南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(16:鳶)
〇鳶、倭漢三才圖會卷四十四に、愛宕神鳶を使者とすと云ひ、十訓抄に天狗鳶の形を現して小兒に苦られし話有り、今昔物語に、源光公、五條道祖神祠の柹樹に現ぜる佛を睨み詰たるに大鳶と成て落ちたりと載せ、戴恩記に、魔法成就の時、鳶來り鳴くと云たり、餘り評判の宜しからぬ樣なれど、金鵄瑞を呈して、長髓彥伏誅せし例もあれば、ずつと大昔しは、鳶も多少尊崇されしと見ゆ、印度には「ラマ」王の美后「シタ」、惡鬼王「ラヷナ」に奪ひ去らるゝ途上、鳶出でゝ「ラヷナ」と鬪ふ話あり、(Raevenshaw, Journal of the Asiatic Society of Bengal, vol. xi. p. 1124, 1842)。非列賓島は鳶が水を蹴て作りし所と云古傳有り(F. Colin, ‘Historia Filipinas,’ Madrid, 1663, p. 64)
[やぶちゃん注:引用注記の「(Raevenshaw, Journal of the Asiatic Society of Bengal, vol. xi. p. 1124, 1842)」の部分は底本では、『(Raevenshaw, Journ. As. Soc. Bengal, vol. xi p. 1124, 1842)』となっている。初出はと見ると、『(Raevenshaw, Journ. As. Soc. Bengal ’, vol. xi p. 1124, 1842)』となっており、底本と初出を見るに、明らかに雑誌の縮約表記で、熊楠には判り切ったものらしいが、記号の脱落も見られ、注記としては、甚だ不親切であるので、正規表現に直されてある平凡社版「選集」のそれで特異的に訂した。
「倭漢三才圖會卷四十四に、愛宕神」(あたごしん)「鳶を使者とすと云ひ」鳶(姿も小さな時から私のお気に入りの「トンビ」、タカ目タカ科トビ亜科トビ属トビ亜種トビ Milvus migrans lineatus )の博物誌も含めて、私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鳶(とび) (トビ)」を参照されたいが、良安は鳶が嫌いだったらしく、評釈部では不当に貶されている。以下に引く。
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△按ずるに、鴟、狀(かたち)、鷹に似て赤黃色、羽毛、婆娑(ばしや)として、尾、扇を披(ひら)くがごとし。其の尾羽も亦、箭羽(やばね)に造り、之れを「礒鷲羽(いそわしのは)」と名づく。しかれども、最も下品なり。脚、灰青色、爪、黑し。風、吹けば、則ち、高く飛び舞ふ。毎(つね)に鳥の雛(ひな)・猫の兒(こ)等(など)を捉(と)る。或いは、人、提(ひつさ)げ擕(たづさ)へる所の魚物(うをもの)・豆腐等(など)を攫(つか)む。總(すべ)て鳶・鴉は、害、有りて、益、無し。而(しか)も、多く、之の鳥、有り。人の爲めに、憎(にく)まる[やぶちゃん注:ママ。]所(ところ)なり。然るに、俗傳に曰はく、「愛宕(あたご)の鳶」・「熊野の烏」、以つて神使と爲す。未だ、其の據(よるところ)を知らざるなり。鳴く聲、「比伊與呂與呂(ひいよろよろ)」と曰ふがごとし。朝、鳴けば、卽ち、雨、ふり、暮、鳴けば、即ち、晴る【「三才圖會」の說と少し異なれり。】。
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正に嫌悪丸出しである。「愛宕神」(以下は同前リンク先で私が附したものを再加工してある)愛宕神社は全国に約九百社ほどあるが、その総本社は京都府京都市右京区嵯峨愛宕町にある愛宕神社(旧称は阿多古神社)。サイト「神使の館」の「鳶~トビ(1) 愛宕社(大豊神社内)と鳶」によれば(大豊神社は京都市左京区鹿ヶ谷宮ノ前にある)、総社である愛宕神社は『迦遇土槌命(カグツチノミコト)を主祭神として、広く全国に火伏せ(防火)の神として知られている』。