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2020/12/11

御伽比丘尼卷三 ㊁昔ながらの今井物がたり 付 繼母の邪見觀音の慈悲

 

   ㊁昔ながらの今井物がたり繼母の邪見觀音の慈悲

 

Kubikirekannon

 

 今は昔、西國の在かたに、今井何がしといふ士あり。武威、家中にならびなく、そこばくの祿を給て、從者おほく、誠に時めく粧(よそほひ)なり。男子、ひとり、持てり。名を松王丸とよぶ。いとけなきより、聖(ひじり)の經(をしへ)、賢(かしこき)傳(つたへ)をまなびて、才智、世にこえ、「陽明が昔もかくや」と迄あやし、されば、まゝならぬ世の爲〔ため〕し、今更にはあらねど、過(すぎ)し三とせ、松王十才の暮、母公におくれ、悲しみの泪(なみだ)、袖、くちて、ほす日をいつと、しら波のおもひに沈(しづみ)給ひし。

 後の母ぎみ、豐のかたは、始(はじめ)の母のいもうと、松王の伯母にておはしけるが、實〔げに〕世の中の、まゝしきほど、うたてしき事は、あらじ、三人のわが子を置(おき)て、五人の繼子(ままし〔こ〕)を憐(あはれみ)しためしもあるに、それには引かへ、とよのかた、松王をにくみ思ひ給ふ事、大かたならず、唐(もろこし)の陳氏(ちんし)・尹吉甫(いんきつほ)が妻の惡行(あくぎやう)にも越(こえ)ぬべし、此事に、あけくれ、嗔恚(しんい)のほのをゝつみ給ひけるに、猶、もゆる火に薪(たきゞ)を添(そへ)て、

「若殿(わか〔との〕)こそ、昔の母上をおぼして、御かたは隔(へだて)、にくみおもふ給へる。」

など、さかしら申ものゝあれば、いとゞいかりはらだち給ひて、

「來(きた)るやよひ、曲水の宴にことよせ、毒の酒をすゝめ、ころし申さん。」

と、御身ぢかき女房たち、示合(しめし〔あはせ〕)て、既に其日を待給ひけるぞ、おそろしき。

 松王、かゝるべしとは、しり給はず、豐(とよ)のかた、万(よろづ)つらくあたり給へば、何はにつきて、昔の母上、戀しく、今は、一囘(ひたすら)、仏〔ほとけ〕の道に入〔いり〕て、尊靈(そんりやう)ぼだひのため、每日、三十三卷(みそぢ〔み〕まき)の普門品(ふもんぼん)懈(おこたり)給はず、こよひも又、御つとめ終りて、仏のまへに、やゝまどろみ給へば、在(あり)しめいどの母上、枕もとにあらはれ、松王の㒵(かほ)をつくづくと打詠(〔うち〕ながめ)、

「いたはしの有樣〔ありさま〕や。我世に有〔あれ〕ば、侍・小性(〔こ〕せう)・女房ども、それぞれにかしづき、左(さ)もゆゝしかるべきを、それにはあらで、かく佗(わび)しくとぢこもり給へるさま、あな、いとおしの此若〔このわか〕や。さても、まゝ母とよのかた、わ君〔ぎみ〕をにくみ思ひたまふのみか、かうかうの事にはかりて、ころし參らせむ、たくみ、あり。相かまへて、心ばしゆるし給ふな。我、かくと、しるよりも、悲しさのやるかたなく、ゑん王[やぶちゃん注:閻魔大王。]に暇(いとま)申〔まうし〕て、今、爰に來りしらせ侍ふ。はや、めいどの約(やく)もちかくなれば、又、三途(〔さん〕づ)に歸るに侍り。あら、なごりをし。」

