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2020/12/20

ブログ1,470,000アクセス突破記念 梅崎春生 握飯の話

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二三(一九四八)年一月号『花』に発表されたもので、後、同年八月に刊行した作品集「飢ゑの季節」(講談社)に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 文中に簡単な注を附した。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが今朝方、1,470,000アクセスを突破した記念として公開する。【20201220日 藪野直史】]

 

   握飯の話

 

 仙波という老人は身体がこづくりで、顔や手足もちいさかった。そのくせ両方の耳たぶだけが、頭から生えた茸(きのこ)のように大きかった。この耳たぶを、老人は自分が欲するときに、自由にぴくぴく動かすことが出来るのである。これが老人に出来る唯一の芸当なのであった。老人の言によると、若い頃ある女からその要領を伝授されて以来、耳がこんなに動かせるようになったという話だった。昼食に持ってきた芋を半分、乞われるまま分けてやったとき、老人はそんな話を私にして聞かせたのである。その話しかたも冗談めいていたから、真偽のほどは判らない。食物をわけてもらうとき、この老人は愛想のつもりか何時もこんな冗談めいた話しかたをするのである。[やぶちゃん注:「伝授」というのは、通常はあり得ない。ヒトの耳を動かす筋肉は耳介筋と称し、前・上・後に別れるが、原始のような危険を察知する必要がなくなり、多くの人はそれらが退化してしまっており、それはトレーニングによって機能回復するレベルのものでさえない。実際に動かせる人は生まれつきで、また、動かさせると言っている人でも、実際には頭全体が微妙に動いているために、動かしているように錯覚している人も多く、それは残念ながら耳を独立して動かしているのではないケースもあるようだ。公的に認知された数値かどうかは知らないが、真正に耳を動かせる人は一万人に一人ぐらいというデータがネット上にはあった。私は六十三年の生涯で、実際に見たことがあるのは教え子の一人しか知らない。]

 老人は昼食を持ってきたことがなかった。ひるどきになりて皆が弁当を開き始めると、椅子から立ち上ってひとわたり眺め廻した揚句、目星をつけたようにあるいて行って昼食をねだるのであった。日によっては一人から、時としては四人も五人もからすこしずつ分けて貰って、それが老人の昼食になるわけであった。老人は掌の上に洋罫紙をひろげ、歌でもうたうような調子で単刀直入に言う。

「腹がへったんじゃが、すこし分けていただけませんかな」

 この課の連中は皆この老人の性癖を知っているから、あるいはにやにやしながら、また欣然(きんぜん)たる風(ふう)をよそおいながら、とにかくいくらかの分量をさいて紙の上に乗せてやる。老人は無表情な顔でそれを受取り、愛想のつもりか気の利かない冗談を言ったり耳たぶを盛んに動かして見せたりして、やがて自分の椅子に戻って来る。それから罫紙の上の食物を机にひろげ、吟味するように箸(はし)の先でつついてみたりして、やっと食ぺ始める。その食べ方は奇妙なことだが、無理矢理に食道に押しこむような具合で、おそろしく不味(まず)そうな食べ方であった。背後から見ていると、耳たぶだけが別の生き物のように時折ひくひく動くのである。

 老人が昼食時に貰い先の目星をつけるのは、まったくその日の気紛(まぐ)れであるらしく、同じ人に三日もつづけてたかったかと思えば、遠くの席を歴訪して一食分をあつめる日もあった。しかし長い期間にすればこの課の人々は、ただ一人をのぞいて、ほとんど平均にこの老人に昼食を奉仕していると言っていいだろう。女事務員や給仕にいたるまで老人の目星の外にある訳(わけ)にはゆかなかったのだから。

 その奉仕から除外されているただ一人というのは、老人の隣席に椅子を占めている老人の同僚であった。その同僚の名を峠と言った。なぜ峠がその奉仕からまぬかれているのか。理由はかんたんである。峠も、仙波老人とおなじく、未だかつて弁当を持参したことがなかったからだ。

 

