南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(4:犬)
○犬 犬を祀りし例は峯相記に、又粟賀犬寺者、當所本主秀府と云者有り、高名獵師也、彼僕、秀府の妻女を犯し、剩へ秀府を殺して夫婦に成んと云密契有り、郞從秀府を狩場え[やぶちゃん注:ママ。]誘出して、山中にて弓を引き矢を放たんとす、既に害に及ぶ時、秀府が祕藏の犬大黑小黑とて二疋あり、かの郞從に飛かゝり、左右の手を喰へて引張る、秀府刀を拔き飛懸りて仔細を尋る處に、有の儘に承伏す、郞從を殺害し、妻妾を厭却して、道心を發し出家入道す、臨終に及ぶ時、男女子のなき間、所帶を二疋の犬に與へ畢る、犬二疋死後、領家の計ひとして、彼田畠を以て一院を建立し秀府並に二疋の犬の菩提を訪ふ(?)堂塔僧房繁昌し佛法を行ふ、炎上の時、尊像十一面觀音秀府二疋の犬の影像北山へ飛移る、其所を崇て法樂寺と號す云々、本寺の跡に一堂一宇今に有り」と、是れ貞和四年(五百五十二年前)の記也、之に似たる事、アゾールスに犬の記念に建てし寺あり、天主敎の尊者「ロシユ」、黑死病者を救ふこと數萬にして、自ら之に罹り困みし時、此犬、食を運びて之を助けしと云ふ(Notes and Queries, 9th Ser. xii. pp. 189, 236, sept.1903,)アラビヤ及び歐州に行はれし、犬が僧正に遺產を進ぜしてふ譚に付ては Axon, ‘The Dog who made Will,̓ N. & Q., Dec. 24, 1904, p. 501. を見よ、倭漢三才圖會卷六九にも忠犬を祀れる話有り、云く、犬頭社在參河國上和田森崎、社頭四十石、犬尾社在下和田、天正年中、領主宇津左門五郞忠茂、一時獵入山家、有白犬從走、行倒一樹下、忠茂俄爾催睡眠、犬在傍咬衣裾引稍寤復寢、犬頻吠于枕頭、忠茂怒妨熟睡、拔腰刀斬犬頭、頭飛于樹梢、嚙著大蛇頸、主見之驚、切裂蛇而還家、感犬忠情、埋頭尾於兩和田村、立祠祭之、家康公聞之甚感嘆焉、且以有往々靈驗賜采地云々、之を作り替へたりと覺しき譚、馬文耕の近世江都著聞集に有り、吉原の遊女薄雲、厠に入らんとするに、日頃愛せし猫共に入らんとするを亭主其首を斬りしに、忽ち厠の下隅に落て、薄雲を見込みし蛇を咬殺せしより、薄雲其爲に猫塚を築けりとなり、續搜神記(淵鑑類函卷四三六に引り)に、會𥡴の張然、年久しく家に歸らぬ内、その妻奴[やぶちゃん注:「ど」。下僕。]と私通し、夫の歸るを待ち殺さんとて毒を飯肉に加へて供せしを、然[やぶちゃん注:「しかして」]其飯肉を狗に與へしに食はず、惟注睛砥唇視奴、奴食催轉急なりしかば、然大に狗の名を呼び烏龍と曰しに、狗忽ち奴の頭に咋付く處を然奴を斬り、婦を官に付して殺せる條有り、法苑珪林卷四十五に、僧祗律を引て、那俱羅蟲、梵士の子を救て毒蛇を殺せしに梵士其蟲の口血に塗れたるを見、誤て、其子を害せる者とし、之を殺せし誕[やぶちゃん注:「たん」或いは「はなし」。]有り、動物が主人に忠を盡し、却つて害を爲す者と誤られ、殺さるゝ話多くClouston, ‘Popular Tales and Fictions,’ 1987. に擧たり、古話には、本來其土に特生せると他邦より傳來せると二種ありて、之を判ずること頗る容易ならざるあるも(早稻田文學四十一年六月の卷に揭げたる、予の「大日本時代史に載れる古話三則」參照)、話の始末符合せること多きより攷れば、犬寺及び犬頭禮の傳記は今昔物語卷廿九、陸奧國狗山狗咋殺大蛇語などを通じて、明らかに支那印度の譚より出たるを知るべし、附言、那倶羅(ナクラ)[やぶちゃん注:「(ナクラ)」はルビではなく、本文。]、實は獸、「イクニュウモン」の梵名也。
