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2020/12/10

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(9:梟)

 

 ○梟、は夜能く視るを以て、希臘人之を智慧の女神「アテーネ」の使者とし雅典[やぶちゃん注:「アテネ」。]人梟飛ぶをもって吉兆とせり、(Gubernatis, 1. c. p. 247)。書紀卷十一、仁德帝の生日、木菟產殿に入りしを、武内宿禰吉祥なりと奏せし事有れば、古え邦俗必しもこの屬を忌ざりしにや、支那に古く之を忌し事賈誼の賦に著はれ、竺土にも世尊四種の鳥を說くに三或有鳥、聲醜形亦醜、謂土梟是也(增一阿含經)又物怪之鬼、物消報盡、生於世間、多爲梟類云々、貪物所致(首楞嚴經[やぶちゃん注:「しゆりようごんきやう」。]義疏注經)抔云へり、梟屬を或は神とし或は怪とする諸例及び理由は、Herbert Spencer, ‘Principles of Sociology’ について明らむべし。

 

[やぶちゃん注:「梟」フクロウ目 Strigiformes(メンフクロウ科 Tytonidae(二属十八種・本邦には棲息しない)及びフクロウ科 Strigidae(二十五属二百二種)の二科二十七属二百二十種が現生)、或いはそのフクロウ科 Strigidae に属する種群、或いは種としては、フクロウ属フクロウ Strix uralensis がいる。広義のそれについての博物誌は、私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」を参照にされたいが、熊楠は引用で「木菟」(フクロウ科 Strigidae の中で、羽角(うかく:所謂、通称で「耳」と読んでいる突出した羽毛のこと。俗に哺乳類のそれのように「耳」と呼ばれているが、鳥類には耳介はない)を有する種の総称俗称で、古名は「ツク」で「ヅク(ズク)」とも呼ぶ。俗称に於いては、フクロウ類に含める場合と、含めずに区別して独立した群のように用いる場合があるが、鳥類学的には単一の分類群ではなく、幾つかの属に分かれて含まれており、しかもそれらはフクロウ科の中で、特に近縁なのではなく、系統も成していない非分類学的呼称である。但し、古典的な外形上の形態学的差異による分類としては腑に落ちる)も挙げているので、「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)」もリンクさせておく。因みに私の妻は大のフクロウ好きで、居間には世界中から集めたフクロウの置物が所狭しと陣取っている。

「アテーネ」アテーナーはギリシア神話の女神で、知恵・芸術・工芸・戦略を司るオリュンポス十二神の一柱。「アルテミス」・「ヘスティアー」と同じく処女神で、女神の崇拝の中心はアテーナイ(アテネの古名)であったが、ウィキの「アテーナー」によれば、『起源的には、ギリシア民族がペロポネーソス半島を南下して勢力を伸張させる以前より、多数存在した城塞都市の守護女神であったと考えられている。ギリシアの地に固有の女神だが、ヘレーネス(古代ギリシア人)たちは、この神をギリシアの征服と共に自分たちの神に組み込んだのであ』ったとあり、『女神は、アテーナイのアクロポリスにパルテノーン』『の神殿を持ち、梟』『を自己の聖なる動物として持っていた。ホメーロスは女神を、グラウコーピス・アテーネー』『と呼ぶが、この定型修飾称号の「グラウコーピス」は、「輝く瞳を持った者」「灰色・青い瞳を持った者」というのが本来の意味と考えられるが、これを、梟(グラウクス)と関連付け、「梟の貌を持った者」というような解釈も行われていた。女神はまた、知恵を表す蛇や、平和の印としてオリーブをその象徴としていた』とし、さらに『梟とオリーブが女神の聖なる象徴としてコインなどに刻まれるが、有翼の女神ニーケー』(「勝利」の意、ローマ神話ではウィクトーリアと呼ばれる)『も、彼女の化身であるとして登場することがある。戦の女神としてのアテーナーは』、『一説には梟のように大きな灰色の目を持つ凛々しい姿と言われ、みずからの聖鳥、梟との関連性を示している』。『ローマ神話では、はるか古くから』、『知恵と工芸を司る女神ミネルウァがアテーナーに対応する女神として崇拝されていた。ミネルウァの神殿もやはり都市の中心の丘の上にあるのが普通で、都市守護者であった。ロマンス語ではミネルウァは、ミネルヴァという発音になる。ラテン語:Minerva、英語読みはミナーヴァ。ミネルウァの聖鳥は、やはり梟である』とある。

「Gubernatis」「野猪」で既出既注。

「書紀卷十一、仁德帝の生日、木菟產殿に入りしを、……」「日本書紀」巻十一の「仁德天皇元年(機械換算三一三年)正月己卯の条に、

   *

元年春正月丁丑朔己卯。大鷦鷯尊卽天皇位。尊皇后曰皇太后。都難波。是謂高津宮。卽宮垣・室屋弗堊色也。桶・梁・柱・楹弗藻飾也。茅茨之蓋弗割齊也。此不以私曲之故、留耕績之時者也。初天皇生日。木菟入于產殿。明旦、譽田天皇喚大臣武内宿禰。語之曰。是何瑞也。大臣對言。吉祥也。復當昨日、臣妻產時。鷦鷯入于產屋。是亦異焉。爰天皇曰。今朕之子與大臣之子、同日共產。並有瑞。是天之表焉。以爲、取其鳥名。各相易名子。爲後葉之契也。則取鷦鷯名。以名太子。曰大鷦鷯皇子。取木菟名號大臣之子。曰木菟宿禰。是平羣臣之始祖也。是年也。太歲癸酉。