 峠は瘦せた中年男だ。しなびているから老けて見えるが、実のところは四十歳だということであった。顴骨の突き出た神経質な容貌で、眼はひどい眇(すがめ)である。噂によるとたいへん子福者で、七人も子供がいるという話だ。何時でも眉間に暗い皺(しわ)を寄せている。色の悪い皮膚にふかく皺をよせている。それがひるどきになって皆が弁当を開き始めるころになると、その皺(しわ)はますます暗く深くなる。そして頭をあげて黙りこくって椅子にかけているのだ。眇がひどいからどこを見ているのか判らない。けれども彼は何かを眺めているに違いないのだ。弁当を持ってこないのだから、昼食のときだけでも席を外してそとに出かければいいのに、彼はそうしない。苦役(くえき)に耐える囚人みたいな表情をして、蟹(かに)のようにじっと机にへばりついている。

 峠と仙波老人は、部屋の二番すみっこの人目につかないところで、よりそったように席を隣り合っているくせに、お互には一日中ほとんど口を利かないのだ。仕事の上の連絡でも、ただ机から机へ書類や伝票を押しやるだけで、あとは黙っている。にらみ合っている気配もないのだから、仲が悪いという訳でもないのだろう。ただ黙り合っているだけである。もっとも両人とも比較的無口の方かも知れないが、たとえば私などには二人ともかなり口を利くのだ。仙波老人は歌をうたうような抑揚のある調子で、峠はまるで駈足しているような気ぜわしい早口で。

 両方ともこの課での仕事は、いわば雑務みたいなことで、物品の出入れや出席簿の整理などだ。二人とも仕事ぶりは丹念である。しかしこの課では、丹念という美徳は出世の端緒にならないもののようである。出世の見込みのうすい連中がこのすみに吹きよせられていた。私の席もそこにあるのだ。

 

 峠に八人目の子供が生れたと私が知ったのは、祝い金を集める回章[やぶちゃん注:「かいしょう」関係者に回覧確認させる文書。]が私のところにも廻って来たからであった。この課の連中はもともと他人の禍福には極めて冷淡で、こんな回章ははじめてと言っていい位だったから、私もすこしおどろいた。回章は毛筆で丁寧に書かれていた。そして発起人の名前には、仙波老人の名前が記されていたのである。もちろん金を出すことで私に異存はなかったので、印を押して次に廻した。廻すときにふと見たら、仙波老人は仕事の一休みと見えて、ペンを大きな耳にはさみ、気のせいか愉しそうに眼を閉じて貧乏ゆるぎをしているところであった。

 峠と仙波老人の間に、私の知っている限りで最も長い会話が交されたのは、次の日の午後のことである。低く押えたような峠の早口が耳に入って、私は頭をあげた。

「あんたがしゃべったんだな。家族手当などの手続きが必要だから係としてのあんたに知らせただけで、こんなもの貰おうと思ってたんじゃない。あんたは一体誰にしゃべったんだね」

「誰にもしゃべりはせんよ」

 老人はなぜ峠がそんなこと言うのか判らないといった風情で、眼をぱちぱちさせながら歌うような調子で答えた。

「お祝いじゃないかいな。収めとくもんじゃよ」

「お祝いは判っていますさ。しかし皆さんが今まで貰わないのに、私だけが貰うわけがない。そりや気持はありがたいさ。あんただって息子さんの戦死が昨年判ったときでも、誰も見舞金出さなかったじゃないか」

「あれはあれ。これはこれじゃ。あんたの場合は特別じゃよ。八人も子供が出来るなんて、いまどき珍しいことじゃ。まるで八犬伝じや」

 峠の気持を柔らげるためにか、老人の言い方がいつものような冗談めいた口調になって、それが突然峠の胸をかきむしったらしかった。峠の両方の瞳は、おのおのの方向に飛び離れたまま険しくきらきらと光った。

