南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(13:鳩)
○鳩、を神物とし、獨伊和露の民之を食はず、古えシリア及びパレスチナの民甚之を敬せり(Gubernatis l. c, ch.x)從つて天主徒亦之を崇め、ラヴエンナの寺え[やぶちゃん注:ママ。]、聖魂十一度鴿形を現じ、來りて十一僧正を撰定し(Careri, ‘Travels through Europe,’ 1886, in Churchill’s ‘Collection,’vol. iv. p. 574.)東京で鳩を殺さしめて、キリスト敎徒か否を檢定せる(Marini, ‘Historia del Tunchion’ Roma, 1665, p. 7)等、珍譚多し、吾邦にも、八幡の氏子ならでも、一生之を食はぬ人多ければ、八幡山に多きのみが鳩を神物とする理由ならじ。
[やぶちゃん注:ネット上には日本語のハトの民俗的博物誌記載が余りない。こういう時に頼りになるのは荒俣宏氏しか、いない。氏の「世界大博物図鑑4 鳥類」(平凡社一九八七年刊)の「ハト」項の「博物誌」より引く(ピリオド・コンマは句読点に代えた)。
《引用開始》
さてキリスト教普及後のヨーロッパでは、ハトは霊魂あるいは聖霊の象徴となり、しばしば天啓の訪れや昇天、聖霊降臨などの化身とされた。とりわけ白いハトは聖人の魂に擬せられ、殉教者の目からこれが飛び惣つと信じられた。あらゆるものに変身できるという魔女もハトにだけは化けられぬとも、この羽を入れた布団に寝かされた重病人は死なないともいわれた。またその旺盛な繁殖力や生命力から、豊饒の象徴と考えられた。さらにオリーヴの枝をくわえたハトは平和の象徴に用いられる。これはノアの洪水のとき、陸地がふたたびあらわれたかどうかを調べるために方舟から放たれたハトがオリーヴの小枝をもち帰ったという〈創世記〉8章8~11節の記事に由来する。ハトとオリーヴはともに古代から無垢と平和の象徴とされており、とくに1949年パリで開かれた国際平和擁護会議では、ピカソのデザインによるポスターがつくられ、世界中に浸透した。
もっとも方舟から放たれたハトは安全なすみかを失った悲しみのあまり、胆のうを破ってしまった。長米、ハトには胆のうがなくなったという。
ともあれハトは豊饒と平和のイメージから清潔さとも結びつき、さらに女性名とも関連をもった。旧約聖書の〈ヨブ記〉42章14節によると、ヨブは長女をエミマ Emima と名づけた。一説には、この名はアラビア語のハトの呼称に由来し、東洋では絶世の美女につけられる名前だという。ギリシア神話にあらわれる美貌の女王セミラミス Semiramisの名も、アッシリア語で〈ハトからきた者〉の意とされる。またこの鳥は美神アフロディテやウェヌスの聖鳥ともされた。新大陸の発見者コロンブス Columbus の名もラテン語ではハトを示すため、この鳥はしばしばアメリカの象徴に用いられた。
ユダヤ人たちは、神に捧げられる清潔な鳥はハトしかないと信じていた。したがって中世には、ハトの肉も病気に穢されないと考えられ、ペスト流行時にも平気で王侯達の食卓に出されたという。
いっぽう、キジバトのように小型で美しい種類は、愛玩用としても中世人に愛された。キジバトは夫婦の貞節の象徴で、一方が死ねば他方も思い焦がれて死ぬと考えられたから、家庭平和のシンボルであった。またその嗚き声が肉欲をいましめているように聞こえるからともいう。
反面、この鳥は黒魔術の道具にも用いられる。この鳥の心臓をオオカミの皮にくるんで身につければ、あらゆる感情を消すことができる。また、あしを木につるせば実がならない。その血をモグラのスープに混ぜたものをムダ毛にこすりつけると、きれいに抜け落ちると信じられもした。
またマホメットは1羽のハトを飼い、自分の耳に餌を入れてそれをついばませたといわれ、ここよりイギリスのエリザベス朝期には、この鳥を霊鳥として、マホメットはハトから霊感を得たという俗信が広く流布した。シェークスピアの《ヘンリー6世》1幕2場でも、フランス皇太子シャルルが乙女ジャンヌに向かい〈マホメットが鳩によって霊感を得たのならおまえはどうやら鷲によって霊感を得たらしい〉というセリフを吐いている。
またアラビアでは、樹や岩場にはえるコケ類の一種を〈ハトの糞(ふん)〉ないし〈スズメの糞〉とよんだ。これはある種のマメ類やエンドウ類のよび名にも用いられ、ヘブライ語でも同様に衷現する。したがって日本聖書協会発行の聖書〈列王記〉第二6章25節で、銀5シケルで売られたとされる〈はとのふん〉は、本来なら〈マメ〉と訳すべきところだろう。
[やぶちゃん注:中略。]
