこそしるべなりけれ」整序すると、

 逢ふことは

    おもひ入日(いりひ)の

  影たのむ

      西の空こそ

         標(しるべ)なりけれ

言わずもがな、「影」は西に沈む太陽の光、「西の空」は西方浄土。

「なきがらを其儘に打捨置〔うちすておき〕ければ」江戸時代の心中は重罪の一つで、幕府は「心中」の文字は「忠」に通ずるとして、この語の使用をさえ禁じ、「相對死(あひたいじに)」と呼ばせ、心中した男女は不義密通の罪人扱いとし、二人の遺体は「遺骸取捨」と命じて葬儀・埋葬を禁じた。一方が死んで、一方が生き残った場合は、生き残った方を死罪とし、また、両者とも未遂に終わった場合には非人身分へ落とした。享保七(一七二二)年には浄瑠璃・歌舞伎の心中を扱ったものの上演が禁止されてもいる。

「つきこめ」「搗き込め」。

「無常所」墓地のこと。

「ほんあん」「翻案」。

「ひとつ塚松とならびの岡のべにあはれいくよの恥をさらさん」「兼好法師集」にある以下の戯歌。いやらしい歌で、やはり二人可哀そうである。

   ならびの岡に無常所まうけて、

   かたはらに櫻を植ゑさすとて

 ちぎりおく花とならびの岡のべに

       あはれいくよの春をすぐさむ

   *

晩年のものであろう。自身の死後を想像した一首で、桜を擬人化し、自分の墓の隣に植えた桜の花が咲く遠い未来の春に思いを馳せたもの。但し、実際には、彼はこの双ヶ岡で死んだのではない。最晩年には伊賀国司橘成忠に招かれて、かの地に転住し、貞和六(一三五〇)年にそこで六十八で亡くなっている。墓は江戸時代の元禄頃(一六八八年~一七〇四年)に旧跡と同じ場所に創建された浄土宗長泉寺の中に移されて現存する(グーグル・マップ・データ)。本書の刊行は貞享四(一六八七)年であるから、まだ旧地にあったことになる。]

2020/12/25

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(25:蝶)

 

 ○蝶、倭漢三才圖會卷六八云く、立山有地獄道追分地藏堂、每歲七月十五日夜、胡蝶數多出遊、舞於此原、呼曰生靈市、此蝶は生靈の化する所と云義にや。

 

[やぶちゃん注:ウィキの「チョウ」の「伝承」の項を引く。『世界各地にチョウが人の死や霊に関連する観念が見られる。キリスト教ではチョウは復活の象徴とされ、ギリシャではチョウは魂や不死の象徴とされる』。『ビルマ語に至っては〈チョウ〉を表す語』である「レイッピャー」が『そのまま〈魂〉という意味で用いられる場合もある』。『日本でも栃木県宇都宮市で、盆時期の黒いチョウには仏が乗っているといい、千葉県でも夜のチョウを仏の使いという』。『チョウを死霊の化身とみなす地方もあり、立山の追分地蔵堂で「生霊の市」といって、毎年』七月十五日の『夜に多数のチョウが飛ぶという』(後注参照)。『秋田県山本郡ではチョウの柄の服を好む者は短命だという』。『高知県の伝説では、夜ふけの道で無数の白い蝶が雪のように舞い、息が詰まるほどに人にまとわりつき、これに遭うと』、『病気を患って死ぬといわれる怪異があり、同県香美郡富家村(現・香南市)ではこれを横死した人間の亡霊と伝えている』。『「春に最初に白いチョウを見ると、その年の内に家族が死ぬ」「チョウが仏壇や部屋に現れるのは死の前兆」という言い伝えもある』。]『奥州白石では、チョウが大好きだった女性が死に、遺体から虫が湧いて無数のチョウと化したという話が伝わる。また』、『秋田県上総川の上流で、かつて備中という侍が沼に落ちて死に、チョウに化身して沼に住み着き、現在に至るまで曇った日や月の夜に飛び上がって人を脅かすという。そのことからこの沼を備中沼、または別蝶沼ともいう』とある。私は何度も語っているのだが、「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蝶」の注で示した如く、意外の感を持たれるかも知れないが、実は古来、蝶は必ずしも、美しく愛でるものとして一般に認知されていたわけでは実は、ない。例えば、一九七八年築地書館刊の今井彰氏の「蝶の民俗学」によれば(私の長い愛読書の一冊である)、「万葉集」には蝶を直接歌った歌がない。即ち、古えに於いては、蝶はなんらかの不吉なシンボルとして認識されていた可能性が極めて高いということである。蝶が多く棲息するのは、市中ではなく、相対的に緑の多い都会の辺縁部であって、そこは古くはイコール――死んだ者の亡骸を遺棄・風葬・埋葬するべき触穢の空間――であり――死と生の境界――であったのだ。そこに白く空を浮遊する対象物は容易に死者の霊魂を想起させたと思われる。遺体の体液を吸うために蝶が群がるというシークエンスもなかったとは言えない。清少納言や「虫愛ずる姫君」の虫女(むしじょ)カルチャー以前に、死後の世界や霊界とアクセスする回路の虚空を――白昼夜間も問わず――こそ、蝶や蛾は――実は跳梁していたのではなかったか? と私は思うのである。

「倭漢三才圖會卷六八云く、……」地誌部の「越中」の部の「立山權現」の解説中の一節。但し、非常に長いので、当該部を含む「室堂」パートだけを原本より電子化する。原文はカットして、訓点に従って私が一部(記号を含む)を補って訓読したもののみに示す。読みの〔 〕は私が推定で附したもの。歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

○室堂(むろだう) 【此の地より絶頂に至る。凡そ一里に八町。】左に、山、有り、「三寳崩(くづれ)」と名づく。昔、飛驒の小萱(こかやの)鄕に北山石藏といふ者有り。性、貪欲・猛惡にして、毎〔つね〕に物の命を殺し、人を害し、遂に自〔おのづから〕變じて鬼神と成り、尖(とが)れる牙を生じ、此に隱る。別山〔べつざん〕の金剛童子の爲〔た〕め、逐(を)はれて、牙、拔け、口噤(ごも)りて、死す。其の牙、今に在りて、寳物と爲す。右に根尾の社(やしろ)、有り、又、「天狗の嶽(だけ)」有り。其の峯に龍神の社、有り、是れ、乃(すなは)ち、「狩籠(かりこ)の池」の神なり。「地獄道」、「追分地藏」有り、毎歲、七月十五日の夜、胡蝶、數多(あまた)出でて、此原に遊舞す。呼びて「生靈市〔しやうりやうのいち〕」と曰ふ。髙卒塔婆(たかそとば)を立てて、無緣菩提を弔ふ。毎夏月、麓の二十四坊の中、三坊、相ひ更(かは)りて、室堂に住居(すまい)し、登山の人、此に寓(やど)る。【余月は、人、住まず、參詣の人も亦、無し。】。室堂 【四間に五間、三棟。】阿彌陀・聖觀音・地藏の三體、有り。

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附近のグーグル・マップ・データ航空写真をリンクさせておく。ここにある建物(ストリート・ビュー)最古の山小屋とされる「室堂」の南に建つ)に安置されてある。グーグル・マップ・データ航空写真拡大ではこの中央。私の「諸國里人談卷之三 立山」にもここの「精霊市(しやうりやういち)」が語られており、心霊スポットとして立山の室堂及び地獄谷はかなり古くから知られていた現世と霊界が同時に存在する稀有の場所であったのである。]

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(24:蜜蜂)

 

 ○蜜蜂 蜜蜂は神に捧ぐる蜜酒(ミード)を原造するを以て、神使となし、今も歐州に死人有れば、便ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]家に飼える[やぶちゃん注:ママ。]蜜蜂に訃を傳へて、樂土に報ぜしむる風あり(Notes and Queries. May 30, 1908, p. 433)。英國には、蜜蜂故無くして巢を損るは[やぶちゃん注:「すつる」。]、家主死す可き前兆と信ずる者多く(Hazlitt, ‘Faiths and Folklore,’ 1905, vol. i. p. 38.)、支那には、蜂の分るゝ日を吉日として、婚姻、造作始めし、又市を立る所あり(予の ‘Bees and Lucky Days’ N. & Q., Oct. 10, 1908, P. 285.)本邦には、斯る事を聞ず、深山に石蜜木蜜有れど、古くは之を採らざりしにや、其名は美知といふも實は漢音也。推古帝の朝、百濟の王子豐璋、蜜蜂を三輪山に放ち飼はんとせしも蕃殖せず(藤岡平出二氏日本風俗史上編六三頁)。延喜式、諸州の貢物を列せるに、蜜蜂を擧げずと記憶す、後世にも其產甚希なりしにや、予が大英博物館にて閱せし‘Breve Ragguaglio del Giapone ristampato in Firenze,’ 1585(天正十三年、九州の諸族が羅馬に派遣せる使節より、聞く所を板行せる也)に、日本に蜜蜂無ければ、蜜も蜜蠟も無し、其代りに一種の木あり、好季節を以て之を傷け、出る汁を蒸溜して蠟代りの品を採れども、蜜蠟程稠厚[やぶちゃん注:「ちうこう(ちゅうこう)」。濃く厚いこと。]ならずと有るは、漆の事を言るにや、兎に角蜜蜂を飼ふ事稀なりし故、蜜蜂を神異とせる譚も聞かざる也、但し日吉山王利生記卷三に蜂は山王の使者と見え、十訓抄一に、余五太夫蜂が蜘蛛の巢に掛れるを救ひし返酬に、蜂群來て助勢し、敵を亡ぼしければ、死したる蜂の跡弔はんとて、寺を建たる話有れども特に蜜蜂とは記さず。

 

[やぶちゃん注:「蜜酒(ミード)」蜂蜜を原料とする醸造酒。英語「mead」。ウィキの「蜂蜜酒」によれば、『蜂蜜酒(はちみつしゅ、ミード)は』『国によって呼称が異なるが、多くは印欧祖語で蜂蜜を意味する』『médʰuに由来する』。『水と蜂蜜を混ぜて放置しておくと』、『自然に酒の成分であるアルコールになることから、発祥は人類がホップやブドウに出会う前の旧石器時代末にまで遡ると言われている』。『青銅器時代に蜂蜜の消費量が増加したことから、蜂蜜酒の生産がこの頃に拡大していたと推測される。しかし、ビールやワインなどの他の醸造酒が台頭するに連れて蜂蜜酒は日常的な飲み物ではなくなっていった』。『現在、蜂蜜酒の市場は東欧やロシアが主である。自家生産される地域は中東、エチオピアなどアフリカ諸国、中米からブラジルにかけて点在している』。『日本でも生産されている』。『蜂蜜酒は農耕が始まる以前から存在し、およそ』一万四千年『前に、狩人がクマなどに荒らされて破損した蜂の巣に溜まっている雨水を飲んだ時が最古の飲酒だと言われている。「混ぜる」という基礎的な料理行為から作られたミードは「飲み物」の先祖と見ることができ、加熱も不要な最も原始的な発酵飲料である。製法が発展するに従い』、『湯や他の植物を使うようになり、ビールに近い味になっていった。蜂蜜酒の製造は共同体での活動に空腹を満たす以上の動機、酔いを分かち合うという目的を与えた。酩酊による非日常感は、人々の絆を強めるといった霊的交流や宗教、儀礼行為へとつながっていった。クロード・レヴィ=ストロースは蜂蜜酒の発明を、「自然から文化への移行であり、人間の行動を決定づける行為である」と分析している』。『新石器時代のビーカー文化』(鐘状(かねじょう)ビーカー文化(英語:Bell-beaker culture)。紀元前二千六百年頃から紀元前千九百年頃までの後期新石器時代から初期青銅器時代にかけて広がっていた、「鐘状ビーカー」と呼ばれる独特の大型広口杯の分布域。「文化」とつくが、単一の文化圏ではない。分布域は当該ウィキの地図を参照されたい)『の遺跡では、蜂蜜酒を飲むための土器と考えられる遺物が発見されている』。『また、古代ケルト文化の人々には蜂蜜酒は「不死の飲み物」とされ、その神話と強い結び付きがある。古代アイルランド・ケルト人は、先王が失脚すると、敬意を込めて蜂蜜酒の入った桶で溺死させて、祖先のもとに送った』という。『古代から中世初期のスラヴ人とゲルマン人の間で、ビールと並んで最も一般的な酒であった。当時はワインやビールに蜂蜜を入れて飲むことが多く、ビールにホップが入れられるようになる』十六『世紀までは』、『蜂蜜酒と問題なく共存していた。イギリスにおいても同様であるが、人口が増えるにつれ』、『蜂蜜酒が行き渡らなくなり、中世のイングランド人にとって蜂蜜酒は貴族的な飲み物となった。一般市民には軍隊生活や祭礼の時に飲まれる程度だった』。『蜂蜜酒に代わり』、『一般市民が飲むために穀物から醸造されるエールが開発され、時代が下ってビールとなっていった』。以下、「製法」があるが、略す。

「家に飼える[やぶちゃん注:ママ。]蜜蜂に訃を傳へて、樂上に報ぜしむる風あり(Notes and Queries. May 30, 1908, p. 433)」「Internet archive」の当該書のこちらの右ページの右中央にある「TELLING THE BEES」に、

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   What follows seems to be new, and was given to me recently in wiltshire, where the bees are still told if a death occurs in a family.

  1. Bees foretell, by their behaviour, weather-changes sooner than these can be discerned by their owners.
  2. They foretell death when a swarm alights on dead wood.
  3. Or good luck, by alighting on living wood.
  4. They awake at midnight on Christmas Eve and hum loudly in their hives to salute the new-born King.

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の前書と、「2」及び「3」が該当する内容である。

「英國には、蜜蜂故無くして巢を損るは、家主死す可き前兆と信ずる者多く(Hazlitt, ‘Faiths and Folklore,’ 1905, vol. i. p. 38.)」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「信仰と民俗学」。Internet archive」の当該書のこちらの左ページの右にある「BEES」の条の頭の部分に、

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A vulgar prejudice prevails in many places of England that when bees remove or go away from their hives, the owner of them will die soon after.  A clergyman in Devonshire informed Mr. Brand, about 1790, that when a Devonian makes a purchase of bees, the payment is never made in money, but in things, corn for instance, to the value of the sun agreed upon.  And the bees are never removed but on a Good Friday.  In “The Living Librarie,translated by Jhon Molle, 1621, we read: Who would believe without superstition (it experience did not make it credible), that most commonly all the bees die in their hives if the master or mistress of the house chance to die, except the hives be presently removed into some other place. And yet I know this hath happened to folke no way stained with superstition."[やぶちゃん注:一部の綴りを改めた。以下、略すが、続いて蜜蜂の移動(分蜂)と人の死の呪的関連が書かれている。]

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の内容がそれらしく読める。

「支那には、蜂の分るゝ日を吉日として、婚姻、造作始めし、又市を立る所あり(予の Bees and Lucky Days’ N. Q., Oct. 10, 1908, P. 285.)」欧文「Wikisource」で、当該論文の画像と電子化がある。ここここ。一部の表記を原画像で補正した。

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BEES AND LUCKY DAYS.―― From the following passage in Wang Shi-Chin's ‘Chi-pei-yau-tan,’ completed in 1691 (Brit. Mus. 1533 1. e. 3, lib. iii. fol. 3b), it is manifest that some Chinese of old entertained a belief in bees living in direct contact with the gods (cf. Mr. Gomme's work quoted at 10 S. ix 433, col. 2) :―

  "The inhabitants of certain mountains south of Yau-yüe are all in a lifelong ignorance of the calendar, but in its stead they observe punctually every morning and evening the hives which every family keeps. Whatever day the bees happen to swarm, is deemed unfailingly lucky, and business of all kinds is favourably transacted on it. Should some business chance to be unfinished in the day, it is put off till another occasion of bees swarming. On such a day also are celebrated ordinarily the ceremonies of marriage and of beginning buildings. Thus, swarm in whose house the bees may, the neighbours and servants go round the place with the news ; indeed, the people never attempt to conceal the fact. Once upon a time a trading stranger came and sojourned in the locality for a year, and during this time he attentively recorded the days when bees swarmed, altogether numbering one hundred and odd. On his return home, he examined the calendar, and was astonished on finding those days without exception marked dies albi ; whereas all other days on which the bees did not swarm were either unlucky or void of import. So wonderful is the mystic instinct of these animals, which enables them to communicate freely with the Creator."

         KUMAGUSU MlNAKATA.

  Tanabe, Kii, Japan.

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機械翻訳でも述べている内容は概ね了解出来たものの(「albi」は遂に判らない)、原拠の「Wang Shi-Chin's ‘Chi-pei-yau-tan,’」が中国語に冥い私には全く判らなかったため、何時もお世話になる、中国語に堪能な私の教え子のS君にメールをした結果、数分で解明してくれた。これは、清朝初期の詩宗で別名を王漁洋と称した王士禛(一六三四年~一七一一年:ネット検索で「Wang Shizhen」の転写を見つけた)の随筆集「池北偶談」(Chibei outan:同前)であった。そこで「中國哲學書電子化計劃」で「同書」を「蜂」で検索した結果、その第二十三巻に、

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謝臯父晞髮、集有「粤山蜂分日記」云、「甌粤之南某山、其民老死不知曆、惟戶養蜂四時。旦暮悉候之蜂之分、也其日必吉、人家無大小貿易、皆、趣成之事。未及辨、則、以待後之分、日至於婚嫁興作、皆、候焉蜂移之家。若隣若僕無近、逓相報不敢隱有販者、至其地留一年、書蜂分之日。凡百有竒歸取曆驗之、皆、黃道紫微天月、德吉曜也。其不分者、非凶星、則常日也。物性之靈、能通造化、如此。」。

   *

とあるのを見出せた(一部の漢字表記を日本人にも判るように変更し、自然流で句読点を施した)。さても! これが、熊楠の原拠である(但し、私には意味の判らないところがある)。因みに、ここに出る、「粤某山蜂分日記」なるものも、中文「維基文庫」の「晞髪集(四庫全書本)」(南宋の詩人翱(しゃこう)の詩文集)に発見したので、以下にベタで示しておく(一部の漢字表記を変更した。前と同じく、やはり部分的にしか意味は判らぬ。後学者のために資料として示しておくだけである)。

   

歐粤之南有某山焉跨羅浮挹九疑穴其竇而下空洞橫亘數千里與勾漏通山之陽其民至老死不知歲曆唯以甲子紀日由穴之隂而南雖甲子亦不書山衆夭小鑿石竅繩其上屋纍纍而下者若蒙髙者若浮圖戶養蜂分地蒔花編竹若蔬菓擘杉桐卷之或取雜木刳其中爲蜂房纔百之一每數日蜂輒有分者置不問聽其所止而休焉率以蜂之多寡爲家之厚薄四時旦暮𢘤蜂故曆與甲子可無也蓋衙而知早晚出入而知寒暑四時之花卉不同而蜜亦異味是其候也至於有事而吉亦於蜂候焉濵是山之郡其人皆能言之蜂之分也其日必吉人家無大小貿易偶及蜂分則趣成之事未及辦則以待後之分日至於婚嫁已納采而未迎興作已畢工而未落成皆候焉或父子兄弟分業而居則𠉀其日時而幷用之隣里親戚置酒嬴老相與賀數向之獲是而吉者例指以爲盛事蜂移之家若僕若隣無無近逓相報俾皆知是日之吉不敢隠有販者至其地留一年書蜂分之日凡百有竒歸而詰曆驗之皆黃道紫天月德活曜其星也其不分者非凶星則常日也余聞之始而疑中而信而驚以愧不知兹蜂之爲何物也且其王生而有髭則爲異舉族附之不敢後則爲忠遭物害而去有相失者不肯附他族必徬徨噬囓自相枕籍以死則爲貞出則紛然先後奔走之不暇則爲勤歸則翕然集若赴期而聴號令則爲整食蜜之餘以遺取者不怨則爲廉為房以自居則爲智有蠆以自衞則爲勇脩是數德而又能知天時以協人事則夫貪賄無謀亂行離次棄君事讎反覆變詐以取富貴利祿者身爲蠆尾而不䘏雖其形則人也使其居深山中與不知甲子之民將必到五行以爲民害寧不爲兹物之愧

   

「石蜜木蜜」「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜜」(リンク先は私の電子化注)に、

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石蜜は 巖石に生ず。色、白くして膏のごとし。最も良と爲す。

木蜜は 樹の枝に懸けて之を作るは、色、青白。

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とある。同書の記載は、ややあっさりしていて、やや不満足なので(但し、その前の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜂」では蜜蜂を扱っているので読まれたい)、貝原益軒の「大和本草」の巻十四の「陸蟲 蟲之下」の「蜂蜜」が、本邦の養蜂を語っていて面白いので、電子化しようと思った(「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」の分割PDF版のこれ13コマ目からで)のだが、これが、また、同条自体、かなり長い。躊躇していたところ、幸いにして、サ「つくば養蜂研究会のサイト「ハチドットネット」のこちらに電子化されているのを見出したので、それを加工用に使用させて戴きながら、上記の「中村学園」版を視認し、正字で表記させて戴くこととした。原文は漢字カタカナ交じりで、訓点附き漢文であるが、総て漢字ひらがな交じりとし、漢文部は訓点に従って訓読した。但し、送り仮名等の一部は私が施し、難訓と思われる箇所には推定で歴史的仮名遣で読みを振った。益軒の振った読みはカタカナのままで残した。句読点・記号等も追加し、改行も施した。

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蜜蜂 「本草」[やぶちゃん注:明の李時珍の「本草綱目」。]を考ふるに、「石蜜」あり、「木蜜」あり、「土蜜」あり、人家に養ふ家蜜あり、すべて、四種なり。

日本にも亦、此の四種あり。

「石蜜」は高山の岩石の間に之れを作(な)す。其の蜂、常の蜜蜂に異り、黑色にして、虻に似る。日本にも、處々、之れ有り。

「木蜜」は、陶弘景曰はく、「樹枝にかけて、巢を作る」と。日本にも之れ有り。人家に養ふも、本、是れを取り來る。又、大木の空虛(うろ)の内に房(ばう)を作り、南方より小穴を開けて、出入す。穴、大なれば、熊蜂、入りて、蜜蜂を喰ひ殺し、蜜を吸ひ取る。山にある「木蜜」は木の空虛の内に房を作る者、多し。枝にあるは稀なり。

「土蜜」は山の崖など、かはきたる土中に房を作る。是れ、「土蜜」は日本にも稀れに、之れ、有り。

人家に養ふ者、此の三種は、同じ蜂なり。常の蜂に似て、小なり。色、微黃なり。常には、人を螫(サヽ)ず、人さはれば、さす。

伊勢・紀州・熊野・尾張・土佐、其の外、諸國より出づ。土佐より出づるを好品とす。何(いづれ)の國より出でても、「眞蜜」を好しと爲(な)す。

蜂房の内、處々に自(おのづと)したゞり、たまるを、とり、用ゆ。是れを「眞蜜」とす。生蜜(なまみつ)なり。上品とす。藥に用ふべし。蜂房を煎じ出だして蜜とす。是れは下品なり。藥に用ひず。

煮熟せざる生蜜をもちひ、我が家にて煉熟すべし。藥肆(やくし)に賣るに、「眞蜜」あり、「砂糖蜜」あり、擇ぶべし。「黑蜜」は、黑砂糖に酒と水とを加ヘ、煮て、蜜と爲す。「白蜜」は、白砂糖の煮汁なり。此れ、二品は用ふべからず。異邦・諸國より來るにも、眞僞あり。擇び用ふべし。又、長崎にて、蜜煎の果(くわ)も、糖煎多し。[やぶちゃん注:最後の部分(原文『長崎ニテ蜜煎ノ果モ糖煎多シ』で読みが不審。「長崎にて「蜜を煎じた」と称して売られているもの(「果」を法律用語の「天然果実」の意でとる。販売用の成果物の「果」である)も実は偽物の糖類を煎じ煮つめたものが多い」の意であろうか。]

蜜の眞僞を試る法。鐡の火箸を、赤くやきて、蜜の中に入るゝに、たぎりて氣(イキ)の出づるは「眞蜜」なり。烟(けぶり)出づるは僞なり。是れ、時珍が說なり。

○蜜を煉(ね)る法。先づ、陶器に、蜜を、布にて、こして入れ、其の陶器を、鍋に沸湯をわかして、入れ、重湯(おもゆ)にて湯煎し、浮く沫(あわ)を箆(ヘラ)にて、すくひ去り、蜜を、少し、水に滴(したたらせ)てゝ[やぶちゃん注:ここも原文不審。『滴テヽ』。このカタカナの反復記号「ヽ」は、読点の誤りではないかと私は判断する。]、珠をなして、散らざるを、度(たびたび)と爲(な)し、壺に納め貯ふべし。百六十匁[やぶちゃん注:六百グラム。]を煉りて、百二十匁[やぶちゃん注:四百五十グラム。]を得べし。此くのごとくずれば、年をへて、敗せず。

○蜜を多く食ふべからず。溼熱[やぶちゃん注:「しつねつ」。「溼」は「濕」の異体字。余分な水分の悪質な気が身体に滞留し、熱を持つようになった状態。]と虫𧏾[やぶちゃん注:「ちゆうじつ」。虫刺されのような皮膚疾患。]を生ず。小兒、尤も戒しむべし。生葱(なまねぎ)・萵苣(ちしや)[やぶちゃん注:レタス。]と同食すべからず。蜜を食し飽きて、鮓(すし)を食へば、暴死す。

[やぶちゃん注:凄い言い方やねん!?! 但し、小児の摂取を警告しているのは正しい。「乳児ボツリヌス症」を発症する危険性があるからである。乳児ボツリヌス症は、筋力低下を引き起こす感染症で、生命を脅かすことがあります。フィルミクテス門 Firmicutes クロストリジウム綱 Clostridia クロストリジウム目 Clostridiales クロストリジウム科 Clostridiaceae クロストリジウム属クロストリジウム・ボツリヌムボツリヌス(菌) Clostridium botulinum の芽胞(細菌が不活性の休眠形態になった状態を言う)を含んだものを摂取した乳児に発生する。ボツリヌス菌は生存に酸素を必要としない嫌気性細菌で、本種は芽胞を形成することで過酷な環境でも生き延びる能力を持っており、環境がよくなると、芽胞は活性型の細菌に戻る。ボツリヌス菌の芽胞は水分と栄養があって、同時に酸素がない環境(動物の腸管等)で活性型細菌に戻る。乳児がボツリヌス菌の芽胞を含んだ食べものを摂取すると、芽胞が腸内で活性型細菌に変化し、毒素を作り出してしまう。その機序には不明な点も多いが、この症状は生後六ヶ月未満の乳児に最も多く発生する。発症原因も不明であるが、一部ではハチミツ摂取と関連していることが明らかになっており、現在、医師は十二ヶ月未満の乳児に蜂蜜を与えないように推奨している。殆んどの感染児では便秘を初症状とする。次に筋力低下が起こり、顔面・頭部に始まり、腕・脚・呼吸に関わる筋肉に伝播する。重症化して筋緊張が広範囲に消失、呼吸困難に陥り、死に至る場合もある(主に「MSDマニュアル家庭版」に拠った)。]

蜜蜂の蜜を作るは、春の末より秋の末まで出でて、花を含み、花を翅(ツバサ)と足の間に挾(ハサ)み、或いは、花の汁を含み來り、房中に、ぬり付けて、釀(カモシ)て蜜となす。酒を釀すがごとし。凡そ蜜蜂は、甚だ風寒を畏(おそ)る。冬の初めより、出でず、房の中に蟄居す。其の間は、曾て釀して貯へ置きたる蜜を粮(かて)とし、食ふ。蜜は蜂の粮なり。故に蜜を取るに、粮を殘して、取り盡さず。取盡せば、うへ、[やぶちゃん注:ママ。]死す。

○『時珍云はく、「蜂、無毒の花を采(ト)つて釀すに大便を以つてして蜜と成す。所謂、臭腐、神奇を生ずるなり」。陶弘景曰く、「凡そ、蜂、蜜を作る、皆、人の小便を須(もち)ゆ。以つて諸花を釀して、乃(すなは)ち、和熟を得。飴を作るに、蘗(きはだ)を須ゆるに似たるなり」。李中梓が「藥性解」に云はく、「蜂蜜、良(やや)に百花の精有り、且つ、人の溺(いばり)[やぶちゃん注:小便。]を取りて、以つて、之れを釀す」。

[やぶちゃん注:「蘗」ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense 。内皮に苦味がある。過去に木曽でキハダ餅を作ったという事実がある。現在は長野県大町市平の「キハダ飴本舗」のみが製造している。「李中梓」明代の著名な医師。「藥性解」は彼の書いた著名な薬学書・処方書で正式には「雷公炮製藥性解」という。]

○蜜蜂を家に久しく養ひて、能く知る者、數人の說を委しく聞きしに、蜂の大便、人の小便を用ると云へる說、甚だ非なり。蜂、毎日、巢の内より多く出でて、其の口及び翅(ツバサ)の間、股の間に花を挾(はさ)み來りて、房に、ぬり付けて、釀し成せるなり。蜂の糞は、皆、下にあつまる。時々、是れを取りて、すつ。すてざれば、虫、生じて、害あり。是れ、蜜は蜂の糞に非ず。蜂の蜜を釀スすは、粮にせんためなり。何ぞ、我が糞を粮として食すべきや。此れ、理(り)なし。又、人の小便は、けがらはしく、鹽(しほ)あり、これを加ふべき理、なし。況や、岩蜜・木蜜・土蜜は山中無人の處にあり、人の小便を取るべからず。凡そ、蜜は、百花の淸潔なる精液を用ひて作り出せるなり。蜂の大便、人の小便を用ゆと云ふ事、返す々々(かへすがへす)、ひが言なり。信ずべからず。古人の博洽(はくかう)[やぶちゃん注:博識。]と雖も、自(おのづか)ら試むを知らずして、漫(みだらな)る說、傳へ誤る者、多し。一人、虛を傳へれば、萬人、傳へて、以つて實と爲す。孟子曰はく、「盡く、書を信ぜば、書無きに如(し)かず。」。誠なるかな、斯くの言(げん)や、吾、蜜蜂の爲(ため)に、寃(ゑん)を訴ふるのみ。

○蜂房は、蜂、每年、改めて作る。家に養ふは、蜂房をわりて、房中に自(ヲのづから)[やぶちゃん注:「ヲ」のみが右上に振られてあるのである。]たまれる蜜をとる。是れ、上品なり。藥と爲すべし。然れども、多く得難し。故に蜂房をわりて、三分の一は殘して粮と爲し、三分の二を取りて、大器の上に、竹を、わたしならべ、其の上に、わり取りたる蜂房を置きて天日に曝(サラ)せば、蜜、煖氣にとけて、器中に滴りをつるを取る。是れ、中品なり。蜂房を釜に入れて煮て、蠟を取り、其のあとを煎じつめて、蜜とす。是れ、下品なり。藥ニ入るべからず。故に生蜜を上品とし、熟蜜を下品とす。

○蜜蠟は、蜜を煎じて、面(おもて)に浮ぶ査(かす)なり。黃蠟と云ふ。

   *

私は「大和本草」の水族の部の全電子化注を終わっているが、これほど面白く、また、これほど益軒に全共感出来た記載は、これが初めてである。

「其名は美知といふも實は漢音也」源順の「和名類聚抄」の巻十九「蟲豸部第三十一」の第二百四十に、

   *

蜜蜂(ミツハチ)【蜚零附】方言注に云はく、「蜜蜂」【は和名「美知」。「波知蜜」は「飮食の部に見ゆ」。】黒蜂は竹木に在りて孔を爲す。又、室に有る者や、「本草」に云はく、「蜜蜂子」。一名、「蜚零」【今、案ずるに「蜚」は、古く「飛」の字なり。】。

   *

とある。この附帯する「蜚零」というのは、少なくとも現代中国語ではミツバチ類を指さない。膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科アシナガバチ亜科 Polistinae の種群を指すようである。

「推古帝の朝、百濟の王子豐璋、蜜蜂を三輪山に放ち飼はんとせしも蕃殖せず」「日本書紀」巻第二十四の皇極天皇二(六四三)年の条の末尾に、

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是歲、百濟の太子餘豐(よほう)密蜂の房(す)四枚(よひら)を以つて、三輪山に放ち養(か)ふ。而れども、終に蕃-息(うまは)らず。

   *

とある。扶余豊璋(ふよ ほうしょう 生没年不詳)は百済最後の王であった義慈王(在位:六四一年~六六〇年)の王子。「日本書紀」での表記は「餘豐璋」「餘豊」「豐璋」「豐章」本邦に滞在中に百済本国が唐・新羅連合軍に滅ぼされたため、百済を復興すべく帰国したが、復興は果たせなかった(詳しくは彼のウィキを参照されたい)。このシークエンスは、亡国のイメージとともに、私には何か哀しいものとして映像化される。

「藤岡・平出二氏日本風俗史上編六三頁」藤岡作太郎・平出鏗二郎(こうじろう)共著。明三〇(一八九七)年東陽堂刊。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で当該箇所が読める(左ページ三行目)。しかし、この引用指示も熊楠らしくない。「日本書紀」と堂々と言えばよい。

「延喜式、諸州の貢物を列せるに、蜜蜂を擧げずと記憶す」これは熊楠の勘違い日本養蜂協会公式サイトの「日本の養蜂の歴史」に、『日本ではじめてミツバチのことが史上に現れたのは「日本書紀」の』推古三五(六二七)年の『くだりに「夏五月、蝿有り、聚集れり、その凝り累なること十丈ばかり、虚に浮かびて以て信濃坂を越ゆ。鳴く音雷の如し。すなわち東のかた上野国に至て散りぬ」との記載があります。この頃は一般には「蜜蜂」という文字も言葉もなく、これを蝿の群れと呼ぶほか表現の方法がなかったのでしょう』。以下ダブるが、『文献上で「蜜蜂」の語が初めて用いられたのは「日本書紀」の』皇極二(六四三)年の『くだりに出てくる「百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚をもって三輪山に放ち、養う。しかれどもついに蕃息(うまわ)らず」 という記載です。百済人の余豊が奈良の三輪山で養蜂を試みたけれど、失敗に終わったという記録で、これが日本における養蜂のはじめだというのが通説になっています。』『奈良時代には、はちみつは三韓などから貢物として献上されています。たとえば』、天平一一(七三九)年に『対岸の渤海国から「文王致聖武天皇書」に添えて』「大蟲皮、羆皮各七張、豹皮六張、人參三十斤、蜜三斤」と『はちみつが献上されていますが、蜜』三『斤が豹の皮』六『張と同格に扱われるほど、貴重な物であったことがうかがえます』。天平宝字四(七六〇)年には、五『大寺に使を遺わし、毎寺雑薬』二『櫃と、蜜缶』一『口とを施すとあり、貴重な薬としても使われていたようです。(と言ってしまってもよいでしょうか?)』とあり、『平安時代になると、国内でも蜜を献上していた記録が見られるようになります』。「延喜式」(九〇五年~九二七年)には、「蜜、甲斐國一升、相模國一升、信濃國一升、能登國一升五合、越後國一升五合、備中國一升、備後國二升」と『あり、別の箇所には』「攝津國蜂房(蜜の貯まった巣)七兩、伊勢國蜂房一斤十二兩」を『献上したと記載されています。蜂房とは、はちみつの貯まった巣のことですから、はちみつだけでなく、蜜巣まで献上されていたようです』とあるからである。因みに以下、『源氏物語の「鈴虫」の巻の冒頭には、「荷葉の方をあわせたる名香、蜜をかくしほろろげて、たき匂はしたる」とあり、当時、はちみつで香を練っていたことがわかります。平安時代の終わりごろには、「今鏡」では貴族が、「今昔物語」では庶民の間でミツバチが飼われていた様子が描かれています。鎌倉時代から中世にかけての間では、文献上に養蜂関係の記載はみられません』とあって、当時の朝廷の連中は、ガッツリ、蜂蜜を民草から奪取し、舐め食っとるぜよ!

「予が大英博物館にて閱せし‘Breve Ragguaglio del Giapone ristampato in Firenze,’ 1585(天正十三年、九州の諸族が羅馬に派遣せる使節より、聞く所を板行せる也)に、日本に蜜蜂無ければ、蜜も蜜蠟も無し、其代りに一種の木あり、好季節を以て之を傷け、出る汁を蒸溜して蠟代りの品を採れども、蜜蠟程稠厚ならずと有るは、漆の事を言るにや」書名は「フィレンツェで転載(増刷?)された日本に就いての短い要約」か。岩手県浄法寺町発信のサイト「うるしとわたしたちのくらし」の「漆の木 いろいろな使い方 漆の実で作った蝋燭(ろうそく)」に、『漆の実もまた、昔の人々の生活を支える大切なものでした』。『漆の実は「蝋分」(ろうぶん)という成分を含んでいます。江戸時代から昭和』三十『年代まで、この蝋分を絞り出して、蝋燭(ろうそく)や鬢付油(びんつけあぶら)などの化粧品の原料として用いられてきました』。『鬢付油は日本髪を結う時に髪型を整えるための整髪料のことで、力士が髷(まげ)を結う時などに使われるものです』。『漆の樹液は、木の器を美しく、また丈夫なものにしてくれました。そして、漆の実は、電気のない時代に、人々の暮らしに火を灯し、また、人々の装(よそお)いを美しく整えてくれたのです』とあり、次のページでは、貴重な漆蠟燭と普通の蠟燭の灯した光の違いが画像で見られる。江戸の夜を照らしたのは、暖かなオレンジ色であった。なお、引用では『江戸時代から』と言っているが、熊楠の謂いが正しいとすれば、「漆蠟」は既に戦国時代に一般化していたと考えねばならない。また、リンクの一ページ目にも載っているが、明治期に「お雇い外国人」として来日し、東京大学で教え、進化論を本邦に移植した一方、大森貝塚を発見し、本邦各地を精力的に探訪したアメリカ人動物学者エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)が一九一七年に出版した“Japan Day by Day”で、現在の岩手県二戸(にのへ)市附近を通った際に見かけた「漆採り」の図を載せ、解説もしている。私は既に同書を総て電子化注している。その日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 5 二戸辺り」を見られたい。解説部と図及び私の附した注を引いておく。

   *

M429

図―429

 昼間通過した村は、いつでも無人の境の観があった。少数の老衰した男女や、小さな子供は見受けられたが、他の人々は、いずれも田畑で働くか、あるいは家の中で忙しくしていた。これはこの国民が如何に一般的に勤勉であるかを、示している。人々は一人残らず働き、みんな貧乏しているように見えるが、窮民はいない。我国では、大工場で行われる多くの産業が、ここでは家庭で行われる。我々が工場で大規模に行うことを、彼等は住宅内でやるので、村を通りぬける人は、紡績、機織、植物蠟の製造、その他の多くが行われているのを見る。これ等は家族の全員、赤坊時代を過ぎた子供から、盲の老翁、考婆に至る迄が行う。私は京都の陶器業者に、殊にこの点を気づいた。一軒の家の前を通った時、木の槌を叩く大きな音が私の注意を引いた。この家の人人は、ぬるでの一種の種子から取得する、植物蠟をつくりつつあった。この蠟で日本人は蠟燭をつくり、また弾薬筒製造のため、米国へ何トンと輸出する。昨年国へ帰っていた時、私はコネテイカット州ブリッジポートの弾薬筒工場を訪れた所が、工場長のホップス氏が、同工場ではロシア、トルコ両国の陸軍の為に、何百万という弾薬筒をつくっているが、その全部に日本産の植物蠟を塗ると話した。ここ、北日本でも、同国の他の地方と同じように、この蠟をつくる。先ず種子を集め、反鎚(そりづち)で粉末にし、それを竈(かまど)に入れて熱し、竹の小割板でつくった丈夫な袋に入れ、この袋を巨大な材木にある四角い穴の中に置く。次に袋の両側に楔(くさび)を入れ、二人の男が柄の長い槌を力まかせに振って楔を打ち込んで、袋から液体蠟をしぼり出す。すると蠟は穴の下の桶に流れ込むこと、図429に示す如くである。

[やぶちゃん注:「植物蠟」木蠟(もくろう。生蠟(きろう)とも呼ぶ)は当時は主にハゼ蠟で、他にウルシ蠟があった。ウィキの「蝋」によれば、ハゼ蠟はムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum  の果実から作られる蠟で、『主として果肉に含まれるものであるが、果肉と種子を分離せずに抽出したものでは種子に含まれるものとの混合物となる。伝統的には蒸篭で蒸して加熱した果実を大きな鉄球とこれがはまり込む鉄製容器の間で圧搾する玉締め法が、近代工業的には溶剤抽出法が用いられる。日本では主に島原半島などの九州北部や四国で生産されている。和蝋燭や木製品のつや出しに用いられる。日本以外では“Japan wax”と呼ばれ、明治・大正時代には有力な輸出品であった』が本邦での生産は衰退した。二十一世紀初頭の現在においては『海外で人気が復活しているが、日本国内での生産量は減少の一途で、特に良質の製品が得られる玉締め法を行っている生産者は長崎県島原市にわずかに残るのみである。木蝋の主成分はワックス・エステルではなく、化学的には中性脂肪である』。主成分はパルミチン酸のトリグリセリドである。一方のウルシ蠟はハゼノキと近縁なウルシ科ウルシ Toxicodendron vernicifluum の果実から採取するハゼ蝋と性質のよく似た木蠟であるが、ハゼ蠟に押され、『現在の日本ではほとんど生産されていない』。主成分はハゼ蝋と同じ、とある。この図429に相当する装置をネット上で探したが見当たらない。モースのスケッチはもはや失われた蠟造りの実際を伝える貴重なものと言える。

「弾薬筒」原文“the cartridge”。明らかに薬莢であるが、ここでモースが詳述するような事実と本邦産のそれが、明治の初めから、多量に、殺人兵器の必要原料として、多量に輸出され続けていたという事実を私は初めて知った。]

   *

なお、この天正十三年の三年前の一五八二年に、ヨーロッパで用いられる西暦は、カトリック教会の主導でユリウス暦からグレゴリオ暦へ改暦されている。但し、グレゴリオ暦の導入状況は国によって異なり、カトリック諸国(イタリア・スペイン・ポーランド等)では早く、プロテスタント諸国(ドイツ・オランダ・北欧等)や独自の国教を持つ国(イギリス・ロシア・ギリシャ等)では後れた。グレゴリオ暦の実施が最も早かった国々では、ユリウス暦一五八二年十月四日木曜日の翌日を、グレゴリオ暦一五八二年十月十五日金曜日とすることによって使用が開始されている(ここはウィキの「天正」の「西暦の改暦」の条に拠った)。

「日吉山王利生記卷三に蜂は山王の使者と見え」「日吉山王利生記」は「ひえさんのうりしやうき(ひえさんのうりしょうき)」と読む。鎌倉後期の成立とされる。著者は未詳。近江坂本に鎮座する山王権現を廻る霊験譚を集めた神道書。国立国会図書館デジタルコレクションの「續群書類從」(写本)のここで現認出来る(左頁後ろから三行目)。

「十訓抄一に、余五太夫、蜂が蜘蛛の巢に掛かれるを救ひし返酬に、蜂群來て助勢し、敵を亡ぼしければ、死したる蜂の跡弔はんとて、寺を建たる話有れども、特に蜜蜂とは記さず」「十訓抄」は私は「じつきんせう(じっきんしょう)」と読むことにしている。鎌倉前・中期に成立した教訓説話集。写本の一つである妙覚寺本奥書によって、六波羅二﨟(ろくはらにろう)左衛門入道とするのが通説で、これは鎌倉幕府御家人湯浅宗業(むねなり 建久六(一一九五)年~?:紀伊保田荘の地頭で、在京して六波羅探題に仕えた。弘長二(一二六二)年に出家し、かの明恵に帰依し、智眼と号した)の通称ともされるが、一方で公卿菅原為長(保元三(一一五八)年~寛元四(一二四六)年:鎌倉初期の学者。文章博士・参議兼勘解由長官で有職故実に通じた)とする説もある。建長四(一二五二)年の序がある。これは「柴田宵曲 續妖異博物館 蜂」の注で既に電子化してある。結構、好きな話である。リンク先は、蜂譚(漢籍も一つ含む)を判りやすく解説しているので、未読の方は、是非、どうぞ。

2020/12/24

御伽比丘尼卷五 ㊁かねをかけたる鳶の秤 付 天狗物語

 

[やぶちゃん注:本篇については、一度、電子化注を行っている。それは、201761日の「柴田宵曲 續妖異博物館 佛と魔(その1)」で、そこでは、注で、

  • 本篇の濫觴たる原話「十訓抄」(鎌倉中期の教訓説話集。編者未詳)の「第一 可定心操振舞事」(心の操(みさを)を定むべき振舞(ふるまひ)の事」の中の一条(これは、2018616日公開の、の江戸中期の俳人で作家の菊岡沾涼(せんりょう)が寛保三(一七四三)年に刊行した怪奇談傾向が有意に感ぜられる百七十余話から成る俗話集「諸國里人談卷之二 ㊃妖異部 成大會」(「㊃妖異の部 ○大會(たいゑ)を成す」)でも示した)
  • その「十訓抄」をインスパイアした小泉八雲の英訳怪談 Story of a Tengu(「天狗の話」:明治三二(一八九九)年刊の In Ghostly Japan(「霊の日本にて」)所収)の原文(これは後の2019年11月7日の「小泉八雲 天狗の話 (田部隆次訳) / 作品集「霊の日本」電子化注~全完遂で訳文も公開している)

を示した後に、

  • 元禄五(一六九二)年刊の本書の改題物である洛下俳林子(実は本書の版元である西村市郎右衛門)作の「諸國新百物語」の本篇同話同文

を電子化したものがそれである。しかしそれは、国書刊行会の叢書「江戸文庫」版を参考に、恣意的に正字化し、一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを附し、読点・濁点を追加したもので、注は附していない。底本の挿絵も添えたが、元画像そのものの僧と天狗の顏の部分に致命的な汚損がある。されば、今回は底本も異なり、一から全てを新たに電子化し、注を附した。今回は既成のそれと差別化するために、成形した段落群の中に注を挿入した。但し、言っておくと、「十訓抄」の原話の方が数倍面白い。未読の方は是非、読まれたい。

 

    ㊁かねをかけたる鳶(とび)の秤(はかり)付(つけたり)天狗物語

 

Tobinohakari

 

[やぶちゃん注:挿絵は、底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像。裏映りが激しいが、致命的な汚損がなく、とてもよい。]

 

 世の中は夢か幻(うつゝ)か、うつゝとも、ゆめとも見えず、ありてなき身のほど、暫(しばし)もやすく、閑(しづか)ならんかたこそと、心の水の淸き、なる瀧の邊(ほとり)にすめる僧あり。名を直眞(ぢきしん)とよぶ。

[やぶちゃん注:「なる瀧」京都府京都市右京区の広域に認められる(「鳴滝」を頭に冠する現地名多し)鳴滝であろう(グーグル・マップ・データ航空写真のこの中央の南北一帯)。南部は市街地となっているが、北部は現在も広大な山林が広がり、隠棲には相応しい地である。別にそのずっと北西の山間に右京区京北下弓削町(けいほくしもゆげちょう)鳴滝(グーグル・マップ・データ航空写真)もあるが、京市街からあまりにも離れ、以下の東福寺(グーグル・マップ・データ)礼拝をふと思いついて出向くには、少し遠過ぎる感じがする。【2020年12月24日追記】T氏より情報を戴いた。この瀧は上記前記の京都府京都市右京区鳴滝蓮池町に現存すると、サイト「京都風光(京都寺社案内)」ここを指摘され、グーグル・マップのその辺りを拡大し、何気なく(ラインはおろか、ドットもないのだが)、試しに、その辺りにストリート・ビューの人形をスライドさせてみたら――うひゃ♡――あった! あった! いや! ここでしょう! きっと!

 

 隱逸の心、すぐれ、身によするあさ衣(ぎぬ)も、垢(あか)のまゝに着なし、思ひそめたる墨染のもすそも、ほころびながらかけたる、木(こ)の葉(は)、破庵(はあん/やぶれいほ)を埋(うづ)み、千草(せんさう/ちくさ)、壁に諍(あらそ)ふ、誠にふりたる栖(すみか)なりかし。

 比は神無月、中の六日、東福禪林寺の開山忌とて、諸人(しよにん)、袖をつらね、くびすをつぐ事、引〔ひき〕もきらず。

「めでたき㚑寶(れいはう)ども、拜(をがみ)なん。」

とて、此僧も都の大路(〔おほ〕ぢ)に出〔いで〕て、万里(まで)の小路(こうぢ)を過(すぎ)、五條の坊門を東へ行(ゆく)。

[やぶちゃん注:「東福禪林寺の開山忌」臨済宗慧日山東福寺の開山は、開基である摂政九条道家の招聘で寛元元(一二四三)年に迎えられた、臨済僧円爾(えんに 建仁二(一二〇二)年~弘安三年十月十七日(一二八〇年十一月十日)。就任は彼が宋での六年ほどの修行を終えて帰国して二年目のことであった。なお、当時は天台・真言・禅の三宗兼学であった。

「くびすをつぐ」「踵(くびす)を接ぐ」。前後の人の踵(かかと)が接するほど、次から次へと人が続くさま。「戦国策」の「秦策」が原拠の表現である。

「万里(まで)の小路(こうぢ)」東京極大路と東洞院大路の中間にあった小路。ここは現在の「柳馬場通」(グーグル・マップ・データ)。【2020年12月24日修正】

「五條の坊門」四条大路と五条大路の中間にあった「五條坊門小路」。ここは現在の「仏光寺通」(グーグル・マップ・データ)。以下、ロケーションは鴨川の両岸となってゆくようである。【2020年12月24日修正】前と併せてT氏より御指摘を戴いたので、修正を施した。T氏から現在の地図に重ねてある「平安条坊図」をご紹介戴いた。これは楽やねえ! 素敵!

 

 爰に、若き男、ふたり、みたり、大きなる鳶をとらへ、

「此儘にや、ころさん。」

又、

「日比(ひごろ)へてや、しめなん。」

と、いふを、此僧、たち聞(ぎゝ)て、哀〔あはれ〕にも、淺ましさ、身にしみて覚へければ、人々にわびていふ、

「我、大俗(〔だい〕ぞく)の昔より、かゝる殺生の命(いのち)をすくはんと、ふかく誓(ちかふ)ことあり。願(ねがはく)は、此命、愚僧に給はれかし。」

と手を合〔あはせ〕、再三におよぶ。

 一人の男、眼(まなこ)をいららけ、

「御僧は何事をかの給ふ。我家(わがいへ)に傳へし、かうやく[やぶちゃん注:「膏藥」。]あり。かくのごとき鳶の大きなるを、酒煮る事、七日して、膏となすに、諸(もろもろ)の腫物(しゆもつ)、愈(いへ)ずといふ事、なし。日比、望(のぞみ)し折から、ごさむなれ。」

と、あらけなく罵(ののしる)に、僧、

「然(しから)ば、此鳶の替りに、死(しゝ)たる鳶を求(もとむ)るの價(あたひ)を得させん。我、此事に、所願、空(むな)しからんも、心うし。平(ひら)に、御芳志あれ。」

といふに、漸々(やう〔やう〕)心とくれば、懷(ふところ)より代(しろ)を出〔いだ〕しあたへて、鳶は虛空(こくう)に放(はなち)やりぬ。

[やぶちゃん注:「ござむなれ」連語で、断定の助動詞「なり」の連用形「に」+係助詞「こそ」+動詞「あり」の連体形「ある」+推定の助動詞「なり」の已然形「なれ」の付いた「にこそあるなれ」の音変化で、中世以降の発生。もとは「ごさんなれ」だったものが、近世中期以降「ござんなれ」ともなった。本来は「~であるようだな」、或いは上に「こそ」を伴って「~なのだな」、 他に「~があるな」や、手ぐすねひいて待つ様子に添えて「よし来た」「さあ来い」の意がある。ここは最後のそれが罵声になった、「なにほざいとんのや? この野郎! 来るかッツ!?!」といった感じの威嚇であろう。]

 

 「淺ましき事に日のたけ行〔ゆき〕けるよ。」

と、獨言して、大仏殿を拜み、猶、南へおもむくに、俄に、つちかぜ列(はげしく)、砂(いさご)を吹上(ふき〔あげ〕)、小石をとばせ、偏(ひとへ)に闇のごとく、雲の中に恠(あやしき)山伏、立むかひ、

「扨も。只今、途中にて、あやうき命を御僧にたすけられ參らせぬ。此御恩、いかにしてかは報じ參らすべき。御僧のはこび給はんには、御寺〔みてら〕の法事、終りぬべしと覺ゆ。いざ、こなたへ。」

と手を取て行〔ゆく〕。

[やぶちゃん注:「大仏殿」京都市東山区の方広寺(グーグル・マップ・データ。鴨川左岸)に嘗てあった非常に大きな大仏殿。「御伽比丘尼卷三 ㊂執心のふかさ桑名の海 付リ 惡を捨る善七」の注で詳しく記したので、そちらを参照されたい。

「御僧のはこび給はんには、御寺〔みてら〕の法事、終りぬべしと覺ゆ」この山伏が登場からして尋常の人間でないのは判るが、ここで直真の予定行動を言い当てているところからこそ、超自然の存在であることを読み取らなくてはなるまい。そうして、そうなってしまったのは拙者を助けるに時を費やしてしまったからであり、身銭も割いて貰ったからには、と彼をその報恩のために誘うのである。]

 

 未(いまだ)十步(じつぽ)にもたらざるに、東福寺の門前にいたる。

[やぶちゃん注:先の方広寺から東福寺の間は一・九キロメートルある。]

 

 貴賤、むらがり集りて、寸地(すんち)もなきを、

「只、我に隨ひ來り給へ。」

と、手を引〔ひき〕て、佛前に參る事、やすやすと、心靜(しづか)に拜み、猶、もとのごとく出〔いづ〕るに、人の上を、のりこへ、のりこへ、行(ゆえ)ど、とがむ人、なし。

[やぶちゃん注:人の頭を地面がわりにして、歩行(飛行(ひぎょう))しているのである。]

 

 山伏のいふ。

「迚(とても)の事に、庵(いほり)迄、送り屆(とゞけ)參らせん。」

と、北をさしてゆく。

 此時、僧、とふて云ふ、

「誠に、只今のふるまひ、見奉るに、更に凡夫の所爲に非ず。皆、神反(じんへん)のふるまひ也。しかるを、先きに纔(わづか)の男に手ごめにせられ、愚僧がたすけにあひ給ふこと、いぶかし。」

と。

[やぶちゃん注:「神反(じんへん)」恐らくは「神變」の謂いであろう。次の部分で「反(へん)ずる」と出るのが、その証左である。「神變」は「しんぺん」で、古くは「じんへん」と読み、人知でははかり知ることの出来ない、不可思議な超自然の変異や超能力を指す。但し、「神変」を「神反」とは書かない。後で「しんべん」とルビするのは、ママである。]

 

 山ぶし、答(こたへ)て、

「されば。人、大將と仰(あを)がるゝ時は、大敵をほろぼし、國家を治め、數万(すまん)人を隨がへるの威(い)あり。是、則、千万人のちからなり。又、落人(おちうど)となりて、隨がふ郞從(らうじう)もなき時は、只、壱人の力なり。盛衰、かくのごとし。左(さ)のごとく、我、神反(しんべん)の身ながら、一月に六たびづゝ、鳶に此身を反(へん)ずるのくるしみ有〔あり〕。此時に至て、又、鳶のちからより外、なし。此故に手ごめにあひぬ。是を世に『魔境』とも、『天狗道』とも、いふぞかし。皆、一心の憍慢(きやうまん)より、左計(さ〔ばかり〕)たとき上人も、此さかひに入〔いり〕給ひし。御僧は、道心堅固に、しかも、名利(みやうり)なし。是を、よく、知りて、慢心のいたる事なく、安心決定(あんじんけつじやう)して、往生をとげしめ給へ。いとま申〔まうす〕。」

と、夕月(ゆふ〔づき〕)のかげに、失(うせ)て、かたち、なし。

 僧は、夢の心ちにてありしが、やうやう、そこら、みまはすに、庵もちかくなる、瀧の道のかたはらに出〔いで〕ぬ。

 是より、ますます、世をつよくいとひ、深き山にかくれて、めでたき終焉(じうえん)をとり給ひしとぞ。

 是、併(しかしながら)、慈悲心のつよきより、魔道のふしぎを見聞(けんもん)して、行(おこなひ)すまし給ひけり。ありても有(あり)たきは、慈悲。願ひても、ねがふべきは佛の道なりけり。

[やぶちゃん注:「魔境」「天狗道」法力を持ってはいるが、何らかの魂の堕落により、天狗道=仏道でも人道でもない魔境(邪(よこしま)な悪鬼や魔物としての世界)に堕ちた境涯を指す。

「安心決定(あんじんけつじやう)」主として浄土教で用い、阿彌陀仏の誓いを信じて一片の疑いもなくなった状態を指す。「信心決定」とも言う。

「夕月(ゆふ〔づき〕)のかげ」夕暮れ時に昇った月の冷たい光り。

 なお、標題の「かねをかけたる鳶の秤」とは「金を掛けたる鳶の秤」で、金を払って救った鳶が、かくも正しき仏法の法(のり)を語り、仏法の正法(しょうぼう)を誤りなく量(はか)った説法を受け、この僧の「安心決定」の秤(はかり)の役目を成したことを指すのであろう。]

2020/12/23

御伽比丘尼卷五 ㊀名は顯れし血文有付めぐり逢たる因果の敵

 

御伽比丘尼卷之五

   ㊀名は顯れし血文有(ちぶみ)付めぐり逢(あひ)たる因果の敵(かたき)

Kumanosukeoyone

[やぶちゃん注:挿絵は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 むかし、遠州のある邊(ほとり)に、幷江治部右衞門(なみへ〔ぢぶゑもん〕)と云(いふ)士(さふらひ)あり。其息に熊の介といふ少年、顏色、世にすぐれ、情ありて、風流、たぐひなし。

 其比、又、牢浪(らうらう)にてゐける鐵心(てつしん)とかやいふ人、くまの介を見初(〔み〕そめ)、戀佗(こひわび)ければ、便(たより)求(もとめ)て、くゆる思ひのふしの烟(けぶり)と燃(もえ)て、上なき思ひをしらせ、あるは、道行〔みちゆく〕隙(ひま)もとめて、文〔ふみ〕を拗(なげ)やりなど、いとかしがましきを、父の治部(ぢぶ)、聞つけ、いかり、腹だち、

「所詮、此ものゝまへがみのうるはしければ社(こそ)あれ。」

と。、理不盡に、ひたひをいれぬ。

 かくありて猶、面ざし、にくからず。人戀草(〔ひと〕こひぐさ)の種、しげれり。爰〔この〕隣(〔と〕なり)なるさとに、伊吹やの久米(くめ)といふ女あり。是はよし原の戀ざとにて、「かづらき」といひし女郞(ぢよろう)なりしが、去(さる)子細あつて、此旅店(りよてん/はたごや)の遊女となりゐたりけり。

 されば、熊の介、此女になれて、わりなくかたらひ、かよひければ、此女も、熊の介に身を任(まかせ)て、外には又、男ありともおもはぬ氣しきなりし。

 さても、熊の介は、

「こよひ、かよひ行〔ゆく〕べき。」

と、かねて契りし日なれど、けふしも、さはる事ありて、心ならず暮し、漸々(やう〔やう〕)いぬの過、ゐの前[やぶちゃん注:戌の刻過ぎ・亥の刻前は午後九時頃になる。]に、やどを出行〔いでゆけ〕ば、むかふに、大の男、とある松をこだてにとつて、待(まち)かけしが、聲をかけて、

「いかに、熊の介、我、此〔この〕日ごろ、わぎみを戀こがれて、錦木(にしき〔ぎ〕)

千束(ちづか)徒(いたづら)に朽(くち)、けふの細布(ほそぬの)、むね、あはで、いぬる間とても、やすからず、とやかくと、いひ送るに、一たびの返しだに、なし。しかさへあるに、ひたひをいるゝ。是、しかし、我をあざむく所也。おぼえたるか。」

と、切付〔きりつけ〕たる。

 いひわくべき間(ま)もなければ、とびしさり、ぬき合〔あひ〕、火を散し、戰しが、鐵心は大力(〔だい〕りき)といひ、手しやなりければ、熊の介、うけ太刀〔だち〕になると見えしが、あへなく、これがために、うたれぬ。かたきは、

「しすましたり。」

と悅(よろこび)、いづこともなく落〔おち〕うせぬ。

 熊の介が供(とも)のわらは、所用あつて、遙(はるか)の跡にさがりしが、此由を見るより、一里餘(よ)を、いつさんにはしり歸り、父母(ちゝはゝ)に、

「かく。」

と申上れば、治部を始(はじめ)、家の子、走(はしり)つぎて、敵(かたき)の行衞を尋〔たづぬ〕れど、早(はや)立除(たちのき)たれば、せんかたなく、熊の介が手をみるに、左計〔さばかり〕の疵(きづ)にもなければ、

「かんびやうせん。」

と、たすけおこし、肩にかけて、家にかへりぬ。

 爰に、久米のかたは、宵よりもまちわび、「あかぬ別(わかれ)の鳥は物かは」と讀(よみ)しなど、思ひ出〔いづ〕れば、何となく、むねとゞろき、心もとなく覺(おぼへ)ける折から、熊のすけの童、はしり來り、

「かうかうの事侍りて、君は討れさせ給ひぬ。一まづ、父母へしらせ參らせ、其後〔そののち〕、爰へまいり侍るゆへ、いたう、夜も更(ふけ)さふらふ。」

と語りもはてぬに、久米、

「さても、さても、いとおしや、いかなるものゝ所爲(しわざ)ぞや、自(みづから)、女なりとも、其時に參りあひなば、かくは、なしまいらせじ物を。」

と悲しめど、かひなし。

「責而(せめ〔て〕)、敵の名は、きゝ侍るや。」

と、いへど、

「遙(はるか)の跡にさがりたれば、いかなる者とも不ㇾ知(しらず)。」

といふ。

「扨は、いかにとも、せんかたなし。」

と、倒(たふれ)ふして歎(なげき)ゐる折から、裏の戶を、たゝく音、す。

「いかなる人ぞ。」

と、とへば、

「是は旅の者成〔なる〕が、道にふみまよひて來〔きた〕れり。見申せば、旅宿(りよしゆく)とおぼえぬ。一夜(〔いち〕や)を明(あか)させてたべ。」

と、いふ。されど、

「独(ひとり)たびうどは、叶ひ申さず。外(ほか)にやどし給へ。」

と、いへば、

「情なし。小夜更(さよふけて)、いづちと定めたるかたなし。」

など、打恨(〔うち〕うらめ)ば、何となく哀(あはれ)に覺へ、ゆるし入(いれ)、一間の座敷にいざなひ、酒なんど、すゝむるに、旅の男、久米が姿のうるはしきを見て、

「いかにぞや、ひなのさとばなれに、かくては、つとめゐ給ひける。」

など、思ひ入〔いれ〕たるさまに、いふ。

「わらはは、今、物思ふ身に侍りて、よその御〔おん〕ことの葉(は)は耳にも入〔いり〕候はず。」

と、ふり切〔きり〕て、座を立〔たち〕ぬ。

 されば、此男、先より、家のくまぐまを見めぐり、万(よろづ)、きづかへるさまに見えけるを、久米のかた、いといぶかしく、とある障子の破(やぶれ)より、さし覗(のぞけ)ば、男は、人見るとも不ㇾ知(しらず)、大のかたなの、血になりたるを、ぬき、懷(ふところ)より、紙とり出〔いで〕て、のごひけるが、又、もとのさやに納(をさめ)て、後(のち)は燈(ともしび)を背(そむ)け、ゆたかに、ふしたり。

 久米のかた、是を見るより、

『扨は。此男こそ、熊の介殿を討(うち)しものよ、ごさんなれ、天のあたへ。』

と、うれしく、守(まもり)がたなを引〔ひつ〕さげ、ちかぢかと立〔たち〕よりしが、又、心をしづめて思ふやう、

『若(もし)、此男、敵(かたき)にてなくば、いかゞはせん。』

と案じ煩(わづらひ)ゐけるが、あたりに拭捨(のごひすて)たる血紙(ちがみ)あり。とりて見れば、「狀(でう)」なり。

「何々こよひ日比いゆあるによつて熊の介を討給ふべきよし かやうかやうにはかり たばかり出し申さん。鐵心參る」

と書〔かき〕て、先きの名は定(さだか)にもかゝず。

『扨は。疑べくもなき妻(つま)のかたき。』

と、守刀(まもりがたな)をぬいて、鐵心が心もとをさしとをして、

「熊の介が妾(おもひもの)、夫(おつと)の敵(かたき)、覺〔おぼえ〕たるか。」

と云〔いふ〕聲に、

「口惜(〔くつ〕をし)や。」

と、起(おき)あがらんとしけるが、大事の手なれば、不ㇾ叶(かなはず)、やみやみと討(うた)れぬ。

 此騷(さはぎ)に、宿の亭主、驚(おどろき)、目を覺(さま)し、此由を見て、

「いかなるゆへに、旅人を、かく、ころしけるぞ。」

と。

 此時に、久米、始・おはりを語り、則(すなはち)、治部かたへ、告(つげ)たりければ、よろこぶ事、限なく、骸(かばね)をこひ請(うけ)、心の儘に行(おこな)ひけり。

 去(され)ば、熊のすけ、さばかりの疵ともみえざりしが、日數(〔ひ〕かず)いたはりて、是も、むなしく成(なり)ぬ。

 久米のかた、このよしをつたへ聞(きゝ)て、二たび、人にもまみえず、ある夕(ゆふべ)、かざりおろして、墨染の姿になり、ひとへに、熊の介、かたき鐵心、ともに、頓生(とんしやう)ぼだひのゑかうを、なしけるとぞ。

 誠に宿も社(こそ)多(おほき)中に、此家にめぐり來(き)て、淺ましき死を遂(とげ)ける。

 因果のほど社(こそ)、愧(おそろし)けれ。

 

[やぶちゃん注:「くゆる思ひのふしの烟(けぶり)と燃(もえ)て」「ふし」は「思ひの節」で「こころのとまるところを表としながら、前の「燻(くゆ)る」から「燻(ふす)ぶ」の「ふ(す)」を掛けてあり、「ふすぶ」には既に「思い焦がれる」の比喩が含まれてある。

「道行〔みちゆく〕隙(ひま)もとめて、文〔ふみ〕を拗(なげ)やり」表は単に「外を歩く隙を見つけては」の意だが、「道行」「文」にルビを振らず、恋する二人の「道行文(みちゆきぶん)」を掛けてある。しかし、ちょっと五月蠅い。五月蠅くていいか。鉄心、厭な奴だからな。

「ひたひをいれぬ」これが判らぬ。少年で、未だ成人前であった前髪を揃えて切った髪形であったのを、突然、成人の月代(さかやき)風に、剃り上げてしまったことを言っているか。江戸時代には武士でも男子の元服の儀は遅れるようになり、十七~十九歳で行われたケースも多かったらしいから、違和感はない。江戸時代に殆んど公認だった若衆道は、相手が未成人であればこそ、義兄弟の契りが父母らにも許容された。しかし、成人男性となってしまうと、これは表向きには憚られたのである。

「松をこだてにとつて」「松を小楯に執って」。

「錦木(にしき〔ぎ〕)千束(ちづか)徒(いたづら)に朽(くち)」「錦木」とは五色に彩った凡そ三十センチメートルの一種の恋人たちの呪具。古え、奥州に於いて、男が恋する女に逢いたく思うならば、女の家の前にこれを立てて、女に迎え入れる心があれば、それを家内に取り入れ、取り入れられなければ、男はさらに繰り返して、千本を限度として通ったという。この故事に倣って「錦木」は「恋文」の雅称となった。

