杉田久女 梟啼く (正字正仮名版)
[やぶちゃん注:本篇は大正七(一九一八)年十一月発行の『ホトトギス』に発表された。執筆時、久女満二十八歳。
底本は一九八九年立風書房刊「杉田久女全集第二巻」を用いたが、執筆年を考え(幸いにも本文は歴史的仮名遣が採用されている)、恣意的に多くの漢字を正字化した。傍点「ヽ」はブログでは太字に代えた。踊り字「〱」は正字に直した。
杉田久女の若き日の足取りは、先に公開した「南の島の思ひ出」(大正七(一九一八)年七月発行『ホトトギス』掲載)の冒頭注を見られたいが、本篇はそこにちらと出した久女の二歳年下の弟信光(明治二五(一八九二)年生まれ)での追想である。最後のちらりと出るが、久女の父赤堀廉蔵は長野県松本市宮淵の出身であった。本篇の台湾の嘉義での最後のシークエンス当時、廉蔵は四十五、母さよは四十三歳であった。
表題は本文中で文中でひらがなで「ふくろ」と出ること、発表誌が『ホトトギス』であることから、「ふくろなく」と読んでよいと思う。ストイックに注をポイント落ちで附した。なお、公開後に気づいたが、「青空文庫」に新字新仮名で公開されているようだが、底本も異なり、私は一切データを使用していないことをここではっきり申し述べておく。]
梟啼く
私には信光といふたつた一人の弟があつた。鹿児島の平の馬場で生れた此弟が四つの年(その時は大垣にゐた)の御月見の際女巾が誤つて三階のてすりから落し前額に四針も縫ふ様な大怪我をさせた上、かよわい体を大地に叩き付けた爲め心臓を打つたのが原因でたうとう病身になつてしまつた。弟の全身には夏も冬も蚤の喰つた痕の樣な紫色のブチブチが出來、癇癪が非常に強くなつて泣く度に齒の間から薄い水の様な血がにじみ出た。私達の髮をむしつた。だけども其他の時にはほんとに聰明な優し味をもつた誰にでも愛され易い好い子であつた。五人の兄妹の一番すそではあつたし嚴格な父も信光だけは非常に愛してゐた。家中の者右皆此の病身ないぢらしい弟をよく愛しいたはつてやつた。弟は私が一番好きであつた。病氣が非常に惡い時でも私が學校から歸るのを待ちかぬてゐて「お久(しや)しやんお久(しや)しやん」と嬉しがつて、其日學校で習つて來た唱歌や本のお咄を聞くのを何より樂しみにしてゐた。鳳仙花をちぎつて指を染めたり、芭蕉の花のあまい汁をすつたりする事も大槪弟と一處であつた。
父が特命で琉球から又更に遠い、新領土に行かなければならなくなつたのは明治三十年の五月末であつたらうと思ふ。最初臺灣行の命令が來た時、この病身な弟を長途の船や不便な旅路に苦しませる事の危險を父母共に案じ母は居殘る事に九分九厘迄きめたのであつたが信光の主治醫が「御氣の毒だけど坊つちやんの御病氣は内地にいらしても半年とは保つまい。萬一の場合御兩親共お揃ひになつていらした方が」との言葉に動かされたのと、一つには父は腦病が持病で、馴れぬ熱い土地へ孤りで行つてもし突然の事でも起つてはと云ふ母の少からぬ心痛もあり結局母はすべてのものを擲つて父の爲めに新開島ヘ渡る事に決心したのであつた。小中學校さへもない土地へ行くのである爲め長兄は鹿兒島の造士館へ、次兄は今迄通り沖繩の中學へ殘して出立する事になつた。勿論新領土行きの爲め父の官職や物質上の待遇は大變よくなつたわけで、大勢の男女子をかゝへて一家を支へて行く上からは父母の行くべき道は苦しくともこの道を執らなくてはならなかつたに違ひない。私の母は非常にしつかりした行屆いた婦人であつたが、母たる悲しみと妻たる務との爲めに千々に心を碎きつゝあつた。其の苦痛は今尙ほ私をして記億せしめる程深刻な苦しみであつたのである。
