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2020/12/13

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(11:鶴)

 

 ○鶴、志摩國大歲の神は本體鶴にて、内宮の末社なり、故に、神宮の社司、鶴を食はずとぞ(倭姬命世記、弘安九年太神宮參詣記、兼邦百首歌抄參看)。

 

[やぶちゃん注:「鶴」ツル目ツル科 Gruidae のツル類。現行ではツル科はカンムリヅル属 Balearica・ツル属 Grus・アネハヅル属 Anthropoides・ホオカザリヅル属 Bugeranus に分かれる。我々が「鶴」と聴いて即座に想起するのはツル属タンチョウ Grus japonensis やマナヅル Grus vipio であるが、これは渡りの分布から、江戸以前の日本人の想像する「鶴」をそれと限ることは誤りであることは言うまでもない。それを含めて博物誌としての鶴については「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶴」の私の注を参照されたい。

「志摩國大歲」(おほどし)「の神」原座の三重県志摩市磯部町恵利原字穂落(ほおとし)の川辺(かわなべ)と通称される地域に鎮座する、伊勢神宮皇大神宮内宮の別宮伊雑宮(いざわのみや)が所管する社で伊勢神宮百二十五社の一つである佐美長神社(さみながじんじゃ:グーグル・マップ・データ。以下同じ)。サイト「伊勢志摩きらり千選」の「佐美長神社」によれば、『佐美長神社は、かつて「真名鶴(まなづる)伝承」に登場する伝説にちなんだ神社で、伊雑宮誕生にまつわる「白真名鶴(しろまなづる)」の霊をまつった神社として知られ、別名を「穂落宮(ほおとしみや)」とも呼ばれてい』るとあり、「真名鶴伝承」その一として、『皇大神宮御鎮座の翌年、鳥の鳴く声が昼夜高く聞こえて泣き止まずやかましかったので、倭姫命が使いを遣わすと、嶋(志摩)の国の伊雑の上方の葦原に、本は一基で末は千穂に茂った稲が生え、その稲を白い真名鶴がくわえながら鳴いていた』。『それを聞かれた倭姫命は「恐し。事問ぬ鳥すら田を作り、皇大神に奉るものを」と感激され、その稲を抜穂にして、皇大神の御前に懸け奉った』。『倭姫命は稲の生えていた場所を「千田」と名付け、そこに天照皇大神の摂宮を造られた』。『これが現在の「伊雑宮」(皇大神宮別宮)であり、毎年』六月二十四日に『その神田で御田植祭が行われ、国の重要無形民族文化財に指定されている』。『また』、『稲をくわえていた真名鶴を「大歳神」と称え、同じ場所におまつりされた。これが現在の「佐美長神社」』『である』とあり、次に「真名鶴伝説」その二として、『伊雑宮ご鎮座の翌年秋、皇大神宮に真名鶴が北から来て昼夜鳴いた。倭姫命はそれをあやしく思い、使いを遣わすと、その鶴は佐々牟江宮』(ささむねのみや)『前の葦原に還った。そこでは本は一基で末は八百穂に茂った稲を鶴がくわえて鳴いていた、それを聞かれた倭姫命は、この稲を抜穂にして、皇大神の御前に懸け奉った。これが懸税(かけちから)の起源である』(伊勢神宮の神嘗祭の際に、内宮・外宮の正宮や別宮の御垣(みかき)に稲束が掛けられ、これを「懸税(かけちから)」と呼ぶ。神領民からの年貢の名残)。『佐々牟江の地は、現在の明和町の行部と山大淀の間に位置し、式内社佐々夫江神社』(現在の社名は竹佐々夫江神社(たけささふえじんじゃ)で、ここ)『が鎮座する』とある。ウィキの「佐美長神社」によれば、『祭神は大歳神(おおとしのかみ)』で、『穂落伝承に登場する真名鶴が大歳神であるとされる』ほか、『「大歳神」はスサノオの子であるとする説、伊佐波登美神またはその子とする説、穀物の神とする説が』あるとし、『「大歳神」の名の由来は、「穂落(ほおとし)が大歳(おおとし)に変わった」とする説と、「鶴が長寿を象徴することから、多き年が転じて大歳になった」とする説がある』とある。「宇治山田市史」では『佐美長神社の祭神を「神乎多乃御子神」とする』。『「神乎多乃御子神」は』、「延喜式神名帳」に記載されている『同島坐神乎多乃御子(おなしきしまにますかむをたのみこの)神社(佐美長神社に比定される)の祭神であり、粟島(=志摩)の神の子である水田の守護神と考えることができる』ともある。また、「穂落伝承」の項では、熊楠の挙げる「倭姫命世記」(やまとひめのみことせいき:「神道五部書」の一つで、記紀で垂仁天皇の皇女とされる大和姫命(倭姫命)が天照大神を奉じて各地を巡幸し、伊勢に鎮座するまでの伝承を記したもの。巻末に天武朝(六七二年~六八六年)の大神主とされる御孫(御気)が書写し、神護景雲二(七六八)年に禰宜五目麻呂(五月麻呂)が撰集したと記すものの、現在では後世の仮託とされ、実際には鎌倉中期の建治から弘安の頃(一二七五年~一二八七年)に書き上げられたとする説が有力。以上は「愛知県図書館」公式サイト内の「デジタルライブラリー」の「大和姫命世記」の書誌データに拠った。鶴を神霊の鳥とする記述はここにある同書PDF)の2627コマ目に出現する)を原拠として、垂仁天皇二十七年九月、『倭姫命一行が志摩国を巡幸中』、一『羽の真名鶴がしきりに鳴いているところに遭遇した。倭姫命は「ただごとならず」と言い、大幡主命と舎人紀麻良を派遣して様子を見に行かせた。すると稲が豊かに実る田を発見、もう』一『羽の真名鶴は稲をくわえていた(「くわえて飛んできてその稲を落とした」とも)。倭姫命は「物言わぬ鳥すら田を作り、天照大神に奉る」と感激し、伊佐波登美神に命じて抜穂(ぬいぼ)に抜かせ、天照大神に奉った。その稲の生育していた田を「千田」(ちだ)と名付け、その傍らに神社を建立した。これが伊雑宮であり、真名鶴を「大歳神」として祀ったのが佐美長神社である』と記す。但し、『この伝説を御巫清直』(みかなぎきよなお 文化九(一八一二)年~明治二七(一八九四)年:江戸末期から明治の国学者にして伊勢外宮(豊受大神宮)の神職)『は「朝熊神社』(伊勢神宮皇大神宮内宮の第一位の摂社。ここ)『の大歳神を強引に佐美長神社に結び付けたもの」として批判している』。「磯部町史」では、『「地域を治めた磯部氏が稲作の神として創祀したもの」との説を提唱している』とある。