「あんたは私を馬鹿にしているんだな」

「馬鹿にはしませんがな」

「いや、馬鹿にしてるらしい。貧乏人の子沢山だと考えているんだろ。そうですよ。皆は私を馬鹿にして、金を集めでよこしたんだ。私は昼飯も食えない男だからな」

「いい加減にしなさい」老人はそれでも四辺をはばかって声を押しころした。「昼飯が食えないなんて、そんなことが、そんなことで他人が馬鹿にしますかじゃ。ほんとに、四十にもなって年甲斐もない」

 老人の言葉は途中でちょっと乱れた。峠は、年甲斐もない、という言葉に刺戟されたらしく、眉間を暗く刻んだ皺(しわ)をぴりぴりふるわせ、あらあらしく手を伸ばして机上の紙包みをとりあげた。

「へえ。それならそれでもいいさ。貰っとくさ。それで爺さん。あんたも一口出したのかね」

「出しましたさ」と老太は片頰に硬(こわ)ばったような微笑をうかべた。

「さあ、その金おさめて、明日からは弁当でももっておいで」

 老人はきっと冗談を言いそこねたのだと思う。その言葉を聞いて峠の顔は急にまっさおになった。

 それまでの会話は低く押えた声で話されていたし、場所も部屋の片すみだったので、ほとんど聞いていたのは私ひとりであったが、まっさおになってからの峠の声は、抑制を失ったと見えて、俄(にわか)にたかぶった早口になったから、あるいは他の人々に聞えたかも知れないと思う。それは仙波老人を批難というより罵しる言葉に近かった。おそろしく早口で意味の通らない部分もあったが、峠の詰問の中心は要するに老人の昼食の貰い歩きに置かれてあるらしかった。しゃべっているうちに峠はだんだん激してきて、どこを見ているのか判然しない眇(すがめ)の視線をあやしく据えて、その詰問はみだれた罵倒の調子に変ってきた。それはいつもから欝屈していたものが急にほとばしりでるような具合で、言葉を重ねてゆくうちに峠はますます不思議な力に駆られるらしかった。

 老人の貰い歩きについては、私の感じからいえば、峠の言うほど老人がこの課の人々から、あなどられさげすまれているとは思わない。むしろその反対に、ひとつの愛嬌のある行事としてすら受入れられていた。もちろんその底には、老人の一人息子が比島戦線[やぶちゃん注:フィリピン戦線。]で病死したことがやっと昨年判ったこと(この瞬間に老人は十年も一挙にとしとった)、老齢の妻が病に伏していること、などに対する気持があるかも知れないが、しかしその憐憫(れんびん)で人々が老人に食物をあたえるのではないことを、私ははっきり知っていた。人々が食物を分つのは、その人々が持つある種の自尊心なので、つまり自分に余裕がない訳でもないということを見せたいからなのであった。ごく少数の例外をのぞいて、仙波老人などとさほど径庭のあるわけでない証拠には、老人の日毎集めてくる洋罫紙の上には、ふかし芋のきれはしだとか得体の知れない色をしたむし麵麭(パン)だとか、弁当と名をつけるのも気恥かしい代物がならんでいるのでも判る。その人々の気持を私は類推できる。私の場合でするならば、私は自分の貪しいふかし芋の弁当を(私の唯一のたのしみなのだが)もし老人が乞うときは、欣然(きんぜん)として半ば以上をさきあたえるのが常であった。こんなまずいふかし芋は食いあきていて、老人が食べてくれるのならこれほど有難いことはないという贋(にせ)の表情をこしらえて。

 老人のそれを、耳を動かして食物を乞うなどまるで乞食犬だ、と峠が激した言葉を走らせた時、それまでは相手をなだめようといろいろ試みていた老人も、突然顔いろをさっと変えて、それでもやっと怒りを押し殺したらしかった。そして急に態度を一変すると、こんどはにわかに、毒々しい嘲弄の言葉で峠にこたえはじめたのである。しかしその応答の毒々しさに似ず、その表情はいじめられた子供のようで、茸(きのこ)のような耳は老人がものを言うたびにひくひく動いた。老人は峠のズボンのバンドについて、まず遠廻しな揶揄(やゆ)をこころみた。それによると、峠は近頃またバンドに新しい穴をあけたというのである。この一箇年ほどの間に峠はますます瘦せてきて、バンドの正規の穴だけではしめ方がゆるくて、ズボンがずり落ちてしまうものだから、次次内側に穴をあけて行ったわけだが、それをまた二三日前にひとつふやしたというわけであった。峠はそれを聞くと顔を充血させて、チョッキを下にひっぱろうとしたが、短いチョッキではかくし切れなかった。すり切れたバンドにあけた新しい穴は、私のところからもはっきり見えた。そのことが更に峠の怒りをあおったらしかった。

