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« 南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(初出追記分) | トップページ | 南方熊楠「本邦に於ける動物崇拜」全電子化注一括縦書ルビ化版公開 »

2020/12/28

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(追加発表「補遺」分)+(追加発表「附記」分) / 本邦に於ける動物崇拜~全電子化注完遂

 

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(追加発表「補遺」分)

[やぶちゃん注:以下は、最後に書誌が出るもの(本篇発表に四ヶ月後)に追加掲載されたもので、「j-stage」のこちらPDF)で初出原文が視認出来る。]

 

補遺

 人類學會雜誌二九一號三二九頁[やぶちゃん注:先の「狼」の条。]に、予は御嶽玉置山等で、狼犬同源の遺跡を留る者と論ぜり、其後、上垣守國の養蠶秘錄を見るに、但馬の養父大明神も狼を使者とすと記せり、近頃柳田氏の遠野物語を覽るに、「猿の經立(フツタチ)、御犬の經立は、恐しき物也、御犬とは狼の事也」と見ゆ、(三六章)前日予何の心も無く、「ウツド」氏の動物圖譜中の「コルスン」(Cuon dukhuensis. 印度の西疆に產する野犬也、能く群團して猛虎を殺すを以て著名也、此獸、體色赭く[やぶちゃん注:「あかく」。]、足喙耳と尾尖黑しと有れど本草綱目に、黃腰獸、豹より小さく、腰以上は黃、以下は黑し、形ち犬に類す、小なりと雖も能く虎と牛鹿を食ふと云るは、此獸の事を多少誤聞せる記載かとも思はる)の圖を、𤲿家川島友吉氏に示せしに、昔し唐人が倭犬を𤲿きたる物あり、甚だ此圖に似たり、今の倭犬は悉く洋種を混じたれば、頗る固有の倭犬と異るに及べりと言れたり、本邦の狼と犬との關係に多少緣有る事なれば附記す、○同號三三三頁[やぶちゃん注:「鶺鴒」の条。]に、予大淸一統志に鶺鴒の產地を擧げたるは、媚藥に用ひしならんと言えり[やぶちゃん注:ママ。]、再び案ずるに、是れ籠鳥として弄びしならん、本邦にもその例あり、碧山日錄卷一、長祿三年四月五日、攝州太守幸公與春公相率而來、予以禮侍之、余有一石、高峻而成双尖、幸公曰、金吾宗全之孫、其呼爲次郞者、好鶺鴒而籠之、此鳥以石爲居也、然無貢者、此石可以當之云、固有欲之々色、乃納之、幸公悅之と記せり、○三三七頁[やぶちゃん注:「海龜」の条。]に、古え日本人海龜を神又は神使とせし由を述たり。今も然する所有るは、今年七月三十日の紀伊每日新聞に、「淡路志筑町[やぶちゃん注:現在の兵庫県淡路市志筑(しづき)。グーグル・マップ・データ。]の海岸へ、每年土用に、甲の幅三尺餘の大龜、一定の場所に來り、產卵するを、町民神として敬ふ、今年[やぶちゃん注:明治四三(一九一〇)年。]七月廿六日、該町辨財天祭にて人多く賑ひしに、夜十一時頃、龜出來しを見出し、海岸に人の山を築き、早速神官を呼び、町民は勿體無しとて、遠くより打眺むる由、龜穴を掘たる儘、卵を產まずに去れり、此大龜例年來るは、久しき以前よりの事にて、一定の場所へ、每年必ず十二列十二重に、百四十八(四歟)箇を產む、約三ケ月後ちに孵化する迄、子供近かづけず、產卵後直ちに其周圍に注連を張り、神官をして其發育を祈らしむる例也、然らざれば、狂波俄かに起て、海岸に居合したる者を卷込むと、扨孵化せし龜は、母龜共に遠く海に出で去る、其時町民打寄り、鄭重なる言葉を遣ひ、神酒を呑ませ歸すを例とす」と載せたるにて證す可し、紀州田邊邊の漁民は、海龜卵を下す地が波際を去る遠近を見て、其秋波の高低を卜(ウラナ)ふ也、○蜈蚣は今日專ら毘沙門の使者と信ぜらるれども、古えは他の神の使者とも爲せしにや、續群書類從卷卅所收、八幡愚童訓卷下に、淀の住人八幡に參り祈りしに、寶藏の内より大なる百足這懸りければ、是れ福の種也と仰ゐで[やぶちゃん注:ママ。]、袖に裹んで[やぶちゃん注:「つつんで」。]宿所へ還り、深く崇め祝ひしに、所々より大名共來て問丸と爲り、當時迄淀第一の德人也と見え、神宮雜用先規錄卷下に、皇太神宮神主荒木田氏の祖の名を列せる中に、牟賀手有り、是は蜈蚣を吉祥として名とせしにや、○蟹(同號三四一頁[やぶちゃん注:「蟹」の条。]參照)。越中放生津の諏訪社に白蛇あり、諏訪樣と名く、蟹多く引連れ出で遊ぶ、澤蟹多く出て諸人を迎ふるは、此地の不思議にて、大要使はしめと云ふ者に似たりと、三州奇談後篇一に見ゆ、○蜻蜓[やぶちゃん注:「とんぼ」。]類聚名物考卷二五八、錢を數ふる異稱の條々、禮家に云傳るは、蜻蛉結びを武家に用ゆ、此虫を將軍虫と云ふとあり、拙妻の亡父の話しに、蜻蛉を勝ち蟲と名け、武士の襦袢等の模樣に用ゆ、自身も長州征伐の時然せりと、神武帝蜻蛉に依て國に名け玉し事あり、雄略帝、此蟲が蟲を誅せしを褒め云ひし事も有り崇拜と迄無くとも、古來吉祥の虫と看做されたるを知るべし。(明治四十三年十一月人類第二十六卷)

