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2020/12/18

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(18:野槌)

 

 野槌、沙石集五卷、章三に叡山の二學匠相契りて、先立つ事有ば必ず生所を告ぐべしと也、扨一人死して夢に告て云く、我は野槌と云者に生れたりと、是れ常に無き獸、深山の中に希に有りと云り、形大にして目鼻手足なく、只口あり、人を取て食ふ、是は佛法を一向名利の爲に學ひ[やぶちゃん注:ママ。]て、勝負諍論して、口計りさかしけれども、智惠の眼も信の手も、戒の足も無き故に、斯る恐ろしき物に生れたりと云り、予熊野の山人に聞しに、野槌は「ムグラモチ」樣の小獸にて、惡臭有りと云り、此說沙石集の文に近し、然るに倭漢三才圖會卷四十五には、これを蛇の屬とし云く、深山木竅中有之、大者徑五寸、長三尺、頭尾均等、而尾不尖、似槌無柄者、故俗呼名野槌、和州吉野山中菜摘川、淸明之瀧邊往々見之、其口大而噬人脚、自坂走下甚速逐人但登行極遲、是故、如逢之則急可登高處、不能逐著、今も此物大和にはさして希ならず、丹波市近所に、昔し捕え[やぶちゃん注:ママ。]來て牀下に畜しに、只今眼小さく、其體俵の如く短大なる者となり、握り飯を與ふるに轉がり來て食ふ事頗る迂鈍なるを目擊せる人、之を予に話せり、前年、大坂朝日か大坂每日の地方通信に、和泉の山中に此物有り、土俗「ノロ」と云ふと見えし、當國日高郡川又にて聞しは、此物倉庫に籠り居る事有り、さまで希ならずと云へり、又田邊灣の沿岸堅田の地に、古え陷り成れると覺しき、至つて嶮しき谷穴、(方言ホラ)有り「ノーヅツ」と名く、俚傳に云く、昔し野槌と云へる蛇之に住み、長さ凡そ五六尺、太さ面桶(メンツウ)の如く、頭體と直角を爲す狀恰かも槌の如く、急に落下りて人を咬めりと、因て今も人惶れて此谷穴に入らず、案ずるに、山本亡羊の百品考に蛟[やぶちゃん注:「みづち」。]出れば山崩るてふ漢土の說を擧げ、蛟を「ホラ」と訓ぜり、斯る地崩れの際、古爬蟲の巨大なる遺骸、化石して顯出せるを蛟と名けしにて、ホラは素と洞の意なるを、轉じて地崩れより生ぜる谷穴をも呼びしならん、又東海道名所記三に云く、今切の渡し、昔は山に續きたる陸地なりしが、百餘年計り以前に山の中より螺の貝夥く脫出でゝ海へ飛入り、其跡殊外崩れて、荒井の濱より五里計り、一ツ海に成りたる故に今切と申す也、倭漢三才圖會卷四十七にも、凡非地震而山岳暴有崩裂者、相傳云、寶螺跳出而然也、如遠州荒井之今切者、處々大小有之、龍乎螺乎。未知其實焉、洞も寶螺も、「ホラ」に訓ずる故、混じて生ぜし說にや、若しくは地崩るゝ時、螺類の化石露出するに據れるか、古え堅田に、山崩れて件の谷穴を成す際、異樣の爬蟲化石出しより、之を野槌蛇と心得て件の譚を生ぜしにや。

[やぶちゃん注:以下、一段落分は底本では、全体がポイント落ちで一字半下げとなっている。同ポイントで示した。前後が一行空けなのはママである。]

 

 丹波市の野槌の話に似たる外國の例は、一七六六年、印度山間の諸王が、世界と伴て生死すと信じ、崇拜せる神蛇「ナイク、ペンス」を見し人の記に、此蛇岩窟に住み、一週に一度出でゝ、詣者が奉れる山羊兒又鷄を食ふ、それより堀に入て水を呑み、泥中に轉び廻り、扨復た窟に入る、吾輩其泥上に印せる跡より推すに、此蛇長さに比して厚きこと非常にて、徑り二尺を踰ゆと(V.Ball, Jungle Life in India,’ 1880, p. 491) 又淵鑑類函卷四三九に、夷堅志を引て、南宋の紹興廿三年(近衞帝仁平三年)建康に現はれし豬豚蛇の事を言るに自竹叢出、其長三丈、面大如杵、生四足、遍身有毛、作聲如豬、行趨甚疾、爲逐人呑噬之勢云々、嚙人立死とあるは、野槌を獸とするも、蛇とするも、多少似たる所有る樣也。

 

 野槌の意義に就ては、本誌二八二號六六三頁以下に、出口君の論あり、予一向不案内の事乍ら、古事記傳五に、和名抄、水神又蛟を和名美豆知と訓せり、豆(ツ)は之(ノ)に通ふ辭、知は尊稱にて、野槌等の例の如しと有れば、「ミヅチ」は俗にいふ水の主(ヌシ)、又蛇の主、野槌は野の主と云ふ事なるべし、日本紀によれば、諾册二尊日神を生み玉へる前に、野槌を生めり、鈴鹿連胤の神社覈錄を檢するに延喜式神名帳、加賀國加賀郡に野蛟神社二ケ所在り、一は金山彥命を祭り、一は高皇產靈尊等三神を祭る、野蛟は「ノヅチ」と讀むべしと有り、又下總國に蛟蝄神社有り「ミヅチ」と讀む、水神罔象女を祭るとある以て考れば、加賀の二社は、原と野槌を祭れるにて、野槌は蛇の屬たりしこと明けし、神が蛇迄も產し例は、希臘の大地女神「ガイア」の子に、怪蛇「ピゾン」有り(Seyffert. A Dictionary of Classical Antiquities,’ London, 1908, p. 531.)類聚名物考卷三三七に、野仲「ノヅチ」、文選の訓に云り、其義註にも詳かならず、張平子殪野仲而殲遊光(ツキガミ)註、野仲遊光惡鬼也、兄弟八人常在人間、作怪言とあれば、後世野槌は、支那の惡鬼野仲に宛られるゝ程、評判惡くなり、神より降て怪物となりし也、思ふに「ミヅチ」「ノヅチ」、何れも古えありし大蛇を、水に住むと野に棲むに從ひて、其主とせる名ならん、大和和泉等に現在すといへる野槌蛇は、予親く見ざれば其虛實を知らず、或は或種の蛇、病に罹りて、人間の象皮病の如く、斯る畸形を生ずるに非るか、無脚蜥蜴に“Uropeltidae”[やぶちゃん注:底本表記は「Uropeltidae」。訂した。]の一群あり、皆な蛇に似乍ら、身體短く、尾端太くして頭と等しく、其狀恰も斜めに切て、體の後部を取除けるが如く、其の切斷せる如き表面の尖鱗を、地に押し付けて行動す(Tennent, ‘The Natural History of Ceylon,1861.  p. 302 圖有り) 本邦稀に兩足の蛇を出し、兼葭堂雜錄等に其圖を載す、是は兩脚蜥蜴の一種なるべし、因て推すに、野槌と稱する者の中、或は一種の無脚蜥蜴の頭尾均等に後體截去られたる形ちを具する者、全く無きを保せずとや言はまし、兎に角、野槌は古えの神蛇で野の神として崇拜されしを、後世其傳を失ひ、異様畸形の蛇を呼ぶ事となり、種々の怪談を生ずるに迨べるならん。

[やぶちゃん注:以下、一段落分は底本では、ポイント落ちで全体が一字下げとなっている。同ポイントで示した。前後の一行空けは私の仕儀である。]

 

 追加、「レヲ・アスリカヌス」曰く、アントランテ山に毒龍多く、窟内に住む、胴甚大、頭尾細き故、身體重く行動甚遲しと(Ramusio, op. cit., tom. i. fol 94; Lacroix, Science and Literature of the Middle Ages,London, N. D., p. 221. 有圖、)又龍の歩行頗る迂鈍にして、大雨の時谷に落て多く死すと、何か中古の欧州書で見たるも、今其名を記せず、かゝる由來にや、今日希臘で龍(ドラコス)と呼ぶは、人を食ふ巨人にて、力强きも智慧甚だ鈍く、人間に欺かれし珍譚多し(Tozer, Researches in the Highlands of Turkey, vol. ii.P. 293 seqq, 1869)本文、和泉で野槌を「ノロ」と云ふ事攷合すべし。

 

[やぶちゃん注:突然、未確認生物が現われ、しかも、異例に非常に長い記載となる。こういうところが熊楠らしくて、好きなところだ。展開と行き着くところを見れば、非常に穏当な科学的視点に立った推論で記されているのだが、読者を飽きさせない――と言うより、熊楠自身がこの面妖な生物の考証を心から楽しんでおり、しかもその天馬空を驅くるが如き自在な連想が生じつつも、それがまた本筋を離れないところが、教師時代の私の授業が、脱線したまま、あらぬ方に語りを変じてしまったのとは大違いだ違いだ(但し、本条は初出を見ても、改行されてはあるものの、前の「蛇」の条の続きとして熊楠は書いている感じは拭えないことは注意しておく必要があるようには思う)。 閑話休題。最初に、熊楠も引いている寺島良安「和漢三才図会」の「巻第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「野槌蛇(のつちへび)」それを、以下に示す(ここに出すに追記した部分がある)。リンク先のそれは、私が十二年前に行った全電子化注で、当時表記出来なかった字や、学名を斜体にしていないなどの不備があるが、今回、当該部だけを限定的にリニューアルしてはおいた。挿絵があるが、如何にもしょぼい、ただの蛇のようにしか見えないので、略す。熊楠の引用とやや異同がある。

   *

のつちへび【合木蛇之屬乎】

野槌蛇   

△按深山木竅中有之大者徑五寸長三尺頭尾均等而尾不尖似槌無柯者故俗呼名野槌和州吉野山中菜摘川清明之瀧邊徃徃見之其口大而嗑人脚自坂走下甚速逐人但登行極遅故如逢之則急可登髙處不能逐著

   *

のづちへび

野槌蛇  【合木蛇(がうぼくだ)の屬か。】

△按ずるに、深山の木の竅(あな)の中に之有り。大なる者、徑(さしわ)たし五寸、長さ三尺。頭尾均等にして、尾、尖らず、槌の柯(え)無き者に似たり。故に俗に呼んで野槌と名づく。和州〔=大和〕の吉野山中の菜摘(なつみ)川、清明の瀧の邊に徃徃に之を見る。其の口、大にして人の脚を嗑む。坂より走り下ること甚だ速く、人を逐ふ。但し、登り行くこと極めて遅し。故に如(も)し之に逢ふときは、則ち急に髙き處に登るべし。逐(お)ひ著くこと能はず。

[やぶちゃん注:UMA(未確認動物)ツチノコに同定する。木槌の柄を外した槌部分に類似した極めて寸胴(誇張的名辞で良安の、直径十五センチメートル、全長九十センチメートル長い木枕といった感じだ)の蛇で、北海道と南西諸島を除く広範な地域で目撃例がある。その標準的特質を多岐に亙る情報ソースの最大公約数として以下に列挙して、想像の楽しみの便(よすが)と致そう。データは総て所持する信用出来る著作及びネット情報を総合した。

