南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(24:蜜蜂)
○蜜蜂 蜜蜂は神に捧ぐる蜜酒(ミード)を原造するを以て、神使となし、今も歐州に死人有れば、便ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]家に飼える[やぶちゃん注:ママ。]蜜蜂に訃を傳へて、樂土に報ぜしむる風あり(Notes and Queries. May 30, 1908, p. 433)。英國には、蜜蜂故無くして巢を損るは[やぶちゃん注:「すつる」。]、家主死す可き前兆と信ずる者多く(Hazlitt, ‘Faiths and Folklore,’ 1905, vol. i. p. 38.)、支那には、蜂の分るゝ日を吉日として、婚姻、造作始めし、又市を立る所あり(予の ‘Bees and Lucky Days’ N. & Q., Oct. 10, 1908, P. 285.)本邦には、斯る事を聞ず、深山に石蜜木蜜有れど、古くは之を採らざりしにや、其名は美知といふも實は漢音也。推古帝の朝、百濟の王子豐璋、蜜蜂を三輪山に放ち飼はんとせしも蕃殖せず(藤岡平出二氏日本風俗史上編六三頁)。延喜式、諸州の貢物を列せるに、蜜蜂を擧げずと記憶す、後世にも其產甚希なりしにや、予が大英博物館にて閱せし‘Breve Ragguaglio del Giapone ristampato in Firenze,’ 1585(天正十三年、九州の諸族が羅馬に派遣せる使節より、聞く所を板行せる也)に、日本に蜜蜂無ければ、蜜も蜜蠟も無し、其代りに一種の木あり、好季節を以て之を傷け、出る汁を蒸溜して蠟代りの品を採れども、蜜蠟程稠厚[やぶちゃん注:「ちうこう(ちゅうこう)」。濃く厚いこと。]ならずと有るは、漆の事を言るにや、兎に角蜜蜂を飼ふ事稀なりし故、蜜蜂を神異とせる譚も聞かざる也、但し日吉山王利生記卷三に蜂は山王の使者と見え、十訓抄一に、余五太夫蜂が蜘蛛の巢に掛れるを救ひし返酬に、蜂群來て助勢し、敵を亡ぼしければ、死したる蜂の跡弔はんとて、寺を建たる話有れども特に蜜蜂とは記さず。
[やぶちゃん注:「蜜酒(ミード)」蜂蜜を原料とする醸造酒。英語「mead」。ウィキの「蜂蜜酒」によれば、『蜂蜜酒(はちみつしゅ、ミード)は』『国によって呼称が異なるが、多くは印欧祖語で蜂蜜を意味する』『médʰuに由来する』。『水と蜂蜜を混ぜて放置しておくと』、『自然に酒の成分であるアルコールになることから、発祥は人類がホップやブドウに出会う前の旧石器時代末にまで遡ると言われている』。『青銅器時代に蜂蜜の消費量が増加したことから、蜂蜜酒の生産がこの頃に拡大していたと推測される。しかし、ビールやワインなどの他の醸造酒が台頭するに連れて蜂蜜酒は日常的な飲み物ではなくなっていった』。『現在、蜂蜜酒の市場は東欧やロシアが主である。自家生産される地域は中東、エチオピアなどアフリカ諸国、中米からブラジルにかけて点在している』。『日本でも生産されている』。『蜂蜜酒は農耕が始まる以前から存在し、およそ』一万四千年『前に、狩人がクマなどに荒らされて破損した蜂の巣に溜まっている雨水を飲んだ時が最古の飲酒だと言われている。「混ぜる」という基礎的な料理行為から作られたミードは「飲み物」の先祖と見ることができ、加熱も不要な最も原始的な発酵飲料である。製法が発展するに従い』、『湯や他の植物を使うようになり、ビールに近い味になっていった。蜂蜜酒の製造は共同体での活動に空腹を満たす以上の動機、酔いを分かち合うという目的を与えた。酩酊による非日常感は、人々の絆を強めるといった霊的交流や宗教、儀礼行為へとつながっていった。クロード・レヴィ=ストロースは蜂蜜酒の発明を、「自然から文化への移行であり、人間の行動を決定づける行為である」と分析している』。『新石器時代のビーカー文化』(鐘状(かねじょう)ビーカー文化(英語:Bell-beaker culture)。紀元前二千六百年頃から紀元前千九百年頃までの後期新石器時代から初期青銅器時代にかけて広がっていた、「鐘状ビーカー」と呼ばれる独特の大型広口杯の分布域。「文化」とつくが、単一の文化圏ではない。分布域は当該ウィキの地図を参照されたい)『の遺跡では、蜂蜜酒を飲むための土器と考えられる遺物が発見されている』。『また、古代ケルト文化の人々には蜂蜜酒は「不死の飲み物」とされ、その神話と強い結び付きがある。古代アイルランド・ケルト人は、先王が失脚すると、敬意を込めて蜂蜜酒の入った桶で溺死させて、祖先のもとに送った』という。『古代から中世初期のスラヴ人とゲルマン人の間で、ビールと並んで最も一般的な酒であった。当時はワインやビールに蜂蜜を入れて飲むことが多く、ビールにホップが入れられるようになる』十六『世紀までは』、『蜂蜜酒と問題なく共存していた。イギリスにおいても同様であるが、人口が増えるにつれ』、『蜂蜜酒が行き渡らなくなり、中世のイングランド人にとって蜂蜜酒は貴族的な飲み物となった。一般市民には軍隊生活や祭礼の時に飲まれる程度だった』。『蜂蜜酒に代わり』、『一般市民が飲むために穀物から醸造されるエールが開発され、時代が下ってビールとなっていった』。以下、「製法」があるが、略す。
「家に飼える[やぶちゃん注:ママ。]蜜蜂に訃を傳へて、樂上に報ぜしむる風あり(Notes and Queries. May 30, 1908, p. 433)」「Internet archive」の当該書のこちらの右ページの右中央にある「TELLING THE BEES」に、
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What follows seems to be new, and was given to me recently in wiltshire, where the bees are still told if a death occurs in a family.
