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2020/12/06

御伽比丘尼卷二 ㊂恨に消えし露の命 付 葎がのべの女鬼

 

    ㊂恨(うらみ)に消えし露の命(いのち)付〔つけたり〕葎がのべの女鬼(〔をんな〕おに)

 

Muguraoni

 

[やぶちゃん注:前話で注したが、底本はこの間に裏表一丁分の落丁があって(ここ)、本篇も以上の標題と、本文冒頭の「惜めども、とまらぬ春の夕暮、名殘もさすが、げにあすを期」の部分がない。そこは、「西村本小説全集 下巻」を元に正字化して示した。

 なお、また、上記挿絵画像であるが、どうも「西村本小説全集 下巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)の挿絵が、今一つ、鮮明でないのが気に入らないので、これ以降は一九九三年国書刊行会刊叢書「江戸文庫」の「続百物語怪談集成」所収の本書の改題版である「諸国新百物語」の挿絵(全く同一のものである)をトリミングして示すこととした。それから、忘れんといて下さいよ、絵の中の尼さんがこの話の話者でっせ!

 

 惜めども、とまらぬ春の夕暮、名殘(なごり)もさすが、げにあすを期(ご)せぬ人の世のあだなるさま、『又のとしの、花見ん事も更にたのむべき命かは』とおもへば、すみあれし柴のあみ戶引〔ひき〕たつる霞の空に、心もうきて、宮古〔みやこ〕の東を北にあゆめば、是なん、東(とう)三條の林頭(りんとう)とかや、纔(わづか)に其かた斗〔ばかり〕殘りて見ゆ。こゝは、往昔(そのかみ)、鵺(ぬえ)の化鳥(け〔てう〕)、此所〔このところ〕より顯出(あらはれ〔いで〕)て、禁裏に災(わざ)をなしける跡なりしと。つゞきて、岡崎のさと、聖護院村(しやうごゐんむら)あり。「あさゆふに西にたなびく」とよみ給ひし、紫雲山(しうん〔ざん〕)・新くろだにを拜行(〔をがみ〕ゆけ)ば、御所女、町わらは、花見の往來、袖をつらねて、さくらにつゝじ、折〔をり〕そへたるぞ、みぬ人の、ためがほなる。猶、山をこえて、吉田の御社〔おんやしろ〕にまうず。扨、此御神は、貞觀の昔、中納言山蔭卿(きやう)のこんりう・勸請ありしとぞ。大内ぢかく宮(みや)造(つくり)ましまし、帝祚(ていそ)の長久を守(まもり)給ふ事、いちじるし。此所〔ここ〕に兼好(けんかう)の住ける舊跡あり。左計〔さばかり〕の歌仙道人なりしかども、名のみ殘りて、今は、めなれぬ草のみぞ生茂(をいしげ)れる。

 山を跡に過行〔すぎゆけ〕ば、ある道のべに、人おほくむれゐて、立よるべくもなく、あなたにのゝしり、こなたへはしる。

「いかなる事にや。」

と尋〔たづぬ〕れば、

「去〔さる〕嫉妬づよき女の死(しゝ)たるが、鬼になりたるに侍り。」

と。

「さて、めづらかなる物語をも聞ける事よ。」

と、あいぢかく立ゐより、人のすき間より、さし覗(のぞけ)ば、まことの鬼といふべきにはあらねど、

「いかに、ねたみて、かうは。」

 玉(たま)のくろかみは、ふとく逆(さかしま)にたち、目の内、朱(あけ)のちしほになりたるを見出し、かほも手も、くろく、筋だちたればぞ、實(げに)、鬼といひけるも斷(ことはり)なる。

 後々(のち〔のち〕)、事のやうを聞〔きく〕に、上京(かみぎやう)の去〔さる〕邊〔あたり〕に、何がしの民部(みんぶ)とかや、色好〔いろごのみ〕の男あり、日比、傾女(けいぢよ)にかよひて、しのぶ山忍ぶ人めの關(せき)を思ひ、此〔この〕比〔ころ〕ほひは、外〔ほか〕なる家に、うつくしき妾(せう/てかけ)を置〔おき〕て、又なく、ちぎりあひけるとぞ。

