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2020/12/06

ブログ・アクセス1,460,000突破記念 梅崎春生 大夕焼

 

[やぶちゃん注:昭和三八(一九六三)年七月号及び九月号『小説新潮』に発表された。

 底本は「梅崎春生全集」第一巻(昭和五九(一九八四)年五月刊)に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。本文中にごく簡単な注を挾んだ。

 底本末の本多秋五氏に解説で、本篇について述べた最後で、『ここは戦後一八年という時代の刻印がハッキリと打たれている。現在が空しいという感じが、過去の充実をなつかしく思い出させる。作品の重心を過去から現在へ切り換えると、『幻化』の世界がひらけるはずだ。作者はこの『舞踏会の手帖』式の、旧跡遍歴の旅という形式が、よほど気に入っていたらしい』と評しておられる。因みに、「舞踏会の手帖」は私の偏愛するフランス映画の一つで、原題は「Un carnet de bal」。一九三七年公開で、監督は巨匠ジュリアン・デュヴィヴィエ(Julien Duvivier)、主演はマリー・ベル(Marie Bell)で、以下、脇役も手堅い俳優ばかりである。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが数時間前、1,460,000アクセスを突破した記念として公開する。【2020126日 藪野直史】]

 

 

   大 夕 焼

 

「あれはなんとも奇妙な三箇月だったな」

 ペンキ屋栗田太郎は店の近くの丘に登り、夕方の風景を眺めながら、そう思った。丘から見おろすこの一帯は、三四年前までは家がほとんどなく、ぽつんぽつんと見えるのは防風林に囲まれたわら屋根だけだったのに、この頃は宅地が造成され、次々に新しい形の小住宅が立ち始めている。球状のガスタンクも遠くに見えた。

「何にもしないでいいくせに、何かじりじりとせき立てられるような、空虚なくせにひどく充実したというような――」

 緑の野や斜面が次々に形を変え、むき出された赤土が石垣で区切られて、家が続々つくられる。展望がだんだん人間くさい趣きをそなえて来る。それは栗田にはわびしい気持も起させるが、しかし侘しいとか殺風景だとかは言っておられない。そのために栗田の商売はしだいに繁昌し、こんなふところ手で景色を眺める余裕もうまれて来たのだから。

 彼はやや自嘲的に自分をペンキ屋と呼んでいるし、他人もそう呼ぶが、正確に言えば塗装料店である。もちろん彼も刷毛をふるって仕事をするけれども、近頃の新住宅の主たちは日曜大工が多くて、塗装料だけの売上げも飛躍的に上昇している。ここら界隈には塗装店は彼のところだけなので、ここから見渡す家々の大半のペンキは、彼の店を通じて売れたものである。ありがたく思いこそすれ、自然の破壊を嘆くべき筋合のものでなかった。しかし栗田には、なにかぬるま湯にひたっているような、どんよりした倦怠感がある。栗田は視線を転じて、ガスタンクの彼方の空を見た。夕日が束になって反射し、ようやく夕焼けが始まろうとしている。この夕焼けを見るために、その時刻をねらって、彼はこの丘に登って来たのだ。

「あの日も夕焼けだったな。しかしこんな小規摸な夕焼けじゃない。空全体が真赤になるような大夕焼けだった」

 栗田は口に出して呟いた。

「おれもそろそろ四十になる。あいつはもう四十を越した筈だが、まだ生きているだろうか。生きているとすれば、まだあの島にいるのだろうか」

 旅情というよりは、もっとなまぐさい烈しいものが、栗田の胸に突き上げて来る。それを味わいたいために、彼は時折暇をぬすんで、この丘に登って来るのだ。

 

 昭和二十年八月十五日という日は、栗田にとって突然やって来た。その日彼は足首をネンザして、壕の奥の木製寝台の上に横たわっていた。寝台の上段から飛び降りそこねて、ぐきりと、くじいたのだ。

 孤島、というと言い過ぎになる。本土から四里ほど離れた小さな島で、そこの守備隊に彼は海軍兵士として勤務していた。四里ほどなので、雨でも降らない限りは、本土が見える。しかし彼は格別に郷愁というものは感じなかった。その本土は爆撃にさらされ、形容を変えているし、物資もほとんど尽きかけているのを知っていたからだ。

「どうせ死ぬんだからな。どこでも同じだ」

 と栗田は考えていた。絶海の孤島じゃないし、帰ろうと思えば小舟をあやつって帰ることも出来る。それが彼の郷愁を中途はんぱにしている傾向もあった。壕はU宇型で、海風はよく通ったが、やはりむしむしと湿って暑い。作業を免ぜられて、一日一度衛生室に行く以外は、彼は寝台に坐ったり、横になったりしていた。

「アメリカ軍が本土に上陸すれば、結局おれたちは逃げ道がない。ここで自滅するだけだ」

 終戦のことを知ったのは、衛生室である。衛生室は少し離れた別の壕の中にあり、栗田は手製の杖をついて、そこに通っていた。くじいてから三日目のことである。午後三時頃そこに入って行くと、衛生科の連中に妙な雰囲気がただよっているのを彼は感じた。

「何をざわざわしてるんだい」

 彼は顔見知りの水木という衛生兵に声をかけた。薬品の詰換えに当っていた水木は、振り返って彼の顔を見た。亢奮(こうふん)を押しつぶした声で言った。

「まだ知らないのか。戦争は終ったんだよ」

「戦争が終った?」

 彼は驚いて反問した。

「本当かい?」

「本当だとも」

 水木は整理の手を休めて、彼の傍に近づき、繃帯を取り始めた。腫(は)れた足首の部分をぎゅっと押した。彼はうっとうなった。

「痛いかね?」

「痛いよ」

「そりや困るな。たいへんだぞ」

「何がたいヘんなんだ?」

「隊長どんは早いとこ部隊を解散して、本土に戻るつもりらしい。歩けないとここに取り残されるぞ」

 湿布を取換えながら、今日の放送が終戦の詔勅だったこと、解散の件で薬品梱包(こんぽう)を命じられたこと、在島の軍物資は各人で分配して米軍に渡さぬ方針を取ることなどを、水木は説明した。

「ふん。それでざわめいているんだな」

 彼も亢奮をかくしたかすれ声で応じた。喜びと同時に、強い不安が来た。

 「それで解散はいつなんだ?」

 

 今思うと、あの隊長はキンチャク切りのようにすばしこい人間であった。そう栗田は考える。もちろん栗田は兵隊なので、隊長と個人的な接触は全然なかった。隊長ともあれば、戦局についての見通しはあったに違いない。齢も現在の栗田より若かった筈だが、終戦の放送と共に解散に踏み切ったのは、おそらく独断専行というやつだろう。

「おれがもしあの隊長だったら――」

 丘の草原に腰をおろして、栗田はタパコに火をつけながら考える。

「そんな大胆な措置は取れないな」

 物資の分配はその翌朝から始まった。士官や上級下士官が取りたいだけ取り、主計科が取り分だけ取り、それでも物資はたくさん余った。終戦時でも海軍は物資を豊かに確保していた。

「何分隊罐詰(かんづめ)取りに来たれ」

「何分隊配給物、代表者来たれ」

 もう軍隊としての作業はなくなり、朝からそんな呼び声が壕から壕へ飛び交う。各人せっせと衣囊(軍隊用のリュックサック)にそれらを詰め込む。しかしそれには限度がある。自力でかつげる程度にだ。かつげなければ持って帰れないのである。

 嵐のような二日間が過ぎた。八月十八日に大発がやって来た。人や武器や物資を運ぶために、大発は海上四里を幾度か往復した。残されたのは十人ばかりの病人(重症はいなかった)と衛生兵が一人、それにかなり多量の食糧や衣料や毛布類だ。[やぶちゃん注:「大発」一九二〇年代中期から一九三〇年代初期にかけて開発・採用された大日本帝国陸軍の上陸用舟艇である大発動艇(だいはつどうてい)の通称。詳しくはウィキの「大発動艇」を見られたい。]

 栗田ももちろんその中に入っていた。体ひとつなら足を引ぎずっても帰れそうだったが、やはり彼にも分配の重い衣囊があったし、本土の鉄道は爆撃で寸断され、徒歩連絡の場所が多いと聞かされたからだ。えいえいと重いものをかついで行く自信はない。つまり彼は取り残されたというより、自ら進んで残留したのだ。それに一刻も早く帰還する必要も気分も、戦争が済んだ今になっては、彼にはなかった。

 帰ろうと思えば、いつでも帰れる。大発が来なくても、米軍の飛行機、ことにグラマンさえいなければ、下の部落から舟は自由に出してもらえる。軍医が患者たちを見捨てたのも、そのことを考慮に入れていたのだろう。そこで軍医は衛生兵長の水木にすべてを託して本土へ遁走した。