又山二二四頁に、四國に今も存する犬神の迷信を記し落とされたり、備前の人に聞くに、「この迷信尤も伊豫に猖んに[やぶちゃん注:「さかんに」。]行はれ、諸部落に犬神筋の家一二軒づつ有り、其家主家族に惡感を懷かしむる事あらば、必ず犬神加害者に憑り[やぶちゃん注:「より」。]、發熱して犬の擧動を爲しむ、仍て財物を寄附して漸く其害を解くといふ、此病に罹る者備前邑久郡[やぶちゃん注:「おくぐん」。]朝日村、一里沖に在る犬島の犬石宮に祈るに甚驗し有りとて、參詣多し、もとは特立の一社なりしが例の合祀の爲、同島天滿宮に合併され了りしも、犬形の神石は、依然島側の一嶼に在り、此犬島は、菅公流罪の時風波を避て船を寄せしに、犬別れを惜みて鳴き、化して石と成れりといふ、依て天滿宮と犬石宮を建たり云々」。
[やぶちゃん注:「峯相記に、……」「みねあひき(みねあひき)」(但し、音読みして「ほうそうき」「ぶしょうき」とも読むらしい)は鎌倉末から南北朝期の播磨国地誌。作者不詳であるが、正平三/貞和四(一三四八)年に播磨国の峯相山(ほうそうざん)鶏足(けいそく)寺(現在の兵庫県姫路市内にあったが、天正六(一五七八)年、中国攻めの羽柴秀吉に抵抗したため、全山焼き討ちに遇つて廃寺となった)に参詣した旅僧が同寺の僧から聞書したという形式で記述されている。中世(鎌倉末期から南北朝にかけて)の播磨国地誌となっており、同時期の社会を知る上で貴重な史料とされる。中でも柿色の帷子を着て、笠を被り、面を覆い、飛礫(つぶて)などの独特の武器を使用して奔放な活動をしたと描かれてある播磨国の悪党についての記述は有名である。兵庫県太子町の斑鳩寺に永正八(一五一一)年に写された最古の写本が残っている。以下は「国文学研究資料館」の電子データの、ここから(右頁二行目末から左頁六行目まで)読める(写本と思われるが、訓点と本文平字が混在するものだが、非常に読み易い)。熊楠の起こしたものとは伝本が違うか、やや異同があるので、以下に示す。漢字は全て正字とした(リンク先のそれは略字が多い)のままに電子化した。
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又粟賀犬寺者當所ノ本主秀府ト云者有リ高名ノ獵師也彼僕秀府カ妻女ヲ犯シ、剩秀府ヲ殺乄夫婦ト成ント云有二密契一郞從秀府ヲ狩塲ヘ誘出山中ニテ弓ヲ引キ矢ヲ放ントス既ニ害ニ及時秀府カ祕藏犬大黑小黑トテ有二二疋一彼郞從ニ飛懸リ左右ノ手ヲ喰テ秀府刀ヲ拔キ飛懸テ仔細ヲ尋處有マヽニ承伏ス則郞從ヲ害シ妻妾ヲ厭却乄發道心出家入道ス臨終ニ及時男女ノ子無之故ニ所帶ヲ二疋ノ犬ニ與畢ヌ犬二疋死後頷家ノ計ト乄以二彼田畠ヲ一建二立一院ヲ一秀府幷ニ二疋ノ犬ノ菩提ヲ弔僧房繁昌乄行二佛法一炎上ノ時尊像十一面觀音秀府二疋ノ犬ノ影像北山ヘ飛移ル其所ヲ崇テ法樂寺と號す云云
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ここに出る粟賀犬寺は現存する。兵庫県神崎郡神河町にある真言宗金楽山法楽寺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)で、本尊も十一面千手観音であり、別名を「粟賀犬寺」「播州犬寺」或いは単に「犬寺」と呼ぶ。同寺公式サイト内の「縁起」に伝承が記されてあるので読まれたい。なお、以下の引用例の多くは(全てではない)、南方熊楠の、後のかの〈十二支考〉の一つである「犬に關する民俗と傳說」(初出は大正一一(一九二二)年に『太陽』に分割連載)に於いても取り上げている。
