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2020/12/10

杉田久女 龍眼の樹に棲む人々

 

[やぶちゃん注:本随筆は大正九年一月と二月発行の『ホトトギス』に分載された。初出のそれは、年譜記載のルビから、「龍眼」(そこでは「竜眼」ではなく、「龍眼」となつているので、気持ちよく本文も「竜眼」も、かく書き換えた)で「かじゆまる」と読ませていたものと推測出来る。久女満二十九歳の新春であった。但し、「龍眼」はムクロジ目ムクロジ科リュウガン属リュウガン Dimocarpus longan であり、「がじゆまる」はクワ科イチジク属ガジュマル Ficus microcarpa で全くの別種である。これ以前、沖繩本島にも住んだ久女が、それら熱帯性樹種を混同誤認して、初出ではうっかりかく振ってしまったものと思われる。

 底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、執筆年を考え(幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されている)、恣意的に多くの漢字を正字化した。傍点「ヽ」はブログでは太字に代えた。踊り字「〱」「〲」は正字に直した。

 冒頭、「弟の死後」と語り出されるが、これは二年前の同じ『ホトトギス』(大正七(一九一八)年十一月発行)に発表済みの弟の死を描いた哀しい追想である「梟啼く」の読者を意識しての書き出しである。

 禁欲的に文中にポイント落ちで注を附した。]

 

 

 龍眼の樹に棲む人々

 

        

 弟の死後私共一家は縣廳の椋の木蔭を去つて、龍眼の樹のある家へ移つて行つた。

 そこは鄭成功か何かを祭つた大きな廟のあとで、表の方は幅の狹い土人町の四辻に位ゐし、裏は土人の小家や草つ原を隔てゝ城壁に對してゐた。土で積み固められたせのひくい土人の家許りの中に有つて、此赤煉瓦の宏壯な建物は、其丸屋根の上にぬきでて遠くから目標とされてゐた巨大な龍眼の樹を擁してゐる事に依つて一層立派に見榮えがして見えた。此龍限の樹の根は、その太い幹を中心として庭の四方へ山脈の奔る樣に隆起してゐた。或ところはコブの樣に、或るところはラクダの背の樣に、不規則に凸凹して終りになる程次第に突起の度を減じ、遂に中心點から一間許りのところで、土の表面から全く消えてしまつてゐるのであつた。椎の樣にこんもり茂つたその葉蔭には茶褐色の丸い實がびつしりになつてゐた。天氣續きのカサカサした空氣の時になると此龍眼の實はめだつて白ぢやけて見えた。南部の方に多いペタコ(鳥の名)は每日々々無數に來て、龍限の實をつゝいた。此長方形な龍眼の中庭を圍んで三棟の煉瓦建があつた。倂し三棟の建物は、塀の樣な何物をも囘らしてゐるのではなく建物それ自身のぶあつな壁が直ちに外部との牆壁であり塀であつたので、三棟の各自を連續させる爲に少しづ高塀らしいもの或は丈夫な門があるのみであつた。[やぶちゃん注:「ペタコ」スズメ目ヒヨドリ科シロガシラ属シロガシラ Pycnonotus sinensis の中国語名のカタカナ音写。「白頭」。台湾語「白頭鵠仔(pe̍h-thâu-khok-á)」に基づく。]

 表通りに面した第一の棟は、石を敷きつめた廣い表庭を持つてゐた。(其門際には石の唐獅子が向き合つ臺石の上に乘つてゐた)

 第二の棟は橫丁の門から入る樣になつてゐて、第一の棟の丈餘の煉瓦が背を其鼻先にすりよせてゐた。此第二、第三の二た棟は寺の内房ともいふべきところで、第一の入口とは全然違つた此橫門から出入し得る樣に、すべてが切離されてゐた。そして龍眼の庭を橫ぎる廊下を斜めに渡つて第三の棟へ行く事が出來るのであつた。此第三の棟には、日本人の賄の爺や、土人の子の寮外が居たし第一の棟の中には――一棟卽ち一室で煙瓦が敷つめられてゐた――竹の寢臺が兵舍の樣に並べられ、ここに父をたよつて内地から來た部下の人々が二十何人か一處に住まつてゐた。其人々は皆獨り者で、中には妻子を國へ殘して來てゐる人々もあつたが、城内の此邊でも土匪等の危險の爲、内地人同志は大抵よりかたまつて暮してゐる頃だつたので、女子供許りの私共一家の爲には此第一の棟の人々は、護衞の樣なもので、非常に心强く思はれた。かくして二棟から成る日本人の一團を入れた此龍眼の樹の家は、貧弱な土人の家に圍饒されて王國の樣な態度を示してゐた。[やぶちゃん注:「寮外」本来は正規に居住権を持たず、久女の父が非公式に私的に同居を許可した、本来はこの家宅(日本の公務員住宅としての「寮」)の「外」の地元民の使用人を指している。しかし、既にしてこの呼称自体に差別意識が潜んでいることは批判的に読むべきではあろう。]

