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2021/01/31

只野真葛「奥州ばなし」(附・曲亭馬琴註 附・やぶちゃん注)縦書(ルビ附)一括PDF版公開

只野真葛「奥州ばなし」(附・曲亭馬琴註 附・藪野直史注)縦書(ルビ附)一括PDF版(3.24MB・118頁)を「心朽窩旧館」に公開した。作成途中で一部のテクスト不全や私の注をかなり改訂し、ブログ版にも反映した。

2021/01/30

奥州ばなし 目錄

 

目錄

 

一   狐とり彌左衞門が事幷ニ鬼一管

二   おいで狐の話幷ニ岩千代權現

三   白わし

四   七濱谷

五   熊とり猿にとられし事

六   三郞次

七   大熊

八   かつぱ神
[やぶちゃん注:本文標題では「かつは神」。]

九   柳町山伏

十   乙二

十一  てんま町

十二  猫にとられし盜人

十三  めいしん

十四  狐つかひ

十五  上遠野出豆

十六  砂三十郞

十七  澤口忠太夫

十八  四倉龍燈

十九  龍燈のこと

二十  狐火

二十一 影の病

二十二 高尾がこと

二十三 狼打

二十四 與四郞

二十五 佐藤浦之助

二十六 丸山幷ニ谷風 桑田嘉太夫
[やぶちゃん注:本文標題は「丸山」のみで、「桑田嘉太夫」ではなく「菊田喜大夫」とする。]

二十七 とら岩幷ニ富塚半兵衞 貞山公鶉の話
[やぶちゃん注:「本文標題は「とら岩」のみ。]

[やぶちゃん注:各話はカテゴリ「只野真葛」で探されたい。リンクを張るほど、僕はお目出度い人間ではない。]

奥州ばなし とら岩 /(富塚半兵衞)/(貞山公鶉の話) / 「奥州ばなし」~電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:以下、最終標題パートであるが、前段と同じく連関性のない二話(但し、後ろの二話は和歌関連で親和性がある)が「とら岩」の標題下以下に、底本では一行空けで組まれてあり、最後に馬琴の写本した旨の辞と署名がある。ところが、「目錄」を見ると、「とら岩幷ニ冨塚半兵衞 貞山公鶉の話」となっている。されば、仮に「富塚半兵衞」及び「貞山公鶉の話」としておいた。]

 

     とら岩

 

 とらいは道辨《だうべん》と云し、外療《げりやう》、有《あり》き。寬政年中のことなるべし。大力・大男の元氣ものなりし。甥の若生(わかう)、時ならず、麻上下《あさかみしも》を着して來りしをとがめ、

「何故の禮服ぞ。」

とゝふ。若生曰、

「今日、劍術の傳授すみし、かへりがけなり。」

といふを聞《きき》て、道辨、打わらひ、

「我は長袖のことゆゑ、武藝はかつてまねばねども、その方如きの、小ひやう・非力の者に、まけてはをられじ。傳授と有《ある》は、こと、をかし。」

と、あざけりしかば、若生も、さすが、傳授もうけし身の、かくあざけられては、聞《きき》のがしがたし、とや思《おもひ》つらん、

「さあらば、こゝろみに、立合《たちあひ》て御覽あれ。我方《わがかた》よりは、そなたを打《うち》申《まうす》まじ。われを、一打、うたれなば、まけとせん。」

と、いひしかば、道辨は、

「いざ。おもしろし。」

と庭にとびおり、棒をふつてかゝるに、さすが、傳授をゆるされしほど有《あり》て、うけやう、しごく巧者《かうしや》にて、うてども、うてども、身にあたらず、

「まつかう、みぢん。」

と打《うつ》棒を、隨分、よくうけとめけるを、道辨、

「こゝぞ。」

と力をいだし、かさにかかゝりて、おしたりしかば、こらへかねて、ひしげしとぞ。

 道辨、悅《よろこび》、

「さぞあらんと、思ひしことよ。」

とて、上《あが》りしとぞ。

 

[やぶちゃん注:「とらいは道辨」不詳。「虎岩」か。とすると、岸本良信氏の公式サイト内の「仙台藩(伊達藩)3」に「虎岩吉兵衛」・「虎岩善兵衛」・「虎岩八兵衛」という名を見出せるから、この虎岩一族の者ではあろう。次男以下で、武士をやめて、医師となったものか。

「外療」外科医。

「寬政」一七八九年~一八〇一年。

「若生(わかう)」岸本良信氏の公式サイト内の「仙台藩(伊達藩)1」に、「執槍隊小人」の中に「若生作蔵」が、「周旋方」の中に「若生文十郎」の名が見える。前者か。

「麻上下」麻布で作った単(ひとえ)の裃(かみしも)。江戸時代の武士(或いは庶民)の出仕の際の通常の礼装である。

「長袖」袖括(そでぐく)りをして鎧を着る武士に対して、長袖の衣服を着ているところから公卿・神官・僧・医師・学者などを指す。長袖者 (ちょうしゅうしゃ)という謂い方もある。

「まつかう、みぢん。」「眞向(まつかう)、微塵(みぢん)。」。「額の真ん中を粉微塵にしてくれるわ!」。

「かさにかかゝりて」「嵩(かさ)に懸かりて」一瞬の優勢に乗じて攻めかかって。

「ひしげし」「拉(ひ)げし」体を押されて地面に倒れて潰されてしまった。]

 

    (富塚半兵衞)

 

 忠山公の御代に、富塚半兵衞といふ人、有し。親は寄人《よりうど》にて、あまた、よみつめたりしを、子なる半兵衞は不精ものにて、常にはよまねど、花のをり、月見の夜《よ》などには、

「父の子なれば。」

とて、うた人《びと》の内に入《いり》て、題を給はれば、とがめなく、よみて出《いだ》したりしを、かたはらより、

「父の、おほくよみたる中《うち》を見出《みいだし》て、さし出すならん。」

と云《いひ》あへりしとぞ。

 或としの秋、十五日、例の如くよみて、さしいだせしを、そこなる人の中《うち》より、

「そこのよまれしといふうたは、父のよみ置《おき》しふる哥《うた》にはあらずや。」

と云出《いひいだ》したりければ、半兵衞、取あへず、其人の袖をひかへて、

  かゝる時思ひぞ出《いづ》る大江山いくのゝ道の遠きむかしを

といひし故、人々のうたがひ、はれて、まことによめるうたなることゝは思ひしとぞ。

 時にとりては、よく思《おもひ》よりたりし。

 この人、いつたい、おどけものにて、打《うち》むかへば、おのづから、人にゑみをふくませしとぞ。

 身まづしく、物にかまはぬかたより、居《ゐ》やしきのめぐりも、荒《あれ》がちなりしを、さることを、いましむる役人の方《かた》より、

「垣《かき》、ようせよ。」

と、たびたび、いはれしとぞ。其いひふるゝ人も、したしう、きかよふ中《なか》なりつれど、おほやけのこと故、しばしば、ことあげせし事にぞ有ける。

 ある日、わたくしに、其人の來りし時、酒などのみて、扨《さて》、あるじ、書《かき》て出《いだ》したりき。

  わがやどのくものすがきもあらがきも貧のふるまひかねてしるしも

 

[やぶちゃん注:「忠山公」既出既注。第六代藩主伊達宗村(むねむら 享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)。在任は寛保三(一七四三)年から亡くなるまで。戒名「政德院殿忠山淨信大居士」。

「富塚半兵衞」岸本良信氏の公式サイト内の「仙台藩(伊達藩)3」に「富塚半兵衞」の名が見出せる。

「寄人《よりうど》」ここは藩主付きの和歌担当の者(右筆や諸雑務も行ったか)の謂いであろう。

「取あへず」すぐに。

「取あへず、其人の袖をひかへて」「かゝる時思ひぞ出《いづ》る大江山いくのゝ道の遠きむかしを」「小倉百人一首」にある和泉式部の娘の小式部内侍の一首、

 大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立

に関わるエピソードを、動作とともに、オツに返したものである。この話は説話集「古今著聞集」(伊賀守橘成季編。(建長六(一二五四)年頃に原型成立)の「巻第五 和歌」に抄入された「小式部内侍が大江山の歌の事」や、作者不詳の「十訓抄」(じっきんしょう)の「第三 不可侮人倫事」(「人倫、侮(あなど)るべからざる事」)に載るすこぶる知られた話で、ここは先行する後者(「十訓抄」の一本の序には建長四(一二五二)年のクレジットがある)で示しておく。底本は一九四二年岩波文庫刊永積安明校訂を用いた。一部に句読点と推定で読みを追加し、段落を成形した。

   *

 和泉式部、保昌(やすまさ)【右大臣致忠(むねただ)息、大納言民部卿元方(もとかた)孫。】が女にて、丹後に下りけるあとに、歌合どものありけるを、小式部内侍、歌よみにとられて、歌をよみけるに、定賴【公任卿子。】の中納言、たはぶれて、小式部内侍有(あり)けるに、

「丹後へ遣はしける人は參りたりや。いかに心もとなくおぼすらむ。」

と云入(いひいれ)て、つぼねの前を過(すぎ)られけるを、御簾(みす)より、なから計(ばかり)出(いで)て、わづかに袖をひかへて、

   大江山いくのゝみちのとをければ

   まだふみもみずあまのはしだて

と、よみかけゝる。

 おもはずに、あさましくて、

「こはいかに。かゝるやうやは、有(ある)。」

と計(ばかり)いひて、返歌にもおよばず、袖をひきはなちて、にげられけり。

 小式部、これより、歌よみの世に、おぼえ、出來(いでき)にけり。

 これは、うちまかせて、理運(りうん)のことなれども、彼(かの)卿の心には、『これほどの歌、たゞいま、よみいだすべし』とは、知られざりけるにや。

   *

注するのも失礼乍ら、老婆心で言い添えておくと、定頼の台詞は「代わりにお母上に歌を詠んで貰うために、丹後にお遣わしになった者は、もう、帰って参られましたか。いやいや、使いが帰るのが、さぞかし、待ち遠しく、じれったくお思いのことでしょうなぁ。」という厭味である。一首については、「いくのゝみち」が現在の京都市福知山市の「生野(いくの)」或いは「幾野」で「幾つもの野」に掛けられており、さらに「行く」にも掛けられていると読むべきであり、「ふみ」は「文」(手紙)と「踏み」の掛詞となっており、「踏み」の方は橋の縁語とされる。正確な歌枕や地名の読み込み及び下句の倒置表現などを以って、定頼の戯言(ざれごと)を一撃のもとに退けた彼女の才覚は驚異的である。

「時にとりては」その時に当たって。絶妙のタイミングで。

「いつたい」副詞。元来。

「いひふるゝ」「言ひ觸るる」。ここは「かなりしつこく何度もそのことに言及する」の意。

「したしう、きかよふ中《なか》」「親しく、來通ふ仲」。

「おほやけのこと」藩中での公の場の中で、しばしば彼の家の荒れ方が武家の面目上、問題であるとして批判されていたことを示す。

「ことあげ」「言上げ」。殊更に言葉に出して言い諌めること。

「わたくしに」公務としてはなく、プライベートに遊びに来たことを言う。

「わがやどのくものすがきもあらがきも貧のふるまひかねてしるしも」「我が宿の蜘蛛の巢搔き荒垣も貧(ひん)の振舞ひ予(か)ねて著(しる)しも」「巢搔き」は「蜘蛛が巣を掛けること」或いは「その蜘蛛の巣」を指す。「荒垣」に応じて「素垣(すがき)」(竹などで編んだ隙間の多い粗末な垣根)も掛けていよう。――私の蜘蛛の巢だらけの家、荒れ果てた粗末な素垣も垣根も、皆、予てよりの吾らの清貧の標(しるし)に外ならぬのです――の謂いか。和歌嫌いの私でも、いい感じがする。]

 

    (貞山公鶉の話)

 

 貞山公、昔、戰《いくさ》の有し頃、京におはせしに、鳥屋《とりや》の見世《みせ》に立《たち》よらせ給《たまひ》て、よき「うづら」の有しを、

「これは、いかほどのあたひぞ。」

と問《とは》せられしかば、鳥屋のをとこ、『今ぞ、高直《かうじき》に申《まうす》べき時』とや思つらん、

「五十兩なり。」

と申上《まうしあげ》りしを、聞《きか》せ給て、

  立《たち》よりてきけば鶉の音《ね》はたかしさてもよくにはふけるものかな

と、たゞごとに、のたまはせしを、鳥屋、聞て、大《おほき》にはぢて、あたひなしに奉りしとぞ。【解云、このうづらの歌を、あるものには、堀田侍從のよし、いへり。いまだ孰《いづれ》か是(よき)をしらず。「藩翰譜」、堀田の譜を參考すべし。】[やぶちゃん注:馬琴の頭注。]

 

   天保壬辰歲杪立春五日、以原本比校畢

                蓑笠漁隱

 

[やぶちゃん注:「貞山公」かの戦国大名にして仙台藩初代藩主伊達政宗(永禄一〇(一五六七)年~寛永一三(一六三六)年)のこと。彼の戒名は「瑞嚴寺殿貞山禪利大居士」。

「戰の有し頃、京におはせしに」知られた上洛は、文禄二(一五九三)年、豊臣秀吉の「文禄の役」に従軍した折りである。ウィキの「伊達政宗」によれば、『従軍時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において巷間の噂となった』。三千名或いは千五百名の『軍勢であったとの記録がある。ほかの軍勢が通過する際、静かに見守っていた京都の住民も伊達勢の軍装の見事さに歓声を上げたという。これ以来、派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになった』といういわく付きの出来事であった。

「鳥屋の見世」鳥を売る店。知ったかぶって「鳥屋」(「塒」とも書く)を「とや」と読んではいけない。「とや」は「鳥小屋」・「鶇(つぐみ)などの小鳥を狩りの際に罠を仕掛けて待つために山中や谷間に設けた小屋」・「鷹の羽が夏の末頃から抜け始めて、冬までに生え替ること(これはその時期に巣に籠るところからかく言う)」・「歌舞伎の劇場で花道の揚げ幕の内部にある花道への出入りの際の控えの小部屋」・「旅回りの役者などが不入りなどで次の土地に出発出来ずに今の場所に居続けになること」・「遊女が梅毒で引き籠ること(転じて「梅毒」をも指す)」といった意味の語で、これだけ多様な意味がありながら、「小鳥屋」の意はないからである。

「うづら」鶉。キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica 。今はあまり馴染みのない鳥であるが、古く「古事記」や「万葉集」の歌に詠まれ、卵だけでなく、成鳥自体を食用にした(平安時代に既に本種の調理法を記した書物があるという)のみならず、ペットとして飼育された歴史も古い。「言繼卿記」(ときつぐきょうき:戦国期の公家山科言継の日記。大永七(一五二七)年から天正四(一五七六)年の凡そ五十年に渡るもの。但し、散逸部分も少なくない。有職故実や芸能及び戦国期の政治情勢などを知る上で貴重な史料とされる)によれば、室町時代に既に籠を用いて本種を飼育していた記載があり、江戸時代には、武士の間で、鳴き声を競い合う「鶉合わせ」が行われ、慶長(一五九六年~一六一五年)から寛永(一六二四年~一六四五年:慶長との間には元和(げんな)が挟まる)をピークとして、実に大正時代まで流行した。また、別に鳴き声を日本語に置き換えた「聞きなし」として「御吉兆」などがあって、珍重されることもあった。されば、ここで政宗が鶉を求めようとしたこと、法外の吹っ掛けとは言え、小鳥屋の主人が「五十兩なり」と言ったのも、真実味を持って受け取れよう。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)」を参照されたい。

「立よりてきけば鶉の音《ね》はたかしさてもよくにはふけるものかな」前の「富塚半兵衞」の末尾の清「貧」と対称となっていて面白い。言わずもがな、「ね」は「音」と「値」に掛けてあるわけだが、ふと思うたのは、上の句の掛詞の面白さを考えると、下の句で、「さても欲には耽るものかな」そのままでは芸がないことになる。これは――ふと、さる御屋敷に立ち寄って、鶉の高く鳴く声を聴いたが、さてもさても、音(ね)のみでその姿が見えない。いやいや、そうか、能(「よく」)ぞ庭(「には」)に「ふけ」(「ふける」には「身を隠す」の意がある)たものであることよ――の意を表に装っているのではないかと考えた。鶉の特に♀は叢に溶け込みいやすい保護色をしている。また、叢の根元に産む卵もまた、その表面の色や模様が外敵から卵を守る多様な保護色となっていることはよく知られており、「身を隠す」と鶉には縁語的関係が成立するからでもある。但し、真葛は「たゞごとに、のたまはせし」とは言っているのだけれども(「ただごと」(徒言・只言)は古くは「ただこと」で、技巧などを用いずに有りの儘の言葉・歌語でも比喩でもない日常の言葉の意。しかし「鶉の音」としたところは最早「ただごと」ではないし、この話柄そのものが後世の捏造された話とすれば、ヒネリが入っていると読んだ方がいいし、面白いと思う)。

「堀田侍從」不詳。話と前後の記載(特に「藩翰譜」)から見ると、江戸前期の大名で、下総佐倉藩第二代藩主・堀田家宗家第二代にして、堀田正盛の長男である堀田正信(寛永八(一六三一)年~延宝八(一六八〇)年)のことかと思われたが、彼は侍従ではない。彼は後の「藩翰譜」にも記されてあるが、彼のウィキから引用すると、万治三(一六六〇)年十月八日、突如として『「幕府の失政により人民や旗本・御家人が窮乏しており、それを救うために自らの領地を返上したい」といった内容の幕政批判の上書を幕閣の保科正之・阿部忠秋宛てに提出し、無断で佐倉へ帰城し』てしまい、『まもなく、幕法違反の無断帰城について幕閣で協議が』なされ、『正信の上書や行動に同情的意見もあったが、老中・松平信綱の唱えた「狂気の作法」という見解(本来なら「三族の罪」に当たるが、狂人ならば免除できるという理屈)で合意がなされ』、同年十一月三日に『処分が下り、所領没収の上、弟の信濃飯田藩主』『脇坂安政に預けられた。正信が佐倉へ無断帰城した動機については、信綱との確執や正室の叔父の松平定政が起こした出家遁世事件との関係も指摘されるが、不明』である。その後、『安政の播磨龍野藩への転封に伴い、母方の叔父である若狭小浜藩主』『酒井忠直に預け替えられる。しかし』、延宝五(一六七七)年六月、『密かに配所を抜け出して上洛し、清水寺や石清水八幡宮を参拝し』、『これにより嫡男』『正休』(まさやす)『と酒井忠直は閉門、正信は阿波徳島藩主・蜂須賀綱通に預け替えられた。配流中には「忠義士抜書」「楠三代忠義抜書」「一願同心集」などを著し』ている。延宝八(一六八〇)年五月、第四代将軍『徳川家綱死去の報を聞き、配流先の徳島にて鋏で喉を突き』、『自殺した。遺骸は江戸へ入ることを許され、菩提寺の金蔵寺に葬られた』という数奇な生涯を送った人物として私が興味を持っている人物である。なお、彼の孫で藩主に返り咲いた江戸中期の大名にして老中首座であった出羽国山形藩第三代藩主・下総国佐倉藩初代藩堀田正亮(ほったまさすけ 正徳二(一七一二)年~宝暦一一(一七六一)年)がおり、彼の官位は従四位下・侍従であるが、「藩翰譜」の記載より後代の人物である。この堀田正亮を指して真葛が書いていると読むことは特に無理はないとは思うものの、伊達政宗と話を混同するには後代に過ぎるから、違う。政宗と同時代人の堀田家となると、堀田正吉や、その子で正信の父堀田正盛であるが、彼らは孰れも「侍従」ではない。お手上げ。

「藩翰譜」は江戸時代の家伝・系譜書。新井白石著。全十二巻。元禄一五(一七〇二)年成立。元禄十三年に甲府藩主徳川綱豊の命を受けて編纂したとされる。諸大名三百三十七家の由来と事績を集録し、系図を附したもの。慶長五(一六〇〇)年から延宝八(一六八〇)年までの内容が収録されている。短期に仕上げたため、事実誤認があり、白石自身が後に補訂を加えている。

「堀田の譜」ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの大槻如電校訂明治二九(一八九六)年刊の当該箇所(第六巻)の画像)だが、馬琴は明らかに正信の記事を読めと言っているようには見える。

「天保壬辰」(みづのえたつ/じんしん)「歲」は天保三年。

「杪」「すゑ」。「終わり」の意。従って以下の「立春五日」とは天保三年十二月二十五日を指す。因みに、この日はグレゴリオ暦で一八三三年二月三日で定気法による計算でこの日に立春が合致する(いつもお世話になる、かわうそ@暦氏のサイト「曆のページ」の「二十四節気計算」のページで確認した)。

「以原本比校畢」「原本を以つて、比校(ひかう)、畢(をは)んぬ」。「比校」比較校訂。

「蓑笠漁隱」「さりふぎよいん(さりゅうぎょいん)」。馬琴は文政七(一八二四)年五十八歳の時剃髪したが、これは、それ以後の馬琴の号である。]

2021/01/29

奥州ばなし 丸山 / (菊田喜大夫)

 

     丸 山

 

 忠山公(ちゆうざんこう)と申奉る國主の御代に出《いで》しは、丸山權多左衞門といふ大男なり。これは近き頃の故にや、人も、よく、しれり。この大をとこ、江戶見物の爲、家老衆のうちのものと成《なり》て、のぼりしが、大男のくせ、道下手《みちべた》なり。身はおもし、一日に、二足づゝわらじをふみ切《きる》といへども、足に相應せしわらじ、なければ、宿につきて、藁を打《うち》、二足のわらじを作《つくり》て、はかねばならず、二足、作仕《つくりし》まへば、はや、

「御供、揃《そろへ》。」

と、いつも、ふれられ、日中、つかれても、馬にのれば、足、下へつきて、馬、あゆむこと、あたはず。ぜひなく、終日《ひねもす》あゆみては、又、わらじ作りて、夜をあかし、やうやう、江戶へはつきたれど、

「かくの如くにては、歸らんやうなし。」

とて、角力とりとは、思ひ付たりしとぞ。

 一向、手をしらず、只、立合《たちあひ》て、兩手にて、はねるばかりなれども、はねられて、脚をたつもの、なかりしとぞ。

 鐵山公と申奉る國主の御代に出し、「谷風」は、猶、人、しること、故《こと》かゝず。をりをり力持《ちからもち》の出《いづ》ること有《ある》國なり。

[やぶちゃん注:「目錄」では「丸山幷ニ谷風 桑田嘉太夫」となっている。前の「佐藤浦之助」に続いて実在した名相撲取「丸山權太左衞門」の話である。ちゃんと彼のウィキがある。丸山権太左衛門(ごんだざえもん(ごんたざえもん) 正徳三(一七一三)年~寛延二(一七四九)年)は『仙台藩・陸奥国領出身の元大相撲力士』で「第三代横綱」とされる。本名は芳賀銀太夫(はがぎんだゆう)。『陸奥国遠田郡中津山村(現・宮城県登米市米山町中津山)出身。元文年間』(一七三六年~一七四一年)『頃に初土俵を踏む。家老衆の家来になって江戸見物に出たのは良いが、体が重くて歩くのが下手だったため、二足用意した草鞋をすぐ踏み潰しては』、『徹夜で編み直すこととなり、馬に乗せれば』、『足が地に着いてしまうほどだった。やっとの思いで江戸に到着したが、これでは故郷に帰るのもおぼつかないために入門したと伝わる』。元文二(一七三七)年四月、『大坂堀江で行われた興行に西大関として出場。その後』、暫く、『出場した記録がないが』、延享元(一七四四)年八月に『京二条河原で行われた興行に東大関として出場し』、寛延二(一七四九)年『までに』、『京や大坂で行われた数興行にいずれも大関として出場している。相撲は下手だったが突っ張るだけで相手は立っていられなかったとされる』。この寛延二年の『長崎巡業の際に現役のまま没した。死因は赤痢と言われている』。享年三十七であった。『丸山が歴代横綱に加えられているのは』、寛政元(一七八九)年にここ出る(後述)『谷風と小野川に横綱免許を与える際』、『吉田司家が寺社奉行に提出した書類に「過去に綾川、丸山と申す者に免許を与えたが』、『記録は火災で失われた」と記載したことが根拠である』。『現在』、『公認されている横綱では』三『代目に数えられるが、順序が逆で』二代目と『する説もある。ただし』、『綾川五郎次が大関に昇進したとされる』享保二(一七一七)年の時点では、丸山は未だ五歳である『ことから』、『綾川が』二『代目であるとする説が濃厚であるが、いずれにせよ』、『横綱としての実質がなかったのは綾川と同様である』。『初代横綱とされる明石志賀之助と第』二『代横綱とされる綾川五郎次の』二『人と共に丸山を含む』三『人は伝説上の横綱と言う位置付けがなされているが、明石と綾川が実在自体を疑問視されているのに対し、丸山は実在が確認されているという点で大きく異なる。綾川と順序が逆とする説は』、『このあたりが関係しているものと考えられる』。『横綱免許とされている』寛延二(一七四九)年は、『実際には吉田司家故実門人になった時を指す。実力自体は現在の基準に当てはめれば横綱でも文句無しだったと言われる』。『怪力で、五斗俵』(約七十五キログラム)『に筆を差し込んで文字を書いたといわれる。「ひと握り いざ参らせん 年の豆」という句が知られている』とある。サイト「相撲レファレンス」の彼のデータによれば、七ツ森部屋所属で、身長は一メートル九十七センチメートル、体重百六十六キログラムとある。

「忠山公」第六代藩主伊達宗村(むねむら 享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)。在任は寛保三(一七四三)年から亡くなるまで。戒名「政德院殿忠山淨信大居士」。

「大男のくせ、道下手《みちべた》なり」大男の短所で、歩くのが不得手であった。

「ふみ切《きる》」体重があり、歩き方も摺り引くようにするために、昼間の一日の道中で、二足も草鞋(わらじ)を履き潰してしまうのである。しかも以下、お判りと思うが、サイズがデカ過ぎて、売り物では履ける草鞋がない。そこで、自分専用の草鞋二足を一から作るのに徹夜せねばならず、出来上がった時には、出発の触れが出る始末で、睡眠もとれない、昼間中はずっと歩き通しという、体験したことのない地獄の責め苦状態だったのである。だから、「かくの如くにては、歸らんやうなし」の「ぼやき」が真に迫って響いてくるのである。

「鐵山公」「白わし」他で複数回既注だが、再掲する。仙台藩主に「鐡(鉄・銕)山公」という諡号の藩主はいない。「鐡」「鉄」「銕」の崩し字を馬琴が誤ったか、底本編者が判読を誤ったかしかないと感じる。可能性が高いと私が思うのは、「鉄・銕」の崩しが、やや似ている「獅」で、獅山公(しざんこう)は第五代仙台藩藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)を指し(戒名「續燈院殿獅山元活大居士」。諡号「獅山公」)、元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。本書は文政元(一八一八)年成立であるが、例えば、真葛は、名品の紀行随想「いそづたひ」の中で、鰐鮫への父の復讐を果たした男の話の聞き書きを、「獅山公」時代の出来事、と記している。

「谷風」谷風梶之助(たにかぜかじのすけ 寛延三(一七五〇)年~寛政七(一七九五)年)は陸奥国宮城郡霞目村(現在の宮城県仙台市若林区霞目(かすみのめ))出身の元大相撲力士。本名は金子与四郎。大相撲史上、屈指の強豪とされる。力量・人格ともに後の横綱の模範とされたが、現役中に亡くなっている。歴代横綱では第四代横綱とされが、この谷風が事実上の「初代横綱」である。詳しくはウィキの「谷風(2代)」を参照されたい。サイト「相撲レファレンス」の彼のデータによれば、伊勢ノ海部屋所属で、身長百八十九センチメートル、体重百六十二キログラムとある。

 以下、底本で一行空けで、話も別に独立しているが、標題がない。「目錄」に従おうと見ると、これが悩ましくも、「丸山幷ニ谷風 桑田嘉太夫」となっている。「谷風」はどうみても、独立条にするには痩せ過ぎているので、標題を掲げずに「丸山」に吸収させておき(底本本文もその作りとなっている)、姓の合わないそれは、一応、本文を優先して「(菊田喜大夫)」と挟んで独立させておく。

 

     (菊田喜大夫)

 

 菊田喜大夫といへる人は、勝れて小身なりしが、獨身にて有し時、思へらく、

「味よきものをこのむほど、つゐへなることなし。心の限り、儉約せばや。」

とて、汁・香の物なく、みそ少々をなめて飯(いひ)を食《くひ》しが、膳𢌞り、淋しければ、木にて「ふな」の形を作り、竹串にさして味噌をぬり、あぶりて味噌みそ[やぶちゃん注:ママ。衍字か。]のみ食、なめつくせば、又、みそを引々《ひきひき》して、二、三年を經しほどに、金持と成《なり》て、いろいろ、功も有《あり》き。後には妻子をも具したりしが、

「我等ごとき身代《しんだい》にて、味よき物、くふべからず。」

と、いさめて、魚類《さかなのたぐひ》などは、くはせざりしとぞ。

 金のくり合《あは》せ、たのまれて有しほどに、鯛のおほくとれし時、ある人のもとより、一枚、おくりしに、喜大夫は留守なりしかば、妻子、悅《よろこび》、

「いざや、今日こそ鯛を食せん。」

と、思ひて、歸りを待《まち》ゐしに、喜大夫、かへりて、ことのよしを聞《きき》、

「よしや、もらひたりとも、かゝるものは、くはぬぞ、よき。」

とて、魚のかしらと尾先を持《もち》て、隣のかたへ、なげやりしとぞ。

 家内は、あきれて、顏見合せてをるに、しばし有《あり》て、となりの人、裏に出《いで》て、魚をみつけ、おほきにおどろき、

「どうして、こゝへ鯛が、きたぞ。犬にても、くはへ來《きた》るか。それにしては、あともなし。」

と、引返し、引かへし[やぶちゃん注:表記違いはママ。]、不審するていなり。

「何にしても、鯛をひろふは、めでたい、めでたい。」

と、うれしがり、

「いざ、祝《いは》はん。」

とて、酒をとゝのへ、折ふし來《き/こ》し人にも、ふるまひなどして、賑《にぎ》はふていなり。

 是を聞て、喜大夫、家内にしめすやう、

「あれ、あのばかものどもを見よ。鯛壱枚、ひろひしとて、酒をかひ、酢・せうゆをつゐやし、人、あつめして、飯(いひ)をも、いゐやすべし[やぶちゃん注:「つゐやすべし」の誤りか。歴史的仮名遣は「費(つひ)やす」が正しい。]。味よき物、くふ、無益なること、是にて知《しる》べし。」

と、云しとぞ。

 

[やぶちゃん注:ド吝嗇もここまでくると、一つの独特の哲学である。妻は鯛が上手いことを婚前食って知っているが、その子まで喜んでいる。さて。彼はどこで鯛を食ったのだろう? 或いは、この妻子は子連れの再婚だったのかも知れない。

「菊田喜大夫」不詳。「目錄」の「桑田嘉太夫」でも不詳。

「金のくり合《あは》せ、たのまれて有しほどに、鯛のおほくとれし時、ある人のもとより、一枚、おくりしに」金の都合をつけて貰えないかと人から頼まれて貸してやっておいたことがあったが、その折り、その貸した人物から「鯛が多く獲れたので」と一尾、菊田のところへ贈ってきたのである。]

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 2

 

[やぶちゃん注:以下段落は、底本では全体が一字下げになっており、前段の補注的な扱いとなっている。]

 

 予は田舍に居り、件の坪内博士の論を見ず、纔に其槪略を友人より聞しのみなれば、姑く[やぶちゃん注:「しばらく」。]其後、自分の思ひ中りし事共を記さんに、百合若の譚、本邦の古物語や謠曲に見えず、江戶幕府初りて後、屢ば聞ゆ、(甫庵の豐臣記卷五に、天正十五年正月二日、秀吉朝飯後休む事、百合若大臣軍に疲れ、熟睡せられしにも越たり、宗像軍記に、大宮司氏重、高向某に、織幡山神社の來歷を問ふ、答る詞の中に、百合若大臣の、故鄕に放つ鷹島や、とあり、延文三年卽ち尊氏死せし歲の事乍ら、此詞は、遙か後に編者が潤色せるならん)戰國時代、幸若の舞普く持囃され、談客援て[やぶちゃん注:「ひきて」。]以て話柄と爲し事夥し(甲陽軍鑑、湯淺常山の文會雜記等を見よ)されば百合若の傳に、「ユリツセス」の傳と相似の點多きのみならず、主人公の名又相似たるを見れば、誠に博士の說の如く、其頃南蠻人が齎したる、希臘の舊譚が、日本に轉化されて、百合若の物語と成り、幸若の舞題に用ひられて、盛んに人口に膾炙したるなるべし、

[やぶちゃん注:前段で注した通り、坪内逍遙が明治三九(一九〇六)年一月に『早稻田文學』発表した「百合若傳說の本源」は、国立国会図書館デジタルコレクションの坪内逍遙の論集「文藝瑣談」(明四十年春陽堂刊)の画像でここから視認出来る。

「甫庵の豐臣記」小瀬甫庵(おぜほあん 永禄七(一五六四)年~寛永一七(一六四〇)年)は安土桃山から江戸初期にかけての儒学者・医師・軍学者で、「特に「太閤記」「信長記」の著者として知られる。名は道喜(どうき/みちよし)。甫庵は号。彼のウィキによれば、『美濃土岐氏の庶流で、尾張国春日井郡の出身であるという』。『坂井氏の養子となったといい、後に土肥氏を名乗り、最後に小瀬氏に改めた』。当初は、『医学と経史を学んで、織田氏家臣の池田恒興に医者として仕え、その死後は豊臣秀次に仕えた』。文禄四(一五九五)年の『秀次の死後には活字本「補注蒙求」など『の医書を刊行している』。「関ヶ原の戦い」の後、『堀尾吉晴に仕え』、『松江城築城の際に』は『縄張りも行った。吉晴死後は浪人となったが、播磨にしばらく住み、京都に移った』。寛永元(一六二四)年には『子の小瀬素庵が前田利常に仕えた縁で』、『加賀藩で知行』二百五十『石を貰い、藩主の世子光高の兵学の師となった』。太田牛一著「信長公記」を元に「信長記」を書いた後の、寛永五(一六二八)年から同年代にかけて「太閤記」を板行しているとあるのが、この「豐臣記」である。但し、一方、ウィキの「太閤記」を見ると、『初版は』寛永三(一六二六)年とし、全二十巻で、各種の「太閤記」の中では最も有名なものが本書であるとし、『作者の名をとって』「甫庵太閤記」とも称するとあって、『江戸時代に幾度か発禁にされたが、以降も版を重ねている』。『秀吉伝記の底本とされることが多いが、著者独自の史観や』、『それに基づく史料の解釈、改変も指摘されており、前の引用に出た通り、『加賀藩で俸禄を給っている関係からか』「賤ヶ岳の戦い」に於ける『前田利家の撤退について』、『名前が記載されていなかったり、前後の関係を無視して唐突に前田利家の活躍が挿入されている箇所も見られる』とある。熊楠が言っているのは、ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの正保三(一六四六)年版「太閤記」第五・六巻の画像)の右頁後ろから二行目から左頁一行目。但し、熊楠の「天正十五年」は「天正十一年」の誤りである。これは「選集」でも直されていない

「朝飯後休む事、百合若大臣軍に疲れ、熟睡せられしにも越たり」以上のリンクで示した部分、判読し難いが、熊楠の読みは正確でないので、判読を試みると(〔 〕は私の推定の読み。一部に記号と濁点を添えた)、

   *

其御後、二日に、午(ひる)に眼〔めざめ〕しかば、朝餉(あさかれひ)、祝(しゆく)し給ひて、休(やす)み給ふヿ〔こと〕、「ゆりわか大臣」、軍〔いくさ〕に、しつかれ、𤍨睡(じゆくすい)せられしにも、越〔こえ〕たり。

   *

であろう。

「宗像軍記」元禄一七(一七〇四)年板行。作者不詳。筑前宗像大神宮の宮司宗像氏の武将としての活躍を中心に、大明神の縁起から、戦国後期の宗像大社第七十九代大宮司で宗像氏本流最後の当主で戦国大名であった宗像氏貞(天文一四(一五四五)年~天正一四(一五八六)年)の死去までを記した軍記物。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「史籍集覽」の第十五冊の画像で確認出来る(左ページ四行目)。ここは宗像大社の歌枕としてのそれを繋げて示して連綿たる歴史を示す部分である。百合若大臣伝説には鷹が重要な役割を持つ。面倒なので、ここでウィキの「百合若大臣」を引いて説明に代える(太字下線は私が附した)。『百合若大臣は、蒙古襲来に対する討伐軍の大将に任命され、神託により持たされた鉄弓をふるい、遠征でみごとに勝利を果たすが、部下によって孤島に置き去りにされる。しかし鷹の緑丸によって生存が確認され、妻が宇佐神宮に祈願すると帰郷が叶い、裏切り者を成敗する、という内容である』。最もルーツに近い全篇と考えられる「幸若舞」の「百合若大臣」のシノプシスは以下。彼の『父親は、嵯峨朝の左大臣「公満(きんみつ)」で、大和国の初瀬寺』『の観音に祈願して授けられた男児が後の百合若大臣である』。『百合若は』十七『歳で右大臣に就任し、大納言章時(あきとき)の娘を妻に迎える』。『百合若は、日本(博多)へ押し寄せてきた蒙古(むくり)』『の大軍討伐を命じられ、当地である筑紫』『の国司という任地を与えられる。妻は豊後国』『に構えた館に残す。託宣に従い、百合若は八尺五寸の鉄弓と』三百六十三『箭の矢を持たされる』。『蒙古軍は、すでに神風に遭って唐土(もろこし)』『に引き上げていた。百合若は船団を従えてこれを追い、ちくらが沖の海上で決戦となる。蒙古側は、麒麟国の王が青息を吹いて霧をたちこめらすが、百合若が日本の神々に祈願すると』、『ようやく霧が晴れる。百合若は矢をほとんど撃ち尽くして奮戦し、蒙古側の四大将の両蔵(りょうぞう)らを討ち取り、あるいは捕虜となし勝利をおさめる』。『百合若は、玄界ガ島』『に立寄って休息し、その大力を発揮したときの常として、まる』三『日間眠りこける』。『これに乗じて、配下の別府兄弟は、百合若は矢傷で死んだと偽り、船を引き揚げさせ、百合若を孤島に置き去りにしてしまう。別府兄弟は朝廷に戦勝を奏上し、別府太郎は、百合若が配されていた筑紫の国司の役目に任命される』。『上司の地位簒奪に収まらず、別府太郎はさらに百合若の御台所に恋愛を迫る』。『御台所は、宇佐神宮で千部の写経を行っている最中だとして、とりあえず返答を引き延ばす。しかし百合若がついに帰らなければ自殺すると決めているので、身の回りの琵琶や琴を整理し、飼っている犬、馬や鷹の数々を解き放つ。このとき』、『緑丸という鷹は、玄界島まで飛んでゆき、百合若に託されて柏の葉に血で書いた文を持ち帰る。御台所は、夫の生存を知り、墨や硯などを鷹に結びつけて送り返すが、鷹はこの重さに耐えかね、死体』となって島の百合若のもとへ『漂着する』。『宇佐神宮に、御台所が夫の生還を祈願すると、その願いがかない、壱岐の浦にいた釣り人が風で流され、玄界ガ島にいた百合若を発見して、日本の本土に送り戻す。着いた場所は博多であった。百合若のあまりの変わり果てように、誰もその正体がわからない。別府は余興としてこの奇異なる男を召し抱えることにし、門脇の翁という者に預ける』。『この頃、別府は御台所がなびかないので、ついに処刑すると決めていた。しかしそうはさせまいと、門脇の翁の娘』『が身代わりになったことを百合若は知る』。『正月になり、宇佐八幡宮での初弓で、百合若は「苔丸」という名で呼ばれて矢取りの役を仰せつかる。面々の弓の技量を嘲弄した百合若は、別府に一矢射て見せよと命令される。揃えられた強弓はゆるいと言って、ついにはかの鉄の弓をもってこさせ、みごとこれを引き絞り』、『自分は百合若である』、『との』、『名乗りを上げる。大友氏の諸卿や松浦党はかしこまり、別府太郎は降参するが』、『許さず、百合若はこれを縛り上げさせ、手づかみで舌を引き抜き、首切りは』七『日かけて鋸挽きの刑に処した』。『命の恩人の釣り人には壱岐と対馬国を下賜し、門脇の翁は筑紫の荘園の政所の職につけ、百合若は、京に上り』、『将軍となった』。幸若舞の歌詞の板行原本もネット上にあるが、これは、流石に甚だ読み難い。そこで、私は国立国会図書館デジタルコレクションにある大正九(一九二〇)年金文堂書店刊の竹田秋楼著「博多物語」に所収する、非常に読み易く解説し、しかも細かな部分まで行き届いている「百合若大臣の歌」を強くお薦めするものである。

「大宮司氏重」宗像大社第五十六代大宮司宗像氏重。先の「宗像軍記」によれば、前々代の宗像重俊の子とある(「叔父氏名ノ讓リヲ受テ社務トナル」とする)。代五十五代は宗像氏頼。

「高向某」同じく先の「宗像軍記」によれば、以下の「織幡ノ神社」の「神職高向民部」とある。

「織幡山神社」宗像市鐘崎にある織幡(おりはた)神社(グーグル・マップ・データ航空写真)。宗像大社境外摂社である。画像は南西の宗像大社(辺津宮)との位置関係が判るようにしてある。

「延文三年」南朝正平十三年で、ユリウス暦一三五八年。

「尊氏死せし歲の事」延文三年四月三十日(ユリウス暦六月七日)、足利尊氏は享年五十四で亡くなっている。

「甲陽軍鑑」江戸初期に集成された軍学書。全二十巻。甲斐の武田晴信・勝頼二代の事績によって、甲州流軍法や武士道を説いたもの。異本が多く、作者は諸説あるが、武田家の老臣高坂弾正昌信の遺記を元に、春日惣二郎・小幡(おばた)下野が書き継ぎ、小幡景憲が集大成したと見られている。現存する最古の板本は明暦二(一六五六)年のもの。

「湯淺常山の文會雜記」備前岡山藩士で古文辞学派の儒学者で荻生徂徠の高弟服部南郭の門下であった湯浅常山(宝永五(一七〇八)年~天明元(一七八一)年)が徂徠学派の言行を纏めた随筆。天明二(一七八二)年宮田金峰序。

 以下の段落は底本では、さらに二字下げとなり、ポイントさえ落ちている。則ち、補説である前段の、そのまた補記の意味合いである。熊楠らしいダラダラであるが、見た目の変化を加えてあるだけマシである。

 

「ユリツセス」故鄕に歸りて、不在中其妻「ペネロペ」を競望せし輩と、射を試み、勝て彼輩を射殺せし弓は、無双の射手「ユリツセス」が手馴せし物也、其事略[やぶちゃん注:「ほぼ」。]射場某が、寬文中、備前酒折の社所藏の、百合若の鐵弓箭を試しおほせたるに似たり、(和漢三才圖會卷七八)、「ユリツセス」の名亦百合若に近し、奸人の張本別府と有るは、偶ま「アンチノウス」と「ペネロペ」を混じ違へたるやらん。

 

[やぶちゃん注:ユリシーズ(オデュッセウス)の流離の果ての帰国の後の話は、ウィキの「オデュッセウス」から引く。オデュッセウスが、やっと故郷へと故国イタケーに帰国して見ると、『妻ペーネロペーに多くの男たちが言い寄り、その求婚者たちはオデュッセウスをもはや亡き者として扱い、彼の領地をさんざんに荒していた。オデュッセウスはすぐに正体を明かすことをせず、アテーナーの魔法でみすぼらしい老人に変身すると、好き放題に暴れていた求婚者たちを懲らしめる方法を考えた。ペーネロペーは夫の留守の間、なんとか貞操を守ってきたが、それももう限界だと思い、「オデュッセウスの強弓を使って』十二『の斧の穴を一気に射抜けた者に嫁ぐ」と皆に知らせた。老人に変身していたオデュッセウスは』、『これを利用して求婚者たちを罰しようと考えた』。『求婚者たちは矢を射ろうとするが、あまりにも強い弓だったため、弦を張ることすらできなかった。しかし、老人に変身したオデュッセウスは弓に弦を華麗に張ってみせ、矢を射て』総て『の斧の穴を一気に貫通させた。そこで正体を現したオデュッセウスは、その弓矢で求婚者たちを皆殺しにした。求婚者たちも武装して対抗しようとしたが、歯が立たなかった。こうして、求婚者たちは死に、その魂はヘルメスに導かれて冥界へと下って行った』。『ペーネロペーは、最初のうちはオデュッセウスのことを本物かどうか疑っていたが、彼がオデュッセウスしか知りえないことを発言すると、本物だと安心して泣き崩れた。こうして、二人は再会することができたのである』。

「射場某が、寬文中」(一六六一年~一六七三年)「備前酒折」(さかをり)「の社所藏の、百合若の鐵弓箭」(ここでは「和漢三才図会」の記載との対照(後掲)から「てつのゆみ」と仮に当て訓しておく)「を試しおほせたるに似たり、(和漢三才圖會卷七八)」「和漢三才圖會」の地誌部の巻第七十八「備前」の「當國神社佛閣名所」の二番目に「酒折(さかをり)の社 岡山の石關に在り」として挙げて解説した最後に(原本から訓読して示した)、

   *

相傳ふ、百合若(ゆりわか)麿、持つ所の鐡弓、當社に納む。未だ然る由來を知らざるなり。人、之れを引くこと能はず、以つて奇と爲すと。而して寬文年中、當國武臣射塲(いばの)藤大夫といふ者有り、世に鳴る。是に於いて、試みに、之れを引き、難しと爲さず、且つ、之れを挽き折り納むと云々。

   *

この「酒折社」は現在の岡山県岡山市北区石関町にある岡山神社である。この話は、大朏東華(おおでとうか:人物不詳)の随筆「斉諧俗談(せいかいぞくだん)」(宝暦八(一七五八)年刊)の巻之三にも以下のようにある(吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化し、読みを総て推定で歴史的仮名遣で示した)。

   *

   〇百合若丸之弓(ゆりわかまるのゆみ)

備前國赤坂郡酒折石上(さかをりいしがみ)の社に、百合稚丸(ゆりわかまる)の鉄弓(てつゆみ)あり。人、是をひくことあたはず。しかるに、寬文年中、當國の武臣射場藤太夫(いばとうだいふ)といふ人、世に聞(きこえ)し强弓(がうきゆう)なり。この人、試にかの弓を引(ひき)て難(なん)とせず。終(つひ)に此弓を引折(ひきをり)て納むと云(いへ)り。

   *

「アンチノウス」ローマ皇帝ハドリアヌスの愛人として寵愛を受けた夭折した青年アンティノウス(Antinous 一一一年~一三〇年)のことぐらいしか浮かばない。「ユリシーズ」(オデュッセウス)の物語に近似音の名前は見出せない。

 以下、底本では再び一字下げに戻る。

 

 但し南蠻人の名は、必しも歐洲人に限らず、歐人初て來たりしより百五十餘年前、南亞細亞の囘敎國民、若狹に著せし等の例、渡邊世祐氏の室町時代史三二〇―二三頁に見えたり、采覽異言卷三に、明の章潢の回々館の記を引き、如占城日本眞臘瓜哇滿刺加諸國、皆習回回敎、遇有進貢番文、亦屬本館代譯と云り、囘々敎國ならぬ日本の假字書も、都合上回々館にて扱しと見え(大英類典二二卷六五九頁に、日本を囘敎國とせり、四年前三月二日の「ノーツ・エンド・キーリス」に、予一書を投じ、其出所を問しも、今迄答る者無し、件の明人の記抔に據る誤傳ならんか)、允澎入唐記、享德二年十月十三日、南蠻瓜哇國人百餘人、在館求通信於日本とあれば、邦人當時、海外で回敎民と交りしを知るべし、爾前囘敎勃興して、亜剌伯人[やぶちゃん注:「アラビアじん」。]全盛の時、古希臘羅馬の文字、歐州に亡て、彼輩に保存されたりてふ程なれば、邦人海外に赴きて回敎民より傳へたる、古歐洲の物語少々には非じ、棚守房顯手記に、百合若の父公光の篳篥[やぶちゃん注:「ひちりき」。]、嚴島に存すと云ひ、鹽尻、帝國書院刊本、上卷六六四頁に、百合若、豐後國船居に傳る故事なりとて、之に關せる遺蹟を列ね、紫の一本に肥後に百合若塚あり、土人云、百合若は賤き者也、世に大臣と云、大人也、大太とも云、大人にて、大力有て强弓を引き、能く礫を打つ、今大太ぼつちとは、百合若の事也、ぼつちとは礫の事也とぞと云り、(四十一年四月十五日の東洋學藝雜誌、予の「ダイダラホウシの足跡」參看)、是れ等は、本邦固より斯る巨人の俚傳有しに、後世百合若の名を附會し、隨て遺物遺跡抔と故事付けたるにや、松屋筆記、卷九三、豐後國志に、百合若は、大分君稚臣[やぶちゃん注:「おほきだのきみわかおみ」。]が事、是れ天武紀に見たる勇士、豐後大分郡の人也と云るも、其名より臆測したる牽强らしく思はる。

[やぶちゃん注:途中の「抔」が二箇所「杯」となっているが、初出・「選集」で訂した。また、「囘」「回」が混用されているのはママである(初出は総て「回」)。

「渡邊世祐氏の室町時代史三二〇―二三頁に見えたり」これは既に注した早稲田大学出版部から刊の時代別に分割された歴史叢書「大日本時代史」(「国立国会図書館サーチ」の同書の検索結果ページのこちらを参照)の一冊。原本は、後の大正期の版ではあるが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全巻が読め、ここで熊楠が示すのはこれ。著者は日本史学者渡辺世祐(よすけ 明治七(一八七四)年~昭和三二(一九五七)年:山口県生まれ。明治大学・國學院大學教授。文学博士)。しかし、このページ数は誤りのようにも思われる(大正版が初版と同ページとしてで、初版の版組みはズレているのかも知れぬ)。「二五二」ページから「二五三」ページの「第二編 室町全盛時代 第七章 室町盛世の外交」の一番最後の「第六節 琉球及び諸外國との交通」の「第二 外國との交通」の内容がまさにそれだからである(このページ数は「選集」版も変わらない)。その「二五五」ページの後ろから六行目の段落に、

   *

かく南北朝の末より亞剌比亞人と思はるゝ人既に歸化せり。これ幸に大乘院雜事記のあるありて其名を知ると雖ども他に中國及び鎭西地方にも此等と類似の人も亦歸化せしならんも記錄なければ知り難し。又若狹守護職次第【群書類從にあり】にも「應永十五年十一月十八日大風に那珂湊濱へ打上られて南蠻船破損之間同十六年に船新造。同十月十一日出濱ありて渡唐了」とあり、又若狹國税所今富名領主代々次第【類集[やぶちゃん注:ママ。]中に收む】にも此事を一層詳細に書けり、乃ち同十五年六月二十二日に南蕃船着岸。帝王御名亞烈進卿。蕃使使臣【間丸本阿】彼帝より日本の國王への進物等生象一匹【黑】、山馬一雙、鸚鵡二對、其外色々。彼船同十一月十八日大風にて中湊濱へ打上げられて破損云々」とあり。この南蠻の王名及び進貢物に付き考ふるもこの本國は印度若くは馬來半島近傍にありしならん。而してこの南蠻の國王より使聘を我邦に致せしなり。而して其使船は行路を誤りて若狹に嫡せしなり。元來南蠻とは西洋人の東洋に渡來せる者を稱して云ひしなれどもこの頃其意味は博げられ南洋印度若くは西洋人に對しても一般に南蠻人と稱せしなり。この南蠻船の來航に付き考ふるに亞細亞の一王は日本と交通する事を望みしなり、乃ちこれ外國人が貿易を日本に求めんとせし事なり。斯る時勢なれば當時ヒシリなどゝ同じく漂流船若くは貿易船にて我國に渡來せし外國人尙ほ多いかりしならん。

 

   *

とあるのを熊楠は指しているからである。「ヒシリ」というのは「靈知り」などと当てて怪しげな説明をしている記事が多いが、サイト「イスラーム文化」のこちらの、小村不仁男氏著の日「本イスラーム史・戦前、戦中歴史の流れの中に活躍した日本人ムスリム達の群像」(昭和六三(一九八八)年・東京・日本イスラーム友好連盟刊)の「第三章 室町時代」に、まさに以上に事件を記した「アラビア人と国際結婚した京の女性」を始めとして、「アラビア商船と琉球列島」・「京に伝わる七百六十余年昔のイラン文の古書」・「真言宗の大本山にイスラムの秘宝が」と標題する記事が続き、その一番最後に、「六百年昔に京で日本人女性と国際結婚したアラブ人第一号」とあって、

   《引用開始》

今から約六百年も昔に京都のど真中にひとりのアラピア人が住んでいた。場所は三条坊門烏丸で、現在の中京区御地烏丸付近にあたり、ちょうど京都市役所から南へ万百メートルあるかないかの近距離のところである。室町初期の将軍足利義満の頃のことで、その名はヒシリと一般に呼ばれていたが、京都五山の一つである相国寺の僧絶海中津らが留学先の中国(明)から京へ連れて帰ってきたのである。永和二年(二二七六)のごとく南北両朝の対立抗争のさ中であった。

彼は日本に入国後に摂津の楠葉つまり今の大阪府下枚方市樽葉在の一日本婦人と結婚して二兎[やぶちゃん注:「児」或いは「男」の誤りか。]をもうけた。長男はムスルと呼ばれいわゆる日ア混血児である。このムスルとはムスリムかあるいはアル・マウシルの転化ではなかろうか。

さて、ムスルはその後母方の姓を採って楠葉入道西忍と名乗り、次男は民部卿入道と呼んだ。次男には子供ができなかったが、長男のムスルには三人の男児が出生した。

ムスルは義満の次の四代将軍義持に重用された。彼が海外事情とりわけ明の国情に詳しくその上に航海術に精通していたからである。三十六本のをき以来[やぶちゃん注:意味不明。「三十六歳のとき」か。]再三にわたり父ヒシリゆかりの明の国に渡航して足利幕府の海外通商貿易の今くいう[やぶちゃん注:「でいう」か。]顧問のような役職に就任していた。

彼は義持将軍の没後隠退してからは大和(奈良県)の古市に転居し文明十八年(一四八六)に、九十三才の天寿を全うして長逝したと伝えられている。以上は「大乗除寺社雑事記」という史料に所載されたものの中からの摘記である。

   《引用終了》

とあったので氷解した。

「采覽異言」(さいらんいげん)は新井白石が宝永五(一七〇八)年に布教のために来日したイタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチ(Giovanni Battista SidottiSidoti) 一六六八年~正徳四(一七一四)年十一月二十七日:牢死)を尋問して得た知識などを基に著わされた日本最初の組織的世界地理書。マテオ・リッチの「坤輿万国全図」や、オランダ製世界地図などの多くの資料を用い、各州名国の地理を説明しながら、所説に典拠を明らかにしたもの。全巻を通じ、世界各地の地名、その他の地理的称呼をマテオ・リッチの漢訳に倣い、「歐羅巴(エウロパ)」(ヨーロッパ・巻之一)・「利非亞(リビア)」(アフリカ・巻之二)・「亞細亞(アジア)(巻之三・上下)・南亞墨利加(ソイデアメリカ)(南アメリカ・巻之四)・北亞墨利加(ノオルトアメリカ)(北アメリカ・巻之五)の順に、世界各国の地理が漢文で書かれたもの。正徳三(一七一三)年の成稿であるが、その後も加筆が続けられ、享保一〇(一七二五)年に最終的に完成した。国立国会図書館デジタルコレクションで江戸後期の写本で同巻が見られるが、二度ざっと見たが、この文字列は見当たらなかった。

「章潢」(一五二七年~一六〇八年)は明代の学者。江西南昌生まれ。マテオ・リッチの友人でもあった。

「回々館の記」章潢が一五七七年に完成させた類書(百科事典)「圖書編」(全百二十七巻。二百十一種の書から資料を採り、多くの図を挿入して記事の理解を助け、天地・自然・人事の全般を系統立てて要領よく述べたもの。明代史研究の重要史料とされており、西洋学の学習にも焦点を当てている)の中の「回回館」の記載であろう。「中國哲學書電子化計劃」で『「圖書編」卷五十一至卷五十二』の「回回館」が読めるが(非常に長い)、その冒頭に(漢字の一部を変更した)、

   *

回回左西域地與天方國鄰其先卽點德那國王謨罕慕德生而神靈臣服西城諸國職國尊爲別諳援爾華言天使也國中有佛經內十藏几三千八百餘卷書筵策草精西洋諸國皆用之隋開皇中國人攝吟八轍阿的幹葛思始傳敎入中璽本朝宣穗中國王遣人隨天方國朝貢由肅州入至今或三年五年一貢其地有城池宮室田園市肆大類江淮間寒署應候民物蕃感亦有陰陽星應醫藥音樂諸採藝人俗重殺非同類殺不食不食豕肉其附近諸國如土魯番天方塞馮爾堪舊隷本館諄審此外如占城日本眞臘爪吐滿刺加諸國皆習回回教遇有進貢番文亦屬本館代譯

   *

とある最後の部分が、熊楠の引くものと一致する。なお、「回々記」と熊楠は記すが、「々」は漢字ではなく、日本で勝手に作った繰り返し記号であって、中国では通じない(但し、近年、逆輸入しているとも言われる)。

「如占城日本眞臘瓜哇滿刺加諸國、皆習回回敎、遇有進貢番文、亦屬本館代譯」訓読しておく。

   *

占城(チヤンパ)[やぶちゃん注:チャンパ王国。現在のベトナム中部に存在したチャム族の国家。]・日本・眞臘[やぶちゃん注:カンボジア。]・瓜哇[やぶちゃん注:ジャワ。]・滿刺加[やぶちゃん注:「マラフカ」。マラッカ王国。マラッカ海峡に面したマレー半島とスマトラ半島に跨る地域にあったイスラム教国。]諸國、皆、回回敎を習ふ。進貢の番文有るに遇へば、亦、本館に屬(しよく)して代譯せしむ。

   *

「番文」「蠻(蕃)文」で異国人の言語で書かれた貢物の添え状。

「大英類典」英語の百科事典として最も古い歴史を持つ「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopedia Britannica)のこと。初版は一七六八年刊行。二〇一〇年度版を以って紙ベースの出版は終了しオンライン版のみとなった。

『四年前三月二日の「ノーツ・エンド・キーリス」に、予一書を投じ、其出所を問し』「四年前」は明治四〇(一九〇七)年。「二日」は底本では「廿日」で初出も「廿日」であるが、「選集」は『二日』とし、「二日」が正しいので、特異的に訂した。「Internet archive」の当該の「Notes and queries」を見られたい。右ページの右の欄の一番最後の投稿である。この回の発行は三月二日である(当該ページの上部欄外ヘッダーのクレジットを見られたい)。

「允澎入唐記」室町時代の臨済僧東洋允澎(とうよういんぽう ?~享徳三(一四五四)年:絶海中津(ちゅうしん)の法を嗣ぎ、京の天竜寺の住持となった。室町幕府の遣明(けんみん)正使として享徳二年に渡中し、任務を果たしたが、帰国の途中の享徳三年五月二十一日(一説に十二月二十八日)に病死した)に同行した笑雲瑞訢(しょううんずいきん)による「允澎入唐(にっとう)記」。国立国会図書館デジタルコレクションの「続史籍集覧」第一冊で活字化されている(日録)当該条はここ(右ページ八行目)。

「享德二年十月十三日、南蠻瓜哇國人百餘人、在館求通信於日本」訓読すると、「享德二年十月十三日、南蠻の瓜哇(ジヤワ)國の人百餘人、館に在りて、通信を日本に求む。」。

「爾前」「にぜん」。「に」は「爾」の呉音。それ以前。「じぜん」と呼んでも構わない。

「棚守房顯手記」野坂(棚守)房顕(ふさあき 明応四(一四九五)年~天正一八(一五九〇)年:厳島神社の神官で、厳島神社大宮の宝蔵を管理する「棚守(たなもり)職」を世襲する野坂氏の出身であるが、職名から棚守房顕の名で知られる。大内義隆や毛利元就らの御師(おし)となり、厳島神社再興に尽力した)が天正八(一五八〇)年三月に嫡男元行への置文(おきぶみ:一族や子孫に対して現在及び将来に亙って遵守すべきことを書き記した中世日本の文書。近世以後の遺言の原型とされる)様のものとして書いた「棚守房顕覚書」のこと。サイト「宮島観光旅行まとめブログ」の「棚守房顕覚書(資料)」の「棚守房顕覚書139 野坂家家宝のこと」に(そこに載る原文の漢字を恣意的に正字化し、句読点・記号を変更・追加した。読みは推定で私が補ったものである)、

   *

一、當社家、奉行を存ずる上は、何と候(さふらふ)ても、名を殘し度(た)き故、「ゆり若殿」の御父德大寺公光(きんみつ)の篳篥(ひちりき)、野間家斷絕に付き、房顯、もとめ、野間家の家書・目錄とともに、寳藏に納めをく。又、橫萩大臣の姬君、中將姬の繪掛け物、阿彌陀三尊栴檀は棚守の内儀寳藏へ納める。

將又(はたまた)、天王寺の伶人蔦ノ坊、岡兵部小輔(をかのひやうぶしやうすけ)の父、薗式部(そののしきぶ)、東儀(とうぎ)因幡守、細々(さいさい)[やぶちゃん注:「懇ろに」の意でとっておく。]、下向あり。

然(しか)る處に、京一(きやういち)の琴なれば、「法華」と名づくるを、銀子五百文にもとめ下す。當社、末世の調法なり。佐々木の「綱切り」と傳ふ「あをの太刀」、野坂家の重代たり。神領一亂の砌(みぎり)、棚守が手に渡る。社家の事なれば、寳藏に納める。末代の事なり。

   *

とある。『「ゆり若殿」の御父德大寺公光』はウィキの「百合若大臣」によれば、百合若の父は「幸若舞」では『嵯峨朝の左大臣「公満(きんみつ)」』とし、注に『説経正本には、父親が「四条公満」で、百合若の元服名は「公行(きんゆき)」と見える』とある。しかし徳大寺家・四条家にも「公光」「公満」の人物は見えない。

「鹽尻」江戸中期の随筆。天野信景(さだかげ)著。現在の通行本は門人堀田六林(ほったりくりん)が考訂した百巻本で、原書は一千巻近くあったというされるが、多くは散逸した。大部であり、且つ、近世随筆の中では時代が早いことから、世に広く知られる。信景は名古屋藩士で、本書は、元禄(一六八八年~一七〇四年)から享保(一七一六年~一七三六年)にかけて、彼が諸書から記事を抜粋し、自身の意見を記したもの。対象事物は歴史・伝記・地誌・言語・文学・制度・宗教・芸能・自然・教育・風俗など、多岐に亙っており、挿絵もある。私は吉川弘文館随筆大成版(全六冊)を、兎部屋の書庫には置きようがないなと、買いそびれてしまい、持っていない。

「帝國書院刊本、上卷六六四頁」国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ(右ページ上段中央から)で原本を視認出来る。以下に電子化する。句読点・記号と、推定で濁点を打った。

   *

○世にいふ百合若【或は大臣と稱す。】、豐後國船居に傳ふる故事也。百合若塚は船居の萬山萬壽興禪寺にあり。二十餘年前、揚宗和尙の時、塚を發く。石棺の内、立る白骨、一具あり。亦、古刀一柄、朽のこりし。領主も見られし。命して、元のごとく、埋みて祀られしとなん【此說、百合若は、淡海公の三男參議、宇合一には[やぶちゃん注:意味不明。]「島養」と稱せし、此人なり、と。されども、據ある古書を見はべらず。】百合若の女を萬壽といふ。鄕の「菖(シヤウブ)が池」に沈みし後、寺を建て、菖山萬壽寺と號す。百合若が奸臣別府太郞・同次郞が塚とて別府村にあり。高二、三尺とぞ。百合若あひせし鷹を「綠丸」といひし。州の鷹尾村より出しといふ。今、猶、よき鷹を產すといへり。凡、百合若の事、九國風土の説にして、昔し、其人有しと聞ゆ。されど、古記・實錄、所見なきにや。上野國妙義山に百合若の故をかたるも、いぶかし。浦島が事は、「丹後風土記」に見へしを、信濃國寢覺にもいふがごとし。

   *

「紫の一本」(むらさきのひともと)は江戸前期の歌学者戸田茂睡(とだもすい 寛永六(一六二九)年~宝永三(一七〇六)年:駿府城内生まれ)の仮名草子。江戸地誌の体裁をとりながら、文学的な要素も強い。成立は天和年間(一六八一年~一六八四年)前後と推定されている。当該部は巻下の「橋」の「だいだ橋」。国立国会図書館デジタルコレクションの「戸田茂睡全集」(大正四(一九一五)年国書刊行会刊)の当該箇所で視認して電子化する。一部に記号・読点を追加し、句点への変更も行った。一部に読みを推定で附した。編者注の割注も再現した(太字は底本では傍点「ヽ」。但し、これは編者が注のために打ったものである)。

   *

「だいた橋」。「だいたぼつち」が掛(かけ)たる橋のよし、云(いひ)傳ふる。四谷新町の先、笹塚の手前なり。肥後国八代領の内に「百合若塚」と云あり。塚の上に大木あり。所の者云(いはく)、「百合若は賤(いやし)き者なり。大臣と云は大人(だいじん)なり。『大太(だいた)』とも云(いひ)、大人(おほひと)にて、大力(だいりき)ありて、强弓(つよゆみ)を引き、よく礫(つぶて)を打つ。今、『大太ぼつち』と云は、百合若の事、『ぼつち』とは「礫」の事なり」とぞ。一とせ、大風にて、右の塚の上の大木、たふれて、(塚【正本アリ】、)崩(くずれ)たる中に、石の「からうと」[やぶちゃん注:「屍櫃」(からうと(かろうと))。「からひつ」の音変化。「かろうど」とも呼ぶ。遺骨を納める棺。]有り。内を見るに、常の人の首四つ・五つ合せたる程の首、有り。不思議を立(たて)て、見る内に、雪霜(ゆきしも)のごとく、消失(きえう)せぬ。依ㇾ之(これによりて)、大き成る卒塔婆をたて、右の樣子を書付(かきつけ)て、塚の上に立(たつ)る。其卒塔婆、今にありとぞ。百合若の事、筑紫人(つくしびと)にて、玄海が島に(正本ナシ)て鬼を平(たひら)ぐる事、百合若の舞に見えたり。然るに、奥州の「島の内」に「百合若島」と云ありて、「みどり丸」と云(いふ)鷹の事まで、慥(たしか)にある島あり、とぞ。又、上州妙義山の道にも、「百合若の足跡」・「矢の跡」とてあり、此外にも、「大太ぼつち」が足跡・力業(ちからわざ)の跡、爰かしこにあり。

   *

『四十一年四月十五日の東洋學藝雜誌、予の「ダイダラホウシの足跡」』。「南方熊楠 小兒と魔除 (3)」で既出既注。そこの私の注と、そこにリンクさせたものを参照されたい。

「松屋筆記」江戸後期の国学者小山田与清(ともきよ)の手になる辞書風随筆。全百二十巻。文化一二(一八一五)年頃より弘化三(一八四六)年頃にかけての筆録で、諸書に見える語句を選び、寓目した書の一節を抄出しつつ、考証・解釈を加えたもの。その採録語句は約一万にも及び、国語学・国文学・有職故実・民俗などに関する著者の博識ぶりが窺える。現存は八十四巻。明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊のこちらで視認出来る。電子化する。

   *

)百合若(ユリワカ) 百合若草子に見えたる百合若大臣いまださだかならず豐後國志に大分君稚臣(ワカオミ)が事也といへり大分君雅臣は天武紀に見えたる勇士にて豐後大分郡の人也

   *

熊楠はこれを「其名より臆測したる牽强らしく思はる」と退けているので、「豐後國志」や「大分君稚臣(ワカオミ)」(「選集」はこれに『おおきだのきみわかみ』とルビするが、従わない)や「天武紀」は注しない。悪しからず。]

2021/01/28

怪談登志男 十一、現在墮獄 / 怪談登志男卷二~了

 

   十一、現在墮獄(げんざいたごく)

 今はむかし、武陽、豐島郡の商家に、米屋與兵衞といへる者ありける。男子二人あり、兄を甚兵衞といゝしが、きはめて吝(しは)きおのこなり。次男を佐兵衞と云しが、大なる婬氣(たはけ)ものなりける。

 ある時、與兵衞が庭の中に、一夜の中に、穴、出來て、わたり四尺ばかりの口なるが、覗見れば、閽して、其深きこと、限り知れず。

 夜に入て、此穴の底より、哀(あはれ)に悲しき聲にて、與兵衞夫婦が名を、呼(よふ)事、ひまなければ、家内、何となく物冷(すさ)まじく、日暮ては、

「此聲を聞(きか)じ。」

と、夫婦、はなれ家の幽(かすか)なる所にうつれば、下部も、各、臥所(ふしど)に閉籠(とぢこも)りて、商賣の事も、おのづから、うとくなり行ぬ。

「斯(かく)ては、いかゞ。」

と、樣々の祈念などせしが、さらに其しるしもなかりけり。

 かゝることありて、

「家も、やゝ衰へたり。」

と、きゝて、靑山に住けるものの、與兵衞にしたしみ深きおのこ、來りて、始終の物語を聞、

「左樣のこと、見とゞけずんば、あるべからず。」

と、腰に長き繩を付、大勢、下部どもにひかへさせ、無二無三(むにむざん)に飛入たるに、

『十丈[やぶちゃん注:約三十メートル。]もや、あらん。』

と思ふ所の橫に、拔道(ぬけみち)あり。

 かしこに至りて見れば、猿のごとくなるもの、數十、居並(ゐなら)びたるが、各、言葉を揃て、

「我々は、與兵衞夫婦が父母をはじめ、祖父母・曾祖父母、みなみな、先祖の輩なるが、いづれの與兵衞が代にも稀なる、今の與兵衞が邪(よこしま)、世人(よひと)、皆、うとみ、にくむ。其子甚兵衞は利慾をもつぱらにし、一點の信義も、なし。次男左兵衞は、あけくれ、大酒・淫亂にして、さらに善事をなすこと、なし。先祖考妣(かうひ)は、昏々(こんこん)たる冥途に有て、猶、罪業(ざいごう)に重苦(じうく)を受得て、各、無間(けん)に落入たり。是、皆、與兵衞が利慾に他を苦しむる故なり。〆賣(しめうり)・〆買(しめがい)、二升(ます)の罪にて、我等、皆、かくのごとし。此むね、與兵衞に、つぶさにきかせよ。」

といふ言葉の下より、手に手に、筆を取て、此男の脊中(せなか)に、面々の戒名・俗名、つまびらかに書付、穴の中より、突(つき)出す。

 繩の動[やぶちゃん注:「うごく」と読んでおく。]を見て、下部共、繩を手ぐりて、引あげければ、與兵衞夫婦をはじめ、皆々、圓居(まとゐ)して、彼(かの)男を中に取まき、

「いかにや、いかにや。」

と樣子を問ければ、はじめ終(おはり)を、くはしく語り、脊中の文字を見せけるに、あらそふべき言葉も、なき。

 みなみな、先祖代々の法名・俗名、其中に、いまだ、きかざる俗名など、一家の老人にきけば、いかにも疑ひなき先祖なれば、與兵衞夫婦も、一念發起して、甚兵衞に家を讓り、剃髮受戒し、武州越谷(こしがや)に、庵をむすびて、後世を勤む。

 甚兵衞は志(こゝろざし)をあらため、つき米やを改て、小間物賣に仕替(しかへ)、年久しき住居は、あき家となりて、荒はてしが、穴もふさがり、怪しき事も、やみける。

 

[やぶちゃん注:これは私は今まで類話を見たことがない特異点の怪談である。現在地獄に苦しむという設定は数々あれど、背中に戒名・俗名を逐一書き出して証拠とするというのは、何んとも凄まじいものを感ずる。或いは芳一話の経文を体中に書くという辺りにヒントを得たものではあろうが、ともかくも面白い一篇である。

「武陽、豐島郡」「としまのこほり」。「豊嶋郡」とも表記した。武蔵国の中でも非常に古くから栄えていた郡の一つであり、多摩郡に次ぐ大きな郡であった。その郡域は現在の練馬・豊島・板橋・北・荒川・台東・文京・新宿の各区と千代田・港・渋谷区の一部を含むものであった。されば、逆にロケーションを限定することは出来ない。但し、手広くあくどい米商いを展開していたことを考えれば、現在の東京都豊島区内(グーグル・マップ・データ。以下同じ)を考えてもよかろうかとは思う。後に出る「青山」(東京都港区青山)ともここならば、近い。

「婬氣(たはけ)」当て訓。愚か者。しかし、後の祖先の批判を見れば、特に大酒呑みの淫乱であったことが判る。

「閽して」原本にもルビがない。「くらくして」と読んでおくが、実はこの漢字にはその意味はなく、「門番」・「宮門」・「宦官」・「足切りの刑を受けた者」の意である。「昏」の字を含むために、「闇」などと通字と誤解したものであろう。

「幽(かすか)なる所」普請の粗末な離れ屋の意でとっておく。如何にこの声が空恐ろしいものであったことを示す効果がある。

「考妣(かうひ)」「考」は「亡父」、「妣」は「亡母」の意。亡き父母のこと。

「無間(けん)」無間(むげん)地獄。阿鼻(あび)地獄とも呼ぶ。地獄の最下層にある最悪の地獄とされる。剣樹・刀山・熱湯などの苦しみを絶え間なく、しかも想像を絶する永い間、受け続けるとする。

「〆賣(しめうり)」江戸時代の商行為に於いて、品物を買い占めて(こちらが「〆買(しめがい)」)、供給量を意図的に制限した上で、高値を設定し、やおら売り出して、ぼろ儲けをすること。

「二升(ます)の罪」与兵衞は米屋であるから、それに掛けて、地獄の罪の裁量のそれを、米を実計量する最大の計量具たる「升」に喩え、それがさらに「〆買」と「〆賣」とで、ダブルでダメ押ししたものである。

「圓居(まとゐ)して」「まどゐして」。穴から帰還した男を中心に車座になって。

「越谷(こしがや)」埼玉県越谷市

「後世」私は常に「ごぜ」と読む。

「つき米や」「搗米屋」。搗米は精米する作業を指し、近世にはこれを専業とするものが現われ、「搗米屋」と呼ばれて、米穀流通の最終過程を担当した。江戸には延享元(一七四四)当時で十八組、凡そ二千百人の搗米屋が存在し、臼五千五百基ほどを使って営業していた。このほか、搗米を営むものとして「大道搗(だいどうつき)」が、享保一二(一七二七)年当時で千百人ほどいた。「搗米屋」・「大道搗」は、ともに玄米を河岸八町米仲買(二十五人)、脇店八ヶ所組米屋(二百七十五人)から買い入れて白米にして消費者に売っていた(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。因みに本書の刊行は寛延三(一七五〇)年であるから、「今はむかし」と始まるものの、読者の時代は上記の延享元年頃と近い。

「仕替(しかへ)」やり直し。転職し。]

怪談登志男 十、千住婬虵

 

   十、千住婬虵(せんじゆのいんじや)

 

Injya

[やぶちゃん注:挿絵は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像をトリミングした。]

 

 人、化(け)して、物となりし例(ためし)、唐(もろこし)の書にも、かずかず、しるしたれど、まさしく目に見たるといふ人もなく、遠き昔の事なれば、いかゞと疑ひけるに、近く聞つたへしは、慶長の頃にや、武州千住の在鄕に、一人の百姓の娘、眉(み)目容(かたち)、世に稀なるのみか、心ばへまで、やさしく、下ざまにも、かゝる女もあればあるものかは、茨(いばら)の枝(えた)に花咲ぬる心地、泥を出たる、はちすのごとし。あたりの人は、いふもさらなり、徃還(おふくわん)の貴賤、是が爲に足をとゞめ、かへり見ざるものもなかりける。

 それが中に、粕壁(かすかへ)の里に住(すむ)、弥一郞とかや聞へしおのこ、女を戀はたりけれど、宿(しゆく)世の契りこそ、うすかりけん、千束(ちつか)の文も、手にさへ、ふれざりければ、

「戀死(こひし)にせし。」

と聞て、娘が親共、いと心憂き事に思ひけれど、せんかたもなく、打過しけり。

 かくて後、相應の者ありて、聟に取、今宵、婚禮とて、一家、集(あつま)り、にぎにぎしく祝て、兩親も、心、落(おち)つき、

「寢覺(ねさめ)もやすくなりし。」

と、よろこびける。

 二日めの朝、夫婦、いまだ起(おき)出ざるを、

「餘り、日たけて、音もなし。」

と、家に久しき老女、部屋に入て見るに、娘は、何ともわきまヘず、泣臥(ふし)して居(ゐ)たるさま、心得がたく、立寄見れば、無慘や、聟は、息、絕(たへ)、死骸の眼(め)鼻に入たる、細虵(くちなは)、幾つともなく、身をしめ付たり。

 見るめも淺ましく、

「斯(かく)。」

といふより、家内、大きに驚き、聟が親も駈(かけ)附、よべまで、ことぶきし家の、忽(たちまち)、うれへ歎く。

 まことに、人界(がい)の習(ならい)とはいゝながら、榮枯、手のうらを翻すがごとし。

 歎暮(なげきくれ)てもゐられず、寒林に送りて、一堆(たい)の土饅頭、見る人、泪、落して、あはれびける。

 其頃、此あたりの溢者(あふれもの)に、「生鐡(かね)細金」なんど、いふめる無賴の惡少年、

「此娘を、うばひとらん。」

と、雨風烈しき夜のまぎれに、難なく、忍び入たりしが、一味同志の奴原(やつばら)、

「今や、今や。」

と待居たれど、夜も更ゆけど、先に忍び入し、豆腐屋の長助、一向に出ざれば、皆々、氣味あしくなりて、立去りし跡に、娘が方には、人、立さはぎ、

「いかなるものか忍び入て、死し居たり。」

と、あはて、まよふ。

 隣家(りんか)の人、立寄見るに、大の男の腹を、蛇(へび)、二筋(すじ)まで、まとひつき、色、かはりて、死してありしを、大路(ぢ)に出し、是を曝(さら)しけれど、元來(もとより)、忍入たるが、極めて越度(おつど)なれば、たれ、咎むる人もなく、事、濟ぬ。

 娘が親ども、いろいろ、祈禱せしが、いさゝか、しるしもなく、蛇(へび)は、娘がかたはらを、しばらくも、立さらず。

 ある人の、いはく、

「是、此娘をおもひ懸(かけ)し者の、死したる一念の、婬蛇(いんじや)なるベし。若[やぶちゃん注:「もし」。]、此蛇を喰盡(くいつき)たらん人を、むこがねにせよかし。」

と、おしへぬ。

「さらば。」

とて、此事を、あまねく、人に告(つげ)けれど、たれ、來りて喰べし、といふ者もなく、娘も瘦衰(やせおとろ)へけるが、其後、此娘が事、たれ、いふともなく、

「蛇(じや)に成て、鱗(うろこ)、生(せう)ぜし。」

と風聞せしが、次第に流布(るふ)して、江戶までも、其沙汰、もつぱらなりしに、娘は、いつの頃よりか、親にさヘまみへず、引込、打ふしけるが、ある時、雨風はげしき夜、岩渕(いはふち)の深き池に飛入て、跡かたもなく、なりぬ。

「おそろしきは、人の一念なり。これ、まつたく、粕壁の弥一郞が執念なるべし。」

と、古き人の語りし。

 

[やぶちゃん注:「蛇」「蛇」の混用は原本によって改めたもの。底本は総て「蛇」表記である。

「慶長」は一五九六年から一六一五年までであるが、慶長八(一六〇三)年二月十二日の江戸幕府を開府(徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた)以後のこととしてよかろう。

「千住」現在の東京都足立区千住(グーグル・マップ・データ。以下同じ)を始めとした旧千住町一帯。隅田川の左岸で、江戸御府内の辺縁に接する。文禄三(一五九四)年に隅田川に千住大橋が架けられて五街道の整備が進められたことで、慶長二(一五九七)年に奥州街道・日光街道の江戸から一番目の宿駅に指定された。芭蕉の「奥の細道」で、

   *

千じゆといふところにて舟をあがれば、前途三千里のおもひ、むねにふさがりて、幻のちまたに離別のなみだをそゝく

 行(ゆく)はるや鳥啼(なき)うをの目は泪(なみだ)

   *

とあるのに、あなたは違和感を持ったことはないか? 芭蕉庵から九キロメートルに満たない上流にあったのが千住大橋であったのに、芭蕉、というより、当時の「江戸っ子」にとっては、「千住」は「といふ」と記しても違和感がないほどに、江戸の外れの外の田舎町(実際には宿として繁華であっても)として認識されていたことを意味するのではないか。これは江戸御府内の北北東の境界認識が、一つ、まさにこの「千住大橋」にあったからに他ならないと私は思う(但し、厳密にその範囲を公的に幕府御府内として提示したのは、ずっと後の文政元(一八一八)年の「文政江戸朱引図」であった。因みに、そこには狭義の「御府内」と、その外縁(朱引きと黒引きの間)が示されてあり、南千住付近でさえ、その外縁に当たるとしたのである。サイト「ビバ!江戸」の「江戸の範囲」を参照されたい)。因みに、その内側にある現在の南千住の近くには、小塚原刑場があったことからも、ここが民俗社会としても江戸の日常の辺縁であったことを示す証左であると言えるように私は思う。そうでなくてどうして最後に「次第に流布(るふ)して、江戶までも、其沙汰、もつぱらなりし」と書けようか?