八重山丸とか云ふ汽船に父母、姊、私、病弟、この五人が乘り込んで沖繩を發つ日は、この島特有の濕氣と霧との多い曇り日であつた。南へ下る私共の船と、鹿兒島へ去る長兄を乘せた船とは殆ど同時刻に出帆すべく灰色の波に太い煤煙を吐いてゐた。次兄はたつた孤りぼつち此島へ居殘るのである。
送られる人、送る人、骨肉三ケ所にちりぢりばらばらになるのである。二人の兄の爲めには此日が實に病弟を見る最後の日であつた。新領土と言へば人喰ひ鬼が橫行してゐる樣におもはれてゐる頃だつたので、見送りに來た多數の人々も皆しんから別れを惜しんで下さつた。船が碇を卷き上げ、小舟の次兄の姿が次第次第に小さく成つて行く時、幼い私や弟は泣き出した……
眞夜中船が八重山沖を過ぎる頃は弟の病狀も險惡になつて來た。その上船火事が起つて大騷ぎだつた。大洋上に出た船、而かも眞夜中の闇(くら)い潮の中で船火事などの起つた場合の心細さ絕望的な悲しみは到底筆につくしがたい。
ジヤンジヤンなる警鐘の中にゐて、病弟をしつかり抱いた母はすこしも取り亂した樣もなく、色を失つた姊と私とを膝下にまねきよせて、一心に神佛を禱つてゐるらしかつた。
が幸ひに火事は或る一室の天井やべッドを焦したのみで大事に至らず、病弟の容體も折合つて、三晝夜半の後には新領土の一角へついたのである。淋しい山に取かこまれた港は基隆(キールン)名物のモ濛雨におほはれて淡く、陸地にこがれて來た私達の眼前に展開され、支那のジャンクは龍頭を統べて八重山丸の舷側ヘ漕いで來た。
今から二十何年前のキールンの町々は誠に淋しいじめじめした灰色の町であつた。たうとうこんな遠い、離れ島に來てしまつたと云ふ心地の中に、三晝夜半の恐ろしい大洋を乘りすてゝ、やつと目的の島へ辿り着いたといふ不安ながらも一種の喜びにみたされて上陸した私達は只子供心にも珍らしい許りであつたが、これからはなほさら困難な道を取つて、島内深くまだまだ入らなくてはならなかつた。
基隆の町で弟は汽車の玩具がほしいと言ひ出して聞かなかつた。父と母とは雨のしよぼしよぼ降る町を負ぶつて大基隆迄も探しに行つたが見當らず、遂に或店の棚の隅に、ほこりまみれになつて賣れずに只一つ殘つてゐる汽車のおもちやを、負つてゐる弟がめばしこく見つけ、それでやつと氣嫌をなほした事を覺えてゐる。
基隆から再び船にのつて、彭湖島を經て臺南へ上陸したのであるが、彭湖島から臺南迄の海路は有名の風の惡いところで此間を幾度となく引返し遂々彭湖島に十日以上滯在してしまつた。彭湖島では每日上陸して千人塚を見物し名物の西瓜を買つて船へ歸つたりした。漸くの思ひで臺中港へ着き、河を遡つて臺南の稅關へついた。そこで始めて日本人の稅關長からあたたかい觀迎をうけ西洋料理の御馳走をうけたりパイナップルを食べたりした。心配した弟の體も却つて旅馴れたせゐか變つた樣子もなく頗る元氣であつた。[やぶちゃん注:「基隆」台湾の北端の港湾都市。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「彭湖島」(ほうことう)は台湾島の西方約五十キロメートルにある台湾海峡上の島嶼群である澎湖(ペンフー)諸島の主島。「臺南」はここ。]
