南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(15:鶺鴒)
鶺鴒、伴信友の比言婆衣卷十八に、黃鶺鴒[やぶちゃん注:底本は『黃鶺諾』であるが、原本(後掲)と初出で訂した。]を「ニハクナギ」、背黑き者を「石クナギ」と云ふ、男女交接の時、男の行ひを「クナグ」と唱ふる也。と云り。諾册[やぶちゃん注:「き・み」。伊耶那岐と伊耶那美のこと。]の二尊に男女の大道を敎へ奉れる鳥なれば、和泉式部も、「逢ふ事を稻負せ鳥の敎え[やぶちゃん注:ママ。]ずば、人を戀路に惑はましやは」と詠じ、川柳にも、「鶺鴒も一度敎へて呆れ果て」とよめり、古え西亞細亞の「アスタルテ」神の秘密儀は、神林中にて行はれしが、其林に信徒より献納せる鶺鴒鳴き遊べり、術者其肉を媚藥に作れり(Dufour, ‘Histoire de la Prostitution,’ tom. i. P. 40, Bruxelles, 1851.)と云ふに、吾邦に古來此鳥を尊崇せしことを聞かぬは、恩に負く[やぶちゃん注:「そむく」。]の甚しき者なり、支那には諸本草之を載せず、大淸一統志に其名有る產地を擧たり、媚藥に用ひたるにや有む、但し予が現住する紀州田邊では、小兒此鳥を見る每に、「ミコテウ尾を振れ杓[やぶちゃん注:「ひしやく」。]に一盃金やらう」と呼ぶ、子細を詳にせざれども、古え此鳥を見る時祝して、吾にも頓て[やぶちゃん注:「やがて」。]汝の如くクナガしめよと望むを常習とせる遺風にやと思はる、伴氏は山城邊の兒童、鶺鴒を尾びこ鳥と云りと述たり[やぶちゃん注:句読点無しはママ。]尾をピコピコ搖かすの義か、熊楠謹んで案ずるに、交合を「マク」と云ふ詞、古今著聞集に見え、南留別志に「ミトノマクハヒ」と云ふ詞、ミとはメヲト也、マクハヒ今も田舍にてメグスと云ふ也」といへれば、此等より「ミコテウ」の名出來れるか、支那の厩神像鶺鴒を踏めるも(類聚名物考卷一四四)此鳥の動作、乘馬に似たるに基くならん。
[やぶちゃん注:「クナガ」は底本では、傍点「○」、以下の四つの太字は傍点「●」である。
「鶺鴒」「せきれい」。尾を上下に振ることでお馴染みの私の好きな鳥、スズメ目スズメ亜目セキレイ科セキレイ属 Motacilla・イワミセキレイ属 Dendronanthus に属するセキレイ類。私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鶺鴒(せきれひ/にはくなぶり) (セキレイ)」を参照されたいが、かなり知られている、「日本書紀」の巻第一の「神代上」の第四段の一書(第五)に、初めて伊耶那岐命と伊耶那美命が交合(「遘合(みとのまぐはひ)」)をするシーンについて、
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一書曰。陰神、先唱曰。美哉。善少男。時以陰神先言故、爲不祥。更復改巡。則陽神先唱曰。美哉。善少女。遂將合交、而不知其術。時有鶺鴒飛來搖其首尾。二神見而學之。卽得交道。
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一書に曰はく、「陰神、先づ唱へて曰(のたま)はく、『美哉(あなにえや)、善男(えをとこ)を』。時に陰神、言(こと)を先(さいた)つるを以つての故(ゆゑ)に、『祥(さが)なし』と爲(な)し、更に復た、改め巡る。則ち、陽神、先づ唱へて曰く、『美哉、善少女(をとめ)を』。遂に合交(みあは)せむと將(す)るに、而かも、其の術(みち)を知らず。時に、鶺鴒(にわくなぶり)有り、飛び來つて其の首(かしら)・尾(を)を搖(うご)かす。二神(ふたはしらのかみ)、見そなはして、之れに學(なら)ひて、卽ち、交(とつぎ)の道を得。
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とあり(訓読は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和八(一九三三)年岩波書店刊黒板勝美編「訓讀 日本書紀 上卷」を参考にした)、二柱はコイツスの仕方をセキレイが首と尾を振る動作から、それを学んだと伝える(「古事記」にはない)。但し、言っておくと、それは長い尾を上下に振る習性(但し、イワミセキレイ属イワミセキレイ Dendronanthus indicus は左右に振る)をミミクリーとして喩えたに過ぎず、実際のセイレイの交尾行動とは関係がないので注意が必要である。
