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2020/12/05

杉田久女 南の島の思ひ出 (正字正仮名版)

 

[やぶちゃん注:本随筆は大正七(一九一八)年七月発行の『ホトトギス』に掲載された。執筆時、久女満二十八歳。この年の四月号『ホトトギス』の高浜虚子選の「雑詠」に、 

 艫の霜に枯枝舞ひ下りし烏かな

の一句が初めて選ばれて載った。但し、この句底本(以下)の年譜に記されてあるだけで、第一巻の句集成にも載らない(従って私の「杉田久女全句集」(古いPDF縦書版で、ソフト・システムが旧式で文字が転倒していたりするが、許されたい)にも採用していない。それは久女が拒絶した句であると私は信ずるからであり、私も真正の「虛子嫌ひ」だからである)。掲句は底本末の年譜(久女の長女で底本全集の編者でもある石昌子氏編)に確認されたものである。発表から五ヶ月後の十二月、脳溢血のために実父赤堀廉蔵が五十四歲で亡くなっている。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、執筆年を考え(幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されている)、恣意的に多くの漢字を正字化した。傍点「ヽ」はブログでは太字に代えた。踊り字「〱」は正字に直した。

 杉田久女(明治二三(一八九〇)年五月三十日~昭和二一(一九四六)年:本名は久(ひさ))は鹿児島県鹿児島市平(ひら)の(現在の南さつま市加世田川畑平之馬場。グーグル・マップ・データのこの中央附近。以下同じ)で、当時、鹿児島県庁勤務の官吏であった赤堀廉蔵(三十八歳)と妻さよ(三十六歳)の三女(兄二人と姉二人であるが、姉は夭折している)として生まれた。なお、作中に出る弟信光は明治二十五年生まれである。三~四歳までは鹿児島に住んだが、明治二九(一八九六)年に父の沖縄県庁転勤に伴い、一家で沖縄県那覇に移住し、七歳になった翌年五月には再び父の転勤で台湾(一八九五年に日本領土となっていた)の嘉義県(現在の嘉義市)に、次いで明治三一(一八九八)年には再転勤で台湾北部の大都市台北へ移り、ここで七年余りの少女時代を過ごした。明治三九(一九〇六)年満十六歲の時、父が内地勤務となり、東京で宮内省・学習院の会計官となった。なお、彼女が福岡県立小倉中学校美術教師杉田宇内(うない)と結婚したのは、明治四二(一九〇九)年八月、満十九の年であった。

 第一章標題にある「榕樹」クワ科イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa の漢名。沖繩本島他では、大木の「がじゅまる」には「きじむなー」と呼ばれる妖精的精霊が棲むとされる。私は大学一年の時、下宿先におられた若い沖繩の婦人から、まさに直に聴き取りした彼女自身の生霊体験(沖繩では「生きまぶい」と呼ぶ)を私の実録怪奇談集「淵藪志異」に公開しているが(サイト開始当初のもので、漢字の正字表記が不全であるのは、お許しあれ。擬古文正字が苦手な方のために、「沖繩の怪異」にも同話の口語表現版も用意してある)、この彼女の生霊がいたのもガジュマルの木の上であった。

 最後に出る「波の上神社」は沖繩県那覇市若狭にある波上宮(なみのうえぐう)である(グーグル・マップ・データ航空写真)。グーグル画像検索「波上宮」をリンクさせておく。

 文中でもストイックに注をポイント落ちで附した。]

 

 

 南の島の思ひ出

 

 九州の最南端の海邊の町で、私が生れたのは、香りの高い夏蜜柑の花が、碧綠の葉かげに一齊に咲き出だす五月の中ばであつた。と云ふ事は、私の過去三〇年に近い生活も――私の幼時は父母に伴はれて、琉球から臺灣と次第に熱い國へ移り行き、處女時代の八年間を東都で暮した外は、嫁しての後も、再び南國の人として一〇年間を小倉に過して來たのである――未來も亦、南國にしかと運命づけられてゐる。といふ何等かの暗示の樣にも思はれるのである。[やぶちゃん注:「八年間」ちょっと不審。事実上の結婚以前の「東都」(東京)住まいは、長く見積もっても四年である。]