 此〔この〕本妻、天性(てんしやう)、物ねたみ、ふかく、とし月、むねをこがしゐけり。

「てかけ、かく、ある。」

と、ほの聞〔きき〕て、いとゞ恨(うらみ)、いきどほり、埋火(うづみび)を夫(おつと)になげかけ、

「我が思ひのほむらは、かく、こそ、燃(もゆれ)。」

と、いきまき、あるは、あつき湯を打〔うち〕かけて、ひさげの水のわきかへりしは、かくや在〔あり〕けむ。

「恨めしの夫や。」

と愧(おそろしき)迄に、のゝしるに、民部も、今は、もてあつかひ兼(かね)、とやかく、はからひて、親さとへ、歸しつかはしぬ。

 是より、此女、心、狂乱して、㙒(の)をはしり、山をかけ梨(り)、誠(まこと)にはぢかはしき有さまなりしが、此所〔ここ〕にて、狂ひ死〔じに〕ける、とぞ。

 此後〔こののち〕、四、五日を經て、民部も、妾も、心ち、煩(わづらは)しくなりて、むなしくなり、家、ほろびけるとかや。

 傳(つたへ)きく、唐の鮑蘇(ほうそ)が妻の、物ねたむ心なく、いたつて賢なる女なりしかば、帝より「女宗(ぢよそう)」といふ官をなし給ひしと。

 我朝にも、大内の義隆公、忍びて、かよひ給ふ女房あり。彼〔かの〕かたへ、せうそこをつかはさるゝに、つかひの女、あやまりて、御臺所へ參らせあげぬ。

 みだい、御らんありて、

 賴(たのむ)なよ行すゑかけてかはらしと

         我にもいひしことの葉の末

と、たんざくに遊ばし、女のかたへ送り給ひ、又、よしたか公へも、

 かよふかたふたつありそのはまちとり

        ふみたがへたる跡とこそ見れ

と、よみ送り給ひしに、女、いとはぢらひて、御いとま申出〔まうしいで〕てげれば、よしたか公も、此のち、わりなく、かたらひ、おはしけるとかや。

 かく貞(てい)なる心ざし迄(まで)社(こそ)はあらざらめ、淺ましくも、まよひけめと、いと哀也。

 かゝる愧(あやしき)物語、ふるくいひつたへたれど、「げに」ともおもはざりしが、今、まのあたり見聞(みきゝ)けるに、いとゞ、ぼだひの道、ねがはしくこそ覚え侍れ。

 

[やぶちゃん注:前の枕部分は一種の道行文の体裁なので、改行せずに、ソリッドに示した。さても、「又のとしの、花見ん事も更にたのむべき命かは」という箇所などを見るに、つい、西行の「畏まる四手に淚のかかるかなまたいつかはと思ふ心に」(「山家集」)に基づいた松尾芭蕉の「奥の細道」の「旅立ち」の「上野・谷中の花の梢、又いつかは、と心ぼそし」に基づくのだろうなどとうっかり思ってしまったりするのだが、実は本書は貞享四(一六八七)年二月板行で、芭蕉が「奥の細道」の旅に立つ(元禄二(一六八九)年三月二十七日)のよりも二年も前のものなのである。但し、実は、この冒頭部には原拠があることが判明している。京の名所記である「出來齋京土產」(できさいきょうみやげ:延宝五(一六七七)年刊)がそれである。これは、神谷勝広氏の論考「西村本研究ノート」PDF・『名古屋文理短期大学紀要』第二十号・一九九五年)で明らかにされたもので、その「三、表現方法の考察へ―「出来斎京土産」―」の条で、「宮古の東を北にあゆめば、」以下を引用された上で(一部の字下げを無視させて貰った代わりに、引用の前後を一行空けた)、

   《引用開始》

この部分は、まるで実際に歩いているかのごとき感覚を読者に与える。従来、ここに関して典拠があるとは考えられて来なかったように思う。この『御伽比丘尼』の文章を「出来斎京土産」巻四の文章と比較してみる。

 

『出来斎京土産』巻四「岡崎」、

三修の北、鴨川の東なり、そのすこし南のかたに、東三条の林頭の跡とて古木の林をとり残せり、これはいにしへ鵺といふ恠鳥の出て、禁中に災ひをなしけるところなり、岡崎の再三町はかりに、聖迎院村あり

『出来斎京土産』巻四「黒谷」、

源空上人常に此石に腰をかけて、西の方をながめやり給ふある時

 朝夕に西にたなびく白雲を

   いつむらさきの色と見なさん

とよみ給ひしより紫雲石とは名付られたり

『出来斎京産』巻四「吉田」、

此宮杜は春日と同体なり、貞観年中に藤原山蔭卿建立勧請あり……これみな禁裏に近くして、帝祚の長久を守らしめたまふ御事にぞ

『出来斎京土産』巻四「智福院付神恩院」、

神恩院とて兼好法師世をのがれて住し跡あり

 

