御伽比丘尼卷三 ㊃恥を雪し御身拭 付リ ふり袖けんくわのたね
㊃恥を雪(すゝ〔ぎ〕)し御身拭(〔おん〕みのごひ)付リふり袖けんくわのたね
都の嵯峨淸凉寺の釋迦は、赤栴檀(しやくせんだん)の尊影(そんえう)にして、毘首羯磨(ひしゆかつま)が作りしとかや。三國傳來ましまし、今、此土の衆生を化度(けど)し給ふ。れいげんいちじるく、諸人(しよにん)、步(あゆみ)をはこぶ事、他にすぐれり。
中比、大坂の何がしの老母、
「此御仏を拜(をがみ)なん。」
とて、はるばるの道を經てまうで、御戶開帳し、まぢかくおがみ奉るに、御本尊、更にま見えさせ給はず。いとかなしみ、是より、としどし詣(まうづ)るに、つゐに拜む事を得ずと。
「いかなる罪障によりてか、かくは在〔あり〕けむ。」
と淺まし。
いつも、彌生の末の九日は、「御身拭(〔おん〕みのごひ)」とて、すしやうなる法事あり。さらでだに、まうづる袖の引〔ひき〕もきらぬに、まして、照日(てり〔ひ〕)の春がすみ、人の心のうき立〔たち〕、後世(ごせ)ならぬものも、おのづから、步をはこぶ事になん有ける。
爰に樋口の小路に、何がしの惣七郞とかやいふ、わかうどあり。其隣なる家に甚の丞とて、やごとなき少年ありけるを、とやかくいひかたらひて、人しれず、兄弟(はらから)の約(やく)をなせしが、けふしも又、人め包(づゝみ)て、たゞふたり、さがのかたへ、心ざし行〔ゆく〕。
仏の御まへには、人、たちこみて、たゝずむべくもなきを、やゝやすらひ、心靜(〔こころ〕しづか)にねんずし、
「本道は、人め、しげし。」
と、わざと、かたへの細道をつたひ、下(しも)さがへと、あゆみ行〔ゆく〕。
むかふより、大の男の、むくつけきが、ながきかたなに、はち卷したる、ゑい心〔ごこち〕ちと見えて、そゞろ、歌、しどけなく、うたひ、たはぶれ來(きたり)しが、甚の丞を見て、
「扨。うつくしき御すがたや。かく、ほそき道のほど、御いたはしくこそ候へ。こなたへ。」
と、いだきとゞめ、ふところに手を入〔いるる〕など、らうぜきなるふるまひ、惣七郞、見かねければ、
「こは、理不盡なる人々かな。是は、ちと急用の事侍りて、下さがへまかるものに侍り。そこ除(のき)、とをし給はれ。」
と、いへば、
「何、かしがまし。其おとこ、物な、いはせ。」
と、二人の男、とびかゝり、左右より、引(ひつ)ぱりて、いふ。
「先ほど、是なる少年を見そめしより、むねとゞろき、心くれて、いかんとも、せんかたなし。おもふに、此少人(せうじん)は、其かたが、弟ぶんなるべし。左あらば、只今、此方〔こなた〕へ、わたすべし。異儀におよばば。」
と、水のごとき、ときかたなをぬいて、心もとにさしあてたり。
惣七も、甚の丞も、かく手ごめにあひぬる上は、爲方(せんかた)なく、言(ことば)をたれて、
「誠に、賤(しづ)の悴(せがれ)に御心をかけ給ひ、有がたく社(こそ)侍れ、乍ㇾ去(さりながら)、これを渡し參らせなば、一ぶん、いかで立〔たち〕申さむ。たとひ、骨をかたはしにくだかれ、身を此まゝにきざまれ申〔まうす〕とても、ふつと、かなひ候〔さふらふ〕まじ。たゞ願(ねがはく)は、いかならん、茶店(ちやてん)へも友なひ、盃(さかづき)をまいらせ、各(おのおの)の御心〔みこころ〕をはるけさせ申さんに、御ゆるしあれかし。」
と、いへば、やゝ暫(しばらく)、物おもへるさまして、
「實(げに)。能(よく)めされたる了簡かな。さあらば。」
と、かたなをおさめ、打つれ、町に出て、ある茶店に入ぬ。