 土のあらはな庭といつては只かの龍眼の庭だけであとは第一第二に附隨した庭共皆石を敷きつめてあつたし龍眼の庭とても其の樹の根のはびこるに任せて、鍬を入れる餘地は更になかつたが、私共の住宅と定められた「第二の棟」の門を出たところにはかなりたつぷりと畠地があつた。そこには砂糖黍も植ゑられてあるし、一尺餘もある樣な長胡瓜、長茄子の木、せの高い一年越しに茂つた胡椒木、赤い花が咲いて靑い實のなる山桐も、ニラも、太陽の强い光りを吸つて異常な發育をとげてゐた。竹垣には臺灣ひるがほの牡丹色に近い花が(日本のひるがほの樣な優しみはなく、葉の形も毒々しく芋蔓そつくりの太い赤い丈夫な蔓が夜となく晝となくドシドシのび、黑綠色の其葉は、垣が見えすかぬ迄に、あつく厚く卷きついてしまふ)その臺灣ひるがほの日盛りの强い影を、葉の中に埋めてゐるのや、鳥かぶとの樣な色と形とをした毒々しい艷の花が咲いたりしてゐた。庭の隅には佛手柑が樹の小さなわりに澤山珍奇な大きな實をつけてゐるのもあつた。[やぶちゃん注:「臺灣ひるがほ」やや花の色に不審があるが、ナス目ヒルガオ科サツマイモ属モミジヒルガオ Ipomoea cairica のことであろ(花の色は薄紅紫色で、中心部は濃紫色を呈するが、「牡丹色」というのはやや不審である。因みに本邦のヒルガオはナス目ヒルガオ科ヒルガオ属ヒルガオ Calystegia japonica である)。別名を「タイワンアサガオ」と呼び、ウィキの「モミジヒルガオ」によれば、『茎は次第に太くなり、ツタのようにイボイボになり、カリマンタン島の林では大木の幹にへばりついて樹上まで先端を伸ばす』とあるからである。「佛手柑」ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン変種ブッシュカン Citrus medica var. sarcodactylis。インド東北部原産で、果実は芳香があり濃黄色に熟すが、長楕円体を成す上に先(下方)が細い指のように分岐する。名はその形を合掌する両手に見立てて「仏の手」と美称したものである。本邦の南日本で主として観賞用に栽植される。食用にもするが、身が少ないので、生食には向かず、砂糖漬けなどにする。私も小さな頃、母の実家の鹿児島で食べた記憶がある。]

 愛兒を失なつた父は、役所から歸ると、直ぐに上衣をぬいだまゝの姿で、夕方迄この花園とも畠ともつかぬ茂りの中にたたずんで暮す事を唯一の慰さみとしてゐた。すべての草木に鋏を入れたりつくりつけてしまふ事の大嫌ひな父は、何でもめについた草なり植木なりを手あたり放だい植ゑつけて只其蔓や葉やがのびる丈けのび成長し得る丈け成育してゆく自然の有樣を心ゆく迄眺めて樂しんでゐるのであつた。であるから父がどこからかこいで來て値ゑた山桐でも、最初はやせてひよろひよろした木であつたのが、肥えた上に移され朝晚丹精して肥料をあたへられて、おしまひには栴檀の木も、あたりの草本も凌いで、艷々しい廣葉を思ひ切りのばしてゐるのであつた。全く父は朝も晚も默々として、土をこなし、鍬を入れてさらでも成長の速かな熱帶地の植物を一層異常に成長せしむべく努力してゐた。[やぶちゃん注:「こいで來て」恐らくは「自然に生えいた若木を引き抜いて来た」の意であろうと思う。「こいで」は「こぎて」のイ音便と考えれば、「扱ぐ」の連用形「扱ぎて」であり、これは「根のついたままで引き抜く・根こぎにする」の意だからである。]

 その幅のひろい肩がこの山桐の葉かげに見られ、土で荒れるのをふせぐ爲めの白い手袋をはめた手で、土塊をさばいてゐる問間の父は、何者をも忘れてゐるらしく見えた。私はよく、朝顏鉢の持ち運び方や撒水や色々の手傳ひをさせられた。寮外は每日桶の水を此畠中に埋めた甕へ運ぶ役目であつた。ところが私の家のぢき裏手にある土人の家の豚が時々畠を荒しに來た。畠の入口には有つても左程用をなさぬ樣な御粗末な竹の戶が一寸おしつけてある許りであつたので豚の群れは芋の樣な短軀をヨチヨチと小走りにやつて來て、短いしつぽを振りながら、

 グーグーギユーギユー[やぶちゃん注:最後の「ギユー」は踊り字「〱」で、或いは「グーグーギユーグーグーギユー」であるのかも知れぬが、長過ぎて、「吶喊」(とつかん)、則ち、突貫する叫び声としては寧ろ間延びすると判断して、かくした。]

 奇妙な吶喊をあげつつ押しあひへしあひ狹い木戶口を畠へなだれ入つた。やつと家の者が氣がついてソレと云ふので橫手の門から飛び出して行くと、豚は逃げ場を失つて大まごつきにまごついて、人目の木戶を扼されて[やぶちゃん注:「やくされて」。抑えつけられて。]ゐる爲め、晝顏の卷きついてゐる垣根をむりやりに押し破つてグーグーギユーギユー、危かしい足付で逃げてゆく。畠の靑物はさんざんに豚に荒され朝顏の鉢はころげてしまひ、柔かい豆の葉や草花の芽でも出てゐようなものなら皆無慘にふみにじられてしまつてゐた。

 かういふところに御役所から父が歸つて來ると、父は大不機嫌で寮外も嚴しく叱られた。それは、几帳面な父は出勤前の忙しい時でもキツト木戶の掛金をかけておくのだけど、其あとで掛金をはづし此畠へ這入つて行く者は、水を運ぶ寮外か、此畠地の隅に三尺四方位の地を父から與へられて、草花を作つてゐる私かに定まつてゐるのであつたから、でも父は決して口やかましくは言はれなかつた。

 なぜ掛金をはづしておいた?