といふ、露のかい消(きへ)給へば、松王、夢さめ、あたりを見れど、人もなし。

「まさしく、今のは母上にて、世にもうれしく思ひしに。扨は、うつゝにてぞ在〔あり〕けめ。ゆめとしりせば、覺(さめ)ざらまし物を。」

と、今更、袂をしぼり給ひしが、

「さるにても、あらたなる夢の告(つげ)なれば。」

とて、上巳(〔じやう〕し)のえんは、

「心ちあしき。」

よし、僞りて出給はず。

 是にこそ、まゝ母の手だて、徒(いたづら)に、

「扨は、松王にしらするものゝありて、かくはしけん。」

と、父上に讒(さかしら)をかまへ、あらぬ手だてをなし給ふに、ちりし木ずえのあとはうすく、今さく花に目をくれ、やがて、松王を追出(をい〔いだ〕)し給ひぬ。

 こゝに、やしきより二里隔(へだて)たるさとに、觀音寺あり。往昔(そのかみ)、聖德太子、榧(かや)の木壱本をもて作り給へる、千手のざうにて、いとたとき御仏なりき。此所の住持某(なにがし)の法印は、松王のめのと[やぶちゃん注:「乳母」。]の兄なりければ、賴〔たより〕て、月日を送り給へり。是迄も、とよのかた、猶、やすからず、いかりのゝしり、平内(へい〔ない〕)といふ、下部をめし、

「かうかう、相はからひ、首、とつて參らせよ。」

と。

 再三、いなみ申上れば、母公〔ははぎみ〕、けしき、世に愧(おそろしく)かはりて、恨(うらみ)いきまき給ひけるほどに、今は、せんかたなく、御請〔おうけ〕申〔まうし〕ぬ。

 既に、其日もくれは鳥、あやなく、くらき闇の夜なるに、彼(かの)寺に忍び、事のやうをうかゞひ見れば、松王殿は、仏前に念珠(ねんず)しゐ給ひしを、

『いたはしながら。』

後(うしろ)さまに指(さし)とをし、くびかき切、引さげ、歸り、母上に見せ奉れば、大きに悅(よろこび)給ひ、平内には、引手物、あまた、たびてげり。

 くびをば、庭なる松の木の下に、ふかく埋み給ひければ、いかなる人の所爲ともしらざるぞ、はかなき。

 其あけの夜、松王の父何がし、ふしぎの夢を見給へり。

 すがたは八十計〔やそぢばかり〕の翁の、雲の内に、たつて、のたまふ、

「扨も。汝、はかなくも、女の色にふかくまよひしより、一子の松王丸、まゝ母のため、むなしくなりぬ。こゝに先立〔さきだち〕し母、是を恨(うらみ)、天帝に訴(うつたふ)事、既に成就し、鬼神(きしん)、いかりをふくめり。みよ、明(あけ)なば、まヽ母とよのかた、ふしぎの天災にあふべし。猶、松王がくびは、そこそこの松の下に埋(うづ)めり。」

と、誠にあらたなる告(つげ)有〔あり〕て、ゆめ、さめぬ。

 かくて、其夜も、はやく明〔あけ〕て、午(むま)の刻計、俄に、黑雲、たなびき、雷電、山を崩(くづす)がごとく、此家に落(をち)かゝつて、まゝ母とよのかたを、ふたつに引さき失(うせ)ぬ。

