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2020/12/09

御伽比丘尼卷三 ㊀ぼだひは糸による縫の仏付リ遊女のさんげ咄

 

  御伽比丘尼卷之三

    ㊀ぼだひは糸による縫(ぬい)の仏付リ遊女のさんげ咄〔さんげ〕

 一とせ、大和路にさすらひ、長谷・當摩(たへま[やぶちゃん注:ママ。])など詣(まうで)けるつゐで、名にあふ、よしの山の邊(ほとり)修行(すぎやう)しけるに、ある峯の木かげに、纔(わづか)にむすびたる庵(いほ)あり、里を隔つる事、十餘町[やぶちゃん注:十町は一キロ九十一メートル程。]、かけ樋(ひ)の音さへかすかに、露(つゆ)音なふ物なく、つたかづらは、ひびろごりて、軒をうづむ。

『あやし。いかなる人の、世をのがれて、かくは、すまひけん。』

と、さしのぞけば、としの比、三十あまりの尼の、つまはづれ、さも、しからぬが、木綿のひとへなるに、あさの衣をかけたりしが、五色の糸をもて、十三仏のざうをぬひけるさまなり。

 見るさへ、心すみて、やおら立〔たち〕より、

「是はたびの尼に侍るが、道にふみまよひて、此所へ來り侍ふ。道しるべ、し給へかし。」

と、いへば。

「安きほどの事。こなたへ。」

と、わらむしろ敷〔しき〕たる一間にいざなひ、

「見奉れば、旅の尼ごせと見えさせたまふ。御つかれ、さぞ。」

と、茶なんど汲(くみ)て出〔いだ〕せるさま、いとやさしく、むかしゆかしく覺えければ、

「誠や。一樹のかげ、一河(が)の流(ながれ)を汲〔くみ〕もしかるべき仏の御引あはせにこそ候へ。扨も、いかなるかたなれば、かく立〔たち〕はなれたるすまひに、心をすまし給ふらん。」

といへば、かの尼、さのみ、いなみにも及ばず、

「今かゝる身にふかく包(つつみ)侍らんは、罪ふかくも覺へ侍れば、あらあら、かたり申さん。わが身は、もと、ながれの女にて「常盤(ときは)」といひしものに侍り。げに、うきふししげき吳竹(くれだけ)の、あなたになびき、こなたに枕ならべて、かよふ男、多き中に、何がしの右衞門といへるかた、わきて、心ざし、淺からず。此世の外〔ほか〕かけて、又なき契(ちぎり)をなし、うき身の末をも、其かたに任せ置(おき)侍〔はべり〕しに、たのまれぬ人心〔ひとのこころ〕、今更にはあらねど、昨日のふちは、けふの瀨とかはりて、女郞もおほくある中に、此男、わがはうばひなりし「若山〔わかやま〕」といふにあひて、ふかき情(なさけ)をつくしぬ。此つらさ、ねたましさ、物ぐるおしき迄に恨(うらみ)思ひければ、若山も又、我に心をおきのひの、身をもやし、むねをこがして、互に執(しう)ねきねたみなりけれど、傍輩(ほうばい)の悲しさ、ひとつ所に起(をき)ふして、心にふかく思ひねの、夢の枕をならべけり。

 ある夜、又、ふたり相友(〔あひ〕とも)にふしたりし夢に、若山、此夫(おつと)の事をいひ出〔いで〕、いきまき、のゝしる、とおもへば、忽(たちまち)、ふたつの角(つの)、おひ、愧(おそろし)きかんばせ、我にむかひ、とびかゝり、

