南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(19:海龜)
海龜、紀州田邊にて、海龜を獲るも殺さず、酒を飮せて放ちやるを常とす、海に入て暫時して浮上り、恩を謝して去るといふ、實は呼吸に暇とるなり、この海龜を食ふ人多きも、之を殺す者、古來その業を世傳し、他人之を殺さず、余が知れる新宮の船頭、持ち船を浮寶丸と號せり、其人躬ら見し事無けれども、海龜罕れに綠色で甚だ光る異寶を抱き浮く、之を龜の浮寶と名け、見る者尤も幸運の兆也とす。只野眞葛の磯通太比に、奧州の漁夫、二年續けて同一の龜を得、酒多く呑せ放ち遣りしに、第三年めに其龜鸚鵡螺一を負ひ來たり贈り、忽ち死し、其螺を寶とし其龜を葬りしに、官命じて龜靈明神と號せしめたる話有り、倭漢三才圖會卷七六に、淡路の由良島に、每年六月三日、社僧龍王を祭る時、大小の海龜必ず來游群を成すと云へり、神代に、豐玉姬龜に乘り、海を渡る事有り、安南のトラヲスの祖も、龜に乘り水を涉り來しと云ふ。(Néis et Septans, ‘Rapport sur un Voyage d’exploration aux Sources du Dong-Nai; Cochinchine Francaise, No. 10, 1882, p. 44)。又鹿島明神、早龜と云ふ龜に乘り、長門豐浦に到りし由、類聚名物考卷三一一に見ゆ、是抔諸例より推して、古え[やぶちゃん注:ママ。]吾邦に、龜を神若くは神使とする風盛んなりしを察すべし、又海坊主とて、海龜を漁事に不祥なりとする事、倭漢三才圖會卷四六に出、其偶有得、則將殺之時此者拱手落淚如乞救者云々と言るは、十七世紀の終りに英國學士會員「フライヤー」がスラツトで、海龜捕るを記して、此物全く蟾蜍の愛すべきに似たり、婦女の如く長大息し、小兒の如く啼く、裏返し置く時は行く能はずと言るに近し、(Fryer, ‘A New Account’ of East India and Persia 1698, p. 122)。
[やぶちゃん注:「海龜」爬虫綱カメ目潜頸亜目ウミガメ上科 Chelonioidea の内、本邦で産卵が確認されている種は、
ウミガメ科 Cheloniidae アカウミガメ属アカウミガメ Caretta caretta(ウィキの「アカウミガメ」によれば、『静岡県御前崎市は「御前崎のウミガメおよびその産卵地」が国の天然記念物に指定されるなどアカウミガメとのかかわりの深い地域であるが、漁業関係者の間では大漁、豊漁のシンボルとして敬愛され、死んだアカウミガメを供養した「亀塚」が市内各所に実在している』とある)
アオウミガメ属アオウミガメ Chelonia mydas(本邦では「正覚坊」という異名もある。私は高校時代、水族館で死んだ同種の解剖を見たことがある。強烈な生臭さが漂っていたのを今も忘れることが出来ない。また、二十の頃には、行きつけの寿司屋で本種の生の卵を食したこともある)
タイマイ属タイマイ Eretmochelys imbricata(玳瑁・瑇瑁。鼈甲細工の原料とされる。因みに「鼈甲」という語については、一説に、寛文八(一六六八)年に幕府が出した、奢侈を禁ずる倹約令で、輸入物の玳瑁の甲羅が禁制となり、しかし、密輸入が行われ、糺された際に、玳瑁のそれではなく「鼈」(スッポン)の「甲」羅と誤魔化したことに由来するという話もある)。
オサガメ科 Dermochelyidae オサガメ属オサガメ Dermochelys coriacea(ウミガメ類の最大種。甲長一・三〇〜一・六〇メートル)
の四種であるようだが(最初の三種では種間雑種が確認されている)、他に、迷走個体として、
ウミガメ科ヒメウミガメ属ヒメウミガメ Lepidochelys olivacea
の成体が現認されている(本邦では産卵はしないとされる)。なお、中国限定であるが、カメの民俗誌として、茨城大学名誉教授真柳誠氏のサイト「医史学の真柳研究室」内にある平成一六(二〇〇四)年度の人文学科卒業研究の永谷恵氏の論文「亀の中国思想史-その起源をめぐって-」が読み応えがある。
「暇とる」「ひまとる」。呼吸の必要性から頭を海上に出すだけのことである、の意。
「躬ら」「みづから」。
「罕れに」「まれに」。
「綠色ではなはだ光る異寶を抱き浮く、之を龜の浮寶と名け、見る者尤も幸運の兆也とす」不詳。なお、腹足綱直腹足亜綱 Apogastropoda 下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科タカラガイ属ウキダカラ(浮標宝)Cypraea asellus がいるが、同種は、一般には殻の背面が白色に三つの黒帯を巻き、上下を白帯で区切られている。側面と腹面は白色であり、タカラガイの類では、識別が最も容易な一種であるが、成体(海外サイトで確認したところ、外套膜は暗紫色或いは褐色で緑色ではない。言っておくが、貝類図鑑のそれは殼であって、タカラガイ類の多くは生体では殼全体をすっぽり外套膜で覆ってウミウシのようであり、見た目の色は貝殻とは似ても似つかない)も貝殻も緑色を呈することはないと思われ、ウミガメ類に附着するとは考えにくいので、単に名が同じという偶然であろう。