  • 学名:未定
  • 通称標準和名:「ノヅチ」(ノヅチの方に優先権がある。この呼称の分布は主に東北・中風・近畿地方で広域で通用する。但し、現在、人口に膾炙しているのは圧倒的に「ツチノコ」(槌の子)で、これは元は京都での呼称ともされるようだ)
  • 異名:野槌蛇(のづちへび)・杵(きね)の子・バチヘビ(東北)・ドコ(滋賀県)・コロ(福井県)・ツチ・ワラツチ・ヨコヅチ・キネノコ・キネヘビ・ツチコロ・ツチコロビ・ドテンコ・トッテンコロガシ・スキノトコ・三寸ヘビ・尺八ヘビ・五十歩ヘビ・トックリヘビ・ツツ・マムシ・コウガイヒラクチ・タンコロ・コロガリ・バチアネコ・イノコヘビ・トッタリ・五寸八寸・タテクリカエシ・ツチンボ・ツチヘビ・土転び、等。
  • 体長:約30㎝~1m。
  • 胴長:約30㎝弱~80㎝。
  • 胴径:7㎝~30㎝。
  • 毒:不明。無毒とも有毒とも強毒ともいわれるが、南西諸島を除き、本邦在来種でマムシ(クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii 。但し、一九九四年に対馬の同属の個体群が独立種ツシママムシGloydius tsusimaensisとして新種記載されている)・ヤマカガシ(ナミヘビ科ヤマカガシ属ヤマカガシ Rhabdophis tigrinus 。但し、昔から毒蛇と注意する人はいたが、本種の正式な有毒種認定は一九七四年以降のことで、現在まで同種の咬傷死亡と認定された明確な事例は公的には三例のみである。しかし、同種の顎の奥深くで有意な時間咬まれ続けた場合は、極めて危険である。なお、ヤマカガシは別に、頸部を圧迫すると、別な毒液が飛び散り、ヒトやイヌなどの目に入った際には激しい症状を呈する。これは頸腺毒であるが、彼らが好んで捕食するニホンヒキガエルの持つブフォトキシンン(bufotoxin)で、それを体内貯留して防禦に使用しているのである)以外のヘビ咬傷死亡例が近代以降に全く認められない以上、無毒、少なくとも弱毒としてよいであろう。
  • 出現(目撃)時期:春~秋(4月~11)
  • 生活相:単独相(複数個体・集合的目撃例は皆無)・昼行性。
  • 食性:肉食性(カエル・ネズミ等)。
  • 体色・紋:焦茶色又は黒色又は鼠色等、黒いマムシに類似した網目文様と背中に斑点を持つ。
  • 鱗:通常の蛇に比して有意に大きく、成人男性の小指の爪程の大きさ。
  • 頭部形状(全体):毒蛇に特有の典型的三角形を呈し、通常の蛇に比して有意に大きく(幅4cm程度)、且つ平板。
  • 頭部形状(眼):鋭く、瞼があり、瞬きをするヘビ類は目蓋に相当する器官はなく、「瞬き」をすることはないので、特異点である。但し、実は眼球の表面には透明の鱗がかぶさってあるので、目は保護されている。脱皮後の残片を見ると、目の表面部分も透明の皮として残っているのを確認出来る。しかし、これは鳥・魚類の一部・両生類・蛇を除く爬虫類(則ち、蛇自体が目蓋を持たない爬虫類の特異群なのである)の持つ目蓋或いは瞬膜とは異なるものであるから、やはり普通の蛇が瞬きをすることはあり得ない)。
  • 頸部:頭部と胴部の間が明確に短かくくびれ、頸部が明瞭。
  • 胴部:通常の蛇に比して有意に中央部が膨れ上がって横に張っており、前後に伸縮する。
  • 尾部:短かく極めて強靭。それで木へ垂下することができ、威嚇行動時には、胴部を緊張させ、尾部のみで身体を立てることが可能。
  • 運動形態:蛇行せず、胴部を前後に尺取虫のように伸縮させて直進(後退も可能)し、更に胴と尾を用いて跳躍(約1~2m)、また、自身の尻尾を咥えたウロボロス状態で円くなり転がって移動することも可能とする。
  • その他:「チー!」という鼠に似た啼き声を発し、睡眠時には鼾をかく。

私はツチノコの親衛隊ではないので、学名命名権は遠慮することにした。ちなみに、ナマズ目ロリカリア科 Loricariidae ロリカリア亜科ロリカリア族 Pseudohemiodon 属のセゥドヘミオドン・ラティセプス Pseudohemiodon laticeps なる魚に、なんと、「ツチノコロリカリア」(!)という和名があるのは、ご存知かな? このメゴチかノドクサリのような、アルゼンチン・ブラジル・パラグアイ原産の装甲型の扁平なナマズの一種である(リンク先は学名のグーグル画像検索)。

 以下、本文語注。

・「合木蛇」は、この項の直前にある「千歳蝮」の異名。訓読したものを引いておく。

   +

せんざいへび 合木蛇

千歳蝮    斫木蛇(しやくぼくだ)

ツヱン スイ ホツ

「本綱」に、『千歳蝮は、狀、蝮のごとく、長さ、一、二尺、四つ脚、有り。形、蜥蜴のごとし。其の頭尾、一般にして、大いさ、衣を搗(う)つ杵のごとし。故に合木蛇と名づく。能く跳り來りて、人を囓(か)む。人、之に中(あた)れば、必ず、死す。其の囓み已(をは)りて即ち木に跳び上り、聲を作して「斫木斫木」と云ふ者は赦(すく)ふべからざるなり。若し「慱叔慱叔」と云ふ者なれば、猶ほ、急に之を治す。細辛・雄黃(うわう)、等分に用ひて、末と爲し、瘡中に内(い)れ、三たび、四たび、之れを易(か)ふ。』と。

[やぶちゃん注:不詳。四足があるので蛇ではない。有毒トカゲは現生種では爬虫綱有鱗目ドクトカゲ科アメリカドクトカゲ Heloderma suspectum 及びメキシコドクトカゲ Heloderma horridum の二種のみが知られており、分布域から本種ではない。四足があるものの、その敏捷な動きといい、強毒性といい、「野槌」と共に、あの本邦のUMAツチノコのモデル候補とはなる種ではあろう。

・「其の頭尾、一般にして」とは、頭と尾が丸太のように同じ太さであることを言う。ツチノコである。

・「斫木斫木」は、「俺の難に咬まれたくなかったら、木を切れ、木を切れ、もう、遅いがな」という謂いか?

・「慱叔慱叔」は多くが「博叔博叔」とするが、原典の「本草綱目」も底本も「慱」である。「慱」は音「タン・セン」で、憂える、または、円い、という意味で、これでは全く意味不明。では「博叔」はというと、これも分からぬ。分からぬついでに勝手に空想すると、これは実は弱毒個体か似て非なる別種である「博叔蛇」という蛇で、「あんたが咬まれたのは斫木蛇兄さんじゃあなかったんだ、その寛大な叔父さん、そう、斫木蛇兄さんの寛大な叔父さんの僕、博叔蛇だったのさ、すぐに療治すれば助かるよ」との謂いででもあろうか? この「斫木」「慱叔」には何かの故事の連関があるのであろう。識者の御教授を乞う。

・「細辛」はウマノスズクサ目ウマノスズクサ科カンアオイ属 Asarum ウスバサイシン Asarum sieboldiiAsiasarum sieboldii はシノニム)で、根及び根茎は精油成分に富み、細辛(さいしん)という生薬となる。去痰・鎮痛・鎮静・解熱作用を持つ。

・「雄黃」はヒ素の硫化鉱物で「石黄」とも呼ばれる。化学式はAs2S3。漢方では解毒・抗炎症剤として用いられたが、強い毒性を持つが、解毒剤や抗炎症剤として漢方で利用されている。詳しくは本巻冒頭の「龍」の項の「雄黄」及び「雌黄」の私の注を参照されたい。]

   +

 以下、上記引用の「野槌蛇」の本文注。

・「菜摘川」とは現在の奈良県吉野町大字菜摘(グーグル・マップ・データ。以下同じ)付近の吉野川の呼称。

・「清明の瀧」は「蜻蛉(せいれい)の瀧」のことで、吉野町上千本からさらに奥へ向かい、金峰神社の先、青根ヶ峰(旧金峰山)から音無川沿いに下ったところにある。この川は、吉野川に流れ込み、北の山を越えたところが、「菜摘」である。この近くには現在、行政主導の「ツチノコ共和国」奈良県吉野郡下北山村全域。熊楠のフィールド・ワークの守備範囲である)なるものもある(言っておくが、馬鹿にしてリンクしているのではない。やるんなら、本気でそれなりに真面目にしっかりとツチノコ探索や生物学的・民俗学的研究を継続的にやろうじゃないかということである。実際、この斬新な日本国内の共和国から、残念ながらエネルギッシュなツチノコの雄叫びは、少なくともUMA好きの私の耳にはちっとも聞こえてこないのである(但し、先にリンクさせた「ツチノコの歴史・目撃記録」及び、別ページの「ツチノコの呼び名の由来と特徴を総点検」或いは「下北山の文献にみるツチノコ」と、「下北山の目撃者の話」(目撃個体の一つ一つのキャプション入りの図が附されてある!)は、恐らくネット最強のツチノコ資料集である。必見!)。なお、末尾になったが、この蜻蛉の瀧は著名な歌枕で、貞享五(一六八八)年三月、吉野の桜を見に来た芭蕉が、

 ほろほろと山吹ちるかたきのおと

の句を残している。「ころころと野槌轉ぶかたきのおと」――なんてね!

・「嗑む」は、「かむ」と読ませているのであろうが、この「嗑」(音は「コウ」)は、①ぺちゃぺちゃしゃべる。②語る。③合う。④笑い声。⑤吸う。飲む、といった意味しかない。何らかの字の誤字と考えた方がよい。

   *

最後に注した「嗑」は、熊楠は「噬」としている。これは正しく「かむ」の意で、よい。

 次に、先に掲げた「ツチノコ共和国」の記事を引用させて戴く。

   《引用開始》

ツチノコの呼び名の由来

ツチノコは、漢字で書くと”土の子”ではない。”槌の子”である。これは、ビールびんに頭としっぽがついたその太く短い形状が、藁を打つ”槌”に似ていることからついた名だ。[やぶちゃん注:中略。]

ツチノコのいろいろな呼び方

ツチノコは、北は青森から南は鹿児島まで、北海道と奄美・沖縄をのぞく日本各地で古くから目撃されている。そして、その名も、地方によって異なっている。

ツチノコという呼び名は、先のブームで広く定着したが、もともとは一地方の一呼び名すなわち一方言にすぎないのである。この名は、京都市北部と鈴鹿山脈、吉野熊野一帯、四国北部などで使われている。

そのほか、”槌”からついた名には、”ノヅチ=野槌”(秋田、宮城、岐阜北部)、”ツチヘビ=槌蛇”(岐阜南部、大阪)、”ツチ=槌”(大阪、兵庫北部)、ツチンコ=槌ん子”(吉野)”ツチンボ=槌ん棒”(福島)などがある。 同じように、形状からの名は多種多様。臼に人れた穀物をつく、杵に見立ててキネノコ=杵の子(京都・兵庫)、酒を入れる徳利に似ているところからトックリヘビ=徳利蛇(滋賀)、納豆などを包む藁の束、苞からツトヘビ=苞蛇(愛知)、俵を連想したタワラヘビ=俵蛇(九州南部)といった豪快な名前まである。

一方、ツチノコの大ききをそのまま名前にしたのは”ゴハッスン=五八寸”滋賀、兵庫、岡山南部)。胴回りが5寸(約15センチ)、長さが8寸(約24センチ)というわけだ。この数値ではやや小ぶりだが、これは、正確さより語感や象徴性を重視したからであろう。あるいは同じツチノコでも近畿地方には、やや小型の種がいるのかもしれない。また、秋田では、しつぽか短いことからバチ(尾が短い)ヘビ新潟では、マムシに似た筒状のヘビということでツツマムシと呼んでいる。

もちろん、その特異な習性からついた名前も多い。ヘビとしては奇妙な”ころがる”癖から”コロ”(福井)、”コロリ”(広島)”コロガリ(福岡)、”ツチコロビ=土(槌)ころび”(鳥取)という具合だ。

このように、ツチノコの呼び名は全国で40種ほどもある。これだけみても、ツチノコが各地で古くから日撃きれていることがわかる。にもかかわらず、いまだ学術的に確認されていないため、学名がないのである。

ツチノコの目撃報告は数多いが、同時に2匹以上見たという例はほとんどない。すべて1匹である。ツチノコは、常に単独で行動しているようだ。

多くのヘビは群れを作らず、1匹でひっそりと暮らす。卵からかえった(卵胎生の毒ヘビでは、母体内で卵がかえりヘビの姿で生まれる)ヘビは、それぞれ好きな方向に進み、バラバラに姿を消してしまう。親はもちろん兄弟とも分かれ分かれになり、生まれた瞬間から一四立ちして、一生孤独な生活をおくるのだ。