「粕壁(かすかへ)」表記は原本のママ。埼玉県春日部(かすかべ)市或いは同地の粕壁(かすかべ)

「弥一郞」底本は「彌一郞」であるが、原本に従った。

「戀はたりけれど」「はたる」は「徴る・債る」で「強く求める」の意。

「宿(しゆく)世」「すくせ」とも読み、前世からの因縁・宿縁のこと。

「千束(ちつか)の文」「文」は「ふみ」。千通もの(「多量」の意)恋文。

も、手にさへ、ふれざりければ、

「戀死(こひし)に」「こひじに」。

「打過しけり」「うちすぐしけり」。

「娘は、何ともわきまヘず、泣臥(ふし)して居(ゐ)たるさま、心得がたく、立寄見れば、無慘や、聟は、息、絕(たへ)、死骸の眼(め)鼻に入たる、細虵(くちなは)、幾つともなく、身をしめ付たり」描写は娘が立って泣いており、眼鼻に蛇は入っていないものの、挿絵はこちらを描いている。本文の描写の方がぬめぬめとして細部まで凄絶であり、娘もその横で泣いていてこそ、真正のホラーと言える。その「淺ましさ」に挑戦し得なかった絵師の限界であったことを私は惜しむ。

「見るめ」垣間見た目の一瞬。

「斯(かく)。」

「よべまで」「昨夜(よべ)」。

「まことに、人界(がい)の習(ならい)とはいゝながら、榮枯、手のうらを翻すがごとし」こんな過剰な(というより、状況も判らぬのに場違いな)文飾は、話が現実から離れて如何にも嘘臭くなるだけで、失敗である。

「寒林」(かんりん)はインドのマガダ国にあった林のサンスクリット名の漢訳。山が深く、気温が低い所であったために死体を捨てる場所であったされることから「尸陀林(しだりん)」とも呼ぶ。転じて「墓地」の意となった。

「溢者(あふれもの)」「あぶれもの」。無法者。というより半グレの方が相応しい感じだ。

「生鐡(かね)細金」自称の通名であろう。「しやうがねのほそかね」とでも読んでおく。意味はよく判らぬ。「生鐡」(なまがね)なら、精錬するまえの鍛えていない鉄を言うが、以下の「細金」と意味の継ぎ具合が悪い。或いはこれはそうした愚連隊の総称か、その複合名なのかも知れぬ。その場合は「生鐡(しやうがね)」族・「細金(ほそがね)」族(「がね」は同族連帯意識で共通とした)と分離出来るのかも知れない。

「難なく、忍び入たりしが」屋敷内に。

「死してありしを、大路(ぢ)に出し、是を曝(さら)しけれど」「此あたりの溢者」であるからには、一目で、彼が「生鐡細金」の一味である、「豆腐屋の長助」であることは分かっていたから、かく公道に放置したのである。父母か親族が足早にやってきて、引き取ったものであろう。「生鐡細金」の悪たれには、おのれらの悪事が暴露されてしまう危険があるから、そんな情けも度胸もあるまい。

「元來(もとより)、忍入たるが、極めて越度(おつど)なれぱ、たれ、咎むる人もなく、事、濟ぬ」本来は不法侵入者の不審死であるから、お上に届けねばならない。しかし、当時の習いとしては、こうした処置が普通に行われたのであろうことが判る。おまけに、訴え出れば、奇怪な蛇巻きの変死の事実が問題となり、娘とその父母に嫌疑が掛かって、かえって面倒だ。因みに、変死体の蛇は、先の夫のケースも同じであるが、大路に出す前に総て抜け出た(娘の近くへ戻るために)と考えねばならぬ。彼女を慕う蛇なればこそ。

「若、此蛇を喰盡(くいつき)たらん人を、むこがねにせよかし」この提案自体が、おぞましいホラー・シーンと言える。

「雨風はげしき夜」先の愚連隊の侵入時も全く同じ天候であった。これは蛇=龍の伝承習俗から理解出来る。

「岩渕(いはふち)の深き池」「岩渕」は原本に従った。底本は「岩淵」である。さて、東京都北区岩淵町が現存する。ここは実は千住から川沿いに九キロメートル弱遡った場所にあり、それほど遠くない。現行では地区内や周辺に池は見当たらないものの、そもそもがこの岩淵地区は現在の隅田川が荒川から分岐する直近上流部分に当たり、現行でも新河岸川と荒川の二本が並走しているから、河川の蛇行による三日月湖が形成されやすい場所であることが判るから、この地区附近にあった池として何ら問題はない。直線で七キロメートル離れるが、蛇=龍=見入られた美女という図式には「淵」への入水がキメに必要ではあろう。]

2021/01/27

奥州ばなし 佐藤浦之助

 

     佐藤浦之助

 

 高山公とせうし奉る國主の御代に、「布引」と云し、すまひとり有しが、其かうむりし由來は、ある時、

「ちからを、ためさん。」

とおもひて、日本橋へいでゝ、車うしの、はしり行《ゆく》を引《ひき》とゞめしに、牛は、はしりかゝる、いきほひ、此方《こなた》は、大力《だいりき》にて引とめしを、車、中よりわれて、左右へ、わかれしとぞ。

 それより後《のち》は、牛の胸へ、布をかけて引しに、いつも、とゞまりし故、「布引」とはつきしとぞ。

 天下にまれなる力士といはれしを、「松浦《まつら》ちんさい」と申《まうす》【六萬石大名。】、茶の湯好の大名のかゝへと成《なり》て、「日の下かいざん」と名のり、殊の外、祕藏せられしとぞ。【解云、布引は、烏獲《うかく》が奔牛《ほんぎう》を曳駐《ひきとど》めしといふ故事と、同日の談なり。】[やぶちゃん注:以上は馬琴の頭注。]

 さるを、かねて國主にも、松浦家と御じゆこん[やぶちゃん注:「入魂」。「昵懇」と同じで、歴史的仮名遣はこれで正しい。]なりしうへ、この御家中にも、茶之湯・御弟子、かれ是、有て、しげく御出入被ㇾ成(なられ)しとぞ。

 國主、おほせ出さるゝは、

「布引をなげむと思ふほどのもの、國中にあらば、申出《まうしいで》よ。」

と、ひそかに、ふれ、有しに、村方の役人をつとめし人に、佐藤浦之助といひし男、小兵(こひやう)にて、大力の「やはらとり」にて有しが、

「私《わたくし》も、ひしと鍛練いたしなば、なげ申べし。」

と申上たりしを、

「さあらば。」

とて、けいこ、仰《おほせ》付く。其内は、日々、鴨二羽を食料に給はりしとぞ。【鴨を食料に給はりしは、隨分、油のつよき物を食うへ、身にも油を引て、其日は出《いで》しとぞ。少し手のさはりても、油にすべりて、とらまへられぬ工夫、とぞ。つげごとにや、人の語し。】

 日《ひ》、有《あり》て、

「わざも熟したり。」

と思ひしかば、その由を申上し時、松浦家へ仰入らるゝは、

「手前(てまへ)家中(かちゆう)に、『「布引」と力をこゝろみたし』と願《ねがふ》ものゝ候が、をこがましきことながら、御慰《おなぐさみ》に勝劣を御一覽候はんや。」

と仰《おほ》せつかはされしに、もとより、すまふ好《ずき》の松浦殿なりければ、

「興有ること。」

と、悅(よろこび)給ひ、[やぶちゃん注:この引用の格助詞「と」は底本では「ゝ」。]

「いそぎ、此方《こなた》へ、つかはされよ。」

と挨拶有しかば、浦之肋をつかはされしかば、廣庭《ひろには》にて立合《たちあひ》しに、

『あなたは、名にあふ、關とりなり。こなたは、勝れて小兵(こひやう)なり。いかでか、是が勝《かつ》べきぞ。』

と、思召《おぼしめさ》るゝ風情《ふぜい》なりしが、浦之助は、こなたへ、くぐり、かなたヘ、くゞり、さらに布引が手にのらず、いかゞはしけん、大男をかつぎて、

「ひらり」

と、なげしかば、どよめき興じ給ふこと、しばしは鳴《なき》もやまざりたり。

 松浦殿、浦之助を、

「すぐすぐ、是へ、是へ。」

と、めされしかば、

「女中なみゐし奧座敷へ、いなかそだちの無骨もの、はだかのまゝにて立出《たちいで》しは、布引との立合より、かへりて臆したり。」

とぞ。

 松浦殿、そばちかくめされて、

「今日のふるまひ、誠におどろき入《いり》たり。これはいかゞしけれど、つかはすぞ。」

とて、二重切《にぢゆうぎり》の花いけ【名器なり。】を、手づから給はり、

「扨《さて》。この坐に有《ある》女《をんな》の内、いづれなりとも望《のぞみ》次第、其方が妻に得さすべし。」

と有ければ、浦之助おもふやう、

『無骨ものゝ妻には、よき女はのぞみても、末、とげまじ。』

と思ひて、一番、みにくき女に、盃《さかずき》をさしたりとぞ。

 浦之助がくふうは、

『とても、大力・大ひやうの角力《すまひ》につかまれては、かつこと、あたはず。たゞ、ぬけくゞるうち、かつぎなげにせん。』

と、多日、くふうしたりしが、うまく、其手に行《ゆき》しなり。

 布引は、殘念に思ひ、

『今一度、たちあはゞ、みぢんになさん。』

と、ひらに立合のこと、願《ねがひ》しかど、勝劣さだまるやいな、此方《こなた》より、

「ひし」

と、警護の者、つき添《そひ》、早々、浦之助をつれて引《ひき》とり、一生、他行《たぎやう》、相《あひ》とめられし、とぞ。

 布引が遺恨に思ひて、もしあやめやせん、との、心づかひなりし。

 布引も、「やはら」の手にてなげられしを、

「一生、この無念はれず。」

と、いかりて有しとぞ。

 このこと、此國人《こくじん》は誰《たれ》もしりて語れど、江戶人は、たえて沙汰せぬことなり。

 いかばかりか、興《きやう》有《ある》ことなりつらん。

 

[やぶちゃん注:この話、サイト「エキサイト・ニュース」の「相撲の褒美は結婚? 江戸時代の結婚観が凄い」に二回に亙って本篇を現代語訳したものがある。しかし、この程度の古文で直ちに訳に頼るようでは、日本の未来は、何の夢も希望もない、と私は思うことしきりである。リンク先のそれはよく訳されているが、怪奇談に領域では、古文の初級レベルの知識も欠いたとんでもない語訳が有象無象転がっている。まっこと、嘆かわしい限りである。

「佐藤浦之助」仙台藩士として実在し、主に元禄時代(一六八八年~一七〇四年)には相撲名人として「紅(くれなゐ)浦之助」の四股名で知られた人物。宮城県仙台市青葉区通町(とおりちょう)にある全玖院(ぜんきゅういん:グーグル・マップ・データ)に墓が現存する。相撲絡みの古文献の電子化などで緻密な内容を持つ、古くから好きなサイトで、坪田敦緒氏の作成になる「相撲評論家之頁」のこちらに(実は流石は同サイト、こちらに次の「丸山」(冒頭の大男丸山(相撲絡み有り)の話のみ)とともに本篇がちゃんと載っている)、彼の墓所を確認された記事があり、『戒名・円光宗室信士(旧墓正面・新墓左側面)。 紅浦之助は、「古今相撲大全」』(宝暦一三(一七六三)年叙)『の「古キ名人之部」に「紅井浦之助」としてその名を出す、仙台藩抱えの力士で、出身は宮城県北部の志波姫というところ、いまでいう大崎市である。本名を佐藤権三郎、のち浦之助に改め、当時の』第四代『藩主伊達綱村』(万治二(一六五九)年~享保四(一七一九)年:藩主在位は万治三(一六六〇)年七月から隠居した元禄一六(一七〇三)年まで)『によって紅の四股名をつけられたという。江戸にある平戸藩松浦鎮信』(これは初代藩主であるから誤りで、綱村と重なるのは第五代藩主松浦棟(まつらたかし 正保三(一六四六)年~正徳三(一七一三)年:藩主在位は元禄二(一六八九)年七月から隠居した正徳三(一七一三)年二月までであるから、綱村と被るのは棟の在任期の十三年の間となる)『侯の屋敷に招かれ、西国斎蔵(または布引ともいう)と取って勝ち、天下一と名乗れ』、『と褒めそやされたと伝えられている。また、日下開山を称した鬼巌という巨人力士が全国を歩き、仙台で相手を募ったところ、紅は鴨肉を食べ続けて体表に脂を浮かせ、千変万化と讃えられるその取り口で鬼巌を倒し、紅の名を全国に知らしめたという伝説まで残っている。しかも鬼巌はその場で死んだというから、俄かには信じがたいが。相撲をやめてからは』、『地元で郡』(こおり)『奉行と』しての藩の御役目の傍ら、『算盤塾を開いていたという。晩年は仙台で御破損方役人となり』、享保一二(一七二七)年六月七日に亡くなった(なお、この記載は、真葛の話をしっかり裏付けている。相撲の相手にやや異同があるが、問題とすべき内容ではない)。『佐藤家墓域の右奥、真ん丸の石が台座の上に乗っている。高さは台とあわせて』六十六センチメートルで、『中央に「円光宗空信士 松室妙貞信女」と彫られてある。無論、この「圓光宗空信士」が『紅のことで、右には「佐藤浦之助景次 享保十二未年六月七日 行年七十歳」とある』(これが正確であるとすれば、佐藤浦之助は明暦四・万治元(一六五八)年生まれとなる。但し、以下に続いて食い違う資料が有る)。『墓域中央には、いつの建』立『か分からないが』、『新墓「佐藤家之墓」があり、棹石』(さおいし:墓の一番上に配される石。墓標部分のメインの石)『左側面から背面に亙って多くの戒名がある。一番最初に「円光宗空信士 享保十二年六月七日 浦之助 七十二歳」とある。年齢に喰い違いがみられるが、紅をスタートとして江戸から昭和まで、丹念に彫られてある。 さて、新墓には紅のとなりに「霊光不味信女 天保三年十一月二日 妻」と彫られてあるのだが、天保』三年は西暦一八四二年で、『いくらなんでも夫婦で』百十五『年も歿年が開くはずはない。とすれば、やはり旧墓の「松室妙貞信女」が紅の妻なのだろう。どうして新墓では消えてしまったのか?』とある。ともかくも、この「松室妙貞信女」こそがこの話柄で彼が貰った妻の戒名であるのである。

「高山公とせうし奉る國主」これは、話の初っ端に示してある以上、仙台藩主の別称と考えねば筋が通らない。「高山公」の異名が見当たらないので、当初は直後に続く相撲取「布引」を抱えていた(或いは後にお抱えとした)「第五代平戸藩主松浦棟(たかし)の名と『高山公』は意味が通ずるかも」なんどと安易に考えていたものの、そう都合よくは行かず、松浦棟に「高山公」の異名は見当たらない。「困ったな」と思って今一度よく資料を見てみると、第四代仙台藩主伊達綱村の戒名が目に留まった。「大年寺殿肯山全提大居士」である。「肯山」は「高山」と音通だし、草書の「肯」を「高」と写し誤る可能性もある。さすれば、綱村の「肯山公」の誤り、と私は採ることとした。

「車うし」これは牛を轅の間に挟み込んだ牛曳きの小・中型の荷車(前後長は決して長くない)のことを指している(くれぐれも牛車(ぎっしゃ)なんぞを思い浮かべないことである)。大型のリヤカーに大きな農耕牛が繋げられたものを想起されれば、違和感がなくなるはずである。

「はしり行《ゆく》を引《ひき》とゞめしに」この場合は、行き過ぎたそれを、後ろから、荷車部分の後尾を、やおら、むんずと両手で摑んで、引き留めたのである。

「車、中よりわれて、左右へ、わかれしとぞ」牛の背後に接続されてある荷車が、引き留めている布引との間の、丁度、真ん中で、まず、前後に「バツン!」と割れたのである。さすれば、牛に装着されている荷車の轅(ながえ)の後ろ部分は左右に弾け、また、荷車の後尾を布引は一箇所ではなく、左右位置で摑んでいたものと思われるから、そのモーメントは今度は前後ではなく、左右方向に「ガバン!」と弾けたとするのは、理に適った描写と言える。

「それより後《のち》は、牛の胸へ、布をかけて引し」荷車が完全損壊してしまうので、持ち主から弁償を迫られて当然であるから、そうならないように、牛本体の頸部の下方の前胸部(両前足の付け根前部)に強靭な長い布を引っ掛けて、荷車に負荷がかからぬように、パフォーマンスを行ったということであろう。

「松浦《まつら》ちんさい」「六萬石大名」「茶の湯好の大名」平戸藩は元は六万三千二百石であったが、先に私が同定した松浦棟の先代の、父で第四代藩主松浦重信の藩政中に、分知によって六万千七百石になっていた。また、棟の藩政中の元禄二(一六八九)年には同じく分知により五万千七百石に減っている。「ちんさい」はまず間違いなく「鎭齋」と思われ、ここは棟の雅号ではないかと考える。その根拠は、棟の号に「履担齋」という「齋」称のそれがあること、また、何より平戸藩初代藩主は松浦鎭信(しげのぶ)で、例えば、棟の父重信も隠居後に、諱を曾祖父と同じ鎭信と改めるほどに歴代の当主が「鎭」(鎮)の字を好んだからである。なお、棟は名君で、荒廃で苦しむ農民の救済に尽力し、また、優れた文化人でもあった。彼の四代後が、かの「甲子夜話」(リンク先は私の進行中の電子化注)の松浦静山である。

「日の下かいざん」先の坪田敦緒氏の「相撲評論家之頁」のこちらに、『現在において』も『「日下開山」なる語が横綱の別称として用いられることがあるが、 これは元来は仏教語で、寺の開祖を指すものである。「開山」は、山を開いて寺院を創めた開祖を言う。「山」は寺のこと。開山を崇めて「祖師」と言い』、『開祖転じて最高者を表す称となり、双びなき優れた者を示すようになった。さらに、「開山」の頭に「日下」をつけ、最高峰の武芸者や芸能者がこれを称し、さらに芸能者(相撲は武芸に非ずして芸能の一なり。従って力士の身分は「士農工商」の「工」)の一たる力士にも用いられるようになった。「日下」は天ヶ下、これ』、『すなわち天下、世界のことである。室町時代から「天下一」なる語が使われたが、徳川将軍が「天下様」と呼ばれていたことから、江戸幕府は「天下一」呼称の禁令を発布した』(天和二(一六八二)年)。これ『以降、「天下一」と称えていた者は「日下開山」を呼称するようにな』り、『室町頃の職業相撲における最強者を「関」と言う(のちのち「大関」の語源ともなる。関所の意。「関を取って守る」の意から「関取」なる最優秀力士を指す呼称が生まれた)。この「関」を称える強豪やら、永年に亙って負け知らずの力士を「日下開山」と言った。日下開山の称を受けた力士は多数ある。幕末頃には横綱免許を受けた大関を指すようになり、さらに後には横綱力士の別称となった。初代横綱とされている明石が、日下開山の称を受けたというのは伝説であるというが、陣幕が明石を初代横綱としたのは、この伝説による。明治には日下開山の称が横綱の異称として定着していたという例証でもある。しかし、お分かりかとは思うが、元来は日下開山が』、『即ち』、『横綱を意味する語ではなく、また先に「日下開山の称を受けた」と書いたが、免許されるものではなく、単にそう呼ばれて持て囃されたというだけのことである』とある。

「烏獲《うかく》が奔牛《ほんぎう》を曳駐《ひきとど》めしといふ故事」烏獲(生没年不詳)は戦国時代の秦の将軍で、武王に仕えた。同国の同職であった任鄙(じんひ)や孟賁(もうほん)と並ぶ大力士として知られ、千鈞(きん:当時の換算の機会計算で七・六八トン)の物を持ち上げる力が有ったとされる。参照した彼のウィキよれば、『勇士を好む秦の武王に取り立てられ、彼らと共に大官に任じられた』。『武王は紀元前』三〇七年八月に『洛陽で孟賁と鼎を持ち上げる力比べをした際、脛骨を折り』、『出血多量で亡くなったが、その際』、『烏獲も鼎を持ち上げて両目から出血した』『と言う。孟賁は罪を問われ』て『一族諸共死罪に処されたが、烏獲は』八十『歳を越える年齢で亡くなったとされる』とある。私はそちらの孟賁が生きた雄牛の角を引き抜いたという話は聞いたことがあるが。まあ、八トンを持ち上げるのなら、鉄腕アトムのように、猛牛を人差し指の上で回転させることも出来ように。

「茶之湯・御弟子」敢えて分離した。茶之湯の御弟子も、武道武術の御弟子も。

「ふれ」「觸」。お触れ。

「やはらとり」「柔取」。柔術者。

「つげごとにや」彼の話ではなく、誰かが、そう、まことしやかに言ったことも知れぬが、の意で採る。「神のお告げ」なんぞでは、おかしい。

「女中なみゐし奧座敷へ、いなかそだちの無骨もの、はだかのまゝにて立出《たちいで》しは、布引との立合より、かへりて臆したり。」この台詞は後の浦之助の回想の直話として鍵括弧書きとした。

「二重切」竹の花入れの一種。二つの節(ふし)の間に、各々、窓を開けて、水溜めも二ヶ所設けたもの。利休の創始による。

「浦之助おもふやう、『無骨ものゝ妻には、よき女はのぞみても、末、とげまじ。』と思ひて、一番、みにくき女に、盃《さかずき》をさしたりとぞ」私は思うのだが、真葛は、この浦之助の考え方に親しみを覚えたのに違いないという気がする。そこで真葛は決して美女ではなかったけれど、浦之助と幸せに添い遂げ、ともに墓に葬られた彼女を幸せだったと感じているのに相違ない。そこにまた、真葛の淋しさがある。真葛が二人の墓に手を合わせている後ろ姿が、私には見える。「松室妙貞信女」という戒名だけが知られる、浦之助の妻は、考えてみれば、決して美人ではないのだが、では、何故、松浦棟のお側に仕えていたかを考えてみれば、名君にして文化人であった彼が、特に取り立てて選んだ女性だったからだ。さすれば、彼女は知的で気配りの利く女性だったからではないか? 浦之助よ、君の選択は正しかったのだ!

「此方《こなた》より」遊びとは言え、大名同士の引き立て者同士の力比べである。浦之助が勝った場合に、何らかの不測の事態を伊達綱村は予測し、特に手練れの藩士を警護役として同道させていたのである。

「一生、他行、相とめられし」彼の命の安全を考慮して、生涯、藩外へ出ることを禁じたのである。江戸時代の藩は国家であり、別段、おかしいことではなく、苦痛なことでもない。藩外の飛地である藩領や、江戸の藩邸詰めにならなければ、藩域から一歩も出なかった藩士はごまんといる。あまり理解されているとは思われないので言っておくと、江戸幕府の幕臣である旗本は、江戸を出るには幕府の許可が必要であり、日帰りの物見遊山でも、それが親族との面会であっても、御府外に出たり、一泊したりすることは、原則上、出来なかったし、それが公に知られた場合は、相応の処罰を受けたのである。]

梅崎春生「虹」縦書ルビ化PDF版

梅崎春生「虹」の縦書ルビ化PDF版「心朽窩旧館」に公開した。

ブログ・アクセス1,490,000アクセス突破記念 梅崎春生 虹

 

[やぶちゃん注:本篇は初出不明で、昭和二三(一九四八)年八月に刊行した作品集「飢ゑの季節」(講談社)に収録されている。発表順配置の底本では、昭和二十二年と昭和二十三年一月発表の作品の間に置かれてあるから、編者は昭和二十二年中の発表或いは脱稿と判断したようである。因みに当時、梅崎春生は満三十二歳である。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 ストイックに注を附した。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが昨夜、1,490,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021127日 藪野直史】]

 

   

 

 サーカスを出ると、もはや巷(ちまた)は黄昏(たそがれ)のいろであった。

 先刻大天幕をひとしきり烈しく打つ雨の音がしていたがそれも通り過ぎたと見え、焼跡と凸凹地に処々わずかに水たまりを残しただけで、空は淡青く昏(く)れかかる風情であった。しかし焼残りの片側街をあるくとき、まだ家の廂(ひさし)からときどき水滴が豆電気をともしたように光っては落ちた。あのざわざわしたサーカスの雰囲気のふしぎな後感(ナッハシュマック)がまだ身体の一部分に残っていて、何となく甘い気特の中に麻酔から醒めて行くようないやな味が混り、私はうすく濡れた道に足を踏み入れる度に手にした洋傘を柔かい地面につき立てるようにするのだが、先に立って足早に歩く先生の幅広い肩がともすれば私と距離をつけそうになるのであった。[やぶちゃん注:「後感(ナッハシュマック)」私は第一外国語がフランス語でドイツ語は全く分からないが、辞書だけは持っている(同学社一九七七年刊「新修ドイツ語辞典」)。しかし調べてみても、この綴りの単語は見当たらない。「ナッハ」は分離動詞の「前綴り」(Präfix)の「nach-」で、「後続・以後」の意を添えるから、それでよいとして、「シュマック」が困った。ピッタリくる単語がない。ただ、目が止まったのは、動詞ではなく、名詞ではあるが、「Schmalz」(シュマルツ)で、俗語で「感傷」・「(流行歌などの)お涙頂戴もの」といった意味が記されており、ネットで再確認すると、「プログレッシブ独和辞典」に、『ひどくセンチメンタルな気分』・『ひどくセンチメンタルな歌』とあった。「後に残る感傷」で親和性はある。動詞では「Schmerzen」(シュメルツェン)で「痛む・悲しませる」であり、その名詞「Schmerz」(シュメルツ)は近い感じはする。]

 片側街が途切れると一面の廃墟がひろがり、黒い土蔵や立ち枯れた樹や散乱する瓦礫(がれき)のむこうに、郊外電車が小さく傾きながら土手の上を走った。そのあたりから夕陽の色を残す空にかけて巨大な虹が立っていた。地平のあたりは既に色褪(あ)せてはいたが、中央のあたりのきらめく七彩は目も覚めるばかり鮮かであった。その虹をふたつに鋭く断る[やぶちゃん注:「たちきる」。]焼焦げた電柱の根本に、女がひとり煉瓦に腰をおろしていた。先生の足がその前で止った。

「どうしたんだね」

 女は顔を上げた。色白の瘦せぎすのくせに眼と眼が非常に離れていて、魚のように双眼でおのおの別の世界を眺めているように見えた。薄い外套を着て背をすくめ、しなやかそうな軀(からだ)が小刻みにふるえていた。

「寒いのよ」

「濡れてるじゃないか」

 ほとんど顔の側面についた切れ長の眼の、長いまつ毛を二三度しばたいて、女は幽(かす)かに笑ったようである。

「雨が降るときは何処かに雨宿りするものだ」

「そんな親切なところはないのよ」

「洋傘は持たないのかね」

 先生の後方一間[やぶちゃん注:三メートル。]程の位置に立ち止り、私は女の唇の動きを眺めていた。女は口紅はつけていなかった。白く乾いた唇だった。先生の言い方が真面目なので、ふと女は驚いたような目付になった。

「日が暮れるから家へお帰り。おなかもすいているんだろう」

「おなかもすいてるわ」女はのろのろと立ち上った。「洋傘も持たないんです」

 視野の中で虹は急速に頽(くず)れて行くらしかった。女の顔は空を背にしているせいか非常に蒼白く見えた。先生が私の方に振返った。鉄縁の眼鏡の奥にある眼は何か過剰な光を帯び蒼黒い頰が思い詰めたように痙攣した。先生の此のような表情は私はあまり好まないのである。

「君の洋傘を貸し給え」

 私は気持の抵抗を少し感じながら、それでも洋傘を差し出した。受取って先生は女の方にむき直った。

「これをあげよう」

 女はじっと先生の顔を眺めているので、双の瞳が心持中央に寄り、眇(すがめ)に似た印象であった。仏蘭西(フランス)のどの画家かの絵の女に似ていると思ったが、それは鳥獣魚介が持たぬ人間だけにある、あの奇体ななまなましい魅惑であった。私は思わず女の表情に心を奪われていた。女はほっと肩を落した。

「いただいとくわ」

 私の方をちらと見ながら、洋傘の曲った柄のところを腕にかけた。そしてはっきりした声で言った。

「おなかもすいている」

 先生は黙って手をポケットに入れた。広い背中の表情が妙に淋しそうであった。四五枚の紙幣を取り出した。

「此の道をずっと戻ると右側に、丹吉という飲屋がある。あそこの煮込みを食べなさい。金が足りなかったら、あとで先生が払うとおやじに言うんだ」

 女は紙幣を受取りながらはにかんだように笑いかけたが、すぐ止めた。洋傘をぶらんぶらんさせて歩き出した。[やぶちゃん注:「笑いかけたが」は行末で読点がないが、補った。]

「ありがとう。あなたいい人ね」

 まだサーカスは終らないのだろう。破れた太鼓や急速調の笛の音が風に乗って幽かに流れて来た。凸凹道を器用に歩いて行く女の後姿を眺めながら、女が素足のままであることにその時私は気がついた。

「あれはいくつ位になるのだろう」

 歩き出していた先生を追って肩を並べた時、先生は沈んだ調子でそう言った。

 焼跡のまま道が二叉にわかれるところで、私は立ち止って帽子を取った。私はこれから右の方に駅に行くのである。先生の家はここから十分ばかり、焼跡にただ一軒残った小さな二階屋であった。そこに奥さんと二人で住んでいた。先生も立ち止った。

「飜訳の方は二三日中に出来上ると思います。出来たらお届けします」

「何時でもいいんだよ」

 と先生は言った。そして眼鏡をきらりと反射させながら身体の向きを変え、低い声で口早に言った。[やぶちゃん注:底本には最後の句点がないが、補った。]

「――金が無くなったら、僕の家に来給え。傘も買い直したらいいだろう。女房にそう話して置くから――」

 言っているうちに言葉が曇って来るように思われたが、先生はすでに身体を揺るようにして道を歩き出してした。

 

 家に戻った時はもう暗かった。玄関はしまっていて、貫さんはまだ帰っていないらしかった。私は裏口から入り自分の部屋にあおむけに寝ころんだ。畳の冷えがしんしんと軀(からだ)に伝わって来る。あの物悲しいジンタの旋律が連関もなく身内によみがえって来た。[やぶちゃん注:「貫さん」「かんさん」と読んでおく。「ジンタ」明治中期に本邦で生まれた民間宣伝の市中音楽隊。その愛称は大正初期につけられた。]

 外ではぼうぼうと風が吹き、通り雨が走ったりしているのに、大天幕の内部はあかるくて、粗末な木組の舞台ではつぎつぎ妖(あや)しい演技が続けられて行った。客席の一番外側の通路に私と先生は立っているから、キャンバスのひとえ向うは連なった闇市で、ジンタが途切れると飴売りや蜜柑をせる声が私達の耳まで届いて来るのだ。足芸、はしご乗り、水芸、奇術。どの演技者もつきつめた表情であった。絶えず笑いを浮べようとしていたけれども、それはおそろしく堅く真面目なわらいだった。どういう訳か自分が次第に憂欝になって行くのを、番組が進行するにつれて私は感じ始めていた。

 ――舞台に銀線をいっぽん張り、裾模様を着た女が日傘をかざして渡って行った。足を踏みかえる度に黒く汚れた足袋(たび)の裏が見えた。そう思えば裾模様も色褪せて草臥(くたび)れていることが遠目にも伺われた。裾が乱れるとその下に青い洋袴をはいているのが見える。インキのような厭な色だった。銀線の下には男がいて、や、は、と掛声をかける。急速な三味線の音のなかで、女は銀線の上に平均を取りながら着物を脱いで見せるというのらしかった。左右に揺れながら女は帯じめを解き、そして長いことかかって帯を解いた。そういう手先や身体のこなしと関係なく、眼だけはぎらぎらと光りながら宙に固定していた。身体中から紐(ひも)が全部落ちたとき、女は着物の胸を押え、ふっと顔を観客席にむけた。そして笑ったのだ。――思わず私は眼をつむった。それは笑いではなかったのだ。必死になって顔の表情をくずそうとする風情だった。見るべからざるものを見たような厭な気持で、私は無意識に後ろに組んだ指を力こめて握っていたのだが、拍手と一緒に眼をあけた時は、女は既に舞台に飛び降りて花模様の上衣と青い洋袴の身軽な姿で、あたり前の笑い顔をしながら拍手に挨拶をかえしていた。もはやそれはごく平凡な少女に過ぎなかった。……[やぶちゃん注:「裾模様」和服の模様付けの一種で、裾にのみ配された模様、或いは、その模様のある着物。女性の礼装用で「総模様」(女性の和服で全体に施されるもの或いはその模様のある着物)に対する語。]

 背中が冷えるので私は起き上った。部屋の中には紙屑や塵埃(じんあい)が散乱し、机の上には原書や辞書が不規則に並んでいる。宵のうちは電力が衰えているから辞書の小さな字は読めないのだ。しかし私は翻訳の仕事は情熱をすっかり失っていた。復員して来て――大陸から南方へ六年間、私はブウゲンビル島から帰って来た。そして今迄、私は先生の飜訳の下請けなどして生活して来た。食うや食わずであるけれども、闇屋にまでおちたくないという小市民的な気持が辛うじて私の日常を支えて来た。そして間接的だけれども学問に関係しているという喜びに私はすがっていた。しかしそういう気持の高揚の瞬間にすら私は自分の心の中に壁みたいなものを感じていて、壁のむこうが真実の自分ではないかとふと疑われて来るのであった。所詮はそれも生活の苦しさから来るのではないかと考えもするのだが、それも判然としなかった。しないままに私は飜訳にずるずると興味を失って来たようである。[やぶちゃん注:「ブウゲンビル島」パプアニューギニア・ブーゲンビル自治州のブーゲンビル島(Bougainville Island:グーグル・マップ・データ)。太平洋戦争中の長期激戦の一つ「ブーゲンビル島の戦い」で知られ、梅崎春生には、それを扱った小説「B島風物誌」があり、既に本カテゴリ「梅崎春生」のブログ分割版及びPDF一括縦書版を公開済みである。]

 暫(しばら)くして玄関をがたがた言わせて貫さんが戻って来た。リュックサックの中に死んだ鶏が五羽も入っていた。私は上(あが)り框(かまち)に立って、土間で貫さんが鶏の死骸を引き出すのを見ていた。

「これをバラすんだょ。それから売るのさ」

「どこに売るんだね」

「どこにでも売れるさ」貫さんは明るい顔を私にむけた。

「バラして売れば三倍につくんだよ」

 蜜柑(みかん)箱をまないた代りにして、貢さんは器用な手付で庖丁を使った。毛穴のぶつぶつした皮や肉の薄い骨を巧みに剝がして、赤い身のところどころに走る黄色い脂肪を丹念にえぐって皿により分けた。鶏は薄黝(うすぐろ)く瞼を閉じてくびを台から外に垂れていた。乏しい電燈の下であったけれども、肉の色は生き生きと美しかった。貫さんの庖丁が台に当ってカタカタと鳴った。

 どういう聯想かは知らないが、私は先刻焼跡で見た巨大な虹のことを思い浮べていたのである。私は柱によりかかり足の踵をも一方の足の甲に重ね、ふしぎな慄えを感じながら解体されて行く鶏身の彩りに見入っていた。断ち落された黄色い粒々の脚が、無念げに足指を曲げて土間に何本もころがった。次々新しく断ち落される毎に、私は追われる者のように首を立てて四辺を見廻していた。

 

 持って帰った分だけはどうにか飜訳し終ったので、私は原稿を揃えて先生の家に持って行った。焼跡の畠は麦もやや伸びて季節も暖気にむかう気配があった。入口を入ろうとしたとたん、玄関から黒く光る洋服を着た奥さんが出て来た。

「あ、ちょっと」

 奥さんは小さな声でそう言いながら、冷たい感じのする視線で私の顔を見て引返そうとしたが、そのまま思い直したらしく頭をわずか傾けて急ぎ足で門の外へ出て行った。半顔の傷痕が私の視野をちょっとかすめて消えた。

 先生は階段下の三畳の部屋に欝然とすわっていた。

「今朝から痔(じ)が痛いのだ」

 厚い座布団の上で膝を組みかえながら先生はそう言った。

 私は風呂敷を解いて原稿を差出した。先生がそれをぱらぱらめくる間、膝の上に手をのせて私はじっとしていた。飜訳の仕事をこれ以上やりたくないこと、それをどんな風に切り出そうかと考えた。此の三畳の部屋は私は始めてであった。北向きらしく日の射さない、何だか畳が濡れて白くふやけているようだった。部屋のすみの畳の縁に、丸くふくれたボタンのようなものが二つ並んで落ちていた。じっと見るとそれはボタンではなくて、黄色い小さな茸(きのこ)らしかった。先生が顔を上げて原稿を机の上に押しやった。鉄縁の眼鏡の奥に羊のような暖かい眼があった。

「君、丹吉に行こう」[やぶちゃん注:「にきち」と読んでおく。]

 私が何も言う暇もなく先生は立ち上っていた。

 空は良く晴れていた。午後の陽が先生の二重まわしの背にあたり、並んで歩く私の鼻に毛の匂いがした。焼跡に一

本残る電柱のところまで来たとぎ、先生はややゆっくりし

た足どりになって話し出した。[やぶちゃん注:「二重まわし」「二重(にじゅう)廻し」。二 袖の無いケープ付きの外套。男性用のインバネス(Inverness coat)のこと。ホームズが好んで着用するあれである。]

「此の間此処に変な女がいただろう。あれは僕が昔知っていた女に感じがそっくりだったんだ。その女も生きてるか死んだか、生きてても僕と同じ位の歳なんだがね。一寸見た時その女じゃないかと思った位なんだ。馬鹿げた話なんだが、でも近づいて見ると矢張り違っていた。ずいぶん眼と眼の距離がある娘さんだったな。あんな顔は九州の山奥に行くとよくあるよ――」

 焼跡が尽きると片側街となり、やがて幽かにジンタの音が聞え出した。ぽつぽつと新しい家もまじって風船売りなどが路ばたに店をひろげていた。丹吉はその辺の露地の入口にあった。此の店へは先生に連れられて何度も来た。立てつけの悪い油障子を引きずりあけて私達は内に入った。[やぶちゃん注:「油障子」雨などを防ぐため油紙を張った障子。強い黄褐色を呈する。]

 此の飲屋丹吉は私の知っている範囲では奇妙な飲屋のようであった。主は年の頃五十近くの分別あり気な頑丈なおやじであるが、これが勘定の点になるととたんに出鱈目(でたらめ)になる。焼酎二三杯しか飲まないお客から二百円余りも取ったり、五六杯飲んでも百円程で済むこともある。焼酎一杯がいくら肴(さかな)一品がいくらという単価の観念がてんで無いらしく、勘定というのは私の見るところでは彼の心に湧く漠然たる印象によるものらしかった。昔船乗りをやっていたという男で、二の腕に刺青など彫っているが、焼酎はいい焼酎を飲ませた。

「やあ、おいで。先生」

 こう書くとまことに晴れやかな挨拶だが、おやじの顔はまことに物々しく声音[やぶちゃん注:「こわね」。]はむしろ沈重であった。重たげ瞼をゆっくり上げて油断なげに私達をじろりと見るが、暫(しばら)く通っていると油断だらけだということがすぐ判って来るのである。

 煮込みを注文して私達は焼酎を傾けた。傾けながら先生は二重まわしのかくしから紙幣入れを取り出した。

「今日持って来た分だね」

 私は四五枚の大きな紙幣を受取った。このような瞬間に私は必ず気持の抵抗を感じるのだ。私が今日たずさえた原稿がすぐ先生を通じて金になる訳ではない。またあれが役に立つのかどうかも私は知らないのだ。私に判っていることは、邦訳した枚数だけを先生が金に換算して呉れるだけである。私の仕事の成行きは宙で断たれている。そのことから私は強いて眼を閉じているものの、次第に近頃先生の柔かい好意が鎖のように重苦しく思われて来るのであった。

 向い合って焼酎を黙って飲んでいると、やがてほのぼのと酔いが廻って来る様子であった。卓に肱(ひじ)をついて先生が話しかげた。

「下請けは縁の下の力持だからね、いい加滅いやだろう。そのうちにちゃんとした仕事を出版屋から廻させるよ」

「私はいいのです」

「いいたって君、やはり生活して行かなければならないのだろう」

「ほんとにいいのです。先生」

 怒ったような口調だったかも知れない。先生は不審げな一瞥(いちべつ)を私にそそいだが、直ぐ卓を叩いてお代りを注文した。少し廻ってぼんやりした頭で、私は貫さんのことを考えていたのだ。貫さんは私の戦友である。部屋が無いから私が転がり込んだ形だが、貫さんは厭な顔もせず私を入れて呉れた。此の間の鶏を彼は山梨県から運んで来たのだ。誰の援助も借りず彼は独りで運んで来て、そしてそれを売った。鶏を解体している時の自信に満ちた手付を、私は今、酔いのためなおのこと灼けるような羨望の念をもって想い出していた。それはなにか痛苦を伴うので、私は頭をはげしく振ってそれを意識の外に追い出そうとした。新しいコップを傾けながら、私達はあのサーカスのことなどを話し合っていた。[やぶちゃん注:「私は今、酔いのため」の「今」は行末で読点はないが、補った。]

「芸を持っているということは強いな」と先生が言った。

「彼等は皆ひたむきな顔をしているだろう。他の何物をも信じていないのだよ。自分の技倆だけを信じているんだ」

「人間はしかし誰でも何か自分を信じなげれば生きて行けないでしょう」

「そうだよ。だが自分のものを徹底的に信じ切れるかどうかが分れ目になるんだ」

 薄い日射しが油障子に当って、客はまだ私達だけであった。調理台の向うでおやじが、ぐふんと沈欝なせきをした。風の加減でサーカスの音楽が断(き)れ断(ぎ)れに耳に届く。油障子を表から押すらしくカタリと鳴ったが、そして軋んで開かれた入口から灰色の外套を着た女が入って来た。私は思わず眼を挙げた。それは此の間電柱の元にうずくまっていたあの女であった。女も私達に気付いて短い叫び声を立てた。

「此の間のおじさん達なのね」女は卓に近づきながら皓(しろ)い歯並みを見せてわらった。「そして飲んでるのね」

 光を背にしているから直ぐ判り難かったが、卓の側まで来たとき先生もそれと認めたらしかった。

「飲んでいるさ。おすわり。あの時の娘さんだね。此の間は煮込み食べたかい」

 先生は二重廻しの袖をはねて椅子を引寄せた。呂律(ろれつ)は少し乱れていたが、先生の眼は何か強くさだまるような感じであった。それよりも私は女の、遠い処ばかり眺め続けて来た人の眼のような瞳を、ひき入れられるように眺めていた。気が付くと薄くではあったが唇の内側に女は紅をさしていた。女は私の視線に気付くと、居を結ぶようにして堅い顔になった。

「煮込みなんか食べなかった」椅子に腰をおろした。「わたしあのとき焼酎のんだのよ」

 先生は一寸驚いたような顔をして瞳を定めたが、すぐ眼元が柔かく崩れて来るらしかった。

「じゃ今日も焼酎飲み給え」

 おやじが侍従武官のような顔をして焼酎を新しく持って来た。置かれたコップに唇を持って行こうとして、女はふと頭を上げて首を反らした。両掌を外套から出して卓の上にきちんと重ねて揃えた。硬(こわ)ばった微笑が女の頰に突然のぼって来たのである。それはサーカスの銀線上の女曲芸師の、着物を脱ぎ捨てようとする瞬間のあの笑い顔にふしぎにそっくりだったのだ。

「私はどんな女か知ってるの?」

 少しうわずった声でうたうように女は言った。先生は口まで特って行ったコップをまた卓の上に戻した。

「知っているさ。此の間洋傘を持たないで困っていた娘さんだろう。そして今日此処でまた会ったのさ。それでいいじゃないか」

「私パンパンよ」女は低いけれどもはっきりした声で言ってじっと先生を見つめた。此の女はものを見詰める時に、あの不思議ななまなましい魅力を顔中にたたえて来るのであった。

「わたしパンパンなのよ。それでもよくって?」

「いいとも。何故そんなことを気にするんだ」

 私はそう思わず口走った。女は私に視線をうつした。幾分なごんだ調子になった。

「――此の間の洋傘は確かに貴方のね。そのうちお返しするわ」

「返さなくてもいいよ」

「でも悪いわ」

 そして女はコップを特ち上げて一口二口飲んだ。外套の手首の擦れを、私は女の視線からそっと卓の下に隠していた。此の女をもっと知りたい気持が酔いにたすけられて募った。

「名前は何というの」と私は聞いた。先生がそのとき横合いから口を出した。

「ぼくが名前をつけてやる。花子」

 身体をよじって女は苦しそうに笑い出したが、直ぐ焼酎にむせて烈しくせきこんだ。[やぶちゃん注:「パンパン」売春婦。特に第二次世界大戦後の日本で、駐留軍兵士相手の街娼を称した。「パンパンガール」「パン助」。意外なことに原語は未詳である。語源説はウィキの「パンパン」に九件載る。]

 

 その日はとうとう飜訳のことは話さずじまいであった。泥酔した先生を、お宅まで届け家に戻って来たのは九時過ぎだった。布団をふかぶかと顎(あご)まで掛けて私は花子のことを考えていた。酔いがまだ残っているので身体が布団ごと深淵に落ちて行くような気がした。先生を送って行く途中、焼跡の電信柱に先生をつかまらせ、私は一緒について来た花子を抱いて烈しく接吻した。それから花子は何処に行ったか判らない。私も酔っていたからそのときの気持は定かでないし、はき散らした言葉の数々も覚えていない。私は二十八歳。二十八歳であることが強く頭に来た。私は女を知らない。兵隊であったときも愚直な潔癖から私は頑固に女を退けて来た。しかし今、自分が未だ童貞であるということが何か不潔にいとわしいものに感じられて来るのであった。

 その夜は暖かであったが、翌日からまた薄ら寒い日がつづいた。一日中部屋にいて原稿のかきかけを整理したり、部屋を綺麗(きれい)に掃除して身の廻りを整頓したりした。すっかり整頓し終ってもまだ何だか落着かぬ気がした。以後飜訳の下請(う)けを断るということは、私の僅かな月々の定収入を失うということであった。貫さんに対しても私は一度も部屋代は払わないし、むしろ逆に御馳走によばれたりする方が多かった。私はそんなとき貫さんに憐れまれている自分が判った。私は憐れまれるより邪魔者扱いされた方がいいと時に強く思ったが、邪魔者視されればまた途方に暮れるにきまっていた。貫さんが何処からか物資を仕入れて来て、それを鮮かにさばく手際を、私は見ないようにしながらしかし羨望の思いを禁じ得ないのだ。その羨望の念に、貫さんに対する紛れもない憎しみがまじっているのを意識していた。しかしその憎しみはすぐさま私自身に鋭くはね返って来た。闇屋にすらなれない、そんな意識が私を苦しめた。

 寒い日が二三日続くとまた暖くなった。気分を変えるために私は外出の用意をした。先生の家に行こうかと思ったが、それを押えるものがあって、私はあのサーカスの近くの闇市をぼんやり歩いていた。外套を着ていると背筋が汗ばむほどだった。

 色んな露店を眺め歩いているうちに、私は私も近いうちに此のような人々に混って荒くれたかけ引きをするようになるのではないかとふと思った。私が闇屋にならなかったのは私の小市民的な虚栄に過ぎないことが近頃私には判り出していた。私はそれを自分の人間的な矜持(きょうじ)と思っていたのだが、やはり金がほしくてうずうずしている癖に闇屋をさげすんでいる勤め人や学者と知合いになるにつけ、私ははっきりと私の醜悪な像を彼等の中に見たのだ。学間に関係がある仕事、飜訳の下請けをそう考えることが自分への胡麻化(ごまか)しであることは、とうに気付いていた。贋(にせ)の感情の上にでなく、自分の力の上で生きて行く生活を私は近頃切に欲する気持になっていた。それが私が先生から離れたく思う一つの原因であった。法をくぐる闇屋の方が、他人の温情に寄生するより生甲斐があると思った。しかしそう頭では思っても私はぐずぐずと踏切りがっかないでいるのであった。所詮は生活の感傷に過ぎないのかも知れなかった。

 露店の列は一町[やぶちゃん注:百九メートル。]程で尽きる。道が乾いているので土埃がうっすら立ち、魚屋の前あたりが人混みがことに多かった。少し離れて、レグホンの黄色い雛(ひな)を蜜柑箱に入れて売っているぼんやりした老人もいた。露店の尽きる処に灰色の天幕をぶわぶわとふくらませたサーカスがあった。破れた喇叭(ラッパ)が濁った空気になり渡った。

 入口の上が二階に作られ、そこが踊子達の衣装の着換え場所になっていて、華美な着物が裏を見せて掛けられていたりした。屯(たむろ)している踊子や曲芸師は、それを眺める群集の視線に無関心に稚(おさ)なく動く風であった。脚をおおう白いタイツの膝裏のよごれが、変に肉感をそそった。外套のポケットに手をつっこんだまま私が眺めていると、誰かひそかに横に立つ気配がし、私が振り向くと同時に軽く身体をぶっつけて来た。花子ではないか、と私が驚くと花子はなおも身体をぶっつけて来ながら明るく笑い出した。

「何をぼんやり見てるのよ」

 今日は外套を着ていず、青い上衣を着ていた。唇には可成り濃く紅を入れていたが白日の下でもさほど不自然ではなかった。花子の顔は化粧すれば不自然になるものと私は漠然と思い込んでいたのであったけれども。

 私達は肩を並べて人混みを抜けて駅の方に歩き、近頃出来たらしい喫茶店に入った。甘酒を飲みながらサーカスの話などした。上衣の袖が短くてほっそりした手首が出ていたが、花子はしきりにそれを気にして引っぱるようにした。

「あれからどう暮していたの?」

 話が一寸途切(とぎ)れ、それを埋めるために私は何と無くそう話しかけた。今日は天気が良かったし花子が気持の上で私に倚(よ)りかかって来るように感じられるので、私も明るく和(なご)む気持であった。しかし私がそう聞いた時、花子は瞳を伏せて一寸暗い顔をした。

「どうって、どんな意味なの」

「暮しのことさ」

「暮しは辛いわ。昨目も外套売ったわ」

 外套なんか売らなくても誰か男から金を貰えば良いではないかと、私は言おうとしかけ、花子のはげしい視線にたじろいで口をつぐんだ。花子は真直に私を見ていた。真剣な顔をするときに花子はこんなに美しいのだと、私は胸をつかれるような気がした。

「私をパンパンだと思っているのね」

「そんなこと言いはしないよ」

「しなくても顔に書いてあるわ」花子は卓に身体を寄せて顔を近づけた。「あたしはまだパンパンじゃ無い。でももう食えないからパンパンになるのよ。でも今はまだそうじゃない」

 花子は身体をもむようにして私を見上げた。押え切れないような哀憐の情が俄(にわか)に私の胸にあふれて来たのである。手を伸ばして卓の上の手袋をつけた花子の手に触れた。

「此の間の晩だって、あたしをパンパンだと思うから抱いたんでしょう」

 あの夜の接吻のことを言っているのに違いなかった。私が黙っていると花子は私の指を手の甲で卓に押しつけるようにした。

「私は堕落したくない。ほんとにパンパンになりたくない。どうしたらいいのかしら。ねえ、どうしたらいいの、教えて。お願い」

 身体を硬くして私はじっとしていた。酔っていたせいもあるだろうが、あの接吻のとき私は責任や気持の抵抗を全然感じていなかったのだ。私はパンパンだと言った花子の丹吉での言葉が、私に安々とそんな行動を取らせたことは否めないにしても、花子の脆(もろ)い美しさが私の一方的な愛憐をそそったという外はない。しかし未だ花子が娼婦でないとすれば、あの夜の位置も私の心の中でおのずと変って来る筈であった。花子は手巾(ハンカチ)を出して眼縁[やぶちゃん注:「まぶた」と読んでおく。]を拭いた。しかし私は今此の女に何をしてやれるというのだろう。

「では何故丹吉で自分をそんな風にいったんだね」

「――あなたがたを良い人たちだと思ったの。だからわたしみたいな女が側にすわるのが悪いような気がしたの」

「洋傘をあげたから?」

「でもあの日は私はパンパンになるつもりだった。電柱の下で通る男を呼び止めようと思って待ってたの」

「洋傘を上げたのは僕じゃない。あれは先生だ」

 花子はふと白けた乾いた眼付になって私を見返したが、一寸間を置いて、

「あのとき先生は何故私に洋傘を呉れたの?」

「君が濡れて寒そうだったからさ」

「ひとが濡れてたら先生は誰にでも洋傘をやるの?」

「先生はそういう人なんだよ」

「そうかしら。そんな人もいるのかしら。しかしそれで良いのかしら」

 私が返事をしないでいると、花子は肱(ひじ)を卓について私を睨むようにしながら言った。

「あなたの眼はいい眼ね。あなたもきっと良い人ね」

 何故かは知らないけれど、私は此のとき非常に苦痛に似た感じに胸がふさがって来るような気がした。私は思わず眼を花子から外らしながら、低い声で呟くように言った。

「もし思いに余るようなことがあったら、先生のところに相談に行きなさい。あの人は良い人だ。身体を落さなくても済むように、きっと先生はして呉れると僕は思う」

「私は真面目な仕事につきたいの」

「先生の奥さんは顔があちこち広いという話だから――」先生がそんなことを言っていたような気がするだけで私に確信がある訳ではなかった。だから私は追われるように視線を乱しながら。

 「だから良い仕事があるだろうと僕は思う。きっと幸福になれる――」

 

 君は幸福になれると言ったことが、一時逃れの胡麻化(ごまか)しであったような気がして、花子とその日別れて後からも私は不快であった。そして此のような偽りを口にしなければならぬのも、すべて私の生活の悪さから来ていると私は思うた。嫌悪が二重にかさなった。

 しかし私には良く判らない部分が花子にあったのだ。前二回と異なり、その日は可成親近な感情でいた筈だけれども、別れてあと花子の言葉や勤作を思い浮べようとすると何だか嘘のようにまとまりがなく印象が散乱する感じであった。ただ花子が思い詰めたような表情をするときのあのなまなましい感じが、私の肉体を貫くような激しさで私の情感に訴えて来るのであった。(何故あの夜花子は素直に抱かれて私に唇を接して来たのであろう)花子の言葉が本当とすれば、あの夜もまだ花子は男を知らない筈であった。自分を娼婦だと思うからこそ抱いたのだろうと、花子は一寸非難めいたことを口にしたが、唇を許したその気持については彼女は何も触れなかったのだ。判らないままにあの夜の行為に対する償いが、鈍く私の胸をおしつけて来ることを感じていた。現在の生活的な不安もあって、それは取りかえしのつかぬ過失のような気にも時々なったが、私はずるくその気特から逃げていた。

 先生から先日貰った金は既に大半費(つか)い尽したし、新しく金を得るためにはまた何か売るでもしなければならなかった。貫さんは山梨県に二三日泊りで出かけたから、家には私一人だった。先生の処にまた飜訳の仕事を頼みに行こうかと心弱くも考えているうちに先生から葉書が来た。

 近頃どうしているかということ、飜訳の仕事があるから取りに来るようにということが書かれてあった。それを読んだ時、先日丹吉で先生が自分を信じ切れるか否かが人間としての分れ目であるといった言葉を私は思い出した。生活への信念の不足が私を今苦しめていることを考え、そして先生はあのような自分の善意を徹底的に信じているのだろうかと思った。先生の好意や善意を勿論疑う訳ではなかったが、善意を発するに当って先生は全然傷ついていず、傷ついているのはむしろ好意を受けている私であることを考えれば、善意の形式というものをふと訝(いぶか)る気にもなるのであった。そんな先生の善意へたよるように私があの日花子に勧めたことが、私は取りかえしのつかぬ失敗だったような気がした。しかし先生の葉書を黙殺する程の強気にもなれなくて私は出かけて行った。

 傾いた玄関に入って案内を乞うと先生は丹前を着たまま出て来た。近頃どうしてたんだと笑いながら言った。その声を聞くと私は先生に対する反撥が何か跡かたもないもののようにも思われて来るのであった。私も帽子を取って素直に挨拶出来た。

 階段下の三畳の部屋にすわると直ぐ先生が思い出したように言った。

「先日花子が私の家に来たらしいよ」

「お逢いにならなかったのですか」

「僕はいなかった。女房に会ったらしいのだ。何か職につきたいという話だったらしいのだが、どうして僕の処に訪ねて来たんだろう」

 花子にそうしろと言ったことを私は先生に話した。先生の表情は曇っていた。

「女房はそれについて何か誤解しているらしいんだ。花子とどういう応対したのか知らないが、あの女房のことだから少し気になる」

 私は奥さんのことを思い浮べていた。恰幅の良い身体に何時も黒く光る服を着て、顔半分は焼傷[やぶちゃん注:「やけど」と読んでおく。]の痕(あと)で茶色にひきつれていた。そのせいで眼だけがキラキラ光るように思え。戦争に行く前私が知っていた奥さんとは別人のような感じだった。前はおとなしそうな感じの人であった。此の奥さんと花子がどんな会話をしたのかと私は少し心配になって来た。

「四辺が皆燃えてしまって、此の家一軒が燃え残った」先生は両手を拡げて燃え尽きた形容をした。「翌日焼け残った此の家を見たとき俺の家はこんな奇妙な形かと思ったよ。今までは他の家にはさまれて、言わば安心していたんだ。処が周囲が焼けてしまったもんだから、変な形のまま一軒で立って行かねばならなくなったんだね。風にもさらされるしさ。女房の性格が変って来たのが丁度(ちょうど)此の頃からだよ。俄(にわか)に荒々しく烈しくなって来たよ。それまでは僕をたよりにしていたらしいんだが、そのとき以来何か顔の皮をわざと寒い風の方にねじむけて進んで行くような生き方を始めたんだ」

 しゃべっているうちに先生の声は段々沈欝な響きを帯びて来た。

「周囲が燃え熾(さか)って来たとき、もう駄目だと思ったからぼくは逃げようと思ったんだ。無茶苦茶に煙は来るしね。家を守るより生命を守る方が大事だと考えた。煙に巻かれながら、逃げようと僕が叫んだら、女房は必死になって僕にすがりついて来たんだ。家を燃したくないというんだ。家どころの騒ぎかと僕が怒鳴って争っているうちに、焰のために身が熱くなるしさ、どういう具合でそうなったのか覚えていないが、僕は女房を地面に突き倒していた。二三度なぐりつけたようにも思う。そして煙の中を一所懸命奔(はし)って逃げた。――翌朝僕が戻って来たら、まだぶすぶす燻(くすぶ)っている焼跡に、嘘のように僕の家だけが不思議な形をして残っていた。僕は何か言いようのない荒涼たる気持になって玄関の扉をあけたら僕はぎょっとした。顔の半分は焼けただれた女房が片手にしっかり火たたきを握ったまま、じっとうずくまっていたんだ。そして残った方の眼で僕をじろりと見たきり、何にも言わなかった。ほんとに何も言わなかった」

 先生は苦しそうに眼を二三度閉じたりあけたりした。

「その日以来さ、女房が変ったのは。あれが僕を憎んでいるのかどうか僕は知らない。そんなことをあれは何にも言わないのだ。言わないから僕も聞かない」

 うつむいた先生の髪にまじった白い毛が佗しく眼に映った。

「――ぼくは他人に自分を捨てても親切にしようと決心したんだ。善意だけで他人に対しようと思った。贖罪(しょくざい)という気持じゃない。ただ何となくそういう気持になったんだ。それ以外には生きて行く途はない。その日以来毎日僕は自分に言い聞かせつづけて来たんだが……」

 あとの方は独言のような調子に低くなって来た。そしてそのまま黙ってしまった。先生をいたわりたい気持と反撥する気持が私の胸に交錯していて、私は膝を乗り出すようにして言った。

「しかし――先生の善意は、何か無責任な気がします」

「何放?」先生は顔を上げてするどい眼付をした。私は駆られるように口走っていた。[やぶちゃん注:「駆られる」「かられる」。]

「先生の善意は恣意(しい)みたいな気がします。僕は過剰な責任のない善意は、悪意と同じだと思います」

 私の言葉を先生は聞いているのか、先生の表情は堅く動かなかった。暫くして低い声で言った。

「ぼくがかかえてやろうと言うのに、女房はそれを振り切って、半顔は焼けただれたまま自分であるいて病院に行ったんだ。病院に着くまでの道のりを、あれが何を考えて歩いたかと思うと、僕は今でもじっとしていられないような気がして来る――」

 

 飜訳の仕事を先生が私に渡そうとしたとき、私は気持の上からでは絶対に断るつもりでいた。二三度押間答しているうちに先生が、では君は外(ほか)に生活するあてがあるのか、と聞いた。私が答えかねて黙っていると、先生は更に重ねて言った。

「君は何か思い違いをしてやしないか。君が飜訳をやって呉れるので、僕は大変たすかっているのだ」

 先生の頰は少し痙攣(けいれん)し、眼に過剰な光があふれていた。先生は時々こんな表情をする。花子に洋傘をやったときも先生はこんな顔で私を振返ったのだが、私は此のようなときの先生を好きでないのだ。先生の言葉が嘘であることは直感的に頭に来た。それにも拘らず私は気弱く飜訳原文を受取っていた。

 早春の嵐が土埃(つちぼこり)をまいて、焼土の跡をぼうぼうと吹いていた。

 手巾(ハンカチ)で鼻をおさえて道を戻って行く途中、欝屈した気分に堪えかねて私は無意識のうちに歩みをサーカスのある街に向けていた。そして気が付くと私は丹吉の露地に立っていた。胸の中で計算してみると少し位飲む程度の金はまだ持っていた。しかし使い果すと明日から困る金でもあった。ためらう気持を駆るものがあって、立て付けの悪い油障子を私は引きあけた。

 煮込みの鍋をかきまわしていたおやじが、垂れ下った瞼を引っぱり上げてじろりと私を見た。

 卓に倚(よ)って焼酎を傾けているうちに、やがてせき止められていたものが快よく流れ出すような気がした。先生のことも生活のことも、何もかも虚しい別世界を吹く風の音のようであった。焼酎が咽喉(のど)を流れ落ちる熱感だけを、私はむさぼるように欲しつづけた。肩を椅子の背に落し、何杯もコップを重ね、煮込みの堅い肉を奥歯で嚙んだ。汚れた壁に張られたポスタアの女を見ていると突然花子のことが私の胸に浮んで来た。調理台のむこうにつくねんとしているおやじに私は話しかけた。

「花子は近頃来るかね」

「二三日前来たよ」そっけ無い調子でおやじが答えた。

「何か言ってたかい」

「何も特別言いやしないけれど、焼酎を沢山飲んで、その揚句泣いたよ」

「泣いたって、何故だろう」

 泣いていたという言葉を聞いただけで、花子のあの思い詰めた表情の美しさが私の眼底にきらめき渡るような気がし、私は胸がつまるような心特がした。酔いの感傷であるとも思ったが、私は半ば身体をおやじの方に向け、むしろなじるような調子で詰め寄って行った。

「何故だろう。何故泣いたりしたんだろう」

「職を頼みに行って断られたからだよ」

 おやじの断片的な言葉をいろいろ追窮して、大体私は想像出来た。あれから花子は奥さんに逢ったのだ。そして奥さんから逆に、何処で先生と知合ったのか、今何を職業にしているかということなどを問い詰められて、あるいはその揚句(あげく)面罵に近い応接を受けたのに違いなかった。

「こう言ってたよ。職業は何だいとしつこく聞くから、パンパンだいと言ってやった」

 奥さんの冷たい視線が、ぎょっとする程鮮かに脳裏に浮び上って来た。

 私はそれからまたコップを重ねて行った。或いは金が足りないとも思ったが、足りないときはそのときだと思った。そんなことは気にならなかった。何もかもむなしかった。軍隊に行っていた六年の空白が私に重く今のしかかって来た。すべての昏迷はそこから始まっていると思った。先生の心持も私には判っているようで何ひとつ判らなかった。先生のことだけではなく、何もかも自分の心ですら私には判らなかった。ただ花子と始めて逢ったときに見た焼跡の巨大な虹のことを思い浮べていた。七色に輝きわたり、それは奇怪な夢のように非現実的な美しさであった。針のように鋭く焼け細った電柱の下から、魚眼のように瞳の離れた花子の顔が、淡青の夕空を背景にして迫って来たのだ。酔い痴(し)れた頭の中で私は全生活をなげうってもあの美しさを捕えたかった。あんな壮大な虹でさえ五分も経てば跡かたも無くなるように、花子のあの美しさも男達を知って行けば束の間に頽(くず)れて行くに違いなかった。私は溺れて行けるものがほしかったのだ。それが幻のように虚妄なものであっても私は溺れてしまいたかった。そして溺れ沈んで行くところから、も一度始めてみたかったのだ。私は肱(ひじ)をつき軀(からだ)を卓にもたせながら、意味の無い饒舌(じょうぜつ)をおやじと交していた。

「おやじ。俺をこの店で雇って呉れ」

 どうせ闇物資を集めて商売しているのだろうから、それを集める係りになってやるから歩合を寄越(よこ)せ、と半ば本気で私はしつこくおやじに食いさがっているうちに、その後のことは茫として記億がなくなった。丹吉を何時出たのか判らないが、私は冷たい雨に全身を打たれながら暗い街をさまよいあるいたような気がする。花子の名などを連呼しながら歩いたような気がするが、それも定かでない。眼が覚めたら外套を着たまま私は自分の部屋の寝床に寝ていた。

 

 飜訳原書を紛失しはしなかったかと、そのことがしびれたような頭に先ず来て、あわてて私は起き上り身体を探った。内ポケットの中にそれは曲って入っていた。一先ず安心ではあったが有金は殆ど無くしていて、小額の紙幣が三四枚外套のポケットに入っているきりであった。丹吉への払いも足りなかったのかも知れないと思った。

 井戸端で顔を洗っていると、貫さんも起きてやって来た。貫さんの口から白い歯磨粉がはらはらと散った。

「どうしたね。昨夜はずいぶん酔ってたようだが」

「御馳走になったんだよ」と私は嘘をついた。そしてそのことで直ぐ不快になった。貫さんにも金を借りたり世話になったりしているから、自分の金で飲んだなどとは言えなかったのだ。顔を洗い終ると貫さんは今から小田原に蜜柑を買いに行くのだと言った。

「どうだね。一緒に行かないかね」

 何気なく貫さんが言った言葉だけれど、何か強く私の気持を引いた。すがるように私は返事していた。

「蜜柑をどの位背負うんだね」

「さあ、十貫目位かな」貫さんは私の身体を計るように上から下へ眺めながら、「大体そんなもんだな」

「捌(さば)くルートはあるのかい」

「そりゃあるさ」明るく笑いながら、「しかし君は止したがいいな。金は儲かるけれどこんな仕事はやるもんじゃない」

 身仕度して貫さんが出かけるとき、私が玄関に立っていたら貫さんは懐から大きな紙幣を出して私の手に握らせた。

「いいんだよ、そんなこと」と私は拒みながらも、自分の顔が硬(こわ)ばってくるのを感じた。そして押しつけられるまま、それを受取ってしまっていた。

 風邪を引いたらしく鼻の奥が痛かった。昨夜の雨は止んでいたが、鉛色の雲が低く垂れていて部屋は暗かった。午後になっても天気ははっきりしなかった。洋傘は無いから出かけるのは止そうかと思ったが、暗い部屋にじっとしているのは厭で、私は原書を持って玄関を出て行った。

 灰色の空の下に押し潰されたような巷(ちまた)から巷へ私はあてもなく歩いていた。そのうちに自然にサーカスのある一郭の方に足が向いていた。此の間のように、サーカスのところで偶然花子に逢うことを、私は知らず知らずのうちに予期しているのではないか。此のことが私を少し狼狽させた。花子に逢ってどうしようというのだろう。逢ってもまたすぐ別れるだけに過ぎない。花子に逢っても私は救われはしない。

 広い道を青色の頑丈なトラックが何台もつづけて通った。トラックには沢山人が乗っていて、揺れるたびに楽しそうに笑いさざめいていた。あれは何処かの使役に従事する人夫である。笑いながら行人に掌を振り、そして次々遠ざかって行った。皆健康そうに見えた。そのことが痛く私の胸に響いて来た。私はうなだれて歩きながら、歩を先生の家に向けた。

 玄関に立つと暫くして奥さんが出て来た。

「いないんですよ、先刻ひとりで出かけたんです」

 暗い玄関に斜にすわって、奥さんは妖しく光る眼で私を睨むようにした。

「それじゃ丹吉かも知れない」

「丹吉というのは何です?」

 黒天鷲絨(くろビロード)の洋服の裾が畳に触れてさやさやと鳴った。奥さんは立て膝になって、障子の桟(さん)につかまり身体を前ににじった。私は外套のポケットから原書を取り出した。しんみりと言った。

「これをお返しにあがったのです」

 奥さんはそれを受取ろうとはせず、じっと私の顔を見つめた。半顔が醜くひきつれて、その癖少し開いた頸(くび)から胸にかけては嘘のように滑らかだった。ガスマスクをかけたようだ。その残酷な聯想をいそいで断ち切ると、私は原書を上(あが)り框(かまち)のはしに置いた。

「失礼致します。暫く来れないかも知れませんが先生によろしく」

 咽喉(のど)に魚の鱗(うろこ)が貼りついたようで、言葉がうまく出なかった。お辞儀をして表に飛び出した。

 焼跡を歩きながら、私は何故となく先生は不幸だと思った。私も不幸だけれど、私の不幸は身体を一廻転ころがしさえすれば消えてなくなるようなものに違いない気がした。先生は墓穴に入るまで営々と何物かを引きずって行かねばならぬのであろう。あの女に花子という名をつけたのは先生である。昔知合いであった女に似ているんだと先生は言ったが、或いはその女の名が花子では無かったのか。知合いというのも何かぼやけている。先生が今不幸であるとすれば、その因のひとつが其処らにあるのかも知れない。

 風が少し立ちそめて、鉛色に低く垂れ下った雲がねじくれて北の方に動いて行く。錆びついた水道栓や崩れた石燈籠を見ながら行くと、道が曲る処のある廃電柱の下にぼんやり立っている人影が眼に映じて来た。何か予感めいたものに打たれて思わず足を早めて近づくと、うなだれていた人影は突然頭を上げた。それは奇妙な程的中した予感であった。電柱に背をもたせて首を反らしたその女は、紛(まぎ)れもなく花子だった。その顔はびっくりする程蒼白い癖に、唇はどぎつく真紅であった。