「只野眞葛の磯通太比」只野眞葛(ただのまくづ 宝暦一三(一七六三)年~文政八(一八二五)年)は私の好きな江戸中・後期にあって稀に見る才能を開花させた女流随筆家である。仙台藩医で「赤蝦夷風説考」の著者でもあった工藤平助の娘で、名は綾子。江戸生まれ。明和九(一七七二)年二月、十歳で「明和の大火」(目黒大円寺から出火、麻布・京橋・日本橋に延焼、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くした。死者は一万四千七百人、行方不明者は四千人を超えた)に遭遇し、苦しむ貧民に心を寄せ、後々まで続く経世済民の志を抱いた。荷田蒼生子(かだのたみこ:国学者で伏見稲荷神官であった荷田春満(あずままろ)の弟高惟(たかのぶ)の娘で、春満の養女となった女流歌人。紀州藩に仕えた)に古典を学び、国学者で歌人の村田春海(はるみ)に和文の才を認められ、また、滝本流の書もよくした。仙台藩に奥勤めした後、家へ帰り、母亡き後の家政を見た。三十六歳で、落魄れた工藤家復興を期し、仙台藩士千二百石取りの只野伊賀行義の後妻となり(彼女はその前に望まない老人と、一度、短期間、結婚し、離縁している)、仙台へ下る。江戸勤めの多い夫の留守を守りながら、思索に耽り、文政二(一八一九)年、五十五歳の時、胸の想いを全三巻に纏め、「独考」(ひとりかんがへ)と題して江戸の滝沢馬琴に送り、批評と出版を依頼したが、馬琴は禁忌に触れる部分があるとして出版に反対し、自ら「独考論」を著し、真葛の論に反撃し、手紙で知り逢ってから一年余りで絶縁した。しかしまた、真葛の事跡が、現在、ある程度まで明らかとなっているのも、馬琴が「兎園小説」に書き留めたからででもあった(第十集の最後にある著作堂(馬琴の「兎園小説」での号)作の「眞葛のおうな」)。真葛は体系的な学問をしたわけではないが、国学・儒学・蘭学などの教養を身に着け、その上にオリジナルな思想を築いていった。「独考」には一種の偏頗な部分もあるものの、江戸期の女性の手になる社会批判書であり、当時としては稀有の女性解放を叫ぶ書として評価できる。著作には他に・「むかしばなし」・「奥州ばなし」などが残る(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠りつつ、オリジナルに補足を加えた)。「いそづたひ」は文政元(一八一八)年に宮城郡七浜(現在の宮城県宮城郡七ヶ浜町(しちがはままち)へ仲間と旅した際の紀行文で、途中で採取した海辺の珍しい話も挟まり、これもその一つ。国立国会図書館デジタルコレクションの明治四二(一九〇九)年博文館刊の岸上質軒校訂「續紀行文集」(「續帝國文庫」第二十四編)の当該部(リンク先は冒頭ページ。左ページの一行目から次のページにかけて)を視認して示す。段落を成形し、句点のみなので、それは自己判断で句読点に変更或いは追加(記号を含む)をした。読みは一部に留めた。踊り字「〱」は正字化した。中間部に少し、話が一旦、離れて歌などが詠まれるが、カットせずにこのカメ・パートの切れる最後まで電子化した。
*
此島の周圍(めぐり)を離れぬ小舟ありき。
「人を乘せてんや。」
と、とはせつれば、
「二人、三人は可(よし)。」
といふ故、乘(のり)て見れば、蛸釣る舟には有し。今、捕(とり)たるを、膝の下(もと)に打入るゝは、珍らかなるものから[やぶちゃん注:逆接の接続助詞。]、心よからず。此釣人の語るやう、
「今よりは、七、八年前(さき)に、龜の持來(もてこ)し、『浮穴(ふけつ)の貝』といふものを、持はべり。我家は、道行く人の必ず過ぎ給ふ所なれば、立寄(たちよ)らせ給ひて、見給へかし。今、僕(やつがり)も參りてん。」
とぞ、いひし。
舟より上るとて、今、捕りたる蛸を乞求(こひもと)めて、家苞(いへづと)にしたり。
釣人の家にいたりて、
「浮穴(ふけつ)の貝てふもの、持(も)たりと聞くを、見せてんや。」
と乞へば、内なる女、あしたかき折敷(をしき)に白き箱を据(すゑ)て、持出たり。この磯屋(いそや)の樣(さま)、板敷(いたしき)にて、引網(ひきあみ)・たく繩[やぶちゃん注:「たくなは」。「栲繩」でコウゾの繊維で作った繩。]など、おほく積入(つみい)れて、折敷などは有(あり)げにも見えぬに、斯(か)く振舞ふは、いみじき寳と思へる樣也。