臺南から目的地の嘉義縣廳迄はまだ陸路を取つて大分這入らねばならなかつた。困難はそこからいよいよ始まつた。汽車は勿論なし土匪は至るところに蜂起しつゝあつた物騷な時代で、澤山な荷物とかよわい女子供許りを連れて愈々危地へ入つて行く父の苦心は如何許りで有つたらうか。私たちは土人の駕籠に乘せられて、五里ゆき三里行き村のあるところに行つては泊り朝早く出て陽のある中に城下へ辿りつくと言ふ風に樣々な危ない旅をしたのであつた。ある時には靑田の續いた中をトロ[やぶちゃん注:トロッコ。]で走り、或時は一里も二里も水のない石許りのかわいた磧[やぶちゃん注:「かはら」。]を追つかけられる樣に急ぎ、又時には强い色の芥子畑や、わたの樣な花の咲く村を土人の子供に囃されつゝ過ぎた事もあり、行つても行つても、今の樣な磧の(或場所の石を積み上げてあるところなどは土匪でも隱れてはしないかと危ぶみ怖れつゝ)果てに雲の峰が盡きず村も三里も五里もない樣な處もあつた。或時には豪雨で橋の落ちた河へ行きあはせた事もあつた。兩岸には奔流を空しく眺めてゐる日本人や土人が澤山ゐた。郵便夫もゐた。父は裸になつて河をあつちこち泳いで深さを極め、私共は一人一人駕籠かきの土人に負さつて矢の樣に早い河を渡してもらふ事もあつた。奔流に足を取られまいとして、底の石を探り探り步む土人の足が危ふく辷りかけてヒヤリとした事も一度や二度ではない。竹藪の中の荒壁のまゝの宿屋(村で一軒しかない日本人の宿)に佗びしく寢た夜もあつた。丁度新竹から先は都合よく嘉義へ行く軍隊と途中から一處になつたので夜も晝も軍隊と前後して、割合危險少なく幾多の困難を忍んで漸く嘉義についたのは七月の初旬であつた。[やぶちゃん注:「嘉義縣」は直線で台南の北北東五十二キロメートルの位置にある(前の地図を参照)。「土匪」本来は、徒党を成して掠奪・暴行などを行う反社会的な悪党としての賊徒を指す言葉であるが、近代日本では、特に侵略をした中国に於ける反日の非正規武装集団(ゲリラ)を指した。「新竹」はここ。意想外に後戻りした遙かに北で、直線でも嘉義縣からは百八十キロメートルも北北東に当たる。]
やれやれと思ふまもなく長途の困難な旅に苦しめられた弟はどつと寢付いて終つたのである。日本人といつても數へる程しかなくやつと縣廳所在地といふのみで上級の官吏では家族を連れてゐるのは私共一家のみといふ有樣だつたので、私共は縣廳の内の家に這入り病弟は母が付添つて市の外れの淋しい病院へ入れられた。そこはもと廟か何かのあとで、鎖臺當時野戰病院にしてあつたのを當り前の病院に使つてゐるので軍醫上り許りであつたし外には醫師も病院もなかつた。煉瓦で厚く積まれた病院の壁は、砲彈の痕もあり、くづれたところもあり、病室と言つても、只の土間に粗末な土人の竹の寢臺をどの間も平等に、おかれてある許り、廊下もなくよその病人の寢てゐる幾つもの室を通つて一番奧の室が弟の特別室であつた。隣室には中年增の淪落[やぶちゃん注:「りんらく」。落魄(おちぶ)れて身を持ち崩すこと。]の女らしいのが靑い顏をして一人寢てゐた。弟の室の裏手の庭は草が丈高くはえて入口には扉も何もなく、くづれかけた樣な高い煉瓦塀には蔓草が這ひまはり隣りの土人の家の大樹が陰鬱な影を落してゐた。院長などは非常に一生懸命盡して下さつた。弟の身動きする度ギーギーなる竹の寢臺を母はいたましがつた。弟は臺南で食べた西洋料理を思ひ出してしきりにほしがつた。馴れぬ七月中ばの熱帶國の事故、只々氷をほしがつた。枕元の金盥には重湯とソップ[やぶちゃん注:スープ。]を水にひやしてあつたが水は何度取り替へてもぢきなまぬる湯の樣になる。信光は母のすすめる重湯を嫌つて