酒、一とをり、めぐりて後〔のち〕、きよらなる膳部、手を盡し、山海の珍肴(ちんかう/めづらしきさかな)をとゝのへ、
「誠に、今日の御芳志、命(いのち)のおやと存〔ぞんず〕るにぞ。かくは、もてなし侍る。せめては、きこしめされよ。」
など、打とけて、盃のかず、十(とを)を二つ三つ、ゆび折(をる)比は、三人共に、醉(ゑい)出〔いで〕て、少(すこし)まどろみゐけるを見て、惣七も、甚の丞も、いづちともなく、失行(うせ〔ゆき〕)ぬ。
やゝありて、茶店の亭主、出て、
「けふの賄銀(まかなひしろ)、申請(〔まうし〕うけ)たし。」
といふに、驚(おどろき)、起(おき)なをり、
「其儀は、わかうど・若衆の支配なり。」
「それそれ。」
と、いふを、亭主、かさねて、
「いや。其ふたりの御かたは、先ほどより見え申さず。」
と。
此時、三人、手を打て、
「扨は、左にて侍るか、未(いまだ)遠(とをく)はゆかじ。追かけなん。」
と、走出るを、ていしゆ、おしとめ、
「先(まづ)、けふの代をわたし給へ。」
「否(いや)、渡さじ。」
など、聲高(こはだか)なるを、あたりの家より、聞つけ、
「らうぜき者。のがすな。」
といふほどこそあれ、手々(て〔て〕)に棒をかづき、稻麻(たうま)のごとく、ならびゐけり。
「扨も扨も、謀(たばかれ)ぬる、口惜(くちをし)や。」
と、はがみをなせど、せんかたなし。持合(もちあはせ)たる金銀もなければ、右の代(しろ)に、刀・脇指、おのおの、茶やに預置(あづけ〔おき〕)て、めんぼくなければ、入〔いり〕あひ比〔ごろ〕に、さがを出〔いで〕、都のかたへ歸り行〔ゆき〕ぬ。
ひろ澤の邊(ほとり)にて、惣七・甚の丞、待〔まち〕うけ、
「それへ見ゆるは、先ほどのあばれもの三人と覺ゆるは誤りか。意趣のわけは、いふにやは及(およぶ)。」
と、二人、一度に、ぬき合〔あひ〕たる。
酒には、いたう醉ぬ。丸ごしのちからなく、足さへ、しどろに、周章(あはて)さはぐを見て、すかさず、切(きつ)てかゝりけるが、一人は逃(にげ)のびぬ。二人はたゝきふせられ、ふしたりしを、
「にくし。此男め。しなぬほどに。」
と、刀のむねをもて、手も足もたゝき痿(なや)し、両人、いづごともなく、立さりけり。
後々、人の噂を聞〔きく〕に、さがなりける茶やは、わかうどの曰比の戀の中宿(〔なか〕やど)にてありければ、賴(たのみ)て、かくは、相〔あひ〕はかりけるとぞ。
「まことに。正成も舌をふるひ、よしさだも、手をうつべき、はかりごとなりし。」
と、人々、
かんじあヘり。
御伽比丘尼巻之三
[やぶちゃん注:本文最後の一行は底本の字配を再現した。恐らくは最終ページ一行となってしまうのが、バランス悪いと感じた彫師の計らいであろう。ここである。冒頭の前世の因果らしきものによって本尊を物理的に拝めない老母の話(これは悪因縁などではなく、人だかりを押し分けて行くことが出来ない老母の優しさ故であろうに)が、後半とは全く分断されていて、関連もなく、その落ちさえも認められない本話は、正直、消化不良を起こし、甚だ面白くない。明らかな失敗作と私は思う。なお、標題の「振袖」は後半部の話柄から「袖を振って袖にする」の謂いであろう。