 父、がまともからぐツとにらんで、私の面前に立たれると、私は只その一言でさへすくむ樣な心地がして怖しくて堪らなかつた。父はむづかしい顏を其儘また默々として、たふれた葱を起してやつたり、裏の方から竹を持つて來て破れた箇所をふさいだり、まだ畠の中にまごまごしてゐる私の前を「シツ叱ツ」と追ひのけて、一生懸命あれこれするのが常であつた。而して兎角父の手入れしてなほした畠も今二三日すると豚の群れの闖入に依つてメチヤメチヤにされてしまふのであつた。或る休みの日に父は朝から寮外と二人で畠の方々に一尺位の深さに陷穽を掘り出した。

 一番最後に木戶に近い陷穴を掘りかかつたと思ふ頃向うの方から「ヴーイヴーヴー、グーグー」と云ふ聲が近付いて來た。父と寮外は、急いで木戶を出て、門の中へかくれてしまつた。

 豚はいさましい足取りで開けひろげられた木戶へわけなく押し込んで行つた。最後の一疋が木戶へ姿を役したと思ふ頃、父と寮外はテンデに棒切れを持つて一人は直ぐに畠の中へ飛び込んだ。一人は木戶の外に待ち構へてゐた。此時四方の垣の破れは皆ていねいに繕ろはれてしまつてゐた。

 豚達は思ひがけない襲擊に出逢つて極度に度を失なつてしまつた。グーグーヴーヴー位聲をあげつつ、掘りかけた陷穴へはまりこむもの、石につまづいてころがるもの、やつと血路を見出して木戶口を逃げ出すところを待ちかまへて居た父に、ピシリと打たれて悲鳴をあげつゝ、豚はヨチヨチ、逃げて行つた。意(こころ)許り[やぶちゃん注:ばかり。]馳けてゐて、足がすくんでしまつたと云ふ樣なヨチヨチした其足取は、おかしくもあり可哀想でもあつた。寮外はフアーツ[やぶちゃん注:意味不詳。]と言つて豚のあとから少し追つかけて行つた。

 丁度龍眼の樹の裏手のあたりにある其の豚の特主の家からは、女主人らしい支那女が豚の悲鳴をききつけて門口ヘ飛び出して米たが、ヨチヨチ、ブーブー叫んで飛び込んで行く豚達の後から棒を振つて追つて行く父と察外を見ると、自分もアアヨーアアヨー、泣き聲になつて、急いで家の中に隱れてしまつた。抗議でも申込まれると思つておそれたに違ひない。

 父は豚のもがいて逃げ去つた畠のあとを見廻つて、其時こそ心から愉快げに笑つてゐた。其後は、畠の人口の木戶を、しつかりした木で造りなほし、垣根も、竹をさしそへて豚の襲來にそなへておいたが豚は再び姿を見せなかつた。かくして一時、近隣の土人達と、私共日本人の一構への者とは、意志の疎通をかいた樣にも見受けられたが日數を經るに從つて私共一家は自然に了解され親しみを持たれて來た。

 一體領臺當時、あちらに行つてゐる日本人の中には、何の考へもない人々が居て理も非もなくむやみに戰敗國たる臺灣人達(かれら)[やぶちゃん注:四字へのルビ。]をいぢめ二言めには打つたり蹴つたり、賣り物なども無茶な値で奪ふ樣に買ひ取る樣な事さへあつて表面に土人達は懼れてゐる樣でも内心には恨み疑ひ、成たけ[やぶちゃん注:「なるたけ」。なるべく。]賣物でもかけねを澤山にして、だましてやらうといふ風の態度であつた。

 倂し私達の父母は、すべての土人達に對して決してムチヤな事も言つたりせず、召使ひの寮外にも、も一人縣廳からよこされてある水汲みの土人にでも親切にしてやつたので、僞の多い、盜み心のある土人達も割合に、正直にしてゐた。其中でも寮外は十四位の男の子で、城外の貧しい家の子であつたが、土人に似げないすばしこい、氣の利いたもので、日本語もよく分るし、父母の優しいもてなしにすつかり信賴してよくまめくしく働いて吳れた。も一人の縣廳からよこされてあつた賄の爺さん(日本人)は、大抵、表の獨身の人々の世話を重にしていたし、も一人の大きい土人は城外一里許りの竹林中の泉を每目朝夕一度づゝ汲む事だけが彼のしごとで(臺灣の井戶水は皆石油色をして、雨がすこしふると直き濁つてしまつた)夜は歸つて行くし、ほんたうに、私共一家の用事をするものは此土人の少年寮外であつた。母は每日寮外に籠を持たして市場へ出かけて行つた。行くところのない私達には賑かな市場は面白い行きどころであつた。

 市場と云つても小屋掛けがあるのでも何でもない。狹い道の兩側に、土人の色々な物賣りが並んで、わけのわからぬ言葉を言ひ罵つてゐる許りであった。丈の二尺も有るやうな漬菜(つけな)の油でいためたのを賣つてゐる土人もあれば、生きたアヒルや鷄のくくつた足を手にぶらさげて賣つてゐる土人もあり、皮をむいた南京豆の山盛りにしたの、ペタリと赤い印を皮に押した豚の身、胡瓜の山、それから果物では時々によつて違ふが六七段も房のついた見事なバナナ、ジヤボン、無花果の樣な形をした黃色のスーヤア、林檎の樣な色つやの何とか云ふ果物、枝のまま一束ねにした龍眼の實、五六節の長さに切られた砂糖黍。西瓜、蜜柑、柿と、それは豐富なもので、それらは皆大きな蓋付の籠に美しくつみ上げられて、私達の注目をひくのであつた。其中でも珍らしいのは、土人の常に嚙みつゝあるビンロージの實、それは梅の實位の大きさの靑いきれいな實であつた。その檳榔子の實や、香りの高いマツリクワの花、それから年寄のあたまにさされる爲めの赤い造花、そんなものを手のついた竹籠に入れて土人の子などが賣り步いてゐるのは何となく淸新な心地がせられた。倂し雨の降つた後の市場の汚たない事は非常で、形も大きさも不規則に敷かれたデコボコの石の道には、果物の皮や、土人の嚙み捨てたかの槇榔の實が澁の樣な赤い汁をにじませてそこいらに散らばつてたりしてゐた。市場で果物や豚肉やアヒルの卵子や鷄、野菜など色々買込んだ私達は、屋根つゞきになつた土人町を歸つて來ると、額を四角くぬき上げてゐる女や、赤い造花をさして、網を髺の上にかけた老婆達が物珍らしさうにゾロゾロ出て來て、