みづう、みづう
と冷たいもの許りほしがつた。この離れ島へ遠く死にに連れて來た樣に思はれる病人の爲め出來る丈けの事をしてやり度いと思つても金の山を積んでもここでは仕方がなかつた。父は臺南へむけ電報で氷を何十斤か何でも非常に澤山注文した。知事さんのコックに賴んで西洋料理を作らせた。其時許りは弟も非常に悅んだらしいけど、「信やお上り?」と聞いた母に、只うんと二三度うなづいた丈けで、力ない目にじつと洋食の皿をみつめたまゝ、
あとで。と目をつぶつてしまつた。小さな體はいたいたしく瘦せおとろへて、藥ももうヌ吞んでも吞まなくてもよい樣な賴みすくない容體に刻一刻おちていつた。母は夜も一目も寢ず帶もとかず看護した。信(のぶ)は體を方々いたがつた。母がま夜中に、このあはれな神經のたかぶつた病兒の寢付かぬのを靜かになでつゝ
信や、くるしいかい?
と聞くと
うん。苦痛をはげしく訴へず只靜かにうなづく。
ぢき直りますよ。直つたらあの嘉義(ここ)へ來る途中の田の中にゐた白鷺を取つて上げますからね。と慰めると
うん。とまた。その頃はもう衰弱がはげしくて、口をきくのも大儀げであつたがしつかり返事してゐたさうである。子供心にも直り度かつたと見えて死ぬ迄藥丈けは厭やといはずよく吞んだ。體溫器も病氣馴れた子でひとりでにわきの下に挾んでゐた。夕方になると、土人の家の樹に啼く梟の聲は脅かす樣な陰鬱の叫びを、此廢居に等(ひと)しいガラン堂の病院にひびかせ、その聲は筒拔けに向うの城壁にこだまを返して異境に病む人々の悲しみをそそつた。
病苦で夢中といふよりも死ぬ迄精神のたしかであつた弟は、この夕方の梟の聲を大層淋しがつた。見も知らぬ土地に來てすぐ佗しい病室に臥した弟は只父母をたより、姊をたより、私をたより、二人の兄達を思ひつゝ身も魂も日一日と、死の神の手にをさめられようとして、何の抵抗もし得ず、尙ほ骨肉の愛惜にすがり、慈母の腕に抱かれる事を、唯一の慰めとしてゐるのであつた。不慮の災からして遂に夭折すべき運命にとらはれてしまつた不幸な弟、いたはしいこの小さな魂の所有者が我儘も病苦もさして訴へず、ギーギー鳴る竹の寢臺に橫たはつてゐるのを見て、母はにじみ出る淚をかくしつゝ弟を慰め、一日を十年の樣な心持で愛撫しいとほしみつゝ最後の日に近づいてゆくのであつた。父は晝は病院から出勤し、夜は又病院で寢る爲め私と姊とは淋しい縣廳の中の家に召使とたつた三人每夜寢てゐた。晝はムクの木の下に姊と行つて木の實をひろひ、淋しい時には姊と病院の方を眺めて歌をうたつてゐた。私の齒はその頃丁度ぬけ替る時で、グラグラに動いてゐる齒が何本もあつた。一生けんめい搖すつてゐた齒がガクリとわけなく技けた或朝だつた。病院から姊と私に早く來いとむかひが來た。
二三目前に、弟の厭やがり父母もどうせ死ぬものならといやがつてゐた、齒の根の膿を持つたところを院長が切開したところが、いつ迄も出血が止らず、信は力ない聲で、
いやあ、いやあ、切るのいやあ。