「けふの細布(ほそぬの)、むね、あはで」「希布(けふ)の細布(せばぬの・ほそぬの)」狭布のこと。幅が狭く不足するところから、「胸合はず」「逢はず」などの序詞に用いる。特に古くから秋田県鹿角地方のそれが「調」として献納するものとして知られ、それに前の錦木の民俗が多層化され、恋絡みの和歌や文芸に盛んに盛り込まれた。

「あかぬ別(わかれ)の鳥は物かは」「新古今和歌集」の巻第十三の「戀歌三」にある、「題しらず」の小侍従の詠んだ一首(一一九一番)、

 待つ宵(よひ)に更けゆく鐘の聲きけば

         あかぬ別れの鳥は物かは

一首は、「独り男を待っていると、夜更け知らせる寺の鐘の音が聴こえてくる――これは――後朝(きぬぎぬ)の別れを知らす鷄など――物の数では御座いませぬ――という恨み節である。

「やみやみと」何もできないさま。みすみす。むざむざ。

「頓生(とんしやう)ぼだひ」正確には「頓証菩提(とんしやうぼだい(とんしょうぼだい))」が正しい。原義は「速やかに悟りの境地に達すること」であるが、一般にこの語を、死者追善供養の際などに、極楽往生を祈る言葉として唱える。]

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(23:鮫)

 

 ○鮫(サメ又フカ)、東印度諸島及び阿弗利加で鮫を甚く[やぶちゃん注:「いたく」。]尊崇すること、F. Schultze, ‘Fetichism,’trans, New York, 1885, p. 79 に出で、錫蘭[やぶちゃん注:「セイロン」。]、トレス峽等には、漁に臨んで種々に鮫を厭勝[やぶちゃん注:「えんしやう」。咒(まじない)。]して其害を免れんと力む[やぶちゃん注:「つとむ」。]Tennent, op. cit., p. 398, Frobenius,The Childhood of Man’, London. 1909, p. 242 タヒチ島の「ダツア、マツト」は、海の大神にて、鮫を使ふ、但し靑鮫に限り、此鮫祠官の令に隨て進退し、舟覆へる時、他人を食ふも祠官を食はず、之を乘せて廿哩[やぶちゃん注:二十マイル。陸距離のマイルでは約三十二キロメートル、海里では三十七キロメートル。]も游ぐことあり、この神の信者を食はず、此鮫を舟行の神とし、社を建つ、古傳に「タヒチ」島もとは鮫たりしと云事、吾邦蜻蜓[やぶちゃん注:「せいてい」。狭義にはヤンマの漢名。ここは「トンボ」の意でよかろう。]の形有りと言ふに似たり、布哇[やぶちゃん注:「ハワイ」。]のモロカイ島には、古え海角每に鮫を神とせる祠立てり、諸魚各々定期有て、年々此島に到る、其種每に初物を取りて鮫神に献ぜり、思ふに古え定れる季節に、鮫此等の魚を追ひ到りしを見て、神魚人を利すと心得、之を神とせるならんと、「エリス」言へり(Ellis, ‘Polynesian Researches,’ 1831. i. p. 166., Seqq., iv. p.90., Waitz, l.c., s. 319)

[やぶちゃん注:以下、底本ではポイント落ちで、全体が一字下げ。前後を一行空けた。]

 

 魚人を乘せて游ぐ事、支那に琴高鯉に乘り、陳侯の子元自ら水に投ぜしを魚負て救ひし抔の例有り(淵鑑類函卷四四二)泰西にも希臘の美少年神「エロス」海豚に乘る事有り(Gubernatis, l. c. p. 340)ハイチ島發見の時人を乘せて湖を渡す「マナタス」獸有りし抔似たる事也(Ramusio, tom. iii. fol. 33)

 

 本邦には伊勢國磯部大明神は、今も船夫漁師に重く崇めらる、鮫を使者とし、厚く信ずる者、海に溺れんとする時、鮫來り負ふて陸に達すと云ふ、參詣の徒神木の樟の皮を申し受け所持し鮫船を襲ふ時之を投ずれば忽ち去るとぞ、「タヒチ」島の例と均しく、神使の鮫は長さ四五間、頭細く、體に斑紋有り、「エビス」と名くる種に限る、每年祭禮の日、この鮫五七頭社に近き海濱に游ぎ來る、もし前年中人を害せし鮫ある時は之を陸に追ひ上げ、數時間之を苦しめて罰す、此鮫海上に現るゝ時、漁夫之を祭り祝ふ、「エビス付キ」と名く、每日一定の海路を游ぎ來るに、無數の堅魚之に隨行するを捕え[やぶちゃん注:ママ。]、利を得ること莫大なり、信心厚き漁夫の船下に潜み游ぐ、信薄き輩の船來れば忽ち去る、之に漁を祈る者、五日七日と日數を限りて漁獲を求む、日限畢る迄漁し續くる時は破船す、其船底を見るに、煎餅の如く薄く削り成せり、是れ此鮫の背の麁皮[やぶちゃん注:「そひ」。粗い鮫皮。]を以て磨り[やぶちゃん注:「こすり」。]去れる也と、古老の漁人の話に、海濱に夷子[やぶちゃん注:「えびす」。]の祠多きは實に此「エビス」鮫を齋き祀れる也と。

[やぶちゃん注:以下、同前。]

 

 古書に鮫を神とせし事見當らず、但し鱷[やぶちゃん注:「わに」。]を神とせし事多し、十餘年前或人「日本」新聞に寄書して、吾邦の「ワニ」は「ワニザメ」と稱する一種の鮫なり、其形多少漢文鱷の記載に似たるを以て杜撰に之を充てたるなりと有し、眞に卓見也、大和本草、倭漢三才圖會等鱷を記せる、何れも海中の鮫類と見ゆ、今日パレスチナの海邊に鱷有り、羊を害すと云ふは、實は鮫ならんてう說參考すべし。(Pierott,‘Customs and Traditions of Palestine’, 1864, P. 39.)又實際鱷なき韓國にて、筑紫の商人、虎が海に入て鱷を捕ふるを見し話有り(宇冶拾遺三九章)十七世紀に、韓國に漂着して十三年留居の蘭人の記にも、其水に鱷多き由筆せるは、孰れも鮫の事と思はる、(Churchill, op. cit. vol. vi, 1752, P. 735)。

 

神代卷に、海神一尋の鱷に、彥火々出見尊を送り還さしむる事あり、又豐玉姬、產場を夫神に覗はれしを憤り、化して八尋の大鱷となり、海を涉りて去ると云り、鮫を神靈有りとする由緖古きを見るに足れり。

[やぶちゃん注:以下、同前。]

 

 上に言る、鮫が罪ある鮫を罰する話も、古く有しにや、懷橘談に、出雲國安來の北海にて、天武帝二年七月、一女鱷に脛を食はる、其父哀みて[やぶちゃん注:「かなしみて」。]神祇に祈りしに、須臾にして百餘の鱷、一の鱷を圍繞し來る、父之を突殺すに諸鱷去る、殺せし鱷を剖くに女の脛出しと見ゆ、眞葛女の磯通太比に、奧州の海士「ワニザメ」に足を食去られ死せしを、十三年目に、其子年頃飼し犬を殺し、其肉を餌として鱷を捉へ、復讐せりといふ譚は之より出たるならむ。

 

[やぶちゃん注:欧文書誌の一部に平凡社「選集」で記号を補足した。

「鮫(サメ又フカ)」現行では、「サメ(鮫)」とは、軟骨魚綱板鰓亜綱 Elasmobranchii のうち、一般にはエイ上目 Batoidea に含まれるエイ類を除くサメ類の内、中・小型のものを指す総称とされるが、大型の種群や個体との厳密な境界はなく、「鱶(フカ)」と混淆して用いられているのが現状である。形態学的に概ね真正の「サメ」を規定しようとするなら、一般的には――鰓裂が体の側面に開く種群の総称――としてもよかろう(鰓裂が下面に開くエイと区別される。但し、中間型の種がいるので絶対的な属性とは言えないので注意が必要である)。一方の「フカ(鱶)」を補足すると、サメ類の内、大型のものの総称である。但し、中小型でも「ふか」と呼ぶケースもあるので、個体の大きさでの区別は無効に近い。但し、超巨大なものを「フカ」と呼ぶのには違和感はないので、そうした限定用法として流通名とは別に「フカ」は生き残るであろうと思われる。ただ、寧ろ、広義の「サメ(鮫)」の関西以西での呼び名が「ふか」であるとした方が判りがいいし、誤解の問題性(サメ種の他にフカ種がいるといった誤認)も少ないと思う(山陰では別に「わに」という呼称も現在、普通に生きている)。さても、ウィキの「サメ」によれば、二〇一六年三月末時点に於いては、世界に九目三十四科百五属五百九種が存在し、日本近海には九目三十二科六十四属百三十種が確認されているとある。さて次に、「サメ」の語源であるが、一般には「狭目」「狭眼」「さめ」の意とする説が幅を利かしているようだが、サメ類の目は、その巨体に比べれば小さいとは言えるものの、一般的な種群は、有意に「狭い眼」或いは「細い眼」ではない。されば私は寧ろ、鮫肌、一部の鮫の皮膚表面の細かなブツブツにこそ、その語源があるのではないかと考えている。則ち、「沙」(シャ:一億分の一の単位)で、「非常に小さい粒」を意味する「沙」(シャ・サ)の「粒」(「目」)で「沙目(さめ)」であろうと思うのである。一方の「フカ」は一見、頷かれそうな説が複数ある。一つは「深(ふか)」説で、大型のサメ類の多くは沖合の深いところに棲息することからで、これはまあ、そうかもと思わせる。第二に、お馴染みの漢字「鱶」の分解説で、魚類の多くが卵生である中、サメ類には卵生・卵胎生(近年は胎生と呼ぶことが多い。ヒトも結局は卵胎生と言えば言い得る)がおり、卵胎生の方が多い。かくせば、「子」を「養」う「魚」の意というわけだが、どうも如何にもそれらしいこの謂いが、却って嘘臭い感じを与える。そもそも「鱶」の正字は「鯗」であり、漢字としてのそれは「魚の干物」を意味し、フカの意味はない。これを「ふか」と訓ずるのは国字としてである。鮫が卵胎生であることを一般庶民が知るようになるのは歴史的にはごく新しいはずで、にも拘らず、そうした原義でこの字が当てられるというのは、私は眉唾であると考えるからである。別説に「斑魚(ふか)」説があり、「ふ(斑)」体表のザラザラの細かな斑紋で、それに「魚」類を示す接尾辞である「か」)が付いたというのだ。まことしやかに例えばカジカなどを挙げるのだが、「カ」を呼称辞にしている魚はそんなにいはしない。接尾辞としての「か」も魚の意味とは小学館「日本国語大辞典」にも書いてない。これも何となく長屋の御隠居にまんまと言いくるめられた熊八みたような気がしてくるのだ。

「F. Schultze, ‘Fetichism,’trans, New York, 1885, p. 79」ドイツの哲学者フリッツ・シュッエ(Fritz Schultze 一八四六年~一九〇八年)の書いた「呪物崇拝」の一節。「Internet archive」で原本が見られる。ここ(右ページ左の中央)。直ぐ後にはミクロネシアでのウナギ崇拝の記事も続いている。

「トレス峽」オーストラリアのヨーク岬とパプアニューギニアとの間にある、現在、オーストラリア領であるトレス海峡諸島(Torres Strait Islands)。二百七十四の小島からなるサンゴ礁の諸島で、南北百五十、東西二百~三百キロメートルのトレス海峡に位置している。数百の無人島からなるが、その内の十二の島に人が住み、「アイランダー」と呼ばれるメラネシア系の先住民(トレス海峡諸島民)が暮らしている。漁業が盛んで、真珠養殖がされているほか、美しいサンゴ礁の島々はリゾート地ともなっており、海中には絶滅危惧種であるジュゴンやアオウミガメ・タイマイ・ヒラタウミガメなどが棲息している(当該ウィキに拠った)。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

Tennent, op. cit., p. 398」前に「野槌」に出たイギリスの植民地管理者で政治家であったジェームズ・エマーソン・テナント(James Emerson Tennent 一八〇四年~一八六九年)のイギリスの植民地管理者で政治家であったジェームズ・エマーソン・テナント(James Emerson Tennent 一八〇四年~一八六九年)のセイロンの自然史誌。但し、「398には鮫の記載はない。そこで調べてみたところ、こうした内容は「378」から「379」にかけてに書かれているのを見出せた。ここの章の標題は「SHARK-CHARMER」で「鮫を呪(まじな)う者」或いは「鮫使い」といった意味である。

「Frobenius, ‘The Childhood of Man’, London. 1909, p. 242」「Internet archive」のこちらで原本の当該箇所が見られ、そこの右ページ「242」中央にある図のキャプションに、

   *

Fig. 227. Tortoise-shell mask from Hama, Torres Straits (British Museum). Seen from the side, as here, represents a kind of shark's head. Above (Fig. 228) a face. Is probably worn at the dances in the fishing season, when, no doubt, efforts are made to propitiate the sharks, who are so dangerous to the fisher-folk.

   *

とあり、これは、「トレス海峡のハマから齎されたカメの甲羅で出来たマスク(大英博物館)。横から見ると、ここにあるように、一種のサメの頭を表わしている。顔の上部見たもの(図228)[やぶちゃん注:ここの左ページの図。]。恐らくは、漁民にとって非常に危険な存在であるサメを、多分、何としても宥(なだ)めんがために、漁期に行われるダンスに於いて着用されるものである。

   *

といった意味のようである。

『タヒチ島の「ダツア、マツト」』不詳。ただ、我々が使っている入れ墨の意の英語「タトゥー」(tattoo)の起源は、タヒチの島々に伝わる「タタウ」であり(一七六九年に出版されたジェームズ・クックのタヒチへの航海に関する本で、「現地人が入れ墨を指してタタウ」(tatau)と呼んでいたことが記載されており、それがタトゥーとなったものである。しかも、その入れ墨はタヒチ人の個人史を物語っており、身体に描かれる一つ一つの線を通じて、過去の「マオリ」(ポリネシア人の一族。原義は「普通の人」)が現在と将来の「マナ」に繋がるとされ、「タタウ」の神は「トフ」であり、海の総ての魚に現在の色と模様を与えたとされており、この「トフ」の存在が、「タタウ」それぞれに意味と生命を与え、天国と地上を結びつけていると、「タヒチ観光局」公式サイトの日本語版には書かれてある。この辺りとこの「ダツア」や「マツト」という発音には親和性を私は感じるし、「海の大神にて、鮫を使ふ」『古傳に「タヒチ」島もとは鮫たりし』と熊楠が言う時、この神「トフ」や、その時空間をドライヴしてきた神聖な「タタウ」とは無関係とは思われないからである。

「靑鮫」和名種としては、軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科アオザメ属アオザメ Isurus oxyrinchus がいる。最大全長四メートル、体重五百五キログラムに達し、最も高速で時速三十五キロメートル以上の速さで泳ぐとされる。人を襲った記録は少ない。英名は「mako」で、これはマオリ語の「サメ」の意である(同ウィキに拠る)。

「吾邦蜻蜓の形ありと言ふ」日本列島の古名「あきつしま」のこと。

「モロカイ島」ここ

「海角」「かいかく」。岬。

「Ellis, ‘Polynesian Researches,’ 1831. i. p. 166., Seqq., iv. P.90.」ウィリアム・エリス(William Ellis 一七九四年~一八七二年)イギリス人の宣教師で作家。彼はハワイ諸島やマダガスカル等を旅し、その体験を記したかなりの量の著作を残している「Internet archive」の第一巻のここから以下と、第四巻のここ

「Waitz」「鰻」に出たドイツの心理学者・人類学者であったテオドール・ワイツ(Theodor Waitz 一八二一年~一八六四年)と、ドイツの人類学者で地球物理学者でもあったゲオルグ・コーネリアス・カール・ゲランド(Georg Cornelius Karl Gerland 一八三三年~一九一九年)の共著になる、「原始人の人類学 第六部」か。

「魚人を乘せて游ぐ事、支那に琴高鯉に乘り、陳侯の子元自ら水に投ぜしを魚負て救ひし抔の例有り(淵鑑類函卷四四二)」「淵鑑類函」は既出既注。清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。同巻「魚二」に、

   *

陳侯、令元自殺。元、投遼水。魚、負之以出。元曰、「我罪人也。故求死耳。」。魚、乃去。

   *

鯉石【「廣輿志」、鯉石、在巴山。世傳、琴髙先生於此得道、所乘之鯉化而爲石。】。

   *

とある。

『希臘の美少年神「エロス」海豚に乘る事有り(Gubernatis, l. c. p. 340)』「イルカに乗った少年神」となったメリケルテースなら知っているが。オルコメノスの王アタマースとイーノーの子であったが、死後にパライモーンと呼ばれる海神に生まれ変わったとされ、パライモーンはイルカに乗った少年神の姿で表わされ、海難者を救い、港を司る神として信仰された。しかし、前に出たイタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の著「Gubernatis, ‘Zoological Mythology’, 1872, vo1. ii」を見ると確かにそう書いてある。「Internet archive」のこちらの左ページ本文の下から五行目以下に記されてある。

『ハイチ島發見の時人を乘せて湖を渡す「マナタス」獸有りし』「(Ramusio, tom. iii.fol. 33)』引用書はベネチア共和国の官吏(元老院書記官など)を務めた人文主義者で歴史家・地理学者のジョヴァンバティスタ・ラムージオ(Giovanni Battista Ramusio  一四八五年~一五五七年)の「航海と旅行」。「ハイチ」は中央アメリカの西インド諸島の大アンティル諸島内のイスパニョーラ島西部に位置するハイチ共和国。東にドミニカ共和国と国境を接し、カリブ海のウィンドワード海峡を隔てて北西にキューバが、ジャマイカ海峡を隔てて西にジャマイカが存在する。首都はポルトープランス(Pòtoprens/フランス語:Port-au-Prince:「王子の港」の意)。一八〇四年に独立(ラテン・アメリカ初で、尚且つ、アメリカ大陸で二番目、しかも世界初の黒人によって樹立された共和制国家である)。ここ。この伝承は確認出来ないが、この「マナタス」とは、哺乳綱カイギュウ目マナティー科マナティー属アメリカマナティー Trichechus manatus Linnaeus, 1758 の種小名である。同種は淡水域と海水域を回遊し、少なくとも、淡水域では永住が出来、棲息フィールドは河川の下流域・河口・沿岸であるから、「湖」という記載は不審ではない。

「伊勢國磯部大明神」三重県志摩市磯部町にある伊勢神宮内宮の別宮の一社伊雑宮(いざわのみや)は、確かに鮫を神使いとする伝承を持っている。ウィキの「伊雑宮」によれば、『七匹の鮫が的矢湾から川を遡って伊雑宮の大御田橋までのぼると云われる。この七本鮫は伊雑宮の使いと云われ、また龍宮の使いと伝える説もある』。『七本のうち一本は殺され、今は六本とされる。大御田橋からは蟹や蛙に化身して伊雑宮に参詣するともされる。またこの日は志摩の海女たちは海に入ることを忌み、伊雑宮に参詣する』とあり、また、『志摩市阿児町安乗の安乗崎沖の岩礁(大グラ)近くの海底に鳥居に似た岩があり、伊雑宮の鳥居だったといわれる』伝承があり、『伊雑宮は漁業に従事する信仰者が多い』とある。サイト「伊勢志摩きらり千選」には、志摩市磯部町の「七本ザメの磯部参り」と標題して、『「磯部伊雑宮は竜宮様よ八重の汐路をサメが来る」と』伊雑宮の『御田植祭』(「御神田(おみた)」と呼ばれる)『に唄われているサメは俗に「七本ザメ」と呼ばれ』、『伊雑宮のお使姫』(女神格。祭神が内宮と同じく天照大御神であるから当然)『といわれている。志摩地方では、旧暦』六月二十五日の大祭を『「磯部の御祭日だ。七本ザメがお参りに来る」といって』、『この地方』一般に、『祭りの当日』『を物忌む日として、漁師は漁を』、『海女は潜水を忌む習慣があ』り『子供達は海水浴』も『できない』。『この日、海に入ると「命か目」を取られるとの伝えがある』とある。『これは気候や海流の関係で』、この時期に『サメが回遊し』て来て、七『本のサメ(沢山の?)がお参りに来る日と言われ、的矢湾大橋近くの』「神の島」(旧』『伊雑宮の神領で「オノコロジマ」と呼ばれ』た、『現在の渡鹿野島』。知る人ぞ知る、嘗て「売春島」と呼ばれた島である)の『暗礁がサメの休息処のようです』とあった(これはウィキの「海豚参詣」(いるかさんけい)のイルカ以外のクジラやサメのケース事例に、『三重県志摩市の渡鹿野島(旧志摩郡磯部町域)などに、『七本鮫の磯部参り』という伝承が伝わる。旧磯部町の伊雑宮(いざわのみや)の』六『月の祭祀に合わせて』、七『本のサメが参詣に訪れ、渡鹿野島で休息をとるとの伝承が有り、祭祀の当日は、命や目を取られると、漁師は出漁を自粛し、海女は潜水しないものとされていた』。『この海女の休漁日をゴサイという』とあり、引用元原記載も確認した(この海女の休漁日「ゴサイ」は「御斎」であろう)。また、別のネット記載では伊雑宮は地元では「イゾウグウ」とか、親しく「イソベさん」と呼ばれているともあった。

「四五間」七・二七~九・〇九メートル。

『頭細く、體に斑紋有り、「エビス」と名くる種』板鰓亜綱カグラザメ目カグラザメ科エビスザメ属エビスザメ Notorynchus cepedianus がいる。但し、こんなに大きくはならず、最長全長で三メートルほどである。流線型に近い円筒形の体幹を持ち、体色は背側が暗褐色から黒色或いは灰色で、腹側は白色を呈する。体中に多数の黒色又は白色の斑点が見られ、しかも、エビスザメは群れで狩りをすることが知られており、仲間と協力してアザラシ・イルカ・サメなどを追い込んで捕食することからも、七頭が群れを成すという点でも条件が合致する。サメ類の化石種と形態的に類似を示しており、古いタイプのサメと考えられている(ウィキの「エビスザメ」に拠る)。ただ、ここで示す「四五間」という有意な大きさは、或いはジンベイザメ(軟骨魚綱テンジクザメ目ジンベエザメ科ジンベエザメ属ジンベエザメ Rhincodon typus の小・中型個体群であったのかも知れない(頭部が扁平なのは「細く」としても違和感がなく、甚平模様の斑点も合致する)。前記ウィキにも書かれている通り、関東などの地方名でジンベエザメをエビスザメとも呼ぶからである。また、その観点から「此鮫海上に現るゝ時、漁夫之を祭り祝」い、『「エビス付キ」と名』け、「每日一定の海路を游ぎ來るに、無數の堅魚」(カツオ)「之に隨行するを捕え、利を得ること莫大なり」というのも、先の真正のエビスザメよりも、悠々たるプランクトン食のジンベイザメにこそ相応しい雰囲気とも言えるからである。実際、ウィキの「ジンベイザメ」にさえ、『ジンベエザメの周囲には常にイワシやカツオ等の大小の魚類が群れている。日本ではこの関係が』、『経験的に古くから漁師に知られ、本種は地域によっては大漁の吉兆とされ、福の神のように考えられてきた。「えびすざめ」(生物学上実在するエビスザメとは無関係)という関東方言による呼称などはまさにこのことを表すものであるし、その他の各地でも「えびす」「えべっさん」などと呼ばれて崇められてきた漁業神には、クジラ類だけでなく』、『ジンベエザメもその正体に含まれているという。そして、この信仰は現在も活き続けており、祠(ほこら)は大切に守られている』とあり、さらに、『宮城県金華山沖に出現するという伝承が残る海の怪「ジンベイサマ」は、その正体がジンベエザメではないかと言われている』。『船の下へ入って船を支えていることがあり、首尾がつかめないほど巨大なものとされる』。『これが出たときにはカツオが大漁になると言われる』とあるのである。

『「日本」新聞に寄書して、吾邦の「ワニ」は「ワニザメ」と稱する一種の鮫なり、其形多少漢文鱷の記載に似たるを以て杜撰に之を充てたるなりと有りし』原記事を確認してみたいものだ。日本主義を標榜した日刊新聞『日本』は明治二二(一八八八)年二月創刊。初代社長兼主筆は陸羯南(くがかつなん)。歴代の記者には長谷川如是閑・正岡子規・中村不折・河東碧梧桐・佐藤紅緑・石井露月らがいる。なお、ここで言っている「ワニザメ」とは「荒く獰猛な(或いは押しなべてそう思われていた)鮫(サメ)」という意であって、特定の種を指すものではない。実際に「大鰐鮫」、軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目オオワニザメ科オオワニザメ属オオワニザメ Odontaspis ferox がおり、日本近海(南日本太平洋岸)にもいるが、深海性で殆んど生態は判っていない、レアな種であるから、彼らではないので注意されたい。

「大和本草」貝原益軒の「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」に出るのは(原文・訓読文・私の注も引く)、

   *

○鰐フカハ四足アリ鼈ノ如シ首大ナリ能人ヲ食フ李淳風曰河有怪魚乃名曰鰐其身已朽其齒三作此即鱷魚也南州志云斬其首乾之極厺其齒而更生

   *

○「鰐ぶか」は四足あり。鼈(すつぽん)のごとし。首、大なり。能く人を食ふ。李淳風、曰はく、『河に怪魚有り。乃(すなは)ち名づけて「鰐」と曰ふ。其の身、已に朽(く)つるも、其の齒、三つ、作(な)れり。此れ、即ち、鱷魚(がくぎよ)なり』と。「南州志」に云はく、『其の首を斬り、之れを乾すこと、極まり、其の齒を厺(さ)れども、更に生(せい)す』と。

   *

・「鰐ぶか」漢籍からの引用から、これは正真正銘の脊椎動物亜門四肢動物上綱爬虫綱双弓亜綱主竜型下綱ワニ形上目ワニ目 Crocodilia のワニの記載である。

・「鼈」爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis(本邦産種を亜種Pelodiscus sinensis japonicusとする説もある)。当該項で既出既注

・「李淳風」(六〇二年~六七〇年)は初唐の天文学・数学者。太史令を歴任。六三三年、黄道環・赤道環・白道環よりなる三辰儀を備えた渾天儀を新たに作った。「晋書」と「隋書」の中の「天文志」と「律暦志」を編み、また「算経十書」の注釈を行った。高宗の時、日本では「儀鳳暦」として知られる「麟徳暦」を編んだ。彗星の尾は常に太陽と反対側に発生する事実を発見し、天文気象現象の記録を整理した。著書に占星術的気象学を記した「乙巳占」がある。

・「其の身、已に朽(く)つるも、其の齒、三つ、作(な)れり」意味不明。仮に訓じた。後の「南州志」と同じく、三本の歯だけは生きていて、新たに生えてくるというのか?

・「鱷魚〔(がくぎよ)〕」「鱷」は「鰐」の異体字。

・「南州志」三国時代(二二〇~二六五 年)の呉の万震が記した華南から南方の地誌「南州異物志」のことか。

・「厺」「去」の異体字。

   *

熊楠が何を以って「何れも海中の鮫類と見ゆ」と言っているのは、てんで、判らない。これは鮫ではなく、間違いなくワニ類である。

「倭漢三才圖會」これも「何れも海中の鮫類と見ゆ」というのはトンデモない話で、挿絵を見たって、正真正銘、ワニだがね!!! 私の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚  寺島良安」をやはり本文・訓読・注、序でに挿絵も引いてやろうじゃねえか!

   *

 

Wani

 

わに

【音諤】 鱷【同字】

      【和名和仁】

クワアヽ

和名抄云鰐形似蜥蜴而大水潜吞人卽浮說文云鰐食人魚一生百卵及成形則有爲蛇爲龜爲蛟者其亦靈三才圖會云鰐南海有之四足似鼉長二丈餘喙三尺長尾而利齒虎及龍渡水鰐以尾擊之皆中斷如象之用鼻徃徃取人其多處大爲民害亦能食人既飽則浮在水上若昏醉之狀土人伺其醉殺之

 春雨 よの中は鰐一口もをそろしや夢にさめよと思ふ斗そ

△按鰐狀灰白色頭圓扁足如蜥蜴而前三指後一指偃額大眼尖喙稍長口甚濶牙齒利如刄上下齒有各二層牙上下相貫交嚙物無不斷切者故諺曰稱鰐之一口也無鱗背上有黑刺鬛而有沙尾長似鱝尾其尾足掌之甲皆黑色小者一二尺大者二三丈社頭拜殿懸鐵鉦以布繩敲之形圓扁如二鉦合成有大口頗象鰐頭俗謂之鰐口其來由未詳古有神駕鰐之事據于此乎

建同魚 大明一統志云眞臘國有建同魚四足無鱗鼻如象吸水上噴高五六丈是亦鰐之別種乎

   *

わに

【音、諤。】 鱷(がく)【同字。】

       【和名、和仁。】

クワアヽ

「和名抄」に云ふ、『鰐は、形、蜥蜴(とかげ)に似て、大にして、水に潜(くゞ)りて人を呑むときは卽ち浮く』と。「說文」に云ふ、『鰐、人を食ふ魚なり。一たび百の卵を生む。形を成すに及びては、則ち蛇と爲り、龜と爲り、蛟と爲る者(こと)有り。其れ亦、靈なり』と。「三才圖會」に云ふ、『鰐は、南海に之有り。四足、鼉(だ)に似、長さ二丈餘。喙(くちばし)、三尺。長き尾にして、利(するど)き齒あり。虎及び龍、水を渡れば、鰐、尾を以て之を擊つに、皆、中に斷(を)れる。象の鼻を用ひるがごとし。徃徃にして人を取る。其の多き處は、大いに民の害を爲し、亦、能く人を食ふ。既に飽くときは、則ち浮かんで、水上に在り。昏醉の狀(さま)のごとし。土人、其の醉へるを伺ひて、之れを殺す』と。

 「春雨」 世の中は鰐一口もをそろしや

       夢にさめよと思ふ斗(ばかり)ぞ

△按ずるに、鰐の狀、灰白色にして、頭圓く扁たく、足、蜥蜴のごとくにして、前に三指、後に一指あり。偃(ふし)たる額、大なる眼、尖りたる喙のやや長く、口、甚だ濶く、牙齒、利(と)きこと、刄(やいば)のごとし。上下の齒、各々二層有り。牙の上下、相貫(あひつらぬ)き交はりて、物を嚙む。斷ち切らずといふ者(こと)無し。故に諺に曰く、「鰐の一口」と稱す。鱗無く、背上に黑き刺鬛(とげひれ)有りて、沙[やぶちゃん注:粒状の突起。]有り。尾長くして鱝(えい)の尾に似る。其の尾・足・掌の甲、皆、黑色。小さき者は一、二尺、大なる者、二、三丈。

社頭拜殿に鐵鉦(てつがね)を懸けて、布繩(ぬのなは)を以て之を敲(たた)く。形、圓く扁たく、二鉦(ふたかね)を合成するがごとし。大なる口有り。頗(すこぶ)る、鰐の頭に象(かたど)る。俗に之を鰐口(わにぐち)と謂ふ。其の來由、未だ詳らかならず。古へ、神、鰐に駕(が)するの事有り、此れに據(よ)るか。

建同魚 「大明一統志」に云ふ、『眞臘國(しんらふこく)に建同魚有り。四足にして鱗無し。鼻、象のごとく、水を吸ひ、上げて噴(ふ)くこと、高さ五、六丈』と。是れ亦、鰐の別種か。

[やぶちゃん注:爬虫綱ワニ目Crocodiliaに属する動物の総称。現生種は正鰐亜目Eusuchiaのみで、アリゲーター科 Alligatoridae、クロコダイル科 Crocodylidae、ガビアル科 Gavialidaeの三科分類が一般的で、二十三種。ガビアル科 Gavialidae(独立させずクロコダイル科とする考え方もある)はインドガビアル Gavialis gangeticus の一属一種である。頭部を上から見た際、喙(口先)が丸みがかっているものがアリゲーター科で、細く尖っているものがクロコダイル科である。更に閉じた口を横から見た際、下顎の第四歯が上顎の穴に収まっているものがアリゲーター科で、牙の如く外に突出いるものがクロコダイル科。ガアビル科(一種のみであるが)は、喙が細長い吻となっているので、誤りようがない(インドガアビルの成体の雄は鼻が大きく膨らんでおり、雌と容易に区別できる。他のワニでは外見上の雌雄の判別は出来ない)。

「一たび百の卵を生む」は誇張。科によって異なるが、十~五十個が相場。

「靈」は、人知を超えた不思議な働き、玄妙な原理。

「鼉」はアリゲーター属ヨウスコウアリゲーター Alligator sinensis(お洒落じゃないね、この和名。ヨウスコウワニかチョウコウワニの方がまし)。東洋文庫版ではこれに「すっぽん」のルビを振るが、甚だしい誤りである。

「和名抄」は正しくは「倭(和とも表記)名類聚鈔(抄とも表記)」で、平安中期に源順(したごう)によって編せられた辞書。

「說文」は「說文解字」で、漢字の構成理論である六書(りくしょ)に従い、その原義を論ずることを体系的に試みた最初の字書。後漢の許慎の著。但し、東洋文庫版後注によると、ここで良安が記すような記述は「倭名類聚鈔」にはなく、これは「説文解字」の「𧊜」(わに)の説明であるとする。まず「倭名類聚鈔」の「卷第十九 鱗介部」の「鰐」の条は以下の通りである。

   +

麻果切韻云、鰐。【音萼和名和仁】似鱉有四足喙長三尺。甚利齒虎及大鹿渡水鰐擊之皆中斷。[やぶちゃん字注:「鱉」はスッポン、みのがめ(背中に藻を生やした亀)を指す「鼈」と同字。]

「麻果切韻」に云ふ、『鰐【音、萼。和名、和仁。】。鱉(べつ)に似て、四足有り、喙長く、三尺。甚だ利き齒あり。虎及び大鹿、水を渡らば、鰐、之を擊ちて皆、中に斷れる。』と。

   +

一見してお分かりのように、これは良安が直後に引く「説文」の内容とほぼ一致する(良安の記述の「龍」は「大鹿」の字の読み違いのようにも思われる)。更に、「説文」の解説は以下の通り(「廣漢和辭典」の「鱉」の字義の例文にある)。

   +

鱉佀蜥易。長一丈、水潛、吞人卽浮。出日南也。从虫屰聲。

(鱉(わに)は、蜥易〔=蜥蜴〕に佀〔=似〕る。長さ一丈、水に潛し、人を吞めば卽ち浮ぶ。日南に出づるなり。虫に从〔=從〕ひ、屰の聲。)

   +

最後の部分は解字である。「廣漢和辭典」によれば「鱉」は、「鰐」と同一語異体字とある。従って「説文」には「鰐」の別項はないと思われる。では気になるのが、彼が「説文」からとしたこの引用文の出所である。東洋文庫もそれを記していない。識者の御教授を乞う。

「春雨」は、三島由紀夫も称揚した上田秋成の幻想小説集「春雨物語」を指すと思うのが普通である(東洋文庫版もそうとっている)が、次項のような次第で、実はこれは別な書物を指している可能性がある。

「世の中は……」の和歌は現在調査中であるが、これは「春雨物語」の中には所収していない可能性が高い(「岩波古典文学大系 索引」でこの和歌は掲載されていない)。

「前に三指、後に一指」は正しい表現ではない。そもそもワニの指は前肢が五本で、後肢は四本である。これはそのキッチュさが大好きな「熱川バナナワニ園」で得た貴重な知識である。

「偃たる額」の「偃」の字を私は「ふス」と読んだ。これは扁平で地べたに伏せた(うつぶせになった)頭部を示すものとして違和感がない。東洋文庫版では、ここを「出ばった額」と訳しているが、そもそも「偃」にそのような意味はない。但し、堰と同義で、土を盛り、流れをせき止めるの意味の敷衍ならばとれないことはないが、やや強引である。

『「鰐の一口」』は「鬼の一口」と同じとする見解が多い。だとすれば、処理の仕方が素早く確実であるという意味と、文字通り、ひどく恐ろしい目に遭うことの意味となる。

「鱝」は軟骨魚綱板鰓亜綱 Elasmobranchii のエイである。

「鰐口」については川崎市教育委員会HPの指定文化財紹介ページ「青銅製鰐口(市民ミュージアム)」の概説が言うべきことを洩らさない非常に優れたものなので、以下に引用する。

   《引用開始》

 鰐口は梵音具(打ち鳴らして音を出すための仏具)の1つで、多くは鋳銅(銅の鋳物)製であるが、まれに鋳鉄製や金銅(銅に鍍金を施したもの)製のものもみられる。通常は神社や仏閣の軒先に懸けられ、礼拝する際にその前に垂らされた「鉦の緒」と呼ばれる布縄で打ち鳴らすもので、今日でも一般によく知られている。その形態は偏平円形で、左右に「目」と呼ばれる円筒形が張り出す。また、下方に「口」が開き、上緑部2箇所には懸垂のための「耳」を付した独特なものである。

 「鰐口」という呼称は、正応6年(1293)銘をもつ宮城大高山神社蔵の作例の銘文中に記されるのが初見である。それ以前の鰐口の銘文には「金口」とか「金鼓」といった呼称がみられることから、古くはこのように呼ばれていたのが、鎌倉時代末頃以降、「鰐口」と称されるようになったものと考えられている。江戸時代中期の医家、寺島良安はその著『和漢三才図会』(正徳3年〈1713〉自序)のなかで「口を裂くの形、たまたま鰐の首に似たるが故にこれを名づくるか」と推察しているが、実際に堂宇に懸けられた鰐口を仰ぎみる時、このように考えることは十分にうなずける。

 鰐口の現存遺例は室町時代以降の作例が多く、それ以前のものは少ない。平安時代の作例には、長野松本市出土の長保3年(1001)銘鰐口(東京国立博物館保管)の他、愛媛奈良原経塚出土の平安時代後期に推定される例があるにすぎない。

 鰐口の祖形には、韓国の「禁口」と呼ばれる鳴物が考えられているが、鉦鼓を2つ重ねたとする見方や鐃との関連も考えられている。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

ここで、この執筆者が引いている「和漢三才図会」の叙述は、本項の鰐口の部分ではなく、「卷第十九 神祭 付(つけた)り佛供器」の「鰐口」の項の叙述である。次いでなので、該当部を以下にテクスト化しておく。[やぶちゃん注:中略する。私の本体版を読まれたい。]

「古へ、神、鰐に駕するの事有り」とは、人口に膾炙する海幸彦山幸彦の神話中の出来事を指しているか。海佐知毘古(うみさちびこ)とは海の漁師の意味で、彼の正しい神名は火照命(ほでりのみこと)である(山佐知毘古は火遠理(ほをりの)命という)。失くした釣り針を求めて綿津見神(わたつみのかみ=海神)の宮殿に赴き、そこで豊玉比売(とよたまひめ)と契った火照命は、三年経って、自分がここに来た理由と兄火照命の仕打ちを語る。豊玉比売の父海神は鯛の喉から件の釣り針を発見、それを兄に返す際の呪文と潮の潮汐を自在に操る秘密兵器、塩盈珠(しほみつたま)・塩乾珠(しほふるたま)を手渡す。そうして火照命の葦原中国(あしはらのなかつくに)への帰還のシーンとなるのであるが、そこに「和邇魚(わに)」が登場する。「古事記」の該当箇所を引用する。

   +

 鹽盈珠、鹽乾珠幷せて兩個(ふたつ)を授けて、卽ち悉に和-邇-魚(わに)どもを召(まね)び集めて、問ひて曰ひけらく、[やぶちゃん注:以下は綿津見神の台詞。]

「今、天津日高(あまつひこ)の御子、虛空津日高(そらつひこ)、上(うは)つ國に出-幸(い)でまさむと爲(し)たまふ。誰(たれ)は幾日(いくひか)に送り奉りて、覆奏(かへりごとまを)すぞ。」

といひき。故、各己が身の尋長(ひろたけ)の隨(まにま)に、日を限りて白(まを)す中に、一尋和邇(ひとひろわに)白しけらく、

「僕(あ)は一日(ひとひ)に送りて、卽ち還り來む。」

とまをしき。故に爾(ここ)に其の一尋和邇に、

「然らば、汝(なれ)、送り奉れ。若(も)し、海中(わたなか)を渡る時、な惶畏(かしこ)ませまつりそ。」

と告(の)りて、卽ち、其の和邇の頸に載せて、送り出しき。故、期(ちぎ)りしが如(ごと)、一日の内に送り奉りき。其の和邇返らむとせし時、佩(は)かせる紐小刀(ひもかたな)を解きて、其の頸に著けて返したまひき。故、其の一尋和邇は、今に佐比持神(さひもちのかみ)と謂ふ。[やぶちゃん注:以下略。]

   +

しかし、現在、この「和邇」はワニではなく、サメとするのが定説である。しかし、良安がここで想起したのがこの神話であったとすれば、所謂、爬虫類のワニが、当時は本神話の登場生物として広く信じられていたということを指すともとれようか。

「大明一統志」は、明の英宗の勅で李賢らによって撰せられた中国全土と周辺地域の総合的地理書。九十巻。

「眞臘國」は「旧唐書」に、

眞臘國、在林邑西北、本扶南之屬國、崑崙之類。

(眞臘國は、林邑の西北に在り、扶南の屬國にして、崑崙の類なり。)

とある。渡邉明彦という方のアンコール遺跡群の記事のカンボジアの歴史についての記載によれば、『紀元前後、メコン川下流のデルタ地帯から沿岸地帯を領有する扶南国があり、メコン川中流にはクメール族の真臘国があった。真臘は3、4世紀頃から南下をはじめ、扶南を吸収合併していった。7世紀にはほぼ現在のカンボジアと同じ領土を有していた。』とあり、現在のカンボジア王国と同定してよい。

「建同魚」が分からない。ワニでは毛頭あるまい。「隋書」の「卷八十二 列傳第四十七」にも「南蠻海中有魚名建同、四足、無鱗、其鼻如象、吸水上噴、高五六十尺。」と、ここと同様の記述がある。当初ジュゴンDugong dugonを想定してみたが、叙述としっくりこない。何方かの鮮やかな同定を期待する。

   *

なお、引用に際し、改めて原本その他と校合して、表記を改めてある。敢えて言うなら、良安の評釈部の後半の「口、甚だ濶く、牙齒、利(と)きこと、刄(やいば)のごとし。上下の齒、各々二層有り。牙の上下、相貫(あひつらぬ)き交はりて、物を嚙む。斷ち切らずといふ者(こと)無し。故に諺に曰く、「鰐の一口」と稱す。鱗無く、背上に黑き刺鬛(とげひれ)有りて、沙〔:粒状の突起。〕有り。尾長くして鱝(えい)の尾に似る」という部分だけが、サメの記載かのようにも見えるが、全体は、最早、弁解するべくものなく、真正の「ワニ」以外の何物でもない。思うのだが、熊楠が「何れも海中の鮫類と見ゆ」と記してしまったのは、益軒の「大和本草」の記載が「魚之下 フカ」の一条であったこと、良安の「和漢三才図会」の記載が「魚類 江海無鱗魚」の中に組まれてあったことと、その「鰐」の直後に真正の「鮫」の項が置かれてあるという、記憶に基づいて書いており、この記事を書くためにわざわざ両書を再見はしていないせいではないかと考える。熊楠は尋常ではない博覧強記ではある。流石に欧文の書誌注をする際には書誌情報や当該部のページを直に確認していることが多いであろうが、どうも和書の場合は、現物を再確認せずに、記憶に頼って記していることが結構多いように見受けられる(本篇のここまでの記載の中にも当該書を幾ら見ても見つからないケースが複数ある)。それでも、凄いのだが、彼が「和漢三才図会」を借りて読み、書写したりしたのは、少年期であって、そこに記憶不全があるのは間違いない。だって、もし、ちゃんとここを書くのに、以上の二書の以上の記載を再確認したとならば、絶対に熊楠は「何れも海中の鮫類と見ゆ」と書くはずはないからである。

「Pierott,‘Customs and Traditions of Palestine’, 1864, P. 39.」イタリアの技師・建築家・数学者であったエルメーテ・ピエロッティ(Ermete Pierotti 一八二一年~?)の「パレスチナの習慣と伝統」。「Internet archive」のこちらで原本の当該箇所が読める。但し、羊だけでなく、二人の兵士を襲って食ったという注記が載り、そこで筆者がそれがワニであるどうかについて、ある種の疑問を抱いているような感じが、後を読むと感じられるものの、それをサメではないか? とは記してはいないように思われる。

「實際鱷なき韓國にて、筑紫の商人、虎が海に入て鱷を捕ふるを見し話有り(宇冶拾遺三九章)」三十九の「虎の鰐取たる事」(巻三の七)である。一九五一年岩波文庫刊「宇治拾遺物語 上巻」を使用したが、句読点・記号を追加し、「新潮日本古典集成」本によって一部に読みを入れ、段落を成形して読み易くした。本話は「今昔物語集」巻第二十九の「鎭西人渡新羅値虎語第三十一」(鎭西の人、新羅(しらき)に渡りて虎に値(あ)ふ語(こと)第三十一)と同文的同話である。

   *

 是も今は昔、筑紫の人、あきなひしに、新羅にわたりけるが、あきなひはてゝ、歸みちに、山のね[やぶちゃん注:麓。]にそひて、

「舟に、水、くみいれん。」

とて、水の流出たる所に、舟をとゞめて、水をくむ。

 そのほど、舟にのりたるもの、船ばたにゐて、うつぶして海を見れば、山の影、うつりたり。たかき岸の三、四十丈[やぶちゃん注:誇張し過ぎ。「今昔」版では「三、四丈」である。]ばかりあまりたるうへに、虎、つゞまりゐて[やぶちゃん注:小さく蹲って。]、物をうかゞふ。その影、水にうつりたり。

 その時に、人々につげて、水くむ者をいそぎ呼びのせて、手ごとに櫓(ろ)を押して、いそぎて船をいだす。

 其ときに、虎、おどりおりて、舟にのるに、舟は、とく、いづ。

 虎は、おちくるほどのありければ、いま一じやうばかりを、えおどりつかで、海におち入ぬ。

 舟をこぎて、いそぎて行まゝに、この虎に、目をかけてみる[やぶちゃん注:注視してみた。]。

 しばしばかりありて、とら、海より出きぬ。をよぎて、くが[やぶちゃん注:「陸(くが)」。]ざまにのぼりて、汀(みぎは)に、ひらなる石の上に、のぼるをみれば、左のまへあしを、膝よりかみ食(くひ)きられて、ち、あゆ[やぶちゃん注:血が滴っている。]。

「鰐(わに)に食ひきられたる也けり。」

と、みる程に、其(その)きれたる所を、水にひたして、ひらがりをるを[やぶちゃん注:ぺたんと体を平たくしていたが。]、

「いかにするにか。」

と、みる程に、沖の方(かた)より、わに、とらのかたをさしてくると、みる程に、虎、右の前足をもて、わにの頭に、つめをうちたてゝ、陸(くが)ざまに投げあぐれば、一じやうばかり、濱に、投げあげられぬ。

 のけざまになりてふためく[やぶちゃん注:仰向けになってばたばたとしている。]。

 おとがひ[やぶちゃん注:顎(あご)。]の下を、をどりかゝりて、食ひて、二(ふた)たび、三たびばかり、打(うち)ふりて、なよなよとなして[やぶちゃん注:新潮版では『なへなへ』。くったくたにして。]、かたに打かけて、てをたてたる樣なる岩の、五、六丈あるを、三(みつ)の足をもちて、くだりざかをはしるがごとく、のぼりてゆけば、舟のうちなるものども、これがしわざをみるに、なからは、死入(しにいり)ぬ[やぶちゃん注:恐懼のあまり、舟人らは皆、半ば死んだような気抜けになってしまった。]。

「舟に飛(とび)かゝりたらましかば、いみじき劍(つるぎ)・刀をぬきてあふ共(とも)、かばかり力つよく、はやからんには、何わざをすべき。」

と思ふに、きも心(ごころ)うせて、舟こぐ空もなくてなん[やぶちゃん注:舟の行く先もおぼつかぬままに。]、つくしにはかへりけるとかや。

   *

因みに、「今昔物語集」のそれのエンディングは、

   *

 然(さ)は、此の虎の爲態(しわざ)を見るに、船に飛び入りなましかば、我等は一人殘る者無く、皆、咋(く)ひ殺されて、家に返りて妻子の顔もえ見で死なまし。極(いみ)じき弓箭(きうぜん)・兵仗(ひやうじやう)[やぶちゃん注:刀剣類。]を持ちて、千人の軍(いくさ)防ぐとも、更に益(やく)有らじ。何(いか)に況むや、狹(せば)き船の内にては、太刀・刀を抜きて向ひ會ふとも、然許(さばかり)、彼(かれ)が力の强く、足の早からむには、何態(なにわざ)を爲すべきぞ」と、各々云ひ合ひて、肝心(きもこころ)も失せて、船漕ぐ空も無くてなむ、鎭西には返り來たりける。各々、妻子に此の事を語りて、奇異(あさま)しき命(いのち)を生きて返りたる事をなむ、喜びける。外の人も、此れを聞きて、極じくなむ、恐ぢ怖れける。

 此れを思ふに、鰐も海の中にては、猛く賢き者なれば、虎の海に落ち入たりけるを、足をば、咋ひ切りてける也。其れに[やぶちゃん注:それなのに。]、由無(よしな)く[やぶちゃん注:軽率に。]、

「尙ほ、虎を咋(く)はむ。」

とて、陸(くが)近く來て、命を失なふ也。

 然(しか)れば、萬(よろづ)の事、皆、此れが如く也。人、此れを聞て、

「餘りの事[やぶちゃん注:身の程知らずなこと。]は止(とど)むべし。只、吉(よ)き程にて有るべき也。」

と、人、語り傳へたるとや。

   *

と教訓が附されてある。ともかくも、この「鰐」は「鮫」で間違いないのは言うまでもない。

「Churchill」「鳩」に既出既注。

「神代卷に、海神一尋の鱷に、彥火々出見尊を送り還さしむる事あり」「彥火々出見尊」は所謂、「山幸彦」のこと。「日本書紀」の巻第二の「神代下」の第十段の第一書に、海神豊玉彦の宮から、彼が地上に帰る際、

   *

於是乘火火出見尊於大鰐。以送致本鄕。

   *

是に於いて、火火出見(ほほでみのみこと)大-鰐(わに)に乘せまつりて、以つて本鄕(もとつくに)に送-致(おく)りまつる。

   *

と出る。

「豐玉姬、產場を夫神に覗はれしを憤り、化して八尋の大鱷となり、海を涉りて去ると言り」同前の直後に、

   *

先是且別時。豐玉姫從容語曰。妾已有身矣。當以風濤壯日、出到海邊。請爲我造產屋以待之。是後豐玉姬果如其言來至。謂火火出見尊曰。妾今夜當產。請勿臨之。火火出見尊不聽。猶以櫛燃火視之。時豐玉姬化爲八尋大熊鰐。匍匐逶虵。遂以見辱爲恨。則徑歸海鄕。留其女弟玉依姬、持養兒焉。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

是れより先に別れむとする時、豐玉姫、從-容(おも)ふるに語(まう)して曰はく、

「妾(やつこ)、已に有身(はら)めり。當(まさ)に風濤(かぜなみ)壯(はや)からん日を以つて、海邊に出で到らむ。請ふ、我が爲に產屋(うぶや)を造り、以つて、待ちたまへ。」

と。

 是の後に、豐玉姬、果して其の言(こと)のごとく、來至(きた)る。火火出見尊に謂(まう)して曰(まう)さく、

「妾、今夜(こよひ)、當に產まんとす。請ふ、な臨(ま)しまそ。」

と。火火出見尊、聽かず、猶ほ櫛を以つて火を燃(とも)し視(み)そなはす。

 時に、豐玉姬、八尋(やひろ)の大熊鰐(おほわに)に化-爲(な)りて、匍-匐(は)ひ逶-虵(もごよ)ふ[やぶちゃん注:身をくねらせてのたくった。]。遂に辱(はづかし)められたるを以つて、

「恨めし。」

と爲して、則ち、徑(ただ)に海鄕(わだつみのくに)に歸る。其の女弟(いろと)玉依姬を留めて、兒(みこ)を持-養(ひた)さしむ。

   *

黄泉国での伊耶那岐・伊耶那美と全く同じ「見るな」の禁忌システムが起動して、破戒によって世界(二人の愛にシンボライズされる)が致命的に変成する部分が圧巻である。

『懷橘談に、出雲國安來の北海にて、天武帝二年七月、一女鱷に脛を食はる、其父哀しみて神祇に祈りしに、須臾にして百餘の鱷、一の鱷を圍繞し來たる。父之を突殺すに諸鱷去る。殺せし鱷を剖くに女の脛出しと見ゆ』「懷橘談」は松江藩の藩儒黒沢石斎が書いた出雲地誌。前編は承応二(一六五三)年、後編は寛文元(一六六一)年完成。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(谷口為次編・大正三(一九一四)年刊・「懐橘談・隠州視聴合紀」合本版)の本文の殆んど冒頭の「意宇郡」の「安來」にあるが、しかしこれは、熊楠にして、出典が頗る不適切で悪い。古くは「出雲風土記」の一節に出るものである。

   *

安來鄕。郡家東南二十七里一百八十步。神須佐乃烏命天壁立𢌞坐之。爾時來坐此度而詔。吾御心者安平成詔。故云安來也。卽北海有毘賣埼。飛鳥淨御原宮御宇天皇御代。甲戌七月十三日。語臣猪麻呂之女子。遊件埼。邂逅遇和爾所賊不歸。爾時父猪麻呂所賊女子斂毘賣埼上。大發聲憤。號天踊地。行吟居嘆。晝夜辛苦無避斂所作是之閒經歷數日。然後興慷慨志。麻呂。箭銳鋒撰便處居卽撎訴云。天神千五百萬。地祇千五百萬。並當國靜坐三百九十九社及海若等。大神之和魂者靜而。荒魂者。皆悉依給猪麻呂之所乞。良有神靈坐者。吾所傷助給。以此知神靈之所神者。爾時有須臾而。和爾百餘靜圍繞一和爾徐率依來從於居下。不進不退。猶圍繞耳。爾時擧鋒而刄中央一和爾殺捕。已訖然後百餘和爾解散。殺割者女子之一脛屠出。仍和爾者殺割而掛串立路之垂也【安來鄕人語臣等之父也。自爾時以來至于今日經六十歲。】。

   *

 安來(やすき)の鄕(さと)。郡-家(こほり)の東南二十七里一百八十步なり。神須佐乃烏命(かむすさのをのみこと)、天(あめ)の壁(かき)立い𢌞(めぐ)らし坐(ま)しき。爾(そ)の時、此度(ここ)に來坐(きま)して詔(の)りたまひしく、

「吾れが御心(みこころ)は、安く平らか成りぬ。」

と詔りたまひき。故(かれ)、「安來」と云ふ。

 卽ち、北の海に毘賣埼(ひめさき)有り。飛鳥の淨御原(きよはら)の宮(みや)の御宇の天皇(すめらみこと)の御代(みよ)、甲戌(きのえいぬ)七月十三日、語臣猪麻呂(かたりのおみゐまろ)の女子(むすめ)、件(くだん)の埼(さき)に遊びて、邂逅(たまさか)に和爾(わに)に遇ひ、賊(そこな)はえて歸らざりき。

 爾の時、父猪麻呂、賊はえし女子を毘賣埼の上(ほとり)に斂(をさ)め、大發聲(おほごゑ)に憤り、天に號(さけ)び、地に踊り、行きては吟(な)き、居ては嘆き、晝夜(ひるよる)、辛苦(たしな)みて、斂めし所を避(さ)ること無し。是(か)く作(す)る閒(ほど)に數日(ひかず)を經歷(へ)たり。然(しか)して後、慷慨(いきどほり)の志(こころ)を興こし、麻呂、箭の銳き鋒(さき)を撰(ゑ)りて、便(たより)の處に居り、卽ち、撎(をが)み訴へて云ひしく、

「天(あま)つ神千五百萬(ちいほよろづ)、地(くに)つ祇(かみ)千五百萬、並びに當(こ)の國に靜まり坐(ま)す三百九十九(みももまりここのそぢまり)の社(やしろ)、及(また)、海若等(わだつみたち)、大神(おほかみ)の和魂(にぎみたま)は靜まりて、荒魂(あらみたま)は、皆、悉(ことごと)に猪麻呂の乞(の)む所に依り給へ。良(まこと)に神靈(みたま)坐有(ましま)さば、吾(あ)が傷(いた)めるを助け給へ。此(ここ)を以ちて神靈(みたま)の神たるを知らむ。」

と。

 爾(そ)の時、須臾(しまし)有りて、和爾、百(もも)餘り、靜かに一つの鰐を圍み繞(めぐ)り、徐(おもぶる)に率て、居(を)る下(ところ)に依り來從(きよ)りて、進まず、退ぞかず、猶ほ、圍み繞るのみなりき。

 爾の時、鋒(ほこ)を擧げて、中央(まなか)なる一つの和爾を刄(さ)し殺し捕(と)りき。

 已(すで)に訖(を)へて、然して後、百餘りの和爾、解散(あら)けき。

 殺(た)ち割(さ)けば、女子の脛(はぎ)一つ、屠(ほふ)り出だしき。

 仍(よ)りて、和爾を殺ち割きて、串に掛けて路の垂(ほとり)に立てき【安來の鄕(さと)の人、語臣等(かたりのおみら)の父なり。爾の時より以來、今日に至るまでに六十歲を經たり。】。

   *

なお、神田典城氏の論文『「ワニ」小考』(学習院女子短期大学国語国文学会発行『国語国文論集』(第二十二号・平成五(一九九三)年三月)。こちらでPDFダウン・ロード可能)が、上代の「わに」をすっきりと解き明かしていて、まことによい。お薦めである。

『眞葛女の磯通太比に、奧州の海士「ワニザメ」に足を食去られ死せしを、十三年目に、其子年頃飼し犬を殺し、其肉を餌として鱷を捉へ、復讐せりといふ譚は之より出たるならむ』只野眞葛と紀行文「磯通太比」については「海龜」で既出既注。そこと同じ国立国会図書館デジタルコレクションの画像を底本として同じ仕儀で当該部を電子化する(ここの右ページの四行目下部から)。ここは奇しくも「海龜」で引用した箇所の直前である。そのジョイント・シークエンスもダブらせて添えておく。ここは奇しくも「海龜」で引用した箇所の直前である。そのジョイント・シーケンスもダブらせて添えておく。これで「いそづたひ」の同パートの後半部(別な続きはある)がカバー出来た。近いうちに別に全電子化をしようと思うている。

   *

 こゝを立(たち)て、菖蒲田濱を經て、松が濱にいたる。爰は濱々の中に、分(わき)て愛(めで)たき所なりき。松が浦島などいふは、ここの分名(わけな)[やぶちゃん注:「別名」。別称。]なりけり。海中まで、程よくさし出たる岩山有り、四方の能く見遣(みやら)るゝ故、代々御國知(しろ)しめす君の、出(いで)ます所に定められしかば、御殿崎とはいふ也。暫し休みて見渡せば、水際(みぎは)、やゝ遠く聳えたる岩に、松、ほどよく生たり。向ひ(南)[やぶちゃん注:底本が原本の傍注をかくしたもの。以下同じ。]は、空も一つに、際(きは)なき海なり。左(東)の方に、金花山の寶珠の形して、浮たり。右(西)の方に遠く見ゆるは、相馬の崎、其前に黑う、木立の引續きたるは、蒲生(がまふ)の松原也けり。其處(そこ)より此わたりまで、磯つゞきたる直濱に、絕(たえ)ず波の打寄(うちよす)るは、白布を曝せるとぞ思はる。海の水面に、日の影さし移りたるは、黃金白銀(こがねしろがね)の浮(うか)べる樣にて、橫折れる松の葉越(はごし)に見ゆるも目(ま)はゆし。面白き岩どもの多く有るに、打かゝる波の、白沫(しろあは)をきせ流し、あるは玉と成て、砕けつゝ散るも、いと淸し。底の深さは七丈有りとぞ。

 昔、西の方の國より、海士人夫婦(あまびとふうふ)、男子一人(ひとり)伴ひて、此處(こゝ)に留(とゞ)まりて、かづきしつゝ、鮑(あはび)とりしに、日每に、最(いと)大きなるを獲(え)て、鬻(ひさ)ぎしほどに、幾程(いくほど)もなく、富(とみ)たりき。

 此海には、鰐鮫(わにざめ)などいふ荒魚の栖(す)めば、こゝなる海士は、恐れて底迄は入らで、小(さゝ)やかなるをのみ、取(とり)て有りしを、此海士は、然(さ)る事も知らざりし故、水底に入て取りつるを、

「危(あやふ)き事。」

と、此處なる人は思ひ居しに、果して、大鰐(おほわに)、見つけて追ひし故、

「命を、はか。」[やぶちゃん注:「はか」は「計・量・果・捗」などを当て、「目当て・当て所(ど)」の意であろう。「命あっての物種!」の謂いである。]

と、眞手かた手[やぶちゃん注:「両の手を使って全力で」の意であろう。]、暇(いとま)なく、浪、搔分けつゝ逃(にげ)つれども、最(いと)速くおひ來て、こゝなる岸に登りて、松が根に取縋(すが)りて、上(あが)らんとせし時、鰐、飛付て、引おくれたる方(かた)の足を食たりしを、海士は上らん、鰐は引入れんと、角力(すま)ふほどに、足を付根より引拔(ひきぬ)かれて、狂ひ死(じに)に死(しに)にけり。鰐は、荒波、卷返(まきかへ)して、逃去りけり。

 子は、まだ廿(はたち)に足らぬ程にて有りしが、岸に立て見つれども、爲(せ)ん術(すべ)なければ、唯、泣きに泣きけり。

 其骸(から)を納めて後、

「父の仇(あだ)を報ひん。」

とて、日每に、斧・鉞(まさかり)を携へて、父が縋りし松が根に立て、瞬(まじろ)ぎもせず、海を睨(にら)みて、

「鰐や出づる。」

と、窺(うかゞ)ひ居(ゐ)けるを、人々、

「孝子也。」

とて、哀(あはれ)がりけり。

 扨、年、半計(なかばゞか)りも過(すぎ)たる頃、釣の業(わざ)を能(よ)うせし海士の、修行者(すぎやうざ)に成て、國巡(くにめぐ)りするが、爰に舍(やど)りけり。

 かゝることの有といふ事は、人每に語りつれば、其修行者も聞知りて、最(いと)哀れがりて、敎へけらく[やぶちゃん注:「けらく」は過去の助動詞「けり」の「ク語法」。「けり」の未然形「けら」に接尾語「く」が付いたもので、「~であったこと:~であったことには」の意を作る。]、

「鰐を捕らんと思ふに、斧・鉞は不要ならめ。良き鋼(はがね)にて、兩刄(りやうば)にとげたる[やぶちゃん注:「硏(と)ぎたる」の意。]、尺餘の大釣針を鍛(うた)すべし。夫(それ)に五尺の鐡鎖(かなぐさり)を付(つけ)て、肉を餌(ゑ)に串(さ)して、沖に出て、釣すべし。鰐、必ず、寄來(よりき)ぬべし。」

と傳へけり。

 孝子、甚(いた)く悅(よろこ)びて、敎へし如くに設(まう)け成(な)して、釣せしに、鯨の子を獲(ゑ)しこと、二度、あり。

 幾年、往回(ゆきか)へりて、父がくはれし時を算(かぞ)ふれば、十餘三(み)とせに成にけり。

 其日の回(めぐ)り來(こ)し時、法(のり)のわざ、慇(ねも)ごろにして、來集(きつど)ひたる浦人にむかひ、

「今日ぞ、必ず鰐を獲(ゑ)て、父に手向(たむけ)ん。」

と誓ひて、

「力(ちから)戮(あは)せ給はれ。」

と語らひつゝ、年比(としごろ)飼置(かひお)きし白毛なる犬の有りしを喚びて、

「父の仇を討たんと、汝(いまし)が命を、乞ふなり。我と、一つ心に成て、主(しゆ)の仇(あだ)なる鰐を、捕れ。」

と言聞(いひき)かせつゝ、淚を拂いて、首、打落し、肉(しゝむら)を切裂(きりさ)きて、釣針につき串(つらぬ)きて、沖に出て、針、卸(おろ)せしに、孝子の一念や、屆きつらん、誤たず、大鰐、針に懸りしかば、

「思ひし事よ。」

と悅びつつ、浦人にも、

「かく。」

と告げて、設置(まうけお)きたる、「か□らさん」[やぶちゃん注:不詳。「囗」なのかも知れぬが、恐らくは判読不能だったのではないか。国書刊行会「江戸文庫」版(曲亭馬琴自身の写本)では『かつらさん』とあるが、これも不詳。桟を葛で組み縛ったものか? 識者の五御教授を是非とも乞うものである。]と云物(いふもの)に懸(かけ)て、父が食(くは)れし斷岸(きりきし)に引寄せて、遂に鰐を切屠(きりはふ)りけり。

 其鰐の丈は七間半[やぶちゃん注:十三・六三メートル。]有りしとなん。

 かゝる事の聞え、隱れなかりし故、國主にも聞(きこ)し召付(めしつけ)られて、

「松が濱の孝子」

と、賞(ほめ)させ給へる御言書を給はりて、

「鰐を釣(つり)し針は、永く其家の寳(たから)にせよ。」

と仰せ下りつれば、今も持(もち)たり。

 鰐の頭(かしら)の骨は、海士人(あまびと)を埋(うめ)し寺の内に置(おき)たり。獅山公の御代の事なりき。此の二つの物は、今も正(まさ)しう有て、道ゆく人は、寄りて見つ。[やぶちゃん注:「獅山公」(しざんこう)は第五代仙台藩藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)のこと(戒名の「續燈院殿獅山元活大居士」に拠る)。元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。本書の作品内時制は文政元(一八一八)年。]

 かゝる事も有けり、と思へば、畏(かしこ)し。

  人とりし鰐に增(まさ)りてたくましや

     仇をむくひし孝の一念(おもひ)は

 海士人のすがりしといふ松、今も枯れずて、たてり。

 此島の周圍(めぐり)を離れぬ小舟ありき。

「人を乘せてんや。」

と、問はせつれば、

「二人、三人は可(よし)。」

といふ故、乘(のり)て見れば、蛸釣る舟には有し。今、捕(とり)たるを、膝の下(もと)に打入るゝは、珍らかなるものから[やぶちゃん注:逆接の接続助詞。]、心よからず。此釣人の語るやう、

「今よりは、七、八年前(さき)に、龜の持來(もてこ)し、『浮穴(ふけつ)の貝』といふものを、持はべり。我家は、道行く人の必ず過ぎ給ふ所なれば、立寄(たちよ)らせ給ひて、見給へかし。今、僕(やつがり)も參りてん。」

とぞ、いひし。

 舟より上るとて、今、捕りたる蛸を乞求(こひもと)めて、家苞(いへづと)にしたり。

   *]

2020/12/21

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(22:鰻)

 

 ○鰻、紀州の某所に片目の鰻あり、之に祈れば必ず雨ふるといふ事紀伊國名所圖會に有しと覺ゆ、伊豆三島の神、鰻を神使とする由、明良洪範、東海道名所記等に見えたり、多島海人、鰻及び「ハモ」を神とする事Waitz und Gerland,‘Anthropologie der Naturvölker’ 6te Teil, Leipzig, 1872. s.  280,296. に出たり、老媼茶話に、慶長十六年、蒲生秀行只見川に毒を流す前に、大鰻僧に化け來て之を止めんとせし事を載す、今も紀州に大鰻池の主なりと傳ふる所あり。

 