 日本女大人(ニツポンチヤボダイジン)、おかけなさいおかけなさい。

と引つぱる樣にすゝめるのであつた。幅の廣い赤い帶をしめて、おちごに結つてゐた私共の樣な子供はどこに行つても珍らしがられた。[やぶちゃん注:「ジヤボン」ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン連ミカン亜連ミカン属ザボン Citrus maxima の別名。よく生の大きな実を送ってくれた亡き鹿児島の祖母は確かに「ジャボン」とも発音していた。因みに、いまでこそ全国区になった菓子「ボンタンアメ」の「ボンタン」も同じくブンタンの別異名である。「無花果の樣な形をした黃色のスーヤア」果実の形から、「梟啼く」で「スーヤー」に比定候補として挙げたモクレン目バンレイシ科バンレイシ属バンレイシ Annona squamos と考えてよかろう。「ビンロージ」「檳榔子」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu の実。長楕円形を成し、長さ五センチメートル前後で熟すとオレンジ色・深紅色となる。ウィキの「ビンロウ」によれば、『檳榔子を噛むことはアジアの広い地域で行われている。檳榔子を細く切ったもの、あるいはすり潰したものを、キンマ』(双子葉植物綱クレン亜綱コショウ目コショウ科コショウ属キンマ Piper betle )『の葉にくるみ、少量の石灰と一緒に噛む。場合によってはタバコを混ぜることもある。しばらく噛んでいると、アルカロイドを含む種子の成分と石灰、唾液の混ざった鮮やかな赤や黄色い汁が口中に溜まる。この赤い唾液は飲み込むと胃を痛める原因になるので吐き出すのが一般的である。ビンロウの習慣がある地域では、道路上に赤い吐き出した跡がみられる。しばらくすると軽い興奮・酩酊感が得られるが、煙草と同じように慣れてしまうと感覚は鈍る。そして最後にガムのように噛み残った繊維質は吐き出す』。『檳榔子にはアレコリン(arecoline)というアルカロイドが含まれており、タバコのニコチンと同様の作用(興奮、刺激、食欲の抑制など)を引き起こすとされる。石灰はこのアルカロイドをよく抽出するために加える』。『檳榔子には依存性があり、また国際がん研究機関(IARC)はヒトに対して発癌性(主に喉頭ガンの危険性)を示すことを認めている』。地面や『床に檳榔子を噛んだ唾液を吐き捨てると、血液が付着したような赤い跡ができ、見るものを不快にさせる。そのためか低俗な人々の嗜好品として、近年では愛好者が減少している傾向にあ』り、『台湾では現在、道路に檳榔子を噛んだ唾液を吐き捨てると罰金刑が課せられるため』、公道は概ね清潔になった、とある。「マツリクワ」シソ目モクセイ科ソケイ属マツリカ Jasminum sambac 。茉莉花。花の香りが強く、ジャスミン茶(茉莉花茶)などに使用される。「髺」「たぶさ」と読んでおく。髪の毛を頭の上に集めて束ねたその部分を指す。]

 私達の目には支那人の吳服店の棚に、赤、黃、綠、桃色その他樣々の緞子[やぶちゃん注:「どんす」。]やシュスの布地が彩どりよく大卷きにまかれて陳列されてあるのが、物珍らしくあかず眺められた。或家の軒先には、ウーロン茶や、むいた龍眼の實の黑く干してある莚があつたし、市の辻のやうなところや廟の敷石の邊には土人の稼人[やぶちゃん注:「かせぎにん」。]の爲めに栗の御汁粉の樣なものを賣つてゐたりした。朝早く通る時には、小さな塗盥で體をふいてゐる土人を見かけた事もあつた。

 色づいた蜜柑が市に出初めて日和のつゞく頃は、私共の第一の棟の表庭には、土人の子供達が集つて、石蹴をしたり、コマ廻しの樣なあそびをしてゐた。時には、その廣つぱに土人の人形芝居が來る事もあつた。繪にある樣な瓜ざね顏の目の吊り上つた美男の五寸程なお人形や、頰紅さして月の眉の美女のお人形は桃色黃藍などの緞子の上衣や袴を着て小さい木履をはいて、二尺に足らぬ舞臺の上を、巧みに土人の手にあやつられてゐた。芝居の文句はわからなかつたけれどもチャルメラか何かの樂の音につれて劍を戰はしたり舞つたりするのが私には大變おもしろかつた。その美しい精巧なお人形がほしくてほしくて見惚れて居るのであつた。四方に緞帳の樣な幔[やぶちゃん注:「まん」。「とばり」と読んでもよい。幔幕。]をかけた其小さい舞臺の奧には、煉瓦の樣に畫かれた戶口がついてゐたり金銀の箔をつけた牡丹の菊の造り花がさしてあつたり、小道具の椅子や紙の岩などおいてある事もあつた。

 

       

 私共少數の目本人の子供の爲めに縣廳の内の一室に特に、五六脚の机や椅子が並べられてそこで、學校の授業がはじまつた。先生は只一人で、私位の年の子も姊の年恰好の子も皆一處であつた。私と姊とは每日寮外に送つてもらつた。學校のお机の上で、母のあんで下さつた毛糸の袋の中から塗物のお辨當箱を取り出してマコモやアヒルの煮たのを喰べる事は私の樂しみの一つとなつた。お友達の俄かに出來たことも嬉しいには違ひなかつたが子供の時から偏屈に出來てゐた私は、いつもお友達の仲まから一人離れて椋の實をひろつたり地ベタに繪をかいたりして遊んだ。それよりも私には家へ歸つてから寮外と、人形芝居のまねをして遊ぶのが一番面白かつた。

