御伽比丘尼卷三 ㊂執心のふかさ桑名の海 付リ 惡を捨る善七
㊂執心のふかさ桑名の海付リ惡を捨(すつ)る善七
むげにちかき比、東のとうゐんの邊(ほとり)に、伴(ばん)の善七郞といふ美男あり。其先〔そのせん〕は、去(さる)御所に中小性(〔ちうこ〕せう)の宮づかへしゐけるが、相いたはれる事ありて、御暇(いとま)申〔まうし〕、さとに歸る。父も、むかしは、たゞうどには非ず、四(よつ)の氏(うぢ)の其ひとつの、末なりしとなん。折ふしは「源氏物がたり」・「つれづれ」・「いせ」など講じて、つたなからぬ世わたらひなりけらし。
おなじよこなる町に、「柳(やなぎ)や」とかや、糸もて、なりわひとする家に、娘あり、名を「さよ」といふ。かたち、たぐいなく、又なきいろ好みなりけるが、うちの比のかゐまみにか、善七を見そめしより、ひとへに君をしのぶ草、わするゝ隙(ひま)もあらざれば、たゞうかうかと、ふすゐのとこに、起臥(をきふし)なやみ、日をかさぬ。
めのと[やぶちゃん注:乳母。]なりける女、いといぶかしく、とひおとしてげれば、
「かうかう。」
と、かたるに、やすく請〔うけ〕あひ、便(たより)求(もとめ)て、善七に、
「かく。」
と、しらせたりけるに、いとやさしく哀(あわれ)に思へければ、みそかなるやど求(もとめ)て、互に、まみえそめしが、夫(おつと)は、女のかたちにめで、女は又、男のすぐれたる粧(よそほひ)に、いや、まさる戀衣、度(たび)かさなりて、誠に淺からぬ中とぞなりける。
爰に、武州麻布の邊(ほとり)に、何がしの治部左衞門といふ有り。是は、善七が伯母むこにていまそかりけるが、としたけ、よはひ、山の端(は)比〔ごろ〕の入日〔いりひ〕とかたぶきて、賴〔たのみ〕なき身、世繼(〔よ〕つぎ)さへなければ、
「善七を呼(よび)くだし、名跡(みやうせき)をも、つがすべし。」
と。いひのぼせたりけるに、やがて下るべきに究(きはめ)けり。
人々、めでたき事にいさみあへれど、彼女に別れなん事の、かねて思ひければ、むね、ふさがりぬ。かくても、叶(かな)はぬ事にあめれば、「さよ」かたへも、
「かく。」
と、いひ送り、みそかやどにて名殘など惜(をしみ)けるに、女、もだへ、悲しむこと、目もあてられず。
されど、
「ちかき五月(さつき)の比は、むかへの人をのぼせなんに、心づよく、待給へ。」
など、いさめ、やどのふう婦も敎訓して、漸々(やうやう)、泪(なみだ)ながらに別れかへりぬ。
實(げに)哀なるさまなりかし。
あくれば、
「日がら、よし。」
とて、東路(あづまぢ)におもむく。
八聲(やこゑ)の鳥(とり)啼(なき)て、やどを出〔いづ〕れば、曉の露、袖をうるほし、いとゞ思ひをそふる心ちし、三條の橋をひがしへ行〔ゆく〕に、南を見れば、祇園の社(やしろ)、大仏殿、はるかに、朝霧こめて、いと、たとく見ゆ。拜(をがみ)過〔すぐ〕れば、むかし、能因の、「みやこをば霞とともに出しかど秋かせぞふく」と、よみしは、みちのく、是はやましろの白川をこへて、あふ坂につきぬ。「これやこの行も歸るも」と聞えし思ひ出、小町のあとふりし關寺を拜み、湖水の八景、詠(ながめ)て逢(あふ)ことは、かたゞのうらの名もつらく、君に近江のうみとことぶき、せたの長はし足とからね、と打わたりて、草津より、石部の宿につきぬ。
始のほどこそはあれ、あけの日より旅つかれに、名所を見捨(〔み〕すて)、ふるきあとをもきかず、三日といふに、いせの桑名に、つきぬ。船の手つがひなど、やどのあるじにあなひさせ、行〔ゆく〕道のべに、都の女、さよのかた、我待㒵(われまちがほ)にたてり。
「こは、そも、いかにして、爰へは來り給ふぞ。」
と、いへば、女、聞〔きき〕て、
「されば社〔こそ〕、君にわかれ參らせ、ながらふべき心ちもなく、此まゝに思ひ侍らんよりはと、女心の、はかなくも、君にをくれまいらせじと、夜を日になして參りぬ。東(あづま)とやらへつれ給へ。」
と、打なげく。
善七も、いと愧(おそろしく)、心ちとゞろけれど、いさめていふ、
「まことにむさし迄は、はるけきたびの空、ことに、女にはむつかしき切手(きつて)など、申〔まうす〕事の侍りて、たやすく下ること、かたし。是より歸り上り給へかし。」
と、いへど、うけひかねば、せんかた波(なみ)のあま小船〔をぶね〕、あとへも先へも行やらで、思ひ煩ゐけるが、
「かく、日數、ほどふりては、あしかりぬべし。一まづ、都へ歸りのぼり、其後〔そののち〕とにもかくにもせばや。」
