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« 南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(26:蟹) | トップページ | 南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(初出追記分) »

2020/12/27

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(27:田螺)

 

 ○田螺、此物多少神異とせられしにや、常山紀談(續帝國文庫本六三七頁)に大阪陣に田螺を以て軍の勝負を占せし由を載せ、武備志にも此兆を出したりとあり、日本支那のみならず、柬埔寨[やぶちゃん注:「カンボジア」。]にも行はるゝこと、予の ‘On Augury from Combat of Shellfish,’ Nature c. 1897. に出せり、又之に就て、或る印度人同雜誌に寄書して、ボルネヲにも此占法有りと報ぜり、又奧羽永慶軍記卷卅六に、羽州山北の城主小野寺義通封を奪はれし前に、其小姓早朝登城の途中、大手門内の池より、大石を引出せる如く一尺餘り積れる初雪を左右に分ち、土を顯はしたる跡あるを慕ひ行くに、土堰を上り、塀三重を打破り坪の中に入て雪垣を破り、椽より上り座敷に入れる跡有り、入て見るに床の上に五尺許りの丸き物有て磐石の如し、能く能く見ると田貝と云ふ物也、元の池え[やぶちゃん注:ママ。]捨るに、六七人にて持行けり、翌年、城主遠流と成ると、田貝は蚌[やぶちゃん注:「どぶがひ」或いは「からすがひ」。]かと思へど、既に丸しといひ、這ひ行きしと云へば、是も田螺を指せると見ゆ。

 

[やぶちゃん注:腹足綱新生腹足上目原始紐舌目タニシ科Viviparidae に属する巻貝の総称であるが、本邦にはアフリカヒメタニシ亜科 Bellamyinae(特異性が強く、アフリカヒメタニシ科 Bellamyidae として扱う説もある)の四種が棲息する。最も一般的で私が幼少時に裏山の田圃でとったのはマルタニシ Bellamya (Cipangopaludina) chinensis laeta (独立種として Cipangopaludina 属のタイプ種であったが、その後、中国産のシナタニシ Bellamya chinensis chinensis の亜種として扱われるようになった。殻高約四・五~六センチメートル。分布は北海道から沖縄)である(なお、現在有害外来種として「ジャンボタニシ」の名で主に西日本で繁殖し観察されるものは、台湾からの人為移入種(食用目的)である原始紐舌目リンゴガイ上科リンゴガイ科リンゴガイ属スクミリンゴガイ Pomacea canaliculata で、御覧の通り、タニシとは全く縁のない種であるので注意が必要である)。他の三種は「大和本草卷之十四 水蟲 介類 田螺」の私の注を参照されたい。田螺と言えば、「田螺女房」が直ちに想起されるが、この昔話は本邦のオリジナルではない。晩唐の作者不詳の伝奇集「原化記」(原本は散佚)の「吳堪」で判る。「中國哲學書電子化計劃」の「太平廣記」の「異人三」の「吳堪」で原文が、サイト「寄暢園」のこちらで和訳が読める。

「常山紀談(續帝國文庫本六三七頁)に大阪陣に田螺を以て軍の勝負を占せし由を載せ、武備志にも此兆を出したりとあり」「常山紀談」は備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒者湯浅新兵衛常山(宝永五(一七〇八)年~安永一〇(一七八一)年)の書いた戦国武将の逸話四百七十条から成る江戸中期の逸話集。明和七(一七七〇)年完成とされる。これは「常山紀談拾遺」の巻一にある「野間左馬之進田螺を以て勝負占(うらなひ)物語の事」で、熊楠の指示する原本のそれは、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここから視認出来るが、私は所持する岩波文庫版(森銑三校訂一九四〇年刊・下巻)で電子化する。