「嵯峨淸凉寺の釋迦」京都府京都市右京区嵯峨にある浄土宗五台山(ごだいさん)清凉寺(せいりょうじ)。嵯峨釈迦堂の名で知られ、本尊は釈迦如来立像。宗派は初め華厳宗であったが、その後幾つもの宗派に改宗の後、室町時代から「融通念仏の道場」として発展した。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「赤栴檀(しやくせんだん)」ウィキの「清凉寺」によれば、「三国伝来」(但し、以下に見る通り、模造。それでも「日本三如来」の一つに数える)の釈迦像で、『宋時代の』九八五年に仏師張延皎及び張延襲の合作。像高一メートル六十センチメートル。『伝承では赤栴檀というインドの香木で造られたとされるが、実際には魏氏桜桃という中国産のサクラ材で作られている。頭髪を縄目状に表現し、通肩(両肩を覆う)にまとった大衣に衣文線を同心円状に表すなど、当時の中国や日本の仏像とは異なった特色を示し、その様式は古代インドに源流をもつ中央アジア(西域)の仏像と共通性がみられる。当時、宋に滞在していた』本寺開山となる奝然(ちょうぜん)が九八四年に、『当時の都であった開封(汴京』(べんけい)『で優填王』(うでんおう:ウダヤナ。インドのコーサンビーの王で、釈迦在世中に仏教を保護した王として知られる)『造立という釈迦の霊像を拝して、その模刻を志し、翌』『年』に『台州開元寺で本像を作らせた。以上の造像経緯は像内に納入されていた「瑞像造立記」の記述から明らかであり、背板(内刳』(うちぐり)『の蓋板)裏面には張延皎および張延襲という仏師の名が刻まれている。古代インドの優填王が釈迦の在世中に造らせたという釈迦像の中国への伝来については、北伝ルートと南伝ルートの』二『つの説がある。『釈迦堂縁起』は、当寺の釈迦像は鳩摩羅琰(くまらえん)が中央アジアの亀茲国に将来するが、その後、前秦の苻堅によって奪われ、中国にもたらされたとし、北伝説をとっている』。『本像の模造は、奈良・西大寺本尊像をはじめ、日本各地に』百『体近くあることが知られ、「清凉寺式釈迦像」と呼ばれる』。『像とともに国宝に指定されている像内納入品は、像の背面にある背板(内刳部を蓋状に覆う板)が外れそうになり、隙間から北宋時代の貨幣がこぼれ落ちてきたことに端を発し』、翌昭和二九(一九五四)年に『総合調査を実施した際に発見された。納入品には、造像にまつわる文書、奝然の遺品、仏教版画などと共に、内臓の模型がある。医学史の資料としても注目されるこの内臓模型は、台州妙善寺の比丘尼清暁の風疾治療を祈願して納入されたのもので、世界最古の絹製模型である。それぞれあるべき位置に納められていた』十一『個の臓腑は、中国古来の五臓六腑説とはやや異なる点があり、この内臓模型が中国医学に基づくものか否かについては諸説ある』とある。個人的に、この内臓模型に若き頃より興味を持っているので、敢えてそこまで引用した。
「尊影(そんえう)」歴史的仮名遣「そんやう」が正しい。「尊」(たつと)き「影向」(やうがう(ようごう))である。「影向」は神仏が仮の姿をとって示現することを指す。
「毘首羯磨(ひしゆかつま)」サンスクリット語「ビシュバカルマン」の漢訳。「妙匠」「種々工巧」とも訳し、帝釈天の侍臣とされ、細工物や建築を司る神、或いは、現世世界の存在物の創造神ともされる。
『彌生の末の九日は、「御身拭(〔おん〕みのごひ)」』現在は四月十九日午後に本尊釈迦如来像を寄進された晒しの白布で拭い清めていく行事として行われている。ここで使われた白布を身につけると、罪業が消滅して極楽往生出来ると言われている。現在もこの白布を買うことが出来る。
「すしやうなる」由緒ある。
「後世(ごせ)ならぬものも」別段、後世の結縁を祈るという敬虔な思いを持たぬ者も。