「ああ、あなたなのね」

 細くかすれた声であった。花子の瞳は不安気にちらちらと動いたが、私は喜びが俄(にわか)に湧き上って来るのを感じた。

「今日は何だか君に逢えるかと思っていたんだ」

「あなたも風邪を引いているのね」暫くして花子が言った。そう言えば花子は咽喉に白い布を巻いていた。

「此処で何をしているんだね」

「通る人を待ってるのよ」

 そう言いながら花子は幽(かす)かにあえいだ。何だかひどく苦しそうだった。まつ毛を伏せて私に背を向けようとする風情だった。私は片手を花子の肩に置いた。

「こんな処にいると風邪はますますひどくなるよ。丹吉に行ってあたたかいものでも食べよう」

 花子は肩に置かれた私の手から逃れようとするような身体のこなしを見せたが、思い直したように顔を私に向け、子供のように稚(おさ)なく素直にうなずいた。そして私達は歩き出した。風が正面から吹いて来るので、やがてジンタの旋律が乱れながら聞えて来た。丹吉に行けば先生がいるかも知れないということが意識にひらめいたが、それがどんな意味を持つのか判らなかった。会えば飜訳のことわりを言わねばならないと思った。花子と手を触れ合ったまま、丹吉の前まで来た。油障子の破れからのぞくと果して先生の半白の頭が見えた。何故か判らないが私はそのときほっとした感じを持ったことを記憶している。

 油障子を引きあげる音に先生は振返ったが、私を認めてあの柔かい眼でわらいかけた。

「君か。よく来たな。おやや」

 私の後から入った花子に先生の視線は固定して動かなかった。

 同じ卓について私も焼酎のコップをしきりに傾けた。昨夜の酔いが戻って来るのか、廻りが極めて早いように思われた。花子も黙って焼酎を飲んだ。蒼かった顔に赤味がさして来るのがほのぼのと美しかった。先生が言った。

「昨日君は、僕の善意は悪意と同じだといったな。あれはどういう意味なんだ」

「それはですね、先生」私は酔いが心を大胆にするのを感じながら、「悪意だとは言いませんよ。ただ無責任な感じがすると言っただけです」

「責任は持っているよ。しかし善意というものはもともと無責任なものだ」

「例えば、先生はこのひとに――」私は花子に一寸顔を向けた。「洋傘をやったでしょう。ところが洋傘をやったからといって此のひとは幸福にはなれなかった――」

「そうだ、あれは君の洋傘だった」

「洋傘が惜しいんじゃありません。僕が残念なのは、先生は洋傘をやってしまって、もう安心している。何にも傷ついていない。先生。本当の善意というものは、それを行使する人は必ず傷ついたり、又は犠牲を払ったりするものじゃないでしょうか?」

 先生は少しわらった。

「僕はだね、雨に濡れた弱そうな娘さんがいる。そして此処には洋傘がある。僕が持つより此の娘さんが特つべきだと思ったときには、ためらうことなく洋傘を渡すべきだと自分に言い聞かせるんだ。それだけでいいじゃないか。ひねって考えちゃいけない」

「しかし――洋傘を要らないときには、それはどうなるんです」

「それは貰う方で断ればいいんだ。簡単だよ」

「先生」と私は呼びかけた。「私は先生の好意はほんとに有難いと思うんです。けれどあの飜訳の仕事をつづけて行くことは何か辛抱出来ないのです」

「ではどうして生活して行くんだね」先生の言い方は急に沈んだように思われた。

「何でもやろうと思っているんです」

「――闇でもやるかね」

「闇屋にはなりません」私は胸がつまって来るのを感じながら、そのとき、先刻、曇天の街をタイヤの音を響かせて疾走して行ったトラックの人々の姿が突然胸に浮び上って来たのである。

「私は力仕事でも何でもやります。自分の力で食って行ける生活をやります」

「今だって自分の力で食っているじゃないか。君には力仕事は向かないよ。きっと又僕の処に戻って来るよ」

 私は瞼が熱くなるような気がした。先生はコップを傾けてこくこくと飲んだ。くずれそうになる意識を鞭打ちながら、私が更に言葉をつごうとしたとき風が油障子に当るのか、がたがたと鳴り、そしてそれは鳴り止まず、かぼそく軋みながら五寸程引きあけられた。黒い人の姿が夕暮を背にして影のように立った。お客かと私が目を凝らしかけたとたん、その人影は冷たい声で叫んだ。

「あなた!」

 先生は直ぐ声に応じるように首を振りむけた。入口に立ったのは先生の奥さんだった。

「あなた。まだ飲んでいらっしゃるの? まだお帰りにならないの」

「もう暫くしたら帰る」

 奥さんは店の内をずっと見廻す風だった。身体を硬くして私は卓の上のコップを握っていた。

「ああ、あの女もいるのね。そのひとは誰?」

「僕の知合いだよ」と先生は落着いた声で言った。

「あなたはその人に花子という名前をつけてやったのね。此の間その人が来たとき聞いたわ」

 先生は黙っていた。

「似ているわ」奥さんの声は少しずつ高くなって行った。「似てるわ。ほんとに花子さんに似てるわ。そっくりだわ」

 そして奥さんは甲高い声で笑い出した。

「お前はお帰り。僕もすぐ戻る」

 先生のそういう言葉を聞いたのか、奥さんの姿は突然のように外に消えた。そして発作的な笑い声がそのまま続きながら遠ざかった。先生は卓に向きなおった。コップを持つ指がぶるぶると慄えた。私は痛いような気持で、全身の神経を横にいる花子に集めていた。奥さんの笑い声が聞えなくなっても、花子は慄えが止まなかった。そして立ち上った。顔の色は水に濡れたような不思議な艶でひかっていた。卓を二三歩離れ、花子は眇(すがめ)のように瞳を寄せた。

「私はお別れするわ」低いしゃがれた声で言った。「やはりお別れするわ。でもあなた方は良い人ね。きっと良い人ね。一生忘れないわ。先生。奥様におわびしといてね。私がきっと悪かったんだわ」

「君は悪くない」と私は思わず叫んだ。

 先生は黙然としてコップを口に運んだ。眼を閉じているので、眼窩(がんか)が急に落ち窪んだ感じであった。コップを卓に置き、そして眼を開いた。懐に手を入れて紙幣を四五枚摑み出した。

「君は悪いんじゃないよ。誰も悪い人はいやしない。ここにこれだけある。これを特ってお行き。真面目な生き方をするんだよ。口紅など濃くつけちゃ駄目だよ」

 花子は片手をあげて唇をかくした。そして先生が差出した紙幣に迷ったような視線を落した。花子は僅か身体を悶えるように動かしたが、すぐ手を伸ばして紙幣をつかんだ。その指の爪が黒く汚れて伸びているのを私は見た。

「貰っとこっと」

 急に荒んだぞんざいな調子で花子は言った。そして私に視線をちらっとうつすと、そのまま土間を踏んであけ放たれた油障子から出て行った。私を見たときの眼は燃えるように烈しかった。私はじっと堪え、椅子から動かなかった。急に四辺がしんと静かになった。私も黙ってコップを取り上げた。胸に動悸が烈しかった。強い液体が咽喉(のど)をすベり落ちる。沈黙が堪え難かった。それを埋めるために、私は頭に浮んだ事象を脈絡なく捕えて言葉にしようとした。

「先生」と私は呼びかけた。「此の間のサーカス見たときですね。少女たちが皆一所懸命やっていたでしょう。あれを眺めていて、ぼくは自分の現在が厭になったんです」

「判っている、判っている」

 先生は大きくうなずいたが、私の言ったことは全然聞いていない様子だった。風の音が窓や表でした。何とか先生をいたわりたいという気持と、離れて行きたいという気持が入り乱れて、私が何か更にしゃべろうとしたとき、表からまた人影が跫音もなく入って来て土間に立ったのだ。それは花子であった。私はぎょっとした。

 花子は蠟(ろう)のように血の気を失った頰に、ふしぎな美しい微笑を浮べていた。その瞳は大きく見開かれているにも拘らず何にも見ていないようだった。もつれるような足どりで卓の方に近づいて来た。

「これはいただけないのよ」ぼんやりした取り止めもない調子だった。「あたしはねえ、一緒に寝た人からはお金は貰うけれど、何もしないのにお情は頂かないわ」

 花子の指から何枚かの紙幣が卓の上にはらはら落ちた。先生はうつむいたまま黙って焼酎を口に含んだ。その顔をじっと花子は眺めていたが、急にぎらぎら輝く眼になって、先生の身体によりそうように身体をぶっつけて来た。先生の身体は小さな椅子の上でふらふら揺れ、私の身体にも触れ響いて来た。

「先生」花子は烈しく口を開いた。「先生。私と一緒に行って、おねがい。私をどうにかして。私を救って。先生。先生」

 先生はコップを卓に置くと濁った眼を上げた。そして掌で花子の肉体を押し戻すように支えた。

「どうにかするって、どうするんだ」

 その声があまり苦しそうだったので、花子はぎょっとしたように先生から離れ、土間に立ちすくんだ。肩から腰ヘの線が着付けの具合か妙に見すぼらしく見えた。両手を下に垂れたまま、暫くして花子の顔に、冷たいあの謎のような微笑が泡に似て浮び上って来たのである。あのサーカスの銀線上の女が浮べた笑い方と全く同じだった。それは自分の意志に反して、強いられて嬌羞(きょうしゅう)に赴く瞬間の女の哀しい顔であった。湯のように生暖い涙が思わず私の瞼のうらにあふれて来た。[やぶちゃん注:「嬌羞」女の艶(なま)めかしい恥じらい。]

「私の部屋に来て――」花子は大きくあえいだ。「私と一緒に寝て」

 先生はふるえる指で眼鏡を押し上げた。花子の視線からしきりに眼を外(そ)らしながら、

「それは僕には出来ない。あんな女だけれど僕には女房なんだ。女房がいるのに僕はそんな真似はしない」

 花子のあえぐような息遣いが烈しくなって来たと思ったら急に両掌で顔一ぱいをおおった。おおったまま小走りに土間を馳け、油障子に身体をぶっつけた。障子はばさばさと音立てた。身体をはすにして花子はよろめきながら表に見えなくなった。風がひとしきりそこに吹きつけた。コップをぐっとあおると先生の指は伸びて卓の端に触れた。

「これで、君、新しく洋傘を買い給え」四五枚の紙幣が酒に濡れた台を辷(すべ)って私の方に押しやられた。

「洋傘は要りません。雨が降ったら濡れて歩きます」

 押し戻そうとする私の掌が先生の指にからまり、一二枚、卓から土間へ落ち散った。先生の指は小魚の腹のように慄えているのが判った。[やぶちゃん注:「一二枚」は行末で、読点を補った。]

「先生」私は胸が一ぱいになるような気がして思わず詰寄った。

「何故花子を救ってやらないのですか」

 先生は大きく見開いた眼で私を見つめた。その眼は乾いたばさばさの眼だった。

「僕にはあの女を救う方法が判らない」

「先生。あなたは一緒に行かなかった。自分が不幸になるのが厭なんでしょう」

「君が――」射すくめるような強い眼付になって先生は大声を出した。「君が行って、一緒に寝てやり給え」

 私は思わず立ち上っていた。その瞬間私がはっきり感じ取っていたことは、先生のあの放恣に見える善意ですらも、超え難い限界を持っているということだった。そしてその限界を超えなければ、本当の幸福はあり得ないということであった。壁のこちらで足踏みしていることが、すベての人々の不幸の因であることであった。そのとき始めて私は、此の壁を乗り超え、たといそこが奈落であろうとも悔ゆることなく落ちて行く勇気が、胸の中に湧き上って来るのを感じていた。私は手を伸ばして紙幣を摑んだ。酒に濡れて重かった。

「洋傘を買うんじゃありません。しかし此の金は頂いて置きます」

 いいともと先生は言ったらしい。がそれを後に聞き流して私は歩き出した。酔いのせいか土間が靴の下でぐにゃぐにゃと柔かい気がした。閾(しきい)を越えると薄明の道が拡がった。外套の裾を風がひるがえす。花子はきっとあの電柱の下に行ったに違いない。それは酔った私の心を摑んだ確信であった。熱くほてった顔の皮を吹き去る風の冷たさを次第に快よく感じながら、私は凸凹道を一歩一歩と段々走るように歩調を早めて行った。

 

[やぶちゃん注:私は本作を梅崎春生が書くに当たって思い当たる幾つかの知られた作家の先行作品が素材として用いられている感を強く持つが、何より、その最も確信犯のアイロニカルなそれは――夏目漱石の「こゝろ」である――ことは疑いようがない。]

2021/01/26

今さっき、ブログ・アクセスが百四十九万を超えた

しかし、少し、疲れた。記念テクストは明日で――悪しからず……

芥川龍之介書簡抄5 / 明治四四(一九一一)年書簡より(1) 山本喜譽司宛三通

 

明治四四(一九一一)年二月九日・消印十二日・本所區相生町三丁目六番地 山本喜譽司宛・署名「SATYRS」(葉書)

 

やつと引越し候 まだ何となく落ちつかず新居のさびしさ身にしみ申候

昨夜裏町へ買物にゆき候所尺八をふくめくらの若き女に逢ひ候 娼家に招かれて暮しをたつる由聞及びし女に候

あの ‘Still sad music of humanity’ の句偲ばれ候

皆々樣へよろしく願上候

    二月九日夜

 

[やぶちゃん注:本書簡時は未だ十八歳(以下の二書簡も三月一日よりも前と推定されるので、同じい)。芥川龍之介は自死する直前まで、こうした苦界や、その周縁に生きねばならぬ女たちへの哀憐の情を、終始、忘れなかった。

「やつと引越し候」既に述べた通り、芥川家は、新宿の龍之介の実父新原敏三所有の、耕牧舎の脇にある一軒家を借り受けて、前年の秋に転居したのであるが、先の私の注で示した通り、まず、十月に龍之介と伯母芥川フキが移って、翌年の二月頃までに養父母道章・トモも移って芥川家の転居が終わったとする説を紹介した。この記述はまさにそれを自然な形で裏打ちしている内容と読めるのである。則ち、この「やつと」とは、芥川家主人たる養父道章と養母トモが、晴れて転居を終え、「やつと總ての芥川家引つ越しの萬端終はり候ふ」と言うのであると、とる。決して、引っ越したばかりだったから、「まだ何となく落ちつかず新居のさびしさ身にしみ」ると、かこちているのでは――ない――のである。恐らくは――もう私はこちらに移って四ヶ月ほども過ぎたけれども、幼き日より馴染んできた懐かしき本所、愛する貴兄(山本)のいる本所に憧憬(あくが)れておればこそ、「まだ何となく落ちつかず」、海の潮の匂いの代わりに、牛の臭いが一日中する馴染めぬ牧場の片端の「新居のさびしさ」がひどく「身にしみ」る――と言っているのである。ちょっとした部分にも、自分の精神史の故郷である本所への哀惜と、山本への懸恋(けんれん)のニュアンスが染み出ているのを、私は、決して見逃してはならないと感ずるのである。

「SATYRS」先の書信で龍之介が山本を「あぽろの君」と呼んだことを覚えておられよう。それに応じて、一方の秘密の自らの称を、ギリシア神話に登場する半人半獣の自然の豊穣の化身或いは欲情の塊りたるところの精霊「サテュロス」(ラテン語:Satyrus/英語:Satyr)としたのである。次の書簡で、それが書信の中で語られてある。これは、かなり強烈な自称と言える。因みに、古い文献では「サテュロス」の名はギリシア語の「男根」に由来するとする説は複数あるそうである。

「Still sad music of humanity」正しくは「The still, sad music of humanity」(「人間の静かで、悲しい音楽」)イギリスを代表するロマン派詩人ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth 一七七〇年~一八五〇年)の記念すべき最初期の詩篇「ティンターン修道院」(Tintern Abbey :正ししくは「Lines Written a Few Miles above Tintern Abbey」・一七九八年作)の第九十一節に現われる詩句。同詩篇については、藪下卓郎氏の論文「自意識の功罪:ワーズワスの『ティンタン・アビー』鑑賞」京都大学教養部英語教室発行『英文学評論』(一九八七年三月・PDFダウン・ロード可能)がよい。]

 

 

明治四四(一九一一)年十四日(年月推定)・山本喜譽司宛

 

此頃僕は吉井勇氏が大好きになつた 角筈のうちへ行きたくつて仕方がない えらいとはちつとも思はないがなつかしい人だと思ふ 夢介と僧のモノログなんぞはまつたくうれしい 一昨日丸善へ行つたらシラノドベルジユラツクがあつた 安さうな本だつたが外に欲しいのがあつたので止めちやつた

其内によみたいと思つてる

此間クラス會があつて文科十傑の投票をしたら僕はハイカラの次點に當選したさうしてバンカラ次點にも當選した 寬嚴中を得てると大にわらはれた こんな馬鹿々々しい調子だから一高生活を嫌ふのも無理がないぢやないか

一高でいいのはかーみーゆーいーどーこだけだ、第一五錢である 其上におーやーかーたが大の相撲好で相撲の話さへしてゐれば頭が痛くなる迄髮をきつてくれる

雨がまだふつてる あした道が惡くつて悲觀だなと思ふ 君のうちの石が皆濡れて滑なつやを見せてゐるなと思ふ

こんな事を考へながら□[やぶちゃん注:底本の判読不能記号。]にてると急に逢ひたくなつた

逢ひたくなつたつて笑つちやあいけないさきおとゝひの晩も夜中に急に君が隅にねてるやうな氣がして手をのばして椅子の足をつかまへた

自分でも可笑しくなる 隨分な馬鹿だらう

これから手紙の名をかくときは本名をかくのはよさう 封筒だけは仕方がないけれど

君は APOLLO でいい僕は SATYR する

  十四日夜   柏の森にすめる SATYR

 APOLLO THE BEAUTIFUL 君ヘ

 

[やぶちゃん注:同じく旧全集からであるが、本書簡は他の印刷物からの転載である旨の注記がある。

「吉井勇氏が大好きになつた」「芥川龍之介書簡抄4 / 明治四三(一九一〇)年書簡より(3)山本喜譽司宛五通」参照。

「角筈」「つのはず」。吉井勇の父である海軍軍人・貴族院議員であった吉井幸蔵の家は、東京淀橋角筈(現在の新宿区西新宿・歌舞伎町・新宿の一部に相当)にあり、芥川家の新居に近かった。

「夢介と僧」吉井勇の戯曲「夢介と僧と」(『三田文学』明治四三(一九一〇)年十二月発表)。岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注に、同年『十一月自由劇場第三回試演として上演され、戯曲集『午後三時』(一九一一年)に収録』されたとある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像の原本(東雲堂刊)のここから同作品が読める。

「シラノドベルジユラツク」フランスの劇作家エドモン・ウジェーヌ・アレクシ・ロスタン(Edmond Eugène Alexis Rostand 一八六八年~一九一八年)の代表作「シラノ・ド・ベルジュラック」(Cyrano de Bergerac:五幕)。十七世紀フランスに実在した自由思想家シラノ・ド・ベルジュラックを、鼻が大きく醜男だが、才気煥発で無双の剣客に仕立てて、彼の恋するロクサーヌへの報われぬそれを中心に、史実と虚構を織り交ぜた擬古典的韻文劇。自然主義を脱しようとする新ロマン主義と理想主義に基づき、安易乍ら巧妙な劇作法が当時のパリで熱狂的に迎えられた。剣豪作家シラノ・ド・ベルジュラックを主人公とするもので、初演は、シラノ没後二百四十二年に当たる一八九七年で、ポルト・サン=マルタン座(Théâtre de la Porte Saint-Martin)の十二月二十八日の初日から実に五百日間、四百回を打ち続け、パリ中を興奮させたと伝えられ、以降、今日に至るまで、フランスばかりでなく、世界各国で繰り返し、上演されている。本作はフランスの「ベル・エポック」(Belle Époque:「良き時代」)と呼ばれた時代を象徴する大女優として知られるサラ・ベルナール(Sarah Bernhardt 一八四四年~一九二三年)を介して知った男優コンスタン・コクラン(Coquelin aîné)の依頼で書かれたものであった。

「寬嚴中を得たる」寛大なことと、厳格なことの、見事な中庸を得ている。

「かーみーゆーいーどーこ」髪結い床。床屋。以下ともに長音符は単なる文字遊びであろう。

「第一五錢である」「第一、五錢である」。

「おーやーかーた」親方。男主人。

「柏の森」耕牧舎の田舎染みた風景をカリカチャライズしたもの。]

 

 

明治四四(一九一一)年二月二十五日・山本喜譽司宛(封筒訣)

 

 BEFORE THE CURTAIN RISES.

    APOLLO THE BEAUTIFUL. に捧ぐ、

 

黄昏のしみじみ寒い桔梗色の羽織に

幕-合の木の鳴る音ぞうれしけれ

 

  Kachi と鳴りまた Kachi と鳴る

  緞帳に散る金と赤こそうれしけれ

 

棧敷の外には ほのかなる酒の香にほひ

曇りたる Door の硝子をへだてゝ

うす青き 雪の反射ぞいたましや

 

  Kachi と鳴りまた Kachi と鳴る

  幕-合の拍-子-木の音ぞうれしけれ

 

番附をのせた右の手の白さ

濡色の桃割れに銀釵(ぎんかん)が冷たそに

橫顏の頰のえ-みこそなつかしや

 

  Kachi と鳴りまた Kachi と鳴る

  幕-合の拍子木の音(ネ)ぞうれしけれ

 

あゝ赤が散る 金が散る また靑が散る

さゞめきの銀の乱れに紺がちる

靜なる幕のゆらぎぞ美しや

 

  Sha, Sha, Shan また tin, tin, tiun, shan

  二上りの下座の三味こそうれしけれ

          (一九一一年二月二十五日)

君の夢の話の奥に Some thing のあるを見候 もつと詳しく話していたゞきたく候 何となく不安心のやうな氣がいたし候

皆の歸つた跡はさびしきものに候 君のかへつた跡はさびしきものに候 戀しき人の去りたる後に “I love you, Do you Pardon me ? ” とつぶやける アムステルダムの少年詩人を思浮べ候

   蒼褪めし心の上に雨をきく、雨のひゞきのかなしさをきく

   冬の雨のひゞきをきけば淚流るゝ かなしかりけりかなしかりけり

   此淋しさ何とてたへむ□□□□□□□故に□□□得ざれば

[やぶちゃん注:三行目の判読不能部分は底本ではそれぞれ長方形で配されてある。推定で字数分を置いた。]

その少年詩人のやうに僕もつぶやくべく候 Do you Pardon me ?

          新宿の森なる   Satyr.

 

[やぶちゃん注:標題と添辞の後を恣意的に一行空けた。この前の来信に書かれていた山本の見たという夢が――知りたい。

「BEFORE THE CURTAIN RISES.」「幕開きの前に」。

「二上り」「にあがり」は三味線の調弦法の一つ。本調子を基準にして第二弦を一全音(長二度)高くしたもので、派手で陽気な気分や、田舎風を表わすもの。

「Do you Pardon me ?」「私を許して呉れませんか?」。]

奥州ばなし 與四郞

 

     與四郞

 

 柴田郡與倉村の内、宿といふ所の百姓に、與四郞と云者、有し。生付《うまれつき》、氣丈にて、力つよく、齒などの勝《すぐれ》て達者なることは、近鄕にたぐひなく、殼(から)くるみを、やすく、かみわりしとぞ。

 寬政年中[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]のことなりし。十一月末に、病狼《びやうらう》、荒《あれ》て、宿の町の者ども、數人《すにん》、あやめられしこと、有き。

 其頃、與四郞、外へ夜ばなしに行て、九頃[やぶちゃん注:午前零時前後。]、歸るに、をりふし眞の闇にて有し。何心もなく、小哥《こうた》にて步行《ありき》するうしろより、狼《おほかみ》、出《いで》て、こむらを、くひたり。ハツト思ひ、ふりむく内、乳《ち》の下を食《くひ》、又、飛越《とびこえ》て、あばらをくひし時、狼とは、心づきたり。

「やれ、與四郞は、狼にくはるゝぞや。誰《た》ぞ、出《いで》て、たすけよ、たすけよ。」

と、聲かぎりによばはりしかども、夜ふけといひ、たまたま聞付《ききつけ》し人有《あり》ても、おそろしさに、耳つぶしなどして、出《いで》あはざりき。

 狼は、すきまなく、前後・左右より、とびつき、とびつき、食《くふ》こと、數所なり。

『とても、たすかる身にあらず。かたきばかりは、とらんずものを。』

と、をたけびして、とりあヘども、闇夜のことなり、狼は、つばさを得たるが如く、とびのき、飛つき、くらひつくに、棒一本だに、もたざれば、手にて拂へば、すぐに、くはれ、足もてふめば、又、くひつかれ、せんかたなし。

 くはれながらも、引敷《ひきしき》、引敷、足を、おしをりしが、三本まで、をりたれど、壱本にても、飛ぶこと、やまず。

 漸《やうやう》壱本なる足を取し時、をとがひへ食《くひ》つかれしを、兩手にて引はなせば、我《わが》肉まゝ、はなれし時、狼[やぶちゃん注:「が」或いは「の」を添えたい。]のんどに、與四郞、食付《くひつき》て、つひに、のんどの皮をくひやぶりて、かたきをば、とりつれど、惣身《さうしん》、血しほにまぶれながら、其あたりの戶をたゝき、

「狼は、仕とめつれば、氣づかひなし。明けよ、明けよ。」

と、たゝきしかば、漸、明《あけ》たる所に入《いり》て、かいほうに逢《あひ》、夜の明《あく》るを待《まち》て、長町と云《いふ》所に、狼に食れし者のみ、療治する醫の有《ある》もとに行て、疵口をあらためしに、四十八所、有しとぞ。

 醫の曰、

「かほど、くはれし人を、見しことなし。數所の内には、急所にかゝりし所もあれば、療治、屆《とどく》やいなや、うけ合《あひ》がたけれど、先《まづ》、こゝろみん。」

とて、とりかゝる。

 その療治の仕方は、狼にくはれし所をくりぬきて、疵口へ、もぐさをねぢ込《こみ》、灸を、度々《たびたび》、すゆることのよし。

 四十八所の疵口へ、十分に灸をせし内、與四郞は、少しもひるめる色なく、こらへて有しとぞ。

 醫師は、おもふほど、療治をして、この氣丈を感じ、

「いまゝで、數人、療治をせしに、只、一、二所の疵にさへ、人參をのませて療ずるに、氣絕せぬ者は、すくなし。五十におよぶ疵口をりやうずる内、かほど、たしかにて有しは、前後に稀なる氣丈もの。」

と、ほめしとぞ。

「犬毒《けんどく》は、のきたれば、よし。是よりは、きんもつ、大切なり。第一、ます・雉子・小豆の餠なり。この外、油のつよきものは、皆、いむべし。」

と、いはれて、

「私ことは下戶にて、小豆餠、ことに好《すき》なり。これを、いむことにては、生《いき》たるかひ、なし。今迄の如く、灸を又一ペんすゑ直さば、早束《さつそく》より、何を食しても、よからんか。」

と、問ひしとぞ。

 醫の曰、

「いや、さやうにやきしとて、きんもつなしに、よきことは、なし。先々《まづまづ》、かへれ。」

とて、歸しけるに、正月もちかし、三十日にもたらぬうち、「もちつき」成《なり》しに、與四郞、こたへず、小豆餠、したゝか、食せしが、少しもさはらざりしとぞ。

 もろこしの關羽が、矢疵を療治せしにも、おとるまじ。珍らしき豪傑なり。

 雄子・ますなども、ほしきまゝに食《くひ》しが、眼《まなこ》くらく成《なり》しかば、

「めくらになりては、せんなし。」

とて、後《のち》は、くはざりしとぞ。

 文化九年[やぶちゃん注:一八一二年。]の頃、五十二才なりしが、達者にて有しと、きゝし。

 同じ寬政の頃のことなり。與四郞、くはれて、五、六年過《すぎ》て、また、狼の荒るゝといふこと有しに、同じ村に劍術をたしなみし百姓有《あり》て、狼を切《きる》法を、つたへられて、一度、ためし見たく、内心に願《ねがひ》ゐたり。【狼を切には、左の手を出してゆけば、それを食つかんと來る時、手を引てきれば、見事にきらるゝと敎られしとぞ。】

 親類内にふるまひ有て、夫婦づれにて出《いで》しこと有しに、家人は、

「かならず、はやく日の暮ぬうちに、かへれ。」

とは云《いひ》つけやりしに、妻は、ことにおそれて、先方をも、はやく仕廻《しまはし》て、七ツ時分[やぶちゃん注:午後四時前後。]、歸《かへり》しに、遠く、狼のかたちを見かけしかば、いよいよ、道をいそぎて家に入《いり》たり。

 夫は、直《ただち》に、わきざしをさして、門を出《いづ》るを、妻、とゞめて、

「けが、あやうし。」

といふを、

「多年ねがひしこと故、ぜひ、切《きり》てみたし。」

とて、出たり。

 扨、はじめの所にいたりて見れば、遠くすくみてゐたるを、わきざしをぬきて、左の手をさし出《いだ》して、ちかよれば、十間ばかり[やぶちゃん注:約十八メートル。]に成し時、狼は、背をたてゝ、胸を、地につけ、このかたをめがけて、ねらふ躰《てい》なり。

『うごかば、きらん。』

と、心をくばりてゐたれど、一飛《ひととび》に手に食《くひ》つきしが、一向、目にさへぎらざりしとぞ。

 手を引《ひき》かねて、くはれながら、切しが、かしらは、そげて、きられつれど、猶、手に食付て有しを、先《まづ》、仕とめたれば、

『よし。』

と思ひ、うしろあしに繩を付て引ながら、

「與四郞は四十八所くはれてさへ、生《いき》おほせつれば、たゞ一所は、心やすし。」

と、おちつきて、かへると、すぐに、かの醫の本《もと》に往《ゆき》て、療治をたのみしが、一所の灸治さへ、氣絕して、思ふほど、灸、すゑかね、廿日もたゝぬに、むなしくなりしとぞ。

 なまびやう法、大疵《おほけが》のもとなりき。

 

[やぶちゃん注:ここに出る複数のそれは、事実、狼(哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミCanis lupus hodophilax )であったか、そうではなく、野生の犬或いは逃げた飼い犬(イヌ属タイリクオオカミ亜種イエイヌ Canis lupus familiaris)の野生化した個体であったかは、これだけでは判らない。ただ、複数、咬まれて亡くなったというそれや、最後の左手一箇所だけを咬まれただけなのに死亡したケースでは、その対象の狼或いは犬が、狂犬病に罹患していた可能性が濃厚であると考えられる(凡そ二十日経たぬうちに死亡しているのを「遅過ぎる」と感じられる方がいるかも知れぬが、狂犬病ウイルス(オルトルナウイルス界 Orthornavirae ネガルナウイルス門 Negarnaviricota :  ハプロウイルス亜門 Haploviricotina モンイウイルス綱 Monjiviricetes モノネガウイルス目 Mononegavirales ラブドウイルス科 Rhabdoviridae リッサウイルス属 Lyssavirus Genotype 1 狂犬病ウイルス Rabies lyssavirus :リッサウイルス属は七つの遺伝子型に分類に分類され、学名も通常のそれとは異なり、属名が属のそれとは一致しない)は神経系を介して脳神経組織に到達して発病し、その感染の速さは、日に数ミリメートルから数十ミリメートルとされており、脳組織に近い傷ほど、潜伏期間は短く、二週間程度であるものの、遠位部では数ヶ月以上、事例の中には二年後の発症例もあるのである)。而して、与四郎を襲ったそれは、或いは狼であったものかも知れず、幸いなことに四十八ヶ所も咬まれながら、十年以上元気に暮らしていたとするなら、その狼或いは野良犬は不幸中の幸いで、狂犬病ではなかったと言える。ともかくも本書は文政元(一八一八)年成立で、与四郎存命の確認がある文化九(一八一二)年からは僅かに六年しかたっていない点で、優れて実録譚としての基盤がしっかりしており、何より、もし、ここに出るその対象の犬様(よう)の生物が、実際にニホンオオカミであったとすれば、本篇は、ニホンオオカミ史上、稀有の人を襲った事実の驚くべき実記載であることになる。それを女流作家只野真葛が記していること自体、これはとんでもなくレアにして貴重なニホンオオカミの博物学的記録であるという点で、現代に蘇るべき逸品であると言うべきものなのである。

「柴田郡與倉」(「よくら」と読んでおくが、以下に示す通り、誤記)「村の内、宿」(「しゆく」)「といふ所」現在の宮城県柴田郡はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であるが、「与倉」や「宿」の地名は見出せない。しかし、同郡の字名を調べると、宮城県柴田郡川崎町(まち)支倉(はせくら)を見出せる。何故、ここで目が止まったかというと、底本は新字で「与倉」とあるからで、草書の「支」は「与」と判読を誤り易いからである。さればこそ! と探してみたところが、頭に当たった! 今もこの支倉地区に「宿」があった! 「NAVITIME」のこちらを見られよ! 「宮城県柴田郡川崎町支倉宿」とある! 大字「支倉」の字「宿(しゅく)」(読みはMapFan」のこちらを見られよ!)である! 探索大団円!!! ここがロケーションだ!!!

「耳つぶし」「聞耳潰(ききみみつぶ)し」(動詞形もある)わざと聞かないふりをすること。

「をとがひ」頤。歴史的仮名遣は「おとがひ」が正しい。下顎。

「我《わが》肉まゝ、はなれし時」与四郎の顎の肉を咬み喰らったままに引き千切って、狼が与四郎の体から離れた、その瞬間。

「のんど」喉笛。

「かいほうに逢《あひ》」その家の者から介抱を受け。

「長町」旧宿場町であった宮城県仙台市太白区長町(ながまち)があるが、ここかどうかは不明。但し、狼咬傷専門の灸を主体とする医師という特殊な専門医が、支倉の山間にいたとは考えにくいから、ここを一つの候補としておくウィキの「長町(宮城県)」によれば、『長町宿は仙台城下から数えて一つ目の宿場だった。長町宿の設営には仙台城の普請奉行だった金森隠岐ならびに津田豊前景康が携わり、街道沿いに』八十六『軒の町屋敷が作られた。奥州街道の他に、長町宿から西へ延びる二つの街道もあり、総じて長町宿の伝馬役の負担は大きなもので、それに耐えかねて潰れる家もあったという』。『江戸時代の長町は、仙台城や』、『その城下町で使われる木材の集積地の一つでもあった。それらの木材は、広瀬川の支流である大倉川および新川川』(にっかわがわ)『周囲の藩有林、また』、『名取川上流』(支倉はまさにそこに当たる)『周辺の藩有林から切り出されたもので、川の流れを利用して下流へと流された。広瀬川に流された木材は角五郎木場に、名取川に流されたものは長町木場に集められ、そこから城下へ流通して、薪などに使われた。長町木場では毎年』四十五『万本から』六十『万本の流木(ながしぎ)が取り扱われたという』とあり、繁華な宿場町であったことが判る。この驚くべき多量の木材集積の場であったことを考えると、実際の林業従事者たちが、ここと関係が深かったことが判り、さすれば、山中での伐採作業中などに、狼に襲われることも日常的にあったに違いなく、ここにこの稀有の狼咬傷の専門医がいても、何ら不思議ではないではないか。調べてみてこそ分かったリアリズムである。

「犬毒《けんどく》」これは、必ずしも狂犬病のみを指すものではなく、咬傷による他の多くの細菌やウイルス感染症も含まれる謂いであろう。

「きんもつ」禁物。以下から、特に予後の禁忌の飲食物を指すことが判る。

「ます」「鱒」であるが、この「マス」とは、現在でも、特定の種群を示す学術的な謂いでは、実は、ない。広義には、サケ目サケ科Salmonidaeに属しながらも、和名の最後に「マス」が附く魚、又は、日本で一般にサケ類(ベニザケ・シロザケ・キングサーモン等)と呼称され、認識されている魚以外の、サケ科の魚を総称した言い方であり、また、狭義には以下のサケ科タイヘイヨウサケ属の、

 サクラマス Oncorhynchus masou

 サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae

 ニジマス Oncorhynchus mykiss

の三種を指すことが多い。私の「大和本草卷之十三 魚之上 鱒 (マス類)」を参照されたい。

「今迄の如く、灸を又一ペんすゑ直さば、早束《さつそく》より、何を食しても、よからんか」自分にとって都合のいいことを言っているようだが、ちょっと理屈が判らず、訳せない。まあ、四十八箇所も咬まれた直後のことなれば、やや意味不明のままの、小豆餅食いの懇請ととっておいて問題ない。

「こたへず」「こらへず」の誤判読か。堪(こら)えられず。

「關羽が、矢疵を療治せし」私は「三国志」に興味がない人種であるので、話として麻酔せずに矢傷(但し、以下を見ると判るが、古い慢性化したそれである)を手術させたということは聴いていたが、よくは知らなかった。サイト「はじめての三国志」の「関羽は矢傷をどうして麻酔しないで治療したの?」が、さらりと読めてなかなかよかった。

「眼《まなこ》くらく成《なり》しかば」一時的な視覚障害が起こったようであるが、それを狼咬傷感染症の予後に雉子や鱒を食ったことと関係づけることは医学的には言わずもがな、無理がある。この視覚障害が所謂、視野狭窄であるとすれば、狼に咬まれたのとは全く別の理由で発症したものと考えるのが自然であり、それも一過性であるから、問題にするに足らぬ。

「同じ寬政の頃のことなり。與四郞、くはれて、五、六年過《すぎ》て」寛政は十八年までしかないから、与四郎の狼との組打ち事件があったのは、寛政元(一七八九)年から寛政九(一七九七)年の間に概ね限定出来ることになる。

「同じ村」支倉村。

「ふるまひ」饗応。饗宴。

「先方をも、はやく仕廻《しまはし》て」妻が先方にそれとなく日暮れ時の狼の襲撃を恐れることを言い、先方も宴を短い時間で切り上げたということであろう。

「遠くすくみてゐたる」主語は狼。遠くに、立ち竦(すく)んで居た。この「すくむ」は、座って上半身をすっくと緊張させていたということであろう。まさに戦闘にかかるためのプレ状態である。

「一向、目にさへぎらざりし」全く以って、その飛びかかる動作が電光石火で動態を視認出来なかったというのである。]

2021/01/25

怪談登志男 九、古井殺人

 

   九、古井殺ㇾ人(ふるい、ひとをころす)

 武州長井は實盛が住所なりしと云傳へ、終る所は篠原なりときゝ、此頃、「江戶砂子」を見れば、端芝(はししば)法源寺に墳墓ありといふ。いぶかしき說なり。

 されば、此あたり近き町に、冨裕の商家(しやうか)あり。

 正德年中の頃なりしが、

「造作(そうさく)を營む。」

とて、

「あな藏(ぐら)の舊(ふり)たるを埋(うづ)め改(か)ゆる。」

とて、鋤鍬(すきくは)の末(まつ)を虧(かき)、石金(いしかね)に障(さはる)ごとくなりしかぱ、大勢、たちより、土を穿(うが)ち、其所をみるに、銅(あかゞね)の板、一枚を敷たり。

 放捨(はなちすて)て見つれば、古井の涸(かれ)たる穴なり。

 踏(ふむ)所の土、崩(くづれ)て、一人、此穴に落たり。深(ふかさ)は、只、二丈あまりにして、さのみ、深からず。

 落たるもの、絕(たつ)て音せず。

 是れを、

「たすけ出さん。」

とて、續(つゝい)て入たるものも、音せず、うごきもやらねば、又、飛入る人を、あたり近き所の老醫(らうゐ)、是をとどめ、

「古井に入て死したる例あり。率爾(そつじ)に入るべからず。」

と制し、松明(たいまつ)を燈(とほ)して入たり。

 其男、井の底に至りて見るに、初め落たるも、後に入たるも、總身、色(いろ)、變じて、息、絕(たへ)たり。

「其あたりに、仔細やある。」

と、尋、見るに、其色、綠靑(ろくしやう)のごとく、氷柱(つらゝ)に似たる物ありて、石の間より流れ出たり。

 是を取、件の死したる人の腰に、用意の綱を付て、引上させ、我身も、つゝがなく上りしが、あヘて毒氣に、ふれもせず。

 大勢、はせ集りて見るに、かのとりて出しものは、すきとほりて、靑磁のごとし。

 老醫のいはく、

「鐘乳石(しやうにうせき)なり。」

とて、取て歸りぬ。

 井は、

「人の死せし穴なれば、もちゐがたし。」

とて埋(うめ)ぬ。

 銅(あかゞね)の板には、數行(すかう)の文字ありしが、錆(さび)を生じて、字躰(じたい)、さらに、わきまへがたし。何人(なんひと)の舊跡(きうせき)なりしにや。

 すべて、「古き井には、むざむざ、入ものにあらず」と、書(ふみ)にもしるし、語りも傳へて、今は、人も、よく心得たれど、端々(はしばし)の片田舍などには、まま、あるべき事なり。心得すべし。

 其頃、

「芝(しば)邊(へん)の町にても、かゝる事のありし。」

と風聞せしが、虛實は。たゞさゞりし。

「何にもせよ、毒氣あるは、うたがひなし。うかうかと、入べからず。」

と、古き人の語り侍りし。

 

[やぶちゃん注:「武州長井」武蔵国幡羅(はら)郡長井庄(現在の埼玉県熊谷市のこの附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「實盛」平安末期の、かの名将斎藤実盛(天永二(一一一一)年~寿永二(一一八三)年)。武蔵国相模国を本拠とした源義朝(頼朝の父)は父為義と不仲で、父の命により上野国に進出してきた異母弟義賢(よしかた ?~久寿弐(一一五五)年)と抗争を続けていた。実盛は当初、義朝に従っていたものの、寝返って、義賢の幕下に伺候するようになった。それを危険視した義朝の子義平(頼朝の異母兄)が義賢を急襲し、これを討ち取った(「大蔵合戦」。武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)とされるものの、合戦地には異説もある)。その後、実盛は再び義朝・義平父子の配下に戻るも、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児駒王丸を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻であった信濃国の中原兼遠のもとに送り届けていた。この駒王丸が後の「旭将軍」木曾義仲であった。「保元の乱」・「平治の乱」にあっては上洛して義朝の忠実な部将として奮戦したが、義朝没後は、関東に落ち延び、その後、平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用された。そのため、治承四(一一八〇)年の頼朝の挙兵し際しても、平氏方に留まり、平維盛(平清盛の嫡男であった重盛の嫡男)の後見役として頼朝追討に従い、寿永二(一一八三)年に維盛らと木曾義仲追討のため、北陸に出陣したものの、加賀国の「篠原の戦い」(現在の石川県加賀市篠原町附近)で敗北し、討死した。

「住所」「すみどころ」。

「江戶砂子」江戸中期の俳人で随筆家菊岡沾涼著。全六巻。「江戸砂子温故名跡志」とも称する江戸地誌。享保 一七 (一七三二) 年刊。江戸市中の旧跡や地名を図解入りで説明している。

「端芝(はししば)法源寺」現在の東京都台東区橋場(はしば)にある浄土宗帰命山薬王無量院保元寺。奈良時代の宝亀元(七七〇)年創建と伝え、法相宗・真言宗など諸宗派を経て後、増上寺開山酉誉上人の弟子であった惣誉酉公大和尚により浄土宗に改宗した。江戸時代に法源寺と名を変えたサイト「千葉一族」の「僧侶になった千葉氏」の「聰譽酉仰」によれば、酉仰が古刹である本地の『廃亡を嘆き、当地で二晩三晩念仏誦経に夜を明かすと、ひとりの老人が参詣に訪れたのに出会った。酉仰は老人にいずれから参られたかと問うが、その老人は無言で通り過ぎ、寺の大門の柱の影で姿を消した。それがたびたびに及んだことから、酉仰は大門の陰を覗いてみると、石塔があった。この石塔には齋藤別当実盛』『の名が彫られており、齋藤実盛の墓と知った酉仰は』、『新たに法名を授け』て『「篠原院前左金吾従五位徳山覺道眞阿大居士」と回向したところ、酉仰の夢に喜色を含んだ実盛が現れて「永く寺門法孫を守るべし」と約したという。その後、酉仰は保元寺を法源寺と改め、帰命山無量寿院と名づけてその開山となった』とある)、大正になって保元寺と戻し、現在に至る。現在も「斉藤実盛の石仏(墓・供養塔)」とされるものが存在する(以上の主文は私が古くからお世話になっている東京の寺社案内の堅実なサイト「猫の足あと」のこちらに拠った)。

「正德」一七一一年~一七一六年。

「虧(かき)」欠けさせ。

「總身、色(いろ)、變じて、息、絕(たへ)たり」これは、まず、第一には一酸化炭素中毒を想起させる。遺体がかなり鮮やかなサーモン・ピンク色になるからである。

「鐘乳石」このロケーションでは、その形成は、あり得ない。

「芝(しば)」東京都港区芝。

「毒氣あるは、うたがひなし」単純な致命的な酸欠状態や二酸化炭素充満が可能性として有り得る。奇妙な石の色からは硫化水素も疑われるが、この時代の、この場所でというのは、やはり無理がある気がする。或いは河川下水及び便所の汚水(便槽の桶の一部に亀裂が入っていたなどの可能性)などが、たまたまここの下に長い間をかけて知らぬうちに溜まって、何らかの酸欠が致死的なレベルにまで達していたと考えることも可能ではある。この古井戸が土砂と銅板で覆われており、外気と完全に遮断されいたことなどは、その傍証ともなろうか。]

奥州ばなし 狼打

 

     狼 打

 木幡《きはた》四郞右衞門【伊賀舍弟。】、澤口覺左衞門【同三弟。】、兩人つれだち、例の鐵砲、打かたげて、山狩に出しが、得ものもなければ、

「狼をうたん。」

と、宮崎郡多田川村の内、「若みこ」といふ所にいたりて、【此當《このあたり》は狼の巢なり。】岡山よりみおろせば、河原近き平野《ひらの》に、狼、集りゐたり。【數、十四、五疋なり。】

 をりをり、里に下り來るものなれど、かく一目《ひとめ》に見しは、はじめなりとぞ。

 兩人、めづらしく思ひ、その毛色をみるに、赤毛・白毛・白黑のぶちさへ有《あり》て、眞犬《まことのいぬ》の如し。【常に見るは、ごま犬のごとくなる多しとぞ。】

 岡より、つるびに打《うち》しに、【「つるび」とは、ひとしく打ことなり。】覺左衞門が打しは、一にあたりて、たふれたれば、とりて行つ。四郞右衞門が打しは、一たふれし玉の、又、そばなる雌(め)狼にあたりて、はでに成《なり》て逃《にげ》しほどに、

「とめ矢を付《つけ》て、二とらん。」

と追かけしが、日暮しかば、見うしなひたり。

「打捨置し狼をとらむ。」

と、人をやとひて、松、うちふらせて、先の所に行《ゆき》てみしに、得ものは、なし。

 そのほとり、おびたゞしく狼の足跡有し故、そのあとをもとめて行てみるに、河原に引《ひき》ゆきて、友食《ともぐひ》せしとみえて、ほね・肉、ともに、少しもなく、たゞ、壱尺四方ばかり、皮の殘りて有しのみなり。

 いまゝで、むつましげにつどひゐし友の、人にうたれつればとて、暫時に、くらひ盡しける、狼の心ぞ、めざましき。

 せんかたなければ、のこりし皮をとりてかへるに、四方《しはう》、山澤《やまさは》にて、狼のほゆる聲、いくそ百《びやく》にかあらん、物すごければ、やとはれし步《ふ》は、ふるふ、ふるふ、

「よしなき御供つかまつりて、命や、うしなはんずらん。」

と、わぶるを、四郞右衞門は、たけだけしく、

「惡《につく》き山犬めら、打とめし得物をくらひしうへにも、あだなさば、一打《ひとうち》ぞ。」

と、四方をにらみてかへりしが、出來《いでく》る狼は、なかりしとぞ。【解云、こは狼にあらず、「豺《やまいぬ》」にて、俗に「山犬」と唱《となふ》るものなるべし。狼には雜毛のものなく、豺には、雜毛、多かり。】[やぶちゃん注:これは頭注。]

 

[やぶちゃん注:標題は「狼打」は「おほかみうち」と読んでおく。さても、馬琴の言うように、ここに登場したそれは、確かに毛色から考えて、哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミCanis lupus hodophilax(北海道と樺太を除く日本列島に棲息していた)ではなく、犬(イヌ属タイリクオオカミ亜種イエイヌ Canis lupus familiaris)の野生化した個体の群れであろう。現在、確実な最後の情報は明治三八(一九〇五)年一月二十三日、奈良県吉野郡小川村鷲家口(わしかぐち:現在の東吉野村鷲家口。この附近。グーグル・マップ・データ)で捕獲された若い♂(標本として現存)である。それ以前であるが、明治二五(一八九二)年六月まで上野動物園でニホンオオカミを飼育していたという記録がありはするものの、写真は残されていない。先般、新聞でニホンオオカミが「生き残っている」として探索している方の記事を読んだが、一定のコロニーがフィールドの中になければ、生き残りは考えられないのに、誰一人としてそれを確認・記録した者がいないことから、生態学的遺伝学的に考えて、私は残存説を全く支持出来ない。何らかの野生の犬の中にその遺伝子を有意に保存しているものがいないとは言えないが、そういうなら、その裾野は普通の和犬も範疇として含まれてくる。そうしたある種の古い和犬種が一定の群れを持って、山中でひっそりと生存を続けているというのは有り得るかも知れぬとしても、それをニホンオオカミの生き残りとは私は言えないと考える。それは最早、生物学科学的生態学的発言ではなく、個人的なロマンの世界である。ロマンとは文芸的想像的で期待空想の世界であって、共有出来る者同士がそれを語り合って希望を持つのは一向に構わない。しかし、公然と生き残っていると発言し、都合のいい少数の科学的資料や、怪しげな写真や、ちょっと外れた学者の賛同説や、好事家の如何にも噓臭い話を以って、大衆に妙な期待を持たせるのは如何なものかと考える。私にとってはニホンカワウソやトキが絶滅したのと同じであり、ツチノコやヒバゴンが種として存在しているという類いと変わらないと思うのである。そういうロマンを語る人は、私に言わせれば、既に絶滅してしまった微小貝類や、地味で目立たぬ絶滅目前の生物類にこそ目を向けるべきであると言いたい。絶滅した生物の幻しを求めるのではなく、今、この瞬間に絶滅しつつある生物群を守るべきである。「大きな体のパンダは可愛い、イルカやクジラは人間に近くて頭がいい、だから守るが、目に見えないようなこんまい貝や、気持ちの悪いにょろにょろの蠕虫なんか、いなくなったっていい」というのは人間の身勝手である。というより、チェレンコフの業火を手にしてしまった自分たち自身の絶滅をこそ実は恐怖すべきである。但し、先の記事の方は、残されてある頭骨標本などを丹念に探し、絶滅したニホンオオカミを語り継ごうとしておられるのが本当の心情であられると読んだ。それには甚だ賛意を表するものである。なお、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ) (ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)」も参照されたい。また、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豺(やまいぬ) (ドール(アカオオカミ))」もあるが、そこで私が「豺」をドール(アカオオカミ。ユーラシア大陸の東部(中国・朝鮮半島・東南アジア・ロシア南東部)と同大陸の中央部から南部(モンゴル・ネパール・インド・バングラデシュ・ブータン等)に棲息するイヌ科イヌ亜科イヌ族ドール属ドール Cuon alpinus 、別名アカオオカミ(赤狼)、英名「Dhole」)を比定同定したのは、良安の記載部分が「本草綱目」に基づくものだからである。日本に無論、ドール(アカオオカミ)は棲息しない。

「木幡四郞右衞門」小早川秀秋氏のブログ「戦国武将録」の「伊達晴宗家臣団事典」に、『木幡四郎右衛門』『きはたしろうざえもん』とあり、『伊達政宗家臣』で慶長五(一六〇〇)年の『「松川の戦い」で、挙げた頸級を、位牌の描かれた敵の軍旗に包んで持ち帰った。その戦功により、位牌の軍旗は木幡四郎右衛門の軍旗として使用された』とある人物の末裔かと思われる。本文で「きはた」と読んだのは、この記事による。また、岸本良信氏の公式サイト内の「仙台藩(伊達藩)2」(「御知行被下置御帳」(延宝四(一六七六)年から三年四ヶ月かけて成立した仙台本藩士及び白石片倉家臣の内で禄高十石以上の者千九百三十二人の由緒書からの藩士・家臣のリスト。底本は一九七八年歴史図書社刊佐々久監修「仙台藩家臣録」)に「木幡四郎衛門」と出る。

「伊賀」只野伊賀。真葛の夫只野行義(つらよし)の通称。

「舍弟」すぐ下の弟の意でとる。

「澤口覺左衞門」「同三弟」とあるが、底本にある只野真葛の別な随想「真葛がはら」の「天」の部に、二篇続けて彼を主人公とする怪奇談が載り(「二、沢口覚左衛門のきつね打の次第」及び「三、同じ人奇獣をうちしこと」)、この後者の末には『沢口覚左衛門は、只野伊賀末弟なり』とある。この「真葛がはら」も、将来、電子化せずんばなるまい。今年は、只野真葛年となりそうだ。参考までに、宮城県の伝説を扱っている個人サイト「伝承之蔵」こちらと、こちらに、そのこの二話の現代語訳と見まごう話が載る。但し、そこで彼を「猟師」とするのは、一体、どの資料からなのだろう? 甚だ不審である。真葛の原本文には猟師とは記していないし、只野伊賀の弟である以上、彼は武士である。いや! 先に示した岸本良信氏の「仙台藩(伊達藩)2」にも「沢口覚左衛門」とはっきり出ている。彼は猟師ではない! 武士である! さて。このサイト主は同サイト内でパブリック・ドメインの「仙台人名大辞書」や「仙台叢書」などの素晴らしい電子化もなされておられ、そこでは異常に厳しい使用注意書を記されておられるのだが、御自身の、以上の「伝説」のパート部分では、その話の基礎資料とした書誌データや聴取記録を、一切、表示されておられない。これは確かな「伝説」だからこそ、示すのが必須にして当然である。しかもこのサイトはアメリカのフロリダ大学の学生の助力を得て、英訳までなされていて、外国の方も読むのである。民俗学の伝説記録として以上の基礎データは絶対に欠かせない。ただ、言わせてもらえば、私は以上の二つが、どう考えても、只野真葛の「真葛がはら」をもとに作話したものとしか思えないのである。「沢口覚左衛門と珍獣」の下方にある「四日切」の解説は「真葛がはら」の「三、同じ人奇獣をうちしこと」の途中に入る翁の台詞を訳したものに過ぎないからである。だのに、どうして勝手に武士「澤口覺左衞門」が「猟師」になっているのか? 不思議である。主人公を「猟師沢口覚左衛門」とする、真葛のものとは違う伝承があるのであれば、是非とも、その原拠・採集年月日を示して戴きたいのである。そうでなく、万一、誰かが勝手に「猟師」に設定を作り変えてサイト主に話したのだとすれば、これは、他の折角の面白く興味深い同サイト内の他の「宮城県の伝説」群も聊か素直に読めない気がしてくるし、民俗伝承資料としても甚だ残念なことになるのである。

『宮崎郡多田川村の内、「若みこ」といふ所』宮崎郡という郡はない。宮城郡はあったが、同郡内に今は多田川はない。しかし宮城県加美郡加美町多田川ならばある。航空写真に切り替えて拡大すると、「狼の巢」の雰囲気は、特に北西部(旧上多田川地区)辺りで文句なしだ(「スタンフォード大学」の旧地図も参照されたい)。私は、断然、ここと感じた(但し、「若みこ」は遂に発見出来なかった)。さらに、地図で字地名を調べている内に、旧下田川地区から南東に二キロメートル半ほどのところに、宮城県加美郡加美町上狼塚(かみおいのつか)」というとんでもない地名が現存することが判った。「スタンフォード大学」の旧地図では「かみおいぬつか」とルビする。なんか、呼ばれた感じがした!

「河原近き平野」この地区は北西から南東にかけて尾根が南北にあり、村域のその中央を多田川が貫流している。

「狼、集りゐたり。【數十四五疋なり。】」この群れも、あまりニホンオオカミらしくない。彼らは大規模な群れを作らず、二、三頭から多くても十頭ほどの群れで行動したとされるからである。但し、北海道・樺太・千島列島にも分布していたイヌ属タイリクオオカミ亜種エゾオオカミ Canis lupus hattai とはそこが違う。エゾオオカミは明治になって北海道開拓で捕獲駆除が奨励され、明治二九(一八九六)年に函館の毛皮商によってエゾオオカミの毛皮数枚が扱われたという記録を最後に、確認例がなく、ロシア領有地も含めて同種は絶滅したものとされている。

「一目《ひとめ》」こう読んで初めて「一度に見えること・一目で総てを見渡せること」の意となる。

「常に見るは、ごま犬のごとくなる多し」本当の狼のことを言っているととる。胡麻犬で白に胡麻を散らしたくすんだ感じの謂いか。ニホンオオカミは周囲の環境に溶け込みやすいように夏と冬で毛色が変化したとされる。東京大学大学院農学生命科学研究科収蔵の剥製(♀・体長一メートル)は冬毛のように思われ、白に薄い茶色交りの感じ。「奈良県」公式サイト内の「県民だより奈良」のこちらに、オランダの「ライデン自然史博物館」所蔵の基準標本のニホンオオカミの剥製の写真があるが、これが夏毛のようで、濃い茶色を呈している。ニホンオオカミが餌が不足して、下界へ下りてきて人馬を襲うのは冬場が多いから、常に里人が見かけるのは、冬毛で腑に落ちる気はする。

『つるびに打《うち》しに、【「つるび」とは、ひとしく打ことなり。】』「連(つる)びに擊ちしに」。ここは二人一緒に同時に撃ったの意であろう。「連(つる)ぶ」いは「並べる」の他に「続けざまに打つ・つるべ打ちに打つ」(連続して放つ)の意もあるが、ここは前者でとった。

「とりて行つ」「覚左衛門が、倒れたその獲物をとりに下って行った」の意としか読めないが、しかし、それでは後の展開と齟齬する。「とりに行かんとしつ」の意にとって読み進める。

「四郞右衞門が打しは、一たふれし玉の、又、そばなる雌(め)狼にあたりて、はでに成《なり》て逃《にげ》しほどに」前注に従い、また、ここの「一たふれし」も「一たふせし後に、その玉の」と読み換え、「四郎右衛門が撃ったそれは、まず、一頭を倒した後に、その玉が跳んで、また、近くにいた雌(めす)の狼にあたって、ひどく暴れて逃げてしまったので」の意で採る。但し、ここは「一たふれし玉の」は「一たふれし狼の」の衍字の誤りととるなら、それはそのまま「覚左衛門が倒した狼の」ですんなりと読めなくはない。

「とめ矢を付《つけ》て、二とらん。」あの手負いの雌狼にも「留めの一発を撃って、二頭とも獲ってやる!」。無論、「矢」と言っているは従来の習慣からで、鉄砲で、である。

「日暮しかば、見うしなひたり」とあって、その直後に、「打ち捨てて置いていしまった撃ち獲った狼をとりに行こう」と二人で語り決めて、それから、「人を」雇って、「松、うちふらせて」(松明(たいまつ)をかざして打ち振って、宵の口の山路を)「先の所に行《ゆき》てみしに」となると、時間経過から考えて、ロケーションはそんなに山谷の奥ではないように読める。当初は現在の多田川地区の最奥と踏んだのだが、これは案外、同地区の中央或いは南東の平地に近いところであったのかも知れぬ。

「得もの」「獲物」。

「いまゝで、むつましげにつどひゐし友の、人にうたれつればとて、暫時に、くらひ盡しける、狼の心ぞ、めざましき」先般、私はタイリクオオカミ亜種ツンドラオオカミ Canis lupus albus の子育て(♀のみが行う)を見た。母と最初の娘と新生児の子育ての協力が胸を撲った。娘は新生児を育てるために遂に餓えて巣の中で亡くなる。母狼はしかし彼女を食べることはなかった。真葛よ、何時の時代も「めざましきは人なるぞ」――

「步《ふ》」荷い人夫。

「ふるふ、ふるふ」ぶるぶると震えては。

「わぶる」嘆く。]

芥川龍之介書簡抄4 / 明治四三(一九一〇)年書簡より(3) 山本喜譽司宛五通

 

明治四三(一九一〇)年九月十六日(推定)山本喜譽司宛(封筒欠)

 

水曜日から授業有之、一週獨語九時間英語七時間と云ふひどいめにあひ居候 敎科書はマカウレイのクライブ カーライルのヒーロー ウオーシツプ及ホーソーンの十二夜物語の拔萃に御坐候 存外平凡なもののやうに候へどもそれを極めて正確に且極めて文法的に譯させ候まゝ中々容易な事には無之候 殊にクライブを講ずる平井金三氏の如きは every boy を「どの小供でも」と譯すを不可とし必ず「小供と云ふ小供は皆」と譯させ I have little money を「あまり金を持つてない」と譯すを不可とし「金を持つ事少し」と譯させる位に候へば試驗の時が思ひやられ候

Class の人々は流石に皆相當な abilityのある人ばかりに候 殊に僕の兩隣にゐる二人の如き共に哲學科の人に候ヘども學力の正確(豐富ならざるも)なると比較的廣く讀み居るとに於て 中々話せる人たちに候 四日ばかりの中にもう「です」語をやめて「だ」語を使ふくらいになり候へば Class の人々とも大かた話しをする程度までに親み來り候

され共他人の中へ出たる心細さはまだ中々心を去らず候 折にふれて何となくなさけなくなり頭をたれて獨り君を思ひ候 あまりのしげく御訪ねするもあまりたびたび手紙をさし上げるのも何となく氣が咎め候へば心ならずも差ひかへ居候へども 獨語の拗音のこちたきに 思ひまどへる時などには すぐにも君に逢ひたくなり候

豫備校に御通ひに相成候ひてよりは定めし御忙しき事とは萬々承知致候へども折々の御たより下さらばうれしかるべく されどそもそも御復習を妨げてまでには及ばず候

新宿へうつるは來月に相成り候ふべく目下二度目の通學願書をさし出し居り候猶フイルハアモニツクソサイテーの演奏の時には御一緖に聞く事が出來候や 此頃は無精をして新聞をよまない事が多く從つて同會の演奏がいつあるやら知らず候 新聞にて御見つけの折は御知らせ願度候

此手紙はたゞ一高の狀況と用事とのみを記すつもりにて認め候

しかも筆のすゝむにつれて心絃幾度かふるひて君を思ふの心いつか胸に溢れ候

正直な所を申せば僕は君の四圍にある人に對して嫉妬を惑じ候、僕の君を思ふが如くに君を思へる人の僕等のうちに多かるべきを思ふ時此「多かるべし」と云ふ推察は「早晚君僕を去り給はむ」の不安を感ぜしめ此不安は更にかなしき嫉妬を齎し來り候

恐らくは 僕のおろかなるを哂ひ給ふ事と存候へども折にふれて胸を掠むる[やぶちゃん注:「かすむる」。]此かなしき嫉妬はしかも僕をして淋しき物思に沈ましめ候 かゝる物思のさびしさは此頃になりてはじめてしみじみ味はひしものに候

されども其さびしさの中に熱きものは絕えまなく燃え居候 あゝ僕は君を戀ひ候 君の爲には僕のすべてを抛つを辭せず候

人は僕の白線帽を羨み候へども君と共にせざる一高の制帽はまことに荊もて編めるに外ならず候 哂ひ給はむ嘲り給はむ 或は背をむけて去り給はむ されども僕は君を戀ひ候 戀ひざるを得ず候

君の爲には僕は僕の友のすべてにも反くをも辭せず候 僕の先生に反くをも辭せず候 將[やぶちゃん注:「はた」。]僕の自由を抛つをも辭せず候 まことに僕は君によりて生き候 君と共にするを得べくんば死も亦甘かるべしと存候

何となく胸せまり候 思、乱[やぶちゃん注:字体はママ。]れて何を書いていゝのやらわからなくなり候

唯此ふみよみ給はむ時 願くは多くの才人の間に伍して鼠色の壁の寒げなる敎室の片隅に黑板をのぞみつゝ物思にふけれる愚なる男の上を思ひ給へ、これにて筆を擱くべく候 夜も更け候へば 心も亂れ候へば

    十六日夜          龍弟

   喜譽司兄

  追伸 近き日の夜御訪ね致したく候 何曜日がよろしく候や伺上候

 

[やぶちゃん注:山本への、読者がちょっと身を引くような、強い同性愛感情が吐露されている一篇である。

「水曜日から授業有之、……」この当時の入学期は九月で、同年は入学が九月十一日(日曜日)で、入学式は十三日であった。宮坂覺氏の新全集年譜によれば、同級には石田幹之助・菊池寛・倉田百三・成瀬正一・井川恭・松岡譲・久米正雄・山本有三・土屋文明(最後の二人は落第による原級留置)らがおり、一級上には豊島与志雄・近衛文麿らがいた。授業はこの二日前の九月十四日(水曜日)であった。なお、この九月十一日には実姉ヒサが葛巻義定と離婚している。

「マカウレイ」イギリスの歴史家・詩人で政治家のトーマス・バビントン・マコーリー(Thomas Babington Macaulay 一八〇〇年~一八五九年)。

「クライブ」英領インドの基礎を築いたイギリスの軍人・政治家ロバート・クライヴ (Robert Clive 一七二五年~一七七四年)。マコーリーの随筆に「Lord Clive」(クライヴ卿一:八四〇年)がある(没後の一八四三年刊の彼の「Critical and Historical Essays: Contributed to the Edinburgh Review」の中に収録されてある)

「カーライル」イギリス(大英帝国)の歴史家・評論家トーマス・カーライル(Thomas Carlyle 一七九五年~一八八一年)。

「ヒーロー」カーライルが一八四一年に行った講義の集成「On Heroes, Hero-Worship, and The Heroic in History.」であろう。

「ウオーシツプ及ホーソーンの十二夜物語」「ホーソーン」はアメリカの作家ナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne 一八〇四年~一八六四年)であろうと思われ、「十二夜物語」は、シェイクスピアの喜劇(Twelfth Night, or What You Will)であろうが、「ウオーシツプ」は不明(綴りは Ossip 或は Osip か?)。ロシア出身の劇作家オーシップ・ディーモフ(Осип Дымов:Ossip Dymov八七八年~一九五九年(本名は Иосиф Исидорович Перельман で、ラテン文字転写すると、Iosif(=Joseph) Isidoroviych Perelman(イョーシフ・イシドーローヴィチ・ペレルマン)でペン・ネーム名との近似性が確認出来る)がいるが、但し、彼がアメリカに移住して英語圏で活躍するのはこの後の一九一三年である。或いは、この「ウオーシツプ及」(および)「ホーソーンの十二夜物語」という少し引っ掛かる謂いは、或いはロシア語の英訳注を指すのかも知れないとも思ったことは言い添えておく。私が彼を思い出したのは、後に龍之介が書いた「骨董羹 ―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」(大正九(一九二〇)年四・五・六月発行の雑誌『人間』に「壽陵余子」の署名で(芥川龍之介のクレジットなしに)連載されたもの)に「オシツプ・デイモフ」の名が出ることを覚えていたからである。リンク先は私の電子テクストで、因みに、私は『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み やぶちゃん』という特殊な口語翻案テクストをも、ものしてある(孰れも私の注附きである)。

「平井金三」(ひらいきんざ 安政六(一八五九)年~大正五(一九一六)年)京都生まれの英文学者。反キリスト教論者として仏教復興運動の最高潮を齎し、明治二六(一八九三)年にシカゴで開催された「世界宗教会議」では「不平等条約」に関して雄弁を揮い、満場の喝采を浴びた。後には心霊研究や禅的瞑想法を実践するなど、さまざまな領域で活躍した(以上は主にこちらの論文採録を参考にした)。「世界宗教会議」での彼の一人勝ち様子は、京都・宗教系大学院連合二〇〇七年一月発行『京都・宗教論叢』の『「京都・宗教系大学院連合」設立記念シンポジウム』内の「パネルディスカッション」の中の同志社大学神学部神学研究科教授森孝一氏の「平井金三とシガゴ万国宗教会議」の採録(26コマ目以降)が圧巻である。ネット上の諸記載を見ると、かなりの「変人」の部類に入る感じがする人物で、芥川龍之介がかく具体に書いているのも頷ける気がした。

ability」能力。

「こちたき」「言痛し・事痛し」「こといたし」の音変化。「煩わしい」・「大袈裟だ」・「沢山ある。程度が甚だしい」の意。

「豫備校に御通ひに相成候ひてよりは……」既注通り、山本は、この年に同じく旧制第一高等学校を試験受験したが、不合格となった。以下、幾つかの解説は――慶應義塾大学理財科予科に進学したものの、翌年、一高を再受験し、第二部乙類(農科)に合格した――とするのであるが、所持する二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の彼の項によれば、一高不合格となった後、『一時は慶應の理財科へ進学を決意するが、芥川と恩師広瀬雄の勧めにより翻意、しかし試験にも失敗、翌年一高を再受験して果たす事となる』とあるので、そちらが正しいと私は、とる。

「新宿へうつるは來月に相成り候ふべく目下二度目の通學願書をさし出し居り候」転居の件は「2」で既注済み。ただ、そこでは書かなかったが、この実父新原敏三の新宿の耕牧舎牧場の脇にあった家というのは、実は敏三が葛巻義定と娘ヒサの新居として建てたものであったのだが、先に注で示した通り、二人の離婚によって空家となっていたのであった。なお、当時の一高は三年制で、各学年約三百名の学生がおり、原則、一・二年生は全員が寮に入らなければならなかった。しかし、龍之介は入寮を嫌い、校外からの「通学願書」を提出して、一年次は遂に寮に入らずに済んだのであった。この「二度目の」というのは、その転居に関わっての再提出願書ということであろう。なお、そのあがきも流石にそのままでは許されず、二年次には龍之介も一年間入寮している。

「フイルハアモニツクソサイテー」Philharmonic Society。実業家で三菱財閥四代目総帥であった岩崎小弥太が、イギリス留学時代(彼は一九〇五年(明治三十八年)ケンブリッジ大学卒である)の友人を誘って、音楽愛好家団体「東京フィルハーモニック・ソサエティー」を設立している。その企画公演であろう。この後に続く山本宛書簡に『明日は休みに候へば切符は僕が行つて君のとも二人分貰つて來てもよろしく候 勿論君に貰つて來て頂いてもよろしく候 同時に別々に行て貰つて來てもよろしく候』『どれに致すべき乎伺上候』(月不明・日付十一日)とあったり、『日比谷の演奏が土曜日になりました 芝でお待ち申します』(月不明・日付八日)とあるのは、この団体の音楽会のそれなのかも知れないが、孰れも年次推定で不確かである。]

 

 

明治四三(一九一〇)年(月不明)九日(年次推定)山本喜譽司宛(封筒欠)・岩波旧全集書簡番号三九

 

昨日平塚來り候 君を訪ひ候ひしも御不在なりし由申居り候

明夕は本所に居るべく候 御誘ひ下さらば幸甚 唯天氣模樣が心配に御坐候 御手紙は難有拜讀仕候

 

   いつ知らず戀知りそめぬいつ知らず大野に草の靑ばむが如

    九日朝 雨ふらむとしてふらず雲低し

                   龍生

   あぽろの君

  追伸 之より芝へ行く所に御坐候

 

[やぶちゃん注:前に示した書簡の間に九月二十三日附と十月十四日附の山本宛書簡を挟んで旧全集に載る。或いは注意深い方は、「これはこの年次としても、ここよりも前に配されるべきではないか?」と考えるかも知れない。「この年の秋には芥川家は本所から新宿の先に示した家へ転居しているのだから」という理由からである。しかし、必ずしもそうとは言えないのである。宮坂覺氏の年譜によれば、この年の『秋』(月などの特定がない)に転居した旨の記事を記された後に、十『月に龍之介とフキが移り、翌年』二『月頃までに一家が移った、とする記述もある』とあるからである。この記述によるなら、彼が「明夕は本所に居るべく候」というのは何ら齟齬を生じないのである。にしても――芥川龍之介の生涯は生誕から自死まで――テツテ的に親族・姻族に振り回された生涯であったことを、私はしみじみ感ずる。私なら、それだけで自殺したいと思う精神状態に向かうような気さえするほど、その外的(これに関しては龍之介自身責任は殆んど全くない点で「外的」なのである)圧迫は晩年へ向けて波状的に生じているからである。因みに、山本の家は本所にあった。恋しんだったら、「自分から逢いに行けばよかろうに」という御仁は配慮が足りない。山本は再受験への猛勉強中なのだから。なお、私がこの短文書簡を選んだのは、以上のようなことを言いためでは――ない。添えられた短歌一首を採録するためである。私は「心朽窩旧館 心朽窩主人藪野唯至 やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇 縦書完備」で「定本 やぶちゃん版芥川龍之介全句集(全五巻)」や、「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」、及び、「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」をものしているが、例えば私の詩集と歌集では、書簡までは手を出していない。従って、この一首も始めて電子化するものである。されば、少なくとも、私が詩(定型・自由詩・戯詩を問わない)と和歌(俳句は書簡も総て検証したので、原則、外す)と判断したものについては、ここで電子化しようというのである(但し、新全集書簡部は所持しないのでそれは、原則、漏れることとなる)。私の「芥川龍之介 書簡抄」は気儘な覗き見趣味の変態的仕儀なんぞではないということを、ここでお断りしておくものである。

「平塚」既注

「あぽろの君」底本の「後記」を見るに、この宛名は、これ以前から『お互いの間で使われていたものと思われる』という旨の記載がある。

「芝」実父新原敏三家は芥川龍之介誕生(明治二五(一八九二)年三月一日。芥川家へ預けられたのは、はっきりしないが、母フクの精神不安定の発現が同年十月末(翌年一月ともされる)で、恐らくそれと時を同じくして出されたものと考えられる)の翌年に入船町から芝に転居している。]

 

 

明治四三(一九一〇)年(月不明)五日(年次推定)山本喜譽司宛(封筒欠)

 

酒ほがひを御貸し申します 中でいゝと思つた歌に色鉛筆でしるしをつけて置いて下さい、

是非願ひます、

    五日夜

 

[やぶちゃん注:「酒ほがひ」「さかほがひ」(現代仮名遣「さかほがい」)と読む。歌人吉井勇(明治一九(一八八六)年~昭和三五(一九六〇)年:龍之介より六歳年上)は第一歌集。この明治四三(一九一〇)年九月(昴発行所)。短歌嫌いの私が特異的に偏愛する歌集である。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原本が読める。舌も干ぬ間だが、この書簡は全くの私の趣味で採った。但し、書簡との関連で載せてよかろうとも思ったものである。]

 

 

明治四三(一九一〇)年(月不明)七日(年次推定)山本喜譽司宛(封筒欠)

 

芳墨拜誦

「さぞく御忙しき事と察上候」は恨めしく候

五日の夜は全寮茶話會にて五時より翌曉二時に及び候 當夜舊一高選手長濱先輩の一高對早慶の勢力を比較し勝算殆我手にあらざるをつげ今や輸贏の法唯應援の如何に存するのみなるを云ひ近く高師の運動會に於て早慶の豎兒が大塚台上「一高恐るゝに足らず」と傲語したるを叫ぶや一千の兒皆悵然として聲なき事石の如く中に感極まつて嗚咽するものあり 僕亦覺えず双淚の頰を濕すを感じ候

而して昨日は駒場に大白幡を飜して應援に赴き候ひしも命運遂に非也「時不利騅不逝」桂冠をして空しく竪兒の頭に載かしむるの恨事を生じ候

來む[やぶちゃん注:「こむ」。]土曜日は大學對一高の綱引に候而して再一高の選手が敵を待つの日に候

此頃柳田國男氏の遠野語[やぶちゃん注:ママ。]と云ふをよみ大へん面白く感じ候

タイイスに御かゝりの由大慶に存候 タイイス御讀了後は何を御讀みなさる豫定に候や

酒ほがひ本所にあり未御選歌をよむの光榮に接せず明朝こつちへ送つてもらふ豫定に候

歌(歌と名づけ得べくんば)二つ三つかくつもりに候ひしもやめに致し候 拜晤の機を待つべく候

御暇の折は御光來下され度せめては折々の御たより願上候 不馨

   七日夜

  喜譽司兄

 

[やぶちゃん注:「五日の夜は全寮茶話會にて五時より翌曉二時に及び候」既に述べた通り、彼は入寮せずに特別に許可を得て(その理由を私は知りたく思うのだが)自宅通学であったわけだが、恐らくはその引け目もあって、これに参加したものであろう。