- Bees foretell, by their behaviour, weather-changes sooner than these can be discerned by their owners.
- They foretell death when a swarm alights on dead wood.
- Or good luck, by alighting on living wood.
- They awake at midnight on Christmas Eve and hum loudly in their hives to salute the new-born King.
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の前書と、「2」及び「3」が該当する内容である。
「英國には、蜜蜂故無くして巢を損るは、家主死す可き前兆と信ずる者多く(Hazlitt, ‘Faiths and Folklore,’ 1905, vol. i. p. 38.)」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「信仰と民俗学」。「Internet archive」の当該書のこちらの左ページの右にある「BEES」の条の頭の部分に、
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A vulgar prejudice prevails in many places of England that when bees remove or go away from their hives, the owner of them will die soon after. A clergyman in Devonshire informed Mr. Brand, about 1790, that when a Devonian makes a purchase of bees, the payment is never made in money, but in things, corn for instance, to the value of the sun agreed upon. And the bees are never removed but on a Good Friday. In “The Living Librarie,” translated by Jhon Molle, 1621, we read: “Who would believe without superstition (it experience did not make it credible), that most commonly all the bees die in their hives if the master or mistress of the house chance to die, except the hives be presently removed into some other place. And yet I know this hath happened to folke no way stained with superstition."[やぶちゃん注:一部の綴りを改めた。以下、略すが、続いて蜜蜂の移動(分蜂)と人の死の呪的関連が書かれている。]
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の内容がそれらしく読める。
「支那には、蜂の分るゝ日を吉日として、婚姻、造作始めし、又市を立る所あり(予の Bees and Lucky Days’ N. & Q., Oct. 10, 1908, P. 285.)」欧文「Wikisource」で、当該論文の画像と電子化がある。こことここ。一部の表記を原画像で補正した。
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BEES AND LUCKY DAYS.―― From the following passage in Wang Shi-Chin's ‘Chi-pei-yau-tan,’ completed in 1691 (Brit. Mus. 1533 1. e. 3, lib. iii. fol. 3b), it is manifest that some Chinese of old entertained a belief in bees living in direct contact with the gods (cf. Mr. Gomme's work quoted at 10 S. ix 433, col. 2) :―
"The inhabitants of certain mountains south of Yau-yüe are all in a lifelong ignorance of the calendar, but in its stead they observe punctually every morning and evening the hives which every family keeps. Whatever day the bees happen to swarm, is deemed unfailingly lucky, and business of all kinds is favourably transacted on it. Should some business chance to be unfinished in the day, it is put off till another occasion of bees swarming. On such a day also are celebrated ordinarily the ceremonies of marriage and of beginning buildings. Thus, swarm in whose house the bees may, the neighbours and servants go round the place with the news ; indeed, the people never attempt to conceal the fact. Once upon a time a trading stranger came and sojourned in the locality for a year, and during this time he attentively recorded the days when bees swarmed, altogether numbering one hundred and odd. On his return home, he examined the calendar, and was astonished on finding those days without exception marked dies albi ; whereas all other days on which the bees did not swarm were either unlucky or void of import. So wonderful is the mystic instinct of these animals, which enables them to communicate freely with the Creator."
KUMAGUSU MlNAKATA.
Tanabe, Kii, Japan.