ツチノコもおそらく同じように1匹で暮らしているのだろう。数も少ないうえに、群れをなさない。だからこそ、なかなか捕縄されないのである。

ツチノコの特徴を総点検

さて、ツチノコの特徴や性質は、前述した文献記録や多くの目撃報告などから、かなりわかっている。それを総合したツチノコの形状から、まずみてみよう。

ツチノコの姿は、簡単にいえば、ビールびんに頭としっぽをつけたような太く短いヘビをイメージすればいい。

体良は3080センチで、胴の直径は715センチ。太い胴はやや扁平で、三角形の頭は、大人の指3本で(人差し指、中指、薬指)を並べたほどの大きさ。首があり、細くて粗いしっぽが、尻からチョロッと出ている。体長に大きな幅があるのは、大型種・小型種、子供・大人、雌雄などの違いからくるのだろうか。体の色は黒、焦茶色・灰色など、背にはマムシより大さい斑紋があり、うろこも粗い。腹は、いわゆる蛇腹で、黄色をしている。

目撃証言や文献などから、特徴を簡単にまとめれば、①1匹で行動する。昼間行動する。いびきをかく。薄気味悪い目つきで、まばたきをする。胴を張って尾部で垂直に立てる。ころがる。蛇行せず、まっすぐ前後に動く。ジャンプする.毒があるとうわさされている。春から秋に出没する、となるようだ。

   《引用終了》

次に、所持する笹間良彦氏の「図説・日本未確認生物事典」(一九九四年柏美術出版刊)の概説部の一部を引く。

   《引用開始》

 最近の報告では、太さはサイダー瓶位で体長五十センチから長くて一メートル程、頭は毒蛇のように三角型で首は頗る細く尾の方も細い。胴中だけがずん胴で太いという特徴があり目撃者の言はすべて一致しているから、捕獲されて公表されなくても実在としての信憑性が強い。そして蛇のようにうねって走るのでなく、跳躍してから身体を丸めて転がるように走るから、山坂の斜面の下りは猛速力となる。従って野槌蛇に遭ったら斜面を駆け下りるのでなく、逆に上の方に駆け上がれば難を避けることができるという。蝶のように

猛毒性があるともいわれ、昔は犬などが喰み殺された話はあるが、現代では聞かない。

 野槌という名は奈良時代にすでに使われており、『日本書紀』巻第一神代上に伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)が天地山海樹木を生んだ次に生んだのが草祖草野姫(くさのおやかやのひめ)で、又の名を野槌というとある。

 つまり樹木草など植物の根元である神を蛇とし、しかも野槌と名付けられるように槌の形をしていたのである。

 この野槌蛇の伝承は古くよりあり、妖性現されていたので野之霊(のづち)とも書き、猛毒があるので蝮の異名ともされていたので、『字鏡』六十八には「蝮、乃豆知」、『康頼本草』には「蝶蛇、乃豆知、波美」としている[やぶちゃん注:以下略。]

   《引用終了》

とある。

 最後にアカデミストにすこぶる評判の悪いウィキの「ツチノコ」の記載の内、以上を補填すると判断される一部(補強材料としてダブりも含む)も引いておこう(記号の一部を変更した)。「目撃談などによる特徴」の内、前に出ていないものを見ると、『腹側に、通常のヘビにみられる「蛇腹」がない』・『日本酒が好き』・『歯はすきっぱである』・『傾斜』地『を登る時は胴体の前部を支点に後部を左右に移動させながら登る』・『味噌、スルメ、頭髪を焼く臭い』を好む』等がある。以下、「名前」の項。『ツチノコという名称は元々京都府、三重県、奈良県、四国北部などで用いられていた方言であった。わら打ち仕事や砧(布を柔らかくするために、槌で打つ作業)の際に用いる叩き道具「横槌」に、この生物の形状が似ている、とされることにちなむ。東北地方ではバチヘビとも呼ばれ、ほかにもノヅチ、タテクリカエシ、ツチンボ、ツチヘビ、土転びなど日本全国で約』四十『種の呼称があり、ノヅチと土転びは別の妖怪として独立している例もある』。「歴史」の項。『縄文時代の石器にツチノコに酷似する蛇型の石器がある(岐阜県飛騨縄文遺跡出土)。また、長野県で出土した縄文土器の壺の縁にも、ツチノコらしき姿が描かれている』。記紀には『カヤノヒメ神の別名であり』、『野の神、主と書かれてある』。江戸末期に信濃国佐久郡臼田町の神官井出道貞によって書かれた信濃地誌「信濃奇勝録」(本書は天保五(一八三四)年の脱稿であるが、版行はされず、稿本として残され、約半世紀後の明治一九(一八八六)年に彼の孫に当たる井出通によって初めて出版された)の巻之一に『「野槌 のつち 漢名 千歳蝮」を記す。「八月の頃たまたま出る。坂道は転がって進む。人に害を成さない。和漢三才図会の説明とは異なる」と書き留めている』とある。『太平洋戦争当時の日本軍が捕獲し、軍の研究所で飼育』・『観察されていたとされるツチノコの話』があり、『不鮮明ながら、モノクロ写真とされる物も残されている』が、『死後』、『解剖された際の結論は、毒の成分から考えてニホンマムシの亜種だったと記されて』あるという。「各地の目撃談」の項。『十和田湖付近の山中で、体長約30センチメートルのツチノコらしき生物が目撃されている』。『茨城県土浦市がツチノコ捕獲地域として注目されており』、『山奥などでなく』、『町中での目撃証言が多い』。『多摩川で、上流から中流にかけて目撃情報が多発している』。『2008831日、千葉県白井市の田園地帯において水平に3メートルジャンプしたツチノコらしき生物の目撃情報が寄せられた』。『岐阜県東白川村は目撃証言が多く、全国でも有数の目撃多発地帯といわれ』、『捕獲賞金もかけられて』おり、『同村には日本唯一のツチノコ資料館である「つちのこ館」や、平成元年に建立のツチノコを祀った「つちのこ神社」もある』。『岐阜県美濃市の農道で、数ある目撃例の中でも巨大な、全長約2メートルの個体が目撃された』。文化六(一八〇六)年に書かれた鳥翠台北巠著の紀行『随筆「北国奇談巡杖記」に、ツチノコのものとされる話が以下のようにある。石川県金沢市の坂道で、通行人の目の前で横槌のような真っ黒いものが転がり歩き、雷のような音と光とともに消えた。これを目撃した何人かの人は毒に侵されたとされ、この坂は槌子坂と呼ばれたという』。これについては、所持する吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して以下に示す。

   *

   ○槌子坂の怪

おなじ城下、小姓町の中ほどに、槌子坂といへる、なだらかなるあやしき径あり。草しげく溢水[やぶちゃん注:「いつすい」。小流れから溢れた水。]流れて、昼もなにとやらんものきみあしきところなり。每に[やぶちゃん注:「ことに」。「殊に」の当て字であろう。]小雨ふる夜半など、たまたま不敵の人かよふに、ころころと轉[やぶちゃん注:「まろび」と訓じておく。]ありく物あり。よくよく見れば、搗臼ほどの橫槌あり。たゞ眞黑なるものにして、あなたこなたと、めぐりめぐりて、既に消なんとするとき、呵々と二聲ばかりわらひて、雷のひゞきをなし、はつ、と、光り、うせぬ。此怪を見たるもの、古より幾人もありて、二、三日、毒氣にあたり病ぬ。故に槌子坂とよびて、夜はおのづからゆきかひも薄らぎたり。いかさま古妖と見えて、むかしより人々の沙汰することなりき。

   *

『同様の怪異は、昭和初期の金沢の怪談集「聖域怪談録」にも記述がある』(この「昭和初期」というのは刊本出版のそれであろう。調べた限りでは、大聖寺八代藩主前田利考(としやす 安永八(一七七九)年~文化二(一八〇六)年)が武士に語らせた百一話を収録したもので寛政一一(一七九九)年に成立しているようである)。『新潟県小千谷市に、ツチノコの背骨といわれる物体が保管されている』。『兵庫県では、但馬地方に50件以上の目撃情報がある。香美町では「美方つちのこ探索隊」が結成されており、捕獲したツチノコを飼うための「つちのこ飼育庭園」も設置されている。千種町(現宍粟市)では捕獲に2億円の賞金をかけたこともあり、ツチノコの懸賞金としては過去最高額』とある。二〇〇四年六月には兵庫県美方町で『ツチノコ状のヘビが発見され、「ツーちゃん」の名で飼育されたものの、これは妊娠して胴が膨れ上がったヤマカガシに過ぎず、卵を産み落とすと普通のヘビとなってしまった』とのこと。『兵庫県多紀郡(現丹波篠山市)で、体長約50センチメートル、直径約10センチメートルの、サンショウウオに似たツチノコらしき生物が目撃された』。『20083月、奈良県の竜王山で発見された生物が、同年37日発行の東京スポーツの一面にツチノコではないかとして掲載された』が、『一部の学者はツチノコではなくヒルとの見方を示し』たYouTube のnozuchi2008の「奈良の未知生物こちらで画像が悪いが、当該対象の動画ヴィデオが見られる。明らかに大型の蛭(ヒル)である)。『2000521日、岡山県吉井町(現・赤磐市)でツチノコ状の生物が発見され、数日後にも同様の生物の死骸が発見された。ツチノコではないかと話題になったものの、川崎医療福祉大学の鑑定により』、『ヤマカガシと判明し、ツチノコになれなかったヘビとの意味で「ツチナロ」と命名された』。『徳島県で三好市をはじめとする県内全域で多数目撃されている』。『福岡県、特に朝倉市を中心とした大分県境付近に発見情報が多い。宮若市、築上町で一時、捕獲の噂が流れた』。『熊本県では、八代市から人吉市にかけての山間部に目撃談が多い』。『五島列島でも古くから目撃されている』とある。最後に「正体についての仮説」の項。『新種の未確認動物とする説』や『未発見の新種のヘビとする説』があり、『いくつかの特徴が』、『ヘビではなくトカゲであることを示しており、海外には実際に足が退化したヘビのような形態のアシナシトカゲが実在していることから、ツチノコも足が退化した未発見のトカゲの一種ではないかとする説』がある一方、『特定種のトカゲ類の誤認とする説』があり、『アオジタトカゲ』(有鱗目トカゲ亜目スキンク下目Scincoidea 上科トカゲ科アオジタトカゲ属 Tiliqua 。インドネシア・オーストラリア・パプアニューギニア原産。こりゃあ(同属ハスオビアオジタトカゲ Tiliqua scincoides の同属のウィキの写真。蛇・蜥蜴系がダメな人は自己責任でクリックされたい)、確かにそれらしいわな。)『を誤認したとする説。このトカゲは1970年代から日本で飼われるようになり、目撃情報が増加した時期に一致するとされている。アオジタトカゲには四本の小さな脚があり、読売新聞社によって撮影されたツチノコとされる生物にも脚があった。作家の荒俣宏は、流行の原因となった漫画』など『の影響で』、『脚がない姿が広まったと述べている。実際に、前述の岐阜県東白川村の隣町でツチノコと誤認された生物の正体がアオジタトカゲであった事例の報告もあり、同村では林業が盛んなため、海外から輸入された材木にこのトカゲが混入していたとの推測もある』とある。『マツカサトカゲ』(トカゲ科アオジタトカゲ属マツカサトカゲ Tiliqua rugosa 。オーストラリア原産。同属のウィキの画像。同前で注意)『を誤認したとする説。このトカゲは岐阜県の目撃談にもあり、四肢が草むらや胴体の下に隠れている姿がツチノコに近く、日本国内でも愛玩動物として飼育されている。このことから、野山に捨てられたマツカサトカゲが繁殖し、ツチノコと誤認されたとの説もある』。『ツチノコは尾が細いとされるのに対し』、『マツカサトカゲは尻尾が太い点が異なるが、古い絵図などでは尾が太く描かれている例もあるので何ともいえないところではある』。以下、『胴の短い種類の蛇の誤認とする説』として、二種を挙げるが、その比定種は毒蛇で、私は体型が似ているにしても、有力比定候補にはなり得ないと思うので載せない。寧ろ、その後に続く說の方が腑に落ちる。一つは『腹の膨れた蛇を誤認したとする説』で、『在来の蛇であるヤマカガシやニホンマムシなどが妊娠中で腹が膨らんだ状態となると、一見してツチノコのように見える場合がある』。次に、『大きな獲物を丸呑みして腹が膨れた蛇を誤認したとする説』で、『蛇は顎の関節が特殊な構造をしており、自分より大きな獲物を丸呑みする事ができる』とある。これでインキ臭い連中も文句は言うまい。

