御伽比丘尼 ㊂思ひは色にいづる酒屋付惜き哉命ふたつ
㊂思ひは色にいづる酒屋付惜(おし)き哉(かな)命ふたつ
戀をめさらば、淺黃にめされ、紅葉(もみぢ)ゞを見よ、濃(こき)がちる、とは、誰(た)がまことより諷(うたひ)そめけむ。實(げに)、いせの海、あこぎが浦に引(ひく)あみの、たびかさなり、顯(あらはれ)て、身をあだしのゝ露にさらし、うき名を人の口にとゞむこと、まゝ多(おほき)事ぞかし。
[やぶちゃん注:「紅葉(もみぢ)ゞ」の「ゞ」は「葉」の漢字を繰り返す謂いで、読みは「ば」であろう。この俗謡、元を知らぬが、なかなか、いい。
「あこぎが浦に引あみの」「あこぎが浦」は「阿漕が浦」。三重県津市東部一帯の海岸(グーグル・マップ・データ)。伊勢神宮に供える魚をとる漁場として、殺生禁断の地であった。この浦で、平治という漁師が病気の母親のために、たびたび密漁をして、遂に見つかり、簀巻きにされたという伝説から、「阿漕が浦に引く網の」で「人知れず行う秘めごとも、たびたび行ううちには、広く人に知れてしまうことの喩え」の成句としてある。
「あだしのゝ露」ほんに、清運尼は「徒然草」がお好き!]
爰に都の去(さる)邊(ほとり)に、何がしの左吉とかや、色ごのみのわかうどあり。幼(いとけなき)より父母にをくれ、腹がはりの兄なりける。治齋(ぢさい)といへる針醫(しんい/はりたて)のもとに、ひとゝなりし。かゝるすきものなりければ、和歌の道をふみそめ、筆の跡、つたなからず、誠に、やさおとこ、ともいふべし。
其比、かでゆのかうじに、酒つくる家に娘あり。かほかたち、世のつねにすぐれ、みどりのまゆ、靑柳のいとめでたきくろかみ、たとしへなきすがた、又、たぐひなくぞ聞えし。深窓(じんさう/ふかきまど)の内にやしなはれて、歌・草紙・物がたりなど、誦(そらん)じて、いと情もふかゝりし。
[やぶちゃん注:「かでゆのこうじ」「勘解由小路」(かでのかうぢ・かでゆかうぢ)のことであろう。サイト「京都まにあ」の「勘解由小路町」(現在の京都市上京区勘解由小路町(かでのこうじちょう)に地図リンクと呼称の変遷が詳しく載る。次の「ほり川」の地図も参照されたい。]
されば、いかなるえにしにや在けん。彼左吉を、あからさまにほの見しより、心も空(そら)になるかみの、むねとゞろき、足ぶるひして、是よりわするゝ隙(ひま)もあらず。されど、人づてしていふよしもなければ、心ひとつに、おもひわづらふ。
左吉も又、此娘をかいまみてより、ひたすら、其事に身をせめ、
「哀(あはれ)、いかならむ、風の便(たより)もがな。」
と思へど、身をうき草の根をたえて、賴(たのみ)よるかたもなく、
「いと、せめて、戀しき時はうば玉の、よるのふしどに逢(あひ)みん夢を。」
と思ふより外もなかりし。
かく、万(よろづ)、手(て)にもつかず、うかうか思ひくらしけるほどに、兄なりける治齋、いかり、腹だちて、其家を追出(をい〔いだ〕)しぬ。
やるかたなく悲しみ思ひけれど、せんかた波のよるべたづねて、ほり川のすゑに、昔、召かひしものゝゐけるが、此〔ここ〕もとに日を送りゐる。
[やぶちゃん注:「ほり川」「堀川」。勘解由小路町の真西二キロメートル強の上京区堀川町(勘解由小路町を画面右端中央に入れておいた)。]
誠に然(しか)るべきえにしや有けん、彼(かの)酒やの何がしより、手代の、男を尋(たづ)て、此やどへ來(きた)る。幸(さひあひ)、左吉、
「牢浪(らうら)の身なれば。」
とて、かの家に行〔ゆき〕、目見(めみへ)し、召かゝへられて、宮づかへしけり。
[やぶちゃん注:「男」使用人に使えそうな男の謂いであろう。
「宮づかへ」この酒屋は余程の大金持ちであったのであろう。されば、貴人の扱いで「宮仕へ」はおかしな謂いではない。]
人躰(〔じん〕たい)、發明にし、諸道にかしこく、殘る所なければ、酒やの何がしも、あはれみ、殊にふかし。かく、いやしきつとめ、しながらも、君にあひみる事を、たのしみゐければ、娘も
『それぞ。』
と思ひ給ひしけしき、折々は、情ふかきこと葉(ば)の末など、いとうれし。
ある夕ぐれ、むすめのかたより、
「此〔この〕つれづれの本、ひやうし、あしく侍るほどに、よきに仕(し)かへさせ給へ。」
と。左吉かたへ、いひ送らる。畏(かしこまり)て、事請(〔こと〕うけし)見れば、折出〔をりいだ〕したる所、あり。いぶかしくひらけば、
「 戀わふる日比の袖の泪川ながれあふせをこよひさためよ