 此後、雲、はれ、雨、止(やみ)、もとの蒼天とぞなりける。

 今井氏も、さるものにて、痴人(ちにん)のまへに、夢を說(とか)ず、あるは、

「五臟にかくる所あつて、これをゆめみる。」

など、更に信用せざりしが、此不思義に驚(おどろき)、猶、夢に任せて、一木の松の下をほるに、少(ちいさ)き器物(うつは〔もの〕)あり。

 是をひらけば、觀音の御ぐし、朱(あけ)の血に染(そみ)たるが、光明、かくやくと照(てら)し、拜まれさせ給ひぬ。

「さても、松王は、いかなる所にか、しのびゐけん。」

と、尋たまへるに、

「かうかうの御寺におはす。」

と、しらせまいらする人、あり。

「扨は。其御仏の告なめり。」

と、いとたとく、いそぎ、自(みづから)彼(かの)寺へ詣(まうで)、松王の行衞をとふに、つゝがもなく、久しき親子のたいめんをなし給ひけり。

 其後〔そののち〕、御戶(〔おん〕と)開帳して拜奉るに、千手のざう、御ぐしはなくて、御〔おん〕かたち計〔ばかり〕拜まれさせ給ひぬ。

 見聞(けんもん)の人々、信仰のうなじをかたぶけ、

「扨は。仏の身がはりにたゝせ給ひけるに、疑なし。」

と、各〔おのおの〕泪を流し、彼〔かの〕切奉りし御ぐしをつぐに、もとの御本尊とぞなり給ひける。

 今井何がしも、まのあたり、かゝるきどくを見ければ、先非(せんぴ)を悔(くい)、則(すなはち)、發心し、名跡(みやうせき)は松王にゆづりあたへ、仏道修行(すぎやう)の身となりしとぞ。

 今に「くびきれの觀音」とて、いとたとき御仏なりけり。

 

[やぶちゃん注:「陽明」三征と激賞される業績を残し、陽明学の始祖となった明の儒者で高級官僚にして武将の王陽明(一四七二年~一五二九年)。

「あやし」確かに原本もそうだが、これは「はやし」の版そのものの誤彫ではあるまいか。

「袖、くちて、ほす日をいつと、しら波の」「袖、朽ちて、乾す日を何時と、しらなみの」だが、袖が濡れそぼちて腐って千切れてしまったなら、乾すべき袖は、最早、ありはせぬのではありませぬか? と突っ込みたくなった。こういう中身のない膨脹型の和歌的美文というのは、つい、筆が滑って矛盾したことを言ってしまうところが、私の甚だ嫌悪するところである。

「まゝしき」「繼しき」親子・兄弟などが血の繋がっていない関係であることを言う形容詞。

「三人のわが子を置(おき)て、五人の繼子(ままし〔こ〕)を憐(あはれみ)しためしもあるに」「ままし」のルビはママ。こんな言い方ないと思う。「子」を彫り手が「し」とやらかしただけじゃなかろうか? さて。こういう良妻の継母物語のシチュエーションを持つ昔話か実話があるのだろうが、私は知らない。識者の御教授を乞う。

「陳氏(ちんし)・尹吉甫(いんきつほ)が妻の惡行」「陳氏」のそれは、六朝の顔之推の志怪小説「還冤志」の中の「徐鐵臼」の基づく。

   *

宋東海徐某甲、前妻許氏、生一男名鐵臼、而許亡、某甲改娶陳氏。陳氏兇虐、志滅鐵臼。陳氏產一男、生而咒之曰、「汝若不除鐵臼、非吾子也。」。因名之曰鐵杵、欲以杵擣鐵臼也。於是揰打鐵臼、備諸苦毒。饑不給食、寒不加絮。某甲性闇弱、又多不在、後妻恣意行其暴酷。鐵臼竟以凍餓被仗而死、時年十六。亡後旬餘、鬼忽還家、登陳牀曰、「我鐵臼也。實無片罪、橫見殘害。我母訴怨於天、今得天曹符來取鐵杵。當令鐵杵疾病、與我遭苦時同。將去自有期曰。我今停此待之。」。聲如生時、家人賓客、不見其形、皆聞其語。於是恆在屋梁上住。陳氏跪謝搏頰、爲設祭奠、鬼云、「不須如此。餓我令死、豈是一餐所能對謝。」。陳氏夜中竊語道之、鬼厲聲曰、「何敢道我。今當斷汝屋棟。」。便聞鋸聲、屑亦隨落、拉然有響、如棟實崩。舉家走出、炳燭照之、亦了無異。鬼又罵鐵杵曰、「汝既殺我、安坐宅上以爲快也。當燒汝屋。」。卽見火然、煙焰大猛、內外狼狽、俄爾自滅、茅茨儼然、不見虧損。曰曰罵詈、時復歌謠、歌云、「桃李華、嚴霜落柰何。桃李子、嚴霜早落已。」。聲甚傷切、似是自悼不得成長也。於是鐵杵六歲、鬼至便病。體痛腹大、上氣妨食、鬼屢打之、處處靑黶、月餘而死。鬼便寂然。