この『大豊神社の末社「愛宕社」には「鳶」の像がある』が、『元来、愛宕神社(本社)の神使は、神社の創建者である和気清麻呂が猪に助けられたとの故事などに因んで、「猪」とされている』。『しかし、この大豊神社では、先代の宮司が境内の末社「愛宕社」に、愛宕山の天狗がかぶる鳶帽子から、鳶を神使として像を建てたとされる』(写真有り。但し、そのキャプションによれば、昭和四七(一九七二)年と恐ろしく新しい)『すなわち、鳶像は、新しい由縁が創られて、それに基づいて建てられた』。『それなら、『愛宕社が防火鎮火にご利益のある社であることに因んで、「火消し衆」のことを「とび」ともいうので、防火を祈って鳶像が奉納された』としても勘弁してもらえるかもしれない』とある。同サイトの「鳶~トビ(2) 神武天皇の金鵄(キンシ~金色の鳶)」には、『神武天皇が東征の折、弓の先に金色の鳶(金鵄)が飛来して勝利をもたらした』とし、福岡県福岡市博多区月隈にある八幡神社の『境内に、「神武天皇」と彫られた石柱上に鳥がとまっている碑があ』り、『この鳥は、日本書紀に載る「金鵄(キンシ)」と呼ばれる「金色の鳶(トビ)」』とあって、『神武天皇(カムヤマトイワレビコノミコト)が日向(宮崎県)から東征の途次、長髄彦(ナガスネヒコ)との戦いで苦戦していると、金鵄が天皇の弓の上端に飛来し、金色のまばゆい光を発して敵兵の目をくらまして勝利をもたらしたという』。『神武天皇は、その後、大和を平定して橿原(かしはら)で初代天皇として即位されたとされる』。『現在は廃止されているが』、明治二三(一八九〇)年に(引用元は一年誤っている)『制定された軍人の最高位の勲章、「金鵄勲章」(キンシクンショウ)はこの伝承に由来する』とし、『この碑は、皇紀』二千六百『年を記念して昭和』一五(一九四〇)『年に建てられたものと思われる』とはある。しかし、嘗て調べた中村和夫氏のサイト「鳥のことわざ」の「鳶(トビ)」(現存しない模様)によれば、「愛宕殿鳶となるれば鳶の心あり」「太郎坊も鳶となりては鳶だけの知惠」という二つの諺が紹介されており、『京都市上嵯峨北部の愛宕山の山頂には愛宕神社があり、雷神を祭られ、防火の神として信仰されている。ここには愛宕太郎坊と云う大天狗に率いられた天狗たちが住んでいるとされた』が、『「愛宕殿」とはこの天狗を指して、これがトビになってしまえば、それなりの心』しか持たない、『つまらぬものなってしまうという意で、いずれもトビを軽蔑している』ともあったのだ。愛宕と鳶の関係は、「鳶」の本文で良安が言い、熊楠も指示するように、
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『天人熊命(あまのひとくまのみこと)、化(け)して、「三軍(みむろ)の幡(はた)」と成る。而して後(のち)、神武天皇、長髓彦(ながすねひこ)と戰ひて、勝たず。時に、金色の鳶、飛び來たりて、皇(わう)の弓弭(つのゆみ)[やぶちゃん注:通常は「弭」一字で「ゆはず」と読む。弓の両端の弦をかけるところ。ここは無論、それを上に掲げた部分。]に止まり、狀(かたち)、流るる電光(いなびかり)のごとし。由(より)て、敵軍、皆、迷-眩(めくら)み、天皇、悅びて問(のたま)はく、「何れの神や。」と。奏して曰はく、「天照大神より勅を奉り、鳶に化して來たる。吾、此の國に住みて、軍戰の業(わざ)を護(まも)らん。」と。又、問(のたま)ひて曰はく、「何くの處に住まんと欲す。」と。卽ち、奏して曰はく、「山背國(やましろのくに)怨兒(あたごの)山に住むべし。」と。仍りて、其の山に住む。天狗神(てんぐがみ)を領(りやう)せしむ。』と。【小説と雖も、附會なれども、之(ここ)に記す。】。
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(前半は「日本書紀」の記載に基づく)の俗伝に基づくとは考えられるが、「金鵄」がトビに同定比定されて後、特に種としてのトビが「愛宕の神の使い」とされるようになったのが、いつの時代からなのかが、よく判らぬ(「とび」という呼称自体(但し、本当に本種に限定していたかどうかは私は怪しいとは思う)は奈良時代に既にある)。江戸時代よりも前の、どこまで溯れるのか、御存じの方は御教授願いたい。
