御伽比丘尼卷二 ㊃問おとしたる瀧詣 付リ 戀の濡ゆかた
㊃問(とひ)おとしたる瀧詣付リ戀の濡(ぬれ)ゆかた
いづれの御ン時にか在〔あり〕けん、山しろ深草のさとに、何がしの織部〔をりべ〕とかや、きこえし人あり。橘(たちばな)の氏人(うぢびと)にて、げしうはあらぬが、去(さる)子細あつて、此所にかくれ住(すみ)けりとぞ。娘ひとり、もてり。かたち、たぐいなきのみか、心ざま、更にやさしければ、昔の所緣(ゆかり)につきて、幼(いとけなき)より、大内(〔おほ〕うち)のあるかたに宮づかへて、琴の調(しらべ)、歌の御席(〔おん〕せきに)つらなりけるほどに、小町・式部がながれをくみて、筆のあと、又、うつくし。されど、
「上(うへ)なき色ごのみにて、うき名のみ高雄(たかを)の山。」
といひたてられ、つゐんぢ[やぶちゃん注:「築地(ついぢ)」。屋敷の周囲に築地(ついじ)を巡らしたところから公卿・堂上方の邸宅を指すが、ここは内裏の意。]の内の住居(すまひ)かなはず、親なるさとに、おりゐたりけり。
比は、きさらぎの末の五日、北㙒聖廟のえにちなればとて、供の女、ひとりぐして、はるばると詣(まうで)、歸るさには、坊門をひがし、京極を南に行〔ゆく〕。むかふより二十(ふた)とせ比〔ころ〕の男の、きよらなるが、いまやうの伊達(だて)、手を盡して、早からず、步きたる。
おもほえず、互に㒵(かほ)を見あはせしに、かの男、いと情(なさけ)らしく、ふり歸り見たるおもざし、又、あるべきとも覺えず。
此女、心ち、まどひければ、跡につゞきし供の童(わらは)に私語(さゝやき)、
「さきのわかうどは、いかなるかたにて、いづこの邊(ほとり)におはしますにや。」
と、とへば、
「是は、立賣(たちうり)ほり川なる所に、かうかうの人に侍り。」
と。口、とく、語り捨行(すて〔ゆく〕)に、何となく、名殘惜(なごりをしき)心ちに、むねせまりければ、わかうどの後かげ見ゆる計〔ばかり〕は立やすらひゐけるを、ともの女、
「かくては、日もいたう、たけ侍らん。」
など、いさめ、漸々(やう〔やう〕)、さとに歸りぬ。
いとゞだに、色ふかき女の、又なく、戀初(こひそめ)けるほどに、其事計(ばかり)、とやせん、かくやは、と、とり乱(みだれ)て、晝は人めに思ひを包(つゝみ)、夜は泪〔なみだ〕のとこに臥(ふし)て思ひつゞくれば、
白波のあとなきかたに行舟も
風そ便のしるべなりける
と、よみしに、是は又、誰をして、かくといひ送らんよすがもなく、
「此まヽに戀じ[やぶちゃん注:「戀死」。]なんよりは、神にも仏にも祈(いのり)みばや。」
と、道もはるけき音羽山の觀世音に、七日のまうでを、なしけり。
滿參(まんさん)には、まだ明やらぬに、まいりつきて自(みづから)瀧詣(たきまう)でをぞ、しける。其さま、みどりなるかみをゆりさげ、白きゆかた、ひとへになりて、瀧より、本堂をめぐり、奧の千手(せんじゆ)に詣ずる事、三十三度に、なん、在〔あり〕ける。さなきだに、白く淸らなる女の、猶、すきとほりて、美(うつくし)さ、いはんかたなし。三十三度、終りて、女、舞臺(ぶたひ)のはしに出〔いで〕て、祈(いのる)やう、
「哀(あはれ)、願ひ成就し、我、此月比(ころ)、恋しき男に逢(あふ)よしのえにしあらば、ぶたひより下ヘ、とばせてたべ。若(もし)左(さ)もなきに侍らば、此身を、あの木(こ)の枝にかけて、命(いのちを)とりて給はれ。なむくわんぜ音。」
と、もろ友〔とも〕に飛(とば)んとするを、後(うしろ)より、
「今しばし。」
と、いだぎとゞめて、
「先ほどより聞〔きき〕侍るに、やさしくも哀(あはれ)なる心ばへ。いかなるかたを、こひ衣、ひとへに、かく、仏迄を賴(たのみ)、命(いのち)をかけて、せちには、おもひ給ひけるぞ。」
