南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(23:鮫)
○鮫(サメ又フカ)、東印度諸島及び阿弗利加で鮫を甚く[やぶちゃん注:「いたく」。]尊崇すること、F. Schultze, ‘Fetichism,’trans, New York, 1885, p. 79 に出で、錫蘭[やぶちゃん注:「セイロン」。]、トレス峽等には、漁に臨んで種々に鮫を厭勝[やぶちゃん注:「えんしやう」。咒(まじない)。]して其害を免れんと力む[やぶちゃん注:「つとむ」。]Tennent, op. cit., p. 398, Frobenius, ‘The Childhood of Man’, London. 1909, p. 242 タヒチ島の「ダツア、マツト」は、海の大神にて、鮫を使ふ、但し靑鮫に限り、此鮫祠官の令に隨て進退し、舟覆へる時、他人を食ふも祠官を食はず、之を乘せて廿哩[やぶちゃん注:二十マイル。陸距離のマイルでは約三十二キロメートル、海里では三十七キロメートル。]も游ぐことあり、この神の信者を食はず、此鮫を舟行の神とし、社を建つ、古傳に「タヒチ」島もとは鮫たりしと云事、吾邦蜻蜓[やぶちゃん注:「せいてい」。狭義にはヤンマの漢名。ここは「トンボ」の意でよかろう。]の形有りと言ふに似たり、布哇[やぶちゃん注:「ハワイ」。]のモロカイ島には、古え海角每に鮫を神とせる祠立てり、諸魚各々定期有て、年々此島に到る、其種每に初物を取りて鮫神に献ぜり、思ふに古え定れる季節に、鮫此等の魚を追ひ到りしを見て、神魚人を利すと心得、之を神とせるならんと、「エリス」言へり(Ellis, ‘Polynesian Researches,’ 1831. i. p. 166., Seqq., iv. p.90., Waitz, l.c., s. 319)
[やぶちゃん注:以下、底本ではポイント落ちで、全体が一字下げ。前後を一行空けた。]
魚人を乘せて游ぐ事、支那に琴高鯉に乘り、陳侯の子元自ら水に投ぜしを魚負て救ひし抔の例有り(淵鑑類函卷四四二)泰西にも希臘の美少年神「エロス」海豚に乘る事有り(Gubernatis, l. c. p. 340)ハイチ島發見の時人を乘せて湖を渡す「マナタス」獸有りし抔似たる事也(Ramusio, tom. iii. fol. 33)
本邦には伊勢國磯部大明神は、今も船夫漁師に重く崇めらる、鮫を使者とし、厚く信ずる者、海に溺れんとする時、鮫來り負ふて陸に達すと云ふ、參詣の徒神木の樟の皮を申し受け所持し鮫船を襲ふ時之を投ずれば忽ち去るとぞ、「タヒチ」島の例と均しく、神使の鮫は長さ四五間、頭細く、體に斑紋有り、「エビス」と名くる種に限る、每年祭禮の日、この鮫五七頭社に近き海濱に游ぎ來る、もし前年中人を害せし鮫ある時は之を陸に追ひ上げ、數時間之を苦しめて罰す、此鮫海上に現るゝ時、漁夫之を祭り祝ふ、「エビス付キ」と名く、每日一定の海路を游ぎ來るに、無數の堅魚之に隨行するを捕え[やぶちゃん注:ママ。]、利を得ること莫大なり、信心厚き漁夫の船下に潜み游ぐ、信薄き輩の船來れば忽ち去る、之に漁を祈る者、五日七日と日數を限りて漁獲を求む、日限畢る迄漁し續くる時は破船す、其船底を見るに、煎餅の如く薄く削り成せり、是れ此鮫の背の麁皮[やぶちゃん注:「そひ」。粗い鮫皮。]を以て磨り[やぶちゃん注:「こすり」。]去れる也と、古老の漁人の話に、海濱に夷子[やぶちゃん注:「えびす」。]の祠多きは實に此「エビス」鮫を齋き祀れる也と。
[やぶちゃん注:以下、同前。]
古書に鮫を神とせし事見當らず、但し鱷[やぶちゃん注:「わに」。]を神とせし事多し、十餘年前或人「日本」新聞に寄書して、吾邦の「ワニ」は「ワニザメ」と稱する一種の鮫なり、其形多少漢文鱷の記載に似たるを以て杜撰に之を充てたるなりと有し、眞に卓見也、大和本草、倭漢三才圖會等鱷を記せる、何れも海中の鮫類と見ゆ、今日パレスチナの海邊に鱷有り、羊を害すと云ふは、實は鮫ならんてう說參考すべし。(Pierott,‘Customs and Traditions of Palestine’, 1864, P. 39.)又實際鱷なき韓國にて、筑紫の商人、虎が海に入て鱷を捕ふるを見し話有り(宇冶拾遺三九章)十七世紀に、韓國に漂着して十三年留居の蘭人の記にも、其水に鱷多き由筆せるは、孰れも鮫の事と思はる、(Churchill, op. cit. vol. vi, 1752, P. 735)。
神代卷に、海神一尋の鱷に、彥火々出見尊を送り還さしむる事あり、又豐玉姬、產場を夫神に覗はれしを憤り、化して八尋の大鱷となり、海を涉りて去ると云り、鮫を神靈有りとする由緖古きを見るに足れり。
[やぶちゃん注:以下、同前。]
上に言る、鮫が罪ある鮫を罰する話も、古く有しにや、懷橘談に、出雲國安來の北海にて、天武帝二年七月、一女鱷に脛を食はる、其父哀みて[やぶちゃん注:「かなしみて」。]神祇に祈りしに、須臾にして百餘の鱷、一の鱷を圍繞し來る、父之を突殺すに諸鱷去る、殺せし鱷を剖くに女の脛出しと見ゆ、眞葛女の磯通太比に、奧州の海士「ワニザメ」に足を食去られ死せしを、十三年目に、其子年頃飼し犬を殺し、其肉を餌として鱷を捉へ、復讐せりといふ譚は之より出たるならむ。
[やぶちゃん注:欧文書誌の一部に平凡社「選集」で記号を補足した。
「鮫(サメ又フカ)」現行では、「サメ(鮫)」とは、軟骨魚綱板鰓亜綱 Elasmobranchii のうち、一般にはエイ上目 Batoidea に含まれるエイ類を除くサメ類の内、中・小型のものを指す総称とされるが、大型の種群や個体との厳密な境界はなく、「鱶(フカ)」と混淆して用いられているのが現状である。形態学的に概ね真正の「サメ」を規定しようとするなら、一般的には――鰓裂が体の側面に開く種群の総称――としてもよかろう(鰓裂が下面に開くエイと区別される。但し、中間型の種がいるので絶対的な属性とは言えないので注意が必要である)。一方の「フカ(鱶)」を補足すると、サメ類の内、大型のものの総称である。但し、中小型でも「ふか」と呼ぶケースもあるので、個体の大きさでの区別は無効に近い。但し、超巨大なものを「フカ」と呼ぶのには違和感はないので、そうした限定用法として流通名とは別に「フカ」は生き残るであろうと思われる。ただ、寧ろ、広義の「サメ(鮫)」の関西以西での呼び名が「ふか」であるとした方が判りがいいし、誤解の問題性(サメ種の他にフカ種がいるといった誤認)も少ないと思う(山陰では別に「わに」という呼称も現在、普通に生きている)。さても、ウィキの「サメ」によれば、二〇一六年三月末時点に於いては、世界に九目三十四科百五属五百九種が存在し、日本近海には九目三十二科六十四属百三十種が確認されているとある。さて次に、「サメ」の語源であるが、一般には「狭目」「狭眼」「さめ」の意とする説が幅を利かしているようだが、サメ類の目は、その巨体に比べれば小さいとは言えるものの、一般的な種群は、有意に「狭い眼」或いは「細い眼」ではない。されば私は寧ろ、鮫肌、一部の鮫の皮膚表面の細かなブツブツにこそ、その語源があるのではないかと考えている。則ち、「沙」(シャ:一億分の一の単位)で、「非常に小さい粒」を意味する「沙」(シャ・サ)の「粒」(「目」)で「沙目(さめ)」であろうと思うのである。一方の「フカ」は一見、頷かれそうな説が複数ある。一つは「深(ふか)」説で、大型のサメ類の多くは沖合の深いところに棲息することからで、これはまあ、そうかもと思わせる。第二に、お馴染みの漢字「鱶」の分解説で、魚類の多くが卵生である中、サメ類には卵生・卵胎生(近年は胎生と呼ぶことが多い。ヒトも結局は卵胎生と言えば言い得る)がおり、卵胎生の方が多い。かくせば、「子」を「養」う「魚」の意というわけだが、どうも如何にもそれらしいこの謂いが、却って嘘臭い感じを与える。そもそも「鱶」の正字は「鯗」であり、漢字としてのそれは「魚の干物」を意味し、フカの意味はない。これを「ふか」と訓ずるのは国字としてである。鮫が卵胎生であることを一般庶民が知るようになるのは歴史的にはごく新しいはずで、にも拘らず、そうした原義でこの字が当てられるというのは、私は眉唾であると考えるからである。別説に「斑魚(ふか)」説があり、「ふ(斑)」体表のザラザラの細かな斑紋で、それに「魚」類を示す接尾辞である「か」)が付いたというのだ。まことしやかに例えばカジカなどを挙げるのだが、「カ」を呼称辞にしている魚はそんなにいはしない。接尾辞としての「か」も魚の意味とは小学館「日本国語大辞典」にも書いてない。これも何となく長屋の御隠居にまんまと言いくるめられた熊八みたような気がしてくるのだ。
「F. Schultze, ‘Fetichism,’trans, New York, 1885, p. 79」ドイツの哲学者フリッツ・シュッエ(Fritz Schultze 一八四六年~一九〇八年)の書いた「呪物崇拝」の一節。「Internet archive」で原本が見られる。ここ(右ページ左の中央)。直ぐ後にはミクロネシアでのウナギ崇拝の記事も続いている。
