御伽比丘尼卷四 ㊀水で洗煩惱の垢 付 髑髏きえたる雪の夜
御伽比丘尼卷之四
㊀水で洗(あらふ)煩惱の垢付〔つけたり〕髑髏(どくろ)きえたる雪の夜(よ)
むさしの品川の邊(あたり)に、米を賣買する人あり。名を庄八とよぶ。妻は去(さる)武(ぶ)の御家(〔おん〕いゑ)に給仕して、㒵(かほ)かたち、やごとなき女にてありしを、此男、かゐま見てより、戀こがれ、緣につき、便(たより)もとめて、えにしをむすび、かいらうのよるの物に、ひよくの枕をならべ、誠にわりなき中なりしに、此女、しばしばいたはる事ありて、ほどなく、むなしくなりぬ。
夫、なげき沈む事、身もたゆる計〔ばかり〕、佛前おごそかにしつらひ、夜日(よひ)をわかず、此まヘにおりゐて、口說(くどき)、悲しむやう、
「君、十九、我、廿五の春、いとかりそめに見そめ、父母(かぞいろ)の目をしのび、人めづゝみて、ふかきまどに、いひ送り、その事にのみ、心をくるしめ、やうやう、わぎみが主君のめいをゆるされ、むぐらのやどにむかへしより、まだ三とせをば過(すぎ)がてに、悲しき我をば、かく置(をき)、しらぬ無常のたびにおもむき給ひけめ。かゝる思ひのかずかずを、今、一たび、立歸り、『哀(あはれ)』と、とはせ給へ。」
など、飯食(いんしひ)をも聞入(きゝ〔いれ〕)ず、去(さり)し女の事のみ、一向(ひたすら)思ひ臥(ふし)ゐけり。
其日も、つらき泪(なみだ)にくれて、既に夜半(よは)のかねの比、在〔あり〕し女房、、忽然と出來れり。
姿、むかしにかはらず。
こしかた、語りつゞくるにも、
「いまだくちせぬ契りの侍りて、是迄、かよひ侍る。」
と、いへば、夫、うれしさ限なく、きのふけふの物おもひ、いか計とかは、おぼすなど、盡(つき)しもやらぬむつごとに、はや、東雲(しのゝめ)のしらしらと、姿は、其まゝ、消失(きへうせ)ぬ。
是より、夜ごとにかよひきたる事、久し。
庄八が親は、其隣なるかたに、別に家づくりて、ぼだひのつとめのみ、しゐたりけるが、庄八が女の、夜な夜な、かよふ事を聞〔きき〕て、いといぶかしく、ある雨のよ、いたうふけて、まどより、内をさしのぞけば、庄八、されたるかうべに打むかひ、哭(ない)つ笑ふつ、物がたる。
『さればこそ。』
と淺ましくおぼえければ、其ほとりに、德行(とくぎやう)すぐれ、いとたとき上人のおはしけるに參りて、「かやうかやうの事の侍る。あはれ、然べき御敎化(きやうげ)をも、なし給はれかし。」
といへば、心やすく請あひ、其夜、庄八が家にしのび、ことのやうをうかゞひ給ふに、げにも、いひしに、たがはず。
庄八、されかうべと、ならびゐて、物かたるさま也。
時に上人、ひやゝかなる水の、桶に湛々(たん〔たん〕)と滿(みち)しを、うしろより。庄八に、なげかけ給ふ。
比は雪見、月のすゑ、あらしに木々の枝かれて、いとゞだに寒けきに、水さへ、いたうあびたれば、一身、こゞへ出〔いで〕て、ふるひ、わなゝき、ゐたるに、されかうべは、かい消(きえ)て、うせぬ。
此時、上人、庄八にむかひ、
「淺ましきかな。己が輪𢌞執着(りんゑしうぢやく)の一心にて、亡者にもくるしみを增し、くらきより、猶、くらきにまよはしむる。されば、今、爰にあらはるゝは、まよへる物から、もとの女とぞ見えつらん。只、されたるかうべにて、ありき。爰に淸淨(しやうじやう)の水をかけて、ぼんのふの、にごれるをすゝぎ、正念にかへらしむる時、又、更に消て、されかうべ、なし。是〔これ〕、本來無一物(ほんらいむ〔いち〕もつ)なり。むかし、六婆羅密寺の僧、庭なるからたちばなに着(ぢやく)して、小蛇となり、定家卿の内親王に執をなし、葛(かづら)となり給ひし事、世(よ)、擧(こぞつ)て、しる所なり。たゞ、念々(ねん〔ねん〕)に執(しう)をさつて、速(すみやか)に念仏すべし。」
と、勸化なし給けるに、庄八、此時、あらためて、弥陀の宝号を誦(ず)し、仏の道に人入〔いり〕しが、心法のさとりひらけて、別事(べつじ)もなく、ありしとぞ。
實(げに)有がたき、しめしなりけり。
[やぶちゃん注:「かいらうよるの物」「偕老の夜の物」。
「ひよくの枕」「比翼の枕」。