 私達の日常に學校行きといふ一つの變化が出米た樣に私の住む家にも變化があつた。それは窓であつた。窓の一つもないぶあつな此壁は一面龍眼の樹かげにあつて日光をうけない爲めひいやりして濕める事は非常であつた。母の紋付の鼠色の縮緬は濕氣の爲め破れるものさへあつた。そこで、窓を此壁に切り開く事となつて一尺餘も厚みのある煙瓦壁は、漸く三尺四方位にクリ拔かれ、龍眼の庭を見られる樣になつた。一體此第二棟の煉瓦壁は私共の住家となつてから三つにしきつて、右左に同じ樣な六疊敷の床を張り疊建具をはめて、前に記した畠の方に位するのを父の居間、龍眼の庭に面するのを母や私達の居どころとしたので、中央の敷石の部を應接所とし、ここに大テーブルを二臺据ゑて椅子を配してあつた。丁度妹背山の舞臺面の樣な有樣であつた。窓は左右各々開かれた。永年の濕氣を含んだ厚壁の斷面には霧を吹いた樣な濕りが見られた。[やぶちゃん注:「妹背山の舞臺面の樣な有樣」浄瑠璃「妹背山婦女庭訓」の「五段目」「山の段」の舞台を指す。私は何度も見ているので、ご存知ない方は、ウィキの「妹背山婦女庭訓」の当該段の解説を読まれたい。]

 私達の遊び場所は家に在つては大抵龍眼の下か、第三の棟。卽ち厨となつてゐる土間であつた。ガランとした土間の隅に寮外の竹の寢臺が淋しくおかれてある許りで外には水甁や臺所道具があつた。そこで寮外は赤い紙や靑い紙で妹の人形にキモノを着せ、手で操つつて人形芝居のまねをして見せた。時には、臺どころの白壁に、龍や佛手柑の繪を落書きして見せてくれたり、土人の村の傳說や、占領された當時の怖ろしかつた物語りを聞かせてくれた。かうして面白く遊んでゐる時に何か母の用事が出來て寮外は立つて行かねばならなくなるので私は時々放りつぱなしにされて大不平だつた。それから又何か氣に入らない事があると私や姊は寮外の髮の毛を手にグルグル卷にしてグイグイ引つぱつた。寮外の髮の毛は、黃色と赤との眞田紐で組み合して垂れてあつた。私らよりも年上ながらおとなしかつた寮外は、髮を引張られても決して手むかひせず、淚をポロポロこぼして、

 アアヨー、アアヨー、

 泣いてる許りだつた。そこへ母でも出て米ると母はキツト寮外の肩を持つて、

 なぜお前方は寮外をいぢめるの。寮外はもう新日本人になつたのですからいぢめてはいけません。

と私共を叱られるのであつた。私共は直き又仲直りした。

 お孃さん。私のウチヘ遊びに來るよろしい。あかい花や、ホヽヅキ澤山なつてゐる!!

 寮外はにこにこしてこんな事を言ふ事もあつた。私はそのホヽヅキの澤山ある寮外の家に行きたくてたまらなかつた。

 父はよく臺北や臺南地方へ御用で出張した。さういふ時には大抵護衞の巡査が三人位づゝ鐵砲を擔いで大形げに[やぶちゃん注:「おほぎやうげに」。]父についてゆくのであつたが母をはじめ私共は父の歸宅する迄は色々と安否をきづかつて待ちこがれるのが常であつた。一つには、樣々の嬉しいお土庶を待つ爲めでもあつた。留守の間は、前の棟から紬の出る[やぶちゃん注:紬(つむぎ)の産地である。]大島のはじめさんと鹿兒島人の山口さんとが每晚二人で泊りに來てくれた。二人ともおとなしい靑年だつた。他の人々は、每夜たんできして步いたり、花あはせ等をやつて惡い夜ふかしをするのに此二人はいつでもそれらの人から離れて本をのぞいたり勉强したりしてゐた。二人とも父から一番信用されてもゐた。はじめさんは額の廣い靑白い鼻の高い、崇高な顏をしてゐた。口數の少ない落着いた人であつた。そのはじめさんがぽつりぽつり、留守の永い每夜を孝行な中江藤樹のおはなしや、大江山の悲しいお姬樣のお話を聞かせて下さつた。お話し半ばから私はポトリポトリと淚が落ちてじいつと見てゐる燈がボーツと霞む樣になつて來るのであつた。[やぶちゃん注:「中江藤樹」(慶長一三(一六〇八)年~慶安元(一六四八)年)は近江国出身の江戸初期の陽明学者で「近江聖人」と称えられた人物。彼は十八の時、父親の訃報に接するや、激しく慟哭し、自らを葬りたいと願ったとされ、二十五歳の時、近江で一人で暮らす母を案じて迎えに行ったところが、母は連れ帰ろうとする申し出を断った。藤樹が子供の頃、母に慕い寄ったところ、「一たび家を出た者は軽々しく帰るものではない」と叱ったほど、躾に厳しい母親であったという。彼の名言「父母の恩德は天よりも高く、海よりも深し」がある(以上はWEB「歴史街道」のこちらの記事に拠った)。「大江山の悲しいお姬樣」大江山酒呑童子伝説で犠牲になった姬らのことであろう。]

 初さんは着てゐる大島紬の羽織の袖から白いハンカチーフを出して優しく私の頰の淚をふきつゝ

 お久さん。やめませうか……

とお聞きになる。

 いゝえ。

 私がグラグラ根のぬけたお椎兒の頭(かぶり)を振つてかういふと又初さんは靜かにその續きを話して下さるのであつた。後にあの初さんは臺北で脚氣衝心でなくなられたが、あの繪に見るヤソの樣なお顏はいまだに私の記億に殘つてゐる。淋しい御正月が濟んで久々で父が歸つていらした時の嬉しさは非常であつた。赤い鼻緖の下駄やビラビラのついたつまみ細工の簪、千代紙、ガラスの箱に入つてゐるお鍋やお皿など臺どころ道具の玩具などは、私を大喜びに醉はせた。