細かい言い回し(例えば、「御伽比丘尼」「大内ぢかく宮造ましまし帝祚の長久を守給ふ」と『出来斎嘉土産』「禁裏に近くして、帝祚の長久を守らしめたまふ」)の合致などから、『御伽比丘尼』が『出来斎京土産』に依拠しつつ書かれたと判断できる。すなわち、『出来斎京土産』に基づきながら、さも実体験であるかのように書いて見せているのである。

   《引用終了》

とあり、実は実際の踏破経験に基づくものではないことがバレてしまっているのである。同書は主人公の出来斉(できさい)が諸所を遍歴しつつ、狂歌を読み散らすという構成の変則的な絵入名所記で、かの浅井了意の作である。「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」のここPDF。巻四)の原本画像の「3」コマ目から「8」コマ目及び「9」コマ目で総てが読める。

「宮古」「都」。京都。

「東(とう)三條の林頭(りんとう)」以下に出る、妖獣鵺を扱った謡曲「鵺」に基づく地名であるが、確定が難しく、粟田口(あわたぐち)に通ずる東山三条の森とも、また、現在の中京区二条西洞院町の東三条院の森とも言われる。この地図(グーグル・マップ・データ。以下同じ)の左右の中央附近(旧大内裏の南東方向の旧左京の内側とその東の外側)に、それぞれあったものかと思われる。

「岡崎のさと、聖護院村」旧粟田口を北上すると、すぐに岡崎、その北に聖護院地区となる。

「あさゆふに西にたなびく」先の神谷氏の引用参照されたいが、法然の一首である。「出来斎京土産」が案内するのは、現在の左京区黒谷町にある金戒光明寺の塔頭西雲院で、ここは法然が口称(くしょう)念仏の教えを広めるために、比叡山を下り、ここの丘の石に腰掛け、紫雲が棚引く瑞相を感得して草庵を結んだのが寺の始まりと伝えており、西雲院にある紫雲石がその石と伝えられている。今も小堂内にその石が安置されてある。地図のサイド・パネルの中のこれがその石

「御所女」見たことがないが、「ごしよをんな」で禁裏に勤める女性一般か。

「町わらは」「町童」。

「みぬ人の、ためがほなる」「見ぬ人の、爲顏なる」で、そうした花紅葉を折り取って持つ婦女子の姿を、あからさまには見ようとせぬ人は、見たくてうずうずしているくせに、本心とはうらはらに、その女の品位のためを思って、敢えて無粋に折り取って持つそれを咎め立てせぬかのように見せかける顔つきをしている、という意か? よく判らぬ。

「吉田の御社」現在は左京区吉田神楽岡町にある吉田神社。貞観元(八五九)年に藤原山蔭(天長元(八二四)年~仁和四(八八八)年:北家藤原高房の次男。参議から中納言・従三位となり、後に民部卿を兼ねた。この吉田神社の他に摂津総持寺を創建した。助けた亀に愛児(後の大僧都如無(にょむ))が救われた説話(巻第十九の「龜報山陰中納言恩語第二十九」(龜、山陰中納言に恩を報ずる語(こと)第二十九)。「やたがらすナビ」のこちらで原文が読める)や、魚鳥料理の包丁術などで知られる人物である)が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したのに始まる。後に、平安京に於ける藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになり、鎌倉以降は卜部(うらべ)氏(後の吉田家)が神職を相伝するようになり、室町末期には吉田兼倶(かねとも)が吉田神道(唯一神道)を創始し、その拠点となり、近世から江戸時代を通じて、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ、明治になるまで神道界に大きな権威を持った。

「こんりう」「建立」。

「帝祚」「天皇の位」の意であるが、ここは、その御世の意。

「此所に兼好の住ける舊跡あり」言っておくと、前の吉田神社と兼好法師は直接の関係を持たない。彼は吉田神社の社家である卜部家の出身とされているが(それを否定する説さえもある)、後に出家して修学院や比叡山横川に草庵を結び、晩年は現在の右京区の双ヶ丘(ならびがおか)の麓で隠棲したと伝えられている。但し、ここのそれは異なるもので、「出来斎嘉土産」には先の引用で見た通り、神恩院である。そこに出た智福院は現存するものの、神恩院は最早、存在しない。サイト「神殿大観」の「神恩院」によれば、『京都吉田にあった寺院。神龍院や神光院と共に吉田家の菩提寺。吉田兼倶父の吉田兼名の位牌所。吉田神社の近くにあった』。『吉田兼倶の子の教誉が住した。 吉田兼好が住んだ旧跡ともいう。 曹洞宗か』とある。「日文研」画像データベースの「花洛名勝図会 四巻 画像23」(同書は暁鐘成(あかつきかねなる)他の作で元治元(一八六四)年の板行)の「神恩院」を見ると、新長谷寺の西で、吉田神社の南にあったことが判るから、この中央附近と推定できる。しかも、そこには、『一說に兼好法師が寓するところは此寺院にして神龍院』(すぐ前に「神龍院」の条があり、同じ域内にあったことが判る)『にありと言傳ふるは非なりといふ』と、わざわざ書いてあるから、真正の兼好寓居跡としての自負があったのだろうことが窺える。