「針金みたいにやせたって、乞食して肥るよりはいいさ」

 峠は早口で言いかえした。

 それから二人の応酬は混乱して、あぶなく摑みあいになりそうな気配であったが、その瞬間でも両人の表情は相手への憎しみに燃えていたにも拘らず、双眼には瀕死の獣のようにかなしい色をたたえていたのである。もし私がそのとき、急ぎの書類をその机に投げてやらなかったならば、そして彼等が仕事がたまっていることにはっと気が付かなかったならば、その争いはもっとつのったかも知れなかった。

「ふん、せいぜい乞食して廻るがいいや」

「口惜しかったら、お弁当もっておいで。ぱりぱりの白米の握飯をな。わしがひとから貰えるのが口惜しいんじゃろ」

 そんな捨台詞(すてぜりふ)を最後として、二人は自分の机にむきなおったまま仕事に没頭している姿勢になった。しかし峠の手も老人の手も、ペンをもったまま可笑(おか)しいほどふるえて、宇がうまく書けないらしいのを私は見た。両人とも踏みつぶされた蟹(かに)のように惨めな顔になって、それを胡麻化(ごまか)そうとしていたのである。

 

 翌日私が出勤してみると、老人だけはすでに席についていたが、峠の机は空席のままであった。この朝老人は仕事中にも、突然小さな声をあげてみたり、激しく椅子を鳴らしたりして、いっこう落ちつかぬ風であった。忘れようとしても昨日のことが、嵐のように老人の記憶を揺り動かすらしかった。おひるになっても峠は出て来なかった。

 皆がそろそろ弁当を拡げる音があちこちから聞えてくると、老人の顔は急に薄赤く血の気がのぼってきて、席にいたたまれない苦しそうな表情になった。老人の隣席はぽこんと歯の抜けたように空席になっているのだが、それがかえって老人を落着かなくするようだった。老人はちらちらと隣の空席をぬすみ見ながら、しきりに腰を浮かすらしかった。ふと私が顔をあげたとき、私の視線がとらえたものは、掌に洋罫紙をにぎって立ち上ろうとするそのときの老人の表情であった。それは重量のあるものを肩で支えているような、むしろ苦渋(くじゅう)に満ちた顔貌であった。私と眼が合うと、老人はあわてたように眼を外(そ)らして、力弱くへたヘたと椅子に腰をおろした。

 そのときどんな気持であったのか、老人を慰めてやろうという浅薄な気持であったのか、それは私には判らない。身体があつくなるような気がして、私は無意識のうちに椅子から身体をうかし、自分の弁当包みをそっくり老人の方に差し出そうとしていたのである。

「仙波さん。これを」

 そんなことを口の中で言いながら、私が包みを老人に押しつけようとしたとき、赤味をおびていた老人の小さな顔は更に赤くなって、私がおどろくような激しさで包みを押し返した。

「いりません。いりませんじゃ」その激しさに似ず老人は眼を哀願するようにしばたたいた。「ほんとにいりませんじゃ。今朝は腹いっぱい食べてきたから」

 洋罫紙をもって立ち上ろうとしたではないか。私はほとんど暴力的に私の包みをおしつけた。そうすることが私の復讐であるかのように。老人は身体中でそれを拒否しながら、それでも掌は弱々しく包みにかかっていたのである。弁当包みにからんだ老人の指が急に緊張して伸びた。はずみを食って包みはリノリウムの床にぼとりと落ちた。