 幼時の覺束ない記憶。

 そこには年や月や日などといふ、タイムの流れに支配された觀念はすこしもなく只、非常に强い印象の斷片が、色彩濃く存してゐるばかりであつた。

 私は今玆に、其强い印象のあとを辿つて、五六才の頃渡つて行つた琉球島の、思出を順序もなく記るして見ようと思ふのである。

       一、榕樹のかげに遊びて

 島は非常に濕氣と霧が多かつた樣に覺えてゐる。

 そして陰鬱な程茂つた榕樹の大きな丸い暗紫色の影は、强烈な太陽にやけた道路の上に、城璧の樣にめぐらされたぶ厚な石垣の上に、おほひかぶさつて、その無數の日の斑を、チラチラと、そこいら一面にひらめかしてゐた。

 紫色に熟した小さい木の實は、ぽたぽたと地上に潰れてゐた。(私の家は那覇の大道路に添つて、高い石垣を巡らしたものの一つであつた)。

 草や木の茂みの中には恐ろしい毒蛇や、色彩の美しい大トカゲが隱されてゐたし、不思議の熱病、焦げ付く樣な日光。それらのものは、私達をどれ程恐怖させた事であつたらう。ひくい天井には、燈る頃から守宮がゾロゾロと澤山這ひまはつてゐた。長い箒の先でドンと一つ天井を突くと五つも六つもボタボタ落ちて來た。疊の上で叩き付けると、胴と尾の付け根から別々に切れてピクリピクリと氣味わるく左右に步いてゆく。每晚每晩守宮取をしても守宮は後からあとから殖えて、私は每夜寢るのが恐ろしかつた。ハブは家の中の鼠を取りに這入つて來るのでむしあっい夏の夕方も早く雨戶を閉めてしまふのであつた。綠靑色の菓かげには、め玉の黑い芋蟲がゐて私をおびやかしたり、遊んでゐる眼前の芭蕉の幹に、斑點のある艷々しい蛇の胴がヌルヌルいたりするのは每日の事であった。がおしまひには私共もさ程おそろしがらない樣になつた。お庭には一面に眞砂がしきつめられ、燒け切つた飛石の間にはせの高い蘇鐡が、はがねを束ぬた樣な葉をギラギラさせてゐた。友達のない私は三つ下の弟と、よくこの蘇鐵の赤茶けた綿をむしつたり、小石の間に澤山こぼれ咲いてゐる鳳仙花の葉をとつて石でピチヤピチヤ叩いてその汁で、琉球人の子供のする樣に手の爪を染めたり、そんな事をして遊んでゐた。

 家の橫手は、日光もささぬ樣な密林で、その中にはスタスタのびた靑い芭蕉の幹も交つてゐた。蛇のこはさも忘れて弟と私はその林の中に這入つては、芭蕉のあまい汁をふくむ花辨をなめたり、非常に小さく、七彩の長い長い尾を持つた美しい鳥を直ぐ頭の上に見付たり、或時は裏の木戶口から家主の庭ヘ出てブタの群れを追かけ𢌞したりした。時はいつだつたか覺えないが家主の庭には百合に似た赤い萱草の花がいつぱい咲いて、その傍には山羊が二疋飼つてあつた。萱草の赤い花や、まつ靑な莖を思ひ出す時、私はいつもキツト、あのコロコロした納豆の樣な山羊の糞を連想する。[やぶちゃん注:「萱草」「かんざう(かんぞう)」か「わすれぐさ」であるが、作品の標題からは後者で読みたい気がする。但し、沖縄の多用な方言名(後述)は圧倒的に「かんぞう」の訛ったものである。単子葉植物綱キジカクシ目ススキノキ科キスゲ亜科ワスレグサ属ワスレグサ Hemerocallis fulva であるが、複数の種が沖繩には植生するものの、特にワスレグサ亜種アキノワスレグサ(別名トキワカンゾウ)Hemerocallis fulva var. sempervirens であろう。花はノカンゾウ(Hemerocallis fulva var. longituba)に似て夏に橙赤色の花を咲かせ、常緑性であり、本邦では九州南部及び南西諸島に自生する。特に沖縄県では「クヮンソウ」「カンソウ」「グワンソウ」「ガンショウ」「クワンシヤー」「ガンソウ」「ハンソウ」「フファンサ」「ファンツァ」「フファンツア」「ニーブイグサ」「ニーブイカンソウ」「パンソー」「カンゾーバナ」「ウプンサ」「ビラティ」など多様な方言名があり、また、別に「ニーブイグサ」「ニーブイカンゾウ」と呼ぶ地域があり、これは沖縄方言で「眠い」の意の「ニーブイ」からきたもので、「眠り草」「眠り萱草」の意である。参照したウィキの「ワスレグサ」によれば、沖繩に『おいては伝統的農産物として栽培されており、野菜として用いられる他、成分であるオキシピナタニン』(Oxypinnatanine:強い鎮静効果を持つアミノ酸誘導体の一種)『による睡眠改善効果をうたったサプリメントが作られている』とある。]