執りて視るに、目馴れぬ貝の形也。徑(わたり)一束半(四寸五分)[やぶちゃん注:原割注。]に過ぎぬべし。貝、最(いと)厚く、外の色は白くて、茶色に、虎斑(とらふ)の如き文(かた)あり。中は夜光貝(やくわうがひ)に似て、濃(こまやか)なることは、甚(いた)く增(まさ)れり。内に、汐、籠りて、打(うち)振れば、
「こをこを」
と鳴(な)りながら、いさゝかもこぼれ出でず。
「是を得て、八歲(やとせ)になれども、乾きもせず。」
とぞいひし。
兎角する中に、釣人、歸り來て、事の由(よし)を語る。
「今よりは十年許(ばか)り前(さき)、沖に出(いで)て釣し侍りし時、四尺餘の龜をえ侍りき。乘合(のりあ)ひし釣人も、六、七人候ひしが、
『龜は酒好む物と聞けば、飮ませてん。』
と、僕(やつがり)申したりしを、海士(あま)共も、
『よからん。』
と申して、飮ませ侍りしに、一本許り飮み候ひき。扨、放ち遣(やり)候ひしに、翌(あく)る年の夏、又、沖中にて釣せし時、龜の出て候ひつれば、捕へて、酒を飮ませて放ち侍りしに、一年有て、此度(こたび)は此貝を背に負ひて、磯より半道許り隔てたる所に、浮(うか)び寄(より)て候ひき。僕(やつがり)は、いつも、朝、とく、磯邊(いそべ)を見回(みめぐ)り侍つれば、見怪しみて、汐をかつぎ分て、往(ゆき)て見侍りしに、例の龜にぞ候ひし。初め放ち侍りし時、目印(まじるし)を付(つけ)侍りつれば、見る每(ごと)に違(たが)はずぞ候ひし。
『例の如く、酒を飮ませて、放たん。』
と、し侍しに、左の手を物に囓取(くひと)られんと思(おぼ)しく、甚(いた)き疵(きづ[やぶちゃん注:ママ。])を負ひて、動くべくもあらず見え侍りつれば、人を集(つど)へて、舟に擔載(かきの)せて(四人して漸持たり。)[やぶちゃん注:原割注。]、沖に漕出(こぎい)でゝ、放ちて歸り侍りしに、夕つ方、又、元の所に來て死(しに)侍りき。
『言葉こそかよはね、酒飮ませられし酬(むくひ)に、貝を持(も)て來しならめ。』
と、最(いと)哀れに悲しまれ侍りつれば、骸(から)を陸(くが)に擔上(かきあ)げて、小高き所の地を掘(ほり)て、埋(うづ)め候ひて吊(とふら)ひ侍りき。今は公より仰せ蒙りて、「亀靈明神」と申し侍る。此貝を、初めよりよき物と識り侍らば、斯(かく)は仕(し)候らはじを、只、珍らしとのみ思ひ侍りしかば、海士乙女(あまおとめ)共の、
『亀の持(も)て來(こ)し貝、得させよ。』
と言ひつゝ、手々に打缺(うちか)き打缺きして、取らるゝ程は取り侍りつれば、斯く損(そむ)じ侍る。此半(なかば)にて、脹切(はりきり)たる所にも、針もて突きたる程の穴、あきて候ひしを、
『汐をぬきて、孫共に與へん。』
と思ひ侍りて、角(かど)ある鐵箸(かなばし)もて、突抉(つきくじ)りなどし侍し故、穴も崩れ侍り。されど、聊かも汐の出侍らねば、其儘にて半年許、翫弄物(もてあそびもの)として置候ひしを、ふと、休みたる旅人の、執見(とりみ)て、
『こは。まさしう「浮穴(ふけつ)の貝」といふものなり。如何にして得し。」
と、其故を問聞(とひき)き侍りて、且、感じ、且、缺損(かけそん)じたることを、惜(あたら)しみ[やぶちゃん注:「惜(を)しむ」の意の上代の古形。]侍りて、
『得がたき物なるを、今よりは寳とせよ。』
と、教へ侍りしによりて、俄(にはか)に尊(たふと)み候ひぬ。」
とぞ語りし。
こゝをはなれて山路にかゝるは、心づきなかりしを、出離れて、海のみおものふと見えたるは、晴やかにて、際(きわ[やぶちゃん注:ママ]。)なく快(こゝろよ)し。又、居たちて、磯づたひの道にかゝる。湊濱のわたりは、ことに淸し。眞砂の中に、黃金(こがね)の箔を敷(しき)たらんやうに見ゆるが交りて、波の打寄るにつれて、下り上りするが、うちあげられたるは、蒔繪に異なることなし。かゝるを、愛(めで)つゝ磯づたひし行けば、湊藥師(みなとやくし)[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。]の立たせる邊(わたり)は、よそに過行きたり。後、思出て悔(くゆ)るも、かひなし。『千鳥は冬ならでは、をらじ』と思へりしを、十羽許り、群居て、水際を去らず、求食(あさる)は、最(いと)めづらし。人のちかづけば、遠く居つゝ、每(いつ)も同じ樣(さま)也。繪に書(かき)たるを見しとは異なり、身は細りて長く、「をしへ鳥」の形したり。飛立(とびた)てば、羽勝(はがち)にて、燕に似たり。小波の寄する時は、步みながら逃行き、退(ひ)く時は、又、隨ひて、あさり、大浪の打かゝれば飛立(たち)て、即ち、水際(みぎは)にゐる樣(さま)、波に千鳥とは、いはまほし。
磯千鳥みぎは離れずあさりつゝ
淸き渚によをやつくさん
日の斜(なゝめ)に成ぬれば、家路に歸らんことの、わづらはしく思はるゝを、所得がほに、心おだしうて、
