南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(8:海豚(イルカ))
○海豚(イルカ)、は人の友たり、人溺れんとする時之を救ふとて、之を殺すを忌む歐州人多し、(Ramusio,‘Navigation et Viaggi’ Venetia ‘1606, tom. iii. fol. 348.)。安南人亦海豚好んで難船を救ひ、能く人をも船をも、背に乘せて陸に致すと信じ、官之に南海大魚仙の號を與ふ、海豚の尸[やぶちゃん注:「しかばね」。]を得れば鄭重に之を葬り、其墓に漁利を禱る、海濱に風雨數日續けば、海豚死せる徵[やぶちゃん注:「しるし」。]なりとして、村中の船競ひ出でゝ其尸を求め、尸を見出だせし船の持主、海豚の子となりて之を葬る、一村既に海豚の墓多き時は其の火葬の際他村より禮を厚くして、之を求め得て歸り葬る、但し鬮拈りて[やぶちゃん注:「くじ、とりて」。]その靈の諾否を伺ふを要す (A. Landes, ‘Notes Sur les Mœurs et Superstitions Populaires des Annamites,’ Cochinchine Francaise, vol. i. pp. 458―9, Saigon, 1880.)我邦には、源平盛衰記卷四三に、壇の浦[やぶちゃん注:底本は「檀の浦」。初出で訂した。]の戰ひに前ち[やぶちゃん注:「さきだち」。]、安倍晴延[やぶちゃん注:私は「あべのせいえん」と読んでおく。]、海豚群を成して平家の船を過て、一も過さぬ[やぶちゃん注:平凡社「選集」では「返さぬ」とあり、原拠を見ても(後掲)、結果、この方が躓かない。]を見て、其の敗を豫告せる事あれども別に海豚を崇拜せし記文を見ず、此邊[やぶちゃん注:熊楠の本拠地田辺。]には魚群を追ひ散らせば迚、帚(ホホキ)と名づけて、之を忌む、然し玄同放言三に、入鹿は海豚に基ける名とし蘇我氏の外にも同名者多しと言えるを考るに、古え[やぶちゃん注:ママ。向後は出てもママ注記は附さない。]邦人の名とせし諸動物の名と共に、本邦にも古え「トテミズム」大に行はれ、斯等[やぶちゃん注:「これら」。]諸動物、各々之を名とせる人々より、特別の尊敬を受けたるに非ざるか、其遺風と覺しく、予の家代々幼名に楠を稱し、藤白王子社内の楠神を尊敬せる事、予曾て人類學會雜誌に述たり。
[やぶちゃん注:「海豚(イルカ)」本邦産種については、「大和本草卷之十三 魚之下 海豚(いるか)」の私の注を参照されたいが、日本人の殆んどが「イルカ」と聴いて想起するそれは、圧倒的に鯨偶蹄目ハクジラ亜目マイルカ科ハンドウイルカ属ハンドウイルカ Tursiops truncates である。但し、ここには外国の事例も挙げているので、ハクジラ亜目 Odontoceti のインドカワイルカ科 Platanistidae・ヨウスコウカワイルカ科 Lipotidae(近年、絶滅したものと推定されている)・アマゾンカワイルカ科 Iniidae・ラプラタカワイルカ科 Pontoporiidae・マイルカ科 Delphinidae・ネズミイルカ科 Phocoenidae 全てを示しておかねばならない。
「Ramusios,‘Navigation et Viaggi’」ベネチア共和国の官吏(元老院書記官など)を務めた人文主義者で歴史家・地理学者のジョヴァンニ・バティスタ・ラムージオ(Giovanni Battista Ramusio 一四八五年~一五五七年)が、先達や同時代の探検旅行記を集大成した、大航海時代に関する基本文献とされる「航海と旅行」(Delle navigationi et viaggi :全三巻。一五五〇年~一五五九年刊)のこと。
「tom.」は「tome」でフランス語。「巻」。英語の「vol.」に同じ。
「fol.」は「folio」の略。ラテン語の「葉」の意で、稿本などで表面にのみ番号付きである一枚の意。
「安南人」ヴェトナム人。
「南海大魚仙」現在でも東シナ海沿岸の中国語圏内ではこの語と信仰が生きているらしい。
「A. Landes, ‘Notes Sur les Mœurs et Superstitions Populaires des Annamites,’」フランス人でベトナムの管理官であったアントニ・ランデス(Antony Landes 一八五〇年~一八九三年)が一八八二年に刊行した「アンナンに於ける民俗と一般的迷信についての記録」。
「源平盛衰記卷四三に、壇の浦の戰ひに前ち、海豚群をなして平家の船を過て、一も過さぬを見て、其の敗を豫告せる事あれども別に海豚を崇拜せし記文を見ず」平凡社「選集」では「過さぬ」は「返さぬ」とあり、原拠を見るに(後掲)、悩ましいものの(以下の通り、ここで「食らふ」「食ひ返る」「食ひ返る」「食らはずして、返る」「食ぶつて過ぐ」と多様な表現に内容が今一つ意味を押さえられないからである)、結果、確実なのは「通(とほ)すを見て」(海水をかき分けて真っ直ぐに進んで躍り上がってターンしないのを見て)がこの場合は正しいと私は判断する。同書の巻四十三の「知盛舩掃除附占海鹿并宗盛取替子事」(知盛、舩掃除(ふねそうじ)。附けたり海鹿(いるか)を占ふ。并びに、宗盛、取り替へ子の事)の中の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの寛永年間の版本の画像の当該部を視認して、訓読して示す(右頁後ろから四行目より)。読みは一部に留めた一方で、一部の難読と思われる箇所には〔 〕で読みを補い、濁点を打った部分もある。段落を成形し、句読点・記号も添えた。歴史的仮名遣の誤りはママ。