 以下、熊楠の本文注に入る。

 

「沙石集五卷三章に叡山の二學匠……」「沙石集」(鎌倉時代の仏教説話集。全十巻。無住一円著。弘安六(一二八三)年成立)の当該部の「學生畜類ニ生タル事」。後に長々と教訓をたれているが、そこは野槌とは無縁で、かったるだけなので、カットした。底本は一九四三年岩波文庫の筑土鈴寬(つくどれいかん)校注本を参考にしつつ、句読点・記号を追加し、読みは一部で〔 〕を用い、私が推定で歴史的仮名遣で追加してある。段落も成形した)。

   *

 山に二人の學匠ありけり。同法にて、年齡も、心操(こゝろもち)・振舞、萬(よろ)づ變らず。學問も一師の下にて、稽古しければ、殊に見解(けんげ)も、をなじ。何事につけても、同じ體なりける故に、二人契りて云はく、

「我等、一室の同法たり。萬づかはらず振舞へば、當來の生所〔せいしよ〕までも、同じ報〔むくひ〕にてぞあらむずらむ。先立つ事あらば、生所を必ず告ぐべし。」

と、能々〔よくよく〕たがひに契りぬ。

 一人、他界して、夢に告げて云はく、

「我は野槌(〔の〕づち)と云ふ者に生れたり。」

といふ。

 「野槌」といふは、常にもなき獸(けだもの)なり。深山の中に、希にあり、と云へり。形、大にして、目・鼻・手・足もなし。只、口ばかりある物の、人を取りて、食ふと云へり。

 是は佛法を、一向、名利のために學し、勝負・諍論して、或は瞋恚〔しんい〕を起し、或は怨讎〔をんしう〕をむすび、憍慢勝他〔きやうまんしやうた〕[やぶちゃん注:偉ぶって驕り高ぶっては人を見下し、自分が他の者よりも勝れていると思い込むこと。]等の心にて學すれば、妄執のうすらぐ事もなく、行解のをだやかなる事も、なし。さるままには、口ばかりは、さかしけれども、知惠の眼もなく、信の手もなく、戒の足もなきゆゑに、かかるおそろしき物に生れたるにこそ。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

「ムグラモチ」モグラ(鼹鼠・土竜)の異名。「ムグロモチ」が変化した語か。近世にはモグラをあらわす語としては「ウグロモチ」が一般的であった。「ムグラモチ」は、もともと江戸言葉で、近世前期には、田舎言葉と意識されていたが、近世中期に文化の中心が上方から江戸に移ったことに伴い、「ウグロモチ」に代わって用いられるようになった、と、小学館「日本国語大辞典」にあった。モグラ類の体型と、突如、出現するような印象はツチノコっぽくはある。

「大和にはさして希ならず」先の「ツチノコ共和国」も奈良県吉野郡下北山村である。

「丹波市近所に……」この野槌の丹波ケースは以下に示されるように、熊楠自身が、その一部始終を目撃した人物からの直接の聴き取りなのであるが、

――昔、野槌を捕獲して家の床下(ゆかした)に飼っていたことがある

――眼が小さい(「只今」は意味不明。或いは「距離的に近いさま」を言うことがあるから、両の眼がごく近くに並んでいることを指すか?)

――体全体は俵のようなずんぐりむっくりの太った短かいものであった

――握り飯を与えると、転がり来たって食うも、その行動は、呆れるほどゆっくりしていて、いかにも鈍(のろ)くさく、にぶい(「迂鈍」)

と異様な内容である。これは、しかし、野槌記載の中では、全くの作り話でないとすれば、超弩級に貴重なものと言える。そうして、ここから連想し得る実在動物はオオサンショウウオ(両生綱有尾目サンショウウオ亜目オオサンショウウオ科オオサンショウウオ属オオサンショウウオ Andrias japonicus しかいない。さらに、先のウィキの中にあった、『兵庫県多紀郡(現丹波篠山市)で、体長約50センチメートル、直径約10センチメートルの、サンショウウオに似たツチノコらしき生物が目撃された』という事例である。この「サンショウウオ」はそのサイズからオオサンショウウオでしかあり得ないのである。しかも、兵庫県丹波篠山市後川地区(この付近)や丹波市青垣町附近の加古川源流では、オオサンショウウオの棲息が現在、公的に確認され、保護活動が行われているのである。さらに調べると、『幼児期に』『ツチノコ』を『目撃し』、『その存在を確信』して、三十五『年間ツチノコ捕獲に情熱を注ぎ、今までに』四『度の目撃体験』があるとされる方のサイト「ツチノコで頭がいっぱい」のこちらに、『昭和三十七』(一九六二)『年秋、丹波の船井郡』(京都府のここ南西域外直近に兵庫の先の丹波地区がある)『や天田郡』(現在の京都府福知山市。やはり南で兵庫の丹波地区に接する)『の一帯で、農耕用の鋤を立てかけておく「鋤の床」という蒲鉾型の台によく似た、太く短い蛇が目撃されたという情報があった』とあり、その未確認生物の捜索に加わった現地の『Aさんはこの太短い蛇を「スキノトコ」と呼んだ。この地域でのツチノコの別称である。前述した鋤を立てかける蒲鉾型の台にツチノコの姿が似ているために』、『このような呼び名が冠せられたのだ』。『しかし』、『結果は空振りで』、『これといった収穫は皆無であった。ただし、丹波方面ではツチノコを「スキノトコ」と呼ぶという事が知れ』た『のは』、『ツチノコを語る上で大きな成果となったのである』とあった。さらに「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」には「鋤の床」「スキノトコ」が挙げられており、『丹波町須知』(しゅうち:京都府船井郡京丹波町須知。ここ)『に、鋤の床という怪蛇がいて、太く短く斜面を転がり、人畜を襲い、専念惟』(意味不明。「先年、惟(これ)」の誤字か?)『に当たって死んだ人がある』とあり、出典として山村民俗の会発行の『あしなか』(通巻九十六号・昭和四〇(一九六五)年二月)とあるのである。意地の悪い言い方だが、この「スキノトコ」は、本当に、近代或いは近世からの丹波の野槌の古くからの地方名だったのだろうか? もし、Aさんが「スキノトコ」という丹波産野槌(ツチノコ)を命名したのだとすれば、まさにこの噂話は、たった二年余りで、都市伝説化して怪物名としてまで完全に定着したことになる。だとすれば、「口裂け女」以前に遡れるアーバン・レジェンドの進化過程の一つとして、これほど明確な震源と遷移が判るものはそうないと思われる。

『大坂朝日か大坂每日の地方通信に、和泉の山中に此物有り、土俗「ノロ」と云ふと見えし』当該記事もこの異名も確認出来ない。

「當國日高郡川又」和歌山県日高郡印南町(いんなみちょう)川又

「田邊灣の沿岸堅田」和歌山県西牟婁郡白浜町堅田(かたた)。

「ノーヅツ」不詳。白浜町には西の三崎の西側に知られた熊野水軍所縁と言われる「三段壁洞窟」があるが、海食洞であるここを熊楠が「谷穴」と表現するとは思われない。

「面桶(メンツウ)」「ツウ」は唐音。一人前ずつ飯を盛って配る曲げ物。「めんぱ」「めんつ」とも呼ぶ。後には乞食が携帯する入れ物を指した。

「山本亡羊」(安永七(一七七八)年~安政六(一八五九)年)は江戸後期の本草家で医師。儒医の傍ら、本草学を小野蘭山に学び、京都本草学の中心として活躍し、自宅の読書室で教え、薬草園を作り、物産会を開いた。「百品考」は動物・植物・鉱物の形態・性質・用途等を判り易く記述した類書(百科事典)。天保九(一八三八)年跋。熊楠の示すのは、「百品考」の「下」の末尾に配された「蛟」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原刊本のこちら(嘉永六(一八五三)年版・PDF)の40コマ目から。その最後に和文(漢字カナ交り)で以下のようにある(カタカナを概ねひらがなに直し、句読点・記号を打った)。

   *

蛟は龍の屬なり。常有の物にあらず。然れども、諸書の所說に據て考へ見れば、本邦にて「ホラ」の出ると云を指して云なり。俗人、「ホラ」の名、同じきに依て梭尾螺(ホラガヒ)の山中に棲て、大風雨を興して海に飛入と云は謬說なり。梭尾螺は琉球海中に產する螺類なり。蜑戸[やぶちゃん注:「たんこ」。漁家。]の爲に採られて、肉を去り、吹物となる。風雨を起し、神靈ある者にあらず。蛟の「ホラ」は諸國共に稀にあることなり。大風雨ありて、山、崩れ、岩、裂て、山谷鳴動し、數十村を漂流沒すること、本邦にも、時時、此患あり。荒政輯要の說によりて、預め辟蛟の法を行なはば、救民の一助ならん歟。

   *

「荒政輯要」は清の汪志伊の撰になる、種々の凶作・防蝗・飢饉対策を述べた書。一八〇五年刊。

「東海道名所記」名所図会シリーズで一世を風靡した秋里籬島(あきさとりとう 生没年未詳)著の「東海道名所記」(寛政九(一七九七)年刊行)。

「今切の渡し」東海道舞坂(まいさか)宿(現在の浜松市)と新居(あらい)宿(湖西市)の間、則ち、浜名湖南部の開口部に架けられた渡船場。浜名湖から遠州灘に注ぐ浜名川には橋が架けられていたが、戦国期の地震と津波により、決壊していた。江戸時代、舞坂・新居間には渡し場が設けられ、新居関の役人の管轄下、新居宿の住人が船を運航した。渡し船の組織は中世の今川氏時代以来の伝統を有する「十二座」を基幹とし、船百二十艘を三百六十人の船頭が十二組に分かれて運営した。大通行時には「寄せ船」制度が適用され、周辺村々から船が供出された。明治一四(一八八一)年、架橋されて消滅した。しまむー氏のブログ「街道の行く先へ」の「舞坂宿と今切の渡し」(地図有り)に「東海道名所記」を引いて、

   《引用開始》

舞坂より舟にのるに、七つ時分よりまへには渡しあり、七つ時分過ればふねをいださずといふ、はやくのり給へとて、男と共にいそぎふねにとびのる、艫のかたひろくて、ゆるりとのりけり、船頭は舟に棹さし、櫓をたててをす、男たづねけるハ、いかに船頭殿このうミを今切と名付たるよしうけたまハりし、さだめて子細の侍べるやらんといふ、せんどうこたへていはく、むかしは山につづきたる陸地なりしが、百余年バかり以前に山の中より螺の貝おびただしくぬけ出て海へとび入侍べり、その跡ことの外にくづれて荒井の濱よりおくの山五里バかりひとつにうミに成たる故に、今切と申すなり

   《引用終了》

「倭漢三才圖會卷四十七にも、……」私の「和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部  寺島良安」から私の訓読文を引いておく(一部表記を修正した)。

   *

ほらのかひ 梭尾螺(ひびら)

寶螺   【俗に保良乃加比と云ふ。】

「本綱」に『梭尾螺の形、梭(ひ)のごとし。今、釋子[やぶちゃん注:僧侶。]、吹く所の者なり。』と。

△按ずるに、寶螺は、狀、海螄(ばひ)に似て大きく、白黃色、淺紫の斑有り。大なる者は一、二尺、小なる者、二、三寸。五、六旋、盤屈して、尾、窄(せば)く尖り、其の肉、淡赤。味、短(とぼし)く食はず。人、肉のやや出づるを待ちて、繩を以て、急に肉を縳り、則ち屋-檐(のき)に懸け、日を經(ふ)れば、螺、乾き、死し、殻、自ら脫す。之れを取りて、尾の尖りを穿(ほ)り、口を作り、之れを吹く。其の聲、嘹喨(りやうりやう)[やぶちゃん注:「喨喨」が正しい。音が明るく澄んで鳴り響くさま。]たり。最も大なる者を用ひて、本朝の軍噐と爲し、之を吹きて、先鋒の兵を進む。修驗行者(しゆげんぎやうじや)、毎(つね)に山行(やまぎやう)に之を吹きて、同行(どうぎやう)の導(みちび)きを爲し、且つ狸・狼の害を防ぐ。凡そ、地震に非ずして、山岳、暴(にはか)に崩(くづ)れ裂(さ)くる者(こと)有り。相傳へて云ふ、『寶螺、跳り出でて然り。』と。遠州荒井の今切のごとき者の處處に、大小の之れ、有り。龍か、螺〔ら〕か、未だ其の實(じつ)を知らず。