「伴信友の比言婆衣卷十八」伴信友(安永二(一七七三)年~弘化三(一八四六)年)は国学者で。「比言婆衣」(ひこばえ)は弘化四(一八四七)年から刊行を始めた、全二十巻の国史・言語・故事の考証随筆。同書の巻十八の巻頭にある「鶺鴒考」の一節。国立国会図書館デジタルコレクションの画像ではここからで、引用はまず、次のコマの左ページ下段後ろから六行目以降で(句読点を打ち、推定読みを添えた)、
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むねと脊黑の、もはら、川邊に居り、黃鶺鴒の庭にもより來るものなるをもて按(かんが)へば、黃鶺鴒をニハクナギ、背黑を石クナギとぞ、別ち云ふめる。
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で、後の部分は、最初の異名羅列の中の下段一~二行目の『古事記朝倉宮の卷に載たる大御歌に麻那婆志良』とあるのを解して、次のページの上段八行目以降に、『麻那婆志良は、學問(マナビバシ)にて伊邪那岐命の交合の術を學給ふ問(ハシ)となりたる由緣なり』とあるのを繋げたものである。因みに、色からは単純には「ニハクナギ」はセキレイ属キセキレイ Motacilla cinerea に、「石クナギ」はセグロセキレイ Motacilla grandis に比定同定できそうだが、単なる比較的な謂いであるから、他種も含む可能性が全くないとは言えない。なお、ウィキの「セキレイ」の「文化」には、以上の神話を語り、『婚礼の調度に鶺鴒台』(せきれいだい:婚礼の際に供える床飾りの一つ。島形または州浜(すはま)形で、足は雲形。台上には岩を根固めに置き、鶺鴒の一つがいを飾る)『があるのはそれに由来する』とし、『日本各地にはセキレイにまつわる伝承がある。静岡県三島、広島県などではセキレイを神の鳥と称し、みだりに捕らえないのは神使以上に神に交道を教えた万物の師の意味があるという。熊本県南関では子供らがムギわらでセキレイの形を製し、「したたきたろじゃ、今日は石ゃないぞ、あした来て叩け」と囃しながら、脚を持って頭尾を上下に動かして遊んだ(動植物方言及民俗誌)。生息地のひとつ岐阜県高山では、セキレイをいじめると、「親死ね、子死ね、鍋も茶碗も破れて終え」と鳴いて呪うという。伊勢神宮の神衣大和錦にはセキレイの模様があるという(和訓栞)。台湾のアミ族の神話では、日本海の竹島ボトルに男女』二『神が天下り、ホワック(セキレイ)が尾を振るのを見て交合の道を知った(生蕃伝説集)』とし、『中国の「詩経」には「脊令」とあるが、脊(身体の背部)を揺るがす意味があるかはつまびらかにしないという』とある。また、セキレイには他に、『トツギドリ、トツギオシエドリ、トツギマナビドリ、ツツナワセドリ、ツツマナバシラ、ミチオシエドリ、チチン、セキリ』『などの別名があ』り、『その別名は、英語の wagtail と同じく』、『尻を振り動かす意が多く、ついで尾で物を叩く意、動作の形容、出現の時期場所に関するもの、飛翔の時に発するチチンチチンという鳴声に関するものなどがある』とある。
『和泉式部も、「逢ふ事を稻負せ鳥の敎へずば、人を戀路に惑はましやは」と詠じ』この歌、正規の和泉式部の一首ではない。平安末期の歌学書である藤原清輔「奥儀抄」の「下ノ上」に古歌として、
逢事をいなおほせどりのをしへずば
人をこひぢにまどはましやは
と出る。
『川柳にも、「鶺鴒も一度敎へて呆れ果て」』個人サイト「岩田ヶ丘から駄句冗句」の「江戸川柳」の「4 神話」によれば、本句の他に、
鶺鴒は人より先に色氣づき
鶺鴒は極祕を神に傳授なり
か樣遊ばせと鶺鴒びくつかせ
ヲホホとアハハ鶺鴒の尾に見とれ
ああ成程と伊弉諾の尊乘り
鶺鴒の敎へた外を色々に
鶺鴒は茶臼とまでは敎へねど
などがあるらしい。また、他のネット記載では、都都逸にも、
神に敎へた鶺鴒よりも
おしの番ひが羨まし
というのがあるそうである(私は川柳も都都逸も守備範囲でないので出典は不明である)。
『「アスタルテ」神』ラテン文字表記で「Astartē」で、平凡社「百科事典マイペディア」によれば、古代セム人の豊穣女神。バビロニアでは「イシュタル」、「旧約聖書」では「アシュトレト」乃至「アシュタロト」と呼び、古代中東で最も広く崇拝された大母神とある。大地の生産力の象徴で、愛と戦いの女神であり、金星がそれを支配する星とする。ギリシア神話のアルテミスやアフロディテなどに対応する、とある。