「十訓抄に、天狗鳶の形を現して小兒に苦られし話あり」「十訓抄」は私は「じつきんせう(じっきんしょう)」と読むことにしている。鎌倉前・中期に成立した教訓説話集。写本の一つである妙覚寺本奥書によって、六波羅二﨟(ろくはらにろう)左衛門入道とするのが通説で、これは鎌倉幕府御家人湯浅宗業(むねなり 建久六(一一九五)年~?:紀伊保田荘の地頭で、在京して六波羅探題に仕えた。弘長二(一二六二)年に出家し、かの明恵に帰依し、智眼と号した)の通称ともされるが、一方で公卿菅原為長(保元三(一一五八)年~寛元四(一二四六)年:鎌倉初期の学者。文章博士・参議兼勘解由長官で有職故実に通じた)とする説もある。建長四(一二五二)年の序がある。これは、その「第一 可定心操振舞事」(心の操(みさを)を定むべき振舞(ふるまひ)の事」の中の一条。私は既に『柴田宵曲 續妖異博物館 「佛と魔」(その1)』の注で原典を電子化している(リンク先には宵曲の現代語訳も載る)。三種の諸本を参考に私が独自に読み易く操作したもので、「諸國里人談卷之二 ㊃妖異部 成大會」の私の注でも再掲してあるので、流石にここで屋上屋はしない。また、同話を原拠として書かれた、私の「小泉八雲 天狗の話 (田部隆次訳)」(作品集「霊の日本」所収)も是非、読まれたい。
「今昔物語に、源光公、五條道祖神祠の柹樹に現ぜる佛を睨み詰めたるに大鳶となって落ちたり、と載せ」「今昔物語集」卷第二十の「天狗現佛坐木末語第三」(天狗、佛と現じて木末(こずゑ)に坐(ま)す語(こと)第三)。主人公源光(ひかる 承和一二(八四五)年~延喜一三(九一三)年)は平安前期の公卿で、仁明天皇の皇子(第三源氏)。官位は正二位・右大臣。「西三条右大臣」と号した。なお、彼は昌泰四(九〇一)年の「昌泰の変」に於いて、藤原時平と結託し、菅原道真を失脚させた張本人の一人とされ、道真の後任として正三位・右大臣に叙任したが、延喜十三年三月十二日、鷹狩に出た際、不意に塹壕の泥沼に転落して溺死し、遺体が上がらなかった。世人はこれを道真の怨霊の仕業として畏れ慄いたと伝わる。享年六十九。
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今は昔、延喜の天皇の御代に、五條の道祖神(さへのかみ)の在(まし)ます所に、大きなる成(な)らぬ[やぶちゃん注:実の成らない。]柿の木、有りけり。[やぶちゃん注:当時、不実の柿の木は異界を現じた標識であり、霊妖の宿るものと考えられていた。]
其の柿の木の上に、俄かに、佛、現はれ給ふ事、有りけり。微妙(めでた)き光を放ち、樣々の花などを降らしめなどして、極めて貴(とうと)かりければ、京中の上中下(かみなかしも)の人、詣で集まる事、限り無し。車も立て敢へず、步人(かちびと)、は云ひ盡すべからず。此の如き、禮(をが)み喤(ののし)る間、既に、六、七日に成りぬ。
其の時に、光の大臣(おとど)と云ふ人、有り。深草の天皇[やぶちゃん注:仁明天皇。御陵が現在の京都府京都市伏見区深草に営まれて深草陵とされたことから、異名として深草帝と称された。]の御子(みこ)也。身の才(ざい)、賢く、智(さとり)、明(あきら)か也ける人にて、此の佛の現じ給ふ事を、頗る心得ず思ひ給ひけり。
「實(まこと)の佛の、此(か)く俄かに木の末に出で給ふべき樣無し。此れは、天狗などの所爲(しよゐ)にこそ有るめれ。外術(げずつ)は七日には過ぎず。今日、我れ、行て見む。」
と思ひ給ひて、出で立ち給ふ。日の裝束[やぶちゃん注:晴れの装束。衣冠束帯。]、直(うるは)しくして、檳榔毛(びんらうげ)の車に乘りて、前驅(ぜんくう)など直しく具して、其の所に行き給ひぬ。
若干(そこばく)の諸(もろもろ)集まれる人を掃ひ去(の)けさせて、車を搔き下(おろ)して、榻(しぢ)を立てて、車の簾(すだれ)を卷き上げて見給へば、實(まこと)に木の末に、佛、在(まし)ます。