「夫木」 山伏の腰に付たるほらの貝ふくるをまゝの秋のよの月 行圓

   *

「寶螺」腹足綱新生腹足亜綱タマキビ型目ヤツシロガイ上科ホラガイ科ホラガイ属ホラガイ Charonia tritonis 

「螺類の化石露出するに據れるか。古え堅田に、山崩れて件の谷穴を成す際、異樣の爬蟲化石出しより、之を野槌蛇と心得て件の譚を生ぜしにや」ホラガイと山崩れの民俗については、俗信として、修験者の用いた法螺貝が、長年、深山幽谷に埋もれ、それが精気を得て、海中に戻り入る時、山崩れが起きる、という俗信があったようであるが、それがこんなに頻繁に発生するのは異常で、それでは説明がつかない。私の怪奇談では、例えば「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」や、「三州奇談卷之五 縮地氣妖」を見られたい(他にもある)。また、「大和本草卷之十四 水蟲 介類 梵貝(ホラガイ)も参考になろう。さすれば、私は熊楠の推察する異形(に見える)古代の化石類を誤認したのではないかという説に極めて賛意を表したいのである。

「伴て」「つれて」。一緒に。

「ナイク、ペンス」以下の原本によれば、英語の綴りは「Naik Buns」。全長が六メートルにもなるヘビ亜目ニシキヘビ科ニシキヘビ属インドニシキヘビ Python molurus がモデルか。

「山羊兒」原文は「kids」だが、人身御供ではない。「kid」は原義が「ヤギの子」。

「徑り」「わたり」。胴の直径。

「踰ゆ」「こゆ」。

V.Ball, ‘Jungle Life in India,’ 1880, p. 491」アイルランド地質学者ヴァレンタイン・ボール(Valentine Ball 一八四三年~一八九五年)のそれは、「Internet archive」のこちらで当該部が読める。

「淵鑑類函卷四三九に、夷堅志を引て、南宋の紹興廿三年(近衞帝仁平三年)」(ユリウス暦一一五三年)「建康に現はれし豬豚蛇」(ちよとんじや)「の事を言るに自竹叢出、其長三丈、面大如杵、生四足、遍身有毛、作聲如豬、行趨甚疾、爲逐人呑噬之勢云々、嚙人立死とある」「淵鑑類函」は清の康熙帝の勅により張英・王士禎らが完成した類書(百科事典)。一七一〇年成立。「夷堅志」は南宋の洪邁(こうまい 一一二三年~一二〇二年)が編纂した志怪小説集。一一九八年頃成立。二百六巻。訓読すると、「竹叢より出づ。其の長(た)け三丈、面(つら)、大にして杵(きね)のごとく、四足を生ず。遍身、毛、有り、聲を作(な)すに豬(ぶた)のごとく、行(ゆ)き趨(はし)ること、甚だ疾(はや)く、人を逐(お)ひ、呑噬(どんぜい)するの勢ひを爲す云々、人、嚙まば、立どころに死す。」。

「本誌二八二號六六三頁以下に、出口君の論あり」「J-STAGE」の『東京人類學會雜誌』(第二十四巻二百八十二号・明治二四(一八九一)年十二月発行)の出口米吉氏の「我國に於ける植物崇拜の痕跡」PDF)。太字は底本では傍点「○」、太字下線は傍点「ヽ」。

   *

記に野神名鹿屋野比賣神亦名謂野椎神と記し、紀に草祖草野姫亦名野椎と記せるは、各其傳說の異なる者を記したる者にして、草神を考ふる上に大に注意すべき事とす。今記紀を案ずるに、共に山には山の神あり、木には木の神あるを以て、野には野の神あるべく、草には草の神あるべき譯なり。然るに、記には唯野の神のみを擧げ、紀には唯草の神のみを擧げたり。而して其野の神といふ者草の祖といふ者、共に其名稱を全しうするは何等か其所以なかるべからず。先づ野椎の名稱の意義を尋ぬるに、ヌウチツチは、記傳に依れば、狹土、迦具土、御雷、裁名椎、手名椎などのツチと仝じく、ツチは助辭にては久々能智などのと同じく、尊む名にして、野椎とは野の智と云ふが如しとなり。然れば草野姬は草靈あること其名の示す所にして、野植亦野神を意味すとすれば、此等の二の名は、元來異る二の神に屬すべき者にして、一神の兼有すべからざる者なるなり。又若しかヤヌヒメヒメを以て女性を示し、ヌッチを以て男性を示すとすれば、此神は一神にして男女兩性の名を有するなり。依て按ふるに、民間信仰に於て、異なる神祇の間に合同を見るは珍しからず。殊又野と草との如き其關係深き者の間に於ては、甚生し易き變化なり、則ち始は野の神を野椎、草の神を鹿屋野姬と定めて崇めたりしを、後に至りて二神の間に合同生し、或は野の神に草祖の名を併せ稱し、或は草の神に野の神の名を併せ稱したりと解すれば、其所以甚明了なるが如し。果して然りとすれば、草靈野神の合同は、我古代に於て、諸種の神祇に關する傳說を組織的に編成せし時に、既に完了したるものなり。此合同は野神と草祖との間に生ぜしのみならず、山神と木神との間にも既に生じつゝありしが如し。神武紀に薪名爲嚴山雷草名爲嚴野稚と云へり。猶大嘗祭儀式に木草を探る爲に山神を祭る事あり、材木を伐る時に、山に祭とて、山神を祭る事あり、中古ヤマビココダマの同一視せらるゝ事などは、皆山神木神の合同を語るものなり。されば後世大工建具師等材木を取扱ふ者は、十一月に山神を祭りたるなり。さはいへ、後に於ても山神と木神との區別を立て、之を並へ祀りたることもあり。大神宮式に、凡操神田盤鍫柄者、毎年二月、先祭山口(山神)及木下(木神)然後操ㇾ之と云ひ、臨時祭式に、造遣唐使船木靈並山神祭と見えたり。畢竟野神と草神との合同は、比較的完成に進み、山神と木神との合同は、比較的散漫なりしと見るを得べし。[やぶちゃん注:以下、延々続くが、略す。必要となら、リンク先を見られたい。]

   *

「古事記傳五に、和名抄、水神又蛟を和名美豆知と訓せり、豆(ツ)は之(ノ)に通ふ辭、知は尊稱にて、野槌等の例の如しと有れば」「古事記傳」は本居宣長の「古事記」全編に就いての全四十四巻から成る註釈書。明和元(一七六四)年起稿で、寛政一〇(一七九八)年成稿を脱稿したが、版本としての刊行は寛政二(一七九〇)年から宣長没(享和元(一八〇一)年十一月)後の文政五(一八二二)年にかけて板行された。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「古事記傳」(向山武男校訂・昭和五(一九三〇)年名著刊行会刊(左ページ十二行目から現れる。「闇淤加美(クラオカミノ)神」の注釈部)。一部の送り仮名を本文に繰り入れて電子化し、漢文表記は訓読し、句読点を追加した。読みは総てカタカナであるが、私の判断で漢文体訓読部などでひらがなにした箇所がある。鍵括弧も添えて読み易くしておいた。

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[やぶちゃん注:前略。]「美」は龍蛇の類の稱なり。「和名抄」に水神又蛟を、和名美豆知(ミヅチ)とある美(ミ)これなり。〔「豆(ツ)」は例の「之(ノ)」に通ふ辭、「知(チ)」は尊稱にて、野椎(ノヅチ)などの例のごとし。〕又蛇(ヘミ)・蛟(ハミ)などの「美(ミ)」も此なり。又日讀(ヒヨミ)[やぶちゃん注:暦。]の「巳」を「美(ミ)」と訓るも、此意なるべし。さて此神を、書紀に「龗」と書て、此を「於箇美」と云とあり。〔龗は、字書を考るに、龍也とも注し。又靈の字とも通ふなる。〕「豐後國風土記」に球珠(くまの)郡球覃鄕(くたみのさと)は、此の村に泉有、昔、景行天皇行幸の時、奉膳部之人(かしはぢ)、御飯令(おほみけ)の擬(そな)へに泉水(いづみ)を汲ましむるに、卽、蛇龗(おかみ)有りき、〔龗、箇美と、[やぶちゃん注:この部分、『龗於箇美、』と返り点のみあり、訓読不詳。仮に読んでおいた。武田祐吉氏はここをおかみと謂ふ』と訓じている。]〕〕於是(ここ)に、天皇、「必ず、臰(くさ)、有からむ。な汲-用(くま)せそ」と、勅-云(のりたま)ふ。斯に因て曰を「臭泉(くさいづみ)」と名(い)ふ。因(やが)て名(な)と爲(し)き。今、球覃鄕(くたみのさと)と謂ふは、訛(よこなは)れるなり。〔此の文、「書紀釋」に引るは誤字多し。今は仙覺が「萬葉抄」に引るを引り。〕「萬葉」二〔十二丁〕に「吾崗之(わがをかの)、於可美爾言而(おかみにいひて)、令落(ふらせつる)、雪之摧之(ゆきのくだし)、彼所爾塵家武(そこのにちりけむ)」。これら思ふに、此の神は龍(たつ)にて、雨を物する神なり。書紀に高龗(タカオカミ)と云もあり。そは山の上なる龍神(タツカミ)、この闇淤加美(クラオカミ)は谷なる龍神(タツガミ)なり。〔此神に、手俣(タナマタ)より漏出たる血の成れると、下なる闇(クラ)山津見の陰(ホト)より成れるとを思ふべし。手俣(タナマタ)も陰(ホト)も山に取ては谷のごとし。〕神名帳に意加美(オカミ)の神の社處々見ゆ。[やぶちゃん注:以下略。]

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この部分、個人的には非常に興味深く、面白く読める。

「日本紀によれば、諾册二尊日神を生み玉へる前に、野槌を生めり」「日本書紀」巻第一の「神代上」の第五段の本文に、

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次生海。次生川。次生山。次生木祖句句廼馳。次生草祖草野姫。亦名野槌。

(次に海(わた)を生みたまひ、次に川を生みたまひ、次に山を生みたまひ、次に木祖句句廼馳(きのおやくくのち)を生みたまひ、次に草祖草野姫(かやのおやかやめひめ)を生みたまひき【亦の名は野槌(のづち)。】。)

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と出る。

「鈴鹿連胤の神社覈錄」鈴鹿連胤(すずかつらたね 寛政七(一七九五)年~明治三(一八七一)年)は江戸後期から明治にかけての国学者。代々、京都吉田神社の神職で、国学を山田以文(もちふみ)、和歌を香川景樹に学んだ。吉田神社社殿の再建や皇陵の調査に当たり、後に著述に専念した。「神社覈錄」(じんじゃかくろく:「覈」は「調べる・明らかにする・考える」の意)は明治三五(一九〇二)年刊で、「延喜式」所載の式内社及び式外社について、祭神・所在地・鎮座の年次・神位・由来などを考証して記したもの。また、諸国の国内神名帳も併載されている。

「加賀國加賀郡に野蛟神社二ケ所在り、一は金山彥命を祭り、一は高皇產靈尊等三神を祭る」国立国会図書館デジタルコレクションの同書(明治三五(一九〇二)皇典研究所刊)のこちらと、次のコマのこちら(巻三十七の「加賀國式社 附錄式外神」の内)にある。電子化しておく。

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野蛟神社

野蛟は乃都知と訓べし○祭神金山彥命【神社帳】○蚊瓜村赤濱に在す、例祭 月 日、○當郡兩社あり[やぶちゃん注:頭注に「印本野蚊に作る今一本以呂波字類抄等に據て改む」とあるが、実は現存する神社(後述)との関係から考えると、「野蚊」が正しいようである。]