「Dufour, ‘Histoire de la Prostitution,’ tom. i. P. 40, Bruxelles, 1851.」フランスの作家で複数のペンネームを用いたポール・ラクロワ(Paul Lacroix 一八〇六年~一八八四年)が、ピエール・デユフォー(Pierre Dufour)名義で書いた、「Histoire de la prostitution chez tous les peuples du monde depuis l’antiquité la plus reculée jusqu’à nos jours」(最古の古代から現代に至る全世界の民族に於ける売春の歴史)。原本を見つけたが、どうも見当たらない。
「大淸一統志に其名有る產地を擧たり、媚藥に用ひたるにや有む」清代の全支配領域について記した総合地誌。清建国(一六四四年)から約四十年後の一六八六年に着手され、一八四二年に完成した。「中國哲學書電子化計劃」で調べたところ、巻二百六十六の「安陸府」の一番最後に、「土產」として、『鶺鴒【府志當陽縣出】』と出る。
「ミコテウ」不詳。可愛らしい小鳥で「美小鳥」としたくなるが、これは案外、神話繋がりで、神楽舞に於ける「巫女鳥」なのかも知れない。但し、熊楠の結論たるコイツスの意の変形とする(ほのめかされた一種の性教育)のも私は決して退けるものではない。
「伴氏は山城邊の兒童、鶺鴒を尾びこ鳥と云りと述たり」先の「比言婆衣卷」の続きのここ(右ページ上段六行目)。
『交合を「マク」と云ふ詞、古今著聞集に見え』これは私が調べたところでは、二話で認められる。一つは「卷第十六 興言利口」の「坊門院の蒔繪師某(なにがし)、大假名(おほがな)にて返事の事」(五二七番)で、今一つは同じ巻の「聖覺法印の力者法師築地つきを罵る事」(五四三番)である。まず前者から(基礎データは岩波古典文学大系版を使用したが、その他の所持する版本も参考にした)。
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坊門院に、年比(としごろ)めしつかふ蒔繪師(まきゑし)ありけり。仰せらるべき事ありて、
「きと、まいれ。」
と仰られたりければ、あさましき大假名にて御返事を申ける、
「たゞいまこもちをまきかけて候へばまきはて候てまゐり候べし」
と、かきたりけり。此ふみの詞は、あしざまによまれたり。
「こは何事の申やうぞ。」
とて、臺所のさたしける女房、その文(ふみ)見(み)さして[やぶちゃん注:「見止さして」。見るのを途中で止めて。]、なげたりけり。これによりて、蒔繪師がもとへかさねて、
「いかに、かやうなる狼藉の言葉をば申すぞ。たゞいまの程に。たしかに、參れ。」
と仰られければ、蒔繪師、あはてふためきて、まいりたりけるに、
「此御返事のやう、いかなる事ぞ。」
とて、見せられければ、
「すべて、申しすごしたる事、候はず。『只今、御物(ごもち)を蒔(ま)きかけて候へば、蒔きはて候ひて參り候べし』と書きて候へ。」
と申ければ、げにも、さにて、ありけり。假名は「よみなし」といふ事、まことにをかしき事なり。
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「たゞいまこもちをまきかけて候へばまきはて候てまゐり候べし」「只今、御物(ごもち)[やぶちゃん注:御道具。]を蒔きかけている最中にてありますによって、それを蒔き終えてから、参上致します。」の意であるが、すべて大きな「かな文字」で書いたために、その読みとり方(「よみなし」)を、女房が誤って、「只今、子持ち女を枕(ま)きかけております最中で御座いますれば、その交合(まぐわい)を終えましてから、やおら、参りましょう。」というトンデモない意味にとってしまったのである。次に五四三番。
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持明院に「なつめだう」といふ堂あり。淡路入道長蓮が堂なり。築地(ついぢ)のくづれたりけるを築(つ)かせけるに、築くものども、をのがどち、物語すとて、聖覺法印の説經の事などをかたりけり。
其折しも、聖覺、輿(こし)にかゝれて、其前を、とをりけるに、これらが物語に、「聖覺の」といふを、ともなる力者(りきしや)法師、きゝとがめて、
「おやまきの聖覺や、はゝまきの聖覺や。」
など、ねめつゝ見かへり、にらみけり。
築地つきをのるにてはあれども、當座には、主(しゆう)をのるとぞ、聞えける。
「かゝる不祥こそありしか。」
と、かの法印、人にかたりて、わらひけり。