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機械翻訳でも述べている内容は概ね了解出来たものの(「albi」は遂に判らない)、原拠の「Wang Shi-Chin's ‘Chi-pei-yau-tan,’」が中国語に冥い私には全く判らなかったため、何時もお世話になる、中国語に堪能な私の教え子のS君にメールをした結果、数分で解明してくれた。これは、清朝初期の詩宗で別名を王漁洋と称した王士禛(一六三四年~一七一一年:ネット検索で「Wang Shizhen」の転写を見つけた)の随筆集「池北偶談」(Chibei outan:同前)であった。そこで「中國哲學書電子化計劃」で「同書」を「蜂」で検索した結果、その第二十三巻に、
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謝臯父晞髮、集有「粤山蜂分日記」云、「甌粤之南某山、其民老死不知歲曆、惟戶養蜂四時。旦暮悉候之蜂之分、也其日必吉、人家無大小貿易、皆、趣成之事。未及辨、則、以待後之分、日至於婚嫁興作、皆、候焉蜂移之家。若隣若僕無遠近、逓相報不敢隱有販者、至其地留一年、書蜂分之日。凡百有竒歸取曆驗之、皆、黃道紫微天月、德吉曜也。其不分者、非凶星、則常日也。物性之靈、能通造化、如此。」。
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とあるのを見出せた(一部の漢字表記を日本人にも判るように変更し、自然流で句読点を施した)。さても! これが、熊楠の原拠である(但し、私には意味の判らないところがある)。因みに、ここに出る、「粤某山蜂分日記」なるものも、中文「維基文庫」の「晞髪集(四庫全書本)」(南宋の詩人謝翱(しゃこう)の詩文集)に発見したので、以下にベタで示しておく(一部の漢字表記を変更した。前と同じく、やはり部分的にしか意味は判らぬ。後学者のために資料として示しておくだけである)。
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歐粤之南有某山焉跨羅浮挹九疑穴其竇而下空洞橫亘數千里與勾漏通山之陽其民至老死不知歲曆唯以甲子紀日由穴之隂而南雖甲子亦不書山衆夭小鑿石竅繩䥫其上屋纍纍而下者若蒙髙者若浮圖戶養蜂分地蒔花編竹若䕶蔬菓擘杉桐卷之或取雜木刳其中爲蜂房纔百之一每數日蜂輒有分者置不問聽其所止而休焉率以蜂之多寡爲家之厚薄四時旦暮𢘤候扵蜂故曆與甲子可無也蓋衙而知早晚出入而知寒暑四時之花卉不同而蜜亦異味是其候也至於有事而涓吉亦於蜂候焉濵是山之郡其人皆能言之蜂之分也其日必吉人家無大小貿易偶及蜂分則趣成之事未及辦則以待後之分日至於婚嫁已納采而未迎興作已畢工而未落成皆候焉或父子兄弟分業而居則𠉀其日時而幷用之隣里親戚置酒嬴老相與賀數向之獲是而吉者例指以爲盛事蜂移之家若僕若隣無遠無近逓相報俾皆知是日之吉不敢隠有販者至其地留一年書蜂分之日凡百有竒歸而詰曆驗之皆黃道紫微天月德活曜其星也其不分者非凶星則常日也余聞之始而疑中而信久而驚以愧不知兹蜂之爲何物也且其王生而有髭則爲異舉族附之不敢後則爲忠遭物害而去有相失者不肯附他族必徬徨噬囓自相枕籍以死則爲貞出則紛然先後奔走之不暇則爲勤歸則翕然集若赴期會而聴號令則爲整食蜜之餘以遺取者不怨則爲廉為房以自居則爲智有蠆以自衞則爲勇脩是數德而又能知天時以協人事則夫貪賄無謀亂行離次棄君事讎反覆變詐以取富貴利祿者身爲蠆尾而不䘏雖其形則人也使其居深山中與不知甲子之民將必顚到五行以爲民害寧不爲兹物之愧哉
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「石蜜木蜜」「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜜」(リンク先は私の電子化注)に、
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石蜜は 巖石に生ず。色、白くして膏のごとし。最も良と爲す。
木蜜は 樹の枝に懸けて之を作るは、色、青白。
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とある。同書の記載は、ややあっさりしていて、やや不満足なので(但し、その前の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蜂」では蜜蜂を扱っているので読まれたい)、貝原益軒の「大和本草」の巻十四の「陸蟲 蟲之下」の「蜂蜜」が、本邦の養蜂を語っていて面白いので、電子化しようと思った(「学校法人中村学園図書館」公式サイト内にある宝永六(一七〇九)年版の貝原益軒「大和本草」の分割PDF版のこれの13コマ目からで)のだが、これが、また、同条自体、かなり長い。躊躇していたところ、幸いにして、サ「つくば養蜂研究会のサイト「ハチドットネット」のこちらに電子化されているのを見出したので、それを加工用に使用させて戴きながら、上記の「中村学園」版を視認し、正字で表記させて戴くこととした。原文は漢字カタカナ交じりで、訓点附き漢文であるが、総て漢字ひらがな交じりとし、漢文部は訓点に従って訓読した。但し、送り仮名等の一部は私が施し、難訓と思われる箇所には推定で歴史的仮名遣で読みを振った。益軒の振った読みはカタカナのままで残した。句読点・記号等も追加し、改行も施した。