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此に海鹿と云ふ大魚、二、三百もやあるやらん、鹽(しほ)ふき立てて食(くら)つて來たる。安部晴延(はるのぶ)と云ふ、小博士(こはかせ)を召して、
「いかなるべきぞ。」
と尋ね給ふ。晴延、占(うら)の文(ぶん)、披ひて、
「此の海鹿、食ひ返(か)へれば、源氏に疑ひ有り、食〔くひ〕通(とを)れば、御方(みかた)に憑(たの)み無し。」
と申しけるに、此の魚、一〔ひとつ〕も食らはずして、返へる。平家の舩の下を、ついくゞり、ついくゞり、食(た)ぶつて過ぎぬ。小博士、
「今は。かう候。」
とて、淚をはらはらと流ければ、人々、聲を立ててぞ、をめき給ふ。
二位殿[やぶちゃん注:平時子。]は、今を限りにこそ、と聞き給〔たまひ〕ければ、
「宗盛は入道大相國の子にも非ず、又、我子にもなし。されば、小松内府[やぶちゃん注:平重盛。]が心にも似ず、思〔おもひ〕おくれたるぞとよ。海に入〔いり〕、自害などもせで、虜(いけどら)れて憂目(うきめ)などをや見んずらん、心憂くこそ覺ゆれ。」
とぞ宣ひける。
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「この邊」紀州の海辺。
「帚(ホホキ)」現在の資料では確認出来ないが、腑に落ちる異名ではある。
「玄同放言」曲亭馬琴の随筆で琴嶺(馬琴の長男)・渡辺崋山画。文政元(一八一八)年から同三(一八二〇)年刊。天然・人事・動植物について和漢の書から引用して考証を加えたもの。「玄同」は「無差別」の意。当該部は巻三上の「第廿九」の「人事」にある「姓名稱奈謂」の一節。「KuroNetくずし字認識ビューア」のここの右頁二行目以下を視認して訓読し、電子化する。表題は底本では囲み罫。【 】は割注。記号を添えた。
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[入鹿(イルカ)]は、※𩶉(いるか)【浮布の二音。和名「伊流可」。】なり。【蘇我の臣(おみ)入鹿、更(かへ)の名は鞍昨。「皇極記」に見えたり。是の後、同名の者多く有り。】[やぶちゃん注:「※」=「角」+「孚」。所持する吉川弘文館随筆大成版では「䱐」。]
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なお、ウィキの「蘇我入鹿」によれば、『蘇我入鹿という名前には、いくつかの議論がある。明治学院大学教授の武光誠は、当時の時代は精霊崇拝の思想に基づき、動物に因んだ名前を付けることが多かったという風潮から、蘇我入鹿も、海の神の力を借りる為に、イルカにあやかってこの名前を名乗ったという自説を表明している』。『しかしその一方で京都府立大学学長であった門脇禎二らは、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が彼の本当の名前を資料とともに消して、卑しい名前を勝手に名付けたという説を表明している』とある。正直言うと、私は長い間、入鹿とイルカはただの偶然の同音だとばかり思っていた。
「藤白王子社」和歌山県海南市藤白にある藤白神社。ウィキの「藤白神社」に、『南方熊楠は』、旧『藤白王寺の境内に』あった『この社から「熊」・「楠」の字を授けてもらった。また、兄妹』(異母兄は藤吉、妹は藤枝(ふじえ)。藤枝は熊楠渡米の翌年に十六歳で夭折した)『の名前に見える「藤」の文字も子どもが生まれると、この社から授けてもらい』、『神の加護によって無事成長することを祈って命名した。これは楠の木に対する信仰に由来する。藤白王子が周辺二十四か村の産土神であり、楠木神社から名を授かる風習のあったことは』「紀伊国名所図会」にも見える、とある。
「予曾て人類學會雜誌に述たり」『明治四二(一九〇九)年五月発行の『東京人類學會雜誌』二十四巻二百七十八号の「雜錄」に掲載された『出口君の「小兒と魔除」を讀む』。「j-stage」のこちら(PDF)で初出原文が視認出来る。その三一一ページの上段五行目以降。
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ついでに一言するは、今日は知らず、二十年ばかり前迄、紀伊藤白王子社畔に、楠神と號しいと古き楠の木に、注連結びたるが立りき、當國、殊に海草郡、就中予が氏とする南方苗字の民など、子產まるゝ每に之に詣で祈り、祠官より名の一字を受く、楠、藤、熊など是也、此名を受けし者、病ある都度件の楠神に平癒を禱る、知名の士、中井芳楠、森下岩楠抔、皆此風俗に因て名られたるものと察せられ、今も海草郡に楠を以て名とせる者多く、熊楠などは幾百人あるか知れぬ程なり。予思ふに、こは本邦上世「トテミズム」行はれし遺址の殘存せるに非ざるか。
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である。なお、これは本篇の次の論考である。]