御伽比丘尼卷四 ㊂命は入相のかねの奴 付 一代せちべん男
つらつら、世の人の心ざまを見るに、癖(くせ)といふ物、各(おのおの)そなへて、はなるゝ事、なし。我、きく、晋(しんの)王義之は、左斗(さばかり)の文學に達して、德もありかりけるが、手跡を好む事のはなはだしく、至(いたつ)てすぐれたれば、後の人、其名筆をよびて、其德を不ㇾ知(しらず)。むかし、何がしとかやいへる弓法(きうはう)の達者、堂前(どうまへ)を射(いる)に、必(かならず)諾(うなづく)の癖ありしと。されど、通矢(とほりや)、數千(すせん)におよびて、天下一の誉(ほまれ)をとりし。これらは皆、能(よき)くせのたぐひにして、世の人のおよふべき事に非ず。
こゝに、あしきくせあるをば、いかゞはせん、後世(ごせ)願ひに、心のすぐなるはなく、まづしきがへつらへる名人に、異風のくせあり。此故に慈鎭の歌に、
人ごとにひとつのくせはある物を我にはゆるせ敷嶋の道
と讀給ひし、實(げに)さる事ぞかし。
爰に、都、去〔さる〕ほとりに、冨(とみ)さかへの男あり。金銀、山をかさね、米錢、藏にみてり。されど、天性(てんしやう)利勘(りかん)にして、一錢をも惜む事、甚(はなはだしき)のくせあり。
此者、母の胎(たい)にやどるより、父母(ちゝはゝ)ともに、俄(にはか)に生魚(しやうぎよ)の美味(びみ/うまさ)をきらひ、朝夕、ぬか味噌、かうの物、增水(ぞうすい)の類(たぐひ)を食し、月、みち、そろばんをいだき、生(うま)れ出たり。
昔、天竺の憂婆離尊者(うばりそんじや)の、剃刀(かみそり)を持て、誕生し、耆婆大士(きば〔だい〕し)の藥袋(くすりぶくろ)を持て、生れしためしも、かくや。
赤子の比より、兩の手を握(にぎり)て、ひらかず、めのとが乳味(にうみ/ちゝ)も、つぶりふりて、のまねば、手そだてにし、髮置(かみをき)の義式、金もとゆひ・末ひろも、否(いや)がる程に、買(かは)ずにすまし、父母のなでつけしうば玉のくろかみも、源氏・花の露さへ、
「油くさし。」
と、のゝしれば、とりあげたる事もなく、其儘の「赤がしら」とぞなれる。
十二、三の比より、手習わざしけるも、朱ぬりの折敷(をしき)に書ては、洗拭(あらひのごひ)などしては、又、書ける程に、白紙一枚も、ついへず。
十六、七の若衆(わかしゆ)ざかりも、色、くろく、情(なさけ)の道は、いかなる事やら知〔しれ〕ず。たゞ賣買(ばいばい)に心入〔こころいれ〕て、戀ざとは、西にあるやら、玉の盃(さかづき)の、そこともしらず、茶屋女の小手招(こてまね)をみては、
「ちかづきでないが。」
と、不審をたつるほどの、わけしらず、ひらいざうり・ちり紙をふところにして、小杉のべ紙はゆめにもしらず。
かゝるほどなれば、世間のつきあひもなく、人をよばねば、よばれもせず。
只、不受不施のかたきとなつて、三十(みそじ)の比は、「よい分限者(ぶげんしや)」といふほどなれど、羽二重(はぶたへ)・かゞぎぬは、さら也、日野紬(〔ひ〕のつむぎ)も肌(はだへ)にふれず、張(はり)ぬきの小鯛(こだい)作りて、其腹に、やき鹽をつめ、朝夕、是をなめて人めを能(よく)し、あらめ・和布(わかめ)は、ちぎにかけて買(かひ)、とうふを、わらしべに、しゆんどり、干がます・鰯(いはし)は尾頭(をかしら)の長きを合〔あはせ〕て取〔とり〕、門前の塵、ひろひて、居風呂(すいふろ)の湯をわかさせなど、かゝる人さへ止(やめ)がたきは、たばこぞかし。葉たばこ賣(うり)を呼(よび)、二、三枚、くるくると卷(まき)、じよきじよきと、割呑(わりのみ)て、
「是は氣にいらぬ、あれは、わるひ。」