   *

     ○野間左馬之進田螺を以て勝負占物語の事

野聞左馬之進物がたりに、田螺を折(お)しきの片隅に三ツ、又かた隅に三ツよせて、兩方へわけて一夜置くとき、其今歌勝負のまけの方を追こみ、かちの方は進み出ることなり。大坂陣の城中秀賴、木村、大野と稱して盆の一方に三ツ、また一方に闘東方家康公、井伊、藤堂と稱して三ツたにしを置て、一夜(や)置くにかならず關東方の三ツの田にし、内方の三ツのたにしを追込たるとなり。勝負の吉凶を兆ふこと是よりよきはなし、となり。武備志にも此兆を出したり。考ふへし。

   *

「武備志」漢籍。明の一六二一年に軍学者茅元儀(ぼう げんぎ 一五九四年~一六四〇年?)が編纂・刊行した兵法書。全二百四十巻で膨大な図譜を添える。「第八十」に以下のように出る。「中國哲學書電子化計劃」の原本画像を視認して起こした。電子化されたものが添えられてあるのだが、機械読み取りで全く補正が行われておらず、惨澹たる見るに堪えないひどい代物である。太字は原本では白抜きの圏点「﹆」。

   *

 占田螺

用兵之夜、將帥齋戒、奉主戰之神、稽首北斗、用新盆一面、中心界斷、分左右、左爲賊營、右爲賊營、用田螺兩個一個寫賊人軍將一個寫賊人放田螺在水盆中水用一寸深天明便見吉凶、放田螺之時、望北斗叩頭誠心頂禮、自然徴應、

   *

「予の ‘On Augury from Combat of Shellfish,’ Nature c. 1897. に出せり」「貝合戦に拠る占いに就いて」。『ネイチャー』誌へのイギリス留学中の一九八七年五月十三日投稿の短い論考。原文は「Internet archive」のこちらで確認出来る(左ページ右中段から次ページにかけて)。私は邦訳された「南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇」(二〇〇五年集英社刊)を所持しており、それで既読である。ここと同様に「常山紀談」を引き、その後に、「武備志」よりもさらに古い漢籍である馮拯(ふうしょう)の「番禺記」(九九〇年~九九四年頃成立)と陸偉の「睽車志(けいしゃし)」(十二世紀(金と南宋の時代)成立。但し、孰れも熊楠が見たのは後代に於いて引用されたもの)には、この占術法が嶺南で古来より行われてきたとあるらしい(原本を熊楠は見ていないため)、と述べる。これに続けて(田村義也氏訳。〔 〕は訳者による挿入)、

   《引用開始》

 先に挙げた湯浅の言に関連して、カンボジアの占いについてエテイエンヌ・エモニエ[やぶちゃん注:原文「Etienne Aymonier」(一八四四年~一九二九年)。彼はフランスの言語学者・探検家。今日のカンボジア・タイ・ラオス・ベトナム南部のクメール帝国の遺跡を体系的に調査した最初の考古学者である。]が述べていることも興昧深い。

「〔カンボジア〕王国に外国の軍隊が攻めこんだときには、多くの人々がクチャウを二匹捕って、たらいの底にお盆を敷き、そのなかに砂で小さな土俵を作り、水をいれてこの二匹の貝を浸ける。蠟燭を灯して香を焚き、王国の守護神を呼びだして、このささやかな海戦が、実際の戦争の行方を占ってくれるよう祈る。戦士を表す二匹のクチャウは、一方がひっくりかえるまで闘わされるのである」(「カンボジア人の習慣と俗信」、『フランス領コーチシナー旅行と現地調査』一六号一四二頁、サイゴン、一八八三年)