金色の光を放ちて、空より樣々の花を降らす事、雨の如し。見るに、實(まこと)に貴き事、限り無し。
而るに、大臣、頗る怪く思(おぼ)え給ひければ、佛に向かひて、目をも瞬(まじろ)がずして、一時(ひととき)[やぶちゃん注:現在の二時間。]許り守り給ひければ、此の佛、暫くこそ、光を放ち、花を降らしなど有りけれ、强(あながち)に守る時に、侘(わび)て[やぶちゃん注:どうにも辛抱できなくなったものか。]、忽ちに大きなる屎鵄(くそとび)[やぶちゃん注:現行では、奈良時代には、これはトビに似たタカ目タカ科ノスリ属ノスリ Buteo japonicus を指したとされている。]の、翼、折れたるに成りて、木の上より、土に落ちて、ふためくを、多くの人、此れを見て、
「奇異也。」
と思けり。小童部(こわらはべ)[やぶちゃん注:子供たち。]寄りて、彼の屎鵄をば、打ち殺してけり。
大臣は、
「然(さ)ればこそ[やぶちゃん注:思った通りじゃ。]。實の佛は、何の故に、俄かに木の末には現はれ給ふべきぞ。人の此れを悟らずして、日來(ひごろ)、禮(をが)み喤(ののし)るが、愚かなる也。」
と云ひて、返り給ひにけり。
然れば、其の庭[やぶちゃん注:その場。]の若干(そこばく)の人、大臣をなむ讚(ほ)め申しけり。世の人も、此れを聞きて、
「大臣は賢かりける人かな。」
と云ひて、讚め申しけりとなむ、語り傳へたるとや。
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本話は「宇治拾遺物語」に同文的同話が載る(三十二話「かきの木に佛現ずる事」。「やたがらすナビ」のこちらで読める)。
「戴恩記に、魔法成就の時、鳶來り鳴くと云たり」「戴恩記」俳人・歌人・歌学者であった松永貞徳著になる歌学書。正保元(一六四四)年頃の成立で、天和二(一六八二)年に板行された。著者の師事した細川幽斎・里村紹巴らの故事や、その歌学思想を平易に述べているもの。ネットで原本が見られるものの、草書崩しでとても探す気にならない。悪しからず。
「金鵄」(きんし:金色に輝く鳶。)「瑞を呈して長髓彥」(ながすねひこ)「伏誅せし例もあれば」前に「和漢三才図会」でも示したが、「日本書紀」神武天皇の条の以下。
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十有二月(しはすの)癸巳朔丙申、皇師、遂に長髓彥を擊ちて、連(しきり)に戰へども、取-勝(か)つこと能はず。時に忽-然(たちまち)、天(にひ)陰(し)けて、雨-冰(ひさめ)ふる、乃(すなは)ち、金色(こがねいろ)の靈(あや)しき鵄(とび)有りて、飛び來りて、皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止まれり。其の鵄、光(て)り曄-煜(かかや)きて、狀(かたち)、流電(いなびかり)の如し。是に由りて、長髓彦が軍卒(いくさびと)、皆、迷(まど)ひ眩(ま)きて、復た、力(きは)め戰はず。長髓は、是れ、邑(むら)の本の號なり。因りて亦以つて人の名と爲す。皇軍の鵄(とび)の瑞(みづ)を得るに及びて、時の人、仍りて「鵄の邑」と號(なづ)く。今、鳥見(とみ)と云ふは、是、訛れるなり。
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訓読は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和六(一九三一)年岩波書店刊黒板勝美編「訓讀 日本書紀 中卷」を参考にした。「鳥見」は現在の奈良県奈良市富雄元町(とみおもとまち)(グーグル・マップ・データ)を中心とした奈良西部の広域に比定される。ウィキの「富雄町」(とみおちょう:旧生駒郡富雄村/富雄町)によれば、この神話により、『当地を鵄邑(とびのむら)と名付けた』。『後世、鵄邑は鳥見郷または鳥見庄と呼ばれるようになり、さらに変化して富雄村となった』とある。
『「ラマ」王』ラーマ(デーヴァナーガリー)。インドの叙事詩「ラーマーヤナ」の主人公で、イクシュヴァーク王朝に生まれた薔薇色の瞳を持つ神話最大の英雄で、インドの理想君主像であり、ダルマを体現した存在とされる。