「是れ貞和四年(五百五十二年前)の記也」本主篇は明治四四(一九一一)年七月発表であるから、「五百六十三年前」の誤りである。
「アゾールス」大西洋の中央部マカロネシアにある、ポルトガル領のアゾレス諸島(英語:The Azores)のことであろう。島名の発音はポルトガル語ではアソーレス (Açores) である。【以下、2020年12月5日改稿】『犬の記念に建てし寺あり、天主敎の尊者「ロシユ」、黑死病者を救ふこと數萬にして、自ら之に罹り困みし時、此犬、食を運びて之を助けしと云ふ』については何時も御情報を戴くT氏より御指摘を戴いた。「Internet Archive」で「Notes and Queries」の南方熊楠が指示する集成本が閲覧視認が出来、その「189」ページの右手の記事にまず、「アゾールスに犬の記念に建てし寺あり」の部分があり、さらに、「236」の右手で後半部が書かれている旨、お教え戴き、また、「ロシユ」についても、ウィキの「ロクス」を紹介戴いた。それによれば、『聖ロクス』は『ラテン語:Rochus、イタリア語:Rocco、フランス語:Roch、スペイン語及びポルトガル語:Roque』(熊楠の「ロシユ」は生まれのフランス語表記の音写)で、一二九五年生まれで、一三二七年八月十六日没の『カトリック教会の聖人』であり、『ペスト(黒死病)に対する守護聖人とされたことから、古くからヨーロッパで崇敬の対象となってきた。絵画や肖像では、裂傷を負った脚を見せて立ち、傍らにはパンをくわえたイヌが描かれている。犬が食べ物を運び、ロクスの傷を舐めて治してくれたという伝説がある』とあり、彼は、一二九五年に『フランスのモンペリエで総督の子息として生まれ』、二十『歳のとき』、『両親をなくしたのを機に』、『全財産を貧者のために投げうってローマ巡礼の旅に出た。ローマでは』、『当時』、『流行していたペスト患者の看護にあたった。ロクスが患者の頭上に十字架の印をすると、患者はたちまち癒えたという』。しかし、『ピアチェンツァでロクス自身もペストにかかった。回復後、ロクスは祖国に戻り』、『故郷モンペリエに到着したが、フランスは戦争で分裂状態であったため』、『彼の身元が判明しなかった。ロクスはスパイだと勘違いされ』て『刑務所に投獄され』、『獄中で死去した』とある。「Notes and Queries」でも「Roch」の綴りが用いられている。
「Notes and Queries, 9th Ser. xii. pp. 189, 236, sept.1903,」サイト「南方熊楠のキャラメル箱」(本篇の分割現代語訳が載る)の「ノーツ・アンド・クエリーズ(Notes and Queries)」によれば、一八四九年(天保十二年相当)に『イギリスで創刊された学術雑誌』で、『その副題に「文学者、芸術家、古物研究家、系譜学者その他の間の相互交通のための媒体」とあり、「ノーツ(報告)」「クエリーズ(質問)」「リプライズ(答文)」の』三『部から構成される、読者投稿のみによって』構成されていた。『種々雑多な内容に富み、『ネイチャー』』(Nature:一八六九年(明治二年相当)にイギリスで、太陽観測で知られる天文学者ジョセフ・ノーマン・ロッキャー(Joseph Norman Lockyer 一八三六年~一九二〇年)によって創刊された自然科学雑誌。