『よしや我こそ命かけし夫をわごぜにとられ、むねにたく火の消(きえ)やらぬ。是、見給へ。』

と、吹出(ふき〔いだ〕)せば、火熖(くわゑん)となつて、互につかみあひける、と覺へて、いとくるしく、一身、あせにひたり、夢、さめぬ。

 そばに臥(ふし)たる若山が、いたう、うめきけるを、うごかし起(おこ)し、

「たゞいま、かゝるおそろしき夢を見し事よ。」

と語れば、若山も、

「おなじく、露〔つゆ〕たがはぬ夢をみけり。」

と。

 こゝに於て、ふたりともに、ざんぎ・さんげし、日比のねたましさを、かたりあひけるに、たゞぼんのふのやみにのみ、まよひて、くらきより、猶、くらきにたどり入〔いり〕ぬる淺ましさ、おそろしくも、かなしく、此夜、ふたりともに、かざりおろして、ひそかにしのび出けるが、若山は妙吟(〔みやう〕ぎん)と改(あらため)、都のさがのゝ邊(あたり)にすめば、わらはは、又、妙安〔みやうあん〕と改名して、此所〔ここ〕に住(すみ)侍る事、五とせ、とし比の罪、おそろしく、あなたこなたより、かよひこし文どもを集(あつめ)、三尊仏を自(てづから)はりこにし奉りぬ。此比は、中將ひめの昔をしたひ、かく、仏のざうを縫(ぬい)にし。今は一向(ひたすら)、終焉の事計〔ばかり〕思ひとり侍る。」

と、一間の仏だんをひらけば、實(げに)、はりこの本尊なりし。

 つたへきく、證空上人の普賢ぼさちと拜給ひし江口君(ゑぐちのきみ)も、かゝる事にや、と思ひ出〔いで〕、いとたとく、打拜み、猶、法(のり)の物がたりなどに、日も西にかたぶけば、いとま、こひ、あるじに道の案内(あない)尋〔たづね〕て、人かよふ道に出〔いで〕ぬ。

 むかし小㙒の小町が、人の執をおそれ、送りつゞけし、千束(ちづか)の文〔ふみ〕をもて、仏〔ほとけ〕のざうを作り、今に「玉章(たまづさ)の如來」とて、男女〔なんによ〕の道を守り給ふとぞ。

 夫(それ)は上代、是は又、末世に、觀(くわん)・勢(せい)の二ぼさつ迄、作り奉り、安置しけるは、すぐれたる心ざし。誠にかゝる發心(ほつしん)の因(ゐん)もある物かは、と、殊更、すじやうに、覺え侍りぬ。

 

[やぶちゃん注:「長谷」奈良県桜井市初瀬(はせ:古くは「はつせ」と読み、「泊瀬」とも書いた)にある真言宗豊山(ぶさん)神楽院(かぐらいん)長谷寺の辺り(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「當摩(たへま)」奈良県葛城市當麻(たいま:古く「はたぎま」「たえま」「とうま」とも呼んだ)の、二上山當麻寺を含む地域名。

「名にあふ」「名に負(お)ふ」の訛りであろう。

「よしの山」奈良県吉野郡吉野町吉野山の国軸山金峯山寺(きんぷせんじ)を中心とした修験道の聖地。

「つまはづれ、さも、しからぬが」「つまはづれ」は「褄外れ」「爪外れ」で僧服の褄のさばき方、或いは、身のこなしよう、の意。これといって、如何にも尼僧といった感じのそれではないことを謂う。

「十三仏」地獄の審判を司るとされた、閻魔王を初めとする冥途の裁判官である十王と地獄思想を語った道教信仰に仏教信仰を混淆させた中国の偽経「十王経」に於いて形成された十王信仰を基にして、室町時代になってから本邦で独自に考えられた、その長い審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を担当するとされた判官王の本地とされる十三の仏・菩薩及びそれを祀る対象像を指す。前が王、後(丸括弧内)が本地仏で、初七日の審理日から、秦広王(不動明王)・初江王(釈迦如来)・宋帝王(文殊菩薩)・五官王(普賢菩薩)・閻魔王(地蔵菩薩)・変成(へんじょう)王(弥勒菩薩)・泰山王(薬師如来/四十九日)・平等王(観音菩薩/百か日)・都市(とし)王(勢至菩薩/一周忌)・五道転輪王(阿弥陀如来/三回忌)・蓮華王(阿閦(あしゅく)如来/七回忌)・祇園王(大日如来/十三回忌)・法界王(虚空蔵菩薩/三十三回忌)。主に掛軸にした絵像を祀って、法要を始めとする追善供養の場に飾る風習が伝えられている。

「むかしゆかしく」以下の清雲尼の言葉から判る通り、古くからの仕来りに則った迎え入れの様子・応対だけでなく、庵の造作・雰囲気ひいては立地の様態や景観を総て含めたものへの感懐である。

