御伽比丘尼卷五 ㊃行暮て此辻堂をやど付菊水の叟
㊃行暮て此辻堂をやど付〔つけたり〕菊水の叟(をきな)
[やぶちゃん注:挿絵は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]
中比、近州(ごうしう)[やぶちゃん注:「江州」の当て読み。]の草津より、鎌倉へ、かよふ、あき人あり。天性(〔てん〕しやう)、心すなをにして、慈悲ふかく、しかも親に孝あること、いたれり。いとゞだに、旅は物うき習ひなるに、いづこも、世わたらひほど、いとかなしき物はあらじ。是は、老たる親を置〔おき〕て、としどしに、すみなれし宿を出〔いで〕て、はるばると、東(あづま)のかたへおもむき、「今ぎれのわたし」越(こえ)て、あつたのふりし宮井を拜み、
「古鄕(こきやう)に殘し置〔おく〕父母〔ちちはは〕を守らせ給へ。」
と祈念し過行〔すぎゆく〕。比しも、霜(しも)み月、空、さだめなき時雨(しぐれ)して、行〔ゆく〕べき先もわかねば、とある辻堂にやすらひ、はれ間を待〔まつ〕に、ふしぎや、暮かゝるとは覺へざりし空、俄(にわか)に東西くらくなりて、遠寺(ゑんじ)のかね、幽(かすか)に、行〔ゆき〕かふ人もみえず。
[やぶちゃん注:「草津」滋賀県草津市。
「近州(ごうしう)」「江州」の当て読みであるが、歴史的仮名遣は「がうしう」が正しい。
「今ぎれのわたし」浜名湖の開口部にあった「今切(いまぎれ)の渡し」。
「あつたのふりし宮井」熱田神宮。ロケーションはここを退出して程ない場所という設定である。しかし、この順序はちょっと理解出来ない。これでは、鎌倉から草津へ戻る途中としか読めぬが、後で本人が「草津より鎌倉へまかる」と述べているからである。しかし、父母の無事を祈念するのであってみれば、鎌倉へ向かう途中と考えるのが自然である。しかし、後の本話柄の結末から、この順序の不審は、無化されるのである。ネタバレになるから、朦朧に言うなら――そこから異界に繋がり――時空間自体が捩じれて行く――のである。]
はるかなる山もとに、狐火(きつねび)、靑くともし、けつ、など、物すごく、
「此所〔ここ〕に、一夜をあかしなん。」
とて、ゆたんかたしき、なれこしふるさとの事など思ひつゞくる比、翁(おきな)壱人〔ひとり〕、まみえ來〔きた〕れり。
[やぶちゃん注:「ともし、けつ」「灯(とも)し、消(け)つ」。
「ゆたん」「油單」或いは「油簞」で、単衣(ひとえ)の布や紙に油をしみ込ませたもので、湿気や汚れを防ぐ敷物・風呂敷などに用いた。
「かたしく」「片敷き」。(油単を敷いた上に)自分の衣の袖を敷いて独り寝し。
「まみえ來〔きた〕れり」謙譲語の「まみゆ」ではおかしいので(厳密には後の方では彼のことを翁は高く評価し、確信犯の敬語を使用して彼に語っているので、実はそこまで読むと、ここが敬語であって、実はおかしくはない)、この場合は、あたかも彼に対面するためにやって来たかのように見えたというのであろう。]
見れば草の葉をかさね衣となし、ふぢかづらをもて、帶とせり。眼(まなこ)、世のつねにかはり光あつて、いと愧(おそろし)きが、此男にむかひ、
「是は、いづかたへわたり給ふ人ぞ。」
と。
「草津より鎌倉へまかるものに侍り。」
と、いへば。
「痛はしや。冬の夜の寒けさ思ひやられ侍〔はべら〕ふ。いで、火を求(もとめ)、つかれをはらさせ申さん。」
と、火打〔ひうち〕とり出〔いで〕、うち散(ちら)せば、あたりの小石、忽(たちまち)に火となって、あたかも、いろりのごとく、皆、一所(〔いつ〕しよ)にかきあつめて、互(たがひ)に手をさし、足をあたゝめて、うさを忘る。
時に、翁、こくう[やぶちゃん注:「虛空」。]にむかひ、打招〔うちまねけ〕ば、一人の童子、銚子(てうし)に盃(さかづき)そへて、持來〔もちきた〕るを、旅人にもすゝめ、我も打〔うち〕のみて、心ちよげ也。
其酒味(しゆみ/さけのあぢ)、今もつて、たぐふべき物、なし。