「あいぢかく立ゐより」「相ひ近く立ち居寄り」。興味深かった故に、おっかなびっくりながらも、ごく近くにまで近寄って。

「いかに、ねたみて、かうは。」「何んと! 嫉妬して……かくも! 成り果てるものか!」。

「ちしほ」「血潮」。

「傾女(けいぢよ)」ここは「遊女」ではなく、単に「美女」或いはその意を持たせた「愛人」の意であろう。

「しのぶ山忍ぶ人めの關(せき)を思ひ」原拠があるかないかは判らぬ。

「あつき湯を打かけて、ひさげの水のわきかへりしは、かくや在けむ」同前。圧縮してあるような気がする。その嫉妬のさまは、あたかも、「熱湯を夫にぶちかける」が如き強烈さであり、水を入れた「提(ひさげ)」(弦付きの小鍋形の銀や錫で出来た銚子)を持った瞬間、その水が沸騰して沸き返るというほどの激烈な嫉妬というのは、こういうのを謂うのであろう、の意。

「かけ梨(り)」ママ。

『唐の鮑蘇(ほうそ)が妻の、物ねたむ心なく、いたつて賢なる女なりしかば、帝より「女宗(ぢよそう)」といふ官をなし給ひし』前漢の劉向(りゅうきょう)撰になる女性の史伝を集めた歴史書で、女性の理想を著した教訓書とされた「列女傳」の「宋鮑女宗」。

「中國哲學書電子化計劃」のこちらで、原本と電子化された全文を見ることができ、また、訓読文は東茂美氏の論文「熊凝の志を述ぶる歌 ――孝悌論存疑1――」PDF)の「二」の百十八ページを参照されたい。

「大内の義隆公、……」戦国武将大内義隆(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)。周防・長門・安芸・石見・筑前・豊前の各守護。大友氏や少弐氏と戦い、九州北部を掌握した。文学・芸能を好み、明や朝鮮と交易を行い、また、ザビエルに布教の許可を与えたことでも知られる。重臣陶晴賢(すえはるかた)の謀反のために長門大寧寺で自刃した。さても、この話であるが、義隆の最初の正妻である京の公卿万里小路(までのこうじ)秀房の娘万貞子(さだこ 永正七(一五一〇)年?~?)のウィキによれば、大永四(一五二四)年頃に十五歳で『義隆の正室となった』。『性格は理知的で気性が強く、賢婦人のようであったという』。『しかし』、『気性の強さのためか、義隆との夫婦生活は円満ではなかった』。『それを示す逸話として義隆が密通した女性に恋文を送った際、侍女が間違えて貞子にその恋文を渡してしまい、貞子は密通した女性と義隆にそれぞれ自らの歌を送ってその行為を批判している』(「毛利元就山口下向饗応記」を出典とする)。『子ができなかったために義隆の寵愛を失い、義隆は貞子に仕えていた侍女の』「おさい」『を寵愛した。やがて』、『おさいと義隆の間に嫡子の義尊』(よしたか)『が生まれると、義隆との夫婦関係は完全に破綻し、貞子は離婚して京都に戻り、その後の詳細は不明』であるという。『この離婚が義隆の意志によるものか、貞子の意志によるものかは不明であるが、当時は大名が側室や妾を娶るのは常識でも』、『離婚は異常な事であり、貞子の気の強さや』、『大寧寺の変の遠因を成した事例として注目される』とある。

「せうそこ」「消息」。手紙。

「みだい」「御臺」御台所。正室。

「賴(たのむ)なよ行すゑかけてかはらしと我にもいひしことの葉の末」整序する。

 賴むなよ行末かけてかはらじと

    我にもいひしことの葉の末

「かよふかたふたつありそのはまちとりふみたがへたる跡とこそ見れ」整序する。

 通ふ方二つ有磯の濱千鳥

    踏み違へたる跡とこそ見れ

「ぼだひ」「菩提(ぼだい)」。]

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