 

[やぶちゃん注:「上垣守國の養蠶秘錄を見るに、但馬の養父大明神も狼を使者とすと記せり」江戸中。後期の養蚕家・蚕種商人上垣守國(うえがきもりくに 宝暦三(一七五三)年~文化五(一八〇八)年)。但馬養父郡蔵垣村(現在の兵庫県養父市大屋町蔵垣。グーグル・マップ・データ)の庄屋の家に生まれた。十八歳の時、養蚕の先進地であった陸奥国伊達郡福島へ赴き、蚕種を仕入れ、蚕種改良に励み、大屋谷養蚕の原種(但馬種)を創出、さらに丹波・丹後に養蚕業を普及させた。享和二(一八〇二)年四十八歳の時に著したのが、上中下の三巻から成る養蚕技術書「養蠶秘錄」で、これは最も代表的な江戸時代の養蚕書として知られ、「養父市」公式サイト内の「養蚕の神様上垣守国」によれば、『上巻で養蚕の起源を述べ、蚕名、蚕種、栽桑、蚕飼道具を図解し、中巻では養蚕の実務を述べ、孵化、掃立、給桑、上族、繰糸などの全般を解説し、下巻では真綿製法、養蚕の話題を書いて、和漢の古書』二十五『点を引用』し、『当時は文字が読めない人も多いため、大きな挿図を多数入れて、図を見るだけで養蚕が学べるよう』、工夫が施されてある。出石(いずし)藩の『儒学者桜井篤忠の手助けによって、江戸・大阪・京都の書林から刊行され』、守国の死後であるが、文政一二(一八二九)年には、かの『オランダ東インド会社のシーボルト』が、この「養蚕秘録」を『日本からオランダに持ち帰り』、その有用性を聴き知った『フランス政府は、オランダ王室通訳官ホフマンにフランス語訳を命じ』、嘉永元(一八四八)年には、『パリとトリノで農業技術書として出版』された。これは『日本文化輸出第』一『号であると評価されて』おり、『日本国内でも』、実に明治二十年代まで八十年以上に亙って『出版され続け』た、とある。国立国会図書館デジタルコレクションの同書原本の上巻冒頭にある「日本養蠶(こがひ)始(はじまり)之事」の中のここの、右頁四行目から、『但馬國に鎭座まします養父大明神なり』と始まって、養蠶の神と語り、左頁のポイント落ちの注の頭で(そのままに視認して電子化した)、

   *

因云(ちなみいふ)此御神は狼(おゝかみ)を使令(つかひしめ)とし給ふ猪鹿(しし)出て作物(さくもの)をあらす時此社に詣(まうで)て作守(さくまもり)の御靈(みしるし)を請(うけ)歸(かへ)り、田畑(たはた)の側(はじ)に立置ば狼(おゝかみ)來りて守(まも)る故(ゆへ)猪鹿(しし)作物(さくもの)をあらさず其事濟(すみ)て靈(しるし)を皈(かへ)し納(おさむ)れば狼(おゝかみ)も立去(たちさ)るなり又參詣(さんけい)の節(せつ)狼(おゝかみ)をつれ皈(かへ)らんことを願(ねが)へば其人の後(しりへ)につき添(そひ)來る事あまねく人の知(し)れる所にして農業(のうげふ)を守らせ給ふ靈驗(れいげん)斯(かく)のごとし

   *

とある。この本、個人的に甚だ気に入った!