創刊当時から現在に至るまで世界で最も権威のある自然科学雑誌の一つである)『が自然科学雑誌であったのに対し、『ノーツ・アンド・クエリーズ』は何でもありな感じで、南方熊楠』『も生き生きと筆を振るうことができたのだと思』うとあり、帰国前年の一八九九年六月に『初掲載されて以降、熊楠は次第に発表先を『ネイチャー』から『ノーツ・アンド・クエリーズ』に移し』たとある。この『初掲載から晩年』の昭和八(一九三三)年までの『間に『ノーツ・アンド・クエリーズ』に掲載された論文は』三百二十三篇で、『南方熊楠は『ノーツ・アンド・クエリーズ』の読者や編集者から東洋学の権威として一目置かれ』たとある。【2020年12月5日改稿】「9th」及び「189」は底本では「qth」と「18q」であるが、おかしいので、平凡社選集で特異的に訂した。後者については本記事の公開後、T氏からの御指摘で変更した。南方熊楠の初出原本(「j-stage」にある原雑誌画像抜粋(PDF。当該論考「○本邦に於ける動物崇拜(追加)」(元には、かく山中論文への「(追加)」という添え書きがあることが判る)の全文が載る)でも、正しくそうなっていることをT氏より頂戴し、確認した。
「アラビヤ及び歐州に行はれし、犬が僧正に遺產を進ぜしてふ譚」【2020年12月5日改稿】やはりT氏より、原拠が「Internet Archive」で「Notes and Queries」のこちらの右ページ左から始まる「THE DOG WHO MADE A WILL. 」にあることを御指摘戴いた。T氏に心より御礼申し上げるものである。
「倭漢三才圖會卷六九にも忠犬を祀れる話有り、……」同巻の「參河」の「當國 神社佛閣名所」にある「犬頭社(けんづのやしろ)」。既に「和漢三才圖會卷第三十七 畜類 狗(ゑぬ いぬ) (イヌ)」で、所持する原本で原文と訓読文を示してあるので参照されたいが、他に「諸國里人談卷之一 犬頭社」でも調べて詳細に注してあるので、そちらも併せて見られたい。この社は、当時の位置から少し移動しており、愛知県岡崎市宮地町馬場に合祀されて「糟目犬頭神社(かすめけんとうじんじゃ)」として現存する。
「馬文耕の近世江都著聞集」江戸中期の講釈師で作家の馬場文耕(享保三(一七一八)年~宝暦八(一七五九)年)。本姓は中井。伊予出身で、江戸に出て、名を文右衛門と改め、文耕と号し、初めは易術で生計を立てていたという。諸家に出入りして、座敷講釈をする一方で、第八代将軍徳川吉宗を賛美するエピソードや、時事問題を題材とした実録小説を書き、貸し本屋に売って暮らしを立てていた。性、闊達で、豊かな学識を持っていたが、世に入れられぬ不満から、講釈中にも第九代将軍徳川家重の治世や世事を誹謗すること多く、宝暦八(一七五八)年九月、当時、御家騒動で有名だった美濃郡上八幡城主金森頼錦(かなもりよりかね)の収賄事件を「珍説もりの雫」と題して、話のなかに取り込み、さらに小冊「平かな森の雫」を公刊したため、捕縛され、幕政を批判した科(とが)で打首獄門となった。閲歴には不詳な点が多いが、吉宗に仕えた下級の幕臣であったとも言われる。「近世江戸著聞集」(「近世江都著聞集」に同じ。宝暦六(一七五七)年刊)の他、「当世武野俗談」「大和怪談」などの著で知られる(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。当該話は「近世江都著聞集」の「三浦遊女薄雲」で、私は既に『柴田宵曲 妖異博物館 蟒と犬』の注で電子化しているので参照されたい。この遊女薄雲と忠猫(ちゅうびょう)の話はかなり知られた話で、浮世絵にもなっており、太田記念美術館主席学芸員の日野原健司氏が「猫が大好き過ぎる花魁・薄雲のお話」で浮世絵の画像とその翻刻をされておられるので、是非、見られたい。