「父母(かぞいろ)」古くは「かそいろは」と読んだ。「かそ・かぞ」は「実の父」、「いろ・いとは」は「生みの母」のことを指すとされる。これは恐らくは「数」と、「イロハ」はの言葉を指し、数の持つ霊性と「言霊(ことだま)」を意味し、総て自然界の万物はそうした二つの霊性によって生成するものと考えたことによる読みであろう。
「人めづゝみて」「人目包(ひとめづつ)み」に「て」。知られぬように落ち逢って。
「ふかきまど」「深き窓」。「深」閨の「窓」。
「わぎみ」「我君」「吾君」。二人称代名詞。「あなた・お前さん」。中古後期から認められるが、「わがきみ(我が君)」から変化した語かとされ、「我が君」に比べると、遙かに親密な場合や、相手を軽く下に見ている場合に用いられ、一般には口語的用法である。
「むぐらのやど」「葎の宿」。
「本來無一物(ほんらいむ〔いち〕もつ)」禪語として知られる慧能の「六祖壇経」中の一偈。
菩提本無樹
明鏡亦非臺
本來無一物
何處惹塵埃
菩提 本(もと) 樹(じゆ)無し
明鏡も亦 臺に非ず
本來 無一物
何れの處にか塵埃を惹(ひ)かん
「六婆羅密寺の僧、庭なるからたちばなに着(ぢやく)して、小蛇となり」「今昔物語集」の巻十三の「六波羅僧講仙聞說法花得益語第四十二」。
*
今は昔、京の東に六波羅密寺と云ふ寺、有り。其の寺に、年來(としごろ)、住む僧、有りけり。名をば「講仙(かうぜん)」と云ふ。此の寺は京の諸(もろもろ)の人、講を行ふ所也。而るに、此の講仙、此の寺に行ふ講に、度每(たびごと)に讀師(どくし)をぞ勤めける。然(しか)れば、十餘年の間、山[やぶちゃん注:延暦寺。]・三井寺・奈良の諸の止む事無き智者に對(むか)ひて、法を說き、義を談ずるを聞く。此れに依りて、講仙、常に此れを聞くに、道心の發(おこ)る時も有りけり。
然れば、後世(ごぜ)の事を恐れ□と云へども、世間(よのなか)、棄て難きに依りて、此の寺を離れずして有る間、漸(やうや)く年の老いて、遂に命(いのち)終はる尅(とき)に、惡緣に値(あ)はずして失せぬれば、見聞く人皆(ひとみな)、
「講仙は、終り、正念にして、定めて、極樂に參り、天上にも生(む)まれぬらむ。」
と思ふ間に、月日を經て、靈(りやう)、人に付て云く、
「我は、此れ、此の寺に住みし定讀師(ぢやうどくし)の講仙也。我れ、年來、「法花經」を說(と)きして、常に聞きしに依りて、時々、道心を發して、極樂を願ひて、念佛、怠る事、無かりしかば、後世は憑(たのも)しく思ひしに、墓無(はかな)き小事(せうじ)に依りて、我れ、小(ちひ)さき蛇(へみ)の身を受けたり。其の故は、我れ、生またりし時、房(ばう)の前に、橘(たちばな)の木を殖ゑたりしを、年來を經るに隨ひて、漸く生長して、枝、滋り、葉、榮えて、花、咲き、菓(このみ)を結ぶを、我れ、朝夕に、此の木を殖立(うゑた)てて[やぶちゃん注:育て上げて。]、二葉(ふたば)の當初(そのかみ)より、菓結ぶ時に至るまで、常に護り、此れを愛しき。其の事、重き罪に非ずと云へども、愛執(あいしふ)の過(あやまち)に依りて、小さき蛇の身を受けて、彼(か)の木の下に住(ぢう)す。願はくは、我が爲に「法花經」を書寫供養して、此の苦を拔きて、善所(ぜんしよ)に生まるゝ事を得しめよ。」
と。
寺の僧等(ら)、此の事を聞きて、先づ、彼の房に行きて、橘の木の根を見るに、三尺許りなる蛇、橘の木の根を纏(ま)きて住(ぢう)せり。
此れを見て、
「實(まこと)、也けり。」
と思ふに、皆、歎き悲しむ事、限り無し。
其の後(のち)、忽ちに寺の僧共、皆、心を同じくして、知識を引きて[やぶちゃん注:同志を募って勧進し。]、力を合せて「法花經」を書寫し奉りて供養してけり。
其の後、寺の僧の夢に、講仙、直(うるは)しく法服(ほふぶく)を着して、咲(ゑ)みを含みて、寺の僧共を禮拜して告げて云はく、
「我れ、汝等が知識の善根の力に依りて、忽ちに蛇道(じやだう)を離れて、淨土に生まるる事を得たり。」
と。
夢覺めて後、此の事を他の僧共に告げて、彼の房の橘の木の下に行きて見れば、小さき蛇、既に死して有り。
僧共、此れを見て、泣き悲しむで、「法花經」の靈驗を貴(たふと)む事、限り無し。