『柳田氏の遠野物語を覽るに、「猿の經立(フツタチ)、御犬の經立は、恐しき物也、御犬とは狼の事也」と見ゆ、(三六章)』実は「經立」のルビは底本では『ツイタテ』である。「変だな」と感じて、初出を見ると、正しく(後述)『猿の經立(フツタチ)』となっているので、特異的に訂した。因みに初出「御犬」に『オイヌ』とルビしてある。さてもこれは、柳田國男が佐々木喜善の採取したものを書き改めた「遠野物語」(本記事初出の五ヶ月前の明治四三(一九一〇)年六月十四日に『著者兼發行者』を『柳田國男』として東京の聚精堂より刊行された)の一節で、私はブログカテゴリ「柳田國男」で原本の電子化注を終わっているのである。だから「原点と違う読みだな」と直ちに思ったのである。当該部は、『佐々木(鏡石)喜善・述/柳田國男・(編)著「遠野物語」(初版・正字正仮名版) 三六~四二 狼』で、以下が本文である。

   *

三六 猿の經立(フツタチ)、御犬(オイヌ)の經立は恐ろしきものなり。御犬(オイヌ)とは狼のことなり。山口の村に近き二ツ石山(フタイシヤマ)は岩山なり。ある雨の日、小學校より歸る子ども此山を見るに、處々(トコロドコロ)の岩の上に御犬(オイヌ)うずくまりてあり。やがて首を下(シタ)より押上(オシア)ぐるやうにしてかはるがはる吠(ホ)えたり。正面より見れば生(ウ)まれ立(タ)ての馬の子ほどに見ゆ。後(ウシロ)から見れば存外(ゾングワイ)小さしと云へり。御犬のうなる聲ほど物凄く恐ろしきものは無し。

   *

リンク先の私の注も、是非、読まれたい。

『「ウツド」氏の動物圖譜』博物学的読本を多数書いたイギリスの作家ジョン・ジョージ・ウッド(John George Wood 一八二七年~一八八九年)の「Illustrated Natural History」である。但し、挿絵は彼が描いたものではなく、イギリスの画家熱心な動物愛好家でもあったハリソン・ウィリアム・ウィアー(Harrison William Weir 一八二四年~一九〇六年)他である。