「トレス峽」オーストラリアのヨーク岬とパプアニューギニアとの間にある、現在、オーストラリア領であるトレス海峡諸島(Torres Strait Islands)。二百七十四の小島からなるサンゴ礁の諸島で、南北百五十、東西二百~三百キロメートルのトレス海峡に位置している。数百の無人島からなるが、その内の十二の島に人が住み、「アイランダー」と呼ばれるメラネシア系の先住民(トレス海峡諸島民)が暮らしている。漁業が盛んで、真珠養殖がされているほか、美しいサンゴ礁の島々はリゾート地ともなっており、海中には絶滅危惧種であるジュゴンやアオウミガメ・タイマイ・ヒラタウミガメなどが棲息している(当該ウィキに拠った)。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「Tennent, op. cit., p. 398」前に「野槌」に出たイギリスの植民地管理者で政治家であったジェームズ・エマーソン・テナント(James Emerson Tennent 一八〇四年~一八六九年)のイギリスの植民地管理者で政治家であったジェームズ・エマーソン・テナント(James Emerson Tennent 一八〇四年~一八六九年)のセイロンの自然史誌。但し、「398」には鮫の記載はない。そこで調べてみたところ、こうした内容は「378」から「379」にかけてに書かれているのを見出せた。ここの章の標題は「SHARK-CHARMER」で「鮫を呪(まじな)う者」或いは「鮫使い」といった意味である。
「Frobenius, ‘The Childhood of Man’, London. 1909, p. 242」ドイツの在野の民族学者・考古学者で、ドイツ民族学の要人であったレオ・ヴィクトル・フロベニウス(Leo Viktor Frobenius 一八七三年~一九三八年)の英訳本「人類の幼年期」。「Internet archive」のこちらで原本の当該箇所が見られ、そこの右ページ「242」中央にある図のキャプションに、
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Fig. 227. Tortoise-shell mask from Hama, Torres Straits (British Museum). Seen from the side, as here, represents a kind of shark's head. Above (Fig. 228) a face. Is probably worn at the dances in the fishing season, when, no doubt, efforts are made to propitiate the sharks, who are so dangerous to the fisher-folk.
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とあり、これは、「トレス海峡のハマから齎されたカメの甲羅で出来たマスク(大英博物館)。横から見ると、ここにあるように、一種のサメの頭を表わしている。顔の上部見たもの(図228)[やぶちゃん注:ここの左ページの図。]。恐らくは、漁民にとって非常に危険な存在であるサメを、多分、何としても宥(なだ)めんがために、漁期に行われるダンスに於いて着用されるものである。
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といった意味のようである。
『タヒチ島の「ダツア、マツト」』不詳。ただ、我々が使っている入れ墨の意の英語「タトゥー」(tattoo)の起源は、タヒチの島々に伝わる「タタウ」であり(一七六九年に出版されたジェームズ・クックのタヒチへの航海に関する本で、「現地人が入れ墨を指してタタウ」(tatau)と呼んでいたことが記載されており、それがタトゥーとなったものである。しかも、その入れ墨はタヒチ人の個人史を物語っており、身体に描かれる一つ一つの線を通じて、過去の「マオリ」(ポリネシア人の一族。原義は「普通の人」)が現在と将来の「マナ」に繋がるとされ、「タタウ」の神は「トフ」であり、海の総ての魚に現在の色と模様を与えたとされており、この「トフ」の存在が、「タタウ」それぞれに意味と生命を与え、天国と地上を結びつけていると、「タヒチ観光局」公式サイトの日本語版には書かれてある。この辺りとこの「ダツア」や「マツト」という発音には親和性を私は感じるし、「海の大神にて、鮫を使ふ」『古傳に「タヒチ」島もとは鮫たりし』と熊楠が言う時、この神「トフ」や、その時空間をドライヴしてきた神聖な「タタウ」とは無関係とは思われないからである。
「靑鮫」和名種としては、軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目ネズミザメ科アオザメ属アオザメ Isurus oxyrinchus がいる。最大全長四メートル、体重五百五キログラムに達し、最も高速で時速三十五キロメートル以上の速さで泳ぐとされる。人を襲った記録は少ない。英名は「mako」で、これはマオリ語の「サメ」の意である(同ウィキに拠る)。
「吾邦蜻蜓の形ありと言ふ」日本列島の古名「あきつしま」のこと。
「モロカイ島」ここ。
「海角」「かいかく」。岬。
「Ellis, ‘Polynesian Researches,’ 1831. i. p. 166., Seqq., iv. P.90.」ウィリアム・エリス(William Ellis 一七九四年~一八七二年)イギリス人の宣教師で作家。彼はハワイ諸島やマダガスカル等を旅し、その体験を記したかなりの量の著作を残している「Internet archive」の第一巻のここから以下と、第四巻のここ。
「Waitz」「鰻」に出たドイツの心理学者・人類学者であったテオドール・ワイツ(Theodor Waitz 一八二一年~一八六四年)と、ドイツの人類学者で地球物理学者でもあったゲオルグ・コーネリアス・カール・ゲランド(Georg Cornelius Karl Gerland 一八三三年~一九一九年)の共著になる、「原始人の人類学 第六部」か。
「魚人を乘せて游ぐ事、支那に琴高鯉に乘り、陳侯の子元自ら水に投ぜしを魚負て救ひし抔の例有り(淵鑑類函卷四四二)」「淵鑑類函」は既出既注。清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。同巻「魚二」に、
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陳侯、令元自殺。元、投遼水。魚、負之以出。元曰、「我罪人也。故求死耳。」。魚、乃去。
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鯉石【「廣輿志」、鯉石、在巴山。世傳、琴髙先生於此得道、所乘之鯉化而爲石。】。
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とある。
『希臘の美少年神「エロス」海豚に乘る事有り(Gubernatis, l. c. p. 340)』「イルカに乗った少年神」となったメリケルテースなら知っているが。オルコメノスの王アタマースとイーノーの子であったが、死後にパライモーンと呼ばれる海神に生まれ変わったとされ、パライモーンはイルカに乗った少年神の姿で表わされ、海難者を救い、港を司る神として信仰された。しかし、前に出たイタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の著「Gubernatis, ‘Zoological Mythology’, 1872, vo1. ii」を見ると確かにそう書いてある。「Internet archive」のこちらの左ページ本文の下から五行目以下に記されてある。
『ハイチ島發見の時人を乘せて湖を渡す「マナタス」獸有りし』「(Ramusio, tom. iii.fol. 33)』引用書はベネチア共和国の官吏(元老院書記官など)を務めた人文主義者で歴史家・地理学者のジョヴァンバティスタ・ラムージオ(Giovanni Battista Ramusio 一四八五年~一五五七年)の「航海と旅行」。「ハイチ」は中央アメリカの西インド諸島の大アンティル諸島内のイスパニョーラ島西部に位置するハイチ共和国。東にドミニカ共和国と国境を接し、カリブ海のウィンドワード海峡を隔てて北西にキューバが、ジャマイカ海峡を隔てて西にジャマイカが存在する。首都はポルトープランス(Pòtoprens/フランス語:Port-au-Prince:「王子の港」の意)。一八〇四年に独立(ラテン・アメリカ初で、尚且つ、アメリカ大陸で二番目、しかも世界初の黒人によって樹立された共和制国家である)。ここ。この伝承は確認出来ないが、この「マナタス」とは、哺乳綱カイギュウ目マナティー科マナティー属アメリカマナティー Trichechus manatus Linnaeus, 1758 の種小名である。同種は淡水域と海水域を回遊し、少なくとも、淡水域では永住が出来、棲息フィールドは河川の下流域・河口・沿岸であるから、「湖」という記載は不審ではない。