「ながれの女」「流れの女」。「流れ女(め)」。「流女(りうぢよ)」とも。浮いた稼業の女。古くは特に遊女を指した。

「うきふししげき吳竹の」「憂き節茂き吳竹(くれたけ)の」(呉竹は普通は清音)。「呉竹」は「竹の節 (ふし) 」や「節 ()」に関わることから、「ふし」「よ」「よる」「言の葉」「末」にかかる枕詞であるのを反転させたものだが、「あなたになびき」(彼方に靡き)と言う後の語の意味を持った序詞ともなっている。

「ふち」「淵」。

「はうばひ」「朋輩」。

「我に心をおきのひの、身をもやし、むねをこがして」「我に心を置き/(燠(おき):真っ赤におこった炭火)の日の/火の、身を燃やし、胸を焦がして」であろうか。前の部分の私の解釈は、若山は恋敵として私に「日」を置くに従って次第に距離を「置き」、しかも「澳」の如くに真っ赤になった嫉妬の紅蓮の炎(「火」)故に、「身を燃やし、胸を焦がして」の意ととった。

「ある夜、又、ふたり相友(〔あひ〕とも)にふしたりし夢に」言わずもがなであるが、この記述される夢は常盤が見たものである。

「おひ」「生(お)ひ」。生(は)え。ここでは「若山」が鬼女化する。

「よしや」「縱(よ)しや」。副詞で「仕方ない・まあいい・ままよ」或いは「たとえ・仮に」の意であるが、ここはそれを激情して発する感動詞的なものに変えて用いたもの。

「夫(おつと)」ここは遊女の相手であるから愛人の意。

「わごぜ」「我御前」。あんた。おまえさん。二人称代名詞。主に女性を親しんで呼ぶ語。

「おなじく、露〔つゆ〕たがはぬ夢をみけり」と言っているが、これは――一箇所を除いて――全く同じということであろう。則ち、「若山」の夢の方では、鬼女となって襲うのは「若山」自身ではなく、「常盤」の方であるということである。そうでなければ、以下の二人の剃髪と遁世に於ける両者のそれの根拠となり得ないからである

「ざんぎ」「慙愧」「慚愧」。深く恥じ入ること。

「さんげ」「懺悔」。江戸以前は「さんげ」と清音である。

「たゞぼんのふのやみにのみ、まよひて」「只、煩惱(ぼんなう)の闇にのみ迷いて」。

「かざりおろして」「餝(かざり)降ろして」。事実上は遊女の髪飾りを、皆、抜き捨てて、であるが、足抜けの直後に剃髪して尼僧になったことをも含ませる表現である。

「都のさがの」京の嵯峨野。二人は敢えて互いの隠棲地を離したのである。

「かよひこし文ども」常盤であった頃に送られてきた沢山の恋文。

「三尊仏」単にこう言った場合は、釈迦如来像を中尊とし、その左右に両脇侍(きょうじ)像(左脇侍は観音菩薩、右脇侍は勢至菩薩を配するのが最も一般的。なおこの「左」「右」は、中尊から見て「左」「右」に位置するものを指すので、拝して向かった場合は逆となるので注意されたい)。

「はりこ」「針子」で繡(ぬいとり)にすることであろうが、通常は職業としての「お針子」を指し、一般的な謂いではない。

「中將ひめ」「中將姬」は藤原不比等の孫右大臣藤原豊成の娘(天平十九(七四七)年~宝亀六(七七五)年)とされる、謡曲「当麻」「雲雀山」、浄瑠璃・歌舞伎で知られる「継子いじめ」の中将姫伝説の主人公。史書には登場せず、実存は疑われる。幼くして母を失い、継母に嫌われて雲雀山に捨てられ、後に父と再会、十三歳で中将の内侍、十六で妃の勅を受けたが、自身の願いで当麻寺に入り、十七で中将法如として仏門に入った。後、長谷観音のお告げにより、蓮茎から製した五色の蓮糸を繰って一夜にして一丈五尺(約四メートル)四方の曼荼羅に織り上げ、誠実に祈念し、二十九の春、生身の阿弥陀如来と二十五菩薩が来迎、生きながらにして西方浄土へと旅立ったとされる。既に冒頭で「當摩」を出したところから、読者は当麻寺の現在の信仰の主体となっている本堂の西方極楽浄土の様子を表わした「當麻曼荼羅(たいままんだら)」を意識の上に昇らせていたはずであるから、かなりあからさまな確信犯の仕儀である。なお、同曼荼羅の国宝指定の名称は「綴織(つづれおり)当麻曼荼羅図」で、原本(「根本曼荼羅」と呼称する)は損傷度が深刻なほどひどく、現在は通常では非公開である。原本は二度の調査の結果、本邦で織られたものではなく、中国製と推定されている。 