 家主は、岸本と云つて那覇での素封家だつたが、六〇許りのハンシー(婆さん)と、中年のアヤメ(嫁さん)と其娘と、かうたつた[やぶちゃん注:「劫經つた」であろう。]三人の女所帶で、あとは下男や下女が三四人ゐた。大きなその琉球人の臺所には、每日每日犬笊に山程甘藷がむし上げてあつた。土間にも、頭大の泥芋がゴロゴロ積んであつた。琉球ガスリを着、をかしな結び髮に竹の笄[やぶちゃん注:「かうがい」。]をさし、足を坐禪の樣にくみあはせて坐つたそこの奴婢達は、ふかし芋――ふちがまつ黃色で、心の方はうす紫色の、非常にあまい――を常食としてゐた。煤びた自在鍋の上には、竹皮の草履が一〇足も二〇足もいぶす爲めにつるしてあつた。島國で水の惡い爲め軒には天水桶が五つも六つも並べてあつた。

 豚の血を交ぜてあるとか聞いた朱塗の重箱に、赤い色つけた肉や、油で揚げたソーメンなどの御馳走をつめて家主からはよく吳れた。けれども最初私達の家では、豚の臭ひが鼻についてどうしても喉をこさず、ソツと皆捨てさせた。遂には其油くさい料理も一家の最も好むところとなつて、私など未だに濃厚なものを好く樣になつたのだけど……

 每日每日を城壁の樣な石垣に包まれて外部と斷たれて暮してゐた私が只一つ、外界の有樣を知り得る機會といふのは、此石垣の道に面した、角のところが、特に、三坪程臺場の樣に築かれて、そこには何かの古びた小祠があった。上には大きな大きな榕樹が目を遮つて、無數の枝は房の樣に垂れてゐた、私達は時々此の榕樹の蔭のお臺場に上つて右の珍らしい四邊の有樣を、めがねでものぞく樣な心持で見下ろす事によつて、はじめて外界を知り得る許りであつた。

 そこには門前のゴチヤゴチヤした琉球人の小家や、石の井戶。はだしで豚の生きたの、野菜、魚の桶何でも皆頭にのせて賣り步く女達や、腭髭[やぶちゃん注:「あごひげ」。]をはやして銀の笄をさした悠長げな男達のゆききするのも見えたし、時には大きな栴檀の樹がうす紫の花をドツサリつけて、下を通る牛の背や、反物を頭にのせた琉球の女達の上に、そのうす紫色をこぼしているのも見えた。遠い、松山の赤土の頂や、繪で見る龍宮の樣な形をした赤瓦の屋根。强い日にやけた白い道路。それらのものは、走馬燈の樣に私のめに浮み出る……[やぶちゃん注:「栴檀」ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach。]

       二、碧い碧い潮をあびつつ

 冬が來たのも春が去つたのも私の記億には更にない……

 雪も見なかつたらうし、優しい、菫や蓮華の花で色彩られる野邊も、あの熱帶めいた南の島にはなかつたのであらう。

 私は只碧い碧い潮を思ひうかべる。

 私共が、高い石垣の圍の中から門外へふみ出して、琉球人の子供達と遊んだり、琉球の言葉を自由にあやつる樣になつたのはいつか一年も經過して再び夏が島國におとづれた頃であつたらう。私は姊や兄と一處に、每朝起きると直ぐ、二丁もない海へ父に連れられて行つた。露にぬれた甘藷の葉の間の徑を通つて。白い美しい砂礫をふんで。