「續搜神記(淵鑑類函卷四三六に引り)に、……」「惟注睛砥唇視奴、奴食催轉急」は「睛」は底本「晴」であるが、意味が通らず、原拠を確認し、かく特異的に本文を訂した。また、「烏龍」も底本は「烏龍」は「鳥籠」であるが、如何にもおかしいので原拠を確認したところ、かくあったので、特異的に訂した。「續搜神記」は志怪小説集「搜神後記」の別名。東晋の政治家で文人の干宝(?~三三六年)に倣って、後の六朝時代の陶淵明撰とされるが、偽作と考えてよい。同書の第九巻に、
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會稽句章民張然、滯役在都、經年不得歸。家有少婦、無子、惟與一奴守舍、婦遂與奴私通。然在都、養一狗、甚快、名曰「烏龍」、常以自隨。後假歸、婦與奴謀、欲得殺然。然及婦作飯食、共坐下食。婦語然、「與君當大別離、君可强啖。」。然未得啖、奴已張弓拔矢當戶、須然食畢。然涕泣不食、乃以盤中肉及飯擲狗、祝曰、「養汝數年、吾當將死、汝能救我否。」。狗得食不啖、惟注睛舐唇視奴。然亦覺之。奴催食轉急。然決計、拍膝大呼曰、「烏龍、與手。」。狗應聲傷奴。奴失刀仗倒地、狗咋其陰。然因取刀殺奴。以婦付縣、殺之。
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会稽句章の民、張然、滯役して都に在り、年を經て歸り得ず。家に、少婦、有り。子、無く、惟(た)だ一(ひとり)の奴(ど)と、舍(いへ)を守るも、婦、遂に奴と私通せり。然、都に在りて、一狗を養ふに、甚だ快く、「烏龍」と名づけ、常に以つて自らに隨はせり。後。假(かり)に歸るに、婦、奴と謀(はか)り、然を殺-得(ころさ)んと欲す。然、婦、飯食を作るに及び、共に坐下に食ふ。婦、然に語りて、
「君と、當(まさ)に大きに別離しつべし、君、强ひて啖(く)ふべし。」
と。
然、未だ啖ふを得ず。
奴、已に、弓を張り、箭(や)を拔き、當に戶(とぼそにた)つべし。須(すべか)らく、然、食ひ畢(をは)らんとするも、然、涕泣して、食はず。乃(すなは)ち、盤中の肉及び飯を以つて、狗に、與(あた)へ、祝ひて曰はく、
「汝を養ふこと、數年、吾、將に死せんとすべきに、汝、能く我を救ふや否や。」
と。
狗、食ひ得るに、啖はず。惟(ただ)、睛(ひとみ)を注ぎ、唇を舐(ねぶ)り、奴を視る。
然、亦、之れを覺る。
奴、食を催すに、転(うたた)、急なり。
然、計を決し、膝を拍(う)ち、大いに呼びて曰はく、
「烏龍、手を與(くみせ)よ。」
と。
狗、聲に應じ、奴を傷つく。
奴、刀杖を失(しつ)し、伏して地に倒(たふ)れ、狗、遂に其の陰[やぶちゃん注:身体。]を咋(くら)ふ。
然、因りて、刀を取りて奴を殺し、婦を以つて縣に付し、之れを殺す。
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「法苑珪林卷四十五に、……」二番目の「梵士」(ぼんじ:梵天を崇める者のことで、バラモン教徒を指す)は底本では「梵土」。誤植と断じ、特異的に訂した。「法苑珠林」(ほうおんじゅりん)は唐の道世が著した仏教典籍の類書(百科事典)。全百巻。六六八年成立。引用する典籍は、仏教のみならず、儒家・道教・讖緯・雜著など、実に四百種を超え、また、現在は散逸してしまった「仏本行経」・「菩薩本行経」・「観仏三昧経」・「西域誌」・「中天竺行記」なども引用しており、インドの歴史地理研究上でも重要な史料となっている(以上はウィキの「法苑珠林」に拠った)。「僧祗律」は「摩訶僧祇律」(まかそうぎりつ)で、東晋の仏陀跋陀羅と法顕の共訳になる、小乗仏教の大衆部に伝わる律。全四十巻。「那俱羅蟲」は、後の「犬に關する民俗と傳說」の「一」の末尾で(引用は平凡社「南方熊楠選集2」(一九八四年刊)に拠った)、