『「コルスン」(Cuon dukhuensis. 印度の西疆に產する野犬也、能く群團して猛虎を殺すを以て著名也、此獸、體色赭く[やぶちゃん注:「あかく」。]、足喙耳と尾尖黑しと有れど本草綱目に、黃腰獸、豹より小さく、腰以上は黃、以下は黑し、形ち犬に類す、小なりと雖も能く虎と牛鹿を食ふと云るは、此獸の事を多少誤聞せる記載かとも思はる)の圖』「Internet archive」の「Illustrated Natural History」のここの右ページの図と解説(次のページにまで及ぶ)である。図のキャプションは「KHOLSUN, OR DHOLE.— Cuon Dukhuensis.」となっている。但し、この学名は不審。検索自体で全くかかってこないから、現在はシノニムでさえない。本種は食肉目イヌ科ドール属ドール Cuon alpinus である。ウィキの「ドール」によれば、別名をアカオオカミとも呼ぶ。現在はインド・インドネシア(ジャワ島・スマトラ島)・カンボジア・タイ王国・中華人民共和国・ネパール・バングラデシュ・ブータン・マレーシア(マレー半島)・ミャンマー・ラオスに分布するが、生息数は減少している。頭胴長は七十五センチメートルから一・一三メートル、尾長は二十八~五十センチメートル、肩高は四十二~五十五センチメートルで、体重は♂で十五~二十ログラム、♀で十~十七キログラム。『背面は主に赤褐色、腹面・四肢の内側は淡褐色や黄白色』を呈し、『尾の先端は黒い個体が多いが、先端が白い個体もいる』。『鼻面は短い』。『門歯が上下』六『本ずつ、犬歯が上下』二『本ずつ、小臼歯が上下』八『本ずつ、大臼歯が上下』四『本ずつの計』四十『本の歯を持』ち、『上顎第』四『小臼歯および下顎第』一『大臼歯(裂肉歯)には、歯尖が』一『つしかない』、『指趾は』四『本』。『乳頭の数は』十二~十六個である。『一次林』(原生林)『や二次林』(火災などの後の再生林)、『乾燥林から湿潤林、常緑樹林から広葉落葉樹林・針葉樹林など様々な森林に生息し、草原や森林がパッチ状に点在する環境やステップにも生息する』。『朝や夕方に活発に活動するが』、『夜間に活動する事もある』。五~十二『頭からなる』、『メスが多い家族群を基にした群れを形成し』て『生活するが』、二十から四十頭の『群れを形成する事もある』。『狩りを始める前や』、『狩りが失敗した時には互いに鳴き声をあげ、群れを集結させる』、『群れは排泄場所を共有し、これにより』、『他の群れに対して縄張りを主張する効果があり』、『嗅覚が重要なコミュニケーション手段だと考えられている』。『シカ類・レイヨウ類も含むウシ類・イノシシなどを食べる』。『齧歯類や爬虫類、昆虫、果実などを食べることもある』。『自分たちで狩った獲物や、他の動物が狩った動物の死骸も食べる』。『獲物は臭いで追跡し』、『丈の長い草などで目視できない場合は』、『後肢で直立したり』、『跳躍して獲物を探す事もある』。『茂みの中で横一列に隊列を組んで獲物を探しつつ追い立て、他の個体が開けた場所で待ち伏せる』。『大型の獲物は背後から腹や尻のような柔らかい場所に噛みつき、内臓を引き裂いて倒す』。『群れでトラやヒョウなどから獲物を奪う事もある』。『インドでは』九月から十一月に『交尾を行』い、『妊娠期間は』六十日から七十日で、十一月から翌年の四月にかけて出産し、一度に二頭から九頭を産む。『繁殖は群れ』の内でただ一頭の♀のみが行い、授乳期間は二ヶ月、『群れの他の個体が母親や幼獣を手助けし』、『獲物を吐き戻して与える』。『幼獣は生後』十四『日で開眼する』。生後七十~八十日で『巣穴の外に出』、生後五ヶ月で『群れの後を追うようになる』。生後七~八ヶ月で『狩りに加わる』。『生後』一『年で性成熟する』とある。

「本草綱目に、黃腰獸、豹より小さく、腰以上は黃、以下は黑し、形ち犬に類す、小なりと雖も能く虎と牛鹿を食ふと云るは、此獸の事を多少誤聞せる記載かとも思はる」「本草綱目」(「獸部第五十一卷」の「獸之二」)の記載は以下。独立項ではなく、「虎」の項の「附錄」の項に添えられてある。この点でも如何にも怪しげな記載であって、同じく虎を襲って殺す虎に似た「酋耳」(しゅうじ)、西域の野生の犬で虎を食うとする「渠搜」(りょうそう)というけったいな妖獣の後に、

    *

黃腰【「蜀志」に黃腰獸と名づく。鼬の身、貍の首、長ずるに、則ち、母を食ふ。形、小なりと雖も、小にして能く、虎、及び、牛・鹿を食ふ。又、孫愐(そんめん)云はく、「豰。音『斛』。豹に似て小なり。腰以上は黃なり。以下は黑し。形、犬に類して、獼猴(びこう)を食ふ。黃腰と名づく」と。】

    *

と記されてある。熊楠はその獰猛さを「多少誤聞せる記載か」とわざわざ述べているが、しかし、前の「ドール」の引用から判る通り、牛・鹿を襲うのは当たり前で、小型の弱った虎ならば、集団で襲い得る気がしている。虎ではなかったが、ドールが集団の狩りの様子を映像で見たことがあり、各個体自体の大きさより遥かに大きな畜類(牛の類だったと思う)を襲って、見事に成功していた。

「𤲿家川島友吉」(明治一三(一八八〇)年〜昭和一五(一九四〇)年)は日本画家。号は草堂。田辺生まれ。絵は独習。酒豪で奇行が多く、短気であったことから、「破裂」の別号もあった。熊楠とは明治三五(一九〇二)年に双方の知人の紹介で出逢い、以後、熊楠の身辺近くにあって、菌類の写生の手伝いもしたらしい。大正九(一九二〇)年の高野山植物調査にも同行している。日高の宿屋で客死した(以上は所持する「南方熊楠を知る事典」(一九九三年刊講談社現代新書)の記載に拠った)。