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蜜蜂 「本草」[やぶちゃん注:明の李時珍の「本草綱目」。]を考ふるに、「石蜜」あり、「木蜜」あり、「土蜜」あり、人家に養ふ家蜜あり、すべて、四種なり。
日本にも亦、此の四種あり。
「石蜜」は高山の岩石の間に之れを作(な)す。其の蜂、常の蜜蜂に異り、黑色にして、虻に似る。日本にも、處々、之れ有り。
「木蜜」は、陶弘景曰はく、「樹枝にかけて、巢を作る」と。日本にも之れ有り。人家に養ふも、本、是れを取り來る。又、大木の空虛(うろ)の内に房(ばう)を作り、南方より小穴を開けて、出入す。穴、大なれば、熊蜂、入りて、蜜蜂を喰ひ殺し、蜜を吸ひ取る。山にある「木蜜」は木の空虛の内に房を作る者、多し。枝にあるは稀なり。
「土蜜」は山の崖など、かはきたる土中に房を作る。是れ、「土蜜」は日本にも稀れに、之れ、有り。
人家に養ふ者、此の三種は、同じ蜂なり。常の蜂に似て、小なり。色、微黃なり。常には、人を螫(サヽ)ず、人さはれば、さす。
伊勢・紀州・熊野・尾張・土佐、其の外、諸國より出づ。土佐より出づるを好品とす。何(いづれ)の國より出でても、「眞蜜」を好しと爲(な)す。
蜂房の内、處々に自(おのづと)したゞり、たまるを、とり、用ゆ。是れを「眞蜜」とす。生蜜(なまみつ)なり。上品とす。藥に用ふべし。蜂房を煎じ出だして蜜とす。是れは下品なり。藥に用ひず。
煮熟せざる生蜜をもちひ、我が家にて煉熟すべし。藥肆(やくし)に賣るに、「眞蜜」あり、「砂糖蜜」あり、擇ぶべし。「黑蜜」は、黑砂糖に酒と水とを加ヘ、煮て、蜜と爲す。「白蜜」は、白砂糖の煮汁なり。此れ、二品は用ふべからず。異邦・諸國より來るにも、眞僞あり。擇び用ふべし。又、長崎にて、蜜煎の果(くわ)も、糖煎多し。[やぶちゃん注:最後の部分(原文『長崎ニテ蜜煎ノ果モ糖煎多シ』で読みが不審。「長崎にて「蜜を煎じた」と称して売られているもの(「果」を法律用語の「天然果実」の意でとる。販売用の成果物の「果」である)も実は偽物の糖類を煎じ煮つめたものが多い」の意であろうか。]
蜜の眞僞を試る法。鐡の火箸を、赤くやきて、蜜の中に入るゝに、たぎりて氣(イキ)の出づるは「眞蜜」なり。烟(けぶり)出づるは僞なり。是れ、時珍が說なり。
○蜜を煉(ね)る法。先づ、陶器に、蜜を、布にて、こして入れ、其の陶器を、鍋に沸湯をわかして、入れ、重湯(おもゆ)にて湯煎し、浮く沫(あわ)を箆(ヘラ)にて、すくひ去り、蜜を、少し、水に滴(したたらせ)てゝ[やぶちゃん注:ここも原文不審。『滴テヽ』。このカタカナの反復記号「ヽ」は、読点の誤りではないかと私は判断する。]、珠をなして、散らざるを、度(たびたび)と爲(な)し、壺に納め貯ふべし。百六十匁[やぶちゃん注:六百グラム。]を煉りて、百二十匁[やぶちゃん注:四百五十グラム。]を得べし。此くのごとくずれば、年をへて、敗せず。
○蜜を多く食ふべからず。溼熱[やぶちゃん注:「しつねつ」。「溼」は「濕」の異体字。余分な水分の悪質な気が身体に滞留し、熱を持つようになった状態。]と虫𧏾[やぶちゃん注:「ちゆうじつ」。虫刺されのような皮膚疾患。]を生ず。小兒、尤も戒しむべし。生葱(なまねぎ)・萵苣(ちしや)[やぶちゃん注:レタス。]と同食すべからず。蜜を食し飽きて、鮓(すし)を食へば、暴死す。
[やぶちゃん注:凄い言い方やねん!?! 但し、小児の摂取を警告しているのは正しい。「乳児ボツリヌス症」を発症する危険性があるからである。乳児ボツリヌス症は、筋力低下を引き起こす感染症で、生命を脅かすことがあります。フィルミクテス門 Firmicutes クロストリジウム綱 Clostridia クロストリジウム目 Clostridiales クロストリジウム科 Clostridiaceae クロストリジウム属クロストリジウム・ボツリヌムボツリヌス(菌) Clostridium botulinum の芽胞(細菌が不活性の休眠形態になった状態を言う)を含んだものを摂取した乳児に発生する。