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『摩訶僧祇律』三にいわく、過去世に婆羅門あり。銭財なきゆえ、乞食して渡世す。その妻、子を産まず、家に那倶羅(なくら)虫あって一子を生む。婆羅門これを自分の子のごとく愛し那倶羅の子もまた父のごとく彼を慕う。少時して妻一子を生む。夫いわく、那倶羅虫が子を生んだはわが子生まるる前兆だった、と。一日、夫乞食に出るとて妻に向かい、汝外出するなら必ず子を伴れて出よ、長居せずと速やかに帰れと命じた。さて妻が子に食を与え隣家へ舂(うす)つきに往くとて、子を伴れ行くを忘れた。子の口が酥酪(そらく)[やぶちゃん注:ここは「乳(ちち)」の意。]で香う[やぶちゃん注:「にほう」。]を齅(か)ぎつけて、毒蛇来たり殺しにかかる。那倶羅の子、わが父母不在なるに蛇わが弟を殺さんとするは忍ぶべからずと惟い[やぶちゃん注:「おもい」。]、毒蛇を断って七つに分かち、その血を口に塗り、門に立って父母に示し喜ばさんと待ちおった。婆羅門帰ってその妻家外にあるを見、かねて訓え[やぶちゃん注:「おしえ」。]置いたに何ゆえ子を伴れて出ぬぞと恚(いか)る。門に入らんとして那倶羅子の唇に血着いたのを見、さてはこの物われらの不在にわが児を噉(く)い殺したと合点し、やにわに杖で打ち殺し、門を入ればその児庭に坐し、指を味わうて戯(たわむ)れおり、側に毒蛇七つに裂かれおる。この那倶羅子わが児を救いしを、われよく観ずに[やぶちゃん注:「みずに」。]殺したと悔恨無涯で地に倒れた。時に空中に天あり、偈(げ)を説いていわく、「よろしく審諦(あきらか)に観察すべし、にわかなる威怒を行なうなかれ。善友の恩愛離れ、枉害(おうがい)[やぶちゃん注:捻じ曲がった認識の及ぼす悪い結果。]は信(まこと)に傷苦(いたま)し」と。那倶羅は、先年ハブ蛇退治のため琉球へ輸入された、英語でモングースというイタチ様の獣で、蛇を見れば神速に働いて逃がさずこれを殺す。その行動獣類よりも至ってトカゲに類す(ウッド『博物図譜』一)。したがって音訳に虫の字を副えて那倶羅虫としたのだ。『善信経』には黒頭虫と訳しおる。
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と記している。「モングース」は、言わずもがな、食肉目マングース科 Herpestidae のマングース類で、沖縄本島が最初の導入で、明治四三(一九一〇)年に、今や悪名高き動物学者渡瀬庄三郎の慫慂によって、エジプトマングース属フイリマングース Herpestes auropunctatus がネズミ・ハブ駆除にのために人為的に持ち込まれ、鹿児島や南西諸島各地にも一九〇〇年代に人為移入が試みられたが、今や、特に沖繩の生態系破壊の悪質外来種の一つとなってしまっている。同種はアフリカ大陸から東南アジアにかけてを原産地とする。因みに、可愛いとしてブレイクしたスリカータ属ミーアキャット(Meerkat)Suricata suricatta はマングース科であることはあまりよく知られているとは思われないので一言付け加えておく。