「碧山日錄卷一、長祿三年四月五日、攝州太守幸公與春公相率而來、予以禮侍之、余有一石、高峻而成双尖、幸公曰、金吾宗全之孫、其呼爲次郞者、好鶺鴒而籠之、此鳥以石爲居也、然無貢者、此石可以當之云、固有欲之々色、乃納之、幸公悅之と記せり」「碧山日録」は「へきざんにちろく」と読み、室町時代の東福寺の僧雲泉太極の日記。同書のウィキによれば、『東福寺の境内に「碧山佳拠」と呼ばれる草庵があり、それが名前の由来となっている』。記述は長禄三(一四五九)年から応仁二(一四六八)年に及び、寛正元年・文正元年・応仁二年などの『記述が欠落しているものの、長禄』から『応仁年間に言及した史料は希少であり、また筆者の立場上』、『寺院の運営、僧侶の仕事や生活に関する記述も見られるため、室町時代後期を検証する史料として貴重である』。『内容は太極の生活や私事と、僧侶としての渉外などの公務が中心となっている』が、『古代の名僧の伝記や語録の抜粋や、教典に対する太極の解釈や考証、絵画や書物の鑑賞も含まれている他、詩の覚書にも使われている』。『文正、応仁の頃の紊乱した世情が活写されており、この頃』に『台頭してきた足軽や、下層市民に関する記述が豊富』で、『中でも山城国木幡郷の郷民の活動や、清水寺の勧進僧が民衆に施した救済に関する記述は注目されている』。『それぞれの記事の末尾に「日録云」と称して、記事の要点の摘出と、太極自身の記事に対する感想を述べていることが特徴である。記事に付属する太極の論評』という形式には、「史記」を『初めとする古文書の影響があったと考えられている』という。『文体はかなり熟達しており、鮮明な個性と独特の雰囲気を醸し出しているが、それゆえに晦渋な点も多く、太極自身の経歴に不詳な点が多いことも、難解さに拍車をかけている』とある。平凡社「選集」版が訓読しているので、それを参考(従えない箇所が複数ある)に以下に訓読しておく。

   *

 長祿三年四月五日、攝州の太守、幸公、春公と相ひ率(ひき)いて來たる。予、禮を以つて、之れを侍(もてな)す。余に一石(いつせき)有り、高峻にして、双尖(さうとつ)を成す。幸公曰はく、

「金吾宗全の孫、其れ、呼んで、次郞と爲す者、鶺鴒(せきれい)を好みて、之れを籠(かごか)ひ、『此の鳥、石を以つて居(きよ)と爲すなり。然(しか)れども、貢(すすむにた)る者、無し』と。此の石、以つて之れに當(あ)つべし。」

と云ひ、固(もと)より、之れを欲するの色、有り。乃(すなは)ち、之れを納(い)る。幸公、之れを悅ぶ。

   *

「長祿三年」は一四五九年。「攝州の太守、幸公」不詳。識者の御教授を乞う。「春公」不詳。同前。「金吾宗全の孫」で「次郞」というのは山名政豊(嘉吉元(一四四一)年~明応八(一四九九)年?)のことか? 父は山名宗全の嫡男山名教豊。但し、或いは宗全の子で教豊の養子であったともされる。彼の幼名は小次郎である。

「淡路志筑町の海岸へ、每年土用に、甲の幅三尺餘の大龜、一定の場所に來り、產卵するを、町民神として敬ふ」調べてみたが、残念なことに、今はやって来てはいないようである。

「續群書類從卷卅所收、八幡愚童訓卷下に、淀の住人八幡に參り祈りしに、寶藏の内より大なる百足這懸りければ、是れ福の種也と仰ゐで、袖に裹んで宿所へ還り、深く崇め祝ひしに、所々より大名共來て問丸と爲り、當時迄淀第一の德人也と見え」「八幡愚童訓」は鎌倉後期に成立した石清水八幡宮の霊験記。作者未詳。本地垂迹説に従って書かれており、内容が大きく異なる多種の異本が現存する(まさに探すのに、それらに嵌ってしまって往生した)。国立国会図書館デジタルコレクションで写本(但し、非常に状態がよい)でやっとここに見つけた。カタカナをひらがなにし、句読点・記号を添え、一部に推定で読みを添えた。