「無責任な軍医だなあ」

 水木が残留と判った時、栗田はすこし憤慨した。

「お前は無理矢理に貧乏くじを引かされたようなもんじゃないか」

「いや。おれは別にあいつたちを恨まないよ。自分で志願したようなもんだから」

 水木は低い声で言った。

「第一おれには帰るところがないんだ」

 水木は彼と同年輩であり、階級も同じである。この島で知り合った時から、彼はこの水木にどこか暗い翳(かげ)があるのを感じていた。

「帰るところがないって? それはどういう意味だい?」

「おやじもおふくろも妹も、皆空襲でやられてしまったんだ。六月十九日にね。近くの銀行の中に逃げこんで――」

 水木はうめくような声を出した。

「むし焼きみたいに死んじまったんだ」

 六月の末に栗田はこの島に転勤して来た。その時、水木はすでに肉親をうしなっていたが、そのことを水木は何も彼に洩らさなかった。こんな苦渋の表情を見せたのは、これが初めてである。

「そうか。そうだったのか」

 背を向けた水木の、少年の幼さを残した項(うなじ)を見ながら、栗田は言った。

「おれにも両親はいない。死んでしまった」

「戦争でか?」

「いや。ずっと以前からだ」

 同情の言葉にはならないことを知ってはいたが、彼はそう言った。水木はしばらく黙っていた。やがて口を開いた。

「でも、帰るところがあるんだろ。早く足首を直して帰れや」[やぶちゃん注:「皆空襲でやられてしまったんだ。六月十九日にね」昭和二〇(一九四五)年六月十九日の大きな空襲は三ヶ所ある。一つは、「福岡大空襲」で死者九百二人、また、同日から翌日にかけての「静岡大空襲」(死者千九百五十二人)と同じ期日間の「豊橋空襲」(死者六百二十四人)である。梅崎春生は福岡出身であるから、最初のそれを想起している可能性は高い。]

 

 十人ばかりの病人は、一人をのぞいて、次々になおった。発熱を伴う風邪とか腸カタルなので、別に軍医の手をわずらわせるほどもなく、水木の注射や投薬で回復した。おおむね応召の老兵で、回復すると直ちに帰心が起きるらしく、衣囊を背負って部落に降り、手こぎの漁舟を雇って本土に渡った。残る者は崖の上から、あるいは砂浜から、帽を振ってこれを見送った。舟からも帽は振られ、やがて小さくなり、消えて行った。

 ただ一人、壕の奥に横になり切っていたのは、竜という姓の応召の兵長である。応召して兵長に進級したのではなく、十年前に兵長となって海軍を去り、また召集されて来たのだ。齢の頃は三十前後で、栗田の眼にはひどく大人(おとな)に見えた。同じ兵長は兵長でも、生活のにおいをただよわせているのである。水木や栗田にとって、竜のような存在は、ちょっと始末に困るようなところがあった。同じ階級でも、海軍の飯を食ったのは、竜の方が十年も早い。何かにつけて一目置かねばならぬのだ。

 しかし竜が壕から見送りに出ないのは、威張って横着を極めこんでいたわけではない。彼は脛骨(けいこつ)の骨折で、動けなかったからである。副木(そえぎ)をあてて、肥った体を持て余すようにして、一日中壕の中に逼塞(ひっそく)していた。

「ああ。あれはつらかっただろうな」

 今にして栗田は思う。

「働き盛りで、それで島に閉じ込められて故郷に帰れないでいるのは」

 竜が足を折ったのは、夜の坂道を部落に降りたからである。解散以前は、一般の下士官兵は、部落行きを禁じられていた。(性というものの関係などがあって、海軍の威信を傷つけるという理由でだ)ところが竜は古参兵長の地位を利用したのか、または海軍のそんなケチな慣習を認めなかったのか、時々夜陰(やいん)に乗じて部落に降りた。女と仲良くなったり、主計兵からおどし取った物資を芋焼酎と交換したり、かなり大胆で自由な行動をとっていたようである。体軀(たいく)も大きいし、筋骨もたくましかったが、右の眼に何か故障があるらしく、瞳がぼんやりと白濁していた。表情に動きがないので、何を考えているか判らないようなところがあった。しかし檻(おり)に押し込められた獣のように、いらだっていることだけははっきりと看取された。そんな竜を栗田は気の毒に思ったし、水木も同情していた。

「竜さん。つらいでしょうが、なおるまでは辛抱して下さいよ。骨折はこじれると、あとに残るから」

「判っとる。判っとるよ」

 竜は重苦しい声で言った。

「わしは運が悪かったんじゃ」

 竜の骨折のなおりが遅かったのは、岩につまずき、それをムリして隊に戻って来たからだ。水木は栗田に言った。

「骨を傷めたら、絶対に動いちゃいけないよ。その場にじっとしていることが一番だ」

 でもその場にじっとしていたら、禁止を違反したことがばれる。だから竜は這うようにして壕に戻って来たのだ。

「ネンザだって同じだよ。しばらく保養のつもりで、ここで遊んで行けや」

 

「その頃の水木は、幸福だったんだろうなあ」

 夕焼けを眺めながら、栗田は思う。なにしろ食糧や衣料には不自由しない。水木はこの島では最高の権力者であった。朝起きて病人を見廻り、あとは自由にふるまっている。部落に降りて行けるのも、水木一人であった。降りて行かなければいけない事情もあった。

 食糧が豊富だったとは言え、それは米と罐詰などの保存食品だけである。生鮮食品、たとえば魚や野菜は部落に行き、米や毛布と交換で補給せねばならぬ。その任に水木が当っていた。米などは、軽病者が本土に去り、三人が一年経っても食べきれぬほどの糧があった。ところが下の部落では、土地が貧しくて、米が出来ぬ。米をやれば島民はよろこんで、野菜や魚を供出した。

「しかし幸福なことが結局、水木に災(わざわ)いをしたんだ」

 タバコを踏み消して、栗田は感慨にふける。

「親切が水木の運命を狂わせた」

 水木としては、衛生兵の仕事だけでない。炊事も洗濯も彼がやった。彼はおっくうがることはなく、献身的にそれをやった。時には栗田も加勢したが、水木はてきぱきと動いて、その任を果した。むしろそのことに喜びを感じているように見えた。

 栗田のネンザの治療は、一箇月ぐらいかかった。痛みや腫(は)れは割に早くなおったけれど、大事をとった方がいいという水木の勧告で、濠の近くを歩き廻ることで、足を慣らすことにした。まだ本土の交通も回復していないし、重い衣囊をかついで歩く自信はなかった。いくらか足に自信がつくと、水木に伴われて、山道を部落に降りた。

 この島はおおむね丘陵部からなり、その下に狭い平地があった。平地には百戸ばかりの部落があって、段々畠をつくっている。

 「あれはやはり火山灰地だな」

と栗田は今思うが、米はとれない。芋や根菜類がおもである。海では魚がとれる。そのための舟があるが、戦争のために若い男たちは引っぱられ、その上グランが飛び交うので、手入れされずに廃船同様のものがなかばをしめている。電燈もつかない。ランプで生活している。ひとことに言えば、貧寒な土地にゼニ苔(ごけ)みたいにはりついた島民の生活であった。

 部隊の壕は丘の中腹にあった。部落へ降りるのは、一旦崖に出て、そこからジグザグの道を降りるのである。まだ草はむんむんと茂っていたが、吹いて来るのはもう秋風であった。自然に踏み固めたような小径で、石塊(いしころ)や岩がごろごろしている。

 最初水木に連れられて降りた時、水木はある岩の突出部を指さして言った。

「これらしいんだよ。竜さんが蹴つまずいて骨を折ったのは」

 栗田はそれを見た。

「夜だからね、用心していても、ついつまずいてしまったんだ」

「運が悪い人だね、竜兵長も」

 栗田は言った。

「戦争がまだ続いてりゃ、竜さんも休業(作業を免ぜられること)でラクが出来たんだが、戦争が終ったばかりに運命が裏目と出たんだな」

「そうだよ。災難はいつ襲って来るか判らない」

 部落に降りた。部落の家々は丈が低く、平べったくつくられている。颱風から身を守るためである。部落に入って、水木はここの村長(むらおさ)らしい構えの家に入り、リュックにつめた米を出し、若干の野菜類と交換した。村長の妻なのであろう、六十ほどの老女は米を押しいただくようにして受け取った。

「小母さん」

 水木は呼びかけた。

「その後新しい病人は出ないかね?」

 水木は医療品箱を肩から提(さ)げていた。老女は首を振った。

「あれでまだ四十五歳なんだよ」

 外に出て水木は説明した。

「どういうわけかここでは早く老(ふ)けてしまうんだ。水質のせいかな」

 それから四五軒の家を廻り、水木は病人や怪我人の手当や投薬をした。栗田はある驚きの念を持って、水木について歩きながら訊ねた。

「君は島民の治療をしてやっているのか?」

「そうだよ」

「いつから?」

「戦争が終ってからだよ」

 水木は振り返った。

「どうせ薬は余ってるしな。生かして使わなくちゃ損だよ」

「治療費は取らないのか?」

「取るわけないよ」

 水木は白い清潔な歯を見せて笑った。

「どうせ薬はタダだ。まあおれの退屈しのぎだね」

 その語調にウソはなかった。栗田はすこし感動した。君はいい奴だな。その言葉が口から出そうになったが、栗田は押えた。口に出すのは照れくさい気持があった。

 部落を抜けて海岸に出た。子供たちが裸で泳いだり、魚釣りをしたりしている。彼方に本土が淡く眺められた。海沿い道からまた丘に登ると畠があり、若い女が仕事をしていた。水木の姿を見ると、飛び上るように立ち、こちらに駆けて来た。