「長濱先輩」不詳。彼の檄は「感極まつて嗚咽するものあり」までであろう。

「輸贏」「しゆえい(しゅえい)」。但し、慣用読みで「ゆえい」と読むことが多いので、ここも龍之介はそう読んでいるかも知れない。「輸」は「負ける」、「贏」は「勝つ」の意。勝敗。]

「高師」高等師範学校(二年後に東京を冠した)。

「豎兒」「じゆじ(じゅじ)」。小僧っ子。卑称。

「大塚」高等師範学校と東京文理科大学は大塚校地共有していた。

「大白幡」「おほしろはた」。

「時不利騅不逝」項羽の「垓下(がいか)の歌」。楚漢戦争最後の「垓下の戦い」に於いて天運を悟った西楚の覇王項羽(項籍)が愛人虞美人に贈った詩の一節。

 力拔山兮氣蓋世

 時不利兮騅不逝

 騅不逝兮可柰何

 虞兮虞兮柰若何

  力 山を拔き 氣 世を蓋ふ

  時 利あらずして 騅(すい) 逝かず

  騅 逝かざるを 奈何(いかん)せん

  虞や虞や 若(なんぢ)を奈何せん

「騅」は項羽と命運をともにした葦毛の名馬。。

「此頃柳田國男氏の遠野語と云ふをよみ」名作「遠野物語」の芥川龍之介の誤記。佐々木喜善(明治一九(一八八六)年~昭和八(一九三三)年:名は「繁」とも称した)の語りを改変して、明治四三(一九一〇)年六月十四日に『著者兼發行者』を『柳田國男』として東京の聚精堂より刊行された。私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で原本の全電子化注を完遂している。

「タイイスに御かゝりの由大慶に存候……」「芥川龍之介書簡抄2 / 明治四三(一九一〇)年書簡より(1)山本喜譽司宛2通」を参照。なお、そこの「明治四三(一九一〇)年六月二十二日(年月推定)・山本喜譽司宛」で、龍之介は「タイイスは皆よみきらなかつた」と言っているのだが、私は実際には、千葉勝浦での保養中にちゃんと読了していたと考えている(新全集宮坂年譜でもそう書かれてある)。受験勉強中の山本への気遣いでそう書いたものと私は思うのである。

「不馨」「ふけい」或いは「ふきやう(ふきょう)」。手紙の脇付で、芥川龍之介はよく使用するが、辞書には見えない。但し、ある人の漢文体書信では最後の記されてあるのを見たことがある。「かんばしからざる下手な手筆・書信にて失礼」といった意味であろう。]

 

 

明治四三(一九一〇)年(月不明)二十五日(年次推定)山本喜譽司宛

 

敬啓

咋夜遲く歸ると僕等が出て間もなく君の所の女中がむかへに來たと云ふ

一緖に引張りだして一緖に散步をしたのだから僕が惡い樣な氣がする

何かあつたのぢやないか

歌なんか聞いてゐて、少しのん氣すぎたと思ふ

今朝先生と山口君とからハガキが來た一枚は名古屋から一枚は伊勢から

靑空にそびへ立つ天主と松の音の響く神宮が偲ばれる 矢張旅行に出たくなつた

君の令妹の――本當は姪だね――の御快癒を祈る 不馨

    廿五日

   山喜司大兄 侍史

 

[やぶちゃん注:今まで通り、岩波旧全集版からであるが、これは書簡原本ではなく、他の印刷物からの転載である旨の注記がある。

「先生」先に出た三中の恩師廣瀨雄であろう。

「山口」山口貞亮であろう。「芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録」で一緒に登攀している。但し、そこで私は級友としたのだが、今回、改めて調べたところ、新全集の「人名解説索引」には『三中の一年後輩』で明治四四(一九一一)年卒とあった。龍之介が山本に書くのに「君」と呼んでいるところからはそれが正しいようだ。

「君の令妹の――本當は姪だね――の御快癒を祈る」本書簡を採用したのは、この一文のためである。則ち、旧全集書簡中で初めて塚本文、後の龍之介夫人が登場する瞬間だからである。山本喜誉司が彼女の母鈴の末弟であり、この時、鈴・文母子が山本家に同居していたのである。

2021/01/24

奥州ばなし 高尾がこと

 

     高尾がこと

 むかしの國主、高尾といふ遊女を、こがねにかへて、廓(くるわ)を出《いだ》し給ひて、御館(《み》たち)までも、めしいれらず[やぶちゃん注:「らず」の右に編者ママ注記。「召し入れられず」であろう。]、川にて、切《きり》はふらせ給《たまふ》と、世の人、思へるは、あらぬことなり。

 是は、うた・上瑠璃(じやうるり)[やぶちゃん注:漢字表記ママ。]に、おもしろく、ことそへて作りなせしが、やがて誠のごとく成《なり》しものなり。

 高尾は、やはり御たちにめしつかはれて、のち老女と成て、老後、跡をたてくだされしは、番士杉原《すぎのはら》重大夫、又、新大夫と、代々、かはるがはる名のりて、【祿、玄米六百石。】今、目付役をつとむる重大夫、則《すなはち》、その末なり。只野家近親なる故、ことのよしは、しれり。杉原家にても、『世人、あらぬことをまことしやかに唱ふるは、をかし』と思ふべけれど、『我こそ高尾が末なり』と名のらんも、おもだゝしからねば[やぶちゃん注:名誉なことではないので。]、おしだまりて聞《きき》ながしをることなりき。

 又、「白石の女《をんな》あだ打《うち》」とて、「宮城野しのぶ」などいふも、またく、なきことなり。

 此兩說は、作りもの、世にひろごりしなり。【解云、只野氏は、則、このさうしの作者、

眞葛の良人なり。その實錄たること、うたがひなきものか。高尾の墓、仙臺に在り。「兎園小說」に載せたりき。倂見《あはせみ》るべし。】【解云、「白石の仇討」は、享保の比、その風聞ありしを、「月堂見聞集」に載《のせ》て、『虛實詳ならず』といへり。縱《たとひ》その事ありとても、慶安以前の事ならず。享保中の風聞なり。世に傳ふる俗書の妄誕《まうたん》、かゝること多かり。】

 

[やぶちゃん注:さても、ここで真葛は高尾が身請けされて、仙台に迎えられ、後代も出来、綱宗から杉原の姓を受けて、今もある杉原家は、その高尾の嫡孫であるのが真実だという、ちょっと驚くべきことを言っているのである。ところが、これに早くに冷徹な批判の目を向けた大家がいる。一人が「大言海」で知られる大槻文彦であり、今一人が森鷗外である。鷗外は大五(一九一六)年一月一日から同八日まで全六回で『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に「椙原品(すぎのはらしな)」という考証物をものしており(リンク先は「青空文庫」。新字旧仮名)、そこで先行して批判した大槻の評を搦めながら、記している(但し、鷗外は真葛(只野綾子)のことを『文子』と記している)。「一」と「二」の途中まで引用する(漢字は恣意的に概ね正字化し、読みは一部に留めた。「青空文庫」版には一部に不審があったので、所持する岩波書店「鷗外選集」で訂した)。

   *

 私が大禮に參列するために京都へ立たうとしてゐる時であつた。私の加盟してゐる某社の雜誌が來たので、忙しい中にざつと目を通した。すると仙臺に髙尾の後裔がゐると云ふ話が出てゐるのを見た。これは傳說の誤であつて、しかもそれが誤だと云ふことは、大槻文彥さんがあらゆる方面から遺憾なく立證してゐる。どうして今になつてこんな誤が事新しく書かれただらうと云ふことを思つて見ると、そこには大いに考へて見て好い道理が存じてゐるのである。

 誰でも著述に從事してゐるものは思ふことであるが、著述がどれ丈だけ人に讀まれるかは問題である。著述が世に公(おほやけ)にせられると、そこには人がそれを讀み得ると云ふポツシビリテエが生ずる。しかし實にそれを讀む人は少數である。一般の人に讀者が少いばかりではない。讀書家と稱して好い人だつて、其讀書力には際限がある。澤山出る書籍を悉く讀むわけには行かない。そこで某雜誌に書いたやうな、歷史に趣味を有する人でも、切角の大槻さんの發表に心附かずにゐることになるのである。

 某雜誌の記事は奧州話(あうしうばなし)と云ふ書に本づいてゐる。あの書は仙臺の工藤平助(くどうへいすけ)と云ふ人の女(むすめ)で、只野伊賀(たゞのいが)と云ふ人の妻になつた文子(あやこ)と云ふものゝ著述で、文子は瀧澤馬琴に識られてゐたので、多少名高くなつてゐる。しかし奧州話は大槻さんも知つてゐて、辨妄(べんまう)の筆を把(と)つてゐるのである。

 文子の說によれば、伊達綱宗は新吉原の娼妓高尾を身受(みうけ)して、仙臺に連れて歸つた。髙尾は仙臺で老いて亡くなつた。墓は荒町(あらまち)の佛眼寺(ぶつげんじ)にある、其子孫が椙原氏(すぎのはらうぢ)だと云ふことになつてゐる。

 これは大(おほい)に錯(あやま)つてゐる。伊達綱宗は万治元年に歿した父忠宗の跡を繼いだ。踰(こ)えて三年二月朔(ついたち)に小石川の堀浚(ほりざらへ)を幕府から命ぜられ、三月に仙臺から江戶へ出て、工事を起した。筋違橋(すぢかへばし)卽ち今の万世橋から牛込土橋までの間の工事である。これがために綱宗は吉祥寺の裏門内に設けられた小屋場へ、監視をしに出向いた。吉祥寺は今駒込にある寺で、當時まだ水道橋の北のたもと、東側にあつたのである。この往來(ゆきき)の間に、綱宗は吉原へ通ひはじめた。これは當時の諸侯としては類のない事ではなかつたが、それが誇大に言ひ做(な)され、意外に早く幕府に聞えたには、綱宗を陷いれようとしてゐた人達の手傳があつたものと見える。綱宗は不行迹の廉(かど)を以て、七月十三日にに逼塞を命ぜられて、芝濱の屋敷から品川に遷(うつ)つた。芝濱の屋敷は今の新橋停車場の眞中程であつたさうである。次いで八月二十五日に、嫡子龜千代が家督した。此時綱宗は二十歲、龜千代は僅かに二歲であつた。堀浚は矢張伊達家で繼續することになつたので、翌年工事を竣(をは)つた。そこで綱宗の吉原へ通つた時、何屋の誰の許もとへ通つたかと云ふと、それは京町の山本屋と云ふ家の薰(かをる)と云ふ女であつたらしい。それが決して三浦屋の高尾でなかつたと云ふ反證には、當時万治二年三月から七月までの間には、三浦屋に高尾と云ふ女がゐなかつたと云ふ事實がある。綱宗の通ふべき髙尾と云ふ女がゐない上は、それを身受しやうがない。其上、綱宗は品川の屋敷に蟄居して以來、仙臺へは往かずに、天和三年に四十四歲で剃髮して嘉心(かしん)と號し、正德元年六月六日に七十二歲で歿した。綱宗に身受せられた女があつた所で、それが仙臺へ連れて行かれる筈がない。

 文子は綱宗が髙尾を身受して舟に載せて出て、三股(みつまた)で斬つたと云ふ俗說を反駁する積で、高尾が仙臺へ連れて行かれて、子孫を彼地に殘したと書いたのだが、それは誤を以て誤に代へたのである。[やぶちゃん注:ここまでが「一」。以下、標題「二」を外して行空けで続ける。]

 

 然らば奧州話にある佛眼寺の墓の主(ぬし)は何人(なんぴと)かと云ふに、これは綱宗の妾(せふ)品(しな)と云ふ女で、初から椙原氏であつたから、子孫も椙原氏を稱したのである。品は吉原にゐた女でもなければ、高尾でもない。

 品は一體どんな女であつたか。私は品川に於ける綱宗を主人公にして一つの物語を書かうと思つて、餘程久しい間、其結構を工夫してゐた。綱宗は凡庸人ではない。和歌を善くし、筆札(ひつさつ)を善くし、繪畫を善くした。十九歲で家督をして、六十二萬石の大名たること僅わづかに二年。二十一歲の時、叔父伊達兵部少輔(せういう)宗勝を中心としたイントリイグ[やぶちゃん注:Intrigue。陰謀。]に陷いつて蟄居の身となつた。それから四十四歲で落飾するまで、一子龜千代の綱村にだに面會することが出來なかつた。龜千代は寬文九年に十一歲で總次郞綱基となり、踰えて十一年、兵部宗勝の嫡子東市正(いちのかみ)宗興の表面上の外舅(ぐわいきう)となり、宗勝を贔屓した酒井雅樂頭(うたのかみ)忠淸が邸(やしき)での原田甲斐の刄傷事件があつて、將に失はんとした本領を安堵し、延寶五年に十九歲で綱村と名告(なの)つたのである。暗中の仇敵たる宗勝は、父子の對面に先だつこと四年、延寶七年に亡くなつてゐた。綱宗はこれより前も、これから後老年に至るまでも、幽閉の身の上でゐて、その銷遣(せうけん)[やぶちゃん注:憂さ晴らし。]のすさびに殘した書畫には、往々知過必改(ちくわひつかい)と云ふ印を用ゐた。綱宗の藝能は書畫や和歌ばかりではない。蒔繪を造り、陶器を作り、又刀劍をも鍛へた。私は此人が政治の上に發揮することの出來なかつた精力を、藝術の方面に傾注したのを面白く思ふ。面白いのはこゝに止まらない。綱宗は籠居のために意氣を挫かれずにゐた。品川の屋敷の障子に、當時まだ珍しかつた硝子板四百餘枚を嵌めさせたが、その大きいのは一枚七十兩で買つたと云ふことである。その豪邁の氣象が想ひ遣られるではないか。かう云ふ人物の綱宗に仕へて、其晚年に至るまで愛せられてゐた品と云ふ女も、恐らくは尋常の女ではなかつただらう。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

なお、村上祐紀氏の論文「〈立證〉と〈創造力〉――森鷗外「椙原品」論」筑波大学国語国文学会発行『日本語と日本文学』(二〇〇七年二月・こちらでPDFでダウン・ロード可能)も非常に参考になるので、読まれたい。ただ、これらを読んで思うのは、結局、高尾だけでなく、それを記した真葛という女性作家も、さらに冒頭、今になって古臭い噓話を雑誌に書いている阿呆扱いの記者(これも宮城野萩子というペンネームから恐らく女性であろうか(或いはあまりにクサいペン・ネームであるのは男性の仮託かもという気はせぬでもない)。記事は「實說伊達騷動」(『家庭雜誌』大正四(一九一五)年十月発行)である。しかし、村上氏の論文で判る通り、真葛の高尾杉原説など、そこには実は、書かれていないのである。則ち、鷗外はこの女性記者をも冤罪の犠牲にして、自己の歴史検証法を闡明しているというのであるから、私は開いた口が塞がらぬのである)までも巻き込んで、三人が三人とも、単なる狂言役者の役割しか与えられず、「誤を以て誤に代へた」と鷗外から一蹴され、彼女たちそれぞれの正当な評価も微塵もされることなく、「嘘つきの変な女」として苦界へ退場させられてしまっているのが、いわくいいがたい、何とも言えぬ鷗外の女性差別の視線に対する怒りを私は激しく抱かざるを得ないのである。因みに、本文の「杉原」を「すぎのはら」と読んだのは、鷗外のそれに拠ったものである。

「高尾」高尾太夫。吉原の太夫の筆頭ともされる源氏名で、三浦屋に伝わった大名跡。吉原で最も有名な遊女で、その名にふさわしい女性が現れると、代々襲名された名で、「吉野太夫」と「夕霧太夫」とともに三名妓(寛永三名妓)と呼ばれる。ここで語られるのは、その中でも最も知られた二代目高尾太夫。ウィキの「高尾太夫」によれば、「万治高尾」「仙台高尾」「道哲高尾」とも呼ばれる。十一代あった中で『最も有名で多くの挿話があるが、その真偽は不明である』。「伊達騒動」絡みで、第三代『陸奥仙台藩主・伊達綱宗』(寛永一七(一六四〇)年~正徳元(一七一一)年)『の意に従わなかったために、三叉』(みつまた:現在の日本橋中洲)『の船中で惨殺されたというのはその一つである』とし、万治三(一六六〇)年に没し、『墓所は東京都豊島区巣鴨の西方寺(元は新吉原近くの浅草日本堤にあったが、昭和初期に移転)したとある。ウィキの「伊達綱宗」にも、『綱宗が酒色に溺れ、僅か』二『歳の長男・綱村が藩主となったことは、後の伊達騒動のきっかけになった。しかし、伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の高尾太夫の身請けや』、『つるし斬りなどは俗説とされる』とある。

「うた」不詳。この当時の以下の芝居などをもとに作られた俗謡であろうか。なお、ウィキの「高尾太夫」の画像に明治一八(一九八五)年の刷りの月岡芳年の「月百姿」の一枚の彼女の浮世絵があるが、そこに記されている、

 君は今駒かたあたりほとゝきす

という題代わりに用いられた句は、キャプションに、『隅田川を渡って帰る伊達綱宗へ詠んだものである』とある。

「上瑠璃(じやうるり)」浄瑠璃「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」が最も知られる。

「杉原重大夫、又、新大夫と、代々、かはるがはる名のりて、【祿、玄米六百石。】今、目付役をつとむる重大夫、則《すなはち》、その末なり。只野家近親なる故、ことのよしは、しれり。杉原家にても、『世人、あらぬことをまことしやかに唱ふるは、をかし』と思ふべけれど、『我こそ高尾が末なり』と名のらんも、おもだゝしからねば、おしだまりて聞《きき》ながしをることなりき」鷗外が「杉原品」の後半で考察する通り、この杉原氏が、遠く播磨赤松家の一族であった椙原(すぎのはら)伊賀守賢盛(かたもり)という由緒を持ち、その末裔の品(しな)が綱宗に近侍し、彼の子孫を伝えたとなら、まさに軍医森鷗外に言わせるなら、こう平然と書く真葛は――妄想傾向の強い性質の悪い精神病――ということになるんだろうなぁ。当の椙原家も大迷惑だわな。しかも、只野家の近親だぜ? 私(あっし)には、よく判らないねえ、幾ら御大鷗外先生でも、「杉原品」の中で、先に言ったような、嘘を書いて論展開してる日にゃ、まことしやかであっても、信ずる気には、なんねえ。だいたいからして、その三女性蔑視を差し置いておいて、最後に、『綱宗入道嘉心は此後二十五年の久しい年月を、品と二人で暮したと云つても大過なからう。これは別に證據はないが、私は豪邁の氣象を以て不幸の境遇に耐へてゐた嘉心を慰めた品を、啻(たゞ)誠實であつたのみでなく、氣骨のある女丈夫であつたやうに想像することを禁じ得ない』としっぽりゆくなんざ、三文芝居のお笑いでげしょう?! 証拠がなくても――それが文学史の授業で言うた「歴史離れ」というやつで御座んすね? 鷗外センセー? だったら、そんなセコイことせんと、高尾も真葛も、ドーンと法要、基! 抱擁しておやんなせえよ?! あんたのせいで脚気衝心で死んじまった無数の帝国陸軍兵士の供養の代わりに、よ! 都合よく失神してエリス発狂の責任を巧妙にゴマかした太田豊太郎、いやさ、森林太郎さんよ!!!

「白石の女《をんな》あだ打《うち》」「宮城野しのぶ」「ニコニコ大百科」の「宮城野・信夫の仇討」によれば、『史実を元にした江戸時代の仇討伝の総称で』、『浄瑠璃、歌舞伎を始めとして神楽、狂言、浮世絵、貸本と媒体を選ばず、民衆の間で大流行を巻き起こし』、『その物語は孝女の範として日本全国へ広まり、北は青森の津軽じょんがら節から、南は沖縄の組踊「姉妹敵討(しまいてぃうち)」まで伝播の過程で様々な芸能に変化している』として、非常に丁寧なシノプシスが記されているので読まれたい。姉妹の百姓の父を切り捨てにされた仇討で、リンク先のものでは、奥州白石の逆戸村に住む百姓与太郎とその娘満千(まち)・園(その)の二人姉妹となっている。そうして、その修練のシークエンスには、かの由比正雪が登場する。さて、「史実部分の概要」によれば、『仇討の仔細が世に発せられた最古の証しは、本島知辰(もとじま ちしん/ともたつ)が著した「月堂見聞集」巻之十五』(後注する)に、享保八(一七二三)年四月のクレジットで、『仙台より写し来たる敵討の事と題し』、『おおよそ以下のように書き記して』あるとする。享保三(一七一八)年のこと、『松平陸奥守様(伊達吉村)の御家老・片倉小十郎殿(片倉村定)が知行の内』の、『足立村に四郎左衛門という百姓がいた』が、『小十郎殿の剣術師範に田辺志摩という』一千『石取りの侍がおり、領地検分の供回りをしていたところ、四郎衛門が前を横切ったとして無礼討ちにした』。『この時残された娘二人は姉』十一『歳、妹』八『歳であり、領内を退居して陸奥守様の剣術師範である瀧本伝八郎へ奉公することになった』。『姉妹は』六『年もの間』、『密かに剣術の稽古を盗み見て覚え、修練を積んだ』。『ある時、下女の女部屋から木刀を振る音が聞こえ、不審に思った伝八郎が戸を開けると』、『姉妹が稽古をしている姿を目撃した』。『わけを聞くと』、『姉妹は仇討を志していると言い、感心した伝八郎は正式に稽古をつけて秘伝の技を教え込んだ』。『寸志を遂げさせようと』、『事の次第を陸奥守様へ伝えたところ、白鳥大明神の宮の前へ矢来を組んで』、享保八年三月に『勝負することを仰せ付けられた』。『仙台御家中衆が警固検分を務める中、姉妹は数刻に渡って打ち合い、二人が替る替る戦って程なく』、『志摩を袈裟切りに斬り付けた。最後は姉が走り寄って止めをさした』。『陸奥守様は御機嫌斜めならず、姉妹を家中の者へ養女に迎えるよう申し付けたところ、二人は共に辞退した』。『その上』、『「仇とは言え』、『人殺しの罪は逃れられず、願わくば如何ようとも御仕置きを仰せ付けられ下されますよう」と申し上げたので、なお以って皆は感心した』。『そこへ伝八郎がやってきて姉妹に向かい、わたしも一時とは言え』、『二人の主人であり、また剣術指南を恩と思うならば』、『この意は受けなくてはなりません』、『と心細やかに諭されたので、姉妹は翻意して』、『お殿様の御意向に従った』。『姉は当年』十六『歳で御家老』三『万石の伊達安房殿(伊達村成)へ、妹は同』十三『歳で大小路権九郎殿へ引き取られた』。『権九郎殿は陸奥守様より妹が負った手傷の養生を仰せ付けられた』。『ただし』、『結びの部分は「実否の義は存ぜず候(ホントかどうかは知らない)」としてある』。『本島知辰がどこで執筆したかは定かでないが』、享保八年の『時点で』、『この仇討伝が仙台藩の外へ出たことは間違いない』とある。

『高尾の墓、仙臺に在り。「兎園小說」に載せたりき。倂見るべし』「兎園小說」はオムニバス共著随筆。編者は滝沢解(曲亭馬琴)。文政八(一八二五)年成立。同年、滝沢解・山崎美成を主導者として、屋代弘賢・関思亮・西原好和ら計十二名の好事家によって、江戸や諸国の奇事異聞を持ち寄る「兎園会」と称する月一回の寄合いが持たれ、その文稿が回覧されたが、その集大成が本書。本集全十二巻の他、会が絶えた後も、馬琴の怪奇談蒐集は続き、本集以外に外集・別集・拾遺・余録がある。私もオリジナル授業案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」で二篇扱っており、いつか全篇を電子化したいと思っている。ここで言っているのは、本集の第九集(文政八年九月一日に行われた兎園会の記録)で輪池堂(国学者屋代弘賢(宝暦八(一七五八)年~天保一二(一八四一)年の号)の発表した以下。というより、最後の仙台の高尾の墓と称する戒名の拓本からの記載以外は馬琴の持っていた本篇をそっくり引き写したものである。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。

   *

   ○遊女高雄

著作堂[やぶちゃん注:馬琴。]の珍蔵に「みちのくざうし」といふ有り。それは陸奥の太守の醫師工藤平助が女の、同藩只野氏に嫁して仙臺に在りしが筆記なり。その中に、高雄が事跡をしるしたり。世の妄説を正すにたれり。曰、昔の國主、たか尾といふ遊女を、こがねにかへてくるわを出だし給ひて、御たちまでもめし入れられず。中す川【頭書、中す中は中洲川にて則三派の事なり。後までも中洲といふをもて知るべし。[やぶちゃん注:これは一言言わずにゃ気が済まない馬琴のそれ。]】にて切りはふらせ給ふと、世の人思へるはあらぬことなり。是は、うた・上るりにおもしろし事添へて作りなどして、やがて誠のごとく成りしものなり。高雄は、やはり御たちにめしつかはれて、のち老女と成りて、老後、跡をたて終はりしは、番士杉原重太夫、又新太夫と、代々、かはるがはる、名のりて、【祿、玄米六百石。】今、目付役をつとむる重太夫は、その末なり。只野家近親なる故、ことのよしはしれり。杉原家にても、世の人、あらぬことを、まことしやかにとなふるは、をかし、と思ふべけれど、我こそ高尾が末なりと名のらんにも、おもたゞしからねば[やぶちゃん注:ママ。]、おしたまりて[やぶちゃん注:ママ。]聞きながしをるとなり。これを、いと珍らしきことゝおもひて、たづねおきけるに、この比、ある人のもとより、その法號、葬地等の書付を、著作堂の主にしめさんとて、こゝに、のす。その記に曰、仙臺の人、なにがし、遊女高雄が墓碑を、すりてもちたるを、四谷にすめる醫生淺井春昌といふものゝうつしたりとて、島田某の見せたるを、しるす。

 二代目 享保元丙申年

   ○ 淨休院妙讃日晴大姉

  三巴の紋十一月廿五日                   杉原常之助

    于時正德五年二月二十九日       逆修 源範淸義母 行年七十七歲

右の碑、仙臺荒町法竜山佛眼寺に在り。仙臺の人のいふ、高尾、實は國侯に従ひて、奥州にいたる。杉原常之助といふは、義子にて、名跡をたて給ひたるにいひ傳ふ。享保元年七十八歲にて天壽を終ふといふ。

 綱宗側臣は、正德元年六月四目卒去、享年七十六歳。仙臺瑞鳳寺に葬る、法號雄山公威見性院といふ。

   *

現在の宮城県仙台市若林区荒町にある日蓮正宗法龍山佛眼寺(ぶつげんじ・グーグル・マップ・データ)にあるこの戒名「淨休院妙讃日晴大姉」とあるのは、鷗外の示した、伊達綱宗の側室の一人である品(しな)の墓である。また、「綱宗側臣」は椙原家の誰を指しているのかよく判らぬが、それよりも、この「瑞鳳寺」が、しっかり品絡みで、しかも「高尾門」と呼ぶ門があるのである。こう俗称されている門は品の屋敷にあったものを移築したものであると、サイト「かっちゃんの歩いて撮ったハイキング記録」の同寺のページにある。さても、特にこの混淆伝承自体や鷗外の称揚する「お品さん」には私は食指が動かない。飽きがきた。ケリをつけるには、岡林リョウ氏のブログ「揺りかごから酒場まで☆少額微動隊」の「仙台高尾の足跡を追え!(遊女供養塔刻銘、出身地、昭和明治写真追加、高尾考挿絵追加、仙台の高尾門、通称高尾墓写真、昭和初期写真を追記)ついでに薄雲太夫の墓参り。→結論めいたことまで→明治中期お品資料追加」という記事がテツテ的に追跡していて、写真も豊富で、且つ、面白い。これで〆とする。

「月堂見聞集」(げつどうけんもんしゅう:現代仮名遣)は元禄一〇(一六九七)年から享保一九(一七三四)年までの見聞雑録。「岡野隨筆」「月堂見聞類從」とも呼ぶ。本島知辰(月堂)著。全二十九巻。江戸・京都・大坂を主として、諸国の巷説を記し、政治・経済から時事・風俗にまで亙っており、自己の意見を記さず、淡々と事蹟を書き記してある。大火・地震・洪水の天災を始め、将軍宣下、大名国替、朝鮮・琉球人の来聘、世を騒がせた一件(御家騒動・「江島生島」事件・刃傷沙汰など)、享保十二年の美作津山百姓一揆、翌十三年の象の献上のことなど、実録体で、参考になる記事も多い。明治大正二(一九一三)年国書刊行会刊の「近世風俗見聞集 第二」国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める(右ページ下段中央から始まる「○仙臺より寫來候敵討之事」)。確かに一番最後に、「右之書付實否之義不ㇾ存候得共、仙臺より參候由、世間風說在ㇾ之故留置候、以上」とある。ということは、風説として既に広まっていたもので、今回、現地仙台からも来書したので書き留めたと言っている辺りは、う~ん、怪しすぎるなぁ。

「慶安」(一六四八年~一六五二年)「以前の事」恐らく馬琴の読んだそれにも由比正雪が出て来るように脚色されていたからであろう。「由比正雪の乱」は慶安四(一六五一)年四月から七月にかけて起こった。

「妄誕《まうたん》」出鱈目な話。]

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 1

 

[やぶちゃん注:本論考は明治四四(一九一一)年三月発行の『東京人類學會雜誌』第二十六巻三百号)初出で(初出は「J-STAGE」のこちらPDF)で読める)、大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像で視認して用いた。

 但し、加工データとして、前の「小兒と魔除」注釈中、サイト「私設万葉文庫」(この堅実な電子化サイトは古くから知っていたが(どういう方が作っておられるかも知っている)、「万葉集」は永く私の興味圏外にあったため、ここ十数年以上、訪問していなかった)に平凡社の「南方熊楠全集」の本文電子化(全部ではないが、主要邦文論文部はカヴァーされている)があることを発見したため、今回からは、そちらにある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方随筆」(新字新仮名)で校合した。

 但し、既に「小兒と魔除」の注で遂に爆発憤激して述べたが、少なくとも、この全集を親本とした私の所持する「選集」は、熊楠の肉声を不当に(厳密な細かな書き換え基準を設けずに)、ただただ読み易けりゃいい的に恣意的に標準化しており、甚だ問題があることが判った。これは「選集」が「全集」の校訂方針に拠っていると述べている以上、「全集」もそうした変更が行われているものと思われる。そう言った舌が干ぬ間に、冒頭本文内注で、またしても、私の癇癪が暴発した。お付き合い戴きたい。

 段落に附した注の後は一行空け、前注の場合も前後を一行空けた。

 なお、欧文書誌データの表記の不審部分(実は不全・不審部分が甚だ多い)は上記「選集」に拠って修正した。但し、それは五月蠅いだけになるので、原則、注記していない。

 またしても、いろいろ本文校訂に問題が多過ぎるので、ブログでは分割して示す。]

 

 

   西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語

     (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)

 

 明治四十一年六月の早稻田文學、予の「大日本時代史に載せたる古話三則」中に述し如く、古話に其土特有の者と、他邦より傳來のも者と有り、又古く各民族未だ分立せざりし時代すでに世に存せしと覺しく、廣く諸方に弘通され居たる者有、一々之を識別するは、十分材料を集め、整理硏究せる後ならで叶はぬ事也、而して、故「イサアク、テロロル」の原殆「アリアン」人篇に「レツツ」「リチユアニアンス」等の諸語は、由來頗る古き者乍ら、記錄無く、文章無かりし爲、希臘羅丁[やぶちゃん注:「ラテン」。]程に古く思はぬ人多しと論ぜると等しく、古話に於ても、記錄せる時代の先後は、必しも其話が出來せし[やぶちゃん注:「しゆつたいせし」。]早晚と偕はず[やぶちゃん注:「ともなはず」。]、併し[やぶちゃん注:「しかし」。]齊しく文筆の用を知りおりたる諸國民に就て、同種古話の記錄の先後と、類似せる諸點の多寡を察すれば、大要其譚の、先つて何れの國に專ら行はれ出たるを知るに難からじ、外國の古話を吾國に輸入せしと思はるゝ一二の例を擧んに、左大史小槻季繼記に、「太政大臣實基公(嘉祿元年十一月十日補せらる)檢非違使別當の時、八歲の男子を、二人の女、面々に我子の由を稱しける間だ、法曹輩計申云、任法意旨、三人が血を出して、流水に流す時、眞實の骨肉の血、末にて一つに成り、他人の血氣は末にて別也、如此可沙汰之由、計申處、大理云、八歲者可血之條、尤不便事也、今度沙汰の時、彼三人並諸官等、可參之由、被仰て、其日遂不被決雌雄、後沙汰日、彼三人諸官等令參之時、數刻之後、大理出座、被仰云、件女性兩人して、此男子を引て、引取らむを母と可申由被計ける時、二人して此子を引けるに、引れて損ぜんとする時に、一人の女は放ち、今一人は只引勝んとす、如此する事度々、其時大理云、放つる女は實母也、勞はるに由て此如放つ者也、今一人は無勞心、只勝んと思ふ心計にて引也云々、無相違、放つる女は母也、當座被引は、荒ふには似たれども、思慮の深き處也、實基公は法曹に達する人也」と見ゆ、古事類苑法律部第一册、一一七三頁に、此記を引き、次に風俗通を引て云、前漢、潁川太守、黃霸、本郡有富室兄弟同居、弟婦懷姙、其長姒亦懷姙胎傷匿之、弟婦生男、長姒輒奪取、以爲己子、論爭三年、附於霸、霸使人抱兒於庭中、及使娣(稚婦)姒競取之、既而俱至、姒持之甚猛、弟婦恐有傷於手、而情甚凄慘、霸、乃叱長姒曰、汝貪家財、欲得此子、寧慮意頓有所傷乎、此事審矣、姒伏罪、「アラビヤ」夜譚には、一人兩妻を具せしが、兩妻同時同室に、一產婆に助けられて分挽し、生まれたる男兒は活き、女兒は卽座に死しければ、兩妻一男兒を爭ふて賢相に訴ふ、賢相二婦の乳汁を空卵殼に盛り、秤り比べて、汁の重き方を男兒の母と斷定せしも、他の一婦服せず、喧嘩已まざりければ、賢相今は其兒を二つに割て[やぶちゃん注:「さきて」。]、一半を各に與んと言ふに、乳汁重き女、最早爭ひを止む可れば、子を他の女に與え玉へと言ふに反し、今一人の女は、願くは兒の一半を與へよと言ふ、賢相便ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]汁輕き女を絞殺せしめ、兒を汁重き女に附すと有り(Burton, ‘Supplemental Nights,’ 1894, Vol.xi, pp. 51―53.)、皆人の知る如く、舊約全書(1.  Kings iii, 16―20)に載せたる「ソロモン」の裁判は、此話の最古く傳はれるも者にて、色々の補刪[やぶちゃん注:「ほさん」。添削。]を經て漢土本邦迄も入來れるなるべし、又前年、坪内博士が、早稻田文學にて公表せられし、幸若の舞曲、其から淨瑠璃等に名高き百合若の話は、希臘の「ユリツセス」の傳に基くてふ考說抔、素人が日本固有の美譚と思込だる者にも、實は舶來の燒直し無きに非ざるを證するに餘有り、

[やぶちゃん注:まだこの話は次段でも続くのであるが、あまりに問題が多過ぎるので、ここで注する。

『明治四十一年』(一九〇八年)『六月の早稻田文學、予の「大日本時代史に載せたる古話三則」中に述し如く、古話に其土特有の者と、他邦より傳來のも者と有り』これは本篇の三年前に雑誌『早稻田文學』第三十一号に載った熊楠の論考であるが、初出でも同じ題名であるものの、実際には正しくは「大日本時代史に載する古話三則」である。「全集」でしか読めないが、幸い、先に示した「私設万葉文庫」の「南方熊楠全集3(雑誌論考Ⅰ)」で読むことが出来る。まず、「大日本時代史」であるが、この熊楠の論考は確信犯の投稿であって、前年の明治四十年からこの年にかけて早稲田大学出版部から刊行された時代別に分割された歴史書で、著者も異なる(「国立国会図書館サーチ」の同書の検索結果ページのこちらを参照)。原本は、後の大正期の版ではあるが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全巻が読める。さて、熊楠の論考は冒頭で主に『米糞聖人の話(「平安朝史」一六一頁)、醍醐天皇哭声を聞きて婦人の姦を知りたまいし話(同、三四五-六頁)、毛利元就箭を折りて子を誡めし話(「安土桃山史」一九二-三頁)』の三つの伝承について扱うと述べていて(但し、イントロダクションで、それ以外の事例を幾つか挙げてある)、これまた、なかなか面白い。是非読まれたい。

「弘通」「ぐつう」。本来は仏教用語で、仏教が(を)広く世に行われる(せる)ことのみを指すが、ここは汎用使用したもの。

『「イサアク、テロロル」の原殆「アリアン」人篇』いろいろな欧文文字列で試してみたが、不詳。識者の御教授を乞う。

「レツツ」不詳。同前。

「リチユアニアンス」不詳。同前。

「左大史小槻季繼記」小槻季継(おづきのすえつぐ 建久三(一一九二)年~寛元二(一二四四)年)は鎌倉中期の官人で算博士(大学寮にあって計算・測量などの数学技術の教授職)小槻公尚の子。官位は正五位上・左大史(神祇官・太政官(弁官局)に置かれた。四等官四番目である主典(さかん)相当。官位相当)。元仁元(一二二四)年、壬生流の国宗の死のあとを受けて官務となり、二十一年間に亙って在職し、大宮官務家の基礎を固めたが、国宗から官務の地位とともに伝えられた所領を、大宮家のみで独占しようとしたといわれており、同家と壬生家とが相論を重ねるきっかけを作っている。他に修理東大寺大仏長官・備前権介・紀伊守・筑前守などの地方官を兼任している。但し、現在のこの「左大史小槻季継記」として流布している日記は、実は季継の息子の秀氏の日記であることが判明している。「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」の「歴代残闕日記」(第三十八巻)の「33」コマ目(左頁五行目)に当該部を発見した。明治期の写本で非常に読み易い(但し、熊楠は孫引きで、「古事類苑法律部第一册、一一七三頁に、此記を引き」(後掲する)とある。左ページ三行目から)。電子化しておく。【 】は右傍注。カタカナは概ね右寄りに小さいが、同ポイントで示し、記号・句読点などを施し、一部に( )で推定の読みを施し、段落を成形して読み易くした。一部が朱で訂された方を採った。

   *

 太政大臣實基公【嘉祿元年十一十、補。】、撿非違使別當ノ時、八歳男子ヲ、二人ノ女、面々ニ、

「我子。」

ノ由ヲ稱シケル間、法曹輩(はふさうのはい)、計申云(はかりまうしていはく)、「任法意旨(はふにまかすのいし)、三人ガ血ヲ出(いだし)テ、流水ニ流ストキ、眞實ノ骨肉ノ血ハ、末ニテ一(ひとつ)ニ成リ、他人ノ血氣ハ末ニテ別ナリ。如此、可沙汰。」

之由、計申處、大理云、

「八歳者、可血(ちすべし)之條、尤(もつとも)不便(ふびんの)事也。今度、沙汰之時、彼三人并(ならびに)諸官等、可參。」

之由、被仰テ、其日、遂不被決雌雄。

 後、沙汰日、彼三人・諸官等、令參(まゐらせしむ)之時、數刻之後、大理出座、被仰云、

「件(くだんの)女性、兩人シテ、此男子ヲ引(ひき)テ、引取ラムヲ、母ト可用(もちふべき)。」

由、被計(はかられ)ケル時、二人シテ、此子ヲ引ケルニ、被引(ひかれ)テ損セントスル時ハ、一人ノ女ハ、放チ、今一人ハ、只(ただ)引勝(ひきかたん)トス。如此スル事、度〻(たびたび)。

 其時、大理云、

「放ツル女は實母也。イタハルニヨリテ、此如、放(はなつ)モノ也(なり)。今一人ハ無勞心(いたはりのこころなく)、只、勝ント思(おもふ)心計(ばかり)ニテ引也。」云々。

 無相違(さうゐなく)、放ツル女ハ母也。當座、被引(ひかされし)ハ荒(あらき)ニハ似タレ𪜈(ども)[やぶちゃん注:当初、二人の女に引っ張らさせたのは荒っぽい仕儀には、一見、見えるけれども。]、思慮ノ深キトコロ也。實基公ハ法曹ニ達スル人也。

   *

「太政大臣實基」徳大寺実基(建仁元(一二〇一)年~文永一〇(一二七三)年)は鎌倉中期の公卿で従一位・太政大臣。

「嘉祿元年」一二二五年。

「十一月十日補せらる」これは一見誰もが太政大臣へ補任の年月日と思ってしまうが、彼が太政大臣となるのは、ずっと後の建長五(一二五三)年十一月二十四日である。では、これは誤記かと言うと、そうでもない。日付はちょっと違うが、この嘉禄元年十一月十九日に権中納言・左衛門督を兼ねて検非違使別当に補されているからである。

「荒ふには似たれども」この「荒ふ」は初出も同じである。「選集」では「荒(やぶ)る」と勝手に送り仮名まで変えてルビを振るが、こんなことは許されない。私は「荒っぽい仕方をする」の意の「あらぶる」の「る」の脱字か、「すさぶ」の「ぶ」の誤植ではないか疑っており、その次に熊楠の当て訓で「あらがふ」かと思う。それは「荒ふ」に相当する和語の動詞が存在しないからである。そもそも「やぶる」は正規の訓や意味はないから、実は話にさえならぬのである。どうしてこうした改変や、おかしな当て訓が編集方針の中でまかり通るのか私には全く以って不思議でならないのである。因みに、原本は「故事類苑」版でも「荒ニハ」であるから、私は「あらきには」と気持ちよく訓読したのである。

「古事類苑法律部第一册、一一七三頁に、此記を引き、次に風俗通を引て云」「古事類苑」が明治期に政府が編纂した類書(百科事典)。本文千巻。刊本は和装本で三百五十冊、洋装本では五十冊・索引一冊 (昭和二(一九二七)年再版では六十冊)。明治一二(一八七九)年に西村茂樹の建議で文部省に編纂係が設けられ、刊行開始は明治二十九年にずれ込み。大正二(一九一三)年になってやっと完結した。内容は歴代の制度・文物・社会百般に亙って多くの引用を示してある。天・歳時・地・神祇などの三十部門に分類されてある。現在、「PukiWiki 古事類苑全文データベース」・「古事類苑データベース」・「国際日本文化研究センター・古事類苑ページ検索システム」が起動している。それぞれに使い勝手に合わせて私は頻繁に使用させて貰っている。お試しあれ。「風俗通」は後漢末の応劭の撰した「風俗通義」の略称。さまざまな制度・習俗・伝説・民間信仰などについて述べたもの。但し、散佚しており、以下のように他書に引用された断片が残る。さてもそれを「日文研」の「古事類苑ページ検索システム」のこちらで、当該箇所の原本画像を視認出来る。以下、原文をまず電子化し(句読点を一部追加し、返り点は除去した)、後で訓読する。

   *

〔棠陰比事〕黃覇叱姒

前漢、潁川太守黃霸、本郡有富室、兄弟同居、弟婦懷姙、其長姒亦懷妊、胎傷匿之、弟婦生男、長姒輒奪取、以爲己子、論爭三年、訴於霸、霸使人抱兒於庭中、及使娣【音弟、稚婦曰娣】・姒競取之、既而俱至、姒持之甚猛[やぶちゃん注:「持」は底本は「埒」で、これはおかしい。初出は「捋」(音「ラツ」)で、「選集」も「捋」となっている。後者は漢文脈を勝手に訓読しているが、そこでは『捋(ひ)く』と訓じている。しかし、これもちょっとおかしい。何故なら、この漢字は「なでる」「扱(しご)く」「抜き取る」の意であるからである。ちょっと変だ。御覧の通り、「古事類苑」は「持」である。さらに本当の引用元である「棠陰比事」を複数見たところ、やはり「持」である。「持」には「握る・持ち合う」の意があるから納得出来る。されば、「持」を採った。]、弟婦恐有傷於手[やぶちゃん注:「手」は底本では「乎」であるが、おかしい。初出も「選集」も「手」であり、御覧の通り、「古事類苑」も「手」であるので、特異的に本文を訂した。]、而情甚悽慘、霸、乃叱長姒曰、汝貪家財[やぶちゃん注:「貪」は底本では「貧」。初出・「選集」・「古事類苑」は孰れも「貪」であるから、これも本文を訂した。]、欲得此子、寧慮意伏罪【出風俗通。】[やぶちゃん注:底本は最後が「寧慮意頓有所傷乎、此事審矣、姒伏罪」。後注参照。]

   *

〔「棠陰比事(たういんひじ)」〕「黃覇叱姒(こうはしつじ)」

 前漢の潁川(えいせん)太守黃霸(こうは)あり。

 本郡に富室有り。兄弟、同居す。弟婦(ていふ)[やぶちゃん注:弟の妻。]、懷姙す。其の長姒(ちやうじ)[やぶちゃん注:兄の妻。]も亦、懷妊するも、胎、傷(こは)れ、之れを匿(かく)す。弟婦、男を生みしに、長姒、輒(すなは)ち、奪(うば)ひ取り、以つて己れが子と爲す。

 論爭すること三年、霸に訴ふ。

 霸、人をして、庭中にて、兒を抱(いだ)かしめ、及(すなは)ち、娣(てい)【音「弟」。「稚婦(ちふ)」[やぶちゃん注:弟の妻。]を「娣」と曰ふ。】・姒、競はせて、之れを取らしむ。既にして俱(とも)に至り、姒、之れを持(じ)すこと、甚だ猛(たけ)し。

 弟婦は、手を傷つくること有るを恐れ、而して、情、甚だ悽慘たり。

 霸、乃(すなは)ち、長姒を叱りて曰はく、

「汝、家財を貪り、此の子を得んと欲す。寧(いづくん)ぞ、慮意あらんや。」

と。罪に伏す。【「風俗通」に出づ。】

   *

・「潁川」当時は現在の河南省禹(う)県を指した。

・「太守」郡州の長官。

・「黃霸」第九代宣帝(在位:紀元前七四年~同四八年)の時に廷尉正(刑罰・司法を管轄する職)となり、一時期、冤罪で獄に繋がれたが、後に抜擢され、潁川太守となり、さらに丞相に登りつめた。漢代の治民の名官吏として知られる(ここは所持する岩波文庫「棠陰比事」(一九八五年刊)駒田信二訳の注に拠った)。

さても、冒頭にある通り、引いた書である「棠陰比事」(とういんひじ)は宋の桂万栄の著になる裁判記録集で、一二〇七年成立。中国古今の名裁定百四十四件の判例を、暗唱しやすいように四字の韻語で標題して収録する。日本にも早くから伝えられ、井原西鶴の「本朝櫻陰比事」(元禄二(一六八九)年板行)や知られた「大岡政談」(実録体小説。名奉行大岡忠相の裁判を主題とし、「天一坊」「白子屋阿熊(しらこやおくま)」など十六編の話からなるが、史実とは無関係のものが多く、完全な推理小説的創作である。人情と機知に富んだ古今東西の裁判の話を江戸時代のものに巧みに改変・脚色している。原作者は不詳。江戸期の講釈に起源を持つ)などに影響を与えた。原本のそれは「上」の以下。頭に同じ事例の枕がある。「中國哲學書電子化計劃」内の「棠陰比事」(四明叢書)の原本画像から起こした。

   *

李崇還泰黃覇叱姒

後魏李崇爲揚州刺史縣民荀㤗者有子三歲失之後見在趙奉伯家各言已子竝有鄰證郡縣不能斷崇乃令二父與兒各禁數日忽遣獄吏報兒暴卒泰聞之悲不自勝奉伯嗟歎而已遂以兒還泰奉伯伏罪

漢時頴川有富室兄弟同居弟婦與長姒皆懐姙長姒胎傷弟婦生男輒奪以爲己子爭訴三年郡守黃覇使人抱兒於庭令娣姒競取之長姒持之甚猛弟婦恐有所傷於手覇乃叱長姒曰汝貪家財欲得兒寧慮頓有所傷乎乃以兒還弟婦出【出風俗通】

   *

この末尾部分が熊楠の記すものとほぼ一致する。さらに探してみたところ、この近代中国語の本書(全編)の版本画像PDF)の10コマ目にあるものの末尾が、

   *

「汝貪家財、欲得此子、寧慮意頓有所傷乎。此事審矣。」姒伏罪。

   *

と完全一致することが判った。

   *

「汝、家財を貪り、此の子を得んと欲す。寧ぞ頓(とみ)に傷つくる所有るを慮(おもんぱか)り意(おも)はんや。此の事、審らかなり。」

と。姒、罪に伏す。

   *

やっと、気が晴れた。

「Burton, ‘Supplemental Nights,’ 1894, Vol.xi, pp. 51―53.」原本確認出来ず。

「舊約全書(1.  Kings iii, 16―20)に載せたる「ソロモン」の裁判」「旧約聖書」「列王紀上」の第三章の「16」から「28」。「Wikisource」の「列王紀上(口語訳)」』(一九五五年日本聖書協会刊)の当該部を読まれたい。

「前年、坪内博士が、早稻田文學にて公表せられし、幸若の舞曲、其から淨瑠璃等に名高き百合若の話」室町時代の幸若舞を起源とするとされる貴種流離譚の一つ「百合若」伝説の主人公「ゆりわかだいじん」と「ユリシーズ」の発音の類似や、話の展開の各所に見られる類似性から、現在でも「ユリシーズ」起源説が語られるが、それの先鞭をつけたのが、坪内逍遙が明治三九(一九〇六)年一月に『早稻田文學』発表した「百合若傳說の本源」である。国立国会図書館デジタルコレクションの坪内逍遙の論集「文藝瑣談」(明四十年春陽堂刊)の画像でここから視認出来る。ウィキの「百合若大臣」によれば、そこで『坪内逍遙は、古代ギリシアの詩人・ホメロスが謡った叙事詩「オデュッセイア」がなんらかの形で(あるいは室町時代にポルトガル人の手により)日本に伝えられ、それが翻案されたものこそが「百合若大臣」であるとの説を』提唱し、『オデュッセイアのラテン語での発音「ユリシス」と「百合」が似ていることや、主人公・オデュッセウスの留守を守る妻・ペネローペーが織物をして時間を稼ぎ、求婚者をかわす逸話が、百合若の妻の行いを思わせるからであ』った。『坪内は、伝来の道筋として「いずれの国人」にもたらされたか不明であると断りながら、あるいは「堺や山口を経」たものとの思いつきに達したとする』。『これは室町時代にやってきた「南蛮人」・「ポルトガル人宣教師」による伝播説だと捉えられている』。なお、『南蛮伝播により強く執着したのは、この坪内よりも』言語学者で「広辞苑」編集やキリシタン文献の研究でも知られる者新村出(しんむらいずる)『であった』(後の大正四(一九一五)年刊「南蠻記」(東亜堂書房))。しかし、『この説は』その後、『津田左右吉、柳田國男、高野辰之、和辻哲郎などによって鋭く排撃されて』おり、『この型の説話の分布は広く、偶然の一致として懐疑的に見る意見がある』点、『また、百合若の初演が』天文二〇(一五五一)年で『ポルトガル人による種子島銃の伝来からわずか』七『年あまりで』、かくも『完成度の高い翻案を不可能と目す論旨がある』。一方、『坪内との同調派には、新村出にくわえて、アメリカ出身のEL・ヒッバード(同志社女子大学教授)があり、また日系人のジェームス・T・アラキがいる』。『アラキは、たとえ初演が』一五五一年であったとしても、その前年頃に『ザビエル神父の通訳ファン・フェルナンデズによって伝承された』と考える『ことは可能であると力説し』、『これに賛意を唱えた論文も』近年『新たに出て』おり、賛同派は「ユリシーズ」と「百合若」のみが、『いくつものモチーフが段ごとに連綿として一致する酷似性があると強調する』。『ただ、最古の記録が』一五五一『年というアラキ等の前提』は既に『覆されており』、永正一一(一五一四)年の「雲玉和歌抄」に『詳しい言及があることが今では判明しているため、ポルトガル人伝来説は困難となっている』。『しかし』、坪内逍遙や『新村出の「南蛮人」伝来説を』、『より広義的にとり、例えば』、『アジアに到達したイスラーム教徒を媒介したものだとすれば、可能性は十分にあり、このことは既に南方熊楠に指摘されている』(本篇のこの部分から、以下の段落での考察を指す。まだ続くので注意されたい)。『井上章一も』、逍遙の言う『南蛮時代に伝来したという説は成り立たないが、ユーラシア大陸全体に、前史時代に広まった説話の一つと見るのが妥当だろうとして』おり、『中央ユーラシアの叙事詩』「アルパムス」と『類似しており、これがユリシーズ伝説との中間的な媒体だった可能性も指摘されている。甲賀三郎伝説も、これと同じようなアジア経由をたどったのでは』ないかと、『大林太良などは推察』している、とある。

「ユリツセス」「ユリシーズ」。ギリシア神話の英雄で、イタケーの王であり、ホメーロスの叙事詩「オデュッセイア」の主人公オデュッセウスの物語。ラテン語で「Ulixes(ウリクセス)」或は「Ulysseus」(ウリュッセウス)ともいい、これが英語の「Ulysses」(ユリシーズ)の原型である。]

2021/01/23

奥州ばなし 影の病

 

     影の病

 

 北勇治と云し人、外よりかへりて、我《わが》居間の戶をひらきてみれば、机におしかゝりて、人、有《あり》。

『誰《たれ》ならん、わが留守にしも、かく、たてこめて、なれがほに、ふるまふは。あやしきこと。』

と、しばし見ゐたるに、髮の結《ゆひ》やう、衣類・帶にゐたるまで、我《われ》、常に着しものにて、わがうしろ影を見しことはなけれど、

『寸分、たがはじ。』

と思はれたり。

 餘り、ふしぎに思はるゝ故、

『おもてを、見ばや。』

と、

「つかつか」

と、あゆみよりしに、あなたをむきたるまゝにて、障子の細く明《あ》けたる所より、緣先に、はしり出《いで》しが、おひかけて、障子をひらきみしに、いづちか行けん、かたち、みえず成《なり》たり。

 家内《かない》に、その由をかたりしかば、母は、物をもいはず、ひそめるていなりしが、それより、勇治、病氣《びやうき》つきて、其年の内に、死《しし》たり。

 是迄、三代、其身の姿を見てより、病《やみ》つきて、死《しし》たり。

 これや、いはゆる影の病《やまひ》なるべし。

 祖父・父の、此《この》病にて死《し》せしこと、母や家來は、しるといへども、餘り忌《い》みじきこと故、主《あるじ》には、かたらで有《あり》し故、しらざりしなり。

 勇治妻も、又、二才の男子をいだきて、後家と成《なり》たり。

 只野家、遠き親類の娘なりし。【解、云《いはく》、離魂病は、そのものに見えて、人には、見えず。「本草綱目」の說、及《および》、羅貫中が書《かけ》るものなどにあるも、みな、これなり。俗(よ)には、その人のかたちの、ふたりに見ゆるを、かたへの人の見る、と、いへり。そは、「搜神記」にしるせしが如し。ちかごろ、飯田町なる鳥屋の主《あるじ》の、姿のふたりに見えし、などいへれど、そは、まことの離魂病にはあらずかし。】【只野大膳、千石を領す。この作者の良人なり。解云《いふ》。】

 

[やぶちゃん注:最後の二つの注は底本に孰れも『頭註』と記す。孰れも馬琴(既に述べた通り、「解」(かい)はこの写本を成した馬琴の本名)のものしたもので、五月蠅くこそあれ、要らぬお世話で、読みたくもない。しかし、書いてあるからには注はする。なお、本篇は実は「柴田宵曲 續妖異博物館 離魂病」の私の注で、一度、電子化している。しかし、今回は零から始めてある。

 標題は「かげのやまひ」。恐らくは真葛の文章中、最も広く知られている一篇の一つではないかと思われる。かく言う私も実は真葛を知ったのはこの話からであるからである。教えて呉れたのは芥川龍之介である。龍之介が、大正元(一九一二)年前後を始まりとして、終生、蒐集と分類がなされたと推測される怪奇談集を集成したノート「椒圖志異」の中である(リンク先は私の二〇〇五年にサイトに公開した古い電子テクストである)。その「呪詛及奇病」の「3 影の病」がそれである。

   *

  3 影の病

北勇治と云ひし人外より歸り來て我居間の戶を開き見れば机におしかゝりし人有り 誰ならむとしばし見居たるに髮の結ひ樣衣類帶に至る迄我が常につけし物にて、我後姿を見し事なけれど寸分たがはじと思はれたり 面見ばやとつかつかとあゆみよりしに あなたをむきたるまゝにて障子の細くあき間より椽先に走り出でしが 追かけて障子をひらきし時は既に何地ゆきけむ見えず、家内にその由を語りしが母は物をも云はず眉をひそめてありしとぞ それより勇治病みて其年のうちに死せり 是迄三代其身の姿を見れば必ず主死せしとなん

  奧州波奈志(唯野眞葛女著 仙台の醫工藤氏の女也)

   *

或いは、これがその「椒圖志異」の最後の記事のようにも見えるが、それは判らない。今回、この一篇を紹介するに際して、「芥川龍之介がドッペルゲンガーを見たことが自殺の原因だ」とするネット上の糞都市伝説(そんな単純なもんじゃないよ! 彼の自死は!)を払拭すべく、ちょっと手間取ったが、

芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』

をこの記事の前にブログにアップしておいた。そちらも是非、読まれたい。

「影の病」「離魂病」「二重身」「復体」「離人症」(但し、精神医学用語としての「離人症」の場合は見当識喪失や漠然とした現実感喪失などの精神変調などまで広く含まれる)とも呼ぶが、近年はドイツ語由来の「ドッペルゲンガー」(Doppelgänger:「Doppel」(合成用語で名詞や形容詞を作り、英語の double と同語源。意味は「二重」「二倍」「写し」「コピー」の意)+「gänger」(「歩く人・行く者」))の方が一般化した。これは狭義には自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象を指す。それでも私は、この「影の病い」が和語としては最も優れていると思う。但し、広義のそれらは、ある同じ人物が同時に全く別の場所(その場所が複数の場合も含む)に姿を現わす現象を指すこともあり、自分が見るのではなく、第三者(これも複数の場合を含む)が目撃するケースもかく呼ばれる。なお、私は、「離魂病」というと、個人的にはポジティヴなハッピー・エンドの唐代伝奇である陳玄祐(ちんげんゆう)の「離魂記」を、まず、思い出す人種である。「離魂記」は、私の「無門關 三十五 倩女離魂」で、原文・訓読・現代語訳を行っているので、是非、読まれたい。

 さて、やや迂遠にあるが、日本の民俗社会にとっての「影」から考察しよう。平凡社「世界大百科事典」の斎藤正二氏の「影」の解説の「かげと日本人」によれば(ピリオド・コンマを、句読点或いは中黒に代え、書名の《 》を「 」に代えた)、『〈かげ〉ということばは、日本人によって久しく二元論的な使いかたをされてきた。太陽や月の光線 lightray も〈かげ〉であり、それが不透明体に遮られたときに生じる暗い部分 shadowshade もまた〈かげ〉である。そればかりか、外光のもとに知覚される人物や物体の形姿 shapefigure も〈かげ〉であれば、水面や鏡にうつる映像 reflection も〈かげ〉であり、そのほか、なべて目には見えるが実体のない幻影imagephantom も』、『また』、『〈かげ〉と呼ばれた。そして、これらから派生して、人間のおもかげ visagelooks や肖像 portrait を〈かげ〉と呼び、そのひとが他人に与える威光や恩恵や庇護のはたらきをも〈おかげ〉の名で呼ぶようになり、一方、暗闇darkness や薄くらがり twilight や陰翳 nuance まで〈かげ〉の意味概念のなかに周延せしめるようになった。このように、まったく正反対の事象や意味内容が〈かげ〉の一語のもとに包括されたのでは、日本語を学ぼうとする外国人研究者たちは困惑を余儀なくされるに相違ない』。『なぜ〈かげ〉の語がこのような両義性をもつようになったかという理由を明らかにすることはむずかしいが、古代日本人の宇宙観』、乃至、『世界観が〈天と地〉〈陽と陰〉〈明と暗〉〈顕と幽〉〈生と死〉などの〈二元論〉的で』、『かつ』、『相互に切り離しがたい〈対(つい)概念〉を基本にして構築されてあったところに、さしあたり、解明の糸口を見いだすほかないであろう。記紀神話には案外なほど』、『中国神話や中国古代思想からの影響因子が多く、冒頭の〈天地開闢神話〉からして「淮南子(えなんじ)」俶真訓・天文訓などを借用してつくりあげられたものであり、最小限、古代律令知識人官僚の思考方式のなかには』、『中国の陰陽五行説が』、『かなり十分に学習=享受されていたと判断して大過ない。しかし、そのように知識階級が懸命になって摂取した先進文明国の〈二元論〉哲学とは別に、いうならば日本列島住民固有の〈民族宗教〉レベルでの素朴な実在論思考のなかでも、日があらわれれば日光(ひかげ)となり、日がかくれれば日影(ひかげ)となる、という二分類の方式は伝承されていたと判断される。語源的にも、light のほうのカゲは〈日気(カゲ)ノ義〉(大槻文彦「言海」)とされ、shade darkness を意味するヒカゲは』「祝詞(のりと)」に〈『日隠処とみゆかくるゝを略(ハブ)き約(ツ)ゞめてかけると云(イフ)なり〉(谷川士清「和訓栞(わくんのしおり)」)とされている。語源説明にはつねに多少とも』、『こじつけの伴うのは避けがたいが、原始民族が天文・自然に対して畏怖の念を抱き、そこから出発して自分たちなりの世界認識や人生解釈をおこなっていたことを考えれば、〈かげ〉の原義が〈日気〉〈日隠〉の両様に用いられていたと聞いても驚くには当たらない。むしろ、これによって古代日本民衆の二元論的思考の断片を透視しうるくらいである』。『〈かげ〉は、古代日本民衆にとって、太陽そのものであり、目に見える実在世界であり、豊かな生命力であった。しかも一方、〈かげ〉は、永遠の暗黒であり、目に見えない心霊世界であり、ものみなを冷たいところへ引き込む死であった。権力を駆使し、物質欲に燃える支配者は〈かげの強い人〉であり、一方、存在価値を無視され今にも死にそうな民衆は〈かげの薄い人〉であり、さらに冷たい幽闇世界へ旅立っていった人間はひとしなみに〈かげの人〉であった。当然、ひとりの個人についても、鮮烈で具体的な部分は〈かげ〉と呼ばれる一方、隠戴されて知られざる部分もまた〈かげ〉と呼ばれる。とりわけ、肉体から遊離してさまよう霊魂は、〈かげ〉そのものであった。そのような遊離魂を〈かげ〉と呼んだ用法は「日本書紀」「万葉集」に幾つも見当たる。近世になってから「一夜船」「奥州波奈志」』(!!!)『「曾呂利話」などの民間説話集に記載されている幾つかの〈影の病〉は、当時でも、離魂病の別称で呼ばれる奇疾とされたが、奇病扱いしたのは、それはおそらく近世社会全体が合理的思惟に目覚めたというだけのことで、古代・中世をとおして〈離魂説話〉や〈分身説話〉はごくふつうにおこなわれていた(ただし、こちらのほうには唐代伝奇小説からの影響因子が濃厚にうかがわれるが)のであり、現在でさえ、〈影膳〉の遺風のなかにその痕跡が残存されている』。『ついでに、〈影膳〉について補足すると、旅行、就役、従軍などにより不在となっている家人のために、留守の人たちが一家だんらんして食事するさい、その不在の人のぶんの膳部をととのえる習俗をいい、日本民俗学では〈陰膳〉と表記する。民俗学の解釈では、不在家族も同じものを食べることにより』、『連帯意識を持続しようという念願が込められている点を重視しており、それも誤っていないと思われるが、〈かげ〉のもともとの用法ということになれば、やはり霊魂、遊離魂のほうを重視すべきであろう。もっとも、〈かげ〉をずばり死霊・怨霊の意に用いている例も多く、関東地方の民間説話〈影取の池〉などは、ある女が子どもを殺されて投身自殺した池のそばを、なにも知らずに通行する人の影が水に映るやいなや、池の主にとられて死ぬので、とうとう』、『その女を神にまつったという。同じ〈かげ〉でも、〈影法師〉となると、からっとして明るく、もはや霊魂世界とすら関係を持たない。この場合の〈かげ〉は、たとえば「市井雑談集」に、見越入道の出現と思って肝をつぶした著者にむかい、道心坊が〈此の所は昼過ぎ日の映ずる時、暫しの間向ひを通る人を見れば先刻の如く大に見ゆる事あり是れは影法師也、初めて見たる者は驚く也と語る〉と説明したと記載されてあるとおり、むしろ、ユーモラスな物理学現象としてとらえられる。〈影絵〉もまたユーモラスな遊びである。古代・中世・近世へと時代を追うにしたがい、日本人は〈かげ〉を合理的に受け取るように変化していった』とある。

 さてもそこを押さえた上で、ウィキの「ドッペルゲンガー」を見よう。『ドッペルゲンガー現象は、古くから神話・伝説・迷信などで語られ、肉体から霊魂が分離・実体化したものとされた』。『この二重身の出現は、その人物の「死の前兆」と信じられた』(注釈に『死期が近い人物がドッペルゲンガーを見ることが多いために、「ドッペルゲンガーを見ると死期が近い」という伝承が生まれたとも考えられる』とする)。十八世紀末から二十世紀に『かけて流行したゴシック小説作家たちにとって、死や災難の前兆であるドッペルゲンガーは魅力的な題材であり、自己の罪悪感の投影として描かれることもあった』。『ドッペルゲンガーの特徴として』は、『ドッペルゲンガー』である方の『人物は周囲の人間と会話をしない』・『本人に関係のある場所に出現する』・『ドアの開け閉めが出来る』・『忽然と消える』・『ドッペルゲンガーを本人が見ると死ぬ』『等があげられる』。『同じ人物が同時に複数の場所に姿を現す現象、という意味の用語ではバイロケーション』(Bilocation:超常現象用語。同一人が同時に複数の場所で目撃される現象、或いは、その現象を自ら発現させる能力の呼称)『と重なるところがあるが、バイロケーションのほうは自分の意思でそれを行う能力、というニュアンスが強い』。『つまりドッペルゲンガーの』場合は、『本人の意思とは無関係におきている、というニュアンスを含んでいる』ことが圧倒的多数である。『アメリカ合衆国第』十六『代大統領エイブラハム・リンカーン、帝政ロシアのエカテリーナ』Ⅱ『世、日本の芥川龍之介などの著名人が、自身のドッペルゲンガーを見たという記録も残されている』。十九『世紀のフランス人のエミリー・サジェ』(Émilie Sagée:女性で教師であった)『はドッペルゲンガーの実例として有名で』、『同時に』四十『人以上もの人々によって』彼女の『ドッペルゲンガーが目撃されたといわれる』。『同様に、本人が本人の分身に遭遇した例ではないが、古代の哲学者ピタゴラスは、ある時の同じ日の同じ時刻にイタリア半島のメタポンティオンとクロトンの両所で大勢の人々に目撃されたという』。『医学においては、自分の姿を見る現象(症状)は』「autoscopy」(オトスコピー:「auto-+「‎-scopy」:自動鏡像視認)、『日本語で「自己像幻視」と呼ばれる。 自己像幻視は純粋に視覚のみに現れる現象であり、たいていは短時間で消える』。『現れる自己像は自分の姿勢や動きを真似する鏡像であり、独自のアイデンティティや意図は持たない。しかし、まれな例としてホートスコピー(heautoscopy)』(この単語は心霊学用語で「幽体離脱」を示す語として有名)『と呼ばれる自身を真似ない自己像が見えたり、アイデンティティをもった自己像と相互交流する症例も報告されている。ホートスコピーとの交流は』、『友好的なものより』、『敵対的なことのほうが多い』(これは解離性同一性障害(旧多重人格障害)によく見られる)。『例えばスイス・チューリッヒ大学のピーター・ブルッガー博士などの研究によると、脳の側頭葉と頭頂葉の境界領域(側頭頭頂接合部)に脳腫瘍ができた患者が自己像幻視を見るケースが多いという。この脳の領域は、ボディー』・『イメージを司ると考えられており、機能が損なわれると、自己の肉体の認識上の感覚を失い、あたかも肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するかのように錯覚することがあると言われている。また、自己像幻視の症例のうちのかなりの数が統合失調症と関係している可能性があり』、『患者は暗示に反応して自己像幻視を経験することがある』。『しかし、上述の仮説や解釈で説明のつくものと』、『つかないものがある。「第三者によって目撃されるドッペルゲンガー」(たとえば数十名によって繰り返し目撃されたエミリー・サジェなどの事例)は、上述の脳の機能障害では説明できないケースである』。以下、「作品中のドッペルゲンガー」では、ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の詩篇、ドイツの多才な作家エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann)の「大晦日の夜の冒険」(一八一五年)、イギリスの作家アルフレッド・ノイズ(Alfred Noise)の「深夜特急」、エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」(一八三九年)、イングランドのラファエル前派の画家で詩や小説も書いたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの水彩画「How They Met Themselves」(「彼らはどのようにして彼らに出逢ったか」。一八六〇年~一八六四年作)、短編「手と魂」(Hand and Soul:一八五〇年)、オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像』」(一八九〇年)、ドイツの幻想作家ハンス・ハインツ・エーヴェルス(Hanns Heinz Ewers)の「プラーグの大学生」(一九一三年)、ドストエフスキーの「分身」(一八四六年)、ジグムント・フロイトが書いた病跡学的考証と独自の夢解釈理論の傑作であるドイツ人作家ヴィルヘルム・イエンセン(Wilhelm Jensen)作の「グラディーヴァ」(Gradiva:一九〇三年:特異的に、自分ではなくて他者のドッペルゲンガー幻想を抱く青年の物語である)を取り上げて分析した「W・イエンセンの小説『グラディーヴァ』に見られる妄想と夢」(Der Wahn und die Träume in W. Jensens „Gradiva“:一九〇七年)、パリ生まれのアメリカ人作家ジュリアン・グリーン(Julien Green)の「地上の旅人」(一九二七年)、既に本ブログ記事の前で示した芥川龍之介の「二つの手紙」(大正六(一九一七)年)、ドイツの作家ハンス・ヘニー・ヤーン(Hans Henny Jahnn 一八九四年~一九五八年)の「鉛の夜」(一九五六年)、梶井基次郎の「泥濘」(大正一四(一九二五)年。リンク先は「青空文庫」。但し、新字新仮名)及びそれを発展させた「Kの昇天」(大正一五(一九二六)年。リンク先は私の古い電子テクスト)をドッペルゲンガーを扱った作品として挙げている。さてもこれらを見ながら、私が驚いたのは、私自身が極めてドッペルゲンガー物の偏愛者であることに、今更乍ら、判ったからである。実にここに出ている作品は殆んど総てを読んでいるからなのである。フロイトのそれなどは、彼の芸術論の中ではピカ一に面白いものである。因みに、このウィキ、下方に『上段の項目「歴史と事例」の北勇治のドッペルゲンガーの話は杉浦日向子の漫画作品『百物語』上巻の「其ノ十六・影を見た男の話」でとりあげられている』とあるのだが(因みにこの日向子さんの漫画も持っている)、上段の「歴史と事例」に「北勇治」の話なんか出てないぜ? この記事を書いた人物は、この「奥州ばなし」の本篇を「歴史と事例」に記したつもりで、うっかりしているだけらしい。情けない。上記の作品記載がまめによく拾っているのに、残念な瑕疵だね。以下、モノローグ。――私はウィキペディアの記者だが、直さないよ。先年、ある出来事で、甚だ不快を覚えて以来、誤字・誤表現や、致命的な誤り以外には手を加えないことにしているからね。誰か僕のこの記事を見たら、直しといてやんな。ウィキペディアは自己の制作物はリンク出来ないからね。アホ臭――

「北勇治」不詳。

「あなたをむきたるまゝにて、障子の細く明《あ》けたる所より、緣先に、はしり出《いで》しが、おひかけて、障子をひらきみしに、いづちか行けん、かたち、みえず成《なり》たり」ここが本話のキモの部分である。この隙間はごくごく細くなくてはいけない! 北勇治のドッペルゲンガーは後ろ姿のまま、紙のように薄くなって(!)この隙間を……しゅうっつ……と抜けて行ってしまったのである……

「是迄、三代、其身の姿を見てより、病《やみ》つきて、死《しし》たり」この事実は、ごくごく主人には内密にされていた以上、現実の可能性を考えるならば、心因性ではなく、何らかの遺伝的な脳障害(最後には絶命に至る重篤なそれである)の家系であったことが一つ疑われるとは言えるようには思う。

「忌《い》みじき」違和感がない。真葛! 最高!

「勇治妻も、又、二才の男子をいだきて、後家と成《なり》たり」真葛の女らしい配慮を見よ!

「只野家、遠き親類の娘なりし」この未亡人が只野(真葛)綾(子)の夫の只野家の、遠い親類の娘であったというのである。その未亡人からの直接の聴き取りであろう。嘘臭さがここでダメ押しで払拭されるのである。短いが、優れた怪奇譚として仕上がっている。

「本草綱目」これは探し出すのに往生した! まず、巻十一の「草之一」の「人參」の「根」の「附方」の中にある以下に違いない!