[やぶちゃん注:本邦産は条鰭綱ウナギ目ウナギ亜目ウナギ科ウナギ属ニホンウナギAnguilla japonica 及びオオウナギ Anguilla marmorata。ニホンウナギは朝鮮半島・中国大陸・フィリピンなど、東アジアを中心に広汎に分布し、マリアナ海溝付近で産卵していることが近年の調査で明らかなっており、オオウナギの分布はより広範囲で、アフリカ東岸からフランス領ポリネシアに至り、産卵場はフィリピン南部の深海と推測されている。因みに、中国には他に他種が複数棲息しているものと思われる。ここで熊楠は「多島海」(ポリネシア)を挙げているので、その場合はオオウナギであるとするのが正確かと思う。鰻を神仏の使者として食べない地域を私は幾つか知っている。最も知られているのは岐阜県郡上市美並町粥川(かゆかわ/かいかわ)地区であろう。ここで尊崇される仏が虚空蔵菩薩でその使者が鰻であるからとも、また、この辺りに跋扈していた「さるとらへび」(猿虎蛇:頭は猿、胴体は虎、尾は蛇という鵺(ぬえ)的なハイブリッドな妖獣)なる化け物を討つために遣わされた藤原高光(天慶二(九三九)年?~正暦五(九九四)年)が山中で迷った際、鰻が川を泳ぎながら道案内をし、退治できたという伝承に基づくともされ、実際にこの地区では鰻を食べず、公的にも鰻を保護して捕獲も禁止されている(国の天然記念物指定)。また、栃木県栃木市平井町にある太平山神社では、鰻がこの地まで神(現在、主祭神は瓊瓊杵命(ににぎのみこと)・天照皇大御神・豊受姫大神であるが、次の次のリンク先を参照)を乗せて来たという言い伝えがあり、同神社では鰻は禁忌食物となっている(公式サイト参照)。いや、サイト「龍鱗」の「太平山と鰻」によれば、嘗ては栃木の人は鰻を食わなかったし、それは他国にも知れ渡っていた、という驚くべきことが書かれているのである。そしてそれは、前に出した星宮の信仰と関わるのであって、『神道としては三光神社といって日(天照大神)・月(月読命)・星(瓊々杵命)を祀るが、仏教では星の宮と呼んで虚空蔵菩薩が本尊である。神仏分離で虚空蔵菩薩は一時荒れ果てたが、今は表坂の中腹に立派な六角堂が建てられ祀られている。栃木の人は日参・月詣りと信仰が厚かった』とあり、虚空蔵で鰻と繋がるのである。他にも、以前に泊まったことがある鹿児島県指宿市山川町の鰻池集落には、本邦でも珍しい「鰻」姓の一族が住んでおられ、村社を覗いたところ、奉名帳にびっしりと鰻姓の名前が記されてあった。この部落というか、「鰻」姓の一族は代々、鰻を食べない。嘗て食べて亡くなった人がいるとも、宿の鰻さんから、直接、聴いた。

「紀伊國名所圖會」文化八(一八一一)年から嘉永四(一八五一)年にかけて刊行された紀伊国の寺社・旧跡・景勝地の由緒や来歴を実景描写の挿絵と解説で紹介した地誌書。全十八巻二十三冊からなる。当初の企画・執筆・出版は和歌山城下の出版人であった七代目帯屋伊兵衛こと高市志友(たけちしゆう)で、三編完成前に志友が没した後は紀州藩御抱え絵師が加わり、後編では第十代藩主徳川治宝(はるとみ)の命により、加納諸平が編集に当たるなどし、次第に紀州藩主導の刊行事業となった。ネット上で版本を視認出来るが、あまりに膨大で、目録を縦覧した限りでは「片目の鰻」らしき対象は見当たらなかった。発見したら、追記する。

「伊豆三島の神、鰻を神使とする」現在の伊豆の三嶋大社は大山祇命・事代主神を祭神とするが、古くは三島(嶋)大明神を祀っていたのであり、三嶋大社は記紀神話の神ではなく、本来は伊豆諸島の造島神であったとする説も有力である。三嶋大社の神使は鰻とされる。あそこで鰻を食べるのが、私の楽しみの一つである。

「明良洪範」(めいりょうこうはん)は江戸中期の逸話・見聞集。十六世紀後半から十八世紀初頭までの徳川氏・諸大名その他の武士の言行・事跡等、七百二十余項目を集録する。江戸千駄ヶ谷の真言宗聖輪寺(しょうりんじ)の住持増誉の著。全二十五巻・続編十五巻。成立年は不詳。膨大で、調べる気にならない。悪しからず。

「東海道名所記」名所図会シリーズで一世を風靡した秋里籬島(あきさとりとう 生没年未詳)著。寛政九(一七九七)年刊行。

「ハモ」条鰭綱ウナギ目ハモ科ハモ属ハモ Muraenesox cinereus 。本来の本邦に於ける「鱧」は本種「ハモ」であり、「海鰻」もまた「ハモ」としてよい。後者は現代中国語でも「ハモ」を指す(但し、単漢字「鱧」は、現代中国語では「ライギョ」を指す語として用いられるようである。但し、漢和辞典にはその用法はない)。

「Waitz und Gerland,‘ Anthropologie der Naturvölker’ 6te Teil, Leipzig, 1872. s.  280,296.」底本では、一部の綴りに疑問があったので、平凡社「選集」版で補正した。ドイツの心理学者・人類学者であったテオドール・ワイツ(Theodor Waitz 一八二一年~一八六四年)と、ドイツの人類学者で地球物理学者でもあったゲオルグ・コーネリアス・カール・ゲランド(Georg Cornelius Karl Gerland 一八三三年~一九一九年)の共著になる、「原始人の人類学 第六部」か。一八六〇年版を「Internet archive」で見つけたが、ドイツ語は全く分からないので、悪しからず。

「老媼茶話に、慶長十六年、蒲生秀行只見川に毒を流す前に、大鰻僧に化け來て之を止めんとせし事を載す」「老媼茶話」は三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名は「松風庵寒流」)を持つ「老媼茶話(らうあうさわ(ろうおうさわ))」。私は「怪奇談集」で全電子化注を終えている。私の同「巻之弐 只見川毒流」を見られたい。

「紀州に大鰻池の主なりと傳ふる所あり」不詳。川の淵ならば、情報はある。]

御伽比丘尼卷四 ㊄不思議は妙妙は不思議付百物語

 

    ㊄不思議は妙(めう)妙は不思議付百物語

 

Hyakumonogatari

 

[やぶちゃん注:挿絵は国書刊行会「江戸文庫」版の挿絵もカスレが気になり、厭になったので、裏映りがあるものの、絵が鮮明に見える底本の国立国会図書館デジタルコレクションのそれをトリミングして以下最後まで使用することにした。]

 

 むさしのある邊に、何がしとかやいへる士あり。老苦、心ならず、名跡(みやうせき)は息(そく)にゆづりあたへて、世事をしらず遁(のがれ)居(ゐ)て、心をやすく、わたれり。

 時しも、秋の雨、窓にかよひ、蟲のかれ聲、やゝ哀に、淋しき夕(ゆふべ)、戶を音づるゝあり。

「怪(あやし)。荻(をぎ)の上風〔うへかぜ〕にや。」

と、見れば、日比、隔(へだて)なき、二、三子の友、とぶらひ來れり。

「八重葎(やえむぐら)さしこもりにし柴の戶に、珍しの御たづね。先〔まづ〕こなたへ。」

と、一間(ま)なるかたによりゐて、こしかた語りつゞくれば、猶、雨しきりに軒に玉なして、何となく、世上、靜(しづか)なるに、ひとりのいひ出〔いづ〕る、

「かく打よりたるつゐで、おもしろきに、いざ、百物がたりして、昔よりいひし恠(あやしみ)ありやなしや、心みなん。」

といへば、人々、

「尤(もつとも)。」

と、こぞり、よりぬ。

 それが中に、中老の男、此〔この〕法度(ほうと)を、とゝのふ。

 先〔まづ〕、靑き紙をもて、あんどうをはり、燈心、百筋(すぢ)、たてたり。はなし、ひとつに、燈心、一筋づゝ、ともし、けちて、百にみつれば。座中(ざ〔ちゆう〕)、闇(やみ)となりぬるに、さだむ。

 かくて、ひとり、ひとり、おどろくしき物がたり、かたりつゞけけるほどに、九十九になれば、燈心。たゞ一筋の光、幽(かすか)に、物悲しく、われかの氣しきになりて、鼠(ねづみ)の鳴(なく)聲も、耳にあやしく、風の、戶ざしならすも、むねにけうとく、漸々(やう〔あう〕)百にみつれば、灯(ともしび)、打消(〔うち〕け)して、ひとへに闇のごとく、

『いかなる事かあらん。』

と、かたづをのふで[やぶちゃん注:ママ。]、一時計(〔いつ〕とき〔ばかり〕)、別の恠(あやしみ)もなければ、又、ともしびをかゝげ、互(たがひ)に顏を見あはせ、

「往昔(そのかみ)よりいひ傳たるは、左計(さ〔ばかり〕)もなし。」

など、打わらひぬ。

「夜の明(あけ)なん、ほどもなし。」

と、人々、其儘に、まろび、ふしぬ。

 かくて、遠寺(ゑんじ)のかね、さとのくたかけ、しののめをつぐるに、各〔おのおの〕起出(おきいで)て見れば、

――只今

――切捨(きりすて)たるごとき

――女くび

――五つ

――くろき髮を亂し

――翠(みどり)の黛(ずみ)

――紅(くれな〔ゐ〕)の顏(かんばせ)

――うつくしきが

――朱(あけ)のちしほにそみたるを

――ひとりひとりの枕もとに

――ならべ

――置〔おき〕ぬ……

 座敷の戶は、宵より、つよく、錠(でう)おろしてあれば、外(ほか)よりかよふ窓もなし。

 此ふしぎさ、戶ざし、明〔あけ〕、出〔いで〕て、是をみるに、更に、かはる事なき、女のくび也ければ、皆、とり集(あつめ)、ちかき㙒(の)べに捨(すて)て、立歸りみるに、

――今迄ありし女のくび

――一時(〔いち〕じ)に

――されかうべとぞなりける……

 されば、此百物語は、是〔これ〕、魔を修(しゆ)する行(ぎやう)にして、恠異(けい)を祈るの法なり。

 宵より、餘事をまじへず、此事に念をこらしたればぞ、かゝるふしぎは、ありける。

 是を思ふに、仏を念ずるの心、至(いたつ)て誠(まこと)あらば、何ぞ、仏果(〔ぶつ〕くわ)の妙に、かなはざらん。

 「魔道・仏道、異(こと)なり。」

と、いへど、念ずるの心、又、ひとつ也。是(これ)、惡(あく)、是、善、なれば、速(すみやか)に惡をさつて、ひとへにぼだひ心を願ふには、しかじ。

 

 

御伽比丘尼卷之四

 

[やぶちゃん注:ちょっと雰囲気を出すために、ダッシュと点線を用いて遊んだ。怪異の最後が葬ったはずの麗しき生首群が、帰ってみたところが、同じ場所に今度は髑髏となって転がっていたというオチは、なかなかにオリジナリティがあり、シメの一発として効いているとは言える。

「くたかけ」「くだかけ」でもよいが、古式は清音。朝早くからやかましく鳴く鷄(にわとり)を罵って言った古い蔑称。一説に「くた」は「腐(くた)れ」の意で、「かけ」は鶏の声を写した古擬声語「かけろ」に基づくとする語が、如何にも怪しい。因みに、南方熊楠は所謂、「十二支考」の「鶏に関する民族と伝説」の「六 概説」の冒頭で、

   *

 鶏、和名カケ、またクダカケ、これは百済鶏(くだらかけ)の略で、もと百済より渡った故の名か。かかる類(たぐい)、高麗錦(こまにしき)、新羅斧(しらぎおの)など、『万葉集』中いと多し(『北辺随筆』)、カケは催馬楽(さいばら)の酒殿の歌、にわとりはかけろと鳴きぬなり、とあるカケロの略で(『円珠庵雑記』)、梵語でクックタ(牝鶏はクックチー)、マラガシーでコホ、新ジォールジア等でココロユ、ヨーク公島でカレケ、バンクス島でココク(コドリングトンの『メラネシア語篇』四四頁、『ゼ・メラネシアンス』一八頁)等と均しく、その鳴き声を名としたのだ。漢名鶏(けい)と言うも、鶏は稽(けい)なり、よく時を稽(かんが)うる故名づくと徐鉉[やぶちゃん注:「じょげん」。]は説いたが、グリンムの童話集に、鶏声ケケリキとあったり、ニフィオレ島等で鶏をキオ、マランタ島等でクアと呼んだりするから推すと、やはりその声に因って鶏(キー)と称えたのだ。ミソル島で鶏の名カケプ(ワリスの『巫来群島記(ザ・マレー・アーキペラゴ)』附録)、マラガシーでアコホ(一八九〇年板、ドルーリーの『マダガスカル』三二二頁)など、わが国で鶏声をコケコというに通う。紀州東牟婁郡古座町辺で、二十年ばかり前聞いた童謡に、「コケロめんどり死ぬまで鳴くが、死んで鳴くのは法螺の貝」。大蔵流本狂言「二人大名」に闘鶏の真似する声、コウコウコウコキャコウコウコウ、とある。これは闘う時、声常に異なり劇しいゆえ、コキをコキャと変じたらしい。『犬子集』一四に「ととよかかよと朝夕にいふ」「鶏や犬飼ふことをのうにして」。只今は犬を呼ぶにかかといわぬが、鶏を呼ぶにトトトトと言うは寛永頃すでにあったのだ。チドレヤガレラで鶏をトコ、アルチャゴおよびトボでトフィ(ワリス、同前)、ファテ等でト、セサケ等でトア、エロマンガでツウォ、ネンゴネでチテウェと名づくるなど攷え合わすと、本邦のトトは雄鶏の雌を呼ぶ声によったものらしい、魚をトトというは異源らしい。『骨董集』上編上を見よ。

   *

と、例の調子でぶいぶいかましていて面白い(引用は所持する一九八四年平凡社版「選集」第四巻を用いた)。但し、私は熊楠の「百済鷄」説もちょっと勘弁という気がする。寧ろ、彼が沢山例示した如く、鷄の鳴き声のオノマトペイアではないかというのが一番しっくりくる。「クワケッツ! クワッケコッコツ!」辺りから引き出せそうな気がするのである。]

★カテゴリー「怪奇談集」初期の「佐渡怪談藻鹽草」・「谷の響」・「想山著聞奇集」の電子化注リンク一覧★《追加リロード》

 

 実は、先日来、複数の知人から、カテゴリー「怪奇談集」を開いても、初期の「佐渡怪談藻鹽草」と「谷の響」の前半分が纏まって表示されないために非常に読みにくくなっているという御指摘をいただいているのであるが、これはブログの『システムのバランス』(意味不明だが、ニフティの正式回答にそうある。サイバーの過剰負荷防止ということか?)のためにニフティの方がカテゴリーの一括表示を如何なる場合も1,000件までで制約しているためで、私自身ではどうすることも出来ないことなのである。本「怪奇談集」は2020617日に1,000件に達し、現時点で1,084件に達している。ニフティがこの表示件数を1,000以上にする可能性は今のところなさそうで、かといって、カテゴリー分割をするには、八十四件総てを一つ一つカテゴリー変更をしなくてはならなくなる(システム上、一括変換は不可能ということである)。それでもよかったのだが、どうも機械的にブッ千切って「怪奇談集2」というB級映画の題名みたようなのにするのは不愉快である。

 因みに、「佐渡怪談藻鹽草」は最初の「怪奇談集」電子化注として甚だ私の偏愛する一篇で、電子化自体が私のものぐらいしかない。私の佐渡好きの友人に至っては、総てを印刷して読んでくれたりしており、個人的にはイチ押しの怪奇談集である。「谷の響」も北辺の津軽藩領内に特化した、魅力的で、不思議にリアルなもので、忘れ難い。やはりネット上では今でもレアな電子化注の一つであると思う。

 そこで、少し面倒だったが、最初期の「佐渡怪談藻鹽草」と「谷の響」の二件について、ここにリンク集を作成し、読者の便に供することとした。リンクの後は当該電子化注の公開年月日である。また、五十話も書けば、「谷の響」の後も表示されなくなるが、それまでは暫し時間がある。その時には、また、この追加したものを新たに作って掲げることにする。まずはこれで、知人たちの憂鬱も少し晴れるものと思う。【20201031日】そろそろ、またぞろ危なくなってきたので、私の偏愛する「想山著聞奇集」を追加したものと差し替えた。【20201221日更新】

 

「想山著聞奇集」序(二種)+凡例+全目録/「想山著聞奇集」全電子化注完遂 2017.06.19

「想山著聞奇集」 跋(二種) 2017.06.19

「想山著聞奇集 卷の五」 「萬木柊と化する神社の事」/「想山著聞奇集」~本文終了 2017.06.18

「想山著聞奇集 卷の五」 「猫俣、老婆に化居たる事」 2017.06.17

「想山著聞奇集 卷の五」 「鮟鱇の如き異魚を捕たる事」 2017.06.16

「想山著聞奇集 卷の五」 「縣道玄、猪を截たる事」 2017.06.15

「想山著聞奇集 卷の五」 「※蚯蚓(はねみみず)、蜈蚣と變ずる事 幷、蜊、蟹と化する事」 2017.06.13

「想山著聞奇集 卷の五」 「鮑貝に觀世音菩薩現し居給ふ事」 2017.06.12

「想山著聞奇集 卷の五」 「磬石の事」 2017.06.12

「想山著聞奇集 卷の五」 「狸の人と化て相對死をなしたる事」 2017.06.11

「想山著聞奇集 卷の五」 「馬の言云たる事」 2017.06.10

「想山著聞奇集 卷の五」 「にち蜂の酒、幷へぼ蜂の飯の事 附、蜂起の事」 2017.06.09

「想山著聞奇集 卷の五」 「天狗に連行れて鐡砲の妙を得來りし者の事」 2017.06.05

「想山著聞奇集 卷の五」 「蛇の執念、小蛇を吐出す事」 2017.06.05

「想山著聞奇集 卷の五」 「柳谷觀音利益の事」 2017.06.05

「想山著聞奇集 卷の四」 「美濃國須原神社祭事不思議幷靈驗の事」 / 卷の四~了 2017.06.04

「想山著聞奇集 卷の四」 「西應房、彌陀如來の來迎を拜して往生をなす事」 2017.06.04

「想山著聞奇集 卷の四」 「古狸、人に化て來る事 幷、非業の死を知て遁れ避ざる事」 2017.06.04

「想山著聞奇集 卷の四」 「龍の卵、幷雷の玉の事」 2017.06.03

「想山著聞奇集 卷の四」 「耳の大ひ成人の事」 2017.05.31

「想山著聞奇集 卷の四」 「雁の首に金を懸て逃行たる事 幷、愚民の質直、褒美に預りたる事」 2017.05.31

「想山著聞奇集 卷の四」 「信州にて、くだと云怪獸を刺殺たる事」 2017.05.31

「想山著聞奇集 卷の四」 「死に神の付たると云は噓とも云難き事」 2017.05.31

「想山著聞奇集 卷の四」 「美濃の國にて熊を捕事」 2017.05.31

「想山著聞奇集 卷の四」 「大ひ成蛇の尾を截て祟られたる事 幷、強勇を以、右祟を鎭たる事」 2017.05.30

「想山著聞奇集 卷の四」 「大名の眞似をして卽罰の當りたる事」 2017.05.27

「想山著聞奇集 卷の四」 「日光山外山籠り堂不思議の事 幷、氷岩の事」 2017.05.27

「想山著聞奇集 卷の參」 「雹の降たる事」 / 卷の參~了 2017.05.26

「想山著聞奇集 卷の參」 「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」 2017.05.22

「想山著聞奇集 卷の參」 「金を溜たる執念、死て後、去兼たる事 幷、隱盜現罸を蒙りたる事」 2017.05.12

「想山著聞奇集 卷の參」 「大蛇の事」 2017.05.10

「想山著聞奇集 卷の參」 「油を嘗る女の事」 2017.05.06

「想山著聞奇集 卷の參」 「天色火の如く成たる事」 2017.05.04

「想山著聞奇集 卷の參」 「七足の蛸、死人を掘取事」 2017.05.03

「想山著聞奇集 卷の參」 「狩人異女に逢たる事」 2017.05.03

「想山著聞奇集 卷の參」 「戲に大陰囊を賣て其病氣の移り替りたる事   附 大陰囊の事」 2017.05.03

「想山著聞奇集 卷の參」 「蟇の怪虫なる事」 2017.05.02

「想山著聞奇集 卷の參」 「元三大師誕生水、籾の不思議の事」 2017.05.02

「想山著聞奇集 卷の貮」 「神物の靈驗にて車に曳れて怪我なかりし事」 2017.05.02

「想山著聞奇集 卷の貮」 「麁朶(そだ)に髮の毛の生たる事」 2017.04.28

「想山著聞奇集 卷の貮」 「辨才天契りを叶へ給ふ事 附 夜這地藏の事」 2017.04.26

「想山著聞奇集 卷の貮」 「馬の幽魂殘りて嘶く事」 2017.04.14

「想山著聞奇集 卷の貮」 「鎌鼬の事」 2017.04.14

「想山著聞奇集 卷の貮」 「剜拔舟掘出したる事」 2017.04.11

「想山著聞奇集 卷の貮」 「風に倒れし大木自然と起たる事」 2017.04.08

「想山著聞奇集 卷の貮」 「山𤢖(やまをとこ)が事」 2017.04.07

「想山著聞奇集 卷の貮」 「海獺昇天するを打留る事」 2017.04.07

「想山著聞奇集 卷の貮」 「猫のもの云たる事」 2017.04.06

「想山著聞奇集 卷の貮」 「品川千躰荒神尊靈驗の事」 2017.04.05

「想山著聞奇集 卷の壹」 「吉夢應を顯す事」 2017.03.29

「想山著聞奇集 卷の壹」 「人の金を掠取て螢にせめ殺さるゝ事 附 蟲ぎらひの事」 2017.03.28

「想山著聞奇集 卷の壹」 「狐の行列、幷讎をなしたる事 附 火を燈す事」 2017.03.15

「想山著聞奇集 卷の壹」 「白蛇靈異を顯したる事」 2017.03.14

「想山著聞奇集 卷の壹」 「毛の降たる事」 2017.03.13

「想山著聞奇集 卷の壹」 「菖蒲の根、魚と化する事」 2017.03.12

「想山著聞奇集 卷の壹」 「頽馬の事」 2017.03.12

「想山著聞奇集 卷の壹」 「蛸藥師靈驗の事」 2017.03.11

「想山著聞奇集 卷の壹」 「鏡魚と名付たる異魚の事」 2017.03.11

「想山著聞奇集 卷の壹」 「天狗の怪妙、幷狗賓餅の事」 2017.03.11

「想山著聞奇集」電子化注 始動 / 「凡例」+「出雲大社遷宮の時、雲出る事」 2017.03.10

谷の響 序 (二種) / 全目録 2016.12.07

谷の響 五の卷 十九 假面 / 谷の響 ~ 全電子化注 完遂 2016.12.06

谷の響 五の卷 十八 地中に希器を掘る 2016.12.06

谷の響 五の卷 十七 地を掘て物を得 2016.12.06

谷の響 五の卷 十六 旋風 2016.12.06

谷の響 五の卷 十五 龍まき 2016.12.06

谷の響 五の卷 十四 蚺蛇皮 2016.12.05

谷の響 五の卷 十三 蚺蛇 2016.12.05

谷の響 五の卷 十二 石淵の怪 大蟹 2016.12.05

谷の響 五の卷 十一 大蝦蟇 怪獸 2016.12.05

谷の響 五の卷 十 雩に不淨を用ふ 2016.12.04

谷の響 五の卷 九 沼中の主 2016.12.04

谷の響 五の卷 八 河太郎 2016.12.04

谷の響 五の卷 七 メトチ 2016.12.04

谷の響 五の卷 六 狢讐を報んとす 2016.12.04

谷の響 五の卷 五 怪獸 2016.12.04

谷の響 五の卷 四 狼の力量幷貒 2016.12.03

谷の響 五の卷 三 皮を剝ぎ肉を截れて聲を發てず 2016.12.03

谷の響 五の卷 二 羽交(はがひ)に雄の頸を匿す 2016.12.02

谷の響 五の卷 一 羹肉己ら躍る 2016.12.02

谷の響 四の卷 廿一 一夜に家を造る 2016.12.01

谷の響 四の卷 二十 天狗人を攫ふ 2016.11.30

谷の響 四の卷 十九 食物形を全ふして人を害す 2016.11.30

谷の響 四の卷 十八 奇病 2016.11.30

谷の響 四の卷 十七 骨髮膿水に交る 2016.11.28

谷の響 四の卷 十六 肛門不開 2016.11.28

谷の響 四の卷 十五 半男女 2016.11.28

谷の響 四の卷 十四 閏のある年狂人となる 2016.11.27

谷の響 四の卷 十三 祈禱の禍牢屋に繫がる 2016.11.27

谷の響 四の卷 十二 賣僧髮を截らしむ 2016.11.27

谷の響 四の卷 十一 題目を踏んで病を得 2016.11.27

谷の響 四の卷 十 戲謔長じて酒殽を奪はる 2016.11.27

谷の響 四の卷 九 人を唬して不具に爲る 2016.11.27

谷の響 四の卷 八 存生に荼毘桶を估ふ 2016.11.26

谷の響 四の卷 七 龍頭を忌みて鬪諍を釀す 2016.11.26

谷の響 四の卷 六 鬼に假裝して市中を騷がす 2016.11.24

谷の響 四の卷 五 狂女寺中を騷かす 2016.11.24

谷の響 四の卷 四 大毒蟲 2016.11.24

谷の響 四の卷 三 水かけ蟲 2016.11.24

谷の響 四の卷 二 氷中の蟲 2016.11.23

谷の響 四の卷 一 蛙 かじか 2016.11.23

谷の響 三の卷 廿一 妖魅 2016.11.21

谷の響 四の卷 二十 妖魅人を惱す 2016.11.21

谷の響 三の卷 十九 鬼火往來す 2016.11.20

谷の響 三の卷 十八 落馬の地 2016.11.20

谷の響 三の卷 十七 樹血を流す 2016.11.20

谷の響 三の卷 十六 陰鳥 2016.11.20

谷の響 三の卷 十五 骨牌祠中にあり 2016.11.19

谷の響 三の卷 十四 大藤 2016.11.19

谷の響 三の卷 十三 大躑躅 2016.11.19

谷の響 三の卷 十二 ネケウ 2016.11.17

谷の響 三の卷 十一 巨薔薇 2016.11.17

谷の響 三の卷  十 化石の奇 2016.11.17

谷の響 三の卷 九 奇石 2016.11.17

谷の響 三の卷 八 異魚2016-11-14 20:24:34

谷の響 三の卷 七 死骸を隱す2016-11-13 06:53:32

谷の響 三の卷 六 踪跡を隱す2016-11-12 16:20:46

谷の響 三の卷 五 天狗子を誘ふ2016-11-12 15:20:17

谷の響 三の卷 四 震死2016-11-05 10:13:30

谷の響 三の卷 三 壓死2016-11-04 07:16:28

谷の響 三の卷 二 壘跡の怪2016-11-03 10:24:11

谷の響 三の卷 一 大骨2016-11-02 13:41:59

谷の響 二の卷 十七 兩頭蛇2016-11-01 11:50:44

谷の響 二の卷 十六 怪蟲2016-10-31 16:39:54

谷の響 二の卷 十五 山靈2016-10-30 10:25:39

谷の響 二の卷 十四 蟇の妖魅2016-10-29 08:18:07

谷の響 二の卷 十三 犬無形に吼える2016-10-28 08:34:19

谷の響 二の卷 十二 神の擁護2016-10-25 08:02:47

谷の響 二の卷 十一 夢魂本妻を殺す2016-10-24 08:20:43

谷の響 二の卷 十 蜘蛛の智2016-10-23 13:33:56

谷の響 二の卷 九 蝦蟇の智2016-10-23 13:00:59

谷の響 二の卷 八 燕繼子を殺す2016-10-23 09:51:32

谷の響 二の卷 七 海仁草 海雲2016-10-23 06:09:29

谷の響 二の卷 七 異花を咲く2016-10-23 05:59:47

谷の響 二の卷 六 變化2016-10-23 05:57:15

谷の響 二の卷 五 蟹羽を生ず2016-10-23 05:54:44

谷の響 二の卷 四 怪蚘2016-10-22 13:42:49

谷の響 二の卷 三 蛇章魚に化す2016-10-21 15:58:10

谷の響 二の卷 二 章魚猿を搦む2016-10-21 15:05:14

谷の響 二の卷 一 大章魚屍を攫ふ2016-10-21 08:06:19

谷の響 一の卷 十八 龜恩に謝す2016-10-20 14:43:33

谷の響 一の卷 十四 筟子杼を脱れ鷹葉を貫く2016-10-19 14:10:02

谷の響 一の卷 十七 猫讐を復す2016-10-19 09:44:46

谷の響 一の卷 十六 猫の怪 並 猫恩を報ふ2016-10-18 16:41:57

谷の響 一の卷 十五 猫寸罅を脱る2016-10-16 05:41:41

谷の響 一の卷 十三 自串2016-10-15 14:30:54

谷の響 一の卷 十二 神靈2016-10-15 12:26:06

谷の響 一の卷 十一 鬼祭饌を享く2016-10-15 06:07:34

谷の響 一の卷 十 虻2016-10-14 14:26:40

谷の響 一の卷 九 木筒淵の靈2016-10-14 08:20:13

谷の響 一の卷 八 蛇塚2016-10-13 09:15:47

谷の響 一の卷 七 蚺蛇を燔く2016-10-12 21:25:14

谷の響 一の卷 六 龍尾2016-10-12 06:07:07

谷の響 一の卷 五 怪獸2016-10-11 07:33:21

谷の響 一の卷 四 河媼2016-10-10 12:50:51

谷の響 一の卷 三 山婦2016-10-09 06:25:50

谷の響 一の卷 二 地中の管弦2016-10-08 16:19:54

谷の響 一の卷 一 沼中の管弦2016-10-07 15:52:51

佐渡怪談藻鹽草 序 目錄 / 佐渡怪談藻鹽草全電子化注 了2016-10-06 12:44:21

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佐渡怪談藻鹽草 山仕秋田權右衞門愛宕杜參籠の事2016-09-21 07:20:10

佐渡怪談藻鹽草 鶴子の三郎兵衞狸の行列を見し事2016-09-20 05:17:17

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佐渡怪談藻鹽草 安田何某廣言して突倒されし事2016-09-17 20:40:47

佐渡怪談藻鹽草 梶太郎右衞門怪異の物と組事2016-09-17 15:30:54

佐渡怪談藻鹽草 菅沼何某金北山權現の御影を拜せし事2016-09-17 13:57:36

カテゴリ「怪談集」始動 / 佐渡怪談藻鹽草 眞木の五郎鰐に乘し事2016-09-17 12:39:14

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(21:岩魚)

 

 ○イハナ魚、想山著聞奇集卷三に、美濃信濃に此魚坊主に化るてふ迷信多き由云り、但し其僧に化し來て、人に漁を止めんことを訓え[やぶちゃん注:ママ。「をしへ」。]、食事して去り、獲らるゝに及んで、腹に先刻人に饗せられたる團子存せしと云話しは、莊子に孔子が神能見夢於元君、而不能避豫且之網と言けるに基き作れるか。

 

[やぶちゃん注:「イハナ魚」硬骨魚綱サケ目サケ科イワナ属イワナ Salvelinus leucomaenis 或いは日本固有亜種ニッコウイワナ Salvelinus leucomaenis pluvius  又は日本固有亜種ヤマトイワナ Salvelinus leucomaenis japonicus

「想山著聞奇集卷三に、美濃信濃に此魚坊主に化るてふ迷信多き由云り、……」「想山著聞奇集」(しやうざんちよもんきしふ(しょうざんちょもんきしゅう))は江戸後期の尾張名古屋藩士で右筆を勤めた大師流書家で随筆家としても知られた三好想山(みよししょうざん ?~嘉永三(一八五〇)年)の代表作で、動植物奇談・神仏霊異・天変地異など五十七話の奇談を蒐集したもの。全五巻。没年の嘉永三(一八五〇)年に板行されている。私は「怪奇談集」で全篇電子化注を終えており、私の偏愛する奇譚集である。また、特にその中でも熊楠の指摘する「想山著聞奇集 卷の參 イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」は、特に好きな一篇である。私の注は神経症的に過ぎて、本文が読み難いので、今回、この一篇のみ、文中に入れた割注のポイントを落しておいた。

「莊子に、孔子が神能見夢於元君、而不能避豫且之網と言ひける」「莊子」(そうじ)の「外物篇」の第二十六の一節。

   *

​​宋元君夜半而夢、人被髮闚阿門、曰、「予自宰路之淵、予爲淸江使河伯之所、漁者余且得予。」元君覺、使人占之、曰、「此神龜也」。君曰、「漁者有余且乎」。左右曰、「有」。君曰、「令余且會朝」。明日余且朝、君曰、「漁何得」。對曰、「且之網、得白龜焉、其圓五尺」。君曰、「獻若之龜」。龜至、君再欲殺之、再欲活之、心疑卜之曰、「殺龜以卜吉」。乃刳龜、七十二鑽而无遺筴。

仲尼曰、「神能見夢於元君、而不能避余且之網、知能七十二鑽而无遺筴、而不能避刳腸之患。如是、則知有所困、神有所不及也。雖有至知、萬人謀之。魚不畏網、而畏鵜鶘。去小知而大知明、去善而自善矣。嬰兒生无石師而能言、與能言者處也」。

   *

 宋の元君、夜半にして夢みる。

 人、被髮(ひはつ)して阿門[やぶちゃん注:屋敷の角にある小さな門。]を闚(うかが)ひて曰はく、

「予(われ)、宰路(さいろ)の淵より、きたり。予、淸江の爲に河伯の所に使ひするに、漁者の余且(よしよ)、予を得たり。」

と。

 元君、覺め、人をして之れを占はしむるに、曰はく、

「此れ、神龜なり。」

と。君、曰はく、

「漁者に余且なるもの有か。」

と。左右、曰はく、

「有り。」

と。君、曰はく、

「余且をして朝(あした)に會(くわい)せしめよ。」

と。

 明日、余且、朝(あした)す。君、曰はく、

「漁して何を得たる。」

と。對(こた)へて曰はく、

「且の網するに、白龜を得たり。其の圓(わたり)五尺。」

と。君、曰はく、

「若(なんぢ)の龜を獻ぜよ。」

と。

 龜、至る。君、再び之れを殺さんと欲せしも、再び之れを活(いか)さんとも欲す。心に疑ひて之れを卜(ぼく)して曰はく、

「龜を殺して、以つて[やぶちゃん注:その亀甲を以って。]、卜せば、吉なり。」

と。乃(すなは)ち、龜を刳(えぐ)り、七十二鑽(さん)して、遺筴(いさく)无(な)し[やぶちゃん注:その亀甲で七十二度も錐で穴を開けて占ったが、吉凶は必ず当たり、一度として外れたことはなかった。]。

 仲尼[やぶちゃん注:孔子。]曰はく、

「神(しん)は能く元君の夢に見(あら)はるるも、而れども、余且の網を避くること能はず。知は能く七十二鑽して遺筴无きも、而れども、腸(はらわた)を刳らるるの患を避くること能はず。是(か)くのごとくんば、則ち、知も困(きは)まれる所、有り、神も及ばざる所、有るなり。至知(しち)有りと雖も、萬人、之れを謀る[やぶちゃん注:万人が企てた謀略には敵(かな)わない。]。魚は網を畏れずして、鵜鶘(ていこ)[やぶちゃん注:鵜。]を畏る。小知を去れば、而(すなは)ち、大知、明らかにして、善を去れば、而ち、自づから善なり。嬰兒の生まるるや、石師(せきし)[やぶちゃん注:優れた先生。]无くして能く言(ものい)ふは、能く言ふ者と處(を)ればなり。」

と。

   *

「荘子」得意のパラドクスである。但し、私は熊楠の言うように、これが原拠であるとは思わない。ここにあるのは、仏教の放生会などの影響の方が遙かに大きいものと考えるからである。中国のそれとは、私はある種の平行進化の結果で似ているだけのことのように思うのである。まんず、「想山著聞奇集」親衛隊を自任する私のバイアスが掛かってのことであるけれども。]

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(20:蟾蜍)

 

 蟾蜍、は耶蘇敎國一汎に之を大毒有り、罪惡有る者として忌嫌ふ、(A.C. Lee, ‘The Decameron its Sources and Analogues, 1909, p. 139)予曾て英國學士會員「ブーランゼー」氏に此事を質せしに、蟾蜍の皮下に毒物有るは事實なりと語られ、昨年頃此事を學士會院で論ぜられたり、然るに支那に多く之を食ひ、本邦にも九州に然する所ありと聞く、山座圓次郞氏の直話に、學生の時貧にして屢ば此を烹食せしが、隨分可なりの味は有る、然し爪を去らずに食へば頗る苦かりしと、吾邦には、歐州とかわり[やぶちゃん注:ママ。]此者を福と名け、人家に幸福を齎す者とす、たしか、風俗文選にも記せりと覺ゆ、和漢共其靈物なるを言ひ(倭漢三才圖會卷五四)Huc, LEmpire Chinosis,1854. 支那に之を祠れる廟あるをいへりと記憶す、古事記に大國主神、始て少名毘古那神を見、其誰たるを知ず、蟾蜍の言に從ひ、久延毘古を召問て其の名を知りし事あり、詳しくは古事記傳卷十二を見よ。

 

[やぶちゃん注:「蟾蜍」は「ひきがへる」。熊楠は汎世界的な記載であるからして、まずは脊索動物門脊椎動物亜門両生綱無尾目アマガエル上科ヒキガエル科 Bufonidae に属するヒキガエル類とし、本邦の記載部分では、現在、本邦固有種と考えられている、ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicus と同定してよいであろう(他にもヒキガエル類はいるが、ここでは、これで代表させて問題ない)。その体色は褐色・黄褐色・赤褐色などで、白・黒・褐色の帯模様が入る個体もおり、変異が大きく、体側面に赤い斑点が入る個体が多く、背にも斑点が入る個体もいる。但し、さらに言えば、厳密には現在ではこのニホンヒキガエルは、さらに亜種ニホンヒキガエル Bufo japonicus japonicus (本邦の鈴鹿山脈以西の近畿地方南部から山陽地方・四国・九州・屋久島に自然分布する。体長は七~十七・六センチメートル。鼓膜は小型で、眼と鼓膜間の距離は鼓膜の直径とほぼ同じ)と、亜種アズマヒキガエル Bufo japonicus ormosus (本邦の東北地方から近畿地方・島根県東部までの山陰地方北部に自然分布する。体長六~十八センチメートル。鼓膜は大型で、眼と鼓膜間の距離よりも鼓膜の直径の方が大きい)に分けられている。熊楠も引いている、私の「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」を見られたい。なお、『桃山学院大学キリスト教論集』第四十号(二〇〇四年二月発行)所収の井本英一氏の「蛙神事の源流(1)」(PDFでダウン・ロード可能)は、西洋のカエル信仰も併記して論じておられ、ここに挙げるには最適な論文の一つと言える。

「蟾蜍は、耶蘇敎國一汎に、之を大毒有り、罪惡有る者として忌嫌ふ」西洋のキリスト教に於けるヒキガエルのネガティヴなシンボリズムは今一つ、纏まった記載が見当たらない。荒俣宏氏の「世界大博物図鑑3 両生・爬虫類」(平凡社一九九〇年刊)の「ヒキガエル」の項の「博物誌」の一部を引く(ピリオド・コンマは句読点に代えた)。

   《引用開始》

 動植物をかなり詳細に分類・命名する傾向のあった古代地中海世界では、すでにギリシア時代にヒキガエルの定義が成立していた。博物学の開祖アリストテレスは、カエルの類を大別して、〈バトラコスbatrakhos〉(ふつうのカエル)と〈プリュノスPhrynos〉(ガマ、ヒキガエル)の2種に分けていたからである。

 しかしアリストテレスといえども、ヒキガエルを直視することは気が進まなかったのか、その生態を詳しく述べてはいない。《動物誌》に散見する記述を集めてみても、ヒキガエルは脾臓が小さく、体内に黒いもの(腸らしい)をもち、ノスリに食ベられ、ミツバチを食べる、とこれだけである。いずれもカエルに共通する特徴であり、ヒキガエルならではの性質ではない。

 いっぽうプリニウス《博物誌》になると多少の記述が加わる。毒をもつヒキガエルの体内には薬が充満している。そして毎日古くなったぶんを捨て、食物から新鮮な薬分を補給する。それゆえヒキガエルの背中には、たえず有毒な分泌物が充満しているのだという。

 これら地中海世界の知見を中世以後に引きついだヨーロッパでは、ヒキガエルについての奇妙な伝承を流布させた。そのひとつは、ヒキガエルが首に心臓をもつ動物とする俗信である。そのため、ヒキガエルは首をかき切る以外殺しようがないという。おそらく、いかにもしぶとそうな印象を与えたためであろう。

 いずれにせよ。ヒキガエルはふつう、忌わしい生きものと考えられた。古代エジプトで豊穣の化身とされたカエルとは、正反対のイメージである。

 その証拠に、中世の悪魔払いの絵では、悪霊にとりっかれた人の口からヒキガエルが出てくるところが描かれている。ここでは、悪魔がヒキガエルの姿であらわされているのだが、一般にヒキガエルは魔女の眷族(けんぞく)とされ、魔女自身が変化した姿のときもある。シェークスピア《マクベス》でも、魔女の煮物の材料としてヒキガエルが使われる。

 ヒキガエルに化けた魔女は、人間を魔女にしたり、邪眼をもたせたり、さらには〈ヒキガエル男 toadman〉に変えてしまう。このヒキガエル男には、ウマ、ブタ、女を支配する力があるという。

 ゴ一ルドスミス《大地と生物の歴史》にも、ヒキガエルは自然界でもっともいまいましい色合いと不格好な形をしているので、恐怖の対象となった、とある。猛毒のもち主とされ、さわるものすべてを毒し、すみかの近くの野菜は食べられなくなり、ヒキガエルが触れた薬草は毒草になるともいう。

 15世紀の錬金術師G. リプリーは、《十二の門》という難解な寓意詩において、錬金術の秘密を赤いヒキガエルに託して記した。赤いヒキガエルはブドウ酒を飲んだために内臓が破裂し、毒の汗を流しながら黒色に染まり、死にいたる。84曰後に死体を火にくべると、やがてヒキガエルは白色に変化する。このヒキガエルからとれた薬は、あらゆる毒を酒すという。17世紀の伝説的な錬金術師エイレナテエウス・フィラレテスは〈復活せるリプリー〉の表題のもとに、この詩を詳細に解釈した。それによると、ヒキガエルは黄金の象徴である。ただし、地上における黄金は多くの夾雑物を含んでいるので、一運の作業を通じて純粋な物質を抽出せねばならない。この作業が行なわれるのは、土星(サトゥルスス)の支配下にある期間である。それゆえ、土星を暗示する赤い色をしているのだ、とフィラレテスは説明する。しかし、ふつう錬金術では、サトゥルヌスは鉛にあたり、黒色であらわされる。あるいは、このヒキガエルは、〈赤彩〉(賢者の石の別称)に直結するものと受けとるべきなのかもしれない。

 ヒキガエルは冬眠中も食物をとり続けるとされ、強欲の象徴とされた。たとえば、古ゲルマン時代の画家がヒキガエルに座った女性の絵を残しているが、これもその女性の欲張りぶりを皮肉ったものである。

 ヒキガエルがきらうものは曰光である。また、意外にもクモをきらう。大きなクモに対しては苦手意識があるらしい。エラスムスの記述によると、イギリスのある修道士が部屋で眠っていると、どこからかヒキガエルが近づき顔の上に乗り、鼻も口もふさいでしまった。彼の同輩がそれに気づいたが、ヒキガエルは顔に張りついて離れようとしない。見ると、窓に大きなクモがいるので、なかまと力を合わせて窓辺に寝台を動かした。クモは宿敵を見て挑みかかった。ヒキガエルはじっとこらえていたが、ついに3度目の攻撃に耐えきれず、修道士の顔からとびのいた。幸い命に別状はなかったという。

 トプセル《爬虫類の歴史》によると、ヒキガエルは肝臓をふたつもち、そのいっぽうに毒が充満している。怒って身体が膨れると、尻から毒を放出する。これを〈ヒキガエルの小便〉とよぶ人もいる。魔女は人を殺すとき、この毒を使うといわれる。もっとも効果的な解毒剤は、人の母乳だという。なお、ヒキガエルの毒は色合いも母乳に似ていて、トプセルは、背反しあうものの外見が似るのも自然の妙だとしている。

   《引用終了》

「A. C. Lee, ‘The Decameron its Sources and Analogues, 1909, p.139」「デカメロンの原拠と類譚」か。著者がアルフレッド・コーリングウッド・リー(Alfred Collingwood Lee)であることしか判らない(生没年も検索で出てこない)。

「ブーランゼー」イギリスの動物学者を調べてみたが、不詳。

「昨年頃」平凡社「選集」では、ここの編者割注があり、『一九〇九年』とある。本文の初出は明治四四(一九一一)年七月である。

「山座圓次郞」(やまざえんじろう 慶応二(一八六六)年~大正三(一九一四)年)は明治の外交官。筑前国福岡生まれ。帝大法科大学卒。外務省に入り、釜山・ロンドン・京城公使館勤務を経て、明治三四(一九〇一)年、政務局長となった。明治三十八年の「ポーツマス条約」の締結時には、講和全権大使の小村寿太郎に随行して、補佐役として活躍した。明治四十一年英国大使館参事官、大正二年、北京駐在特命全権公使。「玄洋社」社員として浪人の活動を宮庁側から支援し、大陸浪人と政府のパイプ役となった(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。彼のウィキによれば、『東京大学予備門の同期には、夏目漱石・正岡子規・南方熊楠・秋山真之らがおり、特に熊楠とはその後も親しかったらしく、熊楠の随筆にも酒を酌み交わした記録が残されている』とある。

「學生の時貧にして屢ば此を烹食せしが、隨分可なりの味は有る、然し、爪を去らずに食へば頗る苦かりしと」「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」の私の注で引用した通り、後頭部にある大きな耳腺から強力な毒液を出し、また、皮膚、特に背面にある多くのイボからも、牛乳のような白い有毒の粘液を分泌する。後者は激しい薬理作用を持つ強心配糖体の一種で、主として心筋(その収縮)や迷走神経中枢に作用するヒキガエル類はブフォトキシン(bufotoxin)などの数種類の強心ステロイドを含み、他に発痛作用のあるセロトニン(serotonin:血管の緊張を調節する。ヒトでは生体リズム・神経内分泌・睡眠・体温調節など重要な機序に関与する、ホルモンとしても働く物質である)のような神経伝達物質なども含むため、少しでもそれが混入すれば、かなりの苦味を覚えるものと思われる。重篤な自体に至るケースは報告されていないようだが、食べぬ方が賢明である。ネット上には、石垣島・小笠原諸島・大東諸島に害虫駆除目的で人為移入されてしまった特定外来生物種に指定されている中南米原産のヒキガエル科ナンベイヒキガエル属オオヒキガエル Rhinella marina(同じく有毒な白濁液を分泌するが、アルカロイドを主成分とし、ヒキガエル類の毒性としては非常に強く、目に入ると失明したり、大量に体内摂取すると、心臓麻痺を起こすこともあり、卵嚢や幼生も総て毒を持つと、同種のウィキにある)を試みに食した記事があったが、どうも、どう調理しても苦味を除去出来ず、舌の痺れや腹痛を発症したとあるので、これはもう、食べてはいけない(とその筆者も書いている。調理写真もあるのでリンクは張らない。フレーズ検索「オオヒキガエル 食べる」で頭に出てくる)。

「吾邦には、歐州とかわり此者を福と名け、人家に幸福を齎す者とす」荒俣宏氏の「世界大博物図鑑3 両生・爬虫類」(平凡社一九九〇年刊)の「ヒキガエル」の項の「博物誌」では、西洋の民俗誌の後に、非常に詳しい中国及び日本のそれを記しておられ、非常に面白いのだが、そこは当該書を読まれたい。ここでは、「ヒキガエルの縁起物」の条だけを引く(ピリオド・コンマは同前)。

   《引用開始》

 ヒキガエルは〈引き返る〉あるいは音転して〈福かえる〉に通じるというので、縁起をかつがれ商売繁盛の印とされた。ガマ仙人[やぶちゃん注:蝦蟇仙人。中国由来の仙人。青蛙神(せいあしん)を従えて妖術を使うとされる。参照した同ウィキによれば、『左慈に仙術を教わった三国時代の呉の葛玄、もしくは呂洞賓』(りょどうひん)『に仙術を教わった五代十国時代』の『後梁の劉海蟾』(りゅうかいせん)『をモデルにしているとされる。特に後者は日本でも画題として有名』となり、顔輝の「蝦蟇鉄拐図」(がまてっかいず)『の影響で李鉄拐(鉄拐仙人)と対の形で描かれる事が多い。しかし、両者を一緒に描く典拠は明らかでなく、李鉄拐は八仙に選ばれているが、蝦蟇仙人は八仙に選ばれておらず、中国ではマイナーな仙人である。一方、日本において蝦蟇仙人は仙人の中でも特に人気があり、絵画、装飾品、歌舞伎・浄瑠璃など様々な形で多くの人々に描かれている』とある。]の故事の影響もあるのだろう。とくに料理屋や料亭などでは、客が伺度もやってくるようにと、招き描のかわりに玄関や人口に〈客引き〉のカエルの置物が据えられることが多い。浅草田原町本覚寺境内の蟇(がま)大明神もヒキガエルを祭神とし、家業繁栄の神とされている。社務所では瀬戸物のガマを売っており、願が成就すればこの分身は返上される。そのため祠には犬小さまざまなガマが奉納され、居並んでいる。また、この大明神は芸能人の守り神でもある。その由来は明治のころ、千八師という俳優がこの犬明神に願をかけたところ、幸福を〈引き〉こんで開運したからといわれる。

   《引用終了》

浅草田原町の日蓮宗龍鳴山本覚寺(ほんかくじ)はここ(グーグル・マップ・データ)。個人ブログ「古今御朱印研究室」の同寺の記事によれば、『蟇大明神は、天保の頃、檀家の秋山某なる人物が家業繁栄を願って蛙蟇塚を建て、代々信仰したことに始まるという。関東大震災で埋没していたが、墓守をしていた関某という人が霊感によって土中より掘り出し、お堂を建てて祀った』。『その頃、下谷に住んでいた千八』(「せんぱち」でよかろう)『という人が蛙蟇塚に願をかけたところ、その願いが叶った。千八は現在の場所に蟇堂を建て、蟇の分身を与えて霊験あらたかなことを説いた。千八は歌舞をよくし、その方面に知人が多かったことから、花柳界・歌舞演劇界・映画界などの人々を中心に広く信仰されるようになったという』とある。合気道月光流道場長チョコ助と伊東健治の公式ブログ「骸(むくろ)をつけていま一戦(ひといくさ)せん!!」の「本覚寺 〜蟇大明神〜 【東京の妖怪伝説】」で、膨大な蟇蛙の置物の山の写真が見られる。

「たしか、風俗文選にも記せりと覺ゆ」「風俗文選」は森川許六編の俳文集で宝永三(一七〇六)刊。松尾芭蕉及び蕉門俳人二十八人の俳文百十六編を集める。昨夜から縦覧しているのだが、熊楠の指す部分に行き当たらなかった。

「和漢共其靈物なるを言ひ(倭漢三才圖會卷五四)」」「和漢三才圖會卷第五十四 濕生類 蟾蜍(ひきがへる)」で良安は、「本綱」の「蟾蜍」を引き、

   *

之れを取りて、反-縛(しば)りて、密室の中に着けて、之れを閉じ、明くる且(あさ)視るに、自〔(おのづから)〕解く者なり。

   *

と述べ、さらに「抱朴子」を引き、

   *

蟾蜍、千歳すれば、頭の上に、角、有り、腹の下に丹書(たんしよ)[やぶちゃん注:赤い文字。練炭丹術のシンボルであろう。]有り。名づけて「肉芝(にくし)」と曰ふ。能く山精[やぶちゃん注:人ならざる山人或いは狒狒(ひひ)に似た妖獣。]を食ふ。人、得て、之れを食ふ。仙術家に取り用ふべし。以つて霧を起し、雨を祈り、兵を辟(さ)け、自(おのづか)ら縛(しば)れるを解く。今、技者(げいしや)有りて、蟾を聚めて、戯と爲(な)すに[やぶちゃん注:ある種の妖術を使えるように調教するに。]、能く指使(しし)を聽く[やぶちゃん注:よく、命じた通りにする。]。物性の靈有ること、此に於いて推(お)すべし。

   *

とあり、加えて、

   *

蟾、三足の者、有り。而れども、龜・鼈(すつぽん)にも、皆、三足有るときは、則ち、蟾の三足も怪しむに非ざるなり。蓋し、蟾蜍は土の精なり。上は月-魄(つき)[やぶちゃん注:月の霊性。]に應じて、性、靈異たり。土に穴して蟲を食ふ。又、山精を伏し、蜈蚣(むかで)を制す。故に、能く陽明經(ようめいけい)に入りて、虛熱を退け、濕氣を行(めぐら)し、蟲𧏾(ちゆうじつ)[やぶちゃん注:身体に入り込んだり、刺したりして、悪さをする虫。]を殺す。而して、疳病・癰疽(ようそ)・諸瘡の要藥と爲す。五月五日、東へ行く者を取りて、陰乾しにして用ふ。

   *

とした後、自身で評して、

   *

△按ずるに、蟾蜍は實(まこと)に靈物なり。予、試みに之れを取りて地に在(を)き、桶を上に覆ひて、壓(をしもの)に磐石(ばんじやく)を用ゆる。明旦、開き視れば、唯、空桶のみ。又、蟾蜍、海に入りて眼張(めばる)魚と成る。多く半ば變ずるを見る。

   *

とトンデモ化生実験をして、実証したとまで言っている。……良安センセ、御弟子の中に、悪戯好きなヘンな奴、おらへんかったですか?……

「Huc, ‘L’Empire Chinosis,’ 1854. 支那に之を祠れる廟あるをいへりと記憶す」エヴァリスト・レジス・ユック(Évariste Régis Huc 一八一三年~一八六〇年)はフランスの宣教師でカトリック司祭。清代の中国・モンゴルを旅し、多くの著作をものした。当時、殆んど知られていないかったチベットについても記事も残している。フランス語原本は「Internet archive」のこちらで読めるが、私は探す気にならない。悪しからず。

「古事記に大國主神、始て少名毘古那神を見、其誰たるを知ず、蟾蜍の言に從ひ、久延毘古を召問てその名を知りし事あり、詳しくは古事記傳卷十二を見よ。」「古事記」の、

   *

故大國主神。坐出雲之御大之御前時。自波穗。乘天之羅摩船而。内剝鵝皮剝。爲衣服。有歸來神。爾雖問其名。不答。且雖問所從之諸神。皆白不知。爾多邇具久白言。此者久延毘古必知之。卽召久延毘古。問時。答白此者神產巢日神之御子。少名毘古那神。故爾白上於神產巢日御祖命者。答告。此者實我子也。於子之中。自我手俣久岐斯子也。故與汝葦原色許男命。爲兄弟而。作堅其國。故自爾。大穴牟遲。與少名毘古那。二柱神相並。作堅此國。然後者。其少名毘古那神者。度于常世國也。故顯白其少名毘古那神。所謂久延毘古者。於今者山田之曾富騰者也。此神者。足雖不行。盡知天下之事神也。

   *

 故(かれ)、大國主神、出雲の御大(おほ)の御前(みさき)に坐(いま)す時に、波の穗より、天(あま)の羅摩(かがみ)の船に乘りて、鵝(ひむし)[やぶちゃん注:「古事記伝」では「鵝」は「蛾」の誤りとする。]の皮を内剝(うちは)ぎに剝ぎて、衣服(きもの)に爲(し)て、歸り來たる神、有り。

 爾(ここ)に其の名を問はせども、答へず、且(また)、所從(みとも)の諸神に問はせども、皆、

「知らず。」

と白(まを)しき。

 爾に、多邇具久(たにぐく)、白して言(まを)さく、

「此(こ)は、久延毘古(くえびこ)ぞ、必ず、之れを知りつらむ。」

と。

 卽ち、久延毘古を召して問ひたまふ時に、答へて白さく、

「此は、神產巢日(かみむすび)の神の御子(みこ)少名毘古那(すくなびこな)の神なり。」

と。

 故、爾に神產巢日の御祖(みおや)の命(みこと)に白し上げしかば、答へて告げ、

「此は實(まこと)の我が子なり。子の中に、我が手俣(たなまた)[やぶちゃん注:手の指の間。]より久岐(くき)し[やぶちゃん注:こぼれ落ちた。]子なり。故、汝葦原色許男(いましあしはらしこ)の命と兄弟と爲(な)りて、其の國、作り堅めよ。」

と。

 故、爾れによりて、大穴牟遲(ほおあなむち)と少名毘古那と、二柱(ふたはしら)の神、相ひ並びて、此の國を作り堅めたまひき。然(しか)ありて後には、其の少名毘古那の神は、常世(とこよ)の國に度(わた)りましき。故、其の少名毘古那神を顯はし白しき。所謂、久延毘古は、今には山田の曾富騰(そほど)[やぶちゃん注:山田の案山子(かかし)。]といふ者なり。此の神は、足は行かねども、天下の事を、盡(ことごと)く知れる神なり。

   *

という部分についての宣長の評釈で、「古事記傳」巻十二当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「古事記傳」(向山武男校訂・昭和五(一九三〇)年名著刊行会刊のこの右ページの二行目から始まる「多邇且久(タニグク)」の注の中に現れる。一部を訓読して示す。私は神名をカタカナで表記するのが生理的に嫌いなので、カタカナ部分は、総て、ひらがなに直した。

   *

[やぶちゃん注:底本は黒字反転。]多邇且久(たにぐく) 且の字、諸本皆同じけれども、此の字を假字に用ひたること、此記はさらにも云ず、他の古書にも凡て例なければ、決(うつな)く寫誤なり。具の字なるべし。然云故は、萬葉巻五〔七丁〕に、多爾具久能佐和多流伎波美(たにぐくのさはたるきはみ)。六〔二十五丁〕に谷潜乃狹渡極(たにぐくのさわたるきわみ)、祈年祭の祝詞に、谷蟆能狹渡極(たにぐくのさわたるきはみ)〔月次祭の詞にもあり。〕とあるに依れり。さて此れは蟾蜍(ひきがへる)のことて、〔祝詞に蟆と作(かか)れたるは、蝦蟇にて、そは只の加閇流(かへる)なれば、比伎加閇流(ひきがへる)とは、別なるが如くなれども、古へ通はし云ること、漢籍にも多し。又祝詞の今の本に、蟆を加麻(かま)と訓れど、字音なれば誤なり。師の具久(ぐく)と訓まれたるが當れること、萬葉と照していちじるし。〕具久(ぐく)は鳴く聲による名、谷と云は、物のはざまに居物なる故なり。〔久々は蛙(かへる)の類の惣名にて、蟾蜍(ひきがへる)を谷具久(たにぐく)とはいふか。〕此物に霊異(くしき)わざあることは、漢籍にも見え、世の人も知れる如くなれば、今此(ここ)の事も、由ありて所念(おぼ)ゆ。〔本朝文粹、村上天皇御製古調の詩に、又、異體の者有り、名號して最明と爲す、野鎚誰れか辨ることを得む、蝦蟇尤も驚くに耐へたり。とある、此の野鎚蝦蟇の對句の意を按(おもふ)に、かの異體者の形狀、野鎚・蝦蟇に似たり。かゝる者は、誰れかは辨へ知む。見ては誰もおどろきつべしと云意か。又は野鎚と云ふとも、誰れか此者を辨へ知む。蝦蟇も此れを見ば、驚くべしと云意か。若し後の意ならば野鎚蝦蟇は、物をよく辨へ知るものにしてのたまへるなれば、此(ここ)に由あり。故に引つ。〕

   *]

2020/12/20

御伽比丘尼卷四 ㊃虛の皮かぶる姿の僧 付 越中白山のさた

 

   ㊃虛(うそ)の皮かぶる姿の僧付越中白山〔しらやま〕のさた

 世の諺に「商人(あきんど)と屏風は直(すぐ)にてはたゝず」といひし、むべなるかな。左はいへれど、利分あるを、なき㒵(がほ)にしらじら敷(しく)いひのゝしらんは、我ながら、恥かはしき心ちぞせめ。まして、其外の虛言(そらごと)をや。實(げに)僞(いつわり)のなき世なりせば、と讀(よみ)しも、さることに思ひ合(あは)さる。

 いつの比ほひにか在けん、いせの松坂の町に冨祐(ふゆう)の人あり。名は、さだかならず。はるけき東の都に店をかまへ、からの、やまとの絹卷物、あけ行〔ゆく〕春のあしたより、霞の衣、さまざま、夏の夕(ゆふべ)の、かぜかほる、あやめかたびら、引はへて、しのぶもぢずり、誰(たれ)ゆへに、みだれがうしのなら晒(ざらし)、四季折々の衣服、夜を追(をい)、日をかさねて、くだす家にし侍れば、誠に時めく粧(よそほひ)なりし。

 娘、ひとり、もてり。年は十五に、ひとつ、ふたつ斗〔ばかり〕、おもざし、たぐひなく、貴妃の笑(ゑみ)、西施が百(もゝ)の媚(こび)ある粧を、そねむ斗(ばかり)なれば、戀しのぶ者、多かりしが、ある日、

「いと、かり初(そめ)の風〔かぜ〕の心ち。」

と、いひて、いたはりしに、父母(ちゝはゝ)、したしき人々、驚(おどろき)、医師を賴(たのみ)、藥術、手を盡し、神に祈(いのり)、仏にかこつに、しるしなく、惜(おし)や、無常のあらし、つぼめる花をちらして、やよひの中の五日、つゐに、むなしくなりてげれば、父母の歎(なげき)は更也、よその哀(あはれ)も今更、袖をひたしぬ。

 なきがらは、けうとき㙒部(のべ)に送り捨(すて)て、七日七日〔なぬかなぬか〕のあと、ねむごろに吊(とひ)給ひし。

 されば、行水〔かうすい〕の流(ながれ)はやく、月日、又、おなじき習ひなれば、悲しかりし年もくれて、又のやよひは一周忌の追善など催しける夕〔ゆふべ〕、恠(あやし)き僧、ひとり、彳(たたづみ)、

「何やのたれは、是〔ここ〕にて侍らずや。あるじに對面申〔まうし〕たき事の候。」

といふに、亭主、立出、

「いかなれば、かく御尋あるぞ。」

と、

「さればこそとよ、我は是〔これ〕、一所不住の僧にて、諸國を修行いたし侍る。去(さり)しとしの、みな月比は、越中のしら山、ぜんじやうし侍るに、山なかばにて、としの比、十六斗なる娘、此僧を呼(よび)かけ、

『恥かしながら、わらはは、いせの松坂の何かしが娘、千世(ちよ)と申〔まうす〕者に侍り。かうかうの事に、病(やまい)づきて、むなしくなり侍りしが、日比、人に戀しのばれし罪障の山、霧、ふかく、行(ゆく)べき先も見えず、かく、中有(ちうう)の旅に迷ひ侍る。今、たまたま諸國修行の御僧と見奉りて賴申(たのみ〔まうす〕)に侍り。相〔あひ〕かまへて、此事を語りつたえ、なき跡を、とはしめ給へ。』

と、云〔いふ〕。

『さるにても、何をもつてか、君にあひける證據とし侍らんや。』

と、いへば、懷(ふところ)より白き着(きる)物の、ぬひある、かた袖、とり出し、

『是こそ自(みづから)が心に入〔いれ〕て、日比、祕藏しける。執心、つよく殘りて、かた袖をとり歸りて、今、身に隨(したが)へ侍り。此殘(のこり)は、そこそこの長持(ながびつ)[やぶちゃん注:漢字はママ。]の中にあるべし。是を證據に申さ[やぶちゃん注:ママ。「申され」の脱字か。]給へ。』

と、かた袖を渡し、かきけちて、うせぬ。是、御覽あれ。」

と、さし出す。

 手にとるに、げにも、娘のひざうしける小袖也。敎(をしへ)し長櫃(〔なが〕びつ)のふたを明〔あけ〕、とり出〔いだし〕てみるに、かた袖はちぎれて、跡斗〔ばかり〕殘れり。

 此時に社(こそ)、一しほ、驚(おどろき)、

「扨は。疑(うたがふ)べくもなき我が娘にて侍り。」

と、父母、もろ友、今更、なげき、悲しみあひける。

「時しも社(こそ)あれ。けふ、一周忌の夕(ゆふべ)、かゝる事を聞〔きく〕といひ、目〔ま〕のあたり、此きどくを御覽ありし御僧なれば、誠の『いきぼとけ』にこそ侍れ。是に暫(しばし)おはして、なき跡をも吊ひ、われわれをも敎化(きやうげ)し給はれかし。」

といへど、

「末はるかなる修行のたびなれば、心いそぎ侍る。」

などいひて、立出〔たちいづ〕るを、引とゞめ、

「是非。左樣におはしまさば、娘成仏の追善、いかならん事をも、なし給はれ。」

と、黃金(わうごん)、そこばく、取出〔とりいだ〕し、僧に、あたふ。

 僧、是をうけとりて、いとまこひ、出〔いで〕て行〔ゆき〕ぬ。

 此家の手代、何がしとかやいふ、才智發明の男、始終、此物がたりをば聞〔きき〕ゐけるが、いと不審(いぶかしく)、跡につゐて、僧をしたひ行〔ゆく〕事、二里餘(あまり)、こなたなる在所の、ある家に入〔いり〕しを、かたへの窓より、さし覗(のぞけ)ば、死〔しに〕給ひし娘のこしもと、「つた」といヘる女、少〔すこし〕子細ありて、とくに追出(をい〔いだ〕)されしが、爰にありと見ゆ。僧は此者が夫なりしが、世わたらひ、貧(まづしく)、ふたりもろ友、かゝる謀(はかり)をなしけると見えしほどに、やがて、家に入〔いり〕て、二人ともにとらへ、糺明(きうめい)しけるに、悉(ことごとく)、顯(あらは)れけり。

 件(くだん)のかた袖は、こしもと、彼〔かの〕家を追出されける時、ひそかに引〔ひき〕ちぎり、出〔いで〕けるとぞ。

 いと愧(おそろしき)心ばヘには在〔あり〕けり。かく、跡がたもなき空(そら)ごとなれば、黃金をも、とりかへしけり。

 實(げに)、此御山にて、かゝるゆうれいに逢ける事、まゝおほし、と、いひつたへたれば、左も有なん。それは、まこと、是は僞(いつはり)にてありき。

「誠に案(あん)ふかき手代なりし。」

と、各(おの〔おの〕)かんじあへり。

 

[やぶちゃん注:「越中白山」石川県白山市と岐阜県大野郡白川村にまたがる標高二千七百二メートルの白山(はくさん)。古くからの山岳信仰の対象で、中世には白山修験の霊山として栄えた。但し、「越(こし)の白峯(しらね)」「白山(しらやま)」とは呼んでも、「越中」を頭には冠さない。

「商人(あきんど)と屏風は直(すぐ)にてはたゝず」商人は客の機嫌を損ねぬように、常に自身の感情は押さえて、客と向き合わない限り、繁昌することは難しいの意で、かなり知られた諺である。但し、屏風が折り曲げないと立たないというのを、これは好意的に解釈して、平身低頭して腰を「屈めて」応対すると採ったもので、実は逆に悪意でとる解釈もあるらしく、その場合は、「曲がった」理に反するあくどい商売をしない限りは、成功しないという意味とするものもある。