 今のところ、貝を闘わせて占う風習は東洋に限られているように思われる。世界の他の地域に、こうしたやり方の記録例はないだろうか。

   《引用終了》

とあって、この記事は終わっている。「クチャウ」は原文「K'hchau」で、熊楠は注して、占いの類似例から推して、これもタニシ科の一種である可能性が高いとする。また、エモニエの引用の最後にも注して(田村氏訳)、『この指摘は、ある日本の古伝承を想起させる。すなわち、「壇ノ浦の合戦[やぶちゃん注:中略]がまさに始まろうとしていたとき、熊野別当湛増(たんぞう)という僧兵が、源平いずれにつくか迷っていた。護持仏のお告げは、白い旗(つまり源氏)に仕えよであったが、これに確信がもてなかったのである。彼はそこで、仏堂の前で、白い雄鶏七羽と赤い雄鶏七羽とを闘わせ、(平氏の赤い旗を表す)赤い雄鶏がみな白い雄鶏に負けたのを見て、源氏につくことを決意した」(『平家物語』一一巻)』と記し、最後にも注して、『戦の行く末を占うのに、神託による類似のやり方については、木の枝を使うニュージーランド人の方法や、ゴート族の王がブタを用いる方法(ラボック『文明の起源』五版二四五頁、およびエンネモーザー『魔術の歴史』ボーン「科学文庫」版、二巻四五八頁のメアジ・ホーウィットによる「附論」を参照)などの例を挙げることができる』と言い添えている。なお、この論考投稿には、補足の続きがあって、同じ『ネィチャー』の翌年一八九八年二月十日の記事で、カンボジア人が使う占貝「クチャウ」について、タニシ科と推定したことについて補足した最後の部分で(田村氏訳)、

   《引用開始》

最近になって、M・A・パルヴィの記事「カンボジアその他への旅行」(『フランス領コーチシナ―旅行と現地調査』九号四七九頁、一八八二年)を読んでいると、私のその意見に裏付けを与えてくれるくだりに行きあたった。カンボジアの軟体動物の学名を挙げるなかで、この著者は、クショー(おそらくクチャウのフランス語における異形だろう)をラテン語名パルディナ Paludina に同定している。なお、近親属のリンゴカイ Ampulllaria は、カンボジア語名「タル」とされている。

   《引用終了》

と記している。「Paludina」はタニシ科 タニシ亜科 Viviparus 属(欧州・北米産種群)の古名。「リンゴカイ Ampulllaria」はリンゴガイ属のシノニムで、Ampullaria gigas は先のスクミリンゴガイのシノニムである。

「或る印度人同雜誌に寄書して、ボルネヲにも此占法有りと報ぜり」「Internet archive」のここの左ページ上部にある、熊楠の最初の投稿へのコメントで、

   *

    On Augury from Combat of Shell-fish.

  In your issue of May 13 (p. 30), Mr. Kumagusu Minakata. quotes several examples of augury from the combat of shell- fish. In Spencer St. John's “Life in the Forests of the Far East,” vol. i. p. 77, amongst various ordeals related by him as being practised by the Sea-Dyaks of Sarawak, he gives the following : —“Another is with two land shells, which are put on a plate and lime-juice squeezed upon them, and the one that moved first shows the guilt or innocence of the owner, according as they have settled previously whether motion or rest is to prove the case.”

CHAS. A. SILBERRAD.    

 Etawah, N.W.P., India, August 21.

   *

とあるのが、それ。「Sarawak」(サラワク)はボルネオ島にある現在のマレーシア領の西側三分の二を占めるサラワク州である。「Sea-Dyaks」の中のダヤク族というのは、ボルネオ島に居住するプロト・マレー系先住民の内で、イスラム教徒でもマレー人でもない人々の総称で、頭の「Sea」はダヤク族の中でも海辺部に住む人々の謂いと思われる。

「奧羽永慶軍記卷卅六に、……」「奥羽永慶軍記」は戦国時代の東北地方を中心に、天文元(一五三二)年から元和九(一六二三)年までを対象とした軍記物語。久保田藩領出羽国雄勝郡横堀村(現在の秋田県湯沢市)の医師戸部正直によって編纂され、元禄一一(一六九八)年に成立した。書名は、内容が永禄年間(一五五八年~一五七〇年)から慶長年間(一五九六年~一六一五年)を中心に記されていることに拠る。全三十九巻。写本のみが残る。