「伊勢國磯部大明神」三重県志摩市磯部町にある伊勢神宮内宮の別宮の一社伊雑宮(いざわのみや)は、確かに鮫を神使いとする伝承を持っている。ウィキの「伊雑宮」によれば、『七匹の鮫が的矢湾から川を遡って伊雑宮の大御田橋までのぼると云われる。この七本鮫は伊雑宮の使いと云われ、また龍宮の使いと伝える説もある』。『七本のうち一本は殺され、今は六本とされる。大御田橋からは蟹や蛙に化身して伊雑宮に参詣するともされる。またこの日は志摩の海女たちは海に入ることを忌み、伊雑宮に参詣する』とあり、また、『志摩市阿児町安乗の安乗崎沖の岩礁(大グラ)近くの海底に鳥居に似た岩があり、伊雑宮の鳥居だったといわれる』伝承があり、『伊雑宮は漁業に従事する信仰者が多い』とある。サイト「伊勢志摩きらり千選」には、志摩市磯部町の「七本ザメの磯部参り」と標題して、『「磯部伊雑宮は竜宮様よ八重の汐路をサメが来る」と』伊雑宮の『御田植祭』(「御神田(おみた)」と呼ばれる)『に唄われているサメは俗に「七本ザメ」と呼ばれ』、『伊雑宮のお使姫』(女神格。祭神が内宮と同じく天照大御神であるから当然)『といわれている。志摩地方では、旧暦』六月二十五日の大祭を『「磯部の御祭日だ。七本ザメがお参りに来る」といって』、『この地方』一般に、『祭りの当日』『を物忌む日として、漁師は漁を』、『海女は潜水を忌む習慣があ』り『子供達は海水浴』も『できない』。『この日、海に入ると「命か目」を取られるとの伝えがある』とある。『これは気候や海流の関係で』、この時期に『サメが回遊し』て来て、七『本のサメ(沢山の?)がお参りに来る日と言われ、的矢湾大橋近くの』「神の島」(旧』『伊雑宮の神領で「オノコロジマ」と呼ばれ』た、『現在の渡鹿野島』。知る人ぞ知る、嘗て「売春島」と呼ばれた島である)の『暗礁がサメの休息処のようです』とあった(これはウィキの「海豚参詣」(いるかさんけい)のイルカ以外のクジラやサメのケース事例に、『三重県志摩市の渡鹿野島(旧志摩郡磯部町域)などに、『七本鮫の磯部参り』という伝承が伝わる。旧磯部町の伊雑宮(いざわのみや)の』六『月の祭祀に合わせて』、七『本のサメが参詣に訪れ、渡鹿野島で休息をとるとの伝承が有り、祭祀の当日は、命や目を取られると、漁師は出漁を自粛し、海女は潜水しないものとされていた』。『この海女の休漁日をゴサイという』とあり、引用元原記載も確認した(この海女の休漁日「ゴサイ」は「御斎」であろう)。また、別のネット記載では伊雑宮は地元では「イゾウグウ」とか、親しく「イソベさん」と呼ばれているともあった。
「四五間」七・二七~九・〇九メートル。
『頭細く、體に斑紋有り、「エビス」と名くる種』板鰓亜綱カグラザメ目カグラザメ科エビスザメ属エビスザメ Notorynchus cepedianus がいる。但し、こんなに大きくはならず、最長全長で三メートルほどである。流線型に近い円筒形の体幹を持ち、体色は背側が暗褐色から黒色或いは灰色で、腹側は白色を呈する。体中に多数の黒色又は白色の斑点が見られ、しかも、エビスザメは群れで狩りをすることが知られており、仲間と協力してアザラシ・イルカ・サメなどを追い込んで捕食することからも、七頭が群れを成すという点でも条件が合致する。サメ類の化石種と形態的に類似を示しており、古いタイプのサメと考えられている(ウィキの「エビスザメ」に拠る)。ただ、ここで示す「四五間」という有意な大きさは、或いはジンベイザメ(軟骨魚綱テンジクザメ目ジンベエザメ科ジンベエザメ属ジンベエザメ Rhincodon typus の小・中型個体群であったのかも知れない(頭部が扁平なのは「細く」としても違和感がなく、甚平模様の斑点も合致する)。前記ウィキにも書かれている通り、関東などの地方名でジンベエザメをエビスザメとも呼ぶからである。また、その観点から「此鮫海上に現るゝ時、漁夫之を祭り祝」い、『「エビス付キ」と名』け、「每日一定の海路を游ぎ來るに、無數の堅魚」(カツオ)「之に隨行するを捕え、利を得ること莫大なり」というのも、先の真正のエビスザメよりも、悠々たるプランクトン食のジンベイザメにこそ相応しい雰囲気とも言えるからである。実際、ウィキの「ジンベイザメ」にさえ、『ジンベエザメの周囲には常にイワシやカツオ等の大小の魚類が群れている。日本ではこの関係が』、『経験的に古くから漁師に知られ、本種は地域によっては大漁の吉兆とされ、福の神のように考えられてきた。「えびすざめ」(生物学上実在するエビスザメとは無関係)という関東方言による呼称などはまさにこのことを表すものであるし、その他の各地でも「えびす」「えべっさん」などと呼ばれて崇められてきた漁業神には、クジラ類だけでなく』、『ジンベエザメもその正体に含まれているという。そして、この信仰は現在も活き続けており、祠(ほこら)は大切に守られている』とあり、さらに、『宮城県金華山沖に出現するという伝承が残る海の怪「ジンベイサマ」は、その正体がジンベエザメではないかと言われている』。『船の下へ入って船を支えていることがあり、首尾がつかめないほど巨大なものとされる』。『これが出たときにはカツオが大漁になると言われる』とあるのである。
『「日本」新聞に寄書して、吾邦の「ワニ」は「ワニザメ」と稱する一種の鮫なり、其形多少漢文鱷の記載に似たるを以て杜撰に之を充てたるなりと有りし』原記事を確認してみたいものだ。日本主義を標榜した日刊新聞『日本』は明治二二(一八八八)年二月創刊。初代社長兼主筆は陸羯南(くがかつなん)。歴代の記者には長谷川如是閑・正岡子規・中村不折・河東碧梧桐・佐藤紅緑・石井露月らがいる。なお、ここで言っている「ワニザメ」とは「荒く獰猛な(或いは押しなべてそう思われていた)鮫(サメ)」という意であって、特定の種を指すものではない。実際に「大鰐鮫」、軟骨魚綱板鰓亜綱ネズミザメ目オオワニザメ科オオワニザメ属オオワニザメ Odontaspis ferox がおり、日本近海(南日本太平洋岸)にもいるが、深海性で殆んど生態は判っていない、レアな種であるから、彼らではないので注意されたい。
「大和本草」貝原益軒の「大和本草卷之十三 魚之下 フカ (サメ類(一部に誤りを含む))」に出るのは(原文・訓読文・私の注も引く)、
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○鰐フカハ四足アリ鼈ノ如シ首大ナリ能人ヲ食フ李淳風曰河有怪魚乃名曰鰐其身已朽其齒三作此即鱷魚也南州志云斬其首乾之極厺其齒而更生
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○「鰐ぶか」は四足あり。鼈(すつぽん)のごとし。首、大なり。能く人を食ふ。李淳風、曰はく、『河に怪魚有り。乃(すなは)ち名づけて「鰐」と曰ふ。其の身、已に朽(く)つるも、其の齒、三つ、作(な)れり。此れ、即ち、鱷魚(がくぎよ)なり』と。「南州志」に云はく、『其の首を斬り、之れを乾すこと、極まり、其の齒を厺(さ)れども、更に生(せい)す』と。
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・「鰐ぶか」漢籍からの引用から、これは正真正銘の脊椎動物亜門四肢動物上綱爬虫綱双弓亜綱主竜型下綱ワニ形上目ワニ目 Crocodilia のワニの記載である。
・「鼈」爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン Pelodiscus sinensis(本邦産種を亜種Pelodiscus sinensis japonicusとする説もある)。当該項で既出既注。
・「李淳風」(六〇二年~六七〇年)は初唐の天文学・数学者。太史令を歴任。六三三年、黄道環・赤道環・白道環よりなる三辰儀を備えた渾天儀を新たに作った。「晋書」と「隋書」の中の「天文志」と「律暦志」を編み、また「算経十書」の注釈を行った。高宗の時、日本では「儀鳳暦」として知られる「麟徳暦」を編んだ。彗星の尾は常に太陽と反対側に発生する事実を発見し、天文気象現象の記録を整理した。著書に占星術的気象学を記した「乙巳占」がある。
・「其の身、已に朽(く)つるも、其の齒、三つ、作(な)れり」意味不明。仮に訓じた。後の「南州志」と同じく、三本の歯だけは生きていて、新たに生えてくるというのか?