「實(げに)僞(いつわり)のなき世なりせば」「古今和歌集」の「仮名序」に引用され、同歌集の巻第十四「戀歌四」に「よみ人しらず」で出る、

 僞(いつは)りの

    なき世なりせば

  許(いかばかり)

      人の事(こと)の葉(は)

     うれしからまし

である。

「あやめかたびら」「菖蒲帷子」。古く旧暦五月五日の端午の節供から、同月中を通して着た単衣(ひとえ)の着物。晒しの布を紺地白に染めもので、京では、その家の使用人などに着せ与えたりした。

「くだす」娘の求めるままに「買い与える」の意であろう。それが執心の伏線となっているのである。

「そねむ」この主語は「貴妃」や「西施」でさえ嫉むほどの美しさであった、という逆転した謂いである。

「かこつ」頼る。

「七日七日〔なぬかなぬか〕」初七日から四十九日まで、七日目毎に営む追善供養。

「ぜんじやう」「禪定」。この場合は、修験道で白山・立山などの高い山に登って行う修行を指す。

「中有(ちうう)」衆生が死んでから次の縁を得るまでの間。四有の一つ。仏教では無限に生死を繰り返す生存の時空間を四種に分け、衆生の生を受ける瞬間を「生有」、死の刹那を「死有」、生有と死有の中間を「本有」とし、死後、次の生有までの審判が行われる猶予のそれを「中有」とする。「中陰」とも呼ぶ。歴史的仮名遣は「ちゆうう」でよい。

「此御山にて、かゝるゆうれいに逢ける事、まゝおほし、と、いひつたへたれば」これは事実。白山やその近くの立山などの霊験あらたかな山に禅定・行脚した修験者や僧が、死者の霊に遇った、現在地獄に苦しむ姿を見たという怪談は、私の「怪奇談集」でも枚挙に暇がない。]

ブログ1,470,000アクセス突破記念 梅崎春生 握飯の話

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二三(一九四八)年一月号『花』に発表されたもので、後、同年八月に刊行した作品集「飢ゑの季節」(講談社)に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 文中に簡単な注を附した。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが今朝方、1,470,000アクセスを突破した記念として公開する。【20201220日 藪野直史】]

 

   握飯の話

 

 仙波という老人は身体がこづくりで、顔や手足もちいさかった。そのくせ両方の耳たぶだけが、頭から生えた茸(きのこ)のように大きかった。この耳たぶを、老人は自分が欲するときに、自由にぴくぴく動かすことが出来るのである。これが老人に出来る唯一の芸当なのであった。老人の言によると、若い頃ある女からその要領を伝授されて以来、耳がこんなに動かせるようになったという話だった。昼食に持ってきた芋を半分、乞われるまま分けてやったとき、老人はそんな話を私にして聞かせたのである。その話しかたも冗談めいていたから、真偽のほどは判らない。食物をわけてもらうとき、この老人は愛想のつもりか何時もこんな冗談めいた話しかたをするのである。[やぶちゃん注:「伝授」というのは、通常はあり得ない。ヒトの耳を動かす筋肉は耳介筋と称し、前・上・後に別れるが、原始のような危険を察知する必要がなくなり、多くの人はそれらが退化してしまっており、それはトレーニングによって機能回復するレベルのものでさえない。実際に動かせる人は生まれつきで、また、動かさせると言っている人でも、実際には頭全体が微妙に動いているために、動かしているように錯覚している人も多く、それは残念ながら耳を独立して動かしているのではないケースもあるようだ。公的に認知された数値かどうかは知らないが、真正に耳を動かせる人は一万人に一人ぐらいというデータがネット上にはあった。私は六十三年の生涯で、実際に見たことがあるのは教え子の一人しか知らない。]

 老人は昼食を持ってきたことがなかった。ひるどきになりて皆が弁当を開き始めると、椅子から立ち上ってひとわたり眺め廻した揚句、目星をつけたようにあるいて行って昼食をねだるのであった。日によっては一人から、時としては四人も五人もからすこしずつ分けて貰って、それが老人の昼食になるわけであった。老人は掌の上に洋罫紙をひろげ、歌でもうたうような調子で単刀直入に言う。

「腹がへったんじゃが、すこし分けていただけませんかな」

 この課の連中は皆この老人の性癖を知っているから、あるいはにやにやしながら、また欣然(きんぜん)たる風(ふう)をよそおいながら、とにかくいくらかの分量をさいて紙の上に乗せてやる。老人は無表情な顔でそれを受取り、愛想のつもりか気の利かない冗談を言ったり耳たぶを盛んに動かして見せたりして、やがて自分の椅子に戻って来る。それから罫紙の上の食物を机にひろげ、吟味するように箸(はし)の先でつついてみたりして、やっと食ぺ姶める。その食べ方は奇妙なことだが、無理矢理に食道に押しこむような具合で、おそろしく不味(まず)そうな食べ方であった。背後から見ていると、耳たぶだけが別の生き物のように時折ひくひく動くのである。

 老人が昼食時に貰い先の目星をつけるのは、まったくその日の気紛(まぐ)れであるらしく、同じ人に三日もつづけてたかったかと思えば、遠くの席を歴訪して一食分をあつめる日もあった。しかし長い期間にすればこの課の人々は、ただ一人をのぞいて、ほとんど平均にこの老人に昼食を奉仕していると言っていいだろう。女事務員や給仕にいたるまで老人の目星の外にある訳(わけ)にはゆかなかったのだから。

 その奉仕から除外されているただ一人というのは、老人の隣席に椅子を占めている老人の同僚であった。その同僚の名を峠と言った。なぜ峠がその奉仕からまぬかれているのか。理由はかんたんである。峠も、仙波老人とおなじく、未だかつて弁当を持参したことがなかったからだ。

 

 峠は瘦せた中年男だ。しなびているから老けて見えるが、実のところは四十歳だということであった。顴骨の突き出た神経質な容貌で、眼はひどい眇(すがめ)である。噂によるとたいへん子福者で、七人も子供がいるという話だ。何時でも眉間に暗い皺(しわ)を寄せている。色の悪い皮膚にふかく皺をよせている。それがひるどきになって皆が弁当を開き始めるころになると、その皺(しわ)はますます暗く深くなる。そして頭をあげて黙りこくって椅子にかけているのだ。眇がひどいからどこを見ているのか判らない。けれども彼は何かを眺めているに違いないのだ。弁当を持ってこないのだから、昼食のときだけでも席を外してそとに出かければいいのに、彼はそうしない。苦役(くえき)に耐える囚人みたいな表情をして、蟹(かに)のようにじっと机にへばりついている。

 峠と仙波老人は、部屋の二番すみっこの人目につかないところで、よりそったように席を隣り合っているくせに、お互には一日中ほとんど口を利かないのだ。仕事の上の連絡でも、ただ机から机へ書類や伝票を押しやるだけで、あとは黙っている。にらみ合っている気配もないのだから、仲が悪いという訳でもないのだろう。ただ黙り合っているだけである。もっとも両人とも比較的無口の方かも知れないが、たとえば私などには二人ともかなり口を利くのだ。仙波老人は歌をうたうような抑揚のある調子で、峠はまるで駈足しているような気ぜわしい早口で。

 両方ともこの課での仕事は、いわば雑務みたいなことで、物品の出入れや出席簿の整理などだ。二人とも仕事ぶりは丹念である。しかしこの課では、丹念という美徳は出世の端緒にならないもののようである。出世の見込みのうすい連中がこのすみに吹きよせられていた。私の席もそこにあるのだ。

 

 峠に八人目の子供が生れたと私が知ったのは、祝い金を集める回章[やぶちゃん注:「かいしょう」関係者に回覧確認させる文書。]が私のところにも廻って来たからであった。この課の連中はもともと他人の禍福には極めて冷淡で、こんな回章ははじめてと言っていい位だったから、私もすこしおどろいた。回章は毛筆で丁寧に書かれていた。そして発起人の名前には、仙波老人の名前が記されていたのである。もちろん金を出すことで私に異存はなかったので、印を押して次に廻した。廻すときにふと見たら、仙波老人は仕事の一休みと見えて、ペンを大きな耳にはさみ、気のせいか愉しそうに眼を閉じて貧乏ゆるぎをしているところであった。

 峠と仙波老人の間に、私の知っている限りで最も長い会話が交されたのは、次の日の午後のことである。低く押えたような峠の早口が耳に入って、私は頭をあげた。

「あんたがしゃべったんだな。家族手当などの手続きが必要だから係としてのあんたに知らせただけで、こんなもの貰おうと思ってたんじゃない。あんたは一体誰にしゃべったんだね」

「誰にもしゃべりはせんよ」

 老人はなぜ峠がそんなこと言うのか判らないといった風情で、眼をぱちぱちさせながら歌うような調子で答えた。

「お祝いじゃないかいな。収めとくもんじゃよ」

「お祝いは判っていますさ。しかし皆さんが今まで貰わないのに、私だけが貰うわけがない。そりや気持はありがたいさ。あんただって息子さんの戦死が昨年判ったときでも、誰も見舞金出さなかったじゃないか」

「あれはあれ。これはこれじゃ。あんたの場合は特別じゃよ。八人も子供が出来るなんて、いまどき珍しいことじゃ。まるで八犬伝じや」

 峠の気特を柔らげるためにか、老人の言い方がいつものような冗談めいた口調になって、それが突然峠の胸をかきむしったらしかった。峠の両方の瞳は、おのおのの方向に飛び離れたまま険しくきらきらと光った。

「あんたは私を馬鹿にしているんだな」

「馬鹿にはしませんがな」

「いや、馬鹿にしてるらしい。貧乏人の子沢山だと考えているんだろ。そうですよ。皆は私を馬鹿にして、金を集めでよこしたんだ。私は昼飯も食えない男だからな」

「いい加減にしなさい」老人はそれでも四辺をはばかって声を押しころした。「昼飯が食えないなんて、そんなことが、そんなことで他人が馬鹿にしますかじゃ。ほんとに、四十にもなって年甲斐もない」

 老人の言葉は途中でちょっと乱れた。峠は、年甲斐もない、という言葉に刺戟されたらしく、眉間を暗く刻んだ皺(しわ)をぴりぴりふるわせ、あらあらしく手を伸ばして机上の紙包みをとりあげた。

「へえ。それならそれでもいいさ。貰っとくさ。それで爺さん。あんたも一口出したのかね」

「出しましたさ」と老太は片頰に硬(こわ)ばったような微笑をうかべた。

「さあ、その金おさめて、明日からは弁当でももっておいで」

 老人はきっと冗談を言いそこねたのだと思う。その言葉を聞いて峠の顔は急にまっさおになった。

 それまでの会話は低く押えた声で話されていたし、場所も部屋の片すみだったので、ほとんど聞いていたのは私ひとりであったが、まっさおになってからの峠の声は、抑制を失ったと見えて、俄(にわか)にたかぶった早口になったから、あるいは他の人々に聞えたかも知れないと思う。それは仙波老人を批難というより罵しる言葉に近かった。おそろしく早口で意味の通らない部分もあったが、峠の詰問の中心は要するに老人の昼食の貰い歩きに置かれてあるらしかった。しゃべっているうちに峠はだんだん激してきて、どこを見ているのか判然しない眇(すがめ)の視線をあやしく据えて、その詰問はみだれた罵倒の調子に変ってきた。それはいつもから欝屈していたものが急にほとばしりでるような具合で、言葉を重ねてゆくうちに峠はますます不思議な力に駆られるらしかった。

 老人の貰い歩きについては、私の感じからいえば、峠の言うほど老人がこの課の人々から、あなどられさげすまれているとは思わない。むしろその反対に、ひとつの愛嬌のある行事としてすら受入れられていた。もちろんその底には、老人の一人息子が比島戦線[やぶちゃん注:フィリピン戦線。]で病死したことがやっと昨年判ったこと(この瞬間に老人は十年も一挙にとしとった)、老齢の妻が病に伏していること、などに対する気持があるかも知れないが、しかしその憐憫(れんびん)で人々が老人に食物をあたえるのではないことを、私ははっきり知っていた。人々が食物を分つのは、その人々が持つある種の自尊心なので、つまり自分に余裕がない訳でもないということを見せたいからなのであった。ごく少数の例外をのぞいて、仙波老人などとさほど径庭のあるわけでない証拠には、老人の日毎集めてくる洋罫紙の上には、ふかし芋のきれはしだとか得体の知れない色をしたむし麵麭(パン)だとか、弁当と名をつけるのも気恥かしい代物がならんでいるのでも判る。その人々の気持を私は類推できる。私の場合でするならば、私は自分の貪しいふかし芋の弁当を(私の唯一のたのしみなのだが)もし老人が乞うときは、欣然(きんぜん)として半ば以上をさきあたえるのが常であった。こんなまずいふかし芋は食いあきていて、老人が食べてくれるのならこれほど有難いことはないという贋(にせ)の表情をこしらえて。

 老人のそれを、耳を動かして食物を乞うなどまるで乞食犬だ、と峠が激した言葉を走らせた時、それまでは相手をなだめようといろいろ試みていた老人も、突然顔いろをさっと変えて、それでもやっと怒りを押し殺したらしかった。そして急に態度を一変すると、こんどはにわかに、毒々しい嘲弄の言葉で峠にこたえはじめたのである。しかしその応答の毒々しさに似ず、その表情はいじめられた子供のようで、茸(きのこ)のような耳は老人がものを言うたびにひくひく動いた。老人は峠のズボンのバンドについて、まず遠廻しな揶揄(やゆ)をこころみた。それによると、峠は近頃またバンドに新しい穴をあけたというのである。この一箇年ほどの間に峠はますます瘦せてきて、バンドの正規の穴だけではしめ方がゆるくて、ズボンがずり落ちてしまうものだから、次次内側に穴をあけて行ったわけだが、それをまた二三日前にひとつふやしたというわけであった。峠はそれを聞くと顔を充血させて、チョッキを下にひっぱろうとしたが、短いチョッキではかくし切れなかった。すり切れたバンドにあけた新しい穴は、私のところからもはっきり見えた。そのことが更に峠の怒りをあおったらしかった。

「針金みたいにやせたって、乞食して肥るよりはいいさ」

 峠は早口で言いかえした。

 それから二人の応酬は混乱して、あぶなく摑みあいになりそうな気配であったが、その瞬間でも両人の表情は相手への憎しみに燃えていたにも拘らず、双眼には瀕死の獣のようにかなしい色をたたえていたのである。もし私がそのとき、急ぎの書類をその机に投げてやらなかったならば、そして彼等が仕事がたまっていることにはっと気が付かなかったならば、その争いはもっとつのったかも知れなかった。

「ふん、せいぜい乞食して廻るがいいや」

「口惜しかったら、お弁当もっておいで。ぱりぱりの白米の握飯をな。わしがひとから貰えるのが口惜しいんじゃろ」

 そんな捨台詞(すてぜりふ)を最後として、二人は自分の机にむきなおったまま仕事に没頭している姿勢になった。しかし峠の手も老人の手も、ペンをもったまま可笑(おか)しいほどふるえて、宇がうまく書けないらしいのを私は見た。両人とも踏みつぶされた蟹(かに)のように惨めな顔になって、それを胡麻化(ごまか)そうとしていたのである。

 

 翌日私が出勤してみると、老人だけはすでに席についていたが、峠の机は空席のままであった。この朝老人は仕事中にも、突然小さな声をあげてみたり、激しく椅子を鳴らしたりして、いっこう落ちつかぬ風であった。忘れようとしても昨日のことが、嵐のように老人の記憶を揺り動かすらしかった。おひるになっても峠は出て来なかった。

 皆がそろそろ弁当を拡げる音があちこちから聞えてくると、老人の顔は急に薄赤く血の気がのぼってきて、席にいたたまれない苦しそうな表情になった。老人の隣席はぽこんと歯の抜けたように空席になっているのだが、それがかえって老人を落着かなくするようだった。老人はちらちらと隣の空席をぬすみ見ながら、しきりに腰を浮かすらしかった。ふと私が顔をあげたとき、私の視線がとらえたものは、掌に洋罫紙をにぎって立ち上ろうとするそのときの老人の表情であった。それは重量のあるものを肩で支えているような、むしろ苦渋(くじゅう)に満ちた顔貌であった。私と眼が合うと、老人はあわてたように眼を外(そ)らして、力弱くへたヘたと椅子に腰をおろした。

 そのときどんな気持であったのか、老人を慰めてやろうという浅薄な気持であったのか、それは私には判らない。身体があつくなるような気がして、私は無意識のうちに椅子から身体をうかし、自分の弁当包みをそっくり老人の方に差し出そうとしていたのである。

「仙波さん。これを」

 そんなことを口の中で言いながら、私が包みを老人に押しつけようとしたとき、赤味をおびていた老人の小さな顔は更に赤くなって、私がおどろくような激しさで包みを押し返した。

「いりません。いりませんじゃ」その激しさに似ず老人は眼を哀願するようにしばたたいた。「ほんとにいりませんじゃ。今朝は腹いっぱい食べてきたから」

 洋罫紙をもって立ち上ろうとしたではないか。私はほとんど暴力的に私の包みをおしつけた。そうすることが私の復讐であるかのように。老人は身体中でそれを拒否しながら、それでも掌は弱々しく包みにかかっていたのである。弁当包みにからんだ老人の指が急に緊張して伸びた。はずみを食って包みはリノリウムの床にぼとりと落ちた。

 老人の眼は見開かれて、私の肩越しに、なにかを見詰めているのだ。肩越しに何があるのか。私はふりかえった。扉を押して、うつむき加減にすたすたこの部屋に入ってくる峠の姿がそこにあった。

 峠は大きすぎる上衣の裾をひるがえすようにして、私のそばを通りぬけた。そして自分の椅子についた。そしてそのとき気がついたのだが、新聞紙でくるんだものを机の上にのせ、がさがさいわせながらそれを拡げ始めた。

 老人はそのときは平静をいくぶん取戻していたが、先刻取りだした一枚の洋罫紙をもとの場所にもどそうとする指先が小刻みにふるえているのを私は昆た。その指の動作も途中で止んだ。峠がとつぜん顔をあげたからである。机の上にすっかり拡げられた新聞紙のまんなかには、大きな赤ん坊の頭ほどもある眼も覚めるような真白な握飯がひとつ置かれてあったのだ。仙波老人はそれを見た瞬間、かすかなうめき声をたてて身体をすさった。

 峠のまっすぐ上げた顔は、色のわるい皮膚が今日はへんに艶をおびて、たとえば大風の中を風にさからって突き進んで行く人のような表情をしていた。

 

 そのときの峠の表情を私は今でも忘れない。そのときの表情は、あまりにも錯綜した復雑なものだったから、うまいこと私には描きあらわせないのだ。何処をにらんでいるか判らないような眇(すがめ)の視線が、あるいは老人を見ていたようでもあるし、私を見ていたようでもあるし、また握飯をにらんでいたようでもあった。峠は両掌を膝の上にそろえて、しばらくの間じっとしていた。それは至上の喜悦に酔っている人のようにも見えたし、深い悲哀に打ちひしがれているようにも思えた。そして峠はかすかな身ぶるいをした。

 右手をゆっくり出して握飯を手にとったのである。それは途方もなく大きな握飯であった。峠の掌は握飯の下にかくれ、手首すらもそのかげになってしまった位であった。

峠はそれをゆっくりと口の方にもって行こうとした。

 老人の指が洋罫紙をつまみあげて、峠の方にさっと差し出されたのはその瞬間であった。峠の方に気をとられていて、私は老人の方に気づかなかったのだが、そのときの老人は小さな眼をいっぱい見開き、そのくせ頰には笑いに似たものが貼りついていたのだ。それは笑いでなく、泣いているのかも知れなかった。老人はそしてれいの抑揚のある調子はそのままで、誰にいうともない独白めいた口調で、かすれるようにあえいだ。

「お、おなかがへったんじゃが、すこしばかり分けて下さらんかな」

 老人の見開かれた小さな眼は、暗く凹んでいて、まるで穴ぼこみたいであった。瞳はさだまっているにも拘らず、全然なにも見ていない風であった。口まで持って行った峠の握飯が、唇のまえではたと止った。峠はそして唾をぐっと飲みこんだ。峠の握飯を支えた右掌は、何故かとつぜんがたがたとふるえ出した。握飯がそれにつれてがたがたとふるえた。真白に、ほどよい堅さに握られた握飯は、峠の掌の上で不安定にぐらぐらと動いた。峠はそのふるえを断ち切るように左掌を添えると、顔をふりあげて何か言おうとした。が、それは唇の中で終って言葉にはならなかった。瘦せた肩に力を入れてそびやかすと、両掌をぐっと下にさげるようにしたとたん、握飯はぱっくりとふたつに割れて、割れたところから真白な飯粒が小さなかたまりになって二つ三つ床におちた。峠は片手をぐっと伸ばして分割した半分を老人が支えた洋罫紙の上に押しつけた。峠のやせた顔はみにくく歪んでいて、今にも泣きだしそうな顔をしていた。

 私はといえば、その二人から二米ほど離れた自分の席から、身体を板のように硬くしてその情景を眺めていたのである。二人の足もとには、先刻、私が老人に与えようとした弁当包みがころがっていた。なんと醜い恰好で私の弁当包みはころがっていたことだろう。

 

 およそ人間がものを食べるのに、この位苦しそうな食ベ方は今までになかっただろう。まるで絶食同盟員が官憲の手でたべものを食道におしこまれるときのように、それよりももっと苦しそうに、この両人は半分に割った握飯をそれぞれ食べたのだった。峠は眇(すがめ)をぎらきらさせながら、老人は耳をひっきりなしにひくひく動かしながら、無理矢理に口の中に押しこんで、嚥下(えんげ)をするといった具合であった。これに比べれば、日毎老人がもらいあつめた食物をたべるときのまずそうなやり方など、ほとんど問題ではない位であった。

 二人のこの奇妙な昼食の情景をながめながら、私の胸に湧きあがってきた色んな感慨も、ここに記すほどの価値はなさそうに思う。第一私には二人のことは何にも判っていないのだ。考えてみれば昨日、峠がお祝いをもらったときの異常な激昂ぶりも、老人が回章の廻っているときに示した嬉しそうな身ゆるぎも、またさかのぼって、貰いあつめた食物をたべるときの老人の嫌悪にたえた表情の所以も、その傍で峠が何処を見ているのか判然しない目付で机にヘばりついているわけも、私はうまく解釈できそうで何も出来はしないのであった。私に今できることは、ただ此の二人の食事が早く終って呉れること、それをいのるだけであった。そのくせ私は眼を外(そ)らすことが出来ずに、じっと二人に視線を釘づけにしたままであった。両方が握飯を食べ終るまでの十分間を。そしてこの十分間が、今なお私の心に尾をひく後味からいえば、私はむしろ憎みさげすんでいるのかも知れなかった。この二人をか、この課の人々をか、あるいは私自身をか、それは私に判らない。判らないけれども、その感じは確実にそのときの私の全身を領していたのだ。私は背筋が小刻みにふるえ出すのを感じながら、二人がやっと苦しそうに握飯をたべ終ったのを見とどけていた。

 暫(しばら)くたった。その白けたような雰囲気を努力して踏み破るように、仙波老人は顔をまっすぐむけたまま、かすれた声で言った。

「出勤簿の方は遅刻の手つづきをしておくから、早く遅刻届を書きなされや」

 峠はそれに返事をしなかった。顔もむげず、まっすぐむいたまま、幽(かす)かに曖気(おくび)をもらしただけであった。

 

 事件はそれで落着した。少くとも私にはそう見える。その翌日からすべてはもとにもどった。峠と仙波老人は再びお互に無口になって、時折だまって必要な書類や伝票を机の上から上へ押しやるだけになった。そして飯どきになると、老人は相変らず立ち上って洋罫紙に弁当をもらって歩くし、峠は眉根に深く皺を刻んでその時間を蟹(かに)のように机にへばりついている。あのような奇妙ないさかいがあったことなど、いささかの痕跡すら現実にとどめていないのだ。相変らず老人の耳はよく動くし、峠の眇(すがめ)もなおる気配もなし、近頃またひとつバンドの穴をふやしたようである。そして私の記憶からも、あの巨大な握飯のことは、やがてうすれて行くのかも知れない。ましてやこの課の他の人々が、たとえあの争いに気付いていたとしても、忘れっぽい彼等がものの一週間も憶えていたかどうか。

 今日もやがて昼どきだ。今朝は寝坊して私はいたく腹がへっている。今日もまたふかし芋の弁当だが、それだって私には大牢の珍味だ。ねがわくば今日だけはどうにかして、仙波老人の伴食のお目鑑(めがね)からは免れたいものだ。[やぶちゃん注:「大牢」は「たいろう」で、原義は中国で古代より帝王が社稷(しゃしょく:土地の神(社)と五穀の神(稷))を祭る際に奉じた牛・羊・豚などの供え物で、転じて「立派な料理・御馳走」の意となり、ここもそれ。江戸時代に江戸小伝馬町の牢で戸籍のある庶民の犯罪者だけを入れた牢屋をも指すが、ここはその意ではないので注意されたい。]

2020/12/19

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(19:海龜)

 

 海龜、紀州田邊にて、海龜を獲るも殺さず、酒を飮せて放ちやるを常とす、海に入て暫時して浮上り、恩を謝して去るといふ、實は呼吸に暇とるなり、この海龜を食ふ人多きも、之を殺す者、古來その業を世傳し、他人之を殺さず、余が知れる新宮の船頭、持ち船を浮寶丸と號せり、其人躬ら見し事無けれども、海龜罕れに綠色で甚だ光る異寶を抱き浮く、之を龜の浮寶と名け、見る者尤も幸運の兆也とす。只野眞葛の磯通太比に、奧州の漁夫、二年續けて同一の龜を得、酒多く呑せ放ち遣りしに、第三年めに其龜鸚鵡螺一を負ひ來たり贈り、忽ち死し、其螺を寶とし其龜を葬りしに、官命じて龜靈明神と號せしめたる話有り、倭漢三才圖會卷七六に、淡路の由良島に、每年六月三日、社僧龍王を祭る時、大小の海龜必ず來游群を成すと云へり、神代に、豐玉姬龜に乘り、海を渡る事有り、安南のトラヲスの祖も、龜に乘り水を涉り來しと云ふ。(Néis et Septans, ‘Rapport sur un Voyage d’exploration aux Sources du Dong-Nai; Cochinchine Francaise,  No. 10, 1882, p. 44)。又鹿島明神、早龜と云ふ龜に乘り、長門豐浦に到りし由、類聚名物考卷三一一に見ゆ、是抔諸例より推して、古え[やぶちゃん注:ママ。]吾邦に、龜を神若くは神使とする風盛んなりしを察すべし、又海坊主とて、海龜を漁事に不祥なりとする事、倭漢三才圖會卷四六に出、其偶有得、則將殺之時此者拱手落淚如乞救者云々と言るは、十七世紀の終りに英國學士會員「フライヤー」がスラツトで、海龜捕るを記して、此物全く蟾蜍の愛すべきに似たり、婦女の如く長大息し、小兒の如く啼く、裏返し置く時は行く能はずと言るに近し、(Fryer, ‘A New Account’ of East India and Persia 1698, p. 122)。

 

[やぶちゃん注:「海龜」爬虫綱カメ目潜頸亜目ウミガメ上科 Chelonioidea の内、本邦で産卵が確認されている種は、

ウミガメ科 Cheloniidae アカウミガメ属アカウミガメ Caretta carettaウィキの「アカウミガメ」によれば、『静岡県御前崎市は「御前崎のウミガメおよびその産卵地」が国の天然記念物に指定されるなどアカウミガメとのかかわりの深い地域であるが、漁業関係者の間では大漁、豊漁のシンボルとして敬愛され、死んだアカウミガメを供養した「亀塚」が市内各所に実在している』とある)

アオウミガメ属アオウミガメ Chelonia mydas(本邦では「正覚坊」という異名もある。私は高校時代、水族館で死んだ同種の解剖を見たことがある。強烈な生臭さが漂っていたのを今も忘れることが出来ない。また、二十の頃には、行きつけの寿司屋で本種の生の卵を食したこともある)

タイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata(玳瑁・瑇瑁。鼈甲細工の原料とされる。因みに「鼈甲」という語については、一説に、寛文八(一六六八)年に幕府が出しだ奢侈を禁ずる倹約令で輸入物の玳瑁の甲羅が禁制となり、しかし、密輸入が行われ、糺された際に玳瑁のそれではなく「鼈」(スッポン)の「甲」羅と誤魔化したことに由来するという話もある)。

オサガメ科 Dermochelyidae オサガメ属オサガメ Dermochelys coriacea(ウミガメ類の最大種。甲長一・三〇〜一・六〇メートル)

の四種であるようだが(最初の三種では種間雑種が確認されている)、他に、迷走個体として、

ウミガメ科ヒメウミガメ属ヒメウミガメ Lepidochelys olivacea

の成体が現認されている(本邦では産卵はしないとされる)。なお、中国限定であるが、カメの民俗誌として、茨城大学名誉教授真柳誠氏のサイト「医史学の真柳研究室」内にある平成一六(二〇〇四)年度の人文学科卒業研究の永谷恵氏の論文「亀の中国思想史-その起源をめぐって-」が読み応えがある。

「暇とる」「ひまとる」。呼吸の必要性から頭を海上に出すだけのことである、の意。

「躬ら」「みづから」。

「罕れに」「まれに」。

「綠色ではなはだ光る異寶を抱き浮く、之を龜の浮寶と名け、見る者尤も幸運の兆也とす」不詳。なお、腹足綱直腹足亜綱 Apogastropoda 下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科タカラガイ属ウキダカラ(浮標宝)Cypraea asellus がいるが、同種は、一般には殻の背面が白色に三つの黒帯を巻き、上下を白帯で区切られている。側面と腹面は白色であり、タカラガイの類では、識別が最も容易な一種であるが、成体(海外サイトで確認したところ、外套膜は暗紫色或いは褐色で緑色ではない。言っておくが、貝類図鑑のそれは殼であって、タカラガイ類の多くは生体では殼全体をすっぽり外套膜で覆ってウミウシのようであり、見た目の色は貝殻とは似ても似つかない)も貝殻も緑色を呈することはないと思われ、ウミガメ類に附着するとは考えにくいので、単に名が同じという偶然であろう。

「只野眞葛の磯通太比」只野眞葛(ただのまくづ 宝暦一三(一七六三)年~文政八(一八二五)年)は私の好きな江戸中・後期にあって稀に見る才能を開花させた女流随筆家である。仙台藩医で「赤蝦夷風説考」の著者でもあった工藤平助の娘で、名は綾子。江戸生まれ。明和九(一七七二)年二月、十歳で「明和の大火」(目黒大円寺から出火、麻布・京橋・日本橋に延焼、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くした。死者は一万四千七百人、行方不明者は四千人を超えた)に遭遇し、苦しむ貧民に心を寄せ、後々まで続く経世済民の志を抱いた。荷田蒼生子(かだのたみこ:国学者で伏見稲荷神官であった荷田春満(あずままろ)の弟高惟(たかのぶ)の娘で、春満の養女となった女流歌人。紀州藩に仕えた)に古典を学び、国学者で歌人の村田春海(はるみ)に和文の才を認められ、また、滝本流の書もよくした。仙台藩に奥勤めした後、家へ帰り、母亡き後の家政を見た。三十六歳で、落魄れた工藤家復興を期し、仙台藩士千二百石取りの只野伊賀行義の後妻となり(彼女はその前に望まない老人と、一度、短期間、結婚し、離縁している)、仙台へ下る。江戸勤めの多い夫の留守を守りながら、思索に耽り、文政二(一八一九)年、五十五歳の時、胸の想いを全三巻に纏め、「独考」(ひとりかんがへ)と題して江戸の滝沢馬琴に送り、批評と出版を依頼したが、馬琴は禁忌に触れる部分があるとして出版に反対し、自ら「独考論」を著し、真葛の論に反撃し、手紙で知り逢ってから一年余りで絶縁した。しかしまた、真葛の事跡が、現在、ある程度まで明らかとなっているのも、馬琴が「兎園小説」に書き留めたからででもあった(第十集の最後にある著作堂(馬琴の「兎園小説」での号)作の「眞葛のおうな」)。真葛は体系的な学問をしたわけではないが、国学・儒学・蘭学などの教養を身に着け、その上にオリジナルな思想を築いていった。「独考」には一種の偏頗な部分もあるものの、江戸期の女性の手になる社会批判書であり、当時としては稀有の女性解放を叫ぶ書として評価できる。著作には他に・「むかしばなし」・「奥州ばなし」などが残る(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠りつつ、オリジナルに補足を加えた)。「いそづたひ」は文政元(一八一八)年に宮城郡七浜(現在の宮城県宮城郡七ヶ浜町(しちがはままち)へ仲間と旅した際の紀行文で、途中で採取した海辺の珍しい話も挟まり、これもその一つ。国立国会図書館デジタルコレクションの明治四二(一九〇九)年博文館刊の岸上質軒校訂「續紀行文集」(「續帝國文庫」第二十四編)の当該部(リンク先は冒頭ページ。左ページの一行目から次のページにかけて)を視認して示す。段落を成形し、句点のみなので、それは自己判断で句読点に変更或いは追加(記号を含む)をした。読みは一部に留めた。踊り字「〱」は正字化した。中間部に少し、話が一旦、離れて歌などが詠まれるが、カットせずにこのカメ・パートの切れる最後まで電子化した。

   *

 此島の周圍(めぐり)を離れぬ小舟ありき。

「人を乘せてんや。」

と、とはせつれば、

「二人、三人は可(よし)。」

といふ故、乘(のり)て見れば、蛸釣る舟には有し。今、捕(とり)たるを、膝の下(もと)に打入るゝは、珍らかなるものから[やぶちゃん注:逆接の接続助詞。]、心よからず。此釣人の語るやう、

「今よりは、七、八年前(さき)に、龜の持來(もてこ)し、『浮穴(ふけつ)の貝』といふものを、持はべり。我家は、道行く人の必ず過ぎ給ふ所なれば、立寄(たちよ)らせ給ひて、見給へかし。今、僕(やつがり)も參りてん。」

とぞ、いひし。

 舟より上るとて、今、捕りたる蛸を乞求(こひもと)めて、家苞(いへづと)にしたり。

 釣人の家にいたりて、

「浮穴(ふけつ)の貝てふもの、持(も)たりと聞くを、見せてんや。」

と乞へば、内なる女、あしたかき折敷(をしき)に白き箱を据(すゑ)て、持出たり。この磯屋(いそや)の樣(さま)、板敷(いたしき)にて、引網(ひきあみ)・たく繩[やぶちゃん注:「たくなは」。「栲繩」でコウゾの繊維で作った繩。]など、おほく積入(つみい)れて、折敷などは有(あり)げにも見えぬに、斯(か)く振舞ふは、いみじき寳と思へる樣也。

 執りて視るに、目馴れぬ貝の形也。徑(わたり)一束半(四寸五分)[やぶちゃん注:原割注。]に過ぎぬべし。貝、最(いと)厚く、外の色は白くて、茶色に、虎斑(とらふ)の如き文(かた)あり。中は夜光貝(やくわうがひ)に似て、濃(こまやか)なることは、甚(いた)く增(まさ)れり。内に、汐、籠りて、打(うち)振れば、

「こをこを」

と鳴(な)りながら、いさゝかもこぼれ出でず。

「是を得て、八歲(やとせ)になれども、乾きもせず。」

とぞいひし。

 兎角する中に、釣人、歸り來て、事の由(よし)を語る。

「今よりは十年許(ばか)り前(さき)、沖に出(いで)て釣し侍りし時、四尺餘の龜をえ侍りき。乘合(のりあ)ひし釣人も、六、七人候ひしが、

『龜は酒好む物と聞けば、飮ませてん。』

と、僕(やつがり)申したりしを、海士(あま)共も、

『よからん。』

と申して、飮ませ侍りしに、一本許り飮み候ひき。扨、放ち遣(やり)候ひしに、翌(あく)る年の夏、又、沖中にて釣せし時、龜の出て候ひつれば、捕へて、酒を飮ませて放ち侍りしに、一年有て、此度(こたび)は此貝を背に負ひて、磯より半道許り隔てたる所に、浮(うか)び寄(より)て候ひき。僕(やつがり)は、いつも、朝、とく、磯邊(いそべ)を見回(みめぐ)り侍つれば、見怪しみて、汐をかつぎ分て、往(ゆき)て見侍りしに、例の龜にぞ候ひし。初め放ち侍りし時、目印(まじるし)を付(つけ)侍りつれば、見る每(ごと)に違(たが)はずぞ候ひし。

『例の如く、酒を飮ませて、放たん。』

と、し侍しに、左の手を物に囓取(くひと)られんと思(おぼ)しく、甚(いた)き疵(きづ[やぶちゃん注:ママ。])を負ひて、動くべくもあらず見え侍りつれば、人を集(つど)へて、舟に擔載(かきの)せて(四人して漸持たり。)[やぶちゃん注:原割注。]、沖に漕出(こぎい)でゝ、放ちて歸り侍りしに、夕つ方、又、元の所に來て死(しに)侍りき。

『言葉こそかよはね、酒飮ませられし酬(むくひ)に、貝を持(も)て來しならめ。』

と、最(いと)哀れに悲しまれ侍りつれば、骸(から)を陸(くが)に擔上(かきあ)げて、小高き所の地を掘(ほり)て、埋(うづ)め候ひて吊(とふら)ひ侍りき。今は公より仰せ蒙りて、「亀靈明神」と申し侍る。此貝を、初めよりよき物と識り侍らば、斯(かく)は仕(し)候らはじを、只、珍らしとのみ思ひ侍りしかば、海士乙女(あまおとめ)共の、

『亀の持(も)て來(こ)し貝、得させよ。』

と言ひつゝ、手々に打缺(うちか)き打缺きして、取らるゝ程は取り侍りつれば、斯く損(そむ)じ侍る。此半(なかば)にて、脹切(はりきり)たる所にも、針もて突きたる程の穴、あきて候ひしを、

『汐をぬきて、孫共に與へん。』

と思ひ侍りて、角(かど)ある鐵箸(かなばし)もて、突抉(つきくじ)りなどし侍し故、穴も崩れ侍り。されど、聊かも汐の出侍らねば、其儘にて半年許、翫弄物(もてあそびもの)として置候ひしを、ふと、休みたる旅人の、執見(とりみ)て、

『こは。まさしう「浮穴(ふけつ)の貝」といふものなり。如何にして得し。」

と、其故を問聞(とひき)き侍りて、且、感じ、且、缺損(かけそん)じたることを、惜(あたら)しみ[やぶちゃん注:「惜(を)しむ」の意の上代の古形。]侍りて、

『得がたき物なるを、今よりは寳とせよ。』

と、教へ侍りしによりて、俄(にはか)に尊(たふと)み候ひぬ。」

とぞ語りし。

 こゝをはなれて山路にかゝるは、心づきなかりしを、出離れて、海のみおものふと見えたるは、晴やかにて、際(きわ[やぶちゃん注:ママ]。)なく快(こゝろよ)し。又、居たちて、磯づたひの道にかゝる。湊濱のわたりは、ことに淸し。眞砂の中に、黃金(こがね)の箔を敷(しき)たらんやうに見ゆるが交りて、波の打寄るにつれて、下り上りするが、うちあげられたるは、蒔繪に異なることなし。かゝるを、愛(めで)つゝ磯づたひし行けば、湊藥師(みなとやくし)[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。]の立たせる邊(わたり)は、よそに過行きたり。後、思出て悔(くゆ)るも、かひなし。『千鳥は冬ならでは、をらじ』と思へりしを、十羽許り、群居て、水際を去らず、求食(あさる)は、最(いと)めづらし。人のちかづけば、遠く居つゝ、每(いつ)も同じ樣(さま)也。繪に書(かき)たるを見しとは異なり、身は細りて長く、「をしへ鳥」の形したり。飛立(とびた)てば、羽勝(はがち)にて、燕に似たり。小波の寄する時は、步みながら逃行き、退(ひ)く時は、又、隨ひて、あさり、大浪の打かゝれば飛立(たち)て、即ち、水際(みぎは)にゐる樣(さま)、波に千鳥とは、いはまほし。

  磯千鳥みぎは離れずあさりつゝ

      淸き渚によをやつくさん

日の斜(なゝめ)に成ぬれば、家路に歸らんことの、わづらはしく思はるゝを、所得がほに、心おだしうて、

『あれは、うらやまし。世に千どりがけといふことのあるは、何の故ぞ。』

と思ひしを、

『打波、引波につれて、あゆむさまをもて、よそへしことぞ。』

と、思あはせられし。此磯は、御殿崎より見し時だに、程あるやうなりしを、下立(おりた)ちては、最(いと)測りなし。

「家づとに貝拾ふ。」

とて、時うつしつゝ、蒲生(がまふ)の濱[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルを見ると、現在もチドリだけでなく、野鳥の楽園のようである。]行く頃は、心あはたゞしくなりぬ。

                (かえ子)

  かへりゆく道もわすれてうちよする

       眞砂にまじる貝ひろひけり

いと飽かねども、濱を離れて、先に遠く見し松原を經て、家路へと赴きたりし。

    おもひはかるおしあてごと

 『此貝を、龜の、痛手負ひながら、持(も)て來(こ)しをもて考ふれば、此貝の在る所は、海の底にして、恐ろしき荒魚(あらいを)ども栖(すみ)て、中々、人の及び難き所故、取得(とりう)ることもなきを、此龜、海士(あま)に捕られて、死すべき命、たすけられしのみならず、珍らしき酒を飮ませられしも度々故、此報ひに、龜も珍らしき物を贈らんと、强て求むとて、海底の荒魚と戰ひ、身を傷(あや)められながら、辛き思ひに取得て來りしとにや』と思へば、哀(あはれ)なり。世に强き例(ためし)に引く龜の、弱り果(はて)たるをもて思ふに、海の底にて、甚(いた)く戰ひしとは知られたり。命(いのち)盡きなんとするに依りて、貝を持(も)て來(こ)しには非じ、貝を獲(え)んとして、命、失ヘるなるべし。

[やぶちゃん注:以下の長歌は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空け、歌は読み易いように、字空けを添えた。前書下の原割注の「川子濱」は同定し得ないが、伝承からみれば、松ヶ浜のどこかであろう。因みに、古い時代のこの辺りの地形は、かなり現在と異なる。「今昔マップ」のそれを参考に示しておく。]

    海中のさまをよめる歌(海士人の住所は川子濱也)

河子なる はまの磯屋にすむあまの 沖に出居て例のごと 釣れる雜魚(いさな)に加はりて 四尺餘(よさかみあまり)の大龜の 浮びたりしを 俱乘(とものり)の 海士(あま)とはかりて美酒(うまさけ)を 與へ飮(のま)せて 元のごと 放ち遣りしに 又の年 同じき龜のたく繩に 寄りて來ぬれば うま酒の ゆかしとにやと のませつゝ またもはなちてやりつれば 龜のおもはく 死(しぬ)る命 全(また)く保ちしのみならず 美酒をさへめぐまれし 人の情(なさけ)の報ひには 得難きものをさゝげもて 奉らめと思ひつゝ 浮穴(ふけつ)といへる玉貝を 得めと思へど 荒魚の 怒りかしこみ事なくは 取得(とりえ)がたしと窺(うかゞ)へり 海の中には垣もなく 行易(ゆきやす)けめと 世の人は おもひぬれども うかぶ魚 根(ね)に栖(すむ)魚の 別(わき)有りて 潮(うしほ)の階(きだ)も異なれば そこに有りとは知りつれど 千尋(ちひろ)に餘る 荒根(あらね)には 行觸(ゆきふ)れがたみ 容易(たやす)くも 取得られねば悔(くや)しとは 思ひ染(しみ)つゝ荒魚の 寄來(よりこ)こぬ隙に 大龜は 入得(いりえ)ぬ方(かた)に分(わけ)ゆきて 貝を取得て背に負ひつ 心いさみて 荒波を いかき上りつ 搔(かき)のぼり 潮のさかひを 超(こえ)ぬべく 成りぬる時に荒いをの 睨(にら)み視るより鰭(ひれ)をふり 齒を剝出(むきい)でゝ飛ぶがごと 追(おひ)て來(き)ぬれば 荒汐は うな逆立(さかたち)て卷返(まきかへ)り 底の闇は千萬(ちよろづ)の 神鳴騷(さは)ぐ如くにて 聞くも畏(かしこ)く肝(きも)迷ひ 沈(しづ)まじ浮んと空樣(そらさま)に 尻を成しつゝ 逃行くを いとひかゝれば 拂ふ手を ふつと囓(くは)れて一度に 汐の境は去ぬれど 重傷(いたで)にあれば潮さへ 血しほと成(なり)て大龜は 心消つゝ一行(ひたすら)に 弱りてあれど やうやうに 海路(うなぢ)辿りて 海士人の 家の邊(ほとり)の磯邊まで 貝を負來(おひき)て 生命(いのち)歿(しに)けり

  萬代を經ぬべき龜はうま酒の

     あぢに命をつくしぬるかも

  龜がよはひ酒にたちけりみじかゝる

     人の命は捨るもうべなり

  萬代の齡ゆづりしかひなれば

     手にとる人も千代はへぬべし

   文政はじめのとし葉月五十六歲にてしるす

                   眞  葛

[やぶちゃん注:底本では、ここで終わっているが、所持する国書刊行会「江戸文庫」版では、以下の漢文が附されてある。返り点を除去して恣意的に正字化して示し、後に私の推定訓読を附す。]

 

 松濱之漁父、網而獲一大龜、飮之酒而放之、如此者二囘矣。賤而有仁、可不賞乎。龜既洋々焉而去、後數日、負珍貝來、少焉殭矣。怪而視之、損其一足、似爲物所齕斷。意采貝重淵、與巨魚鬪、而至此乎。介而知恩以死報之、可不哀且賞乎。然而細民有仁、衆漁中蓋不數人、介族知恩、亦所希覩也。可謂奇遇耳。夫、龜以壽稱者也。而爲恩强死、爲人所哀、傳以爲美談。其不朽也、勝徒壽遠矣。[原割註―こは、かの國にいます南山禪師のそへ給へるなり。]

   *

松濱の漁父、網にて一大龜を獲り、之れに酒を飮ませ、而して之れを放つ。此くのごとき、二囘たり。賤しくして、しかも、仁、有り。賞すべからざるか。龜、既に洋々焉(ようようえん)[やぶちゃん注:はるか遠いさま。]として去り、後、數日、珍貝を負ひて來り、少焉にして殭(し)す。「怪し」として之れを視るに、其れ、一足を損じ、齕斷せる物たるに似たり。意(おも)ふに、重淵に貝を采(と)り、巨魚と鬪ひ、而して此に至れるか。介[やぶちゃん注:広義の魚介で、亀を指す。]にして、しかも、恩を知り、死を以つて之れに報ふ、哀れみ、且つ、賞すべからざるか。然して、細民、仁、有り、衆漁の中(うち)、蓋し人を數ふべからざるに、介族、恩を知る、亦、希覩(きと)とせんや、奇遇と謂ふべきのみ。夫(そ)れ、龜、壽を以つて稱す者なり。而して恩を爲(な)し、强て死す。人、哀れむと所と爲(な)し、傳へて以つて美談と爲(な)す。其の不朽や、徒(いたづら)に壽とするに勝(まさ)れるに遠し、と。【こは、かの國にいます南山禪師のそへ給へるなり。】

   *

素敵な一文ではないか! しかも、真葛が対象の詳細なデータを記して呉れているお蔭で、我々はこれを、

頭足綱四鰓(オウムガイ)亜綱オウムガイ目オウムガイ科オウムガイ属 Nautilus の一種

或いはよく知られた一種、

オウムガイ Nautilus pompilius

であると確かに認識出来るのである。同種の分布は南太平洋からオーストラリア近海の深海(百から六百メートル。八百メートルを超えると殻が水圧に耐え切れずに縮崩壊してしまう)であるが、死貝の殻はしばしば日本沿岸に漂着するので、黒潮に乗って仙台の海岸に流れ寄っても少しもおかしくないのである。知らない人はおるまいが(私は殻を正中位置で二つに切断した殻一個体を所持している)、一応、私の毛利梅園「梅園介譜」の「鸚鵡螺」と、同じく私の「オウムガイ(松森胤保「両羽(りょうう)博物図譜」より)」をリンクさせておく。無論、二つともにカラー図版附きである。さて、この「浮穴の貝」、実は現存するのである。「七ヶ浜町役場」公式サイト内にあった観光パンフレットの中に「浮穴ノ貝(富結の貝)(ふけつのかい) 民話2」として本話が載っており、現在の祠(新しい)と、保存されている「浮穴の貝」の写真が載っているのである。

   《引用開始》

 文化4年(1807)頃、松ヶ浜の漁師が御殿崎の沖合いで釣りをしていたところ、4尺程(1.2m)の大亀が海上に浮き上がりました。珍しがった漁師は亀を家へ連れて帰り、酒を振る舞った後、背中に印を付けて海へ帰しました。

 亀は翌年もやってきました。漁師は再び酒を振い、海へ帰した後、翌年の再来をまた楽しみに待ちました。

 すると翌年、亀は見たこともない貝を背中に背負ってやってきました。貝を受け取ってよくよく見れば、亀は左手に、何者かに食いちぎられたような大けがを負っていました。漁師は手当てをし、酒を飲ませて船に乗せ、沖合に帰しました。

 ところが翌朝、その亀が死んでいるのを見つけて、気の毒に思った漁師は、養松院の境内に埋葬し「亀霊明神」と名付けてまつりました。そして、漁師は亀の背に乗ってきた貝を、家の入口付近に置きました。

 数日が過ぎた頃、漁師の家の前を通りかかった旅の僧侶が、その貝を見つけて仰天しました。僧は「これは浮穴の貝という深海の珍宝で、出漁前に拝めば大漁をもたらす」と漁師に語りました。半信半疑で漁師がそのようにしてみると、大漁が続いた事で、噂はたちまち広がり、はるばる四国から拝みにやってくる人もいたといいます。

 浮穴(ふけつ)という読みの音から「富結」という縁起のいい字を当てることもあります。この漁師の子孫は、今も松ヶ浜に暮らし、亀霊明神の祠を養松院から自宅そばに移して今も供養を続けています。

   《引用終了》

この時制記載が正しいとすれば、真葛さんは、この奇談のあった時から僅か十一年の後に、この漁師自身に直接逢って、話を聴き、「浮穴の貝」を親しく観察したことになる。今度、行くことがあったら、是非ともこのオウムガイ、いやさ、「浮穴の貝」を拝みたいと思っているこの(グーグル・マップ・データ航空写真)松ヶ崎港の東北の一角部分の岬が御殿崎で、アップすると、一時保管されてあった「養松院」が見える。恐らくはこの範囲内のどこかに、祀られ、その子孫の御自宅に「浮穴の貝」はあるのである。

「和漢三才圖會卷七六に、淡路の由良島に、每年六月三日、社僧龍王を祭る時、大小の海龜必ず來游群を成すと云へり」同巻に載る「大日本國」の中の「淡路」の「由良島」である。所持する原本より電子化する。原文の訓点は除去し、後に訓読を示した。

   *

由良島【非名所】 在由良之南西海中

島周凡三里許有奇石名金藏作此處或見猩猩蓋俗說 又有大石名比良波惠其石出於海中而上面平也方二丈許毎六月三日土人備供物於石上謂之龍王祭【八幡宮神宮寺】社僧來誦陀羅尼修祭儀時大小龜來群游於石※毎度無違人甚爲奇

[やぶちゃん注:「※」はグリフウィキのこれ。「邊」の異体字。訓読では「邊」とした。]

   *

由良島【名所に非ず。】 由良の南西海中に在り。

島、周(めぐ)り、凡そ三里許り。奇石、有り、「金藏作」と名づく。此の處、猩猩を見ること或り、蓋し、俗說ならん。又、大石、有り、「比良波惠」と名づく。其の石、海中より出でて、上面、平なることや、方二丈許り。毎六月三日、土人、供物を石上に備ふ。之れを「龍王祭」と謂ふ。【八幡宮の神宮寺の。】社僧、來り、陀羅尼を誦し、祭儀を修す時、大小の龜、來りて、石邊に群游す。毎度、違(たが)ふこと無し。人、甚だ奇と爲す。

   *

「金藏作」の読みは不詳。現在、この呼称は生き残っていない。「比良波惠」は「ひらばえ」(海中に上方に突き出した根(岩礁帯)を「はえ」と呼ぶ。魚介類が多く集まる)。島の大きさと由良からの方角、奇石群があること等から、これは現在の淡路島の南沖合四・六キロメートルの紀伊水道北西部に浮かぶ、兵庫県南あわじ市に属する沼島(ぬしま)である(こここそ開闢神話で最初に出来た原日本「おのころ島」であるとする伝承がある)。上及び下立神岩・屏風岩・「あみだバエ」などの奇岩があるが、中でも高さ約三十メートルの「上立神岩(かみたてがみいわ)」は「竜宮の表門」(グーグル・マップ・データの「上立神岩」のサイド・パネルの現地の説明版を見よ)とも呼ばれ、ウミガメと親和性が強い。なお、ウィキの「沼島」には『「和漢三才図会」には「龍宮の表門」と書き記されている』と書いてあるが、ネット上の複数の活字本(私の所持するのは原刊行本の一種)を見ても、その記載を見出せない(同書には大きく分けて良安の初版と手入れをした改訂版の二種があるから、或いはそうした記述がある版があるのかも知れないが、どうも不審である)。

「神代に、豐玉姬龜に乘り、海を渡る事有り」「豐玉姬」は女神で、神武天皇の父方の祖母、母方の伯母とされる。ウィキの「トヨタマヒメ」に、『豊玉姫は海神(豊玉姫の父)の宮にやってきた火折尊と結婚し、火折尊はその宮に』三『年間住んだが、火折尊は故郷のことをおもってなげいた。これを聞いた豊玉姫は、自らの父である海神に「天孫悽然として数(しばしば)歎きたまう。蓋し土(くに)を懐(おも)いたまうの憂えありてか。」と言った。海神は火折尊に助言を与え、故郷に帰した。帰ろうとする火折尊に、豊玉姫は「妾(やっこ)已に娠めり。当に産まんとき久しからじ。妾必ず風濤急峻の日を以て海浜に出で到らん。請う我が為に産室を作りて相い持ちたまえ。」と言った』。『のちに豊玉姫は約束の通り、妹の玉依姫を従えて海辺にいたった。出産に望んで、豊玉姫は火折尊に「妾産む時に幸(ねが)わくはな看(み)ましそ。」と請うた。しかし火折尊は我慢できず、ひそかに盗み見た。豊玉姫は出産の時にヤヒロワニ』(「古事記」では「八尋和邇」、「日本書紀」の一書では「八尋大熊鰐」とする)『となり、腹這い、蛇のようにうねっていた』(「古事記」)。『豊玉姫は恥じて、「如(も)し我を辱しめざるならば、則ち』、『海陸相通わしめて、永く隔て絶つこと無からまじ。今既に辱みつ。将(まさ)に何を以て親昵なる情を結ばんや。」と言い、子を草でつつんで海辺にすてて、海途を閉じて去った』というラスト・シーンを指していようが、これは海亀のようには私には見えない。

「安南のトラヲスの祖」「安南」は現在のヴェトナムだが、「トラヲス」は不詳。

「Néis et Septans, ‘Rapport sur un Voyage d’exploration aux Sources du Dong-Nai; Cochinchine Francaise,  No. 10, 1882, p. 44」(「;」は「’」の誤植であろう)フランスの医師で探検家のポール・マリー・ネイス(Paul Marie Néis 一八五二年~一九〇七年)と、フランス海軍将校のアルバート・セプタンズ(Albert Septans 一八五五年~一九五六年)の共著になるヴェトナムの東南部にある現在のドンナイ省の探検報告書らしい。

「鹿島明神、早龜という龜に乘り、長門豐浦に到りし由、類聚名物考卷三一一に見ゆ」「類聚名物考」は「鶺鴒」パートで既注。著者山岡浚明(まつあけ)は同巻の「樂律部第一 舞踏 曲名 音調 雜叢」の最初の方にある「政納舞(せいのうのまひ)」の項(右ページ下段)で、住吉神社の縁起に見える、「面に布を覆ひて舞といへる」それについて、

   *

○〔住吉記考〕然るに此吉丸ハ(鹿島大明神の御事なり)常陸の國 鹿島の浦に住て魚を愛し年序を送り長眠を好給ひける故に御顏に蠣[やぶちゃん注:「かき」。貝のカキ。]なと多く吸ひ付けるによりて色黑くかたい見にくゝおはしましけるによりて恥しくやおほしけんおそく參り給ふ故召よはんとて長門の國豐浦にして御神樂をすゝめさせたまひけり五人の神樂男云々鹿島明神ハ海中におはしましけるか遙に是を見給ひ我を早々參れと思召て御樂を始められたり我此神樂を見なから いかてまゐらさるへきやとて早龜といふ龜に乘て參り給ひ上(淨)衣の袖を御顏に引おほひ御領に鼓をかけて政納といふ舞をまひ給ひけりさてこそ世迄も政納といふ舞の顏に布をたれけるもかゝる由有故ならん

   *

とあるのを指す。

「海坊主とて、海龜を漁事に不祥なりとする事、倭漢三才圖會卷四六に出、其偶有得、則將殺之時此者拱手落淚如乞救者云々と言る」私の「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類  寺島良安」より図・原文・訓読及び私の注を引く(私はこれをウミガメとは比定していない)。

   *

 

Umibouzu

 

おしやういを

うみぼうず  【俗云海坊主】

和尙魚

ホウ シヤン イユイ

三才圖會云東洋大海中有和尚魚状如鱉其身紅赤色從潮汐而至

△按西海大洋中有海坊主鱉身人靣〔=面〕頭無毛髪大者五六尺漁人見之則以爲不祥漁罟不利遇有捕得則將殺之時此物拱手落泪如乞救者因誥曰須免汝命以後不可讎我漁乎時向西仰天此其諾也乃扶放去矣所謂和尙魚是矣

   *

おしやういを

うみぼうず  【俗に海坊主と云ふ。】

和尚魚

ホウ シヤン イユイ

「三才圖會」に云ふ、『東洋大海の中、和尚魚有り。状ち、鱉〔(べつ)=鼈〕のごとく、其の身、紅赤色。潮汐に從つて至る。』と。

△按ずるに、西海大洋の中、海坊主といふもの有り。鱉(す□〔→「本」?〕)の身、人の面、頭に毛髪無く、大なる者は五、六尺、漁人、之を見つときは、則ち以て不祥と爲す。漁罟〔(こ)〕利あらず。遇(たまたま)捕り得ること有らば、則ち、將に之を殺さんとする時、此の物、手を拱(こまぬ)きて泪を落とし、救ふ者(こと)を乞ふがごとし。因りて誥(つ)げて曰く、「須らく汝が命を免ずべし。以後、我が漁に讎(あだ)をすべからざるか。」と。時に、西に向かひて天を仰(あふ)むく。此れ其れ、諾なり。乃ち、扶(たす)けて放ち去る。所謂る、和尚魚、是なり。

[やぶちゃん注:多くの資料がウミガメの誤認とするが、私は全く賛同できない。寧ろ、顔面が人の顔に似ている点、坊主のように頭部がつるんとしている点、一・五から二メートル弱という体長、魚網に被害をもたらす点、両手を胸の前で重ね合わせて涙を流しながら命を救ってくれることを乞うかのような動作や空を仰ぐような姿勢をする点(こんな仕草をする動物、水族館のショーで見たことがあるでしょう?)等を綜合すると、私にはこれは哺乳綱ネコ(食肉)目アシカ(鰭脚)亜目アザラシ科Phocidaeのアザラシ類か同じネコ(食肉)目アシカ(鰭脚)亜目アシカ科Otariidaeのアシカ類及びアシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinaeに属するオットセイ類等の誤認以外の何物でもないという気がする。スッポンに似ているという点で付図のような甲羅を背負ってしまう訳(それがウミガメ誤認説を導くのであろう)だが、これは断じてスッポンの甲羅では、ない。実際のスッポンの形状をよく思い出して頂きたい。甲羅は厚い皮膚に覆われており鱗板(りんばん。角質板とも言い、爬虫類の鱗が癒合して板状になったもの)がなく、つるんとして平たい。また多くの種は背甲と腹甲が固着することなく、側縁の部分は一種の結合組織で柔軟に結びついている。四肢を見ると、前肢は長く扁平なオール状を呈しており、後肢は短い。さて「この私のスッポンの叙述」は恰も上に上げた水生哺乳類のイメージとかけ離れているであろうか? 私にはよく似ているように思われるのである。ちなみに「山海経動物記・三足亀」には私と全く同じような見解からアザラシやオットセイ、ヨウスコウカワイルカを巨大なスッポンと誤認したのではないかという解釈が示されている(この「アザラシやオットセイ」の部分の同サイトのリンク先「鯥魚」(ろくぎょ)も必読である)。是非、お読みになることをお薦めする。

「鱉」この字のルビは判読できない。「ス」は確かであるが、その下には「本」の字に似ていて、但し四画目の右払いの最後が優位に右方向へ真直ぐ意識的に流れているので、「本」の字ではないと思われる(良安はしばしば「時」「云」「子」等をルビとして用いるが、「本」という漢字を用いる用法は現在までの作業内では未見)が、「すほん」で「すつぽん」という訓には一番近い。【2020年12月20日削除・追記】いつも御指摘を戴くT氏よりメールを頂戴し、『「鱉」の字のルビは、単純にカタカナ表記で、素直に「スホンノ」と読めます。「ン」が「ホ」に附き過ぎの嫌いはありますが、一字の横に四文字並べると窮屈です』と戴いたので、再度、私の原本画像を見たところ、確かに、「スホンノ」と判読できることが判明した。されば、ここは「スホンの」(スッポンの)であると考えてよいと思われる。T氏に感謝申し上げる。

「漁罟、利あらず」「漁罟」は魚を獲るための漁網のこと。東洋文庫版では「漁網も、役に立たない」と訳しているが、如何にも乱暴な訳である。ここは、和尚魚を見たり捕らえたりしたと時は、不吉とするのみならず、その和尚魚が漁網に入ると、網が破れたり流れて亡失したりして実利的にも被害がある、という意味である。だからこそ、漁師は殺そうとするのである。

「手を拱き」の「拱く」は、実は本来「こまぬく」で、現在の「こまねく」はそれが変化したもの。意味は、両手を胸の前で重ね合わせる(腕を組む)ことを指し、これは中国では敬礼の動作に当たる。但し、現行の用法は異なり、何もしないで(する能力がなくて)手出しをせずに傍観している様を言う。

「誥げて曰く」の「誥」は、単に告げるという意味よりも、教え諭すとか、戒めるのニュアンスに加えて、命令を下すの意味も含まれる字である。

「須らく汝が命を免ずべし」の「すべかラク~すベシ。」は高校の漢文ではそれこそ「必須」暗記の再読文字の一つ。「きっと~しなければならない。」「是非~すべきだ。」等と訳す必須・義務・命令の用法ではある。しかし、時には臨機応変な訳が必要。「きっとお前の命を救ってやらねばならない」「是非ともお前の命を奪うことを免じてやるべきである」では如何にもおかしい。ここは本来の「須」の持っているところの、しばしとか、少しの間といった意味を利かせて、「暫く、お前の命を救ってやろうと思う」ぐらいがよかろう。

「此れ其れ、諾なり」の「其れ」は強意で指示語ではない。この和尚魚のする動作(西を向いて空を仰ぐこと。西方浄土にかけても約束を守るということであろう)こそが『分かりました』というしるしなのである、という意味。]

   *

『英國學士會員「フライヤー」がスラツトで、海龜捕るを記して、此物全く蟾蜍』(ひきがへる)「の愛すべきに似たり、婦女の如く長大息し、小兒の如く啼く、裏返し置く時は行く能はずと言るに近し、(Fryer, ‘A New Account’ of East India and Persia 1698, p. 122)』イギリスの医師ジョン・フライヤー(John Fryer 一六五〇年~一七三三年)の著作。原本(全三巻)をネットで見つけたが、探し方が悪いのか、見当たらない。従って「スラツト」も判らない。【2020年12月20日削除・追記】いつも御指摘を戴くT氏よりメールを頂戴した。

   《引用開始》

これは、"A New Account of East India and Persia"三巻本では、Vol.1 p305の頭からの段落の最後の部分(右ページ中央)に、

altogether it is as lovely as a Toad: It sighs like a Woman, and weeps like a Child; being taken and turned on its back, it is shiftless.