『あれは、うらやまし。世に千どりがけといふことのあるは、何の故ぞ。』
と思ひしを、
『打波、引波につれて、あゆむさまをもて、よそへしことぞ。』
と、思あはせられし。此磯は、御殿崎より見し時だに、程あるやうなりしを、下立(おりた)ちては、最(いと)測りなし。
「家づとに貝拾ふ。」
とて、時うつしつゝ、蒲生(がまふ)の濱[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルを見ると、現在もチドリだけでなく、野鳥の楽園のようである。]行く頃は、心あはたゞしくなりぬ。
(かえ子)
かへりゆく道もわすれてうちよする
眞砂にまじる貝ひろひけり
いと飽かねども、濱を離れて、先に遠く見し松原を經て、家路へと赴きたりし。
おもひはかるおしあてごと
『此貝を、龜の、痛手負ひながら、持(も)て來(こ)しをもて考ふれば、此貝の在る所は、海の底にして、恐ろしき荒魚(あらいを)ども栖(すみ)て、中々、人の及び難き所故、取得(とりう)ることもなきを、此龜、海士(あま)に捕られて、死すべき命、たすけられしのみならず、珍らしき酒を飮ませられしも度々故、此報ひに、龜も珍らしき物を贈らんと、强て求むとて、海底の荒魚と戰ひ、身を傷(あや)められながら、辛き思ひに取得て來りしとにや』と思へば、哀(あはれ)なり。世に强き例(ためし)に引く龜の、弱り果(はて)たるをもて思ふに、海の底にて、甚(いた)く戰ひしとは知られたり。命(いのち)盡きなんとするに依りて、貝を持(も)て來(こ)しには非じ、貝を獲(え)んとして、命、失ヘるなるべし。
[やぶちゃん注:以下の長歌は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空け、歌は読み易いように、字空けを添えた。前書下の原割注の「川子濱」は同定し得ないが、伝承からみれば、松ヶ浜のどこかであろう。因みに、古い時代のこの辺りの地形は、かなり現在と異なる。「今昔マップ」のそれを参考に示しておく。]
海中のさまをよめる歌(海士人の住所は川子濱也)
河子なる はまの磯屋にすむあまの 沖に出居て例のごと 釣れる雜魚(いさな)に加はりて 四尺餘(よさかみあまり)の大龜の 浮びたりしを 俱乘(とものり)の 海士(あま)とはかりて美酒(うまさけ)を 與へ飮(のま)せて 元のごと 放ち遣りしに 又の年 同じき龜のたく繩に 寄りて來ぬれば うま酒の ゆかしとにやと のませつゝ またもはなちてやりつれば 龜のおもはく 死(しぬ)る命 全(また)く保ちしのみならず 美酒をさへめぐまれし 人の情(なさけ)の報ひには 得難きものをさゝげもて 奉らめと思ひつゝ 浮穴(ふけつ)といへる玉貝を 得めと思へど 荒魚の 怒りかしこみ事なくは 取得(とりえ)がたしと窺(うかゞ)へり 海の中には垣もなく 行易(ゆきやす)けめと 世の人は おもひぬれども うかぶ魚 根(ね)に栖(すむ)魚の 別(わき)有りて 潮(うしほ)の階(きだ)も異なれば そこに有りとは知りつれど 千尋(ちひろ)に餘る 荒根(あらね)には 行觸(ゆきふ)れがたみ 容易(たやす)くも 取得られねば悔(くや)しとは 思ひ染(しみ)つゝ荒魚の 寄來(よりこ)こぬ隙に 大龜は 入得(いりえ)ぬ方(かた)に分(わけ)ゆきて 貝を取得て背に負ひつ 心いさみて 荒波を いかき上りつ 搔(かき)のぼり 潮のさかひを 超(こえ)ぬべく 成りぬる時に荒いをの 睨(にら)み視るより鰭(ひれ)をふり 齒を剝出(むきい)でゝ飛ぶがごと 追(おひ)て來(き)ぬれば 荒汐は うな逆立(さかたち)て卷返(まきかへ)り 底の闇は千萬(ちよろづ)の 神鳴騷(さは)ぐ如くにて 聞くも畏(かしこ)く肝(きも)迷ひ 沈(しづ)まじ浮んと空樣(そらさま)に 尻を成しつゝ 逃行くを いとひかゝれば 拂ふ手を ふつと囓(くは)れて一度に 汐の境は去ぬれど 重傷(いたで)にあれば潮さへ 血しほと成(なり)て大龜は 心消つゝ一行(ひたすら)に 弱りてあれど やうやうに 海路(うなぢ)辿りて 海士人の 家の邊(ほとり)の磯邊まで 貝を負來(おひき)て 生命(いのち)歿(しに)けり
萬代を經ぬべき龜はうま酒の
あぢに命をつくしぬるかも
龜がよはひ酒にたちけりみじかゝる
人の命は捨るもうべなり
萬代の齡ゆづりしかひなれば
手にとる人も千代はへぬべし
文政はじめのとし葉月五十六歲にてしるす
眞 葛
[やぶちゃん注:底本では、ここで終わっているが、所持する国書刊行会「江戸文庫」版では、以下の漢文が附されてある。返り点を除去して恣意的に正字化して示し、後に私の推定訓読を附す。]