   *

 元年春正月丁丑(ひのとうし)朔(ついたち)己卯(つちのとうのひ)、大鷦鷯尊(おほささぎのみこと)、卽ち、天皇(すめらみこと)の位(しろしめ)す。尊(たつと)き皇后(きさき)を皇太后(おほきさき)と曰(まう)す。都、難波(なには)に是れ謂(まう)す、高津宮、卽ち、宮垣・室屋(おほとの)、堊色(うはぬ)りせず、桷(たるき)・梁(うつはり)・柱(はしら)・楹(まるばしら)、藻(ゑか)き飾らず、茅(ちがや)・茨(いばら)蓋(ふ)くに、割(き)り齊(ととのへ)ず。此れ、私曲(わたくし)の故を以つて、耕し績(を)うるの時を留どめじ、となり。

 初め、天皇、生(あ)れます日、木菟(つく)、產殿(うぶどの)に入(とびい)れり。明旦(あくるあした)、譽田天皇(ほむたのすめらみこと)譽田天皇(ほむたのすめらみこと)[やぶちゃん注:応神天皇。] 、大臣(おほおみ)武内宿禰(たけしうちのすくね)を喚(め)し、語りて曰(のたま)はく、

「是れ、何の瑞(みづ)ぞや。」

と。大臣、對(こた)へて言(まう)す、

「吉(よ)き祥(さが)なり。復た、昨日、臣(やつがれ)の妻(め)の產の時に當り、鷦鷯(さざき)、產屋に入(とびい)れり。是れ、亦、異(あや)し。」

と。爰に天皇、曰はく、

「今、朕の子、大臣の子と、同じ日、共に產まる。並びに、瑞、有り。是れ、天(あま)つ表(しるし)なり。以爲(おもへら)く、其の鳥の名を取りて、各々、相ひ易(か)へて子に名づけて、後葉(のちのよ)の契(しるし)とせむ。」

と。則ち、鷦鷯の名を取りて、太子に名けて、「大鷦鷯皇子(おほささぎのみこ)」と曰へり。木菟の名を取りて、大臣の子に號(なづ)けて、「木菟宿禰(つくのすくね)」と曰へり。是れ、平群臣(へぐりのおみ)の始祖(はじめのおや)なり。

 是の年や、太歳(たいさい)癸酉(みづのとのとり)。

   *

訓読はネット上の複数のものを参考に自然流で読んだもので、学術的なものではないので注意されたい。

「賈誼の賦」前漢の文帝時代の文学者賈誼(紀元前二〇〇年~紀元前一六八年)。洛陽出身で、二十余歳で博士かた太中大夫に進んだが、讒言のために長沙王太傅(たいふ:王の教師役)に移され、長沙に左遷された。再び、文帝に召されて梁王の太傅となったが、梁王が落馬して死んだのをいたく嘆き、一年あまりの後、没した。その著に「新書」十巻があり、「過秦論」・「治安策」などでは儒家の立場に立って時勢を論じている。韻文では前漢初期の代表的辞賦作家であり、志を得ず投身した屈原を悼みつつ、自らの運命に擬えて詠んだ「弔屈原賦」、やはり不遇の身を歎いた「鵩鳥賦」(ふくちょうのふ)が知られ、ここで熊楠が指すのは後者。「鵩鳥」は梟のこと。牧角悅子氏の論文「賈誼の賦をめぐって」(PDF二〇一五年十月発行『日本中國學會報』第六十七集所収)の「二 「鵩鳥賦」――新しい賦形式」で、全原文と訳文及び解説を読むことが出来る。なお、中国では「詩経」以来、凶鳥と断定されるわけではないものの、その声が悪しき不気味な妖鳥として概ね認識されてきており、現代でも、梟のイメージは日本とは異なり、中国では一般には決してよくはない。この辺りの変遷は矢島明希子氏の博士論文(慶応義塾大学)「中国古代の動物観をめぐる研究 : 鳥のイメージから見る古代の環境と心性」(PDFでダウン・ロード可能)がよい。

「竺土」「ぢくど」。インド。

「世尊四種の鳥を說くに三或有鳥、聲醜形亦醜、謂土梟是也(增一阿含經)」「三或有鳥、聲醜形亦醜、謂土梟是也(增一阿含經)」「增一阿含經(ざういつあごんきやう)」は仏教の漢訳「阿含経」の一つである。訓読すると、「三(さん)に、或いは、鳥、有り。聲、醜く、形も亦、醜し。謂はく、『土梟(どきやう)』、是れなり」。「土梟」は野生の獰猛なフクロウのことのようである。初唐の僧道世が著した仏教類書「法苑珠林」(ほうおんじゅりん:六六八年成立)に同経からの引用があり、この文字列が出現する(下線太字は私が附した)。