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野蛟神社

野蛟は前に同じ○祭神高皇產靈尊、猿田彥大神、事代主命、【神社帳】○神谷内村に在す、例祭 月 日、○當郡兩社あり

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例祭月日の欠字はママ。前者は「石川県神社庁」公式サイトの「野蚊(のが)神社」の解説によれば(地図有り)、金沢市蚊爪町ロ148に現存し、『当社は元東蚊爪町の須岐神社の境内に在りしを元和3』(一六一七)年に『須岐神社』の『赤浜八幡社地移転に伴い』、『本町に移転遷座し、爾来』、『加賀爪社としたるを明治29』(一八九六)『年8月』、『現社名に改称した』とあるのが、それである。そこでは野蛟神社との関係性には一切触れていない。後者は、同じく「石川県神社庁」公式サイトの解説によれば、現在、金沢市神谷内町ヘ一(に現存し(但し、以下に見る通り、地区内で移転している。地図有り)、野蛟(ぬづち)神社と呼称しており、『今を去る、約1,300年前の天平4年(旧暦33日)に創建と伝わる古社の一社です。当時神谷内を中心に付近一帯に疫病が流行し、毎日のように住民が病に倒れ、亡くなる人も大勢いたそうです。そうした時に、白髪の老人が現れ『自分の言う通りに従えば、衆人一切を救ってしんぜよう。』と言うので、住民は老人の教えの通りに行ったところ、不思議にも病気が治ってしまったそうです。そこで、老人は『吾は、ヌヅチの神である、以後祭祀(さいし)(イツキマツルこと)せよ。』と言い残し、手に持つ杖を地面に突き刺すと、空がにわかに曇ると同時にアマレリ《龍のことか?》が現れ、老人を乗せ天上雲間に消え去ったそうです。そこで住民はその地に神社を創建して、祀(まつ)ったのが、野蛟神社の起こりであると伝えられている。後に、聖武天皇(天平8年)全国的に痘瘡がはやり、当社に祈願して、これをくい止めることができ、それより朝廷からの勅使の参拝があり、以降に痘瘡が流行する毎にご加護があったそうです。その後、社頭は老廃し、幾多の変遷を経て現在の地に移る。神仏混淆の時代毘沙門(多聞天)と称したので、付近の小川を毘沙門川と言ったそうです』。『神社名の野蛟を素直に読むと「のづち」となりますが、神谷内のお宮さんでは『ぬづち』と呼ばれています。ヌヅチの「ヌ」は野原の「ノ」と沼の「ヌ」とを合わせた意味であり、「ヅチ」は何々の霊という意味で【野と水の霊】を示すため『ヌヅチ』と読ませたものと考えられるとともに、神社由緒の白髪の老人の言葉とも合ってきます。古来この地域は、河北潟と地続きで沼地も傍あたりまで続いていたものと考えられるので、その【野と水の霊魂】が住民を救ったと素朴に考えたものと思うのが適当であろう』とあり、『また、神谷内には「うわの」と呼ばれる所に野蛟神社が有ったそうで、その上り口には「赤鳥居」があった、(現在は境内入口にありますが、)前田の殿様が参勤交代で神社の前を通るときには、必ず駕籠・馬より降りて、神社へ参拝されたと伝わっています。その街道には見事な老松が偉観を誇っていたそうです』とある。しかし、『古来この地域は、河北潟と地続きで沼地も傍あたりまで続いていたものと考えられる』という叙述からは、前者の野蚊神社(旧地も河北潟域内で、野蛟神社とは五キロも離れていない)との関係性があってもおかしくはない(というより、関係性はあったと考えるべきであろう)。

『下總國に蛟蝄神社有り「ミヅチ」と讀む、水神罔象女を祭る』これも「神社覈録」の巻二十五の「下總國式社 附録式外神)の末尾にある。

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蛟蝄神社

蛟蝄は美豆知と訓べし○祭神埴山姬命、罔象女命、【地名記】○布川庄立木村に在す、【同上】今文間兩社大明神と稱す、例祭 月 日、○惣國風土記[やぶちゃん注:「日本惣國風土記」。諸国地誌であるが、古風土記に仮託した後世の偽書である。]百一殘缺云、蛟蝄神社、圭田三十九束三畝田、所ㇾ祭罔象女也、天平二年[やぶちゃん注:七三〇年。]庚午六月、始奉圭田、神事式祭等始也、

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蛟蝄(こうもう)神社は茨城県北相馬郡利根町立に現存する。「罔象女大神」は「みつはのめのおおかみ」と読み、水を司る女神。公式サイトの解説に、『蛟蝄神社の始まりは、約2300年前(紀元前288年)に現在の門の宮(かどのみや)の場所に水の神様の罔象女大神を祀ったのが始まりといわれています。698年に土の神様の埴山姫大神を合祀(ごうし)し、水害や民家が近いという理由で詳しい年代は分かっておりませんが』、『社殿を東の高台(現在の奥の宮)に神社を建てました。門の宮を取り壊すはずでしたが』、『氏子崇敬者の声が上がり、御祭神の御魂(みたま)を分祀し』、『門の宮にお祀り致しました。明治42年(1909年)に立木地区にあった「八坂神社(やさかじんじゃ)」「天神社(てんじんじゃ)」「稲荷神社(いなりじんじゃ)」「八幡神社(はちまんじんじゃ)」を合祀して現在もなお一層の御神徳(ごしんとく)をもって下総國相馬の郷を見守っておられます』。『「みつち=こうもう」の名に由来は諸説ありますが、はるか昔この辺りが海であったころの大地の形が蛟(みつち=伝説上の龍)に似ていたためといわれております』とあって、『当社の社名は一般的には』「こうもう神社」と『親しまれておりますが、ご祈祷のときの祝詞奏上では蛟蝄神社は「みつちのかむやしろ」と申し上げております』とあるから、熊楠の読みは正統である。

「原と」「もと」。

『希臘の大地女神「ガイア」の子に、怪蛇「ピゾン」有り』ギリシア神話の女神にして天を含む地母神であるガイアの多数の子の一人であるピュトン(ラテン語:Python)。巨大な蛇の怪物で、雄蛇とも雌蛇ともされ、絵画などでは脚のないドラゴンのような姿で表わされることもある。神託所デルポイを守る番人で神託所をすっぽり巻ける巨体を持つともされた。後にアポローンによって倒された。ニシキヘビ(ヘビ亜目ムカシヘビ上科ニシキヘビ科 Pythonidae)を意味する英単語「python」(パイソン)は、彼の名に由来するものである。

「Seyffert. ‘A Dictionary of Classical Antiquities,’ London, 1908, p. 531.」ドイツの古典文献学者オスカル・セイフレット(Oskar Seyffert 一八四一年~一九〇六年)の編になる古典語・古代語辞典。一八九一年初版(ドイツ語)刊。「Internet archive」のこちらで、英文版が読める。右ページの「P」の最後の項である。

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   Pȳthōn. A monstrous serpent produced by Gæa, which haunted the caves of Parnassus. It was slain by Apollo with his first 1 arrows. (See APOLLO and DELPHIC ORACLE.)

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『類聚名物考卷三三七に、野仲「ノヅチ」、文選の訓に云り、其義註にも詳かならず、張平子殪野仲而殲遊光(ツキガミ)註、野仲遊光惡鬼也、兄弟八人常在人間、作怪言とあれば』「作怪言」の「言」は初出もママであるが、原拠を見るに、「害」の誤り(平凡社「選集」は訂されてある)。訓読しておくと、「張平子、野仲(やちゆう)を殪(たふ)して遊光(ゆうくわう/つきがみ)を殲(ほろぼ)す。註に、『野仲・遊光は惡鬼なり。兄弟八人、常に人間(じんかん)に在りて、怪害(くわいがい)を作(な)す』と」。山岡浚明(まつあけ)の「類聚名物考」は「鶺鴒」パートで既注。但し、巻号は「三百三十八」の誤り。同巻の「雜部十三」の「靈鬼 妖怪」の以下。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認した(右上段中央)。表記の一部に異同がある。

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野仲 のづち ●文選の訓にいへりその義注にも詳ならす○〔文選〕東京賦張平子野仲而殲游光(ツキカミ)○注、野仲游光惡鬼也、兄弟八人、常在人間恠害

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「張平子」は後漢の政治家にして、多岐に亙る分野で優れた文人でもあった張衡(七八年~一三九年)の字(あざな)。一〇七年に、太平無事の世に王侯以下が奢侈を貪るのを憂え、班固の「両都賦」に倣って、当世の洛陽を描いた「東京賦」と、長安を描いた「西京賦」を著した。

「象皮病」ヒトのそれは、リンパ液の鬱滞によって皮膚及び皮下組織が厚くなり、ゾウの皮膚のような状態を呈する慢性皮膚疾患。主に下肢に好発し、次いで陰嚢・大陰唇に多く見られる。糸状虫症(フィラリア症。filariasis)から移行するものと、その他の疾患による続発性疾患とに分けられる。カによって媒介されるバンクロフト糸状虫(線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱旋尾線虫目旋尾線虫亜目糸状虫上科糸状虫属バンクロフト糸状虫 Wuchereria bancrofti )が原因となるものは、熱帯及び亜熱帯地方に多く、糸状虫性象皮病或いは熱帯性象皮病とよばれる。日本では嘗て沖縄・九州南部に一種の風土病として見られ、俗に「くさふるい」(歴史的仮名遣「くさふるひ」)と呼ばれていたが、現在は根絶されている。真正の糸状虫症は、まず、下肢や陰嚢に発赤腫脹として現われ、同時に発熱・頭痛・腰痛・関節痛などを伴う。この症状は数日で軽快するが、反復して発症するうちに、象皮病へと移行する。糸状虫に拠らない慢性潰瘍・慢性炎症性疾患・再発性丹毒・腫瘍及びリンパ節摘出などに続発して発症するものを続発性象皮病と呼んで区別するが、それらも糸状虫症と同じくリンパ液の鬱滞に起因する。

「無脚蜥蜴に“Uropeltidae”の一群あり」現在はへビ類に分類される、ムカシヘビ上科ミジカオヘビ科 Uropeltidae八属五十四種が現生するが、インド・セイロンに分布し、本邦にはいない。学名はギリシャ語の「ura」(「尾」)と「pelte」(「盾」)に由来し、尾の先端に大きな角質の盾を持つことによる。グーグル画像検索「Uropeltidae」をリンクさせておく(蛇嫌いはクリックしない方がよろしい)。

Tennent, ‘The Natural History of Ceylon,’ 1861.  p. 302 圖有り」イギリスの植民地管理者で政治家であったジェームズ・エマーソン・テナント(James Emerson Tennent 一八〇四年~一八六九年)のセイロンの自然史誌。「Internet archive」のこちらで、原本の挿絵(まさに先の属の一種でキャプションには「THE UROPELTIS PHILIPPINUS」とある。これは現在の Rhinophis saffragamus のシノニムである)とともに視認出来る。蛇の大丈夫な方は「The Reptile Database」の「Rhinophis saffragamus KELAART, 1853」の画像を見られたい。尾の部分の断ち切られたような楯状形状がよく判る。

「本邦稀に兩足の蛇を出し、兼葭堂雜錄等に其圖を載す」「兼葭堂雜錄」江戸後期の博物学者で南画家でもあった木村蒹葭堂孔恭(こうきょう:元文元(一七三六)年~享和二(一八〇二)年:大坂で酒造業、後に文具商を営む傍ら、奇書珍籍・書画骨董・標本類の収集に努めた。絵は黄檗僧鶴亭や池大雅らに学んだが、寧ろ、博学の好事家として全国に名が知られた)著で安政六(一八五九)年刊。各地の社寺の蔵する書画器物や見聞した珍しい動植物について考証し、人から聞いた珍談奇説などを書き留めた原稿を、著者没後に子孫の依頼を受けた大坂の知られた著述家暁鐘成(あかつきかねなり)が整理抜粋し、刊行したもの。池大雅の印譜や下鴨神社蔵の三十六歌仙絵巻などの珍品が紹介されており、松川半山筆の多くの挿画は、なかなかに見ごたえがある。指示するそれは、二之巻の「紀伊國異蛇之圖」。国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認し(句読点を打ち、読みは一部に留めた)、当該の画像もそのままトリミングせずに示す。

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○宝曆五年亥の夏、紀州在田郡湯淺に於(おいて)、奇(あや)しき蛇を捕ふ。其形、凡、蛇(くちなは)に似て、色、黒く、身、肥(こえ)、勢(いきほひ)壯(さか)んなり。長(たけ)六尺三寸、圍(まはり)七寸二足あり、指は猬(けはりねづみのみのけ)毛のごとく、尾末(をのすへ)は、角のごとく突(とがりて)、剌(はり)あり。舌は獸(けもの)の舌のごとし。木草綱目に、千歳蝮(せんざいへび)といひて、四脚(よつあし)のもの有といへども、二足の蝮(へび)は更に載(のせ)ず。竒(き)といふべし。