まことに此比〔このごろ〕の御ありさま いとおしくこそ候へ かよひぢはかうかういたし置侍りぬ うしみつはかりに 御しのびあれ 何事も御げさんに」
と、かきたる、いたう心せき給へると見へて、筆の跡、さだかならず。
[やぶちゃん注:恋文なので、句読点を排した。添え歌の字配はママ。一首を整序すると、
戀佗(こひわ)ぶる
日比(ひごろ)の袖の
泪川(なみだがは)
流れ逢ふ瀨を
今宵定めよ
であろう。原拠の歌があるのかも知れないが、これ見よがしな糞マニエリスムで、和歌嫌いの私は探索する意志がない。悪しからず。
「人躰(〔じん〕たい)」「じんてい」と読みたくなるところ。
「此つれづれの本」この、「退屈を紛らわすのに読んでいる本」ともとれるが、寧ろ、確信犯で彼女の愛読書を「徒然草」としているのではあるまいか? 愛読書故に「ひやうし、あしく侍るほどに」(「表紙、惡しく侍るほどに」。表紙が、ぼろぼろになってしまいましたから。)とあるのであろう。大尽の酒屋の娘が古本を買おうとも思われぬ。表紙が傷んだのは、間違いなく、彼女が何度も読んだからに外ならぬ。しかし、だとすると、作者、ちとあからさまにやり過ぎで臭い。寧ろ、後の展開から考えると、「伊勢物語」の方が、この娘の愛読書には合う(というか、かの「徒然草」を偏愛する娘なんぞとは私は、金輪際、付き合いたくないからである。芥川龍之介と同じく、私は僅かな段を除いて、「徒然草」が嫌いである(『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) つれづれ草)』を参照)。さすれば、やはり、「つれづれの」は一般の形容動詞ととるべきであろうか? しかし、やはり、「徒然草」だろう。エンディングで判る。
「かうかういたし」具体的に彼女の部屋に人知れず入れる時刻やルートが具体的に書かれていたのである。]
此嬉(うれし)さ、卷返し、手もたゆくながめて、くれ行〔ゆく〕空より、更行(ふけ〔ゆく〕)迄を、千とせの心ちに、待〔まち〕わび、しのび行〔ゆく〕に、げに中戶(〔ちゆう〕ど)の關もなく、御ねやに入〔いり〕て、此とし比のおもひ、かたりもあへぬに、ほそくうつくしき手して、かきいだきよせ給へば、やおら、御はたへに此身をそへて、うつゝなきさま、此間の私語(さゝめごと)は、いふもさら也、千夜(ちよ)を一夜(〔ひと〕よ)になぞらへ、かたらふほどに、きつにはめなで、と、わびし。くだかけの聲、いそがしく、こひしらずのかね、きぬぎぬの別れをつぐるに、名殘をしみて、自(をの)がふしどに歸り入〔いり〕ぬ。
[やぶちゃん注:「きつにはめなで」「伊勢物語」十四段に出る和歌の一節。
*
むかし、男、陸奥(みち)の國に、すずろにゆきいたりにけり。そこなる女、京の人はめづらかにやおぼえけむ、せちに思へる心なむありける。さて、かの女、
なかなかに戀に死なずは桑子(くはこ)にぞ
なるべかりける玉の緖(を)ばかり
歌さへぞ、ひなびたりける。さすがにあはれとや思ひけむ、いきて寢にけり。夜深(よぶか)くいでにければ、女、
夜も明けばきつにはめなでくたかけの
まだきに鳴きてせなをやりつる
といへるに、男、京へ、なむ、まかるとて、
栗原のあねはの松の人ならば
都のつとにいざといはましを
と言へりければ、よろこぼひて、「思ひけらし」とぞ言ひをりける。
*
「桑子」蚕(かいこ)。夫婦仲が良いとされた。「玉の緖」ほんの短い間。「きつにはめなで」の「きつ」は丸太を刳り抜いて作った水桶。「くたかけ」は、既注で、早朝から鳴いて恋人たちやらの夢を破る鶏の蔑称。一首全体は、「夜が明けたら、あの腐った鶏めを水桶の中に突っ込んで鳴けぬように殺してやるわ! 未だ夜も明けぬのに鳴いてしまい、私の大事なあのお方を帰してしまった!」の謂いである。「栗原のあねはの松」は宮城県栗原市金成姉歯(かんなりあねは)にあったという名物の松のこと。この一首は「松が人だったら、京への土産に是非とも持ち帰りたいものなのだが(あなたは、それほどの女ではなかったねぇ)」という残酷な謂いである。それを読み解けず、喜ぶ彼女がいたわしい。]
是より、夜ごとにかよひけるほどに、人皆、それとおしはかりぬ。
ある夜、又、雨、打そぼち、風、列(はげしき)に、娘、左吉が部(へ)やにしのび、
「わ君と、かくしのびあふ事、父母(たらちね)にしらするものゝありて、そこのかたは、ちかき内に、此家を追出(をい〔いだ〕)され、うきめにあひ給ふにさだまりぬ。我、又、君にわかれまいらせ、かた時、ながらふべきにあらねば。こよひの雨の紛(まぎれ)に、みづからをつれて、たちのき給へ。はや、とく。」