ボツリヌス菌は生存に酸素を必要としない嫌気性細菌で、本種は芽胞を形成することで過酷な環境でも生き延びる能力を持っており、環境がよくなると、芽胞は活性型の細菌に戻る。ボツリヌス菌の芽胞は水分と栄養があって、同時に酸素がない環境(動物の腸管等)で活性型細菌に戻る。乳児がボツリヌス菌の芽胞を含んだ食べものを摂取すると、芽胞が腸内で活性型細菌に変化し、毒素を作り出してしまう。その機序には不明な点も多いが、この症状は生後六ヶ月未満の乳児に最も多く発生する。発症原因も不明であるが、一部ではハチミツ摂取と関連していることが明らかになっており、現在、医師は十二ヶ月未満の乳児に蜂蜜を与えないように推奨している。殆んどの感染児では便秘を初症状とする。次に筋力低下が起こり、顔面・頭部に始まり、腕・脚・呼吸に関わる筋肉に伝播する。重症化して筋緊張が広範囲に消失、呼吸困難に陥り、死に至る場合もある(主に「MSDマニュアル家庭版」に拠った)。]
蜜蜂の蜜を作るは、春の末より秋の末まで出でて、花を含み、花を翅(ツバサ)と足の間に挾(ハサ)み、或いは、花の汁を含み來り、房中に、ぬり付けて、釀(カモシ)て蜜となす。酒を釀すがごとし。凡そ蜜蜂は、甚だ風寒を畏(おそ)る。冬の初めより、出でず、房の中に蟄居す。其の間は、曾て釀して貯へ置きたる蜜を粮(かて)とし、食ふ。蜜は蜂の粮なり。故に蜜を取るに、粮を殘して、取り盡さず。取盡せば、うへ、[やぶちゃん注:ママ。]死す。
○『時珍云はく、「蜂、無毒の花を采(ト)つて釀すに大便を以つてして蜜と成す。所謂、臭腐、神奇を生ずるなり」。陶弘景曰く、「凡そ、蜂、蜜を作る、皆、人の小便を須(もち)ゆ。以つて諸花を釀して、乃(すなは)ち、和熟を得。飴を作るに、蘗(きはだ)を須ゆるに似たるなり」。李中梓が「藥性解」に云はく、「蜂蜜、良(やや)に百花の精有り、且つ、人の溺(いばり)[やぶちゃん注:小便。]を取りて、以つて、之れを釀す」。
[やぶちゃん注:「蘗」ムクロジ目ミカン科キハダ属キハダ Phellodendron amurense 。内皮に苦味がある。過去に木曽でキハダ餅を作ったという事実がある。現在は長野県大町市平の「キハダ飴本舗」のみが製造している。「李中梓」明代の著名な医師。「藥性解」は彼の書いた著名な薬学書・処方書で正式には「雷公炮製藥性解」という。]
○蜜蜂を家に久しく養ひて、能く知る者、數人の說を委しく聞きしに、蜂の大便、人の小便を用ると云へる說、甚だ非なり。蜂、毎日、巢の内より多く出でて、其の口及び翅(ツバサ)の間、股の間に花を挾(はさ)み來りて、房に、ぬり付けて、釀し成せるなり。蜂の糞は、皆、下にあつまる。時々、是れを取りて、すつ。すてざれば、虫、生じて、害あり。是れ、蜜は蜂の糞に非ず。蜂の蜜を釀スすは、粮にせんためなり。何ぞ、我が糞を粮として食すべきや。此れ、理(り)なし。又、人の小便は、けがらはしく、鹽(しほ)あり、これを加ふべき理、なし。況や、岩蜜・木蜜・土蜜は山中無人の處にあり、人の小便を取るべからず。凡そ、蜜は、百花の淸潔なる精液を用ひて作り出せるなり。蜂の大便、人の小便を用ゆと云ふ事、返す々々(かへすがへす)、ひが言なり。信ずべからず。古人の博洽(はくかう)[やぶちゃん注:博識。]と雖も、自(おのづか)ら試むを知らずして、漫(みだらな)る說、傳へ誤る者、多し。一人、虛を傳へれば、萬人、傳へて、以つて實と爲す。孟子曰はく、「盡く、書を信ぜば、書無きに如(し)かず。」。誠なるかな、斯くの言(げん)や、吾、蜜蜂の爲(ため)に、寃(ゑん)を訴ふるのみ。
○蜂房は、蜂、每年、改めて作る。家に養ふは、蜂房をわりて、房中に自(ヲのづから)[やぶちゃん注:「ヲ」のみが右上に振られてあるのである。]たまれる蜜をとる。是れ、上品なり。藥と爲すべし。然れども、多く得難し。故に蜂房をわりて、三分の一は殘して粮と爲し、三分の二を取りて、大器の上に、竹を、わたしならべ、其の上に、わり取りたる蜂房を置きて天日に曝(サラ)せば、蜜、煖氣にとけて、器中に滴りをつるを取る。是れ、中品なり。蜂房を釜に入れて煮て、蠟を取り、其のあとを煎じつめて、蜜とす。是れ、下品なり。藥ニ入るべからず。故に生蜜を上品とし、熟蜜を下品とす。
○蜜蠟は、蜜を煎じて、面(おもて)に浮ぶ査(かす)なり。黃蠟と云ふ。
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私は「大和本草」の水族の部の全電子化注を終わっているが、これほど面白く、また、これほど益軒に全共感出来た記載は、これが初めてである。
「其名は美知といふも實は漢音也」源順の「和名類聚抄」の巻十九「蟲豸部第三十一」の第二百四十に、