「樋口の小路」現在の東西に走る万寿寺通。江戸時代は井筒・水船・引板・板木彫・庭石などの職人が多かったらしい。しばしばお世話になるサイト「花の都」の「大路・小路」の「樋口小路」に拠った。より詳しくは、リンク先を見られたい。
「兄弟(はらから)の約(やく)」義兄弟、則ち、男色の縁組。
「人め包(づゝみ)て」人の目をなるべく避けるようにして。男色の関係を覚られぬように、である。
「ねんず」「念誦」。
「下(しも)さが」下嵯峨。渡月橋方向。この辺り。
「むかふより、大の男の、むくつけきが、ながきかたなに、はち卷したる、ゑい心〔ごこち〕ちと見えて、そゞろ、歌、しどけなく、うたひ、たはぶれ來(きたり)しが」このままでは相手が三人であることが判らない。敢えて言うなら「たはぶれ」というところに複数の雰囲気は嗅げはするものの、私は初読時、後の「理不盡なる人々」で躓いたものだった。或いは「大の男の」の部分が彫師のミスで、本当は「三人の男の」だったのではないかなどと思ったことを言い添えておく。
「ゑい心〔ごこち〕ち」「醉(ゑひ)心ち」。
「ほそき道のほど」細い路地で、こちらが二人、相手が三人なら、この謂いは初めて腑に落ちるのである。
「物な、いはせ。」「物な言はせそ」。「糞のような物言いなど、言わせは、させぬわッツ!」。
「ときかたな」「鋭き刀」。
「心もと」胸元。
「悴(せがれ)」義子。男色では現在でも近年まで養子関係を結ぶことが多かった。
「一ぶん」「一分」。男色に於けるそれである。
「骨をかたはしにくだかれ」骨を細片になるまで斬り砕かれ。
「ふつと」絶対に。
「かなひ候〔さふらふ〕まじ」「貴殿らの思い通りにはなりますまいぞ。」。但し、穏やかな口調で、相手を激高させぬ感じで、である。
「いかならん」「一つ、いかがでしょうか?」。
「友なひ」「伴ひ」。
「まいらせ」貴殿らに差し上げ。
「わかうど」惣七郎。
「若衆」甚の丞。
「それそれ」「それよ! それ!」。「そうじゃて!」。相手に同感した際に発する語。三人連れであることを意識して台詞として分離した。「それ」「それ」で二人分に分けてもよい。
「稻麻(たうま)」「稻麻竹葦(たうまちくゐ(とうまちくい))」のこと。稲・麻・竹・葦(あし)の群生するさまから、多くの人が入り乱れて集まっている、或いは、幾重にも取り囲んでいる様子を喩えて言った語。
「入〔いり〕あひ」「入相」。日が山の端に入るころ。黄昏時。
「ひろ澤」「廣澤」。広沢の池。ここで待ち伏せたからには、茶店の位置は広沢の池の東近傍であったことが判る。
「いふにやは及(およぶ)」「言ふにやは及ばず」の反語型の強調縮約形。
「二人はたゝきふせられ、ふしたりし」「しなぬほどに」「刀のむねをもて、手も足もたゝき」所謂、「峰打ち」にしたのである。江戸時代には武士でも私闘は厳しく禁ぜられていた。但し、私の昔の知人で剣道の達者な男がいつも言っていたが、時代劇の主人公が手練れの悪党を「峰打ち」にするのは甚だ現実的ではないそうである。彼らは刀を返した途端に激高してしまい、どう斬りかかってくるかも判らず、相応の剣士であっても、深手を負うことになってしまう可能性が大だからだとのことである。
「痿(なや)し」萎(なえ)させ。ぐったりさせ。
「中宿(〔なか〕やど)」「戀の仲」の「宿」かも知れぬが、「仲」良く睦むところの「宿」の意で熟語ととった。
「正成」「千早城の戦い」で、ありとあるゲリラ戦術を駆使した楠木正成。
「よしさだ」鎌倉攻めで潮の干満を利用して難なく稲村ケ崎沿岸を突破して幕府を陥落させた新田義貞。]