と買(かは)ずにもどす程に、刻余(〔きざみ〕あまり)、取〔とり〕てもゆかねば、是にて毎日のたばこ、あまるほど。一生、錢出して吞(のむ)事もなく、かく始末に、としふりて、半白(はんぱく/五十[やぶちゃん注:左添えは漢字のママ。])の比は、銀高五千八百メ匁。是でも、家は、かはぬ物ぞ。一步(ぶ)の利にはまわりかぬる店借(たなかり)こそ社[やぶちゃん注:ママ。「社(こそ)」の衍字であろう。]、只、よけれ。
「風雨の氣づかひ、修覆(しゆふく)の思ひもなく、心やすし。」
と此外のしわざ、筆に餘(あまり)、こと葉(ば)に絕(たゆ)る事ぞかし。
ある日、心ち煩(わづらは)しく、俄に氣をとり失(うしな)ひて、伏(ふし)たりしを、人々、驚(おどろき)、安心散・丁子(てうじ)など、口に入(いる)るに、齒を喰(くい)つめて、あかず。
「いかゞはせん。」
と周章(あはて)騷(さはぎ)し。
此男の女房、耳により、大きなる聲して、
「是は、醫者の藥ではない。たゞ、もろふた藥じや。」
と、よばゝりけるに、口、あきて、のみ、人心ちつきける、とぞ。
命にかふる寶、何かあるべきと、いとおかし。
是は都の、今、「分限しはん」といひしは此事とかや。
[やぶちゃん注:標題は「命」が病いのために危なく没せんかという「入相」の折りにあっても「かね」(「入相の鐘」に「金」を掛ける)の「奴」(守銭奴)であったという意で、「せちべん男」とは「世知辨」で、原義は仏教の八難の一つである「世智弁聡」の略で「世渡りの知恵にたけていること」を意味するが、悪く転じて「勘定だかいこと。吝嗇なこと」の意でここは使っている。「せちがらいドケチ男」の謂いである。
「晋(しんの)王義之」(三〇七年~三六五年)知られた東晋の書家。その書は「古今第一」と賞され、行書「蘭亭序」・草書「十七帖」などで知られる。「書聖」と称される。同じく書家となった第七子の王献之とともに「二王」と呼ぶ。
「何がしとかやいへる弓法(きうはう)の達者、堂前(どうまへ)を射(いる)に、……」原拠不詳。但し、「堂前」は「通し矢」の別称で、知られた京都蓮華王院(通称で三十三間堂)の本堂西側の軒下(長さ約百二十一メートル)を南から北に矢を射通す競技として知られるから、これもそこがロケーションと考えられる。「必(かならず)諾(うなづく)の癖あり」というのが、よく判らないが、毎回、頷くというのは、その一矢の射出に常にその時には満足していたということとなり、その仕草をはたから見る者は傲慢な振舞いと見たに違いない。しかし、それは単なる自身の内での現時点の良し悪しの納得としての動作に過ぎなかった、さればこそ、「通矢(とほりや)、數千(すせん)におよびて、天下一の誉(ほまれ)をと」ったのであるから、人々はそこで初めて、その頷きの、決して驕慢を示す癖ではなかったことを理解したのである。されば、これは悪い癖とは真相としては言えないということを、清雲尼は謂っていると読み取るべきであろう。なお、ウィキの「通し矢」によれば、『起源については諸説ある。保元の乱の頃』(一一五六年頃)『に熊野の蕪坂源太という者が三十三間堂の軒下を根矢(実戦用の矢)で射通したのに始まるともいわれるが』、『伝説の域を出ない。実際には天正年間頃から流行したとされ、それを裏付けるように』、文禄四(一五九五)年)『には豊臣秀次が「山城三十三間堂に射術を試むるを禁ず」とする禁令を出している』。なお、『秀次自身も弓術を好み、通し矢を試みたともいう。この頃はまだ射通した矢数を競ってはいなかったようである』とあるから、ここまでの人物ではない。『大矢数のはじめは』慶長四(一五九九)年の『吉田五左衛門の千射と言われたり』、慶長十一年の『浅岡平兵衛の』五十一『本とも言われたりする』。