   *

又增一阿含經云。爾時世尊告諸比丘。當知有此四鳥。云何爲四。一或有鳥聲好而形醜。謂拘翅羅鳥是也。二或有鳥形好而聲醜。謂鷙鳥是也。三或有鳥聲醜形亦醜。謂土梟是也。四或有鳥聲好形亦好。謂孔雀鳥是也。世間亦有四人當共觀知。云何爲四。一或有比丘顏貌端正威儀成就。然不能有所諷誦諸法初中後善。是謂此人形好聲不好。二或有人聲好而形醜。出入行來威儀不成。而好廣說精進持戒初中後善義理深邃。是謂此人聲好而形醜。三或有人聲醜形亦醜。謂有人犯戒不精進。復不多聞。所聞便失。是謂此人聲醜形亦醜。四或有人聲好形亦好。謂比丘顏貌端正威儀具足。然復精進修行善法多聞不忘。初中後善善能諷誦。是謂此人聲好形亦好也。

   *

また、「增一阿含經」原本のそこも漸く「大藏經データベース」で見出せた。それを見るに、思うに上記の「法苑珠林」の引用は概ねガイド・ナンバー「T0125_.02.0634b27」から「0125_.02.0635a02」相当の内容を約縮しているもののように思われる。

「首楞嚴經義疏注經」「首楞嚴經」は恐らくは「大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経」の方の略称で、般刺密帝(ばんらみたい)漢訳になる、禅法の要義を説いた仏典で、宋の釋子璿(しゃくしせん)が一三三九年に著した、その注釈書「首楞嚴義疏注經」(全十巻)のことか。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で全部見られるが、流石に探す気にはなれない。悪しからず。

「又物怪之鬼、物消報盡、生於世間、多爲梟類云々、貪物所致」訓読すると、「又、『物怪(ぶつくわい)の鬼(き)、物、消え、報い、盡きて、世間に生(しやう)じて、多くは梟の類(るゐ)と爲る』と云々。物を貪(むさぼ)るの致る所なり」か。同じく「大藏經データベース」の「大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經」で、

   *

復次阿難鬼業既盡。則情與想二倶成空。方於世間。與元負人怨對相値。身爲畜生酬其宿債。物怪之鬼物銷報盡。生於世間多爲梟類。

   *

とあった(太字下線は私が附した)。

「梟屬を或は神とし或は怪とする諸例及び理由は、Herbert Spencer, ‘Principles of Sociology’ について明らむべし」イギリスの哲学者で社会学の創始者の一人としても知られるハーバート・スペンサー(Herbert Spencer 一八二〇年~一九〇三年:参照したウィキの「ハーバート・スペンサー」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部も変更した)、『一八八〇~九〇年代の明治期日本では、スペンサーの著作が数多く翻訳され、「スペンサーの時代」と呼ばれるほどであった。たとえば、一八六〇年の「教育論」は、尺振八の訳で一八八〇年に「斯氏教育論」と題して刊行され、「スペンサーの教育論」として広く知られた。その社会進化論に裏打ちされたスペンサーの自由放任主義や社会有機体説は、当時の日本における自由民権運動の思想的支柱としても迎えられ、数多くの訳書が読まれた。しかし、スペンサーからみると、封建制をようやく脱した程度の当時の日本は、憲法を持つなど急速な近代化は背伸びのしすぎであると考え、森有礼の』斡旋『で、一八八三年に板垣退助と会見した時も、彼の自由民権的な発言を空理空論ととらえ』、喧嘩『別れをしたといわれる。このようなことがあったにもかかわらず、一八八六年には浜野定四郎らの訳により「政法哲学」が出版されるほど、日本でスペンサーの考えは浸透していた』とあり、かの小泉八雲もスペンサーの強力な支持者であって、彼の本邦で書いた作品(私はブログ・カテゴリ「小泉八雲」で来日後の全作品(諸家訳)を電子化している)の後期の重要な評論(特に遺作となった「日本」)では、その色彩が色濃く出ている)が一八九八年に全三巻が刊行した「Principles of Sociology」(「社会学原理」)。電子化原文は「PART OF THE LIBERTY FUND NETWORK」の「Herbert Spencer」で、その主要著作の殆んどを読むことが出来るが、梟の記載は第一巻に複数個所見出せ、熊楠の言っているのは、この一巻のことと思われる。但しかなりの箇所は同じ夜行性の不吉なイメージの飛翔動物であるコウモリと並置しながら、対比的にポジティヴ(善的・天使的イメージ)な民俗学的認識事例を記載していて、「梟屬を或は神とし或は怪とする諸例及び理由」を言い尽くしているとはとても思えない(それは当然で、同書は民俗学としての学術書ではないからである)。敢えて「怪」の部分を示すとすれば、アッシリアの男の死の話を他者の記載から引いて、“In their opinion the soul, when leaving the body, fled away in the form of a bird which they called Hâma or Sada (a sort of owl), and did not cease flying round the tomb and crying pitifully.”という部分がそれらしくはある。

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