「具合はどうだい?」

「もうおなかはすっかりいいの」

という意味のことを、女はその島の方言で答えた。

「そりやよかったな。ツルさん」

 水木は言った。

「今度は手と足だ」

ツルはふしぎな容貌を持つ女であった。眼と眼の間が広くて、何だか魚の眼を栗田に聯想(れんそう)さぜた。鼻や耳も不均衡についていて、それぞればらばらについているようで、そのくせよく見ると、不調和でありそうでふしぎに調和していた。唇が美しく、形が良かった。あるいはその唇が全体の不調和を引きしめているのかも知れない。

 水木は医療品箱を下に置き、ツルを草に坐らせて、繃帯と軟膏(なんこう)を取り出した。ツルの手には潰瘍(かいよう)があった。

 

 以下は栗田が水木から聞いた話だ。

 一週間ほど前部落に降りて来た時、村長の妻から、ツルという女が烈しい腹痛を訴えていることを聞いた。水木は早速その家に出かけた。海に近いその小さな家で、ツルは暗い部屋の中で、汗みずくになって苦痛に耐えていた。

「胃痙攣だとおれは思ったな」

 水木は栗田に言った。

「おれは医者じゃないから、診断は出来ないけれど」

 水木はすぐに坂道をかけ登り、薬品や注射器を箱に入れ、壕から一気に部落までかけ降りた。ツルの家の庭を通る時、小屋の中で鶏がコケッコココと騒いだ。それだけ水木の速力が早かったことになる。

 鎮痛剤を打ち、やがて苦痛はやわらいだようで、ツルは眠りに入った。母親はおろおろとしていたが、娘のその状態を見て、水木に手を合せて伏し拝むようにした。

「つまりツルは母親と二人ぐらしだったんだね。兄がいるが、召集されて満州へ行き、まだ戻って来ないのだ」

 水木は説明した。

「男手がなくて、ツルが働き手になっているんだ」

「父親は?」

「ずっと前漁に出て、舟が沈んで死んでしまったらしい。なにせ不運な一家だよ」

 お前こそ家族を全部うしなって不運じゃないのかと、栗田は言い返そうとしてやめた。言うのは残酷であったからだ。

 水木は薬を母親に渡して、濠に戻った。翌日になるとまた気になって、医療品箱を持って、坂道を降りた。ツルは割に元気になっていて、食慾も出ていた。水木はほっとした。それと同時に、彼はこの一家(と言っても母娘二人だけだが)にある親近なものを感じた。自分が不運だから、自然とそんな感情が湧いて来たのであろう。

「何かお礼でも――」

「いや。お礼はいいんだよ。それよりも――」

 薄いかけ布団から出ているツルの腕に、水木の視線はとまった。そこに潰瘍(かいよう)のようなものが出来ていた。

「それ、どうしたんだね」

「ブヨに刺されましてね」

 母親が代って説明した。

 「かきむしるなと言うのに、かきむしってこうなったんです」

 この島には蚊やブヨや蠅が多かった。ことにツルの家は養鶏をやっているので、それらがしきりに飛び廻る。おそらく化膿菌がそこから入り、膿(う)んだのだろう。環境としては、ここはあまり良くなかった。

「これは放っといちゃいけないね」

 水木は言った。

「放っとくといつまでも直らないよ」

 水木はその箇所を消毒し、軟膏を塗って、繃帯をしてやった。脚にもかき傷があると言うので、水木は脚を出させた。ツルは若い娘なので、一瞬恥らいを示したが、思い切ったように布団から脚を出した。日頃はモンペにくるまれているから、露出した部分にくらべて、脚はまぶしいほど白かった。その一部分も化膿していた。水木はそれにも手当をほどこした。

「お礼なんか要らないんだよ」

 手当をすませて水木は立ち上った。

「皆帰ってしまったんだから、薬が余っている。タダでなおして上げますよ」

「どうもありがとうございます」

 母娘は頭を下げた。こうして水木と母娘の交情が始まった。翌日も水木は部落へ降りた。毛布二枚をたずさえて、鶏卵と交換を申し込んだ。水木が要求した鶏卵は九個である。つまり水木と竜と栗田三人に三個ずつというわけだ。この取引きには、母娘も驚いて辞退したらしい。それはそうだろう。毛布は貴重品であり、卵はいくらでも産んで呉れるものだからだ。

「いいんだよ。兵隊は皆復員したし、毛布なんてたくさん残っているんだから」

「皆帰ったの?」

「ああ。帰ったとも。大発でね」

 その質間の意味の重さを知らず、水木はかんたんに答え、毛布を押しつけて、壕に戻って来た。

「そうか。夕食に特大の卵焼きが出て来たのが、それだったんだな」

 栗田は言った。

「そうだよ」

 水木はうなずいた。

「竜さんもうまいうまいと喜んで呉れた。あれがそうだよ」

 

 栗田のネンザはほとんど回復した。水木は栗田に言った。

「もう大丈夫だよ。歩いて帰れるよ。おれが保証する」

 栗田は自分の衣囊を整理していた。彼は背中で水木の言葉を受け取った。栗田はしばらく黙っていた。彼は自分が去ったあとの島の生活を考えていた。

「竜さんはどうなんだ?」

 やがて栗田は言った。

「まだずいぶんかかるのか」

「そうだね。あと一箇月半や二箇月はかかるだろう。完全に歩けるまでにはね」

 竜もひと頃よりずっとよくなっていた。顔の表情にも重苦しさがとれて、時には冗談なども言うようになって来た。夕方になると、待ち兼ねるようにして、焼酎を請求した。壕の中には焼酎専用の瓶が置かれている。なくなりそうになると、水木が部落で罐詰や毛布と取りかえて、その瓶に満たした。竜は酒好きであったが、それほど大酒豪ではなかった。芋焼酎を水に割り、長い時間をかけて飲んだ。栗田たちも時には飲んだが、やはりその異臭にはなじめなかった。

「つくり方が下手なんだよ」

 ランプの下で竜が言った。自家発電装置は電信科の下士官が本土に運んだので、それ以来はランプで生活している。

「おれはね、ドブロクつくりの名人なんだ。杖をついて歩けるようになったら、米で純良なのをつくって飲ませてやるよ」

 竜はそんな無邪気な威張り方をした。初めはうっとうしい男だと思っていたが、竜という男は案外素朴で、実直な人間であることが栗田に判って来た。

「おれ、竜さんがなおるまで、この島に残るよ」

 衣囊整理を中止して、栗田は水木に答えながら立ち上った。

「どうせ帰るなら、三人いっしょに帰ろうじゃないか。おれだけ帰るのは侘し過ぎる。まだ食い物だって豊富にあるし――」

 復員したい気持はないでもなかった。しかし彼はこの二人の僚友に、強い友情みたいなものを感じ始めていたのである。長い一生の中で、二箇月や三箇月の空費が何であろう。まして故郷に幸福が待っているわけじゃないのだ。

残って呉れるか」

 水木は言った。

「どうせ別れる身だが、先に帰られるのは、おれもやり切れないと思ってたんだ」

 その夜は鶏をつぶして、すき焼きにして、三人で飲んだ。竜もよろこんだ。

「そうか。おれのために皆よくやって呉れるなあ。わしは嬉しいよ」

「竜さん。おれはあんたに、松葉杖をつくって上げるよ」

 栗田は言った。

「どうせ何もすることがないもんな。その松葉杖が要らなくなったら、いっしょに帰ろうよ」

 

 こうして栗田の島での奇妙な生活が始まった。今まではネンザをなおすという名分があったのに、今度はここにとどまる理由は何もない。でも彼はたのしかった。

 朝起きる。食事の仕度をする。三度の食事以外は、何をしてもいいし、何もしないでもいい。空虚のようで、充実した生活であった。

 彼は空いている木製寝台を取りこわし、少しずつ松葉杖をつくり始めた。松葉杖をつくるのは初めてで、たいへん苦心をしたが、完成は一箇月ぐらいあとなので、ゆっくり時間をかけて丹念に製作することにした。最初長さをきめるために、竜の脇の下から足までの長さを計った時、竜は笑いながら言った。

「ほんとにつくって呉れるのかい。わしは冗談だと思っていたよ」

「退屈しのぎだよ」

 彼も笑いながら言い返した。

「うまく出来たら、その技術を生かして、故郷で杖つくりになるよ」

 竜の骨組みや筋肉はがっしりしていたが、寝台にこもったきりなので、皮膚の色はへんになま白かった。

「あんたの商売は何だね?」

「わしか。わしは百姓だよ」

 竜は答えながら手を見せた。掌は節くれだっていた。

「今頃は新米が出来ているだろうなあ。早く動いて歩きてえよ」

 「あせってはダメだよ。脇の下に当る部分は、新品の毛布を二枚重ねにして取りつけてやるからね」

 松葉杖づくりに倦(あ)きると、栗田は下の部落に行き、子供たちと遊んだり、魚釣りをしたりした。海にもぐってヤスで魚を刺すには、少し肌寒い気候になっていた。しかし水木のように、村人の生活に溶け込む気分にはなれなかった。やはり性格の差だったのだろう。

 ある日海岸から段々畠の方に歩いていると、遠くで水木とツルが向い合って立っているのが見えた。その二人の姿が急にくっつき、二つの唇が接した。栗田は何か見てはならないような気がして、思わず体をかがめた。しばらくして面を上げると、もう二人の体は離れていた。栗田は大声で呼びかけた。