と泣いてゐたがたうとう死ぬ迄水の樣な血が止らなかつた。前日私の行つた時はそれでも、私を喜んで大きく眼をあけてゐた。弟の病氣が重いとは知りつゝも死を豫期しなかつた私達は胸をドキドキさせてかけつけた。やつと間にあつた。院長も外の軍醫も皆枕元に立つてゐた。「それ二人とも水をおあげ」と母が出した末期の水を、夢中で信(のぶ)の唇にしめしてやつた。何とも書きつくせぬ沈默の中に、骨肉の四人の者は、次第にうはずりゆく弟の上瞼と、ハツハツハツと、幽かに外へのみつく息を見守つてゐた。母は靜かに瞼をなでおろしてやつた……
のぶさん!! 苦しくない樣に、寢られるお棺にして上げるわ。
私は、叫んだ。今迄の沈默はせきを切つて落した樣に破られて、すすり泣きの聲が起つた。
その時八つだつた私の胸に之程大きく深く刻まれた悲しみはなかつた。聲いつぱい私は泣いた。
淋しいふくろが土人の家の樹で啼いてゐた。其の日の夕方しめやかに遺骸の柩を守つて私共は縣廳の官舍へ歸つて來た。其當時の嘉義にはまだ本願寺の布敎僧が只一人ゐるのみであつた。十目間の病苦におもやせてはゐたが信のかほにはどこか稚らしい可愛い俤が殘つて、大人の死の樣に怖い、いやな隈はすこしもなく、蠟燭を燈して湯灌し經帷子をきせると死んだ子の樣にはなく、またしてもこの小さい魂の飛び去つた遺骸を悼たんだのであつた。棺は私達の希望した寢棺は出來ないで、坐る樣に出來てゐた。[やぶちゃん注:「稚らしい」読み不詳。せめも「をさなごらしい」と読んでおく。]
お葬式は縣廳の廣庭であつた。信光の憐れな死は嘉義の日本人の多大な同情を誘つて、關係のない人々迄、日本人といふ日本人は殆どすべて會葬してくれた爲め、犬きな椋のこかげの庭はそれらの人々でうづもれた。かの病院長も來て下さつた。郊外の火葬場――城門を出て半丁程も行つた佗びしい草原の隅の小山でした――へは父と、極く親しい父の部下の人々が十人許りついて行つてくれた。
火をつける時の胸の中はなかつた。ここ迄來てあの子をなくすとは……
と、火葬場から歸つて來た父は男泣きに鳴泣いた。母も泣いた、姊も私もないた……
信はたうとうあの異境で死んでしまつた。
五寸四角位な白木の箱にをさめられた遺骨は白の寒冷紗につゝまれて、佛壇もない、白木の棚の上に安置された。信のおもちやや洋服は皆棺に入れて一處にやいてしまつた。
せめて氷があつたら心のこりはないのに……
と父母を嘆かしめた。その氷は信光の死後漸く臺南からトロで屆いた。信の基隆で買つたあの汽車のおもちやもサーベルも、あとから來た荷物の中から出て、また新らしく皆に追懷の淚を流させた。
父は思出のたねとなるからとて、信のつねに着てゐた、辨慶縞のキモノも水兵服も帽もすべて眼につくものは皆燒き捨てゝそこいらには信の遺物は何もない樣にしてしまつた。鍾愛おかなかつた末子の死は、一家をどれ程悲嘆せしめたかわからなかつた。
姊と私とは每日草花をとつて來ては信の前へさし、バナヽや龍眼(りゆうがん)肉やスーヤー(果物)や、お菓子でも何でも皆信へおそなへした。[やぶちゃん注:「龍眼」ムクロジ目ムクロジ科リュウガン属リュウガン Dimocarpus longan。「スーヤー(果物)」不詳。可能性としては、モクレン目バンレイシ科バンレイシ属バンレイシ Annona squamos かも知れない。和名は中国語名を転用したもので、「蕃荔枝」(ファンリージー、拼音: fānlìzhī)であるが、これが台湾語では、実の形状が螺髪を有する仏像の頭部に見えることから「釋迦」と呼ばれ、これは中国語で「シーチャー」(拼音: shìjiā)、台湾語では「シェッキャ」(sek-khia)と発音し、この「スーヤ―」に近いからである。]