松濱之漁父、網而獲一大龜、飮之酒而放之、如此者二囘矣。賤而有仁、可不賞乎。龜既洋々焉而去、後數日、負珍貝來、少焉殭矣。怪而視之、損其一足、似爲物所齕斷。意采貝重淵、與巨魚鬪、而至此乎。介而知恩以死報之、可不哀且賞乎。然而細民有仁、衆漁中蓋不數人、介族知恩、亦所希覩也。可謂奇遇耳。夫、龜以壽稱者也。而爲恩强死、爲人所哀、傳以爲美談。其不朽也、勝徒壽遠矣。[原割註―こは、かの國にいます南山禪師のそへ給へるなり。]
*
松濱の漁父、網にて一大龜を獲り、之れに酒を飮ませ、而して之れを放つ。此くのごとき、二囘たり。賤しくして、しかも、仁、有り。賞すべからざるか。龜、既に洋々焉(ようようえん)[やぶちゃん注:はるか遠いさま。]として去り、後、數日、珍貝を負ひて來り、少焉にして殭(し)す。「怪し」として之れを視るに、其れ、一足を損じ、齕斷せる物たるに似たり。意(おも)ふに、重淵に貝を采(と)り、巨魚と鬪ひ、而して此に至れるか。介[やぶちゃん注:広義の魚介で、亀を指す。]にして、しかも、恩を知り、死を以つて之れに報ふ、哀れみ、且つ、賞すべからざるか。然して、細民、仁、有り、衆漁の中(うち)、蓋し人を數ふべからざるに、介族、恩を知る、亦、希覩(きと)とせんや、奇遇と謂ふべきのみ。夫(そ)れ、龜、壽を以つて稱す者なり。而して恩を爲(な)し、强て死す。人、哀れむと所と爲(な)し、傳へて以つて美談と爲(な)す。其の不朽や、徒(いたづら)に壽とするに勝(まさ)れるに遠し、と。【こは、かの國にいます南山禪師のそへ給へるなり。】
*
素敵な一文ではないか! しかも、真葛が対象の詳細なデータを記して呉れているお蔭で、我々はこれを、
頭足綱四鰓(オウムガイ)亜綱オウムガイ目オウムガイ科オウムガイ属 Nautilus の一種
或いはよく知られた一種、
オウムガイ Nautilus pompilius
であると確かに認識出来るのである。同種の分布は南太平洋からオーストラリア近海の深海(百から六百メートル。八百メートルを超えると殻が水圧に耐え切れずに縮崩壊してしまう)であるが、死貝の殻はしばしば日本沿岸に漂着するので、黒潮に乗って仙台の海岸に流れ寄っても少しもおかしくないのである。知らない人はおるまいが(私は殻を正中位置で二つに切断した殻一個体を所持している)、一応、私の毛利梅園「梅園介譜」の「鸚鵡螺」と、同じく私の「オウムガイ(松森胤保「両羽(りょうう)博物図譜」より)」をリンクさせておく。無論、二つともにカラー図版附きである。さて、この「浮穴の貝」、実は現存するのである。「七ヶ浜町役場」公式サイト内にあった観光パンフレットの中に「浮穴ノ貝(富結の貝)(ふけつのかい) 民話2」として本話が載っており、現在の祠(新しい)と、保存されている「浮穴の貝」の写真が載っているのである。
《引用開始》
文化4年(1807)頃、松ヶ浜の漁師が御殿崎の沖合いで釣りをしていたところ、4尺程(1.2m)の大亀が海上に浮き上がりました。珍しがった漁師は亀を家へ連れて帰り、酒を振る舞った後、背中に印を付けて海へ帰しました。
亀は翌年もやってきました。漁師は再び酒を振い、海へ帰した後、翌年の再来をまた楽しみに待ちました。
すると翌年、亀は見たこともない貝を背中に背負ってやってきました。貝を受け取ってよくよく見れば、亀は左手に、何者かに食いちぎられたような大けがを負っていました。漁師は手当てをし、酒を飲ませて船に乗せ、沖合に帰しました。
ところが翌朝、その亀が死んでいるのを見つけて、気の毒に思った漁師は、養松院の境内に埋葬し「亀霊明神」と名付けてまつりました。そして、漁師は亀の背に乗ってきた貝を、家の入口付近に置きました。
数日が過ぎた頃、漁師の家の前を通りかかった旅の僧侶が、その貝を見つけて仰天しました。僧は「これは浮穴の貝という深海の珍宝で、出漁前に拝めば大漁をもたらす」と漁師に語りました。半信半疑で漁師がそのようにしてみると、大漁が続いた事で、噂はたちまち広がり、はるばる四国から拝みにやってくる人もいたといいます。
浮穴(ふけつ)という読みの音から「富結」という縁起のいい字を当てることもあります。この漁師の子孫は、今も松ヶ浜に暮らし、亀霊明神の祠を養松院から自宅そばに移して今も供養を続けています。
《引用終了》
この時制記載が正しいとすれば、真葛さんは、この奇談のあった時から僅か十一年の後に、この漁師自身に直接逢って、話を聴き、「浮穴の貝」を親しく観察したことになる。今度、行くことがあったら、是非ともこのオウムガイ、いやさ、「浮穴の貝」を拝みたいと思っている。この(グーグル・マップ・データ航空写真)松ヶ崎港の東北の一角部分の岬が御殿崎で、アップすると、一時保管されてあった「養松院」が見える。恐らくはこの範囲内のどこかに、祀られ、その子孫の御自宅に「浮穴の貝」はあるのである。
「和漢三才圖會卷七六に、淡路の由良島に、每年六月三日、社僧龍王を祭る時、大小の海龜必ず來游群を成すと云へり」同巻に載る「大日本國」の中の「淡路」の「由良島」である。所持する原本より電子化する。原文の訓点は除去し、後に訓読を示した。