「おおい。水木。もうそろそろ帰ろうじゃないか」

「ああ。栗田かあ」

 遠くから声が戻って来た。

「おれもそろそろ帰ろうと思っていたところだ」

 医療箱と瓶をぶら下げて、水木はゆったりした足どりで、栗田の方に歩いていた。瓶には焼酎が入っていた。

「竜さんがお待ちかねだからな」

 水木はことことと瓶を振って見せた。

「そろそろ夕焼けが始まる。空が赤くなると、竜さんの咽喉がぐびぐび動いて来る」

「まったくだね」

 接吻のことは見知らぬことにして、栗田は答えた。

「おれも今日は割に大漁だったよ」

 

 あとでの水木の告白によると、それが最初の接吻だったそうである。

 水木も初めは、

「妙な顔を持っている女だな」

と思った。しかし胃痛をなおし、手足の潰瘍の手当を続けている中に、しだいに魅力を感じ始めて来た。

「そういう感じの女が、時たまいるもんだ」

 それから十何年経った今、丘の上に立って栗田は思う。あの時は彼も若くて、そんなことは判らなかった。今にして判る。

「ツルは水木にとって、それだったんだな」

 ツル母娘は水木に感謝していた。感謝というより、尊敬と言った方が近い。水木は鼻筋の通った、知的な容貌を持っていた。たかが衛生兵に過ぎなかったけれど、母娘にとっては名医のように感じられたのだろう。

「おれはただの恋愛をたのしむ気持じゃなかった」

 水水はうつむいて、栗田にそう言った。

「おれには帰るところがない。ツルと結婚して、ツルの兄が復員して来たら、ツルを本土に連れて行くつもりだった」

 ところが求愛の言葉を初めて発した時、ツルは強い衝動と困惑を感じたのである。

「そんなこと言わないで!」

 ツルは眼を光らせながら、烈しい口調で言った。

「あたしのようなものに――」

「だって好きだから、仕様がないじゃないか」

 水木は強く迫った。

「それとも僕が嫌いなのか?」

「嫌いじやない。絶対に嫌いじゃない」

 ほとんど泣くような表情でツルは答えた。

「あなたには恩になっている」

「恩だけか」

「恩だけじやない。好きよ。好きだけれども――」

「好きだけれども、何だと言うんだ」

「許して。どうかそれだけは――」

 水木はかっとした。若かったので、それも当然であろう。

「好きだったら、その証拠を見せて呉れ」

 水木はツルに近づいて抱こうとした。ツルは必死にあらがった。しかし水木はその抵抗を無視した。肩を近づけようとした時、ツルは首を振って拒んだ。でもその拒否は長くは続かなかった。唇は合わされた。

 栗田が目撃したのは、その瞬間である。あとは彼は見なかった。

 栗田の呼び声に応じて、水木がゆったりした足どりでこちらに歩いて来たが、もちろんそれは水木の擬態(ぎたい)であった。ツルは畠の中にしゃがんでいるのを栗田は望見したが、遠くからなので、栗田はよく判らなかった。ツルは掌で顔をおおって、泣いていたのである。水木は背中を焼かれるような感じでそれを聞きながら、表情を殺してわざとのそのそと歩いたのだ。

 それから翌日も水木は部落に降りた。ツルは困惑と悲哀に充ちた眼で、水木を迎えた。接吻を拒んだ。

「何か悪い血があるんじゃないのかい?」

 栗田は考え考えしながら、水木に言った。

「あるいはよそ者を嫌うような風習が――」

「悪い血って、何でそんなことを言うんだい?」

「潰瘍とかその関係でさ」

「あれは単なる潰瘍だよ。おれにだって判る!」

 水木は憤然として言った。

「そのことは村長に会って、確かめたんだ。そんなことは絶対にないそうだ。それによそ者を拒否する風習も、この島に限ってないと言う」

 村長は五十五六の、割にものの判った人物である。村長は言った。

「むしろ島内同士で結婚すると、血が濁るんでな。よそ者と結ばれるのは、わしは大賛成だよ」

 では何がツルにそんな態度をとらせるのか、水木は思い悩んだ。

 

 十月も半ばを過ぎた頃、松葉杖は完成した。素人の作品だけれど、月日をかけただけあって、見事に出来上った。何か塗ってやりたかったが、ペンキも何もないので、栗田はキャンバスでこすって、艶(つや)出しをした。もちろん竜はたいへん喜んだ。冗談まじりの贈呈式を行い、竜はその日早速使用して、寝台から降り、壕の外に出た。竜は言った。

「ああ。もうすっかり秋だなあ」

 栗田は丹精してつくったものを、他人に与えるのを若干惜しむ気持もあったが、その言葉ですっかり消えた。竜の言葉には真実の喜びがこめられていたからだ。

 一方水木とツルの間には、相変らず妙なわだかまりが続いていた。ある日水木はいらだって、ツルの気持に迫った。ツルは追いつめられて、涙を流した。

「あたし、約束した人があるのよ」

 海岸の岩陰で、意を決したようにツルは答えた。

「約束した? それは誰だい。村の人か?」

「いえ。兵隊さんなの」

「うちの部隊のか?」

 ツルはうなずいて、袖で涙を拭いた。

「戦争が終ったら、是非いっしょになろうって」

「体も許したのか?」

 ツルはためらいながらうなずいて、掌で顔をおおった。水木はしばらく海の色を眺めていた。やがて水平線が二筋にも三筋にもぼやけて来た。

「バカだな」

 水木は指で眼をこすりながら、投げつけるように言った。

「そんな約束にこだわっているのか。兵隊の言うことなんか、信用出来るもんか」

「でもその人は、真面目な人なのよ。ウソなんかつく人じゃない」

「それは君がまだ幼くて、男を見る眼がないからだ」

 見知らぬその男に嫉妬を感じながら、水木は声を強めた。

「その証拠に、解散して二箇月以上も経つのに、便り一つも来ないんだろう。帰郷して、いくら忙しくても、真面目な男なら、手紙の一通ぐらい書きそうなもんじゃないか」

 ツルは濡れた眼で、放心したように砂を見詰めていた。

「でも一週間だけ待って。その間にあたしは自分の気持を整理するから」

 水木は返事をしないで、手巾(ハンカチ)でツルの眼を拭いてやり、秋風の径(みち)を壕に戻って来た。

 それから一週間、水木は部落に降りて行かなかった。逢いたいには逢いたかったが、ツルの気持を乱すのは忍びなかった。物資の仕入れは栗田がやった。村長の家に行って交換するだけだから、水木ではなく栗田にもやれる仕事であった。村長は言った。

「水木さんはツルが好きなようじゃが、結婚する気はあるんじゃろうか」

 水木は壕の中の物資の整理に没頭し、竜はもっぱら歩行練習にいそしんでいた。そして一週間が経った。

 夕方になると水木は外出仕度をして、栗田に言った。

「おれ、もしかすると、今晩帰って来ないかも知れない。よろしく頼むよ」

「うん。承知した」

 栗田は笑いながら答えた。

「うまいことやれ。成功をいのってるよ」

 

 やさしい愛撫のあと、水木はツルに言った。

「もう君は僕のものだ。あの兵隊のことなんか忘れてしまうんだね」

「ええ」

 ツルはうなずいた。

「忘れてしまうわ。名前も顔も」

「何という名前の男だったんだ?」

「竜さんというのよ」

「竜?」

 暗い星空の下で、水木は愕然とした。

「そうよ。知ってるの?」

 水木は呆然と坐ったまま、しばらく星空を仰いでいた。波の音が間を置いて、規則正しく聞えてくる。

「知っている。そうか。竜か」

 水木は胸をかきむしりたい気持で、ついに僚友を裏切った。

 「よく知っている。あれは油断のならぬ男だ。信用するな。忘れてしまえ!」

 「そうなのね。やはりあたしはバカだったのね」

 

 翌朝日が出る前に、水木は壕に戻って来た。栗田は壕の外で炊事をしていた。水木は眼が充血し、顔がまっさおであった。栗田はひやかそうとして、言葉をつぐんだ。水木の眼の色に悽愴(せいそう)なものを見たからである。

「どうしたんだい、一体。熱でもあるんじゃないか」

 水木は栗田のそばにしゃがんだ。苦しそうな声で、一部始終をぽつりぽつりと話し出した。

 「そうか。そういうことだったのか」

 聞き終って栗田は嘆声を発した。

「どうして竜さんはそれをおれたちに打明けなかったんだろう。何ならおれが――」

「君が出る幕じゃない」

 水木は栗田をにらみつけた。

「決着はおれがつける。お前は黙ってろ」

 しかし水木は竜に何の交渉もしなかった。交渉せずとも、決着はおのずからつく筈になっている。その日が近づくのを、栗田はひそかにおそれた。おそれても、その日はやって来た。水木は暗い表情で、笑いを見せなくなった。食事も皆といっしょではなく、一人でするようになった。その水木の変化を、竜は気付いていたかどうか判らない。