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「聖覺」(しょうかく/せいかく 仁安二(一一六七)年~文暦二(一二三五)年)藤原信西の孫で僧・歌人。安居院(あぐい)法印。父の業を継いで、説経・唱導の名人として後鳥羽院の信任を得、安居院一流の基礎を築いた。天台僧である、後に法然の門に入り、「唯信抄」を著わしたことでも知られる。法然の弟子の内で、親鸞が特異的に尊敬した一人であり、親鸞は「唯信抄」を人々に勧め、それをもとに「唯信抄文意」を作っているほどである。「力者法師」寺院に仕え、僧体を成しながらも、輿舁(こしか)きや力仕事に従事した筋肉系の荒法師。その彼が、下賤の者が尊き法主である主人の名を呼び捨てして話しているのをちら聴きして、てっきり悪口を言っているものと勘違いし、彼らを威圧するために、如何にも下賤の者に相応しい言い方で「おやまきの聖覺や、はゝまきの聖覺や。」、則ち、「本物の聖覚さまではない、親とまぐわったどこぞの犬の聖覚かッツ?! それとも、母親とつるみ合ったどこぞの畜生の聖覚かッツ?!」と築地築(ついじず)きの職人たちに嚇しをかけたのであった。それを輿の中でわけも判らず、耳にした聖覚が、突如、自分のことを、その法師に罵られたかのように感じて、「こんな当惑することに遭(お)うたこともありましたのう」と回想して述べたというのである。
『南留別志に「ミトノマクハヒ」と云ふ詞、ミとはメヲト也、マクハヒ今も田舍にてメグスと云ふ也」』「南留別志」荻生徂徠が書いた考証随筆。宝暦一二(一七六二)年刊。元文元(一七三六)年「可成談」という書名で刊行されたが、遺漏の多い偽版であったため、改名した校刊本が出版された。題名は各条末に推量表現「なるべし」を用いていることによる。四百余の事物の名称について、語源・転訛・漢字の訓などを記したもの。吉川弘文館随筆大成版の活字本もあるが、ここでは「人文学オープンデータ共同利用センター」の「日本古典籍ヴューア」にある刊本(宝暦一二(一七六二)年版)の当該部を視認したものを示す。頭の「一」は外した。句読点・記号を添えた。
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「みとのまくはい」といふ詞、「みと」は「めをと」なり。夫妻といふ事なり。「まくはい」といふ詞、今も田舎にて「めぐす」といふなり。
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「支那の厩神像鶺鴒を踏める」「類聚名物考卷一四四」。「類聚名物考」は江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で同刊本を視認したところ、ここに発見した(巻百四十四の「武備部十一」の「馬」の内の「猿を馬の守りとする事」の文中である。説明文中の字空け部その他必要と判断した箇所は句点或いは読点に代えた。
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〇猿を馬の守りとする事 〇〔萬物故事要决五〕猿を馬の守りとて、馬屋に掛るハ、如何なる猿をハ、山父と稱し、馬をバ山子と云へハ、父子の義を以て、守りとする歟。但馬櫪(レキ)神とて、厩の神在す。その形像を圖するにハ、兩足の下に、猿と鶺鴒とを踏せて、二手に劍を持しめたり。宋朝にハ、是を馬の守りとそ。化神の踏る物なれハ、猿ばかりをも用るにや、櫪の字ハ、ふみいた、なり。然るを、馬寮式云、以二櫪艘一、宛二馬二疋一、と云々、うまぶねとも讀なり。常にハ槽字を、うまぶね、と、よむ。櫪ハ二ツに通するには。
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「萬物故事要决」は享保一二(一七二七)年刊の類書。「新日本古典籍総合データベース」のここで当該箇所を視認出来る。「宋朝にハ、是を馬の守りとそ」(「そ」は「ぞ」)とあるから、「支那の厩神像」と熊楠が言うのは問題ない。この図像は、私の『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(27) 「馬櫪神ト馬步神」(1)』で解説され、私がネットで拾った「北斎漫画」の「馬櫪尊神(ばれきそんじん)」の画像を掲げてある。続く、同じ『「河童駒引」(28) 「馬櫪神ト馬步神」(2)』及び、少し後の『山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(32) 「守札ヲ配ル職業」(2)』も参照されたい。後者では、たまたま、「猿と河童」について、熊楠が情報提供しており、名が出る。]
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