 仲のよかつた弟が失なつてからは誰れと云つて親しいあそび友達もなく、子供心にも、ともすれば、め入り込んで一人ボツンとしてゐる事もあつた。そんな時私の心持ちを知らぬ御友達なり母なりに、何か素つ氣なくでもされるか、意にみたぬ事のあると、私は、自分の心持ちを語る言葉もあらはし樣もなく只不機嫌さうにだんまりで人戀しい心持ちとは反對にプンとすねてしまふ。そしてうら悲しい、誰れも自分の心持を解してくれぬ淋しさにますます瞑想的な偏した氣分におちて行くのであつた。それに渡臺以米體も弱くなつてゐた私は遂にひどいマラリアにかかつてしまつた。最初のマラリアの時には姊も一所に臥してしまつた。何日間か四十度以上の大熱で、枕をならべて熱に浮かされつつ歌つたり笑つたりしてゐた。あの信光の時にお世話になつた病院長さんは、

 奧さん。今度こそお二人のお孃さんは死なせはしません。今度お二人をころしてしまつたら、私もいよいよ醫者はやめです!!

 院長の熱誠が徹つたものか、私共の熱は殆ど同時に退き出した。父は私共の枕元に坐つて、

 藥を飮んで早くよくなつてくれ。今度なほつたら二人共緞子の袴を褒美にかつてやる。

と言はれた。私はあの美しい色艷の緞子の袴をゆめ見つつ一生けんめい苦いキナエンを飮んだ。[やぶちゃん注:キニーネ(オランダ語:kinine)。キニーネ自身の水溶性が低いために塩酸キニーネ或いは硫酸キニーネの形で投与される。「緞子」(どんす)とは、織り方に変化をつけたり、組み合わせたりして紋様や模様を織り出す紋織物の一種。生糸の経(たて)糸・緯(よこ)糸に異色の練糸を用いた繻子(しゅす:絹を繻子織り――縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず一般には縦糸だけが表に現れる織り方――にしたもの)の表裏の組織りを用いて文様を織り出した。「どんす」という読みは唐音で、本邦には室町時代に中国から輸入された織物技術とされる。]

 全快後父からお揃ひに黑のツムギの紋付と、姊はエビ茶、私は緋に近い色の椴子の袴を買つて頂いた。

 その後も私のみは大抵一月に一度位、必らずマラリアをわづらつた。私は持藥の樣にして熱さましのあの苦い丸藥を飮みつづけた。

 生れつき色の黑い方の私の皮膚は、强い日光に燒きつけられ其上病氣つゞきで黃ばみかゝつて、すこしも子供子供した色艷はなく大きな目ばかり光つて腭[やぶちゃん注:「あご」。]はやせ尖つてしまつた。尤も顏色の惡くなるのは私一人でなく、臺灣に行つた人達の顏は皆土色にそまつて頰の赤味はいつか失せてしまふのが常であつた。其中で父丈はつやつやした好い顏色であつた。

 病氣勝ちになつたので私の氣分はますます憂鬱にかたむき、私の多感な感情は日一日と胸の畠につちかはれて行つた。弟を亡して末つ子になつた病身な私は、皆からはれものにふれる樣に愛され、あの嚴しい父でさへも、

 女の子がこんな我座ではしかたがない、すこししつけもしなくては……と心配する母に、

 まあまあすてとけすてとけ病身だし、久の體は信光同樣いつバタリといつてしまふかわからない。

と父はいつも母をなだめて私を叱らせなかつた。全く私の體は病身になりをへて、活發なサラリとした氣分の日は一日もなくなつた。私の偏屈を叱り手はなし、生活の方の心配はなし、我儘いつぱいになつてしまつた。そして豐潤な果物をむさぼる樣に食ひあき、自由に至つてひなびて育てられたのであつた。

 

       

 新領土の淋しい町にもやがて春が來た。

 ある目私共一家族は、表の棟の人々や、寮外や、賄の爺やや皆連れ立つて城外二里許りのところに遊びに行つた。

 父や、其他の澤山の人々は鐵砲をかついでゐる人もあり大きな鋸をさげて行く人もあつた。寮外のかついで居る前うしろの二つの籠の中には、豚の冷肉や、卷酢や、油であげたお菓子、その他いろいろの御馳走が澤山つめられてあつた。渡臺以來こんな風にして打揃つて遊びに出た事のない私共は、大勢の人々にとりかこまれて何の危險はなし、氣分も晴れ晴れとした。城外へふみ出すと、想思樹の黑ずんだ綠色は淡綠色の新芽をふき(想思樹は楊柳に似て、もつと葉の綠のつよいこんもり茂る樹で、黃色いあまい匂ひのする毛糸を束ねた樣な花が澤山さきます)うす紅色の草の花は廣い野一面に覆つてゐた。[やぶちゃん注:マメ目マメ科ネムノキ亜科アカシア属ソウシジュ Acacia confusa 。台湾・フィリピン原産であるが、本邦には緑肥利用を目的として、明治三七(一九〇四)年に台湾から導入され、野生化も進んでいる、現在では小笠原諸島や沖縄諸島でみられるようになっている、とウィキの「ソウシジュ」にあった。]

 角の大きな水牛が方々に放し飼してあつたり、その水牛の岩の樣な背の上に白鷺がよく乘つかつたりしてゐるのを見た。五十羽も百羽ものアヒルの群れを河に放ちがひしてあるのを見、李の花の咲く土人村を過ぎて後、一行は、目的地の竹藪の中を步いてゐた。

 この竹林は孟宗藪の樣な竹の節々に、小さい年代を經た樣々の畸形な筍や、棘(バラ)の樣なものが一面に出てそれのひどいところは綱でも張つた樣、其長い刺が錯雜し到底くぐりぬけて通る事は出來ぬ樣なたちの竹藪であつた。その深い深い竹林の中を、三尺幅位の泉流が透き通るそれは美しい澄んだ色をして淙々と流れてゐるのであつた。其泉は、私の家の土人が每朝每夕一荷づゝ汲みに來るあの泉の上流であつて、流れの底には石ころがいつぱい敷かれてあり、水は一樣に三四尺の深さを持つて陽に透く竹林の色を落してゐるのであつた。