・「鱷魚〔(がくぎよ)〕」「鱷」は「鰐」の異体字。
・「南州志」三国時代(二二〇~二六五 年)の呉の万震が記した華南から南方の地誌「南州異物志」のことか。
・「厺」「去」の異体字。
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熊楠が何を以って「何れも海中の鮫類と見ゆ」と言っているのは、てんで、判らない。これは鮫ではなく、間違いなくワニ類である。
「倭漢三才圖會」これも「何れも海中の鮫類と見ゆ」というのはトンデモない話で、挿絵を見たって、正真正銘、ワニだがね!!! 私の「和漢三才圖會 卷第五十一 魚類 江海無鱗魚 寺島良安」をやはり本文・訓読・注、序でに挿絵も引いてやろうじゃねえか!
*
わに
鰐【音諤】 鱷【同字】
【和名和仁】
クワアヽ
和名抄云鰐形似蜥蜴而大水潜吞人卽浮說文云鰐食人魚一生百卵及成形則有爲蛇爲龜爲蛟者其亦靈三才圖會云鰐南海有之四足似鼉長二丈餘喙三尺長尾而利齒虎及龍渡水鰐以尾擊之皆中斷如象之用鼻徃徃取人其多處大爲民害亦能食人既飽則浮在水上若昏醉之狀土人伺其醉殺之
春雨 よの中は鰐一口もをそろしや夢にさめよと思ふ斗そ
△按鰐狀灰白色頭圓扁足如蜥蜴而前三指後一指偃額大眼尖喙稍長口甚濶牙齒利如刄上下齒有各二層牙上下相貫交嚙物無不斷切者故諺曰稱鰐之一口也無鱗背上有黑刺鬛而有沙尾長似鱝尾其尾足掌之甲皆黑色小者一二尺大者二三丈社頭拜殿懸鐵鉦以布繩敲之形圓扁如二鉦合成有大口頗象鰐頭俗謂之鰐口其來由未詳古有神駕鰐之事據于此乎
建同魚 大明一統志云眞臘國有建同魚四足無鱗鼻如象吸水上噴高五六丈是亦鰐之別種乎
*
わに
鰐【音、諤。】 鱷(がく)【同字。】
【和名、和仁。】
クワアヽ
「和名抄」に云ふ、『鰐は、形、蜥蜴(とかげ)に似て、大にして、水に潜(くゞ)りて人を呑むときは卽ち浮く』と。「說文」に云ふ、『鰐、人を食ふ魚なり。一たび百の卵を生む。形を成すに及びては、則ち蛇と爲り、龜と爲り、蛟と爲る者(こと)有り。其れ亦、靈なり』と。「三才圖會」に云ふ、『鰐は、南海に之有り。四足、鼉(だ)に似、長さ二丈餘。喙(くちばし)、三尺。長き尾にして、利(するど)き齒あり。虎及び龍、水を渡れば、鰐、尾を以て之を擊つに、皆、中に斷(を)れる。象の鼻を用ひるがごとし。徃徃にして人を取る。其の多き處は、大いに民の害を爲し、亦、能く人を食ふ。既に飽くときは、則ち浮かんで、水上に在り。昏醉の狀(さま)のごとし。土人、其の醉へるを伺ひて、之れを殺す』と。
「春雨」 世の中は鰐一口もをそろしや
夢にさめよと思ふ斗(ばかり)ぞ
△按ずるに、鰐の狀、灰白色にして、頭圓く扁たく、足、蜥蜴のごとくにして、前に三指、後に一指あり。偃(ふし)たる額、大なる眼、尖りたる喙のやや長く、口、甚だ濶く、牙齒、利(と)きこと、刄(やいば)のごとし。上下の齒、各々二層有り。牙の上下、相貫(あひつらぬ)き交はりて、物を嚙む。斷ち切らずといふ者(こと)無し。故に諺に曰く、「鰐の一口」と稱す。鱗無く、背上に黑き刺鬛(とげひれ)有りて、沙[やぶちゃん注:粒状の突起。]有り。尾長くして鱝(えい)の尾に似る。其の尾・足・掌の甲、皆、黑色。小さき者は一、二尺、大なる者、二、三丈。
社頭拜殿に鐵鉦(てつがね)を懸けて、布繩(ぬのなは)を以て之を敲(たた)く。形、圓く扁たく、二鉦(ふたかね)を合成するがごとし。大なる口有り。頗(すこぶ)る、鰐の頭に象(かたど)る。俗に之を鰐口(わにぐち)と謂ふ。其の來由、未だ詳らかならず。古へ、神、鰐に駕(が)するの事有り、此れに據(よ)るか。
建同魚 「大明一統志」に云ふ、『眞臘國(しんらふこく)に建同魚有り。四足にして鱗無し。鼻、象のごとく、水を吸ひ、上げて噴(ふ)くこと、高さ五、六丈』と。是れ亦、鰐の別種か。
[やぶちゃん注:爬虫綱ワニ目Crocodiliaに属する動物の総称。現生種は正鰐亜目Eusuchiaのみで、アリゲーター科 Alligatoridae、クロコダイル科 Crocodylidae、ガビアル科 Gavialidaeの三科分類が一般的で、二十三種。ガビアル科 Gavialidae(独立させずクロコダイル科とする考え方もある)はインドガビアル Gavialis gangeticus の一属一種である。頭部を上から見た際、喙(口先)が丸みがかっているものがアリゲーター科で、細く尖っているものがクロコダイル科である。更に閉じた口を横から見た際、下顎の第四歯が上顎の穴に収まっているものがアリゲーター科で、牙の如く外に突出いるものがクロコダイル科。ガアビル科(一種のみであるが)は、喙が細長い吻となっているので、誤りようがない(インドガアビルの成体の雄は鼻が大きく膨らんでおり、雌と容易に区別できる。他のワニでは外見上の雌雄の判別は出来ない)。
「一たび百の卵を生む」は誇張。科によって異なるが、十~五十個が相場。
「靈」は、人知を超えた不思議な働き、玄妙な原理。
「鼉」はアリゲーター属ヨウスコウアリゲーター Alligator sinensis(お洒落じゃないね、この和名。ヨウスコウワニかチョウコウワニの方がまし)。東洋文庫版ではこれに「すっぽん」のルビを振るが、甚だしい誤りである。
「和名抄」は正しくは「倭(和とも表記)名類聚鈔(抄とも表記)」で、平安中期に源順(したごう)によって編せられた辞書。
「說文」は「說文解字」で、漢字の構成理論である六書(りくしょ)に従い、その原義を論ずることを体系的に試みた最初の字書。後漢の許慎の著。但し、東洋文庫版後注によると、ここで良安が記すような記述は「倭名類聚鈔」にはなく、これは「説文解字」の「𧊜」(わに)の説明であるとする。まず「倭名類聚鈔」の「卷第十九 鱗介部」の「鰐」の条は以下の通りである。
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麻果切韻云、鰐。【音萼和名和仁】似鱉有四足喙長三尺。甚利齒虎及大鹿渡水鰐擊之皆中斷。[やぶちゃん字注:「鱉」はスッポン、みのがめ(背中に藻を生やした亀)を指す「鼈」と同字。]
「麻果切韻」に云ふ、『鰐【音、萼。和名、和仁。】。鱉(べつ)に似て、四足有り、喙長く、三尺。甚だ利き齒あり。虎及び大鹿、水を渡らば、鰐、之を擊ちて皆、中に斷れる。』と。
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一見してお分かりのように、これは良安が直後に引く「説文」の内容とほぼ一致する(良安の記述の「龍」は「大鹿」の字の読み違いのようにも思われる)。更に、「説文」の解説は以下の通り(「廣漢和辭典」の「鱉」の字義の例文にある)。
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鱉佀蜥易。長一丈、水潛、吞人卽浮。出日南也。从虫屰聲。
(鱉(わに)は、蜥易〔=蜥蜴〕に佀〔=似〕る。長さ一丈、水に潛し、人を吞めば卽ち浮ぶ。日南に出づるなり。虫に从〔=從〕ひ、屰の聲。)
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最後の部分は解字である。「廣漢和辭典」によれば「鱉」は、「鰐」と同一語異体字とある。従って「説文」には「鰐」の別項はないと思われる。では気になるのが、彼が「説文」からとしたこの引用文の出所である。東洋文庫もそれを記していない。識者の御教授を乞う。