「鶴を食はず」意外に思われる方もいようが、鶴は近代までよく食された。例えば、良安も前掲の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶴」の中で(下線太字は私が附した)、

   *

眞鶴(まなづる)は 高さ、四、五尺、長さ、三尺許り。項に、丹、無し。頰、赤く、全體、灰白色。但し、翮(はねもと)[やぶちゃん注:羽の根元、或いは、羽根の茎(真中の管状部位)。]の端、尾の端、保呂(ほろ)[やぶちゃん注:保呂羽。鳥の左右の翼の下に生え揃った羽。特に鷹のそれは矢羽として珍重される。]の端、共に黑くして、本(もと)は皆、白たり。之れを「鶴の本白(ほんしろ)」と謂ふ。以つて箭(や)の羽に造(は)ぐ。或いは、羽帚(はねはうき)に爲(つく)る。之れを賞す。肉の味、極めて美なり。故に「眞鶴」と名づく。

黑鶴(こくつる)は高さ、三、四尺、長さ、二、三尺。白き頸、赤き頰、騮(ぶち)の脚、其の余は皆、黑く、肉の味、亦、佳なり。一種、黑鶴に同じくして、色、淡(あさ)き者を「薄墨(うすずみ)」と名づく。

白鶴(はくつる)は赤き頰、玄(くろ)き翎(かざきり)、赤き脚、其の余は皆、白し。其その肉、藥用に入るべし。

[やぶちゃん注:中略。]

鶴の肉・血 【氣味】、甘、鹹。香臭(かうしう)有り【他の禽とは同じからず。】。中華の人、食品と爲さず。本朝には以つて上撰と爲す。其の丹頂は、肉、硬(こは)く、味、美ならず。故に之れを食ふ者、少しなり。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

で判る通り、『江戸時代には鶴の肉は白鳥とともに高級食材として珍重されていた。武家の本膳料理や朝鮮通信使の饗応のために鶴の料理が振る舞われたことが献立資料などの記録に残されている。鶴の肉は、江戸時代の頃の「三鳥二魚」と呼ばれる』五『大珍味の』一『つであり、歴史的にも名高い高級食材』であった。因みに、『三鳥二魚とは、鳥=鶴(ツル)、雲雀(ヒバリ)、鷭(バン)、魚=鯛(タイ)、鮟鱇(アンコウ)のことである』とウィキの「ツル」にもある通りである。鶴は、近代に於いても、第二次世界大戦以前まで、高級で縁起物の食材として食されていたのである。例えば「鶴料理る(つるつくる)」という季語(新年。「鶴の庖丁」と同じで、本来的には正月十七日或いは十九日に行われた宮中の舞御覧の前儀として、鶴を儀式的な作法で調理し天皇に饌せられた行事があり、この時、鶴の肉は吉祥の形に調理されて舞御覧の間に御前として供進されたことに基づくものであろう)がそれまで普通に生きていた。まだ信じられない人は、私の『杉田久女句集 240  花衣 Ⅷ 鶴料理る 附 随筆「鶴料理る」』を読まれたい。因みに、そういう人は、美しき学名たるペリカン目トキ科トキ亜科トキ属トキ Nipponia nippon を滅ぼした日本人は、トキを羽毛採取と肉食のために明治期に乱獲した結果であることも理解されていないであろう。

「弘安九年太神宮參詣記」弘安九(一二八六)に僧通海が記した伊勢神宮参詣紀行。「新日本古典籍総合データベース」のこちらで全文が読める(但し、写本)。鶴を霊鳥とする記載はここに認められる。なお、著者は僧であるから、西行や芭蕉(彼は僧ではないが、僧形であるから)と同様、伊勢神宮の境内には入れず、僧侶ら専用の遥拝所で遥拝している。

「兼邦百首歌抄」卜部兼邦の歌集で文明一八(一四八六)年頃の成立で、明暦二(一六五六)年に刊行された。「新日本古典籍総合データベース」の原刊本のこちらの、下巻の冒頭に出現する「大歳神(おほとしのかみ)」と前書する一首の後書の終わりの方に、熊楠の言う通り、『神宮(しんぐう)の社司(しやし/やしろつかさ)靏をくはざる』と出る。]

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