 それから五日目の午後、足慣らしに下の部落に降りると、竜は言い出した。

「大丈夫だよ。松葉杖があるから、降りられるよ」

 栗田は黙っていた。竜は崖の鼻まで器用に歩き、それから用心深く小径に足を踏み入れた。姿が消えるまで、栗田はうずくような思いで見送った。

 それから三時間ほど経った。

 水木は崖の端の岩に腰をおろし、ロダンの『考える人』そっくりの形で、じっと動かなかった。栗田は壕の入口に佇(た)ち、海を眺めていた。西の空は朱を流したように夕焼けていた。

 小径の方がざわざわとして、ゆっくりと竜の姿があらわれた。水木は姿勢をくずして立ち上った。大夕焼を背にして、二人の姿は黒々と浮び上った。栗田は危惧(きぐ)を感じて、そこに走り寄ろうとしてやめた。二言三言争う声がして、竜は片方の杖をかなぐり捨てた。も一本の杖をかざして、水木に飛びかかった。

「あ!」

 とめる暇もなかった。水木の足は岩につまずき、声にならない声を発しながら、彼の体は崖からまっさかさまに転落した。竜は勢余ってよろめき、地べたに伏せて荒い呼吸を沈めようとしていた。栗田は走り寄って、その傍に立ちすくんだ。

 

「あの夕焼けは壮大だったなあ」

 今眼前の夕焼けを見ながら、栗田は考える。

「やはり空気と光の量が違うのかな」

 言い争う声は聞えた筈だが、今の栗田の記憶では、一瞬のパントマイムとしか残っていない。雄大な夕焼けのせいだろう。

 彼は竜をそのままにして、部落にかけ降りた。巡査はいないので、村長に頼んで人手を集め、海岸から崖の裾づたいに現場へ急いだ。水木の体は岩のそばの水際にうつぶせになって発見された。水たまりにはヤドカリが歩き、またヒトデがはりついている。血が砂の上に飛び散っていた。脈を見るまでもなく、死んでいることは明瞭であった。

 遺体はむしろに包んで、村長の家に運ばれた。

 「足を辷らしたんじゃな」

 栗田が何も言わないのに、村長はそう言って掌を合せた。真相を問いただすのを避けたい。その気配が村長の言葉に濃厚にあった。だから栗田は口をつぐんだ。

 通夜の席にツル母娘の姿は、ついにあらわれなかった。

 夜のしらじら明けに、栗田は壕に戻って来た。壕の寝台の上に、竜は傷ついた獣のようにうずくまっていた。竜は言った。

「水木は、死んだか」

「死にましたよ」

 栗田は答えた。

「今日下で埋葬するそうです」

「おれが殺したことを話したのか」

 栗田は首を振った。沈黙が来た。やがて栗田は言った。

「おれは埋葬に立ち会って、そのまま本土に渡る。竜さんはどうしますか?」

「おれは島に残る」

 竜はうめくような声を出した。

「お前は本土に行き、警察に訴えたきゃ、訴えろ。おれは逃げもかくれもしない。殺した責任はとる」

 栗田は返事をしなかった。水木の私物をまとめて風呂敷に包み、そして自分の衣囊を背負った。その間竜は姿勢を全然動かさなかった。

「じゃ、竜さん。さよなら」

 言い捨てて彼は壕を出た。

 水木の埋葬は、村の共同墓地で行われた。棺の中に水木の私物を、栗田は手ずから収めてやった。この島では火葬はやらない。土葬なのである。その時もツルの姿は見当らなかった。

 埋葬がすむと、栗田は舟を雇い、それに乗り込んだ。こぎ手は村長の家の作男である。

「若いもんが死ぬのはつらいのう」

 舟はしだいに島を離れ、やがて本土についた。栗田は持っていた金の一部を与え、別れを告げた。島は波の彼方に茫としてかすんでいた。彼はそれに背を向け、警察の方角にではなく、まっすぐに駅に歩いた。

「あれから十八年経つ」

 ベンキ屋栗田太郎は丘の上に立ち、そんなことを考えている。夕焼雲は盛りを過ぎて、しだいに色が褪(あ)せ始めた。

「殺人の時効は、たしか十五年だ。おれは警察にも行かなかったし、また誰にもしゃべらなかった。竜が告白しない限りは、あのことは誰も知らない。知らないままに、歳月は過ぎてしまった」

 夕焼けが褪(さ)めかけると、栗田はいつも何か言い知れぬ切なさを感じる。それは烈しい旅情にも似ている。もの憂い現実から脱出したい。その思いが彼の胸をこすり上げる。

「今あの島で、村長やツル母娘や、それに竜は、何をしているのだろう。生きているだろうか?」

 切なさを振切るように夕焼けから眼を離し、栗田は丘を降りて行く。疲れた足どりで。

 

 ローカル線の小駅に降り、改札口を出た。まっすぐ二百メートルも歩けば、船着場に出る。駅前に佇(たたず)んだまま、彼は呟いた。

「ほう。すいぶん変ったな」

 十八年前この町筋を逆に歩いた時は、店はほとんどなかった。あっても、品物はほとんど並んでいなかった。ただ古ぼけた、色彩のない街であった。今彼の眼前にある町は、八百屋や魚屋や薬屋など、色に満ちふふれている。まるで見知らぬ町に来たような感じがする。思わず声に出た。

「にぎやかになったもんだなあ」

「そりゃそうでしょう」

 そばで薬売りが言った。

「あっしも年に一度やって来るがね、その度にすこしずつ変っている。まして十八年も経てばねえ」

 薬売りはちぢみの白シャツを着て、薬箱を紺の風呂敷に包み、背負っている。ローカル線の中で知り合ったのだ。

「何の用事であんな島に行くんです?」

 彼はその問いには答えなかった。別の質問をした。

「薬屋さん。あんた、あの島に泊るのかね?」

「ええ。泊るよ」

「宿屋、あるのかい?」

「宿屋はないけれど、雑貨屋の二階に泊めてもらうんだ、毎年ね」

「わたしもいっしょに泊めて貰えんかな」

「話してみてもいいですよ、でもきたない部屋だよ」

 薬売りは歯を見せて笑った。彼にはこの薬売りの年齢の想像がつかない。一年中歩き廻っているせいで、日焼けしていて、顔に皺(しわ)がある。と思うと、笑い声はへんに若々しい。生活の様式が違うと、相手がいくつなのか、判らなくなってしまう。

(おれはペンキ屋で、相手は薬売りだからな)

 彼はそう考えながら言った。

「船着場はこの先だったね、たしか」

「そうですよ」

 二人はその方向に歩き出した。午後の日射しは強かった。十八年前のこの町は、無声映画のように、くすんでいたのに、今は色も音もふんだんにある。各商店の屋根にアンテナが立っている。この前はぽくぽくの白い埃道だったが、今は簡易舗装(ほそう)になっている。

(こんな筈じゃなかった)

 額の汗を拭いながら、彼は考えた。やがて海が見えて来た。船着場のあたりには、まだ当時のおもかげが残っている。そこに赤い旗をかかげ、氷水やラムネやジュースを売る店があった。定期便が出るのには、まだ少し時間があるらしい。薬売りが誘った。

「休んで行きますか」

 ガラス玉を数珠(じゅず)につないだのれんを分けて、二人は店に足を踏み入れた。彼は氷イチゴをえらび、薬売りはトコロテンを注文した。窓から見える海のかなたに、見覚えのある島の形があった。客は二人だけである。

「汗が出ると困るんでね」

 薬売りは弁解するように言った。

「あっしはトコロテン専門にしてるんだ。酢(す)は疲労回復になりますしね」

 体臭じみた酢のにおいがした。彼は酢臭は生れつき好きでない。彼は黙って氷イチゴの山をつきくずしていた。彼が返事をしないものだから、薬売りは店番の老女に話を向けた。

「婆さん。島に変ったことはないかね?」

「連れの人、会社の人かね?」

「会社? ああ、観光会社のことか?」

 薬売りは笑いながら、彼に視線を戻した。

「ねえ。あんた、観光会社の人ですか。じゃないねえ?」

「ないよ」

 匙(さじ)で赤い氷を口に運びながら、彼は答えた。

「わたしやただのペンキ屋だ」

「ああ。ペンキ屋かい」

 わけも判らない筈なのに、婆さんは重々しく合点して、溜息をついた。

「会社が口を出すようになってから、あの島もいくつにも割れてねえ」

 島の形を眺め、また氷を口に含みながら、彼は二人の話を聞いていた。何でも昨年春頃からある観光土地会社が、島の立地条件に眼をつけ、島全部の買い取りを策し始めたらしい。そこにホテルや分譲地やいろんな施設をつくって、客を呼ぼうというのだ。

 部落は二派に分れた。ゆずってしまえという連中と、父祖からの土地を手離すなという組とである。もちろんその中間派もあった。耕地は残して、その他は売れという立場だ。その間に入会(いりあい)権や漁業権の問題もある。初めは会社もかんたんに行くと思っていたのに、意外な抵抗にあって、目下行き悩み中だというほどのことらしかった。

「そりゃ会社にゆずれば、あの島も立派になるがねえ」

 婆さんは笑った。

「島の人にとっちゃ、そうも行かないだろうさ。だまされることに、こりているからさあ」

「だまされるって、今までにだまされたことがあるのかい?」

 彼は口をはさんだ。

「だまされたことは度々さ。戦争中も、戦後もさ。だから島の人たちは、警戒しているんだよ」

 