『通し矢の記録を記した』「年代矢数帳」(慶安四(一六五一)年序刊)に明確な記録が残るのは』、慶長十一年の『浅岡平兵衛が最初で』、『平兵衛は清洲藩主松平忠吉の家臣で日置流竹林派の石堂竹林坊如成の弟子であり、この年の』一月十九日、『京都三十三間堂で』百本中五十一本を『射通し』、『天下一の名を博した。以後』、『射通した矢数を競うようになり、新記録達成者は天下一を称した。多くの射手が記録に挑んだが、実施には多額の費用(千両という』『)が掛かったため』、『藩の援助が必須』であったという。『寛永年間以降は尾張藩と紀州藩の一騎討ちの様相を呈し、次々に記録が更新され』、寛文九(一六六九)年五月二日には、『尾張藩士の星野茂則(勘左衛門)が総矢数』一万五百四十二本中、通し矢八千本で『天下一となった』。また、貞享三(一六八六)年四月二十七日には、『紀州藩の和佐範遠(大八郎)が総矢数』一万三千五十三本中、通し矢八千百三十三本で『天下一となった。これが現在までの最高記録である。その後大矢数に挑む者は徐々に減少し』、十八『世紀中期以降はほとんど行われなくなった。ただし』、『千射種目等は幕末まで行われている』。『江戸では』、寛永一九(一六四二)年、『浅草に江戸三十三間堂が創建され』、『京都よりも多様な種目が行われて活況を呈したが、大矢数では京都の記録を上回ることはなかった』とある。本書は貞享四(一六八七)年二月板行であるから、本数が実際には圧倒的に多いが、星野茂則、或いは前年の和佐範遠がモデルである可能性はあるかも知れない。
「慈鎭の歌に」「人ごとにひとつのくせはある物を我にはゆるせ敷嶋の道」表記は原本のママ。以下に見る通り、引用は原拠と異なる箇所がある。「慈鎭」は天台僧で歌人・文人(史書「愚管抄」の作者)としても知られた慈円(久寿二(一一五五)年~嘉禄元(一二二五)年)。「慈鎭」は諡号。父は摂政関白藤原忠通、摂政関白九条兼実は同母兄。天台座主には四度就任している。さて、この一首は歌集ではなく、室町中期の臨済僧で歌人の正徹(しょうてつ 永徳元(一三八一)年~長禄三(一四五九)年)の歌論書「正徹物語」(前半は正徹の自筆で、後半は弟子の聞書と考えられている。文安五(一四四八)年)或いは宝徳二(一四五〇)年頃の成立)の中に出るもので、慈円の兄弟(諸資料には兄とも弟ともあり、定かではない)一乗院門主が、慈円があまりに歌道を愛着することから、それを戒めようと教訓状を届けたところ、「悅び入り承り候」と慈円から返書が届いたものの、その末尾には、
皆人に一のくせは有るぞとよ
これをばゆるせ敷島の道
とあって、「沙汰の限り」と呆れ果てた、とするエピソードにあるものである。
「利勘(りかん)」常に利害得失を計算してかかること。損得に敏感で、抜け目がないこと。
にして、一錢をも惜む事、甚(はなはだしき)のくせあり。
「增水(ぞうすい)」雑炊或いは単なる湯分の多い粥か。
「そろばんをいだき」算盤玉のようなものを握って、ということか。胞衣(えな)の一部であろう。
「憂婆離尊者(うばりそんじや)」釈迦の十大弟子の一人優波離。サンスクリット語「ウパーリ」の漢訳。元は理髪師であり、直弟子の中でも戒律に最も精通していたことから「持律第一」と称せられ、釈迦入滅後の第一結集では戒律編纂事業の中心を担った。「仏本行集経(ぶつほんぎょうじっきょう)」によれば、成人していなかったウパーリは母親に手を引かれて、釈迦の髪を剃り、その場で釈迦は即座に彼が禅定を有することを見抜いたとされる。理髪師であれば、剃刀も腑に落ちる。