此れを思ふに、由無き事に依りて愛執を發(おこ)す、此くの如くぞ有りける、となむ語り傳へたるとや。
*
「定家卿の内親王に執をなし、葛(かづら)となり給ひし」謡曲「定家」(古くは「定家葛(ていかかずら)」とも呼ばれた)に基づく中世以降の仮託伝承。金春禅竹作。「新古今和歌集」を代表する歌人、式子(しょくし)内親王と藤原定家との間に秘密の恋があったとする設定で、抑圧された恋の執心を描いて、深刻にして、しかも最も優れた能の作品の一つとされる。旅の僧(ワキ・ワキツレ)が都に着き、おりからの時雨に、一つの庵に立ち寄る。女(前シテ)が呼びかけ、そこが定家の時雨亭(しぐれのちん)の旧跡と教え、荒れ果てた情景を描写する。やがて、女は式子内親王の墓の前に僧を導き、弔いを頼む。二人の恋が世に知られ、会うことの出来ずなった恨みは、あの世まで持ち越され、定家の執心は、死後も葛となって墓を覆っている。女は尽きることのない互いの苦しみを救ってほしいと訴え、自分がその亡霊と名乗って墓に消える。僧の祈りに、内親王の亡霊(後シテ)の姿が浮かび、経文の功徳によって、葛の呪縛から解かれたことを喜び、重い足を引きつつ、報恩の舞を舞うものの、再びその墓は定家葛(リンドウ目キョウチクトウ科キョウチクトウ亜科 Apocyneae 連テイカカズラ属テイカカズラ Trachelospermum asiaticum )に覆われ、暗い結末で終わる。品位と陰惨さの重層の表現が至難で、重く扱われる能である。前シテも若い姿か、中年の扮装にするか、後シテもやせ衰えた姿か、内親王の品格を主眼とするか、さまざまの演出の主張がある(以上は小学館「日本大百科全書」の私の好きな増田正造氏の解説に拠った)。同作の総ては、小原隆夫氏のサイトの「宝生流謡曲 定家」がよい。
さても。本話の原話は典型的な中国の民俗伝承として、今も一部では強く信じられている冥婚譚で、明代に瞿佑(くゆう)によって著された志怪小説集「剪燈新話(せんとうしんわ)」の「卷二」に所収する「牡丹燈記」に基づく翻案怪談である。原話は元末(プロローグは至正二〇(一三六〇)年正月十五日元宵節(げんしょうせつ:現行でも「灯節」と呼ぶ。これは本行事の道教に由来する部分で燈籠を飾って吉祥を呼び込んで邪気を払う意味がある)の夜)の明州鎭明嶺下(現在の浙江省寧波市内)の「湖心寺」(本話の牡丹堂の原型)近くを舞台とし、主人公は書生「喬某」、「符麗卿(ふれいけい)」と「金蓮」(実は遺体に添えられた紙人形の女中)が亡霊と侍女の名である。恐らく同原話の最初の本格的翻訳は「奇異雜談集」(貞享四(一六八七)年)であるが、それ以前に、舞台を本邦に移しながら、かなり忠実な翻案がなされてある浅井了意の「伽婢子(おとぎぼうこ)」の「卷三」の「牡丹燈籠」(寛文六(一六六六)年刊で本書(延宝五(一六七七)年刊)の十年前)があり、貞享四(一六八七)年の本書の後も、「西鶴諸國ばなし」(貞享二(一六八五)年)の「卷三」に載る「紫女」などを始めとして、多くの近世怪談に作り変えられ(その最も自由な換骨奪胎の名品は、私は、私も愛する上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年刊)の「吉備津(きびつ)の釜」であると信ずる)、近代では三遊亭圓朝の落語の怪談噺「牡丹灯籠」にとどめを刺す。言わば「牡丹燈記」はそうした怪談原型として、「流し燈籠」のように時空間を自在にメタモルフォーゼし、うねりながら、連綿と続いている、その濫觴なのである。私も高校時代の漢文の授業で出逢って以来(厳密には担当の蟹谷徹先生のオリジナル翻案のお話として聴き、サイコーに面白かった記憶が最初である)、今に至るまで激しく偏愛してきている作品である。しかし、これはそうした前記のインスパイアとしても、あまり面白くない。私の「諸國百物語卷之四 五 牡丹堂女のしうしんの事」と比べてみればよい。殆んど醜悪ではないという雰囲気は一つ認めてもよいが、しかし、加工作品としては全く生き残れる部類のものでは――凡そ――ない――ということである。残念ながら。]