   *

 淀の住人あり、世間、合期(がふご)せざりけるを[やぶちゃん注:時流に乗って上手く商売をすることが出来ずにいたが。]、測らざるに、安居頭(あんごのとう)[やぶちゃん注:陰暦十二月十三日から十三日までの間、石清水八幡宮に籠って精進潔斎する神事の際に選ばれて主役となる者。]さゝれたりければ、

「身にては叶ふまじき事なれども、神の御計(おんはからひ)にこそ有らめ。」

とて、すべていたます夫妻共に精進して、參宮して祈請しける程に、宝殿の内より大なり[やぶちゃん注:ママ。]百足、這はひかゝりければ、

『是れ、福の種なり。』

と、仰(あふぎ)て、袖につゝみて、宿所にかへり、深く崇め祝けり。

 誠の神思(しんし)にて有(あり)けるにや、所々より、大名ども、來(きたり)て問丸(とひまる)となりける程に、多(おほく)、德づきて、安居勤仕(ごんし)するのみにあらず、當時まで、淀㐧一の德人也。

 是は、心も誠あり、物をも賤(いやし)くせねば、内外相應の利生(りしやう)也。

   *

ここに出る「問丸」は、鎌倉から戦国時代、港町や主要都市で,年貢運送管理や中継取引に従事した業者を指す。平安末期の頃から、淀・木津・坂本・敦賀など、荘園領主の旅行に当たって、船などを準備する問丸が見られ、鎌倉時代になると、荘園の年貢米の運送・陸揚・管理に当たる問丸が現われ、荘園領主から「得分」 (問給・問田)を与えられていたものが、次第に商業的機能を帯び出し、やがて、独立の業者となった。貢納物の販売に当たって手数料として問料 (といりょう) を取り、さらに貢納物から商品の取引を専門とするよう転じて行った。戦国時代の問丸には、港町の自治を指導し、外国貿易に参加する豪商が出たり、遂には、運送などの機能を捨て、純粋な卸売業となり、配給機構の中核を構成するようになった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「神宮雜用先規錄卷下に、皇太神宮神主荒木田氏の祖の名を列せる中に、牟賀手有り」「神宮雜用先規錄」「宮内庁書陵部図書寮文庫蔵」の電子データの同書の「45」コマ目の右頁一行目に、

   *

荒木田牟賀手己波智賀祢子

   *

とある(父の名は「40」コマ目末尾も確認されたい)。

「越中放生津の諏訪社に白蛇あり、諏訪樣と名く、蟹多く引連れ出で遊ぶ、澤蟹多く出て諸人を迎ふるは、此地の不思議にて、大要使はしめと云ふ者に似たりと、三州奇談後篇一に見ゆ」「三州奇談」は加賀・能登・越中、即ち、北陸の民俗・伝承・地誌・宗教等の奇談を集成したもので、金沢片町の蔵宿(くらやど:藩の年貢米の売却のために置かれた御用商人)の次男で、金沢の伊勢派の俳諧師で随筆家(歴史実録本が多い)の堀麦水(享保(一七一八)年~天明三(一七八三)年)が、先行する同派の俳諧師麦雀(生没年未詳。俗称、住吉屋右次郎衛門)が蒐集した奇談集を散逸を憂えて再筆録したものとされる。完成は宝暦・明和(一七五一年~一七七二年)頃と推定される。正編五巻九十九話・続編四巻五十話で全百四十九話からなる。私は既にブログ・カテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を終わっている。当該話は正しくは「後篇」ではなく「續編」で、「三州奇談續編卷之一 靈社の御蟹」である。ガッツリと注も附してある。

「蜻蜓類聚名物考卷二五八、錢を數ふる異稱の條々、禮家に云傳るは、蜻蛉結びを武家に用ゆ、此虫を將軍虫と云ふとあり」「類聚名物考」は複数回既出既注であるが、最後なので再掲しておくと、江戸中期の類書(百科事典)で全三百四十二巻(標題十八巻・目録一巻)。幕臣で儒者であった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年:号は明阿。賀茂真淵門下の国学者で、「泥朗子」の名で洒落本「跖(せき)婦人伝」を書き、「逸著聞集」を著わしている)著。成立年は未詳で、明治三六(一九〇三)年から翌々年にかけて全七冊の活版本として刊行された。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で同刊本を視認したところ、ここに発見した(巻二百五十八の「調度部十五」の「財貨(金銀錢)」の内の「錢を數ふる異稱」の条中に、