   *

離魂異疾【有人臥則覺身外有身、一樣無別、但不語。蓋人臥則魂歸於肝、此由肝虛邪襲、魂不歸舍、病名曰離魂。】[やぶちゃん注:下略。]

(離魂異疾【人、有り、臥すときは、則ち、身の外に、身、有ることを覺ゆ。一樣にて、別(わか)ち無し。但、語らず。蓋し、人、臥すときは、則ち、魂、肝に歸す。此れ、肝虛に由りて、邪、襲ひて、魂、舍に歸らず。病、名づけて、「離魂」と曰ふ。】)

   *

「羅貫中が書《かけ》るものなどにある」羅貫中(生没年未詳)は元末・明初の小説家。太原(山西省)の人。号は湖海散人。知られたものでは「三国志演義」「隋唐演義」「平妖伝」などがあり、「水滸伝」も編者或いは作者の一人であるともされる。私は一作も読んだことがないので判らない。馬琴は彼の作品群を偏愛しており、特に「平妖伝」には深く傾倒し、二十回本を元に「三遂平妖伝国字評」を記しているが、それなら、それと書くであろう。判らぬ。識者の御教授を乞う。

『そは、「搜神記」にしるせしが如し』先の「柴田宵曲 續妖異博物館 離魂病」の本文頭に出る「搜神後記」(六朝時代の名詩人陶淵明撰とされるが、後代の偽作である)の誤りのように私には思われる。そちらを読まれたい。注で原文も示しておいた。

「ちかごろ、飯田町なる鳥屋の主《あるじ》の、姿のふたりに見えし、などいへれど、そは、まことの離魂病にはあらずかし」これは何かの皮肉を掛けているようだが、よく判らぬ。識者の御教授を乞うものである。「飯田町」は現在の飯田橋を含む広域附近。

「只野大膳」ウィキの「只野真葛」によれば、寛政九(一七九七)年三五歳の綾子は『仙台藩の上級家臣で当時江戸番頭の』只野行義(つらよし ?~文化九(一八一二)年:通称は只野伊賀)と『再婚することとなった。只野家は、伊達家中において「着坐」と呼ばれる家柄で、陸奥国加美郡中新田に』千二百『石の知行地をもつ大身であった。夫となる只野行義は、斉村』(なりむら)『の世子松千代の守り役をいったん仰せつかったが』、寛政八(一七九六)年八月の『斉村の夭逝により守り役を免じられ、同じ月に、妻を失っていた。行義は、神道家・蔵書家で多賀城碑の考証でも知られる塩竈神社の神官藤塚式部や漢詩や書画をよくする仙台城下瑞鳳寺の僧古梁紹岷』(こりょうしょうみん)『(南山禅師)など』、『仙台藩の知識人とも交流のあった読書人であり、父平助とも親しかった』。『かねてより』、『平助は、源四郎元輔』(次男。長庵元保がいるが、このウィキには彼の名を出すものの、その後の事蹟が記されていない。底本の鈴木氏の解説によれば、この長男は実は早逝しているのである)『の後ろ盾として』、『娘のうちのいずれかが仙台藩の大身の家に嫁することを希望しており、この頃より平助も体調が思わしくなくなったため、あや子は工藤家のため只野行義との結婚を承諾した。彼女は行義に』、

 搔き起こす人しなければ埋(うづ)み火の

       身はいたづらに消えんとすらん

『という和歌を贈り、暗に行義側からの承諾をうながしている』。『行義は、幼い松千代が』九『代藩主伊達周宗となったため、その守り役を解かれ、江戸定詰を免じられて』おり、一旦、『江戸に招き寄せた家族も急遽』、『仙台に帰している。したがって行義との結婚は』、『あや子の仙台行きを意味していた』とある。

 

 なお、ここに至って、実は国立国会図書館デジタルコレクションに正字正仮名版の本作「奥州ばなし」が、二つ、あるのを発見した。一つは、

「麗女小說集 德川時代女流文學集 下」のここから(標題は「奥州波奈志」で作者名は「只野綾女」と本名で出す)

で編著者は荒木田麗女で、与謝野晶子の纂訂、冨山房大正四(一九一五)年刊である。荒木田麗女(れいじょ 享保一七(一七三二)年~文化三(一八〇六)年:或いは単に「麗」とも)は江戸中期の女流文学者で、実父は伊勢神宮内宮の神職荒木田武遠(たけとお)。十三歳で叔父の外宮御師(おんし)であった荒木田武遇(たけとも)の養女となった。詳しくはウィキの「荒木田麗女」を参照されたい。しかし、何故、彼女の小説集の最後に、真葛の本作一つだけが載っているのか、実は――判らない。晶子の解題には何も書かれていないからなのである。これは異様な感じがする。まさに怪奇談である。今一つは、

「女流文學全集 第三卷」のここから

で、編者は古谷知新(ふるやともよし)、文芸書院大正八(一九一九)年刊である。孰れも総ルビに近いのであるが(後者は割注が本当に割注になっていいて、それにはルビがない)、総ルビというのが、寧ろ、気に入らない。孰れも親本が明記されていないからである。この何とも怪しい編集になる晶子の、或いは古谷氏の読みが、押し付けられる可能性が高いと言える(私の《 》の読みも私の推定に過ぎぬのだが)。しかも、後者の読みが前者を元にしている可能性も排除は出来ない。とすれば、この読みを信奉するわけにはゆかないのである。本篇は後、六篇を残すのみである。私は以上のそれを参考には一切しないことに決めた。私の自己責任で最後まで、ゆく。

 

 にしても、私は、これを以って、稀有の才媛只野眞葛と、稀有の芸術家ソロモン芥川龍之介と、そうして、最後に真に龍之介が愛した、やはり、稀有の才媛シヴァ片山廣子の三人をコラボレーションすることが出来たと感じている。……真葛の死から百九十六年……龍之介の死から九十四年……廣子の死から六十四年……三人の笑みが、私には見える……

芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の作品には、明確にドッペルゲンガー(ドイツ語:Doppelgänger:二十身/自己像幻視/離魂病)を扱ったものとしては、「二つの手紙」(大正六(一九一七)年九月発行雑誌『黒潮』初出)と「影」(大正九(一九二〇)年九月発行『改造』初出)がある(リンク先は孰れも「青空文庫」。新字新仮名)二作があり、言及では「路上」(『大阪毎日新聞』大正八(一九一九)年六月から八月まで三十六回連載。未完。リンク先は同前)の「十六」に(引用は独自に岩波旧全集に拠った)、

   *

 俊助はかう云ふ問答を聞きながら、妙な事を一つ發見した。それは花房(はなぶさ)の聲や態度が、不思議な位(くらゐ)藤澤に酷似してゐると云ふ事だつた。もし離魂病(りこんべう)と云ふものがあるとしたならば、花房は正に藤澤の離魂體(ドツペルゲンゲル)とも見るべき人間だつた。が、どちらが正體でどちらが影法師だか、その邊の際どい消息になると、まだ俊助にははつきりと見定めをつける事がむづかしかつた。だから彼は花房の饒舌つてゐる間も、時々胸の赤薔薇を氣にしている藤澤を偸(ぬす)み見ずにはゐられなかつた。

   *

とあり、また、自己告白体の遺作(但し、「一 レエン・コオト」のみは死の前月六月一日発行の雑誌『大調和』に発表済み)の「齒車」(リンク先は私の古い電子テクスト)の「四 まだ?」で小説執筆のために借りているホテルの部屋に戻った「僕」は、新らしい小説にとりかかっていたが、

   *

 けれども僕は四五分の後(のち)、電話に向はなければならなかつた。電話は何度返事をしても、唯何か曖昧(あいまい)な言葉を繰り返して傳へるばかりだつた。が、それは兎も角もモオルと聞えたのに違ひなかつた。僕はとうとう[やぶちゃん注:ママ。]電話を離れ、もう一度部屋の中を步き出した。しかしモオルと云ふ言葉だけは妙に氣になつてならなかつた。

 「モオル――Mole………

 モオルは鼴鼠(もぐらもち)と云ふ英語だつた。この聯想も僕には愉快ではなかつた。が、僕は二三秒の後、Mole la mort に綴り直(なほ)した。ラ・モオルは、――死と云ふ佛蘭西語は忽ち僕を不安にした。死は姊の夫に迫(せま)つてゐたやうに僕にも迫つてゐるらしかつた。けれども僕は不安の中にも何か可笑しさを感じてゐた。のみならずいつか微笑してゐた。この可笑しさは何の爲に起るか?――それは僕自身にもわからなかつた。僕は久しぶりに鏡の前(まへ)に立ち、まともに僕の影と向(むか)ひ合つた。僕の影も勿論微笑(びしやう)してゐた。僕はこの影を見つめてゐるうちに第(だい)二の僕のことを思ひ出した。第(だい)二の僕、――獨逸人の所謂 Doppelgaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかつた。しかし亞米利加の映畫俳優になつたK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけてゐた。(僕は突然K君の夫人に「先達はつい御挨拶もしませんで」と言はれ、當惑したことを覺えてゐる。)それからもう故人になつた或隻脚(かたあし)の飜譯家もやはり銀座の或煙草屋に第二の僕を見かけてゐた。死は或は僕よりも第二の僕に來るのかも知れなかつた。若し又僕に來たとしても、――僕は鏡に後ろを向け、窓の前の机へ歸つて行つた。

   *

とある。因みに、彼がかなり以前からドッペルゲンガーに強い関心を抱いていたらしいことは、龍之介が、大正元(一九一二)年前後を始まりとして、終生、蒐集と分類がなされたと推測される怪奇談集を集成したノート「椒圖志異」(しょうずしい:リンク先は私が二〇〇五年にサイトに公開した古い電子テクスト)の「呪詛及奇病」の「3 影の病」で、

   *

  3 影の病

北勇治と云ひし人外より歸り來て我居間の戶を開き見れば机におしかゝりし人有り 誰ならむとしばし見居たるに髮の結ひ樣衣類帶に至る迄我が常につけし物にて、我後姿を見し事なけれど寸分たがはじと思はれたり 面見ばやとつかつかとあゆみよりしに あなたをむきたるまゝにて障子の細くあき間より椽先に走り出でしが 追かけて障子をひらきし時は既に何地ゆきけむ見えず、家内にその由を語りしが母は物をも云はず眉をひそめてありしとぞ それより勇治病みて其年のうちに死せり 是迄三代其身の姿を見れば必ず主死せしとなん

  奧州波奈志(唯野眞葛女著 仙台の醫工藤氏の女也)

   *

とあることから見ても判然とするのである。

 さて、ネット上には、「芥川龍之介が自殺した原因は彼が自分のドッペルゲンガーを見たからである」などという無責任極まりない非科学的な糞都市伝説が横行している(龍之介がドッペルゲンガーを見たと感じたのは事実であるが、それは晩年とは限らない。但し、晩年に限るならば、そういう体験に漠然とした自身の死や致命的な災厄が近いという感じを持ったこと(これは洋の東西を問わず、民俗社会でよく普通に言われることである。私は三十代の頃に一度だけ、行きつけだった鎌倉のドイツ料理店の女主人から、「あなたと同じ顔をした同じ名前のセールスマンが、先日、来たよ」と言われてゾッとしたことがある)は「齒車」の一節から看取は出来る)。而して、そこでは大概、「ある座談会で芥川龍之介が自分のドッペルゲンガーを見たと言っている」と記してあり、その「ある座談会」という謂いに胡散臭いものを感じられる向きもあろうかと思われる。実はこのネタ元はウィキの「ドッペルゲンガー」の記載で(但し、これは河合隼雄「コンプレックス」(岩波新書・一九七一年十二月)のp.51を原拠としている。私は刊行当時に買って読み所持するはずであるが、流石に中三の時のもので書庫の底に沈んで発掘出来なかった)、多くの野次馬連中はそれを無批判に手軽に転用しているに過ぎない(縦覧した限りでは、この糞都市伝説を記しながらも、以下に示す原拠を正確に語っているのは、たった一件のみであった。

 しかし、小説「齒車」に出現した「僕」の語るそれは、芥川龍之介自身が実体験であることを語っている活字物が存在するのである。「活字物」としたのは、彼の書いたものではなく、ウィキに記す通り、「座談会」記録であるからである。

 これは、自死する丁度二ヶ月前の、昭和二(一九二七)年五月二十四日に旧制新潟高等学校で講演(演題「ポオの一面」)を行った後の夕刻、宿泊先であった篠田旅館で行われた座談会の席上での他者による記録である。現在は岩波の新全集の第二十四巻に「芥川龍之介氏の座談」として掲載されているが、私は所持していない(新全集の新字体採用を嫌ったからであるが、この巻は買う必要があったのに、在勤していた高校の図書館にあったそれで済ませてしまった。この巻だけは未購入を甚だ後悔している)。しかし、この座談記録はもっと以前に葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(一九六九年岩波書店刊)に収録されている。「芥川龍之介氏の座談」自体は勉誠出版「芥川龍之介作品事典」(平成一二(二〇〇〇)年刊)の奥山文幸氏の解説によれば、初出は雑誌『藝術現代』(昭和二(一九二七)年八月発行)で、記事の起筆者は恐らくは出席し、発言もしている精神科医式場隆三郎(明治三一(一八九八)年~昭和四〇(一九六五)年:新潟県中蒲原郡生まれ。。新潟医学専門学校(現在の新潟大学医学部)卒業。新潟医科大学にて昭和四(一九二九)年に医学博士。多くの作家・芸術家らと交流を持ち、病跡学も手掛け、文化人としても知られる)と推定している。出席者は発言している長谷川一男(私は事蹟未詳。しかし問いや、発言から見て、相当な芥川龍之介のファンであると同時にかなりの文学通である。「ケタ平」は笑っちゃうけれど)・八田三喜(はったみき 明治六(一八七三)年~昭和三七(一九六二)年:当時の新潟高等学校校長。芥川龍之介の東京府第三中学校時代の同校校長であり、彼からこの講演要請があり、恩師のそれに快く答えたものである。しかし、龍之介は改造社の「現代日本文学全集」の宣伝講演旅行(里見弴と同社宣伝班と五月十三日に出発、講演終了は五月二十一日。新潟着はその翌日)からの帰途で、かなり疲弊していた)・式場隆三郎・伴純(生没年未詳だが、坂口安吾(新潟市生まれ)の「風と光と二十の私と」に、『今新潟で弁護士の伴純という人が、そのころは「改造」などへ物を書いており、夢想家で、青梅の山奥へ掘立小屋をつくって奥さんと原始生活をしていた。私も後日この小屋をかりて住んだことがあったが、モモンガーなどを弓で落して食っていたので、私が住んだときは小屋の中へ蛇がはいってきて、こまった。この伴氏が私が教員になるとき、こういうことを私に教えてくれた。人と話をするときは、始め、小さな声で語りだせ、というのだ。え、なんですか、と相手にきき耳をたてさせるようにして、先ず相手をひきずるようにしたまえ、と云うのだ』(「ちくま文庫」版全集によった)とある人物と断定してよい。ウィキの「新潟新聞」に、大正一四(一九二五)年、当時の社員の『親友の弁護士で『改造』に文章を発表していた伴純』『が編集主事となった』とあり、これらの情報から、この座談会に出席しているのは彼だとほぼ断定出来るように思われる)の他に、『発言はないが、出席者として掲載されているのが、井深圭太郎、中川孝、安藤宅也、羽鳥芳雄』(奥山氏解説)とある。問題は長谷川一男と伴純で、没年が判らないので、彼の発言部は著作権に抵触する可能性がないとは言えない(他の人物はパブリック・ドメイン)。そうである事実を示して指摘されたならば、彼ら二人の発言部は省略する。

 なお、上記のような次第で、新全集版との校合は出来ない。しかし、初めて芥川龍之介の「ドッペル・ゲンゲル」の発言がったあったとして広く知られるようになったもので、正字である点で、相応の価値があると考えている。

 底本は先に示した葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」に拠ったが、そちらでは、「新潟の座談會」となっているものの、題名は同じく示した「芥川龍之介作品事典」での、初出誌のそれと思われるものに代えた。個人の話が二行以上に亙る場合は、底本では二行目以降は一字下げになっているが、無視した。踊り字「〱」は正字化した。傍点「ヽ」は太字に代えた。禁欲的に注を附した。

 なお、底本では葛巻氏が注する中で、『その「講演」は大変力のこもったもので、盛況であったらしいが、それに比較して、この「座談」会での彼は、主催者側も案外と思ったのでないかと思う程、元気がなく、憂鬱そうな彼が出て来ている。少くも、この「記録」に残った限りでは、註に「(皆な暫く沈黙。)」となっている暗い話題に、話が発展しがちであったらしい。――只、これは新潟から家族宛の便りにも、「をととひの夜新潟着。八田さんにいろいろ御厄介になる。」とある様に、この十数年前の恩師八田校長が、いろいろこの「座談」会の中でも、彼の気を引き立てる様に話を持って行こうとしているが、――これは編者のみではなく、この深い心づかいがなかったなら、彼は青森から、羽越線の列車をたどって、中学時代の校長八田三喜氏が、いまは校長をしている新潟高等学校迄、わざわざ「講演」をしに行かなかったに違いない。――又、帰京後、彼の言葉として、編者はこの事を聞かせられた様にも記憶する。なお、これは余事ながら、この北海道講演旅行中の彼は、青函連絡線で、乗船の際履きかえた上草履のままで、函館の往来で気づいたり、――時計をどこかに置き忘れるかと思うと、つれの里見弴氏の伴れ人を驚かそうとして、樺太長官夫人の寝台の真上の船窓をいきなり外からこじ明けて、首をつっこんでしまったり、いろいろ彼の、ふだんの家庭での一面も発揮している。(これは、里見弦氏の「追憶」に詳しい。)編者はいま、それらを想い出している。同時に、「羽越線の中で作る……」と書かれた、「山吹」の詩と一しょに。-―』と記しておられる。最後の部分は私の芥川龍之介「東北・北海道・新潟」を見られたいが、そこの私の冒頭注が異様に偏執的であるのは、この直後の行動に芥川龍之介のある重大な秘密が隠されていると私が考えているからである。それは……それ……私の注のリンク先を見られれば……よろしい……

 

 芥川龍之介氏の座談

 

長谷川 「河童」と「玄鶴山房」とどちらがお好きですか。

芥川 兩方好きです。(間)貴方はどつちが好きです。

長谷川 「玄鶴山房」です。あの調子でお進みになるのかと思つてゐたら「河童」が出たので驚きました。これからどうお進みになるのです。

芥川 僕は兩方へ進むつもりです。

長谷川 「點鬼簿」からすぐ「玄鶴山房」でしたか。

芥川 いゝえ。あの間に「春の夜」、「彼」、「彼(第二)」などありますよ。

式場 「河童」には何かリアルがあつたのですか。

芥川 ありません。[やぶちゃん注:以下の改行はママ。]

「玄鶴山房」は看護婦にきいた話です。「春の夜」もさうです。「玄鶴山房」であんなに惡く書いて了つたので何處かで恨んでゐるでせう。

長谷川 先生は何時か『人間』か何かに「お律とその子ら」と云ふ小說をお書きになりましたね。

芥川 書きました。『中央公論』です。

長谷川 あれは如何なさいました。單行本にもお入れになりませんね。

芥川 書き直さうと思つて、そのまゝになつてゐます。

長谷川 「俊寬」も單行本にお入れになりませんね。

芥川 あれも書き直さうと思つて書いたのが『文藝春秋』に載つた奴です。それも完成出來なくつてあのまゝになつてゐます。

長谷川 「春」はお續けにならないのですか。

芥川 そんなことはありません。然しどうなりますか。

長谷川 「邪宗門」も未完でせう。

芥川 (微笑)あれはたうとう駄目でした。書き直さうと思つてゐるのや、先をつゞけられなくなつたのが、こんなに(手で厚さを示しつゝ)あるんです。書き直しは案外骨が折れますね。[やぶちゃん注:次の改行はママ。一字下げのままである。]

 夏目先生は書き直しなどする努力で新しいものを書けといつていられましたが、書き直しは全く大變ですね。

長谷川 「羅生門」をお書きになつたのはおいくつの時でした。

芥川 さあ二十三四でしたかね。[やぶちゃん注:満二十三の時である。]

長谷川 あれから少しも手をお加へにならないのですか。

芥川 えゝ加へません。書くのは書いたが何處でも出して吳れませんでね。方々賴んで步いたけれど駄目でした。やうやう『帝國文學』に載つたのでしたが、それを賴みに行つたのは靑木健作君の家でした。小石川で日は暮れる、雨は降る、犬には吠えられる、それに家が見つからず、全く心細かつたです。やうやう靑木君の家を見つけたんですが、引越した許りで取りこんでゐたので玄關で渡して來ました。始めは原稿料などを貰ふことよりも活字になることが嬉しかつたものです。[やぶちゃん注:「靑木健作」(明治一六(一八八三)年~昭和三九(一九六四)年)であろう。山口県都濃(つの)郡(現在の周南市)生まれ。小説家・俳人。東京帝国大学哲学科を卒。明治四三(一九一〇)年に「虻」を夏目漱石に賞賛され、「お絹」「錆たる鍬」などを発表した。この座談当時は法政大学教授。]

長谷川 初めて原稿料をお貰ひになつたのは「虱」でしたか。[やぶちゃん注:大正五(一九一六)年五月発行の雑誌『希望』に発表。「鼻」が『新思潮』(第四次。同年二月十五日発行の創刊号に発表)に載って以来、初めての依頼原稿であった。龍之介満二十四歳。]

芥川 さうです。あれで參拾錢貰ひました。[やぶちゃん注:これは原稿一枚の稿料単位額を指す。「虱」は原稿用紙十二枚で三円六十銭であった。以下、改行はママ。]

 志賀さんの「淸兵衞と瓢簞」も參拾錢だつたといふ事です。あの頃は今のやうに書いたものがすぐ印刷になるといふわけには行かなかつたやうです。[やぶちゃん注:志賀直哉の「淸兵衞と瓢簞」は大正二(一九一三)年一月一日発行の『讀賣新聞』に発表された。この時、志賀は満二十九歳で、同月には初の短編集「留女」(るめ)を刊行。後にこの集は夏目漱石に賞賛された。]

長谷川 雜誌が少かつたのでせうか。

芥川 いや相當にあつたのです。たゞ編輯者が中々出して吳れぬのです。

長谷川 初めて『中央公論』へお書きになつたのは何でした。

芥川 「手巾」でした。『中央公論』へ出たものゝあれの原稿料は九拾錢でした。とても澤山貰つたやうな氣がして嬉しかつたものです。[やぶちゃん注:「手巾」(はんけち)は同じ大正五年十月一日発行の同誌に発表された。]

長谷川 久保田万太郞さんは先生の一年上[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]

芥川 いや二年先輩です。その上が後藤末雄君です。

八田 後藤君は今どうしてゐるね。

芥川 慶應で博士論文を書いてゐます。

八田 僕はいつか東京で遇つて一緖に夕飯を食べた事があるが、その頃もう文壇を離れてあゝいふ學究生活へ入らうとしてゐた頃と見えて、文壇て厭な奴ばかりゐるといつてこぼしてゐたね。

作川 さうでせう。今でもさういつてます。先日も東洋文庫で一寸逢ひました。勿論文壇だつていゝ所ではありませんがね。

長谷川 赤木ケタ平といふ人はどうしてゐます。

芥川 ケタ平といつちや氣の毒だな。は、は、は、(笑) コウ平といふのですよ。池崎忠孝のペンネエムですよ。今、大阪でメリヤス屋をやつてゐます。

長谷川 先生の飯田蛇笏のことを書いた中に出て來ますね。

芥川 えゝ久米の通俗小說で「赤光」といふのがあるでせう。あれは赤木の父の事を書いたのです。

長谷川 ではあの息子といふのが赤木氏ですか。

芥川 さうです。今でも發作的に時々何か書きたくなるさうですが、久しく筆を執らないと臆病になつて中々書けないものださうです。先日も仙臺で木下杢太郞君と遇つて話したんですが、木下君など文壇に遠ざかつてゐるので、下らない批評家に惡口を云はれても書く氣がなくなるらしいのですね。赤木は實に實に雄辯な男でした。あんな能辯の男は他に知りませんね。久米の戀愛事件の時なども、久米に『ガンペキの如く毅然として居れ』と云ふんです。その『ガンペキ』が盛んに出るが何の事か解らんので訊いたら『岩の壁さ』と答へたので笑つた事がありました。

長谷川 恆藤さんも雄辯家ださうですね。

芥川 いやあれは雄辯といふものではないのです。物を言ふ時理路整然としやべる丈けなのです。

長谷川 佐藤春夫さんは先生より早い人ですか。

芥川 あの男は十一二からものを書き出してゐますから書き出しは僕よりずつと早いです。佐藤は僕にもつとくだけろといつてゐます。喋舌るやうにしてどんどん書けといふのです。例へば港ヘ船が入るのを描寫するのに三十枚は書けるといふのです。その佐藤が田山花袋氏にもつとくだけていゝと云はれてゐるのですから、上には上がありますね。

長谷川 『改造』では谷崎氏と議論がお盛んですね。

芥川 二人で共謀して『改造』から原稿料をとつてゐるといふ評判ですよ。は、は、は、(笑)谷崎君は一番議論しやすい先輩なのと、近頃の谷崎君の書くものに不滿を持つてゐるのであんな議論をつゞけてゐるのです。[やぶちゃん注:次の改行はママ。]

 世界で日本の文壇ほど文學者が色々書く所はないのです。僕など去年は仕事をしないしないと云はれてゐるが六つも書いてゐるのです。もう僕も百篇ばかり小說をかきました。ゴオグなど繪を描いたのは三年ださうですからね。

式場 さうです。一番盛んに描いたのはアール・サンレミイですからね。死んだオーヴルは二三ヶ月しかゐなかつたやうですね。

芥川 あの一度死にかけた時にかつぎ込まれた玉突屋でゴオグが寐せられた玉突臺が今も殘つてゐるさうですね。

式場 オーヴルのですか。

芥川 えゝ。齋藤茂吉君がさういつてましたよ。その玉突臺で平氣で今も玉を突いてゐるさうで、毛唐は隨分呑氣だと齋藤君は笑つてゐました。齋藤君はゴオグの病氣はメニヤだといつてましたがどうなんです。[やぶちゃん注:「メニヤ」偏執病。パラノイア(Paranoia)。内因性精神病の一病態。偏執的になり、妄想がみられるが、その論理は一貫しており、行動・思考などの秩序は保たれているものを指す。妄想の内容には血統・発明・宗教・嫉妬・恋愛・心気などが含まれ、持続し、発展する。判りやすく言うと、高機能型の妄想症であるが、少なくとも本邦では最近は病名として殆んど使用されないようである。因みに、フロイトは「精神分析学入門」でパラノイアは医師に対してラポートの状態を形成し得ないから、精神分析療法では治療は出来ない、と投げている。]

式揚 中々議論が多いのです。それは私の仕事の一部なのですが、といふ說が一番有力のやうです。何しろ癲癎の遺傳は濃厚にあるのですから。リーゼなどと云ふ人はクライストが記載してゐる癲癎の一異型に當てはまるといつてゐますが、ヤスパースは早發性癡呆だといつてますし、麻痺性癡呆だといつてゐる人もあるのです。[やぶちゃん注:「リーゼ」不詳。「クライスト」ドイツの精神科医カール・クライスト(Karl Kleist 一八七九年~一九六〇年) であろう。「早發性癡呆」現在の統合失調症。「麻痺性癡呆」脳が梅毒スピロヘータに侵された様態を指す語。梅毒にかかって数年から数十年をかけて後に発症する。知能に障害が出現し、末期には痴呆状態となる。「進行麻痺」「脳梅毒」と同義。]

芥川 さうですか。ストリントベルヒは何だつたんです。

式揚 パラノイアだといつてゐる人がありますが。

芥川 モオパツサンは立派な麻痺性癡呆だつたさうですね。

式場 さうです、病症日記が出てゐます。

芥川 ニイチエも精神病でしたね。

式場 えゝ。天才には隨分あります。

芥川 さうすると精神病など豫防どころか大いに養成すべきですね。齋藤君も自分は早發性癡呆になりさうでなど云つてました、ロンブローゾの說はおかしいですね。[やぶちゃん注:「齋藤」斎藤茂吉。]

八田 いや、ロンブローゾの說は天才は狂人に過ぎぬからつまらぬといふのではないだらう。

芥川 島田淸次郞など齋藤君に云はせると「地上」に既に早發性癡呆の症狀が現はれてゐるといつてますがね。[やぶちゃん注:「島田淸次郞」(明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)小説家。石川の生まれ。大正八(一九一九)年に刊行した長編小説「地上」がベストセラーとなったが、統合失調症を病み、異常行動を起こして保養院に収容された。統合失調症の方は回復したとも伝えられるものの、結核と栄養失調に苦しみ、しかも執筆を継続したが、肺尖カタルが悪化して療養中に病死した。]

伴 僕はもつと先きからだと思ひます。金澤にゐる頃僕は時々逢つたのですが、大言壯語して何百枚書いたと意張つてゐたものです。それが十五六の少年なんで變な氣がしてゐました。私はあの頃から病氣が始まつたのだと思ふのです。

芥川 然し解りませんよ。彼の作が二三百年後にはどういふ眼で見られるかは。今の若い作家で、兎も角あれ丈け書ける人は少いと思ふですね。正宗白鳥氏が『改造』に書いてゐますが今度活動になつた「我もし王者たりせば」のフランソア・ヴョンは、十五世紀の人ですがひどい犯罪者で何年に死んだかも解らん程の男ですが今は大變な人氣で、硏究の本も出てゐるんですからね。[やぶちゃん注:「我もし王者たりせば」邦題は「我れ若し王者なりせば」(原題:The Beloved Rogue)が正しい。一九二七年公開のアメリカの無声映画。十五世紀フランスの盗賊にして詩人であったフランソワ・ヴィヨン(François Villon 一四三一年?~一四六三年以降)の生涯に基づいたもの。主演は名優ジョン・バリモア(John Barrymore 一八八二年~一九四二年)。次の改行はママ。]

然し彼が認められるまでは、三世紀もかゝつてゐます。あらゆるものを認めたアナトール・フランスまでが認めなかつたのですから、時世によつて人間の運命など變るものですね。例へば今の十人殺しとかをやる罪人も戰國時代に生れたら、どんな武將となつたか知れないし、藝術上の天 才も戰國時代などに生れたら、隨分みじめなものでせうからね。そして、さういふ天才が戰國時代に埋れてゐなかつたとは云ひ切れませんからね。[やぶちゃん注:次の改行はママ。]

 天才には隨分悲慘な最後を違げた人も多いですね。

長谷川 スウフトなどもさうだつたのでせう。「ガリバー旅行記」を書いた……。

芥川 さうです。スウフトには凄い話があります。冬の曇つた日、窓からしきりに外を眺めてゐるのださうです。『何を見てゐる』のかと家人が聞くと、一本の枯木を指しながら、『俺もあの木の樣に頭から先きに參つて了ふのだ』と云つたさうです。兎に角天才を側から凝望してゐるうちはいゝが、自ら天才になるのは悲慘ですね。その點で菊池の「屋上の狂人」などはうそですね。(皆笑ふ)夏目先生も被害妄想や幻聽があつたさうです。夏目先生はよく塀の外で誰か惡口を云つてゐると云つて怒鳴つたり、ランプを火鉢へ投り込んだりした事があるさうです。[やぶちゃん注:「スウィフトには凄い話があります。冬の曇つた日、……」『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 「人間らしさ」』を参照されたい。「夏目先生も被害妄想や幻聽があつた」私は夏目漱石はイギリス留学中に重度の強迫神経症に罹患したと今は思っている(嘗ては関係妄想傾向の強い統合失調症を疑ったが)。]

式場 高濱虛子が書いてゐますね。

芥川 さうです。然しもつと色々の事があつたのです。夏目先生のさういふ方面が全く傳はらないのは惜しい事です。それで近い中にさういふ方面の先生を詳しく書いた本が出る筈ですが、兎も角先生の性格には病的な所があつたのは事實ですね。或時、音樂會へ行つて隣の席にゐる毛唐の女に向つて、―― Are you wood ? ――眞面目な顏をして訊かれた事があつたさうです。

八田 然し精神病の本を頂むと、その症狀がどれも自分にもあるやうな氣がしますよ。

芥川 僕なども精神病の本を讀むと自分を疑つて來ますね。それで齋藤君にあまり讀むなと云はれました。一體ノーマルといふ事はどういふ事なんでせう。

式揚 さあ、それが判つきり云ひ切れないのですね。ブレークなども子供から幻視があつたのです。

芥川 昔の赤不動の繪なども空想だけでは描けないと思ふのです。誰かにそれらの畫家はさうしたものを見たと思ふんです。

式揚 僕もブレークに幻視がなければ、あの繪は描けなかつたと思ひます。「虱の幽靈」などといふ繪も自分で見て描いたといつてますね。[やぶちゃん注:「虱の幽靈」The Ghost of a Flea。ウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)の一八一九年から一八二〇年の作。親友の占星術師ジョン・ヴァーリー(John Varley)に頼まれ、降霊会のために描かれた。左手にはドングリの実で作られた杯、右手には植物の棘を持つ。サイト「MUSEY」のこちらで見られる。]

芥川 さうです。

式場 ドペル・ゲンゲルの經驗がおありですか。

芥川 あります。私の二重人格は一度は帝劇に、一度は銀座に現はれました。

八田 然し二重人格といふのは人の錯覺でせう。或はうつかりしてゐて人違ひをするのぢやないですか。

芥川 さういつて了へば一番解決がつき易いですがね。中々さう云ひ切れない事があるのです。或人の話で、自分の部屋へ入つたらちやんと机に向つてゐる第二の自分が立ち上つて出て行つたので、母に話したらいやな顏をしたさうです。そして間もなくその人は死んださうです。その家は代々さうして二重人格が現はれては人が死ぬんださうです。

式場 ドペル・ゲンゲルは死の前兆だと云はれるので僕も出たのでひやひやしましたよ。

八田 さうですか。西洋にもあるんですか。

式揚 あります。そして矢張り不吉な事とされてゐるのです。ドストエフスキーの有名な小說があります。[やぶちゃん注:「ドストエフスキーの有名な小說」「分身」(Двойник)(「二重人格」とも訳される)。中編小説。一八四六年『祖国雑記』第二号に発表された。「貧しき人々」で文壇に華々しくデビューしたドストエフスキーの第二作目。]

芥川 ゲエテも現はれたといつてます。自分の馬に乘つて行くのをゲエテは見たさうです。[やぶちゃん注:私の偏愛するサイト「カラパイア」の「自らのドッペルゲンガーを見たという10人の偉人の逸話」を参照されたい。そこに、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)が、一七七一年頃、『ある日、フリーデリケ』(フリーデリケ・エリザベス・ブリオン(Friederike Elisabeth Brion 一七五二年~一八一三年:牧師の娘であった)『という女性と別れた』(但し、ゲーテの方から関係を断ち切った)『ショックで意気消沈して馬で帰る途中、ゲーテは馬でこちらに向かってくる男に出会った。ゲーテ曰く』、『実際の目ではなく、心の目で見たというのだが、その男は着ている服は違えど、まさにゲーテ本人だったという。その人物はすぐに姿を消したが、ゲーテはその姿になぜか心が穏やかになって、このことはまもなく忘れてしまった』しかし、八『年後、ゲーテがその同じ道を』、『今度は』、『反対方向から馬を進めていたとき、数年前に会った自分の分身と同じ服装をしていることに気づいたという。また』、これとは別な時、『ゲーテは友人のフリードリッヒが通りを歩いているのを見た。なぜか、友人はゲーテの服を着ていたという。不思議に思ったままゲーテが自宅に帰ると、フリードリッヒがゲーテが通りで見たのと同じ服を着てそこにいた。友人は急に雨が降ってきたので、ゲーテの服をかりて、自分の服を乾かしていたのだという』とある。後者はドッペルゲンガーとしても特異なケースである。]

式揚 「靑い塔の中のストリントベルヒ」といふ本だつたかにもストリントベルヒの二重人格の事が書いてあつたやうです。バルコニーに現はれて帽子をとつて下を通る人に挨拶したんださうですが、事實その時ストリントベルヒは机に向つてゐたさうです。[やぶちゃん注:「靑い塔の中のストリントベルヒ」スウェーデンの劇作家・小説家ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(Johan August Strindberg  一八四九年~一九一二年日)晩年六十代の折りに恋人となった(四十一歳年下)スゥエーデンの画家で女優のフアンニイ・ヨハンナ・マリア・フアルクネル(Fanny Johanna Maria Falkner 一八九〇年~一九六三年)が一九一一年頃に書いたストリンドベリの回想録「青い塔の中のストリンドベリ」(邦訳「ストリンドベルクの最後の恋」秦豊吉(東京帝国大学法科大学独法科卒。翻訳家であると同時に実業家でもあり、日本初のヌード・ショー「額縁ショー」の生みの親としてとみに知られる)訳・大正一三(一九二四)年)のこと。]

芥川 齋藤君の話だと幻覺と錯覺と區別のつかぬ事があるさうですね。

式揚 時々判斷に困る事があります。

芥川 錯覺など面白い現象ですね。

式場 私は錯覺の一部分を調べたのですが、子供が一番少く、次はノーマルな成人で、精神病者は一番大きかつたです。頭のいゝ人や想像力の豐かな人ほど大きいと云つてゐる人があるのですがね。

芥川 さうでせうなあ。精神病者は最も進んだ人間だと云つていゝですね。(皆な暫く沈獸。)

長谷川 改造社の宜傳旅行に出られたんですか。

芥川 えゝ。北海道まで行つて來ました。靑森で里見君と別れて來ました。

長谷川 小學生全集も大變でせうね。[やぶちゃん注:「小學生全集」サイト「古本 海ねこ」のこちら(初級用。上級用はこちら)に写真入りで詳しい解説がある。それを見ると、龍之介の死の翌年の刊であるが、「小學生全集初級用 第十六卷 日本文藝童話集・下」に龍之介「杜子春」が収録されてある。]

芥川 あれは菊池の仕事ですよ。僕はそれを助けてゐるに過ぎないのです。

長谷川 菊池さんは創作を書かれませんね。

芥川 さうですね。事業家になつたんです。

式場 大變御邪魔をしました。ではこれで失禮します。(昭和二年五月廿四日夕 篠田旅館にて)

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が二字下げ。最後の署名は「長谷川」と「式場」の合成かも知れない。]

(附記。速記した譯ではなく、あとで記憶をたどつて書いたので間違つてゐる所もあると思ひます。芥川氏並びに出席された方の御寬恕を乞ふ次第です。――H・S生記)

 

2021/01/22

奥州ばなし 狐火

 

     狐 火

 

 七月半頃、年魚《あゆ》しきりにとらるゝ時、夕方より、雨、いとまなくふりければ、

「こよひは、川主《かはぬし》も魚とりには出《いで》じ。いざ、徒《いたづら》ごとせばや。」

と、小性《こしやう》共《ども》兩人、云あはせて、孫澤の方へ、河つかひに行しに、狐火のおほきこと、左右の川ふちを、のぼり、下り、いくそばくてふ、數もしれざりしとぞ。

『此《これ》、狐共等が、魚を食《くひ》たがりて。』

と、心中に惡《にく》みながら、だんだん、河をのぼるに、魚(うを)とらるゝこと、おびたゞし。

「大ふごにみてなば、やめん。」

と、いひつゝ網うつに、【川主の家の方《かた》なり。】河上にて、大かゞりをたく、影、見えたり。

 兩人、みつけて、立どまり、

「もしや、この雨にもさはらず、川主の出やしつらん。」

と、あやぶむ、あやぶむ、

「今少しにて、ふごにも、みちなん。」

とて、魚をとりつゝ、くらき夜(よ)なれば、

『河中までは、かゞり火には、てらされじ。』

と思ゐしに[やぶちゃん注:ママ。]、かゞり火のもとより、人、獨(ひとり)、たいまつを照して、川におり來りたり。

 「夜ともし」の躰《てい》なり。【「夜ともし」とは、よる、川中へかゞりをふりて、魚をとるなり。】

『すはや。』

と、心、さわぎしかど、

『あなたは一人、こなたは二人なれば、見とがめられても、いかゞしても、のがれん。』

と、心をしづめて、見ゐたりしに、【河右衞門がいふ。】

「あれは、人には、あらじ。持《もち》たる松の火の、上にのみ、あがりて、下におつる物、なし。化物のせうなり。」

と、見あらはしたり。

 いま一人も、此ことに心づきて、よく見しに、實《げ》に、火のさまのあやしかりしかば、兩人、川中にたちて、おどろかで有しかば、一間ばかりまぢかく來りて、立《たち》ゐしが、

『ばかしそこねし。』

とや思ひつらん、人形《ひとがた》は、

「はた」

と消《きえ》て、あかしばかり、中《ちゆう》をとびて、岡へ、上りたり。

「まさしく狐の化《ばか》したるを、近く見しこと、はじめてなり。」

と語《かたり》き。

 この見あらはせしは、梅津河右衞門と云ものなりし。

 眞夜に、ひとり、川をつかひて、更に、ものにおどろかぬものなりし。

 

[やぶちゃん注:「川主」恐らくは現在のアユの漁業権や漁期規定と同じで、特定の流域・特定の時期は、川漁をする漁師が限定的に決められていたものであろう。

「徒《いたづら》ごと」暇潰しの意で「つれづれごと」とも読めなくもないが、ここは川主の目を盗んでという前振りから、かく読んでおいた。

「孫澤」宮城県加美郡加美町(かみまち)孫沢か(グーグル・マップ・データ)。田川という川の左岸であるが、すぐ下流で鳴瀬川に合流しており、この鳴瀬川ではアユが獲れることが確認出来たし、この孫沢には、北部分に大きな「孫沢溜池」(但し、これは小さな灌漑専用のダムで昭和一二(一九三七)年の竣工である)があり、附近には、ここからも含めて、南に下る小流れが、三本ほど、現認出来る。

「河つかひ」ちょっと聴いたことがないが、プライベートな川漁のことであろう。

に行しに、狐火のおほきこと、左右の川ふちを、のぼり、下り、いくそばくてふ、數もしれざりしとぞ。

「魚(うを)とらるゝこと」やや使い方がおかしく感ずるが、「らる」は可能で、意想外に多く獲ることが出来たというニュアンスであろう。

「ふご」「畚」。ここは釣った魚を入れる魚籠(びく)のこと。「大」とあるから、竹で編んだものかも知れない。

「川主の家の方なり」そこの川主の家の近くで、明確にその主人専用の漁場にまで侵入していたのである。

「夜ともし」鵜飼を考えれば、納得が行く。長良川上流の郡上市美並町や中流の美濃市で今も行われている「夜網漁」がある。夜の川に網を張っておいて、舟上の篝火の明るさと、櫂を使って舟縁(ふなべり)や川面を叩く音で、鮎を網へ追い立てる、昔ながらの漁法である。また、海辺・河口附近での漁であるが、千葉の稲毛海岸の干潟での「夜灯(よとぼ)し漁」が知られる。夜の干潟や刈田で、海老・蟹・鯊・鰈・泥鰌などを概ね新月の時に灯りをつけて獲る伝統漁法である。

「化物のせう」「せう」は「性(しやう)」であろう。火の性質が通常の物理的な現象としてはあり得ない様態であることから、魔性の妖火と見切った(最後の「見あらはせし」がそれ)のである。この河右衛門の言葉を魔性の「もの」は聴き、その「言上げ」によって自身の正体がバレた故に、退散せざるを得なかったのである。このセオリーは本邦の民俗社会に於ける古くからの呪的システムなのである。但し、言っておくと、標題や話の中での彼らが見た妖火を「狐火」と呼んでいる結果として、読者は誘導されているのであって、「人」ではないことがバレたのであって、その物の怪が果たして真に狐であったかどうかは、定かではないわけである。

「兩人、川中にたちて、おどろかで有しかば」ここは特異点の用法で、「驚かなった」のではない(最後の「ものにおどろかぬものなりし」は今の「驚く」と同じでよろしいのだが)。この「おどろく」は「気がつく」の意。闇の中で、しかも安定の悪い川の中に立っていたために、距離感をちゃんと感ずることが出来ず、気づかないうちに、ごく近く(「一間」=一・八一メートル)まで人影が近づいてくるのに気づけなかったというのである。或いは、火と人影は実は別々にあったのかも知れない。大きな松明(たいまつ)のような火を、見た瞬間に人間が手にもって掲げて持っている松明と誤認して刷り込んでしまったとすれば、別にごく近くまできていた人影様(よう)のものに気づかないとしても、さらに不自然ではない。しかもそれは人ではなく化生(けしょう)の「あやかし」であったのだから、なおさらである。

「あかし」「灯(あかし)」。ここはその怪火。

「岡」川の岸の意味で「陸(をか)」ともとれるが、ここは川岸近くの有意に高さのある「岡」ととった方が、怪奇のクライマックスとして効果的である。]

南方熊楠「小兒と魔除」(オリジナル電子化注一括縦書ルビ化PDF版)公開

「南方隨筆」の「小兒と魔除」のオリジナル電子化注一括縦書ルビ化PDF版(3.82MB・91頁)「心朽窩旧館」に公開した。

2021/01/21

怪談登志男 八、亡魂の舞踏

 

   八、亡魂の舞踏

 玉華子(ぎよくくはし)が「江戶鹿子(かのこ)」を見るに、鐡砲洲・つく田嶋・八左衞門殿嶋・西本願寺の邊は、江都の東南、海邊の致景、雨の夜は苫(とも)覆ふ舩に湘瀟(しやうせしやう)[やぶちゃん注:底本は「潮滿」であるが、原本で判読したものを採った。]の景を思ひ、なみ靜(しづか)なる遠浦(とほうら)に安房・上總の歸帆を詠[やぶちゃん注:「ながめ」。]、秋の夕は、入日の、浪の底にうつる、洞庭の磯うつ潮に鬱氣(うつき)を洗、俗塵をへだてたる境地なり。

 此邊に、棟(むね)門高き弓馬の家、岩崎氏とて隱なき人、致仕(ちし)して、閑(かん)をたのしみ、齡(よはい)すでに古稀におよべど、甚、堅固の老人にて、常に謠をすき、仕舞(しまい)を好み、坐臥徑行(けいかう)、獨、唱(うた)ひ、夜、高歌して、謠(うたい)罷(やん)で後、睡(ねふり)を甘(あまん)じて、又、夢中にあつても[やぶちゃん注:底本は「向ても」であるが、原本で判読した。]、うたふ。日用、都(すべ)て、是、謠裏(ようり)にあり、かゝるすき人も、又、世にたぐひ、すくなかりける。

 すでに、夕陽(せきやう)、西にうつり、鐘の聲、かすかに、物すごきゆうべ、じやくまくたる隱居の柴の戶に音づるゝ聲は、小網町に住居する彥兵衞といふ町人なり。

 是は、岩崎翁の若き頃より、出入して、月にも花にも、友なひ、語らひ、しかも、謠(うたい)・舞(まい)、達者(たつしや)にて、心をへだてず、是も、其年、耳順(じじゆん)[やぶちゃん注:数え六十。]に越へつれど、共に、一曲をかなで、樂みけるが、いかゞしたりけん、此程、久しく打絕て、來らず。

『かねて、京都へあつらへたりし舞扇(まいあふぎ)も、出來つらんか。』

と、ゆかしかりしに、

「よくこそ來りける。」

と、手づから、扉をひらき、まねきいれて、

「いかにや、久しく尋こざりし。一別以來、一日千秋のごとし。」

と、手を取て、安否を問(とい)れければ、彥兵衞も、

「久々、御目見も不ㇾ仕候處、先、以、御堅勝の躰を見奉、恐悅仕候。されば、春の頃、御賴あそばしつる扇の事、心ならず、道中の間違(ちがひ)にて、疾(とく)、出來(でき)ては、さふらひしが、幾(いく)たびか、江戶へ下しては、京へ歸り、今迄、遲參(ちさん)におよび、御用事、疎畧(そりやく)に致したる樣にて、千萬、氣の毒に奉ㇾ存候。若き時より、老の今迄、御憐(あはれみ)下され候御恩(おん)にそぶき、其苦しき病より、猶、切(せつ)なかりし處に、今日、京都の荷物、到着、御あつらへの御扇、是を持參し、長々、積る物がたり、御慰(なぐさみ)に申上、且は、御詫(わび)の爲ながらと、日はくれかゝり候へども、只今、參上仕候。」

と、いと恐れ入たるさま、日ごろの活氣と、打て、かへたり。

「さて、堅(かた)過たり、氣づまりかな。夫程に詫(わぶ)る事にてもなし。此程の噂には、病氣のよし、聞へしが、先(まづ)、無事なるぞ、うれしけれ。久々にての一會、あつらへの扇、好(このみ)より、彌(いや)增(まさ)りて、模樣も一入(ひとしほ)の出來。満足々々。」

と、表より、若侍共、呼あつめ、酒宴、刻をうつし、主(あるじ)、

「いで、一さし。」

と、

〽水に近き樓臺(らうだい)は 先(まづ)月を得るなり 陽(やう)にむかへる花は木[やぶちゃん注:「花木」は「くはぼく(かぼく)」と読む。]

と、たちまふ袖も、こよひの月も、主(あるじ)の髮(かみ)も、客(きやく)のあたまも、皆、白妙(しろたへ)に、氷のころも、霜のはかま、まだ、あしもとも、よはからず。

 彥兵衞も、

「久々にて、御前(ごぜん)の仕舞(しまい)、拜見いたし候。はゞかりながら、拙者も御扇出來の御祝儀なれば、其曲(くせ)の次(つぎ)、切(きり)へかけて、舞納(をさむ)べし。」

と、是も、

〽ばせをのは 袖を返し ひらく扇の 風ばうばうと 物すごき夜の にはのあさぢふ おもかげうつろう 露もきへしか ぱせをば破(やぶれ)れて

殘るは、主人(あるじ)と、酌(しやく)取(とり)し若侍・小坊主ばかり。

「こは、ふしぎや。」

と障子を明(あけ)、椽側(えんがは)より、庭の隅々(すみずみ)、隈々(くまぐま)をさがせど、彥兵衞の影も形もあらばこそ、表にも、此ふしぎを聞て、上下、ひしめきあひ、

「狐などの入來りしならんか。若もの共、心得よ。」

と、用心きびしく、くまぐま、狩(かり)たつる程に、夜も、あけぬ。

 家中の上下、

「宵の怪しみ、心得がたき。」

と語り居たる折ふし、若き町人、來りて、

「拙者儀は、小網町彥兵衞がせがれ、藤七と申もの。此間、彥兵衞、病氣ゆへ、久々參上不ㇾ仕、兼て被仰付候御扇、漸(やうやう)、出來仕候間、持參いたし候。」

と、扇を、さし出せば、取次の侍も不審ながら、主人に、此よし、披露しけるに、主(あるじ)も大きに驚き給ひ、

「扇は、昨夜、見し所に、たがはず。宵の扇、いづくにかある。」

尋ぬれど、さらに、なし。

 主、

「扨は。」

と、藤七を近くまねき、過し夜、彥兵衞が來りし有增(あらまし)を語り給へば、藤七、泪(なみだ)を、

「はらはら」

と流して、

「今は、つゝむべくもなし。有躰(ありてい)に申上侍らん。父彥兵衞は、久々、病氣にてさふらひしが、次第に重(おも)り、昨日、身まかり侍り。すでに末期(まつご)にいたる時、京都より、荷物、到着、御扇出來の書狀。日ごろ、たゞ、此御用の延引(えんいん)に罷成候を、朝暮、苦勞仕候處、いまはの際(きは)に『御扇出來』と聞(きく)とひとしく、起直(おきなを)り、御扇を拜見し、逐一、吟味をとげ、にこにこと、打ゑみ、『我、死したりとも、まづ、佛事・供養をさし置(おき)、是を持參し、此通り、殿樣へ申上、平生(へいぜい)、等閑(なをざり)に打捨置(うちすておき)はいたさねど、折ふし、間違・延引の段、くれぐれ申て、得さすべし。是、第一の供養にて、我も佛果(ぶつくは)に至るべし。』と申聞て、昨日、暮時、相果(はて)候。親が遺言(ゆいごん)、默(もだ)し難(がた)く候へば、持參は仕ながら、忌(いみ)ある身の憚(はゞか)りもなく、御屋敷へ推參(すいさん)の段、重々(じうじう)、恐れ入候。」

と、平伏(へいふく)したり。

 岩崎殿、これを聞て、落淚(らくるい)、とゞめかねて、

「扨々。不便(びん)の心入。其一念、たちまち、幻に顯(あらは)れ來りしか。昨夜、酒くみかはし、一さしの舞、あはれ、今は、形(かた)見となりけるよな。若きより、今、此老の身にいたりても、「友鶴(ともつる)」、とたのしみてありしを、片翅(かたつばさ)なる老鶴(おいつる)の、何をか、たのしみとせん。」

と、藤七に、金(こがね)・白銀(しろがね)、取出しあたへて、迫善の料(りやう)に得させ、

「藤七も、永く、出入せよ。」

と、あつく憐(あはれ)み、父が在世にかはらず、勤けるよし。

 彥兵衞が實儀、誠に世の人の鑑(かゞみ)なり。

 人は皆、信義あつきこそ、「人の人」といふべし。

 いつはり、かざれるべんぜつもの、りかう・さいかくはありとも、人の道には、あらじかし。

 

[やぶちゃん注:本作中の傑作の一つとして私は推す。江戸の風情をロケーションとして、致仕隠居した老武士岩崎と商人と思われる彦兵衛との分け隔てなき親交を描き、そこに謡曲の複式無限能の世界を以って、亡魂の来たって舞うシークエンスは、まっこと、味わい深い。雰囲気を壊さぬよう、今回は特異的に原本の読みの一部の清音表記に濁点を打ってあり、謡曲の章詞にも「〽」を用いた。また、漢文表記箇所も孰れも平易なものばかりなので、五月蠅い訓読文は附さなかった(原本には返り点さえない)。訓読なお、上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年)の傑作「菊花の約(ちぎり)」と似ていると思われる方もいようが、言っておくが、本作は寛延三(一七五〇)年板行で、二十六年も前の作品である。

『玉華子(ぎよくくはし)が「江戶鹿子(かのこ)」』江戸前期の貞享四(一六八七)年十一月に板行された藤田利兵衛(事績不詳)作の江戸地誌「江戸鹿子」を奥村玉華子なる人物が寛延四(一七五一)年に改訂増補した「再板增補 江戶惣鹿子名所大全」のこと。編者の奥村玉華子の事蹟も不詳であるが、ウィキの「江戸鹿子」によれば、『医術や宗教への深い造詣が伺え、それらの職業に携わっていたとも考えられる』とある。

「鐡砲洲」現在の隅田川右岸の中央区湊附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。鉄砲洲稲荷や「鉄砲洲通り」などの名を確認出来る。「江戸名所図会」の「銕炮洲」の項には、『銕炮洲 南北ヘ凡八町ばかりもあるべし。傳云(つたへいふ)、寛永[やぶちゃん注:一六二四年~一六四四年。]の頃、井上・稲冨等(ら)大筒(おほづゝ)の町見(ちやうけん)を試し所なりと。或(あるひは)、此出洲(です)の形状、其器(き)に似たる故の号なりともいへり』(以下略)とある。

「つく田嶋」東京都中央区佃(つくだ)。隅田川河口の二つの中州であった石川島と佃島(現在は月島とともに一体化しているが、思うに、推定される隅田川の河口変遷からみて、元はごく小さな石川島が原河口に形成された最初の洲らしく、そこから南西方向に佃島が形成されたようである)とから発展した街。現在は埋立地の拡大により、隅田川河口は約三キロメートル南西に移動している。現在の佃地区の北が旧「石川島」で「森島」「鎧(よろい)島」などとも称された。その南隣りが旧中州としての本来の「佃島」であった。

「八左衞門殿嶋」辞書を見ると、前の石川島の異名とされるが、どうも気になるので別な辞書を見ると、寛永年間(一六二四年~一六四四年)に、この砂州である原石川島が江戸幕府船手頭石川八左衛門重次の所領となって、「石川島」と呼ばれ、別名「八左衛門(殿)島」とも呼ばれたことが判り、さらに、寛政二(一七九〇)年、老中松平定信が火付盗賊改の、かの長谷川平蔵に命じて、この島を埋め立てさせ、南西方向に拡張し、そこの「人足寄場」を建設させたという記載を見出した。ところが、別に調べると、この人足置場は石川島と佃島の間にある「鉄砲洲向島」(鉄砲洲の向かいにある島の意)に設置したとする記載に出くわす。そこで別な切絵図を見てみると、確かに、石川島はまず、北西方向で切れ込みがあって、そこから南部分が人足置場となっており、しかも、そのまた南西には、細い運河状の切れがあって島としては分れて、二つの島となっており(小橋で繋がれてはいる)、そこには漁師町屋が並んでいるのである。因みに、「人足置場」は、よく時代劇に出るが、「寄場(よせば)」とも呼ばれ、無宿者に手業(てわざ)を習得させる目的で設けられた隔離施設で、後には追放者なども収容されて自由刑の執行場所としての機能も果たしたものである。

「湘瀟(しやうしやう)」中国で、洞庭湖及びそこに流入する瀟水(しょうすい)と湘江の合流する周辺を古くより「瀟湘八景」と呼び、風光絶佳とされ、山水画の伝統的な画題とされた。私はその反転字と採った。底本の「潮滿」(左ページ上段二行目)なら、「潮汐」の意でそれらしく意味もとれなくもないが、原本は御覧の通り(左頁三行目)、「潮」よりは「湘」により近いし、そもそもがルビが「しやう」に踊り字「〱」であることが判然とするのである。だいたいからして、ここに「瀟湘」と出してこそ、直後の「洞庭の磯うつ潮」の比喩が生きてくるのである(ここで「瀟湘」「洞庭」を江戸の海景の比喩に持ち出すのに違和感があるかも知れない。しかし、だったら、「金沢八景」「湘南」などという地名がそれに基づくのはもっと滑稽で場違いな謂いとなる。いや、ここで筆者が敢えて「瀟湘」「洞庭」を出したのは確信犯なのだ。後で注で示すが、本篇で重要な役割を成す謡曲「芭蕉」の舞台はまさに楚の国の「小水」(水の少しあるの意の地名)であり、そこの山中に住む僧こそがワキ僧なのである。さればこそ、この「小水」は「湘水」或いは「瀟水」に直ちに響き合うのだ。則ち、既にしてこの何気ない前振り自体が、綿密な伏線として機能しているということなのである)。写本の誤りかも知れぬが、もし誤判読とすれば、底本「德川文藝類聚」の本作の校訂者は無粋と言わざるを得ぬ。なお、最後に言っておくと、「湘瀟」の文字列の正しい歴史的仮名遣は「しやうせう」である。

「徑行(けいかう)」思うとおりにしたいことをすること。直情径行。

「夢中にあつても」本文で示した通り、底本では「向ても」であるが(左ページ上段九行目)、そもそもが「夢中に向(むかひ)ても」という言い方はこなれていない。原本はここ(右頁一行目)。失礼ながら、同前で不審極まりないのである。

「日用、都(すべ)て、是、謠裏(ようり)にあり」日々の如何なる瞬間も、総て、これ、謡曲世界の中に生きている。

「じやくまくたる」「寂寞たる」。

「小網町」現在の日本橋小網町(こあみちょう)。同ウィキによれば、江戸『初期、慶長年間に江戸城が築城された頃には、小網町の付近は』、『日本橋川の河口洲の小さな中島であったとされ』、『八丁堀・霊岸島など、江戸の前島の埋立てが進むにつれて、日本橋川沿いの河岸の街へと姿を変えた。日本橋川に面した土地柄、水上交通の面で重要な場所として発展した町で』、『江戸に入ってくる米を扱う商店・問屋があったほか、行徳で産生する塩の扱いが多かった』とある。

「好(このみ)より」私はこれで一単語として採った。趣向。作りの風雅。

「表より、若侍共、呼あつめ」屋敷表に岩崎に従う家来がいるのである。屋敷内に長屋を作って住んでいるのであろう。されば、この岩崎氏は旗本ではないかと私は推測している。

「水に近き樓臺(らうだい)は 先(まづ)月を得るなり 陽(やう)にむかへる花木は」世阿弥の娘婿となった金春善竹作の謡曲「芭蕉」の終わりの方に現われる章詞。同曲のシテは「芭蕉の精」。唐土(もろこし)楚国の水辺に修行のために隠居するワキ僧のもとに、年たけた女性(前ジテ)が来って、仏縁に結ばれんことを願うによって、読経の聴聞を許す。女は、「法華経の経文によれば、草木も成仏できることが頼もしい」と喜び、「実は自分は庭の芭蕉の仮りの姿である」と言って、消え失せる。深夜になると、芭蕉の精(後ジテ)が現われ、「非情の草木も、まことは、無相真如の顕現にして、仏教の哲理を示して世の無常を現しているのだ」と言い(クセ:能の構成単元の一つで、一曲の核となる重要な部分を指す。地謡と大鼓・小鼓とのリズムの微妙さに狙いがある)、しみじみとした舞を舞って見せるが(序ノ舞)、やがて再び姿を消すというストーリーである。小原隆夫のサイト内の『宝生流謡曲「芭蕉」』が詞章が示されてあってよい。岩崎の舞って謡う部分は、そのクセの一節であるが、一気に最後まで示しておく。「新潮日本古典文学集成」の「謡曲集 下」を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化した。

   *

クセ

地〽水に近き樓臺は まづ月を得るなり 陽に向かへる花木はまた 春に逢ふ事易きなる その理(ことわり)もさまざまの 實(げ)に目の前に面白やな 春過ぎ夏闌(た)け 秋來(く)る風の音づれは 庭の荻原(をぎはら)まづそよぎ そよかかる秋と知らすなり 身は古寺(ふるてら)の軒(のき)の草 しのぶとすれど古も(いにしへ)の 花はあらしの音にのみ 芭蕉葉(ばせうば)の 脆(もろ)くも落つる露の身は 置き所なき蟲の音(ね)の 蓬(よもぎ)がもとの心の 秋とてもなどか變らん

シテ〽よしや思へば定めなき

地〽世は芭蕉葉の夢の中(うち)に 牡鹿(をしか)の鳴く音(ね)は聞きながら 驚きあへぬ人心 思ひ入るさの山はあれど ただ月ひとり伴なひ 慣れぬる秋の風の音(おと) 起き臥し茂き小笹原(おざさはら) しのに物思ひ立ち舞ふ 袖(そで)暫(しば)しいざや返(かへ)さん

シテ〽今宵は月も白妙の

地〽氷の衣(ころも)霜の袴(はかま)

《序ノ舞》

ワカ[やぶちゃん注:舞の直後に謡われ、呼称は五七五七七の和歌の形をしているのものを正格とすることに拠る。但し、そうでないものも多い。]

シテ〽霜の經(たち) 露の緯(ぬき)こそ弱からし

地〽草の袂も

ノリ地[やぶちゃん注:拍子をしっかりと意識しなければならない謡部分を指す語。]

シテ〽久方の

地〽久方の 天つ少女(をとめ)の羽衣(はごろも)なれや

シテ〽これも芭蕉の 羽袖をかへし

地〽かへす袂も 芭蕉の扇(おほぎ)の 風(かぜ)茫々(ばうばう)と 物すごき古寺の 庭の淺茅生(あさぢう) 女郞花(をみなへし)刈萓(かるかや) 面影うつろふ 露の間に 山颪(おろし)松の風 吹き拂ひ吹き拂ひ 花も千草(ちぐさ)も 散りぢりになれば 芭蕉は破れて 殘りけり

   *

「白妙(しろたへ)に、氷のころも、霜のはかま」前注で示した詞章を掛けたもので、月の光に冴える白い衣の清冽な表現である。

「ばせをのは 袖を返し ひらく扇の 風ばうばうと 物すごき夜の にはのあさぢふ おもかげうつろう 露もきへしか ぱせをば破(やぶれ)れて」前に示した「序の舞」のものとは、かなり変則的に異なっている。「芭蕉」は五流にあり、或いは詞章に違いがあるのかも知れぬが、亡魂の舞と扇綺譚を考えれば、寧ろ、オリジナルに変えて(特に最後の部分の断ち切り)、効果を狙ったと考えてよい。

「小坊主」小姓。年少の家来。

「こは、ふしぎや。」

「上下」私は読みがないものは「かみしも」と読むことにしている。

「狩(かり)たつる程に」ここそこを厳しく探索し尽くすうちに。]

2021/01/20

奥州ばなし 四倉龍燈 / 龍燈のこと (二篇)

 

[やぶちゃん注:今回は、同じ怪火「龍燈」(日本各地に広く伝わるかなりメジャーな怪火現象。概ね、海中より出現し、海上に浮かんだ後、幾つもの火が連なったり、海岸の木などにとまるなどとされる。龍神の棲み家とされる海や河川の淵から現れることが多く、「龍神が灯す火」として「龍燈」と呼ばれ、時に神聖視もされていた。枚挙に暇がないが、「諸國里人談卷之三」がよかろうか。「橋立龍」「嗟跎龍燈」「野上龍燈」「光明寺龍燈」がある。また、「三州奇談續編卷之七 朝日の石玉」「三州奇談續編卷之八 唐島の異觀」も見れたい)を扱っているだけでなく、二篇目は一篇目に対する真葛の考証であるから、続けて示すこととする。]

 

     四倉龍燈

 

 橋本正左衞門、りうが崎の役人をつとめしころ、少々、上《かみ》の用金を𢌞《まは》し、旅行のこと有しに、東通りの道中にて四倉《よつくら》と云所に着《つき》、人步《にんぷ》[やぶちゃん注:古くは「にんぶ」。公役に徴用された人民。夫役(ぶやく)を課された人民。]を、つぎかへしに、滯《とどこほり》て、出《いで》ず。

「このあたり、物さわがしきこと、有《あり》。」

と聞《きき》て、

「一寸も早く、此宿を行《ゆき》ぬけん。」

と、いらだちて催促せしに、日も暮《くれ》かゝりしを、

「いそぎの用事。」

と、いひたて、夜通しに人步を云《いひ》つけしかば、駕人足《かごにんそく》ばかり出《いで》たりしを、正左衞門、駕にて先へ行、養子八弥に目くばせして、用金入《いり》たる物を、さあらぬていにて殘し置、

「少しも早く、追付《おつつけ》、來《きた》れ。」

と云付て立《たち》たりしに、八弥、其とし、十八才なりし、大事の荷物、あづかり、心づかひ、いふばかりなし。宿にては、

「物さわがしきをりふし、夜通しに荷𢌞《にまは》しは、しごく、あやうし。ひらに、一宿有《あり》て、明日早く、出立《しゆつたつ》あれかし。おそれて、人步も出がたし。」

といはれて、いよいよ、氣もまどへど、

「よし。途中にて、こと有《ある》とも、おめおめ、おぢ恐れて一宿しては、養父に云譯なし。」

と、心をはりて、荷物に腰をかけて、人步を、ひたすらに、せつきしに[やぶちゃん注:せっついたところが。]、四《よつ》頃[やぶちゃん注:午後十時頃。]に、漸《やうやう》出し馬方《むまかた》は、十二、三の小女《こをんな》兩人なりし。

『まさか。時は、足手まとひぞ。』

と思ふには、有《あり》かひもなく、心ぼそけれど、

「是非にをよばず。」[やぶちゃん注:ママ。]

引立行《ひつたてゆき》しに、

「その『物さわがしき』と云《いふ》は、今、行《ゆき》かゝる海邊。うしろは、黑岩《くろいは》そびへたる大山《おほやま》、前は大海《おほうみ》にて、人家たえたる中程の岩穴に、盜賊、兩三人、かくれゐて、晝だにも、壱人旅《ひとりたび》のものをとらへ、衣類・身の𢌞りをはぎとりて、骸(から)を海になげ入《いれ》しほどに、人通り絕《たえ》しをりにぞ有《あり》し。」

と、馬子《まご》共のかたるを聞《きき》て、いよいよ、心もこゝろならぬに、はるか遠き海中より、さしわたし壱尺餘りなる、火の玉の如き光、あらはれ、くらき夜なるに、足本《あしもと》の小貝《こがひ》まで、あらはに見えたり。

「はつ」

と、おどろき、

「あれは、何《なん》ぞ。」

と、馬子にとへば、

「こゝは龍燈(りゆうとう)のあがる所と申《まうし》ますから、大方、それでござりませう。」

と、こたへて、はじめて見し、ていなり。

 ことわりや、十二、三の小女《こむすめ》、いかで、深夜に、かゝる荒磯《あらいそ》をこすべき。

 八弥も、

『おそろし。』

とは思ひつれど、さらぬだに、三人の小女[やぶちゃん注:底本では「三」の右にママ注記。]、ふるふ、ふるふ、馬、引ゆくを、

『おぢさせじ。』

と、氣丈にかまへて、ひかせ行、

「盜人《ぬすびと》の住《すむ》と云《いふ》、岩穴ちかく成《なり》たらば、聞《きか》せよ。」

と、いひ置しに、小聲にて、

「此あたりぞ。」

と、つげしかば、

「何ものにもあれ、出來《いでき》たらば、たゞ一打《ひとうち》に切《きり》さげん。」

と、鍔(つば)もとを、くつろげて、心をくばり行過《ゆきすぐ》るに、小女、云《いふ》、

「こよひは、留守でござりませう。あかりが見えませぬ。」

と云しかども、

「留守と見せても、ふと、出くるや。」

と、油斷せざりしが、盜人の運や、つよかりけん、かしらも、きられざりき。

 海中の光は、三度《みたび》迄見たりしとぞ。

 八半過《やつはんすぎ》[やぶちゃん注:午前三時過ぎ。]に、先の宿にいたりしに、正左衞門は、用金、殘して、若き者に預置《あづけおき》、

「ものさわがし。」

と聞て、いねもやられず、門に立《たち》てまちゐしが、遠く來りし影を見るより、

「やれ、八弥、不難《ぶなん》にて來りしか。よしなき夜通しして、大苦《だいく》をまうけしぞや。」

とて、悅《よろこび》しとぞ。

 

[やぶちゃん注:この話、仙台での話ではないので注意されたい。

「四倉」旧福島県石城郡四倉町(よつくらまち)。現在は福島県いわき市四倉町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当時は磐城平藩領かと思われる。

「橋本正左衞門」「養子八弥」ともに、最早、本書ではお馴染みの藩士とその養子である。

「りうが崎の役人」常陸国河内郡龍ヶ崎村、現在の茨城県龍ケ崎市にあった仙台藩常陸国龍ケ崎領の仙台藩龍ヶ崎陣屋の代官附きの役人であろう。初代藩主伊達政宗は、慶長一一(一六〇六)年三月に徳川幕府の代官から、常陸国河内郡(現在の龍ケ崎市と茨城県稲敷市の一部)内と信太郡(現在の茨城県稲敷郡)内の二十六ヶ村(一万石余り)を与えられて、仙台藩常陸国龍ケ崎領が生れた。現在の龍ケ崎市の大半が含まれ、龍ケ崎村に陣屋を構えて代官を置き、常陸国における仙台領支配の中心地として、また、江戸との物流の中継地としたため、龍ケ崎は繁栄した。

「上《かみ》の用金を𢌞《まは》し」藩の御用金の輸送のようである。

「東通り」福島県東部の太平洋側沿岸の南北の広域地域を指す「浜通り」のことであろう。こうした呼び方は今はないと思うが、方位的には腑には落ちる。

「つぎかへしに」「継ぎ變しに」。そこまで雇った馬方人足と駕籠人足を次ぎ替えようとしたところ。

「夜通し」夜間運行。

「荷𢌞し」馬方による荷物運送。

「その『物さわがしき』と云は、今、行かゝる海邊。うしろは、黑岩そびへたる大山、前は大海にて」地図を見るに、四倉から北へ向かう岬を回り込むルート(この道中がその方向であったかどうかは判らぬが)は、このロケーションに「バッチ・グー!」(グーグル・マップ・データ航空写真)で、「蟹洗の磯」から「鷹ノ巣」という地名の岬に次いで「波立(はったち)海岸」ときた日にゃ、ここでなくてどうしますか!?! てぇんだ!