とあり、又、一巻本では、熊楠の指定通り 、P122です(左ページ中央。活字が古風で、読み難いです。)また、「スラツト」は、SURAT

wiki(jp)の表記は、「スーラト」で、インド北西部にあるグジャラート州南部の港湾都市のことです。

   《引用終了》

と御教授戴いた。いつもながら、感謝申し上げる。ここ(グーグル・マップ・データ)。なお、同地図では「スラト」と表記されている。]

2020/12/18

御伽比丘尼卷四 ㊂命は入相のかねの奴 付 一代せちべん男

 

 つらつら、世の人の心ざまを見るに、癖(くせ)といふ物、各(おのおの)そなへて、はなるゝ事、なし。我、きく、晋(しんの)王義之は、左斗(さばかり)の文學に達して、德もありかりけるが、手跡を好む事のはなはだしく、至(いたつ)てすぐれたれば、後の人、其名筆をよびて、其德を不ㇾ知(しらず)。むかし、何がしとかやいへる弓法(きうはう)の達者、堂前(どうまへ)を射(いる)に、必(かならず)諾(うなづく)の癖ありしと。されど、通矢(とほりや)、數千(すせん)におよびて、天下一の誉(ほまれ)をとりし。これらは皆、能(よき)くせのたぐひにして、世の人のおよふべき事に非ず。

 こゝに、あしきくせあるをば、いかゞはせん、後世(ごせ)願ひに、心のすぐなるはなく、まづしきがへつらへる名人に、異風のくせあり。此故に慈鎭の歌に、

  人ごとにひとつのくせはある物を我にはゆるせ敷嶋の道

と讀給ひし、實(げに)さる事ぞかし。

 爰に、都、去〔さる〕ほとりに、冨(とみ)さかへの男あり。金銀、山をかさね、米錢、藏にみてり。されど、天性(てんしやう)利勘(りかん)にして、一錢をも惜む事、甚(はなはだしき)のくせあり。

 此者、母の胎(たい)にやどるより、父母(ちゝはゝ)ともに、俄(にはか)に生魚(しやうぎよ)の美味(びみ/うまさ)をきらひ、朝夕、ぬか味噌、かうの物、增水(ぞうすい)の類(たぐひ)を食し、月、みち、そろばんをいだき、生(うま)れ出たり。

 昔、天竺の憂婆離尊者(うばりそんじや)の、剃刀(かみそり)を持て、誕生し、耆婆大士(きば〔だい〕し)の藥袋(くすりぶくろ)を持て、生れしためしも、かくや。

 赤子の比より、兩の手を握(にぎり)て、ひらかず、めのとが乳味(にうみ/ちゝ)も、つぶりふりて、のまねば、手そだてにし、髮置(かみをき)の義式、金もとゆひ・末ひろも、否(いや)がる程に、買(かは)ずにすまし、父母のなでつけしうば玉のくろかみも、源氏・花の露さへ、

「油くさし。」

と、のゝしれば、とりあげたる事もなく、其儘の「赤がしら」とぞなれる。

 十二、三の比より、手習わざしけるも、朱ぬりの折敷(をしき)に書ては、洗拭(あらひのごひ)などしては、又、書ける程に、白紙一枚も、ついへず。

 十六、七の若衆(わかしゆ)ざかりも、色、くろく、情(なさけ)の道は、いかなる事やら知〔しれ〕ず。たゞ賣買(ばいばい)に心入〔こころいれ〕て、戀ざとは、西にあるやら、玉の盃(さかづき)の、そこともしらず、茶屋女の小手招(こてまね)をみては、

「ちかづきでないが。」

と、不審をたつるほどの、わけしらず、ひらいざうり・ちり紙をふところにして、小杉のべ紙はゆめにもしらず。

 かゝるほどなれば、世間のつきあひもなく、人をよばねば、よばれもせず。

 只、不受不施のかたきとなつて、三十(みそじ)の比は、「よい分限者(ぶげんしや)」といふほどなれど、羽二重(はぶたへ)・かゞぎぬは、さら也、日野紬(〔ひ〕のつむぎ)も肌(はだへ)にふれず、張(はり)ぬきの小鯛(こだい)作りて、其腹に、やき鹽をつめ、朝夕、是をなめて人めを能(よく)し、あらめ・和布(わかめ)は、ちぎにかけて買(かひ)、とうふを、わらしべに、しゆんどり、干がます・鰯(いはし)は尾頭(をかしら)の長きを合〔あはせ〕て取〔とり〕、門前の塵、ひろひて、居風呂(すいふろ)の湯をわかさせなど、かゝる人さへ止(やめ)がたきは、たばこぞかし。葉たばこ賣(うり)を呼(よび)、二、三枚、くるくると卷(まき)、じよきじよきと、割呑(わりのみ)て、

「是は氣にいらぬ、あれは、わるひ。」

と買(かは)ずにもどす程に、刻余(〔きざみ〕あまり)、取〔とり〕てもゆかねば、是にて毎日のたばこ、あまるほど。一生、錢出して吞(のむ)事もなく、かく始末に、としふりて、半白(はんぱく/五十[やぶちゃん注:左添えは漢字のママ。])の比は、銀高五千八百メ匁。是でも、家は、かはぬ物ぞ。一步(ぶ)の利にはまわりかぬる店借(たなかり)こそ社[やぶちゃん注:ママ。「社(こそ)」の衍字であろう。]、只、よけれ。

「風雨の氣づかひ、修覆(しゆふく)の思ひもなく、心やすし。」

と此外のしわざ、筆に餘(あまり)、こと葉(ば)に絕(たゆ)る事ぞかし。

 ある日、心ち煩(わづらは)しく、俄に氣をとり失(うしな)ひて、伏(ふし)たりしを、人々、驚(おどろき)、安心散・丁子(てうじ)など、口に入(いる)るに、齒を喰(くい)つめて、あかず。

「いかゞはせん。」

と周章(あはて)騷(さはぎ)し。

 此男の女房、耳により、大きなる聲して、

「是は、醫者の藥ではない。たゞ、もろふた藥じや。」

と、よばゝりけるに、口、あきて、のみ、人心ちつきける、とぞ。

 命にかふる寶、何かあるべきと、いとおかし。

 是は都の、今、「分限しはん」といひしは此事とかや。

 

[やぶちゃん注:標題は「命」が病いのために危なく没せんかという「入相」の折りにあっても「かね」(「入相の鐘」に「金」を掛ける)の「奴」(守銭奴)であったという意で、「せちべん男」とは「世知辨」で、原義は仏教の八難の一つである「世智弁聡」の略で「世渡りの知恵にたけていること」を意味するが、悪く転じて「勘定だかいこと。吝嗇なこと」の意でここは使っている。「せちがらいドケチ男」の謂いである。

「晋(しんの)王義之」(三〇七年~三六五年)知られた東晋の書家。その書は「古今第一」と賞され、行書「蘭亭序」・草書「十七帖」などで知られる。「書聖」と称される。同じく書家となった第七子の王献之とともに「二王」と呼ぶ。

「何がしとかやいへる弓法(きうはう)の達者、堂前(どうまへ)を射(いる)に、……」原拠不詳。但し、「堂前」は「通し矢」の別称で、知られた京都蓮華王院(通称で三十三間堂)の本堂西側の軒下(長さ約百二十一メートル)を南から北に矢を射通す競技として知られるから、これもそこがロケーションと考えられる。「必(かならず)諾(うなづく)の癖あり」というのが、よく判らないが、毎回、頷くというのは、その一矢の射出に常にその時には満足していたということとなり、その仕草をはたから見る者は傲慢な振舞いと見たに違いない。しかし、それは単なる自身の内での現時点の良し悪しの納得としての動作に過ぎなかった、さればこそ、「通矢(とほりや)、數千(すせん)におよびて、天下一の誉(ほまれ)をと」ったのであるから、人々はそこで初めて、その頷きの、決して驕慢を示す癖ではなかったことを理解したのである。されば、これは悪い癖とは真相としては言えないということを、清雲尼は謂っていると読み取るべきであろう。なお、ウィキの「通し矢」によれば、『起源については諸説ある。保元の乱の頃』(一一五六年頃)『に熊野の蕪坂源太という者が三十三間堂の軒下を根矢(実戦用の矢)で射通したのに始まるともいわれるが』、『伝説の域を出ない。実際には天正年間頃から流行したとされ、それを裏付けるように』、文禄四(一五九五)年)『には豊臣秀次が「山城三十三間堂に射術を試むるを禁ず」とする禁令を出している』。なお、『秀次自身も弓術を好み、通し矢を試みたともいう。この頃はまだ射通した矢数を競ってはいなかったようである』とあるから、ここまでの人物ではない。『大矢数のはじめは』慶長四(一五九九)年の『吉田五左衛門の千射と言われたり』、慶長十一年の『浅岡平兵衛の』五十一『本とも言われたりする』。『通し矢の記録を記した』「年代矢数帳」(慶安四(一六五一)年序刊)に明確な記録が残るのは』、慶長十一年の『浅岡平兵衛が最初で』、『平兵衛は清洲藩主松平忠吉の家臣で日置流竹林派の石堂竹林坊如成の弟子であり、この年の』一月十九日、『京都三十三間堂で』百本中五十一本を『射通し』、『天下一の名を博した。以後』、『射通した矢数を競うようになり、新記録達成者は天下一を称した。多くの射手が記録に挑んだが、実施には多額の費用(千両という』『)が掛かったため』、『藩の援助が必須』であったという。『寛永年間以降は尾張藩と紀州藩の一騎討ちの様相を呈し、次々に記録が更新され』、寛文九(一六六九)年五月二日には、『尾張藩士の星野茂則(勘左衛門)が総矢数』一万五百四十二本中、通し矢八千本で『天下一となった』。また、貞享三(一六八六)年四月二十七日には、『紀州藩の和佐範遠(大八郎)が総矢数』一万三千五十三本中、通し矢八千百三十三本で『天下一となった。これが現在までの最高記録である。その後大矢数に挑む者は徐々に減少し』、十八『世紀中期以降はほとんど行われなくなった。ただし』、『千射種目等は幕末まで行われている』。『江戸では』、寛永一九(一六四二)年、『浅草に江戸三十三間堂が創建され』、『京都よりも多様な種目が行われて活況を呈したが、大矢数では京都の記録を上回ることはなかった』とある。本書は貞享四(一六八七)年二月板行であるから、本数が実際には圧倒的に多いが、星野茂則、或いは前年の和佐範遠がモデルである可能性はあるかも知れない。

「慈鎭の歌に」「人ごとにひとつのくせはある物を我にはゆるせ敷嶋の道」表記は原本のママ。以下に見る通り、引用は原拠と異なる箇所がある。「慈鎭」は天台僧で歌人・文人(史書「愚管抄」の作者)としても知られた慈円(久寿二(一一五五)年~嘉禄元(一二二五)年)。「慈鎭」は諡号。父は摂政関白藤原忠通、摂政関白九条兼実は同母兄。天台座主には四度就任している。さて、この一首は歌集ではなく、室町中期の臨済僧で歌人の正徹(しょうてつ 永徳元(一三八一)年~長禄三(一四五九)年)の歌論書「正徹物語」(前半は正徹の自筆で、後半は弟子の聞書と考えられている。文安五(一四四八)年)或いは宝徳二(一四五〇)年頃の成立)の中に出るもので、慈円の兄弟(諸資料には兄とも弟ともあり、定かではない)一乗院門主が、慈円があまりに歌道を愛着することから、それを戒めようと教訓状を届けたところ、「悅び入り承り候」と慈円から返書が届いたものの、その末尾には、

 皆人に一のくせは有るぞとよ

    これをばゆるせ敷島の道

とあって、「沙汰の限り」と呆れ果てた、とするエピソードにあるものである。

「利勘(りかん)」常に利害得失を計算してかかること。損得に敏感で、抜け目がないこと。

にして、一錢をも惜む事、甚(はなはだしき)のくせあり。

「增水(ぞうすい)」雑炊或いは単なる湯分の多い粥か。

「そろばんをいだき」算盤玉のようなものを握って、ということか。胞衣(えな)の一部であろう。

「憂婆離尊者(うばりそんじや)」釈迦の十大弟子の一人優波離。サンスクリット語「ウパーリ」の漢訳。元は理髪師であり、直弟子の中でも戒律に最も精通していたことから「持律第一」と称せられ、釈迦入滅後の第一結集では戒律編纂事業の中心を担った。「仏本行集経(ぶつほんぎょうじっきょう)」によれば、成人していなかったウパーリは母親に手を引かれて、釈迦の髪を剃り、その場で釈迦は即座に彼が禅定を有することを見抜いたとされる。理髪師であれば、剃刀も腑に落ちる。

「耆婆大士(きば〔だい〕し)」一般には「ぎば」。サンスクリット語「ジーヴァカ」の漢訳。古代インドのマガダ国のラージャグリハの医者で釈迦の治療もした。ウィキの「ジーヴァカ」によれば、彼の出身には異説があり、父を頻婆娑羅とし、阿闍世の二つ上の兄としたり、王舎城中の娼婦婆羅跋提(サーラヴァティー)と、王子無畏(アバヤ:一説に頻婆娑羅の子とも)の間に出来た子などともする。七年の間、医法を学び、本国マガダに帰って諸人に施薬し、南方の大国の残虐なる王の病いを治癒せしめて、仏に帰依せしめたともされる。また釈迦の風疾(痛風)や、釈迦の弟子阿那律(アヌルッダ)の失明、阿難(アーナンダ)の瘡(かさ)などを治療し、名医・医王と尊称されるようになって、彼も仏教に深く帰依したと伝えられる。阿闍世(あじゃせ/アジャータシャトル)が王位に就くと、ジーヴァカは大臣として阿闍世に仕えた。しかし、阿闍世が母の韋提希(いだいけ:ヴァイデーヒー)を幽閉し、また父王頻婆娑羅(びんばしゃら/ビンビサーラ)を殺さんとするに至って諌めた。後に父を殺害した阿闍世は、その悪行から気を病み、身体に悪い疱瘡が生じたので、彼が治癒にあたった。しかしその症状は改善されず、ジーヴァカは「これは釈迦仏でないと治癒させることはできない」として釈迦のもとへ赴くよう進言した。大乗の「涅槃経」では、その模様が物語として詳しく説かれてある。中国や本邦では、彼と中国の戦国時代の名医扁鵲(へんじゃく)と合わせ、「耆婆扁鵲」と並称すことがある、とある。

「手そだてにし」実母が自分で育て。

「髮置(かみをき)の義式」男女ともに、不揃いのままの頭髪を、数え三歳の折りに男子は髪を結うために伸ばし、女子は本格的に有意に伸ばすために整える儀式。現在、「七五三の」三歳の祝いに組み入れられているが、本来は、全く別々に行う儀式で、平安時代、公家・将軍家に於いて世継の祝いとして盛大に行われていたものが、室町時代に一般庶民にも伝わったものである。

「金もとゆひ」金紙で作った金色の髻(もとどり)を結ぶための元結(もとゆい)。

「末ひろ」祝儀用に持たせる扇子。「広がり栄える」の意を掛けたもの。

「源氏・花の露」不詳。高級鬢付け油の商品名でもあるか?

「赤がしら」手入れを全くしないために、汚れて日焼けし、赤茶けてしまった頭髪を言うのであろう。

「戀ざと」「戀里」。

「ちかづきでないが。」「儂(わし)はあんたを知らんけど?」。本篇は後の「よい分限者(ぶげんしや)」といい、「是は、醫者の藥ではない。たゞ、もろふた藥じや。」という台詞といい、この江戸中後期当時の口語が、かなり現代語に近いことが判る。

「ひらいざうり」「拾ひ草履」ではあるまいか。草履は消耗品で、使い古しは、道端に捨てた。その内で、まだ使えるものを拾って履くことは、ごく普通の中下級の町人の風俗では当たり前のことであった。

「小杉のべ紙」「小杉延紙」。「延紙」は「半紙」に対する「全紙」の意で、小形の杉原紙(すぎはらがみ:播磨国杉原谷(現在の兵庫県多可郡多可町)原産の和紙。原料は楮(こうぞ)で、奉書紙よりも薄く柔らかい。鎌倉以降、慶弔・目録・版画などに用いられ、贈答品としても重宝された。近世には各地から産出するようになった。「すいはら」とも呼ぶ)のことを指す。別名を「小杉原」「小杉」、略して「延(のべ)」とも称し、江戸時代に懐中紙として鼻紙などによく用いられた。大和吉野産を最良とし、越前・出雲・阿波などの諸国で産出された。

「不受不施」狭義のそれは固有名詞で日蓮宗の一派の呼称で、文禄四 (一五九五) 年に日奥が開いた。所謂、もともとがファンダメンタルな日蓮宗の中でも突出して排撃的諸派の一つで、「法華経」の信者ではない者からは布施を受けず、布施も与えないという立場から、この名を称した。仏教の中では特異的に江戸幕府からしばしば迫害を受け、結果的に邪宗門の一宗とされて禁教・弾圧されたが、門徒はひそかに内信者として宗義を守ってきた。公許を得たのは実に明治九(一八七八)年のことであった。祖山妙覚寺は岡山県岡山市の御津にある。ここはそれに引っ掛けた謂いで、公私問わず、実利としての金銭上の利益を貰えない相手とは関係を持たず、相応の見返りを齎さない相手とは一切の能動的アクションを起こさないということ。

「かゞぎぬ」底本は「かゝぎぬ」。「加賀絹」。加賀地方産の絹織物。文明年間(一四六九年~一四八七年)に起こり、前田利常の奨励で発展した。光沢のある地質は染色もよく、裏地に用いて最高とされ、江戸時代を通じて藩の積極的な政策によって羽二重・紬などを織った。

「日野紬(〔ひ〕のつむぎ)」滋賀県日野地方(蒲生郡日野町附近。グーグル・マップ・データ)で産した紬。

「張(はり)ぬき」張り子。

「やき鹽をつめ、朝夕、是をなめて人めを能(よく)し」意味不明。塩を嘗めると、目が覚め、苦み走った感じになり、人が寄りつかないといったことか。識者の御教授を乞う。

「あらめ」褐藻綱コンブ目コンブ科アラメ Eisenia bicyclis 。「海帶」「滑海藻」「荒布」と書き、古代から食用に供された。

「和布(わかめ)」褐藻綱コンブ目チガイソ科ワカメ Undaria pinnatifida を代表種とする類似した海草グループ。同前。

「ちぎ」「扛秤・杠秤」(ちぎり・ちきり)のことか。竿秤 (さおばかり) の一種で、竿の上の紐に棒を通し、二人で担って量るもの。一貫目(三・七五キログラム)以上の重いものを量る。保存の利く塩蔵或いは乾燥させた安価な食用海藻をごっそり多量に買い、さればこそしっかり値切って買ったのであろう。

「しゆんどり」不詳。藁束の中に漬けて、水分を抜き、長期保存するということか? 識者の御教授を乞う。堅い豆腐を荒繩で縛って運ぶのは、実際に岐阜の山中の妻の父の実家で見たことがあるが。

「干がます」乾しカマス。スズキ目サバ亜目カマス科カマス属 Sphyraena のカマス類。肉は白身で淡白だが、水っぽく柔らかいため、殆んどが干物などに加工される。私は夕べも食「尾頭(をかしら)の長きを合〔あはせ〕て取〔とり〕」これも干物。体幹長の長いものだけを選び抜いて、それをまとめ買いしたのであろう。

「居風呂(すいふろ)」桶 (おけ) の下にかまどを取りつけ、浴槽の水を沸かして入る風呂。茶の湯の道具である「水風炉 (すいふろ) 」に構造が似ることからの当て字呼称。

「葉たばこ賣(うり)を呼(よび)、二、三枚、くるくると卷(まき)、じよきじよきと、割呑(わりのみ)て」流しの見知らぬ煙草売りを選んでは、呼び入れ、試し喫(の)みをしているのである。そして、毎回、買わないのである。而して、切り刻んでしまったそれは、売り物にならないから、置いて行く。それを、まんまと繰り返して、溜め込んでは、金を払わずに煙草を吸っているのである。

「銀高五千八百メ匁」「メ匁」の「メ」は「〆」で、「貫」の単位か。読みは判らぬが、江戸期の資料にはよく見かける。しかし江戸中期で銀一貫は百二十五万円相当らしいから、これではとんでもない紀伊国屋になってしまう。識者の御教授を乞う。

「安心散」不詳。民間向けの商標名であろう。

「丁子(てうじ)」バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum 、則ち、クローブ(Clove)。蕾を生薬ともする。

「分限しはん」揶揄した「分限」者の「師範」の謂いであろう。]

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(18:野槌)

 

 野槌、沙石集五卷、章三に叡山の二學匠相契りて、先立つ事有ば必ず生所を告ぐべしと也、扨一人死して夢に告て云く、我は野槌と云者に生れたりと、是れ常に無き獸、深山の中に希に有りと云り、形大にして目鼻手足なく、只口あり、人を取て食ふ、是は佛法を一向名利の爲に學ひ[やぶちゃん注:ママ。]て、勝負諍論して、口計りさかしけれども、智惠の眼も信の手も、戒の足も無き故に、斯る恐ろしき物に生れたりと云り、予熊野の山人に聞しに、野槌は「ムグラモチ」樣の小獸にて、惡臭有りと云り、此說沙石集の文に近し、然るに倭漢三才圖會卷四十五には、これを蛇の屬とし云く、深山木竅中有之、大者徑五寸、長三尺、頭尾均等、而尾不尖、似槌無柄者、故俗呼名野槌、和州吉野山中菜摘川、淸明之瀧邊往々見之、其口大而噬人脚、自坂走下甚速逐人但登行極遲、是故、如逢之則急可登高處、不能逐著、今も此物大和にはさして希ならず、丹波市近所に、昔し捕え[やぶちゃん注:ママ。]來て牀下に畜しに、只今眼小さく、其體俵の如く短大なる者となり、握り飯を與ふるに轉がり來て食ふ事頗る迂鈍なるを目擊せる人、之を予に話せり、前年、大坂朝日か大坂每日の地方通信に、和泉の山中に此物有り、土俗「ノロ」と云ふと見えし、當國日高郡川又にて聞しは、此物倉庫に籠り居る事有り、さまで希ならずと云へり、又田邊灣の沿岸堅田の地に、古え陷り成れると覺しき、至つて嶮しき谷穴、(方言ホラ)有り「ノーヅツ」と名く、俚傳に云く、昔し野槌と云へる蛇之に住み、長さ凡そ五六尺、太さ面桶(メンツウ)の如く、頭體と直角を爲す狀恰かも槌の如く、急に落下りて人を咬めりと、因て今も人惶れて此谷穴に入らず、案ずるに、山本亡羊の百品考に蛟[やぶちゃん注:「みづち」。]出れば山崩るてふ漢土の說を擧げ、蛟を「ホラ」と訓ぜり、斯る地崩れの際、古爬蟲の巨大なる遺骸、化石して顯出せるを蛟と名けしにて、ホラは素と洞の意なるを、轉じて地崩れより生ぜる谷穴をも呼びしならん、又東海道名所記三に云く、今切の渡し、昔は山に續きたる陸地なりしが、百餘年計り以前に山の中より螺の貝夥く脫出でゝ海へ飛入り、其跡殊外崩れて、荒井の濱より五里計り、一ツ海に成りたる故に今切と申す也、倭漢三才圖會卷四十七にも、凡非地震而山岳暴有崩裂者、相傳云、寶螺跳出而然也、如遠州荒井之今切者、處々大小有之、龍乎螺乎。未知其實焉、洞も寶螺も、「ホラ」に訓ずる故、混じて生ぜし說にや、若しくは地崩るゝ時、螺類の化石露出するに據れるか、古え堅田に、山崩れて件の谷穴を成す際、異樣の爬蟲化石出しより、之を野槌蛇と心得て件の譚を生ぜしにや。

[やぶちゃん注:以下、一段落分は底本では、全体がポイント落ちで一字半下げとなっている。同ポイントで示した。前後が一行空けなのはママである。]

 

 丹波市の野槌の話に似たる外國の例は、一七六六年、印度山間の諸王が、世界と伴て生死すと信じ、崇拜せる神蛇「ナイク、ペンス」を見し人の記に、此蛇岩窟に住み、一週に一度出でゝ、詣者が奉れる山羊兒又鷄を食ふ、それより堀に入て水を呑み、泥中に轉び廻り、扨復た窟に入る、吾輩其泥上に印せる跡より推すに、此蛇長さに比して厚きこと非常にて、徑り二尺を踰ゆと(V.Ball, Jungle Life in India,’ 1880, p. 491) 又淵鑑類函卷四三九に、夷堅志を引て、南宋の紹興廿三年(近衞帝仁平三年)建康に現はれし豬豚蛇の事を言るに自竹叢出、其長三丈、面大如杵、生四足、遍身有毛、作聲如豬、行趨甚疾、爲逐人呑噬之勢云々、嚙人立死とあるは、野槌を獸とするも、蛇とするも、多少似たる所有る樣也。

 

 野槌の意義に就ては、本誌二八二號六六三頁以下に、出口君の論あり、予一向不案内の事乍ら、古事記傳五に、和名抄、水神又蛟を和名美豆知と訓せり、豆(ツ)は之(ノ)に通ふ辭、知は尊稱にて、野槌等の例の如しと有れば、「ミヅチ」は俗にいふ水の主(ヌシ)、又蛇の主、野槌は野の主と云ふ事なるべし、日本紀によれば、諾册二尊日神を生み玉へる前に、野槌を生めり、鈴鹿連胤の神社覈錄を檢するに延喜式神名帳、加賀國加賀郡に野蛟神社二ケ所在り、一は金山彥命を祭り、一は高皇產靈尊等三神を祭る、野蛟は「ノヅチ」と讀むべしと有り、又下總國に蛟蝄神社有り「ミヅチ」と讀む、水神罔象女を祭るとある以て考れば、加賀の二社は、原と野槌を祭れるにて、野槌は蛇の屬たりしこと明けし、神が蛇迄も產し例は、希臘の大地女神「ガイア」の子に、怪蛇「ピゾン」有り(Seyffert. A Dictionary of Classical Antiquities,’ London, 1908, p. 531.)類聚名物考卷三三七に、野仲「ノヅチ」、文選の訓に云り、其義註にも詳かならず、張平子殪野仲而殲遊光(ツキガミ)註、野仲遊光惡鬼也、兄弟八人常在人間、作怪言とあれば、後世野槌は、支那の惡鬼野仲に宛られるゝ程、評判惡くなり、神より降て怪物となりし也、思ふに「ミヅチ」「ノヅチ」、何れも古えありし大蛇を、水に住むと野に棲むに從ひて、其主とせる名ならん、大和和泉等に現在すといへる野槌蛇は、予親く見ざれば其虛實を知らず、或は或種の蛇、病に罹りて、人間の象皮病の如く、斯る畸形を生ずるに非るか、無脚蜥蜴に“Uropeltidae”[やぶちゃん注:底本表記は「Uropeltidae」。訂した。]の一群あり、皆な蛇に似乍ら、身體短く、尾端太くして頭と等しく、其狀恰も斜めに切て、體の後部を取除けるが如く、其の切斷せる如き表面の尖鱗を、地に押し付けて行動す(Tennent, ‘The Natural History of Ceylon,1861.  p. 302 圖有り) 本邦稀に兩足の蛇を出し、兼葭堂雜錄等に其圖を載す、是は兩脚蜥蜴の一種なるべし、因て推すに、野槌と稱する者の中、或は一種の無脚蜥蜴の頭尾均等に後體截去られたる形ちを具する者、全く無きを保せずとや言はまし、兎に角、野槌は古えの神蛇で野の神として崇拜されしを、後世其傳を失ひ、異様畸形の蛇を呼ぶ事となり、種々の怪談を生ずるに迨べるならん。

[やぶちゃん注:以下、一段落分は底本では、ポイント落ちで全体が一字下げとなっている。同ポイントで示した。前後の一行空けは私の仕儀である。]

 

 追加、「レヲ・アスリカヌス」曰く、アントランテ山に毒龍多く、窟内に住む、胴甚大、頭尾細き故、身體重く行動甚遲しと(Ramusio, op. cit., tom. i. fol 94; Lacroix, Science and Literature of the Middle Ages,London, N. D., p. 221. 有圖、)又龍の歩行頗る迂鈍にして、大雨の時谷に落て多く死すと、何か中古の欧州書で見たるも、今其名を記せず、かゝる由來にや、今日希臘で龍(ドラコス)と呼ぶは、人を食ふ巨人にて、力强きも智慧甚だ鈍く、人間に欺かれし珍譚多し(Tozer, Researches in the Highlands of Turkey, vol. ii.P. 293 seqq, 1869)本文、和泉で野槌を「ノロ」と云ふ事攷合すべし。

 

[やぶちゃん注:突然、未確認生物が現われ、しかも、異例に非常に長い記載となる。こういうところが熊楠らしくて、好きなところだ。展開と行き着くところを見れば、非常に穏当な科学的視点に立った推論で記されているのだが、読者を飽きさせない――と言うより、熊楠自身がこの面妖な生物の考証を心から楽しんでおり、しかもその天馬空を驅くるが如き自在な連想が生じつつも、それがまた本筋を離れないところが、教師時代の私の授業が、脱線したまま、あらぬ方に語りを変じてしまったのとは大違いだ違いだ(但し、本条は初出を見ても、改行されてはあるものの、前の「蛇」の条の続きとして熊楠は書いている感じは拭えないことは注意しておく必要があるようには思う)。 閑話休題。最初に、熊楠も引いている寺島良安「和漢三才図会」の「巻第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「野槌蛇(のつちへび)」それを、以下に示す(ここに出すに追記した部分がある)。リンク先のそれは、私が十二年前に行った全電子化注で、当時表記出来なかった字や、学名を斜体にしていないなどの不備があるが、今回、当該部だけを限定的にリニューアルしてはおいた。挿絵があるが、如何にもしょぼい、ただの蛇のようにしか見えないので、略す。熊楠の引用とやや異同がある。

   *

のつちへび【合木蛇之屬乎】

野槌蛇   

△按深山木竅中有之大者徑五寸長三尺頭尾均等而尾不尖似槌無柯者故俗呼名野槌和州吉野山中菜摘川清明之瀧邊徃徃見之其口大而嗑人脚自坂走下甚速逐人但登行極遅故如逢之則急可登髙處不能逐著

   *

のづちへび

野槌蛇  【合木蛇(がうぼくだ)の屬か。】

△按ずるに、深山の木の竅(あな)の中に之有り。大なる者、徑(さしわ)たし五寸、長さ三尺。頭尾均等にして、尾、尖らず、槌の柯(え)無き者に似たり。故に俗に呼んで野槌と名づく。和州〔=大和〕の吉野山中の菜摘(なつみ)川、清明の瀧の邊に徃徃に之を見る。其の口、大にして人の脚を嗑む。坂より走り下ること甚だ速く、人を逐ふ。但し、登り行くこと極めて遅し。故に如(も)し之に逢ふときは、則ち急に髙き處に登るべし。逐(お)ひ著くこと能はず。

[やぶちゃん注:UMA(未確認動物)ツチノコに同定する。木槌の柄を外した槌部分に類似した極めて寸胴(誇張的名辞で良安の、直径十五センチメートル、全長九十センチメートル長い木枕といった感じだ)の蛇で、北海道と南西諸島を除く広範な地域で目撃例がある。その標準的特質を多岐に亙る情報ソースの最大公約数として以下に列挙して、想像の楽しみの便(よすが)と致そう。データは総て所持する信用出来る著作及びネット情報を総合した。

  • 学名:未定
  • 通称標準和名:「ノヅチ」(ノヅチの方に優先権がある。この呼称の分布は主に東北・中風・近畿地方で広域で通用する。但し、現在、人口に膾炙しているのは圧倒的に「ツチノコ」(槌の子)で、これは元は京都での呼称ともされるようだ)
  • 異名:野槌蛇(のづちへび)・杵(きね)の子・バチヘビ(東北)・ドコ(滋賀県)・コロ(福井県)・ツチ・ワラツチ・ヨコヅチ・キネノコ・キネヘビ・ツチコロ・ツチコロビ・ドテンコ・トッテンコロガシ・スキノトコ・三寸ヘビ・尺八ヘビ・五十歩ヘビ・トックリヘビ・ツツ・マムシ・コウガイヒラクチ・タンコロ・コロガリ・バチアネコ・イノコヘビ・トッタリ・五寸八寸・タテクリカエシ・ツチンボ・ツチヘビ・土転び、等。
  • 体長:約30㎝~1m。
  • 胴長:約30㎝弱~80㎝。
  • 胴径:7㎝~30㎝。
  • 毒:不明。無毒とも有毒とも強毒ともいわれるが、南西諸島を除き、本邦在来種でマムシ(クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii 。但し、一九九四年に対馬の同属の個体群が独立種ツシママムシGloydius tsusimaensisとして新種記載されている)・ヤマカガシ(ナミヘビ科ヤマカガシ属ヤマカガシ Rhabdophis tigrinus 。但し、昔から毒蛇と注意する人はいたが、本種の正式な有毒種認定は一九七四年以降のことで、現在まで同種の咬傷死亡と認定された明確な事例は公的には三例のみである。しかし、同種の顎の奥深くで有意な時間咬まれ続けた場合は、極めて危険である。なお、ヤマカガシは別に、頸部を圧迫すると、別な毒液が飛び散り、ヒトやイヌなどの目に入った際には激しい症状を呈する。これは頸腺毒であるが、彼らが好んで捕食するニホンヒキガエルの持つブフォトキシンン(bufotoxin)で、それを体内貯留して防禦に使用しているのである)以外のヘビ咬傷死亡例が近代以降に全く認められない以上、無毒、少なくとも弱毒としてよいであろう。
  • 出現(目撃)時期:春~秋(4月~11)
  • 生活相:単独相(複数個体・集合的目撃例は皆無)・昼行性。
  • 食性:肉食性(カエル・ネズミ等)。
  • 体色・紋:焦茶色又は黒色又は鼠色等、黒いマムシに類似した網目文様と背中に斑点を持つ。
  • 鱗:通常の蛇に比して有意に大きく、成人男性の小指の爪程の大きさ。
  • 頭部形状(全体):毒蛇に特有の典型的三角形を呈し、通常の蛇に比して有意に大きく(幅4cm程度)、且つ平板。
  • 頭部形状(眼):鋭く、瞼があり、瞬きをするヘビ類は目蓋に相当する器官はなく、「瞬き」をすることはないので、特異点である。但し、実は眼球の表面には透明の鱗がかぶさってあるので、目は保護されている。脱皮後の残片を見ると、目の表面部分も透明の皮として残っているのを確認出来る。しかし、これは鳥・魚類の一部・両生類・蛇を除く爬虫類(則ち、蛇自体が目蓋を持たない爬虫類の特異群なのである)の持つ目蓋或いは瞬膜とは異なるものであるから、やはり普通の蛇が瞬きをすることはあり得ない)。
  • 頸部:頭部と胴部の間が明確に短かくくびれ、頸部が明瞭。
  • 胴部:通常の蛇に比して有意に中央部が膨れ上がって横に張っており、前後に伸縮する。
  • 尾部:短かく極めて強靭。それで木へ垂下することができ、威嚇行動時には、胴部を緊張させ、尾部のみで身体を立てることが可能。
  • 運動形態:蛇行せず、胴部を前後に尺取虫のように伸縮させて直進(後退も可能)し、更に胴と尾を用いて跳躍(約1~2m)、また、自身の尻尾を咥えたウロボロス状態で円くなり転がって移動することも可能とする。
  • その他:「チー!」という鼠に似た啼き声を発し、睡眠時には鼾をかく。

私はツチノコの親衛隊ではないので、学名命名権は遠慮することにした。ちなみに、ナマズ目ロリカリア科 Loricariidae ロリカリア亜科ロリカリア族 Pseudohemiodon 属のセゥドヘミオドン・ラティセプス Pseudohemiodon laticeps なる魚に、なんと、「ツチノコロリカリア」(!)という和名があるのは、ご存知かな? このメゴチかノドクサリのような、アルゼンチン・ブラジル・パラグアイ原産の装甲型の扁平なナマズの一種である(リンク先は学名のグーグル画像検索)。

 以下、本文語注。

・「合木蛇」は、この項の直前にある「千歳蝮」の異名。訓読したものを引いておく。

   +

せんざいへび 合木蛇

千歳蝮    斫木蛇(しやくぼくだ)

ツヱン スイ ホツ

「本綱」に、『千歳蝮は、狀、蝮のごとく、長さ、一、二尺、四つ脚、有り。形、蜥蜴のごとし。其の頭尾、一般にして、大いさ、衣を搗(う)つ杵のごとし。故に合木蛇と名づく。能く跳り來りて、人を囓(か)む。人、之に中(あた)れば、必ず、死す。其の囓み已(をは)りて即ち木に跳び上り、聲を作して「斫木斫木」と云ふ者は赦(すく)ふべからざるなり。若し「慱叔慱叔」と云ふ者なれば、猶ほ、急に之を治す。細辛・雄黃(うわう)、等分に用ひて、末と爲し、瘡中に内(い)れ、三たび、四たび、之れを易(か)ふ。』と。

[やぶちゃん注:不詳。四足があるので蛇ではない。有毒トカゲは現生種では爬虫綱有鱗目ドクトカゲ科アメリカドクトカゲ Heloderma suspectum 及びメキシコドクトカゲ Heloderma horridum の二種のみが知られており、分布域から本種ではない。四足があるものの、その敏捷な動きといい、強毒性といい、「野槌」と共に、あの本邦のUMAツチノコのモデル候補とはなる種ではあろう。

・「其の頭尾、一般にして」とは、頭と尾が丸太のように同じ太さであることを言う。ツチノコである。

・「斫木斫木」は、「俺の難に咬まれたくなかったら、木を切れ、木を切れ、もう、遅いがな」という謂いか?

・「慱叔慱叔」は多くが「博叔博叔」とするが、原典の「本草綱目」も底本も「慱」である。「慱」は音「タン・セン」で、憂える、または、円い、という意味で、これでは全く意味不明。では「博叔」はというと、これも分からぬ。分からぬついでに勝手に空想すると、これは実は弱毒個体か似て非なる別種である「博叔蛇」という蛇で、「あんたが咬まれたのは斫木蛇兄さんじゃあなかったんだ、その寛大な叔父さん、そう、斫木蛇兄さんの寛大な叔父さんの僕、博叔蛇だったのさ、すぐに療治すれば助かるよ」との謂いででもあろうか? この「斫木」「慱叔」には何かの故事の連関があるのであろう。識者の御教授を乞う。

・「細辛」はウマノスズクサ目ウマノスズクサ科カンアオイ属 Asarum ウスバサイシン Asarum sieboldiiAsiasarum sieboldii はシノニム)で、根及び根茎は精油成分に富み、細辛(さいしん)という生薬となる。去痰・鎮痛・鎮静・解熱作用を持つ。

・「雄黃」はヒ素の硫化鉱物で「石黄」とも呼ばれる。化学式はAs2S3。漢方では解毒・抗炎症剤として用いられたが、強い毒性を持つが、解毒剤や抗炎症剤として漢方で利用されている。詳しくは本巻冒頭の「龍」の項の「雄黄」及び「雌黄」の私の注を参照されたい。]

   +

 以下、上記引用の「野槌蛇」の本文注。

・「菜摘川」とは現在の奈良県吉野町大字菜摘(グーグル・マップ・データ。以下同じ)付近の吉野川の呼称。

・「清明の瀧」は「蜻蛉(せいれい)の瀧」のことで、吉野町上千本からさらに奥へ向かい、金峰神社の先、青根ヶ峰(旧金峰山)から音無川沿いに下ったところにある。この川は、吉野川に流れ込み、北の山を越えたところが、「菜摘」である。この近くには現在、行政主導の「ツチノコ共和国」奈良県吉野郡下北山村全域。熊楠のフィールド・ワークの守備範囲である)なるものもある(言っておくが、馬鹿にしてリンクしているのではない。やるんなら、本気でそれなりに真面目にしっかりとツチノコ探索や生物学的・民俗学的研究を継続的にやろうじゃないかということである。実際、この斬新な日本国内の共和国から、残念ながらエネルギッシュなツチノコの雄叫びは、少なくともUMA好きの私の耳にはちっとも聞こえてこないのである(但し、先にリンクさせた「ツチノコの歴史・目撃記録」及び、別ページの「ツチノコの呼び名の由来と特徴を総点検」或いは「下北山の文献にみるツチノコ」と、「下北山の目撃者の話」(目撃個体の一つ一つのキャプション入りの図が附されてある!)は、恐らくネット最強のツチノコ資料集である。必見!)。なお、末尾になったが、この蜻蛉の瀧は著名な歌枕で、貞享五(一六八八)年三月、吉野の桜を見に来た芭蕉が、

 ほろほろと山吹ちるかたきのおと

の句を残している。「ころころと野槌轉ぶかたきのおと」――なんてね!

・「嗑む」は、「かむ」と読ませているのであろうが、この「嗑」(音は「コウ」)は、①ぺちゃぺちゃしゃべる。②語る。③合う。④笑い声。⑤吸う。飲む、といった意味しかない。何らかの字の誤字と考えた方がよい。

   *

最後に注した「嗑」は、熊楠は「噬」としている。これは正しく「かむ」の意で、よい。

 次に、先に掲げた「ツチノコ共和国」の記事を引用させて戴く。

   《引用開始》

ツチノコの呼び名の由来

ツチノコは、漢字で書くと”土の子”ではない。”槌の子”である。これは、ビールびんに頭としっぽがついたその太く短い形状が、藁を打つ”槌”に似ていることからついた名だ。[やぶちゃん注:中略。]

ツチノコのいろいろな呼び方

ツチノコは、北は青森から南は鹿児島まで、北海道と奄美・沖縄をのぞく日本各地で古くから目撃されている。そして、その名も、地方によって異なっている。

ツチノコという呼び名は、先のブームで広く定着したが、もともとは一地方の一呼び名すなわち一方言にすぎないのである。この名は、京都市北部と鈴鹿山脈、吉野熊野一帯、四国北部などで使われている。

そのほか、”槌”からついた名には、”ノヅチ=野槌”(秋田、宮城、岐阜北部)、”ツチヘビ=槌蛇”(岐阜南部、大阪)、”ツチ=槌”(大阪、兵庫北部)、ツチンコ=槌ん子”(吉野)”ツチンボ=槌ん棒”(福島)などがある。 同じように、形状からの名は多種多様。臼に人れた穀物をつく、杵に見立ててキネノコ=杵の子(京都・兵庫)、酒を入れる徳利に似ているところからトックリヘビ=徳利蛇(滋賀)、納豆などを包む藁の束、苞からツトヘビ=苞蛇(愛知)、俵を連想したタワラヘビ=俵蛇(九州南部)といった豪快な名前まである。

一方、ツチノコの大ききをそのまま名前にしたのは”ゴハッスン=五八寸”滋賀、兵庫、岡山南部)。胴回りが5寸(約15センチ)、長さが8寸(約24センチ)というわけだ。この数値ではやや小ぶりだが、これは、正確さより語感や象徴性を重視したからであろう。あるいは同じツチノコでも近畿地方には、やや小型の種がいるのかもしれない。また、秋田では、しつぽか短いことからバチ(尾が短い)ヘビ新潟では、マムシに似た筒状のヘビということでツツマムシと呼んでいる。

もちろん、その特異な習性からついた名前も多い。ヘビとしては奇妙な”ころがる”癖から”コロ”(福井)、”コロリ”(広島)”コロガリ(福岡)、”ツチコロビ=土(槌)ころび”(鳥取)という具合だ。

このように、ツチノコの呼び名は全国で40種ほどもある。これだけみても、ツチノコが各地で古くから日撃きれていることがわかる。にもかかわらず、いまだ学術的に確認されていないため、学名がないのである。

ツチノコの目撃報告は数多いが、同時に2匹以上見たという例はほとんどない。すべて1匹である。ツチノコは、常に単独で行動しているようだ。

多くのヘビは群れを作らず、1匹でひっそりと暮らす。卵からかえった(卵胎生の毒ヘビでは、母体内で卵がかえりヘビの姿で生まれる)ヘビは、それぞれ好きな方向に進み、バラバラに姿を消してしまう。親はもちろん兄弟とも分かれ分かれになり、生まれた瞬間から一四立ちして、一生孤独な生活をおくるのだ。

ツチノコもおそらく同じように1匹で暮らしているのだろう。数も少ないうえに、群れをなさない。だからこそ、なかなか捕縄されないのである。

ツチノコの特徴を総点検

さて、ツチノコの特徴や性質は、前述した文献記録や多くの目撃報告などから、かなりわかっている。それを総合したツチノコの形状から、まずみてみよう。

ツチノコの姿は、簡単にいえば、ビールびんに頭としっぽをつけたような太く短いヘビをイメージすればいい。

体良は3080センチで、胴の直径は715センチ。太い胴はやや扁平で、三角形の頭は、大人の指3本で(人差し指、中指、薬指)を並べたほどの大きさ。首があり、細くて粗いしっぽが、尻からチョロッと出ている。体長に大きな幅があるのは、大型種・小型種、子供・大人、雌雄などの違いからくるのだろうか。体の色は黒、焦茶色・灰色など、背にはマムシより大さい斑紋があり、うろこも粗い。腹は、いわゆる蛇腹で、黄色をしている。

目撃証言や文献などから、特徴を簡単にまとめれば、①1匹で行動する。昼間行動する。いびきをかく。薄気味悪い目つきで、まばたきをする。胴を張って尾部で垂直に立てる。ころがる。蛇行せず、まっすぐ前後に動く。ジャンプする.毒があるとうわさされている。春から秋に出没する、となるようだ。

   《引用終了》

次に、所持する笹間良彦氏の「図説・日本未確認生物事典」(一九九四年柏美術出版刊)の概説部の一部を引く。

   《引用開始》

 最近の報告では、太さはサイダー瓶位で体長五十センチから長くて一メートル程、頭は毒蛇のように三角型で首は頗る細く尾の方も細い。胴中だけがずん胴で太いという特徴があり目撃者の言はすべて一致しているから、捕獲されて公表されなくても実在としての信憑性が強い。そして蛇のようにうねって走るのでなく、跳躍してから身体を丸めて転がるように走るから、山坂の斜面の下りは猛速力となる。従って野槌蛇に遭ったら斜面を駆け下りるのでなく、逆に上の方に駆け上がれば難を避けることができるという。蝶のように

猛毒性があるともいわれ、昔は犬などが喰み殺された話はあるが、現代では聞かない。

 野槌という名は奈良時代にすでに使われており、『日本書紀』巻第一神代上に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が天地山海樹木を生んだ次に生んだのが草祖草野姫(くさのおやかやのひめ)で、又の名を野槌というとある。

 つまり樹木草など植物の根元である神を蛇とし、しかも野槌と名付けられるように槌の形をしていたのである。

 この野槌蛇の伝承は古くよりあり、妖性現されていたので野之霊(のづち)とも書き、猛毒があるので蝮の異名ともされていたので、『字鏡』六十八には「蝮、乃豆知」、『康頼本草』には「蝶蛇、乃豆知、波美」としている[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

とある。

 最後にアカデミストにすこぶる評判の悪いウィキの「ツチノコ」の記載の内、以上を補填すると判断される一部(補強材料としてダブりも含む)も引いておこう(記号の一部を変更した)。「目撃談などによる特徴」の内、前に出ていないものを見ると、『腹側に、通常のヘビにみられる「蛇腹」がない』・『日本酒が好き』・『歯はすきっぱである』・『傾斜』地『を登る時は胴体の前部を支点に後部を左右に移動させながら登る』・『味噌、スルメ、頭髪を焼く臭い』を好む』等がある。以下、「名前」の項。『ツチノコという名称は元々京都府、三重県、奈良県、四国北部などで用いられていた方言であった。わら打ち仕事や砧(布を柔らかくするために、槌で打つ作業)の際に用いる叩き道具「横槌」に、この生物の形状が似ている、とされることにちなむ。東北地方ではバチヘビとも呼ばれ、ほかにもノヅチ、タテクリカエシ、ツチンボ、ツチヘビ、土転びなど日本全国で約』四十『種の呼称があり、ノヅチと土転びは別の妖怪として独立している例もある』。「歴史」の項。『縄文時代の石器にツチノコに酷似する蛇型の石器がある(岐阜県飛騨縄文遺跡出土)。また、長野県で出土した縄文土器の壺の縁にも、ツチノコらしき姿が描かれている』。記紀には『カヤノヒメ神の別名であり』、『野の神、主と書かれてある』。江戸末期に信濃国佐久郡臼田町の神官井出道貞によって書かれた信濃地誌「信濃奇勝録」(本書は天保五(一八三四)年の脱稿であるが、版行はされず、稿本として残され、約半世紀後の明治一九(一八八六)年に彼の孫に当たる井出通によって初めて出版された)の巻之一に『「野槌 のつち 漢名 千歳蝮」を記す。「八月の頃たまたま出る。坂道は転がって進む。人に害を成さない。和漢三才図会の説明とは異なる」と書き留めている』とある。『太平洋戦争当時の日本軍が捕獲し、軍の研究所で飼育』・『観察されていたとされるツチノコの話』があり、『不鮮明ながら、モノクロ写真とされる物も残されている』が、『死後』、『解剖された際の結論は、毒の成分から考えてニホンマムシの亜種だったと記されて』あるという。「各地の目撃談」の項。『十和田湖付近の山中で、体長約30センチメートルのツチノコらしき生物が目撃されている』。『茨城県土浦市がツチノコ捕獲地域として注目されており』、『山奥などでなく』、『町中での目撃証言が多い』。『多摩川で、上流から中流にかけて目撃情報が多発している』。『2008831日、千葉県白井市の田園地帯において水平に3メートルジャンプしたツチノコらしき生物の目撃情報が寄せられた』。『岐阜県東白川村は目撃証言が多く、全国でも有数の目撃多発地帯といわれ』、『捕獲賞金もかけられて』おり、『同村には日本唯一のツチノコ資料館である「つちのこ館」や、平成元年に建立のツチノコを祀った「つちのこ神社」もある』。『岐阜県美濃市の農道で、数ある目撃例の中でも巨大な、全長約2メートルの個体が目撃された』。文化六(一八〇六)年に書かれた鳥翠台北巠著の紀行『随筆「北国奇談巡杖記」に、ツチノコのものとされる話が以下のようにある。石川県金沢市の坂道で、通行人の目の前で横槌のような真っ黒いものが転がり歩き、雷のような音と光とともに消えた。これを目撃した何人かの人は毒に侵されたとされ、この坂は槌子坂と呼ばれたという』。これについては、所持する吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して以下に示す。

   *

   ○槌子坂の怪

おなじ城下、小姓町の中ほどに、槌子坂といへる、なだらかなるあやしき径あり。草しげく溢水[やぶちゃん注:「いつすい」。小流れから溢れた水。]流れて、昼もなにとやらんものきみあしきところなり。每に[やぶちゃん注:「ことに」。「殊に」の当て字であろう。]小雨ふる夜半など、たまたま不敵の人かよふに、ころころと轉[やぶちゃん注:「まろび」と訓じておく。]ありく物あり。よくよく見れば、搗臼ほどの橫槌あり。たゞ眞黑なるものにして、あなたこなたと、めぐりめぐりて、既に消なんとするとき、呵々と二聲ばかりわらひて、雷のひゞきをなし、はつ、と、光り、うせぬ。此怪を見たるもの、古より幾人もありて、二、三日、毒氣にあたり病ぬ。故に槌子坂とよびて、夜はおのづからゆきかひも薄らぎたり。いかさま古妖と見えて、むかしより人々の沙汰することなりき。

   *

『同様の怪異は、昭和初期の金沢の怪談集「聖域怪談録」にも記述がある』(この「昭和初期」というのは刊本出版のそれであろう。調べた限りでは、大聖寺八代藩主前田利考(としやす 安永八(一七七九)年~文化二(一八〇六)年)が武士に語らせた百一話を収録したもので寛政一一(一七九九)年に成立しているようである)。『新潟県小千谷市に、ツチノコの背骨といわれる物体が保管されている』。『兵庫県では、但馬地方に50件以上の目撃情報がある。香美町では「美方つちのこ探索隊」が結成されており、捕獲したツチノコを飼うための「つちのこ飼育庭園」も設置されている。千種町(現宍粟市)では捕獲に2億円の賞金をかけたこともあり、ツチノコの懸賞金としては過去最高額』とある。二〇〇四年六月には兵庫県美方町で『ツチノコ状のヘビが発見され、「ツーちゃん」の名で飼育されたものの、これは妊娠して胴が膨れ上がったヤマカガシに過ぎず、卵を産み落とすと普通のヘビとなってしまった』とのこと。『兵庫県多紀郡(現丹波篠山市)で、体長約50センチメートル、直径約10センチメートルの、サンショウウオに似たツチノコらしき生物が目撃された』。『20083月、奈良県の竜王山で発見された生物が、同年37日発行の東京スポーツの一面にツチノコではないかとして掲載された』が、『一部の学者はツチノコではなくヒルとの見方を示し』たYouTube のnozuchi2008の「奈良の未知生物こちらで画像が悪いが、当該対象の動画ヴィデオが見られる。明らかに大型の蛭(ヒル)である)。『2000521日、岡山県吉井町(現・赤磐市)でツチノコ状の生物が発見され、数日後にも同様の生物の死骸が発見された。ツチノコではないかと話題になったものの、川崎医療福祉大学の鑑定により』、『ヤマカガシと判明し、ツチノコになれなかったヘビとの意味で「ツチナロ」と命名された』。『徳島県で三好市をはじめとする県内全域で多数目撃されている』。『福岡県、特に朝倉市を中心とした大分県境付近に発見情報が多い。宮若市、築上町で一時、捕獲の噂が流れた』。『熊本県では、八代市から人吉市にかけての山間部に目撃談が多い』。『五島列島でも古くから目撃されている』とある。最後に「正体についての仮説」の項。『新種の未確認動物とする説』や『未発見の新種のヘビとする説』があり、『いくつかの特徴が』、『ヘビではなくトカゲであることを示しており、海外には実際に足が退化したヘビのような形態のアシナシトカゲが実在していることから、ツチノコも足が退化した未発見のトカゲの一種ではないかとする説』がある一方、『特定種のトカゲ類の誤認とする説』があり、『アオジタトカゲ』(有鱗目トカゲ亜目スキンク下目Scincoidea 上科トカゲ科アオジタトカゲ属 Tiliqua 。インドネシア・オーストラリア・パプアニューギニア原産。こりゃあ(同属ハスオビアオジタトカゲ Tiliqua scincoides の同属のウィキの写真。蛇・蜥蜴系がダメな人は自己責任でクリックされたい)、確かにそれらしいわな。)『を誤認したとする説。このトカゲは1970年代から日本で飼われるようになり、目撃情報が増加した時期に一致するとされている。アオジタトカゲには四本の小さな脚があり、読売新聞社によって撮影されたツチノコとされる生物にも脚があった。作家の荒俣宏は、流行の原因となった漫画』など『の影響で』、『脚がない姿が広まったと述べている。実際に、前述の岐阜県東白川村の隣町でツチノコと誤認された生物の正体がアオジタトカゲであった事例の報告もあり、同村では林業が盛んなため、海外から輸入された材木にこのトカゲが混入していたとの推測もある』とある。『マツカサトカゲ』(トカゲ科アオジタトカゲ属マツカサトカゲ Tiliqua rugosa 。オーストラリア原産。同属のウィキの画像。同前で注意)『を誤認したとする説。このトカゲは岐阜県の目撃談にもあり、四肢が草むらや胴体の下に隠れている姿がツチノコに近く、日本国内でも愛玩動物として飼育されている。このことから、野山に捨てられたマツカサトカゲが繁殖し、ツチノコと誤認されたとの説もある』。『ツチノコは尾が細いとされるのに対し』、『マツカサトカゲは尻尾が太い点が異なるが、古い絵図などでは尾が太く描かれている例もあるので何ともいえないところではある』。以下、『胴の短い種類の蛇の誤認とする説』として、二種を挙げるが、その比定種は毒蛇で、私は体型が似ているにしても、有力比定候補にはなり得ないと思うので載せない。寧ろ、その後に続く說の方が腑に落ちる。一つは『腹の膨れた蛇を誤認したとする説』で、『在来の蛇であるヤマカガシやニホンマムシなどが妊娠中で腹が膨らんだ状態となると、一見してツチノコのように見える場合がある』。次に、『大きな獲物を丸呑みして腹が膨れた蛇を誤認したとする説』で、『蛇は顎の関節が特殊な構造をしており、自分より大きな獲物を丸呑みする事ができる』とある。これでインキ臭い連中も文句は言うまい。

 以下、熊楠の本文注に入る。

 

「沙石集五卷三章に叡山の二學匠……」「沙石集」(鎌倉時代の仏教説話集。全十巻。無住一円著。弘安六(一二八三)年成立)の当該部の「學生畜類ニ生タル事」。後に長々と教訓をたれているが、そこは野槌とは無縁で、かったるだけなので、カットした。底本は一九四三年岩波文庫の筑土鈴寬(つくどれいかん)校注本を参考にしつつ、句読点・記号を追加し、読みは一部で〔 〕を用い、私が推定で歴史的仮名遣で追加してある。段落も成形した)。

   *

 山に二人の學匠ありけり。同法にて、年齡も、心操(こゝろもち)・振舞、萬(よろ)づ變らず。學問も一師の下にて、稽古しければ、殊に見解(けんげ)も、をなじ。何事につけても、同じ體なりける故に、二人契りて云はく、

「我等、一室の同法たり。萬づかはらず振舞へば、當來の生所〔せいしよ〕までも、同じ報〔むくひ〕にてぞあらむずらむ。先立つ事あらば、生所を必ず告ぐべし。」

と、能々〔よくよく〕たがひに契りぬ。

 一人、他界して、夢に告げて云はく、

「我は野槌(〔の〕づち)と云ふ者に生れたり。」

といふ。

 「野槌」といふは、常にもなき獸(けだもの)なり。深山の中に、希にあり、と云へり。形、大にして、目・鼻・手・足もなし。只、口ばかりある物の、人を取りて、食ふと云へり。

 是は佛法を、一向、名利のために學し、勝負・諍論して、或は瞋恚〔しんい〕を起し、或は怨讎〔をんしう〕をむすび、憍慢勝他〔きやうまんしやうた〕[やぶちゃん注:偉ぶって驕り高ぶっては人を見下し、自分が他の者よりも勝れていると思い込むこと。]等の心にて學すれば、妄執のうすらぐ事もなく、行解のをだやかなる事も、なし。さるままには、口ばかりは、さかしけれども、知惠の眼もなく、信の手もなく、戒の足もなきゆゑに、かかるおそろしき物に生れたるにこそ。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

「ムグラモチ」モグラ(鼹鼠・土竜)の異名。「ムグロモチ」が変化した語か。近世にはモグラをあらわす語としては「ウグロモチ」が一般的であった。「ムグラモチ」は、もともと江戸言葉で、近世前期には、田舎言葉と意識されていたが、近世中期に文化の中心が上方から江戸に移ったことに伴い、「ウグロモチ」に代わって用いられるようになった、と、小学館「日本国語大辞典」にあった。モグラ類の体型と、突如、出現するような印象はツチノコっぽくはある。

「大和にはさして希ならず」先の「ツチノコ共和国」も奈良県吉野郡下北山村である。

「丹波市近所に……」この野槌の丹波ケースは以下に示されるように、熊楠自身が、その一部始終を目撃した人物からの直接の聴き取りなのであるが、

――昔、野槌を捕獲して家の床下(ゆかした)に飼っていたことがある

――眼が小さい(「只今」は意味不明。或いは「距離的に近いさま」を言うことがあるから、両の眼がごく近くに並んでいることを指すか?)

――体全体は俵のようなずんぐりむっくりの太った短かいものであった

――握り飯を与えると、転がり来たって食うも、その行動は、呆れるほどゆっくりしていて、いかにも鈍(のろ)くさく、にぶい(「迂鈍」)

と異様な内容である。これは、しかし、野槌記載の中では、全くの作り話でないとすれば、超弩級に貴重なものと言える。そうして、ここから連想し得る実在動物はオオサンショウウオ(両生綱有尾目サンショウウオ亜目オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus しかいない。さらに、先のウィキの中にあった、『兵庫県多紀郡(現丹波篠山市)で、体長約50センチメートル、直径約10センチメートルの、サンショウウオに似たツチノコらしき生物が目撃された』という事例である。この「サンショウウオ」はそのサイズからオオサンショウウオでしかあり得ないのである。しかも、兵庫県丹波篠山市後川地区(この付近)や丹波市青垣町附近の加古川源流では、オオサンショウウオの棲息が現在、公的に確認され、保護活動が行われているのである。さらに調べると、『幼児期に』『ツチノコ』を『目撃し』、『その存在を確信』して、三十五『年間ツチノコ捕獲に情熱を注ぎ、今までに』四『度の目撃体験』があるとされる方のサイト「ツチノコで頭がいっぱい」のこちらに、『昭和三十七』(一九六二)『年秋、丹波の船井郡』(京都府のここ南西域外直近に兵庫の先の丹波地区がある)『や天田郡』(現在の京都府福知山市。やはり南で兵庫の丹波地区に接する)『の一帯で、農耕用の鋤を立てかけておく「鋤の床」という蒲鉾型の台によく似た、太く短い蛇が目撃されたという情報があった』とあり、その未確認生物の捜索に加わった現地の『Aさんはこの太短い蛇を「スキノトコ」と呼んだ。この地域でのツチノコの別称である。前述した鋤を立てかける蒲鉾型の台にツチノコの姿が似ているために』、『このような呼び名が冠せられたのだ』。『しかし』、『結果は空振りで』、『これといった収穫は皆無であった。ただし、丹波方面ではツチノコを「スキノトコ」と呼ぶという事が知れ』た『のは』、『ツチノコを語る上で大きな成果となったのである』とあった。さらに「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」には「鋤の床」「スキノトコ」が挙げられており、『丹波町須知』(しゅうち:京都府船井郡京丹波町須知。ここ)『に、鋤の床という怪蛇がいて、太く短く斜面を転がり、人畜を襲い、専念惟』(意味不明。「先年、惟(これ)」の誤字か?)『に当たって死んだ人がある』とあり、出典として山村民俗の会発行の『あしなか』(通巻九十六号・昭和四〇(一九六五)年二月)とあるのである。意地の悪い言い方だが、この「スキノトコ」は、本当に、近代或いは近世からの丹波の野槌の古くからの地方名だったのだろうか? もし、Aさんが「スキノトコ」という丹波産野槌(ツチノコ)を命名したのだとすれば、まさにこの噂話は、たった二年余りで、都市伝説化して怪物名としてまで完全に定着したことになる。だとすれば、「口裂け女」以前に遡れるアーバン・レジェンドの進化過程の一つとして、これほど明確な震源と遷移が判るものはそうないと思われる。

『大坂朝日か大坂每日の地方通信に、和泉の山中に此物有り、土俗「ノロ」と云ふと見えし』当該記事もこの異名も確認出来ない。

「當國日高郡川又」和歌山県日高郡印南町(いんなみちょう)川又

「田邊灣の沿岸堅田」和歌山県西牟婁郡白浜町堅田(かたた)。

「ノーヅツ」不詳。白浜町には西の三崎の西側に知られた熊野水軍所縁と言われる「三段壁洞窟」があるが、海食洞であるここを熊楠が「谷穴」と表現するとは思われない。

「面桶(メンツウ)」「ツウ」は唐音。一人前ずつ飯を盛って配る曲げ物。「めんぱ」「めんつ」とも呼ぶ。後には乞食が携帯する入れ物を指した。

「山本亡羊」(安永七(一七七八)年~安政六(一八五九)年)は江戸後期の本草家で医師。儒医の傍ら、本草学を小野蘭山に学び、京都本草学の中心として活躍し、自宅の読書室で教え、薬草園を作り、物産会を開いた。「百品考」は動物・植物・鉱物の形態・性質・用途等を判り易く記述した類書(百科事典)。天保九(一八三八)年跋。熊楠の示すのは、「百品考」の「下」の末尾に配された「蛟」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原刊本のこちら(嘉永六(一八五三)年版・PDF)の40コマ目から。その最後に和文(漢字カナ交り)で以下のようにある(カタカナを概ねひらがなに直し、句読点・記号を打った)。

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蛟は龍の屬なり。常有の物にあらず。然れども、諸書の所說に據て考へ見れば、本邦にて「ホラ」の出ると云を指して云なり。俗人、「ホラ」の名、同じきに依て梭尾螺(ホラガヒ)の山中に棲て、大風雨を興して海に飛入と云は謬說なり。梭尾螺は琉球海中に產する螺類なり。蜑戸[やぶちゃん注:「たんこ」。漁家。]の爲に採られて、肉を去り、吹物となる。風雨を起し、神靈ある者にあらず。蛟の「ホラ」は諸國共に稀にあることなり。大風雨ありて、山、崩れ、岩、裂て、山谷鳴動し、數十村を漂流沒すること、本邦にも、時時、此患あり。荒政輯要の說によりて、預め辟蛟の法を行なはば、救民の一助ならん歟。

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「荒政輯要」は清の汪志伊の撰になる、種々の凶作・防蝗・飢饉対策を述べた書。一八〇五年刊。

「東海道名所記」名所図会シリーズで一世を風靡した秋里籬島(あきさとりとう 生没年未詳)著の「東海道名所記」(寛政九(一七九七)年刊行)。

「今切の渡し」東海道舞坂(まいさか)宿(現在の浜松市)と新居(あらい)宿(湖西市)の間、則ち、浜名湖南部の開口部に架けられた渡船場。浜名湖から遠州灘に注ぐ浜名川には橋が架けられていたが、戦国期の地震と津波により、決壊していた。江戸時代、舞坂・新居間には渡し場が設けられ、新居関の役人の管轄下、新居宿の住人が船を運航した。渡し船の組織は中世の今川氏時代以来の伝統を有する「十二座」を基幹とし、船百二十艘を三百六十人の船頭が十二組に分かれて運営した。大通行時には「寄せ船」制度が適用され、周辺村々から船が供出された。明治一四(一八八一)年、架橋されて消滅した。しまむー氏のブログ「街道の行く先へ」の「舞坂宿と今切の渡し」(地図有り)に「東海道名所記」を引いて、

   《引用開始》

舞坂より舟にのるに、七つ時分よりまへには渡しあり、七つ時分過ればふねをいださずといふ、はやくのり給へとて、男と共にいそぎふねにとびのる、艫のかたひろくて、ゆるりとのりけり、船頭は舟に棹さし、櫓をたててをす、男たづねけるハ、いかに船頭殿このうミを今切と名付たるよしうけたまハりし、さだめて子細の侍べるやらんといふ、せんどうこたへていはく、むかしは山につづきたる陸地なりしが、百余年バかり以前に山の中より螺の貝おびただしくぬけ出て海へとび入侍べり、その跡ことの外にくづれて荒井の濱よりおくの山五里バかりひとつにうミに成たる故に、今切と申すなり

   《引用終了》

「倭漢三才圖會卷四十七にも、……」私の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部  寺島良安」から私の訓読文を引いておく(一部表記を修正した)。

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ほらのかひ 梭尾螺(ひびら)

寶螺   【俗に保良乃加比と云ふ。】

「本綱」に『梭尾螺の形、梭(ひ)のごとし。今、釋子[やぶちゃん注:僧侶。]、吹く所の者なり。』と。

△按ずるに、寶螺は、狀、海螄(ばひ)に似て大きく、白黃色、淺紫の斑有り。大なる者は一、二尺、小なる者、二、三寸。五、六旋、盤屈して、尾、窄(せば)く尖り、其の肉、淡赤。味、短(とぼし)く食はず。人、肉のやや出づるを待ちて、繩を以て、急に肉を縳り、則ち屋-檐(のき)に懸け、日を經(ふ)れば、螺、乾き、死し、殻、自ら脫す。之れを取りて、尾の尖りを穿(ほ)り、口を作り、之れを吹く。其の聲、嘹喨(りやうりやう)[やぶちゃん注:「喨喨」が正しい。音が明るく澄んで鳴り響くさま。]たり。最も大なる者を用ひて、本朝の軍噐と爲し、之を吹きて、先鋒の兵を進む。修驗行者(しゆげんぎやうじや)、毎(つね)に山行(やまぎやう)に之を吹きて、同行(どうぎやう)の導(みちび)きを爲し、且つ狸・狼の害を防ぐ。凡そ、地震に非ずして、山岳、暴(にはか)に崩(くづ)れ裂(さ)くる者(こと)有り。相傳へて云ふ、『寶螺、跳り出でて然り。』と。遠州荒井の今切のごとき者の處處に、大小の之れ、有り。龍か、螺〔ら〕か、未だ其の實(じつ)を知らず。

「夫木」 山伏の腰に付たるほらの貝ふくるをまゝの秋のよの月 行圓

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「寶螺」腹足綱新生腹足亜綱タマキビ型目ヤツシロガイ上科ホラガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis 

「螺類の化石露出するに據れるか。古え堅田に、山崩れて件の谷穴を成す際、異樣の爬蟲化石出しより、之を野槌蛇と心得て件の譚を生ぜしにや」ホラガイと山崩れの民俗については、俗信として、修験者の用いた法螺貝が、長年、深山幽谷に埋もれ、それが精気を得て、海中に戻り入る時、山崩れが起きる、という俗信があったようであるが、それがこんなに頻繁に発生するのは異常で、それでは説明がつかない。私の怪奇談では、例えば「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」や、「三州奇談卷之五 縮地氣妖」を見られたい(他にもある)。また、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 梵貝(ホラガイ)も参考になろう。さすれば、私は熊楠の推察する異形(に見える)古代の化石類を誤認したのではないかという説に極めて賛意を表したいのである。

「伴て」「つれて」。一緒に。

「ナイク、ペンス」以下の原本によれば、英語の綴りは「Naik Buns」。全長が六メートルにもなるヘビ亜目ニシキヘビ科ニシキヘビ属インドニシキヘビ Python molurus がモデルか。

「山羊兒」原文は「kids」だが、人身御供ではない。「kid」は原義が「ヤギの子」。

「徑り」「わたり」。胴の直径。

「踰ゆ」「こゆ」。

V.Ball, ‘Jungle Life in India,’ 1880, p. 491」アイルランド地質学者ヴァレンタイン・ボール(Valentine Ball 一八四三年~一八九五年)のそれは、「Internet archive」のこちらで当該部が読める。

「淵鑑類函卷四三九に、夷堅志を引て、南宋の紹興廿三年(近衞帝仁平三年)」(ユリウス暦一一五三年)「建康に現はれし豬豚蛇」(ちよとんじや)「の事を言るに自竹叢出、其長三丈、面大如杵、生四足、遍身有毛、作聲如豬、行趨甚疾、爲逐人呑噬之勢云々、嚙人立死とある」「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。「夷堅志」は南宋の洪邁(こうまい 一一二三年~一二〇二年)が編纂した志怪小説集。一一九八年頃成立。二百六巻。訓読すると、「竹叢より出づ。其の長(た)け三丈、面(つら)、大にして杵(きね)のごとく、四足を生ず。遍身、毛、有り、聲を作(な)すに豬(ぶた)のごとく、行(ゆ)き趨(はし)ること、甚だ疾(はや)く、人を逐(お)ひ、呑噬(どんぜい)するの勢ひを爲す云々、人、嚙まば、立どころに死す。」。