   *

四錢、羽はね、禮家に云ひ傳ふるハ蜻蛉結を武器に用る此虫を將軍虫と云ふその羽四ツなる故云には出る所不詳

   *

とあるのを指す。

「蜻蛉を勝ち蟲と名け、武士の襦袢等の模樣に用ゆ」和装小物の「かくいわ芝田」のサイトのこちらに、『トンボは素早く飛び回り』、『害虫を捕らえ、また』、『前にしか進まず』、『退かないところから「不転退(退くに転ぜず、決して退却をしない)」の精神を表すものとして、「勝ち虫」と呼ばれ、縁起物として武士に喜ばれ』て、『戦国時代には兜や鎧、箙(えびら)刀の鍔(つば)などの武具、陣羽織や印籠の装飾に用いられた』とある。

「神武帝蜻蛉に依て國に名け玉し事あり」「日本書紀」第三巻の神武天皇三十一年(辛卯)(機械換算紀元前六三〇年)四月乙酉朔の条に(訓読は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年岩波書店刊黒板勝美編「訓讀 日本書紀 中卷」を参考にした)、

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三十有一年夏四月乙酉朔。皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘。而𢌞望國狀曰。妍哉乎國之獲矣【妍哉此云鞅奈珥夜】。雖内木錦之眞迮國。猶如蜻蛉之臀呫焉。由是始有秋津洲之號也。

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三十有一年夏四月乙酉(きのととり/いついう)朔(ついたち)、皇(すめらみこと)輿巡幸(めぐりいでま)す。因りて、腋上嗛間丘(わきのかみのほほまのをか)に登りまして、國の狀(かたち)を𢌞望(めぐらしお)せりて曰(のたま)はく、「妍(あなにゑ)や、國の獲(み)えつ【「妍哉」、此れをば「鞅奈珥夜(あなにゑや)」と云ふ。】。内木錦(うつゆふ)の眞迮國(まさのくに)と雖も、猶ほ、蜻蛉(あきつ)の臀呫(となめ)のごとくもあるか。是れに由りて、始めて「秋津洲(あきつしま)」の號(な)有り。

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この「腋上嗛間丘」は一説に奈良県御所市柏原の国見山(グーグル・マップ・データ)に比定されている。「臀呫(となめ)」は蜻蛉の雌雄が交尾して、互いに尾を咥え合って輪になって飛ぶことを指す。

「雄略帝、此蟲が蟲を誅せしを褒め云ひし事も有り」「日本書紀」の雄略天皇四年(機械換算四六〇年)の以下。訓読は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年岩波書店c刊黒板勝美編「訓讀 日本書紀 中卷」の当該部を参考にした。

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秋八月辛卯朔戊申、行幸吉野宮。庚戌、幸于河上小野。命虞人駈獸、欲躬射而待、虻疾飛來、噆天皇臂、於是、蜻蛉忽然飛來、囓虻將去。天皇嘉厥有心、詔群臣曰「爲朕、讚蜻蛉歌賦之。」群臣莫能敢賦者、天皇乃口號曰、

野麼等能 嗚武羅能陀該儞 之々符須登 拕例柯 舉能居登 飫裒磨陛儞麻嗚須【一本、以飫裒磨陛儞麼鳴須、易飫裒枳彌儞麻嗚須。】 飫裒枳瀰簸 賊據嗚枳舸斯題 柁磨々枳能 阿娯羅儞陀々伺【一本、以陀々伺、易伊麻伺也。】 施都魔枳能 阿娯羅儞陀々伺 斯々魔都登 倭我伊麻西麼 佐謂麻都登 倭我陀々西麼 陀倶符羅爾 阿武柯枳都枳 曾能阿武嗚 婀枳豆波野倶譬 波賦武志謀 飫裒枳瀰儞磨都羅符 儺我柯陀播 於柯武 婀岐豆斯麻野麻登【一本、以婆賦武志謀以下、易舸矩能御等 儺儞於婆武登 蘇羅瀰豆 野磨等能矩儞嗚 婀岐豆斯麻登以符」。】