「骸(から)」言わずもがな、殺した旅人の遺骸の意。

「くらき夜なるに、足本《あしもと》の小貝《こがひ》まで、あらはに見えたり」さりげない描写だが、怪談のキモをしっかり押さえた大切なリアリズム・シーンである。

「かしらも、きられざりき」先に八弥は「一刀のもとに斬り下げてやる!」と生きこんでいたから、「かしら」は盗賊らの頭部の意である。

「先の宿」北上が正しいルートなら、時間と距離から見て、福島県双葉郡広野町辺りか。]

 

 

    龍燈のこと

 

 海の漁をするものゝはなしに、世に「龍燈」と云ふらす物、實は、火にあらず、至《いたつ》て、こまかなる羽蟲《はむし》の、身に螢の如く光《ひかり》有《ある》ものゝ、多く集《あつま》れば、何となく、ほのほ[やぶちゃん注:「炎」。]の如く見なさるゝものなり。

 夏の末、秋にかゝりて、ことに、おほし。時有《ときあり》て、おほく、まとまりて、高き木のうら[やぶちゃん注:「末(うら)」で「うれ」とも言い、梢(こずえ)のこと。]、又は、堂の軒端などにかゝるを、火の如く見ゆる故、人、「龍燈」と名付しものなり。

 筑紫の「しらぬ火《ひ》」も、是なり。

 水上に生《うまる》る蟲にて、螢の類《たぐひ》なり。沖に舟をかけて、しづまりをれば、まぢかくも、つどひくれど、息、ふきかくれば、たちまち散《ちり》て、見えずなるなり。

 されば、「かならず、此日には、龍燈、あがる」といふ夜も、大風、吹《ふき》、又は、雨ふりなどすれば、「あがらず」と聞《きく》を、此夜、四倉にて見し光は、是とは異なり、いづれ、ふしぎの光にぞ有し。【解云、この說、極めて、よし。ためして見つるにはあらねど、ことわり、さあるべくおぼゆるかし。】

 

[やぶちゃん注:羽虫というのは正体説として全く現実的でないが(蛍以外に、そのような発光生態を持つ「昆虫」は本邦には棲息しない。下界の人工光の反射現象は問題外として、ある種の発光バクテリアを附着させた鳥や昆虫が飛翔して光る可能性は否定は出来ないが、そうした事例を実際に現認したことなければ、そうした科学的事実を立証したデータを見たこともない)、所謂、球電などの物理現象としては、理論上は成立する(実際に私自身は説明不能の火球現象を見たことはない)。ただ、真葛の言い添えている「沖に舟をかけて、しづまりをれば、まぢかくも、つどひくれど、息、ふきかくれば、たちまち散て、見えずなるなり」というのは、実態を正確に述べているとは言えないものの、ホタル類とと同じルシフェリン-ルシフェラーゼ反応(Luciferin-luciferase reaction)で発光するウミホタル(節足動物門甲殻亜門顎脚綱貝虫亜綱ミオドコパ上目 Myodocopa ミオドコピダ目ウミホタル亜目ウミホタル科ウミホタル属ウミホタル Vargula hilgendorfii )やヤコウチュウ(アルベオラータ Alveolata 上門渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ属ヤコウチュウ Noctiluca scintillans )の発光様態と親和性を持つ内容ではある。最後に辛気臭い因果教訓を垂れたり、糞のような怪奇談種明かしもどきをして天狗になっている凡百の浮世草子怪談作家連なんぞに比べたら、真葛は遙かに優れた立派な民俗学者であるとさえ言える。]

芥川龍之介書簡抄3 / 明治四三(一九一〇)年書簡より(2) 山本喜譽司宛(龍之介描画(模写)ドストエフスキイ肖像附)

Akudosstoe0
Akudosstoe

明治四三(一九一〇)年八月五日・神奈川縣相州高座郡鵠沼村加賀本樣別莊方 山本喜穏譽宛・自筆繪葉書)

 

今日官報ニテ發表君ノ夢ノ如ク4番ニ候ヒキ西川ハ一番中原ハズーツト下ニ候上瀧ハ試驗ヲウケタ方ノ二番ニ候ヒキ

七日六時ノ汽車ニテ參ルベク悉細ハ拜晤ノ時ヲ期シ候

   匆々

5日 竜生

 

[やぶちゃん注:描画下のキャプションは「A TH DOSTOEIWSKI」。フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキイ(Фёдор Миха́йлович Достое́вский)のラテン文字転写は「Fyodor Mikhailovich Dostoevsky」であるが、フランス語表記では「Dostoïevski」となる。さても、これは芥川龍之介のオリジナル画と勘違いしている人も多いようだが、実は、龍之介が、スイスの画家で現代木版画発展に貢献したフェリックス・エドゥアール・ヴァロットンFélix Edouard Vallotton 一八六五年~一九二五年:彼はジュール・ルナールJules Renard)の「にんじん」POIL DE CAROTTE1894の挿絵でもよく知られる。リンク先は私の全挿絵入りの岸田国士訳である。因みに龍之介はルナールを偏愛しており、彼の幾つかの作品がルナールの「博物誌」(リンク先は私の岸田訳の原文附きの私の電子化注である)をインスパイアしたものであることはよく知られているが一八九五年に描いたドストエフスキイの肖像版画の模写であり、キャプションも最後の署名「FV」を除いて、そのまま写したものなのである。フランス語サイト「The Centre Pompidou」のこちらで原画を見ることが出来る。頭の「A TH.」(原画ではコンマが打たれてある)はいろいろ調べてみたが、判らずじまいであった。悪しからず。識者の御教授を乞う。「5日」は画像で判る通り、原葉書では横書。最初の画像は底本の岩波旧全集のものを、二番目のものは、所持する「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のものをトリミングした。後者の方が地塗りのタッチがよく判る(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)代わりに、下部の書信の下方が切れているので、双方を掲げた。

 既に述べたが、この日、芥川龍之介は官報で一高に無試験合格したことを知った。一方、山本喜誉司の方は、この時、同じく一高を試験受験したのだが、不合格となり、翌年に一高を再受験し、第二部乙類(農科)に合格している(その後の事蹟は既注。但し、不合格後の山本の敬意は後に述べることとする)。

「西川」親友の西川英次郎。「芥川龍之介 書簡抄1 明治四一(一九〇八)年から四二(一九〇九)年の書簡より」で既注。

「中原」中原安太郎(生没年未詳)。三中時代、明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳登攀に龍之介らと同行している(私の「槍ヶ岳紀行 芥川龍之介」を参照)。芥川とともに一高第一部甲類に入学した。芥川の「學校友だち」(大正一四(一九二五)年二月発行『中央公論』)によると、『これも中學以來の友だちなり。諢名[やぶちゃん注:「あだな」]は狸、されども顏は狸に似ず。性格にも狸と言ふ所なし。西川に伯仲する秀才なれども、世故には西川よりも通ぜるかも知れず。菊池寬の作品の――殊に「父歸る」の愛讀者。東京の法科大學を出、三井物產に入り、今は獨立の商賣人なり。實生活上にも適度のリアリズムを加へたる人道主義者。大金儲したる時には僕に別莊を買つてくれる約束なれど、未だに買つてくれぬ所を見れば、大した收入もなきものと知るべし』とある。

「上瀧」「かうたき(こうたき)」と読む。上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生。一高の第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部を卒業後、医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いた。詳しくは「芥川龍之介手帳 1-4」の私の注を参照されたい。

「七日六時ノ汽車ニテ參ルベク」この葉書を出した二日後の八月七日に午後六時の列車で鵠沼に滞在中の山本喜誉司を訪ねた後、二人で静岡方面の旅行に出かけている。この旅には不合格となった山本への龍之介の気遣いが強く感じられる。なお、龍之介は十四日に帰宅したが、帰宅してみると、九日からの豪雨によって隅田川が氾濫しており、龍之介は旅行姿のままで三中に向かい、十八日・二十日・二十二日には、三中卒業者(卒業式は三月)及び在校生による洪水罹災の救済活動に参加している。この時の様子は「水の三日」(三中『学友会雑誌』明治四十三年十一月発行に所収)に記されてある(リンク先は「青空文庫」のもの。新字新仮名)。

「悉細」「しつさい」。あまり見たことのない熟語であるが、「細かな謂いたいこと」の意。絵で書信の余白がないことからの使用であろう。

「拜晤」親しく互いに向き合って挨拶する時。孰れもちょっとした言い添えであるが、やはり不合格であった山本への労りが感じられる。ドストエフスキイの絵も、具体的にはよくは判らないが、何かそうした彼への、ともにロシア文学を愛読した龍之介流の励ましのメッセージのつもりであるように私には思われる。

2021/01/19

奥州ばなし 澤口忠大夫

 

     澤口忠大夫

 

 澤口忠大夫と云《いひ》し人も、大力なりし。【覺左衞門が養父なり。】勝《すぐれ》て氣丈もの、なりし。

 かの三十郞がのせられたる、細橫町《ほそよこちやう》の化物[やぶちゃん注:「砂三十郞」参照。]を、ためしたく思ひて有しとぞ。【十八才の時なり。】

 外《ほか》へ夜ばなしに行《ゆき》し歸りがけ、兩三人、つれも有《あり》しが、冬のことにて、八ツ時分なりし[やぶちゃん注:定時法で午前二時頃。]。雪後《せつご》、うす月の影、少し見ゆるに、細橫町を見通す所にいたりて、つれの人々にむかひ、

「我、多日、この橫町の化物を、ためしたしと思ひしが、時といひ、夜といひ、今夜を過《すぐ》すべからずと思はるれば、獨《ひとり》行て、見とゞけたし。失禮ながら、そなた方は、これより、かへり給はるべし。」

と、いとま、こひしかば、のぞみにまかせて、壱人《ひとり》やりつれど、つれの人も、物ゆかしければ、其所をさらで、遠見してゐたりしに、中頃までも、行つらん、とおもふころ、下にゐて、少し、ひまどりて、あゆみ出《いだ》せしが、又、下に、ゐたり。少し、間、有て、又、あゆみ出せしが、また、下に、ゐたり。

 さて、月影に、

「ひらり」

と、刀の光、見えし故、

「こと有つらん。」

と、足をはやめて、つれの人々、來りたり。

「いかにしつるぞ、下にゐがちなりしは。」

と問ヘば、忠大夫、曰《いはく》、

「さて、こよひのごとく、けちな目に逢しこと、なし。けさ、おろしたるがんぢきの緖の、かたしづゝ、一度に切《きれ》て、やうやう、つくろひて、はきしに【「がんぢき」は、雪中、はく、くつの名なり。】、爰にて、兩方、一度にきれし故、『つくろはん』と思《おもひ》しうち、肩にかゝりて、おすものゝ有しを、引はづして、なげ切《ぎり》にせしが、たしかに、そこの土橋の下へ入《いり》しと見たり。尋《たづね》くれよ。」

と云し故、人々、行て、みたれば、子犬ほどの大猫の、腹より、のんど迄きられて有しが、息はまだ絕《たえ》ざりしを、引出《ひきいだ》したり。

 忠大夫、頭を、おさへて、

「誰《だれ》ぞ、とゞめをさし給はれ。」

と云しを、つれの人は、うろたへて、忠大夫が手を、したゝかに、さしたりしを、忠大夫、刀を、とりかへして、とゞめさしたりし、とぞ。

 この時、きられし跡は、一生、手に殘りて有しとぞ。

「猫には、けがもせで、人に、あやめられし。」

と語《かたり》しとぞ。

 忠大夫は鐵砲の上手なり。【はき物の緖を切しは、まさしく、猫のせし、わざなるべし。いかにして切しものなるや、ふしぎのことなり。】

 

[やぶちゃん注:今まで言い添えてこなかったが、本篇「奥州ばなし」には、真葛自身の先行作品である「むかしばなし」という作品の巻五・巻六の内容と重複する話柄が多い(私は「奥州ばなし」が怪奇談に特化していて、非常に面白いと判断して先に電子化したのだが、これが終わったら、そちらの電子化注を始動するつもりである。但し、そちらは真葛が実母の思い出を妹のために書き残す目的で書き始めたものが、いろいろな聴き書きが増えて、かなりの分量になった随想であって、怪奇談集というわけではない)。この一篇もその一つで、実は、「むかしばなし」の同じ話(巻五にある)は、「柴田宵曲 妖異博物館 大猫」の注で電子化しており、柴田が平易な現代語に訳してもいるので、参照されたい。

「澤口忠大夫」上記の通りで、以下の養父とする「覺左衞門」もともに、或いは「むかしばなし」の中で人物がはっきりしてくるようになっていると思う。さらに補足しておくと、「柴田宵曲 妖異博物館 化物の寄る笛」には、この人物が再登場し、やはり私が「むかしばなし」のそれを注で電子化してあるのである。そこに福原縫殿(ふくはらぬい)という人物を挙げて、この沢口忠太夫の弟子であったとするのである。しかして、この福原縫殿(安永六(一七七七)年~天保一二(一八四一)年)は実在した陸奥仙台藩士であったことが判っている。これを以って改めて、本篇の真葛の怪奇談が総て実録であることを、今一度、再認識して戴きたいのである。

「多日」長いこと。

「ためしたし」相手にしてみたい。

「今夜を過すべからずと思はるれば」今夜のこの時は、時刻といい、天候といい、物怪(あやかし)に逢(お)うて対峙するに絶好の折りであり、この期(ご)を逃してはなるまいぞと思うによって。

「物ゆかしければ」おっかなびっくりもあるが、何となく心惹かれ、ちょいと好奇心を掻き立てられたので。

「中頃までも、行つらんとおもふころ」遠くはないけれども、沢口のいる辺りから有意に距離をおいたところ(但し、夜目には沢口が現認出来る距離である)まで来たかと思って、振り返って見はるかしたところが。

「下にゐて」距離をおいているので、沢口が何をしているかは判然としないものの、明らかに道にしゃがんでおり。

「けさ、おろしたる」今朝、おろしたばかりの新品の。

「がんぢき」「樏」「欙」「橇」などと漢字表記し、一般には「かんじき」と呼ぶ、雪の上で作業したり、歩行する際、めり込みを防いだり、滑り止めのために装着した履物。標準サイズは長さ三十二・五センチメートル、幅二十二センチメートル、重さ七百四十グラム程で、藁靴やゴム長靴の下に履く。二本の木を組合せて輪を形作り、その接合部分に「ツメ」と称するアイゼン状の滑り止めを附す。大正前期まで使用され、冬季の作業には欠かせないものであった。

「かたしづゝ」片足ずつ。

「刀をとり、かへして」私は「自分の刀を、やおら、とって、返り斬りにして」の意でとる。誤って刺した男の刀とすると、勇猛な武士としては、ちょっと不審だからである。]

芥川龍之介書簡抄2 / 明治四三(一九一〇)年書簡より(1)山本喜譽司宛2通

 

明治四三(一九一〇)年四月・芝発信・山本喜譽司宛

 

Dear Sir

とうとう英文科にきめちやつたもう動かないつもりだ

文科の志望者は年々少くなつて今では一高が辛うじて定員だけもしくは定員を少し超過する位で地方には殆ど定員だけの志望者がないといふ、これと同じ運命にあるのが理科だ相だ[やぶちゃん注:「さうだ」。当て漢字。]

何處迄所謂 lndustrial になるンだかわからない農科は近來秀才を吸收する新傾向を生じた相だ其一人が君なンだよ、

大に得意になつていゝ

音樂がきゝたくなつた大へんきゝたくなつた今目日も靑年會館に音樂會がある行きたいなと思つたけれどやめにした、

一寸變な氣がして思切つて出掛る勇氣がない、何時かもつときゝたくなつたら君に賴むから一緖に行つてくれ給ヘ

獨ぢや何年たつたつて行けつこはない

勉强してるだらうね僕は矢張やれさうもないタイイスだけは讀ンでる

來られたら來ないか義理でいやいや來たンぢやアいやだ來てもかたくなつて遠慮しちやアいやだ遠慮しなくつても來てすぐ歸るやうに忙しいンぢやアいやだ

中々來かたが六づかしいンだよ大門行へのつて宇田川町で降りる(新橋――源助町――露月町――宇田川町)降りて少し先へ行くと道具屋と湯屋との間に狹い橫町があつて湯屋の黑い羽目に耕牧舍の廣告がある其橫町を向うへぬけると廣い往來へ出るさうすると直[やぶちゃん注:「すぐ」。]耕牧舍の看板がある狹い橫町があるからそれをはいると右側に[やぶちゃん注:ここに以下の看板の図。底本の岩波旧全集からトリミングした。改行して示すが、原本文は前後が続いている。]

Gyunyu

が立つてるその向うの右側に花崗石を二列に敷いた路次があるそれをはいるとつきあたりに門があるその門の内へはいるとどこかの代議士の御妾さんの家へはいるから其門をくゞつちやアいけない門の左に格子戶がある格子戶をあけると左に下駄箱があつて其上にロツキングの馬がのつかつてる

此處迄來ればもう間違なく僕の机の所へ來られる筈だ芝の家の玄關がこれだから

平塚の所から手紙が來て肋骨はぬかずにすンだとかいてある當分寢てゐるさうだ序があつたら見舞に行つてやるといゝ

あの黑犬さえ居なければ僕も行くンだけれど。

さぞ細くなつたらうと思つたら淚が二しづくこぼれたでも二しずくきりつきやこぼさなかつた

本當に來られたら來給へ來る前にはハガキで知らせて吳れ給へ待つてるから

これからちよいちよい手紙をかく淋しくなれば方々へ手紙を出す其度に返事はいらない此方から出した手紙も讀ンでも讀まなくってもいゝ用がある時は狀袋に特にしるしをつけるから

末ながら皆さんによろしく 匆々

    四月花曇の日         龍

  喜   兄

  川やなぎ薄紫にたそがるゝ汝の家を思ひかなしむ

  ヒヤシンス白くかほれり窓掛のかげに汝をなつかしむ夕

  夕潮に春の灯(ヒ)うつる川ぞひの汝の家のしたはしきかな

 

[やぶちゃん注:旧全集より(以下同じ)。「灯」の「(ヒ)」はルビ。芥川龍之介満十八歳。ここにある通り、第一高等学校一部乙類の英文科への進学を決め、一日十時間もかけて受験勉強に精を出した。但し、実際には、この年から一高は成績優秀者の推薦による無試験入学を開始しており、芥川龍之介は、その無試験合格で入学することとなった。無試験合格組の中では龍之介は最上位から四番目であった。本人は合格したことは同年八月五日の官報で知った(新全集の宮坂覺氏の年譜に拠る)。芝発信で本文に実父の牧場への案内があるのは、この四月から翌五月にかけて、龍之介は芝にある実父の牧場「耕牧舎」(東京府豊多摩郡内藤新宿二丁目七十一番地(現在の新宿区新宿二丁目)にあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。)にある新原家で生活していたことによる。恐らくは落ち着いて試験勉強をするためと思われる。なお、この年の十月に、芥川家は一家でこの牧場の脇にあった敏三の持ち家に本所から転居している。

「文科の志望者は年々少くなつて今では一高が辛うじて定員だけもしくは定員を少し超過する位で地方には殆ど定員だけの志望者がないといふ、これと同じ運命にあるのが理科だ相だ」一九九二年河出書房新社刊鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」の鷺氏に解説によれば、『当時の高校の文化や理科は人気がなくて学生が集まらず、一高だけはどうやら定員を満たすという状況で、地方の高校は軒並み定員割れの状態が続いたため、この年から中学校で優秀な成績をおさめた者は無試験で高等学校への入学を許可するという制度が新しく』この年から『発足することにな』ったのであった。この制度は同年から『大正二年』(一九一三年)『まで四年間続けられた』とある。

「何處迄所謂 lndustrial になるンだかわからない」これは「日本がどこまで高度に発達した産業優先国家になろうとしているのか、私にはよく判らない」という謂いである。因みに、語りかけている大の親友で同い年の、東京生まれの山本喜誉司(明治二五(一八九二)年~昭和三八(一九六三)年)は、この年に同じく旧制第一高等学校を試験受験したが、不合格となり、翌年、一高を再受験し、第二部乙類(農科)に合格した。その後、東京帝国大学農学部に進学、大正六(一九一七)年に卒業し、三菱合資会社に入社、社長岩崎久弥から海外での農場経営の任務を与えられ、中国北京に滞在して綿花事業に携わった後、大正一五(一九二六)年にコーヒー栽培事業のためにブラジルに派遣され、サンパウロ郊外のカンピナス丘陵に岩崎彌太郎の号である「東山」を冠した東山農場を開設、翌年、三菱資本で合資会社「カーザ東山」を設立し、コーヒーを取り扱ったが、その他の産物や加工などにも事業を展開させて多角経営化を図った。第二次世界大戦中と戦後は、強いリーダーシップで日系ブラジル人の「勝ち組」と「負け組」の抗争終結と、日系人の権利回復に奔走した。大戦中に東山農場は敵国資産として、一時期、ブラジル政府に接収されたが、初代農場長だった山本のコーヒー害虫駆除・ユーカリ植林等の功績が評価され、戦後、比較的早い時期に返還されている。かく日系ブラジル人社会で活躍した農業家として、戦後混乱期のブラジル日系人社会「日系コロニア」を纏め、「コロニア天皇」とまで称された実力者となり、ブラジル日系人社会で彼を知らない人は、いない。コーヒー栽培の害虫駆除に有効なウガンダ蜂の研究で母校東京大学から農学博士を授与されている(以上は概ね彼のウィキに拠ったが、一部に疑問があるのでカットした。その部分(一高不合格と翌年合格の間)については、後に注することとする)。

「タイイス」フランスの詩人・小説家・批評家のアナトール・フランス(Anatole France 一八四四年~一九二四年)が一八九〇年に発表した長編小説「タイス」(Thaïs)。四世紀頃の原始キリスト教時代のエジプトを背景に、舞姫タイスを救おうとした修道僧パフニュスが、彼女の魅力に惹かれて、地上の恋を叫ぶに至る過程を描く。フランスの作曲家ジュール・マスネ(Jules Massenet 一八四二年~一九一二年)によって三幕七場の「抒情劇」(comédie lyrique)と題されてオペラ化され(初演は一八九四年)、特に第二幕第一場と第二場の間の甘美な間奏曲「タイスの瞑想曲」(Méditation)は名曲としてとみに知られる。

「湯屋」江戸っ子の芥川龍之介なら、確実に「ゆうや」と読んでいるはずである。

「ロツキングの馬」Rocking Horse。欧米ではお馴染みの前後に揺らせる子供用の「揺り木馬」のこと。小型のミニチュアであろう。

「平塚」府立三中時代の親友平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)。この後、岡山の第六高等学校に進学したが、ここで「肋骨はぬかずにすンだ」(気胸術式を指す)で判る通り、結核で戻ってきて、千葉の結核療養所で亡くなった。芥川龍之介は後の大正一六(一九二七)年一月一日(実際には崩御によってこの年月日は無効となる)発行の雑誌『女性』に発表した「彼」(リンク先は私の詳細注附きの電子テクスト)の主人公「X」はこの平塚をモデルとしたもので、その哀切々たるは、私の偏愛するところである。

「あの黑犬さえ居なければ僕も行くンだけれど」龍之介は大の犬嫌いであった。]

 

 

明治四三(一九一〇)年四月二十三日・芝発信・本所区相生町山本喜譽司宛

 

喜兄

朝から來給へ

平塚にも來るやうにさう云つてやりました、[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集では、この下方に以下の龍之介の手書きのイラストがある。当初、「青い鳥」の中の光の妖精かと思ったが、耳がやや長いものの、しっかり首輪と尻尾があるから、以下の台詞の直前でチルチルを助ける犬を描いたものであろう。]

Yousei

今日は家中妙華園へ何とか云ふ花を買ひにゆきました 僕にも行けと云つたのを斷つりましたがこの手紙をかきながら「行けばよかつたつけ」と思つてます、[やぶちゃん注:底本では「斷つ」の「つ」の脇にママ注記がある。]

チユリツプが四つともさきました一つ鉢へうえたので少し變ですが紅い奴が一つ黃色い奴が一つしぼりが二つ 紅い奴は甘い香がします、

   You see that man is all alone against all in the world.

メーテルリンクの中で「光」の精が森の樹の精にいぢめられた小供にかう云つて敎へるのですが面白いから御覽に入れます、こンな風に深奧な自然觀の片鱗が御伽芝居の中にちらばつてゐるのを見ても單なる御伽芝居でなくシムボリカルな所の多いのがわかります、來月は丸善へ來ますから獵人日記をよンだら是非よンで見給へ、匆々

 

[やぶちゃん注:「妙華園」現在の品川区西品川一、二丁目(グーグル・マップ・データ)にあった一万坪もの一大植物園。アメリカで園芸を学んだ河瀬春太郎(明治五(一八七二)年生まれ)が明治二八(一八九五)年に開園したもの。河瀬は、かのアメリカに贈られてワシントンのポトマック河畔に植えられたソメイヨシノの選定者でもある。

You see that man is all alone against all in the world.」ベルギー象徴主義の詩人で劇作家モーリス・メーテルリンク (Maurice Maeterlinck 一八六二年~一九四九年)の童話劇「青い鳥」(L'Oiseau bleu)の第三幕第五場の妖精の「光」の台詞。所持する講談社文庫の新庄嘉章氏の訳で示す。

   《引用開始》

 これでよくわかったでしょう。人間はこの世ではたったひとりで万物(ばんぶつ)とたたかってるんだということが……

   《引用終了》]

 

 

明治四三(一九一〇)年五月二十五日・消印二十六日・『二十五日松邊の寒村にて 龍之介』・東京市本所區相生町三ノ六・山本喜譽司宛・葉書

 

今朝は御見送り下され難有御礼申し上げ候大原より馬車にのり候處馬車馬が天下の名馬にて猪進少しも止らず馬車の覆らむとするもの屢少からず閉口仕候

午後一時半當地着 濤聲をきゝつゝこれをしたゝめ申し候 

Endousyoken 

[やぶちゃん注:「沿道所見」のスケッチともに旧全集より。この五月二十五日に芥川龍之介は千葉県勝浦(グーグル・マップ・データ)に出かけ、翌六月の初旬まで滞在していた。六日には西川英次郎及び山本喜譽司と三人で一高へ願書を出しに行っているので、恐らく前日夜には帰宅しているかと思われる。それにしても、芥川龍之介は三中・一高・帝大時代を通じ、頻繁に泊りがけの旅をしている。龍之介は河童で、水泳が得意であったから、中に海辺の避暑地が多いことが腑に落ちはするが、私など、三十二で結婚するまで、泊りがけの一人旅など、大学一年に鹿児島の病床にある祖父を見舞い、帰りに広島原爆記念公園を訪い、卒論に向けて尾崎放哉の墓のある小豆島西光寺に墓参したのと、教員になってから芭蕉・杜国の跡を偲んで伊良湖岬へ行った、たった二度しかない。妙に羨ましい気がした。]

 

 

明治四三(一九一〇)年六月一日勝浦発信・東京市本所區相生町三ノ六 山本喜譽司宛・繪葉書

 

晴れたる日 麥畑の黃ばめる丘の裾に橫はりて常夏月の暖き光をあびつゝ靑き海に小さき帆の蝶の如く群れたるを見卯の花の白くちりぼへる下に Thais の一卷を繙きつゝはるかに岩赤く水靑き南イタリーの橄欖の花の香を思ふ、彷弗としてヴエニス乙女らの奏づるマンドリンの響をきく心地致し候 匆々

  一日朝            靑萍生

  歸心日夜憶咸陽 龍

 

 

明治四三(一九一〇)年六月二十二日(年月推定)・山本喜譽司宛(封筒欠)

肅白

今晚はあがれなくなつた 海邊にゐて早く寐て早く起きた習慣で六時をうつともう寐くなる おまけに今日は朝から芝に行つてゐたので猶ねむい 寐るのであがらないのは甚失禮だが君は僕のよく寐るのを知つてゐるし君自身もすうすう寐るンだからまけて下さる事だらうと思ふ、

明日は芝へ行く明後日は醫者へゆく明後日の夜か明日の夜に君を訪ふかもしれぬけれどもたしかな事は云へない、

今度醫者に駄目だつて云はれたら書劍を抱いて舊都に放浪するつもりだ此頃はこンな事を考へると無やみにさびしくなる

今日のやうな雨の黃昏にあの柳若葉の滴の音のする部屋で勉强してゐる君の事を思つたら猶淋しくなつた、少し察してくれ

西川から「廿四日が早く來ないかな」と云ふ手紙が來た 廿四日も少し僕には食パンのやうに味がなくなりかけた、

冷笑と漱石近什と六人集とを御覽に入れる 雨の音をきゝながら讀ンでくれ給へ本も喜ぶだらう

六人集の中でアンドレエフの「霧」はうまく書かれてると思ふ 讀者をして讀者自身の生活を顧させる力があるやうな氣がする

アルツイバーセフの「妻」もいゝ

バリモントも面白かつた 全編を通じて伏字が多いのには恐れる、冷笑を僕が好むのは云ふ迄もない、漱石近什の中では夢十夜を最も愛すね 殊に第一夜と第六夜と第七夜がいゝ 最屢くりかへしてよンだのは三册の中で漱石近什だつた

歌いぶりもやめてる タイイスは皆よみきらなかつた

   うす靑き初春の空やほの白う山たゝなはり野は花葉さく

   黑土に芽ぐめる草の靑を見ていのちを思ふ、さびしき日なり

   豆の花うす紫に咲きぬらむ夕日にぬれし孤兒院の庭

右手帳から

勝浦へゆく途中のいたづらがきだから笑つちやアいけない、

醫者の方がしれ次第早速御しらせする いゝと云はれたらさぞ嬉しいだらうと思ふ 嬉しいにちがいないと思ふ

健康を祈る

    廿月二日        芥川生

    喜譽司樣

 

[やぶちゃん注:「廿月」の「廿」に底本編者のママ注記が附されてある。

「明後日は醫者へゆく」「今度醫者に駄目だつて云はれたら」「醫者の方がしれ次第早速御しらせする」「いゝと云はれたらさぞ嬉しいだらうと思ふ」諸年譜には一切記されていないが、この時、龍之介は何らかの体調不良(可能性としては肺)に悩んでいたことが判る。或いは結核の初期症状を疑うようなものだったのではないかと推察する。というより、この記載は神経症的な心気症を濃厚に感じさせる。

「書劍」ペン。

「廿四日」不詳。諸年譜に当たっても判らない。

「冷笑」ここでの筆運びへの自己韜晦か。

「漱石近什」「漱石近什四篇」この明治四十三年の五月に春陽堂から刊行された夏目漱石の作品集。収録作は「文鳥」夢十夜」「永日小品」「滿韓ところどころ」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で原本全篇が読める

「近什」は最近発表された文芸作品を言う一般名詞。

「六人集」まさにこの年のこの六月に刊行されたロシア文学者昇曙夢(のぼり しょむ 明治一一(一八七八)年~昭和三三(一九五八)年)訳の「露西亞現代代表的作家六人集」。収録作品は「夜の叫」(バリモント)・「靜かな曙」(ザイツェフ)・「閑人」(クープリン)・「かくれんぼ」(ソログーブ)・「妻」(アルツイバーセフ)・「霧」(アンドレーエフ)。

「アンドレエフ」レオニド・アンドレーエフ(Леонид Николаевич Андреев/ラテン文字転写:Leonid Nikolaevich Andreyev 一八七一年~一九一九年)。小説で「ロシア第一革命」の高揚と、その後の反動の時代に生きた知識人の苦悩を描き、当時、世界的に有名な作家となっていた。

「アルツイバーセフ」ミハイル・ペトローヴィチ・アルツィバーシェフ(Михаил Петрович Арцыбашев/Mikhail Petrovich Artsybashev 一八七八年~一九二七年)は十九世紀後半から二十世紀前半のロシア文壇を代表する作家。近代主義小説の代表的作品で、性欲賛美をした「サーニン」(Санин:一九〇七年)や、その続編となる自殺賛美をした「最後の一線」(У последней черты:一九一〇年~一九一二年)で知られる。

「バリモント」コンスタンティン・ディミトリエヴィチ・バリモント(Константин Дмитриевич Бальмонт/Konstantin Dmitriyevich Balmont 一八六七年~一九四二年)はロシア象徴主義の詩人で翻訳家。ロシア詩壇の『銀の時代』を代表する文人の一人。

「夢十夜」夏目漱石が明治四一(一九〇八)年七月二十五日から八月五日まで『東京朝日新聞』に連載した彼にして珍しいオムニバス形式の幻想小説。

「第一夜」「百年待つてゐて下さい」の話。後の芥川龍之介の「沼」(大正九(一九二〇)年三月発行の『改造』初出)は明らかにこの話のインスパイアである。個人的には「夢十夜」では好きな一篇である。

「第六夜」例の運慶の「荘子」みたような話。私個人は同前。

「第七夜」『何でも大きな船に乘つてゐる』が、『けれども何處へ行くんだか分らない』に始まり、『つまらなくなつた』自分は『とうとう死ぬ事に決心し』、『思ひ切つて海の中へ飛び込んだ。ところが――自分の足が甲板を離れて、船と緣が切れた其の刹那に、急に命が惜しくなった』。『けれども、もう遲い』。『自分は何處へ行くんだか判らない船でも、矢つ張り乘つて居る方がよかつたと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事が出來ずに、無限の後悔と恐怖とを抱(いだ)いて黑い波の方へ靜かに落ちて行つた』と終る話。私は昔、二十代の頃、これをイメージしながら、水上勉の「飢餓海峡」の主人公が死ぬ数時間を小説にしたことがあった。原稿の一片さえも残っていないが。]

2021/01/18

芥川龍之介 書簡抄 始動 /1 明治四一(一九〇八)年から四二(一九〇九)年の書簡より

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の書簡から編年順に電子化する。底本は岩波旧全集(一九七八年刊)及び葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(岩波書店一九七八年刊)を用い、正字正仮名で示す。注では所持する筑摩書房全集類聚版(昭和四六(一九七一)年刊)及び岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)を一部で参考にする。なお、意外に思われるかも知れぬが、私は岩波の新全集の書簡巻は所持していない。金がないから買わなかったのでもなく、旧全集にないどうしても確認したい作品が載る三巻ほどは、仕方なく買い求めてはある。ともかくも、私はあの芥川龍之介の作品を新字に変えてしまった新全集が身近にずらりと並んでいるのを想像しただけで、生理的に堪えられないと感じられるから持っていないだけなのである。

 私が気になる書簡を選んで示す。踊り字「〱」「〲」は正字化する。字下げや字配は必ずしも再現していない(ブログ・ブラウザでの不具合を考えてである)。添えられたスケッチや自筆画などは出来る限り、採録したいと思っている。底本では、「候」の草書体を活字化して示してあるが、表示出来ないので正字で示した。定型詩・自由詩・短歌を含む書簡は戯詩や狂歌っぽいものも含め、総て採用する(相似作品で大きな変化のないものは初出を選び、注で相似作品を添える)。何故なら、私が嘗て行った、「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集」は書簡を対象としなかった(する余裕がなかった)からである。

 さても、今回のこの記事の書簡当時、芥川龍之介は府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の三、四年次生(満十六、七歳)であった。私は、とても、この年の頃、こんな豊かな読書歴を持っていなかったことを慚愧とともに告白しておく。の前年明治四十年中に、龍之介は後に妻となる塚本文(ふみ)と出逢っている(その当時の文は七歳)。以下に出る龍之介と頻繁に書簡をやりとりしている親友山本喜譽司(きよし)が文の母鈴(すず)の末弟であった関係に由るが、当時の龍之介にはそうした思いは、まだ、なかった。【2020118日始動 藪野直史】] 

 

明治四一(一九〇八)年十二月二十四日東京本所発信・葉書・表に『狂兒龍之介拜』と記す・芥川ふき宛

肅啓 本日成績發表、小生は第一番に御坐候間乍憚御休神下され度候 猶中原君二番、西川君三番、依田君四番、宮崎君五番、砂岡君六番、筒井君七番、平塚君八番、山本君十三番に候 廿四日

先は取りあへず御知らせ迄

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」から。

「肅啓」(しゆくけい(しゅく‐けい)。頭語。「謹んで申し上げる」の意。

「芥川ふき」は龍之介を育て、彼の人格形成に大きな影響を与えることになった母方の伯母(実母フクの姉で、養父芥川道章の妹)であり、龍之介の作品や随筆にも、しばしば登場する。生前の龍之介と最後に言葉を交わした相手は彼女であった。一般には「フキ」とカタカナ書きする。なお、この時、既に龍之介は芥川道章の養子問題が解決しており、本所の芥川家に一緒にフキも龍之介も住んでいたから、この葉書というのは以前から不審であった。しかし、これは、思うに、養母である道章のトモを遠慮して、学期末成績を養母よりも恐らくは遙かに――芥川家担う龍之介のそれを心配してした彼女に――言葉でなく、葉書で報告したのであって、妙なところでシャイな龍之介特有の気配りなのではないかと私は推察する。

「御休神」御安心。

「西川君」次の書簡に出る西川秀次郎。

「山本君」前注で述べた山本喜譽司。] 

 

明治四二(一九〇二)年三月六日・本所発信・廣瀨雄宛

肅啓 御手紙難有奉誦致し候ジヤングルブツクは嘗て其中の二三を土肥春曙氏の譯したるを讀み(少年世界にて)幼き頭腦に小さき勇ましきモングースや狼の子なるモーグリーや椰子の綠葉のかげに眠れる水牛や甘き風と暖なる日光とに溢れたる熱帶の風物の鮮なる印象をうけしものに御座候原作に接したきは山々に御座候へども目下の樣子にては到庭手におへなささうに候へばまづまずあきらめて Rosmersholm をこつこつ字書をひき居り侯

ロスメルスホルムと云へば此篇ほどメレジユコウスキの所謂「死の苦痛卽ち生の苦痛」の空氣の痛切にあらはれたるは見ざる樣に思はれ候英譯一册にてイブセン通になる譯には無之候へどもボルクマンの懊惱。ゴーストの主人公の死。ドールスハウスのヒロインの決心。ザ、レデー、フロム、ザ、シーのヒロインの復活。皆この境に新生命の產聲をあげむとして叫び居り候へども殊に此ロスメルスホルムの男主人公と女主人公との最後ほど强く描かれたるは無之候ハウプトマンの「寂しき人々」は此作の感化を蒙る事多きよしに候へども嘗てよみたる「寂しき人々」の和譯にくらべてロスメルスホルムの方がはるかに力のつよき樣に感ぜられ候

恨らくは泰西の名著も東海の豎子には中々の重荷にて字書をひきて下調べをするときは何の事やら少しも判然せず代る代る譯をつける時に辛うじて事件の一部が明になり三度獨りでよみ返して見てはじめて全事件を望み得る次第に御座候殊に序幕にては暗示的な言の連發をうけて一方ならず閉口致し候クオバデスもロスメルスホルムの間に繙き居り候へども中々捗らず時々先の頁を勘定してがつかり致し候

今日はクオバデスとロスメルスホルムとの難解の個所を伺ひに上る豫定の所朝より客來にて一日中榮螺の如蹲りて且談り且論じ候まゝ遂に參上致し兼ね候此分にては雅邦會を訪ふも覺束なく相成目下は復活の後篇をよみ居り候談話部の龍頭蛇尾に陷りたる委員諸君の遺憾はさこそと察せられ候へども小生にとりては少くも天祐に御座候ひき、「批評の態度」の愚稿に先生の玉斧を請ひて御迷惑をかけ候夜は、歸宅後書いては消し書いては消し遂には筒井君の所へ電話をかくるに至り候「果斷ありと自ら誇りしが此果斷は順境にのみありて逆境にはあらず」其夜ひるがヘして見たる「舞姬」の言我を欺かず候

これより學年試瞼の完るまでは一週間禁讀書禁遠步の行者と相成る筈に候遠足は散步にて間にあはせ候へども禁書は兎も角も難行にて讀みたくてたまらぬ時は何となく氣のとがめ候まゝうそつと化學の敎科書などの下にかくしてよむを常と致し候今度も此滑稽を繰返す事と思へば何となく滑稽らしくなく感ぜられ候あまり自分の事ばかり長々しく書きつらね候イゴイストは樗牛以來の事と御宥免下さるべく候 匆々

    三月六日夜   芥川龍之介

   廣瀨先生 硯北

 

[やぶちゃん注:岩波旧全集第十巻から。

「廣瀨雄」(ひろせたけし 明治七(一八七四)年~昭和三九(一九六四)年)は芥川龍之介の東京府立第三中学校英語科教諭で龍之介の一年次の担任。石川県生まれ。東京高等師範学校英語専修科卒。芥川の才能を見出し、卒業までの五年間、親身になって教授し、第一高等学校を受験の際には、自宅へ呼んで講義するなどし、積極的に文学書も貸与した。広瀬は小石川に住んでいたが、後の芥川の斡旋で住居も田端に移している。英語教育者として知られ、龍之介とは自死するまで終生、交流があった。後の大正八(一九一九)年には府立三中の第二代校長となった。大正一二(一九二三)年五月には、府立三中を卒業して一高へ入学していた堀辰雄を、家が隣り合わせで交流が深かった室生犀星に紹介している(堀が龍之介の弟子となるのは、この年の終わり頃である)。後、昭和五(一九三〇)年に東京府立第三高等女学校(現在の都立駒場高等学校)へ第三代校長として転任した。英和辞典の編纂者としても知られる。

Rosmersholm」「ロスメルスホルム」(ロスメル家)。知られたノルウェーの劇作家ヘンリク・イプセン(Henrik Johan Ibsen 一八二八年~一九〇六年)が一八八六年に発表した戯曲。中学時代、親友の西川英次郎(えいじろう 後に農学博士となる)と読んだことを、龍之介は「學校友だち」(大正一四(一九二五)年二月発行『中央公論』)で、以下のように記している。

   *

西川英次郞 中學以來の友だちなり。僕も勿論秀才なれども西川の秀才は僕の比にあらず。東京の農科大學を出、今は鳥取の農林學校に在り。諢名[やぶちゃん注:「あだな」。]はライオン、或はライ公と言ふ。容貌、榮養不良のライオンに似たるが故なり。中學時代には一しよに英語を勉强し、「獵人日記」、「サツフオ」、「ロスメルスホルム」、「タイイス」の英譯などを讀みしを記憶す。その外柔道、水泳等も西川と共に稽古したり。震災の少し前に西洋より歸り、舶來の書を悉く燒たりと言ふ。リアリストと言ふよりもおのづからセンティメンタリズムを脫せるならん。この間鳥取の柿を貰ふ。お禮にバトラアの本をやる約束をしてまだ送らず。尤も柿の三分の一は澁柿なり。

   *

「ジヤングルブツク」イギリスの小説家・詩人でイギリス統治下のインドを舞台にした児童文学等で知られる作家・詩人のジョゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling 一八六五年~一九三六年:ボンベイ (ムンバイ) 生まれ。四十一歳という史上最年少で、イギリス人としては最初にノーベル文学賞を一九〇七年に受賞した人物として知られる)が一八九四年に出版した短編小説集。赤ん坊の頃から狼に育てられた少年モウグリ(Mowgli)が主人公の連作「The Jungle Book」。

「土肥春曙」(どい しゅんしょ 明治二(一八六九)年~大正四(一九一五)年)は、本名庸元 (つねもと)。東京専門学校 (現在の早稲田大学) 文科の第一期生として入学し、卒業後、新聞記者や母校の講師を経て、明治三四(一九〇一)年に川上音二郎一座の通訳兼文芸部員として渡欧し、明治三十八年、坪内逍遙の脚本朗読会に加わり、「易風会」を興し、翌年、「文芸協会」が設立されると、技芸監督と代表俳優として活躍し、端麗な容姿と凛とした調子で新劇の二枚目、立役の第一人者と讃えられた。当り役はハムレットで、第二次「文芸協会」の解散の後,「無名会」を興したが、旗揚げから一年後に病没した。彼は明治三二(一八九九)年から二年かけて雑誌『少年世界』黒田湖山との共訳で同書を連載し、これが同作の本邦最初の紹介となった。

「モングース」「ジャングル・ブック」の「リッキ・ティッキ・タヴィ」(Rikki-Tikki-Tavi)の譚に出る、哺乳綱食肉目ネコ型亜目マングース科エジプトマングース属 Herpestes のインドに棲息するマングースのこと。

「モーグリー」同前で、インドのジャングルで虎のシア・カーンにより追われた、人間の赤ん坊(樵人(きこり)の子供)が、クマのバルーと黒豹のバギーラの提案により、狼の一家により、「モウグリ」と名付けられて育てられる。十年余りの後、シア・カーンは、モウグリを狼の群から追い出せと迫る。モウグリを受け入れたリーダー狼の「アケーラ」は老いて弱くなり、狼の群れは、シア・カーンに同意する。モウグリは、火を見せつけ、自分の賢さを動物たちに示し、ジャングルから人間の村に向かう、というストーリーとなる(以上はウィキの「ジャングル・ブック(小説)」に拠った)。

「メレジユコウスキ」ロシア象徴主義草創期の詩人にして当時最も著名な思想家であったディミトリー・セルギェーヴィチ・メレシュコフスキー(ラテン文字転写:Dmitry Sergeyevich Merezhkovsky 一八六六年~一九四一年) 。ペテルブルクに流行のサロンを開いて、「頽廃主義の巣窟」の異名をとった人物である。

「英譯一册にてイブセン通になる」しかし、筑摩全集類聚版脚注には『当時広く読まれたスコット、ハイネマンの英訳イプセン集のいずれにも、ここに挙げられた全作品が一巻に収められているのは見当たらない』とある。

「ボルクマン」「ヨーン・ガブリエル・ボルクマン」(John Gabriel Borkman )。一八九六年にイプセンが晩年書いた戯曲。一八九七年にヘルシンキで初演された。

「ゴースト」イプセンの一八八一年の戯曲「幽霊」(Gengangere )。筑摩全集類聚版脚注に、『主人公オスワルが発狂して「太陽を」とつぶやくのをさす』とある。後に芥川龍之介は「藝術その他」(大正八(一九一九)年十一月発行の『新潮』掲載)の中で(リンク先は私の電子テクスト)、

   *

 内容が本で形式は末だ。――さう云ふ說が流行してゐる。が、それはほんたうらしい譃だ。作品の内容とは、必然に形式と一つになつた内容だ。まづ内容があつて、形式は後から拵へるものだと思ふものがあつたら、それは創作の眞諦に盲目なものの言なのだ。簡單な例をとつて見てもわかる。「幽靈」の中のオスワルドが「太陽が欲しい」と云ふ事は、誰でも大抵知つてゐるに違ひない。あの「太陽が欲しい」と云ふ言葉の内容は何だ。嘗て坪内博士が「幽靈」の解說の中に、あれを「暗い」と譯した事がある。勿論「太陽が欲しい」と「暗い」とは、理窟の上では同じかも知れぬ。が、その言葉の内容の上では、眞に相隔つ事白雲萬里だ。あの「太陽が欲しい」と云ふ莊嚴な言葉の内容は、唯「太陽が欲しい」と云ふ形式より外に現せないのだ。その内容と形式との一つになつた全體を的確に捉へ得た所が、イブセンの偉い所なのだ。エチエガレイが「ドン・ホアンの子」の序文で、激賞してゐるのも不思議ではない。あの言葉の内容とあの言葉の中にある抽象的な意味とを混同すると、其處から誤つた内容偏重論が出て來るのだ。内容を手際よく拵へ上げたものが形式ではない。形式は内容の中にあるのだ。或はそのヴアイス・ヴアサだ。この微妙な關係をのみこまない人には、永久に藝術は閉された本に過ぎないだらう。

   *

と述べている。

「ドールスハウス」最も知られたノラ(Nora:カタカナ音写は本来は「ノーラ」が正しい)を主人公とするイプセンの戯曲で、一八七九年に書かれた戯曲「人形の家」(Et dukkehjem )。

「ザ、レデー、フロム、ザ、シー」イプセンの一八八八年発表の戯曲「海の夫人」(Fruen fra havet)。筑摩全集類聚版脚注には、龍之介の言う『復活とは最後の男女両性の新しい結合をさしている』とある。イプセンは写実主義的近代戯曲の確立者などと評されるが、私はごく若い頃、役者のなろうと思い、特に彼の作品を好んで、訳で多くを読んだが、彼には錬金術的な嗜癖が甚だしく認められると感じており、これはまさにその理論に頗る合致するものと考えている。

『ハウプトマンの「寂しき人々」』ノーベル文学賞を受賞したドイツの劇作家・小説家。詩人のゲアハルト・ハウプトマン(Gerhart Hauptmann 一八六二年~一九四六年)の一八九一年作の「Einsame Menschen 」。筑摩全集類聚版脚注に、『新しい時代思想に揺』す『ぶられる知識人を描いている点で、「ロスメルスホルム」と共通している』とある。

「豎子」(じゆし(じゅし))。卑称の漢語で「小僧っ子」の意。

「序幕」筑摩全集類聚版脚注に、『ロスメルがの妻の死の秘密が事件の背後に隠されている』とある。

「クオバデス」ポーランドのノーベル賞作家ヘンリク・アダム・アレクサンデル・ピウス・シェンキェーヴィチ(Henryk Adam Aleksander Pius Sienkiewicz 一八四六年~一九一六年)の名作歴史小説「クォ・ヴァディス――ネロの時代の物語」(Quo Vadis: Powieść z czasów Nerona)。西暦一世紀のローマ帝国暴君ネロの治世下を舞台とし、若きキリスト教徒の娘リギアと、ローマの軍人マルクス・ウィニキウスの間の恋愛を中心としつつ、当時のローマ帝国の上流階級に見られた堕落と享楽に耽ったそれや、キリスト教徒への残虐な迫害の様子を描いたもの。標題はラテン語で「どこへ行くのか?」の意。新約聖書の「ヨハネによる福音書」の第十三章第三十六節で、使徒ペトロが最後の晩餐に於いてイエスに投げかけた問い、「Quo vadis, Domine?」(クォ・ヴァディス、ドミネ:主よ、どこへ行かれるのですか?)という問いに由来する。

「雅邦會」日本画家橋本雅邦(がほう 天保六(一八三五)年~明治四一(一九〇八)年)のが生まれた武蔵国川越(後の埼玉県川越。父は川越藩の御用絵師であった)の有志が作った彼の親睦会(岩波文庫の石割氏の注に拠る)。

「復活」言わずと知れたトルストイのそれ。

「果斷ありと自ら誇りしが此果斷は順境にのみありて逆境にはあらず」森鷗外の「舞姬」一節であるが、正しくは「嗚呼、余はこの書を見て始めて我地位を明視し得たり。耻かしきはわが鈍き心なり。余は我身一つの進退につきても、また我身に係らぬ他人の事につきても、決斷ありと自ら心に誇りしが、此決斷は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との關係を照さんとするときは、賴みし胸中の鏡は曇りたり」である。私の「舞姬」を参照されたい。

「完る」「をはる」。

「樗牛」小説家・評論家の高山樗牛(ちょぎゅう 明治四(一八七一)年~明治三五(一九〇二)年)。帝国大学在学中に小説「瀧口入道」が懸賞で入選し、卒業後は雑誌『太陽』の主幹となり、当初は日本主義を標榜したが、ニーチェの影響を受け、美的生活の提唱から「本能の満足」を唱え、個人主義を主張、果ては、日蓮へ傾倒した。私は「瀧口入道」以外は全く認めない。


「研北」けんぽく。手紙のあて名の脇に添書する敬語の一つ。] 

 

明治四二(一九〇二)年一月一日本所発信・封筒に「元旦」と記す・葛卷義定宛

肅啓 新年の御慶目出度申し納め候

先達は結構なる御歳暮を頂戴致し難有くがじ候 小弟の貧しき書庫が新しき光を放つべきも近き事と思ひ候へば此上なく嬉しく覺え候

豫て御存知の旅行は愈本夕六時半の列車にて出發の事と相成侯 ロングフェローが歌の巻を懷にせる瘦軀の一靑年が靑丹よし奈良の都に其かみの榮華を忍び 藥師寺の塔を仰いで 大なる「タイム」の力を思ひ 去つて又東山のほとりに銀閣を望んで 室町將軍の豪奢を懷ひ、嵯峨野のあたりに蕭條たる黄茅を踏んで祗王祗女のむかしを床しむは近く來む七日間に御座候 小生は唯今 學校の奉賀式に列するところに候 早々頓首

              芥川龍之介

  兄上 硯北

 

[やぶちゃん注:「未定稿集」から。

「葛卷義定」(明治六(一八八三)年~昭和二三(一九四八)年)年]は、この二ヶ月後の三月四日に正式に実姉ヒサと婚姻届を出して義兄となる人物。獣医。一時、実父新原(にいはら)敏三の経営する耕牧舎新宿牧場の管理を任されていた。義敏と、さと子の二子を設けたが、一度、ヒサとは離婚した。しかし、後年、再び二度目の夫西川豊を鉄道自殺で失ったヒサと再婚している。

「奈良の都に……」この元日、芥川龍之介は府立三中の奉賀式に出席した後、午後六時半、奈良・京都方面へ、一週間の旅行に出かけている。] 

 

明治四二(一九〇二)年三月二十八日東京本鄕向ケ岡洲生町西村貞吉宛・自筆絵葉書

 

 靑海原藻の花ゆらぐ波の底に魚とし住まば悶えざらむか 

  三月廿八日    銚子にありて 芥川狂生

 

[やぶちゃん注:旧全集から(次も同じ)。この三月二十六日、芥川龍之介は山本喜譽司とともに千葉県銚子に出掛け、月末頃まで滞在している。

「西村貞吉」芥川の府立三中時代の同級生で、東京外国語学校(現在の東京外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に住んだ。龍之介の「長江游記」に登場する(リンク先は私の電子化注)。また、芥川が中国から帰還した直後の大正一〇(千九百二十一)年九月に『中央公論』に発表した「母」(リンクは新字新仮名の「青空文庫」)は、蕪湖に住む野村敏子と、その夫の物語であるが、この夫は明らかに彼をモデルとしている。] 

 

明治四二(一九〇二)年 三月二十八日(年月推定)「銚子ニテ」と附記・署名「芥川狂生」・絵葉書

銚子の海は僕の戀人だ砂山に寐ころンで靑い波の雪の樣な泡をふきながらうねつてゐるのを見て限りなく嬉しかつた

宿の二階に居ると淋しい海の呟きがきこえる夜は、琴の昔が波の底の藻の花のさく國からきこへるかもしれない

                  龍生 

 

明治四二(一九〇二)年八月一日京都発信・芥川ふき及び葛巻義定宛・絵端書・『八月一日京龍之介』と記す

三十一日の夕嵐山を訪ふ、路は大堰川の流に沿うて靑葉の間をぬひながらすゝむ、川邊には筏をつないで鶺鴒が尾をふりふり其上を步いてゐる、山の崖には螢草の空色をしたのや撫子の紅なのが所々にさいたのが見える、石段を二町ばかり上ると大悲閣だ 小ぢまりした寺で川の流をはさんだ嵐山の景色が目の下に見える

春 雪のやうな落花の中を曙染の衣をきて舞つてあるいたら面白からう、寺で吉田了以の木像を見る まつ黑な像で目ばかりが「あはび」でこしらへた鈕の様に光つてゐる

 

[やぶちゃん注:「未定稿集」から。この年の七月末、芥川龍之介は再び京都方面への旅に出かけ、八月四日に帰宅している。

「大堰川」(おほゐがは(おおいがわ))は京都府中部の川。淀川水系の一部で丹波山地の東部付近に源を発し、西流した後、南東へ転じて亀岡盆地を貫流、亀岡盆地の出口から下流は「保津川」となり、さらに嵐山からは「桂川」と名が変わる。

「大悲閣」京都府京都市西京区嵐山中尾下町にある黄檗宗嵐山(あらしやま)大悲閣千光寺の別称。本尊は恵心僧都作と伝える千手観音菩薩。江戸時代の豪商角倉了以(すみのくら りょうい 天文二三(一五五四)年~慶長一九(一六一四)年:戦国末から江戸初期にかけての京の豪商。本姓は吉田氏。朱印船貿易の開始とともに安南国(ヴェトナム)との貿易を始め、山城(京)の大堰川・高瀬川を私財を投じて開削した。後、江戸幕府の命により、富士川・天竜川・庄内川などの開削も行い、地元の京都では商人としてよりも、琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎とともに「水運の父」として知られる)の木像があることで知られ、境内にある、切り立った岩肌上に建つ舞台造の観音堂(客殿とも呼ぶ)は「大悲閣」と呼ばれるため、寺そのものもかく呼ばれる。参照したウィキの了以の像画像をリンクさせておく。

「鈕」「ボタン」。] 

 

同年八月四日・ 消印五日・神奈川縣相模國高座郡鵠沼村大井別莊前加賀本樣御内・山本喜擧司宛・葉書(底本は横書)

 

啓 はるばるの御狀しみじみ難有く覺え候、

今四日小生も都に歸り四疊半の小齋に旅塵をはらひつゝ唯今本尊簡を拝頂致し候、

承れば御地に於て〝江東男兒の面目を御代表″遊さるる由いつにもなき大氣焰に恐れ入り候、小生も疲勞のなほり次第槍ケ岳登攀の行に上るべく目下は同行の諸君と共に〝江東男兒の面目を代表す″べき意氣を養ひ居り候、末ながら大兄の益〻〝江東男兒の面目を代表せ″られむこと祈申し候 勿々

    四日夕       芥川狂生

 

Yotuba

 

[やぶちゃん注:旧全集から。四葉のクローバーらしき挿絵添え。葉の中央に「敬」とある。先に示した通り、この年の七月下旬に芥川龍之介は一人で京都方面に出かけている。恐らくその旅から帰る朝、京都で投函したものと思われる。なお、この四日後には東京から、級友市村友三郎や中原安太郎らとともに槍ヶ岳登山に出発し、同十日に槍ヶ岳へ登攀しているようである。私の「槍ヶ岳紀行 芥川龍之介」を参照されたい。山本がこれに加わっていないのは、受け取った彼にして、恐らくは淋しかったに違いない。ここで言っておくと、山本と芥川龍之介は、ある種の同性愛的な近関係にあったと考えてよいからである。]

南方熊楠 小兒と魔除 (7) / 南方熊楠「小兒と魔除」正字正仮名版全電子化注~完遂

 

[やぶちゃん注:冒頭の「一四四頁狼を魔除とする事」は出口米吉の「小兒と魔除」の初出論考の末尾部分(PDFの2コマ目)。私の電子化から引くと、『狼は和名オホカミ(大嚙)と稱して、一般に恐怖する所なりと雖も、未だ魔除として用ゐられたることを聞かす[やぶちゃん注:「聞かず」の初出の誤植。]。恐らくは虎を呼ぶの本意忘却せられ、俗に小兒を威嚇するが如く解するに至りて、更に狼をも添ふるに至りしならんと思はる。張遼來も鬼魔を逐ふが爲に唱せし者にして、鐘馗石敢當加藤淸正等の武勇絕倫の豪傑の名を借りて惡鬼を驅逐すると趣旨を同くするなり。』の部分。思わず、そこで私が割注を入れたように、これは、しかし、埼玉県秩父市三峰にある三峯神社の狼を描いた護符を知らない出口氏の不勉強と言わざるを得ない。南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拜(5:狼)」を見られたい。]

 

(一四四頁狼を魔除とする事)此邊に、今もさびしき所にて、狼來たとて小兒ををどす[やぶちゃん注:ママ。]こと多し、歐州にも有りと覺ゆ、世事百談に言る、虎狼來るとて小兒をすかすも、上の張遼麻胡と同く、單に啼ば狼來り噬む[やぶちゃん注:「かむ」。]といふに過ず、但し出口氏、狼は一般に恐るゝ所なれど、未だ魔除として用られたるを聞ずとはいかゞ、狼に大噬[やぶちゃん注:「おほかみ」。]の意あると同時に又大神の義を具ふ、書紀卷十九、秦大津父[やぶちゃん注:「はだのおつち」。]、山中に狼の血鬪するを解くとき、下馬口漱手、祈請曰、汝是貴神云々今も此邊に送り狼とて、人を害せず、守衞せし狼の古語殘り、大臺原山に、神使の狼現存すと云、突厥高昌二國の祖は、人と狼と、狼と人との間種と稱し(淵鑑類函四二九卷)、歐州にも狼の子孫といへる人ある事、ハーバート、スペンサー[やぶちゃん注:底本では読点部で下線が切れるが、繋げた。]の社會學原理に見え、北米の印甸[やぶちゃん注:「インデアン」。]族、造世主を狼形とするもの多し(Ratzel, op. cit., vol. ii, p. 148)、此地(紀州田邊)に寡聞なる吾輩名を聞きしことなき物語繪を藏する人あり、土佐繪にて屛風に貼せるが[やぶちゃん注:「ちやうせるが」。]、前半計りのみ存し、山神なる狼、海中の「オコゼ」魚の美なるに懸想し、之を娶るに臨み、鮹の入道大に之を憤り、烏賊などを賴んで軍を起し、「オコゼ」姬の駕を奪んとする話なり、大和本草に見ゆる通り、舟師山神を祈て風を求むるに、今も「オコゼ」を捧ぐること、希臘海島の山神に捧るとて、麪包[やぶちゃん注:「パン」。]を海に投じ、以て漁を乞ふに同じ(Bent, p .65)、近頃迄熊野地方にて、狼を獸類の長とし、鼠に咬れて重患なる時、特に狼肉を求て煮喫せしを參するに、古え吾邦に狼を山神とする風有しならん、虎骨虎爪と等く、狼皮狼牙狼尾辟邪の功ありといふ支那說、上の邪視と視害の序に言へり、大和吉野郡十津川の玉置山は海拔三千二百尺と云、予も昨秋末詣しが、紀州桐畑より上るは、道頗る險にして水無く、甚き難所也、頂上近く大なる社あり、其神狼を使ひ者とし、以前は狐に附れしもの、いかに難症なりとも此神に祈り蟇目を行ふに退治せずと云事なく、又狐人を魅し[やぶちゃん注:「ばかし」。]、猪鹿田圃を損ずるとき、この社に就て神使を借るに、或は封の儘或は正體のまゝ渡しくれる、正體のまゝの場合には、使の者の歸路、之に先ち[やぶちゃん注:「さきだち」。]神使狼の足跡を印し續くるを見、其人家に達する前、家領の諸獸悉く逃畢るといふ、又傳ふるは、夜行する者自宅出るに臨み、「熊野なる玉置の山の弓神樂」と歌の上半を唱ふれば、途上恐ろしき物一切近かず、扨志す方え着したる時「弦音きけば惡魔退く」とやらかす也と、前述送り狼の譚は、之を言へるか、社畔に犬吠の杉あり、其皮を削り來て、田畑に插み[やぶちゃん注:「さしはさみ」。]惡獸を避けしと云、守禦の功犬に等しといふ意か、事體斯の如くなれば、虎狼を以て小兒をすかすは、魔除と何の關係なきと同時に、吾邦從來狼を魔除に用る風有しは、疑を容れずと斷云し置く、

 

[やぶちゃん注:「世事百談に言る、虎狼來るとて小兒をすかす」(6)で既出で当該部を電子化してある。但し、「世事百談」では「虎狼來(ころこん)」とルビしている。そこから考えれば、少なくとも南方熊楠も「ころくる」と読んでいると考えなくてはなるまい。平凡社「選集」では『虎狼来たる』としているが、これは如何にも発音として「ころきたる」は脅し賺す語として私は間が抜けているし、発音し難いと思うのである。ここで遂に言っておくと、平凡社の「南方熊楠選集」の書き変えは、かなり編者による恣意的な、言わせて貰うなら、「読み易けりゃ、どう操作したって構わない」的な、読みや送り仮名が頻繁に見られ、確かに総体としては原本よりも現代人には読み易くなっているものの、実際には熊楠はそんな読み方はしていないと断言出来る部分が、もう今までの電子化での比較対象にあっても、腐るほど、あるのである。私が今回、熊楠の正字正仮名の底本で電子化しようと考えた意図の中には、たとえ読み難くても、熊楠の肉声を電子的に再現すべきではないか、という強い思いがあるからである。

「書紀卷十九、秦大津父、山中に狼の血鬪するを解くとき、下馬口漱手、祈請曰、汝是貴神云々」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(5:狼)」の私の注で電子化済み。

「大臺原山に、神使の狼現存すと云」奈良県と三重県の県境にある大台ヶ原山(おおだいがはらやま:グーグル・マップ・データ。以下同じ)は標高千六百九十五・一メートル。大台ヶ原から北の高見山(たかみやま)にのびる台高(だいこう)山脈は、事実、ニホンオオカミが最後まで棲息していたと言われる山域で、人跡稀な森であった。

「突厥高昌二國の祖は、人と狼と、狼と人との間種と稱し(淵鑑類函四二九卷)」「淵鑑類函」は清の聖祖(康熙帝)の勅撰により編纂された類書(百科事典)。一七一〇年成立。四百二十九巻に、

   *

後周書曰突厥之先匈奴之别種也爲鄰國所破其族有一小兒棄草澤中有牝狼以肉飼之及長與狼交合遂有孕焉逃於高昌國北山洞穴生十男其後各爲一姓阿史那卽其一也

とあり、その少し後の「嚙宮人 配二女」の条にも、

   *

江都昜王非卒子建立宮人有過縱狼嚙殺之觀以爲樂爲北史單于二女甚美置高堂上有老狼守臺遂狼妻産子後遂爲高昌國

   *

とあった。「突厥」はモンゴル高原で活動したトルコ系の遊牧民で、五五二年にユーラシアの東西にまたがる突厥帝国(第一帝国)を建設し、西ではササン朝、東では隋・唐帝国と同時期であったが、五八三年に東西に分裂し、東突厥は隋の支配を受けた。一方の高昌は隋・唐と突厥の間に挟まれたオアシス都市国家で、中国の南北朝から唐にかけて現在の新疆ウイグル自治区トルファン市に存在した。

「歐州にも狼の子孫といへる人ある事、ハーバート、スペンサーの社會學原理に見え」南方熊楠「本邦に於ける動物崇拜」(9:梟)で既出既注。但し、調べた限りでは、同第三巻の、

   *

Hence when we read “that the ancestor of the Mongol royal house was a wolf,” and that the family name was Wolf; and when we remember the multitudinous cases of animal-names borne by North American Indians, with the associated totem-system; this cause of identification of ancestors with animals, and consequent sacredness of the animals, becomes sufficiently obvious.

   *

しか見当たらない。しかも、これは前後で熊楠が指摘する内容に酷似したモンゴル人及びアメリカ・インディアンの伝承であって、ヨーロッパにおけるそれではない。容易に想起されるのは、ローマの建国神話に登場する双子は狼によって育てられた双子の兄弟ロムルスとレムスが浮かぶ限りで、後代の所謂、「狼男」(人狼)、「ウェアウルフ」(英語:werewolf)・「ヴァラヴォルフ」(ドイツ語:Werwolf)や「ルー・ガルー」(フランス語:loup-garou)は多分に悪魔的な色づけがなされ、しかも多分に、異常なモンスターどころか、古くから多くの学者たちから、精神疾患や妄言として早くに退けられてさえいるもので、狼の血の持つ強力な超自然のそれは、欧州の伝承ではそれほどメインに登場していないようである。

「北米の印甸[やぶちゃん注:「インデアン」。]族、造世主を狼形とするもの多し(Ratzel, op. cit., vol. ii, p. 148)」既出のイツの地理学者・生物学者リードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 一八四四年~一九〇四年:社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とし、政治地理学の祖とされる)の「‘History of Mankind,’ trans. Butler, 1896」とあった英訳本の第二巻で、「Internet archive」の英訳原本のこちらの左ページの本文の(三行の脚注を除く)下から11行前にある、

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Where beasts appear as the makers of men, a creator-god is hidden in them ; manifesting himself by preference in the form of a wolf or a dog.

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が相当する。あぁっつ! 「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(Dances with Wolves:一九九〇年・アメリカ/監督・主演・製作ケビン・コスナー)は良かったなあ!

『此地(紀州田邊)に寡聞なる吾輩名を聞きしことなき物語繪を藏する人あり、土佐繪にて屛風に貼せるが、前半計りのみ存し、山神なる狼、海中の「オコゼ」魚の美なるに懸想し、之を娶るに臨み、鮹の入道大に之を憤り、烏賊などを賴んで軍を起し、「オコゼ」姬の駕を奪んとする話なり』所持する一九九〇年八坂書房刊の「南方熊楠アルバム」(中瀬嘉陽・長谷川興蔵編)の中に、七枚あるその屏風の四つの箇所がモノクロで掲載されており、その屏風は田辺の熊楠の友人湯浅富三郎の家にあったもので(屏風絵と詞書があった)、熊楠はそれを材として、この二年後の明治四四(一九一〇)年二月発行の『東京人類学会雑誌』二十六巻二百九十九号に「山神オコゼ魚を好むということ」ことを発表している(リンク先は私の「選集」版で電子化した古いもの。初出はこれ(「J-stage」のPDF)。近い将来、新たに正字正仮版をここで公開する)。そのキャプションによれば、土佐絵で、彩色もなかなかに精密で、『狼神とオコゼ姫の祝言の宴会を中心に』『山や海のさまざまな動物が描かれて』あるもので、私も甚だそそられる逸品である。原屏風は、現在は東京に移転した湯浅家の所蔵になるものとある(熊楠は知人の画家広畠幾太郎に模写させたともある。そちらでよいから、是非見たい、まっこと、面白い絵なのである)。なお、「オコゼ」は条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科(又はオニオコゼ科)オニオコゼ亜科オニオコゼ属オニオコゼ Inimicus japonicus で、同種は単に「オコゼ」とも呼ぶ。

『大和本草に見ゆる通り、舟師山神を祈て風を求むるに、今も「オコゼ」を捧ぐる』「大和本草卷之十三 魚之下 をこぜ (オニオコゼ)」に、

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をこぜ ふぐに似て、かど、あり。背には、はり、あり。赤色まだらなり。其の長さ一寸ばかりなるを、海人、用ひて、山〔の〕神を祭り、日和〔(ひより)〕と得ものあらん事を祈る。

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とある。そこで私が注したものを引いておく。

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「得もの」は獲物。民俗学的記載を入れてくれた益軒に拍手をしたいが、ただ、「海人」というのはちょっとまずい。これは「山人」、山林を仕事場とする猟師や伐採に従事する者たちがこの儀式をするのである。山の神は女神とされるが、容貌が醜いとされ、しかも山の幸を持ち去る者には厳しい。そこで、醜悪なオコゼの顔を見ると、安心して静まり、仕事を許して守って呉れるとされるのである。現在でも、地方によっては、山入りの際に、実際のオコゼの類を仕入れて奉納し、山の神に許諾と安全を祈願している。

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「希臘海島の山神に捧るとて、麪包[やぶちゃん注:「パン」。]を海に投じ、以て漁を乞ふに同じ(Bent, p .65)」既出のイギリスの探検家・考古学者・作家ジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。「Internet archive」で調べると、当該ページはここで、右ページ中央の以下の段落の最後に現われる。

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   Accordingly next morning we set off in a boat to cross the harbour.  As we went we had a better opportunity of realising its beauty and extent: it could hold all the navies of the world within it, and it is protected by an island at its mouth. On the western point is a mountain called the Vanis, a wild, bleak spot, on which our boatman told us that it was the custom to throw bread when they sailed out, that Vanis might eat and send them fish in return.

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「虎骨虎爪と等く、狼皮狼牙狼尾辟邪の功ありといふ支那說」(3)の本文と私の注を参照。

「大和吉野郡十津川の玉置山は海拔三千二百尺と云」奈良県吉野郡十津川村にある大峰山系の最南端の玉置山(たまきやま)。標高千七十六・四メートル(「三千二百尺」は九百六十九・七メートルで違いが甚だしい。当時の測量技術が低かったか)。

「紀州桐畑」和歌山県田辺市本宮町切畑の誤りであろう。玉置山の南西山麓に当たる。

「大なる社」玉置神社。サイド・パネルの神社画像でリンクさせた。公式サイトを調べたが、狼信仰は払拭されているようである。しかし、調べてみると、玉置山の北山麓の奈良県吉野郡十津川村高滝にある高滝神社が狼信仰を伝えていることが判った。サイト「十津川探検~瀧洞夜話」のこちらに「十津川村字高瀧神社使狼のこと」として、『高瀧神社は昔より狼を使狼となす傳へあり。明治に至るまで、所々の部落民、猪の害に困憊すれば、この宮に至り、神主に祈らせ、幣を入れた箱を白布に包み〔何人か人員を要す、途中大小便を忌む〕負はせてもらひ、帰村して之を祭る。忽ちにして、次の朝あたり、所々に猪の屍ありたるよし。中作市老に聞く』とあった。ニホンオオカミを絶滅させてしまった今、せめても、彼らを神の一員として後代に伝え残すべき義務が我々には、ある。

「以前は狐に附れしもの、いかに難症なりとも此神に祈り蟇目を行ふに退治せずと云事なく」玉置神社公式サイト内の解説に、境内内の摂社三柱神社について、『玉置神社境内に古くより鎮座されております三柱神社については謎が多く、説明が難しい』としつつ、『三柱神社は別名「稲荷社(いなりしゃ)」とも呼ばれ』るものの、『稲荷信仰が盛んになる前から地主神(じぬしのかみ)としてお祀りをされており、厄除けや心願成就さらに精神の病(ノイローゼなど)また海上安全にも特別の霊験があるとされてい』るとある。私は、ここに狼の臭いを嗅ぎ取った。

「熊野なる玉置の山の弓神樂」「弦音きけば惡魔退く」玉置神社例大祭は、毎年十月二十四日に行われるが、そこでは男性の神子が巫女の衣装を身につけて、白い弓矢を手にし、舞楽を奏する「弓神楽(ゆみかぐら)」が奉納され、その折りの歌詞が、

 熊野なる玉置の宮の弓神樂

    弦音(つるおと)すれば惡魔退(しりぞ)く

である。強力な悪魔封じの特異的な神社として中古より知られていた。悪鬼に対抗するには、私は是非とも狼が必要だと思うのである。

「犬吠の杉」玉置神社の参道の近くに「犬吠檜」(いぬぼえひのき)という枯れた株が現存する。大昔に熊野浦を襲った襲った巨大津波を告げて亡くなった「白い犬」の伝承が、かわじー氏のブログのこちらに記されてあり、oinuwolf氏のブログ「狼や犬の、お姿を見たり聞いたり探したりの訪問記―主においぬ様信仰―」にも同じ伝承が記されてある(孰れも株の写真がある)が、後者はそれを「白い狼」と記しておられる。これであろう(スギ(裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科スギ亜科スギ属スギ Cryptomeria japonica )とヒノキ(ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa )は同じヒノキ科 Cupressaceae で、しばしば混同されやすい)。]

 

序に一言するは、今日は知ず、二十年ばかり前迄、紀伊藤白王子社畔に、楠神と號しいと古き楠の木に、注連結びたるが立りき、當國、殊に海草郡、就中予が氏とする南方苗字の民など、子產まるゝ每に之に詣で祈り、祠官より名の一字を受く、楠、藤、熊など是也、此名を受し者、病ある都度、件の楠神に平癒を禱る、知名の士、中井芳楠、森下岩楠抔皆此風俗に因て名られたるものと察せられ、今も海草郡に楠を以て名とせる者多く、熊楠などは幾百人あるか知れぬ程也、予思ふに、こは本邦上世「トテミズム」行はれし遺址の殘存せるに非るか、三島の神池に鰻を捕るを禁じ、祇園の氏子胡瓜を食はず、金毘羅に詣る者蟹を食はず、富士に登る人鰶[やぶちゃん注:「このしろ」。]を食はざる等の特別食忌と併せ攷ふるを要す、上文玉置山の狼も亦、其地に多き玉置一族の「トテム」たりしに非るか

 

[やぶちゃん注:「藤白王子社」厳密には現存しないと言うべきである。「若山県神社庁」公式サイト内の「藤白神社」を見られたい。いろいろと書いてあるが、『藤白王子社跡』とある。現在は海南市藤白にある藤白神社内に跡がある。結局、消失したのは、恐らく、神仏分離のためであろう。その解説に、『境内の千年楠を子守楠神社(熊野杼樟日命)として祀り、古来畿内各地から子が生まれた時、祈願して、楠・藤・熊の名を受けると長命して出世するといわれた』。『紀州が生んだ巨人、南方熊楠もその一人である』とあり、指定文化財の項に『藤白神社クスノキ群(市指定)』とある。しばしばお世話になるMotohiko Tanida氏のサイト「巨樹と花のページ」のこちらを見るに、五本の大楠が現認出来る。熊楠が見上げたそれは今も健在だ。楠は被子植物門双子葉植物綱モクレン亜綱クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora である。

「號し」「なづけし」。

「中井芳楠」(なかいほうなん 嘉永六(一八五三)年~明治三六(一九〇三)年)は銀行家・教育者。元和歌山藩士。明治八(一八七五)年、慶應義塾卒業。和歌山藩校にて教鞭を取り。第四十三国立銀行支配人となる。明治一三(一八八〇)年、横浜正金銀行に入行、ロンドンに派遣され、支店長となる。南方熊楠と親しくしており、ロンドンから送った文章を文庫に寄贈している。

「森下岩楠」(いわくす 嘉永五(一八五二)年~大正六(一九一七)年)は官僚・教育者・実業家・ジャーナリスト。紀伊生まれ。明治三(一八七〇)年、慶應義塾を卒業後、「三菱商業学校」を創立。大蔵省書記官となるが、明治十四年の政変で辞職し、時事新報に入社。北海道庁の後援で「帝国水産」「帝国生命保険」等に勤務。明治二九(一八九六)年に探偵社「東京興信所」の所長に就任している。

「海草郡」現在はここであるが、旧郡域は、その周辺の和歌山市の大部分・海南市の大部分・有田市の一部を含む地図画面全体に広がる広域である。

「三島の神池に鰻を捕るを禁じ」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(22:鰻)」を参照されたい。

「祇園の氏子胡瓜を食はず」この話はよく知られている京都八坂神社の古い習俗であるが、私にはどうもその解明を記すものに未だ出逢っていないと感じている。例として、短いながら、多くの習俗を纏めてある「祇園商店街」公式サイト内の「神紋 胡瓜、それとも瓜 祇園さんの神紋」を引く。『京の夏野菜の代表格で、もろきゅうよし、うざくよし、浅漬けよしの胡瓜が祇園社の神紋かもという説、ご存知でしょうか』。『祇園社の神さまが胡瓜の上に降臨したので』、『その切断面を模したは俗伝で、真説は、織田信長の幟印の木瓜であるなどと、こもごも』あり、『『和漢三才図会』には、「祇園神、胡瓜の社地に入る事を禁ず。産土(うぶすな)の人、これを食ふ事を忌む」との記載があり、昔の京都では胡瓜を食べる人が少なかったようです』。『「祇園会や胡瓜花さく所まで 超波」という句があるほどで、祇園祭の行列も胡瓜畑の手前で止まるのがしきたりだったようです』。『胡瓜のさなごの形と、祇園さんの棟や神輿についている瓜の紋と類似していることから、「さわらぬ神に」と食べるのを遠慮したのでしょう』。『もっとも』、『江戸時代には、牛頭天王への供物として、初なりの胡瓜は川へ流したものとか。取って食おうと天王を追いかけてきた鬼が、胡瓜の蔓に足を取られて転倒』し、『以来』、『胡瓜は祇園の神の神使となったと伝える地方もある一方、祇園神は大の好物だったが、夢で目を傷められたから、仇の胡瓜は食べませんと、きらう地方もあります』とあるのが眼を引く。ここで判るのは、ここでは、動物ではなく、食物である植物の胡瓜そのものが「トーテム」であったことになる。因みに、胡瓜を好む動物というのは、生態学的にはホンドタヌキやにニホンアナグマがおり、日本各地に人型妖獣としての河童の好物として胡瓜を食うことを禁忌とするという伝承は多いものの、祇園神と狸・穴熊・河童の関係性は全くない。但し、「トーテム」は植物の場合もあるので、これは問題ない。

「金毘羅に詣る者蟹を食はず」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(26:蟹)」参照。但し、そこで私は注をつけながら、何故、蟹なのか? という疑問の解明には至らなかったことを言い添えておく。

「富士に登る人鰶を食はざる」私の『山中笑「本邦に於ける動物崇拜」(南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拜」の執筆動機となった論文)』に、『鰶(コノシロ) 駿河山宮の淺間の氏子、鰶を食せず。鰶を身代に葬禮して病氣快復を祈願す』とあり、さらにその後の方で、『鰶(コノシロ) 子(コ)の代(シロ)として、小兒成長を祈願し、鰶を身代りに、葬式する者あり。又、駿河富士郡大宮、及、山宮淺間の氏中は、鰶を食せぬ者あり。神女の身代りになりし魚と云ふ傳說ありて、食せぬなり』とある。しかし、この禁忌は、鰶(条鰭綱新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ属コノシロ Konosirus punctatus )が「トーテム」であるとは言えない。詳しくは「大和本草卷之十三 魚之下 鱅(コノシロ)」の本文及び私の考証を読まれたいが、古くから鰶を焼く臭いが人の亡骸を焼いた臭いに似ている(そんな事実は全くないが)という話から、穢れとして禁忌となっているもの、或いは、フレーザーの謂う類感呪術的なものが発生の根っこにあると私は考えるからである。山中の言う「神女の身代りになりし魚と云ふ傳說」は後付けに過ぎぬと思う。

「玉置一族」玉置氏は中世以降、紀州に強い勢力を持った一族であることは確かであるが、サイト「戦国大名研究」の「玉置氏」によれば、『玉置氏は、家伝によれば』、『平資盛の子が熊野に逃れ、大和吉野郡十津川村の玉置山上に鎮座する玉置社の神官となったと伝える。『太平記』には玉木荘司とみえ、その本拠は大和国十津川村折立付近であったといい、いまも十津川には玉置姓が多い』。『一説によれば玉置氏は尾張連の流れを汲むともいうが、確かな系図が伝来していないこともあって出自に関しては不明というしかない』とある。以下、南北朝以降の玉置氏勢力の詳しい経緯が記されているので読まれたい。]

 

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げ。]

 

 後筆、本文認め畢て後 Ulrich Schmidt, ‘The Conquest of the River Plate,’ trans. Dominguez, 1891, pp. 42,43 を繙くに、ラプラタに鰐あり、兵刄破る能はず、其氣人にかゝれば必[やぶちゃん注:「かならず」。]死す、此魚、井中に在る時、鏡を示し、自ら其影を見て、其顏の獰惡なるに驚き死せしむと有り、鰐の在る處瘴氣ある故、邪氣人を殺すと看做せしならん、(本草、鼉[やぶちゃん注:「だ」。]卽ち鰐、長一丈者能吐氣成雲致雨)、邪氣と邪眼の兩信一源なるを見るべし、但し、此話白人入らぬ先已に南米に行はれしにや、或は歐人、上文に述たる「コツカトリス」鏡を見て死する談を齎來[やぶちゃん注:「せいらい」。「もたらしきたった」の意か。]して、ラプラタの鰐に附會せるに非るを得んや、後考を俟つ、又三州奇談三、加賀白山、群梟と人と相詈て[やぶちゃん注:「あひののしりて」。]、聲先づ止む人は死する話あり、故に梟鳴に答へぬことゝ見えたりパンジヤブにも梟鳴に應ずれば必ず人死すと云(North India Notes and Queris, ap. Folklore, vol. v, p. 84, 1890)狸腹鼓打つに應じて、人火鉢をたゝき、續け勝つとき狸死すと云は之に似たり、爾雅に、市人爭作犬聲逐鬼車、本文に引るマレー人大喧呼して、ベリベリ鳥を厭[やぶちゃん注:「まじなひ」。]する抔同樣の迷信より出たるか、

 本文、兒啼が其身と父母一族の安危に大影響を及す事を述るに、次の吾邦に於る好例を引くを遺したれば爰に附記す、塙保己一の螢蠅抄卷四に云く、「日蓮注畫賛云、弘安四年五月、又蒙古高麗已下國兵軍兵、驅具七萬餘艘大船乘責來云々壹岐高麗船五百艘、自壹岐對馬下、見合者打殺、人民、不堪、脫將妻子逃隱深山、聞赤子泣聲押寄打殺、父母惜我命、刺殺赤子隱居云々、八幡愚童訓云々高麗の兵船五百艘、壹岐對馬に上て見合者をば打殺す、人民堪兼て、妻子を引具し深山に逃籠る處に、赤子の鳴聲を聞付て押寄殺しける程に、片時の命惜ければ、さしも愛する嬰兒を、我と泣々差殺してぞ隱れける、失子親計り、いつ迄有ん命ぞと、身ながらうたてしく泣歎く心中をいかにせん、世の中に、糸惜しき物は子也けり、其にまさるは我身也けりと讀置し、人のすさみを今ぞ知る云々、

(明治四十二年五月、人類二四卷) 

 

[やぶちゃん注:「Ulrich Schmidt, ‘The Conquest of the River Plate,’」ネット検索で「The Conquest of the River Plate (1535-1555)」「Voyage of Ulrich Schmidt to the Rivers La Plata and Paraguai, from the Original German Edition, 1567.」と書誌が出るが、作者ウルリッヒ・シュミットの事蹟や内容は不詳。

ラプラタ」アルゼンチンとウルグアイの間を流れるラプラタ川(スペイン語:Río de la Plata:リオ・デ・ラ・プラタ)。ここはワニ目正鰐亜目アリゲーター科 Alligatoridae のアリゲーター類の南限である。但し、以下の記載も、実際に人を襲撃していない呪力的な記載であることで判るが、アリゲーターは他のワニ類に比すと、おとなしく、人を襲う確率は比較的少ないとされる。

「瘴氣」(しやうき(しょうき))は熱病を起こさせるとされた山川の毒気のこと。実態は感染症の風土病であることが殆どである。

「本草、鼉卽ち鰐、長一丈者能吐氣成雲致雨」「本草綱目」の巻四十三の「鱗之一」の「鼉龍」の「釋名」の下線部。折角なので「集解」まで引いておく。

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鼉龍【「本經中品」。】

釋名 鮀魚【「本經」。】土龍 藏器曰、本經鮀魚、合改作鼉。鼉形如龍、聲甚可畏。長一丈者、能吐氣成雲致雨。既是龍類、宜去其魚。時珍曰、鼉字象其頭、腹、足、尾之形、故名。「博物志」謂之土龍。鮀乃魚名、非此物也。今依陳氏改正之。

集解 别録曰、鮀魚甲生南海池澤、取無時。弘景曰、卽鼉甲也、皮可冐鼔。性至難死、沸湯沃口、入腹良久乃剝之。藏器曰、鼉性嗜睡、恒閉目。力至猛、能攻江岸、人于穴中掘之、百人掘、須百人牽之、一人掘、亦一人牽之。不然、終不可出。頌曰、今江湖極多。形似守宮、鯪鯉輩而長一二丈、背尾俱有鱗甲。夜則鳴吼、舟人畏之。時珍曰、鼉穴極深、漁人以篾纜繫餌探之、候其吞鈎、徐徐引出。性能横飛、不能上騰。其聲如鼔、夜鳴應更、謂之鼉鼔。亦曰鼉更、俚人聽之以占雨。其枕瑩淨、勝于魚枕。生卵甚多至百、亦自食之。南人珍其肉、以爲嫁娶之敬。陸佃云、鼉身具十二生肖肉、惟蛇肉在尾最毒也。

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鼉龍【「本經中品」。】

釋名 鮀魚【「本經」。】 土龍 藏器曰はく、「本經」鮀魚、改して「鼉」に作(な)し合す。鼉、形、龍のごとし。聲、甚だ畏るべし。長さ一丈の者は、能く氣を吐き、雲を成し、雨を致す。既に是れ、龍の類なり。宜しく其の魚を去るべし。時珍曰はく、鼉の字、其の頭・足・尾の形を象る。故に名づく。「博物志」に之れを「土龍」と謂ふ。鮀は乃(すなは)ち、魚の名にして、此の物に非ざるなり。今、陳氏に依りて之れを改正す。

集解 「别録」曰はく、「鮀魚甲」、南海の池澤に生ず。取るに、時無し。弘景曰はく、卽ち、「鼉甲」なり。皮、鼔を冐(おほ)ふべし。性、至つて死し難し。沸湯、口に沃(そそ)ぎて、入ること、腹、良(やや)久しくして、乃ち、之れを剝ぐ。藏器曰はく、鼉、性、睡るを嗜(この)み、恒に目を閉づ。力、至つて猛なり。能く江岸を攻す。人、穴中に之れを掘る。百人、掘れば、須らく、百人、之れを牽く。一人、掘れば、亦、一人、之れを牽く。然らざれば、終(つひ)に出づべからず。頌曰はく、今、江湖に極めて多し。形、守宮(やもり)・鯪鯉(りやうり)[やぶちゃん注:センザンコウ。]の輩に似て、長さ一、二丈、背・尾、俱に、鱗甲、有り。夜、則ち鳴き吼え、舟人、之れを畏る。時珍曰はく、鼉の穴、極めて深し。漁人、篾纜(べつらん)[やぶちゃん注:竹を細く割って繩状にしたもの。]を以つて餌(ゑ)を繫ぎて、之れを探し、其の鈎を吞む候(ころをみ)て、徐徐に引き出だす。性、能く横飛びして、上に騰(のぼ)ること能はず。其の聲、鼔のごとし。夜、鳴きて、更に應ず。之れを「鼉鼔」と謂ふ。亦、「鼉更」と曰ふ。俚人、之れを聽きて以つて雨を占ふ。其の枕、、瑩淨(えいじやう)[やぶちゃん注:艶があって清浄なこと。]にして、魚枕に勝れり[やぶちゃん注:魚の皮或いは浮袋などで作った枕か。]。卵を生むこと、甚だ多くして、百に至る。亦、自から之れを食ふ。南人、其の肉を珍として、以つて嫁娶(かしゆ)の敬と爲す。陸佃云はく、鼉の身、十二生肖[やぶちゃん注:十二支。]の肉を具ふ。惟だ、蛇の肉は、尾に在りて最も毒あり。

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下線部はもう、龍でやんす!