「春雨」は、三島由紀夫も称揚した上田秋成の幻想小説集「春雨物語」を指すと思うのが普通である(東洋文庫版もそうとっている)が、次項のような次第で、実はこれは別な書物を指している可能性がある。
「世の中は……」の和歌は現在調査中であるが、これは「春雨物語」の中には所収していない可能性が高い(「岩波古典文学大系 索引」でこの和歌は掲載されていない)。
「前に三指、後に一指」は正しい表現ではない。そもそもワニの指は前肢が五本で、後肢は四本である。これはそのキッチュさが大好きな「熱川バナナワニ園」で得た貴重な知識である。
「偃たる額」の「偃」の字を私は「ふス」と読んだ。これは扁平で地べたに伏せた(うつぶせになった)頭部を示すものとして違和感がない。東洋文庫版では、ここを「出ばった額」と訳しているが、そもそも「偃」にそのような意味はない。但し、堰と同義で、土を盛り、流れをせき止めるの意味の敷衍ならばとれないことはないが、やや強引である。
『「鰐の一口」』は「鬼の一口」と同じとする見解が多い。だとすれば、処理の仕方が素早く確実であるという意味と、文字通り、ひどく恐ろしい目に遭うことの意味となる。
「鱝」は軟骨魚綱板鰓亜綱 Elasmobranchii のエイである。
「鰐口」については川崎市教育委員会HPの指定文化財紹介ページ「青銅製鰐口(市民ミュージアム)」の概説が言うべきことを洩らさない非常に優れたものなので、以下に引用する。
《引用開始》
鰐口は梵音具(打ち鳴らして音を出すための仏具)の1つで、多くは鋳銅(銅の鋳物)製であるが、まれに鋳鉄製や金銅(銅に鍍金を施したもの)製のものもみられる。通常は神社や仏閣の軒先に懸けられ、礼拝する際にその前に垂らされた「鉦の緒」と呼ばれる布縄で打ち鳴らすもので、今日でも一般によく知られている。その形態は偏平円形で、左右に「目」と呼ばれる円筒形が張り出す。また、下方に「口」が開き、上緑部2箇所には懸垂のための「耳」を付した独特なものである。
「鰐口」という呼称は、正応6年(1293)銘をもつ宮城大高山神社蔵の作例の銘文中に記されるのが初見である。それ以前の鰐口の銘文には「金口」とか「金鼓」といった呼称がみられることから、古くはこのように呼ばれていたのが、鎌倉時代末頃以降、「鰐口」と称されるようになったものと考えられている。江戸時代中期の医家、寺島良安はその著『和漢三才図会』(正徳3年〈1713〉自序)のなかで「口を裂くの形、たまたま鰐の首に似たるが故にこれを名づくるか」と推察しているが、実際に堂宇に懸けられた鰐口を仰ぎみる時、このように考えることは十分にうなずける。
鰐口の現存遺例は室町時代以降の作例が多く、それ以前のものは少ない。平安時代の作例には、長野松本市出土の長保3年(1001)銘鰐口(東京国立博物館保管)の他、愛媛奈良原経塚出土の平安時代後期に推定される例があるにすぎない。
鰐口の祖形には、韓国の「禁口」と呼ばれる鳴物が考えられているが、鉦鼓を2つ重ねたとする見方や鐃との関連も考えられている。[やぶちゃん注:以下略。]
《引用終了》
ここで、この執筆者が引いている「和漢三才図会」の叙述は、本項の鰐口の部分ではなく、「卷第十九 神祭 付(つけた)り佛供器」の「鰐口」の項の叙述である。次いでなので、該当部を以下にテクスト化しておく。[やぶちゃん注:中略する。私の本体版を読まれたい。]
「古へ、神、鰐に駕するの事有り」とは、人口に膾炙する海幸彦山幸彦の神話中の出来事を指しているか。海佐知毘古(うみさちびこ)とは海の漁師の意味で、彼の正しい神名は火照命(ほでりのみこと)である(山佐知毘古は火遠理(ほをりの)命という)。失くした釣り針を求めて綿津見神(わたつみのかみ=海神)の宮殿に赴き、そこで豊玉比売(とよたまひめ)と契った火照命は、三年経って、自分がここに来た理由と兄火照命の仕打ちを語る。豊玉比売の父海神は鯛の喉から件の釣り針を発見、それを兄に返す際の呪文と潮の潮汐を自在に操る秘密兵器、塩盈珠(しほみつたま)・塩乾珠(しほふるたま)を手渡す。そうして火照命の葦原中国(あしはらのなかつくに)への帰還のシーンとなるのであるが、そこに「和邇魚(わに)」が登場する。「古事記」の該当箇所を引用する。
+
鹽盈珠、鹽乾珠幷せて兩個(ふたつ)を授けて、卽ち悉に和-邇-魚(わに)どもを召(まね)び集めて、問ひて曰ひけらく、[やぶちゃん注:以下は綿津見神の台詞。]
「今、天津日高(あまつひこ)の御子、虛空津日高(そらつひこ)、上(うは)つ國に出-幸(い)でまさむと爲(し)たまふ。誰(たれ)は幾日(いくひか)に送り奉りて、覆奏(かへりごとまを)すぞ。」
といひき。故、各己が身の尋長(ひろたけ)の隨(まにま)に、日を限りて白(まを)す中に、一尋和邇(ひとひろわに)白しけらく、
「僕(あ)は一日(ひとひ)に送りて、卽ち還り來む。」
とまをしき。故に爾(ここ)に其の一尋和邇に、
「然らば、汝(なれ)、送り奉れ。若(も)し、海中(わたなか)を渡る時、な惶畏(かしこ)ませまつりそ。」
と告(の)りて、卽ち、其の和邇の頸に載せて、送り出しき。故、期(ちぎ)りしが如(ごと)、一日の内に送り奉りき。其の和邇返らむとせし時、佩(は)かせる紐小刀(ひもかたな)を解きて、其の頸に著けて返したまひき。故、其の一尋和邇は、今に佐比持神(さひもちのかみ)と謂ふ。[やぶちゃん注:以下略。]
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しかし、現在、この「和邇」はワニではなく、サメとするのが定説である。しかし、良安がここで想起したのがこの神話であったとすれば、所謂、爬虫類のワニが、当時は本神話の登場生物として広く信じられていたということを指すともとれようか。
「大明一統志」は、明の英宗の勅で李賢らによって撰せられた中国全土と周辺地域の総合的地理書。九十巻。
「眞臘國」は「旧唐書」に、
眞臘國、在林邑西北、本扶南之屬國、崑崙之類。
(眞臘國は、林邑の西北に在り、扶南の屬國にして、崑崙の類なり。)
とある。渡邉明彦という方のアンコール遺跡群の記事のカンボジアの歴史についての記載によれば、『紀元前後、メコン川下流のデルタ地帯から沿岸地帯を領有する扶南国があり、メコン川中流にはクメール族の真臘国があった。真臘は3、4世紀頃から南下をはじめ、扶南を吸収合併していった。7世紀にはほぼ現在のカンボジアと同じ領土を有していた。』とあり、現在のカンボジア王国と同定してよい。
「建同魚」が分からない。ワニでは毛頭あるまい。「隋書」の「卷八十二 列傳第四十七」にも「南蠻海中有魚名建同、四足、無鱗、其鼻如象、吸水上噴、高五六十尺。」と、ここと同様の記述がある。当初ジュゴンDugong dugonを想定してみたが、叙述としっくりこない。何方かの鮮やかな同定を期待する。
*