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蜜蜂(ミツハチ)【蜚零附】方言注に云はく、「蜜蜂」【は和名「美知」。「波知蜜」は「飮食の部に見ゆ」。】黒蜂は竹木に在りて孔を爲す。又、室に有る者や、「本草」に云はく、「蜜蜂子」。一名、「蜚零」【今、案ずるに「蜚」は、古く「飛」の字なり。】。
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とある。この附帯する「蜚零」というのは、少なくとも現代中国語ではミツバチ類を指さない。膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科スズメバチ科アシナガバチ亜科 Polistinae の種群を指すようである。
「推古帝の朝、百濟の王子豐璋、蜜蜂を三輪山に放ち飼はんとせしも蕃殖せず」「日本書紀」巻第二十四の皇極天皇二(六四三)年の条の末尾に、
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是歲、百濟の太子餘豐(よほう)密蜂の房(す)四枚(よひら)を以つて、三輪山に放ち養(か)ふ。而れども、終に蕃-息(うまは)らず。
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とある。扶余豊璋(ふよ ほうしょう 生没年不詳)は百済最後の王であった義慈王(在位:六四一年~六六〇年)の王子。「日本書紀」での表記は「餘豐璋」「餘豊」「豐璋」「豐章」本邦に滞在中に百済本国が唐・新羅連合軍に滅ぼされたため、百済を復興すべく帰国したが、復興は果たせなかった(詳しくは彼のウィキを参照されたい)。このシークエンスは、亡国のイメージとともに、私には何か哀しいものとして映像化される。
「藤岡・平出二氏日本風俗史上編六三頁」藤岡作太郎・平出鏗二郎(こうじろう)共著。明三〇(一八九七)年東陽堂刊。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で当該箇所が読める(左ページ三行目)。しかし、この引用指示も熊楠らしくない。「日本書紀」と堂々と言えばよい。
「延喜式、諸州の貢物を列せるに、蜜蜂を擧げずと記憶す」これは熊楠の勘違い。日本養蜂協会公式サイトの「日本の養蜂の歴史」に、『日本ではじめてミツバチのことが史上に現れたのは「日本書紀」の』推古三五(六二七)年の『くだりに「夏五月、蝿有り、聚集れり、その凝り累なること十丈ばかり、虚に浮かびて以て信濃坂を越ゆ。鳴く音雷の如し。すなわち東のかた上野国に至て散りぬ」との記載があります。この頃は一般には「蜜蜂」という文字も言葉もなく、これを蝿の群れと呼ぶほか表現の方法がなかったのでしょう』。以下ダブるが、『文献上で「蜜蜂」の語が初めて用いられたのは「日本書紀」の』皇極二(六四三)年の『くだりに出てくる「百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚をもって三輪山に放ち、養う。しかれどもついに蕃息(うまわ)らず」 という記載です。百済人の余豊が奈良の三輪山で養蜂を試みたけれど、失敗に終わったという記録で、これが日本における養蜂のはじめだというのが通説になっています。』『奈良時代には、はちみつは三韓などから貢物として献上されています。たとえば』、天平一一(七三九)年に『対岸の渤海国から「文王致聖武天皇書」に添えて』「大蟲皮、羆皮各七張、豹皮六張、人參三十斤、蜜三斤」と『はちみつが献上されていますが、蜜』三『斤が豹の皮』六『張と同格に扱われるほど、貴重な物であったことがうかがえます』。天平宝字四(七六〇)年には、五『大寺に使を遺わし、毎寺雑薬』二『櫃と、蜜缶』一『口とを施すとあり、貴重な薬としても使われていたようです。(と言ってしまってもよいでしょうか?)』とあり、『平安時代になると、国内でも蜜を献上していた記録が見られるようになります』。「延喜式」(九〇五年~九二七年)には、「蜜、甲斐國一升、相模國一升、信濃國一升、能登國一升五合、越後國一升五合、備中國一升、備後國二升」と『あり、別の箇所には』「攝津國蜂房(蜜の貯まった巣)七兩、伊勢國蜂房一斤十二兩」を『献上したと記載されています。蜂房とは、はちみつの貯まった巣のことですから、はちみつだけでなく、蜜巣まで献上されていたようです』とあるからである。因みに以下、『源氏物語の「鈴虫」の巻の冒頭には、「荷葉の方をあわせたる名香、蜜をかくしほろろげて、たき匂はしたる」とあり、当時、はちみつで香を練っていたことがわかります。平安時代の終わりごろには、「今鏡」では貴族が、「今昔物語」では庶民の間でミツバチが飼われていた様子が描かれています。鎌倉時代から中世にかけての間では、文献上に養蜂関係の記載はみられません』とあって、当時の朝廷の連中は、ガッツリ、蜂蜜を民草から奪取し、舐め食っとるぜよ!