父も母も多く無言で、母は外出などすこしもせず看護(みと)りつかれて、半病人の樣なあをい顏をしつゝわづかに私達の世話をしてゐた。
土人の子の十五六のを召使つてゐたけれども友達はなし父母は悲しみに浸つてゐ、弟はなし、私と姊とは、龍眼の樹かげであそぶにも、學校へ行くにも門先へ出るにも姊妹キツと手をつないで一緖であつた。縣廳の中の村に私達四五人の日本人の子供の爲めに整へられた敎場へ五脚ばかしの机をならべて、そこへならひにゆくのにも二人は、土人の子の寮外に送り迎へされてゐた。全くまだ物騷であつた。或夜などは城外迄土匪が來て銃聲をきいた事もあつた。夕方など私達が門の前で遊んでゐると父は自分で出て來て、
靜も久も家へもうおはひり。かぜをひくといけないと、心配しては連れもどつて下さつた。嚴格一方の父も氣が弱つた。廟をすこし修繕して疊丈け[やぶちゃん注:「だけ」。]敷いたガランとした、窓只一つのくらぼつたい家は子供心にも堪へられぬ淋しさをかんぜしめた。
城壁のかげの草原には草の穗が赤く垂れ、屋根のひくい土人の家の傍には背高く黍が色づき、文旦や佛手柑や龍眼肉が町に出るころは、ここに始めての淋しい秋が來た。每夜、城外の土人村からは、チャルメラがきこえ夜芝居――人形芝居――のドラや太鼓などが露つぽい空氣を透してあはれつぽくきこえて來た。[やぶちゃん注:ムクロジ目ミカン科ミカン属シトロン変種ブッシュカン Citrus medica var. sarcodactylis。インド東北部原産で、果実は芳香があり濃黄色に熟すが、長楕円体を成す上に先(下方)が細い指のように分岐する。名はその形を合掌する両手に見立てて「仏の手」と美称したものである。本邦の南日本で主として観賞用に栽植される。食用にもするが、身が少ないので、生食には向かず、砂糖漬けなどにする。私も小さな頃、母の実家の鹿児島で食べた記憶がある。]
遠く離れてゐる二人の兄に細々と弟の死を報じた手紙の返事が來たのは漸く初秋のころであつたらう。
次兄は大空にかゝつてゐる六つの光りの强い星が一時に落ちた夢を見たさうであるし、鹿兒島にゐた長兄は、つねのまゝのゴバン縞のキモノで遊びに來たとゆめ見て非常に心痛してゐるところに電報が行き、いとま乞ひに來たのだらうとあとで知つた由。二人の兄共殊に愛してゐた末弟のあまりにももろい死に樣に一方ならず力落ししたのであつた。
それから丸一年を嘉義に過し其後臺北に來、東都に歸つた後も尙ほ暫らく弟の遺骨はあの白布の包みのまゝ棚の上に安置して、弟の子供の時の寫眞と共々、いつも一家のものの愛惜の種となつてゐたが、櫻木町に居を定めて後、一年の夏、父母にまもられて、父の故國松本城山の中腹にあつく祖先の碑の傍らに葬られた。
弟が死んでからもう二十二年になるが、あの樣な地で憐れな死に樣をした弟の事は今も私の念頭を去らず、死に別れた六つの時の面影が幽かながらなつかしく思ひ出されるのである。
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