因讚蜻蛉、名此地爲蜻蛉野。

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 秋八月辛卯(かのとう/しんばう)朔戊申(つちのえさる/ぼしん)[やぶちゃん注:十八日。]、吉野宮に行幸(みゆきまし)ます。庚戌(かのえいぬ/しんじゆつ)[やぶちゃん注:二十日。]、河上小野(かはかみのをぬ)の幸(いでま)ます。虞人(かりうど)に命(おほ)せて獸(しし)を駈(か)らしめ、

「躬(みづか)ら射む。」

と欲して待ちたまふに、虻(あむ)、疾(と)く飛び來たりて、天皇(すめらみこと)の臂(ただむき)を噆(く)ふ。

 是(ここ)に於いて、蜻蛉(あきつ)、忽然(たちまち)に飛び來たりて、虻を囓(く)ひて將(も)て去(い)ぬ。

 天皇、厥(そ)の心有るをことを嘉(よろこ)びたまひて、群臣(まへつぎみたち)に詔(みことの)りして曰(のたま)はく、

「朕(あ)が爲めに、蜻蛉(あきつ)の讚(ほ)め歌、賦(よ)みせよ。」

 群臣、能く敢へて賦(よ)む者莫し。

 天皇、乃(すなは)ち、口づから號(うた)はれて曰はく、

倭(やまと)の 峰群(おむら)の嶽(たけ)に 猪鹿(しし)伏すと 誰(たれ)か このこと 大前に奏(まを)す【一本、「おほまへにまをす」を以つて、「おほきみにまをす」に易へたり。】 大君は そこを聞かして 玉纏(たままき)の 胡床(あぐら)に立たし 倭文纏(しづまき)の 胡床(あぐら)に立たし【一本、「たたし」を以つて、「いまし」に易へたり。】 猪鹿待つと 我がいませば さ猪(ゐ)待つと 我が立たたせば 手腓(たくふら)に 虻(あむ)かきつきつ その虻を 蜻蛉(あきつ)早(はや)咋(く)ひ 這ふ蟲も 大君(おほきみ)に順(まつら)ふ 汝(な)が形(かた)は 置かむ 蜻蛉嶋倭(あきつしまやまと)【一本、「はふむしも」を以て、「かくのこと なにおはむと そらみつ やまとのくにを あきつしまといふ」に易へたり。】

 因りて蜻蛉(あきつ)を讚(ほ)めて、此の地(ところ)を名づけて「蜻蛉野(あきつの/あきつしま)」と爲さしむ。

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南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(追加発表「附記」分)

[やぶちゃん注:以下は、底本「南方隨筆」にはなく、平凡社「選集」(第三巻・一九八四年刊)に附帯する。資料としては、これを外すのは適切とは思われないため、特異的に加えることとした。調べたところ、これは熊楠が明治四四(一九一〇)年三月発行の『東京人類學會雜誌』六二巻三百号に発表した名論文『西曆九世紀の支那書に載たる「シンダレラ」物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較研究)』の末尾に附されたものであることが判り、しかも幸いにして「j-stage」のこちらPDF)で同初出論文原文全文が視認出来ることが判ったので、それを元に電子化した。但し、この前の記載の書誌書式に合わせて最後の丸括弧部を補ったことをお断りしておく。初出誌では同論文の最後に全体が一字下げで記されてあり、最終行には下方に『(完)』(上記論文の「完」である)とある。]

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附記、本誌二九一號に、予が載たる野槌に似たる事、橘南谿の西遊記卷一に出づ、其略に云く、肥後の五日町、求麻川端の大なる榎木の空洞に、年久しく大蛇住り、時々出で現はるゝを見れば病むとて、木の下を通る者必ず低頭す、太さ二三尺、總身白く、長さ纔に三尺餘、譬ば[やぶちゃん注:「たとへば」。]犬の足無き如く、又芋蟲に似たり、土俗之を一寸坊蛇と云ふ、下略、(明治四十四年三月人類第六二卷三百號)

 

[やぶちゃん注:江戸後期の医者で紀行家であった橘南谿(宝暦(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行記「西遊記」(寛政七(一七九五)年初版刊行後、三年後には続篇も書いている。「東遊記」と合わせて、優れた奇事異聞集となっている)の、巻之一に続けて出る「榎木の大虵(だいじや)」で、呼称から見ても「野槌」である。私の知見のお節介で、既に「野槌」の冒頭注で全電子化をして注も附してある。されば、最後はすっきり綺麗に終わることが出来た。]

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