 彼の家は『栗田塗料店』という看板はかかげているが、工業用の薬品を取りあつかっているわけでなし、やはりペンキ屋と呼ぶべきだろう。店に並べてあるのは油性と水性のペンキ、それにラッカーぐらいなもので、栗田は依頼されてペンキ塗りにおもむくが、新住宅の主たちに売ることの方が多い。つまり日曜大工相手のペンキ屋だ。

 夏場はこの商売は、にわかに暇となる。暑いので日曜大工たちは、べとべとした塗料を敬遠し、海水浴に出かけたり、木陰で犬小屋などを造ったりしている。ことに今年は空気が湿っていて、からりとしない。じっとりと皮膚に貼りついて来るような暑さだ。不快指数が毎日高いので、ぺンキを使いたくないのも当然だろう。

 終戦後、栗田はあの島から戻って来て、さまざまに職業をかえた。ペンキ屋に落着いたのは、六年前である。ペンキ屋というのは地味な商売で、世間の景気不景気にあまり影響されない。それほどの競争もなく、格別の宣伝もいらない。店に坐っているか、ペンキを塗りに行く。力仕事ではないのに、かなりの儲(もう)けがある。初め栗田はこの商売が気に入っていた。しかし六年も経つと、その満足感がしだいに倦怠に変って来るのを感じた。

(何だか妙だな)

 時々彼は考えるようになった。その頃から彼は動作が鈍くなり始めた。心身ともにだるいのである。

(齢のせいかな。なまぬるい風呂に入りづめのような気持だ)

 栗田の女房トミコは、彼よりも三つ年下だ。てきぱきとよく働く。二人の間に幼稚園に通っている勝子という女児が一人いる。ある日男の子たちから、

「やあい。ペンキ屋の子」

「勝ちやんカズノコ、塗り屋の子」

とはやし立てられ、泣いて戻って来たことがある。新住宅や社宅の息子らだ。トミコは口惜しがって幼稚園に乗り込んだ。保母が皆に訓戒を与えたとみえ、その後はそんなことは起らない。

 そんな性格のトミコなので、てきぱきとよく働く。早く金を貯めてアパートを建てたいというのが、彼女の目下の希望であった。ペンキやラッカーの種類や性能についても、精通していて、彼よりはくわしい。

 最近では合成樹脂の新製品が、一箇月に三つも四つも売り出される。その個々の性能や長所や欠点をよく勉強する。栗田はそれをいいことにして、委(まか)せている中に、だんだん心境が物憂くなって来る。近くの丘に登って、景観を展望していると、何かやり切れなくなって来るのである。

(ああ。もっと烈しく、充実したものを!)

と彼は切に思う。するとあの終戦後三箇月の生き方が、胸につき上げて来るのだ。

「おれは旅行したい」

と、ある日の夕食にカレーライスを食べながら、栗田は言った。一週間ほど前から考えていたことである。

「旅行?」

 トミコはいぶかしげに反問した。

「こんな暑いのに?」

 その日客の一人が、店に文句を言って来た。栗田は風呂場の壁に塗る塗料を、数日前その客に売ったのだ。

「この塗料、すぐぼろぼろに剝(は)げてしまったよ。どうして呉れるんだい」

 住宅公庫にでも当って家を建て、それからささやかな風呂場を建て増したのだろう。会社員風のその男は、そう怒鳴り込んで来た。

「この暑いのに風呂場は使えないし、第一きたならしいじゃないか。このインチキ!」

「インチキとおっしゃると、このわたしがですか?」

「いや。君はインチキじゃないかも知れないが、この塗料がだ。不良品を押しつけるなんて、君の店の信用にかかわるぞ」

「風呂場の水気をょく切って――」

 そばからトミコが口を出した。

「それからお使いになりましたか?」

「そりや二十四時間くらいは乾かしたさ」

 客の語勢はいくらか弱まった。

「でも現場に来て見なさい。ぼろぼろだよ」

 湿潤の天侯が続いていた。一昼夜ですっかり水気が切れるわけがない。そう思ったが、結局彼の方が負けて、別の塗料をタダで提供することになった。こんなトラブルが起きると、いつも客の方が強く、売り手の方が弱いのである。まして数日間、客は入浴出来なくて、いらいらして語気が荒かった。気にしない、気にしないとは思っても、やはり不快なものが栗田の胸にこみ上げて来た。それが夕食時の発言としてあらわれたのだ。

「うん。暑くても、おれは旅行がしたいんだ」

 彼は言った。

「今のままじゃ、心がじめじめして、ノイローゼになりそうだ」

「どこへ行くの?」

 トミコは眼を光らせて聞いた。

「海岸あたりに行くんだったら、勝子も連れてったらどう?」

「勝子は足手まといだ」

 彼はきっぱりと言った。

「兵隊の時にいたあの島に、も一度行って見たいんだ」

 竜兵長のことは、栗田はトミコに話してなかった。すでに時効の十五年は過ぎたんだから、話してもどうということはないが、唯ひとつの秘密として、そっと胸にしまって置きたかったのである。翌日彼は出発した。

 

 やがて定期船が来た。待っていた客がぞろぞろ乗り込み、続いて荷物が積まれた。栗田と薬売りは乗るのが遅れて、船室には入れなかった。海の光がチカチカするので、栗田は用意したサングラスをかけた。

「わりかた大きな船だね」

 十八年前の手こぎ舟を思い出しながら、栗田は言った。

「そりゃそうですよ。あちこちの島を廻るんだから」

 薬売りは甲板に紺(こん)風呂敷をおろした。

「船室よりも甲板の方が、風があって涼しいね。あっしもそんな黒眼鏡が欲しいけど、いくらぐらいするもんですか」

 船は静かに動き出し、やがて方向を定めると速力を出し始めた舳(へさき)が白く波を切って、それが浪になって左右にひろがって行く。

(竜はまだあの島にいるだろうか?)

 灼けた甲板に腰をおろし、島影を望見しながら、栗田は思った。

(十五年の時効が過ぎて、故郷に帰っただろうか。そして村長や、ツル母娘は、まだ元気にしているだろうか?)

 海は凪(な)いでいるが、船は動いているので、潮風が真正面に栗田の頰に当る。ペンキを嗅ぐ明暮れに、久しぶりに鼻にしむ潮のにおいであった。彼はふと錯覚にとらわれた。

自分には妻も子もない。何ひとつ責任のない孤独な旅人だ。――

「どうしたんですか?」

 薬売りが心配そうに訊ねた。

「船酔いの薬ならありますょ。薬はこちらの商売だからね」

「船に酔ったんじゃないよ」

 彼は苦笑しながら言った。

「ちょっと昔のことを思い出してね」

 

 船は島についた。降りたのは栗田ら二人と若干の積荷である。

 雑貨屋は船着場の近くにあった。日用品が所狭しと並ベてある。軒が低くて、元来狭い店なのである。薬売りが声をかけた。

「こんにちは」

「おや。薬屋さんだね」

 三十前後のお内儀(かみ)が出て来た。

「上、あいてるかい?」

「ああ。あいているよ」

「この人も――」

 薬売りは栗田を指さした。

「泊りたいというんだがね、泊めて呉れるかい?」

「そうかね」

 お内儀はうさんくさそうに、栗田の方を見た。

「会社の人かね。会社の人ならお断りだよ」

「いや。会社の者じゃない」

 栗田はサングラスを外(はず)した。

「ただの旅人だよ」

「それならいいけれど、会社の人を泊めるとうるさいんでね」

 二階に通された。なるほどうす汚い部屋で、畳も赤茶けている。お茶を一杯御馳走になって、薬売りは立ち上った。

「さあ。日の暮れない中に、一廻りして来ようかな」

「わたしも行くよ」

 栗田も腰を浮かせた。

「そこらを散歩して来よう」

 二階から降りた。店を出て薬屋は部落の方に行き、彼はしばらく考えて、丘陵部へ足を向けた。

(雑貨屋の二階には、裸電燈がぶら下っていたな)

 夏草をわけて登りながら、栗田は考えた。十八年前この島は電気がなく、ランプで生活していたのだ。

 ジグザグの道はもう消えて、あとかたもない。雑草だけがむんむんと茂っているだけである。彼は途中で拾った木の枝で、草をぱしぱしと払いながら登った。全身に汗がふき出し、呼吸を調節するために、しばしば立ち止らねばならなかった。

(おれも齢をとったもんだ)

 かつての兵長時代には、ジグザグ道を休むことなく、一気に登れたものだ。今はすぐに息が切れる。

 やっと崖に出た。

「おや。壕がないぞ」

 きょろきょろ見廻しながら、思わず口に出た。

「いや。これがその跡か」

 直径一メートルほどの穴がある。周囲は夏草でおおわれている。放置されて自然と陥落したり、埋没したのであろう。無人の家が直ぐに古びるように、人間がいないとなると洞窟もたちまち風化してしまうものらしい。彼はしばらくその穴を眺め、立ち上って額の汗を拭いた。人気(ひとけ)もなくしんかんとして、聞えるのは蝉(せみ)の声だけである。彼は溜息をついた。

(どこへ行ったのかな?)