ところで、ヴェネツィアのサン・マルコ広場に集まるカワラバトは、いわゆる神殿バトの開祖といわれるくらい古くから知られていた。そのため人びとのマスコットとして親しまれ、その餌はながらく市の費用でまかなわれていたが、1950年代になると、ある保険会社が餌代を負担しようと申し出た。むろんこの会社、単に善意で奉仕的活動をはじめたわけではなく、本当の目的は自社の宣伝にあった。午前9時、サン・マルコの鐘が鳴るのを合図に、保険会社の社員がひとり、餌のトウモロコシで、ある文宇を描いて播くのだ。するとハトは餌をめがけて集まり、またたく間に〈人文字〉ならぬ〈ハト文字〉ができあがる。描かれた文字はアルファベットのAとG、つまりこの保険会社〈アシクラツィオーニ・ゲネラーリAssicuraziom Generali〉のイニシャルだったのだ。
中国には、ハトは別の鳥に化身するという説があっ仁。《禽経註》は〈仲春に鷹が化して鳩となり、仲秋に鳩がまた化して鷹となる。故に鳩の目はやはり鷹の目のようなのだ〉と述べ、《禽経》には〈鳩は三子を生じ、一は鶚(ミサゴ)となる〉とある。
ハトの1グループである〈斑鳩〉は春分に化して黄褐侯(アオバト)となり、秋分にはもとに戻ることが、古来信じられてきた。しかし《本草綱目》に〈嘗て数年間飼養してみたが、一向に春秋分に変化したものはなかった〉と述べているのは興味ぶかい。また同書は、ハトは厳格で孝行な性格だが巣をつくるのが下手だとし、さらに雨が降りそうなときは雄が雌を追い、晴れるとその反対に雌が雄に呼びかける、としている。
ハトに関する奇妙な習慣もある。中国人は、ハトはものを食べても決してむせることがないと信じた。それにあやかり、仲秋にはこの鳥の姿を杖の先にかたどり、〈鳩杖〉とよんで老人に贈った。日本でも80歳以上の功臣に宮中からこの杖が下賜された。また、むせたときは掌に鵠の字を指で書けばすぐに治るともいわれた。
中国や日本では古来、ハトの肉は美味として猟鳥とされた。それを食えば、目をよくし、気を補い、むせることがなくなるという。またこの鳥の肉をたたき、骨とともに酒に入れたものは〈鳩酒〉とよばれ、腰痛や冷え症に効くとされた。
いっぽう、猟師たちは両の掌を合わせて吹き、ハトの鳴き声をまねてシカなどをよび寄せた。これを〈鳩吹く〉という。さらに〈鳩笛〉といって、この鳥の鳴き声を出す笛もつくられた。
曰本の故事によればシラコバトには八幡鳩(はちまんばと)の異名がある。この鳥が八幡山に群棲し、八幡宮の神の使いとみなされたことによる。またそこの氏子が誤ってそれを食べると唇が腫れて悶え苦しむともいわれた。さらにこの鳥は形状から数珠掛鳩(じゅずかけばと)とか、鳴き声がトシヨリコイと聞こえることから老来(としよりこい)の異名もある。ちなみに日本ではキジバトを京都で〈トシヨリコイコイ〉とよんだ。しかし九州ではその鳴き声をヨソジコイコイと聞いて〈四十路(よそじ)バト〉と称し、東北ではイポウポウとかアポウポウと聞いた。
八幡(はちまん)信仰にはしばしばハトの図や像がついてまわる。これはハトが八幡の神使とされるためだ。軍神として古くから武家の信仰が厚く、総社は石清水(いわしみず)八幡宮。清和天皇の時代に宇佐八幡の神を山城(やましろ)の鳩ヶ峰に遷したのがこの神宮である。ただし、源頼朝は幕府をひらいたとき、鎌倉鶴岡に八幡宮を建てた。鳩が鶴に変わり、さらにご利益が増したかもしれない。
なお、曰本では斑鳩を〈いかるが〉と読むが、《重修本草綱目啓蒙》によると、この訓はスズメ目の鳥イカルの古名で、文宇を誤用したものといわれる。
日本の近世初期には、山伏や占者などの姿をして全国にまたがって詐欺をはたらく輩が横行し、〈鳩の戒(かい)〉とよばれた。一説にはこれは〈鳩の飼〉と記し、かれらが神社のハトの飼料にするためと称して金銭をだましとったことに由来する名称という。しかし《浮世物語》には、ハトはウグイスの巧みな巣づくりをまねるが、結局枝のあいだから卵を落としてしまう、また秋にはタカに化けてそのまねをするといった俗信から、ハトは化けて詐欺をはたらくとしてこの名がついた、とある。[やぶちゃん注:以下略。]
《引用終了》
一部、信仰対象とは異なる記載もあるが、熊楠も生きていたら、とても面白がって読むだろうと思うたので、そうした部分も敢えて引いた。
「伊」とあるが、少なくとも現在のイタリアではハトを食べる。しかも、最後に「吾邦にも、八幡の氏子ならでも、一生之を食はぬ人多ければ」ともあるが、私自身、トスカーナ家庭料理のフル・コースの一品として食べたことがある。美味い。
「Gubernatis」既出既注だが、再掲しておくと、イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)で、著作の中には神話上の動植物の研究などが含まれる。