「予が大英博物館にて閱せし‘Breve Ragguaglio del Giapone ristampato in Firenze,’ 1585(天正十三年、九州の諸族が羅馬に派遣せる使節より、聞く所を板行せる也)に、日本に蜜蜂無ければ、蜜も蜜蠟も無し、其代りに一種の木あり、好季節を以て之を傷け、出る汁を蒸溜して蠟代りの品を採れども、蜜蠟程稠厚ならずと有るは、漆の事を言るにや」書名は「フィレンツェで転載(増刷?)された日本に就いての短い要約」か。岩手県浄法寺町発信のサイト「うるしとわたしたちのくらし」の「漆の木 いろいろな使い方 漆の実で作った蝋燭(ろうそく)」に、『漆の実もまた、昔の人々の生活を支える大切なものでした』。『漆の実は「蝋分」(ろうぶん)という成分を含んでいます。江戸時代から昭和』三十『年代まで、この蝋分を絞り出して、蝋燭(ろうそく)や鬢付油(びんつけあぶら)などの化粧品の原料として用いられてきました』。『鬢付油は日本髪を結う時に髪型を整えるための整髪料のことで、力士が髷(まげ)を結う時などに使われるものです』。『漆の樹液は、木の器を美しく、また丈夫なものにしてくれました。そして、漆の実は、電気のない時代に、人々の暮らしに火を灯し、また、人々の装(よそお)いを美しく整えてくれたのです』とあり、次のページでは、貴重な漆蠟燭と普通の蠟燭の灯した光の違いが画像で見られる。江戸の夜を照らしたのは、暖かなオレンジ色であった。なお、引用では『江戸時代から』と言っているが、熊楠の謂いが正しいとすれば、「漆蠟」は既に戦国時代に一般化していたと考えねばならない。また、リンクの一ページ目にも載っているが、明治期に「お雇い外国人」として来日し、東京大学で教え、進化論を本邦に移植した一方、大森貝塚を発見し、本邦各地を精力的に探訪したアメリカ人動物学者エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)が一九一七年に出版した“Japan Day by Day”で、現在の岩手県二戸(にのへ)市附近を通った際に見かけた「漆採り」の図を載せ、解説もしている。私は既に同書訳を総て電子化注している。その「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十四章 函館及び東京への帰還 5 二戸辺り」を見られたい。解説部と図及び私の附した注を引いておく。
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図―429
昼間通過した村は、いつでも無人の境の観があった。少数の老衰した男女や、小さな子供は見受けられたが、他の人々は、いずれも田畑で働くか、あるいは家の中で忙しくしていた。これはこの国民が如何に一般的に勤勉であるかを、示している。人々は一人残らず働き、みんな貧乏しているように見えるが、窮民はいない。我国では、大工場で行われる多くの産業が、ここでは家庭で行われる。我々が工場で大規模に行うことを、彼等は住宅内でやるので、村を通りぬける人は、紡績、機織、植物蠟の製造、その他の多くが行われているのを見る。これ等は家族の全員、赤坊時代を過ぎた子供から、盲の老翁、考婆に至る迄が行う。私は京都の陶器業者に、殊にこの点を気づいた。一軒の家の前を通った時、木の槌を叩く大きな音が私の注意を引いた。この家の人人は、ぬるでの一種の種子から取得する、植物蠟をつくりつつあった。この蠟で日本人は蠟燭をつくり、また弾薬筒製造のため、米国へ何トンと輸出する。昨年国へ帰っていた時、私はコネテイカット州ブリッジポートの弾薬筒工場を訪れた所が、工場長のホップス氏が、同工場ではロシア、トルコ両国の陸軍の為に、何百万という弾薬筒をつくっているが、その全部に日本産の植物蠟を塗ると話した。ここ、北日本でも、同国の他の地方と同じように、この蠟をつくる。先ず種子を集め、反鎚(そりづち)で粉末にし、それを竈(かまど)に入れて熱し、竹の小割板でつくった丈夫な袋に入れ、この袋を巨大な材木にある四角い穴の中に置く。次に袋の両側に楔(くさび)を入れ、二人の男が柄の長い槌を力まかせに振って楔を打ち込んで、袋から液体蠟をしぼり出す。すると蠟は穴の下の桶に流れ込むこと、図429に示す如くである。