 妙な話だが、竜がまだこの島にいるとしたらここに住んでいる、とばかり彼は思い込んでいたのである。にがい笑いが彼の口の端にのぼって来た。考えて見ると、竜は島に残るとは言ったが、この洞窟に残るとは言わなかった。こんな洞窟に十八年も生活出来るわけがない。

(もう二三年もすると、穴もすっかりつぶれて判らなくなるだろう)

 崖鼻の岩の上に立ち、彼は海を見おろした。水木が十八年前ここからまっさかさまになって落ちたのだ。海の色は暗かった。はっとして空を見上げると、南の方角から暗灰色(あんかいしょく)の雲がぐんぐんひろがって来る。いつもならそろそろ夕焼けの始まる時間なのだ。

(夕立ちが来るな)

 彼はもう一度疆のあとを振り返り、そしてまた夏草を分けながら、斜面を降り始めた。平地に着いた時、やっと夕立ちが彼に追いついた。大粒の雨が三つ四つ地面をたたいたと思うと、沛然(はいぜん)たる雨が彼の全身を襲った。彼は何か叫びたいような気持になり、一所懸命に走った。

 夕立ちは三十分ぐらいで上った。彼は濡れた衣類を雑貨屋の二附の窓にかけ、うす暗い電燈の下で、薬売りといっしょに酒を飲んだ。肴は新鮮でコリコリした刺身などだ。薬売りは酒に弱いらしく、もっぱら魚を食べた。

「島の魚は、毎年来るけれど、うまいね。新しいからね」

 薬売りは言った。

「今日はどこに行きました?」

「山に登ったよ」

「へえ。山にね。山に何かあるんですかい?」

「何もなかったよ。夕焼けを見ようと思ったら、雨に降られてびしょ濡れさ」

 彼は盃(さかずき)を干した。

「薬屋さんは、全部廻ったかい?」

「半分だけ廻ったら、雨が来たんで、やめにしたよ。明日午前中に廻って――」

 薬売りは窓の外を見た。

「昼の便で次の島に渡るよ」

「いいな。毎日旅が出来てさ」

「冗談じゃない。商売ですよ。あんたの方がうらやましい。ふらりとこの島に来て、誰にも頭も下げずにすむしさ」

「そうだな。そんな考え方もあるね」

 風呂場の件で怒鳴り込んで来た男の顔を、彼は思い出していた。島に来たせいか、酔いが廻ったせいか、ある解放感が彼の胸にひろがっている。

「たしかに頭を下げずにすむな」

 

 翌朝、名も知れぬ海藻の味噌汁、干魚、卵というかんたんな朝食をすませた。勘定を払って外に出た。今日はかなり強い南風が吹いていた。

「あっしは午前中仕事をすませて、昼の便で次の島に行く」

 薬売りは紺風呂敷を背にかつぎながら言った。

「あんたはどうする?」

「わたしは夕方の便で本土に戻るよ」

 彼は言った。

「案外つまらない島だね」

「じゃ、さよなら」

 薬屋は白い歯を見せてわらい、そのままとっとっと部落の方に歩き出した。その姿が見えなくなるまで、栗田はそこに佇(た)っていた。

 やがて彼はぼんやりと歩き出し、船着場に立った。風のために白い浪がしらが見える。

(今日は漁船が出てないな)

 彼はそんなことを考えながら、サングラスをかけたまま、浜づたいに部落の方に歩を進めた。風が彼の髪をばらばらにした。

 白い砂浜に漁船がいくつも引き上げられている。そこにたどりついて、何となく船板をぽんぽんとたたくと、その舟のかげから若い女がひとり、顔をかくすようにして、畠の方に走って行った。まるで白兎のようである。

(何で逃げるのか)

 栗田はあっけに取られて、その後姿を見ていると、同じその舟のかげから、ぬっと白シャツの青年が立ち上り、彼をにらみつけた。

「あ!」

 栗田はほとんど動転した。そこに立っているのは、水木兵長であった。十八年の時空を越えて、まさしく水木はそこに立っている。

「何だね。あんたは」

 栗田は足を踏んばって、しばらくその青年の顔を見詰めていた。水木である筈がない。水木はあの時死んだのだ。生きていると仮定しても、もう四十になった筈だ、と理解するまでに、一分間ぐらいかかった。

「わたしは何でもないよ。ただの旅人だ」

 栗田はかすれた声で言った。

「君は何という名前だね?」

「繩田。繩田正彦です」

 案外素直に正彦という青年は応じた。

「小父さんは昨夜、雑貨屋の二階に泊った人だね。薬屋がそう言っていた」

「そうだよ」

「薬屋の話じゃペンキ屋さんだってね」

 そして青年は警戒的な目付になった。

「何の用事でこんなところに来たんだい?」

「別に用事はないよ」

「会社の用で来たんじゃあるまいね」

 青年は言った。

「会社の者なら、早く帰ってもらいたいね」

「会社、会社って、観光会社のことは、昨日初めて知ったくらいのもんだ」

 栗田は砂浜に腰をおろした。

「君は反対派らしいね」

「いや。そうでもない。こんな土地なんか売って、本土に行きたいくらいだ。そして高校に入ってさ――」

 青年は石を拾って、モーションをつけて沖に投げた。思いのほか長身である。

「野球部に入るんだ」

「そしてプロになるのかい?」

「見込みがあればね」

 青年は笑った。

「この島にいるより、その方が金になるもんな」

「じゃ会社に売っちまえばいいじゃないか」

「イヤだよ。会社のやり口は卑怯だよ。村を二つに分けて喧嘩させて、そこで得しようとしているんだ」

 青年は二つ目の石を投げた。

「おふくろもおやじも怒ってるよ」

「おかあさんの名前は、何と言うんだね」

「ツルと言うんだ。繩田ツル」

 強いショックが彼に来た。しばらくして彼は顔を上げた。

「君はいくつになる」

「十七」

「じや高校入りには遅いね」

「浪人してたと思えばいい」

 青年はまた笑った。楽天的な性格らしい、と彼は思う。

「しかし小父さんは、あんまりうろうろしない方がいいよ。用事もないのに、うろうろしていると、疑われるよ」

「わたしはね、戦争中ここの島にいたんだ。兵隊としてね」

 彼は低い声で言った。この青年が水木の子供であることは、もう疑いないことであった。あの三ヵ月の間に、ツルは水木の胤(たね)を宿したのだろう。

「ほう」

 青年はあまり興味を示さなかった。もうこの世代にとっては、戦争なんて実感がないらしい。

「兵隊でね」

「わたしは君みたいな青年をうらやましいと思うよ。わたしらの時は暗い青春だった」

 つい気障(きざ)な文句が出た。

「わたしたちの時分は、女と遊んだりするなんて、とんでもないことだった」

「ああ。さっきの女か」

 青年は顔をぽっとあからめた。

「あれ、何でもないんだ。世間話をしていただけだよ。海が荒れて、暇だからね」

「お母さんに会わせて呉れないか」

 彼は単刀直入に言った。そう言わざるを得ない衝動があった。

「おふくろに?」

 ちらと青年の眉間にくらい翳(かげ)が走った。

「何でおふくろに会うんだい?」

「いや。あれから十八年間、島にどんなことが起ったか、知りたいんだよ」

 青年はちょっと考え込んだ。

「そりゃ会ってもいいけれど、その黒眼鏡は外(はず)して行った方がいいぜ。いかにも怪漢に見える」

「そうか」

 彼はサングラスを外して、ポケットにしまい込んだ。

「あそこに大きな木があるだろう」

 青年は指差した。彼も立ち上って、爪立ちをした。

「あの左手のところだよ。鶏がいるから、すぐ判るよ」

「連れてって呉れないのか?」

「わざわざそんな――」

 青年は言った。

「小父さんだって、足があるんだろ」

 そして青年はのそのそと、さっきの娘が逃げて行った段段畠の方に歩き出した。彼は漁船に寄りかかり、海を見ていた。

(やはり水木の子だな)

 浪はうねりながら打寄せ、白い泡になって砂浜を洗い、また引いて行く。無限にむなしい繰返しである。

おやじとあの青年が言っていたが、まさかあの――)

 彼は漁船から体を引き剝がした。ぽくぽくと砂浜に足跡を残しながら、まっすぐ大きな木に向けて足を運んだ。左手に折れた。彼の姿を見て、鶏たちがコココと騒いだ。鶏小屋は以前よりずっと殖え、見覚えのある家に、新しく建て増した部分がくっついていた。彼は緊張しながら、庭に足を踏み入れた。

「ごめんください」

「どなたですか?」

 奥からごそごそと這い出して来た。女である。その顔を見た時に、彼ははっきりとツルの面影を認めた。それと同時に、驚きが来た。ツルは彼より年下だったのに、すっかり老い込んで、四十五、六に見える。どういうわけかこの島の住人は早く老ける。十八年前水木は彼にそう説明したのだ。

「わたしの顔に見覚えはありませんか?」

 ツルは眼を細めて、彼を凝視した。彼は縁側に腰をおろした。

「どうもねえ」

 やがてツルは言った。

「近頃少し眼を悪くしてねえ。どなたでしたかしら」

「終戦の時この島に残った三人の兵隊の一人ですよ」

 うっと息を飲むのが、彼にも判った。

「さっき浜で正彦君に会いましたよ。大きな青年になりましたねえ。顔立ちも――」

「やめて!」

 ツルはするどい声で叫んだ。

「それを言わないで! 正彦にまだ知らせてないのです」

「でも村の人は――」

「そりや疑っている人もいるでしょう」

 突然声音が乱れて、ツルの眼に涙がふき出して来た。しかし彼女はそれを拭おうとはしなかった。

 沈黙が来た。

(来るんじゃなかった。やはり会わない方がよかった)