「ラヴエンナ」イタリアのエミリア=ロマーニャ州ラヴェンナ県の県都のあるラヴェンナ(Ravenna)。古代ローマ時代から中世にかけて繁栄した都市で、西ローマ帝国や東ゴート王国が首都を置き、東ローマ帝国ラヴェンナ総督領の首府でもあった。
「聖魂十一度鴿形を現じ、來たりて十一僧正を撰定し(Careri, ‘Travels through Europe,’ 1886, in Churchill’s ‘Collection,’vol. iv. p. 574.)」ジョヴァンニ・フランチェスコ・ジェメリ・カレリ(Giovanni Francesco Gemelli Careri 一六五一年~一七二五年)はイタリアの冒険者・旅行者。公共交通機関を用いて世界を旅した最初のヨーロッパ人の一人で、彼の体験が、ジュール・ヴェルヌをして、「八十日間世界一周」(Le tour du monde en quatre-vingt jours:一八七三年出版(初出は前年のパリの新聞『ル・タン』(Le Temps)に連載)を著す契機となったとされる人物であり、「世界初のバックパッカー」とも称される。詳しくは参照した彼の日本語版ウィキを見られたい。彼の当該紀行「ヨーロッパの旅」(Viaggi in Europa)は一六九三年刊行。「十一僧正」は使徒のことと思うが、「十一」という数字は不審であるが(原型の十二使徒の内のイエスを裏切ったイスカリオテのユダを除いたものか)、原本に当たれないので聖堂名も象徴の意味も判らない。ラヴェンナは「初期キリスト教建築物群」でもとみに知られるが、イタリア美術の研究家によるラヴェンナのハト装飾図像レポートも読んだが、「十一」という数列を見出せない。識者の御教授を乞うものである。
「東京で鳩を殺さしめて、キリスト敎徒か否を檢定せる(Marini, ‘Historia del Tunchion’ Roma, 1665, p. 7)」この引用部分は初出は同じだが、平凡社「選集」版では『(Marini, ‘Historia et Relatione del Tunchino e del Giappone,’ Roma, 1665, p.7)』となっている。筆者ジョバンニ・フィリッポ・デ・マリーニ(Giovanni Filipo de MARINI 一六〇八年~一六八二年)はイタリア人イエズス会員で、東洋での布教を志し、一六三八年にインドに渡り、後、トンキンで十四年間の伝道をし、マカオにも赴き、同地のイエズス会コレジオ(神学校)の学長も務めた。一時、ヨーロッパに戻ったが、一六七四年には東洋管区長として再赴任し、マカオで没した。東洋管区長と言っても、彼が最初にインドに赴任した頃、既に日本は厳しい禁教令下にあり、マリーニは一度も日本に渡っていない。本書の表題は「日本及びトンキンとの歴史と関係」となっているが、日本に関する部分は極めて少ないものと判断される(以上は「京都外国語大学図書館」公式サイト内の「MARINI, Gio. Filippo de "Delle missioni de' padri della Compagnia di Giesu " Roma : 1663 マリーニ 『イエズス会布教録』」の解説を参考にした)。原本は「日文研」のこちらのこれ(PDF)で視認出来るが、イタリア語でしかも古語のため、全くお手上げである。しかし、この話、「ほんまかいな?」とちょっと疑りたくなる。キリシタン弾圧の中でこんなことが信徒であるかどうかの判定法としてあったという話は少なくとも私は聞いたことがない。また、長崎学Web学会の「旅する長崎学」のコラム「銅版画家 渡辺千尋さんインタビュー」に、渡辺氏が『有家町(現南島原市)から』、二十六『聖人が処刑された』(慶長元年十二月十九日(一五九七年二月五日))に二十六人のカトリック信者が豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された)『同じ年に、「セビリアの聖母」の』銅版画が制作されていたが、その復刻を依頼されて原画を見たところが、『二十六聖人が処刑された時代に作られて、有家版の幼子キリストの手に持つハトの絵が消されてしまっているというスゴさがあります。ハトは、ヨーロッパでは平和の象徴です。あくまで推測ですが、その当時の日本人にはそんな概念はなかったのではないでしょうか。マリアの右手に持つ花。西洋ではバラが描かれていますが、日本では見たことがなかったでしょうから、「バラとは椿みたいな花ですよ。」と教えられたかもしれない。ハトは日本にもいたでしょうから描けないことはないのですが、イコン制作者はわざと絵の中から消してしまっています。では、聖画のなかの重要なシンボルを消すとは、いったいどのような心理状態だったのでしょうか』と疑問を呈しておられ、これはこれで、摩訶不思議な仕儀ではあるのである。]