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由良島【非名所】 在由良之南西海中
島周凡三里許有奇石名金藏作此處或見猩猩蓋俗說 又有大石名比良波惠其石出於海中而上面平也方二丈許毎六月三日土人備供物於石上謂之龍王祭【八幡宮神宮寺】社僧來誦陀羅尼修祭儀時大小龜來群游於石※毎度無違人甚爲奇
[やぶちゃん注:「※」はグリフウィキのこれ。「邊」の異体字。訓読では「邊」とした。]
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由良島【名所に非ず。】 由良の南西海中に在り。
島、周(めぐ)り、凡そ三里許り。奇石、有り、「金藏作」と名づく。此の處、猩猩を見ること或り、蓋し、俗說ならん。又、大石、有り、「比良波惠」と名づく。其の石、海中より出でて、上面、平なることや、方二丈許り。毎六月三日、土人、供物を石上に備ふ。之れを「龍王祭」と謂ふ。【八幡宮の神宮寺の。】社僧、來り、陀羅尼を誦し、祭儀を修す時、大小の龜、來りて、石邊に群游す。毎度、違(たが)ふこと無し。人、甚だ奇と爲す。
*
「金藏作」の読みは不詳。現在、この呼称は生き残っていない。「比良波惠」は「ひらばえ」(海中に上方に突き出した根(岩礁帯)を「はえ」と呼ぶ。魚介類が多く集まる)。島の大きさと由良からの方角、奇石群があること等から、これは現在の淡路島の南沖合四・六キロメートルの紀伊水道北西部に浮かぶ、兵庫県南あわじ市に属する沼島(ぬしま)である(こここそ開闢神話で最初に出来た原日本「おのころ島」であるとする伝承がある)。上及び下立神岩・屏風岩・「あみだバエ」などの奇岩があるが、中でも高さ約三十メートルの「上立神岩(かみたてがみいわ)」は「竜宮の表門」(グーグル・マップ・データの「上立神岩」のサイド・パネルの現地の説明版を見よ)とも呼ばれ、ウミガメと親和性が強い。なお、ウィキの「沼島」には『「和漢三才図会」には「龍宮の表門」と書き記されている』と書いてあるが、ネット上の複数の活字本(私の所持するのは原刊行本の一種)を見ても、その記載を見出せない(同書には大きく分けて良安の初版と手入れをした改訂版の二種があるから、或いはそうした記述がある版があるのかも知れないが、どうも不審である)。
「神代に、豐玉姬龜に乘り、海を渡る事有り」「豐玉姬」は女神で、神武天皇の父方の祖母、母方の伯母とされる。ウィキの「トヨタマヒメ」に、『豊玉姫は海神(豊玉姫の父)の宮にやってきた火折尊と結婚し、火折尊はその宮に』三『年間住んだが、火折尊は故郷のことをおもってなげいた。これを聞いた豊玉姫は、自らの父である海神に「天孫悽然として数(しばしば)歎きたまう。蓋し土(くに)を懐(おも)いたまうの憂えありてか。」と言った。海神は火折尊に助言を与え、故郷に帰した。帰ろうとする火折尊に、豊玉姫は「妾(やっこ)已に娠めり。当に産まんとき久しからじ。妾必ず風濤急峻の日を以て海浜に出で到らん。請う我が為に産室を作りて相い持ちたまえ。」と言った』。『のちに豊玉姫は約束の通り、妹の玉依姫を従えて海辺にいたった。出産に望んで、豊玉姫は火折尊に「妾産む時に幸(ねが)わくはな看(み)ましそ。」と請うた。しかし火折尊は我慢できず、ひそかに盗み見た。豊玉姫は出産の時にヤヒロワニ』(「古事記」では「八尋和邇」、「日本書紀」の一書では「八尋大熊鰐」とする)『となり、腹這い、蛇のようにうねっていた』(「古事記」)。『豊玉姫は恥じて、「如(も)し我を辱しめざるならば、則ち』、『海陸相通わしめて、永く隔て絶つこと無からまじ。今既に辱みつ。将(まさ)に何を以て親昵なる情を結ばんや。」と言い、子を草でつつんで海辺にすてて、海途を閉じて去った』というラスト・シーンを指していようが、これは海亀のようには私には見えない。
「安南のトラヲスの祖」「安南」は現在のヴェトナムだが、「トラヲス」は不詳。
「Néis et Septans, ‘Rapport sur un Voyage d’exploration aux Sources du Dong-Nai; Cochinchine Francaise, No. 10, 1882, p. 44」(「;」は「’」の誤植であろう)フランスの医師で探検家のポール・マリー・ネイス(Paul Marie Néis 一八五二年~一九〇七年)と、フランス海軍将校のアルバート・セプタンズ(Albert Septans 一八五五年~一九五六年)の共著になるヴェトナムの東南部にある現在のドンナイ省の探検報告書らしい。