「本誌二八二號六六三頁以下に、出口君の論あり」「J-STAGE」の『東京人類學會雜誌』(第二十四巻二百八十二号・明治二四(一八九一)年十二月発行)の出口米吉氏の「我國に於ける植物崇拜の痕跡」PDF)。太字は底本では傍点「○」、太字下線は傍点「ヽ」。

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記に野神名鹿屋野比賣神亦名謂野椎神と記し、紀に草祖草野姫亦名野椎と記せるは、各其傳說の異なる者を記したる者にして、草神を考ふる上に大に注意すべき事とす。今記紀を案ずるに、共に山には山の神あり、木には木の神あるを以て、野には野の神あるべく、草には草の神あるべき譯なり。然るに、記には唯野の神のみを擧げ、紀には唯草の神のみを擧げたり。而して其野の神といふ者草の祖といふ者、共に其名稱を全しうするは何等か其所以なかるべからず。先づ野椎の名稱の意義を尋ぬるに、ヌウチツチは、記傳に依れば、狹土、迦具土、御雷、裁名椎、手名椎などのツチと仝じく、ツチは助辭にては久々能智などのと同じく、尊む名にして、野椎とは野の智と云ふが如しとなり。然れば草野姬は草靈あること其名の示す所にして、野植亦野神を意味すとすれば、此等の二の名は、元來異る二の神に屬すべき者にして、一神の兼有すべからざる者なるなり。又若しかヤヌヒメヒメを以て女性を示し、ヌッチを以て男性を示すとすれば、此神は一神にして男女兩性の名を有するなり。依て按ふるに、民間信仰に於て、異なる神祇の間に合同を見るは珍しからず。殊又野と草との如き其關係深き者の間に於ては、甚生し易き變化なり、則ち始は野の神を野椎、草の神を鹿屋野姬と定めて崇めたりしを、後に至りて二神の間に合同生し、或は野の神に草祖の名を併せ稱し、或は草の神に野の神の名を併せ稱したりと解すれば、其所以甚明了なるが如し。果して然りとすれば、草靈野神の合同は、我古代に於て、諸種の神祇に關する傳說を組織的に編成せし時に、既に完了したるものなり。此合同は野神と草祖との間に生ぜしのみならず、山神と木神との間にも既に生じつゝありしが如し。神武紀に薪名爲嚴山雷草名爲嚴野稚と云へり。猶大嘗祭儀式に木草を探る爲に山神を祭る事あり、材木を伐る時に、山に祭とて、山神を祭る事あり、中古ヤマビココダマの同一視せらるゝ事などは、皆山神木神の合同を語るものなり。されば後世大工建具師等材木を取扱ふ者は、十一月に山神を祭りたるなり。さはいへ、後に於ても山神と木神との區別を立て、之を並へ祀りたることもあり。大神宮式に、凡操神田盤鍫柄者、毎年二月、先祭山口(山神)及木下(木神)然後操ㇾ之と云ひ、臨時祭式に、造遣唐使船木靈並山神祭と見えたり。畢竟野神と草神との合同は、比較的完成に進み、山神と木神との合同は、比較的散漫なりしと見るを得べし。[やぶちゃん注:以下、延々続くが、略す。必要となら、リンク先を見られたい。]

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「古事記傳五に、和名抄、水神又蛟を和名美豆知と訓せり、豆(ツ)は之(ノ)に通ふ辭、知は尊稱にて、野槌等の例の如しと有れば」「古事記傳」は本居宣長の「古事記」全編に就いての全四十四巻から成る註釈書。明和元(一七六四)年起稿で、寛政一〇(一七九八)年成稿を脱稿したが、版本としての刊行は寛政二(一七九〇)年から宣長没(享和元(一八〇一)年十一月)後の文政五(一八二二)年にかけて板行された。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「古事記傳」(向山武男校訂・昭和五(一九三〇)年名著刊行会刊(左ページ十二行目から現れる。「闇淤加美(クラオカミノ)神」の注釈部)。一部の送り仮名を本文に繰り入れて電子化し、漢文表記は訓読し、句読点を追加した。読みは総てカタカナであるが、私の判断で漢文体訓読部などでひらがなにした箇所がある。鍵括弧も添えて読み易くしておいた。

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[やぶちゃん注:前略。]「美」は龍蛇の類の稱なり。「和名抄」に水神又蛟を、和名美豆知(ミヅチ)とある美(ミ)これなり。〔「豆(ツ)」は例の「之(ノ)」に通ふ辭、「知(チ)」は尊稱にて、野椎(ノヅチ)などの例のごとし。〕又蛇(ヘミ)・蛟(ハミ)などの「美(ミ)」も此なり。又日讀(ヒヨミ)[やぶちゃん注:暦。]の「巳」を「美(ミ)」と訓るも、此意なるべし。さて此神を、書紀に「龗」と書て、此を「於箇美」と云とあり。〔龗は、字書を考るに、龍也とも注し。又靈の字とも通ふなる。〕「豐後國風土記」に球珠(くまの)郡球覃鄕(くたみのさと)は、此の村に泉有、昔、景行天皇行幸の時、奉膳部之人(かしはぢ)、御飯令(おほみけ)の擬(そな)へに泉水(いづみ)を汲ましむるに、卽、蛇龗(おかみ)有りき、〔龗、箇美と、[やぶちゃん注:この部分、『龗於箇美、』と返り点のみあり、訓読不詳。仮に読んでおいた。武田祐吉氏はここをおかみと謂ふ』と訓じている。]〕〕於是(ここ)に、天皇、「必ず、臰(くさ)、有からむ。な汲-用(くま)せそ」と、勅-云(のりたま)ふ。斯に因て曰を「臭泉(くさいづみ)」と名(い)ふ。因(やが)て名(な)と爲(し)き。今、球覃鄕(くたみのさと)と謂ふは、訛(よこなは)れるなり。〔此の文、「書紀釋」に引るは誤字多し。今は仙覺が「萬葉抄」に引るを引り。〕「萬葉」二〔十二丁〕に「吾崗之(わがをかの)、於可美爾言而(おかみにいひて)、令落(ふらせつる)、雪之摧之(ゆきのくだし)、彼所爾塵家武(そこのにちりけむ)」。これら思ふに、此の神は龍(たつ)にて、雨を物する神なり。書紀に高龗(タカオカミ)と云もあり。そは山の上なる龍神(タツカミ)、この闇淤加美(クラオカミ)は谷なる龍神(タツガミ)なり。〔此神に、手俣(タナマタ)より漏出たる血の成れると、下なる闇(クラ)山津見の陰(ホト)より成れるとを思ふべし。手俣(タナマタ)も陰(ホト)も山に取ては谷のごとし。〕神名帳に意加美(オカミ)の神の社處々見ゆ。[やぶちゃん注:以下略。]

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この部分、個人的には非常に興味深く、面白く読める。

「日本紀によれば、諾册二尊日神を生み玉へる前に、野槌を生めり」「日本書紀」巻第一の「神代上」の第五段の本文に、

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次生海。次生川。次生山。次生木祖句句廼馳。次生草祖草野姫。亦名野槌。

(次に海(わた)を生みたまひ、次に川を生みたまひ、次に山を生みたまひ、次に木祖句句廼馳(きのおやくくのち)を生みたまひ、次に草祖草野姫(かやのおやかやめひめ)を生みたまひき【亦の名は野槌(のづち)。】。)

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と出る。

「鈴鹿連胤の神社覈錄」鈴鹿連胤(すずかつらたね 寛政七(一七九五)年~明治三(一八七一)年)は江戸後期から明治にかけての国学者。代々、京都吉田神社の神職で、国学を山田以文(もちふみ)、和歌を香川景樹に学んだ。吉田神社社殿の再建や皇陵の調査に当たり、後に著述に専念した。「神社覈錄」(じんじゃかくろく:「覈」は「調べる・明らかにする・考える」の意)は明治三五(一九〇二)年刊で、「延喜式」所載の式内社及び式外社について、祭神・所在地・鎮座の年次・神位・由来などを考証して記したもの。また、諸国の国内神名帳も併載されている。

「加賀國加賀郡に野蛟神社二ケ所在り、一は金山彥命を祭り、一は高皇產靈尊等三神を祭る」国立国会図書館デジタルコレクションの同書(明治三五(一九〇二)皇典研究所刊)のこちらと、次のコマのこちら(巻三十七の「加賀國式社 附錄式外神」の内)にある。電子化しておく。

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野蛟神社

野蛟は乃都知と訓べし○祭神金山彥命【神社帳】○蚊瓜村赤濱に在す、例祭 月 日、○當郡兩社あり[やぶちゃん注:頭注に「印本野蚊に作る今一本以呂波字類抄等に據て改む」とあるが、実は現存する神社(後述)との関係から考えると、「野蚊」が正しいようである。]

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野蛟神社

野蛟は前に同じ○祭神高皇產靈尊、猿田彥大神、事代主命、【神社帳】○神谷内村に在す、例祭 月 日、○當郡兩社あり

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例祭月日の欠字はママ。前者は「石川県神社庁」公式サイトの「野蚊(のが)神社」の解説によれば(地図有り)、金沢市蚊爪町ロ148に現存し、『当社は元東蚊爪町の須岐神社の境内に在りしを元和3』(一六一七)年に『須岐神社』の『赤浜八幡社地移転に伴い』、『本町に移転遷座し、爾来』、『加賀爪社としたるを明治29』(一八九六)『年8月』、『現社名に改称した』とあるのが、それである。そこでは野蛟神社との関係性には一切触れていない。後者は、同じく「石川県神社庁」公式サイトの解説によれば、現在、金沢市神谷内町ヘ一(に現存し(但し、以下に見る通り、地区内で移転している。地図有り)、野蛟(ぬづち)神社と呼称しており、『今を去る、約1,300年前の天平4年(旧暦33日)に創建と伝わる古社の一社です。当時神谷内を中心に付近一帯に疫病が流行し、毎日のように住民が病に倒れ、亡くなる人も大勢いたそうです。そうした時に、白髪の老人が現れ『自分の言う通りに従えば、衆人一切を救ってしんぜよう。』と言うので、住民は老人の教えの通りに行ったところ、不思議にも病気が治ってしまったそうです。そこで、老人は『吾は、ヌヅチの神である、以後祭祀(さいし)(イツキマツルこと)せよ。』と言い残し、手に持つ杖を地面に突き刺すと、空がにわかに曇ると同時にアマレリ《龍のことか?》が現れ、老人を乗せ天上雲間に消え去ったそうです。そこで住民はその地に神社を創建して、祀(まつ)ったのが、野蛟神社の起こりであると伝えられている。後に、聖武天皇(天平8年)全国的に痘瘡がはやり、当社に祈願して、これをくい止めることができ、それより朝廷からの勅使の参拝があり、以降に痘瘡が流行する毎にご加護があったそうです。その後、社頭は老廃し、幾多の変遷を経て現在の地に移る。神仏混淆の時代毘沙門(多聞天)と称したので、付近の小川を毘沙門川と言ったそうです』。『神社名の野蛟を素直に読むと「のづち」となりますが、神谷内のお宮さんでは『ぬづち』と呼ばれています。ヌヅチの「ヌ」は野原の「ノ」と沼の「ヌ」とを合わせた意味であり、「ヅチ」は何々の霊という意味で【野と水の霊】を示すため『ヌヅチ』と読ませたものと考えられるとともに、神社由緒の白髪の老人の言葉とも合ってきます。古来この地域は、河北潟と地続きで沼地も傍あたりまで続いていたものと考えられるので、その【野と水の霊魂】が住民を救ったと素朴に考えたものと思うのが適当であろう』とあり、『また、神谷内には「うわの」と呼ばれる所に野蛟神社が有ったそうで、その上り口には「赤鳥居」があった、(現在は境内入口にありますが、)前田の殿様が参勤交代で神社の前を通るときには、必ず駕籠・馬より降りて、神社へ参拝されたと伝わっています。その街道には見事な老松が偉観を誇っていたそうです』とある。しかし、『古来この地域は、河北潟と地続きで沼地も傍あたりまで続いていたものと考えられる』という叙述からは、前者の野蚊神社(旧地も河北潟域内で、野蛟神社とは五キロも離れていない)との関係性があってもおかしくはない(というより、関係性はあったと考えるべきであろう)。

『下總國に蛟蝄神社有り「ミヅチ」と讀む、水神罔象女を祭る』これも「神社覈録」の巻二十五の「下總國式社 附録式外神)の末尾にある。

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蛟蝄神社

蛟蝄は美豆知と訓べし○祭神埴山姬命、罔象女命、【地名記】○布川庄立木村に在す、【同上】今文間兩社大明神と稱す、例祭 月 日、○惣國風土記[やぶちゃん注:「日本惣國風土記」。諸国地誌であるが、古風土記に仮託した後世の偽書である。]百一殘缺云、蛟蝄神社、圭田三十九束三畝田、所ㇾ祭罔象女也、天平二年[やぶちゃん注:七三〇年。]庚午六月、始奉圭田、神事式祭等始也、

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蛟蝄(こうもう)神社は茨城県北相馬郡利根町立に現存する。「罔象女大神」は「みつはのめのおおかみ」と読み、水を司る女神。公式サイトの解説に、『蛟蝄神社の始まりは、約2300年前(紀元前288年)に現在の門の宮(かどのみや)の場所に水の神様の罔象女大神を祀ったのが始まりといわれています。698年に土の神様の埴山姫大神を合祀(ごうし)し、水害や民家が近いという理由で詳しい年代は分かっておりませんが』、『社殿を東の高台(現在の奥の宮)に神社を建てました。門の宮を取り壊すはずでしたが』、『氏子崇敬者の声が上がり、御祭神の御魂(みたま)を分祀し』、『門の宮にお祀り致しました。明治42年(1909年)に立木地区にあった「八坂神社(やさかじんじゃ)」「天神社(てんじんじゃ)」「稲荷神社(いなりじんじゃ)」「八幡神社(はちまんじんじゃ)」を合祀して現在もなお一層の御神徳(ごしんとく)をもって下総國相馬の郷を見守っておられます』。『「みつち=こうもう」の名に由来は諸説ありますが、はるか昔この辺りが海であったころの大地の形が蛟(みつち=伝説上の龍)に似ていたためといわれております』とあって、『当社の社名は一般的には』「こうもう神社」と『親しまれておりますが、ご祈祷のときの祝詞奏上では蛟蝄神社は「みつちのかむやしろ」と申し上げております』とあるから、熊楠の読みは正統である。

「原と」「もと」。

『希臘の大地女神「ガイア」の子に、怪蛇「ピゾン」有り』ギリシア神話の女神にして天を含む地母神であるガイアの多数の子の一人であるピュトン(ラテン語:Python)。巨大な蛇の怪物で、雄蛇とも雌蛇ともされ、絵画などでは脚のないドラゴンのような姿で表わされることもある。神託所デルポイを守る番人で神託所をすっぽり巻ける巨体を持つともされた。後にアポローンによって倒された。ニシキヘビ(ヘビ亜目ムカシヘビ上科ニシキヘビ科 Pythonidae)を意味する英単語「python」(パイソン)は、彼の名に由来するものである。

「Seyffert. ‘A Dictionary of Classical Antiquities,’ London, 1908, p. 531.」ドイツの古典文献学者オスカル・セイフレット(Oskar Seyffert 一八四一年~一九〇六年)の編になる古典語・古代語辞典。一八九一年初版(ドイツ語)刊。「Internet archive」のこちらで、英文版が読める。右ページの「P」の最後の項である。

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   Pȳthōn. A monstrous serpent produced by Gæa, which haunted the caves of Parnassus. It was slain by Apollo with his first 1 arrows. (See APOLLO and DELPHIC ORACLE.)

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『類聚名物考卷三三七に、野仲「ノヅチ」、文選の訓に云り、其義註にも詳かならず、張平子殪野仲而殲遊光(ツキガミ)註、野仲遊光惡鬼也、兄弟八人常在人間、作怪言とあれば』「作怪言」の「言」は初出もママであるが、原拠を見るに、「害」の誤り(平凡社「選集」は訂されてある)。訓読しておくと、「張平子、野仲(やちゆう)を殪(たふ)して遊光(ゆうくわう/つきがみ)を殲(ほろぼ)す。註に、『野仲・遊光は惡鬼なり。兄弟八人、常に人間(じんかん)に在りて、怪害(くわいがい)を作(な)す』と」。山岡浚明(まつあけ)の「類聚名物考」は「鶺鴒」パートで既注。但し、巻号は「三百三十八」の誤り。同巻の「雜部十三」の「靈鬼 妖怪」の以下。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認した(右上段中央)。表記の一部に異同がある。

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野仲 のづち ●文選の訓にいへりその義注にも詳ならす○〔文選〕東京賦張平子野仲而殲游光(ツキカミ)○注、野仲游光惡鬼也、兄弟八人、常在人間恠害

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「張平子」は後漢の政治家にして、多岐に亙る分野で優れた文人でもあった張衡(七八年~一三九年)の字(あざな)。一〇七年に、太平無事の世に王侯以下が奢侈を貪るのを憂え、班固の「両都賦」に倣って、当世の洛陽を描いた「東京賦」と、長安を描いた「西京賦」を著した。

「象皮病」ヒトのそれは、リンパ液の鬱滞によって皮膚及び皮下組織が厚くなり、ゾウの皮膚のような状態を呈する慢性皮膚疾患。主に下肢に好発し、次いで陰嚢・大陰唇に多く見られる。糸状虫症(フィラリア症。filariasis)から移行するものと、その他の疾患による続発性疾患とに分けられる。カによって媒介されるバンクロフト糸状虫(線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱旋尾線虫目旋尾線虫亜目糸状虫上科糸状虫属バンクロフト糸状虫 Wuchereria bancrofti )が原因となるものは、熱帯及び亜熱帯地方に多く、糸状虫性象皮病或いは熱帯性象皮病とよばれる。日本では嘗て沖縄・九州南部に一種の風土病として見られ、俗に「くさふるい」(歴史的仮名遣「くさふるひ」)と呼ばれていたが、現在は根絶されている。真正の糸状虫症は、まず、下肢や陰嚢に発赤腫脹として現われ、同時に発熱・頭痛・腰痛・関節痛などを伴う。この症状は数日で軽快するが、反復して発症するうちに、象皮病へと移行する。糸状虫に拠らない慢性潰瘍・慢性炎症性疾患・再発性丹毒・腫瘍及びリンパ節摘出などに続発して発症するものを続発性象皮病と呼んで区別するが、それらも糸状虫症と同じくリンパ液の鬱滞に起因する。

「無脚蜥蜴に“Uropeltidae”の一群あり」現在はへビ類に分類される、ムカシヘビ上科ミジカオヘビ科 Uropeltidae八属五十四種が現生するが、インド・セイロンに分布し、本邦にはいない。学名はギリシャ語の「ura」(「尾」)と「pelte」(「盾」)に由来し、尾の先端に大きな角質の盾を持つことによる。グーグル画像検索「Uropeltidae」をリンクさせておく(蛇嫌いはクリックしない方がよろしい)。

Tennent, ‘The Natural History of Ceylon,’ 1861.  p. 302 圖有り」イギリスの植民地管理者で政治家であったジェームズ・エマーソン・テナント(James Emerson Tennent 一八〇四年~一八六九年)のセイロンの自然史誌。「Internet archive」のこちらで、原本の挿絵(まさに先の属の一種でキャプションには「THE UROPELTIS PHILIPPINUS」とある。これは現在の Rhinophis saffragamus のシノニムである)とともに視認出来る。蛇の大丈夫な方は「The Reptile Database」の「Rhinophis saffragamus KELAART, 1853」の画像を見られたい。尾の部分の断ち切られたような楯状形状がよく判る。

「本邦稀に兩足の蛇を出し、兼葭堂雜錄等に其圖を載す」「兼葭堂雜錄」江戸後期の博物学者で南画家でもあった木村蒹葭堂孔恭(こうきょう:元文元(一七三六)年~享和二(一八〇二)年:大坂で酒造業、後に文具商を営む傍ら、奇書珍籍・書画骨董・標本類の収集に努めた。絵は黄檗僧鶴亭や池大雅らに学んだが、寧ろ、博学の好事家として全国に名が知られた)著で安政六(一八五九)年刊。各地の社寺の蔵する書画器物や見聞した珍しい動植物について考証し、人から聞いた珍談奇説などを書き留めた原稿を、著者没後に子孫の依頼を受けた大坂の知られた著述家暁鐘成(あかつきかねなり)が整理抜粋し、刊行したもの。池大雅の印譜や下鴨神社蔵の三十六歌仙絵巻などの珍品が紹介されており、松川半山筆の多くの挿画は、なかなかに見ごたえがある。指示するそれは、二之巻の「紀伊國異蛇之圖」。国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認し(句読点を打ち、読みは一部に留めた)、当該の画像もそのままトリミングせずに示す。

   *

○宝曆五年亥の夏、紀州在田郡湯淺に於(おいて)、奇(あや)しき蛇を捕ふ。其形、凡、蛇(くちなは)に似て、色、黒く、身、肥(こえ)、勢(いきほひ)壯(さか)んなり。長(たけ)六尺三寸、圍(まはり)七寸二足あり、指は猬(けはりねづみのみのけ)毛のごとく、尾末(をのすへ)は、角のごとく突(とがりて)、剌(はり)あり。舌は獸(けもの)の舌のごとし。木草綱目に、千歳蝮(せんざいへび)といひて、四脚(よつあし)のもの有といへども、二足の蝮(へび)は更に載(のせ)ず。竒(き)といふべし。

 

Yuukyakujya

 

   *

「宝曆五年亥」乙亥(きのとゐ)。一七五五年。「在田郡湯淺」和歌山県有田郡湯浅町

「レヲ・アスリカヌス」レオ・アフリカヌスの誤り。レオ・アフリカヌス(Leo Africanus 一四八三年?~一五五五年?)の名前で知られる、本名をアル=ハッサン・ブン・ムハンマド・ル=ザイヤーティー・アル=ファースィー・アル=ワッザーンという、アラブの旅行家で地理学者。「レオ」はローマ教皇レオⅩ世から与えられた名で、「アフリカヌス」はニック・ネーム。

「アントランテ山」初出も平凡社「選集」も「アトランテ」とするので誤植らしい。これは、「Atlantes」で現在のアトラス山脈のことであろう。アフリカ大陸北西部のマグリブにある褶曲山脈。サハラ砂漠と地中海・大西洋の海岸部とを劃しているが、古代からヨーロッパ人に知られ、ギリシア神話のアトラスの郷土ともされる。

「Ramusio, op. cit., tom. i. fol. 94」先の「海豚」に出たジョヴァンニ・バティスタ・ラムージオ(Giovanni Battista Ramusio  一四八五年~一五五七年)の「航海と旅行」。

「Lacroix, ‘Science and Literature of the Middle Ages,’ London, N. D., p. 221. 有圖」「鶺鴒」で注したフランスの作家で複数のペンネームを用いた作家ポール・ラクロワ(Paul Lacroix 一八〇六年~一八八四年)が書いた「中世の科学と文芸」。Internet archive」のこちらで、原本のドラゴン三体の挿絵とともに見られる。画像キャプションは「Fig. 162. — Dragons. — After Miniatures in the “Book of the Marvels of the World.”— Manuscript of the Fourteenth Century. — National Library, Paris.」とある。

「龍の歩行頗る迂鈍にして、大雨の時谷に落て多く死すと、何か中古の欧州書で見たるも、今其名を記せず」如何にもしょぼくらしいドラゴンの話、原拠が知りたい。

Tozer, ‘Researches in the Highlands of Turkey,’ vol. ii.p. 293 seqq., 1869」イギリス人作家で古代地理学者でもあったヘンリー・ファンショー・トーザー(Henry Fanshawe Tozer 一八二九年~一九一六年) の作品。「Internet archive」のこちらの原本の右手。熊楠の言う「ドラコス」(Drakos)が語られてある。

「攷合すべし」「かんがへあはすべし」。

 

 さても、ここまで注してきたので、何となく、心残りな資料があるので、熊楠ではないが、幾つか追加しておく。一つは、現在知られているところの、最古のツチノコの絵入記載とされて、先のウィキの引用にも出た、江戸末期に信濃国佐久郡臼田町の神官井出道貞によって書かれた信濃地誌「信濃奇勝録」(本書は天保五(一八三四)年の脱稿であるが、版行はされず、稿本として残され、約半世紀後の明治一九(一八八六)年に彼の孫に当たる井出通によって初めて出版された)の巻之一の「野槌」である。国立国会図書館デジタルコレクションの明治二十年四月の刊本の当該部の画像を視認して電子化する。小さな挿絵も添える。これは初出記事として特異的にそのままで示す。

   *

     野 槌(のつち)  漢名千歳蝮

馬篭(まこめ)より妻篭(つまご)の間に一石峠(いちこくたふげ)とてわつかの嶺あり此山中に㙒槌と云ふ物あり八月の頃(ころ)たまたま出るといへとも稀(まれ)にして見るのみ少し形(かたち)蛇(へび)の如く中太(ふと)らかにして大小あり大なるは長一尺二三寸太さ一尺𢌞(まは)り行るも蛇のことし岨(そは)坂を橫きるときは轉(まろ)ひ落て行事ならす敢(あへ)て害(がい)をなす事なしといへり三才図會(つゑ)に吉野の奥に此物ある事をしるす此説に異(こと)なり

 

Noduti

 

   *

「一石峠」は現在の長野県木曽郡南木曽町吾妻にある、一石栃白木改番所(いちこくとち しらきあらためばんしょ)跡附近から同住所の一石栃立場茶屋の間辺り(グーグル・マップ・データ航空写真)かと思われる。この図はまさにツチノコの正統的それである。

 次に、江戸後期の医者で紀行家であった橘南谿(たちばななんけい 宝暦(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行記「西遊記」(寛政七(一七九五)年初版刊行後、三年後には続篇も書いている。「東遊記」と合わせて、優れた奇事異聞集となっている)の、巻之一に続けて出る怪蛇譚で、前者は呼称から見ても野槌である。後者は野槌とは無縁だが、併せて引いておく。以下に、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本PDF・第一巻)を視認(78コマ目)して示す。読みは一部を除き、除去し、記号を追加し、段落を成形した。踊り字「〱」は正字化した。

   *

     榎木の大虵(だいじや)

 肥後國求麻郡(くまごほり)の御城下、五日町(いつかまち)といへる所に、知足軒といふ小菴あり。其庵の裏は、すなはち、求麻川なり。其川端に大なる榎木あり。地より、上、三、四間程の所、二またに成りたるに、其またの間うつろに成りゐて、其中に年久敷、大虵、すめり。

 時に、此榎木のまたに出るを、城下の人〻は、多く、見及べり。

「顔を見合すれば、病む事ある。」

とて、此木の下を通るものは、頭(かしら)をたれて通る。常の事なり。

 ふとさ、弐、三尺まはりにて、惣身、色白く、長さは纔(わづか)に三尺餘(よ)なり。たとへば、犬の足のなきがごとく、又、芋虫によく似たり、といふ。

 所の者、是を「壹寸坊虵(ばうへび)」と云。昔より人を害する事はなしと也。も每度、其榎木の下にいたり、うゞひ見しかど、折あしくてや、ついに、見ざりき。

   *

     猪(い)の狩倉(かぐら)の大虵

 是も予が遊びし前年の事なりし。求麻の城下より六里ばかり離れて、「猪の狩倉」といふ所あり。此所の百性、弐人、山深く木こりに入りしに、其ふとさ、四斗桶(とおけ)ばかりにて、長さ、八、九尺ばかりなる大蛇、草のしげれる間より、

「さは」

と出て、追(おい)來る。

 のがれ得べうもあらざれば、弐人とも、取てかへし、木こる那刀(なた)もて、命をかぎりに働(はたらき)しに、つゐに、大虵を打殺しぬ。

 この事、が求麻(くま)にいたりし頃、いまだ半年斗の後なれば、

「右の打殺せし所に、いまだ、骨は朽(くち)殘り、其時の俤(おもかげ)をも見つべければ、いざや、行て見ん。」

と、求麻の本艸者右田助右衛門、誘ひしかど、もはや、蚺蛇膽(ぜんじやたん)は腐りぬべし、骨のみ見る事も、益なし。

「是ばかりの大さの蚺虵は、此邊にては、めづらしからず。」

とて、等閑(なをざり)に打過しぬ。

 此蛇も榎木の虵と同種類なるべし。かく短く太き蛇もあるものにや。

 蚺虵膽、蚺虵骨、皆、醫家(いか)の珍重する竒藥なり。いまだ是までに其眞物(しんぶつ)を見る事をだも得ざれば、膽・骨ともに得たくて、右田をも、すゝめしなり。今にておもへば、独りにても行て見るべき事を、彼地の人〻の、とかくめづらしがらざるにて、それに聞なれて、もあまり珍竒の事にも思ひ取らで等閑(なをざり)に打過せしなり。かへすがへすも残り多き事なりぬ。

   *

所持する岩波の「新日本古典文学大系」版では、最初の話は「求麻郡相良壹岐守御城下」となっている。これは熊本県人吉市麓町にある人吉城のことで、「五日町」はここで、文字通り、城の南西で球磨川を挟んだ対岸である。岩波の宗政五十緒(いそお)氏の脚注によれば、南谿が来訪したのは天明三(一七八三)年二月上旬で、凡そ五十日滞在している。「壹寸坊蛇」(いっすんぼうへび)に宗政氏は注して、まさにこれを「野槌蛇(のづちへび)」とされた上、『深山の木の洞に居り、大きいものは直径五寸(一五センチ)長さ三尺(九〇センチ)に及ぶ。頭と尾とが均等で、尾が尖らず、槌の柄のないのに似ているので、俗に野槌と呼ぶ。大和吉野の山中、菜摘川清明の滝のあたりで往々見られる。口は大きく、人の脚をかむ。坂より走り下るのははなはだ速く、人を追う。しかし、登り行くのは極めて遅い。ゆえに、これに出逢うと急に高い処に登るとよい。追い付くことができない(和漢三才図会四十五・野槌蛇)。つちのこ』とバッチリ特定されているのである。二話目の「猪の狩倉」は熊本県球磨郡湯前町(ゆのまえまち)で、宮崎県との県境に近く、字(あざ)で猪鹿倉山(いのかくらやま)が地名にある。この付近がロケーションか(国土地理院図)。「那刀(なた)」鉈。「蚺虵膽」宗政氏の注を引く。『蚺(ぜん)は蚦(ぜん)の俗字。蚦蛇は、にしきへび。その胆は薬用に供され、よく痛みを止めるという。にがみの中に甘昧があり小毒がある。形状は鴨の卵ぐらいの大きさ』で、月の『上旬には頭に近く、中旬には心臓に近く、下旬には尾の近くに在る』(これは本草でしばしば各種の動物の胆について言われる体内移動である)。『小児の五疳(かん)八癇(かん)を治し、目を明らかにする(和漢三才図会四十五。蚺蛇)』とある。私の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「※1蛇(うはばみ)」(※1=「虫」+「冉」。作成が十二年前で当時は表記出来なかった。悪しからず)を見られたい。

 さて、最後となった。

 凡そ、野槌は、どの記載を見ても、一貫して本邦独自の妖蛇として扱われるのであるが、果して、そのオリジナル・ナショナリズムを無条件に受け取ってよいかどうかという点で、私は若干の躊躇を感ずる。それは、記紀神話に出るからと言っても、それが現在知られているような、ずんぐりむっくりの蛇(或いは蛇形)となったのは、かなり近世も終わりになってからのように思われるからである。確かに、本邦生まれの妖怪「口だけ」みたような妖獣はいたのかも知れぬ。しかし、本草研究が進むうちに、強力な圧を以って中国の伝奇・志怪小説及び本草書が流入した中で、そこには中国伝来の怪蛇の要素が色濃く浸潤したのではないかと思われるからである。これは私が嘗て「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」を手掛けた際の強い感想でもあったのである。さすれば、このトリには御大荒俣宏氏に登場を願うこととする。以下は荒俣氏の「世界大博物図鑑3 両生・爬虫類」(平凡社一九九〇年刊)の「毒ヘビ」項の「千歳蝮」の条である(ピリオド・コンマは句読点に代えた)。既に述べたことと、かなりダブるが、カットせずに引く。

   《引用開始》

【千歳蝮】《本草綱目》に、千歳蝮という名で、毒をもつ爬虫類を思わせる生物が記載される。蝮に似て短く、4本のあしがあり、跳ねて人を咬む。咬んだ後、たちまち木に跳ねあがるが、このとき〈斫木(チユオム)、斫木(チユオム)〉[やぶちゃん注:より正確に音写するなら「ヂゥオムゥー」。]と鳴くものならまず助からないが、〈博叔(ポシユ)、博叔(ポシユ)〉[やぶちゃん注:より正確に音写するなら「ポォーシゥー」。]と鳴くものなら手当てしだいで助かるかもしれない。ただし敏速に処置しなければ意味をなさない。《字林》には、トカゲ形の睩聴(ろくちょう)が魏興(陝西省)に出るとある。この動物は人を咬んだ後、樹上で頭を垂れ、咬まれた人が痛みに叫ぶ声を聞いてから立ち去るという。おそらく千歳蝮と同じ動物を指したものだろう。もちろん北米産の毒トカゲではありえない。木村重、上野益三両氏の考定によれば、やはりハブの一種の風聞が伝わったものらしい。

 ちなみに《重訂本草綱目啓蒙》では、千歳蝮が何を指すか不明だが、信州戸隠山中に同様の動物がいると述べられる。山中の神社の奥に大きな松の木があるが、6月ごろになると4尺ほどのトカゲに似たヘビがあらわれる。土地の人はヤマカガシとよんでいる。人の声がすると、後ろの2本あしで立って、人が来るのを待っているという。

 また日本にも千歳蝮がいたとする記録がある。《和漢三才図会》の一文だが、同時にツチノコの原型と思われる。それによると〈野槌蛇〉は深山の木の穴のなかにいて、大きいものは直径5寸、長さ3尺。頭、尾は均等で尾はとがっていないので、柄のない槌(つち)に似ていることから名がついた。大和の吉野山中でみかけられる。口は大きく人の足に咬みつき、坂を走り下って、たいへん速く人を追いかけることができる。ただしのぼりは不得意なので、このヘビに会ったときは高いほうへ逃げればよいという。同書では、このヘビを斫木蛇のなかまだろうか、と述べている。斫木蛇は千歳蝮の別名で、《本草綱目》によれば、毒トカゲとも毒ヘビともつかぬ動物であり、その形は杵(きね)の形をしているという。だとすれば、ツチノコの故郷は中国だったのかもしれない。《桃洞遺筆》では、斫木蛇は全身がマムシに似て、毒が強く、長さは2尺余りと、やや小型に記されている。また、千歳蝮よりも、《嶺南雑記》にある冬瓜蛇と同じではないだろうかとも述べる。それは厦門(アモイ)でとれるヘビで柱のような形状、長さ2尺、跳躍し人を刺し、ときどき声をだすものであるという。ところで、野槌蛇は信州にもいるらしい。《信濃奇勝録》によれば、馬籠と妻籠のあいだの一石峠に8月ごろたまにでる。坂を横切るときに、転がってしまって前に進めないなど、いささか間抜けなところもある。ただし、人に害を加えることはないらしい。

   《引用終了》

・「本草綱目」の「千歳蝮」は巻四十三の「鱗之二 蛇類」の「蝮蛇」(マムシ)の附録として記載されている。

   *

[附錄]千歲蝮【頌曰、東間、一種千歲蝮。狀如蝮而短。有四脚、能跳來囓人。人或中之必死。其囓已卽跳上木、作聲云斫木斫木者、不可救也。若云博叔博叔者、猶可急治之。用細辛雄黃等分爲末、内瘡中。日三四易之。又以栝樓根桂末著管中、密塞勿令走氣。佩之、中毒急敷之。緩卽不救。時珍曰、按字林云、䎼聽、形如蜥蝪。出魏興。居樹上見人、則跳來囓。之囓已還樹垂頭聴聞哭聲、乃去卽此也。其狀頭尾一般、大如搗衣杵。俗名合木蛇。長一二尺、談埜翁方、名斫木蛇。又名望板歸。救之用嫩黃荆葉、搗爛敷之。】[やぶちゃん注:以下はその「膽」・「肉」の処方・功能であるが、略す。]

   *

[附錄]千歲蝮(せんざいふく)【頌(しやう)曰はく、東の間に、一種、千歲蝮あり。狀(かたち)、蝮(まむし)のごとくして、短し。四脚、有り、能く跳び來りて、人を囓(か)む。人、或いは之れに中(あた)れば、必ず死す。其れ、囓み已(や)みて、卽ち、木に跳り上りて、聲を作(な)して、『斫木(しやくぼく)、斫木』と云ふは、救ふべからざるなり。若(も)し、『博叔、博叔』と云ふは、猶ほ、急ぎ、之れを治すべし。細辛・雄黃を用ひて、等分、末(まつ)と爲(な)し、瘡中に内(い)る。日に日に、三、四、之れを易(か)ふ。又、栝樓根(かつらうこん)・桂末を以つて管中に著(つ)け、密塞して、氣を走らせしむこと勿(なか)れ。之れを佩(お)び、毒に中るときは、急ぎ、之れを敷(つ)く。緩(ゆる)きときは[やぶちゃん注:症状の回復が遅い時は。]、卽ち、救へず。時珍曰はく、按ずるに、「字林」に云はく、『䎼聽(ろくちやう)、形、蜥蝪(とかげ)のごとし。魏興(ぎこう)に出づ。樹上に居(きよ)し、人を見るときは、則ち、跳り來りて、之を囓む。囓み已みて、樹に還へりて、頭(かうべ)を垂れ、哭聲を聴聞し、乃(すなは)ち、去る、卽ち、此れなり。其の狀、頭・尾は一般にして、大いさ、衣を搗(つ)く杵のごとし。俗、「合木蛇」と名づく。長さ、一、二尺、談埜翁(だんやわう)が方(はう)[やぶちゃん注:医書「談野翁試驗方」なる書は本書によく見かける。]に、「斫木蛇」と名づく。又、「望板歸」と名づく。之れを救ふに、嫩黃(さいわう)・荆葉を用ひ、搗き爛(ただ)らして、之れを敷(つ)く。】

   *

漢方生薬は労多くして益がないので注さない。悪しからず。

・「魏興」は三国時代から隋初にかけて現在の陝西省安康市と湖北省十堰市に跨る地域に設置された広域地名。この中央部

・「字林」晋の呂忱(りょしん)によって編纂された部首別漢字字書。「隋書」の「経籍志」によれば、全七巻とされ、凡そ一万二千八百二十四字を収め、「説文解字」と同じ五百四十の部首を設けたが、佚書で、現在は他書に引用された佚文のみが残る。

・「トカゲ形の睩聴」諸本、人を囓む毒虫とするが、具体な形態は未詳。但し、ここで荒俣氏の記す、木からぶら下がって獲物に咬みつくというのは、荒俣氏の言う通り、ハブ(クサリヘビ科ハブ属 Protobothrops 及びハブ Protobothrops flavoviridis 。日本の南西諸島の固有種)が吻上部にある赤外線感知器官ピット(pit)器官で以って、木の下を通る獲物を感知し、確実に咬み打つのと、酷似している。

・「北米産の毒トカゲ」とは有鱗目トカゲ亜目オオトカゲ下目ドクトカゲ科ドクトカゲ属アメリカドクトカゲ Heloderma suspectum のこと。

・「重訂本草綱目啓蒙」江戸中・後期の医師で本草家の小野蘭山(享保一四(一七二九)年~文化七(一八一〇)年:松岡恕庵に学び、京に私塾衆芳軒を開いた。後、幕府医官となり、江戸の医学館で教授した。広く植物採集と研究を重ね、本邦の本草学を集大成した人物として知られる)の死後、弟子が編集した弘化四(一八四七)年刊の本草書。「本草綱目」を考証する形で書かれている。貝原益軒の「大和本草」(リンク先は私の同書の水族の部の全電子化注)等の誤りを指弾することが一つの動機でもあった。当該部を国立国会図書館デジタルコレクションの原本を視認して示す。言わずもがな、「本草綱目」に則り、巻三十九の「鱗部」の「鱗之二」の「蝮蛇」の「附錄」である。カタカナを概ね、ひらがなに代え、句読点を打った。

   *

〔附錄〕千歳蝮 詳ならず、信州戸隠山は髙くして、雪深く、六月に非れば、登るべかららずと云。其神社より奥に三十餘抱の珍しき大松あれども、六月比は、ヤマカガヾシと呼毒蛇ありて、人を害するを畏れて、登り見る人聲を聞は、後足のみにして立て、人の来るを待、若、螫るれば、毒、猛けれども、蝮蛇よりは輕しと云。此類なるべし。

   *

と、概ね正しいものの、如何にも、しょぼい記載で、殆んどヤマカガシそのものの記載と考えてよい。後ろ足で立つというのは、蜷局を巻いた状態から警告のために鎌首を伸ばし上げた姿勢から、伸び上がって攻撃に移る際の印象を誤認したに過ぎないと私は考える。

・「桃洞遺筆」江戸中・後期の紀伊和歌山出身の医師・本草家の小原桃洞(おはらとうどう 延享三(一七四六)年~文政八(一八二五)年:本名は良貴(よしたか)。医学を吉益(よします)東洞に、本草学を小野蘭山に学んだ。熊野などの動植物を調査し、和歌山藩医となり、医学館本草局を主宰した。「御国産物考」・「魚譜」・「南海禽譜」などの優れた博物誌を書いた)の遺稿集で、植物や動物などを採り上げて、絵と考証で解説している。孫の良直によって初編(天保四(一八三三)年)・二編(嘉永三(一八五〇)年)に編集、刊行された。なお、彼の実地検証を重んじる研究態度は同藩門人の畔田翠山に継がれており、私はこの二人を熊楠の先駆者として非常に高く評価している(私はブログ・カテゴリ『畔田翠山「水族志」』を手掛けている)。以下に「桃洞遺筆」巻之三の「附錄」に載る「野槌蛇」を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認して(ここから)電子化する。読みは一部に留めた。白抜き読点は普通のものに代え、句読点を施した。傍線は底本では二重傍線。歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

   野槌蛇(のづちへび) 附 千歳蝮(せんざいふく)

嘗て聞く、和州吉野山中、本州熊野奥等(とう)に産すと、其(その)形は長さ二尺餘(あまり)、頭(かしら)、尾、均しくして、尾、突(とが)らず、槌の柄なきがごとし。全身蝮蛇(はんぴ)[やぶちゃん注:「反鼻」でマムシの頭部形状からの知られた漢名異名。]の如く、口、大にして、能(よく)人を嚙む、甚(はなはだ)毒ありといふ。古説に千載蝮を充(あつ)れども、本草綱目頌(しよ[やぶちゃん注:ママ。])の説に、有四脚といへば、充らず。按に、嶺南雜記に、瓊州冬瓜蛇、大ニ乄[やぶちゃん注:「乄」は約物で「にして」と読む。]ㇾ柱、而長二尺餘、其行クヿ[やぶちゃん注:「ヿ」は約物で「くこと」と読む。]跳躍逢〻ト乄有ㇾ声、螫(サ)セバㇾ人立処ニといふ、これ野槌蛇(のづちへび)なるべし○千歳蝮ハ詳(つまびらか)ならず、本草啓蒙に、信州戶隱山(シンシウトガクシヤマ)ハ髙ク乄雪深ク、六月ニ非ザレバ登ルベカラズト云、其(ソノ)神社ヨリ奥ニ三十余抱(カヽヘ)ノ珍シキ大松アレ𪜈[やぶちゃん注:約物で「ども」と読む。]、六月比(コロ)ハ山カヾシト呼ブ毒蛇アリテ、人ヲ害スルヲ畏レテ、登リ見ル人稀ナリ、其蛇ハ四足(シソク)アリテ石龍子(トカケ)ノ形ニ似タリ、人聲(ヒトゴヱ)ヲ聞ケバ、後足(アトアシ)ノミニ乄立(タツ)テ、人ノ来(キタ)ルヲ待ツ。若(モシ)螫(サヽ)ルレバ、毒猛(ハゲシ)ケレ𪜈、蝮蛇(ハビ)ヨリハ軽(カル)シト云フ。此類(コノルイ)ナルベシといへり。

   *

・「嶺南雑記」清の康熙年間(一六六二年~一七二二年)の前半に当地の地方長官として出向いた呉震方が著した、中国南部の「五嶺」(南嶺山脈)よりも南の、現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と及び湖南省と江西省の一部に当たる嶺南地方の地方誌。「冬瓜蛇」(とうかじゃ)は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の「雑記五種」(江戸で板行された漢籍合本)に収載されたこのPDF・同書下巻)53コマ目に出る。桃洞の引用とほぼ同じだが、原拠資料として別に電子化しておく。

   *

瓊州有冬瓜蛇大如柱而長止二尺餘其徃跳躍蓬蓬有聲螫人立死

   *

とある。「瓊州」(けいしゅう)は現在の海南省海口市(海南島北側)一帯である。が、これはどうみても、「本草綱目」の「千歲蝮」の転載っぽく、熱帯性の毒蛇としても、今一つ、そそられない。しかし、「冬瓜蛇」という現地名には着目する必要がある。かのぼてっとした短い俵状の冬瓜(とうがん)だ。ずんぐりむっくりの野槌には如何にも親和性があるではないか?!

2020/12/15

御伽比丘尼卷四 ㊁難波の醫師は都後家 付 誰にか見せん梅の花

 

   ㊁難波(なにわ)の醫師は都後家付〔つけたり〕誰にか見せん梅の花

Naniwanoisi

 一とせ、難波のはらへ、見にまかりし事あり。あるじは、隔(へだて)なき、むかしの所緣(ゆかり)なりければ、こしかた、夜もすがら、打物がたるに、夢もむすばず、まだ、ほのぐらき比より、魚物(ぎよぶつ)をはじめ、しなじな、賣(うり)のゝしり、あくれば、四つの時より、町々の氏子、思ひ思ひ、心々〔こころこころ〕の裝束、狂言、放下(はうか)、更にあらたに、ことをたくみにし、ねり出〔いづ〕る。たが子とはしらねど、引もきらず。夕ざれば、御神輿(しんよ)むかへの數(す)百艘に、ともしつれたる、てうちんはるゝ夜〔よる〕のほし、宇治瀨〔うじのせ〕の螢ともいふべしや。都にもおさおさおとらぬ神わざ、拜(をがみ)つくしぬ。

 其翌日は、猶、てりつゞく日かげに、納凉(だうりやう)の地もとめむと、旅店(りよてん)のちり、はらはせ、繪むしろに身をやどせば、夕風、やゝそよぎて、夏(なつ)なき心ちする比〔ころ〕、對(つい)の六尺、四人かご、のり物を、とばせきたる。

 紅紫(こうし/くれなゐむらさき)のふとん、かさね敷〔しき〕たる、ほのめきて、空燒(そらだき)のかほり、わが袖にうつるかと、あやし。

 右のかたにつきたる、はたとせ比〔ころ〕の女の、賤しからぬが、はしり行て、むかひの家にあないすれば、亭主とおぼしきが、羽折(はをり)に袴(はかま)して迎(むかへ)に出〔いづ〕るさま也。

 かごの戶、打あけさせて、出るをみれば、三十(みそじ)あまりの、又、たぐいなき女、髮を中切(ちうきり)にし、あかし嶋(じま)の目だゝぬに、紫の帶、ふとからず、あとより、女(め)の童(わらは)、ぬりたる團(うちは)もちてつゞく。

 暫(しばし)ありて、又、もとのごとく出て、かごに打のり、行事、早し。

 旅宿(りよしゆく)のあるじに、小聲して、

「いかなるかたぞ。」

と、とひ侍るに、亭主、かたりて、

「あれは女醫師(〔をんな〕いし)なめり。其先(さき)は、むさしの江戶に住(すみ)て、夫は菅(すげ)の江何がしとかや。武門に生れ、兵道(ひやうどう)・劍術の人なりしが、去(さる)子細あつて、祿(ろく)を辭し、相州小田原の邊(ほとり)に、纔(わづか)の庵(いほ)むすびて、夫婦、住(すみ)ぬ。いくほどなくて、菅の江氏(うぢ)、心ち、なやみて、此世を、はやうす。此女、容貌、世にすぐれ、手跡、つたなからず。いとゞ色の深きを見て、人のうき世の、水上(みなかみ)より、たまりて、ながる、たきつ瀨の、をちあはむ事をなげき、千束(ちつか)の文〔ふみ〕に思ひをつぐるもの、多し。されど、貞節の心つよく、彼(かの)文を、あからさまに手だにもふれず。人皆、

『戀しらず。』

と、のゝしる。ある日、朝、とく起(おき)ゐるに、七旬(じゆん)計〔ばかり〕の僧、まみえ來りて、の給ふ。

『汝、女の道に、まことある事、いたれり。我、ひとつの醫書を、もてり。諸氏百家の流ありといへど、其しるしをとる事、すくなし。此書は是、百病をつゞめて、しかも功能ある物を、あげたり。是をよみて、治(ぢ)を施し、世わたるなりわひとせよ。』

と、ひとつの卷物を、女のまへにさし置〔おき〕、かきけちて、うせぬ。女、是をひらき見るに、誠に病(やまひ)にあたつて、しるしをうるの術、かんなの文字をもて、しるせり。是より、しばしば、治をほどこすに、しるし、たち所を、さらす。五痔(ごぢ)のうれへをいやす事、又、神のごとし。いつの比よりか、

『一切、女のやまひに妙あり。』

とて、やごとなきかたへも、めしあげらるれば、下つかたは、猶、たうとみて、「やくしのへんさ」と、よぶ。是をおもふに、しつとにむねをこがすのおもひ、こつて、病となり、やもめ女の枕淋しく、昔の夫ゆかしく、あるは、わかきむすめの、人しれず戀しのぶなど、世のなみなみの醫師には、はぢらひて、かたり盡す事を得ず、此故に余病となして療ずるに、還(かへつ)て、命を、あやまる。まことに女どちは憚(はゞかり)なく打とけ、病のやうを物がたれば、其もとを、をして、藥をあたふるによつて、治する事のやすきなるべし。なを、りんきづよき夫もちたる女、男など入(いら)ぬ奧がたへは、能(よき)醫師にておはさずや。」

と、かたりぬ。

 まことに、ためしなき醫師の名をとりしとぞ。名は、きゝわすれぬ。いと、のこりおほし。

 

[やぶちゃん注:「難波のはらへ」後の「納凉(だうりやう)」で判る通り、旧暦六月に行われた、大坂の「夏越(なごし)の祓(はらえ)」の神事である。神社では「茅(ち)の輪(わ)潜(くぐ)り」が行われる。参道の鳥居や笹の葉を建てて注連縄を張った結界内に茅で編んだ直径数メートルほどの輪を建て、ここを氏子が正面から最初に左回り、次に右回りと、八字を描いて、計三回くぐることで、半年間(十二月にも行った)に溜まった病いと穢れを落とし、残りの半年を無事に過ごせることを願う儀式である。嘗ては茅の輪の小さいものを腰につけたり、首にかけたりしたとされる。また、以下で夕景の無数の提灯の火が描かれるが、これは神社の茅の輪を中心に境内に提灯が張り掛けられた映像、或いは朝出て夕べに神社へと戻って来る神輿を迎える、川沿いの迎え舟の灯、或いはまた、神社から配られた人形代(ひとかたしろ)に息を吹きかけ、また、体の調子の悪いところを撫でて(こうした呪具を「撫物(なでもの)」と呼ぶ)、穢れを移した後、川や海に流す儀式が行われるから、或いは、このシークエンスもそうしたものを提灯の火で焚き上げるさまも含んでいるものかもしれない。神社名を出していないが、神輿が出ることから見て、これは恐らく、大阪府大阪市住吉区住吉にある住吉大社のそれであろう。ウィキの「住吉神社」によれば、、同神社の神事(なごしのはらえしんじ)は、七月三十一日に行われ、『五月殿での大祓式ののち、伝統衣装で着飾った夏越女・稚児の行列が茅の輪くぐりを行』い、『次いで第一本宮において例大祭』『が斎行され、祭典ののちに神楽「熊野舞」・住吉踊が奉納される』。翌八月一日には、『住吉神の神霊を乗せた神輿が堺の宿院頓宮』(しゅくいんとんぐう)『(堺市堺区宿院町東)までの渡御を行う』。渡御は一時期、自動車列をとっていたが、二〇〇五年に『鳳輦・神輿列が復活し、街道を練り歩き』、『大和川では川の中を』実際に渡御して進む。『宿院頓宮に到着後は頓宮境内の飯匙堀(いいがいぼり)において荒和大祓神事(あらにごのおおはらいしんじ)を行う』。『この飯匙堀は海幸山幸神話の潮干珠を埋めたところと伝わる場所で、この地で本社で行なったのと同様の茅の輪くぐりを行う』とあるのが、如何にも清雲尼の描写とマッチしているからである。

「四つの時」定時法の「明け四つ」ならば、午前七時頃、「朝四つ」ならば、午前八時半頃で、不定時法の「朝四つ」だと、夏場であるから、九時半前となる。

「てうちんはるゝ夜〔よる〕のほし」「提灯はるる夜の星」であるが、ここは「提灯」を「張」り巡らすと、「晴るる」で、提灯の明かりで昼の晴れのように明るいの意と、祭儀の持つ「晴れ」の特異な結界の時空間をも暗示していよう。

「宇治瀨〔うじのせ〕の螢ともいふべしや」「螢」の名所として知られた「宇治」川の「瀨」のようだとでも言えようか。

「納凉(だうりやう)」正しい歴史的仮名遣は「だふりやう」(どうりょう)である。「ダフ(ドウ)は「納」の漢音で、我々が使う「ノウ」は呉音で、唐宋音が「ナ・ナン・ナッ」である。但し、現在は「ドウ」はまず使わず、唐宋音は仏教用語や「納豆」に用いている。しかし、「納涼」は嘗ては漢音で発音し、古くは「色葉字類抄」・「源平盛衰記」・「文明本節用集」、新しくは「譬喩尽」(たとえづくし:天明六(一七八六)年序)まで「だふりやう」と読んでいる、と小学館「日本国語大辞典」にあった。

「對(つい)の六尺、四人かご」「對」は駕籠二丁、「六尺」は駕籠を舁く者を言い、「陸尺」とも書いたが、これは「力者(りきしゃ)」が転訛したものという(但し、一丈二尺(十二尺)の棒を二人で担ぐからとか、古代中国の天子の輿が「六尺」四方だったからとか、長身の身体が求められ身長によって賃金に格差があったことから六尺(一メートル八十二センチ)に及ばんとする大男が務めたから「六尺」と呼ばれたという説もある)。また、大名や側室が非公式に移動する際には「御忍び駕籠」と呼ばれる「四人担ぎ」の駕籠が用いられた、と以上ウィキの「駕籠」に拠った。

「空燒(そらだき)のかほり」「空薰き」「空炷き」で、本来は、前以って香をたいておいて、来客時には既に片付けておくか、別室でたくかして、どこからともなく、匂ってくるように香をたきくゆらすこと、あからさまにくゆらせるさまを見せないことを言う。或いは、「どこからともなくにおってくるよい香り」の意で、ここはその駕籠の乗り主が、常時、上品な香を衣服にたきしめ続けていることを、「におわせて」いるのである。

「右のかたにつきたる」最初に着いた主人らしき駕籠の「右の方に着きたる」。

「中切(ちうきり)」「切髮(きりがみ)」。近世から明治にかけて多く未亡人が結った髪形で、短く切った髪を髷 (まげ) を結わずに束ね、髻 (もとどり) に紫の打ちひもをかけたもの。挿絵の彼女がまさにその髪形をしている。

「あかし嶋(じま)」「明石縞」。「明石縮(ちぢみ)」であろう。グーグル画像検索「明石縞」を見られたい。

「女(め)の童(わらは)」二つ目の駕籠に侍女とともに載っていたのであろう。

「兵道」兵法。

「七旬(じゆん)計〔ばかり〕」七十歲程の。

の僧、まみえ來りて、の給ふ。

「其しるしをとる事、すくなし」それらは、極めて有効な処方として、絶大なる効き目を示すことは、これ、少ない。

「百病をつゞめて」「約めて」。あらゆる病いの症状を漏らさぬように要約して。

「かんなの文字」「神字(かんな)の文字」。漢字以前に本邦にあったとする神代(じんだい)文字。私は全く認めない。

「しるし、たち所を、さらす」効き目が、立ちどころに、現われる。

「五痔(ごぢ)」歴史的仮名遣は「ごじ」でよい。中文の中医学の記載では、牡痔・牝痔・脉痔・腸痔・血痔を挙げる。それぞれ想像だが、、牡痔・牝痔は「外痔核」・「内痔核」でよかろうか。脉痔が判らないが、脈打つようにズキズキするの意ととれば、内痔核の一種で、脱出した痔核が戻らなくなり、血栓が発生して大きく腫れ上がって激しい痛みを伴う「嵌頓(かんとん)痔核」、又は、肛門の周囲に血栓が生じて激しい痛みを伴う「血栓性外痔核」かも知れぬ。「腸痔」は穿孔が起こる「痔瘻」と見てよく、血痔は「裂肛」(切れ痔)でよかろう。

「やくしのへんさ」「藥師(菩薩)の變作」。「変作」(へんさ)は仏語で、姿を変えて現われること。また、特に菩薩などが世の人を救うために、仮に姿を変えて現われたり、または種々の事物を現わしたり、変えたりすることを言う。「化作(けさ)」とも言う。

「こつて」「凝つて」。

「余病となして」男性医師が見当違いの診断をして、別な病気と誤診して。

「女どち」女同士。

「をして」「推して」。歴史的仮名遣は「おして」でよい。

「りんきづよき夫」「悋氣强き」。嫉妬心の強い夫。医師にさえ男性なれば嫉妬するからである。

「男など入(いら)ぬ奧がた」大名や旗本などの正室や、大奥・禁裏の婦人方。]

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(17:蛇)

 

 〇蛇、紀州に齒痛む者、他人の打殺せる蛇を貰ひ受け、埋めて之に線香を供え[やぶちゃん注:ママ。]、拜し念じて效ありと信ずる人有り、山二二七頁に、白蛇崇拜は僞經より出たる事也とあり、されど輟耕錄卷七に、趙生薪を伐て業とし貧なりけるが、山に入て巨蛇章質盡く白きを見、逃げ歸りしが、白鼠白蛇は寶物の變成せる也てふ事を思ひ出し、往て搜て金銀を夥く得たる由見ゆれば、白鼠白蛇を大黑と辨財天の使令とするは、漢土にも世々云ふことらしゝと類聚名物考卷三三七に云り。

 

[やぶちゃん注:「山二二七頁に、白蛇崇拜は僞經より出たる事也、とあり」『山中笑「本邦に於ける動物崇拝」』に、

   *

白蛇 辨才天の使者、又は、化身として崇拜さるれど、經文に、其證、無し。頓得如意寳珠陀羅經上略其形如天女頂上有寳冠中有白蛇中略此神王身如白蛇如白玉下略とあれども、此經、僞經なること、沙門浮嚴の大辨才天秘訣に、詳に辨明あり。淨嚴は、最勝王經の大辨才天品は眞經なれど、自餘、悉く僞經なり、と說けり。大辨才天品には、白蛇に關せる文、なし。されば、白蛇崇拜は僞經より出たる、となり。白蛇の宇賀神說も、前記の僞經より、起りしなり。

   *

とあるのを指す。私は基本的に白蛇の崇拝は仏教以前に神道系の神使としてあったのではないかと思うている。

「輟耕錄卷七に、趙生……」「輟耕錄」は元末の一三六六年に書かれた学者で文人の陶宗儀の随筆。正式には「南村輟耕錄」(「南村」は宗儀の号)である。世俗風物の雑記であるが、志怪小説的要素もある。当該話は以下(「中國哲學書電子化計劃」のものを参考に一部の漢字を正字化して示したが、原本画像も視認出来る。と言っても、正字化はそれに従っているわけでもないことをお断りしておく)。「黃巢地藏」と仮標題するようである。

   *

趙生者、宋宗室子也。家苦貧、居閩之深山、業薪以自給。一日、伐木溪滸、所見一巨蛇、章質盡白、昂首吐舌、若將噬己。生棄斧斤奔避、得脫。妻問故、具以言。因竊念曰、「白鼠白蛇、豈寶物變幻邪。」。卽拉夫同往。蛇尚宿留未去、見其夫婦來、回首遡流而上。尾之、行數百步、則入一岩穴中、就啓之、得石。石陰刻押字與歲月姓名、乃黃巢手瘞。治爲九穴、中穴置金甲、餘八穴金銀無算。生掊取畸零、仍舊掩蓋。自是家用日饒、不復事薪。鄰家疑其爲盜、告其姊之夫嘗爲吏者。吏詢之嚴、不敢隱、隨饋白金五錠。吏貪求無厭、訟之官、生不獲已。主一巨室、悉以九穴奉巨室、廣行賄賂。有司莫能問、迨帥府特委福州路一官往廉之。巨室私献金甲、因回申云。具問本根所以、實不會掘發寶藏。其事遂絕。路官得金甲、珍襲甚、至任滿他適、其妻徙置下。一夕、聞繞榻風雨聲、頃刻而止。頗怪之、夫婦共取視、鐍鑰如故。啓籠、乃無有也。生無子、夫婦終老巨室。嗟夫、天地間物苟非我有、是雖得之亦終失也。巢之亂唐天下、剽掠寶貨、歷三四百年、至于我朝、而爲編民所得。民固得之、不能保之、而卒歸於富家。其路官者、得金甲、自以爲子孫百世計、一旦作神物化去。是皆可爲貪婪妄求者勸。

   *

訓読しようとも思ったが、調べたところ、「佛教大学論文目録リポジトリ」にある荒木猛氏の論文『「残唐五代史演義」における黄巢物語について』(『佛教大学文学部論集』二〇〇七年三月発行・PDFでダウン・ロード可能)の中で、最後の陶の評言部分を除いたメインの話を丁寧に現代語訳されておられるのを見つけので、以下に引用させて戴くこととした。

   《引用開始》

[やぶちゃん注:前略。]福建省のある貧しい樵夫が、ある日山中で一匹の白蛇に出会って驚き逃げ、家に帰って妻にそのことをしゃべったところ、妻はその白蛇は宝物の変化したものに相違ないとして、夫とともに再び蛇に出会った所にむかう。すると、先刻の蛇がまだそこにいて、二人を更に奥に導きある巌穴の所で姿を消した。夫妻はその巌穴を啓く[やぶちゃん注:「ひらく」。]と一つの石が出土した。しかもそれには名前や年月、花押などが刻されていた。そして、その名前などよりして、それが黄巢の墓であることが判明した。その墓をなおも掘ると、中から金甲の他に無数の金銀財宝が出てきた。かくしてかの夫妻は、にわか大尽となった。それで、近所の人々は、夫妻が盗みでも働いてこうなったのではと疑い、このことを役人に話した。すると役人は、夫妻を捕えて厳しくこれを追求した。夫妻は当局の追求に耐えきれず、遂にかの黄巢の財宝のすべてを某大尽の手にゆだねることとした。するとその大尽は、役所の上下に賄賂をばらまいた為、夫妻への当局の追求は一旦は消えた。しかし後に、福州路帥府の一役人がこのことを嗅付けまた追求しだした。大尽はやむなくこの役人に金甲を贈って口封じを計った。その後この役人は、別の所に転勤したが、かの金甲を家宝としていつもベットの下に隠していた。ある日ベットの下から風のような音がしたので、鍵を開いて籠の中を改めると、金甲はなくなっていた[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

「章質」「しやうしつ」と読んでおく。蛇の体表の模様(「章」)も地肌(「質」)。

盡く白きを見、逃げ歸りしが、白鼠、白蛇は寶物の變成せる也てふ事を思ひ出し、往て搜て金銀を夥く得たる由見ゆれば、白鼠白蛇を大黑と辨財天の使令とするは、漢土にも

「世々」底本は『世間』であるが、初出で訂した。

「大黑天」ヒンドゥー教のシヴァ神の異名である「マハーカーラ」(漢音写「摩訶迦羅」)がインド密教に取り入れられ、「マハー」は「大」・「偉大なる」の意、「カーラ」は「時」・「暗黒」を意味することから、「大黒天」と名づけられて、中国仏教に於いて、青黒色をした憤怒相の護法善神となったが、本邦に伝来すると、特に室町以降に於いて、たまたま「大国主命」との音通により、両者を同一神とする信仰として習合されてしまい、民間に於いて財福神の側面が大きく打ち出された結果、所謂「七福神」の一柱として専ら知られるようになった。

「辨財天」仏教に於ける智慧・弁舌・技芸の女神。弁天・妙音天・美音天・大弁才功徳天も総て異名である。サンスクリット語「サラスバティー」の漢訳で、本来はヒンドゥー教の神であって、原義は「水を有するもの」を意味する女性名詞であった。アーリア人が東漸する際、各地の川を呼んだ名であり、アフガニスタンのカンダハル地方の古名アラコシアもそれに由来するとされ、インダス平原やガンジス平原にもこの名の川があった。ブラーフマナ文献では「言葉の神」とされ、ウパニシャッド哲学では「音楽神」とされた。ヒンドゥー教のこれらの概念を受け、仏教に弁才天を登場させたのが、「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」で、弁才天は、この経を説く人や、聞く人に、知恵・長寿・財産を授けると述べられてある。その図像的表現は八臂(はっぴ)又は二臂で、身色端厳にして、女形では琵琶を持つことがある。日本では財産神としての側面が信仰された結果として「弁財天」と書かれるようになり、また「七福神」の一柱とされた。水辺に祀られることが多く、また、水と関係ある蛇と結び付けられることも多い。弁才天と結び付けられる神に宇賀神があるが、「宇賀」の名がサンスクリット語「ウラガ」(蛇の意)に似ることに拠るとも考えられる(以上は小学館「日本大百科全書」に拠った)。実際、宇賀神は蛇形に造立することが多い。

「類聚名物考卷三三七に云り」「類聚名物考」は「鶺鴒」パートで既注。著者山岡浚明(まつあけ)は同巻の「雜部」の「吉瑞」の「白鼠 白蛇」の項(左ページ上段)で、先の「輟耕録」の話の「不復事薪」の部分までを引いた後に、

   *

今案に世俗に白鼠ハ 大黑天の使令とし蛇ハ辨財天の使令として福神の下屬といふ是西土の書にも世にもいふ事と見ゆ

  *

と記している。]

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(16:鳶)

 

 〇鳶、倭漢三才圖會卷四十四に、愛宕神鳶を使者とすと云ひ、十訓抄に天狗鳶の形を現して小兒に苦られし話有り、今昔物語に、源光公、五條道祖神祠の柹樹に現ぜる佛を睨み詰たるに大鳶と成て落ちたりと載せ、戴恩記に、魔法成就の時、鳶來り鳴くと云たり、餘り評判の宜しからぬ樣なれど、金鵄瑞を呈して、長髓彥伏誅せし例もあれば、ずつと大昔しは、鳶も多少尊崇されしと見ゆ、印度には「ラマ」王の美后「シタ」、惡鬼王「ラヷナ」に奪ひ去らるゝ途上、鳶出でゝ「ラヷナ」と鬪ふ話あり、(Raevenshaw, Journal of the Asiatic Society of Bengal, vol. xi. p. 1124, 1842)。非列賓島は鳶が水を蹴て作りし所と云古傳有り(F. Colin, ‘Historia Filipinas,’ Madrid, 1663, p. 64)

 

[やぶちゃん注:引用注記の「(Raevenshaw, Journal of the Asiatic Society of Bengal, vol. xi. p. 1124, 1842)」の部分は底本では、『(Raevenshaw, Journ. As. Soc. Bengal, vol. xi p. 1124, 1842)』となっている。初出はと見ると、『(Raevenshaw, Journ. As. Soc. Bengal ’, vol. xi p. 1124, 1842)』となっており、底本と初出を見るに、明らかに雑誌の縮約表記で、熊楠には判り切ったものらしいが、記号の脱落も見られ、注記としては、甚だ不親切であるので、正規表現に直されてある平凡社版「選集」のそれで特異的に訂した。