 栗田は放心したように、庭に咲く紅い花の色を眺めていた。花は風が吹く度に、茎を曲げて揺れた。

「ツルさんは――」

 しばらくして彼は言った。

「竜さんといっしょになったんですか?」

「そんなことを正彦が言いました?」

「いえ。わたしの推測です。竜さんの性格から考えてね」

 彼は沈んだ声で言った。

「竜さんはいますか?」

「さっき網のつくろいに出かけると言って――」

 ツルの眼が不安そうに動いた。

「でも、どこに行きましたか――」

「いや、会おうというんじゃありません。会わずに島を離れます」

 彼はきっぱりと言った。真実会いたくない気持もあった。

「ただ水木君の墓におまいりして、夕方の便で東京に戻るつもりです」

「それだけの用事で、あなたはこの島に来たんですか?」

「いや。気持が行き詰まってしまってね」

 栗田は東京での生活の話をちょっとした。ツルは怯えた表情で、視線をうろうろと動かしていた。竜が家に戻って来るのをおそれている。栗田はぎくしゃくと立ち上った。サングラスをかけた。

「大丈夫ですよ。竜さんはわたしを見ても、思い出せませんよ。十八年も経っているし――」

「いいえ。そんな――」

 十八年の重みがずしりと肩に来た。ツルは背中を曲げて、十八年前の彼女の母親にそっくりだ。そして栗田自身も、あの頃の元気さを喪(うしな)って、うすよごれた中年男だ。

(水木を殺したのは、竜だ。竜はそのことをツルに告白しただろうか。そして生れ出た子供が水木にそっくりだと判った時、竜はどんな気持になっただろうか)

「お母さんは?」

「亡くなりました」

「村長さんは?」

「あの人も」

 皆死んでしまう。

「では、さよなら」

 栗田は頭を下げた。ツルはほとんど無表情に、反応を示さなかった。彼は繰返した。

「さようなら。わたしの来たこと、竜さんには話さない方がいい」

 

 急ぎ足で部落を出た。浜に出る。

 部落をつき抜けたら早いのだが、砂浜をたどると三十分ぐらいかかる。彼はもうこれ以上人目に自分をさらしたくなかった。

 浜はところどころ岩があり、岩かげは風が来ないので、静かである。岩には小さなカキが貼りつき、またヤドカリががさがさと移動している。水たまりにはヒトデや小魚が泳いでいた。浪の音だけで、あとは何も聞えない。

 共同墓地は海に近い小高い丘の上にある。栗田は浜から直角に曲って、その丘へ足を向けた。その途中で名も知れぬ野草の花を五六本引き抜いて束ねた。

 墓地は風を正面に受けて、樹々が立ち騒いでいた。割によく整備されている。墓地の片隅に、一人の老人がせっせと草むしりをしていた。栗田はその背を通り抜け、水木の墓を探した。大体の見当で探し当てた。他の墓は皆自然石なのに、水木のだけは木で、その墨色も消えかかり、やっと『水木』の字が判読出来た。この島に身寄りがないので、木標のまま放置されているのだろう。

(そう言えば水木は、おやじもおふくろも妹も、空襲で全滅したと言ってたな)

 そう思いながら、彼は墓前に野花の束をささげ、ひざまずいた。

(しかし、身寄りがないと言っても、あの正彦という青年は、たしかに水木の忘れがたみだ。青年はやはりそれを知らされていないのだろうか)

 ひざまずいたまま、栗田は眼を閉じた。憤怒に似た感情が、突然胸にわき上って来た。彼は呟いた。

「誰も悪いんじゃない。誰も! ただ何かの歯車がちょっと狂っただけなんだ!」

 背後に足音がした。彼は立ち上って振り返った。さっきの草むしりの老人がそこに立っている。がっしりと肩幅が広い。顔は潮やけして、赤胴色だ。[やぶちゃん注:「赤胴色」はママ。「赤銅色」の誤字か誤植である。]

「お前さんは、誰だね?」

 彼はその声を聞き、白濁した右の眼を見た。すぐにそれと判った。彼は黙って立ちすくんでいた。

「誰だね。お前さんは!」

 竜はじれて言った。

「その墓は誰の墓か、知っているのか?」

「水木兵長のでしょう」

 彼は低い声で答えた。これ以上黙っているわけには行かなかった。

「水木? どうしてお前さんは、それを知ってる?」

 竜の左の眼がぎらりと光った。

「お前さんは昨夜、雑貨屋に泊った男だね」

「そうです」

「眼鏡を外(はず)せ!」

 竜はたまりかねたように叫んだ。

「お前は誰だ」

「栗田です」

 彼はサングラスをポケットにしまいながら答えた。

「栗田太郎です」

「栗田?」

 竜は驚愕(きょうがく)したように、二三歩後すざりした。

「何の用事でここにやって来たんだ」

「用事は何もありません。ただこの島が、あれからどうなったか、それを知りたかったんだ。ただそれだけです」

「帰って呉れ」

 竜の口調は命令というより、哀願に似た。

「君はおれの生活をおびやかすつもりか。そっとして置いて呉れ」

「おびやかす?」

 彼は反問した。

「あんたに危害を加えるなんて、とんでもない。わたしは十八年間、あのことを誰にもしゃべらず、沈黙を守って来たんだ」

「十五年。十五年の間に――」

 竜の表情は歪んだ。

「おれは充分に罰を受けた。おれは何度自首しようと思ったか判らない。自首して刑を受けた方がよかったんだ。その中に子供が出来た」

「正彦君ですか?」

「正彦に会ったのか?」

 彼はうなずいた。竜はうめいた。

「正彦はおれの子じゃない。その次に女の子が生れたんだ。正彦はお前さんに何か言ったか」

「いえ。何も」

「あいつは近頃すこしぐれ始めた。仕事もろくにしないし、おれに反抗して来るようなところがある。おれの子じゃないことを、うすうす知り始めたんじゃないかと思う」

 沈黙が来た。風の音のみが墓地にひびいた。やがて竜は視線をそらせながら、口を開いた。

「とにかくおれたちの生活に立ち入らないで呉れ。お前さんにとっては好奇心だけだろうが、おれたちにとっては、体に突き刺さる針みたいなものだ」

「判りました」

 彼は急いでサングラスを出してかけた。涙が出そうになったからである。

「あんたも不幸だろうけれど、わたしも決して今幸福じゃないんですよ。だから、あの三箇月の充実した日々のあとを、この眼で見て確かめたかったんだ」

「…………」

「しかし、もう判ったから、夕方の便で帰ります。あなたも来て欲しくなかっただろうが、わたしも来なければよかったんだ」

「帰れ」

 竜は彼に背を向け、みじかく発音した。

「とっとと帰れ!」

 

 彼は竜をそこに置き、まっすぐに砂浜に出た。一度もふり返ることをせず、ためらいなく歩いた。

 急ぎ足で二十分ほど歩くと、船着場に出た。船着場には薬売りが一人、ぼんやりと腰をおろしていた。彼の姿を認めると、手まねきをした。彼はそばに行って、並んで腰をおろした。

「今日は海が荒れてるね」

 薬売りは言った。

「こりや相当揺れるね。あっしは慣れているから大丈夫だけれど」

「船客に船酔いの薬を売れば、儲(もう)かるじゃないか」

 彼はわざと意地悪い口調で言った。薬売りの精神の健康さが妙に痴に障ったのである。

「そんなあくどい商売はしませんよ」

 薬売りはちょっとイヤな顔をした。

「それで、島の見物は終りましたかい?」

「ああ。大体ね」

 彼は答えた。

「わたしも夕方の便で、東京に戻るよ。そしてペンキ屋稼(か)業に精を出すよ」

 本土の方から、定期便がへさきで浪を切りながら、近づいて来る。この島に少時寄港して、また南の島に行くのである。

「それにしても、世の中にはいろんな商売があるもんだな。わたしはあんたがうらやましいよ。あちこちが見物出来てさ」

「とんでもない」

 薬売りはあわてて手を振った。

「あっしは家庭というものが欲しいですよ。年の三分の一が旅烏なんて、わびしい限りですよ」

 やがて船が着いた。薬売りはそれに乗り込んだ。

「ではさようなら。お元気で」

 船はそして出発し、やがて姿は小さくなって行った。

 彼は雑貨屋に戻って来た。お内儀(かみ)に言った。

「お酒、呉れませんか。冷やでいいから。そして四時半に起して下さい。しばらく眠ります」

 冷酒はなまぬるく、にがかった。彼は飲み干すと、二階に登って横になった。

 

 五時、彼は本土行きの船にいた。眠っている中に風はやんだらしい。夕凪(な)ぎの上の空で、夕焼けが始まろうとしている。それはもう彼の心をひかなかった。疲労と倦怠感があるだけである。栗田は甲板に立ち、しばらくそれを眺め、やがてそれに背を向け、船室の中に入って行く。……

 

 

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