「鹿島明神、早龜という龜に乘り、長門豐浦に到りし由、類聚名物考卷三一一に見ゆ」「類聚名物考」は「鶺鴒」パートで既注。著者山岡浚明(まつあけ)は同巻の「樂律部第一 舞踏 曲名 音調 雜叢」の最初の方にある「政納舞(せいのうのまひ)」の項(右ページ下段)で、住吉神社の縁起に見える、「面に布を覆ひて舞といへる」それについて、
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○〔住吉記考〕然るに此吉丸ハ(鹿島大明神の御事なり)常陸の國 鹿島の浦に住て魚を愛し年序を送り長眠を好給ひける故に御顏に蠣[やぶちゃん注:「かき」。貝のカキ。]なと多く吸ひ付けるによりて色黑くかたい見にくゝおはしましけるによりて恥しくやおほしけんおそく參り給ふ故召よはんとて長門の國豐浦にして御神樂をすゝめさせたまひけり五人の神樂男云々鹿島明神ハ海中におはしましけるか遙に是を見給ひ我を早々參れと思召て御樂を始められたり我此神樂を見なから いかてまゐらさるへきやとて早龜といふ龜に乘て參り給ひ上(淨カ)衣の袖を御顏に引おほひ御領に鼓をかけて政納といふ舞をまひ給ひけりさてこそ世迄も政納といふ舞の顏に布をたれけるもかゝる由有故ならん
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とあるのを指す。
「海坊主とて、海龜を漁事に不祥なりとする事、倭漢三才圖會卷四六に出、其偶有得、則將殺之時此者拱手落淚如乞救者云々と言る」私の「和漢三才圖會 卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類 寺島良安」より図・原文・訓読及び私の注を引く(私はこれをウミガメとは比定していない)。
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おしやういを
うみぼうず 【俗云海坊主】
和尙魚
ホウ シヤン イユイ
三才圖會云東洋大海中有和尚魚状如鱉其身紅赤色從潮汐而至
△按西海大洋中有海坊主鱉身人靣〔=面〕頭無毛髪大者五六尺漁人見之則以爲不祥漁罟不利遇有捕得則將殺之時此物拱手落泪如乞救者因誥曰須免汝命以後不可讎我漁乎時向西仰天此其諾也乃扶放去矣所謂和尙魚是矣
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おしやういを
うみぼうず 【俗に海坊主と云ふ。】
和尚魚
ホウ シヤン イユイ
「三才圖會」に云ふ、『東洋大海の中、和尚魚有り。状ち、鱉〔(べつ)=鼈〕のごとく、其の身、紅赤色。潮汐に從つて至る。』と。
△按ずるに、西海大洋の中、海坊主といふもの有り。鱉(す□〔→「本」?〕)の身、人の面、頭に毛髪無く、大なる者は五、六尺、漁人、之を見つときは、則ち以て不祥と爲す。漁罟〔(こ)〕利あらず。遇(たまたま)捕り得ること有らば、則ち、將に之を殺さんとする時、此の物、手を拱(こまぬ)きて泪を落とし、救ふ者(こと)を乞ふがごとし。因りて誥(つ)げて曰く、「須らく汝が命を免ずべし。以後、我が漁に讎(あだ)をすべからざるか。」と。時に、西に向かひて天を仰(あふ)むく。此れ其れ、諾なり。乃ち、扶(たす)けて放ち去る。所謂る、和尚魚、是なり。
[やぶちゃん注:多くの資料がウミガメの誤認とするが、私は全く賛同できない。寧ろ、顔面が人の顔に似ている点、坊主のように頭部がつるんとしている点、一・五から二メートル弱という体長、魚網に被害をもたらす点、両手を胸の前で重ね合わせて涙を流しながら命を救ってくれることを乞うかのような動作や空を仰ぐような姿勢をする点(こんな仕草をする動物、水族館のショーで見たことがあるでしょう?)等を綜合すると、私にはこれは哺乳綱ネコ(食肉)目アシカ(鰭脚)亜目アザラシ科Phocidaeのアザラシ類か同じネコ(食肉)目アシカ(鰭脚)亜目アシカ科Otariidaeのアシカ類及びアシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinaeに属するオットセイ類等の誤認以外の何物でもないという気がする。スッポンに似ているという点で付図のような甲羅を背負ってしまう訳(それがウミガメ誤認説を導くのであろう)だが、これは断じてスッポンの甲羅では、ない。実際のスッポンの形状をよく思い出して頂きたい。甲羅は厚い皮膚に覆われており鱗板(りんばん。角質板とも言い、爬虫類の鱗が癒合して板状になったもの)がなく、つるんとして平たい。また多くの種は背甲と腹甲が固着することなく、側縁の部分は一種の結合組織で柔軟に結びついている。四肢を見ると、前肢は長く扁平なオール状を呈しており、後肢は短い。さて「この私のスッポンの叙述」は恰も上に上げた水生哺乳類のイメージとかけ離れているであろうか? 私にはよく似ているように思われるのである。ちなみに「山海経動物記・三足亀」には私と全く同じような見解からアザラシやオットセイ、ヨウスコウカワイルカを巨大なスッポンと誤認したのではないかという解釈が示されている(この「アザラシやオットセイ」の部分の同サイトのリンク先「鯥魚」(ろくぎょ)も必読である)。是非、お読みになることをお薦めする。