 海洋の中に浮くその島のめぐりの海は、非常に深い、碧玉の樣な色をたたへてゐた。海鳥が波にすれすれに昇つてゐた。直ぐ眼前を、和布だか何だか山の樣に藻をつんだ舟がすりぬけて行つた。洪水の樣に旭の光りが海面一ぱいにふりそそぐ頃、私共は父にをしへられて、ウキをたよりに碧い碧い潮に浸つてゐた。そして朝のお飯を食べに歸つた私達は父の出勤後、また母に連れられて、今度は幼弟も一處に、籠や木片を持つて行くのであった。其頃はもう潮はずつと仲の遠くへ退いてゐた。[やぶちゃん注:「お飯」には右に編者によってママ注記が附されてある。]

 其邊一帶の海岸は、陸と海の接ぎ目が牆壁の樣な岩でめぐらされ、海はズドンといきなり低くなつて四五丁沖迄デコボコデコボコした岩許りである。砂地といつては芋畑と牆璧の直ぐ下の邊に少しある許りだつた。

 私の今比知つてゐる濱の中で、琉球の濱邊程海の幸の裕(ゆたか)なところはなかつた。デコボコデコボコ波狀をなして敷かれた廣い岩のそこここには赤貝とかいふ平べつたい貝が取り切れない程あるし、針を値ゑた樣なウニの貝、磯ギンチヤクややどかり。それから時には岩にひたと引つ付いてゐる岩の樣な鮑を見付け出す事もあった。[やぶちゃん注:「アカガイ」若干、採取場所に疑問があるが、呼称からは斧足(二枚貝)綱翼形亜綱フネガイ目フネガイ超科フネガイ科リュウキュウサルボウ亜科リュウキュウサルボウ属リュウキュウサルボウ Anadara antiquata である。「廣い岩のそこここ」を珊瑚礁の岩礁帯の抉れた部分にそれぞれ砂泥が溜まった部分ととれば、問題ない。]

 私の、名を知らない貝類は無數に、まき散らされて採るのには少しも骨が折れなかった。

 一番面白いのは、岩のところどころが風呂桶の大きさ程に深く窪んでゐるところや、手水鉢程に潮水を湛へてる處である。ひき殘された潮水がその岩の風呂桶にたまつて、岩にくつ付いた長い藻のメラメラメラメラ目に透けつつゆらめく美しさ。その藻のかげには赤靑紫、さては斑入の、鎬のサラサ形をおいた樣なの、樣々のきれいな小魚が遠く引き去られた自分達の友達の魚の事も、危い運命が迫りつつある事も知らずに、樂しさうに藻のかげを泳ぎまはつてゐる。その又小さい影が底の藻の靑や茶色に、美しい斑點を落してゐる。私達は貝を採りあきると、この岩風呂のぬるい潮水に足をひたしたり、小魚をすくつたり、キヤツキヤツ樂しい笑ひ聲を濱風に響かせて遊びふけるのであつた。弟達は時にはキモノをぬいで、其中に浸る事もあつた。潮がまだ乾き切らぬ岩の上には、たまには遠くの沖から流れて來たらしい潮木などが落ちてゐる。それには、びつしり海ほほづきが生えてゐた。

 强く照り付ける太陽と、絕えず沖から吹く潮風とに、廣い岩濱がぐんぐんかわいて、磯の香が袖にも裾にもしむ頃には私共の籠には貝やら藻やらがいつぱいになつた。何百何千年否、何萬年の昔から、かくして、洋の碧玉の潮にすりへらされた石の斷片や貝殼は、或物は枝珊瑚の樣に、或物は眞珠や瑪瑙の樣な光澤と色とをそなへ、或物は紫色に櫻色に色彩も形もそれはそれは美しくばら撒きにされてゐるのであつた。私や弟が每日の玩具やオハジキの材料は大抵此の濱邊で拾ひ集めた海の寶石のみであつた。失くしても失しても濱邊から又澤山拾つては來た。岩のお風呂の中から掬ひ取つた小魚は、瓶(ビン)に入れて、手水鉢に移してやるのであつたが、直に死んでしまふのが常であつた。