なお、引用に際し、改めて原本その他と校合して、表記を改めてある。敢えて言うなら、良安の評釈部の後半の「口、甚だ濶く、牙齒、利(と)きこと、刄(やいば)のごとし。上下の齒、各々二層有り。牙の上下、相貫(あひつらぬ)き交はりて、物を嚙む。斷ち切らずといふ者(こと)無し。故に諺に曰く、「鰐の一口」と稱す。鱗無く、背上に黑き刺鬛(とげひれ)有りて、沙〔:粒状の突起。〕有り。尾長くして鱝(えい)の尾に似る」という部分だけが、サメの記載かのようにも見えるが、全体は、最早、弁解するべくものなく、真正の「ワニ」以外の何物でもない。思うのだが、熊楠が「何れも海中の鮫類と見ゆ」と記してしまったのは、益軒の「大和本草」の記載が「魚之下 フカ」の一条であったこと、良安の「和漢三才図会」の記載が「魚類 江海無鱗魚」の中に組まれてあったことと、その「鰐」の直後に真正の「鮫」の項が置かれてあるという、記憶に基づいて書いており、この記事を書くためにわざわざ両書を再見はしていないせいではないかと考える。熊楠は尋常ではない博覧強記ではある。流石に欧文の書誌注をする際には書誌情報や当該部のページを直に確認していることが多いであろうが、どうも和書の場合は、現物を再確認せずに、記憶に頼って記していることが結構多いように見受けられる(本篇のここまでの記載の中にも当該書を幾ら見ても見つからないケースが複数ある)。それでも、凄いのだが、彼が「和漢三才図会」を借りて読み、書写したりしたのは、少年期であって、そこに記憶不全があるのは間違いない。だって、もし、ちゃんとここを書くのに、以上の二書の以上の記載を再確認したとならば、絶対に熊楠は「何れも海中の鮫類と見ゆ」と書くはずはないからである。
「Pierott,‘Customs and Traditions of Palestine’, 1864, P. 39.」イタリアの技師・建築家・数学者であったエルメーテ・ピエロッティ(Ermete Pierotti 一八二一年~?)の「パレスチナの習慣と伝統」。「Internet archive」のこちらで原本の当該箇所が読める。但し、羊だけでなく、二人の兵士を襲って食ったという注記が載り、そこで筆者がそれがワニであるどうかについて、ある種の疑問を抱いているような感じが、後を読むと感じられるものの、それをサメではないか? とは記してはいないように思われる。
「實際鱷なき韓國にて、筑紫の商人、虎が海に入て鱷を捕ふるを見し話有り(宇冶拾遺三九章)」三十九の「虎の鰐取たる事」(巻三の七)である。一九五一年岩波文庫刊「宇治拾遺物語 上巻」を使用したが、句読点・記号を追加し、「新潮日本古典集成」本によって一部に読みを入れ、段落を成形して読み易くした。本話は「今昔物語集」巻第二十九の「鎭西人渡新羅値虎語第三十一」(鎭西の人、新羅(しらき)に渡りて虎に値(あ)ふ語(こと)第三十一)と同文的同話である。
*
是も今は昔、筑紫の人、あきなひしに、新羅にわたりけるが、あきなひはてゝ、歸みちに、山のね[やぶちゃん注:麓。]にそひて、
「舟に、水、くみいれん。」
とて、水の流出たる所に、舟をとゞめて、水をくむ。
そのほど、舟にのりたるもの、船ばたにゐて、うつぶして海を見れば、山の影、うつりたり。たかき岸の三、四十丈[やぶちゃん注:誇張し過ぎ。「今昔」版では「三、四丈」である。]ばかりあまりたるうへに、虎、つゞまりゐて[やぶちゃん注:小さく蹲って。]、物をうかゞふ。その影、水にうつりたり。
その時に、人々につげて、水くむ者をいそぎ呼びのせて、手ごとに櫓(ろ)を押して、いそぎて船をいだす。
其ときに、虎、おどりおりて、舟にのるに、舟は、とく、いづ。
虎は、おちくるほどのありければ、いま一じやうばかりを、えおどりつかで、海におち入ぬ。
舟をこぎて、いそぎて行まゝに、この虎に、目をかけてみる[やぶちゃん注:注視してみた。]。
しばしばかりありて、とら、海より出きぬ。をよぎて、くが[やぶちゃん注:「陸(くが)」。]ざまにのぼりて、汀(みぎは)に、ひらなる石の上に、のぼるをみれば、左のまへあしを、膝よりかみ食(くひ)きられて、ち、あゆ[やぶちゃん注:血が滴っている。]。
「鰐(わに)に食ひきられたる也けり。」
と、みる程に、其(その)きれたる所を、水にひたして、ひらがりをるを[やぶちゃん注:ぺたんと体を平たくしていたが。]、
「いかにするにか。」
と、みる程に、沖の方(かた)より、わに、とらのかたをさしてくると、みる程に、虎、右の前足をもて、わにの頭に、つめをうちたてゝ、陸(くが)ざまに投げあぐれば、一じやうばかり、濱に、投げあげられぬ。
のけざまになりてふためく[やぶちゃん注:仰向けになってばたばたとしている。]。
おとがひ[やぶちゃん注:顎(あご)。]の下を、をどりかゝりて、食ひて、二(ふた)たび、三たびばかり、打(うち)ふりて、なよなよとなして[やぶちゃん注:新潮版では『なへなへ』。くったくたにして。]、かたに打かけて、てをたてたる樣なる岩の、五、六丈あるを、三(みつ)の足をもちて、くだりざかをはしるがごとく、のぼりてゆけば、舟のうちなるものども、これがしわざをみるに、なからは、死入(しにいり)ぬ[やぶちゃん注:恐懼のあまり、舟人らは皆、半ば死んだような気抜けになってしまった。]。
「舟に飛(とび)かゝりたらましかば、いみじき劍(つるぎ)・刀をぬきてあふ共(とも)、かばかり力つよく、はやからんには、何わざをすべき。」
と思ふに、きも心(ごころ)うせて、舟こぐ空もなくてなん[やぶちゃん注:舟の行く先もおぼつかぬままに。]、つくしにはかへりけるとかや。
*
因みに、「今昔物語集」のそれのエンディングは、
*
然(さ)は、此の虎の爲態(しわざ)を見るに、船に飛び入りなましかば、我等は一人殘る者無く、皆、咋(く)ひ殺されて、家に返りて妻子の顔もえ見で死なまし。極(いみ)じき弓箭(きうぜん)・兵仗(ひやうじやう)[やぶちゃん注:刀剣類。]を持ちて、千人の軍(いくさ)防ぐとも、更に益(やく)有らじ。何(いか)に況むや、狹(せば)き船の内にては、太刀・刀を抜きて向ひ會ふとも、然許(さばかり)、彼(かれ)が力の强く、足の早からむには、何態(なにわざ)を爲すべきぞ」と、各々云ひ合ひて、肝心(きもこころ)も失せて、船漕ぐ空も無くてなむ、鎭西には返り來たりける。各々、妻子に此の事を語りて、奇異(あさま)しき命(いのち)を生きて返りたる事をなむ、喜びける。外の人も、此れを聞きて、極じくなむ、恐ぢ怖れける。
此れを思ふに、鰐も海の中にては、猛く賢き者なれば、虎の海に落ち入たりけるを、足をば、咋ひ切りてける也。其れに[やぶちゃん注:それなのに。]、由無(よしな)く[やぶちゃん注:軽率に。]、
「尙ほ、虎を咋(く)はむ。」
とて、陸(くが)近く來て、命を失なふ也。
然(しか)れば、萬(よろづ)の事、皆、此れが如く也。人、此れを聞て、
「餘りの事[やぶちゃん注:身の程知らずなこと。]は止(とど)むべし。只、吉(よ)き程にて有るべき也。」
と、人、語り傳へたるとや。
*
と教訓が附されてある。ともかくも、この「鰐」は「鮫」で間違いないのは言うまでもない。
「Churchill」「鳩」に既出既注。
「神代卷に、海神一尋の鱷に、彥火々出見尊を送り還さしむる事あり」「彥火々出見尊」は所謂、「山幸彦」のこと。「日本書紀」の巻第二の「神代下」の第十段の第一書に、海神豊玉彦の宮から、彼が地上に帰る際、
*
於是乘火火出見尊於大鰐。以送致本鄕。
*
是に於いて、火火出見(ほほでみのみこと)大-鰐(わに)に乘せまつりて、以つて本鄕(もとつくに)に送-致(おく)りまつる。
*
と出る。
「豐玉姬、產場を夫神に覗はれしを憤り、化して八尋の大鱷となり、海を涉りて去ると言り」同前の直後に、