『上文に述たる「コツカトリス」』(バジリスクと同じ、或いは同じ仲間)『鏡を見て死する談』(2)参照。

「三州奇談三、加賀白山、群梟と人と相詈て、聲先づ止む人は死する話あり、故に梟鳴に答へぬことゝ見えたり」私の「三州奇談卷之三 白山の梟怪」を参照されたい。金沢の伊勢派の俳諧師で随筆家堀麦水(享保(一七一八)年~天明三(一七八三)年)の「三州奇談」は加賀・能登・越中、即ち、北陸の民俗・伝承・地誌・宗教等の奇談を集成したもの。私は既にカテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を終えている。

「爾雅に、市人爭作犬聲逐鬼車」「爾雅」は現存する中国最古の字書。現在は十九編が伝わる。元は四書五経を正しく読むために作られた字書とされたが、実際には「五経」に見える語は全体の三~四割に過ぎないとされる。周公の作とも伝え、遅くとも紀元前二世紀には成立していたと思われる。訓読しておくと、「市人(いちびと)、爭ひて犬の聲を作(な)し、鬼車を逐ふ」であるが、但し、この文字列は「爾雅」にはない。全く同じものも他に見出せない。敢えていうなら、「広雅」(「博雅」とも呼ぶ字書。三国時代の魏の張揖(ちょうゆう)によって編纂されたものであるが、「爾雅」の増補版に相当する。隋代に煬帝の名の「広」を避諱して「博雅」と改題されたが、後に原書名に戻った)の巻四十五に(下線太字部は私が附した。この同じ内容は前に何度か出した)、

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九頭鳥、姑獲、渠逸、皆、鬼車也。「白澤圖」之蒼鸆孔子所見之竒鶬也。「白澤圖」言、蒼鸆有九首孔子與子夏見。竒鶬九首而歌或作九尾。此鳥海上多有智在、松江親聞之、市人爭作犬聲相逐。相傳、一頭流血、著人家卽凶。「夷堅志」言、李壽翁得之呼爲渠。逸鳥十脰環簇、其一無頭、而滴血。「玄中記」、姑獲、一名天帝少女、好取人小兒養之。㸃血其衣以爲誌。「荊楚記」言以爲、姑獲、一名勾星。衣毛爲鳥、脫衣爲女。聞者、捩犬耳滅燭禳之。

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とあるのを、熊楠が合成作文したものと思われる。

「本文に引るマレー人大喧呼して、ベリベリ鳥を厭する抔同樣の迷信より出たるか」(5)を参照。

「塙保己一の螢蠅抄」「群書類従」「続群書類従」(後者は没後に弟子たちが継いだ)の編纂者として知られる盲目の国学者塙保己一(はなわ ほきいち 延享三(一七四六)年~文政四(一八二一)年)武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)生まれで、出自は百姓とされる。五歳の時に罹患した激しい疳(かん)の病い(胃腸疾患)に罹患したのが原因で、七歳の春に失明した。十五の時、江戸に出、歌を萩原宗固、国学を賀茂真淵・山岡明阿弥に学んだ。勾当・検校・和学講談所教授を務め、安永八(一七七九)年に国学・国史を主とする一大叢書「群書類従」の大事業に着手した。同正編の叢書は寛政五(一七九三)年から文政二(一八一九)年に板行されている。晩年は総検校となった。贈正四位。「螢蠅抄」(「けいようしょう」(現代仮名遣))は蒙古襲来を中心に、外国から本邦が受けた侵攻に関する資料を集成したもの。文化八(一八一一)年自序。書名は文末に「螢火のかゝやく神五月蠅なすあしき神のあらひにてえみしらの此國にあたすることありともやかて神風に吹やふられて遂にうれひなからむ理りを世人にしらせむとてなむ」とるのに基づく。「国文学研究資料館」のオープン・データの原本を当該部(まず「日蓮注畫賛」)を見ると、熊楠の引用はかなりのカットと引用不全があることが判った。以下に原文を示し、我流で書き下す(一部の返り点には不審があるので従っていない)。

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日蓮注畫賛云弘安三年庚辰蒙古襲来於筑前州志賀嶋合戰大元兵三百七十万騎大舩七万餘艘込乘責來九州人民悉逃失【按是年襲来諸書无所見恐本書誤】同弘安四年辛巳五月又蒙古髙麗已下國ニ軍兵驅具七萬餘艘大舩乘責來爲居住世路具耕作鋤類一髙麗舩五百艘自壹岐對馬下見合者打殺人民不ㇾ堪ㇾ脫將妻子隱深山赤子泣聲押寄打殺父母惜我命殺赤子隱居

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「日蓮注畫賛」に云はく、弘安三年庚辰、蒙古筑前州志賀嶋に襲来し、合戰す。大元兵、三百七十万騎、大舩(たいせん)七万餘艘に乘り込みて、責め來たる。九州の人民、悉く逃げ失す【按ずるに、是の年の襲来、諸書に、所見、无(な)し。恐らくは本書の誤りか。】。同弘安四年[やぶちゃん注:一二八一年。]辛巳五月、又、蒙古・髙麗已下(いか)、國に軍兵を驅り具すこと、七萬餘艘、大舩に乘り、責め來たる。居住を爲(な)し、世路(せいろ)の具[やぶちゃん注:生計(なりわい)に使う農具。]を持ちて、耕作を爲し、鋤(すき)の類ひを貯ふ。髙麗舩(ぶね)五百艘、壹岐・對馬より下り[やぶちゃん注:下船して上陸し。]、見合はせる者は、打ち殺す。人民、脫(のが)るるに堪えず、妻子を將(ひきゐ)て、深山に逃げ隱る。赤子が泣聲を聞かば、押し寄せ、打ち殺せば、父母、我が命を惜みて赤子を隱居(かくれが)に刺殺すと。

   *

途中の「居住を爲(な)し、世路(せいろ)の具を持ちて、耕作を爲し、鋤(すき)の類ひを貯ふ」は唐突で不審。壱岐・対馬にいた農民のことと解しておく。文脈からは、攻めて来た兵が上陸後に長期戦に備えて一時的に農耕を行ったともとれなくもないが、孰れにせよ、前後の文からどうも浮いている。元々の詞書が判らないので何とも言えないが、島民の者であることを示す脱字が私には疑われる。

以下、「八幡愚童訓」の部分。原本はここ。これは、熊楠、かなりしっかりと正しく引いている。後に自己流に訓読文を添えて終わりとする。

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八幡愚童訓云弘安四年ノ比蒙古ハ大唐髙麗已下ノ國〻ノ兵共ヲ駈具シテ三千余艘《十万七十八百余[やぶちゃん注:上記の右傍注。「イ」は「異本」の略号。]》ノ大舩ニ數千万人乘列テコソ来ケレ其中髙麗ノ兵舩五百艘壹岐對馬ニ上テ見合者ヲハ打殺ス人民堪テ妻子ヲ引具深山ニ逃篭ル處ニ赤子ノ鳴聲ヲ聞付テ押寄殺ケル程ニ片時ノ命惜ケレバサシモ愛スル嬰兒ヲ我ト泣〻差殺シテゾ隱レケル失ㇾ子親計リイツ迄アラン命ソト身ナカラウタテシク泣歎心中ヲイカニセン世中ニ糸惜キ物ハ子成ケリ其ニマサルハ我身ナリケリト讀置シ人ノスサミヲ今ソシル

   *

「八幡愚童訓」に云はく、弘安四年の比(ころ)、蒙古は大唐・髙麗已下の國々の兵共(へいども)を駈(は)せ具して、三千余艘《異本「十万七十八百余」》の大舩に數千万人、乘せ列ねてこそ、来りけれ。其の中、髙麗の兵舩、五百艘、壹岐・對馬に上がりて、見合す者をば、打ち殺す。人民、堪え兼ねて、妻子を引き具し、深山に逃げ篭(かく)るる處に、赤子の鳴き聲を聞き付けて、押し寄せ、殺しける程に、片時の命、惜(を)しければ、さしも愛する嬰兒を、我(われ)と[やぶちゃん注:自ら。]泣々(なくなく)差し殺してぞ隱れける。子を失ふ親計(ばか)り、「いつ迄あらん命ぞ」と、身ながら[やぶちゃん注:我ながら。]、うたてしく、泣き歎く心中を、いかにせん。「世の中に糸惜(いとをし)き物は子成(なり)けり 其れにまさるは我が身なりけり」と讀み置きし、人のすさみを、今ぞしる。

   *]

2021/01/17

怪談登志男 七、老醫妖古狸

 

    七、老醫妖古狸(らうゐこりにはかさる)

 

Hitotume

 

[やぶちゃん注:挿絵。国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像をトリミングした。]

 

 中華の諺に、「良醫は福醫にしかず、明醫は時醫におよばず」といへり。時醫(じゐ)とは、其時にとりて、世に擧用(きよやう)せられ、百發百中の效もあるやうに、もてはやさるゝ流行(はやり)醫者なり。福醫とも、これをいふ。

 今はむかし、江都に、陸野見道(くかのけんどう)とかや云し福醫ありしが、ある時、番町邊(へん)の澤氏とかや、いへる人の許より、使者を以て、

「内室の病氣以の外なり。御見𢌞賴奉る。」

よし、

「心得候。」

とて、疾(とく)、宿を出、序(つゐで)ながらの見𢌞、四、五軒も勤しに、おもはず、日も晚景におよぴけるが、澤氏の宅に尋(たつね)行、玄關へ仕懸(しかけ)、

「斯(かく)。」

と云入ければ、取次、下座むしろに飛下り、

「主人、『今は公用につき、他行致候が、御出候はゞ、此段を申、暫(しばらく)、御通り被ㇾ下、御待下さるべき』よし、申置て罷出候。追付、歸宅可ㇾ致間、先、御通り被ㇾ成べし。」

と、座敷へ案内して、入ぬ。

 見道、初て見𢌞たるに、

「亭主留守にて殘念なれども、病用に來り、待(まち)兼て歸るも、率爾(そつし)ならん。」

と、座敷に至りて、其住居を見などして、待居たるに、多葉粉盆を持て出、茶など運(はこび)ける小僧、其年の程、漸(やうやう)十二、三斗なるが、立振(ふる)𢌞[やぶちゃん注:「たちふるまひ」と読んでおく。]、小ざかしく、眼(まなこ)ざし、凡(たゝ)者ならず。

「其方の名は、何とか申。」

など、手など、取て愛(あい)しけるに、はづかしげに赤面して、次の間に、はしり、ふりかへりたる姿、顏の大さ三尺斗、二つの眼、一つになりて、額にあり。

 鼻、ちいさく、口、大きにして、見道をうち詠(ながめ)て、消(きへ)うせたり。

 見道も、人にかはりし剛氣者にて、怪しくはおもひながら、立さりもせず、

「猶も、あやしき事や、ある。」

と、心を付る折ふし、主(あるじ)の何某(なにがし)、

「歸り來りし。」

とて、座敷へ立出、一禮、事終り、内室の樣躰(やうだい)など物語し、

「嘸(さぞ)、待久しく、おはしけん。無禮の至り、御免あるべし。然ば、貴殿の顏色(がんしよく)、何とやらん、心得がたく相見へ候。いかゞ候やらん。」

と尋られ、見道、しばらく『穩密(おんみつ)せん』と思ひしが、

「以後迚(とて)も、人々の心得にも成なん。」

と小聲(こゝゑ)に成て、

「先刻、かやうかやうの怪(あやし)みありし。」

と語りければ、主、打わらひ、

「扨々。彼(かの)法師めが、出(いで)て候や。例(れい)の顏(かほ)ばせ、御覽じたるか。いつも、いつも、罷出、しらぬ人をおびやかし候が、けふは、いかなるふるまいをか、なしつる。もし、かやうには、なかりしか。」

といふ、其かほ、見るうちに、大さ三尺斗、口は、耳の根まで裂(さけ)、眼、たゞひとつ、額に光り、はじめ見し小僧に十倍して、さしも肝ぶとき見道も、魂(たましい)も身にそはず覺へて、玄關へ、はしり出、睡(ねふ)り居ねる供の者を呼(よび)起せしに、皆々、歸りたると見へて、草履取、只一人、居たるが、

「何事か、おはしつる。騷々敷(そうそうしく)見えさせ給ふ。」

といふを、いらへもせで、はしり行しに、提灯は、なし、闇(くら)さはくらし、

「いかゞせん。」

といふを、草履取、

「いや。くるしからず。ちやうちんは、これに、候。」

といふ言葉の下より、道、はなはだ、あかるくなりて、這(はふ)蟲のすがたも見ゆべく、四方、燦然たり。

「こは、ふしぎや。」

と、下部が姿を見れぱ、面は、長きこと、二尺餘り、まなこは、日月のごとくかゞやき、口より、火炎を吹出しければ、見道、今は、たまりかね、

「はつ」

といゝて、倒れしが、其後は、何とも覺えず、と後に語りし。

 かくて見道が宿にては、

「供の者は、皆、返して、初ての所に、斯(かく)、長座し給ふこそ、心得ね。いざ、さらば、迎(むかい)にゆかん。」

と、提灯とぼし、つれて、晝行し所へいたり、屋敷のさまを見るに、大きに、樣子、かはりて、門、もふけたり[やぶちゃん注:「設けたり」。]といへども、柱、かたぶき倒れ、軒端は荒(あれ)て、月さし入りたる、くまぐまには、蜘(くも)の家居の糸引はへたる、あづま屋の、餘りにあきれ果(はて)、近所の町屋に立寄、

「あれなる屋敷は、いかにや、荒たる住居ぞ。」

と、とへば、

「あの化物やしき、しらざるは、きのふ、けふ、田舍より來りし人々にや。年ふりたる荒地にて、東隣(となり)の石澤氏より預りながら、人の通路も絕(たへ)て、狐狸(きつねたぬき)のみ、住居し侍る、おそろしき所なり。」

といふに、肝、つぶれ、

「晝、供して來りし時は、『いみじ』と見へし屋敷なりしに。扨は。妖怪の所爲(しよい)なりける。さるにても、主人はいかゞし給ひけん。」

と、千駄谷(せんだがや)、大番町の邊、かなた、こなた、さまよひ、漸(やうやう)、「鮫(さめ)が橋」に至りて、物淋しき藪道に、見道は、うつぶしに倒れ居しを、見付出して、大勢にて、取卷、介抱して、宿へつれ歸りけれど、一日、二日は、茫然として、ものも、えいはで、居りし。

 一月餘、惱(なやみ)て、やうやく、元のごとく、なりけるとぞ。

 是を、聞人、おそれて、其邊を通る人も、なかりし。

 後に聞ば、古狸のわざなるよし。

 其以後、古狸を駈(かり)出せしが、今は其跡もなく、人も住居し、いづくとも、さだかに知る人さへなく、繁昌の地となりける。

 

[やぶちゃん注:実は底本では「古狸妖老醫」(「こり、らういをばかす」と読んでおく)である。原本のそれを採った。

『中華の諺に、「良醫は福醫にしかず、明醫は時醫におよばず」といへり。時醫(じゐ)とは、其時にとりて、世に擧用(きよやう)せられ、百發百中の效もあるやうに、もてはやさるゝ流行(はやり)醫者なり。福醫とも、これをいふ』原拠は不明であるが、貝原益軒の「養生訓」の「擇ㇾ醫」(醫を擇(えら)ぶ)に、

   *

文學ありて、醫學にくはしく、醫術に心をふかく用ひ、多く病になれて、其の變(へん)をしれるは、良醫なり。醫となりて、醫學をこのまず、醫道に志なく、又、醫書を多くよまず、多くよみても、精思の工夫(くふう)なくして、理に通ぜず、或は、醫書をよんでも、舊說になづみて、時の變をしらざるは、賤工也。俗醫、利口にして、「醫學と療治とは別の事にて、學問は、病を治するに用なし」と云て、わが無學をかざり、人情になれ、世事に熟し、權貴(けんき)の家に、へつらひ、ちかづき、虛(きよ)名を得て、幸にして世に用ひらるゝ者、多し。是れを名づけて「福醫」と云、又、「時醫」と云。是、醫道には、うとけれど、時の幸ありて、祿位ある人を、一兩人療して、偶(ぐう)中すれば、其の故に名を得て、世に用ひらるゝ事、あり。才德なき人の、時にあひ、富貴になるに同じ。およそ、醫の世に用ひらるゝと、用ひられざるとは、良醫のゑらんで、定むる所爲(しわざ)にはあらず。醫道をしらざる、白徒(しろうと)のする事なれば、幸にして、時にあひて、はやり行はるゝとて、「良醫」と、すべからず。其の術を信じがたし。

   *

とある(「中村学園大学」公式サイト内の「貝原益軒アーカイブ」にある九州大学医学部教授貝原守一博士(益軒の子孫)の校訂本PDF版 (昭和一八(一九四三)年福岡市で発行されたもの)の「20」コマ目を参考に視認した)。また、少し後(「21」コマ目)には、

   *

醫師にあらざれども、藥をしれば、身をやしなひ、人をすくふに益あり。されども、医療に妙を得る事は、醫生にあらざれば、道に專一ならずして成がたし。みづから、医薬を用ひんより、良醫をえらんでゆだぬべし。醫生にあらず、術あらくして、みだりに、みづから、藥を用ゆべからず。只、略醫術に通じて、醫の良拙をわきまへ、本草をかんがへ、藥性と食物の良毒をしり、方書をよんで、日用急切の藥を調和し、醫の來らざる時、急病を治し、醫のなき里に居(をり)、或は、旅行して小疾をいやすは、身をやしなひ、人をすくふの益あれば、いとまある人は、すこし心を用ゆべし。醫術をしらずしては、醫の良賤をもわきまへず、只、世に用ひられるを良工とし、用ひられざるを、賤工とする故に、醫說に、明醫は時醫にしかず、といへり。醫の良賤をしらずして、庸醫[やぶちゃん注:凡庸な医師。]に、父母の命をゆだね、わが身をまかせて、醫にあやまられて、死したるためし、世に多し。おそるべし。

   *

ともある。しかし、どうもこれでは、それらの違いは明白ではないように思われるが、益軒は「明医」は過去の実績で評価される者を指し、優秀ではあるものの、定説に捕われて、日々の研鑽や努力を怠るだめな医師だと断じ、一方で、「時医」は時流に即して患者を診る流行(はやり)医者であるが、同時に進歩し続ける医の世界の智を吸収し、最前線で研究と研鑽を積む真の医師であると言っているらしい。「明医」は碩学の理論に拘る旧来然とした時代遅れの医師であり、「時医」は現在と未来を見据えた臨床医とし評価しているようである。則ち、益軒は本当の確かな「時医」を選ぶことが肝要だと言っているようである。なお、この最後の部分では、こちらの記事を参考にさせて貰った。

「陸野見道(くかのけんどう)」原本通り。「くがの」であろう。人物不詳。

「番町」現在の皇居より西に位置する一帯で、南の「新宿通り」、北の「靖国通り」に挟まれ、東端は「半蔵濠」から「牛込見附」、西端は「JR東日本中央線」が走る旧江戸城の外濠跡に当たる。現在のこの附近(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「番町」によれば、『江戸時代の旗本のうち、将軍を直接警護するものを大番組と呼び、大番組の住所があったことから』、『番町と呼ばれた。大番組は設立当初、一番組から六番組まであり、これが現在も名目だけ一番町から六番町に引き継がれている。しかし』、『江戸時代の大番組の組番号と、現在の町目の区画は一致しない。江戸時代の番町の区画は、通りに面して向かい合う二連一対の旗本屋敷の列を基準に設定されたものだからである』。『概念的に説明すると、江戸城の内堀に面する縦軸の番町として、千鳥ヶ淵に沿った南北に走る道(現青葉通り)を基準に一/二番町(新道一/二番町)が置かれた。次に江戸開府以前からの古道である、東西に走る麹町通り(新宿通り)を横軸にし、それに平行する道路を基準に、麹町通り側から北上して、裏/表二番町、裏/表六番町(表六番町は現在の二七通り沿い)、三番町(現在の靖国通り沿い)、表/裏四番町(靖国神社境内の北半分から富士見町一帯)と配置されていた』。『五番町だけは新道一番町の南側に続く半蔵壕に面した地区(現英国大使館とその裏側)とされ面積も狭い。西に連なる麹町通りの北側は、千鳥ヶ淵に連続する水面を埋め立てた谷間の低地(麹町谷町)を中心にして元園町とされているが、江戸切絵図(尾張屋版「番町大絵図」など)によれば、さらに西側の四谷見附寄り(現在の千代田区二番町と麹町四丁目の境界付近)まで五番町と表示されているところから、本来の五番町は、麹町通りの町人地の北側に沿って細長く設定されていたものと考えられる』。『また』、『直線状の区画から外れた堀端の三角地帯を、土手三番町(現五番町)や土手四番町(現富士見二丁目一帯)、堀端一番町(現千鳥ヶ淵戦没者墓苑一帯)などと呼んで、番町の独立した一街区とした』。『近代以降、番町の区画は何度か改編されて』おり、『全く別の場所に新たに一番町・四番町・五番町が設定されるなど、番町の数字順は大きく入れ替わっている』。『このため』、『近代の文学作品や記録を考証するときには注意が必要である。例えば、現在の四番町は、もと中六番町であり、明治~大正時代の四番町は九段北四丁目・三丁目の一部(三輪田学園中学校・高等学校周辺)であった。また現在の五番町は市ケ谷駅前にあるが、昔の五番町は英国大使館周辺であった』。『塀をめぐらし、樹木が鬱蒼とした中に、人気のない古い旗本屋敷が連なる地域であったことから、「番町皿屋敷」や「吉田御殿」「番町七不思議」などの怪談が生まれた。表札もなく、同じような造りの旗本屋敷ばかりが密集しており、住民でさえ地理を認識することが困難であったため』、『「番町の番町知らず」という諺が流布した』とある。

「澤氏とかや、いへる人」後で「東隣(となり)の石澤氏」の「預り」地とあるので、もしや、モデルがあるかと思い、切絵図を調べてみたが、目が痛くなるばかりで、諦めた。

「御見𢌞」「おんみまはり」。往診。

「率爾(そつし)」「そつじ」。相手に対して無礼であること。

「凡(たゝ)者ならず」「ただものならず」。この時には普通の顔らしく見え、且つ、美童であったのである。

「手など、取て愛(あい)しけるに」ここで、この陸野見道が、救いがたい好色な藪医者なることが、確かに示されるわけである。そもそもが、急病往診に呼ばれたのに、その途次に別な往診を複数こなし、しかも夕方になって、先の屋敷に趣くなど、最早、見下げた医師であることは、判然としていたのである。

「待久しく」「まちびさしく」或いは「まち、ひさしく」。長くお待たせし、の意。

「穩密(おんみつ)せん」怪異のあるは、武家にとって不名誉なれば、内密にして、言わずにおいた方がよかろうと当初は思ったのである。

「以後迚(とて)も」「これ以降、何か御座った場合を、これ、考えましても。」。

「騷々敷(そうそうしく)」歴史的仮名遣は「さうざうしく」が正しい。

「道、はなはだ、あかるくなりて、這(はふ)蟲のすがたも見ゆべく、四方、燦然たり」ちょっとした気遣いだが、ここは、リアリズムの出し方が上手い。

「其後は、何とも覺えず、と後に語りし」この怪異を離した聴き手(時制がかなり昔のことと設定されているからには作者ではあるまい)に、直接、見道が語ったという補足で、怪奇談としては、やはり、リアリズムを出す方途として考えてある部分である。

「長座」「ちやうざ」か。或いは当て訓して「ながゐ」がよいか。

「蜘(くも)の家居の糸引はへたる、あづま屋の」蜘蛛の巣(「家居」)が糸を引いてみっちりと生えたようになっている四阿(あずまや)のさまに。

「千駄谷(せんだがや)」現在の東京都渋谷区千駄ケ谷で代々木駅附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。番町の西方。

「大番町」番町の異名・広域名で、先の千駄ヶ谷や四谷(現在の新宿区大京町(だいきょうちょう)などに、その名が嘗て添えられてもあった。

「鮫(さめ)が橋」鮫河橋(さめがはし)は桜川支流鮫川に架けられていた橋及びその周辺の地名。現在の新宿区若葉二・三丁目及び南元町一帯を指す。この附近。江戸時代は岡場所があった。「今昔マップ」で見ると、「元鮫河橫町」という地名が認められる。迎賓館の北西直近に当たる。]

奥州ばなし 砂三十郞

 

     砂三十郞

 

 鐵山公と申せし國主の御代には、「ちから持」といはれし人も、かれ是、有《あり》し中に、砂(いさご)三十郞と云《いひ》し士、男ぶりよく、大力にて、知惠うすく、みづから力にほこりて、大酒なりしが、酒に醉《ゑひ》て歸る時には、夜中、通りかゞり次第に、辻番所を引《ひき》かへすが、得手物にて、度々のことなりし。寺にいたりては、つき鐘をはづしてこまらせなど、大の徒人(いたづら《びと》)なり。

「細橫町《ほそよこちやう》といふ所に、あやしきものゝ出《いづ》る。」

と聞《きき》て、三十郞、行しが、餘り歸のおそき故、跡より、行《ゆき》てみたれば、塀(へい)かさ[やぶちゃん注:「塀笠」。]の上に、またがりて居たり。

「何故、そこにはのぼりし。」

と、聲かけしかば、

「いや、此馬の口のこわさ、中々、自由、きかぬ。」

と云て有しとぞ。

「とく、ばかされしぞ。」

とわらはれて、心付しとなり。

 其ころ、淸水左覺と云し人も、大男に大力なりしが、おとなしき人にて、さらにいたづらはせざりしが、三十郞と、常に力をあらそひて、たのしみしとぞ。

 左覺、三十郞にむかひ、

「その方、力自慢せらるれど、尻の力は、我にまさらじ。先《まづ》、こゝろみよ。」

とて、尻のわれめに、石をはさみて、三十郞にぬかせしに、拔《ぬき》かねて有しとぞ。

 左覺は、我《わが》おもふ所に、一身のちからを集《あつむ》ることを、得手《えて》たりし。

 三十郞、男だてに、いろいろの惡食《あくじき》をせしとぞ。

「何にても、食《くひ》たるものを、はかん。」

といふに、心にしたがひて、はかれしとぞ。

 是、一藝なり。昨日、食《くひ》たるこんにやくのさしみを、味噌とこんにやくと、別々に、はきてみせなど、したりき。

 さかやきをすらせる時、頭中《あたまぢゆう》にちからをあつむれば、髮そり、をどりて、すられざりし。

 ある時、酒の肴《さかな》に、うなぎを、生《いき》ながら、食《くはん》とせしに、早く、手をくゞりて、腹中《はらなか》ヘ一はしりに入《いり》しとぞ。腹中にてうなぎのあばれしこと、やりにて、つかるゝ如く、さすがの三十郞も、大《おほい》によはり、鹽壱升を、なめつくしても死せず、にごり酒二升、たてのみに仕《し》たりしかば、是にて、うなぎ、しづまりしとぞ。

 この惡食にて、四、五日、腹の病《やまひ》にふしたりし。見廻《みまはり》に、左覺、來りて、やうす見合《みあはせ》、

『又々、なぶらん。』

と思ひて、

「いや、そこもとは、いろいろ、惡食せらるれども、犬の糞(くそ)は、くはれまじくや。」

と、とふ。三十郞、

「いや、是は、一向、氣なしなり。」

と、こたふれば、

「われらは、たて引《びき》なれば、食《くふ》てみせやう。いざ、ゆきて、みられよ。」

と、すゝめて、うす月夜のことなりしが、かねて、麥こがしをねりて、きれいなる石の上に、糞のごとく、つきかけて置しを、

「むさ」

と、つかみて食《くひ》てみせしかば、三十郞、大あやまりなりしとぞ。【昨日、當作饗《まさにつくれるあへ》、食物、既に腹内《はらうち》に入れば、半時にして消化せざること、なし。さるを、昨曰くらひしものを、一夜歷《ひとよへ》て、そがまゝに吐くこと、理《ことわり》のなき所なるべし。解[やぶちゃん注:曲亭馬琴の本名。]、云《いふ》。】

 度々、江戶づめもしたりしが、新橋の居酒屋へ入《いり》て、酒をのみてゐたりし内、はき物を、とられしとぞ。【此頃までは、みだりに履物をとらるゝことも、なかりしなり。この時より、江戶中、客のはき物を、しまつすること成《なり》し、とぞ。大あばれして、町人に仕置せしは、三十郞が手柄なり。】歸らんとおもひて見るに、はきものなければ、亭主をよびて、

「はきものゝしまつせぬこと、あしゝ。」

と、りくつ、云《いひ》かゝる。亭主は、

「しらぬ。」

よし、こたへしかば、大《おほい》にいかりて、

「此みせに有《ある》うちは、且那なり。『だんなの、はき物、しらぬ』といはゞ、よし。その過怠(くわたい)に、酒代、はらはじ。」

と云《いふ》を、

「それは、いかにも、御無理なり。」

といふ時、醉《ゑひ》きげんのあばれぐさに、

「さあらば、食《くひ》しものは、吐《はき》て、かへすぞ。」

と、いひながら、かの得手ものゝ分《わけ》ばきに、酒は、ちろりに、肴は、鉢に、味噌は、猪口《ちよく》と、其《その》入《いり》たりし器々《うつはうつは》へ、吐《はき》ちらすを見て、

『あばれもの。』

と思ひ、かやうの時、とりしづむる爲、かねて、たのみおきし若きもの、五、六人、つれ來《きたり》、かゝらせしに、片手につかみて、人つぶてに、打《うち》し故、

「すは、こと、有《あり》。」

とて、むらがる人を、なげのけ、なげのけ、屋敷をさしてもどる道筋、

「あばれもの、あばれもの。」

と聲かけしかば、何かはしらず、棒を持《もち》て出《いづ》る人あれば、とりかへして、なぐりのけ、

「はしごをもちて、とゞめん。」

とすれば、又、とり返して、むかふの人を、兩方へ、なぐり、なぐりて、おしとほる故、木戶を打《うち》しも[やぶちゃん注:閉じたところが。]、おしやぶり、むらがる人中《ひとなか》を、平地《ひらち》の如く、大わらはに成《なり》て、かへり、白晝に、はだしにて、御門《ごもん》へ入《いり》しかば、早々、仙臺へ、追《おひ》くだされたりき。

 さりながら、

「氣味よき、あばれやうなりし。」

と、人々、かたりき。

 三十郞、娘兩人、有しが、とりどり、美女、大力《だいりき》なりし。

 姊、七ツなりしころ、大根漬《つけ》るに、

「おもはしき、おし石、なし。」

と云しを聞《きき》て、川近き家なりしかば、河原にいたり、

「是や、よからん。」

と思ふ石を、ひとり、とり持て、家に來り、

「此石が、よかろふ。」

と云しを見るに、子共《こども》の持《もつ》べしとも思はれぬ大石《おほいし》なりしかば、見る人、おどろき、

「其やうな大石を、子共はもたぬもの。」

と、しかりしかば、『ほめられん』と思ひし、心、たがひて、いそぎ、手をはなせしに、足の上に當《あたり》て、ゆび、壱本、ひしげし、とぞ。

 其石を、かたづけんとせしに、大男、兩人して、やうやう、うごかしたりき。

 外《ほか》に嫁しては、力は、かくして、さらに出《いだ》さゞりしが、ある年のくれに、年始酒《ねんしざけ》を作りて有しが、置所《おきどころ》、あしかりしを、

「置直《おきなほ》すには、皆、とり分《わけ》て、せねばならぬ。」

と云し時、

「このまゝにて、もたるゝや、いなや、心みん。」

とて、手も𢌞《まは》らぬほどの大桶《おほをけ》に、酒の、なみなみと入《いり》たるを、かろがろと、外の所へもち行《ゆき》て、すゑたりし、とぞ。

 次の娘は、八才より、江戸の御殿につとめて有しが、誰《たれ》も力の有《あり》とはしらざりしに、御風入《おんかざいれ》有しころ、俄《にはか》に夕立して、雨の落かゝりたれば、外に出して有し長持を、片手打《かたてうち》に、上へなげ入《いれ》たりしを見て、

「力、有《あり》。」

とは、人、しりたりし。葉賀皆人《はがみなと》といふ人の妻と成《なり》て終りし。

 

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年実業之日本社刊の熊田葦城(くまだいじょう:文筆家で歴史学者。報知社(現在の報知新聞社)の編集局長などを務めた。徳富蘇峰と親交し、彼と同じくジャーナリストとして歴史に関わる著作物を多く出版した)著「少女美談」のこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)に、本篇の後半部がやや表現に手を加えた形で載っている。流石に、この標題の本に「犬の糞云々」の話のカットは仕方ない。なお、「葉賀皆人」の読みは、そのルビに従った。

「鐵山公と申せし國主の御代」「白わし」で既出既注であるが、再掲すると、仙台藩主に「鐡(鉄・銕)山公」という諡号の藩主はいない。「鐡」「鉄」「銕」の崩し字を馬琴が誤ったか、底本編者が判読を誤ったかしかないと感じる。可能性が高いと私が思うのは、「鉄・銕」の崩しが、やや似ている「獅」で、獅山公(しざんこう)は第五代仙台藩藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)を指し(戒名「續燈院殿獅山元活大居士」。諡号「獅山公」)、元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。本書は文政元(一八一八)年成立であるが、例えば、真葛は、名品の紀行随想「いそづたひ」の中で、鰐鮫への父の復讐を果たした男の話の聞き書きを、「獅山公」時代の出来事、と記している。

「砂三十郞」不詳。

「辻番所を引《ひき》かへす」「引きかへす」というのは、「引っ繰り返す」で、無体な乱暴狼藉を働くということであろう。

「細橫町」現在の仙台市中心部を南北に走る幹線道路の一つである晩翠通(ばんすいどおり)の旧称。同ウィキによれば、『かつてこの通りの大部分は細横丁(ほそよこちょう)と呼ばれていた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「いや、此馬の口のこわさ、中々、自由、きかぬ」塀笠に跨っている訳だから、化かされて、塀を生き馬と錯覚させられている(笠は鬣(たてがみ)で腑に落ちる)為体(ていたらく)なのである。

「淸水左覺」取り敢えず「しみづさかく」と読んでおく。

「心にしたがひて、はかれしとぞ」南方熊楠と同んなじだ!!!

「たてのみ」立て続けに休まず一気に呑むことことであろう。

「いや、是は、一向、氣なしなり。」「さても、いやいや、それは、いくら何でも、全く食う気にはならんよ。」。

「たて引《びき》なれば」「立て引く」は「達て引く」などとも書き、「義理を立て通す・意地を張り合う」の意であるから、ここは「私が、かくも言い出したからには意地がある。食うて見せよう!」と言ったものであろう。

「麥こがし」「麦焦がし」「麦粉菓子」とも書く。大麦や裸麦を炒って、挽き粉末にしたもの。関西では「はったい粉」「炒り粉」とも呼ぶ。砂糖を混ぜて粉末のまま食べたり。熱湯や牛乳を注いで練って食べたりする。和菓子の落雁の材料でもある。安土桃山時代から、湯水に点じて、「こがし」 (今日の香煎(こうせん)に同じ)として好まれた。

「ちろり」酒を燗するための容器で、酒器の一種。注(つ)ぎ口と取っ手の附いた筒形で、下方がやや細くなっている。銀・銅・黄銅・錫などの金属でつくられているが、一般には錫製が多い。容量は一合前後入るものが普通。「ちろり」の語源は不明だが、中国にこれに似た酒器があることから、中国から渡来したものと考えられている。江戸時代によく使用された。

「猪口」「ゐぐち」「ちよこ(ちょこ)」とも読める。日本酒を飲む際に用いる陶製の小さな器。上が開き、下のすぼまった小形の盃(さかずき)。江戸時代以降に用いられた陶製の杯について称する。

「人つぶてに」拳固(げんこ)で。

「平地の如く」何の障害物もないかのように。

「白晝に、はだしにて、御門へ入しかば」この酒を飲んだ果ての大立ち回り、実は真っ昼間だったわけだ! 御門は仙台藩下屋敷であろう。品川区東大井(鮫洲)にあった(グーグル・マップ・データ)。

「ひしげし」潰れた。拉(ひしゃ)げた。

「御風入」夏の土用に、虫害や黴(かび)を防ぐために、屋敷全体に風を入れたり、仕舞ってある物品などを、庭や座敷に出して陰干しすることを指す。

「片手打に」片手だけでヒョイと取り上げて。

「葉賀皆人」不詳。]

2021/01/16

奥州ばなし 上遠野伊豆

 

     上遠野伊豆

 

 上遠野伊豆《かどのいづ》と云し人、明和・安永[やぶちゃん注:一七六四年~一七八一年。]の頃、つとめし人なり。【祿八百石。】武藝に達せしうへ、分《わき》て、工夫の手裏劍、妙なりし。針を一本、中指の兩わきにはさみて、なげいだすに、その當《あたり》、心にしたがはずといふこと、なし。元來、この針の工夫は、

「敵(てき)に逢《あひ》し時、兩眼をつぶしてかゝれば、いかなる大敵にても、おそるゝにたらず。」

と、思ひつきしことゝぞ。

 常に針を兩の鬢(びん)に、四本づゝ、八本、かくしさして置《おき》しとぞ。【此世の頃までは、いまだ、こわき敵も有《あり》つらんによりて、かくは思《おもひ》よりつらん。今の世人の弱きこと、たとへに取《とり》がたし。】

 先々《さきざき》國主の御このみにて、うたせられしに、御杉戶の繪に、櫻の下に駒の立《たち》たる形、有《あり》しを、

「四ツ足の爪を、うて。」

と有しかば、二度に打《うち》しが、少しも、たがはざりしとぞ。

 芝御殿類燒の前は、その跡、たしかに有し。

 昔、富士の御狩《おんかり》には、仁田の四郞、猪にのりし、といふより、工夫にて、御山追《おんやまおひ》[やぶちゃん注:藩主による鳥獣の山狩り。]の度每《たびごと》に、いつも、猪に乘し、と云《いひ》傳ふ。

 正左衞門繼母(けいぼ)は、上遠野家より來りし人なり。【この伊豆には[やぶちゃん注:にあっては、の意。]、また、甥なり。】この人のはなしに、

「伊豆は、狐をつかひしならん、あやしきこと、有《あり》。」

と云しとぞ。

 手裏劍と、猪にのるとの工夫など、あやうきことなり。さるを、

「なるや、ならずや。」

といふことを、とひあはするもの有《あり》て、

「思立《おもひたち》しことなり。」

と語《かたり》しとぞ。されば、正左衞門も、飯綱(いづな)の法、習はんとは、せしなるべし。 

 八弥、若年の頃迄は、伊豆も老年にてながらへ有しかば、夜ばなしなどには、猪にのることを、常に語りて有しとぞ。

「逃てゆく猪にはのられず、手追《ておひ》[やぶちゃん注:「手負ひ」。]に成《なり》て、人をすくはん[やぶちゃん注:「掬(すく)はん」であろう。鼻と牙で下から掬うように襲うことであろう。]とむかひ來る時、人の本《もと》[やぶちゃん注:直前。]にいたりては、少し、ためらふものなり。その時、さかさまに、とびのるなり。猪は、肩骨、ひろく、尻のほそきもの故、しり尾にすがりて、下腹にあしをからみてをれば、いかなる藪中《やぶなか》をくゞるとても、さはらぬものなり[やぶちゃん注:背にある自分のことを襲うことは出来ぬものなのである。]。扨(さて)、おもふまゝ、くるはせて、少し弱りめに成たる時、足場よろしき所にて、わきざしをぬきて、しりの穴に、さし通し、下腹の皮をさけば、けして[やぶちゃん注:決して。]、仕とめぬことなし。」

と云しとなり。

「手利劍は[やぶちゃん注:ママ。]、一代切《いちだいぎり》にて、習《ならふ》人、なかりき。尤(もつとも)人のならはんといふこと有ても、元來、人にをしへられしことならねば、何と、つたふべきこともなし。たゞ、氣根(きこん)よく[やぶちゃん注:根気よく。]、二本の針を手につけてうちしに、おのづから得しわざなり。」

と答しとぞ。八弥にも、

「とせよ、かくせよ。」

と、其はじめをつたヘられし故、少しはまねびしが、終《つひ》に、なし得ざりし、とぞ。

 

[やぶちゃん注:「上遠野伊豆」上遠野広秀(かどのひろひで 生没年不詳)は江戸中期の兵法家で剣客。願立(がんりゅう)流剣術・上遠野(かどの)流手裏剣術の使い手で、特に手裏剣の名人として「手裏剣の上遠野」と称された。伊豆守は通称。参照したウィキの「上遠野広秀」によれば、『上遠野氏は旧姓』は『小野氏』で、応永一一(一四〇四)年に『磐城国菊田庄(菊多郡、現いわき市)上遠野に住んだことから』、『この地名を名乗るようになった。第』十『代上遠野高秀(伊豆守)が伊達政宗に招かれて家臣となり』八百四十三『石を扶持された。広秀は明和、安永』『の頃の人で、仙台藩で』三『千石取りとなっていた。家伝の願立』流剣術(正しくは単に「願立剣術」と呼ぶ)『のほか、独自に手裏剣術を工夫した』。『広秀が手裏剣の技を工夫したのは、相手の眼を潰してしまえば』、『いかなる大敵でも恐るるに足りない、という考えからであったといわれる。広秀はいつも両の鬢に』四『本ずつ、計』八『本の針を差しており、この針を指の脇にはさんで投げると』、『百発百中といわれた。広秀は「手裏剣の技は一代限りのもので、教えてもらって上達するものではない。根気よく自分で工夫して針』二『本打つことを習得すれば、自然に上手になる。」と語ったという』。『あるとき、仙台藩』七『代当主、伊達重村』(在職は宝暦六年(一七五六)年七月から寛政二(一七九〇)年(隠居)まで)『が江戸・芝の上屋敷で、御杉戸の絵に、桜の下に馬が立っている図を見て、この馬の足の爪に針を打ってみよ、と命じたところ』、二『本打って』二『本とも』、『命中した。このときの針の痕は、後に上屋敷が焼失するまで残っていたという』。『また』、『治承・寿永の乱(源平合戦)の昔、仁田四郎が富士の巻狩りで猪の背に乗ったという逸話を聞き、広秀も山狩りのたびに猪を見つけて飛び乗ることを得意とした。広秀は、猪の背に後ろ向きに乗り、尻の穴に脇差を刺し通せば』、『必ず』、『仕留めることができる、といったという』。『また、広秀の打針は、後に仙台侯の息女が水戸藩へ輿入れした際に笄』(こうがい)『として伝わり、これを水戸弘道館の剣術師範をしていた海保帆平(北辰一刀流)が工夫し、安中藩師範の根岸松齢に伝えたのが根岸流手裏剣術の始まりである』とある、大変な達人なのである。真葛の言っていることは、ここに書かれている事実と殆んど違わない。凄いことだ。

「芝御殿類燒」これは、恐らく明和九年二月二十九日(一七七二年四月一日)に発生した大「明和の大火」であろう。真葛は当時十歳で、江戸にいた。父平助は仙台藩藩医として、特別に築地に邸宅を構えており、父の付き添いで上屋敷に入ることもあったに違いない。ここは、直接過去の「き」が用いられているからには、これ以前に、彼女自身、その上遠野広秀が杉戸の馬の蹄に放ち打った針の痕を実見したことを意味しているのである。なお、この「明和の大火」の庶民の惨状が僅か十歳の彼女に強く刻印され、彼女をして後に救民思想を持つに至る引き金となった回禄だったのである。

「仁田の四郞」仁田忠常(仁安二(一一六七)年~建仁三(一二〇三)年は『仁田伊豆国仁田郷(現静岡県田方郡函南町)の住人で』、治承四(一一八〇)年の『源頼朝挙兵に加わっている。頼朝からの信任は厚く』、文治三(一一八七)年一月、『忠常が危篤状態に陥った時、頼朝が自ら見舞っている。平氏追討に当たっては源範頼の軍に従って各地を転戦して武功を挙げ』、文治五(一一八九)年の「奥州合戦」に『おいても戦功を挙げ』ている。建久四(一一九三)年五月二十八日に発生した「曾我兄弟の仇討ち」の際には、『兄の曾我祐成を討ち取』っている。『頼朝死後は跡を継いだ二代将軍・源頼家に仕えた。頼家からの信任も厚く、頼家の嫡男一幡の乳母父となっている』。ところが、建仁三(一二〇三)年九月二日、頼家が病いのために危篤状態に陥って「比企能員の変」が『起こると、忠常は北条時政の命に従い、時政邸に呼び出された頼家の外戚・比企能員を謀殺した』。五日、『頼家が回復すると、逆に頼家から』、『時政討伐の命令を受ける。翌晩、忠常は頼家の命を受けながらも、能員追討の賞を受けるべく』、『時政邸へ向かうが、帰宅の遅れを怪しんだ弟たちの軽挙を理由に』、逆に『謀反の疑いをかけられ、時政邸を出て御所へ戻る途中』、『加藤景廉に殺害され』てしまった。享年三十七であった。頼朝の代に『行われた富士の巻狩りにて、手負いの暴れる大猪を仕留めたとされて』おり、頼家の代では、『富士の狩り場へ行った際、頼家の命』を受けて『静岡県富士宮市の人穴を探索し』てもいる(以上は彼のウィキに拠った)。

「橋本正左衞門」「めいしん」「狐つかひ」に登場した、間接的乍ら、真葛の大事な情報元である人物。

「なるや、ならずや。」「修練を積めば、上達するものか? そうでないか?」。

「思立《おもひたち》しことなり」ここは少しウィキで言っていることと相違しているように見える。則ち、「ある時、思い立って始めた」ことである、と言っているのである。しかし、これは必ずしも違っているとは言えない。「ある時、自分には、その特異な能力があると、気が付いたから、鍛錬を始めた」という意味でとれば、納得がゆくのである。しかし、正左衛門はそういう意味ではなく、鍛錬すれば、誰でも、その能力を引き出せる、という意味に勝手に解釈したと理解出来るからである。だから「飯綱の法」を習おうとした。しかしそれは、小姓の軽率な使用によって和尚本人が封印してしまう結果となり、正左衛門は習得出来なかった。しかしそれも考えてみれば、「心定まらぬ人」が使えば、途轍もなく危険なものであったという点で、このケースと親和性があると言える。そうして、上遠野伊豆の手裏剣術に生来の素質無き者には習得不能であることは、最後の八弥の事実が証明しているのである。

「正左衞門も、飯綱(いづな)の法習はんとは、せしなるべし」「狐つかひ」を参照されたい。

「八弥」橋本正左衛門の養子。「めいしん」の本文を参照されたい。「弥」を正字化しなかったのもそれに準ずる。]

南方熊楠 小兒と魔除 (6)

 

[やぶちゃん注:冒頭のそれは、出口米吉の初出の一四三ページ(最終コマ)から、一四四ページ(2コマ目)にかけての部分を指す(PDFは分離している)。私の電子化はこちら。]

 

(一四三頁兒啼を止るに偉人の姓名を呼ぶ事)歐州各部、古來タークヰンブラツクダグラスハンニアデスマールポロ、那翁[やぶちゃん注:「ナポレオン」。]、ウエリントン、英皇リチヤード一世、ナルセスラミアリリツスジヨン、ニツコルソン[やぶちゃん注:底本は、「ジヨン」の後の読点に下線を含まないが、初出で訂した。]、タルボツト卿抔の名を以て兒啼を止め、ケンタツキー州の一部にクレーヷーハウス[やぶちゃん注:底本は「ヷ」を「ゾ」とするが、初出で訂した。]、墨西哥[やぶちゃん注:「メキシコ」、]でドレークと呼で、躁兒を靜むる(N. and Q., 10th ser., x, p. 509, 1908; xi, p. 53, 1909; Rundall,‘Memorials of the Empire of Japan,’ 1850, p. 54)風今に殘れり、近時の小說にグラツドストーンと呼で兒をおどすことすら有り、吾輩幼時、殿樣、親爺抔來れりと聞いて、騷動を止めしこと每度なりき Rundall, l. c. に、慶長十八年六月、英艦長サリス、平戶侯に饗せらるゝ記あり(此時、英艦長の私室に、羅[やぶちゃん注:羅馬(ローマ)。]の婬神ヰヌス美童クピツトと戲るゝ圖を揭たるを、日本上流婦人、葡人[やぶちゃん注:ポルトガル人。]に天主敎化され居たるもの、歸命頂禮して、マリアと基督母子也とせる珍談有、百家說林第一板所收、司馬江漢の春波樓筆記八十八頁にも摘出せらる)中に、平戶人、英吉利黑船とて歌唄ひ、劒舞して、英人西班牙[やぶちゃん注:「スペイン」。]船を掠むる[やぶちゃん注:「かすむる」。奪わんとする。]の狀をなし、小兒輩を威す[やぶちゃん注:「おどす」。]と有、後年難波に黑船忠右衞門有しも、人に怖らるゝこと黑船の如くなりし故ならん、多少の誇張は有るべきも、近年石川縣の遠藤秀景氏、名兒啼を止むるに足れりと云事新紙[やぶちゃん注:新聞記事。]にて見たり、蒙昧の蕃民、敵襲來するを憚り默靜を重んずるは、サビムバ人の祖先、鷄鳴の爲に在處を知られて、度々海賊に犯されし故、全く林中の浪民となり、鷄を忌むこと甚しく(Logan, “The Oramg Binua of Johore,” The Journal of the Indian Archipelago and Eastern Asia, vol. i, Nov., p.296, 1847)、ブラジルのツピ族の一酋長、朝早く村中の廬[やぶちゃん注:「いへ」。家。]を廻りあるき、鋭き魚齒もて、小兒の脛をヒツカク、是れ小兒從順ならぬ時、父母、酋長搔きに來ると言て之を脅さんが爲なり(Hans Stade, ‘Captivity in Brazil in A. D. 1547-1555,’ 1874, p. 144)、近世伊太利の山賊ビツツアロが、官軍を寒洞中に避けし時、兒啼て止ざるを怒り、其脚を操て[やぶちゃん注:「とつて」。]腦を岩壁に打付け、碎て[やぶちゃん注:「くだきて」。]之を殺しけれは、其妻之を恨で、翌夜夫の睡に乘じて、之を銃殺し、其首を獻して重賞を得、更に他人に嫁して良婦慈母たりしと云ふ(D. Hilton, ‘Brigandage in S. Italy,’ 1864, vol. i, pp. 171-2)、古スパルタ、又殊に我邦など尙武の俗、男は泣ぬものと幼少より敎えしは[やぶちゃん注:ママ。]、主として女々しき振舞無なからしめんとの心がけ乍ら、兼て輕躁事を敗らざる可き訓練にて、戰鬪多き世には、兒啼を戒めて敵寇に見顯されぬ事、一人にも一社會にも、大緊要の件なるべし、趙の始祖と源義滿、幼少乍ら啼ずして身を全せし由、風俗通と碧山日錄に出づ、今、三國志舊注、倭漢三才圖會、世事百談などを案ずるに、張遼合淝の戰に吳人を震懾[やぶちゃん注:「しんしやう」。震えおののくこと。]せしめし故、其名を呼んで兒啼を止し迄にて、上述の諸例と比較して、理は能く通ぜり、別に出口氏の言の如き、兒の爲に魔を威し去るの意と見えず、加之[やぶちゃん注:「しかのみならず」。]支那に麻胡希臘にラミア(Bent, p. 98)抔、鬼來ると言て兒を脅し靜むること少なからず、之をも魔を去らんがために、更に小兒が好まざる他の魔の名を呼で、之を招くと云はば、其辨は迂にして、その說は鑿せりとやいはまし、事物紀原には、會稽有鬼、號麻胡、好食小兒腦、遂以在小兒啼、則謂麻胡來恐之、乃啼聲絕と有て、鬼なれども、空華日工集一には廣記を引て、石勒の將、太原の胡人麻姓のもの大惡人なりし故、母其名を號して啼兒をおどすとせり、吾邦に元興寺[やぶちゃん注:「がこじ」。]と唱て小兒をおどすも此類にて、若し元興寺の鬼を呼來て、他の兒に害ある鬼を嚇すと言ば、直ちに其元興寺の鬼を平げたる道場法師[やぶちゃん注:「だうぢやうほふし」。]の名を呼で、强弱の諸鬼を合せて之を驅るの手段を、何故其時代の父母が氣付かざりしにや(群書類從卷六十九道場法師傳參看)、因に云ふ、嬰兒をあやして「レロレロ」と云ふは、今も紀州一汎に行はる、これは英語に所謂 Tongue-Twister(舌捩り[やぶちゃん注:「したもじり」。])の最も簡單なる者で、小兒に早く言語を發せしめんとの一助なり、吾邦の小兒、親を困らすほど成長せんに、「レロレロ」位で啼止むべきかは「レロレロ」と遼來と稍や音近き故、博識を衒わん[やぶちゃん注:「てらはん」。]とて、前者後者に出づと說き出せるなるべし、實際「レロレロ」と呼で小兒を怖し賺す[やぶちゃん注:「おどしすかす」。]こと有しに非じ、

 

[やぶちゃん注:「タークヰン」セクストゥス・タルクィニウス(英語:Sextus Tarquinius ?~紀元前五〇九年)。王政ローマ最後の王ルキウス・タルクィニウス・スペルブス(タルクィニウス傲慢王)の三番目の末子。ローマ神話によれば、彼が人妻ルクレティアを陵辱したことが、結果として王政の崩壊と共和政の設立を招いたとされる。同じ姓であり、先王セルウィリウスを殺害、ラティウム地方に覇権を伸ばしたという凶悪な父もそれらしく見えるが、後に示す原拠記事から、伝説的人物(実在は疑われている)ルクレティアに纏わる一五九四年に書かれたシェイクスピアの物語詩「ルークリース凌辱」(The Rape of Lucrece)に基づくとあるから、やはり、子の方である。

ブラツクダグラス」Black Douglas。十二世紀のスコットランドで最も強力な一族の一つであったブラック・ダグラス家。特にその創始者にして、スコットランド国王ロバートⅠ世の筆頭副官の一人であったジェイムス・ダグラス卿(James Douglas 一二八六年~一三三〇年)の異名。聖地への埋葬を望んだ主人の最後の望みを果たすために、その心臓を携えて、ムーア人相手の十字軍遠征に従軍したという逸話が知られており、部下の兵たちは、そうした彼を恐れ、「ブラック・ダグラス」と呼んだ。

ハンニアデス」ハンガリー国王マティアス・ハンニアデス(Matthias Hunniades 一六二一年~一二五〇年)

マールポロ」イングランド貴族の公爵位マールバラ公爵(Duke of Marlborough)か。この爵位は一七〇二年に「スペイン継承戦争」でイングランド軍司令官を務めた初代マールバラ伯爵ジョン・チャーチル(John Churchill 一六五〇年~一七二二年)に授与されたことに始まる。後のイギリス首相ウィンストン・チャーチルやイギリス皇太子妃ダイアナ・スペンサーの先祖でもある。

ウエリントン」ウェリントン公爵(英: Duke of Wellington)は、イギリスの公爵位で「ナポレオン戦争」の英雄初代ウェリントン侯爵アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley 一七六九年~一八五二年)が一八一四年に叙されたのに始まる。連合王国貴族の中では筆頭爵位。

「英皇リチヤード一世」第二代イングランド王リチャードⅠ世(Richard I 一一五七年~一一九九年)。彼のウィキによれば、『生涯の大部分を戦闘の中で過ごし、その勇猛さから獅子心王』(Richard the Lionheart/フランス語:Cœur de Lion)と称され、中世ヨーロッパに於いて騎士の模範と称えられたが、十年の在位中、イングランドに滞在したのは、僅か六ヶ月で、『その統治期間のほとんどは戦争と冒険に明け暮れた』とある。

ナルセス」東ローマ帝国の政治家で宦官のナルセス(ラテン文字転写:Narses  四七八年~五七三年)か。ユスティニアヌスⅠ世に仕え、東ゴート王国を征服した人物。

ラミア」Lamia。古代ギリシア伝説の女の妖怪。子供を攫うとされ、言うことを聞かない子供を嚇す際、この名を出す。元はゼウスに愛された美女であったが、嫉妬したヘラに子を殺されてより、妖女に変じたとされ、若者を誘惑し、血肉を飲食したとも言われる(中経出版「世界宗教用語事典」に拠る)。

リリツス」Lilith。ユダヤの伝承で、男児を害すると信じられていた女性の悪霊。「リリト」とも表記される。ウィキの「リリス」によれば、通俗語源説では「夜」を意味するヘブライ語「ライラー」と結びつけられるが、古代バビロニアの「リリートゥ」(シュメール語の「リル」、「大気」「風」の意)とも言われる。旧約聖書では「イザヤ書」に言及があるのみで、そこではは夜の妖怪或いは動物の一種とされる。また、『古代メソポタミアの女性の悪霊リリートゥがその祖型であるとも考えられている。しばしば最初の女とされるが、この伝説は中世に誕生した。アダムの最初の妻とされ、アダムとリリスの交わりから悪霊たちが生まれたと言われ』、『そのリリスの子どもたちはヘブライ語でリリンとも呼ばれる』。『アダムと別れてからもリリスは無数の悪霊たち(シェディム)を生み出したとされ』、十三『世紀のカバラ文献では悪霊の君主であるサマエルの伴侶とされた』。『サタンの妻になったという俗説もある』とある。私は「新世紀エヴァンゲリオン」に登場する呼称として、気になって調べたことがある。

ジヨン、ニツコルソン」アイルランド出身で東インド会社所属の軍人ジョン・ニコルソンJohn Nicholson 一八二二年~一八五七年)か。一八五七年のインド反乱を冷酷に鎮圧する中で亡くなったが、イギリスでは讃美を受けた一方、インドでは悪名を馳せた。

タルボツト卿」イングランドの貴族・軍人で初代シュルーズベリー伯爵ジョン・タルボット(John Talbot, 1st Earl of Shrewsbury ?~一四五三年)であろう。「百年戦争」中のイングランド軍の主要な指揮官の一人で、ランカスター朝に於ける唯一のフランス軍総司令官であった。

クレーヷーハウス」スコットランドの貴族・軍人で初代ダンディー子爵ジョン・グラハム・オブ・クレーヴァーハウス(John Graham of Claverhouse, 1st Viscount Dundee 一六四八年~一六八九年)はステュアート朝に仕え、ジャコバイトに与し、名誉革命政権に反乱を起こし、「流血のクレーヴァーズ(Bluidy Clavers)」とも呼ばれる。

ドレーク」フランシス・ドレーク(Francis Drake 一五四三年頃~一五九六年)であろう。エリザベス朝のイングランドのゲール系ウェールズ人航海者にして海賊・海軍提督で、イングランド人として初めて世界一周を達成した人物として知られる。彼のウィキによれば、『ドレークはその功績から、イングランド人には英雄とみなされる一方、海賊行為で苦しめられていたスペイン人からは、悪魔の化身であるドラゴンを指す「ドラコ」の呼び名で知られた(ラテン語名フランキスクス・ドラコ(Franciscus Draco)から)』とある。

「N. and Q., 10th ser., x, p. 509,1908; xi, p. 53, 1909」「Internet archive」で原本が見られ、前者はこちらの左ページの、

   *

NAMES TERRIBLE TO CHILDREN. ―In many a crisis in history the name of some conqueror or tyrant has been used to still unruly children. I am conscious of having read of many such, but not having the fear of ' N. & Q.' before my eyes, I failed to make the necessary notes, and now plead guilty

in an apologetic query. Can anybody add to my brief list, and give serious, not mere

farcical, authorities ?

   Tarquin. Shakespeare, ' Rape of Lucrece ' (' Poems,' ed. R. Bell, p. 111).

   Black Douglas, 1319. Sir W. Scott,

' History of Scotland,' 1830, i. 137.

   Hunniades, 1456. Hallam, * Europe during Middle Ages,' 1872, ii. 106.

   Marlborough.

   Napoleon Bonaparte.

   Wellington.                   W. C. B.

   *

という投稿で、後者はこちらの右下から次のページにかけての、

   *

   NAMES TEBRRIBLE TO CHILDREN (10 S. x. 509 ; xi. 53, 218, 356, 454).― To the names that have appeared surely Morgan should be added. See Prof. Rhys's ' Celtic Folklore,' 1901, vol. i. p. 372. It is about the lake of Glasfryn in Wales : ―

   " Mrs. Williams-Ellis's own words : ' Our younger boys have a crew of three little Welsh boys who live near the lake, to join them in their boat-sailing about the pool and in camping cm the island, &c. They asked me once who Morgan was, whom the little boys were always saying they were to be careful against. An old man living at Tal Llyn, " Lakes End," a farm close by, says that as a boy he was always told that " naughty boys would be carried off by Morgan into the lake." Others tell me that Morgan is always held to be ready to take off troublesome children, and somehow Morgan is thought of as a bad one.'"

   There is more, but any one interested had better see the book.

  1.   L. PETTY.

   Ulverston.

 

   The name of Grimshaw was a bugbear to children in the latter part of the eighteenth century. He was Incumbent of Haworth, near Bradford, the home of the Brontës.

   Macaulay in his essay on Warren Hastings tells us :

   " Even now, after the Lapse of more than 50 years, the natives still talk of him as the greatest of the English ; and nurses sing children to sleep with a jingling ballad about the fleet horses and richly caparisoned elephants of Sahib Warren Hastein."

                    JOHN PICKFORD, M.A.

   Newbonrne Rectory, Woodbridge.