「耆婆大士(きば〔だい〕し)」一般には「ぎば」。サンスクリット語「ジーヴァカ」の漢訳。古代インドのマガダ国のラージャグリハの医者で釈迦の治療もした。ウィキの「ジーヴァカ」によれば、彼の出身には異説があり、父を頻婆娑羅とし、阿闍世の二つ上の兄としたり、王舎城中の娼婦婆羅跋提(サーラヴァティー)と、王子無畏(アバヤ:一説に頻婆娑羅の子とも)の間に出来た子などともする。七年の間、医法を学び、本国マガダに帰って諸人に施薬し、南方の大国の残虐なる王の病いを治癒せしめて、仏に帰依せしめたともされる。また釈迦の風疾(痛風)や、釈迦の弟子阿那律(アヌルッダ)の失明、阿難(アーナンダ)の瘡(かさ)などを治療し、名医・医王と尊称されるようになって、彼も仏教に深く帰依したと伝えられる。阿闍世(あじゃせ/アジャータシャトル)が王位に就くと、ジーヴァカは大臣として阿闍世に仕えた。しかし、阿闍世が母の韋提希(いだいけ:ヴァイデーヒー)を幽閉し、また父王頻婆娑羅(びんばしゃら/ビンビサーラ)を殺さんとするに至って諌めた。後に父を殺害した阿闍世は、その悪行から気を病み、身体に悪い疱瘡が生じたので、彼が治癒にあたった。しかしその症状は改善されず、ジーヴァカは「これは釈迦仏でないと治癒させることはできない」として釈迦のもとへ赴くよう進言した。大乗の「涅槃経」では、その模様が物語として詳しく説かれてある。中国や本邦では、彼と中国の戦国時代の名医扁鵲(へんじゃく)と合わせ、「耆婆扁鵲」と並称すことがある、とある。
「手そだてにし」実母が自分で育て。
「髮置(かみをき)の義式」男女ともに、不揃いのままの頭髪を、数え三歳の折りに男子は髪を結うために伸ばし、女子は本格的に有意に伸ばすために整える儀式。現在、「七五三の」三歳の祝いに組み入れられているが、本来は、全く別々に行う儀式で、平安時代、公家・将軍家に於いて世継の祝いとして盛大に行われていたものが、室町時代に一般庶民にも伝わったものである。
「金もとゆひ」金紙で作った金色の髻(もとどり)を結ぶための元結(もとゆい)。
「末ひろ」祝儀用に持たせる扇子。「広がり栄える」の意を掛けたもの。
「源氏・花の露」不詳。高級鬢付け油の商品名でもあるか?
「赤がしら」手入れを全くしないために、汚れて日焼けし、赤茶けてしまった頭髪を言うのであろう。
「戀ざと」「戀里」。
「ちかづきでないが。」「儂(わし)はあんたを知らんけど?」。本篇は後の「よい分限者(ぶげんしや)」といい、「是は、醫者の藥ではない。たゞ、もろふた藥じや。」という台詞といい、この江戸中後期当時の口語が、かなり現代語に近いことが判る。
「ひらいざうり」「拾ひ草履」ではあるまいか。草履は消耗品で、使い古しは、道端に捨てた。その内で、まだ使えるものを拾って履くことは、ごく普通の中下級の町人の風俗では当たり前のことであった。
「小杉のべ紙」「小杉延紙」。「延紙」は「半紙」に対する「全紙」の意で、小形の杉原紙(すぎはらがみ:播磨国杉原谷(現在の兵庫県多可郡多可町)原産の和紙。原料は楮(こうぞ)で、奉書紙よりも薄く柔らかい。鎌倉以降、慶弔・目録・版画などに用いられ、贈答品としても重宝された。近世には各地から産出するようになった。「すいはら」とも呼ぶ)のことを指す。別名を「小杉原」「小杉」、略して「延(のべ)」とも称し、江戸時代に懐中紙として鼻紙などによく用いられた。大和吉野産を最良とし、越前・出雲・阿波などの諸国で産出された。