 老人の眼は見開かれて、私の肩越しに、なにかを見詰めているのだ。肩越しに何があるのか。私はふりかえった。扉を押して、うつむき加減にすたすたこの部屋に入ってくる峠の姿がそこにあった。

 峠は大きすぎる上衣の裾をひるがえすようにして、私のそばを通りぬけた。そして自分の椅子についた。そしてそのとき気がついたのだが、新聞紙でくるんだものを机の上にのせ、がさがさいわせながらそれを拡げ始めた。

 老人はそのときは平静をいくぶん取戻していたが、先刻取りだした一枚の洋罫紙をもとの場所にもどそうとする指先が小刻みにふるえているのを私は昆た。その指の動作も途中で止んだ。峠がとつぜん顔をあげたからである。机の上にすっかり拡げられた新聞紙のまんなかには、大きな赤ん坊の頭ほどもある眼も覚めるような真白な握飯がひとつ置かれてあったのだ。仙波老人はそれを見た瞬間、かすかなうめき声をたてて身体をすさった。

 峠のまっすぐ上げた顔は、色のわるい皮膚が今日はへんに艶をおびて、たとえば大風の中を風にさからって突き進んで行く人のような表情をしていた。

 

 そのときの峠の表情を私は今でも忘れない。そのときの表情は、あまりにも錯綜した復雑なものだったから、うまいこと私には描きあらわせないのだ。何処をにらんでいるか判らないような眇(すがめ)の視線が、あるいは老人を見ていたようでもあるし、私を見ていたようでもあるし、また握飯をにらんでいたようでもあった。峠は両掌を膝の上にそろえて、しばらくの間じっとしていた。それは至上の喜悦に酔っている人のようにも見えたし、深い悲哀に打ちひしがれているようにも思えた。そして峠はかすかな身ぶるいをした。

 右手をゆっくり出して握飯を手にとったのである。それは途方もなく大きな握飯であった。峠の掌は握飯の下にかくれ、手首すらもそのかげになってしまった位であった。

峠はそれをゆっくりと口の方にもって行こうとした。

 老人の指が洋罫紙をつまみあげて、峠の方にさっと差し出されたのはその瞬間であった。峠の方に気をとられていて、私は老人の方に気づかなかったのだが、そのときの老人は小さな眼をいっぱい見開き、そのくせ頰には笑いに似たものが貼りついていたのだ。それは笑いでなく、泣いているのかも知れなかった。老人はそしてれいの抑揚のある調子はそのままで、誰にいうともない独白めいた口調で、かすれるようにあえいだ。

「お、おなかがへったんじゃが、すこしばかり分けて下さらんかな」

 老人の見開かれた小さな眼は、暗く凹んでいて、まるで穴ぼこみたいであった。瞳はさだまっているにも拘らず、全然なにも見ていない風であった。口まで持って行った峠の握飯が、唇のまえではたと止った。峠はそして唾をぐっと飲みこんだ。峠の握飯を支えた右掌は、何故かとつぜんがたがたとふるえ出した。握飯がそれにつれてがたがたとふるえた。真白に、ほどよい堅さに握られた握飯は、峠の掌の上で不安定にぐらぐらと動いた。峠はそのふるえを断ち切るように左掌を添えると、顔をふりあげて何か言おうとした。が、それは唇の中で終って言葉にはならなかった。瘦せた肩に力を入れてそびやかすと、両掌をぐっと下にさげるようにしたとたん、握飯はぱっくりとふたつに割れて、割れたところから真白な飯粒が小さなかたまりになって二つ三つ床におちた。峠は片手をぐっと伸ばして分割した半分を老人が支えた洋罫紙の上に押しつけた。峠のやせた顔はみにくく歪んでいて、今にも泣きだしそうな顔をしていた。

 私はといえば、その二人から二米ほど離れた自分の席から、身体を板のように硬くしてその情景を眺めていたのである。二人の足もとには、先刻、私が老人に与えようとした弁当包みがころがっていた。なんと醜い恰好で私の弁当包みはころがっていたことだろう。