   *

訳は私がネットを始めた当時から、よく訪れたサイト「寄暢園」の「鉄臼と鉄杵」がよい。一方の「尹吉甫」(いんきっぽ)は周の宣王の下臣で、異民族の征伐や、「詩経」大雅の幾つかの作詩者としても知られるが、ウィキの「尹吉甫」によれば、『吉甫の子の伯奇(はくき)が、継母の嘘によって家を追いだされた説話は多くの書物に引かれており、書物によってさまざまに話が変形している』。「風俗通義」「正失篇」に『よれば、曽子が妻を失ったとき、「尹吉甫のように賢い人に伯奇のような孝行な子があっても(後妻のために)家を追放されることがある」と言って、再婚しなかったという』。劉向(りゅうきょう)の「説苑」の佚文に『よると、伯奇は前妻との子で、後妻との子に伯封がいた。後妻は伯封に後をつがせようとして、わざと衣の中に蜂を入れ、伯奇がそれを取』させ、その『様子を見せて、伯奇が自分に欲情していると夫に思わせた。夫はそれを信じて伯奇を追放したという。ただし』、「説苑」では伯奇を尹吉甫の子ではなく、『王子としている』。「水経注」の引く揚雄の「琴清英」に『よると、尹吉甫の子の伯奇は継母の讒言によって追放された後、長江に身を投げた。伯奇は夢の中で』、『水中の仙人に良薬をもらい、この薬で親を養いたいと思って』、『歎きの歌を歌った。船人は』、『その歌をまねた。吉甫は舟人の歌が伯奇のものに似ていると思って』、『琴で「子安之操」という曲を弾いた』。蔡邕(さいゆう)の「琴操」の「履霜操」では、『この曲を追い出された伯奇が作ったものとし、宣王がこの曲をきいて孝子の歌詞であるといったため、尹吉甫はあやまちに気づいて後妻を射殺したとする』。『曹植「令禽悪鳥論」では、尹吉甫は伯奇を殺したことを後悔していたが、ある日』、『尹吉甫は伯労(モズ)が鳴くのを聞いて伯奇が伯労に生まれかわったと思って、後妻を射殺したと言う』とある。

「さかしら」自ら進み出て言い出すこと。

「やよひ、曲水の宴」本邦の内裏でのそれは古くから三月三日の行事であった。

「何はにつきて」何事についても。

「普門品」「法華経」第二十五品(ほん)「観世音菩薩普門品」のこと。「念彼観音力」によって観音菩薩の御力によりさまざな災いは去ると説かれる。

「上巳(〔じやう〕し)のえん」五節句の一つで三月三日のそれ。元来は「上旬の巳の日」の意で、元々は三月上旬の巳の日を指したが、中国の三国時代の魏よりこの日に行われるようになったと伝えられる。

「觀音寺あり。往昔(そのかみ)、聖德太子、榧(かや)の木壱本をもて作り給へる、千手のざうにて、いとたとき御仏なりき」榧(裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ Torreya nucifera )製であったかどうかは知らないが(近年まで実在したから判っているはずだが)、滋賀県近江八幡市安土町(あづちちょう)石寺にある天台宗系繖山観音正寺(かんのんしょうじ)が、聖徳太子が人魚(前世に漁師として殺生を重ねたために転生したといい、近くの愛知川の畔で出逢ったとする)の願いを請けて、本尊として千手観世音菩薩を彫って開基したという寺はある。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、本尊は一九九三年の火災で本堂とともに焼失してしまっている(二〇〇四年再建。本尊は特別許可でインドから輸入された白檀製で復元された)。

「痴人(ちにん)」愚か者。ここは後妻豊の方を指す。

「五臟にかくる所あつて」体内に正常でない陽気の欠損があって。

「かくやく」「赫奕」。

「御〔おん〕かたち」首のない尊仏。

「御ぐし」「御首」「御頭」と当てて書いて、首や頭の敬称。

「くびきれの觀音」これとマッチするような伝承の観音像が存在しないと思われる。]

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