「不受不施」狭義のそれは固有名詞で日蓮宗の一派の呼称で、文禄四 (一五九五) 年に日奥が開いた。所謂、もともとがファンダメンタルな日蓮宗の中でも突出して排撃的諸派の一つで、「法華経」の信者ではない者からは布施を受けず、布施も与えないという立場から、この名を称した。仏教の中では特異的に江戸幕府からしばしば迫害を受け、結果的に邪宗門の一宗とされて禁教・弾圧されたが、門徒はひそかに内信者として宗義を守ってきた。公許を得たのは実に明治九(一八七八)年のことであった。祖山妙覚寺は岡山県岡山市の御津にある。ここはそれに引っ掛けた謂いで、公私問わず、実利としての金銭上の利益を貰えない相手とは関係を持たず、相応の見返りを齎さない相手とは一切の能動的アクションを起こさないということ。
「かゞぎぬ」底本は「かゝぎぬ」。「加賀絹」。加賀地方産の絹織物。文明年間(一四六九年~一四八七年)に起こり、前田利常の奨励で発展した。光沢のある地質は染色もよく、裏地に用いて最高とされ、江戸時代を通じて藩の積極的な政策によって羽二重・紬などを織った。
「日野紬(〔ひ〕のつむぎ)」滋賀県日野地方(蒲生郡日野町附近。グーグル・マップ・データ)で産した紬。
「張(はり)ぬき」張り子。
「やき鹽をつめ、朝夕、是をなめて人めを能(よく)し」意味不明。塩を嘗めると、目が覚め、苦み走った感じになり、人が寄りつかないといったことか。識者の御教授を乞う。
「あらめ」褐藻綱コンブ目コンブ科アラメ Eisenia bicyclis 。「海帶」「滑海藻」「荒布」と書き、古代から食用に供された。
「和布(わかめ)」褐藻綱コンブ目チガイソ科ワカメ Undaria pinnatifida を代表種とする類似した海草グループ。同前。
「ちぎ」「扛秤・杠秤」(ちぎり・ちきり)のことか。竿秤 (さおばかり) の一種で、竿の上の紐に棒を通し、二人で担って量るもの。一貫目(三・七五キログラム)以上の重いものを量る。保存の利く塩蔵或いは乾燥させた安価な食用海藻をごっそり多量に買い、さればこそしっかり値切って買ったのであろう。
「しゆんどり」不詳。藁束の中に漬けて、水分を抜き、長期保存するということか? 識者の御教授を乞う。堅い豆腐を荒繩で縛って運ぶのは、実際に岐阜の山中の妻の父の実家で見たことがあるが。
「干がます」乾しカマス。スズキ目サバ亜目カマス科カマス属 Sphyraena のカマス類。肉は白身で淡白だが、水っぽく柔らかいため、殆んどが干物などに加工される。私は夕べも食「尾頭(をかしら)の長きを合〔あはせ〕て取〔とり〕」これも干物。体幹長の長いものだけを選び抜いて、それをまとめ買いしたのであろう。
「居風呂(すいふろ)」桶 (おけ) の下にかまどを取りつけ、浴槽の水を沸かして入る風呂。茶の湯の道具である「水風炉 (すいふろ) 」に構造が似ることからの当て字呼称。
「葉たばこ賣(うり)を呼(よび)、二、三枚、くるくると卷(まき)、じよきじよきと、割呑(わりのみ)て」流しの見知らぬ煙草売りを選んでは、呼び入れ、試し喫(の)みをしているのである。そして、毎回、買わないのである。而して、切り刻んでしまったそれは、売り物にならないから、置いて行く。それを、まんまと繰り返して、溜め込んでは、金を払わずに煙草を吸っているのである。
「銀高五千八百メ匁」「メ匁」の「メ」は「〆」で、「貫」の単位か。読みは判らぬが、江戸期の資料にはよく見かける。しかし江戸中期で銀一貫は百二十五万円相当らしいから、これではとんでもない紀伊国屋になってしまう。識者の御教授を乞う。
「安心散」不詳。民間向けの商標名であろう。
「丁子(てうじ)」バラ亜綱フトモモ目フトモモ科フトモモ属チョウジノキ Syzygium aromaticum 、則ち、クローブ(Clove)。蕾を生薬ともする。
「分限しはん」揶揄した「分限」者の「師範」の謂いであろう。]
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