「鱉」この字のルビは判読できない。「ス」は確かであるが、その下には「本」の字に似ていて、但し四画目の右払いの最後が優位に右方向へ真直ぐ意識的に流れているので、「本」の字ではないと思われる(良安はしばしば「時」「云」「子」等をルビとして用いるが、「本」という漢字を用いる用法は現在までの作業内では未見)が、「すほん」で「すつぽん」という訓には一番近い。【2020年12月20日削除・追記】いつも御指摘を戴くT氏よりメールを頂戴し、『「鱉」の字のルビは、単純にカタカナ表記で、素直に「スホンノ」と読めます。「ン」が「ホ」に附き過ぎの嫌いはありますが、一字の横に四文字並べると窮屈です』と戴いたので、再度、私の原本画像を見たところ、確かに、「スホンノ」と判読できることが判明した。されば、ここは「スホンの」(スッポンの)であると考えてよいと思われる。T氏に感謝申し上げる。
「漁罟、利あらず」「漁罟」は魚を獲るための漁網のこと。東洋文庫版では「漁網も、役に立たない」と訳しているが、如何にも乱暴な訳である。ここは、和尚魚を見たり捕らえたりしたと時は、不吉とするのみならず、その和尚魚が漁網に入ると、網が破れたり流れて亡失したりして実利的にも被害がある、という意味である。だからこそ、漁師は殺そうとするのである。
「手を拱き」の「拱く」は、実は本来「こまぬく」で、現在の「こまねく」はそれが変化したもの。意味は、両手を胸の前で重ね合わせる(腕を組む)ことを指し、これは中国では敬礼の動作に当たる。但し、現行の用法は異なり、何もしないで(する能力がなくて)手出しをせずに傍観している様を言う。
「誥げて曰く」の「誥」は、単に告げるという意味よりも、教え諭すとか、戒めるのニュアンスに加えて、命令を下すの意味も含まれる字である。
「須らく汝が命を免ずべし」の「すべかラク~すベシ。」は高校の漢文ではそれこそ「必須」暗記の再読文字の一つ。「きっと~しなければならない。」「是非~すべきだ。」等と訳す必須・義務・命令の用法ではある。しかし、時には臨機応変な訳が必要。「きっとお前の命を救ってやらねばならない」「是非ともお前の命を奪うことを免じてやるべきである」では如何にもおかしい。ここは本来の「須」の持っているところの、しばしとか、少しの間といった意味を利かせて、「暫く、お前の命を救ってやろうと思う」ぐらいがよかろう。
「此れ其れ、諾なり」の「其れ」は強意で指示語ではない。この和尚魚のする動作(西を向いて空を仰ぐこと。西方浄土にかけても約束を守るということであろう)こそが『分かりました』というしるしなのである、という意味。]
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『英國學士會員「フライヤー」がスラツトで、海龜捕るを記して、此物全く蟾蜍』(ひきがへる)「の愛すべきに似たり、婦女の如く長大息し、小兒の如く啼く、裏返し置く時は行く能はずと言るに近し、(Fryer, ‘A New Account’ of East India and Persia 1698, p. 122)』イギリスの医師ジョン・フライヤー(John Fryer 一六五〇年~一七三三年)の著作。原本(全三巻)をネットで見つけたが、探し方が悪いのか、見当たらない。従って「スラツト」も判らない。【2020年12月20日削除・追記】いつも御指摘を戴くT氏よりメールを頂戴した。
《引用開始》
これは、"A New Account of East India and Persia"三巻本では、Vol.1 p305の頭からの段落の最後の部分(右ページ中央)に、
altogether it is as lovely as a Toad: It sighs like a Woman, and weeps like a Child; being taken and turned on its back, it is shiftless.
とあり、又、一巻本では、熊楠の指定通り 、P122です(左ページ中央。活字が古風で、読み難いです。)また、「スラツト」は、SURAT
wiki(jp)の表記は、「スーラト」で、インド北西部にあるグジャラート州南部の港湾都市のことです。
《引用終了》
と御教授戴いた。いつもながら、感謝申し上げる。ここ(グーグル・マップ・データ)。なお、同地図では「スラト」と表記されている。]
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