と、是より、女をぐして、歸り上りぬ。
善七、道すがらおもふ、
『我、みそかになれて、此女の父母(ちゝはゝ)にも見參(げんざん)せず。しかはあれど、此度〔このたび〕、対面し、此事を語り、いさめもさせばや。』
と思ひければ、直(すぐ)に女の親ざとに行、先(まづ)さよを、かどに残し、善七計〔ばかり〕内に入〔いり〕て、女の父母に逢(あひ)て始終をかたり、
「かやうかやうに侍る。」
と、いへば、父母、聞給ひ、
「ふしぎや。我娘のさよは、かた時、夫婦の傍(そば)を、はなれず。いま迄、宿にゐ侍りぬ。若人〔わかうど〕、たがへにてもや。」
と、の給へるに、
「さらば。」
と、いひて、門の外なる、さよが手を引て、ちゝ母に見せ奉るに、少〔すこし〕もたがはぬ、娘、也。
「こは、あやし。」
と、手、たゝひて、よび給ふに、立出〔たちいづ〕るを見れば、さよ、なりき。
かほも姿も、衣裝も帶も、かはらず。
おなじ娘、二人、忽然と、むかひ立〔たち〕しが、みる内に、ふたつのかたち、ひとつに合(がつ)して、只、ひとりの娘とぞ、なれりける。
此時、娘、さんげし、
「あな、殘(あさ)まし。君にわかれ參らせしより、夢計〔ばかり〕も忘れず、あとを追(をふ)て桑名迄下ると思ひくらせしが、扨は、我、玉しゐのはなれ行〔ゆき〕たるにてぞ、あるらん。恥かしくも、おそろしの罪のほどや。」
と、且は悲しみ、あるは、歎(なげき)て、則(すなはち)、夫(おつと)のまへにて、黑かみを切〔きり〕、墨染の袖に、さまをかへぬ。
善七も、人の執(しう)のおどろおどろしきを、まのまへに見ければ、世をいとふ心つよく、是もおなじく、發心して、東へもゆかずなりしとかや。
是なん、「煩惱卽菩提」なるべし。
[やぶちゃん注:「東のとうゐん」左京を南北に走った、東端の東京極大路から五本目の東洞院大路。ウィキの「東洞院通」で位置を確認されたい。但し、彼の住んでいたのは、その大路に面していたのではなく、横町である。
「中小性(〔ちうご〕せう)」歴史的仮名遣は「ちゆうごしやう」が正しい。っこでは御所の公家方の宮仕えとするが、本来は江戸時代の諸藩の職名の一つであって、小姓組と徒士(かち)衆の中間身分の役職であって、主君に近侍する小姓組に対して、主君外出の際に供奉したり、祝日の折りの配膳や酌役などを務めた役を指す語である。
「相いたはれる事」「いたはれる」は「病いになる」の意があるが、主君と中小姓がともにというのは如何にも変で、ここは「相(あ)ひ」とと読むところを、口語表記したものととって、互いに「戲(たは)れる」(みだらな行為に及ぶ)ことがあったために、彼の方から暇を願い出たと読むべきであろう。小姓や若い舎人(とねり)などが、貴人の男色の相手となったことはよく知られている。
「四(よつ)の氏(うぢ)」往昔の代表的な姓である源氏・平氏・藤原氏・橘氏を指す。
の其ひとつの、末なりしとなん。折ふしは「源氏物がたり」・「つれづれ」。「いせ」など講じて、つたなからぬ世わたらひなりけらし。
「とひおとしてげれば」切に憂鬱のもとについて理由を問い質し、遂に彼女の秘しているそれを説き落したところ、
「みそかなるやど」「密(みそ)かなる宿」。
「八聲(やこゑ)の鳥(とり)」「八」は不特定の複数回を指し、夜の明け方にしばしば鳴く鶏のことを指す。
「大仏殿」京都市東山区の方広寺に嘗てあった非常に大きな大仏殿。原型は豊臣秀吉が造営を指示した(天正一四(一五八六)年)それであるが、冒頭で「むげに近き」と言っているから(その間の地震倒壊や火災による大仏及び大仏殿の経過は参照したウィキの「京の大仏」を読まれたい)、本書刊行のごく近くということで、貞享四(一六八七)年二月より数年前とすれば、寛文二(一六六二)年)に地震で大仏が小破したため、新しく木造で造り直され、「都名所図会」によれば、高さは六丈三尺(約十九メートル)で、奈良の大仏(十四メートル)よりもかなり大きかった。大仏殿は「東西二十七間、南北四十五間」(四十九メートル×八十一メートル)で、これも奈良東大寺の大仏殿(五十七メートル×五十五メートル)を凌ぐ規模であったというそれがロケーションとなる。人気の観光地となり、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」(初刷は享和二(一八〇二)年から(文化一一(一八一四)年)では弥次北が大仏を見物して威容に驚き、「手のひらに畳が八枚敷ける」とか、「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」とその巨大さが表現されている。