「羽州山北の城主小野寺義通」秋田の横手城主小野寺義通で、こちらの「秋田の歴史」の年譜には天正一四(一五八六)年、『小野寺義通、最上義光と有屋峠に戦う』とあるのだが、実は国立国会図書館デジタルコレクションの「史籍集覧  第八冊」に載る「奥羽永慶軍記」では(巻三十六のここ)、「小野寺遠江守義道流罪先祖事」となっており、とすると、これは小野寺義道(永禄九(一五六六)年~正保二(一六四六)年)ということになる。彼は彼のウィキによれば、慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では、当初、東軍に与したが、『出羽の東軍旗頭が仇敵の最上義光であったことや、その最上氏が上杉景勝の攻勢に苦戦中であり、友軍の伊達政宗はそれを傍観していたことから上杉方に味方し、西軍に寝返った。しかし、西軍が関ヶ原で敗れたことで形勢は逆転』、『清水義親を大将として最上・秋田・由利党・六郷氏の軍勢が大森城へ押し寄せ』、『城内に侵入したが、城主である義道の弟・大森康道が自ら大長刀をもって切り込み』、『必死の防戦を図り、さらに弟の吉田城主・小野寺陳道や兄・義道の援軍もあり押し戻すことに成功した。柳田城へは鮭延秀綱が攻め寄せ、城主柳田治兵衛は孤軍奮闘の末、討ち死にした。東軍は大森城の包囲を続けつつ、城主不在の吉田城を狙ったが、陳道は大森城を出て里見義近率いる最上軍を攻撃、義道の救援もあって最上勢は引き上げた。戦後の』翌慶長六年に『徳川家康によって改易され、子の左京、弟の康道とともに石見国津和野に流罪とされた』とある。熊楠の語る奇怪譚は次のページの後半部に記されてある。その前には、大きな牛が一疋、義道の常の座敷に来て死んでいたという怪異が語られてある(義道は旗印の紋を牛にしていた)。以下、電子化する(カタカナはひらがなに改め、句読点・濁点等を挿入した。一部に推定で読みを歴史的仮名遣で附した)。

     *

 義道が小姓に、鳥海酉之助とて、生年十六歲に成しが、夙に起て、裝束、かひつくろひ、登城せんと、我家を出て、大手の門に入て、朴木坂(ほほのきざか)を二町ほど上りみれば、前代より有し池の中より、大石を引出せる如く、一尺餘り積れる初雪を左右に分、土を顯したる跡有り。酉之助、是を見て、

「あら、不思議や。此池より大蛇の出たる跡にてもあらん。ともあれ、附止(つきとめ)てみん。」

と思ひ袴のそは[やぶちゃん注:裾のことか。]を高く取て、其跡を慕ひ行き、道より弓手(ゆんで)を通り、土堰(つちづつみ)を上り、塀を打破る事、三重(みへ)にして、坪の内に入り、雪垣を破て、緣の上より上り、座敷に入し跡あり。酉之助、何(いづ)くまでも押入ける。

 酉之助伯父鳥海一五郞、高橋彌八郞なども追々來り、同座中に入て見れば、何とも知らず、床の上に五尺[やぶちゃん注:一・五メートル。]許の丸きものあり。

 酉之助、刀の脊を以て打て見るに盤石(ばんじやく)の如くなり。能々見るに、「田貝」といふものなり。

 義道、此よしを見て、

「不思議なるもの哉。元の池に捨よ。」

と下知す。

 中間、六、七人にて行けり。

 かゝる不吉の有しにや、翌年、遠流の身とは成しなり。

   *

「蚌」軟体動物門斧足綱イシガイ目イシガイ科ドブガイ属ドブガイ Sinanodonta woodiana 或いは、イシガイ科カラスガイ属カラスガイ Cristaria plicata 。熊楠がタニシにしたい気持ちも判らぬではないが、「蚌」の字は二枚貝を指し、上記二種は「五尺」はあり得ないものの、長径が二十~三十センチメートルにも達することがあり、それを「丸し」と表現しても何らおかしくない。「這ひ行きし」は確かに運動性能ではタニシの専売特許とも言えなくはないが、タニシは大きくなるオオタニシ Bellamya (Cipangopaludina) japonica でも七センチメートルに及ばないので、分は悪い。]

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