「證空上人」(治承元(一一七七)年~宝治元(一二四七)年)は西山(せいざん)浄土宗・浄土宗西山禅林寺派・浄土宗西山深草派の西山三派・西山義の祖。法然の高弟で、一般には西山国師・西山上人と呼ぶ。血はつながらないが、道元禅師の長兄或いは叔父ともされる。

「江口君(ゑぐちのきみ)」平安から鎌倉にかけて摂津国江口にいた遊女の総称。また、謡曲「江口」で西行法師と歌問答をしたとされる遊女「妙 (たえ)」を指す。大阪市東淀川区にある日蓮宗の尼寺宝林山普賢院寂光寺は、別名を江口君堂(えぐちのきみどう)といい、その西行と江口の君の所縁の寺である。個人サイト「摂津名所図会」の「君堂(きみだう)」の記載によれば、「撰集抄」に(漢字を恣意的に正字化した)『書寫山の證空上人播州室津の遊女を見て閉目觀念したまへば、たちまち遊女普賢菩薩と見え、また眼を開けばもとの遊女なり。これを江口の遊女に准えて[やぶちゃん注:「なぞらへて」。]謠の文句を作したり。またそれをこの寺に種として普賢院君堂と號す。右に引書するがごとく、江口の遊女の和歌古實は、』「新古今集」「江家次第」』、『江口尼の事は、西行の』「撰集抄」『等より外に證とすべき舊記いまだ見來らず』とある。「撰集抄」は西行仮託の鎌倉後期に書かれた偽書である。

「小㙒の小町」小野小町。

『人の執をおそれ、送りつゞけし、千束(ちづか)の文〔ふみ〕をもて、仏〔ほとけ〕のざうを作り、今に「玉章(たまづさ)の如來」とて、男女〔なんによ〕の道を守り給ふとぞ』「玉章の如來」は不審。「玉章の地蔵菩薩」なら知っている。ro-shin氏のブログ「Pilgrim 東西南北巡礼記」の「(洛東) 玉章(たまずさ)地蔵」を見られたいが(地蔵尊像の引用写真有り)、そこには、『小野小町によせられた艶書をもってつくったという地蔵尊が、現在二カ所に安置されて』おり、『ひとつは随心院の「文張地蔵」』、今『ひとつは退耕庵の「玉章地蔵尊」で』あるとされる。東福寺塔頭退耕庵の地蔵堂内に安置されている『地蔵尊は門内右手の地蔵堂に安置されていて高さ』二メートル『余り、塑像(土で作った像)。右手に錫杖、左手に宝珠を捧げ、石造の蓮台上に座してい』るとされ、「花洛名勝図会」巻三に『よれば、この地蔵尊は胎内に多数の艶書を納めていて、あるとき、物好きな人が像の背を打ち破って艶書を取り出したことがあ』ったとあり、『胎内には慈眼大師としるした小さな五輪石塔を納めるともあ』るとある。『この玉章地蔵尊は、本来は退耕庵のものではなく、もとは東山馬町より山科に通じる渋谷街道の途中にあった小町寺の本尊で、広く除災与楽の信仰を集め』、『洛陽四十八願所の第四十二番霊場として大いに信仰され』た『が、明治八年』(一八七五年)に『廃寺となるに及んで現在の退耕庵に移され』、『このときひさしの上に掲げる扁額「小町寺」も同時に移し』たという。隨心院はここ。なお、こちらの「文張地蔵」は中型の立像である。

「上代」ここは中将姫の生きた奈良時代を指す。

「觀(くわん)・勢(せい)の二ぼさつ」観音菩薩と勢至菩薩。

「すじやう」底本は「すしやう」であるが、「素性」で、誠に由緒正しいことを指す語であろう。]

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