しかし、後の寛政一〇(一七九八)年)七月に大仏殿に落雷、本堂・楼門が焼け、木造大仏も灰燼に帰した。その後、同様の規模の大仏・大仏殿が再建されることはなかったが、天保年間(一八三一年~一八四五年)に現在の愛知県の有志が旧大仏を縮小した、肩より上のみの木造の大仏像と仮殿を造り、寄進した。しかしそれも、昭和四八(一九七三)年三月の深夜の火災で焼失し、現在は例の「國家安康」「君臣豐樂」と刻まれて騒動となった「方広寺鐘銘事件」の梵鐘を除いて、大仏も大仏殿も残っていない。
『能因の、「みやこをば霞とともに出しかど秋かせぞふく」』「後拾遺和歌集」第九巻の「覊旅」にある平安中期の僧で歌人の能因(永延二(九八八)年~永承五(一〇五〇)年又は康平元(一〇五八)年:近江守橘忠望の子)の一首(五一八番)であるが、「出しかど」は誤り。
陸奥國(みちのくのくに)に、
まかり下りけるに、白川の關に
てよみ侍りける
都をば霞とともに立ちしかど
秋風ぞ吹く白河の關
「これやこの行も歸るも」「小倉百人一首」(十番。但し、そちらでは第三句が「別れては」)で知られる蟬丸の「後撰和歌集」の巻十五の「雜一」に載る一首(番)。
相坂(あふさか)の關に
庵室(あんじつ)を作りて
住み侍りけるに、行き交ふ
人を見て
これやこの行くも歸るも別れつゝ
知るも知らぬもあふさかの關
「小町のあとふりし關寺」関寺(世喜寺)は、嘗て近江国逢坂関の東(滋賀県大津市逢坂二丁目付近)にあったとされる寺院。現存しないが、長安寺がその跡地に建てられているとする説がある。参照したウィキの「関寺」によれば、『創建年次は不明であるが、貞元元九七六)年の『地震で倒壊したのを』、『源信の弟子である延鏡が、仏師康尚らの助力を得て万寿四(一〇二七)年に『再興した。その時、清水寺の僧侶の寄進によって用いられた役牛の』一頭が『迦葉仏の化現であるとの夢告を受けたとする話があり、その噂を聞いた人々が件の牛との結縁を求めて殺到し、その中に藤原道長・源倫子夫妻もいたという。そして、その牛が入滅した際には源経頼が遭遇したことが』「左経記」(万寿二年六月二日の条)に『見え、その後』、『菅原師長が』「関寺縁起」を『著した(なお、長安寺には牛の墓とされる石造宝塔が残されており重要文化財となっている)。また、倒壊前には老衰零落した小野小町が同寺の近くに庵を結んでいたとする伝説があり、謡曲』「関寺小町」として知られる。『また、同寺に安置されていた』五『丈の弥勒仏は「関寺大仏」と呼ばれ、大和国東大寺・河内国太平寺(知識寺)の大仏と並び称された』。しかし、この寺は『南北朝時代に廃絶したと言われて』おり、ここが「跡經(あとふ)りし」というのも、そうした遺跡無き懐古の情を含んだものである。
「かたゞのうら」「堅田の浦」。ここ。但し、「名もつらく」の意が今一つ判らぬ。「かただ」は「難し」に掛ける歌枕であるから、それを引き出したものか。しかし、中身がなくて、ピンとこない。
「君に近江のうみとことぶき」「万葉集」第三巻の柿本人麻呂の一首(二六六番)、
近江(あふみ)の海(うみ)
夕波千鳥
汝(な)が鳴けば
心もしのにいにしへ思ほゆ
を依拠したものか。しかし、「ことぶき」が判らぬ。「ことぶき」ではなく、底本通りの「ことふき」で、単なる「言」葉を「吹」いたというのか。而しては、しかし、如何にもつまらぬ。
「足とからね」意味不明。「驅(から)ね」「駈ね」か。急ぐ旅でもないから、足を無理に走らせることはせずに、か。よく判らぬ。已然形も不審。
「草津」滋賀県草津市。
「石部」滋賀県湖南市石部。
「いせの桑名」三重県桑名市。
「船の手つがひ」意味不明。「ふなのてつがひ」で一単語で、舟を繋留する(「繼がふ」)長い河岸のことか? 挿絵の右幅の下方にそうしたものが見える。
「あなひさせ」「案内させ」。
「切手(きつて)」関所の通過や乗船などに必要とされた通行証。「通り切手(きって)」。
「かど」「門」。
「宿」自宅。
さて。唐代伝奇をお好きな方は一発で種本を言い当てられるはずだ。これは陳玄祐の「離魂記」である(エンディングを変えてはあるが、それがまた、抹香臭くて甚だ面白くない。しかも、善七は何もし負わぬ「惡」者であって、「さよ」を騙して捨てんとしていたのである)。原話と私の訓読と訳は「無門關 三十五 倩女離魂」の注にあるので見られたい。]