「倭漢三才圖會卷四十四に、愛宕神」(あたごしん)「鳶を使者とすと云ひ」鳶(姿も小さな時から私のお気に入りの「トンビ」、タカ目タカ科トビ亜科トビ属トビ亜種トビ Milvus migrans lineatus )の博物誌も含めて、私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳶(とび) (トビ)」を参照されたいが、良安は鳶が嫌いだったらしく、評釈部では不当に貶されている。以下に引く。

   *

△按ずるに、鴟、狀(かたち)、鷹に似て赤黃色、羽毛、婆娑(ばしや)として、尾、扇を披(ひら)くがごとし。其の尾羽も亦、箭羽(やばね)に造り、之れを「礒鷲羽(いそわしのは)」と名づく。しかれども、最も下品なり。脚、灰青色、爪、黑し。風、吹けば、則ち、高く飛び舞ふ。毎(つね)に鳥の雛(ひな)・猫の兒(こ)等(など)を捉(と)る。或いは、人、提(ひつさ)げ擕(たづさ)へる所の魚物(うをもの)・豆腐等(など)を攫(つか)む。總(すべ)て鳶・鴉は、害、有りて、益、無し。而(しか)も、多く、之の鳥、有り。人の爲めに、憎(にく)まる[やぶちゃん注:ママ。]所(ところ)なり。然るに、俗傳に曰はく、「愛宕(あたご)の鳶」・「熊野の烏」、以つて神使と爲す。未だ、其の據(よるところ)を知らざるなり。鳴く聲、「比伊與呂與呂(ひいよろよろ)」と曰ふがごとし。朝、鳴けば、卽ち、雨、ふり、暮、鳴けば、即ち、晴る【「三才圖會」の說と少し異なれり。】。

   *

正に嫌悪丸出しである。「愛宕神」(以下は同前リンク先で私が附したものを再加工してある)愛宕神社は全国に約九百社ほどあるが、その総本社は京都府京都市右京区嵯峨愛宕町にある愛宕神社(旧称は阿多古神社)。サイト「神使の館」の「鳶~トビ(1) 愛宕社(大豊神社内)と鳶」によれば(大豊神社は京都市左京区鹿ヶ谷宮ノ前にある)、総社である愛宕神社は『迦遇土槌命(カグツチノミコト)を主祭神として、広く全国に火伏せ(防火)の神として知られている』。この『大豊神社の末社「愛宕社」には「鳶」の像がある』が、『元来、愛宕神社(本社)の神使は、神社の創建者である和気清麻呂が猪に助けられたとの故事などに因んで、「猪」とされている』。『しかし、この大豊神社では、先代の宮司が境内の末社「愛宕社」に、愛宕山の天狗がかぶる鳶帽子から、鳶を神使として像を建てたとされる』(写真有り。但し、そのキャプションによれば、昭和四七(一九七二)年と恐ろしく新しい)『すなわち、鳶像は、新しい由縁が創られて、それに基づいて建てられた』。『それなら、『愛宕社が防火鎮火にご利益のある社であることに因んで、「火消し衆」のことを「とび」ともいうので、防火を祈って鳶像が奉納された』としても勘弁してもらえるかもしれない』とある。同サイトの「鳶~トビ(2) 神武天皇の金鵄(キンシ~金色の鳶)」には、『神武天皇が東征の折、弓の先に金色の鳶(金鵄)が飛来して勝利をもたらした』とし、福岡県福岡市博多区月隈にある八幡神社の『境内に、「神武天皇」と彫られた石柱上に鳥がとまっている碑があ』り、『この鳥は、日本書紀に載る「金鵄(キンシ)」と呼ばれる「金色の鳶(トビ)」』とあって、『神武天皇(カムヤマトイワレビコノミコト)が日向(宮崎県)から東征の途次、長髄彦(ナガスネヒコ)との戦いで苦戦していると、金鵄が天皇の弓の上端に飛来し、金色のまばゆい光を発して敵兵の目をくらまして勝利をもたらしたという』。『神武天皇は、その後、大和を平定して橿原(かしはら)で初代天皇として即位されたとされる』。『現在は廃止されているが』、明治二三(一八九〇)年に(引用元は一年誤っている)『制定された軍人の最高位の勲章、「金鵄勲章」(キンシクンショウ)はこの伝承に由来する』とし、『この碑は、皇紀』二千六百『年を記念して昭和』一五(一九四〇)『年に建てられたものと思われる』とはある。しかし、嘗て調べた中村和夫氏のサイト「鳥のことわざ」の「鳶(トビ)」(現存しない模様)によれば、「愛宕殿鳶となるれば鳶の心あり」「太郎坊も鳶となりては鳶だけの知惠」という二つの諺が紹介されており、『京都市上嵯峨北部の愛宕山の山頂には愛宕神社があり、雷神を祭られ、防火の神として信仰されている。ここには愛宕太郎坊と云う大天狗に率いられた天狗たちが住んでいるとされた』が、『「愛宕殿」とはこの天狗を指して、これがトビになってしまえば、それなりの心』しか持たない、『つまらぬものなってしまうという意で、いずれもトビを軽蔑している』ともあったのだ。愛宕と鳶の関係は、「鳶」の本文で良安が言い、熊楠も指示するように、

   *

『天人熊命(あまのひとくまのみこと)、化(け)して、「三軍(みむろ)の幡(はた)」と成る。而して後(のち)、神武天皇、長髓彦(ながすねひこ)と戰ひて、勝たず。時に、金色の鳶、飛び來たりて、皇(わう)の弓弭(つのゆみ)[やぶちゃん注:通常は「弭」一字で「ゆはず」と読む。弓の両端の弦をかけるところ。ここは無論、それを上に掲げた部分。]に止まり、狀(かたち)、流るる電光(いなびかり)のごとし。由(より)て、敵軍、皆、迷-眩(めくら)み、天皇、悅びて問(のたま)はく、「何れの神や。」と。奏して曰はく、「天照大神より勅を奉り、鳶に化して來たる。吾、此の國に住みて、軍戰の業(わざ)を護(まも)らん。」と。又、問(のたま)ひて曰はく、「何くの處に住まんと欲す。」と。卽ち、奏して曰はく、「山背國(やましろのくに)怨兒(あたごの)山に住むべし。」と。仍りて、其の山に住む。天狗神(てんぐがみ)を領(りやう)せしむ。』と。【小説と雖も、附會なれども、之(ここ)に記す。】。

   *

(前半は「日本書紀」の記載に基づく)の俗伝に基づくとは考えられるが、「金鵄」がトビに同定比定されて後、特に種としてのトビが「愛宕の神の使い」とされるようになったのが、いつの時代からなのかが、よく判らぬ(「とび」という呼称自体(但し、本当に本種に限定していたかどうかは私は怪しいとは思う)は奈良時代に既にある)。江戸時代よりも前の、どこまで溯れるのか、御存じの方は御教授願いたい。

「十訓抄に、天狗鳶の形を現して小兒に苦られし話あり」「十訓抄」は私は「じつきんせう(じっきんしょう)」と読むことにしている。鎌倉前・中期に成立した教訓説話集。写本の一つである妙覚寺本奥書によって、六波羅二﨟(ろくはらにろう)左衛門入道とするのが通説で、これは鎌倉幕府御家人湯浅宗業(むねなり 建久六(一一九五)年~?:紀伊保田荘の地頭で、在京して六波羅探題に仕えた。弘長二(一二六二)年に出家し、かの明恵に帰依し、智眼と号した)の通称ともされるが、一方で公卿菅原為長(保元三(一一五八)年~寛元四(一二四六)年:鎌倉初期の学者。文章博士・参議兼勘解由長官で有職故実に通じた)とする説もある。建長四(一二五二)年の序がある。これは、その「第一 可定心操振舞事」(心の操(みさを)を定むべき振舞(ふるまひ)の事」の中の一条。私は既に『柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その1)』の注で原典を電子化している(リンク先には宵曲の現代語訳も載る)。三種の諸本を参考に私が独自に読み易く操作したもので、「諸國里人談卷之二 ㊃妖異部 成大會」の私の注でも再掲してあるので、流石にここで屋上屋はしない。また、同話を原拠として書かれた、私の「小泉八雲 天狗の話 (田部隆次訳)」(作品集「霊の日本」所収)も是非、読まれたい。

「今昔物語に、源光公、五條道祖神祠の柹樹に現ぜる佛を睨み詰めたるに大鳶となって落ちたり、と載せ」「今昔物語集」卷第二十の「天狗現佛坐木末語第三」(天狗、佛と現じて木末(こずゑ)に坐(ま)す語(こと)第三)。主人公源光(ひかる 承和一二(八四五)年~延喜一三(九一三)年)は平安前期の公卿で、仁明天皇の皇子(第三源氏)。官位は正二位・右大臣。「西三条右大臣」と号した。なお、彼は昌泰四(九〇一)年の「昌泰の変」に於いて、藤原時平と結託し、菅原道真を失脚させた張本人の一人とされ、道真の後任として正三位・右大臣に叙任したが、延喜十三年三月十二日、鷹狩に出た際、不意に塹壕の泥沼に転落して溺死し、遺体が上がらなかった。世人はこれを道真の怨霊の仕業として畏れ慄いたと伝わる。享年六十九。

   *

 今は昔、延喜の天皇の御代に、五條の道祖神(さへのかみ)の在(まし)ます所に、大きなる成(な)らぬ[やぶちゃん注:実の成らない。]柿の木、有りけり。[やぶちゃん注:当時、不実の柿の木は異界を現じた標識であり、霊妖の宿るものと考えられていた。]

 其の柿の木の上に、俄かに、佛、現はれ給ふ事、有りけり。微妙(めでた)き光を放ち、樣々の花などを降らしめなどして、極めて貴(とうと)かりければ、京中の上中下(かみなかしも)の人、詣で集まる事、限り無し。車も立て敢へず、步人(かちびと)、は云ひ盡すべからず。此の如き、禮(をが)み喤(ののし)る間、既に、六、七日に成りぬ。

 其の時に、光の大臣(おとど)と云ふ人、有り。深草の天皇[やぶちゃん注:仁明天皇。御陵が現在の京都府京都市伏見区深草に営まれて深草陵とされたことから、異名として深草帝と称された。]の御子(みこ)也。身の才(ざい)、賢く、智(さとり)、明(あきら)か也ける人にて、此の佛の現じ給ふ事を、頗る心得ず思ひ給ひけり。

「實(まこと)の佛の、此(か)く俄かに木の末に出で給ふべき樣無し。此れは、天狗などの所爲(しよゐ)にこそ有るめれ。外術(げずつ)は七日には過ぎず。今日、我れ、行て見む。」

と思ひ給ひて、出で立ち給ふ。日の裝束[やぶちゃん注:晴れの装束。衣冠束帯。]、直(うるは)しくして、檳榔毛(びんらうげ)の車に乘りて、前驅(ぜんくう)など直しく具して、其の所に行き給ひぬ。

 若干(そこばく)の諸(もろもろ)集まれる人を掃ひ去(の)けさせて、車を搔き下(おろ)して、榻(しぢ)を立てて、車の簾(すだれ)を卷き上げて見給へば、實(まこと)に木の末に、佛、在(まし)ます。

 金色の光を放ちて、空より樣々の花を降らす事、雨の如し。見るに、實(まこと)に貴き事、限り無し。

 而るに、大臣、頗る怪く思(おぼ)え給ひければ、佛に向かひて、目をも瞬(まじろ)がずして、一時(ひととき)[やぶちゃん注:現在の二時間。]許り守り給ひければ、此の佛、暫くこそ、光を放ち、花を降らしなど有りけれ、强(あながち)に守る時に、侘(わび)て[やぶちゃん注:どうにも辛抱できなくなったものか。]、忽ちに大きなる屎鵄(くそとび)[やぶちゃん注:現行では、奈良時代には、これはトビに似たタカ目タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus を指したとされている。]の、翼、折れたるに成りて、木の上より、土に落ちて、ふためくを、多くの人、此れを見て、

「奇異也。」

と思けり。小童部(こわらはべ)[やぶちゃん注:子供たち。]寄りて、彼の屎鵄をば、打ち殺してけり。

 大臣は、

「然(さ)ればこそ[やぶちゃん注:思った通りじゃ。]。實の佛は、何の故に、俄かに木の末には現はれ給ふべきぞ。人の此れを悟らずして、日來(ひごろ)、禮(をが)み喤(ののし)るが、愚かなる也。」

と云ひて、返り給ひにけり。

 然れば、其の庭[やぶちゃん注:その場。]の若干(そこばく)の人、大臣をなむ讚(ほ)め申しけり。世の人も、此れを聞きて、

「大臣は賢かりける人かな。」

と云ひて、讚め申しけりとなむ、語り傳へたるとや。

   *

本話は「宇治拾遺物語」に同文的同話が載る(三十二話「かきの木に佛現ずる事」。「やたがらすナビ」のこちらで読める)。

「戴恩記に、魔法成就の時、鳶來り鳴くと云たり」「戴恩記」俳人・歌人・歌学者であった松永貞徳著になる歌学書。正保元(一六四四)年頃の成立で、天和二(一六八二)年に板行された。著者の師事した細川幽斎・里村紹巴らの故事や、その歌学思想を平易に述べているもの。ネットで原本が見られるものの、草書崩しでとても探す気にならない。悪しからず。

「金鵄」(きんし:金色に輝く鳶。)「瑞を呈して長髓彥」(ながすねひこ)「伏誅せし例もあれば」前に「和漢三才図会」でも示したが、「日本書紀」神武天皇の条の以下。

   *

十有二月(しはすの)癸巳朔丙申、皇師、遂に長髓彥を擊ちて、連(しきり)に戰へども、取-勝(か)つこと能はず。時に忽-然(たちまち)、天(にひ)陰(し)けて、雨-冰(ひさめ)ふる、乃(すなは)ち、金色(こがねいろ)の靈(あや)しき鵄(とび)有りて、飛び來りて、皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止まれり。其の鵄、光(て)り曄-煜(かかや)きて、狀(かたち)、流電(いなびかり)の如し。是に由りて、長髓彦が軍卒(いくさびと)、皆、迷(まど)ひ眩(ま)きて、復た、力(きは)め戰はず。長髓は、是れ、邑(むら)の本の號なり。因りて亦以つて人の名と爲す。皇軍の鵄(とび)の瑞(みづ)を得るに及びて、時の人、仍りて「鵄の邑」と號(なづ)く。今、鳥見(とみ)と云ふは、是、訛れるなり。

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訓読は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年岩波書店刊黒板勝美編「訓讀 日本書紀 中卷」を参考にした。「鳥見」は現在の奈良県奈良市富雄元町(とみおもとまち)(グーグル・マップ・データ)を中心とした奈良西部の広域に比定される。ウィキの「富雄町」(とみおちょう:旧生駒郡富雄村/富雄町)によれば、この神話により、『当地を鵄邑(とびのむら)と名付けた』。『後世、鵄邑は鳥見郷または鳥見庄と呼ばれるようになり、さらに変化して富雄村となった』とある。

『「ラマ」王』ラーマ(デーヴァナーガリー)。インドの叙事詩「ラーマーヤナ」の主人公で、イクシュヴァーク王朝に生まれた薔薇色の瞳を持つ神話最大の英雄で、インドの理想君主像であり、ダルマを体現した存在とされる。

『美后「シタ」』シーターは「ラーマーヤナ」のヒロイン。生まれ故郷はジャナカプール(現在のネパール)とされる。ジャナカ王の娘で、ラーマ王子の妃。しかし、ダンダカの森で羅刹王ラーヴァナ(熊楠の言う『惡鬼王「ラヷナ」』。十の頭、二十の腕、銅色の目、月のように輝く歯と山のような巨体を持つとされるラークシャサ(羅刹)の王で、ランカー島(現在のセイロン島)を本拠地とし、ラークシャサ族を治めたとされる)に攫われ、ラーマがシーターを奪還するための戦争が「ラーマーヤナ」の主題ともなっている。小惑星「シーター」(244 Sita:火星と木星の間にある小惑星帯(アステロイドベルト:asteroid belt)の中の一つ)の命名の由来となり、宮崎駿のアニメーション「天空の城ラピュタ」のヒロインであるシータ(英語表記:Sheeta)のモデルともされる。

Raevenshaw, Journal of the Asiatic Society of Bengal, vol. xi. p. 1124, 1842雑誌合巻原本は見つけたものの、どこに記載があるか、判らなかった。悪しからず。筆者は英領インド帝国下のインド東部のオリッサの地方長官を務めたトーマス・エドワード・ラヴェンショウ(Thomas Edward Ravenshaw 一八二七年~一九一四年:在任期間は一八六五年から一八七八年)ではないかと思ったが、雑誌の刊行年からは、あり得ないか。【同日削除・追記】先ほど、何時も情報を戴くT氏よりメールを頂戴した。私が見たのは「Part1」で、所載しているのは「Part2」のこちらであった。

   *

   On the road a large kite attacked Ravana, who, however, having placed Seta under a tree called Sensoopah, in the orchard called Usoka, succeeded in wounding the kite. In the mean time Rama and Luchmun returned to the hut, and not being able to find Seta any where, they were overcome with grief. Coming to the place where the kite lay half-dead, the kite told them that Ravana had carried her off to Lunka.

   *

「the kite」が鳶である。さらにT氏から、『この文章の標題部分 p1112 に、The Avatars of Vishnoo. An abstract Translation from the Pudma Pooran. By E. C. Ravenshaw, Esq とあり、 E. C. Ravenshaw は Edward Cockburn Ravenshaw(1804~1877)で、Thomas Edward Ravenshaw の叔父さんにあたります』と御教授戴き、また、御指示戴いたこちら(英文)を見ると、やはり、インドに派遣されたイギリスの民事公官であったことが判った。これで、不審氷解! 何時もお世話になるT氏に感謝申し上げる。

「非列賓」フィリピン。

F. Colin, ‘Historia Filipinas,’ Madrid, 1663, p. 64」イエズス会会員でスペイン人の東洋学者フランシスコ・コリン(Francisco Colin 一五九二年~一六六〇年:マニラ)著「フィリピンの歴史」。]

2020/12/14

御伽比丘尼卷四 ㊀水で洗煩惱の垢 付 髑髏きえたる雪の夜

 

御伽比丘尼卷之四

    ㊀水で洗(あらふ)煩惱の垢付〔つけたり〕髑髏(どくろ)きえたる雪の夜(よ)

 

Dokurikietaru

 

 むさしの品川の邊(あたり)に、米を賣買する人あり。名を庄八とよぶ。妻は去(さる)武(ぶ)の御家(〔おん〕いゑ)に給仕して、㒵(かほ)かたち、やごとなき女にてありしを、此男、かゐま見てより、戀こがれ、緣につき、便(たより)もとめて、えにしをむすび、かいらうのよるの物に、ひよくの枕をならべ、誠にわりなき中なりしに、此女、しばしばいたはる事ありて、ほどなく、むなしくなりぬ。

 夫、なげき沈む事、身もたゆる計〔ばかり〕、佛前おごそかにしつらひ、夜日(よひ)をわかず、此まヘにおりゐて、口說(くどき)、悲しむやう、

「君、十九、我、廿五の春、いとかりそめに見そめ、父母(かぞいろ)の目をしのび、人めづゝみて、ふかきまどに、いひ送り、その事にのみ、心をくるしめ、やうやう、わぎみが主君のめいをゆるされ、むぐらのやどにむかへしより、まだ三とせをば過(すぎ)がてに、悲しき我をば、かく置(をき)、しらぬ無常のたびにおもむき給ひけめ。かゝる思ひのかずかずを、今、一たび、立歸り、『哀(あはれ)』と、とはせ給へ。」

など、飯食(いんしひ)をも聞入(きゝ〔いれ〕)ず、去(さり)し女の事のみ、一向(ひたすら)思ひ臥(ふし)ゐけり。

 其日も、つらき泪(なみだ)にくれて、既に夜半(よは)のかねの比、在〔あり〕し女房、、忽然と出來れり。

 姿、むかしにかはらず。

 こしかた、語りつゞくるにも、

「いまだくちせぬ契りの侍りて、是迄、かよひ侍る。」

と、いへば、夫、うれしさ限なく、きのふけふの物おもひ、いか計とかは、おぼすなど、盡(つき)しもやらぬむつごとに、はや、東雲(しのゝめ)のしらしらと、姿は、其まゝ、消失(きへうせ)ぬ。

 是より、夜ごとにかよひきたる事、久し。

 庄八が親は、其隣なるかたに、別に家づくりて、ぼだひのつとめのみ、しゐたりけるが、庄八が女の、夜な夜な、かよふ事を聞〔きき〕て、いといぶかしく、ある雨のよ、いたうふけて、まどより、内をさしのぞけば、庄八、されたるかうべに打むかひ、哭(ない)つ笑ふつ、物がたる。

『さればこそ。』

と淺ましくおぼえければ、其ほとりに、德行(とくぎやう)すぐれ、いとたとき上人のおはしけるに參りて、「かやうかやうの事の侍る。あはれ、然べき御敎化(きやうげ)をも、なし給はれかし。」

といへば、心やすく請あひ、其夜、庄八が家にしのび、ことのやうをうかゞひ給ふに、げにも、いひしに、たがはず。

 庄八、されかうべと、ならびゐて、物かたるさま也。

 時に上人、ひやゝかなる水の、桶に湛々(たん〔たん〕)と滿(みち)しを、うしろより。庄八に、なげかけ給ふ。

 比は雪見、月のすゑ、あらしに木々の枝かれて、いとゞだに寒けきに、水さへ、いたうあびたれば、一身、こゞへ出〔いで〕て、ふるひ、わなゝき、ゐたるに、されかうべは、かい消(きえ)て、うせぬ。

 此時、上人、庄八にむかひ、

「淺ましきかな。己が輪𢌞執着(りんゑしうぢやく)の一心にて、亡者にもくるしみを增し、くらきより、猶、くらきにまよはしむる。されば、今、爰にあらはるゝは、まよへる物から、もとの女とぞ見えつらん。只、されたるかうべにて、ありき。爰に淸淨(しやうじやう)の水をかけて、ぼんのふの、にごれるをすゝぎ、正念にかへらしむる時、又、更に消て、されかうべ、なし。是〔これ〕、本來無一物(ほんらいむ〔いち〕もつ)なり。むかし、六婆羅密寺の僧、庭なるからたちばなに着(ぢやく)して、小蛇となり、定家卿の内親王に執をなし、葛(かづら)となり給ひし事、世(よ)、擧(こぞつ)て、しる所なり。たゞ、念々(ねん〔ねん〕)に執(しう)をさつて、速(すみやか)に念仏すべし。」

と、勸化なし給けるに、庄八、此時、あらためて、弥陀の宝号を誦(ず)し、仏の道に人入〔いり〕しが、心法のさとりひらけて、別事(べつじ)もなく、ありしとぞ。

 實(げに)有がたき、しめしなりけり。

 

[やぶちゃん注:「かいらうよるの物」「偕老の夜の物」。

「ひよくの枕」「比翼の枕」。

「父母(かぞいろ)」古くは「かそいろは」と読んだ。「かそ・かぞ」は「実の父」、「いろ・いとは」は「生みの母」のことを指すとされる。これは恐らくは「数」と、「イロハ」はの言葉を指し、数の持つ霊性と「言霊(ことだま)」を意味し、総て自然界の万物はそうした二つの霊性によって生成するものと考えたことによる読みであろう。

「人めづゝみて」「人目包(ひとめづつ)み」に「て」。知られぬように落ち逢って。

「ふかきまど」「深き窓」。「深」閨の「窓」。

「わぎみ」「我君」「吾君」。二人称代名詞。「あなた・お前さん」。中古後期から認められるが、「わがきみ(我が君)」から変化した語かとされ、「我が君」に比べると、遙かに親密な場合や、相手を軽く下に見ている場合に用いられ、一般には口語的用法である。

「むぐらのやど」「葎の宿」。

「本來無一物(ほんらいむ〔いち〕もつ)」禪語として知られる慧能の「六祖壇経」中の一偈。

 菩提本無樹

 明鏡亦非臺

 本來無一物

 何處惹塵埃

  菩提 本(もと) 樹(じゆ)無し

  明鏡も亦 臺に非ず

  本來 無一物

  何れの處にか塵埃を惹(ひ)かん

「六婆羅密寺の僧、庭なるからたちばなに着(ぢやく)して、小蛇となり」「今昔物語集」の巻十三の「六波羅僧講仙聞說法花得益語第四十二」。

   *

 今は昔、京の東に六波羅密寺と云ふ寺、有り。其の寺に、年來(としごろ)、住む僧、有りけり。名をば「講仙(かうぜん)」と云ふ。此の寺は京の諸(もろもろ)の人、講を行ふ所也。而るに、此の講仙、此の寺に行ふ講に、度每(たびごと)に讀師(どくし)をぞ勤めける。然(しか)れば、十餘年の間、山[やぶちゃん注:延暦寺。]・三井寺・奈良の諸の止む事無き智者に對(むか)ひて、法を說き、義を談ずるを聞く。此れに依りて、講仙、常に此れを聞くに、道心の發(おこ)る時も有りけり。

 然れば、後世(ごぜ)の事を恐れ□と云へども、世間(よのなか)、棄て難きに依りて、此の寺を離れずして有る間、漸(やうや)く年の老いて、遂に命(いのち)終はる尅(とき)に、惡緣に値(あ)はずして失せぬれば、見聞く人皆(ひとみな)、

「講仙は、終り、正念にして、定めて、極樂に參り、天上にも生(む)まれぬらむ。」

と思ふ間に、月日を經て、靈(りやう)、人に付て云く、

「我は、此れ、此の寺に住みし定讀師(ぢやうどくし)の講仙也。我れ、年來、「法花經」を說(と)きして、常に聞きしに依りて、時々、道心を發して、極樂を願ひて、念佛、怠る事、無かりしかば、後世は憑(たのも)しく思ひしに、墓無(はかな)き小事(せうじ)に依りて、我れ、小(ちひ)さき蛇(へみ)の身を受けたり。其の故は、我れ、生またりし時、房(ばう)の前に、橘(たちばな)の木を殖ゑたりしを、年來を經るに隨ひて、漸く生長して、枝、滋り、葉、榮えて、花、咲き、菓(このみ)を結ぶを、我れ、朝夕に、此の木を殖立(うゑた)てて[やぶちゃん注:育て上げて。]、二葉(ふたば)の當初(そのかみ)より、菓結ぶ時に至るまで、常に護り、此れを愛しき。其の事、重き罪に非ずと云へども、愛執(あいしふ)の過(あやまち)に依りて、小さき蛇の身を受けて、彼(か)の木の下に住(ぢう)す。願はくは、我が爲に「法花經」を書寫供養して、此の苦を拔きて、善所(ぜんしよ)に生まるゝ事を得しめよ。」

と。

 寺の僧等(ら)、此の事を聞きて、先づ、彼の房に行きて、橘の木の根を見るに、三尺許りなる蛇、橘の木の根を纏(ま)きて住(ぢう)せり。

 此れを見て、

「實(まこと)、也けり。」

と思ふに、皆、歎き悲しむ事、限り無し。

 其の後(のち)、忽ちに寺の僧共、皆、心を同じくして、知識を引きて[やぶちゃん注:同志を募って勧進し。]、力を合せて「法花經」を書寫し奉りて供養してけり。

 其の後、寺の僧の夢に、講仙、直(うるは)しく法服(ほふぶく)を着して、咲(ゑ)みを含みて、寺の僧共を禮拜して告げて云はく、

「我れ、汝等が知識の善根の力に依りて、忽ちに蛇道(じやだう)を離れて、淨土に生まるる事を得たり。」

と。

 夢覺めて後、此の事を他の僧共に告げて、彼の房の橘の木の下に行きて見れば、小さき蛇、既に死して有り。

 僧共、此れを見て、泣き悲しむで、「法花經」の靈驗を貴(たふと)む事、限り無し。

 此れを思ふに、由無き事に依りて愛執を發(おこ)す、此くの如くぞ有りける、となむ語り傳へたるとや。

   *

「定家卿の内親王に執をなし、葛(かづら)となり給ひし」謡曲「定家」(古くは「定家葛(ていかかずら)」とも呼ばれた)に基づく中世以降の仮託伝承。金春禅竹作。「新古今和歌集」を代表する歌人、式子(しょくし)内親王と藤原定家との間に秘密の恋があったとする設定で、抑圧された恋の執心を描いて、深刻にして、しかも最も優れた能の作品の一つとされる。旅の僧(ワキ・ワキツレ)が都に着き、おりからの時雨に、一つの庵に立ち寄る。女(前シテ)が呼びかけ、そこが定家の時雨亭(しぐれのちん)の旧跡と教え、荒れ果てた情景を描写する。やがて、女は式子内親王の墓の前に僧を導き、弔いを頼む。二人の恋が世に知られ、会うことの出来ずなった恨みは、あの世まで持ち越され、定家の執心は、死後も葛となって墓を覆っている。女は尽きることのない互いの苦しみを救ってほしいと訴え、自分がその亡霊と名乗って墓に消える。僧の祈りに、内親王の亡霊(後シテ)の姿が浮かび、経文の功徳によって、葛の呪縛から解かれたことを喜び、重い足を引きつつ、報恩の舞を舞うものの、再びその墓は定家葛(リンドウ目キョウチクトウ科キョウチクトウ亜科 Apocyneae 連テイカカズラ属テイカカズラ Trachelospermum asiaticum )に覆われ、暗い結末で終わる。品位と陰惨さの重層の表現が至難で、重く扱われる能である。前シテも若い姿か、中年の扮装にするか、後シテもやせ衰えた姿か、内親王の品格を主眼とするか、さまざまの演出の主張がある(以上は小学館「日本大百科全書」の私の好きな増田正造氏の解説に拠った)。同作の総ては、小原隆夫氏のサイトの「宝生流謡曲 定家」がよい。 

 さても。本話の原話は典型的な中国の民俗伝承として、今も一部では強く信じられている冥婚譚で、明代に瞿佑(くゆう)によって著された志怪小説集「剪燈新話(せんとうしんわ)」の「卷二」に所収する「牡丹燈記」に基づく翻案怪談である。原話は元末(プロローグは至正二〇(一三六〇)年正月十五日元宵節(げんしょうせつ:現行でも「灯節」と呼ぶ。これは本行事の道教に由来する部分で燈籠を飾って吉祥を呼び込んで邪気を払う意味がある)の夜)の明州鎭明嶺下(現在の浙江省寧波市内)の「湖心寺」(本話の牡丹堂の原型)近くを舞台とし、主人公は書生「喬某」、「符麗卿(ふれいけい)」と「金蓮」(実は遺体に添えられた紙人形の女中)が亡霊と侍女の名である。恐らく同原話の最初の本格的翻訳は「奇異雜談集」(貞享四(一六八七)年)であるが、それ以前に、舞台を本邦に移しながら、かなり忠実な翻案がなされてある浅井了意の「伽婢子(おとぎぼうこ)」の「卷三」の「牡丹燈籠」(寛文六(一六六六)年刊で本書(延宝五(一六七七)年刊)の十年前)があり、貞享四(一六八七)年の本書の後も、「西鶴諸國ばなし」(貞享二(一六八五)年)の「卷三」に載る「紫女」などを始めとして、多くの近世怪談に作り変えられ(その最も自由な換骨奪胎の名品は、私は、私も愛する上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年刊)の「吉備津(きびつ)の釜」であると信ずる)、近代では三遊亭圓朝の落語の怪談噺「牡丹灯籠」にとどめを刺す。言わば「牡丹燈記」はそうした怪談原型として、「流し燈籠」のように時空間を自在にメタモルフォーゼし、うねりながら、連綿と続いている、その濫觴なのである。私も高校時代の漢文の授業で出逢って以来(厳密には担当の蟹谷徹先生のオリジナル翻案のお話として聴き、サイコーに面白かった記憶が最初である)、今に至るまで激しく偏愛してきている作品である。しかし、これはそうした前記のインスパイアとしても、あまり面白くない。私の「諸國百物語卷之四 五 牡丹堂女のしうしんの事」と比べてみればよい。殆んど醜悪ではないという雰囲気は一つ認めてもよいが、しかし、加工作品としては全く生き残れる部類のものでは――凡そ――ない――ということである。残念ながら。

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(15:鶺鴒)

 

 鶺鴒、伴信友の比言婆衣卷十八に、黃鶺鴒[やぶちゃん注:底本は『黃鶺諾』であるが、原本(後掲)と初出で訂した。]を「ニハクナギ」、背黑き者を「石クナギ」と云ふ、男女交接の時、男の行ひを「クナグ」と唱ふる也。と云り。諾册[やぶちゃん注:「き・み」。伊耶那岐と伊耶那美のこと。]の二尊に男女の大道を敎へ奉れる鳥なれば、和泉式部も、「逢ふ事を稻負せ鳥の敎え[やぶちゃん注:ママ。]ずば、人を戀路に惑はましやは」と詠じ、川柳にも、「鶺鴒も一度敎へて呆れ果て」とよめり、古え西亞細亞の「アスタルテ」神の秘密儀は、神林中にて行はれしが、其林に信徒より献納せる鶺鴒鳴き遊べり、術者其肉を媚藥に作れり(Dufour, Histoire de la Prostitution,’ tom. i. P. 40, Bruxelles, 1851.)と云ふに、吾邦に古來此鳥を尊崇せしことを聞かぬは、恩に負く[やぶちゃん注:「そむく」。]の甚しき者なり、支那には諸本草之を載せず、大淸一統志に其名有る產地を擧たり、媚藥に用ひたるにや有む、但し予が現住する紀州田邊では、小兒此鳥を見る每に、「ミコテウ尾を振れ杓[やぶちゃん注:「ひしやく」。]に一盃金やらう」と呼ぶ、子細を詳にせざれども、古え此鳥を見る時祝して、吾にも頓て[やぶちゃん注:「やがて」。]汝の如くクナガしめよと望むを常習とせる遺風にやと思はる、伴氏は山城邊の兒童、鶺鴒を尾びこ鳥と云りと述たり[やぶちゃん注:句読点無しはママ。]尾をピコピコ搖かすの義か、熊楠謹んで案ずるに、交合を「マク」と云ふ詞、古今著聞集に見え、南留別志に「ミトノマクハヒ」と云ふ詞、とはメヲト也、マクハヒ今も田舍にてメグスと云ふ也」といへれば、此等より「ミコテウ」の名出來れるか、支那の厩神像鶺鴒を踏めるも(類聚名物考卷一四四)此鳥の動作、乘馬に似たるに基くならん。

 

[やぶちゃん注:「クナガ」は底本では、傍点「○」、以下の四つの太字は傍点「●」である。

「鶺鴒」「せきれい」。尾を上下に振ることでお馴染みの私の好きな鳥、スズメ目スズメ亜目セキレイ科セキレイ属 Motacilla・イワミセキレイ属 Dendronanthus に属するセキレイ類。私の和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶺鴒(せきれひ/にはくなぶり) (セキレイ)」を参照されたいが、かなり知られている、「日本書紀」の巻第一の「神代上」の第四段の一書(第五)に、初めて伊耶那岐命と伊耶那美命が交合(「遘合(みとのまぐはひ)」)をするシーンについて、

   *

一書曰。陰神、先唱曰。美哉。善少男。時以陰神先言故、爲不祥。更復改巡。則陽神先唱曰。美哉。善少女。遂將合交、而不知其術。時有鶺鴒飛來搖其首尾。二神見而學之。卽得交道。

   *

一書に曰はく、「陰神、先づ唱へて曰(のたま)はく、『美哉(あなにえや)、善男(えをとこ)を』。時に陰神、言(こと)を先(さいた)つるを以つての故(ゆゑ)に、『祥(さが)なし』と爲(な)し、更に復た、改め巡る。則ち、陽神、先づ唱へて曰く、『美哉、善少女(をとめ)を』。遂に合交(みあは)せむと將(す)るに、而かも、其の術(みち)を知らず。時に、鶺鴒(にわくなぶり)有り、飛び來つて其の首(かしら)・尾(を)を搖(うご)かす。二神(ふたはしらのかみ)、見そなはして、之れに學(なら)ひて、卽ち、交(とつぎ)の道を得。

   *

とあり(訓読は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和八(一九三三)年岩波書店刊黒板勝美編「訓讀 日本書紀 上卷」を参考にした)、二柱はコイツスの仕方をセキレイが首と尾を振る動作から、それを学んだと伝える(「古事記」にはない)。但し、言っておくと、それは長い尾を上下に振る習性(但し、イワミセキレイ属イワミセキレイ Dendronanthus indicus は左右に振る)をミミクリーとして喩えたに過ぎず、実際のセイレイの交尾行動とは関係がないので注意が必要である。

「伴信友の比言婆衣卷十八」伴信友(安永二(一七七三)年~弘化三(一八四六)年)は国学者で。「比言婆衣」(ひこばえ)は弘化四(一八四七)年から刊行を始めた、全二十巻の国史・言語・故事の考証随筆。同書の巻十八の巻頭にある「鶺鴒考」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ではここからで、引用はまず、次のコマの左ページ下段後ろから六行目以降で(句読点を打ち、推定読みを添えた)、

   *

むねと脊黑の、もはら、川邊に居り、黃鶺鴒の庭にもより來るものなるをもて按(かんが)へば、黃鶺鴒をニハクナギ、背黑を石クナギとぞ、別ち云ふめる。

   *

で、後の部分は、最初の異名羅列の中の下段一~二行目の『古事記朝倉宮の卷に載たる大御歌に麻那婆志良』とあるのを解して、次のページの上段八行目以降に、『麻那婆志良は、學問(マナビバシ)にて伊邪那岐命の交合の術を學給ふ問(ハシ)となりたる由緣なり』とあるのを繋げたものである。因みに、色からは単純には「ニハクナギ」はセキレイ属キセキレイ Motacilla cinerea に、「石クナギ」はセグロセキレイ Motacilla grandis に比定同定できそうだが、単なる比較的な謂いであるから、他種も含む可能性が全くないとは言えない。なお、ウィキの「セキレイ」の「文化」には、以上の神話を語り、『婚礼の調度に鶺鴒台』(せきれいだい:婚礼の際に供える床飾りの一つ。島形または州浜(すはま)形で、足は雲形。台上には岩を根固めに置き、鶺鴒の一つがいを飾る)『があるのはそれに由来する』とし、『日本各地にはセキレイにまつわる伝承がある。静岡県三島、広島県などではセキレイを神の鳥と称し、みだりに捕らえないのは神使以上に神に交道を教えた万物の師の意味があるという。熊本県南関では子供らがムギわらでセキレイの形を製し、「したたきたろじゃ、今日は石ゃないぞ、あした来て叩け」と囃しながら、脚を持って頭尾を上下に動かして遊んだ(動植物方言及民俗誌)。生息地のひとつ岐阜県高山では、セキレイをいじめると、「親死ね、子死ね、鍋も茶碗も破れて終え」と鳴いて呪うという。伊勢神宮の神衣大和錦にはセキレイの模様があるという(和訓栞)。台湾のアミ族の神話では、日本海の竹島ボトルに男女』二『神が天下り、ホワック(セキレイ)が尾を振るのを見て交合の道を知った(生蕃伝説集)』とし、『中国の「詩経」には「脊令」とあるが、脊(身体の背部)を揺るがす意味があるかはつまびらかにしないという』とある。また、セキレイには他に、『トツギドリ、トツギオシエドリ、トツギマナビドリ、ツツナワセドリ、ツツマナバシラ、ミチオシエドリ、チチン、セキリ』『などの別名があ』り、『その別名は、英語の wagtail と同じく』、『尻を振り動かす意が多く、ついで尾で物を叩く意、動作の形容、出現の時期場所に関するもの、飛翔の時に発するチチンチチンという鳴声に関するものなどがある』とある。

『和泉式部も、「逢ふ事を稻負せ鳥の敎へずば、人を戀路に惑はましやは」と詠じ』この歌、正規の和泉式部の一首ではない。平安末期の歌学書である藤原清輔「奥儀抄」の「下ノ上」に古歌として、

 逢事をいなおほせどりのをしへずば

      人をこひぢにまどはましやは

と出る。

『川柳にも、「鶺鴒も一度敎へて呆れ果て」』個人サイト「岩田ヶ丘から駄句冗句」の「江戸川柳」の「4 神話によれば、本句の他に、

 鶺鴒は人より先に色氣づき

 鶺鴒は極祕を神に傳授なり

 か樣遊ばせと鶺鴒びくつかせ

 ヲホホとアハハ鶺鴒の尾に見とれ

 ああ成程と伊弉諾の尊乘り

 鶺鴒の敎へた外を色々に

 鶺鴒は茶臼とまでは敎へねど

などがあるらしい。また、他のネット記載では、都都逸にも、

 神に敎へた鶺鴒よりも

   おしの番ひが羨まし

というのがあるそうである(私は川柳も都都逸も守備範囲でないので出典は不明である)。

『「アスタルテ」神』ラテン文字表記で「Astartē」で、平凡社「百科事典マイペディア」によれば、古代セム人の豊穣女神。バビロニアでは「イシュタル」、「旧約聖書」では「アシュトレト」乃至「アシュタロト」と呼び、古代中東で最も広く崇拝された大母神とある。大地の生産力の象徴で、愛と戦いの女神であり、金星がそれを支配する星とする。ギリシア神話のアルテミスやアフロディテなどに対応する、とある。

「Dufour, ‘Histoire de la Prostitution,’ tom. i. P. 40, Bruxelles, 1851.」フランスの作家で複数のペンネームを用いた作家ポール・ラクロワ(Paul Lacroix 一八〇六年~一八八四年)が、ピエール・デユフォー(Pierre Dufour)名義で書いた、「Histoire de la prostitution chez tous les peuples du monde depuis l’antiquité la plus reculée jusqu’à nos jours」(最古の古代から現代に至る全世界の民族に於ける売春の歴史)。原本を見つけたが、どうも見当たらない。

「大淸一統志に其名有る產地を擧たり、媚藥に用ひたるにや有む」清代の全支配領域について記した総合地誌。清建国(一六四四年)から約四十年後の一六八六年に着手され、一八四二年に完成した。「中國哲學書電子化計劃」で調べたところ、巻二百六十六の「安陸府」の一番最後に、「土產」として、『鶺鴒【府志當陽縣出】』と出る。

「ミコテウ」不詳。可愛らしい小鳥で「美小鳥」としたくなるが、これは案外、神話繋がりで、神楽舞に於ける「巫女鳥」なのかも知れない。但し、熊楠の結論たるコイツスの意の変形とする(ほのめかされた一種の性教育)のも私は決して退けるものではない。

「伴氏は山城邊の兒童、鶺鴒を尾びこ鳥と云りと述たり」先の「比言婆衣卷」の続きのここ(右ページ上段六行目)。

『交合を「マク」と云ふ詞、古今著聞集に見え』これは私が調べたところでは、二話で認められる。一つは「卷第十六 興言利口」の「坊門院の蒔繪師某(なにがし)、大假名(おほがな)にて返事の事」(五二七番)で、今一つは同じ巻の「聖覺法印の力者法師築地つきを罵る事」(五四三番)である。まず前者から(基礎データは岩波古典文学大系版を使用したが、その他の所持する版本も参考にした)。

   *

 坊門院に、年比(としごろ)めしつかふ蒔繪師(まきゑし)ありけり。仰せらるべき事ありて、

「きと、まいれ。」

と仰られたりければ、あさましき大假名にて御返事を申ける、

「たゞいまこもちをまきかけて候へばまきはて候てまゐり候べし」

と、かきたりけり。此ふみの詞は、あしざまによまれたり。

「こは何事の申やうぞ。」

とて、臺所のさたしける女房、その文(ふみ)見(み)さして[やぶちゃん注:「見止さして」。見るのを途中で止めて。]、なげたりけり。これによりて、蒔繪師がもとへかさねて、

「いかに、かやうなる狼藉の言葉をば申すぞ。たゞいまの程に。たしかに、參れ。」

と仰られければ、蒔繪師、あはてふためきて、まいりたりけるに、

「此御返事のやう、いかなる事ぞ。」

とて、見せられければ、

「すべて、申しすごしたる事、候はず。『只今、御物(ごもち)を蒔(ま)きかけて候へば、蒔きはて候ひて參り候べし』と書きて候へ。」

と申ければ、げにも、さにて、ありけり。假名は「よみなし」といふ事、まことにをかしき事なり。

   *

「たゞいまこもちをまきかけて候へばまきはて候てまゐり候べし」「只今、御物(ごもち)[やぶちゃん注:御道具。]を蒔きかけている最中にてありますによって、それを蒔き終えてから、参上致します。」の意であるが、すべて大きな「かな文字」で書いたために、その読みとり方(「よみなし」)を、女房が誤って、「只今、子持ち女を枕(ま)きかけております最中で御座いますれば、その交合(まぐわい)を終えましてから、やおら、参りましょう。」というトンデモない意味にとってしまったのである。次に五四三番。

   *

 持明院に「なつめだう」といふ堂あり。淡路入道長蓮が堂なり。築地(ついぢ)のくづれたりけるを築(つ)かせけるに、築くものども、をのがどち、物語すとて、聖覺法印の説經の事などをかたりけり。

 其折しも、聖覺、輿(こし)にかゝれて、其前を、とをりけるに、これらが物語に、「聖覺の」といふを、ともなる力者(りきしや)法師、きゝとがめて、

「おやまきの聖覺や、はゝまきの聖覺や。」

など、ねめつゝ見かへり、にらみけり。

 築地つきをのるにてはあれども、當座には、主(しゆう)をのるとぞ、聞えける。

「かゝる不祥こそありしか。」

と、かの法印、人にかたりて、わらひけり。

   *

「聖覺」(しょうかく/せいかく 仁安二(一一六七)年~文暦二(一二三五)年)藤原信西の孫で僧・歌人。安居院(あぐい)法印。父の業を継いで、説経・唱導の名人として後鳥羽院の信任を得、安居院一流の基礎を築いた。天台僧である、後に法然の門に入り、「唯信抄」を著わしたことでも知られる。法然の弟子の内で、親鸞が特異的に尊敬した一人であり、親鸞は「唯信抄」を人々に勧め、それをもとに「唯信抄文意」を作っているほどである。「力者法師」寺院に仕え、僧体を成しながらも、輿舁(こしか)きや力仕事に従事した筋肉系の荒法師。その彼が、下賤の者が尊き法主である主人の名を呼び捨てして話しているのをちら聴きして、てっきり悪口を言っているものと勘違いし、彼らを威圧するために、如何にも下賤の者に相応しい言い方で「おやまきの聖覺や、はゝまきの聖覺や。」、則ち、「本物の聖覚さまではない、親とまぐわったどこぞの犬の聖覚かッツ?! それとも、母親とつるみ合ったどこぞの畜生の聖覚かッツ?!」と築地築(ついじず)きの職人たちに嚇しをかけたのであった。それを輿の中でわけも判らず、耳にした聖覚が、突如、自分のことを、その法師に罵られたかのように感じて、「こんな当惑することに遭(お)うたこともありましたのう」と回想して述べたというのである。

『南留別志に「ミトノマクハヒ」と云ふ詞、ミとはメヲト也、マクハヒ今も田舍にてメグスと云ふ也」』「南留別志」荻生徂徠が書いた考証随筆。宝暦一二(一七六二)年刊。元文元(一七三六)年「可成談」という書名で刊行されたが、遺漏の多い偽版であったため、改名した校刊本が出版された。題名は各条末に推量表現「なるべし」を用いていることによる。四百余の事物の名称について、語源・転訛・漢字の訓などを記したもの。吉川弘文館随筆大成版の活字本もあるが、ここでは「人文学オープンデータ共同利用センター」の「日本古典籍ヴューア」にある刊本(宝暦一二(一七六二)年版)の当該部を視認したものを示す。頭の「一」は外した。句読点・記号を添えた。

   *

「みとのまくはい」といふ詞、「みと」は「めをと」なり。夫妻といふ事なり。「まくはい」といふ詞、今も田舎にて「めぐす」といふなり。

   *

「支那の厩神像鶺鴒を踏める」「類聚名物考卷一四四」。「類聚名物考」は江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で同刊本を視認したところ、ここに発見した(巻百四十四の「武備部十一」の「馬」の内の「猿を馬の守りとする事」の文中である。説明文中の字空け部その他必要と判断した箇所は句点或いは読点に代えた。

   *

〇猿を馬の守りとする事 〇〔萬物故事要决〕猿を馬の守りとて、馬屋に掛るハ、如何なる猿をハ、山父と稱し、馬をバ山子と云へハ、父子の義を以て、守りとする歟。但馬櫪(レキ)神とて、厩の神在す。その形像を圖するにハ、兩足の下に、猿と鶺鴒とを踏せて、二手に劍を持しめたり。宋朝にハ、是を馬の守りとそ。化神の踏る物なれハ、猿ばかりをも用るにや、櫪の字ハ、ふみいた、なり。然るを、馬寮式云、以櫪艘、宛馬二疋、と云々、うまぶねとも讀なり。常にハ槽字を、うまぶね、と、よむ。櫪ハ二ツに通するには。

   *

「萬物故事要决」は享保一二(一七二七)年刊の類書。「新日本古典籍総合データベース」のここで当該箇所を視認出来る。「宋朝にハ、是を馬の守りとそ」(「そ」は「ぞ」)とあるから、「支那の厩神像」と熊楠が言うのは問題ない。この図像は、私の『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(27) 「馬櫪神ト馬步神」(1)』で解説され、私がネットで拾った「北斎漫画」の「馬櫪尊神(ばれきそんじん)」の画像を掲げてある。続く、同じ『「河童駒引」(28) 「馬櫪神ト馬步神」(2)』及び、少し後の『山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(32) 「守札ヲ配ル職業」(2)』も参照されたい。後者では、たまたま、「猿と河童」について、熊楠が情報提供しており、名が出る。]

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(14:燕)

 

 燕、紀州にて、秋葉の神使なれば、之を殺さば火災有りと云傳ふ、太古より、諸國に燕を神物とする例、多く予未刊の著燕石考に集めたり。

 

[やぶちゃん注:「燕」スズメ目ツバメ科ツバメ属ツバメ Hirundo rustica。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 燕(つばめ) (ツバメ)」を参照されたい。

「秋葉の神使なれば、之を殺さば火災有りと云傳ふ」「秋葉」は「秋葉権現」。秋葉山(あきはさん:静岡県浜松市天竜区春野町領家にある赤石山脈の南端にある標高八百六十六メートルの山。山頂近くに「火防(ひぶせ)の神」である秋葉大権現の後身である秋葉山本宮秋葉神社がある。江戸時代までは秋葉社と秋葉寺の両方が存在する両部神道であったが、明治の神仏分離・廃仏毀釈によって秋葉山は神社と寺院とに分離され、現在は秋葉神社上社は秋葉山山頂に、曹洞宗秋葉寺は山腹にある。グーグル・マップ・データ)の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神。ウィキの「秋葉権現」によれば、『火防の霊験で広く知られ、近世期に全国に分社が勧請され』、『秋葉講と呼ばれる講社が結成された。また』、明治二(一八六九)年十二月に『相次いだ』、『東京の大火の後』、『政府が建立した鎮火社(霊的な火災予防施設)においては、本来』、『祀られていた』官製の神格は無視され、『民衆が秋葉権現』として『信仰した。その結果、周囲に置かれた延焼防止のための火除地が「秋葉ノ原」と呼ばれ、後に秋葉原という地名が誕生することになる』とあった。「秋葉原」成立史の非常に面白いエピソードなので敢えて引用した。閑話休題。思うに、燕が人家の軒に繰り返し安心して営巣すること(本邦では、火災に限らず、古くから燕の営巣する家は万事安全で、商売なども繁昌するとされる)や、喉と額が赤いことが火をイメージしつつ(フレーザーの謂う類感呪術)も、それが逆に実際の火に対峙する防禦シンボルとなっているのであろうと私は思う。

「燕石考」南方熊楠が最重要著作として、刊行を望んでいたが、遂に自身による邦訳も成されないままに、英文も未刊で終わった、論文「The Origin of the Swallow-Stone Myth, c.1899-1903」(「燕の石」神話の起源)。明治三十二年から明治三十六年にかけて執筆されたもの。「燕石」とは、判り易く言えば、「竹取物語」に出る「燕の子安貝」もその一つであるとだけ言っておこう。サイト「南方熊楠を知る事典」(私は原本一九九三年講談社(現代新書)刊も所持している)のこちらによれば、『ロンドン時代の終わりに構想がたてられ、那智時代に補筆・完成された「燕石考」は、熊楠の英文論攷の一つの到達点を示す作品である。『ネイチャー』、『ノーツ・アンド・クィアリーズ』の両誌に寄稿したものの不掲載となったこの論攷は、五種類の草稿の形で残されていたのを岩村忍が校訂し、平凡社版『南方熊楠全集』別巻一に収録された。岩村によれば、草稿のうちの二種類のものには、一九〇三年三月三十一日の日付があるというが、これは同日の日記の「燕石考一本謄本とりにかヽる」や、翌四月一日の「朝早起、燕石考清書謄本成る」の記事と合致するから、おそらく最終稿と考えてよいであろう』。そこではまず、『熊楠は中国・日本における燕石の伝説に関して紹介していく。すなわち、石に関しては古今無双の博物学者である木内石亭の『雲根志』を参考にしつつ、薬用の化石として、雲母片岩の一種として、『竹取物語』にあらわれる安産のお守りとして、ごみを取りのぞくために目に入れる貝の蓋として、といった東洋での「燕石」のヴァリエーションが挙げられる。そして、そうした「燕石」の伝承のそれぞれと、非常に似通った対応をする伝承が西洋にもあることが記されているのである』。但し、ネタバレとなるが、『この疑問に対して、残念ながら「燕石考」の中には熊楠の答えを見つけることができず、曖昧な記述にとどまっている。だが、私は文章全体の調子からいって、この論文の場合にも西洋と東洋の間の文化伝播が示唆されているといってよいと』熊楠が『考えている』こと、『つまり』、『西洋の燕石の伝説は、中国のそれと密接な関係を持ちながら形成されたことを熊楠が認めていた、ととるべきだと思う』と筆者の松居竜五は評された後、内容について、『そのような宣言とともに熊楠が挙げていく「燕石」の伝説は、子安貝やスピリフェルの化石、貝の蓋、燕の習性など、多岐にわたっている。それらをここであえて簡単に整理するならば、形態的な類似が、一つのキーポイントになっていることが注目されるだろう。つまり、子安貝は女性器との外見上の類似から安産と結びつけられ、スピリフェルの化石はその格好が燕と似ているから「燕石」と呼ばれ、目の掃除用に使われる貝の蓋は酸に入れた時に小さな泡を発生させるために多産の象徴となる、といった具合である』。『実は、こうした形態的類似を根拠とする俗信の科学的な解釈という方法は、ロンドン時代の熊楠の英文論攷に多く見られるものであり、人間の想像力のパターン性の追究という「事の学」のモチーフをそのまま引き継ぐものにほかならない。そして、「燕石考」において特徴的なのは、この「事の学」のモチーフと、東洋と西洋の俗信を結ぶ文化伝播論のモチーフという熊楠の初期の二つの思考の流れが、ここで統合されようとしていることなのだ。つまり、「燕石考」が熊楠の英文論攷の到達点たり得ているとすれば、その理由は熊楠が数年にわたってこの統合の試みの場として「燕石考」を練り続けていた事実にこそあると考えられるのである』と結んでおられる。私は「選集」及び河出文庫版「南方熊楠コレクションⅡ 南方民俗学」のそれを持っており、貝類学の趣味の関係上、非常に好きな論文なのであるが、孰れも岩村忍氏の訳で著作権存続であるから、残念ながら、電子化は私の生きているうちには出来ない。]

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(13:鳩)

 

 ○鳩、を神物とし、獨伊和露の民之を食はず、古えシリア及びパレスチナの民甚之を敬せり(Gubernatis l. c, ch.x)從つて天主徒亦之を崇め、ラヴエンナの寺え[やぶちゃん注:ママ。]、聖魂十一度鴿形を現じ、來りて十一僧正を撰定し(Careri, ‘Travels through Europe,’ 1886, in Churchill’s ‘Collection,’vol. iv. p. 574.)東京で鳩を殺さしめて、キリスト敎徒か否を檢定せる(Marini, ‘Historia del Tunchion’ Roma, 1665, p. 7)等、珍譚多し、吾邦にも、八幡の氏子ならでも、一生之を食はぬ人多ければ、八幡山に多きのみが鳩を神物とする理由ならじ。

 

[やぶちゃん注:ネット上には日本語のハトの民俗的博物誌記載が余りない。こういう時に頼りになるのは荒俣宏氏しか、いない。氏の「世界大博物図鑑4 鳥類」(平凡社一九八七年刊)の「ハト」項の「博物誌」より引く(ピリオド・コンマは句読点に代えた)。

   《引用開始》

 さてキリスト教普及後のヨーロッパでは、ハトは霊魂あるいは聖霊の象徴となり、しばしば天啓の訪れや昇天、聖霊降臨などの化身とされた。とりわけ白いハトは聖人の魂に擬せられ、殉教者の目からこれが飛び惣つと信じられた。あらゆるものに変身できるという魔女もハトにだけは化けられぬとも、この羽を入れた布団に寝かされた重病人は死なないともいわれた。またその旺盛な繁殖力や生命力から、豊饒の象徴と考えられた。さらにオリーヴの枝をくわえたハトは平和の象徴に用いられる。これはノアの洪水のとき、陸地がふたたびあらわれたかどうかを調べるために方舟から放たれたハトがオリーヴの小枝をもち帰ったという〈創世記〉8章8~11節の記事に由来する。ハトとオリーヴはともに古代から無垢と平和の象徴とされており、とくに1949年パリで開かれた国際平和擁護会議では、ピカソのデザインによるポスターがつくられ、世界中に浸透した。

 もっとも方舟から放たれたハトは安全なすみかを失った悲しみのあまり、胆のうを破ってしまった。長米、ハトには胆のうがなくなったという。

 ともあれハトは豊饒と平和のイメージから清潔さとも結びつき、さらに女性名とも関連をもった。旧約聖書の〈ヨブ記〉42章14節によると、ヨブは長女をエミマ Emima と名づけた。一説には、この名はアラビア語のハトの呼称に由来し、東洋では絶世の美女につけられる名前だという。ギリシア神話にあらわれる美貌の女王セミラミス Semiramisの名も、アッシリア語で〈ハトからきた者〉の意とされる。またこの鳥は美神アフロディテやウェヌスの聖鳥ともされた。新大陸の発見者コロンブス Columbus の名もラテン語ではハトを示すため、この鳥はしばしばアメリカの象徴に用いられた。

 ユダヤ人たちは、神に捧げられる清潔な鳥はハトしかないと信じていた。したがって中世には、ハトの肉も病気に穢されないと考えられ、ペスト流行時にも平気で王侯達の食卓に出されたという。

 いっぽう、キジバトのように小型で美しい種類は、愛玩用としても中世人に愛された。キジバトは夫婦の貞節の象徴で、一方が死ねば他方も思い焦がれて死ぬと考えられたから、家庭平和のシンボルであった。またその嗚き声が肉欲をいましめているように聞こえるからともいう。

 反面、この鳥は黒魔術の道具にも用いられる。この鳥の心臓をオオカミの皮にくるんで身につければ、あらゆる感情を消すことができる。また、あしを木につるせば実がならない。その血をモグラのスープに混ぜたものをムダ毛にこすりつけると、きれいに抜け落ちると信じられもした。

 またマホメットは1羽のハトを飼い、自分の耳に餌を入れてそれをついばませたといわれ、ここよりイギリスのエリザベス朝期には、この鳥を霊鳥として、マホメットはハトから霊感を得たという俗信が広く流布した。シェークスピアの《ヘンリー6世》1幕2場でも、フランス皇太子シャルルが乙女ジャンヌに向かい〈マホメットが鳩によって霊感を得たのならおまえはどうやら鷲によって霊感を得たらしい〉というセリフを吐いている。

 またアラビアでは、樹や岩場にはえるコケ類の一種を〈ハトの糞(ふん)〉ないし〈スズメの糞〉とよんだ。これはある種のマメ類やエンドウ類のよび名にも用いられ、ヘブライ語でも同様に衷現する。したがって日本聖書協会発行の聖書〈列王記〉第二6章25節で、銀5シケルで売られたとされる〈はとのふん〉は、本来なら〈マメ〉と訳すべきところだろう。

[やぶちゃん注:中略。]

 ところで、ヴェネツィアのサン・マルコ広場に集まるカワラバトは、いわゆる神殿バトの開祖といわれるくらい古くから知られていた。そのため人びとのマスコットとして親しまれ、その餌はながらく市の費用でまかなわれていたが、1950年代になると、ある保険会社が餌代を負担しようと申し出た。むろんこの会社、単に善意で奉仕的活動をはじめたわけではなく、本当の目的は自社の宣伝にあった。午前9時、サン・マルコの鐘が鳴るのを合図に、保険会社の社員がひとり、餌のトウモロコシで、ある文宇を描いて播くのだ。するとハトは餌をめがけて集まり、またたく間に〈人文字〉ならぬ〈ハト文字〉ができあがる。描かれた文字はアルファベットのAとG、つまりこの保険会社〈アシクラツィオーニ・ゲネラーリAssicuraziom Generali〉のイニシャルだったのだ。

 中国には、ハトは別の鳥に化身するという説があっ仁。《禽経註》は〈仲春に鷹が化して鳩となり、仲秋に鳩がまた化して鷹となる。故に鳩の目はやはり鷹の目のようなのだ〉と述べ、《禽経》には〈鳩は三子を生じ、一は鶚(ミサゴ)となる〉とある。

 ハトの1グループである〈斑鳩〉は春分に化して黄褐侯(アオバト)となり、秋分にはもとに戻ることが、古来信じられてきた。しかし《本草綱目》に〈嘗て数年間飼養してみたが、一向に春秋分に変化したものはなかった〉と述べているのは興味ぶかい。また同書は、ハトは厳格で孝行な性格だが巣をつくるのが下手だとし、さらに雨が降りそうなときは雄が雌を追い、晴れるとその反対に雌が雄に呼びかける、としている。

 ハトに関する奇妙な習慣もある。中国人は、ハトはものを食べても決してむせることがないと信じた。それにあやかり、仲秋にはこの鳥の姿を杖の先にかたどり、〈鳩杖〉とよんで老人に贈った。日本でも80歳以上の功臣に宮中からこの杖が下賜された。また、むせたときは掌に鵠の字を指で書けばすぐに治るともいわれた。

 中国や日本では古来、ハトの肉は美味として猟鳥とされた。それを食えば、目をよくし、気を補い、むせることがなくなるという。またこの鳥の肉をたたき、骨とともに酒に入れたものは〈鳩酒〉とよばれ、腰痛や冷え症に効くとされた。

 いっぽう、猟師たちは両の掌を合わせて吹き、ハトの鳴き声をまねてシカなどをよび寄せた。これを〈鳩吹く〉という。さらに〈鳩笛〉といって、この鳥の鳴き声を出す笛もつくられた。

 曰本の故事によればシラコバトには八幡鳩(はちまんばと)の異名がある。この鳥が八幡山に群棲し、八幡宮の神の使いとみなされたことによる。またそこの氏子が誤ってそれを食べると唇が腫れて悶え苦しむともいわれた。さらにこの鳥は形状から数珠掛鳩(じゅずかけばと)とか、鳴き声がトシヨリコイと聞こえることから老来(としよりこい)の異名もある。ちなみに日本ではキジバトを京都で〈トシヨリコイコイ〉とよんだ。しかし九州ではその鳴き声をヨソジコイコイと聞いて〈四十路(よそじ)バト〉と称し、東北ではイポウポウとかアポウポウと聞いた。

 八幡(はちまん)信仰にはしばしばハトの図や像がついてまわる。これはハトが八幡の神使とされるためだ。軍神として古くから武家の信仰が厚く、総社は石清水(いわしみず)八幡宮。清和天皇の時代に宇佐八幡の神を山城(やましろ)の鳩ヶ峰に遷したのがこの神宮である。ただし、源頼朝は幕府をひらいたとき、鎌倉鶴岡に八幡宮を建てた。鳩が鶴に変わり、さらにご利益が増したかもしれない。

 なお、曰本では斑鳩を〈いかるが〉と読むが、《重修本草綱目啓蒙》によると、この訓はスズメ目の鳥イカルの古名で、文宇を誤用したものといわれる。

 日本の近世初期には、山伏や占者などの姿をして全国にまたがって詐欺をはたらく輩が横行し、〈鳩の戒(かい)〉とよばれた。一説にはこれは〈鳩の飼〉と記し、かれらが神社のハトの飼料にするためと称して金銭をだましとったことに由来する名称という。しかし《浮世物語》には、ハトはウグイスの巧みな巣づくりをまねるが、結局枝のあいだから卵を落としてしまう、また秋にはタカに化けてそのまねをするといった俗信から、ハトは化けて詐欺をはたらくとしてこの名がついた、とある。[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

一部、信仰対象とは異なる記載もあるが、熊楠も生きていたら、とても面白がって読むだろうと思うたので、そうした部分も敢えて引いた。

「伊」とあるが、少なくとも現在のイタリアではハトを食べる。しかも、最後に「吾邦にも、八幡の氏子ならでも、一生之を食はぬ人多ければ」ともあるが、私自身、トスカーナ家庭料理のフル・コースの一品として食べたことがある。美味い。

「Gubernatis」既出既注だが、再掲しておくと、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)で、著作の中には神話上の動植物の研究などが含まれる。

「ラヴエンナ」イタリアのエミリア=ロマーニャ州ラヴェンナ県の県都のあるラヴェンナ(Ravenna)。古代ローマ時代から中世にかけて繁栄した都市で、西ローマ帝国や東ゴート王国が首都を置き、東ローマ帝国ラヴェンナ総督領の首府でもあった。

「聖魂十一度鴿形を現じ、來たりて十一僧正を撰定し(Careri, ‘Travels through Europe,’ 1886, in Churchill’s ‘Collection,’vol. iv. p. 574.)」ジョヴァンニ・フランチェスコ・ジェメリ・カレリ(Giovanni Francesco Gemelli Careri 一六五一年~一七二五年)はイタリアの冒険者・旅行者。公共交通機関を用いて世界を旅した最初のヨーロッパ人の一人で、彼の体験が、ジュール・ヴェルヌをして、「八十日間世界一周」(Le tour du monde en quatre-vingt jours:一八七三年出版(初出は前年のパリの新聞『ル・タン』(Le Temps)に連載)を著す契機となったとされる人物であり、「世界初のバックパッカー」とも称される。詳しくは参照した彼の日本語版ウィキを見られたい。彼の当該紀行「ヨーロッパの旅」(Viaggi in Europa)は一六九三年刊行。「十一僧正」は使徒のことと思うが、「十一」という数字は不審であるが(原型の十二使徒の内のイエスを裏切ったイスカリオテのユダを除いたものか)、原本に当たれないので聖堂名も象徴の意味も判らない。ラヴェンナは「初期キリスト教建築物群」でもとみに知られるが、イタリア美術の研究家によるラヴェンナのハト装飾図像レポートも読んだが、「十一」という数列を見出せない。識者の御教授を乞うものである。