 

Yuukyakujya

 

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「宝曆五年亥」乙亥(きのとゐ)。一七五五年。「在田郡湯淺」和歌山県有田郡湯浅町

「レヲ・アスリカヌス」レオ・アフリカヌスの誤り。レオ・アフリカヌス(Leo Africanus 一四八三年?~一五五五年?)の名前で知られる、本名をアル=ハッサン・ブン・ムハンマド・ル=ザイヤーティー・アル=ファースィー・アル=ワッザーンという、アラブの旅行家で地理学者。「レオ」はローマ教皇レオⅩ世から与えられた名で、「アフリカヌス」はニック・ネーム。

「アントランテ山」初出も平凡社「選集」も「アトランテ」とするので誤植らしい。これは、「Atlantes」で現在のアトラス山脈のことであろう。アフリカ大陸北西部のマグリブにある褶曲山脈。サハラ砂漠と地中海・大西洋の海岸部とを劃しているが、古代からヨーロッパ人に知られ、ギリシア神話のアトラスの郷土ともされる。

「Ramusio, op. cit., tom. i. fol. 94」先の「海豚」に出たジョヴァンニ・バティスタ・ラムージオ(Giovanni Battista Ramusio  一四八五年~一五五七年)の「航海と旅行」。

「Lacroix, ‘Science and Literature of the Middle Ages,’ London, N. D., p. 221. 有圖」「鶺鴒」で注したフランスの作家で複数のペンネームを用いた作家ポール・ラクロワ(Paul Lacroix 一八〇六年~一八八四年)が書いた「中世の科学と文芸」。Internet archive」のこちらで、原本のドラゴン三体の挿絵とともに見られる。画像キャプションは「Fig. 162. — Dragons. — After Miniatures in the “Book of the Marvels of the World.”— Manuscript of the Fourteenth Century. — National Library, Paris.」とある。

「龍の歩行頗る迂鈍にして、大雨の時谷に落て多く死すと、何か中古の欧州書で見たるも、今其名を記せず」如何にもしょぼくらしいドラゴンの話、原拠が知りたい。

Tozer, ‘Researches in the Highlands of Turkey,’ vol. ii.p. 293 seqq., 1869」イギリス人作家で古代地理学者でもあったヘンリー・ファンショー・トーザー(Henry Fanshawe Tozer 一八二九年~一九一六年) の作品。「Internet archive」のこちらの原本の右手。熊楠の言う「ドラコス」(Drakos)が語られてある。

「攷合すべし」「かんがへあはすべし」。

 

 さても、ここまで注してきたので、何となく、心残りな資料があるので、熊楠ではないが、幾つか追加しておく。一つは、現在知られているところの、最古のツチノコの絵入記載とされて、先のウィキの引用にも出た、江戸末期に信濃国佐久郡臼田町の神官井出道貞によって書かれた信濃地誌「信濃奇勝録」(本書は天保五(一八三四)年の脱稿であるが、版行はされず、稿本として残され、約半世紀後の明治一九(一八八六)年に彼の孫に当たる井出通によって初めて出版された)の巻之一の「野槌」である。国立国会図書館デジタルコレクションの明治二十年四月の刊本の当該部の画像を視認して電子化する。小さな挿絵も添える。これは初出記事として特異的にそのままで示す。

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     野 槌(のつち)  漢名千歳蝮

馬篭(まこめ)より妻篭(つまご)の間に一石峠(いちこくたふげ)とてわつかの嶺あり此山中に㙒槌と云ふ物あり八月の頃(ころ)たまたま出るといへとも稀(まれ)にして見るのみ少し形(かたち)蛇(へび)の如く中太(ふと)らかにして大小あり大なるは長一尺二三寸太さ一尺𢌞(まは)り行るも蛇のことし岨(そは)坂を橫きるときは轉(まろ)ひ落て行事ならす敢(あへ)て害(がい)をなす事なしといへり三才図會(つゑ)に吉野の奥に此物ある事をしるす此説に異(こと)なり

 

Noduti

 

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「一石峠」は現在の長野県木曽郡南木曽町吾妻にある、一石栃白木改番所(いちこくとち しらきあらためばんしょ)跡附近から同住所の一石栃立場茶屋の間辺り(グーグル・マップ・データ航空写真)かと思われる。この図はまさにツチノコの正統的それである。

 次に、江戸後期の医者で紀行家であった橘南谿(たちばななんけい 宝暦(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の紀行記「西遊記」(寛政七(一七九五)年初版刊行後、三年後には続篇も書いている。「東遊記」と合わせて、優れた奇事異聞集となっている)の、巻之一に続けて出る怪蛇譚で、前者は呼称から見ても野槌である。後者は野槌とは無縁だが、併せて引いておく。以下に、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本PDF・第一巻)を視認(78コマ目)して示す。読みは一部を除き、除去し、記号を追加し、段落を成形した。踊り字「〱」は正字化した。

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     榎木の大虵(だいじや)

 肥後國求麻郡(くまごほり)の御城下、五日町(いつかまち)といへる所に、知足軒といふ小菴あり。其庵の裏は、すなはち、求麻川なり。其川端に大なる榎木あり。地より、上、三、四間程の所、二またに成りたるに、其またの間うつろに成りゐて、其中に年久敷、大虵、すめり。

 時に、此榎木のまたに出るを、城下の人〻は、多く、見及べり。

「顔を見合すれば、病む事ある。」

とて、此木の下を通るものは、頭(かしら)をたれて通る。常の事なり。

 ふとさ、弐、三尺まはりにて、惣身、色白く、長さは纔(わづか)に三尺餘(よ)なり。たとへば、犬の足のなきがごとく、又、芋虫によく似たり、といふ。

 所の者、是を「壹寸坊虵(ばうへび)」と云。昔より人を害する事はなしと也。も每度、其榎木の下にいたり、うゞひ見しかど、折あしくてや、ついに、見ざりき。

   *

     猪(い)の狩倉(かぐら)の大虵

 是も予が遊びし前年の事なりし。求麻の城下より六里ばかり離れて、「猪の狩倉」といふ所あり。此所の百性、弐人、山深く木こりに入りしに、其ふとさ、四斗桶(とおけ)ばかりにて、長さ、八、九尺ばかりなる大蛇、草のしげれる間より、

「さは」

と出て、追(おい)來る。

 のがれ得べうもあらざれば、弐人とも、取てかへし、木こる那刀(なた)もて、命をかぎりに働(はたらき)しに、つゐに、大虵を打殺しぬ。

 この事、が求麻(くま)にいたりし頃、いまだ半年斗の後なれば、

「右の打殺せし所に、いまだ、骨は朽(くち)殘り、其時の俤(おもかげ)をも見つべければ、いざや、行て見ん。」

と、求麻の本艸者右田助右衛門、誘ひしかど、もはや、蚺蛇膽(ぜんじやたん)は腐りぬべし、骨のみ見る事も、益なし。

「是ばかりの大さの蚺虵は、此邊にては、めづらしからず。」

とて、等閑(なをざり)に打過しぬ。

 此蛇も榎木の虵と同種類なるべし。かく短く太き蛇もあるものにや。

 蚺虵膽、蚺虵骨、皆、醫家(いか)の珍重する竒藥なり。いまだ是までに其眞物(しんぶつ)を見る事をだも得ざれば、膽・骨ともに得たくて、右田をも、すゝめしなり。今にておもへば、独りにても行て見るべき事を、彼地の人〻の、とかくめづらしがらざるにて、それに聞なれて、もあまり珍竒の事にも思ひ取らで等閑(なをざり)に打過せしなり。かへすがへすも残り多き事なりぬ。

   *

所持する岩波の「新日本古典文学大系」版では、最初の話は「求麻郡相良壹岐守御城下」となっている。これは熊本県人吉市麓町にある人吉城のことで、「五日町」はここで、文字通り、城の南西で球磨川を挟んだ対岸である。岩波の宗政五十緒(いそお)氏の脚注によれば、南谿が来訪したのは天明三(一七八三)年二月上旬で、凡そ五十日滞在している。「壹寸坊蛇」(いっすんぼうへび)に宗政氏は注して、まさにこれを「野槌蛇(のづちへび)」とされた上、『深山の木の洞に居り、大きいものは直径五寸(一五センチ)長さ三尺(九〇センチ)に及ぶ。頭と尾とが均等で、尾が尖らず、槌の柄のないのに似ているので、俗に野槌と呼ぶ。大和吉野の山中、菜摘川清明の滝のあたりで往々見られる。口は大きく、人の脚をかむ。坂より走り下るのははなはだ速く、人を追う。しかし、登り行くのは極めて遅い。ゆえに、これに出逢うと急に高い処に登るとよい。追い付くことができない(和漢三才図会四十五・野槌蛇)。つちのこ』とバッチリ特定されているのである。二話目の「猪の狩倉」は熊本県球磨郡湯前町(ゆのまえまち)で、宮崎県との県境に近く、字(あざ)で猪鹿倉山(いのかくらやま)が地名にある。この付近がロケーションか(国土地理院図)。「那刀(なた)」鉈。「蚺虵膽」宗政氏の注を引く。『蚺(ぜん)は蚦(ぜん)の俗字。蚦蛇は、にしきへび。その胆は薬用に供され、よく痛みを止めるという。にがみの中に甘昧があり小毒がある。形状は鴨の卵ぐらいの大きさ』で、月の『上旬には頭に近く、中旬には心臓に近く、下旬には尾の近くに在る』(これは本草でしばしば各種の動物の胆について言われる体内移動である)。『小児の五疳(かん)八癇(かん)を治し、目を明らかにする(和漢三才図会四十五。蚺蛇)』とある。私の「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「※1蛇(うはばみ)」(※1=「虫」+「冉」。作成が十二年前で当時は表記出来なかった。悪しからず)を見られたい。

 さて、最後となった。

 凡そ、野槌は、どの記載を見ても、一貫して本邦独自の妖蛇として扱われるのであるが、果して、そのオリジナル・ナショナリズムを無条件に受け取ってよいかどうかという点で、私は若干の躊躇を感ずる。それは、記紀神話に出るからと言っても、それが現在知られているような、ずんぐりむっくりの蛇(或いは蛇形)となったのは、かなり近世も終わりになってからのように思われるからである。確かに、本邦生まれの妖怪「口だけ」みたような妖獣はいたのかも知れぬ。しかし、本草研究が進むうちに、強力な圧を以って中国の伝奇・志怪小説及び本草書が流入した中で、そこには中国伝来の怪蛇の要素が色濃く浸潤したのではないかと思われるからである。これは私が嘗て「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」を手掛けた際の強い感想でもあったのである。さすれば、このトリには御大荒俣宏氏に登場を願うこととする。以下は荒俣氏の「世界大博物図鑑3 両生・爬虫類」(平凡社一九九〇年刊)の「毒ヘビ」項の「千歳蝮」の条である(ピリオド・コンマは句読点に代えた)。既に述べたことと、かなりダブるが、カットせずに引く。

   《引用開始》

【千歳蝮】《本草綱目》に、千歳蝮という名で、毒をもつ爬虫類を思わせる生物が記載される。蝮に似て短く、4本のあしがあり、跳ねて人を咬む。咬んだ後、たちまち木に跳ねあがるが、このとき〈斫木(チユオム)、斫木(チユオム)〉[やぶちゃん注:より正確に音写するなら「ヂゥオムゥー」。]と鳴くものならまず助からないが、〈博叔(ポシユ)、博叔(ポシユ)〉[やぶちゃん注:より正確に音写するなら「ポォーシゥー」。]と鳴くものなら手当てしだいで助かるかもしれない。ただし敏速に処置しなければ意味をなさない。《字林》には、トカゲ形の睩聴(ろくちょう)が魏興(陝西省)に出るとある。この動物は人を咬んだ後、樹上で頭を垂れ、咬まれた人が痛みに叫ぶ声を聞いてから立ち去るという。おそらく千歳蝮と同じ動物を指したものだろう。もちろん北米産の毒トカゲではありえない。木村重、上野益三両氏の考定によれば、やはりハブの一種の風聞が伝わったものらしい。