『美后「シタ」』シーターは「ラーマーヤナ」のヒロイン。生まれ故郷はジャナカプール(現在のネパール)とされる。ジャナカ王の娘で、ラーマ王子の妃。しかし、ダンダカの森で羅刹王ラーヴァナ(熊楠の言う『惡鬼王「ラヷナ」』。十の頭、二十の腕、銅色の目、月のように輝く歯と山のような巨体を持つとされるラークシャサ(羅刹)の王で、ランカー島(現在のセイロン島)を本拠地とし、ラークシャサ族を治めたとされる)に攫われ、ラーマがシーターを奪還するための戦争が「ラーマーヤナ」の主題ともなっている。小惑星「シーター」(244 Sita:火星と木星の間にある小惑星帯(アステロイドベルト:asteroid belt)の中の一つ)の命名の由来となり、宮崎駿のアニメーション「天空の城ラピュタ」のヒロインであるシータ(英語表記:Sheeta)のモデルともされる。
「Raevenshaw, Journal of the Asiatic Society of Bengal, vol. xi. p. 1124, 1842」雑誌合巻原本は見つけたものの、どこに記載があるか、判らなかった。悪しからず。筆者は英領インド帝国下のインド東部のオリッサの地方長官を務めたトーマス・エドワード・ラヴェンショウ(Thomas Edward Ravenshaw 一八二七年~一九一四年:在任期間は一八六五年から一八七八年)ではないかと思ったが、雑誌の刊行年からは、あり得ないか。【同日削除・追記】先ほど、何時も情報を戴くT氏よりメールを頂戴した。私が見たのは「Part1」で、所載しているのは「Part2」のこちらであった。
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On the road a large kite attacked Ravana, who, however, having placed Seta under a tree called Sensoopah, in the orchard called Usoka, succeeded in wounding the kite. In the mean time Rama and Luchmun returned to the hut, and not being able to find Seta any where, they were overcome with grief. Coming to the place where the kite lay half-dead, the kite told them that Ravana had carried her off to Lunka.
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「the kite」が鳶である。さらにT氏から、『この文章の標題部分 p1112 に、The Avatars of Vishnoo. An abstract Translation from the Pudma Pooran. By E. C. Ravenshaw, Esq とあり、 E. C. Ravenshaw は Edward Cockburn Ravenshaw(1804~1877)で、Thomas Edward Ravenshaw の叔父さんにあたります』と御教授戴き、また、御指示戴いたこちら(英文)を見ると、やはり、インドに派遣されたイギリスの民事公官であったことが判った。これで、不審氷解! 何時もお世話になるT氏に感謝申し上げる。
「非列賓」フィリピン。
「F. Colin, ‘Historia Filipinas,’ Madrid, 1663, p. 64」イエズス会会員でスペイン人の東洋学者フランシスコ・コリン(Francisco Colin 一五九二年~一六六〇年:マニラ)著「フィリピンの歴史」。]
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