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2020/12/26

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(26:蟹)

 

 ○蟹、金毘羅を信ずる者、蟹を食はず、其神使は蟹也と云、本草綱目に筆談云、關中無蟹、土人怪其形狀、收乾者懸門上辟瘧、不但人不識、鬼亦不識也、紀州の人家戶口に平家蟹、麒麟貝、「コバンウヲ」等を懸て、邪鬼を禦ぐことあり。

 

[やぶちゃん注:熊楠が西洋の例を引かないのは、癌の英語「Cancer」、ドイツ語の「Krebs」が「大きな蟹」の意に由来し、神使というよりも、醜い病原のニュアンスを強く持つことを考慮したものと思われる。「細胞検査士会」公式サイト内のこちらに、『最初に癌をカニにたとえたのは、古代ギリシアの医師、ヒポクラテス』(紀元前四六〇年頃〜紀元前三七五年頃)『だと言われて』おり、特に『乳癌は体の表面から判る病気のためか、紀元前の古代ギリシアでは、すでに乳癌の外科的治療が行われていた』とされ、『癌の部分を切り取ったあと、そこをたいまつで焼くという、荒っぽい』外科手術を施していたらしい。『当時の科学の最先端を走っていたヒポクラテスは、そうやって取った癌の塊を切り刻み、そのスケッチを残していて、そこに「カニのような(カルキノス)」という記述をしている』という。これは『癌の部分が周りの組織に浸潤している様子が、手足を伸ばしたカニのように見えた』ものかとも思われ、実際、『進行した乳癌は、皮膚に引き攣れを起こすため、これがちょうどカニの甲羅のように見えるので「カニ」と言われるようになったという説明も多くあ』るとあって、『切り刻んだ乳癌の断面の様子が手足を伸ばしたカニのようだったのか、進行した乳癌に侵された乳房がカニの甲羅のように見えたからか』は『よくわか』らないものの、『ヒポクラテスが最初に「癌とカニ」を関連させたことは事実のようで』あると記す。『これが、ラテン語でひろくヨーロッパに伝わったため、英語でもドイツ語でも癌のことを、カニを意味する言葉でよぶようになったというわけで』あるとある。こうした嫌悪状況では、凡そ神使になり得ないのは容易に想像されるのである。

「金毘羅」ウィキの「金毘羅権現」から引く。金毘羅権現(こんぴらごんげん)は現在の香川県琴平町(ことひらちょう)の象頭山(ぞうずさん)に『鎮座する山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、本地仏は不動明王、千手観音、十一面観音など諸説ある。祭神は、天竺からの飛翔仏である』から、『日本の神々とは無縁であるが、明治初年の神仏分離・廃仏毀釈が行われた以降は、大物主とされた。その神仏分離以前は讃岐国象頭山松尾寺金光院(現在の香川県琴平町の金刀比羅宮)を総本宮とする日本全国の金毘羅宮および金毘羅権現社で祀られていた』。『象頭山松尾寺普門院』『の縁起によれば、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山に住する護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが』、『開山の由来との伝承から、これが象頭山金毘羅大権現になったとされ、不動明王を本地仏とした』。『クンビーラ(マカラ)は元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。クンビーラ(マカラ)はガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあることから、金毘羅権現は海上交通の守り神として信仰されてきた。特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上で金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現は祀られていた』。また、長寛元(一一六三)年のこと、崇徳上皇(彼が「保元の乱」で讃岐に配流されたのは保元元(一一五六)年七月二十三日)が『象頭山松尾寺境内の古籠所に参籠し、その附近の御所之尾を行宮』とした『と云われることから、御霊信仰の影響で、『崩御の翌年の』永万元(一一六五)年から『崇徳上皇も松尾寺本殿に合祀されたとされる』。『現在も金刀比羅宮本殿の相殿に崇徳天皇は祀られている』。『修験道が盛んになると』、『金毘羅権現の眷属は天狗とされた。『和漢三才図会』には「当山ノ天狗ヲ金比羅坊ト名ヅク」と記された。また、戦国時代末に金毘羅信仰を中興した金光院第』四『代院主で修験者でもあった金剛坊宥盛』(ゆうせい 慶長一八(一六一三)年没)は、慶長十一年に、『自らの像を作って本殿脇に祀り、亡くなる直前』「神体を守り抜く」と『誓って天狗になったとの伝説も生まれた』。『本殿の神体は秘仏で、宥盛像も非公開だったので、その後、法衣長頭襟姿の宥盛像が金毘羅権現そのものと思われるようになった。その宥盛像は廃仏毀釈で明治』五(一八七二)『年に他の仏像仏具とともに浦の谷において焼却されたとされるが、その時、宥盛像を火中に投じると』、『暴風が起き』、『周りの者共は卒倒したという。なお、奥社で今でも祀られているとも云われている』。『江戸時代になると、天狗の面を背負った白装束の金毘羅道者(行人)が全国を巡って金毘羅信仰を普及した』。『また、全国各地から讃岐国象頭山金毘羅大権現を詣でる金毘羅参りの際には、天狗の面を背負う習俗も生まれた』。『今は讃岐三天狗の一狗で金剛坊と呼ばれる(他は八栗寺の中将坊と白峯寺の相模坊)』。『塩飽』(しわく)『水軍は金毘羅権現を深く信仰し、全国の寄港地で金毘羅信仰を広めることに貢献した』。『江戸時代後期には、象頭山金毘羅大権現に詣でる金毘羅参りが盛んとなった。これに伴って四国には、丸亀街道、多度津街道、高松街道、阿波街道、伊予・土佐街道をはじめとする金毘羅街道が整備された』。『江戸時代の庶民にとって金毘羅参りの旅費は経済的負担が大きかったので、金毘羅講という宗教的な互助組織(講)を結成して講金を積み立て、交代で選出された講員が積立金を使って讃岐国象頭山金毘羅大権現に各金毘羅講の代表として参詣し、海上交通安全などを祈願して帰郷した』。『金毘羅講以外にも、こんぴら狗や流し樽などの代参の習俗もあった。陸上では犬、水上では流し樽(舟)に賽銭を入れて金毘羅権現に祈願する木札や幟とともに放ち、誰か見ず知らずの者に代参を依頼するもので、これらをみつけて代参した者には依頼者と同様にご利益があると信じられた』とある。眷族としての天狗、使いと見立てられる犬は出るが、蟹は出ない。サイト「神使の館」(本全篇に興味のある方は必見!)の「蟹~カニ 金毘羅神社(金毘羅大権現)の蟹」で、長崎県諌早市小野町にある金毘羅神社(グーグル・マップ・データ)に奉納された蟹の石像が見られる(先の地図データのサイド・パネルでも二つ(ここここ)見られる)。但し、筆者は『カニは奉納石像で』あるが、『神使とは異なる』と明言されておられ、『なぜカニが奉納されたかは不明だが、カニは干潟を代表する生物なので、漁業、航海の守護神である金毘羅大権現に豊漁・航海安全を願って奉納されたものと思われる。奉納者名に父とあることから、息子を漁か海で亡くしたか…』…と述べられ、蟹像は幅が九十センチメートル前後もある石製とある。平凡社「世界大百科事典」の「金毘羅信仰」の解説に蟹を使者とする記載が確認出来た。部分だけ引くと(コンマは読点に代え、アラビア数字は漢数字にした)、『金毘羅神には、魚介類に関する禁忌がある。カニを金毘羅神の使者として、信者は食べないという伝えは広い。カニを水の神の使者とする信仰の変化したものであるが、権現でも、カニを食べたあと五十日は参詣してはならないという厳しい規定があった。権現には、ほかにも、川魚は三十五日、アミは三十日といった、一般の神社にはない禁忌があり、金毘羅神の特異性を示している』とあった。