と、いへば、女、押(をし)うつぶき、
「はづかしながら、今はの限(かぎり)に候へば、何をか包(つゝみ)申さん。」
と、始終をかたりて、
「かうかうの事に侍り。もしや、彼(かの)人にしるべのかたにおはしまさば、此哀(あはれ)を御物がたりし給へかし。いとま申〔まうす〕。」
と、いひ捨(すて)、とばん、とするを、なを、つよく引〔ひき〕とゞめ、
「さても、ふしぎや、其〔その〕戀(こひ)らるゝ男は、我にて、侍り。こよひ、ふしぎなる御告(〔お〕つげ)により、まだ夜ふかけれど、詣来(まうできた)りけるが、かゝる事には、あひ侍りぬ。」
と、いへば、女、
『左(さ)もや。』
と思へど、しのゝめのほのぐらきに、朝霧(あさぎり)立〔たち〕こめて、物の色あひも、さだかならねば、
「いと、誠(まこと)しからず。」
など、打〔うち〕うたがふ。
男、
「さらば、こなたへ。」
と、堂なるみあかしをかゝげ、互(たがひ)に㒵を見あはするに、此日比〔このひごろ〕、戀〔こひ〕、悲しみける男なりけり。
かく、御仏〔みほとけ〕の引あはさせ給ひければ、ふたりともにつれ歸りて、ながき契(ちぎり)をかさねけるとぞ。
彼(かの)わかうども、すぐれたるいろ好(ごのみ)なりければ、是迄も、やもめ住〔ずみ〕にてゐけるが、此女の色の、やごとなく[やぶちゃん注:「やんごとなく」の「ん」の無表記。]見えけるのみか、深き心ばへにめでけるほどに、淺からぬ、いもせ川のふかき中〔なか〕とは、なりけり。
誠に、いちじるき仏の利生(りしやう)には在〔あり〕けれ。
[やぶちゃん注:「山しろ深草のさと」この中央の南北の広域旧地名(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「橘(たちばな)の氏人(うぢびと)」橘姓の御仁。橘氏(たちばなうじ)は姓(かばね)は宿禰で、後に朝臣となった。飛鳥末期に県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ:橘三千代)・葛城王(橘諸兄)を祖として興った皇別氏族(神武天皇以降に臣籍降下した分流・庶流の氏族であることを指す)。
「げしうはあらぬが」身分は悪くないどころか、かなり高いものの。
「大内(〔おほ〕うち)」内裏。
「小町」小野小町。
「式部」後の展開から見て、和泉式部であろう。
「上(うへ)なき色ごのみにて、うき名のみ高雄(たかを)の山」あらぬ好色女の鼻高とイジメを食らったのである。
「北㙒聖廟」北野天満宮。深草からは、北端から実測しても九キロメートル近く離れている。
「えにち」「緣日」。現在もそうだが、毎月の二十五日を天神の縁日としている。
「坊門」現在の下京区坊門町附近。
「京極」現在の下京区京極町附近。
「立賣(たちうり)ほり川」現在の、東西に走る「中立売通り」と「堀川通り」の交差する附近か。
「白波のあとなきかたに行舟も風そ便のしるべなりける」一首は底本では本文内表記である。これは藤原勝臣(かちおん 生没年未詳:元慶七(八八三)年に阿波権掾(あわのごんんじょう)叙任し、後に越後介・従五位下)の作で、「古今和歌集」の巻第十一「戀歌一」に載る(四七二番)、
白浪のあとなき方に行く舟も
風ぞたよりのしるべなりける
で、彼女の歌ではない。
「音羽山の觀世音」これは京都市東山区清水にある知られた清水寺のことである。同寺は山号を音羽山とし、本尊は十一面千手観世音菩薩(秘仏)である。されば、後のシークエンスの「瀧」も「舞臺」も納得がゆく。
「誠(まこと)しからず」「まことし」で形容詞で、「本当のことのようには思われませぬ」の意である。]
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