 

 およそ人間がものを食べるのに、この位苦しそうな食ベ方は今までになかっただろう。まるで絶食同盟員が官憲の手でたべものを食道におしこまれるときのように、それよりももっと苦しそうに、この両人は半分に割った握飯をそれぞれ食べたのだった。峠は眇(すがめ)をぎらきらさせながら、老人は耳をひっきりなしにひくひく動かしながら、無理矢理に口の中に押しこんで、嚥下(えんげ)をするといった具合であった。これに比べれば、日毎老人がもらいあつめた食物をたべるときのまずそうなやり方など、ほとんど問題ではない位であった。

 二人のこの奇妙な昼食の情景をながめながら、私の胸に湧きあがってきた色んな感慨も、ここに記すほどの価値はなさそうに思う。第一私には二人のことは何にも判っていないのだ。考えてみれば昨日、峠がお祝いをもらったときの異常な激昂ぶりも、老人が回章の廻っているときに示した嬉しそうな身ゆるぎも、またさかのぼって、貰いあつめた食物をたべるときの老人の嫌悪にたえた表情の所以も、その傍で峠が何処を見ているのか判然しない目付で机にヘばりついているわけも、私はうまく解釈できそうで何も出来はしないのであった。私に今できることは、ただ此の二人の食事が早く終って呉れること、それをいのるだけであった。そのくせ私は眼を外(そ)らすことが出来ずに、じっと二人に視線を釘づけにしたままであった。両方が握飯を食べ終るまでの十分間を。そしてこの十分間が、今なお私の心に尾をひく後味からいえば、私はむしろ憎みさげすんでいるのかも知れなかった。この二人をか、この課の人々をか、あるいは私自身をか、それは私に判らない。判らないけれども、その感じは確実にそのときの私の全身を領していたのだ。私は背筋が小刻みにふるえ出すのを感じながら、二人がやっと苦しそうに握飯をたべ終ったのを見とどけていた。

 暫(しばら)くたった。その白けたような雰囲気を努力して踏み破るように、仙波老人は顔をまっすぐむけたまま、かすれた声で言った。

「出勤簿の方は遅刻の手つづきをしておくから、早く遅刻届を書きなされや」

 峠はそれに返事をしなかった。顔もむげず、まっすぐむいたまま、幽(かす)かに曖気(おくび)をもらしただけであった。

 

 事件はそれで落着した。少くとも私にはそう見える。その翌日からすべてはもとにもどった。峠と仙波老人は再びお互に無口になって、時折だまって必要な書類や伝票を机の上から上へ押しやるだけになった。そして飯どきになると、老人は相変らず立ち上って洋罫紙に弁当をもらって歩くし、峠は眉根に深く皺を刻んでその時間を蟹(かに)のように机にへばりついている。あのような奇妙ないさかいがあったことなど、いささかの痕跡すら現実にとどめていないのだ。相変らず老人の耳はよく動くし、峠の眇(すがめ)もなおる気配もなし、近頃またひとつバンドの穴をふやしたようである。そして私の記憶からも、あの巨大な握飯のことは、やがてうすれて行くのかも知れない。ましてやこの課の他の人々が、たとえあの争いに気付いていたとしても、忘れっぽい彼等がものの一週間も憶えていたかどうか。

 今日もやがて昼どきだ。今朝は寝坊して私はいたく腹がへっている。今日もまたふかし芋の弁当だが、それだって私には大牢の珍味だ。ねがわくば今日だけはどうにかして、仙波老人の伴食のお目鑑(めがね)からは免れたいものだ。[やぶちゃん注:「大牢」は「たいろう」で、原義は中国で古代より帝王が社稷(しゃしょく:土地の神(社)と五穀の神(稷))を祭る際に奉じた牛・羊・豚などの供え物で、転じて「立派な料理・御馳走」の意となり、ここもそれ。江戸時代に江戸小伝馬町の牢で戸籍のある庶民の犯罪者だけを入れた牢屋をも指すが、ここはその意ではないので注意されたい。]

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