 男の連中は竹藪の中をあちこちして今目の行樂の目的である、この竹の節々のコブや棘の珍らしい形のものを探しては鋸でひいて步いた。歸り路に私は賄の爺やと、はじめさんにかはるがはる負はれて、何だかいつもの沈んだ心地でなくはしやいで嬉しかつた。寮外は御馳走を詰めていつた空の竹籠に白い李の枝をくくりつけて歸つた。翌日から父はお役所から歸つて來ると、七輪に大火を起させて太い針金を何本もまつ赤に燒いては、此の竹の子やおもしろい棘(バラ)の堅い肌へ穴をあけるので夢中であつた。採つて來た竹の節(フシ)は箱に何ばいもあつて、其他には、穴をあける針金やヤスリ小さい鋸其他いろいろの小道具が揃へて父の側におかれてあつた。永い歲月の間を存分ひねにひね風雨にさらされて愛すべき古雅な趣をそなへた大小樣々の此の筍の中には、一寸五分位の長さの中に、根の方のマキマキを一分おき位に十も二十も持つてゐるものさへあつた。この卷々の澤山あるもの程竹の地質が堅く又しあげてから美しい光澤が出るので珍重されるのであつた。穴をあけ終つた筍は今度は卷々タバコを吸ひつけその自然のヤニのけむりで氣長に每日每日いぶしあげ、それから今度は柔かい布で根氣よく艷を出すので、濃いあめ色の樣な光澤の出たパイプに出來上る迄は中々な日數がかゝつた。タバコの嫌ひな父は此筍のパイプの口へ煙草をくはへさせて何本もテーブルのフチヘ差し出してあつた。母も、每日穴あけや、艷ぶきを手傳つた。樣々なおもしろい形のパイプが箱にみちた頃今度は庭の龍眼の樹の根は、每日父と寮外とに鍬でほられ大鋸で切り取られた。此樹の根の形は竹よりもつともつと、珍らしい形のもの許りで臥龍の樣なものもあれば、窓の樣な穴を持つたのもあり獅子の頭の樣なの、天然キセルの樣な形に出來たもの色々樣々あつた。之を一々皆上皮を磨り落し、何かで磨きをかけ穴をあけたりタバコでいぶしたりするので仕上げはいつも母であつた。母はテーブルの傍の椅子に腰かけてひまさへあれば艷ぶきしてゐた。お客があると父は、不器用な手つきでこの自製のパイプに卷たばこをつけて、スーパ、スーパ煙を吸つてはノドにも鼻にもやらず直ぐ口外へ吐き出してしまふのであつた。[やぶちゃん注:「筍」以上の描写から、所謂「たけのこ」ではなく、堅く細い節くれだった竹の根のことを言っていることが判る。]

 私達は時々母に連れられて橫門を出たところの上人の家へ遊びに行く事もあつた。

 其土人の家は嘉義の舊家だつたのがその頃は零落し掛つて廣い屋敷内もよもぎが茂つたり土塀が破れたりしてゐた。そこには五十許りの女主人と九ツ許りの孫娘とたつた二人佗しく住まつてゐた。その土人の婆さんは、品のよいおとなしいお婆さんでどういふところから母と親しくなつたのか知らないが母はいつも慰めたり、九ツになる娘に私達の古い衣の布や、内地からきたお菓子などわけて特つてゆく事もあつた。九ツの娘は纏足されてよくシクシク泣いてゐた。足の骨の固まりきらない中に長い長い布で五指をすつかりまげつけて卷き上げ小さい刺繡の靴をはく習慣をつけないと、よい貴婦人になれないといふのが其老婦人の考へであつた。充分のびた足をまげられる痛さに、その娘はいつも泣いてゐた。私共はウラの庭になつてゐる蜜柑をもいで御豹走になつたりその貧しくなつて今も老婦人の唯一の思出でありほこりである美しい寢臺を見せてもらつたりした。それは美しく塗られた寢臺の四方を美しいぬひとりした種々の布地を見事につぎあはし重ねあはして、几帳の樣に垂れた立派な寢臺で、紫緞子の布團の上には長い塗枕がおかれたりしてあつた。此老婦人は耳に、玉をちりばめた黃金の耳環をはめてゐた。足には、鹿や菖蒲、蘭、鳥、柳の木その他いろいろの花鳥の刺繡を美しく色糸でぬひをしたかゝとの高い小さい小さい靴をはいてゐた。母は、これら近隣の土人の女の人達から日本女大人(チヤボタイジン)とうやまはれてゐた。

 夏のはじめ頃になつて或日市の酒屋へ寮外は、お酒をかひにやらせられた。

 父は頭にヂキ來る日本酒はいやといふので琥珀の樣に色の澄んだ採芳酒(サイワンチユー)(臺灣の地の酒で素燒の壺に二升づゝ入れられその壺には蘭の繪と酒舖の名などすられた赤い詩䇳が張つてあり、口は竹皮で雅にしばられてあつた)を土人の酒舖から買はせてゐたので此日も寮外はいつもの店からこの採芳酒(サイワンチユー)を買つて、市場でかつた鶩(あひる)や野菜を入れた籠と、酒壺とを前後に棍棒でかついで歸りかゝると、日本人の車引きかなにかに運惡く突き當つて、採芳酒の壺も竹籠もメチヤメチヤに叩き落され、なげ飛ばされ寮外は、その大きな强い日本人から散々な目に逢つて、泣き泣き歸つて來た。寮外は足の裏に怪我をし彼れの長い髮の毛はほどけてしまつてゐた。[やぶちゃん注:「採芳酒」不詳。ネット検索では掛かってこない。識者の御教授を乞う。]