 ちなみに《重訂本草綱目啓蒙》では、千歳蝮が何を指すか不明だが、信州戸隠山中に同様の動物がいると述べられる。山中の神社の奥に大きな松の木があるが、6月ごろになると4尺ほどのトカゲに似たヘビがあらわれる。土地の人はヤマカガシとよんでいる。人の声がすると、後ろの2本あしで立って、人が来るのを待っているという。

 また日本にも千歳蝮がいたとする記録がある。《和漢三才図会》の一文だが、同時にツチノコの原型と思われる。それによると〈野槌蛇〉は深山の木の穴のなかにいて、大きいものは直径5寸、長さ3尺。頭、尾は均等で尾はとがっていないので、柄のない槌(つち)に似ていることから名がついた。大和の吉野山中でみかけられる。口は大きく人の足に咬みつき、坂を走り下って、たいへん速く人を追いかけることができる。ただしのぼりは不得意なので、このヘビに会ったときは高いほうへ逃げればよいという。同書では、このヘビを斫木蛇のなかまだろうか、と述べている。斫木蛇は千歳蝮の別名で、《本草綱目》によれば、毒トカゲとも毒ヘビともつかぬ動物であり、その形は杵(きね)の形をしているという。だとすれば、ツチノコの故郷は中国だったのかもしれない。《桃洞遺筆》では、斫木蛇は全身がマムシに似て、毒が強く、長さは2尺余りと、やや小型に記されている。また、千歳蝮よりも、《嶺南雑記》にある冬瓜蛇と同じではないだろうかとも述べる。それは厦門(アモイ)でとれるヘビで柱のような形状、長さ2尺、跳躍し人を刺し、ときどき声をだすものであるという。ところで、野槌蛇は信州にもいるらしい。《信濃奇勝録》によれば、馬籠と妻籠のあいだの一石峠に8月ごろたまにでる。坂を横切るときに、転がってしまって前に進めないなど、いささか間抜けなところもある。ただし、人に害を加えることはないらしい。

   《引用終了》

・「本草綱目」の「千歳蝮」は巻四十三の「鱗之二 蛇類」の「蝮蛇」(マムシ)の附録として記載されている。

   *

[附錄]千歲蝮【頌曰、東間、一種千歲蝮。狀如蝮而短。有四脚、能跳來囓人。人或中之必死。其囓已卽跳上木、作聲云斫木斫木者、不可救也。若云博叔博叔者、猶可急治之。用細辛雄黃等分爲末、内瘡中。日三四易之。又以栝樓根桂末著管中、密塞勿令走氣。佩之、中毒急敷之。緩卽不救。時珍曰、按字林云、䎼聽、形如蜥蝪。出魏興。居樹上見人、則跳來囓。之囓已還樹垂頭聴聞哭聲、乃去卽此也。其狀頭尾一般、大如搗衣杵。俗名合木蛇。長一二尺、談埜翁方、名斫木蛇。又名望板歸。救之用嫩黃荆葉、搗爛敷之。】[やぶちゃん注:以下はその「膽」・「肉」の処方・功能であるが、略す。]

   *

[附錄]千歲蝮(せんざいふく)【頌(しやう)曰はく、東の間に、一種、千歲蝮あり。狀(かたち)、蝮(まむし)のごとくして、短し。四脚、有り、能く跳び來りて、人を囓(か)む。人、或いは之れに中(あた)れば、必ず死す。其れ、囓み已(や)みて、卽ち、木に跳り上りて、聲を作(な)して、『斫木(しやくぼく)、斫木』と云ふは、救ふべからざるなり。若(も)し、『博叔、博叔』と云ふは、猶ほ、急ぎ、之れを治すべし。細辛・雄黃を用ひて、等分、末(まつ)と爲(な)し、瘡中に内(い)る。日に日に、三、四、之れを易(か)ふ。又、栝樓根(かつらうこん)・桂末を以つて管中に著(つ)け、密塞して、氣を走らせしむこと勿(なか)れ。之れを佩(お)び、毒に中るときは、急ぎ、之れを敷(つ)く。緩(ゆる)きときは[やぶちゃん注:症状の回復が遅い時は。]、卽ち、救へず。時珍曰はく、按ずるに、「字林」に云はく、『䎼聽(ろくちやう)、形、蜥蝪(とかげ)のごとし。魏興(ぎこう)に出づ。樹上に居(きよ)し、人を見るときは、則ち、跳り來りて、之を囓む。囓み已みて、樹に還へりて、頭(かうべ)を垂れ、哭聲を聴聞し、乃(すなは)ち、去る、卽ち、此れなり。其の狀、頭・尾は一般にして、大いさ、衣を搗(つ)く杵のごとし。俗、「合木蛇」と名づく。長さ、一、二尺、談埜翁(だんやわう)が方(はう)[やぶちゃん注:医書「談野翁試驗方」なる書は本書によく見かける。]に、「斫木蛇」と名づく。又、「望板歸」と名づく。之れを救ふに、嫩黃(さいわう)・荆葉を用ひ、搗き爛(ただ)らして、之れを敷(つ)く。】

   *

漢方生薬は労多くして益がないので注さない。悪しからず。

・「魏興」は三国時代から隋初にかけて現在の陝西省安康市と湖北省十堰市に跨る地域に設置された広域地名。この中央部

・「字林」晋の呂忱(りょしん)によって編纂された部首別漢字字書。「隋書」の「経籍志」によれば、全七巻とされ、凡そ一万二千八百二十四字を収め、「説文解字」と同じ五百四十の部首を設けたが、佚書で、現在は他書に引用された佚文のみが残る。

・「トカゲ形の睩聴」諸本、人を囓む毒虫とするが、具体な形態は未詳。但し、ここで荒俣氏の記す、木からぶら下がって獲物に咬みつくというのは、荒俣氏の言う通り、ハブ(クサリヘビ科ハブ属 Protobothrops 及びハブ Protobothrops flavoviridis 。日本の南西諸島の固有種)が吻上部にある赤外線感知器官ピット(pit)器官で以って、木の下を通る獲物を感知し、確実に咬み打つのと、酷似している。

・「北米産の毒トカゲ」とは有鱗目トカゲ亜目オオトカゲ下目ドクトカゲ科ドクトカゲ属アメリカドクトカゲ Heloderma suspectum のこと。

・「重訂本草綱目啓蒙」江戸中・後期の医師で本草家の小野蘭山(享保一四(一七二九)年~文化七(一八一〇)年:松岡恕庵に学び、京に私塾衆芳軒を開いた。後、幕府医官となり、江戸の医学館で教授した。広く植物採集と研究を重ね、本邦の本草学を集大成した人物として知られる)の死後、弟子が編集した弘化四(一八四七)年刊の本草書。「本草綱目」を考証する形で書かれている。貝原益軒の「大和本草」(リンク先は私の同書の水族の部の全電子化注)等の誤りを指弾することが一つの動機でもあった。当該部を国立国会図書館デジタルコレクションの原本を視認して示す。言わずもがな、「本草綱目」に則り、巻三十九の「鱗部」の「鱗之二」の「蝮蛇」の「附錄」である。カタカナを概ね、ひらがなに代え、句読点を打った。

   *

〔附錄〕千歳蝮 詳ならず、信州戸隠山は髙くして、雪深く、六月に非れば、登るべかららずと云。其神社より奥に三十餘抱の珍しき大松あれども、六月比は、ヤマカガヾシと呼毒蛇ありて、人を害するを畏れて、登り見る人聲を聞は、後足のみにして立て、人の来るを待、若、螫るれば、毒、猛けれども、蝮蛇よりは輕しと云。此類なるべし。

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と、概ね正しいものの、如何にも、しょぼい記載で、殆んどヤマカガシそのものの記載と考えてよい。後ろ足で立つというのは、蜷局を巻いた状態から警告のために鎌首を伸ばし上げた姿勢から、伸び上がって攻撃に移る際の印象を誤認したに過ぎないと私は考える。

・「桃洞遺筆」江戸中・後期の紀伊和歌山出身の医師・本草家の小原桃洞(おはらとうどう 延享三(一七四六)年~文政八(一八二五)年:本名は良貴(よしたか)。医学を吉益(よします)東洞に、本草学を小野蘭山に学んだ。熊野などの動植物を調査し、和歌山藩医となり、医学館本草局を主宰した。「御国産物考」・「魚譜」・「南海禽譜」などの優れた博物誌を書いた)の遺稿集で、植物や動物などを採り上げて、絵と考証で解説している。孫の良直によって初編(天保四(一八三三)年)・二編(嘉永三(一八五〇)年)に編集、刊行された。なお、彼の実地検証を重んじる研究態度は同藩門人の畔田翠山に継がれており、私はこの二人を熊楠の先駆者として非常に高く評価している(私はブログ・カテゴリ『畔田翠山「水族志」』を手掛けている)。以下に「桃洞遺筆」巻之三の「附錄」に載る「野槌蛇」を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認して(ここから)電子化する。読みは一部に留めた。白抜き読点は普通のものに代え、句読点を施した。傍線は底本では二重傍線。歴史的仮名遣の誤りはママ。

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   野槌蛇(のづちへび) 附 千歳蝮(せんざいふく)

嘗て聞く、和州吉野山中、本州熊野奥等(とう)に産すと、其(その)形は長さ二尺餘(あまり)、頭(かしら)、尾、均しくして、尾、突(とが)らず、槌の柄なきがごとし。全身蝮蛇(はんぴ)[やぶちゃん注:「反鼻」でマムシの頭部形状からの知られた漢名異名。]の如く、口、大にして、能(よく)人を嚙む、甚(はなはだ)毒ありといふ。古説に千載蝮を充(あつ)れども、本草綱目頌(しよ[やぶちゃん注:ママ。])の説に、有四脚といへば、充らず。按に、嶺南雜記に、瓊州冬瓜蛇、大ニ乄[やぶちゃん注:「乄」は約物で「にして」と読む。]ㇾ柱、而長二尺餘、其行クヿ[やぶちゃん注:「ヿ」は約物で「くこと」と読む。]跳躍逢〻ト乄有ㇾ声、螫(サ)セバㇾ人立処ニといふ、これ野槌蛇(のづちへび)なるべし○千歳蝮ハ詳(つまびらか)ならず、本草啓蒙に、信州戶隱山(シンシウトガクシヤマ)ハ髙ク乄雪深ク、六月ニ非ザレバ登ルベカラズト云、其(ソノ)神社ヨリ奥ニ三十余抱(カヽヘ)ノ珍シキ大松アレ𪜈[やぶちゃん注:約物で「ども」と読む。]、六月比(コロ)ハ山カヾシト呼ブ毒蛇アリテ、人ヲ害スルヲ畏レテ、登リ見ル人稀ナリ、其蛇ハ四足(シソク)アリテ石龍子(トカケ)ノ形ニ似タリ、人聲(ヒトゴヱ)ヲ聞ケバ、後足(アトアシ)ノミニ乄立(タツ)テ、人ノ来(キタ)ルヲ待ツ。若(モシ)螫(サヽ)ルレバ、毒猛(ハゲシ)ケレ𪜈、蝮蛇(ハビ)ヨリハ軽(カル)シト云フ。此類(コノルイ)ナルベシといへり。

   *

・「嶺南雑記」清の康熙年間(一六六二年~一七二二年)の前半に当地の地方長官として出向いた呉震方が著した、中国南部の「五嶺」(南嶺山脈)よりも南の、現在の広東省・広西チワン族自治区・海南省の全域と及び湖南省と江西省の一部に当たる嶺南地方の地方誌。「冬瓜蛇」(とうかじゃ)は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の「雑記五種」(江戸で板行された漢籍合本)に収載されたこのPDF・同書下巻)53コマ目に出る。桃洞の引用とほぼ同じだが、原拠資料として別に電子化しておく。

   *

瓊州有冬瓜蛇大如柱而長止二尺餘其徃跳躍蓬蓬有聲螫人立死

   *

とある。「瓊州」(けいしゅう)は現在の海南省海口市(海南島北側)一帯である。が、これはどうみても、「本草綱目」の「千歲蝮」の転載っぽく、熱帯性の毒蛇としても、今一つ、そそられない。しかし、「冬瓜蛇」という現地名には着目する必要がある。かのぼてっとした短い俵状の冬瓜(とうがん)だ。ずんぐりむっくりの野槌には如何にも親和性があるではないか?!

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