翁、又、傍(そば)なる木(こ)ず衞(ゑ)[やぶちゃん注:漢字表記はママ。「梢」。]にうそぶけば、時ならぬ、桃・生栗(せいくり)、なれり。取〔とり〕て、旅人にあたふ。是(これを)なむるに[やぶちゃん注:「舐むるに」。]、餘事を忘れて、更に、愁(うれひ)、なし。
[やぶちゃん注:「うそぶけば」「嘯けば」。「嘯く」は口を尖らして詩を吟ずることを指すが、ここは何か仙術の呪文のようなものを唱えたのであろう。]
此時、翁、身の上をかたりて云(いはく)、
「我は、是より東、菊川といふ所の者に侍り。此川上には菊園(きくぞの)あり、此露(つゆ)の滴(したゝり)、こつて[やぶちゃん注:「凝つて」。]、河しもへながるゝ事、一とせに一度、我〔わが〕親に孝なる事、いたれり。故(かるがゆへ)に、天の惠(めぐみ)によつて、ふしぎに、此露をなめて、顏色(がんしよく)、不老(おいず)、雲を招(まねき)て、是に乘るに防(さまたげ)、なし。一日〔いちじつ〕に千里を遊行(ゆぎやう)し、終夜(しうや/よすがら)に數百里(す〔ひやく〕り)、歸る。今、とし隔(へだゝ)りて、五百餘歲、かんばせ、猶、むかしに、かはらず。唐(もろこし)にも南陽縣の菊水、下流を汲(くみ)て、仙道を得し爲(ため)し、世(よ)、擧(こぞつ)て知(しる)ところ也。されば、わ君、親に誠の道あること、我に勝れり。此故に、今、爰に出〔いで〕て、まみゆ。我、おもんばかるに[やぶちゃん注:「ば」はママ。]、君、來(きた)る月、ふりよの病(やまい)に死するの災(わざはひ)あり。さるによつて、此所にとゞめ參らす事、一年(〔ひと〕とせ)、災難をのがれ給ひぬ。今より更(さらに)患(うれへ)なく、長生(〔ちやう〕せい)なるべし。」
と、まめやかに語り、かきけちて、失(うせ)ぬ。
角〔かく〕て、夜もしらじらとあくれば、此ふしぎさに、男、東(あづま)へも行かず、引かへし、國もとに歸る。
父母(ちゝはゝ)、御覽ありて、
「いかなれば、此一とせが内、文の便(たより)もせざりける事よ。」
と、打恨(〔うち〕うらみ)給へば、其時、男、手を打(うち)、始終をかたり、
「わづか、半日(はんじつ)一夜(〔いち〕や)と覺へしに、扨は、一とせになり侍るにや。」と、今更に、驚(おどろき)ぬ。
是より、東(あづま)へのかよひをとゞめ、ますます、孝をつくしけるが、いつとなく、冨(とみ)、榮(さかへ)の家となり、めでたき世わたらひ、しけるとぞ。
金銀珠玉は世の器(うつはもの)にして、集(あつま)れる時、あるべければ、うらやむにたらず。たゞ珍寶にかへても、孝の道こそ、あらまほしけれ。
御伽比丘尼卷五全尾
[やぶちゃん注:「菊川」静岡県菊川市があり、ここを貫流する菊川もある。さらに、この内陸の端は、かの東海道の難所として知られる「小夜の中山」の直近であり、北の東部で接する静岡県島田市菊川もある(孰れもグーグル・マップ・データ)。
「菊園」これは地名ではなく、神仙の菊の花の咲いた園の謂いと読む。しかし、ここには隠しアイテムがあって、この静岡県島田市菊川には、「承久の乱」(承久三(一二二一)年で、討幕計画に加わった中納言藤原宗行が捕縛され、鎌倉へ送られる途中、七月十日、ここにあった菊川宿に泊まり折り、死期を覚って、宿の柱に以下の五絶を書き残した。
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昔南陽縣菊水
汲下流而延齢
今東海道菊河
宿西岸而失命
昔 南陽縣が菊水
下流を汲みて 齢(よはひ)を延ぶ
今 東海道が菊川
西岸に宿して 命を失ふ
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なお、「承久の乱」から約百年後に討幕未遂事件とされる「正中の変」で捕えられた日野俊基も、鎌倉への護送の途次、同じ菊川宿で宗行の往時を追懐して一首の歌を詠んでいる。
古(いにしへ)もかかるためしを菊川の
おなじ流れに身をやしづめん
