南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(21:岩魚)
○イハナ魚、想山著聞奇集卷三に、美濃信濃に此魚坊主に化るてふ迷信多き由云り、但し其僧に化し來て、人に漁を止めんことを訓え[やぶちゃん注:ママ。「をしへ」。]、食事して去り、獲らるゝに及んで、腹に先刻人に饗せられたる團子存せしと云話しは、莊子に孔子が神能見夢於元君、而不能避豫且之網と言けるに基き作れるか。
[やぶちゃん注:「イハナ魚」硬骨魚綱サケ目サケ科イワナ属イワナ Salvelinus leucomaenis 或いは日本固有亜種ニッコウイワナ Salvelinus leucomaenis pluvius 又は日本固有亜種ヤマトイワナ Salvelinus leucomaenis japonicus 。
「想山著聞奇集卷三に、美濃信濃に此魚坊主に化るてふ迷信多き由云り、……」「想山著聞奇集」(しやうざんちよもんきしふ(しょうざんちょもんきしゅう))は江戸後期の尾張名古屋藩士で右筆を勤めた大師流書家で随筆家としても知られた三好想山(みよししょうざん ?~嘉永三(一八五〇)年)の代表作で、動植物奇談・神仏霊異・天変地異など五十七話の奇談を蒐集したもの。全五巻。没年の嘉永三(一八五〇)年に板行されている。私は「怪奇談集」で全篇電子化注を終えており、私の偏愛する奇譚集である。また、特にその中でも熊楠の指摘する「想山著聞奇集 卷の參 イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」は、特に好きな一篇である。私の注は神経症的に過ぎて、本文が読み難いので、今回、この一篇のみ、文中に入れた割注のポイントを落しておいた。
「莊子に、孔子が神能見夢於元君、而不能避豫且之網と言ひける」「莊子」(そうじ)の「外物篇」の第二十六の一節。
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宋元君夜半而夢、人被髮闚阿門、曰、「予自宰路之淵、予爲淸江使河伯之所、漁者余且得予。」元君覺、使人占之、曰、「此神龜也」。君曰、「漁者有余且乎」。左右曰、「有」。君曰、「令余且會朝」。明日余且朝、君曰、「漁何得」。對曰、「且之網、得白龜焉、其圓五尺」。君曰、「獻若之龜」。龜至、君再欲殺之、再欲活之、心疑卜之曰、「殺龜以卜吉」。乃刳龜、七十二鑽而无遺筴。
仲尼曰、「神能見夢於元君、而不能避余且之網、知能七十二鑽而无遺筴、而不能避刳腸之患。如是、則知有所困、神有所不及也。雖有至知、萬人謀之。魚不畏網、而畏鵜鶘。去小知而大知明、去善而自善矣。嬰兒生无石師而能言、與能言者處也」。
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宋の元君、夜半にして夢みる。
人、被髮(ひはつ)して阿門[やぶちゃん注:屋敷の角にある小さな門。]を闚(うかが)ひて曰はく、
「予(われ)、宰路(さいろ)の淵より、きたり。予、淸江の爲に河伯の所に使ひするに、漁者の余且(よしよ)、予を得たり。」
と。
元君、覺め、人をして之れを占はしむるに、曰はく、
「此れ、神龜なり。」
と。君、曰はく、
「漁者に余且なるもの有か。」
と。左右、曰はく、
「有り。」
と。君、曰はく、
「余且をして朝(あした)に會(くわい)せしめよ。」
と。
明日、余且、朝(あした)す。君、曰はく、
「漁して何を得たる。」
と。對(こた)へて曰はく、
「且の網するに、白龜を得たり。其の圓(わたり)五尺。」
と。君、曰はく、
「若(なんぢ)の龜を獻ぜよ。」
と。
龜、至る。君、再び之れを殺さんと欲せしも、再び之れを活(いか)さんとも欲す。心に疑ひて之れを卜(ぼく)して曰はく、
「龜を殺して、以つて[やぶちゃん注:その亀甲を以って。]、卜せば、吉なり。」
と。乃(すなは)ち、龜を刳(えぐ)り、七十二鑽(さん)して、遺筴(いさく)无(な)し[やぶちゃん注:その亀甲で七十二度も錐で穴を開けて占ったが、吉凶は必ず当たり、一度として外れたことはなかった。]。
仲尼[やぶちゃん注:孔子。]曰はく、
「神(しん)は能く元君の夢に見(あら)はるるも、而れども、余且の網を避くること能はず。知は能く七十二鑽して遺筴无きも、而れども、腸(はらわた)を刳らるるの患を避くること能はず。是(か)くのごとくんば、則ち、知も困(きは)まれる所、有り、神も及ばざる所、有るなり。至知(しち)有りと雖も、萬人、之れを謀る[やぶちゃん注:万人が企てた謀略には敵(かな)わない。]。魚は網を畏れずして、鵜鶘(ていこ)[やぶちゃん注:鵜。]を畏る。小知を去れば、而(すなは)ち、大知、明らかにして、善を去れば、而ち、自づから善なり。嬰兒の生まるるや、石師(せきし)[やぶちゃん注:優れた先生。]无くして能く言(ものい)ふは、能く言ふ者と處(を)ればなり。」
と。
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「荘子」得意のパラドクスである。但し、私は熊楠の言うように、これが原拠であるとは思わない。ここにあるのは、仏教の放生会などの影響の方が遙かに大きいものと考えるからである。中国のそれとは、私はある種の平行進化の結果で似ているだけのことのように思うのである。まんず、「想山著聞奇集」親衛隊を自任する私のバイアスが掛かってのことであるけれども。]
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