と、すゝめ給ふを見れば、白き小袖に、水晶の珠數(じゆず)、手にかけたり。
「扨は。思ひ切〔きり〕給ひける。」
と覺へければ、左吉、かひがひしく、おひまいらせ行〔ゆく〕。
[やぶちゃん注:「おひまひらせ」。「負(おひ)ひ參(まゐ)らせ」。娘を背負い申し上げ。次を読むまでもなく、「伊勢物語」の悲劇システムが起動してしまったのである。]
くらさはくらし、雨さへ、いたうふりて、道もさだかならず。むかし、なり平(ひら)の二條(でう)の后(きさき)をぬすみ出〔いで〕給ひけむも、かくや。
漸々(やう〔やう〕)はこび行〔ゆき〕ける程に、都の北にあたれる、ならびの岳(をか)につきぬ。
「迚(とても)、此身は召かへされて、ふたりもろ友〔とも〕、そひはつべきにもあらず。淺ましき恥を瀑(さら)しなんよりは。」
と、思ひ切〔きり〕て、女、
逢事をいづくにてとか契へき
きへんうき身の行衞しらねば
と口ずさみければ、男、
逢事はおもひ入日の影たのむ
にしのそらこそしるべなりけれ
かやうによみ捨(すて)、先〔まづ〕、女の心もとを、さしとをして、をしふせ、其身も、腹十文字に切〔きり〕て、女の上に、たふれ死しけり。
おしきかな、夫(をつと)は廿五、女は十六の、秋の霜と、きえぬ。
女の親も、夫の兄も、いと情(なさけ)なきものにて、なきがらを其儘に打捨置〔うちすておき〕ければ、此邊〔このあたり〕の農民、哀(あはれ)がりて、ひとつ塚に、つきこめ、しるしに松を植(うへ)ぬ。
其比、何人〔なんぴと〕がしけん、双(ならび)の岡に、「無常所(〔む〕じやうしよ)求(もとめ)て」と書〔かき〕て讀(よみ)し、兼好が歌をほんあんして、たてけり。
ひとつ塚松とならびの岡のべに
あはれいくよの恥をさらさん
[やぶちゃん注:「ならびの岳(をか)」京都盆地北西部の京都府京都市右京区御室双岡町(おむろならびがおかちょう)にある古生層の孤立丘「雙ヶ岡(ならびがおか)」(グーグル・マップ・データ航空写真)。標高百十六メートル。国名勝指定。「徒然草」の作者卜部兼好が晩年を過ごした地とされている。古くより「双岳」「雙丘」「双岡」「並岡」など、さまざまな表記がある。
「逢事をいづくにてとか契へききへんうき身の行衞しらねば」整序すると、
逢ふことを
いづくにてとか
契(ちぎ)るべき
消えむ浮き身の
行衞しらねば
無論、「浮き」には「憂き」が掛かる。
「逢事はおもひ入日の影たのむにしのそらこそしるべなりけれ」整序すると、
逢ふことは
おもひ入日(いりひ)の
影たのむ
西の空こそ
標(しるべ)なりけれ
言わずもがな、「影」は西に沈む太陽の光、「西の空」は西方浄土。
「なきがらを其儘に打捨置〔うちすておき〕ければ」江戸時代の心中は重罪の一つで、幕府は「心中」の文字は「忠」に通ずるとして、この語の使用をさえ禁じ、「相對死(あひたいじに)」と呼ばせ、心中した男女は不義密通の罪人扱いとし、二人の遺体は「遺骸取捨」と命じて葬儀・埋葬を禁じた。一方が死んで、一方が生き残った場合は、生き残った方を死罪とし、また、両者とも未遂に終わった場合には非人身分へ落とした。享保七(一七二二)年には浄瑠璃・歌舞伎の心中を扱ったものの上演が禁止されてもいる。
「つきこめ」「搗き込め」。
「無常所」墓地のこと。
「ほんあん」「翻案」。
「ひとつ塚松とならびの岡のべにあはれいくよの恥をさらさん」「兼好法師集」にある以下の戯歌。いやらしい歌で、やはり二人可哀そうである。
ならびの岡に無常所まうけて、
かたはらに櫻を植ゑさすとて
ちぎりおく花とならびの岡のべに
あはれいくよの春をすぐさむ
*
晩年のものであろう。自身の死後を想像した一首で、桜を擬人化し、自分の墓の隣に植えた桜の花が咲く遠い未来の春に思いを馳せたもの。但し、実際には、彼はこの双ヶ岡で死んだのではない。最晩年には伊賀国司橘成忠に招かれて、かの地に転住し、貞和六(一三五〇)年にそこで六十八で亡くなっている。墓は江戸時代の元禄頃(一六八八年~一七〇四年)に旧跡と同じ場所に創建された浄土宗長泉寺の中に移されて現存する(グーグル・マップ・データ)。本書の刊行は貞享四(一六八七)年であるから、まだ旧地にあったことになる。]
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