[やぶちゃん注:「植物蠟」木蠟(もくろう。生蠟(きろう)とも呼ぶ)は当時は主にハゼ蠟で、他にウルシ蠟があった。ウィキの「蝋」によれば、ハゼ蠟はムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum の果実から作られる蠟で、『主として果肉に含まれるものであるが、果肉と種子を分離せずに抽出したものでは種子に含まれるものとの混合物となる。伝統的には蒸篭で蒸して加熱した果実を大きな鉄球とこれがはまり込む鉄製容器の間で圧搾する玉締め法が、近代工業的には溶剤抽出法が用いられる。日本では主に島原半島などの九州北部や四国で生産されている。和蝋燭や木製品のつや出しに用いられる。日本以外では“Japan wax”と呼ばれ、明治・大正時代には有力な輸出品であった』が本邦での生産は衰退した。二十一世紀初頭の現在においては『海外で人気が復活しているが、日本国内での生産量は減少の一途で、特に良質の製品が得られる玉締め法を行っている生産者は長崎県島原市にわずかに残るのみである。木蝋の主成分はワックス・エステルではなく、化学的には中性脂肪である』。主成分はパルミチン酸のトリグリセリドである。一方のウルシ蠟はハゼノキと近縁なウルシ科ウルシ Toxicodendron vernicifluum の果実から採取するハゼ蝋と性質のよく似た木蠟であるが、ハゼ蠟に押され、『現在の日本ではほとんど生産されていない』。主成分はハゼ蝋と同じ、とある。この図429に相当する装置をネット上で探したが見当たらない。モースのスケッチはもはや失われた蠟造りの実際を伝える貴重なものと言える。
「弾薬筒」原文“the cartridge”。明らかに薬莢であるが、ここでモースが詳述するような事実と本邦産のそれが、明治の初めから、多量に、殺人兵器の必要原料として、多量に輸出され続けていたという事実を私は初めて知った。]
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なお、この天正十三年の三年前の一五八二年に、ヨーロッパで用いられる西暦は、カトリック教会の主導でユリウス暦からグレゴリオ暦へ改暦されている。但し、グレゴリオ暦の導入状況は国によって異なり、カトリック諸国(イタリア・スペイン・ポーランド等)では早く、プロテスタント諸国(ドイツ・オランダ・北欧等)や独自の国教を持つ国(イギリス・ロシア・ギリシャ等)では後れた。グレゴリオ暦の実施が最も早かった国々では、ユリウス暦一五八二年十月四日木曜日の翌日を、グレゴリオ暦一五八二年十月十五日金曜日とすることによって使用が開始されている(ここはウィキの「天正」の「西暦の改暦」の条に拠った)。
「日吉山王利生記卷三に蜂は山王の使者と見え」「日吉山王利生記」は「ひえさんのうりしやうき(ひえさんのうりしょうき)」と読む。鎌倉後期の成立とされる。著者は未詳。近江坂本に鎮座する山王権現を廻る霊験譚を集めた神道書。国立国会図書館デジタルコレクションの「續群書類從」(写本)のここで現認出来る(左頁後ろから三行目)。
「十訓抄一に、余五太夫、蜂が蜘蛛の巢に掛かれるを救ひし返酬に、蜂群來て助勢し、敵を亡ぼしければ、死したる蜂の跡弔はんとて、寺を建たる話有れども、特に蜜蜂とは記さず」「十訓抄」は私は「じつきんせう(じっきんしょう)」と読むことにしている。鎌倉前・中期に成立した教訓説話集。写本の一つである妙覚寺本奥書によって、六波羅二﨟(ろくはらにろう)左衛門入道とするのが通説で、これは鎌倉幕府御家人湯浅宗業(むねなり 建久六(一一九五)年~?:紀伊保田荘の地頭で、在京して六波羅探題に仕えた。弘長二(一二六二)年に出家し、かの明恵に帰依し、智眼と号した)の通称ともされるが、一方で公卿菅原為長(保元三(一一五八)年~寛元四(一二四六)年:鎌倉初期の学者。文章博士・参議兼勘解由長官で有職故実に通じた)とする説もある。建長四(一二五二)年の序がある。これは「柴田宵曲 續妖異博物館 蜂」の注で既に電子化してある。結構、好きな話である。リンク先は、蜂譚(漢籍も一つ含む)を判りやすく解説しているので、未読の方は、是非、どうぞ。]
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