「東京で鳩を殺さしめて、キリスト敎徒か否を檢定せる(Marini, ‘Historia del Tunchion’ Roma, 1665, p. 7)」この引用部分は初出は同じだが、平凡社「選集」版では『(Marini, ‘Historia et Relatione del Tunchino e del Giappone,’ Roma, 1665, p.7)』となっている。筆者ジョバンニ・フィリッポ・デ・マリーニ(Giovanni Filipo de MARINI 一六〇八年~一六八二年)はイタリア人イエズス会員で、東洋での布教を志し、一六三八年にインドに渡り、後、トンキンで十四年間の伝道をし、マカオにも赴き、同地のイエズス会コレジオ(神学校)の学長も務めた。一時、ヨーロッパに戻ったが、一六七四年には東洋管区長として再赴任し、マカオで没した。東洋管区長と言っても、彼が最初にインドに赴任した頃、既に日本は厳しい禁教令下にあり、マリーニは一度も日本に渡っていない。本書の表題は「日本及びトンキンとの歴史と関係」となっているが、日本に関する部分は極めて少ないものと判断される(以上は「京都外国語大学図書館」公式サイト内の「MARINI, Gio. Filippo de "Delle missioni de' padri della Compagnia di Giesu " Roma : 1663 マリーニ 『イエズス会布教録』」の解説を参考にした)。原本は「日文研」のこちら(PDF)で視認出来るが、イタリア語でしかも古語のため、全くお手上げである。しかし、この話、「ほんまかいな?」とちょっと疑りたくなる。キリシタン弾圧の中でこんなことが信徒であるかどうかの判定法としてあったという話は少なくとも私は聞いたことがない。また、長崎学Web学会の「旅する長崎学」のコラム「銅版画家 渡辺千尋さんインタビュー」に、渡辺氏が『有家町(現南島原市)から』、二十六『聖人が処刑された』(慶長元年十二月十九日(一五九七年二月五日))に二十六人のカトリック信者が豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された)『同じ年に、「セビリアの聖母」の』銅版画が制作されていたが、その復刻を依頼されて原画を見たところが、『二十六聖人が処刑された時代に作られて、有家版の幼子キリストの手に持つハトの絵が消されてしまっているというスゴさがあります。ハトは、ヨーロッパでは平和の象徴です。あくまで推測ですが、その当時の日本人にはそんな概念はなかったのではないでしょうか。マリアの右手に持つ花。西洋ではバラが描かれていますが、日本では見たことがなかったでしょうから、「バラとは椿みたいな花ですよ。」と教えられたかもしれない。ハトは日本にもいたでしょうから描けないことはないのですが、イコン制作者はわざと絵の中から消してしまっています。では、聖画のなかの重要なシンボルを消すとは、いったいどのような心理状態だったのでしょうか』と疑問を呈しておられ、これはこれで、摩訶不思議な仕儀ではあるのである。]

2020/12/13

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(12:鷺)



 ○鷺、太平記に氣比宮の神使と云り、山二二六頁所載鷺大明神は、懷橘談に據れば、出雲に在り、素盞嗚尊の娘美女なりしが、天瘡にて醜く成る、神祇に誓ふて、未世の人民に疱瘡を免れしめんと云ふ云々、惟ふに鷺の羽疱瘡を撫るに快きに思ひ寄せて生ぜる話なるべし。

 

[やぶちゃん注:初出では、「惟ふに」(おもふに)以下の部分が、

   *

惟ふに鷺の羽輕く柔らかにして、疱瘡を撫るに快きより、鷺の宮の名に思い寄せて生ぜる話なるべし。

   *

となっている。

「鷺」の博物誌ついては、「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷺(総称としての「白鷺」)」を参照されたい。因みに、そこで注している通り、「シラサギ」「シロサギ」という種は存在しない。白い羽毛を持つサギ類(新顎上目ペリカン目 Pelecaniformes サギ科 Ardeidae )の中で、ほぼ全身が白い(特定期間を含む)サギ類の総称通称であり、そちらの私の注の冒頭で本邦産のそれらの種は総てを示してある。

「太平記に氣比宮の神使と云り」「太平記」巻第三十九の「太元(たいげん)より日本を攻むる事」の「文永の役」の記載の終わりの敵国調伏に関わる一節、

   *

この外、春日野の神鹿・熊野山の靈烏・氣比宮の白鷺・稻荷山の名婦(みやうぶ)・比叡山の猿、社々の使者、悉く虛空を西へ飛び去ると、人ごとの夢に見へたりければ、「さりとも、此神々の助けにて、異賊を退け給はぬ事はあらじ」と思ふ許りを賴みにて、幣帛、捧げぬ人も無し。

   *

この「氣比宮」は福井県敦賀市曙町にある氣比神宮(けひじんぐう)のこと(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。現在、同神社の境内には鷺を使者とすることを示すようなものはないようだが、ここから西に二キロメートルほど行った海岸一帯を「気比の松原」と称し、ここは嘗ては氣比神宮の神苑であった。同グーグル・マップのサイド・パネルで読める同所にある説明版によれば、『ここ気比の松原は三保の松原(静岡県)虹の松原(佐賀県)とともに日本三大松原の一つに数えられている』。『その昔聖武天皇の御代に異賊の大群が来襲した そのとき敦賀の地は突如震動し一夜して数千の緑松が浜辺に出現した そして松の樹上には気比神宮の使鳥である白鷺が無数に群衆し あたかも風にひるがえる旗さしもののように見えた』。『敵はこれを数万の軍勢と見て恐れをなしたちまちのうちに逃げ去ったという』。『この伝説に因んで』「一夜の松原」『とも称せられる』とある。

「山二二六頁所載鷺大明神」山中笑「本邦に於ける動物崇拝」の「此等の動物崇拜さるゝ原因」の「其一 各自に就て」にある、

   *

鷺 庖瘡の守神に、鷺大明神と云ふあり。此神の愛で玉ふ鳥と云ふ。

   *

を指す。但し、そこより前の「崇拜さるゝ動物の種類」の章に、『鷺  鷺大明神として疱瘡を輕くす』と出してはある。「鷺大明神」は現在の出雲市大社町鷺浦にある伊奈西波岐(いなせはぎ)神社のこと。

「懷橘談」松江藩の藩儒であった黒沢石斎が書いた出雲地誌。前編は承応二(一六五三)年、後編は寛文元(一六六一)年完成。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(谷口為次編・大正三(一九一四)年刊・「懐橘談・隠州視聴合紀」合本版)の、「神門部」の「鷺宮」に(踊り字「〱」は正字化した。一部の読みは私が推定で附した)、

   *

鷺宮は何れの神を崇め侍るやと牧童に尋ね侍れば、是は素盞鳴の妾(しやう)にてましましけるが、天成の霊質にて御契(おんちぎり)淺からざりしが、後に天瘡を患ひ給ひ、花の顏(かんばせ)、忽に變じて惡女(しこめ)とならせ給ひ、素盞嗚の命と御中もはやかれかれにならせ給ふ。かくて妾女我身の色衰へたる事を悲しみ、天神地祇に深く誓ひ給ひて、末世の人民我に祈る事あらば疱瘡の患を免れしめんと誓約し給ひし故に、今に至るまで此の宮の石を取りて子兒の守袋(まもりぶくろ)に入れてかけぬれば、痘疹の病を脫(のが)るといひ傳へたりとぞ年老ひたる社司の語りしは、これは瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)なり、傳記にいふ所は昔神託兒童而祈我者免痘瘡之患爾來爲痘瘡守護神云々、殊勝にぞ覺え侍る

   *

漢文部分は訓読すれば、「昔、神、託して、『兒童にて我れを祈る者は、痘瘡の患(わづら)ひを免(まぬか)れしむ』と。爾來、痘瘡の守護神と爲(な)す」か。熊楠のそれは、「素盞嗚尊の娘」とするが、ここでは彼の側室である。しかし、神代であるから、娘が妻であって何ら問題はない。寧ろ、素戔嗚の呪力を持つ娘であり、妻であるというハイブリッドの方が腑に落ちる。また、「未世」は初出を見ても「末世」とあるから、誤植と考えてよいのだが、そもそもが、この時制にあっては「末世」という仏教臭い熟語は相応しくない。寧ろ「未」来の「世」に於いてという方が、私は躓かずに読める。実際、疱瘡=天然痘は遂に未来の現世に於いて(いや。やはりそれは別な意味で、人類存在の「末世」であるのかも知れない)、絶滅されたのである。

御伽比丘尼卷三 ㊃恥を雪し御身拭 付リ ふり袖けんくわのたね

 

   ㊃恥を雪(すゝ〔ぎ〕)し御身拭(〔おん〕みのごひ)付リふり袖けんくわのたね

 

Hurisode

 

 都の嵯峨淸凉寺の釋迦は、赤栴檀(しやくせんだん)の尊影(そんえう)にして、毘首羯磨(ひしゆかつま)が作りしとかや。三國傳來ましまし、今、此土の衆生を化度(けど)し給ふ。れいげんいちじるく、諸人(しよにん)、步(あゆみ)をはこぶ事、他にすぐれり。

 中比、大坂の何がしの老母、

「此御仏を拜(をがみ)なん。」

とて、はるばるの道を經てまうで、御戶開帳し、まぢかくおがみ奉るに、御本尊、更にま見えさせ給はず。いとかなしみ、是より、としどし詣(まうづ)るに、つゐに拜む事を得ずと。

「いかなる罪障によりてか、かくは在〔あり〕けむ。」

と淺まし。

 いつも、彌生の末の九日は、「御身拭(〔おん〕みのごひ)」とて、すしやうなる法事あり。さらでだに、まうづる袖の引〔ひき〕もきらぬに、まして、照日(てり〔ひ〕)の春がすみ、人の心のうき立〔たち〕、後世(ごせ)ならぬものも、おのづから、步をはこぶ事になん有ける。

 爰に樋口の小路に、何がしの惣七郞とかやいふ、わかうどあり。其隣なる家に甚の丞とて、やごとなき少年ありけるを、とやかくいひかたらひて、人しれず、兄弟(はらから)の約(やく)をなせしが、けふしも又、人め包(づゝみ)て、たゞふたり、さがのかたへ、心ざし行〔ゆく〕。

 仏の御まへには、人、たちこみて、たゝずむべくもなきを、やゝやすらひ、心靜(〔こころ〕しづか)にねんずし、

「本道は、人め、しげし。」

と、わざと、かたへの細道をつたひ、下(しも)さがへと、あゆみ行〔ゆく〕。

 むかふより、大の男の、むくつけきが、ながきかたなに、はち卷したる、ゑい心〔ごこち〕ちと見えて、そゞろ、歌、しどけなく、うたひ、たはぶれ來(きたり)しが、甚の丞を見て、

「扨。うつくしき御すがたや。かく、ほそき道のほど、御いたはしくこそ候へ。こなたへ。」

と、いだきとゞめ、ふところに手を入〔いるる〕など、らうぜきなるふるまひ、惣七郞、見かねければ、

「こは、理不盡なる人々かな。是は、ちと急用の事侍りて、下さがへまかるものに侍り。そこ除(のき)、とをし給はれ。」

と、いへば、

「何、かしがまし。其おとこ、物な、いはせ。」

と、二人の男、とびかゝり、左右より、引(ひつ)ぱりて、いふ。

「先ほど、是なる少年を見そめしより、むねとゞろき、心くれて、いかんとも、せんかたなし。おもふに、此少人(せうじん)は、其かたが、弟ぶんなるべし。左あらば、只今、此方〔こなた〕へ、わたすべし。異儀におよばば。」

と、水のごとき、ときかたなをぬいて、心もとにさしあてたり。

 惣七も、甚の丞も、かく手ごめにあひぬる上は、爲方(せんかた)なく、言(ことば)をたれて、

「誠に、賤(しづ)の悴(せがれ)に御心をかけ給ひ、有がたく社(こそ)侍れ、乍ㇾ去(さりながら)、これを渡し參らせなば、一ぶん、いかで立〔たち〕申さむ。たとひ、骨をかたはしにくだかれ、身を此まゝにきざまれ申〔まうす〕とても、ふつと、かなひ候〔さふらふ〕まじ。たゞ願(ねがはく)は、いかならん、茶店(ちやてん)へも友なひ、盃(さかづき)をまいらせ、各(おのおの)の御心〔みこころ〕をはるけさせ申さんに、御ゆるしあれかし。」

と、いへば、やゝ暫(しばらく)、物おもへるさまして、

「實(げに)。能(よく)めされたる了簡かな。さあらば。」

と、かたなをおさめ、打つれ、町に出て、ある茶店に入ぬ。

 酒、一とをり、めぐりて後〔のち〕、きよらなる膳部、手を盡し、山海の珍肴(ちんかう/めづらしきさかな)をとゝのへ、

「誠に、今日の御芳志、命(いのち)のおやと存〔ぞんず〕るにぞ。かくは、もてなし侍る。せめては、きこしめされよ。」

など、打とけて、盃のかず、十(とを)を二つ三つ、ゆび折(をる)比は、三人共に、醉(ゑい)出〔いで〕て、少(すこし)まどろみゐけるを見て、惣七も、甚の丞も、いづちともなく、失行(うせ〔ゆき〕)ぬ。

 やゝありて、茶店の亭主、出て、

「けふの賄銀(まかなひしろ)、申請(〔まうし〕うけ)たし。」

といふに、驚(おどろき)、起(おき)なをり、

「其儀は、わかうど・若衆の支配なり。」

「それそれ。」

と、いふを、亭主、かさねて、

「いや。其ふたりの御かたは、先ほどより見え申さず。」

と。

 此時、三人、手を打て、

「扨は、左にて侍るか、未(いまだ)遠(とをく)はゆかじ。追かけなん。」

と、走出るを、ていしゆ、おしとめ、

「先(まづ)、けふの代をわたし給へ。」

「否(いや)、渡さじ。」

など、聲高(こはだか)なるを、あたりの家より、聞つけ、

「らうぜき者。のがすな。」

といふほどこそあれ、手々(て〔て〕)に棒をかづき、稻麻(たうま)のごとく、ならびゐけり。

「扨も扨も、謀(たばかれ)ぬる、口惜(くちをし)や。」

と、はがみをなせど、せんかたなし。持合(もちあはせ)たる金銀もなければ、右の代(しろ)に、刀・脇指、おのおの、茶やに預置(あづけ〔おき〕)て、めんぼくなければ、入〔いり〕あひ比〔ごろ〕に、さがを出〔いで〕、都のかたへ歸り行〔ゆき〕ぬ。

 ひろ澤の邊(ほとり)にて、惣七・甚の丞、待〔まち〕うけ、

「それへ見ゆるは、先ほどのあばれもの三人と覺ゆるは誤りか。意趣のわけは、いふにやは及(およぶ)。」

と、二人、一度に、ぬき合〔あひ〕たる。

 酒には、いたう醉ぬ。丸ごしのちからなく、足さへ、しどろに、周章(あはて)さはぐを見て、すかさず、切(きつ)てかゝりけるが、一人は逃(にげ)のびぬ。二人はたゝきふせられ、ふしたりしを、

「にくし。此男め。しなぬほどに。」

と、刀のむねをもて、手も足もたゝき痿(なや)し、両人、いづごともなく、立さりけり。

 後々、人の噂を聞〔きく〕に、さがなりける茶やは、わかうどの曰比の戀の中宿(〔なか〕やど)にてありければ、賴(たのみ)て、かくは、相〔あひ〕はかりけるとぞ。

「まことに。正成も舌をふるひ、よしさだも、手をうつべき、はかりごとなりし。」

と、人々、

          かんじあヘり。

 

 

御伽比丘尼巻之三

 

[やぶちゃん注:本文最後の一行は底本の字配を再現した。恐らくは最終ページ一行となってしまうのが、バランス悪いと感じた彫師の計らいであろう。ここである。冒頭の前世の因果らしきものによって本尊を物理的に拝めない老母の話(これは悪因縁などではなく、人だかりを押し分けて行くことが出来ない老母の優しさ故であろうに)が、後半とは全く分断されていて、関連もなく、その落ちさえも認められない本話は、正直、消化不良を起こし、甚だ面白くない。明らかな失敗作と私は思う。なお、標題の「振袖」は後半部の話柄から「袖を振って袖にする」の謂いであろう。

「嵯峨淸凉寺の釋迦」京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗五台山(ごだいさん)清凉寺(せいりょうじ)。嵯峨釈迦堂の名で知られ、本尊は釈迦如来立像。宗派は初め華厳宗であったが、その後幾つもの宗派に改宗の後、室町時代から「融通念仏の道場」として発展した。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「赤栴檀(しやくせんだん)」ウィキの「清凉寺」によれば、「三国伝来」(但し、以下に見る通り、模造。それでも「日本三如来」の一つに数える)の釈迦像で、『宋時代の』九八五年に仏師張延皎及び張延襲の合作。像高一メートル六十センチメートル。『伝承では赤栴檀というインドの香木で造られたとされるが、実際には魏氏桜桃という中国産のサクラ材で作られている。頭髪を縄目状に表現し、通肩(両肩を覆う)にまとった大衣に衣文線を同心円状に表すなど、当時の中国や日本の仏像とは異なった特色を示し、その様式は古代インドに源流をもつ中央アジア(西域)の仏像と共通性がみられる。当時、宋に滞在していた』本寺開山となる奝然(ちょうぜん)が九八四年に、『当時の都であった開封(汴京』(べんけい)『で優填王』(うでんおう:ウダヤナ。インドのコーサンビーの王で、釈迦在世中に仏教を保護した王として知られる)『造立という釈迦の霊像を拝して、その模刻を志し、翌』『年』に『台州開元寺で本像を作らせた。以上の造像経緯は像内に納入されていた「瑞像造立記」の記述から明らかであり、背板(内刳』(うちぐり)『の蓋板)裏面には張延皎および張延襲という仏師の名が刻まれている。古代インドの優填王が釈迦の在世中に造らせたという釈迦像の中国への伝来については、北伝ルートと南伝ルートの』二『つの説がある。『釈迦堂縁起』は、当寺の釈迦像は鳩摩羅琰(くまらえん)が中央アジアの亀茲国に将来するが、その後、前秦の苻堅によって奪われ、中国にもたらされたとし、北伝説をとっている』。『本像の模造は、奈良・西大寺本尊像をはじめ、日本各地に』百『体近くあることが知られ、「清凉寺式釈迦像」と呼ばれる』。『像とともに国宝に指定されている像内納入品は、像の背面にある背板(内刳部を蓋状に覆う板)が外れそうになり、隙間から北宋時代の貨幣がこぼれ落ちてきたことに端を発し』、翌昭和二九(一九五四)年に『総合調査を実施した際に発見された。納入品には、造像にまつわる文書、奝然の遺品、仏教版画などと共に、内臓の模型がある。医学史の資料としても注目されるこの内臓模型は、台州妙善寺の比丘尼清暁の風疾治療を祈願して納入されたのもので、世界最古の絹製模型である。それぞれあるべき位置に納められていた』十一『個の臓腑は、中国古来の五臓六腑説とはやや異なる点があり、この内臓模型が中国医学に基づくものか否かについては諸説ある』とある。個人的に、この内臓模型に若き頃より興味を持っているので、敢えてそこまで引用した。

「尊影(そんえう)」歴史的仮名遣「そんやう」が正しい。「尊」(たつと)き「影向」(やうがう(ようごう))である。「影向」は神仏が仮の姿をとって示現することを指す。

「毘首羯磨(ひしゆかつま)」サンスクリット語「ビシュバカルマン」の漢訳。「妙匠」「種々工巧」とも訳し、帝釈天の侍臣とされ、細工物や建築を司る神、或いは、現世世界の存在物の創造神ともされる。

『彌生の末の九日は、「御身拭(〔おん〕みのごひ)」』現在は四月十九日午後に本尊釈迦如来像を寄進された晒しの白布で拭い清めていく行事として行われている。ここで使われた白布を身につけると、罪業が消滅して極楽往生出来ると言われている。現在もこの白布を買うことが出来る。

「すしやうなる」由緒ある。

「後世(ごせ)ならぬものも」別段、後世の結縁を祈るという敬虔な思いを持たぬ者も。

「樋口の小路」現在の東西に走る万寿寺通。江戸時代は井筒・水船・引板・板木彫・庭石などの職人が多かったらしい。しばしばお世話になるサイト「花の都」の「大路・小路」の「樋口小路」に拠った。より詳しくは、リンク先を見られたい。

「兄弟(はらから)の約(やく)」義兄弟、則ち、男色の縁組。

「人め包(づゝみ)て」人の目をなるべく避けるようにして。男色の関係を覚られぬように、である。

「ねんず」「念誦」。

「下(しも)さが」下嵯峨。渡月橋方向。この辺り

「むかふより、大の男の、むくつけきが、ながきかたなに、はち卷したる、ゑい心〔ごこち〕ちと見えて、そゞろ、歌、しどけなく、うたひ、たはぶれ來(きたり)しが」このままでは相手が三人であることが判らない。敢えて言うなら「たはぶれ」というところに複数の雰囲気は嗅げはするものの、私は初読時、後の「理不盡なる人々」で躓いたものだった。或いは「大の男の」の部分が彫師のミスで、本当は「三人の男の」だったのではないかなどと思ったことを言い添えておく。

「ゑい心〔ごこち〕ち」「醉(ゑひ)心ち」。

「ほそき道のほど」細い路地で、こちらが二人、相手が三人なら、この謂いは初めて腑に落ちるのである。

「物な、いはせ。」「物な言はせそ」。「糞のような物言いなど、言わせは、させぬわッツ!」。

「ときかたな」「鋭き刀」。

「心もと」胸元。

「悴(せがれ)」義子。男色では現在でも近年まで養子関係を結ぶことが多かった。

「一ぶん」「一分」。男色に於けるそれである。

「骨をかたはしにくだかれ」骨を細片になるまで斬り砕かれ。

「ふつと」絶対に。

「かなひ候〔さふらふ〕まじ」「貴殿らの思い通りにはなりますまいぞ。」。但し、穏やかな口調で、相手を激高させぬ感じで、である。

「いかならん」「一つ、いかがでしょうか?」。

「友なひ」「伴ひ」。

「まいらせ」貴殿らに差し上げ。

「わかうど」惣七郎。

「若衆」甚の丞。

「それそれ」「それよ! それ!」。「そうじゃて!」。相手に同感した際に発する語。三人連れであることを意識して台詞として分離した。「それ」「それ」で二人分に分けてもよい。

「稻麻(たうま)」「稻麻竹葦(たうまちくゐ(とうまちくい))」のこと。稲・麻・竹・葦(あし)の群生するさまから、多くの人が入り乱れて集まっている、或いは、幾重にも取り囲んでいる様子を喩えて言った語。

「入〔いり〕あひ」「入相」。日が山の端に入るころ。黄昏時。

「ひろ澤」「廣澤」。広沢の池。ここで待ち伏せたからには、茶店の位置は広沢の池の東近傍であったことが判る。

「いふにやは及(およぶ)」「言ふにやは及ばず」の反語型の強調縮約形。

「二人はたゝきふせられ、ふしたりし」「しなぬほどに」「刀のむねをもて、手も足もたゝき」所謂、「峰打ち」にしたのである。江戸時代には武士でも私闘は厳しく禁ぜられていた。但し、私の昔の知人で剣道の達者な男がいつも言っていたが、時代劇の主人公が手練れの悪党を「峰打ち」にするのは甚だ現実的ではないそうである。彼らは刀を返した途端に激高してしまい、どう斬りかかってくるかも判らず、相応の剣士であっても、深手を負うことになってしまう可能性が大だからだとのことである。

「痿(なや)し」萎(なえ)させ。ぐったりさせ。

「中宿(〔なか〕やど)」「戀の仲」の「宿」かも知れぬが、「仲」良く睦むところの「宿」の意で熟語ととった。

「正成」「千早城の戦い」で、ありとあるゲリラ戦術を駆使した楠木正成。

「よしさだ」鎌倉攻めで潮の干満を利用して難なく稲村ケ崎沿岸を突破して幕府を陥落させた新田義貞。]

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(11:鶴)

 

 ○鶴、志摩國大歲の神は本體鶴にて、内宮の末社なり、故に、神宮の社司、鶴を食はずとぞ(倭姬命世記、弘安九年太神宮參詣記、兼邦百首歌抄參看)。

 

[やぶちゃん注:「鶴」ツル目ツル科 Gruidae のツル類。現行ではツル科はカンムリヅル属 Balearica・ツル属 Grus・アネハヅル属 Anthropoides・ホオカザリヅル属 Bugeranus に分かれる。我々が「鶴」と聴いて即座に想起するのはツル属タンチョウ Grus japonensis やマナヅル Grus vipio であるが、これは渡りの分布から、江戸以前の日本人の想像する「鶴」をそれと限ることは誤りであることは言うまでもない。それを含めて博物誌としての鶴については「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶴」の私の注を参照されたい。

「志摩國大歲」(おほどし)「の神」原座の三重県志摩市磯部町恵利原字穂落(ほおとし)の川辺(かわなべ)と通称される地域に鎮座する、伊勢神宮皇大神宮内宮の別宮伊雑宮(いざわのみや)が所管する社で伊勢神宮百二十五社の一つである佐美長神社(さみながじんじゃ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。サイト「伊勢志摩きらり千選」の「佐美長神社」によれば、『佐美長神社は、かつて「真名鶴(まなづる)伝承」に登場する伝説にちなんだ神社で、伊雑宮誕生にまつわる「白真名鶴(しろまなづる)」の霊をまつった神社として知られ、別名を「穂落宮(ほおとしみや)」とも呼ばれてい』るとあり、「真名鶴伝承」その一として、『皇大神宮御鎮座の翌年、鳥の鳴く声が昼夜高く聞こえて泣き止まずやかましかったので、倭姫命が使いを遣わすと、嶋(志摩)の国の伊雑の上方の葦原に、本は一基で末は千穂に茂った稲が生え、その稲を白い真名鶴がくわえながら鳴いていた』。『それを聞かれた倭姫命は「恐し。事問ぬ鳥すら田を作り、皇大神に奉るものを」と感激され、その稲を抜穂にして、皇大神の御前に懸け奉った』。『倭姫命は稲の生えていた場所を「千田」と名付け、そこに天照皇大神の摂宮を造られた』。『これが現在の「伊雑宮」(皇大神宮別宮)であり、毎年』六月二十四日に『その神田で御田植祭が行われ、国の重要無形民族文化財に指定されている』。『また』、『稲をくわえていた真名鶴を「大歳神」と称え、同じ場所におまつりされた。これが現在の「佐美長神社」』『である』とあり、次に「真名鶴伝説」その二として、『伊雑宮ご鎮座の翌年秋、皇大神宮に真名鶴が北から来て昼夜鳴いた。倭姫命はそれをあやしく思い、使いを遣わすと、その鶴は佐々牟江宮』(ささむねのみや)『前の葦原に還った。そこでは本は一基で末は八百穂に茂った稲を鶴がくわえて鳴いていた、それを聞かれた倭姫命は、この稲を抜穂にして、皇大神の御前に懸け奉った。これが懸税(かけちから)の起源である』(伊勢神宮の神嘗祭の際に、内宮・外宮の正宮や別宮の御垣(みかき)に稲束が掛けられ、これを「懸税(かけちから)」と呼ぶ。神領民からの年貢の名残)。『佐々牟江の地は、現在の明和町の行部と山大淀の間に位置し、式内社佐々夫江神社』(現在の社名は竹佐々夫江神社(たけささふえじんじゃ)で、ここ)『が鎮座する』とある。ウィキの「佐美長神社」によれば、『祭神は大歳神(おおとしのかみ)』で、『穂落伝承に登場する真名鶴が大歳神であるとされる』ほか、『「大歳神」はスサノオの子であるとする説、伊佐波登美神またはその子とする説、穀物の神とする説が』あるとし、『「大歳神」の名の由来は、「穂落(ほおとし)が大歳(おおとし)に変わった」とする説と、「鶴が長寿を象徴することから、多き年が転じて大歳になった」とする説がある』とある。「宇治山田市史」では『佐美長神社の祭神を「神乎多乃御子神」とする』。『「神乎多乃御子神」は』、「延喜式神名帳」に記載されている『同島坐神乎多乃御子(おなしきしまにますかむをたのみこの)神社(佐美長神社に比定される)の祭神であり、粟島(=志摩)の神の子である水田の守護神と考えることができる』ともある。また、「穂落伝承」の項では、熊楠の挙げる「倭姫命世記」(やまとひめのみことせいき:「神道五部書」の一つで、記紀で垂仁天皇の皇女とされる大和姫命(倭姫命)が天照大神を奉じて各地を巡幸し、伊勢に鎮座するまでの伝承を記したもの。巻末に天武朝(六七二年~六八六年)の大神主とされる御孫(御気)が書写し、神護景雲二(七六八)年に禰宜五目麻呂(五月麻呂)が撰集したと記すものの、現在では後世の仮託とされ、実際には鎌倉中期の建治から弘安の頃(一二七五年~一二八七年)に書き上げられたとする説が有力。以上は「愛知県図書館」公式サイト内の「デジタルライブラリー」の「大和姫命世記」の書誌データに拠った。鶴を神霊の鳥とする記述はここにある同書PDF)の2627コマ目に出現する)を原拠として、垂仁天皇二十七年九月、『倭姫命一行が志摩国を巡幸中』、一『羽の真名鶴がしきりに鳴いているところに遭遇した。倭姫命は「ただごとならず」と言い、大幡主命と舎人紀麻良を派遣して様子を見に行かせた。すると稲が豊かに実る田を発見、もう』一『羽の真名鶴は稲をくわえていた(「くわえて飛んできてその稲を落とした」とも)。倭姫命は「物言わぬ鳥すら田を作り、天照大神に奉る」と感激し、伊佐波登美神に命じて抜穂(ぬいぼ)に抜かせ、天照大神に奉った。その稲の生育していた田を「千田」(ちだ)と名付け、その傍らに神社を建立した。これが伊雑宮であり、真名鶴を「大歳神」として祀ったのが佐美長神社である』と記す。但し、『この伝説を御巫清直』(みかなぎきよなお 文化九(一八一二)年~明治二七(一八九四)年:江戸末期から明治の国学者にして伊勢外宮(豊受大神宮)の神職)『は「朝熊神社』(伊勢神宮皇大神宮内宮の第一位の摂社。ここ)『の大歳神を強引に佐美長神社に結び付けたもの」として批判している』。「磯部町史」では、『「地域を治めた磯部氏が稲作の神として創祀したもの」との説を提唱している』とある。

「鶴を食はず」意外に思われる方もいようが、鶴は近代までよく食された。例えば、良安も前掲の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶴」の中で(下線太字は私が附した)、

   *

眞鶴(まなづる)は 高さ、四、五尺、長さ、三尺許り。項に、丹、無し。頰、赤く、全體、灰白色。但し、翮(はねもと)[やぶちゃん注:羽の根元、或いは、羽根の茎(真中の管状部位)。]の端、尾の端、保呂(ほろ)[やぶちゃん注:保呂羽。鳥の左右の翼の下に生え揃った羽。特に鷹のそれは矢羽として珍重される。]の端、共に黑くして、本(もと)は皆、白たり。之れを「鶴の本白(ほんしろ)」と謂ふ。以つて箭(や)の羽に造(は)ぐ。或いは、羽帚(はねはうき)に爲(つく)る。之れを賞す。肉の味、極めて美なり。故に「眞鶴」と名づく。

黑鶴(こくつる)は高さ、三、四尺、長さ、二、三尺。白き頸、赤き頰、騮(ぶち)の脚、其の余は皆、黑く、肉の味、亦、佳なり。一種、黑鶴に同じくして、色、淡(あさ)き者を「薄墨(うすずみ)」と名づく。

白鶴(はくつる)は赤き頰、玄(くろ)き翎(かざきり)、赤き脚、其の余は皆、白し。其その肉、藥用に入るべし。

[やぶちゃん注:中略。]

鶴の肉・血 【氣味】、甘、鹹。香臭(かうしう)有り【他の禽とは同じからず。】。中華の人、食品と爲さず。本朝には以つて上撰と爲す。其の丹頂は、肉、硬(こは)く、味、美ならず。故に之れを食ふ者、少しなり。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

で判る通り、『江戸時代には鶴の肉は白鳥とともに高級食材として珍重されていた。武家の本膳料理や朝鮮通信使の饗応のために鶴の料理が振る舞われたことが献立資料などの記録に残されている。鶴の肉は、江戸時代の頃の「三鳥二魚」と呼ばれる』五『大珍味の』一『つであり、歴史的にも名高い高級食材』であった。因みに、『三鳥二魚とは、鳥=鶴(ツル)、雲雀(ヒバリ)、鷭(バン)、魚=鯛(タイ)、鮟鱇(アンコウ)のことである』とウィキの「ツル」にもある通りである。鶴は、近代に於いても、第二次世界大戦以前まで、高級で縁起物の食材として食されていたのである。例えば「鶴料理る(つるつくる)」という季語(新年。「鶴の庖丁」と同じで、本来的には正月十七日或いは十九日に行われた宮中の舞御覧の前儀として、鶴を儀式的な作法で調理し天皇に饌せられた行事があり、この時、鶴の肉は吉祥の形に調理されて舞御覧の間に御前として供進されたことに基づくものであろう)がそれまで普通に生きていた。まだ信じられない人は、私の『杉田久女句集 240  花衣 Ⅷ 鶴料理る 附 随筆「鶴料理る」』を読まれたい。因みに、そういう人は、美しき学名たるペリカン目トキ科トキ亜科トキ属トキ Nipponia nippon を滅ぼした日本人は、トキを羽毛採取と肉食のために明治期に乱獲した結果であることも理解されていないであろう。

「弘安九年太神宮參詣記」弘安九(一二八六)に僧通海が記した伊勢神宮参詣紀行。「新日本古典籍総合データベース」のこちらで全文が読める(但し、写本)。鶴を霊鳥とする記載はここに認められる。なお、著者は僧であるから、西行や芭蕉(彼は僧ではないが、僧形であるから)と同様、伊勢神宮の境内には入れず、僧侶ら専用の遥拝所で遥拝している。

「兼邦百首歌抄」卜部兼邦の歌集で文明一八(一四八六)年頃の成立で、明暦二(一六五六)年に刊行された。「新日本古典籍総合データベース」の原刊本のこちらの、下巻の冒頭に出現する「大歳神(おほとしのかみ)」と前書する一首の後書の終わりの方に、熊楠の言う通り、『神宮(しんぐう)の社司(しやし/やしろつかさ)靏をくはざる』と出る。]

2020/12/12

御伽比丘尼卷三 ㊂執心のふかさ桑名の海 付リ 惡を捨る善七

 

   ㊂執心のふかさ桑名の海付リ惡を捨(すつ)る善七

 

Kuwananoumi

 

 むげにちかき比、東のとうゐんの邊(ほとり)に、伴(ばん)の善七郞といふ美男あり。其先〔そのせん〕は、去(さる)御所に中小性(〔ちうこ〕せう)の宮づかへしゐけるが、相いたはれる事ありて、御暇(いとま)申〔まうし〕、さとに歸る。父も、むかしは、たゞうどには非ず、四(よつ)の氏(うぢ)の其ひとつの、末なりしとなん。折ふしは「源氏物がたり」・「つれづれ」・「いせ」など講じて、つたなからぬ世わたらひなりけらし。

 おなじよこなる町に、「柳(やなぎ)や」とかや、糸もて、なりわひとする家に、娘あり、名を「さよ」といふ。かたち、たぐいなく、又なきいろ好みなりけるが、うちの比のかゐまみにか、善七を見そめしより、ひとへに君をしのぶ草、わするゝ隙(ひま)もあらざれば、たゞうかうかと、ふすゐのとこに、起臥(をきふし)なやみ、日をかさぬ。

 めのと[やぶちゃん注:乳母。]なりける女、いといぶかしく、とひおとしてげれば、

「かうかう。」

と、かたるに、やすく請〔うけ〕あひ、便(たより)求(もとめ)て、善七に、

「かく。」

と、しらせたりけるに、いとやさしく哀(あわれ)に思へければ、みそかなるやど求(もとめ)て、互に、まみえそめしが、夫(おつと)は、女のかたちにめで、女は又、男のすぐれたる粧(よそほひ)に、いや、まさる戀衣、度(たび)かさなりて、誠に淺からぬ中とぞなりける。

 爰に、武州麻布の邊(ほとり)に、何がしの治部左衞門といふ有り。是は、善七が伯母むこにていまそかりけるが、としたけ、よはひ、山の端(は)比〔ごろ〕の入日〔いりひ〕とかたぶきて、賴〔たのみ〕なき身、世繼(〔よ〕つぎ)さへなければ、

「善七を呼(よび)くだし、名跡(みやうせき)をも、つがすべし。」

と。いひのぼせたりけるに、やがて下るべきに究(きはめ)けり。

 人々、めでたき事にいさみあへれど、彼女に別れなん事の、かねて思ひければ、むね、ふさがりぬ。かくても、叶(かな)はぬ事にあめれば、「さよ」かたへも、

「かく。」

と、いひ送り、みそかやどにて名殘など惜(をしみ)けるに、女、もだへ、悲しむこと、目もあてられず。

 されど、

「ちかき五月(さつき)の比は、むかへの人をのぼせなんに、心づよく、待給へ。」

など、いさめ、やどのふう婦も敎訓して、漸々(やうやう)、泪(なみだ)ながらに別れかへりぬ。

 實(げに)哀なるさまなりかし。

 あくれば、

「日がら、よし。」

とて、東路(あづまぢ)におもむく。

 八聲(やこゑ)の鳥(とり)啼(なき)て、やどを出〔いづ〕れば、曉の露、袖をうるほし、いとゞ思ひをそふる心ちし、三條の橋をひがしへ行〔ゆく〕に、南を見れば、祇園の社(やしろ)、大仏殿、はるかに、朝霧こめて、いと、たとく見ゆ。拜(をがみ)過〔すぐ〕れば、むかし、能因の、「みやこをば霞とともに出しかど秋かせぞふく」と、よみしは、みちのく、是はやましろの白川をこへて、あふ坂につきぬ。「これやこの行も歸るも」と聞えし思ひ出、小町のあとふりし關寺を拜み、湖水の八景、詠(ながめ)て逢(あふ)ことは、かたゞのうらの名もつらく、君に近江のうみとことぶき、せたの長はし足とからね、と打わたりて、草津より、石部の宿につきぬ。

 始のほどこそはあれ、あけの日より旅つかれに、名所を見捨(〔み〕すて)、ふるきあとをもきかず、三日といふに、いせの桑名に、つきぬ。船の手つがひなど、やどのあるじにあなひさせ、行〔ゆく〕道のべに、都の女、さよのかた、我待㒵(われまちがほ)にたてり。

「こは、そも、いかにして、爰へは來り給ふぞ。」

と、いへば、女、聞〔きき〕て、

「されば社〔こそ〕、君にわかれ參らせ、ながらふべき心ちもなく、此まゝに思ひ侍らんよりはと、女心の、はかなくも、君にをくれまいらせじと、夜を日になして參りぬ。東(あづま)とやらへつれ給へ。」

と、打なげく。

 善七も、いと愧(おそろしく)、心ちとゞろけれど、いさめていふ、

「まことにむさし迄は、はるけきたびの空、ことに、女にはむつかしき切手(きつて)など、申〔まうす〕事の侍りて、たやすく下ること、かたし。是より歸り上り給へかし。」

と、いへど、うけひかねば、せんかた波(なみ)のあま小船〔をぶね〕、あとへも先へも行やらで、思ひ煩ゐけるが、

「かく、日數、ほどふりては、あしかりぬべし。一まづ、都へ歸りのぼり、其後〔そののち〕とにもかくにもせばや。」

と、是より、女をぐして、歸り上りぬ。

 善七、道すがらおもふ、

『我、みそかになれて、此女の父母(ちゝはゝ)にも見參(げんざん)せず。しかはあれど、此度〔このたび〕、対面し、此事を語り、いさめもさせばや。』

と思ひければ、直(すぐ)に女の親ざとに行、先(まづ)さよを、かどに残し、善七計〔ばかり〕内に入〔いり〕て、女の父母に逢(あひ)て始終をかたり、

「かやうかやうに侍る。」

と、いへば、父母、聞給ひ、

「ふしぎや。我娘のさよは、かた時、夫婦の傍(そば)を、はなれず。いま迄、宿にゐ侍りぬ。若人〔わかうど〕、たがへにてもや。」

と、の給へるに、

「さらば。」

と、いひて、門の外なる、さよが手を引て、ちゝ母に見せ奉るに、少〔すこし〕もたがはぬ、娘、也。

「こは、あやし。」

と、手、たゝひて、よび給ふに、立出〔たちいづ〕るを見れば、さよ、なりき。

 かほも姿も、衣裝も帶も、かはらず。

 おなじ娘、二人、忽然と、むかひ立〔たち〕しが、みる内に、ふたつのかたち、ひとつに合(がつ)して、只、ひとりの娘とぞ、なれりける。

 此時、娘、さんげし、

「あな、殘(あさ)まし。君にわかれ參らせしより、夢計〔ばかり〕も忘れず、あとを追(をふ)て桑名迄下ると思ひくらせしが、扨は、我、玉しゐのはなれ行〔ゆき〕たるにてぞ、あるらん。恥かしくも、おそろしの罪のほどや。」

と、且は悲しみ、あるは、歎(なげき)て、則(すなはち)、夫(おつと)のまへにて、黑かみを切〔きり〕、墨染の袖に、さまをかへぬ。

 善七も、人の執(しう)のおどろおどろしきを、まのまへに見ければ、世をいとふ心つよく、是もおなじく、發心して、東へもゆかずなりしとかや。

 是なん、「煩惱卽菩提」なるべし。

 

[やぶちゃん注:「東のとうゐん」左京を南北に走った、東端の東京極大路から五本目の東洞院大路。ウィキの「東洞院通」で位置を確認されたい。但し、彼の住んでいたのは、その大路に面していたのではなく、横町である。

「中小性(〔ちうご〕せう)」歴史的仮名遣は「ちゆうごしやう」が正しい。っこでは御所の公家方の宮仕えとするが、本来は江戸時代の諸藩の職名の一つであって、小姓組と徒士(かち)衆の中間身分の役職であって、主君に近侍する小姓組に対して、主君外出の際に供奉したり、祝日の折りの配膳や酌役などを務めた役を指す語である。

「相いたはれる事」「いたはれる」は「病いになる」の意があるが、主君と中小姓がともにというのは如何にも変で、ここは「相(あ)ひ」とと読むところを、口語表記したものととって、互いに「戲(たは)れる」(みだらな行為に及ぶ)ことがあったために、彼の方から暇を願い出たと読むべきであろう。小姓や若い舎人(とねり)などが、貴人の男色の相手となったことはよく知られている。

「四(よつ)の氏(うぢ)」往昔の代表的な姓である源氏・平氏・藤原氏・橘氏を指す。

の其ひとつの、末なりしとなん。折ふしは「源氏物がたり」・「つれづれ」。「いせ」など講じて、つたなからぬ世わたらひなりけらし。

「とひおとしてげれば」切に憂鬱のもとについて理由を問い質し、遂に彼女の秘しているそれを説き落したところ、

「みそかなるやど」「密(みそ)かなる宿」。

「八聲(やこゑ)の鳥(とり)」「八」は不特定の複数回を指し、夜の明け方にしばしば鳴く鶏のことを指す。

「大仏殿」京都市東山区の方広寺に嘗てあった非常に大きな大仏殿。原型は豊臣秀吉が造営を指示した(天正一四(一五八六)年)それであるが、冒頭で「むげに近き」と言っているから(その間の地震倒壊や火災による大仏及び大仏殿の経過は参照したウィキの「京の大仏」を読まれたい)、本書刊行のごく近くということで、貞享四(一六八七)年二月より数年前とすれば、寛文二(一六六二)年)に地震で大仏が小破したため、新しく木造で造り直され、「都名所図会」によれば、高さは六丈三尺(約十九メートル)で、奈良の大仏(十四メートル)よりもかなり大きかった。大仏殿は「東西二十七間、南北四十五間」(四十九メートル×八十一メートル)で、これも奈良東大寺の大仏殿(五十七メートル×五十五メートル)を凌ぐ規模であったというそれがロケーションとなる。人気の観光地となり、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」(初刷は享和二(一八〇二)年から(文化一一(一八一四)年)では弥次北が大仏を見物して威容に驚き、「手のひらに畳が八枚敷ける」とか、「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」とその巨大さが表現されている。しかし、後の寛政一〇(一七九八)年)七月に大仏殿に落雷、本堂・楼門が焼け、木造大仏も灰燼に帰した。その後、同様の規模の大仏・大仏殿が再建されることはなかったが、天保年間(一八三一年~一八四五年)に現在の愛知県の有志が旧大仏を縮小した、肩より上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進した。しかしそれも、昭和四八(一九七三)年三月の深夜の火災で焼失し、現在は例の「國家安康」「君臣豐樂」と刻まれて騒動となった「方広寺鐘銘事件」の梵鐘を除いて、大仏も大仏殿も残っていない。

『能因の、「みやこをば霞とともに出しかど秋かせぞふく」』「後拾遺和歌集」第九巻の「覊旅」にある平安中期の僧で歌人の能因(永延二(九八八)年~永承五(一〇五〇)年又は康平元(一〇五八)年:近江守橘忠望の子)の一首(五一八番)であるが、「出しかど」は誤り。

    陸奥國(みちのくのくに)に、
    まかり下りけるに、白川の關に
    てよみ侍りける

 都をば霞とともに立ちしかど

        秋風ぞ吹く白河の關

「これやこの行も歸るも」「小倉百人一首」(十番。但し、そちらでは第三句が「別れては」)で知られる蟬丸の「後撰和歌集」の巻十五の「雜一」に載る一首(番)。

    相坂(あふさか)の關に
    庵室(あんじつ)を作りて
    住み侍りけるに、行き交ふ
    人を見て

 これやこの行くも歸るも別れつゝ

    知るも知らぬもあふさかの關

「小町のあとふりし關寺」関寺(世喜寺)は、嘗て近江国逢坂関の東(滋賀県大津市逢坂二丁目付近)にあったとされる寺院。現存しないが、長安寺がその跡地に建てられているとする説がある。参照したウィキの「関寺」によれば、『創建年次は不明であるが、貞元元九七六)年の『地震で倒壊したのを』、『源信の弟子である延鏡が、仏師康尚らの助力を得て万寿四(一〇二七)年に『再興した。その時、清水寺の僧侶の寄進によって用いられた役牛の』一頭が『迦葉仏の化現であるとの夢告を受けたとする話があり、その噂を聞いた人々が件の牛との結縁を求めて殺到し、その中に藤原道長・源倫子夫妻もいたという。そして、その牛が入滅した際には源経頼が遭遇したことが』「左経記」(万寿二年六月二日の条)に『見え、その後』、『菅原師長が』「関寺縁起」を『著した(なお、長安寺には牛の墓とされる石造宝塔が残されており重要文化財となっている)。また、倒壊前には老衰零落した小野小町が同寺の近くに庵を結んでいたとする伝説があり、謡曲』「関寺小町」として知られる。『また、同寺に安置されていた』五『丈の弥勒仏は「関寺大仏」と呼ばれ、大和国東大寺・河内国太平寺(知識寺)の大仏と並び称された』。しかし、この寺は『南北朝時代に廃絶したと言われて』おり、ここが「跡經(あとふ)りし」というのも、そうした遺跡無き懐古の情を含んだものである。

「かたゞのうら」「堅田の浦」。ここ。但し、「名もつらく」の意が今一つ判らぬ。「かただ」は「難し」に掛ける歌枕であるから、それを引き出したものか。しかし、中身がなくて、ピンとこない。

「君に近江のうみとことぶき」「万葉集」第三巻の柿本人麻呂の一首(二六六番)、

 近江(あふみ)の海(うみ)

    夕波千鳥

   汝(な)が鳴けば

     心もしのにいにしへ思ほゆ

を依拠したものか。しかし、「ことぶき」が判らぬ。「ことぶき」ではなく、底本通りの「ことふき」で、単なる「言」葉を「吹」いたというのか。而しては、しかし、如何にもつまらぬ。

「足とからね」意味不明。「驅(から)ね」「駈ね」か。急ぐ旅でもないから、足を無理に走らせることはせずに、か。よく判らぬ。已然形も不審。

「草津」滋賀県草津市

「石部」滋賀県湖南市石部

「いせの桑名」三重県桑名市

「船の手つがひ」意味不明。「ふなのてつがひ」で一単語で、舟を繋留する(「繼がふ」)長い河岸のことか? 挿絵の右幅の下方にそうしたものが見える。

「あなひさせ」「案内させ」。

「切手(きつて)」関所の通過や乗船などに必要とされた通行証。「通り切手(きって)」。

「かど」「門」。

「宿」自宅。

  さて。唐代伝奇をお好きな方は一発で種本を言い当てられるはずだ。これは陳玄祐の「離魂記」である(エンディングを変えてはあるが、それがまた、抹香臭くて甚だ面白くない。しかも、善七は何もし負わぬ「惡」者であって、「さよ」を騙して捨てんとしていたのである)。原話と私の訓読と訳は「無門關 三十五 倩女離魂」の注にあるので見られたい。

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(10:烏)

 

 ○烏、熊野の神の他に烏を使者とする例、信濃諏訪の宮(諏訪大明神繪詞上)江州日吉山王(山王利生記卷一)等有り隱州視聽合記卷二、知夫郡燒火山有双鴉、不見其外、常遊堂前、巢山樹、視客來則啼屋上、噪庭柯、於是社僧祠人豫知之、出神前待之云々、此他猶有りぬべし、古え女神「ジユノ」先づ烏を、次に孔雀を使者とせり、神武帝熊野の山道に迷ひ玉ひし時、天照大神八咫烏をして嚮導せしめ玉へる事あれば、熊野に烏は古くより所緣有りし也、希臘に「アポロ」神烏に化る事あり、「ラマヤナム」に神軍鬼軍と戰て敗走する時、閻魔烏に助けらる、その報酬に、葬饌を烏の得分とし、烏その食を受る時、死人の靈樂土に往き得と定む、希臘の古諺に、死ぬ事を烏の許に往くと言へり、予思ふに、烏は好んで屍肉を食ふ者なれば、印度又は埃及の「ヷルチユール」同然、人死に臨める上を飛廻り、又人尸を食はんとて從軍せしなるべく、自然豫め人の死を知らすとか、烏鳴きが惡いとか云言[やぶちゃん注:「いふこと」。]も起ると同時に、神使と看做されたる也、(Gubernatis, l. c., p.p. 198―9, 253―4; Budge, ‘The God of the Egyptians,’ 1904, vol. ii p.372 參看)元享釋書に、某大后遺令して玉體を野に棄てしめし事あり、雍州府志に、京都紫野古阿彌谷に林葬行はれ、死人を石上に置去り、狐狸に食せし由を載せ、長明の發心集卷四に、死せしと思ひて、病人を野に棄てけるに、烏其兩眼を食せし話あり、熊野は伊弉册尊[やぶちゃん注:「いさなみのみこと」。]御陵のある地にて、固より死に緣有り、古傳に死者の靈必ず後向き又逆ま立ちして之に詣づと云しは濃霧に行人の反影抔を幻映せるより生ぜしやならん(近松の傾城反魂香に出)今も近村の人死すれば、妙法山に亡者登り、鐘自ら鳴る等言傳ふ、予每度植物採集に之き、夜獨り死出の山路と云る所を步み、那智え[やぶちゃん注:ママ。]還りしが餘り心持宜しき事無かりし、去れば烏を熊野の神使とするは自ら譯有り、唯此山に烏多きのみに由來するにあらじ。

 

[やぶちゃん注:「江州日吉山王」滋賀県大津市坂本にある全国の日吉・日枝・山王神社の総本宮である山王総本宮日吉大社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。因みに、この神社の使者として知られるのは猿で特に「神猿(まさる)」と呼称している。

「山王利生記」「日吉山王利生記」(ひえさんのうりしょうき:古くは社名は「ひよし」ではなく「ひえ」と読んだ)は近江坂本に鎮座する山王権現を巡る霊験譚を集めたもの。鎌倉中期成立。作者不詳。

「隱州視聽合記」(いん(或いは「おん」)しゅうしちょうがっき:「記」は「紀」ともする)は江戸中期の寛文七(一六六七)年に著された隠州(隠岐国)地誌。全四巻地図一葉。但し、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の写本を見るに、これは「卷之二」ではなく、「卷之四」に附帯する「知夫郡燒火山緣起」(「燒火」は「たくひ」と読む)の一節である同データベース全巻PDF)の66コマ目から始まり、当該箇所は67コマ目の最終行から68コマ目にかけてに出現する。或いは写本によっては巻二にあるのかも知れぬ)。視認して訓読する(原文は訓点附き漢文)。熊楠の引用とは微妙に異なる箇所があり、明らかな続き部分も電子化した。〔 〕は私が推定で附した読み。

   *

山中に雙鴉〔さうあ〕有り、其外を見ず。常に堂前に遊び、山樹に巢〔すく〕ふ。客、來〔きたら〕んと欲するとき、則〔すなはち〕、屋上に啼〔なき〕て、庭柯〔ていか〕に噪〔さは〕ぐ。是に於て、社僧・祠人、豫〔あらかじ〕め、之を知〔しり〕て、神前に出〔いで〕て、㠯〔もつ〕て之を待つ。兒を產するときは、則、反哺〔はんぽ〕して厺〔さる〕、又、恒のごとし。

   *

「庭柯」は庭(ここは神苑)の木。「㠯て」「以て」に同じ。「反哺」とは、カラスの雛は、成長して後、親ガラスに食物を咥えて来て与え、養育の恩に報いると古くから信じられたことを指す。無論、そんな習性は実際のカラスにはない。

「ジユノ」ローマ神話で女性の結婚生活を守護する(主に結婚・出産)女神ユーノー(ラテン語:Juno)。主神ユーピテルの妻であり、ローマ最大の女神である。ギリシア神話のヘーラーに相当する。但し、シンボルの聖鳥は孔雀の方が知られ、後で熊楠が言うように、鴉を聖鳥とするのはローマ神話の太陽神アポロ(ギリシア神話のアポローン)が知られる。

「神武帝熊野の山道に迷ひ玉ひし時、天照大神八咫烏をして嚮導せしめ玉へる事あれば」「古事記」の「中つ卷」の冒頭の神武東征の下りの、先に熊パートで示した後に続いて、

   *

於是亦。高木大神之命以覺白之。天神御子。自此於奧方莫使入幸。荒神甚多。今自天。遣八咫烏。故其八咫烏引道。從其立後應幸行。故隨其敎覺。從其八咫烏之後幸行者。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

 是に亦、高木(たかぎ)の大神(おほかみ)の命(めい)以ちて、覺(さと)し白(まうしたま)はく、

「天つ神の御子、此れより、奧つ方、莫(な)入り幸(ましたま)ひそ。荒ぶる神、甚(いと)多(さは)にあり。今、天より、八咫烏(やたがらす)を遣はしむ。故(かれ)、其の八咫烏、道引(みちび)きなむ。其の立たむ後(しりへ)より幸-行(い)で應(まさ)ね。」

と。故、其の敎へ覺しに隨ひて、其の八咫烏の後より幸-行でまししかば、[やぶちゃん注:以下略。]

   *

「高木の大神」は高木を神格化創造神である高御産巣日神(たかみむすびのかみ)のこと。「八咫烏」については、小学館「日本大百科全書」に(記号の一部を変え、読みは一部を除去した)、『記紀神話に出てくる大烏、あるいは頭の大きな大烏。「日本書紀」では、頭八咫烏という。東征の際、高木神(記)、天照大神(紀)によって神武天皇のもとに派遣され、熊野から大和に入る険阻な山中を導く。また紀では、兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)の帰順勧告に派遣される』(「古事記」では上に続く箇所に出るが、そこでは兄弟は兄宇迦斯(えうかし)・弟宇迦斯(おとうかし)とし、兄は八咫烏を追い返すために射ている。その後、偽計を用いて服従せんと偽るも、結果、兄弟ともに討たれているが、「日本書紀」では、弟はそのことを恐れ、神饌を八咫烏に献上し、そこで彼は神武天皇のもとへと帰って、兄磯城に反抗の心がある旨を報告したと伝え、弟は正しく恭順したことになっているなど、記紀両書には若干の相違がある。後に正字化するが、私の古い本書中の一篇「牛王の名義と烏の俗信」(大正五(一九一六)年十月『郷土研究』初出)を電子化しており、そこに「日本書紀」の記載が熊楠によって記されてあるので、そちらも参照されたい)『鴨県主(かものあがたぬし)の祖である鴨建角身命(かもたけつのみのみこと)が化したものともいい(「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」「古語拾遺」)、その子孫は葛野主殿県主(かどののとのもりのあがたぬし)ともいわれる(紀)』。『烏のもつ意味については、日神の使者、熊野のみさき、トーテム動物のほか戦陣で危急を救う鳥などと説かれているが、いずれにせよ』、『烏が神秘な能力をもつことを示す。この話を神武伝承に結び付けた氏族については、主殿寮(とのもりづかさ)の殿部(とのべ)として葛野県の鴨県主とするのが通説であるが、大伴(おおとも)氏とする異説もある』とある。

「ラマヤナム」古代インドの大長編叙事詩「ラーマーヤナ」。ヒンドゥー教の聖典の一つで、「マハーバーラタ」と並ぶインド二大叙事詩の一つ。全七巻。成立は紀元三世紀頃で、詩人ヴァールミーキが、ヒンドゥー教の神話と古代英雄コーサラ国のラーマ王子の伝説を編纂したものとされる。先に示した後の「牛王の名義と烏の俗信」でも、熊楠は『インドには、『ラーマーヤナ』に、神軍、鬼軍と戦うて敗走する時、烏来たって閻魔(ヤマ)を助く。その報酬に葬饌を烏の得分とし、烏これを享くる時、死人の霊、楽土に往き得と定む』と再度、述べている。

「神軍鬼軍と戰て敗走する時、閻魔烏に助けらる、その報酬に、葬饌を烏の得分とし、烏その食を受くる時、死人の靈樂土に往き得と定む」私は「ラーマヤナー」を読んだこともなく、所持もしないのでよく判らないが、ウィキの「ラーマーヤナの登場人物一覧」及び「ガルダ」によれば、「鳥族」として鳥神「ガルダ」を挙げ、『ラーマ軍の危機を助けに現れる』と記す。インド神話に登場する炎のように『光り輝き、熱を発するとされる神鳥』で、『ガルダはサンスクリットやヒンディー語による名称で、パーリ語』(南伝上座部仏教現(存する最古の仏教の宗派)の経典で使用される言語)『では「ガルラ」』、『英語やインドネシア語などでは「ガルーダ」という。カシュヤパとヴィナターの息子で、ヴィシュヌのヴァーハナ(神の乗り物)である。ガルダの名は』「ガル」、「飲み込む」の『意に由来すると考えられている』。その一族はインド神話に於いて人々に恐れられるナーガ族(蛇・竜の族類)と『敵対関係にあり、それらを退治する聖鳥として崇拝されている。これは、インドにおいて猛禽類や孔雀は蛇を食べると解釈されていたことによる。単に鷲の姿で描かれたり、人間に翼が生えた姿で描かれたりもするが、基本的には人間の胴体と鷲の頭部・嘴・翼・爪を持つ、翼は赤く全身は黄金色に輝く巨大な鳥として描かれる』とあり、カラスは形象として出ない。しかし、ガルダは仏教にとり入れられて、仏教の守護神「迦楼羅天(かるらてん)」で八部衆・二十八部衆の一員となった後、飛翔と形状からしばしば烏天狗と同一視されているから、腑には落ちる。

「ヷルチユール」英語の「vulture」(ヴァルチュール)で、ここではヨーロッパ・アジア・アフリカ産のハゲワシ類(タカ目タカ科ハゲワシ亜科 Aegypiinae とヒゲワシ亜科 Gypaetinae とに属する。但し、この英単語は南米産のハゲワシとは縁のないコンドル類(タカ目コンドル亜目コンドル科 Cathartidae)を指す語でもあるので注意が必要)のことであろう。後に熊楠が示す、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の、The God of the Egyptians」第二巻を「Internet archive」で発見出来たので、当該部(左ページ中央の段落)を見たところ、

   *

   2. The VULTUER was the symbol of the goddesses Nekhebet, Mut, Neith, and others who were identified with Nekhebet ; the cult of the vulture is extremely ancient in Egypt, and dates probably from predynastic times, for one of the oldest titles of the Pharaohs of Egypt is “Lord of the city of the Vulture (Nekhebet, or Eileithyiapolis), lord of the city of the Uraeus” (Uatchet, or Buto), and it is found engraved on monuments of the late predynastic and early archaic periods.  Ӕlian, in describing the vultures (ii. 46), says that they hover about the dead and dying, and eat human flesh, and that they follow men to battle as if knowing that they would be slain.  According to this writer, all vultures are females, and no male vulture was ever known ; to obtain young they turn their backs to the south, or south-east wind, which fecundates them, and they bring forth young after three years.

   *

冒頭でハゲワシは種々の世界神話の中の神のシンボルであり、神鳥としての彼らは、死者や死につつある人の上空をホバリングし、人間の肉を喰らい、しかも彼らは皆、女性であるとある。これ、北欧神話でお馴染みの、戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性及びその軍団、ワルキューレ(ドイツ語「Walküre」・古ノルド語「valkyrja」(ヴァルキュリャ)。「戦死者を選ぶもの」の意。戦場で死んだ者の半分をオージンの治める死者の館ヴァルホルへ連れて行く役目を担うとされ、ワタリガラスを伴って描かれたり、また、白鳥や馬と結び付けられることもあるとウィキの「ワルキューレ」にある)と属性と名が似ているのは、偶然とは思えない気がした。なお、グベルナティスの引用書誌に出る「l.c.」は「loc. cit.」とも書き、ラテン語の「loco citato」の省略形で、「示した場所にある」の意味を持つ。この語は、脚注や尾注や引用や参考文献に於いて、直前に示した文献と同じ文献で同じページの場合に使用される。

「元享釋書」「元亨釋書」(げんこうしゃくしょ)の誤植であろう。漢文体で記された日本初の本格仏教通史で、臨済僧虎関師錬(弘安元(一二七八)年~興国七/貞和二(一三四六)年)が鎌倉末期の元亨二(一三二二)年に完成させ、朝廷に上呈された。全三十巻。

「釋書」の「釋氏」で「仏陀」の意。収録内容は仏教伝来以降、鎌倉後期までの実に七百余年に及び、名僧の伝記や俯瞰的な仏教史を記す。南北朝時代には既に大蔵経に所収されている。

「某大后遺令して玉體を野に棄てしめし事あり」所持する「元亨釈書」の電子データで検索してみたが、それらしいものに行き当たらなかった。悪しからず。

「雍州府志」「雍州」は旧国名である山城国(京都府)の雅号。沿革・寺社・風俗・産物・古跡・陵墓に分けて記した地誌。十巻。儒医黒川道祐の撰になり、天和二(一六八二)年に完成させ、貞享元(一六八四)年の林信篤・人見竹洞の序を附して、貞享三年に自費出版した。

「京都紫野古阿彌谷に林葬行はれ、死人を石上に置去り、狐狸に食わせし由」「古阿彌谷」は判らぬが、「紫野」はこの大徳寺から船岡山周辺の広域地名である。かなり手こずったが、「国文学研究資料館」の当該書のオープン・データ画像で、「雍州府志補遺 古蹟門 愛宕の郡」の最初にあるのを見出せた。訓読して示す。(読みの内ひらがなは私が推定で附したもの)。

   *

古阿彌(こあみ)の谷 大德寺の西北に在り。中世、本朝に於いても亦、五葬有り。所謂る、火葬・土葬・水葬・野葬・林葬、是なり。斯(か)の處、巨松の下に、大石有り、其の形、大皷(おほつづみ)に似り。之に依て、大皷石と謂ふ。土人、林葬の塲にして新死(しんし)の人、則(すなはち)、屍を斯の石に靠(ヨセカ)け、衣を覆(おほひ)て去る。夜に入て、狐狸、之を食ふ。誠、不仁の甚(はなはだしき)なり。近世、斯の儀、無し。石も亦、今、亡(な)し。其の松の存するのみ。古阿彌の號、其の謂(いはれ)を知らざるなり。野僧古阿彌、之に住するか。斯の地、今、大德寺の中、寸松菴に屬す。後山と爲る。

   *

この最後の叙述から、位置が推定出来る。調べたところ、サイト「フィールド・ミュージアム京都」の「寸松庵・梅巌庵趾」によって、この中央附近であったことが判った。

「長明の發心集卷四に、……」鴨長明の「發心集」の「一 唐房法橋、發心の事」(行円(ぎょうえん)阿闍梨の通称で、三井寺の唐房に住んだ。源国挙(くにたか)の長男で永承二(一〇四七)年没)である。熊楠の指すそれは、伝本によってズレがあり、「第五」巻頭に配されてあるものもある。「日本古典ビューア」のこちら(これは「卷四」所収版)から視認した。読みは一部に留め、句読点を打ち、濁点を追加し、段落を成形した。踊り字「〱」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママである。差しはさんだ注は、新潮日本古典集成の三木紀人(すみと)氏の校注本(昭和五一(一九七六)年刊)を参考に附した。

   *

   唐房の法橋、發心の事

 中ごろ、但馬守國擧が子に、所の雜色(ざふしき)國輔といふ人、ありけり。ある宮ばらのはした物[やぶちゃん注:召使の女。]を思ひて、こゝろざし、ふかゝりける比、ちゝの、たじまのかみにて下りければ、えさらぬことにて、はるかにゆきけり。一日二日のたえまだに、わりなくおぼゆるを、たちわかれては、たへぬべくもあらねど、いかゞはせん、さまざまにかたらひをきつつ、なくなく別れにけり。

 國にくだりても、これより外に、心にかくる事なし。京のたより[やぶちゃん注:京都へ何かを送る便(びん)があるたびに。]ごとに文をやれど、とゞかず、さはりがちにて[やぶちゃん注:女の方に障りがあって。]、返り事も見ず、いぶせくてのみ、とし月を送るあひだに、ことのたよりに人のかたるをきけば、

「京には、人、おほく病みて、世の中、さはがしくなんある。」

といふにも、まづ、おぼつかなき事、かぎりなし。

 かくしつつ、からうじて、京へのぼり給ひつ。

 しかありし[やぶちゃん注:前にその女とよく逢いに行った、の意か。]宮のうちをたづぬれば、

「はや、れいならぬことありて、出給ひにき。」

と言ふ。

 使ひ、むなしくかへりて、此よしをかたるに、ふと、むねふたがりて、何のあやめもおぼえず、立ちかへり[やぶちゃん注:折り返し。]、ゆくゑ、たづにやりたれど、しる人もなし。すべきからなくて、心のあられぬままに[やぶちゃん注:激しいいとおしさに任せて。]、すゞろに[やぶちゃん注:当てもなく。]馬にうちのりて、うち出にけり。

「西の京のかたにこそ、しる人、あるやうに聞きしが。」

とばかり、ほのかに思ひ出て、いづくともなくたづねありく程に、あやしげなる家の前に、此女の使ひしめのわらは、たてり。

 いとうれしくて、

『物いはん。』

と思ふほどに、かくるゝやうにて、家の内へ逃入いを、馬よりおりて、入て見れば、此をんな、うちそばみて[やぶちゃん注:顔を背けて。]、かみをけづりてなむ、ゐたりける。

「あな、いみじくおはしけるは。」

とて、うしろをいだきて、日比のいぶせかりつる事なむ、念ごろにかたらへど、いらへもせず、さめざめと、なくより外のことなし。

「われを恨むるなりけり。」

と、あはれに、こゝろくるしうおぼえて、なみだををさへつゝ、さまざまになぐさめゐたり。

「さても、などかは後をのみむけたまへる。いつしか、見たてまつらんと思ふに、今さへいぶせく。」

とて、ひきむけんとするに、いとゞなきまさりて、さらにおもてをむかへず。

「あな、いみじ。心ふかくもおぼし入たるかな。」

とて、しひて、ひきむくれば、ふたつのまなこ、なし。木のふしのぬけたるごとくにて、すべてめもあてられず。

 こゝろまどひ、とばかり[やぶちゃん注:暫くは。]、物もいはれぬを、ねんじて[やぶちゃん注:気を取り直して。]、

「さても、いかなりしことぞ。」

とと問ふ。主(ぬし)は、ねをのみ泣きて[やぶちゃん注:泣き声をたてるばかりで。]、ともかくもいははねば、ありつるめのわらはなん、なくなく、ことのありしやうをか