*
先是且別時。豐玉姫從容語曰。妾已有身矣。當以風濤壯日、出到海邊。請爲我造產屋以待之。是後豐玉姬果如其言來至。謂火火出見尊曰。妾今夜當產。請勿臨之。火火出見尊不聽。猶以櫛燃火視之。時豐玉姬化爲八尋大熊鰐。匍匐逶虵。遂以見辱爲恨。則徑歸海鄕。留其女弟玉依姬、持養兒焉。[やぶちゃん注:以下略。]
*
是れより先に別れむとする時、豐玉姫、從-容(おも)ふるに語(まう)して曰はく、
「妾(やつこ)、已に有身(はら)めり。當(まさ)に風濤(かぜなみ)壯(はや)からん日を以つて、海邊に出で到らむ。請ふ、我が爲に產屋(うぶや)を造り、以つて、待ちたまへ。」
と。
是の後に、豐玉姬、果して其の言(こと)のごとく、來至(きた)る。火火出見尊に謂(まう)して曰(まう)さく、
「妾、今夜(こよひ)、當に產まんとす。請ふ、な臨(ま)しまそ。」
と。火火出見尊、聽かず、猶ほ櫛を以つて火を燃(とも)し視(み)そなはす。
時に、豐玉姬、八尋(やひろ)の大熊鰐(おほわに)に化-爲(な)りて、匍-匐(は)ひ逶-虵(もごよ)ふ[やぶちゃん注:身をくねらせてのたくった。]。遂に辱(はづかし)められたるを以つて、
「恨めし。」
と爲して、則ち、徑(ただ)に海鄕(わだつみのくに)に歸る。其の女弟(いろと)玉依姬を留めて、兒(みこ)を持-養(ひた)さしむ。
*
黄泉国での伊耶那岐・伊耶那美と全く同じ「見るな」の禁忌システムが起動して、破戒によって世界(二人の愛にシンボライズされる)が致命的に変成する部分が圧巻である。
『懷橘談に、出雲國安來の北海にて、天武帝二年七月、一女鱷に脛を食はる、其父哀しみて神祇に祈りしに、須臾にして百餘の鱷、一の鱷を圍繞し來たる。父之を突殺すに諸鱷去る。殺せし鱷を剖くに女の脛出しと見ゆ』「懷橘談」は松江藩の藩儒黒沢石斎が書いた出雲地誌。前編は承応二(一六五三)年、後編は寛文元(一六六一)年完成。国立国会図書館デジタルコレクションの活字本(谷口為次編・大正三(一九一四)年刊・「懐橘談・隠州視聴合紀」合本版)の本文の殆んど冒頭の「意宇郡」の「安來」にあるが、しかしこれは、熊楠にして、出典が頗る不適切で悪い。古くは「出雲風土記」の一節に出るものである。所持する複数の電子データを比較し、私が最も近いと思われる原文を再現し、訓読は所持する武田祐吉先生の岩波文庫版のそれを元に、他の訓読も参考にして電子化した。
*
安來鄕。郡家東南二十七里一百八十步。神須佐乃烏命天壁立𢌞坐之。爾時來坐此度而詔。吾御心者安平成詔。故云安來也。卽北海有毘賣埼。飛鳥淨御原宮御宇天皇御代。甲戌七月十三日。語臣猪麻呂之女子。遊件埼。邂逅遇和爾所賊不歸。爾時父猪麻呂所賊女子斂毘賣埼上。大發聲憤。號天踊地。行吟居嘆。晝夜辛苦無避斂所作是之閒經歷數日。然後興慷慨志。麻呂。箭銳鋒撰便處居卽撎訴云。天神千五百萬。地祇千五百萬。並當國靜坐三百九十九社及海若等。大神之和魂者靜而。荒魂者。皆悉依給猪麻呂之所乞。良有神靈坐者。吾所傷助給。以此知神靈之所神者。爾時有須臾而。和爾百餘靜圍繞一和爾徐率依來從於居下。不進不退。猶圍繞耳。爾時擧鋒而刄中央一和爾殺捕。已訖然後百餘和爾解散。殺割者女子之一脛屠出。仍和爾者殺割而掛串立路之垂也【安來鄕人語臣等之父也。自爾時以來至于今日經六十歲。】。
*
安來(やすき)の鄕(さと)。郡-家(こほり)の東南二十七里一百八十步なり。神須佐乃烏命(かむすさのをのみこと)、天(あめ)の壁(かき)立い𢌞(めぐ)らし坐(ま)しき。爾(そ)の時、此度(ここ)に來坐(きま)して詔(の)りたまひしく、
「吾れが御心(みこころ)は、安く平らか成りぬ。」
と詔りたまひき。故(かれ)、「安來」と云ふ。
卽ち、北の海に毘賣埼(ひめさき)有り。飛鳥の淨御原(きよはら)の宮(みや)の御宇の天皇(すめらみこと)の御代(みよ)、甲戌(きのえいぬ)七月十三日、語臣猪麻呂(かたりのおみゐまろ)の女子(むすめ)、件(くだん)の埼(さき)に遊びて、邂逅(たまさか)に和爾(わに)に遇ひ、賊(そこな)はえて歸らざりき。
爾の時、父猪麻呂、賊はえし女子を毘賣埼の上(ほとり)に斂(をさ)め、大發聲(おほごゑ)に憤り、天に號(さけ)び、地に踊り、行きては吟(な)き、居ては嘆き、晝夜(ひるよる)、辛苦(たしな)みて、斂めし所を避(さ)ること無し。是(か)く作(す)る閒(ほど)に數日(ひかず)を經歷(へ)たり。然(しか)して後、慷慨(いきどほり)の志(こころ)を興こし、麻呂、箭の銳き鋒(さき)を撰(ゑ)りて、便(たより)の處に居り、卽ち、撎(をが)み訴へて云ひしく、
「天(あま)つ神千五百萬(ちいほよろづ)、地(くに)つ祇(かみ)千五百萬、並びに當(こ)の國に靜まり坐(ま)す三百九十九(みももまりここのそぢまり)の社(やしろ)、及(また)、海若等(わだつみたち)、大神(おほかみ)の和魂(にぎみたま)は靜まりて、荒魂(あらみたま)は、皆、悉(ことごと)に猪麻呂の乞(の)む所に依り給へ。良(まこと)に神靈(みたま)坐有(ましま)さば、吾(あ)が傷(いた)めるを助け給へ。此(ここ)を以ちて神靈(みたま)の神たるを知らむ。」
と。
爾(そ)の時、須臾(しまし)有りて、和爾、百(もも)餘り、靜かに一つの鰐を圍み繞(めぐ)り、徐(おもぶる)に率て、居(を)る下(ところ)に依り來從(きよ)りて、進まず、退ぞかず、猶ほ、圍み繞るのみなりき。
爾の時、鋒(ほこ)を擧げて、中央(まなか)なる一つの和爾を刄(さ)し殺し捕(と)りき。
已(すで)に訖(を)へて、然して後、百餘りの和爾、解散(あら)けき。
殺(た)ち割(さ)けば、女子の脛(はぎ)一つ、屠(ほふ)り出だしき。
仍(よ)りて、和爾を殺ち割きて、串に掛けて路の垂(ほとり)に立てき【安來の鄕(さと)の人、語臣等(かたりのおみら)の父なり。爾の時より以來、今日に至るまでに六十歲を經たり。】。
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なお、神田典城氏の論文『「ワニ」小考』(学習院女子短期大学国語国文学会発行『国語国文論集』(第二十二号・平成五(一九九三)年三月)。こちらでPDFダウン・ロード可能)が、上代の「わに」をすっきりと解き明かしていて、まことによい。お薦めである。
『眞葛女の磯通太比に、奧州の海士「ワニザメ」に足を食去られ死せしを、十三年目に、其子年頃飼し犬を殺し、其肉を餌として鱷を捉へ、復讐せりといふ譚は之より出たるならむ』只野眞葛と紀行文「磯通太比」については「海龜」で既出既注。そこと同じ国立国会図書館デジタルコレクションの画像を底本として同じ仕儀で当該部を電子化する(ここの右ページの四行目下部から)。ここは奇しくも「海龜」で引用した箇所の直前である。そのジョイント・シークエンスもダブらせて添えておく。ここは奇しくも「海龜」で引用した箇所の直前である。そのジョイント・シーケンスもダブらせて添えておく。これで「いそづたひ」の同パートの後半部(別な続きはある)がカバー出来た。近いうちに別に全電子化をしようと思うている。