 家庭にあつては父母の限りない愛に包まれて何の苦勞も知らない私達。又終日大洋の氣を吸つて、何物にも拘束されず、自由に飛びはねて自然の寶庫を我物顏にあさつてゐた私達はほんたうに幸福だつた。

 然しながら、私の自然に脅され易い心は、他方に於いて自然の懐に入つた樣な心安さと親しさを感じてゐるのに反し或時は非常に自然を怖れ憚かつてゐた。私は子供の時から蟲類が大嫌で蟲類なら、どんな小い[やぶちゃん注:「ちひさい」。]草や木の葉と見違ふ樣な蟲でも身震して恐れた。殊にあの海の威力。夜の風の魔力は私に非常な恐怖を感ぜしめるのであつた。

 たそがれが沖のあなたから、次第に濃くひろがつて來、淋しい岩壁の影が磯に落ち來たる時、私の心は俄に淋しさに覆はれてしまふ。

 陸をめがけて押し寄せて來る高浪は非常な速力を特つて、ザザーザザーと、近付いて來る。自分達の暫らくの間領してゐた濱を、潮に再び返して、私共はだんだん芋畑の方へ退却しなくてはならなかつた。兄や姊達は波打際を面白がつて、ザアツと碎け落ちる潮をからかふ樣に、飛びのいたり、追つかけたりしてゐた。こんな時、

 お母あさん早く歸りませうよう。

 泣きたい樣な心持でしつこく母の袂を引つぱるのはいつも私だつた。あの限り知らぬひろい海の、どこから涌くとも想像のつかぬ怖しい潮は、次第次第にひろがつて遂には、大洋の中に危うく浮いてゐる樣にさへ想はれる自分達の住む島を一面海にしてしまふのではないかと、幼心には一圖に心細く思はれるのであった。私達を、あの潮が吞みに押しよせて來る樣で、仕方がなかつた。ドンドン潮の追究から逃げ出して、一丁も來てから振り返つて見る時には、もう、今迄遊んでゐた廣い磯はかげも形もなく、芋畑の綠の直ぐ下迄碧い潮にすつかり吞まれ盡してゐた。

 風の激しい夜、海なりの音をききつゝ、私は、母や兄姊達とおなじ室に寢ぬつゝも、どんなに心細く淋しく、島と海との事を考へて遣るせない思ひに打たれた事でせうか……

 私は子供の時分から非常に淚もろい、泣きむしだつた。そして母から話してもらふ樣々のお伽噺も悲しいのをよろこんで、かはいさうなのを、母に願つてはしてもらつた。

       三 暗い海洋の稻妻

 暗い暗い海に突き出た、丘の樣な岩の上に私は父母や姊達と行つてゐた……

 それは秋の極くはじめででもあつたらうか。

 その岩の丘はかなり高く大きく頂には波の上神社が祭つてあつた。御宮は白木の一寸した宮で、崖のぐるりは木栅がめぐらしてある許り社務所の小家がある外には樹らしい樹もなく、草がそこいらに生えたり鹿が飼つて有つたりして、何だか淋しい處であった。

 めの下の海は只暗黑で、底知れぬ深さの中に、濤聲と海鳥の叫びがある許り。沖は庭と空のけじめもわかず。拜殿の橫にかはれてある鹿の淋しいなき聲、岩にぶつかる風の音。

 それらのものは私の心に非常な淋しさと、自然の偉大な壓力を感じさせ怖れさせた。殆ど天空に近い感じのする岩の上に坐して、ひくい島内の方を見返ると、樹々の鬱蒼と茂りかはした夜の島には燈さヘ見ず、その向うには、又くらい海が限りなく、天と連り一層島といふ淋しさを感ぜしめた。

 海のはての、はての方には折々、稻妻が、サツと、赤く光つては又もとの暗さにかへつて行くのであつた……

 

 

 

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