「本草綱目に筆談云、……」巻四十五の「介之一」の「蟹」の項の(非常に長い)、「發明」の中に、

   *

沈括筆談云、關中無蟹。土人怪其形狀、收乾者懸門上辟瘧。不但人不識鬼亦不識也。

   *

沈括が「筆談」に云はく、「關中、蟹、無し。土人、其の形狀を怪しみて、乾く者を收めて、門上に懸け、瘧を辟(さ)く。但だ人、識らざるも、鬼も亦、識らざるなり。」と。

   *

とあるのを言っているが、「沈栝」という著者名を落しているので、それが、書名であるのが判らない点が遺憾である。沈括(しんかつ 一〇三〇年~一〇九四年)は北宋中期の政治家・学者で、「筆談」とは彼の随筆集で中国科学技術史に於いて重要な文献とされる「夢溪筆談」のことである。その巻二十五の「雜志二」に、

   *

關中無螃蟹。元豐中、餘在陜西、聞秦州人家收得一乾蟹。土人怖其形狀、以爲怪物。每人家有病虐者、則借去掛門戶上、往往遂差。不但人不識、鬼亦不識也。

   *

「關中」「秦州」とあるから、内陸に於いては知られていない海産の蟹であることが判る(「螃蟹」は広義のカニ類を指す)。則ち、ヘイケガニやカブトガニ(彼らはカニ類(狭義には節足動物門甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目 Brachyura)とは全く無縁な、クモやサソリなどが含まれる鋏角亜門 Chelicerata に属する節口綱カブトガニ目カブトガニ科カブトガニ亜科カブトガニ属 Tachypleus )のような、異形のそれらの、内臓が背甲の外骨格に表象する凹凸が、おぞましい鬼面や威(おど)しの武具に似ることからの、呪的アイテムとして、恐らく中国でも古くから用いられていたことを示す記録であると思われる。詳しくは私の『毛利梅園「梅園介譜」 鬼蟹(ヘイケガニ)』の私の注を参照されたい。

『紀州の人家戶口に平家蟹、麒麟貝、「コバンウヲ」等を懸て、邪鬼を禦ぐことあり』「平家蟹」は節足動物門甲殻亜門軟甲綱十脚目短尾下目ヘイケガニ科ヘイケガニ属ヘイケガニ Heikeopsis japonica 或いはその近縁種(サメハダヘイケガニ Paradorippe granulata ・キメンガニ Dorippe sinica ・カクヘイケガニ Ethusa quadrata ・マルミヘイケガニ Ethusa sexdentata ・イズヘイケガニ Ethusa izuensis )を指し、「麒麟貝」は思うに形状のミミクリーから、腹足綱前鰓亜綱盤足目ソデボラ超科ソデボラ科サソリガイ属スイジガイ Lambis chiragra 或いはサソリガイ属クモガイ Lambis lambis であろうと思う(形状上から「麒麟」により似るのは後者である)。「コバンウヲ」顎口上綱硬骨魚綱条鰭亜綱新鰭区棘鰭上目スズキ系スズキ目スズキ亜目コバンザメ科コバンザメ属コバンザメ Echeneis naucrates (コバンイタダキの名でも知られるが、これは和名異名である)。孰れも、体型(殼形)が、異形であるから、類感呪術的に邪鬼を払う効果を期待するのは、極めて自然である。]

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