現在、島田市菊川にある「菊川の里会館」(グーグル・マップ・データ)の前に、この「中納言宗行卿詩碑」と「日野俊基歌碑」が並んで建っている(ストリート・ビュー)。さても、「唐(もろこし)にも南陽縣の菊水、下流を汲(くみ)て、仙道を得し」という謂いのネタ元は、地名と相俟って、この藤原宗行の詩が元と考えられるのである。小学館「日本国語大辞典」の「菊水」に、『中国、河南省内郷県にある白河の支流。この川の崖上にある菊の露が滴り落ち、これを飲んだ者は長生きしたと伝えられる。また、この水でつくった酒。菊の水。鞠水(きくすい)』とあり、「海道記」(「東関紀行」・「十六夜日記」と並べて中世三大紀行文と称されるもの。貞応二(一二二三)年成立と考えられており、同年四月四日に白河の侘士(わびびと)と称する者が、京から鎌倉に下り、十七日に鎌倉に着き、善光寺参りの予定をやめて、帰京するまでを描く)から引用して、『池田より菊川「彼南陽県菊水、汲二下流一延レ齢」〔水経注‐湍水〕』とするところから、恐らく、この伝承が載る、現存する漢籍の最古のものは魏晉南北朝時代に書かれた地誌「水經注」(すいけいちゅう:撰(注)者は酈道元(れき どういげん:四六九年?~五二七年)で五一五年の成立と推定される)の巻二十九「湍水」の、
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湍水出酈縣北芬山、南流過其縣東、又南過冠軍縣東、【湍水出弘農界翼望山、水甚淸徹、東南流逕南陽酈縣故城東、「史記」所謂下酈析也。漢武帝元朔元年、封左將黃同爲侯國。湍水又南、菊水注之、水出西北石澗山芳菊溪、亦言出析谷、蓋溪澗之異名也。源旁悉生菊草、潭澗滋液、極成甘美。云此谷之水土、餐挹長年。司空王暢、太傅袁隗、太尉胡廣、竝汲飮此水、以自綏養。是以君子留心、甘其臭尙矣。菊水東南流入于湍。湍水又逕其縣東南、歷冠軍縣西、北有楚堨、高下相承八重、周十里、方塘蓄水、澤潤不窮。湍水又逕冠軍縣故城東、縣、本穰縣之盧陽鄕、宛之臨駣聚、漢武帝以霍去病功冠諸軍、故立冠軍縣以封之。水西有「漢太尉長史邑人張敏碑」、碑之西有魏征南軍司張詹墓、墓有碑、碑背刊云、白楸之棺、易朽之裳、銅鐵不入、瓦器不藏、嗟矣後人、幸勿我傷。自後古墳舊冢、莫不夷毀、而是墓至元嘉初尚不見發。六年大水、蠻饑、始被發掘。說者言、初開、金銀銅錫之器、朱漆雕刻之飾爛然、有二朱漆棺、棺前垂竹簾、隱以金釘。墓不甚高、而內極寬大。虛設白楸之言、空負黃金之實、雖意錮南山、寧同壽乎。湍水又逕穰縣爲六門陂。漢孝元之世、南陽太守邵信臣以建昭五年斷湍水、立穰西石堨。至元始五年、更開三門爲六石門、故號六門堨也。溉穰、新野、昆陽三縣五千餘頃、漢末毀廢、遂不脩理。晉太康三年、鎮南將軍杜預復更開廣、利加于民、今廢不脩矣。六門側又有「六門碑」、是部曲主安陽亭侯鄧達等以太康五年立。湍水又逕穰縣故城北、又東南逕魏武故城之西南、是建安三年、曹公攻張繡之所築也。】
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が震源地らしい。孰れにせよ、「世(よ)、擧(こぞつ)て知(しる)ところ」となったのは、専ら宗行の詩ゆえである。
「君、來(きた)る月、ふりよの病(やまい)に死するの災(わざはひ)あり。さるによつて、此所にとゞめ參らす事、一年(〔ひと〕とせ)、災難をのがれ給ひぬ」「貴君は、現実世界の今日現在の、来月に当たる月の内に、不慮の病(「やまひ」)によって、死する、という災難を受けることに、なっておる。そこで、貴君の孝なるを以って、今、この場にかく、半日一夜ばかり、お留め申し上げることと致した。さても。これは、現実世界にあっては、既に一年を経過していることに、なっておる。さすれば、最早、災難をお避けになったので御座るのじゃ。」。
以下、奥書を示す。ご覧の通り、底本は字が大きく、それぞれに違ったサイズであるが、無視した。貞享四年は一六八七年。「龍集」の「龍」は星の名で、「集」は「宿る」意。この星は一年に一回周行するところから「一年」の意となり、単に「年」の代字となって、多く年号の下に記す語となった。]
貞享第四龍集
春孟陽吉辰日
江戸神田新葦屋町
西村 半兵衛
書林
京三條通 西村 市郞右衞門
新版