 父も母も日本人の車引きのあまりに橫暴なやりかたを聞いて非常に怒つた。倂し相手はどこの誰れか少しもわからないので、何のほどこすすべもなく、父や母は心配と、おそれと痛みと、過ちに對する悔との爲めに、いつ迄も泣きやまぬ寮外を優しく慰さめてゐた。寮外は其後其足の疵に水がは入つてひどくいたみ出し、それに市場にゆく事を非常におそれて行き得ぬ樣になつたので、間もなく彼れは城外の實家へ養生かたがた歸される事となつた。

 寮外のかはりには縣廳から日本人の靑年をよこしてくれたけど、私共は何だか馴染がたく氣兼ねして、人形芝居のあひてをして吳れる人もなく淋しくて堪らなかつた。寮外はそれでも自分の家へ歸つてゐる間一二度遊びに來て、私や姊に、城外の自分の家へ遊びに來いと勸めてやまなかつた。寮外は二月もこなかつた。そして再び寮外が、足の痛みがすつかりなほつて私の家へ來てくれる樣になつたが、其後まもなく、私共一家は嘉義をたつて、臺北へゆかなくてはならないやうになつた。新らしく全島の○○調査局が出來る事になつて、父はさういふ方面には最も精通してゐるので再び選拔されて調査局の創立委員に上げられた爲めであつた。龍眼の樹のかげでは每日每日大きなしつかりした箱を、大工が來てこしらへるのでのこくづや木屑が、あのコブコブだらけの樹の根の間にチラばつた。そして、彫刻したあの分捕品のテーブルや、樣々の器具、美事な彫りものゝ椅子などが、前の棟の人々によつて其箱につめられた。はじめさんも山口さんもそれからあとの連中も皆大抵は父のあとから臺北へよびよせられる人々のみであつた。それらの人々から一足先に出立する私共一家は九月半ばの或朝、城外迄大勢の人達に見おくられて土人の駕籠に乘つた。それから先き半道ばかりの想思樹並木の道を私共の駕籠の兩わきについてどこ迄もどこ迄と見送つて來たものは、かの寮外と、前の支那の老婦人とそれから、はじめさん、山口さんの四人であつた。それからいよいよ麓路へかゝるといふ或る川の橋際迄來た時、そこ迄は乘らず先頭に步いてゐられた父は、駕籠を止めて、

 いや皆さん、よく遠方まで送つて來て下さつた、それではこゝで御別れとしませう。

と言ふと、ついて來て吳れた人々は、父や母に一々別れのあいさつをまたくりかへした。此時寮外は今迄手に持つてゐた私と姊の下駄を私達の駕籠の布團の下へ入れて吳れた。老婦人は一番しまひの母の駕籠の橫ヘピタリ近づいて、

 女大人(チヤボダイジン)!! 私今朝くらい中に超きて砂糖餠ついた。お孃さんたちにあげるよろしい……

 かう言つて、かゝへてゐたその砂糖餠の包みを母に渡し、私と姊の駕籠をのぞき込んで「御孃さんまた出でなさい[やぶちゃん注:「おいでなさい」。]。私たちみな待つてゐる……」

 かういつてポロポロ泣いてくれた。

 大人(ダイジン)! 女大人(チヤボダイジン)! お孃さん!! 私、淋しくなる。皆行つてしまふ……

 寮外はきれぎれにかういつて、しやくり上げてゐた。父や母のこれに答へた言葉は張りきる樣な深い感情の響きを持つてゐた。[やぶちゃん注:「全島の○○調査局」久女は父の公務に関わることなので伏字にしたものである。調べたところ、これは「臨時臺灣土地調査局」と思われる。これは「アジア歴史資料センター」公式サイト内のこちらに、明治三一(一八九八)年八月(久女の年譜の台北へ移った年と合致する)に「臨時臺灣土地調査局官制」(勅令第二百一号)により『設置され、地籍調査及び土地台帳や地図を作成する事務を管轄した。局長は台湾総督の指揮監督を受け、勅任官で当初は民政局長と兼務であり、そのほか事務官、技官、属、技手が配置された。地方支局を置くことができ、その局長には地方長官を充てる規定となっていた』。明治三二(一八九九)年十一月の「臨時臺灣土地調査局分課規程(訓令第三百十二号)により、『局長官房、監督課、調査課、測量課が置かれ、さらに官房には庶務課、会計課が置かれ』、明治三五(一九〇二)年十一月の官制改正(勅令第二百五十九号)に『よって、民政長官との兼務規程が削除されて専任局長が置けるようになった』が、明治三八(一九〇五)年三月三十一日、勅令第七十二号により『臨時台湾土地調査局官制は廃止された』とある。久女の父赤堀廉蔵が内地勤務となったのは、明治三十九年のことである。「麓路」「ふもとぢ」。嘉義は市街は盆地であるが、地形は東部の一部が竹崎丘陵地になっており、地勢は東から西にかけて緩やかな下り勾配を形成しているから、或いは彼らの住んでいたのはこの東方区域であったのかも知れない。「張りきる」の「張」の右には編者のママ注記がある。或いは「漲(みなぎ)りきる」の誤植かも知れない。]

 そこから父は駕籠に乘ると、駕籠はドンドン足早に進み出した。一言も別れの言葉を言ひ出せなかつた私は只だまつて何度も何度も振り返つて見た。想思樹のかげに立つてゐる四人の姿はいつ迄もいつ迄も動かず、朝もやの中に遂に沒してしまつた……

 かくして愛弟の終焉の地嘉義を私共は永久に去つた。弟の遺骨を護りつゝ。

 その後はじめさんは臺北の病院で死なれ、山口さんも日露戰爭の爲戰死してしまはれた。あの砂糖餠をついてくれた老婦人や寮外はもう死んでしまつたらうか。忘れ得ぬ人々として私には懷かしくおもひ出されるのであつた。

 

 

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