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こゝを立(たち)て、菖蒲田濱を經て、松が濱にいたる。爰は濱々の中に、分(わき)て愛(めで)たき所なりき。松が浦島などいふは、ここの分名(わけな)[やぶちゃん注:「別名」。別称。]なりけり。海中まで、程よくさし出たる岩山有り、四方の能く見遣(みやら)るゝ故、代々御國知(しろ)しめす君の、出(いで)ます所に定められしかば、御殿崎とはいふ也。暫し休みて見渡せば、水際(みぎは)、やゝ遠く聳えたる岩に、松、ほどよく生たり。向ひ(南)[やぶちゃん注:底本が原本の傍注をかくしたもの。以下同じ。]は、空も一つに、際(きは)なき海なり。左(東)の方に、金花山の寶珠の形して、浮たり。右(西)の方に遠く見ゆるは、相馬の崎、其前に黑う、木立の引續きたるは、蒲生(がまふ)の松原也けり。其處(そこ)より此わたりまで、磯つゞきたる直濱に、絕(たえ)ず波の打寄(うちよす)るは、白布を曝せるとぞ思はる。海の水面に、日の影さし移りたるは、黃金白銀(こがねしろがね)の浮(うか)べる樣にて、橫折れる松の葉越(はごし)に見ゆるも目(ま)はゆし。面白き岩どもの多く有るに、打かゝる波の、白沫(しろあは)をきせ流し、あるは玉と成て、砕けつゝ散るも、いと淸し。底の深さは七丈有りとぞ。
昔、西の方の國より、海士人夫婦(あまびとふうふ)、男子一人(ひとり)伴ひて、此處(こゝ)に留(とゞ)まりて、かづきしつゝ、鮑(あはび)とりしに、日每に、最(いと)大きなるを獲(え)て、鬻(ひさ)ぎしほどに、幾程(いくほど)もなく、富(とみ)たりき。
此海には、鰐鮫(わにざめ)などいふ荒魚の栖(す)めば、こゝなる海士は、恐れて底迄は入らで、小(さゝ)やかなるをのみ、取(とり)て有りしを、此海士は、然(さ)る事も知らざりし故、水底に入て取りつるを、
「危(あやふ)き事。」
と、此處なる人は思ひ居しに、果して、大鰐(おほわに)、見つけて追ひし故、
「命を、はか。」[やぶちゃん注:「はか」は「計・量・果・捗」などを当て、「目当て・当て所(ど)」の意であろう。「命あっての物種!」の謂いである。]
と、眞手かた手[やぶちゃん注:「両の手を使って全力で」の意であろう。]、暇(いとま)なく、浪、搔分けつゝ逃(にげ)つれども、最(いと)速くおひ來て、こゝなる岸に登りて、松が根に取縋(すが)りて、上(あが)らんとせし時、鰐、飛付て、引おくれたる方(かた)の足を食たりしを、海士は上らん、鰐は引入れんと、角力(すま)ふほどに、足を付根より引拔(ひきぬ)かれて、狂ひ死(じに)に死(しに)にけり。鰐は、荒波、卷返(まきかへ)して、逃去りけり。
子は、まだ廿(はたち)に足らぬ程にて有りしが、岸に立て見つれども、爲(せ)ん術(すべ)なければ、唯、泣きに泣きけり。
其骸(から)を納めて後、
「父の仇(あだ)を報ひん。」
とて、日每に、斧・鉞(まさかり)を携へて、父が縋りし松が根に立て、瞬(まじろ)ぎもせず、海を睨(にら)みて、
「鰐や出づる。」
と、窺(うかゞ)ひ居(ゐ)けるを、人々、
「孝子也。」
とて、哀(あはれ)がりけり。
扨、年、半計(なかばゞか)りも過(すぎ)たる頃、釣の業(わざ)を能(よ)うせし海士の、修行者(すぎやうざ)に成て、國巡(くにめぐ)りするが、爰に舍(やど)りけり。
かゝることの有といふ事は、人每に語りつれば、其修行者も聞知りて、最(いと)哀れがりて、敎へけらく[やぶちゃん注:「けらく」は過去の助動詞「けり」の「ク語法」。「けり」の未然形「けら」に接尾語「く」が付いたもので、「~であったこと:~であったことには」の意を作る。]、
「鰐を捕らんと思ふに、斧・鉞は不要ならめ。良き鋼(はがね)にて、兩刄(りやうば)にとげたる[やぶちゃん注:「硏(と)ぎたる」の意。]、尺餘の大釣針を鍛(うた)すべし。夫(それ)に五尺の鐡鎖(かなぐさり)を付(つけ)て、肉を餌(ゑ)に串(さ)して、沖に出て、釣すべし。鰐、必ず、寄來(よりき)ぬべし。」
と傳へけり。
孝子、甚(いた)く悅(よろこ)びて、敎へし如くに設(まう)け成(な)して、釣せしに、鯨の子を獲(ゑ)しこと、二度、あり。
幾年、往回(ゆきか)へりて、父がくはれし時を算(かぞ)ふれば、十餘三(み)とせに成にけり。
其日の回(めぐ)り來(こ)し時、法(のり)のわざ、慇(ねも)ごろにして、來集(きつど)ひたる浦人にむかひ、
「今日ぞ、必ず鰐を獲(ゑ)て、父に手向(たむけ)ん。」
と誓ひて、
「力(ちから)戮(あは)せ給はれ。」
と語らひつゝ、年比(としごろ)飼置(かひお)きし白毛なる犬の有りしを喚びて、
「父の仇を討たんと、汝(いまし)が命を、乞ふなり。我と、一つ心に成て、主(しゆ)の仇(あだ)なる鰐を、捕れ。」
と言聞(いひき)かせつゝ、淚を拂いて、首、打落し、肉(しゝむら)を切裂(きりさ)きて、釣針につき串(つらぬ)きて、沖に出て、針、卸(おろ)せしに、孝子の一念や、屆きつらん、誤たず、大鰐、針に懸りしかば、
「思ひし事よ。」
と悅びつつ、浦人にも、
「かく。」
と告げて、設置(まうけお)きたる、「か□らさん」[やぶちゃん注:不詳。「囗」なのかも知れぬが、恐らくは判読不能だったのではないか。国書刊行会「江戸文庫」版(曲亭馬琴自身の写本)では『かつらさん』とあるが、これも不詳。桟を葛で組み縛ったものか? 識者の五御教授を是非とも乞うものである。]と云物(いふもの)に懸(かけ)て、父が食(くは)れし斷岸(きりきし)に引寄せて、遂に鰐を切屠(きりはふ)りけり。
其鰐の丈は七間半[やぶちゃん注:十三・六三メートル。]有りしとなん。
かゝる事の聞え、隱れなかりし故、國主にも聞(きこ)し召付(めしつけ)られて、
「松が濱の孝子」
と、賞(ほめ)させ給へる御言書を給はりて、
「鰐を釣(つり)し針は、永く其家の寳(たから)にせよ。」
と仰せ下りつれば、今も持(もち)たり。
鰐の頭(かしら)の骨は、海士人(あまびと)を埋(うめ)し寺の内に置(おき)たり。獅山公の御代の事なりき。此の二つの物は、今も正(まさ)しう有て、道ゆく人は、寄りて見つ。[やぶちゃん注:「獅山公」(しざんこう)は第五代仙台藩藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)のこと(戒名の「續燈院殿獅山元活大居士」に拠る)。元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。本書の作品内時制は文政元(一八一八)年。]
かゝる事も有けり、と思へば、畏(かしこ)し。
人とりし鰐に增(まさ)りてたくましや
仇をむくひし孝の一念(おもひ)は
海士人のすがりしといふ松、今も枯れずて、たてり。
此島の周圍(めぐり)を離れぬ小舟ありき。
「人を乘せてんや。」
と、問はせつれば、
「二人、三人は可(よし)。」
といふ故、乘(のり)て見れば、蛸釣る舟には有し。今、捕(とり)たるを、膝の下(もと)に打入るゝは、珍らかなるものから[やぶちゃん注:逆接の接続助詞。]、心よからず。此釣人の語るやう、
「今よりは、七、八年前(さき)に、龜の持來(もてこ)し、『浮穴(ふけつ)の貝』といふものを、持はべり。我家は、道行く人の必ず過ぎ給ふ所なれば、立寄(たちよ)らせ給ひて、見給へかし。今、僕(やつがり)も參りてん。」
とぞ、いひし。
舟より上るとて、今、捕りたる蛸を乞求(こひもと)めて、家苞(いへづと)にしたり。
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