「Clouston」イギリスの民俗学者ウィリアム・アレキサンダー・クラウストン(William Alexander Clouston 一八四三年~一八九六年)。
『犬寺及び犬頭禮の傳記は今昔物語卷廿九、陸奧國狗山狗咋殺大蛇語などを通じて』底本では当該話を「卷卅九」とするが、誤りなので、特異的に訂した。同「陸奧國(みちのくのくに)の狗山(いぬやま)の狗(いぬ)、大蛇(だいじや)を咋(く)ひ殺せる語(こと)第三十二」は、私の「柴田宵曲 妖異博物館 蟒と犬」で既に電子化してあるので、参照されたい。
「イクニュウモン」この名称はマングース科エジプトマングース属エジプトマングースHerpestes ichneumon の種小名である。但し、エジプトマングース属 Herpestes は、かなりの種がいる。
「山二二四頁」私が電子化した『山中笑「本邦に於ける動物崇拝」(南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拝」の執筆動機となった論文)』の「犬及狼」の条には、
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犬及狼 火防盜人を除き、及、小兒を保護す。
上州椿埜山の神犬。
武州御嶽の大口眞神。
備後木野山の御犬。
相甲境王瀨龍の御犬。
秩父三蜂の犬。
南都法華寺の犬守。
犬張子。
上總海岸に流行神とせられし死犬の靈。
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とあり、熊楠の指す、「二二四」ページでも、
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犬と狼 御嶽三峯、金峯椿埜、其他、諸國に犬を書きたる戶守を出す神社あり。犬の門戶を守るよう、盜賊、火災を知らず、と信じたるより起りしなれど、狼は門を守る如き獸にもあらぬに、武藏御嶽より出す札守には、狼を𤲿き、其上に大口眞神と記せり。萬葉集に「大ロの眞神(マガミ)の原に」と云へるあれど、狼の口、大きなるをいふにて、まがみは眞神(マガミ)の意にあらず。嚼(カム)にて、眞に甚敷[やぶちゃん注:「はなはだしき」。]を云ふにて、神のことにあらず。此の如き誤りより、狼の𤲿、守を信ず者あるに到れり。
若狡三方郡向陽寺より出す狼の守は、住職が狼の咽喉にたちし骨をぬきやりし恩返しに與へし守札と云へり。
越前今立郡上池田日野宮神社の神使は狼なりと信ずるより、此狼、盜人除をなす、と信ぜり。之前に云へる犬の門を守るより、移り來りし誤りなり。
犬守、犬張子等、犬の子育、丈夫なるより來れる俗信なり。犬の死靈、魚漁の幸を與へしとて、上總より安房の海岸に流行神となりしことあり。偶然の出來ごと[やぶちゃん注:濁音化した。]を迷信せしより起りしなり。
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とあるばかりで、確かに、最も知られている(少なくとも今はそうである)四国の犬神伝承が欠落している。
「備前邑久郡朝日村」岡山県岡山市東区宝伝附近。
「犬島」ここ。
「犬石宮」この「犬ノ島」に現存するようである。個人ブログ「旅、島、ときどき、不思議」の「5月3日は犬石宮の例大祭で犬ノ島に上陸可能」に拠った。
「同島天滿宮」ここであろう。]
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