   *

という記事があるものの、そこから熊楠は引いてはいない。

「Rundall,‘Memorials of the Empire of Japan,’ 1850, p. 54」作者はトマス・ランドール(Thomas Rundall)なる人物であるが、書かれている内容は江戸初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士三浦按針の日本名で知られるウィリアム・アダムス(William Adams 一五六四年~元和六(一六二〇)年)から得た部分が多いようだ。当該書は「Internet archive」で原本が読めるが、ここの左ページの頭から四行目に、フランス人が子供を嚇すために「Lord Talbot」の名を出す習慣が書かれてある。

「近時の小說」事例不詳。

グラツドストーン」Gladstone。近頃の小説と言うところから思うには、イギリスの政治家で貿易商にして黒人奴隷農場主であった初代准男爵ジョン・グラッドストン(John Gladstone, 1st Baronet 一七六四年~一八五一年)か。彼のウィキによれば、一七九二年『以降、イギリスはフランスと二十数年に渡る戦争に突入したが(フランス革命戦争、ナポレオン戦争)、これによって貿易は賭博的事業となり、貿易商は極端に成功する者と極端に失敗する者の二極分化し』、『グラッドストンスは成功者の側に入った』。『彼は』当初、『東インドでの貿易を主としていたが、後には西インド貿易にも手を伸ばした。また西インド、英領ギアナ、英領ジャマイカなどにおいて広大なサツマイモ耕地、コーヒー耕地を所有した。イギリス本国においては奴隷貿易は』一八〇七年に『禁止されたが、大英帝国植民地においては』、『奴隷貿易は未だ合法であり、グラッドストン』『も大量の黒人奴隷を自身の農地で酷使した』。一八二三年には、『ギアナでイギリス農場主の支配に抵抗する黒人奴隷の一揆が発生したが、その一揆の中心地はグラッドストンス所有の農場だった』とある。

「慶長十八年」一六一三年。先の書のこちらに一六一三年六月十一日(慶長十八年五月四日)に平戸に到着した旨の記載があり、以下の「平戶人、英吉利黑船とて歌唄ひ、劒舞して、英人西班牙船を掠むるの狀をなし、小兒輩を威す」というのは先の「Rundall,‘Memorials of the Empire of Japan,’ 1850, p. 54」で示した原本のページとその前の部分に相当する。

「英艦長サリス」イギリス船として初めて日本に来航したイギリス東インド会社の貿易船「クローブ号」(Clove)の指揮官ジョン・セーリス(John Saris 一五七九年或いは一五八〇年~一六四三年)。イギリス東インド会社はアダムス(三浦按針)がイギリス本国に送った書簡によって日本事情を知り、国王ジェームズⅠ世の許可を得て、彼を仲介人として日本との通商関係を結ぶ計画を立て、艦隊司令官であった彼を日本に派遣したのであった。

「婬神ヰヌス」ローマ神話の愛と美の女神ウェヌス(古典ラテン語:Venus)。言わずもがな、本邦では現在は英語読みの「ヴィーナス」が一般。

「美童クピツト」Cupid。キューピッド。

「百家說林」明治後期に作られた江戸時代の学者・文人らの随筆・雑考等、八十六部を集録した叢書。今泉定介・畠山健の校訂。明治二三(一八九〇)年から三年掛かりで十巻本として刊行し、同三十八から翌年には既刊を正編二巻とし、続編三巻と索引一巻を刊行している。

「司馬江漢の春波樓筆記」江戸後期の蘭学者で画家として知られる司馬江漢(延享四(一七四七)年~文政元(一八一八)年)が著した随筆集。文化八(一八一一)年成立。一巻。著者の目に映じた江戸末期の社会風俗についての所感や、人間観・死生観・学問観を記したもので、当時の世相を窺う上でも貴重な資料。約二百項目の全体に、著者の鋭い世相批判があふれ、近代に通じる観点が見られるのが興味深い(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。まず、幸いにして、小泉八雲がこの話を記しているので、私はそれとは別に既に知っていた。「神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(60) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅴ)」に、『キアプテイン・サリスは一六一三年に日本から手紙を送つて、極めて暗示的な感傷的な一事件を記してゐる。彼は言つて居る。『私はやや上注の多くの婦人に、私の船室に入つてもよいといふ許を與へた。この室にはヴイナスが、その子息のキユウピツドをつれてゐる繪が、大きな額緣に嵌められて、幾分だらしない飾り方で懸かつてゐた。彼等は之をマリヤとその子であると思つて、ひれ伏し、非常な信仰を表はして、それを禮拜した。そして私に向つて囁くやうに(信徒でなかつた仲間の誰れ彼れに聞こえないやうに)自分達はキリスト教徒であると云つた、之によつて吾々は彼等がポルトガルのジエジユイト派によつて改宗させられたキリスト教徒であることを知つた』と』とある。八雲のそれは、元書簡の英訳からの引用である。さて、「春波樓筆記」から引く。所持する吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。一部に無関係な記載があるので、前を略してある。探す方は、「随筆大成」第一期第二巻の五十八ページの「○予が近隣に八十余の老人あり」で始まる条々の中間にある。

   *

又日く、壱岐守松浦侯[やぶちゃん注:松浦(まつら)静山。私は彼の「甲子夜話」の電子化注を手掛けている。]予に向つて日く、朽木隱岐守に蘭書あり。ウエイレルドベシケレイヒングと云ふ、此の書を求めん事を欲す、余爾を以てす。余江漢諾して應命、則朽木侯に謁して此の事を話す、竟に其の書を松浦侯に贈る。其の中イギリス船平戶島に入津したる事を誌す。其の頃松浦法眼と云ふ人隱居して政治を取る。或時婦女を從へ、イギリスの船に乘る。船の内數品の額あり。其の中に春畫ありけるを、婦人是を熟視せずして拜す。イギリス人おもへらく、嚮[やぶちゃん注:「さき」。]の頃吾國の佛法[やぶちゃん注:キリスト教のことをかく言っているので注意されたい。]、此の日本に來る事あり、其ならん事を思ひて春畫を拜するかと。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

「黑船忠右衞門」これ自体は歌舞伎男伊達狂言の主人公の名で、モデルは宝永・享保年間(一七〇四年~一七三六年)頃に実在した大坂堂島の男伊達であった根津四郎右衛門こと、沖仲仕住吉屋四郎右衛門とされる。上町の町奴(片町の馬士頭とも)茶筌庄兵衛との新町橋での達引を、当時、侠客役で古今独歩の初代姉川新四郎が自ら脚色し、新町橋の船宿の黒船の行灯から黒船忠右衛門の名で演じ、大当たりをとった。以後、歌舞伎・浄瑠璃に「黒船忠右衛門」物と総称される一連の作品が書かれ、明治期まで上演された。新四郎が、この役でかぶった投頭巾は黒船頭巾、一名、姉川頭巾と呼ばれ、一世を風靡し、新四郎は後年、頭巾を中山新九郎に譲ったが、没後、三途の川を頭巾姿で渡河中、鬼に出会ったという伝説が生まれたという(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「遠藤秀景」(安政元(一八五四)年~明治四四(一九一一)年)は政治家・漁業家・自由民権運動家。石川県立中学卒。彼のウィキによれば、『加賀藩士で素封家の父、遠藤柳の長男として加賀国河北郡浅野村(石川県河北郡中口村、小坂村を経て現金沢市小橋町および昌永町)に生まれる』。『幼くして関兵次郎、矢野三内、太田清蔵、秦秀植、南部虎之助などに』ついて、『剣術や槍術を学んだ』。『ついで』、『島田定静の門に入り』、『文学を修め、同門の塾長となった』。明治一〇(一八七七)年、『西南戦争が勃発すると』、『島田一郎らが西郷隆盛を援けることを主張したが、これに反対した』。『翌年、西郷に与したとして一時投獄されるが赦され』、明治十三年、『内務省より就官するよう声が掛かる』も、『これを辞し、同年』、『父の訃報と共に郷里に戻り、金沢区選出の石川県会議員となった』。『この頃、盈進社を設立』、『以降』、『国会開設請願運動に関与』した。『ついで』、『旧藩主前田家に士族授産金を要請し』、『北海道に渡り、岩内に前田村を拓』いて、『漁業事業に着手』し、『千島海域などで操業した』。後、『再び石川県会議員となり、同議長を歴任した』。明治二十三年)七月に行われた第一回『衆議院議員総選挙では石川県第』一『区から出馬し』、『当選』、『衆議院議員を』一『期務め』ている、とある。

「Logan, “The Oramg Binua of Johore,” The Journal of the Indian Archipelago and Eastern Asia, vol. i, Nov., p.296, 1847」既注であるが、再掲すると、作者ジェームス・リチャードソン・ローガン(James Richardson Logan 一八一九年~一八六九年)は、イギリスの弁護士で民俗学者。インドネシアやマレー半島の民俗を調べ、「インドネシア」という語を広めた人物でもある。指示すると思われる当該原本(但し、発行年が違う)部分を見い出せない。されば、「サビムバ人」もお手上げ。

ブラジルのツピ族」ポルトガル語「tupi」。南アメリカ大陸で用いられる七十ほどの言語からなる語族トゥピ語族。狭義にはその中のトゥピ語を用いる一族。分布域はウィキの「トゥピ語族を見られたい。因みに、「カシューナッツ」(cashew nut)の木(ムクロジ目ウルシ科カシューナットノキ属カシューナットノキ Anacardium occidentale )は南米ブラジル並びに西インド諸島が原産地とされているが、「カシューナッツ」の名の由来は、このブラジルのツピ族の言葉でそれを指す「アカジュ」が十六世紀にポルトガル人に伝わり、「カジュー」と訛ったのが元で、広く伝えられたものらしい。

「Hans Stade」綴りが違う。Hans Staden(一五二五年~一五七六年)が正しい。ドイツの航海士で探検家。ブラジルを踏査したが、そこで出会ったトゥピ族のある集団がカニバリズムをすると書いて、大ベストセラーとなった。この人肉食を嘘とする学者もいたが、現在は民俗的事実として支持されているようである。

ビツツアロ」Bizzarro。「ビッツァロ」はイタリア語で「奇抜な・風変わりな」という意であるから、綽名であろう。以下に示す原本を見ると、一八〇一年から一八一〇年頃に荒らしまわった山賊のようである。

「D. Hilton, ‘Brigandage in S. Italy,’ 1864, vol. i, pp. 171-2」正式書名は「Brigandage in South Italy」(南イタリアの山賊)で、作者は学者・新聞記者・大学学長にしてリンカーン政権下で大使を務めたウィラー・デヴイッド・ヒルトン(Wheeler David Hilton 一八二九年~一九〇二年)。本書はイタリア史に関する彼の著作でも最も知られた著作である。当該部は「Internet archive」の原本のここ。それを見ると、恨んだ母親(ビッツァロの部下の妻と子であるようだ)は眠っているビッツァロの頭を銃で撃ち、首を切断して、盗賊団を掃討していた司令官のもとに持って行き、報酬を得、三十五年後までミレット(Mileto)という町に幸福に暮らした、と記されてある。但し、ビッツァロのことは前の「168から、ずっと書かれてある。

「趙の始祖」戦国七雄の一つである趙(紀元前四〇三年~紀元前二二八年)の始祖は趙無恤(ぶじゅつ/むじゅつ ?~紀元前四二五年)。

「源義滿」室町幕府第三代将軍足利義満(正平一三/延文三(一三五八)年~応永一五(一四〇八)年/在職:正平二三(一三六八)年~応永元(一三九四)年十二月)のこと。

「風俗通」後漢末の応劭の撰した「風俗通義」の略称。さまざまな制度・習俗・伝説・民間信仰などについて述べたもの。但し、散佚しており、現行の纏まっている断片にはそれらしい記載が見あたらないから、熊楠が見たのは、何かに引用されたもののように思われる。

「碧山日錄」南方熊楠「本邦に於ける動物崇拜(追加発表「補遺」分)」に既出既注。

「世事百談」随筆家で雑学者の山崎美成(よししげ 寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年)の書いた考証随筆。天保一二(一八四一)成立で同十四年の板行。当該部は巻之二の以下。「日本古典籍ビューア」で原本当該部を視認して示す。句読点と記号を添えた。

   *

   ○児啼(じてい)を止(やむ)る諺 手々甲(ぜゝがかふ)

「籠耳(かごみゝ)」といふ册子に、小児(せうに)の啼(なき)を止るとき、「むくりこくりの鬼が來る」といふこと、後宇多院の弘安四年[やぶちゃん注:一二八一年。]、北條時宗が執權のとき、唐土(もろこし)元の世祖、たびたび日本をせめけることあり。元の國を蒙古國(もうここく)とも、いふなり。世祖よりこのかた大元(たいげん)と号せり。さるによつて、「むくりこくり」といふは、「蒙古國裏(もうここくり)」といふことの、いひあやまりなり。「鬼がくる」とは、この夷賊をいふなり。又、いとけなき子を威謙(おどしすかす)ときに、顏をしかめて、「元興寺(がごじ)」と、いふことあり。むかし、大和國元興寺(ぐわんこうじ)といふ寺に、鬼すみて、人をなやます、とて、世間、さはがしきこと、あり。「本朝文粹(ほんてうもんずゐ)」に見えたり。これよりして、「元興寺」とて、顏をしかめておどせば、小児、なきやむ、と、いへり。又、小児をすかしゆぶる[やぶちゃん注:「搖ぶる」。揺り動かす。]とき、「虎狼來(ころろん)々々々」と、いふこともあり。もろこしにては、「張遼來(ちやうれうらい)」といへば、小児、なきやむ、とあり。張遼といふもの、たけき兵(つはもの)にてありし、となり。又、日本にて、手をくみ、顏にあて、「手々甲(ぜゝががふ)」と、いふて、小児をおどすこともあり、といふこと、見えたり。「むくりこくり」のことは、「櫻陰腐談(あふいんふだん)」に見ゆ。「元興寺(がごじ)」のことは、「南畝莠言(なんぽいうげん)」[やぶちゃん注:現行では「なんぽしゅうげん」と読んでいるが、正しくは「なんぽゆうげん」が正しいので、歴史的仮名遣はこれでよい。]にありとおぼえたり。「手々甲」といふことは、今、土佐國にて、児女などの常の遊戲にすることとて、その國人(くにびと)祖父江氏(そぶえうぢ)の、過(すぎ)しころ、訪(とぶら)ひ來(きた)られしをりの物がたりに、『その戲れは、左右の手を組合(くみあは)せて、手の甲(かふ)を、たがひに、うち鳴らしながら、となへて、その詞(ことば)の終るところに、あたれるものを、「鬼」と、さだむる』よし。その唱へ詞、

  むかいの河原で土噐(かはらけ)やけば、

  五皿(いつさら)六(む)皿七(なゝ)皿八(や)皿、

  八皿めにおくれて、づでんどつさり、

  それこそ鬼よ、これこそ鬼よ、

  蓑きて、笠きて、くるものが鬼よ。

   *

「張遼」(一六五年或いは一六九年~二二二年)は後漢末から三国時代の武将。後漢末の動乱期に丁原・董卓・呂布に仕えた後、曹操の配下となり、軍指揮官として活躍した。

「合淝の戰」「合肥の戰ひ」でよい。地名の読みは「ごうひ」或いは「がつぴ(がっぴ)」。曹操領の南方の要衝の合肥を巡って、魏と呉の間で行われた戦いで、後に三国時代を通じて、この方面では攻防が続けられたが(二〇八年から二五三年まで実に四十五年も間歇的に続いた)、ついにこの戦線の決着がつくことはなかった。孫権が劉備に荊州の一部を返還する代わりに曹操を攻めるという依頼から始まったもので、二一五年に起こった戦いが最も知られ、十万人の孫権軍が僅か七千の曹操軍に大敗を喫した。その時、活躍したのが、この張遼である。詳しくはウィキの「張遼」の「合肥戦線」がよい。

「麻胡」後注「事物紀原」参照。

ラミア」(ラテン文字転写:Lamiā)はギリシア神話に登場する古代リビュアの女性で、ゼウスと通じたため、ヘーラーによって子供を失い、その苦悩のあまり、他人の子を殺す女怪と化した。眼球を取り出すことが出来るが、これはヘーラーに眠りを奪われた彼女にゼウスが憐れんで与えた能力ともされる。「ラミア」は、ここに出る通り、古くから、子供が恐怖する名として、躾けの場で用いられた(ウィキの「ラミアーに拠る)。

「Bent, p. 98」イギリスの探検家・考古学者・作家ジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。「Internet archive」のこちらの左ページから。ラミアは「Lamiæ」「Lamia」と出、水の女怪サイレン(Sirens)の仲間のように記されてある。

「事物紀原」宋の高丞の撰になる類書(百科事典)。原本は二十巻二百十七事項であるが、現存本は十巻千七百六十五事項。成立年は未詳。事物を天文・地理・生物・風俗など五十五部門に分類し、名称や縁起の由来を古書に求めて記したもの。巻十「麻胡」に、

   *

朝野僉載曰後趙石勒將麻胡性虎險鴆毒有兒啼每輒恐之麻胡來啼聲絕本草拾遺曰煬帝將幸江都命麻胡濬汴河以木鵝試波深淺止皆死每兒啼言麻胡來卽止人畏若是演義曰今俗以麻胡恐小兒俗傳麻胡祜爲隋煬帝將軍開汴河甚毒虐人多懼之胡祜聲相近以此呼之耳誤矣會稽錄云會稽有鬼號麻胡好食小兒腦遂以恐小兒若麻祜可以恐成人豈獨小兒也

   *

とある。熊楠は最後と前の方を合成して作文していることが判る。熊楠のそれは、勝手な合成なれば、それを気持ちよく手前勝手に訓読しておく。

   *

會稽に鬼有り、「麻胡」と號し、好んで、小兒の腦を食ふ。遂に以つて小兒の啼く在れば、則ち、「麻胡(まこ)、來たれり」と謂ひて之を恐(こはが)らすに、乃(すなは)ち、啼き聲、絕ゆ。

   *

後注で示すが、これは胡人であった残酷な武将麻秋(ましゅう)のことである。

「麻胡來」は現代中国語で音写すると、「マァーフゥーラァィ」である。

「空華日工集」(くうげにっくしゅう:現代仮名遣)本邦の南北朝時代の禅僧で詩人としても知られた義堂周信(ぎどうしゅうしん)の日記。正しくは「空華日用工夫略集」或いは「空華老師日用工夫集」と呼ぶ全十巻。正中二(一三二五)年の誕生から元中五/嘉慶二 (一三八八)年の晩年にいたるまでを、日記形式で要点を抄出したもの。その生涯を知るに便利なばかりでなく、当時の禅宗の様相及び将軍足利義満の行状や、室町幕府の政治を知る上で有益にして貴重な史料である。同書巻一の応安二(北朝の元号で、南朝は正平二十四年でユリウス暦一三六九年)年追抄(月不詳)に、

   *

才侍者問麻龝、引廣記答之、後趙石勒將麻龝者、太原胡人也、植性虓險鴆毒、有兒啼、母輙恐之曰麻胡來、啼聲絕、至今以爲故事。

   *

とある。「廣記」は「太平廣記」。北宋時代に成立した類書の一つで、太宗の勅命を奉じて李昉(りぼう)ら十二名が、九七七年から翌年にかけて編纂したもの。全五百巻・目録十巻。その二百六十七巻「酷暴一」の冒頭に出る「麻秋」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。句読点を打った。

   *

     麻秋

後趙石勒將麻秋者、太原胡人也。植性虓險鴆毒。有兒啼、母輒恐之麻胡來、啼聲絕。至今以爲故事。出「朝野僉載」。

   *

麻秋(?~三五〇年)は五胡十六国時代の後趙の武将で太原出身の胡人。のウィキに経歴が詳しいが、その後に、『麻秋は凶悪で残酷な性格であり、しばしば毒酒を以て人を害していた。築城の為に百姓に労役をさせていた時は、昼夜関係なく休み無しで働かせ続け、ただ鶏が鳴いた時(夜明け時)にのみわずかな休息を取らせていたという。この為、周囲からも大いに恐れられ、泣く子に対して母が「麻胡が来る」と言うと、子は泣き止む程であったという』また、「列仙全伝」に『よると、彼の娘は麻姑という名であり、仙人であったとされている。父が百姓に過酷な労役を課す事に心を痛め、複数の鶏を代わる代わる鳴かせる事で休息の時間を伸ばしていた。後にこの事が麻秋に発覚し、麻秋より暴行を受けそうになったので、逃走を図ってそのまま入仙したという』とある。さても、熊楠は「石勒の將、太原の胡人麻姓のもの」と、この「秋」を「姓」と誤判読していることが判る。

「元興寺」これで「がごじ」の他「がごぜ」「ぐわごぜ」「がんごう」「がんご」とも読み、「元興寺(がんごうじ)の鬼(おに)」の意。飛鳥時代に奈良の元興寺(グーグル・マップ・データ)に現れたとされる妖怪。ウィキの「元興寺(妖怪)によれば、平安時代の「日本霊異記」(私の愛読書の一つ)の「雷の憙(むかしび)[やぶちゃん注:好意。]を得て生ましめし子の强き力在る緣(えに)」(以下にシノプシスが語られる)や、「本朝文粋(ほんちょうもんずい)」などの文献に話がみられ、『鳥山石燕の「画図百鬼夜行」などの古典の妖怪画では、僧の姿をした鬼の姿で描かれている』。『敏達天皇の頃』、『尾張国阿育知郡片輪里(現・愛知県名古屋市中区古渡町付近)のある農夫が落雷に遭う。落雷と共に落ちてきた雷神はたちまち子供の姿に変化した。農夫が杖で殺そうとすると雷神は命乞いをし、助けてくれれば恩返しとして、雷神のように力強い子供を授けると言った。農夫は雷神の求めに応じて楠の船を作ると、雷神は農夫の見守る中それに乗って空中を昇り、雲や雷とともに空へ帰って行った』。『やがて農夫の妻が、雷神の申し子とでも言うべき子供を産んだ。それは頭には蛇が巻きつき、頭と尾を後頭部に垂らしているという異様な姿だった。雷神の言う通り』、『生まれついて怪力を持ち』、『歳の頃には力自慢で有名な皇族の王(おおきみ)の』一『人と力比べで勝つほどだった』。『後にこの子供は元興寺の童子となった。折りしも元興寺の鐘楼の童子たちが毎晩のように変死する事件が続き、鬼に殺されたものと噂が立っていた。童子は自分が鬼を捕まえて見せると言い、鬼退治をかって出た。あらかじめ鐘堂の四隅に灯を置いて蓋をしておき、自分が鬼を捕まえたら四人の童子たちに蓋を開けさせて鬼の姿を実見しようということになった。ある夜に鐘楼で待ち構え、未明の頃に鬼が現れるや、その髪の毛を捕えて引きずり回した。四人の童子たちは仰天して蓋を開けずに逃げてしまった。夜が明けた頃には鬼はすっかり頭髪を引き剥がされて逃げ去った。血痕を辿って行くと、かつて元興寺で働いていた無頼な下男の墓まで続いていた。この下男の死霊が霊鬼となって現れたのであった。この霊鬼の頭髪は元興寺の宝物となった。この童子は後にも怪力で活躍をした末に得度出家し、道場法師』(どうじょうほうし)『となったという』。『山折哲雄は、日本古来の神(カミ)の観念の本質を論じる文脈の中で、この説話の背景となる世界観に注目している。すなわち、前半の落雷が「小子」に変身して直ちに昇天してしまう点、後半の「霊鬼」が夜のみ登場し』、『灯に寄せなければ』、『その実体を確かめられない点を挙げ、ともに神霊の正体というものが本来そなえている秘匿性(隠れ身)をよく示すものであると指摘している』。『江戸時代の古書によれば、お化けを意味する児童語のガゴゼやガゴジは』、『この元興寺が由来とされ、実際にガゴゼ、ガゴジ、ガンゴジなど、妖怪の総称を意味する児童語が日本各地に分布している。しかし』、『民俗学者・柳田國男はこの説を否定し、化け物が「咬もうぞ」と言いながら』、『現れることが起因するとの説を唱えている』とある。

「若し元興寺の鬼を呼來て、他の兒に害ある鬼を嚇すと言ば、直ちに其元興寺の鬼を平げたる道場法師の名を呼で、强弱の諸鬼を合せて之を驅るの手段を、何故其時代の父母が氣付かざりしにや」少し意味がとりにくくなっているが、――もしも「元興寺(がごじ)の鬼」を呼んできて、他の児童にも害のある鬼を以って諌め「嚇」(おど)すと言うのならば、どうして、手っ取り早く、「直ちに」、「元興寺の鬼」を平らげた、かの怪力無双のゴースト・バスター「道場法師」の名を呼んで、ありとある「强弱の諸鬼を」も「合せて」これらを総て駆逐するという最も有効な児童の保護「手段を、何故」、その「時代の父母が氣付か」なかったのだろう? と、私(熊楠)は思うのである――というのである。

「群書類從卷六十九道場法師傳」国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ。次の頁で終了している短いものである。日本漢文であるが、字も明瞭で、頗る読み易い。

『嬰兒をあやして「レロレロ」と云ふ』あなたもやるでしょう? 幼児をあやすに際して、舌で上顎を弾いて出す音や、そのさまを表わす語。「れろれろばあ」などとも言う。

「Tongue-Twister(舌捩り[やぶちゃん注:「したもじり」。])」若干、違和感を持つ人がいるやも知れぬ。「Tongue Twister」というのは「早口言葉」のことで(「Twister」は、日本のツイスト・ドーナツのイメージのように「捩じれる」という意がある)、「舌捩(したもじ)り」というのも、言葉遊びの一つで、発音しにくい言葉を続けて普通に或いは早く言わせる、やはり早口言葉のことを指す。「れろれろ」はしかし、確かに早く言葉を喋らせようとする、最も始原的なものであり、早口言葉との親和性はあるのである。因みに、私は、子どもが――最初に覚える身体表現としての言語的行為は――「さよなら」を意味する手を開いて振るところの「ばいばい」である――と考えている。そうだ……人間は誰もが……「愛してる」でも「好きよ」でもなく、宿命的に「さよなら」を最初に教え込まれるのである…………

『「レロレロ」と遼來と稍や音近き』張「遼」が「來」るで、「遼來」(リョウライ)、歴史的仮名遣だと「レウライ」、現代中国語音写だと「リィアォ・ラァィ」である。]

2021/01/15

奥州ばなし 狐つかひ

 

     狐つかひ

 

 淸安寺といふ寺の和尙は、「狐つかひ」にて有しとぞ。

 橋本正左衞門、ふと出會《であひ》てより、懇意と成《なり》て、をりをり、夜ばなしにゆきしに、ある夜(よ)、五、六人より合《あひ》て、はなしゐたりしに、和尙の曰、

「御慰に、芝居を御目にかくベし。」

と云しが、たちまち、芝居座敷の躰《てい》とかはり、道具だての仕かけ、なりものゝ拍子、色々の高名の役者どものいでゝはたらくてい、正身《しやうしん》のかぶきに、いさゝかたがふこと、なし。

 客は思《おもひ》よらず、おもしろきこと、かぎりなく、居合《ゐあはせ》し人々、大に感じたりき。

 正左衞門は、例のふしぎを好《すく/このむ》心から、分《わき》て悅《よろこび》、それより又、

『習《ならひ》たし。』

と思《おもふ》心おこりて、しきりに行《ゆき》とぶらひしを、和尙、其内心をさとりて、

「そなたには、飯綱(いづな)の法、習たしと思はるゝや。さあらば、先《まづ》試《こころみ》に、三度《みたび》、ためし申べし。明晚より、三夜つゞけて、來られよ。これをこらへつゞくるならば、傳授せん。」

と、ほつ言《げん》[やぶちゃん注:「發言」。]せしを、正左衞門、とび立《たつ》ばかり悅て、一禮のべ、

「いかなることにても、たへしのぎて、その飯綱の法ならはゞや。」

と、いさみくて、翌日、暮るゝをまちて、行ければ、先、一間にこめて、壱人《ひとり》置《おき》、和尙、出むかひて、

「この三度のせめの内、たへがたく思はれなば、いつにても、聲をあげて、ゆるしをこはれよ。」

と云て、入《いり》たり。

 ほどなく、つらつらと、鼠の、いくらともなく出來《いでき》て、ひざに上り、袖に入、襟(ゑり)をわたりなどするは、いと、うるさく、迷惑なれど、

『誠のものにはあらじ。よし、くはれても、疵(きづ[やぶちゃん注:ママ。])はつくまじ。』

と、心をすゑて、こらへしほどに、やゝしばらくせめて、いづくともなく、皆、なくなりたれば、和尙、出《いで》て、

「いや。御氣丈なることなり。」

と挨拶して、

「明晚、來られよ。」

とて、かへしやりしとぞ。

 あくる晚もゆきしに、前夜の如く、壱人、居《をる》と、此度《こたび》は、蛇のせめなり。

 大小の蛇、いくらともなく、はひ出《いで》て、袖に入、襟にまとひ、わるくさきこと[やぶちゃん注:「惡臭きこと」。腥いのである。]、たへがたかりしを、

『是も、にせ物。』

と、おもふばかりに、こらへとほして有しとぞ。

「いざ、明晚をだに過しなば、傳授を得ん。」

と、心悅て、翌晚、行しに、壱人、有て、待ども、待ども、何も出《いで》こず。

 やゝ退屈におもふをりしも、こはいかに、はやく別《わかれ》し實母の、末期《まつご》に着たりし衣類のまゝ、眼《まなこ》、引《ひき》つけ[やぶちゃん注:釣り上がり。]、小鼻、おち、口びる、かわきちゞみ[やぶちゃん注:「乾き縮み」。ミイラ化している雰囲気である。]、齒、出《いで》て、よわりはてたる顏色《がんしよく》、容貌、髮の、みだれ、そゝけたる[やぶちゃん注:解(ほつ)れて乱れている。]まで、落命の時分、身にしみて、今もわすれがたきに、少しも、たがはぬさまして、

「ふはふは」

と、あゆみ出《いで》、たゞ、むかひて座したるは、鼠・蛇に百倍して、心中のうれひ悲しみ、たとへがたく、すでに詞《ことば》をかけんとするてい、身に、しみじみと、心わるく、こらへかねて、

「眞平御免被ㇾ下べし。」[やぶちゃん注:「まつぴらごめんくださるべし」。]

と、聲を上《あげ》しかば、母と見えしは、和尙にて、笑《ゑみ》、座して有しとぞ。

 正左衞門、面目(めんぼく)なさに、それより後、二度、ゆかざりしとぞ。

 

[やぶちゃん注:実は、本作は既に一度、「柴田宵曲 妖異博物館 飯綱の法」の注で、電子化してある。但し、今回はそれを元とせず、零からやり直した。なお、これは恐らく正左衛門の作話で(実録奇譚である本書の性質から、私は真葛の創作とは全く思わない)、その元は、かの唐代伝奇の名作、中唐の文人李復言の撰になる「杜子春傳」であろう。リンク先は私の作成した原文で、「杜子春傳」やぶちゃん版訓読「杜子春傳」やぶちゃん版語註「杜子春傳」やぶちゃん訳、及び、私の芥川龍之介「杜子春」へのリンクも完備させてある。但し、柴田はそれ以外に、『「宇治拾遺物語」にある瀧口道則が、信濃の郡司から異術を習ふ話に似てゐる』とも記す。その「瀧口道則習術事」(瀧口道則(たきぐちのみちのり)、術を習ふ事)も「柴田宵曲 妖異博物館 飯綱の法」の注で電子化しておいたので、比較されたい。実際には、私の電子テクストには、この「飯綱の法」に纏わる怪奇談や民俗学上の言及が十件以上ある。「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 始めて聞く飯綱の法」や、「老媼茶話卷之六 飯綱(イヅナ)の法」も読まれたい。

「淸安寺」不詳。この話、ロケーションが記されていないので判らない。本「奥州ばなし」は概ね仙台及び奥州を舞台とするものの、江戸と関わる話柄もあるからである。敢えて、陸奥の比較的、仙台に近いところ(と言っても、仙台からは直線でも九十キロメートル以上ある)を調べると、山形県西置賜郡小国町白子沢にある曹洞宗清安寺(「曹洞禅ナビ」のこちらを参照されたい)はあるが、ここかどうかは不明である。青森県弘前にも曹洞宗の同名の寺がある。私が禅宗に拘ったのは、「和尙」を「おしやう(おしょう)」という呼称とするならば、狭義には臨済宗や曹洞宗などの禅宗系或いは浄土宗系で用いられるからである。

「狐つかひ」後の「飯綱(いづな)」使いに同じい。

「橋本正左衞門」先の秘術をテーマとした「めいしん」にも主人公として登場し、そこで真葛は『正左衞門は、近親の内、伊賀三弟《さんてい》に八弥《はちや》と云《いふ》人、養子にせしかば、正左衞門の傳は八弥が語《かたり》しなり』と割注している通り、この手の妖術が大好きだったこと、真葛の怪奇譚蒐集の有力な間接的情報屋であったことが判然とする。

「飯綱(いづな)の法」先の幾つかの怪奇談のリンク先で注してあるので、そちら参照されたいが、簡単に言っておくと、管狐(くだぎつね。或いは「イヅナ」「エヅナ」とも呼んだ)と呼ばれる霊的小動物(狐とあるが、狐様の場合もあれば、全く形容し難いニョロニョロ系の身体の場合もある)を使役して、託宣・占い・呪(のろ)いなど、さまざまな法術を行った民間の呪術者である「飯綱使い」の法術で、「飯綱使い」の多くは修験系の男であるケースが殆んどで、江戸時代の実話で、れっきとした僧侶が駆使するというケースは、比較的、レアと言えよう。]

2021/01/14

怪談登志男 六、怨㚑亡經力

 

怪談登志男卷第二

 

   六、怨㚑(おんりやう)經力(きやうりきにほろぶ)

 藝州嚴島は扶桑第一の勝景、繁榮豐饒(ぶにやう)の所なり。此あたりに大坂町といへる所あり。攝津國難波(なんば)の商人、常に往返(おふへん)して、甚、賑はへり。

 此町に田澤屋とて、大舩(たいせん)、あまた貯置(たくはへおき)、運送自由をなすが故に、家、大に冨(とめ)るものあり。

 永祿年中、當國の座頭一人、上京のねがい、多年の功勞を積(つみ)、官金數百兩、肌に付、此湊にて田澤屋が船に乘り、海上一里も出しとおもふ頃、俄(にはか)に騷(さはぎ)立、聲を上て、

「こは悲しや、某が携へ持たる革財布(かはさいふ)、湊を出し時、首にかけ候ひしが、只今、舳(とも)に立出、小用致し候節、少の間(ま)、側(そは)に置候が、今、能々、尋れども、何方へ參りつらん、これ、なく候。あはれ、御慈悲に、各、御立合、盲人が金子の事、出世のため、幾年か丹誠を盡して用意いたしたるなり。御吟味なされ下さるべし。」

と、歎き悲しむ事、大かたならず。

 乘合(のりあひ)の人々、一同に、

「是は、氣のどく千萬。面面、幾度か此海路(かいろ)を商買(しやうばい)[やぶちゃん注:原本も漢字はママ。]のため、往(ゆき)通ふが、いまだ、かゝる事こそあらね、舩中のもの、獨り獨り、身ばれなれば、裸になり、穿鑿いたし侍らん。」

と、片端より、帶を解(とき)て改けれども、もとより掠(かす)めぬ金なれば、出べき樣もなかりしが、

「舷(ふなばた)に、何やらん、海に下(さが)りし緖(お)の見へしが、若(もし)も、それか。」

と立さはぐ。

 座頭、うれしく、舳(とも)に出、舷を探り見るを、水主(かこ)壱人、聲をはげまし、荒らかに、

「此盲人(めくら)は、危(あやふ)き所をはしり𢌞り、もし、海へ落入て、人を恨みたまふなよ。見へざる金が今と成、此船中に有べきか。もし、舩頭を疑ひての事か。左(さ)もあれば、吟味の上、金の有(あり)か、しれざるにきはまりし時、いかゞすまさるゝや。此舩に惡名(あくみやう)を付らるゝからは、覺悟、あるべし。」

と、したたかに叱(しかり)けれども、元來(もとより)、途方にくれける故、耳にもさらに聞入ず、小緣(こべり)を傳ひ出で、碇綱(いかりづな)の中程より、浪に浸りて垂りしを、

「手繰寄(たぐりよせ)ん。」

と屈(かゞ)む所を、舩頭は、とりとゞめんとせしが、誤りて落入たると見へ、海へ、

「ざんぶ」

と飛(とび)入しに、此音とともに、座頭も、おなじく、海へ落ぬ。

 舩中、周章(あわて)て、聲を上、

「誰(たそ)、助けよ。」

と立騷ぐ。

 船頭は、波にゆられながら、座頭をとらへ、たすくるやうに見ヘしが、浮(うき)ぬ、沈みぬ、見え隱れて、二人ともに、底(そこ)の水屑(みくず)と成にけり。

 船中、一同にさはぎ立、

「財布の見へざるのみならず、座頭も入水(じゆすい)したりける事の便(びん)なさよ。水主もまた、人を助けんとて、思ひよらざるあさましき死を遂(とげ)し。」

と語り合て、心ある人は經をよみ、念佛して、吊(とふら)ひける。

 此後、程經て、件(くだん)の船頭は、室(むろ)津より上りて、辛き命を助かりし、と沙汰するものもありけるが、座頭が噂は絕(たへ)て、なく、金の穿鑿する人もあらず。

 茲に田澤屋が子傳三郞は、生年、廿八歲になりしが、極て好色の者にて、あけくれ、花街柳巷(けいせいまち)にあそび、「御舩(みふね)」といヘる遊女を、そこばくの金にて請出し、蜜[やぶちゃん注:原本のママ。「ひそかに」。]にかくし置て、愛しける。

 傅三郞が親は、洞春(とうしゆん)とて、禪門なりしが、隱居住(すま)ゐの、もの閑(しづか)なるに、四季折々の草花を植(うへ)て、樂しみとし、今朝も、夙(つと)めて、庭に立出、菊の、きせわたする所へ、座頭一人、飛石を傳ひ來るを、洞春、見とがめ、

「いづ方より、まよひ入しぞ。路地を出て、裏道より、小路をつたふて、出られよ。」

と敎へければ、座頭、うちゑみて、

「それがしは、此廣島の迫(せ)戶に沈みて、見るめは得たれど、藻に住(すむ)蟲の和禮都(われいち)と申もの、我身を碎(くた)き、骨を拉思ひにて貯へたる官金三百兩、革の財布に携へ持、御身の舟に乘し時、嘉兵衞といふ兎唇(とくち)の水主が盜隱(むすみかく)して、我を海中へ落し入、たすくる風情に人には見せ、うづまく淵へ、我を沈め、其身は水底(みなそこ)を潛りて、陸路に上り、室津(むろつ)まで流(ながれ)て、からき命、たすかりしと僞り、此金を傳三郞にあたへ、己(おのれ)も配分せし事、もとより其方が子の、傳三が所爲なり。此恨(うらみ)、いづれの世にか、散ずべき。田澤が家を絕(たや)し盡(つく)し、盡未來際苦(ちんみらいさいく)を見すべし。いかなる佛事供養をも、かならず、かならず、なすべからず。詮なかるベし。」

と、いふかとおもへば、庭の淺茅(あさぢ)の露と消て、跡かたも、なし。

 洞春、茫然として、夢のさめたるごとく、おそろしさ、いはんかたなし。

 いそぎ、傳三を一間に呼寄(よびよ)せ、此事の始終を穿鑿しけれぱ、今は、つゝむ事を得ず、赤面して立去る。

「座頭が恨みはとも斯(かく)もあれ、此惡事、露顯しては、公(おゝやけ)の御咎(いさめ)、まぬがれがたし。」

と、嘉兵衞をともなひ、宮嶋領(りやう)の田舍に行、幽(かすか)に、かくれぬ。

 かくて後、洞春をはじめ、一家九人、七日が間に、死(し)しぬ。

 傳三・御(み)船・嘉兵衞、三人、一時に、兩眼、つぶれて、あまつさへ、狂亂し、

「座頭を殺し、金を盜し者は、我々なり。」

と、口ばしり、觸𢌞り、麻が原といふ所の草むらに、かばねを晒し、うせにけり。

 是より、田澤が家、荒果(あれはて)、「化もの屋敷」と名に立て[やぶちゃん注:「たちて」。]、住(すむ)人、さらになかりしに、豐前の小倉より、日蓮宗の行脚の沙門、來りて、ありし次第を聞、あはれなる事におもひ、座頭が爲、田澤屋一家が爲、此「ばけ物屋敷」に住(しう)して、日夜、法華、讀誦しければ、亡魂、得脫(とくたつ)せしにや、其後、かの荒(あれ)屋を修理(しゆり)して、人も住居しけるに、いさゝかの怪(あやしみ)もなかりし、と、濟家(さいけ)の沙門昂含(かうかん)といへるが、信州佐久郡(さくこおり)觀音寺に來りて、つぶさに語りしを、しるしとゞめしも、今は、むかしと、なりぬ。

 

[やぶちゃん注:座頭の死、及び、洞春をその亡霊が訪ねるシークエンスまでは、まことにリアリズムに富み、よく書けている。しかし、コーダが早回しの急ぎ足で、完全に失敗している。今までの本書の話柄の中では、格段にレベルの落ちるもので、不審極まりない。筆者が投げたとしか思われない。

「大坂町」不詳。

「永祿」一五五八年から一五七〇年まで。もう、戦国時代初期。

「座頭一人、上京のねがい、多年の功勞を積(つみ)、官金數百兩」「官金」これはもう、江戸時代のことを引き戻した設定で、盲人が検校などの官位を手に入れるため、江戸幕府に納めた金を指す。

「舳(とも)」船尾。船首でも「舳」と書くが、ここは小便をしていることから、それでとるべきである。

「身ばれなれば」「身晴れなれば」で確定条件。「(皆、盗みなどしようがない。されば)身は何方も潔白であるのであるから」の謂いでとる。

「掠(かす)めぬ金なれば」誰も盗んでなどいない金であるから。

「舷(ふなばた)」広義の船の側面。

「小緣(こべり)」船(一般には小舟)の前に注した舷(ふなばた)の上縁に保護材として張った板。

「室(むろ)津」厳島の直線で南西約五十キロメートルにある室津半島(グーグル・マップ・データ)。

「菊の、きせわたする」「きせわた」は「着せ綿」。旧暦九月九日の「重陽の節句」に於いて、古く平安時代には前日の九月八日に菊の花を真綿で覆っておき、それに菊の香を移しえ、その翌日の朝、露に湿ったこの真綿を顔に当て、若さと健康を保とうとする行事があり、それを「菊の着せ綿」と称した。ここは、それを指すので、この部分で時期設定が示されていることになる。

「迫(せ)戶」「瀨戶(せと)」。

「見るめは得たれど」平知盛の壇の浦の台詞「見るべきものほどのことは見つ」を下敷きにしていると思われる。生きてゆく中で体験せねばならぬおぞましきことは総て見た、と、まず、言い、「見る目」の一方の意である「物事の真偽・優劣を見分ける力・眼力」を得て、誰が私の金を奪い、殺したかを私は知っていることを暗示させている。さらに無論、海の藻屑となって緑藻類の海藻「みるめ」「みる」「海松」「水松」(緑藻植物門アオサ藻綱ミル目ミル科ミル属ミル Codium fragile )となる身に堕ちたことを掛けた。

「藻に住(すむ)蟲の和禮都(われいち)と申もの」「みるめ」から「藻」が縁語となり、そこから「藻に住む蟲」となれば、それから「われから」(甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目 Senticaudata 亜目 Caprelidira 小目 Caprelloidea 上科の小型甲殻類のワレカラ類)がやはり縁語で引き出されるという仕儀となっている。だから、この座頭の通称名であるところの「和禮都(われいち)」をここで突然出したのは、「われから」に掛けた名として示された臭い言葉遊びなのである。かのちっぽけなみすぼらしい、海藻についてミイラになって、ぱらぱらと壊れ去る甲殻類の「われから」なればこそ、以下、「我身を碎(くた)き、骨を拉」(「ひしぐ」。「折る」ような)「思ひにて貯へたる官金三百兩……」と繋げて空しく腑には落ちるのである。但し、ちょっと粉飾し過ぎの感があって、私は座頭の怨霊の登場には、やや五月蠅い感じがなくもないように思う。しかも、この辺りから後が、まさに、ワレカラが微塵となるように、作品として、がっくり、だめになるのとまさに呼応しているからでもある。作者は、文章の飾りの調子に乗り過ぎた結果、本来の主題の展開のリアリズムをおそろかにしてしまったのである。

「兎唇(とくち)」口蓋裂。通常は鼻の直下で上唇が分離している先天性異常のこと。

「盡未來際苦(ちんみらいさいく)」「盡未來際」は「じんみらいざい(さい)」で、仏教用語。「未来の果てに至るまで」「未来永劫」の意で、普通は誓願を立てる場合などに用いるのだが、それに永遠の「苦」痛を添えて、未来永劫に続く呪詛の証として転じたものである。

「淺茅(あさぢ)」疎(まば)らに生えた丈の低い茅(ちがや)。荒涼とした風景を表わす語であるが、ここは洞春の綺麗な園中なれば、彼の心象風景ととるべきであろう。

「麻が原」不詳。

「濟家(さいけ)」臨済宗。

「昂含(かうかん)」不詳。

「信州佐久郡(さくこおり)觀音寺」不詳。長野県佐久市大沢の曹洞宗龍泉院内に観音寺という寺がある記載があるが、ここで言っているのがその寺かどうかは判らぬ。この近くにはっ独立した「観音堂」があり、佐久郡に拘らなければ、観音寺は外にもある。例えば、旧佐久郡に近い観音寺(グーグル・マップ・データ)は長野県小県(ちいさがた)郡長和町にあるが(真言宗)、ここは佐久郡であったことはない。]

南方熊楠 小兒と魔除 (5)

 

[やぶちゃん注:以下冒頭のページ数は出口米吉の論文(前のリンクは私の電子化)の以下の当該譚の初出ページ(PDFの「7」コマ目上段)を指す。そこで出口は「鬼車鳥」のことを、民間の国学者で狂歌師・随筆作者であった梅園静廬(うめぞのせいろ 明和二(一七六五)年~嘉永元 (一八四八) 年:和漢の書を読破してその博識を謳われた)の「梅園日記」から引いている。「日本古典籍ビューア」のこちらの「七草」に「鬼車鳥」が語られてある。以下に電子化しておく。句読点や記号を打ち、漢文部は訓読し、推定で一部の読みや送り仮名を添えた。

   *

   七草 十五

「世說故事苑」に七草を搥(う)つ事、「事文類聚」に歲時記を引きて曰はく、『正月七日、鬼車鳥(きしやてう)の度(わた)ること多し、家〻、門を搥ち、戸を打ち、燈燭を滅(け)し、之れを禳(はら)ふ。和俗、七種の菜を打つ唱(となへ)に、「唐土(もろこし)の鳥、日本の鳥、渡らぬさきに」と云へるは、此の鬼車鳥を忌む意なり。板を打ち鳴(なら)すは、鬼車鳥、止(と)まらざるやうに禳(はら)ふなり』といへり。按ずるに、此の說、是(ぜ)なり。「桐火桶」【定家卿の作と稱す】に、『正月七日、七草をたゝくに、七づゝ、七度、四十九、たゝく也。七草は七星なり。四十九たゝくは、七曜、・九曜・廿八宿・五星合せて、四十九の星をまつる也。唐土の鳥と日本の鳥と、わたらぬさきに、七草なづな、手につみいれて、亢觜斗張(こうしとちやう)』とあり。「亢觜斗張」は、廿八宿の中の星の名なり。【また、「旅宿問答」に、『七日の七草は、天に在る七星、地に在る七草』とあり。】星の名を書きて、鬼車鳥の類の夭鳥(うてう)[やぶちゃん注:妖鳥。]を逐(おふ)事は、「周禮」の「秋官」に、『蔟(てきぞく)氏、夭鳥の巢を覆ひ掌(も)ちて、方(かた)を以つて【注に「方は版なり」と。】十日の號・十有二辰の號・十有二月の號、十有二歲之號・二十有八星の號を書き、【注に「角より軫に至る」と。[やぶちゃん注:星座の位置情報を指す。]】其の巢の上に縣(かか)れば、則ち、之れ、去れり』と云へり。夭鳥は鬼車の類ひなり。元の陳友仁が序ある無名氏の「周禮集說」に、『劉氏曰はく、「夭鳥は陰陽の邪氣の生ずる所、故に、妖怪、人間をして不祥(ふしやう)せんと欲し、夜、則ち、飛騰(ひふつ)し、至る所、害を爲す。鬼車の類のごとき、皆、是れなり」』【「書錄解題」に、『「周禮中義」八卷、祠部員外郞長樂劉彝執中撰』とあり。劉氏は、これにや。】と見えたり。三善爲康の「掌中歷」に、永久三年【「三年」の二字、「拾芥抄」に據りて補ふ。】七月の比、都鄙に鵼(ぬえ)ありしに、十日・十二辰・十二月・十二歲・廿八星の號を、方(いた)に書きて、懸けたる事、見えたれば、こゝにも「周禮」の說、行れたるを知るべし。後世の書にも、「淸異錄」に、『梟は見聞く者、必ず殃禍(わざはひ)に罹(かゝ)る。急に梟に向ひ、連(つゞけ)て唾(つばきす)る、十三口。然る後、靜坐し、北斗を存(そん)すること、一時許り、禳ふべし。また、「埤雅」の「釋鳥」に、『傳へ曰ふ、「梟、星の名を避く」』と。これ亦、星の惡鳥を禳ふ事を知るべし。彼の鳥、夜中、飛行すといへる故に、六日の夜より、七日の朝まで、七草を打つなり。「七草雙紙」に、『七草を柳の木の盤に載せて、玉椿の枝にて、六日の酉の時に芹をうち、戌の時に薺(なづな)、亥の時にごげう、子の時にたびらこ、丑の時に佛の座、寅の時に鈴菜、卯の時にすヾしろをうちて、辰の時に七草を合せて、東の方より、岩井の水をむすびあげて、「若水」と名づけ、此水にて、はゝが鳥[やぶちゃん注:「はくが鳥」かも知れぬ。孰れにせよ不詳だが、流れからは、鬼車鳥を指している。鬼車鳥は姑獲鳥(うぶめ)の別名とされることも多く、さすれば「うぶめ」は「産女」と書き、これは「母が鳥」と親和性があると言えるように思う。]のわたらぬさきに、服するならば、一時に十年づヽの齡(よはひ)をへかへり[やぶちゃん注:「經返り」で、時間が戻る・若返ることであろう。]、七時には七十年のとしを忽(にはか)に若くなりて』云々、此の「はゝが鳥」の事は、いふにもたらぬ作りごとなれど、今も、六日の酉の時よりたゝく也。【亦、根芹の謠(うた)にも云へり】「桐火桶」に、『七度たヽく』とある、證とすべし。

   *]

 

(一四一頁)(鬼車、小兒を害する事)酉陽雜爼十六に云、鬼車鳥、相傳此鳥昔有十首、能收人魂、一首爲犬所噬、秦中天陰有時聲、聲如力車鳴、或言是水鷄過也、水鷄[やぶちゃん注:「すいけい」。何故、「くひな」と読まないかは、後注を参照されたい。]は Vanellus cristatus Mey. et Woif. (Möllendorff, “The Vertebrata of the Province of Chichi,” The Journal of the North China Branch of the Royal Asiaic Society, New Series ⅩⅠ, Shanghai,1877, p. 97)其鳴聲怪きより斯る訛語を生ぜしこと、吾邦の鵺[やぶちゃん注:「ぬえ」。]。の如きにや、錫蘭[やぶちゃん注:「セイロン」。]にも似たる話有るは Knox,‘An Historical Relation of the Island of Ceylon,’ 1681, p. 78 に、島の高地部に魔鳴く事有り、低地には無し、其聲、犬の鋭く吠るが如く、忽ち一方にあると思へば、忽ち他方に聞ゆること常の鳥類に異なる、故に魔の所行たるを知る、此聲聞ゆるすぐ又後に、王人を刑死するを奇とす、犬之を聽ば戰慄す、シンガリー人之を聞く每に、惡言を放て罵れば、暫く止め遠く去るものゝ如しと云り、一三三〇年頃の書 Fr.Jordanus,‘Mirabilia descripta,’ trans.Yule, 1863, p. 37 にも、錫蘭にて夜屢ば魔人と語ると云り、ユール之を其地に只今所謂魔鳥に充て、褐色の梟なりと云れども、ミトフヲードは、魔鳥は夜鷹の一種、其聲童子が經せられて息絕ゆるまで苦吟する如く、悽愴極りて聞くに堪ずといひ、テンネントは、村近く之を聞ば不祥の兆とて、民之を惱むと云り、(Tennent, ‘Sketches of Natural History of Ceylon,’ 1861, pp.246-8)、而して古え錫蘭を虐治せし兄王キスツアカン、鬼車と同く十頭ありしと云は奇遇頗る妙也(James Low,in the Jouynal of the lndian Archipelago and Eastern Asia, vol.iv. p. 203, Singapore, 1850)、ミンチラ人が信ずるハンツ、サブロ(獵師鬼)は、湖及川の淵に棲み、體黑く、黑口と名たる三犬を隨ふ、此犬人家に近けば、住人は木片を打ち大噪ぎしてこれを驅り、小兒を緊く抱いて其去るを俟つ、マレー人が傳ふるソコム鬼、行くときは「ベリベリ」鳥先づ飛ぶ、此鳥、家に近くとき、家内聲限りに喧呼して之を厭す[やぶちゃん注:「まじなひす」。](Ibid.,vol.ⅴ, p. 308)、是れ鬼車と事は酷だ[やぶちゃん注:「はなはだ」。]相肖たり[やぶちゃん注:「にたり」。]、姑獲が事は、倭漢三才圖會に本草綱目を引て、一名夜行遊女、又天帝少女鬼神類也云々荆州多有之、衣毛爲鳥、脫毛爲女人、是產婦死後化作、故胸前有兩乳、喜取人子、養爲己子、凡有小兒家、不可夜露衣物、此鳥夜啼、以血點之爲誌、兒輙病云々謂之無辜癇也、蓋此鳥純雌無雄、七八月夜飛害人、而して著者寺島氏之を西國海濱に多してふ「ウブメドリ」に宛て、九州人謂云、小雨闇夜、不時有出、其所居必有燐火、遙視之狀如鷗而大、鳴聲亦似鷗、能變爲婦、携子、遇人則請負子於人、怕之迯則有憎寒、壯熱甚至死者、强剛者諾負之、則無害、將近人家、乃背輕而無物、未聞畿内近國狐狸之外如此者と述ぶ、吾國には例無き事なれど、實際梟族が嬰兒を殺すこと世にあると見ゑ[やぶちゃん注:ママ。] Hasselquist, op. cit., p. 196 に據ばシリアの鵂鶹[やぶちゃん注:「きうりう」。底本では「鶹」の部分は活字が無く、「▲」というひどい処理となっている(右ページ五行目)。初出・選集に従ったが、「鶹」の(へん)は「留」が正しい。] Strix otus 貪戾[やぶちゃん注:「たんれい」。欲深(よくぶ)かにして人の道に背くこと。]にして、夜窻を閉るを遺れたる[やぶちゃん注:「わすれたる」。]に乘じ、室に入て孩子[やぶちゃん注:「をさなご」。]を殺す、婦女之を怖るゝこと甚し、梟の巢に時として羽毛を混ぜる異樣の塊物あるを G. White, ‘The Natural History and Antiquities of Selborne’ に記せるを見れば、其成分等は別に硏究する事として、兎に角倭漢共、梟が土を化して其子と成す(陸佃爾雅新義一七、古歌にも「梟の暖め土に毛がはえて、昔の情今の寇也」)と云るに、核子[やぶちゃん注:「たね」。]なきに非ず、鳥の形色を以て容易に雌雄を別つ可らざるや多し、故に一種の夜鳥、胸前の斑紋兩乳に似て、多少女人の相有るを純雌無雄とするも尤もにて(歐人「ヂユゴン」を遠望して海女となし Tennent, p. 68 兎の陰部異常なるより悉く兩性を兼ぬとし C. de Pauw, ‘Recherches Philosophiques sur les Americaines,’ Cleves, 1772, p. 92 異物志、靈猫一體、自爲陰陽と謂ふ抔見合すべし)、之に件の鵂鶹嬰兒を食ふ事、土梟抱塊爲兒の語抔を和して、姑獲養人子の迷信を生ぜるやらん、邦土により、鳥が毛羽を人家中庭に落し、兒の衣中に置く位の事は屢なるべく、家外に露せる衣布、忽ち黴菌等を生じて、血點に酷似せる斑を生ずるは予も親く見たり、夜啼點血爲誌の語も、爪哇[やぶちゃん注:「ジヤワ」。]に、男女の魑魅、檳榔噬し[やぶちゃん注:「かみし」。]赤唾を人の衣に塗り汚す(Ratzel, ‘History of Mankind,’ trans. Butler, 1896, vol. i, p. 474)といふも之に基くならん、兎に角、支那の鳥類の精査遂られん日、必ず此誕[やぶちゃん注:「はなし」。]の由來を明知すべしと信ぜらる、ダイヤツク人、カミヤツク魔、鳥の如く飛で孕婦を害し子生まるゝを妨げ、クロアー魔は、胸の正中に一乳房のみ有り、兒產まるゝや否、來て其頸を摑み、之を不具にすと信ぜるも似た事なり(T. F. Beeker, “The Mythology of the Dyaks,” The Journal of the lndian Archipelago and Eastern Asia, vol. iii, pp. 106, 113, 1849)、而して、鬼物が人の子を隱し養ひ、或は之を不具にし、或は醜くし、或は痴にするは此他例多し、蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコツトランド」。]等のフユヤリース希臘のネレイヅ(Hazlitt, vol. ⅰ, p.102 ; Bent, p. 14)、本邦の天狗(老媼茶話十七章、著聞集アコ法師の事)等也、惟ふに[やぶちゃん注:「おもふに」。]婦女が產褥に苦むは、所謂宍食た[やぶちゃん注:「ししくふた」。]報いで、誰を怨みん樣なしとは申せ、人間繁殖てふ大義務の爲に粉骨するものなれば、たとひ事遂ずとも、其社會の爲に盡すの功は、たしかに燦爛たる勳章を値す、以是、苗氏コラヷンバスクの諸民、產每に夫「クーヷード」して、妻と苦樂を俱にするの意を示し、北ボルネヲには、產死の女、極樂え[やぶちゃん注:ママ。]直ぐ通りとす(Ratzel,ⅱ,p.479)、但し男の身は苦まずして女のみ生死の境に出入すとは、至て割の惡い儀なれば、之が爲に命を殞せる[やぶちゃん注:「おとせる」。]者姑獲となり、「ウブメドリ」となり、啾々として夜哭し、他の安く子を擧たる婦人を羨んで、其母子に禍せんと欲すとは、理の詰んだ所も有る也、パンジヤブにて產死の女、チユレル魔となり、顏は女ながら甚怖しく、乳長くして肩上にかゝげ、反踵黑衣、長くて黑き兩牙あり、廢壘墓塚に住み、小兒を食ふ(Panjab Notes and Queries, vol. i, note 334)と傳え[やぶちゃん注:ママ。]、安南にて、吾兒を續け亡ひ、第六兒產んとて死せる女、白衣にして樹上に死兒を抱き、他の產室に入て流產せしむ(Landes, “Notes sur less Mœurs et Superstitions Populaires des Annamites,” Cochinchine Francaise, vol.ⅰ, p. 448, Saigon, 1880)と信ず、吾國又古くより產女靈の迷信ありしは、今昔物語卷十三、平季武之に値ふ[やぶちゃん注:「あふ」。]話あり、倭漢三才圖會卷六十七、鎌倉產女寶塔の談あり、耳袋中編に、產後死せる女、人に預たる嬰兒を抱きに來りし事を載す、肥後の人に聞けば、其地に「安からう」といふ怪あり、產婦の靈にして、雨夜に安かろうと呼ぶとこは難產を心配せし執念の殘りしと云ふ意か、蒼鷺など夜燐光を放つを、上に引ける倭漢三才圖會の文とくらぶるに、何にか、九州には夜燐光有て鳴聲宜しからぬ鳥あるを、產死の女靈に附會して「うぶめ」鳥の話を生ぜるにや有ん、小兒の衣類、何なりとも戶外に遺るゝときは、夜其兒安眠せず、又それに鳥糞掛るときは、出世を妨ぐとは、此邊にもいふことにして Bent, op.cit, p. 181 にも希臘のシキノス島にて、夜戶外に乾せし衣は、香爐にて薰べし[やぶちゃん注:「ふすべし」。]後ならでは、決して產婦と嬰兒に着せず、此島濕氣甚ければ、全く無稽の冗談に非じ、と云り、

[やぶちゃん注:底本はここで珍しく改行されている。これは初出でも同じである。但し、次の頭の字下げはご覧の通りないし、話として、ここで敢えて改行すべき理由も、私は見出せない。敢えて言うなら、話が夜泣きの咒(まじない)に少しずれるからであろう。パートとしては独立しているわけではないので、電子化は一緒にする。]

此邊にて小兒夜驚き啼くを防がんとて、今も玄米を撒く人あり、豆粒樣とて、甲冑着たる小き者來り襲ふが米を畏れて去ると也、昔よりの風と見えて、今昔物語二十七卷三十章[やぶちゃん注:底本は「卷十四十七章」であるが、全くの誤認であるので、「選集」で訂した。]に、「今は昔、ある人方違え[やぶちゃん注:ママ。]に、下京邊に幼兒を具して行けり、其家に靈有しを彼人は知ざりけり、幼兒の枕の上に火を近くとぼして、側に二三人計り寢たり、乳母は目をさまして、兒に乳を含めて居たりけるに、夜半計りに塗籠の戶を細目に開て、長[やぶちゃん注:「たけ」。]五寸許の男の裝束したるが、馬に乘て十人計り、枕の邊を渡りければ、乳母怖しと思乍ら、打撒[やぶちゃん注:「うちまき」。]の米を摑んで擲懸[やぶちゃん注:「なげかけ」]けるに、此渡る者共颯と[やぶちゃん注:「さと」。]散て失けり、打撒の米每に血付けり、幼き兒どもの邊りには、必打まきを置事也となん、語り傳たると也」と見ゆ、御伽草子の「一寸法師」に、一寸法師「或時みつ物のうちまきとり、茶袋に入れ、姬君の臥しておはしましけるに[やぶちゃん注:底本「おはじましける」。初出で訂した。]、謀[やぶちゃん注:「はかりごと」。]を運らし[やぶちゃん注:「めぐらし」。]、姬君の御口にぬる」ことあり、みつ物の打ちまきとは、姬君の父の領分より收むる貢米の落散たるをいひしにて、今俗にいふ「つゝを」米を指すか、然ば、米を打ちまきと云に、「つゝを」米と鬼に擲ち[やぶちゃん注:「なげうち」。]撒く二原意有りと思はる、豆穀を擲て鬼魅を奔らす事 Frazaer,‘Golden Bough’ 其他に、例多く擧げ、理由をも辨じたればこゝに繰り返さず、

 

[やぶちゃん注:「酉陽雜爼十六に云、鬼車鳥、相傳此鳥昔有十首、能收人魂、一首爲犬所噬、秦中天陰有時聲、聲如力車鳴、或言是水鷄過也」原文はもっと続く。

   *

鬼車鳥、相傳此鳥昔有十首、能收人魂、一首爲犬所噬。秦中天陰、有時有聲、聲如力車鳴、或言是水雞過也。

「白澤圖」謂之蒼鸆、帝嚳書、謂之逆鶬、夫子、子夏所見。寶歷中、國子四門助敎史逈語成式、嘗見裴瑜所注「爾雅」言、鶬糜鴰是九頭鳥也。

   *

 鬼車鳥、相ひ傳ふ、「此の鳥、昔、十首有り、能く人の魂(たましひ)を收す。一首、犬に噬(か)まれたり。秦中、天、陰(くも)れば、時、有りて、聲、有り、聲、力車の鳴るがごとし」と。或いは是れ、「水雞(すいけい)の過ぐるを言ふなり」と。

 「白澤圖」は、之れを「蒼鸆(さうぐ)」と謂ふ。帝嚳の書は、之れを「逆鶬(げきさう)」と謂ふ。夫子(ふうし)[やぶちゃん注:孔子。]、子夏と見らる。寶歷[やぶちゃん注:八二五年~八二六年。中唐末期。]中、國子四門助敎史たる逈(けい)、成式[やぶちゃん注:筆者段成式。]に語るに、『嘗つて見し裴瑜(はいゆ)の注せる「爾雅」に言ふに、「鶬は糜鴰(びかつ)、是れ、九頭の鳥なり」と』と。

   *

ここに出る「白澤圖」の「白澤」は聖獣の名。人語を操り、森羅万象に精通する。麒麟・鳳凰同様、有徳の君子ある時のみ姿を現すという。一般には、牛若しくは獅子のような獣体で、人面にして顎髭を蓄え、顔に三個、胴体に六個の眼、頭部に二本、胴体に四本の角を持つとする。三皇五帝の一人、医薬の祖とされる黄帝が東方巡行した折り、白澤に遭遇、白澤は黄帝に「精気が凝って物体化し、遊離した魂が変成したものはこの世に一万千五百二十種ある」と教え、その妖異鬼神について詳述、黄帝がこれと白澤の姿を部下に書き取らせたものを「白澤圖」という(偽書以外の何物でもない)。因みに、本邦では江戸時代、この白澤の図像なるものは、旅行者の護符やコロリ(コレラ)等の疫病退散の呪いとして、甚だ流行した。さて。私は実はこの十の頭(但し、一つは犬に食われて欠損しているか)を持つという如何にも中国大陸然とした過剰なハイブリッド妖鳥に、ある種の呆れを感じ(多けりゃ怖い的な物量至上主義はアメリカ軍と同じで心底、馬鹿にしたくなるのである)、あまり注する気が起こらないでいる。しかし、それでは今までのやっぱりマニアックになってしまった注と比して、ここのバランスが悪くなるので、やはり、注せずんばならずなのである。

 まず、熊楠に物申したいのは、この「酉陽雜爼」に出る「水雞」は鳥のクイナ(鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ Rallus aquaticus或いはそれに似た同じ水辺にいる水鳥。次注参照)なんぞではないということである。「水」の中にいる「雞」(にわとり)のような味のする蛙のことである。則ち、この部分は、俗伝の中には「鬼車鳥なんていやしないよ! 蛙が鳴いて通り過ぎたのを化鳥の声と思っただけさ!」という否定論も含まれているということなのである(と私は読む、ということである)。

 「鬼車鳥」及びそれと同類と思われる鳥の他の漢籍記載は、概ね、以上と変わらない。所持する東洋文庫訳注(今村与志雄訳。一九八一年刊。上の訓読は今村氏の現代語訳を参考にして独自に読んだものである)の注によれば、他の特異点は出口米吉のかの論文にも「梅園日記」の孫引きの形で引かれてある「北戸録」(「酉陽雑爼」の作者段成式の甥段公路の作)の「孔雀媒」記載で(原文全文を「中國哲學書電子化計劃」から丸ごと引いておく。但し、同書の影印画像で視認して電子化されたそれを敢えて字を正しておいた。下線は私が附した)、

   *

              孔雀媒

雷羅數州收孔雀雛養之使極馴擾致於山野間以物絆足傍施網羅伺野孔雀至卽倒網掩之舉無遺者或生折翠羽以珠刀毛編爲簾子拂子之屬粲然可觀眞神禽也【又後魏書龜兹國孔雀羣飛山谷間人取養而食之字乳如鷄鶩其王家恒千餘隻】一說孔雀不【必疋】偶但音影相接便有孕如白雄雌相視則孕或曰雄鳴上風雌鳴下風亦孕見博物志【又淮南八公相鵠經曰復百六十年變止雌雄相視目睛不轉而孕千六百年形定也又稽聖賦豪豕自爲雌雄缺鼻曾無牝牡卽雌兔䑛雄而孕是矣】又周書曰成王時方人獻孔鳥方亦戎別名山海經南方孔鳥郭璞注孔雀也宋紀曰孝武大明五年有郡獻白孔雀爲瑞者噫象以齒而焚麝因香而死今孔雀亦以羽毛爲累得不悲夫愚按說文曰率鳥者繫生鳥以來之名曰字林音由今獵師有也淮南萬畢術曰鴟鵂致鳥注云取鴟鵂折其大羽絆其兩足以爲媒張羅其旁衆鳥聚矣博物志又云鵂鶹休【留鳥】一名鴟鵂晝日無所見夜則目至明人截手爪棄露地此鳥夜至人家拾取視之則知有吉凶凶者輒更鳴其家有殃也莊子云鴟鵂夜撮蚤察毫末晝出冥目而不見丘山言性殊也陳藏器引五行書除手爪埋之戸內恐爲此鳥所得其鵂鶹卽姑獲鬼車鴞鵩類也姑獲中記云夜飛晝藏一名天帝少女一名夜行遊女一名隱飛好取人小兒食之今時小兒之衣不欲夜露者爲此物愛以血其衣爲誌卽取小兒也又云衣毛爲鳥脫毛為爲女人昔豫章男子見田中有六七女人不知是鳥扶匐往先得其所解毛卽藏之卽往就諸鳥各走取毛衣飛去一鳥獨不去男子取爲婦生三女其母後使女問父知衣在積稻下得之衣而飛去後以衣迎三女兒得衣亦飛去鬼車一名鬼鳥今猶九首能入人屋收魂氣爲犬所噬一首常下血滴人家則荊楚歲時記夜聞之捩狗耳言其畏狗也白澤圖云昔孔子子夏所見故歌之其圖九首今呼爲九頭鳥也毛詩義䟽曰鴞大如鳩惡聲鳥入人家其肉甚美可爲炙漢供御物各隨其時唯鴞冬夏施之以美也禮内則曰鴞胖莊子云見彈求鴞炙陳藏器又云古人重其炙尙肥美也又按說文曰梟不孝鳥至日捕梟磔之如淳曰漢使東郡送梟五月五日作梟羮賜百官以其惡鳥故食之愚謂古人尙鴞炙是意欲滅其族非爲其美也又淮南萬畢術甑瓦止梟鳴取破甑向梟抵之輙自止也

   *

で、「毛詩義疏」(恐らく「隨志」の引用)には、鬼車鳥と同類と考えられる鴞(きょう)は鳩ぐらいの大きさで、『悪い声を出す。人家に入ると、凶である』としながらも、『その肉は、たいへん美味で、焼肉にしてよい』と俄然、実在する鳥の様相を示し、漢代に既に冬も夏も鴞の肉を供物として用意したが、それは一年を通して、『美味だからである』とあり、唐代の本草学者で明の李時珍の「本草綱目」にもよく引かれてある、陳蔵器は古人がこの鳥の炙り肉を好んだのは、脂が乗って『美味であることを尊んだのである』とあり、それは以上の原文からも判る。

 さても! ここでは、もう禍々しい首だらけの怪鳥なんぞではない、鳴き声が厭な感じだけれど、実在する鳥であることが判る。それは「彼らに外ならない」でないか! 一応、ウィキの「鬼車」を引いてみようか。『中国に伝わる怪鳥』で、『東晋の小説集『捜神記』には「羽衣女」として、以下のように記述されている。江西省のある男が、数人の女を見つけた』。一『人の女の脱ぎ捨てた毛の衣があったので、男がそれを隠して女たちに近寄ると、女たちは鳥となって飛び去ったが、毛衣を隠された』一『人だけは逃げられなかった。男は彼女を妻とし、後に子供をもうけた。後に女が隠されていた毛衣を見つけ、鳥となって飛び去り、さらに後に別の衣を持って子供たちを迎えに来て、皆で鳥となって飛び去った』。『西晋代の書『玄中記』によれば、この羽衣女が後に「鬼車」と呼ばれるようになったという』(いやいや! 何で私の好きな「捜神記」の羽衣伝説マンマのしみじみした話が、何で! 九頭の醜い凶鳥になるんでしょうか? と聴きたいのだよ!)。『『太平御覧』には、斉の国(現・山東省)に頭を』九『つ持つ赤い鳥がおり、カモに似て』、九『つの頭が皆』、『鳴くとある』。『唐代の『嶺表録異』によれば、鬼車は』九『つの頭を持つ鳥で、嶺外(中国南部から北ベトナム北部かけて)に多くいるもので、人家に入り込んで人間の魂を奪う。あるとき』、『頭のうちの一つを犬に噛まれたため、常にその首から血を滴らせており、その血を浴びた家は不幸に苛まれるという』。『『正字通』では「鶬虞(そうぐ)」の名で記述されている。「九頭鳥(きゅうとうちょう)」ともいい、ミミズクの一種である鵂鶹(きゅうりゅう)に似たもので、大型のものでは』一『丈あまり(約』三『メートル)の翼を持ち、昼にはものが見えないが、夜には見え、火の光を見ると目がくらんで墜落してしまうという』(いやいや! それって! フクロウ・ミミズク類、そのマンマでしょうが!?!)『南宋代の書『斉東野語』では、鬼車は』十『個の頭のうちの一つを犬に噛み切られ、人家に血を滴らせて害をなすという。そのために鬼車の鳴き声を聞いた者は、家の灯りを消し、犬をけしかけて吠えさせることで追い払ったという』。『また、鬼車とはまったく別の伝説として、人の子供を奪って養子にするといわれる神女「女岐(じょき)」がある。『楚辞』には「女岐は夫もいないのになぜ』九『人もの子供がいるのか」とあり、この言い伝えが前述の『捜神記』での鬼車と子供にまつわる話と習合し、さらに「九子」が「九首」と誤って伝えられたことから、鬼車が』九『つの頭を持つ鳥として伝えられたものと見られている』。『前述の『玄中記』では、これらの鬼車、羽衣女、女岐の伝承を統合した形で「姑獲鳥(こかくちょう)」という鬼神として記載されているため』、『書籍によっては鬼車が姑獲鳥の別名とされていることもある』。『頭の』一『つは犬に噛まれたのではなく、周王朝の宰相・周公旦の庭師に撃ち落されたという説もある』とある。

 私の憤懣は増大するばかりである。私が不満たらたらなのは、とどのつまりは、こうした中国で形成された畸形醜悪の「鬼車鳥」が何で我らの「七草粥」の穏やかな習俗に強引に結合してしまいったのかという点にあり、しかも、その凶鳥の声も姿も古文では語られていない不審(鬼車鳥が本邦の妖怪伝承の潮流の中で全く進化していない点)にあるわけだ。私はその原因こそが、「多頭」性にあると睨んでいる。日本人には、この手の「コレデモカ・ハイブリッド」系妖怪は人気が出ないのである。正直、鳥の本体に十も九つも頭があっては、怖いどころか、滑稽なだけだからだ。しかも、犬に弱いときたもんだってえの!

 小学館「日本国語大辞典」には、「鬼車」を立項するも、『頭が九つあり、幼児をさらうとされる想像上の妖鳥。「易経―睽卦[やぶちゃん注:「けいけ」。]」の「載鬼一車」の句による名という。鬼車鳥。』とあるだけだ。この解説、何も我々に有益な情報を与えて呉れてはいない。「何でそうなるの?!?」という痛切な期待を完全に裏切っている。

 しかし、賢明な諸君は、もう、お判りだろう、「鬼車鳥」の正体、その実在が。

 私の乏しい知識から考える「鬼車鳥」論を示す。

 「鬼」は元来、中国語では既に示した通り、幎冒(べきぼう)を被せた「死者」の姿を表わす。死者以上でも以下でもない。本来は人の遺体である。しかし、されば、それは冥界の存在をシンボルライズする。「車」は「廻(めぐ)る」物である。人の死者の顔のように見えるもので、人の頭部とは異なり、ぐるりと車のように背後の方まで廻るのである。冥界は夜の闇に通ずる。夜の闇の中に跳梁し、不気味な人の顔のようなもので、ぐるりと回る顔のような「鳥」である。そ奴は家の中にも侵入する。家の中は屋根裏を含む。そうだ――これはフクロウやミミズクに他ならないのだ。十の首とは、古代人には足を動かさないで首だけを動かすとは思うことが出来ないから、十方に顔があるとしたのだ。しかし実際には彼らは真後ろは流石に向けない。そんな背後からの彼らを見た者が、そこに全数からマイナス一が生じた。それがしょぼくも犬に食われたとする一つの首だ。また、或いは、その妖鳥の魔力を事前に封ずる手だてとして、弱点としてのマイナス一を加え、而して絶対最大の陽数である「九」を「鬼車鳥」そのもののなかに負のシステムとして組み込んだのだとも言えるのかも知れない。彼らの博物誌は私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)」及び、続く「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」を参照されたい。

 最後に、鬼車鳥を吸収合併して、本邦では消失させてしまった、張本人と思われる強力な日本の妖鳥のそれを示して、終わりとする。本文前の冒頭注でも触れた、そう、「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)」である。私の言いたいことはそちらで言い尽くしている。まさか「オオミズナギドリ」がモデル鳥というのも、誰も考えちゃあ、いないだろうから、どうぞ! そちらをお読みあれかし!!!

「水鷄は Vanellus cristatus Mey. et Wolf. (Möllendorff, “The Vertebrata of the Province of Chihi,” The Journal of the North China Branch of the Royal Asiatic Society, New Series ⅩⅠ, Shanghai,1877, p. 97)」熊楠が参考にしたのは、ドイツの言語学者で外交官であったパウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ(Paul Georg von Möllendorff 一八四七年~一九〇一年:十九世紀後半に朝鮮の国王高宗の顧問を務め、また、中国学への貢献でも知られ、満州語のローマ字表記を考案したことでも知られる。朝鮮政府での任を去った後、嘗ての上海で就いていた中国海関(税関)の仕事に復し、南の条約港寧波の関税局長官となり、そこで没した)が書いた、河北省の脊椎動物についての論文である。「Vanellus cristatus」はチドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリ属タゲリ Vanellus vanellus のシノニムである。全長約三十二センチメートル。長い冠羽をもった大型のチドリで、ヨーロッパからシベリア南部にかけてのユーラシア大陸の中緯度地方で繁殖し、冬は少し南へ移動する。日本には主に冬鳥として渡来するが、石川・新潟・福井・茨城などでは少数が繁殖している。頭上・後頸・背・翼は黒く、光沢がある。上尾筒は橙栗色で、尾は基部が白く、先が黒い。翼の下面は風切が黒く、雨覆は白色で対照が著しい。鳴き声は猫のように怪しい。サイト「サントリーの愛鳥活動」の「タゲリ」で聴くことが出来る。そこには、『翼は金属光沢のある緑黒色。頭には後方へ伸びるかざり羽があり』、『「ミューウッ」あるいは「ミャーッ」と聞こえる猫の鳴き声に似た声を出』すとし、『冬鳥として北方から渡って来て、積雪のない地方で冬枯れの田んぼの刈りあとや』、『湖沼畔に群れを』作り、『飛ぶときは丸みのある翼をフワフワとはばたかせ、白と黒の模様をあざやかに浮き立たせ』るとある。私は熊楠のように「鬼車鳥」の正体がタゲリだとは思わない。しかし、この鳴き声、空中をふわふわと人魂のように飛ぶ白黒のそれは、不吉な霊魂の象徴、冥界の禍々しい鳥と名指されても、必ずしも違和感は抱かないとは言っておこう。因みに、イギリスでは本種群を不吉な鳴き声の鳥として「wandering jew」(彷徨えるユダヤ人)という差別的呼称が残っている。

「鵺」私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵼(ぬえ) (怪獣/鳴き声のモデルはトラツグミ)」を参照されたい。なお、ここで熊楠は、文脈上は妖獣としてのそれを念頭に置いている。

「Knox,‘An Historical Relation of the Island of Ceylon,’ 1681, p. 78」イギリス東インド会社に属したイギリス海軍大尉ロバート・ノックス(Robert Knox 一六四一年~一七二〇年)が現地に赴いた際の記録に基づくもの。原本を綺麗に電子化したものが「gutenberg」にあるのを発見、少し手間取ったが、その「The Devil’s Voice often heard.」と頭書する条に、

   *

   This for certain I can affirm, That oftentimes the Devil doth cry with an audible Voice in the Night; ’tis very shrill almost like the barking of a Dog. This I have often heard my self; but never heard that he did any body any harm. Only this observation the Inhabitants of the Land have made of this Voice, and I have made it also, that either just before or very suddenly after this Voice, the King always cuts off People. To believe that this is the Voice of the Devil these reasons urge, because there is no Creature known to the Inhabitants, that cry like it, and because it will on a sudden depart from one place, and make a noise in another, quicker than any fowl could fly: and because the very Dogs will tremble and shake when they hear it; and ’tis so accounted by all the People.

   This Voice is heard only in Cande Uda, and never in the Low Lands. When the Voice is near to a Chingulaye’s house, he will curse the Devil, calling him Geremoi goulammah, Beef-eating Slave be gone, be damned, cut his Nose off, beat him a pieces. And such like words of Railery, and this they will speak aloud with noise, and passion, and threatning. This Language I have heard them bestow upon the Voice; and the Voice upon this always ceaseth for a while, and seems to depart, being heard at a greater distance.

   *

とあるのが、当該部である。

「Fr.Jordanus,‘Mirabilia descripta,’ trans.Yule, 1863, p. 37」著者はインドに於ける最初の司教カタラーニ・ジョルダヌス(Catalani Jordanus 一二八〇年頃~一三三〇年頃)。当該書の「Internet archive」のここの右ページに、

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  1. What shall I say then? Even the Devil too there speaketh to men, many a time and oft, in the night season, as I have heard.

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とある。

ユール」前書の英訳者で、イギリスの軍人にして東洋学者であったヘンリー・ユール(Henry Yule 一八二〇年~一八八九年)。以下のそれは、上記のページにある彼の注の後半に現われる。

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The notion of catching Shaitan without any expense to Government was a sublime piece of Anglo-Indian tact, but the offer was not accepted. Our author had, however, in view probably the strange cry of the Devil-bird, as it is called in Ceylon.  "The Singhalese regard it literally with horror, and its scream by night in the vicinity of a village is bewailed as the harbinger of impending calamity."  " Its ordinary note is a magnificent clear shout, like that of a human being, and which can be heard at a great distance, and has a fine effect in the silence of the closing night.  It has another cry like that of a hen just caught ; but the sounds which have earned for it its bad name, and which I have heard but once to perfection, are indescribable, the most appalling that can be imagined, and scarcely to be heard without shuddering; I can only compare it to a boy in torture, whose screams are stopped by being strangled."  Mr. Mitford, from whom Sir E. Tennent quotes the last passage, considers it to be a Podargus or night-hawk, rather than the brown owl as others have supposed. (Tennenfs Nat. Hist. of Ceylon, 246-8.)

   *

「ミトフヲード」イギリスの貴族で外交官のアルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford 一八三七年~一九一六年)か。幕末から明治初期にかけて外交官として日本に滞在した人物としても知られる。

「童子が經せられて」「選集」でも『経(けい)せられて』とあるが、これは上記原文の「I can only compare it to a boy in torture」の部分で、「torture」は「折檻・拷問」であるから、「經」ではおかしい。これは思うに、熊楠の誤記か誤植(但し、初出も「經」ではある)であって「縊(くびくくり)せられて」で「首を絞められること」の意ではあるまいか? 「縛」でも何でもいいが、「息絕ゆるまで苦吟する如く、悽愴極りて聞くに堪ず」なのだから、私はそれで採りたいわけである。

テンネント」「Tennent, ‘Sketches of Natural History of Ceylon,’ 1861, pp.246-8」イギリスの植民地管理者で政治家であったジェームズ・エマーソン・テナント(James Emerson Tennent 一八〇四年~一八六九年)のセイロンの自然史誌。Internet archive」のこちらで、原本の当該部が視認出来る。「THE "DEVIL BIRD"」の挿絵もある。そのフクロウの絵の前後に、

   *

The Singhalese regard it literally with horror, and its scream by night in the vicinity of a village is bewailed as the harbinger of impending calamity.

   *

「古え錫蘭を虐治せし兄王キスツアカン、鬼車と同く十頭ありしと云は奇遇頗る妙也(James Low,in the Jouynal of the lndian Archipelago and Eastern Asia, vol.iv. p. 203, Singapore, 1850)」作者は正しくはジェームス・リチャードソン・ローガン(James Richardson Logan 一八一九年~一八六九年)で、イギリスの弁護士で民俗学者。インドネシアやマレー半島の民俗を調べ、「インドネシア」という語を広めた人物でもある。「Internet archive」の原本のここ(右ページの改行された段落の冒頭部)に、

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The freed soul of Nontheok fell down to the earth, and was born again under the form of a Rakhsha. In process of time he was horn again as Kistsakan or Ravan, the ten handed tyrant of Ceylon styled Lanka.

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と確かにある。

ミンチラ人が信ずるハンツ、サブロ(獵師鬼)は、湖及川の淵に棲み、體黑く、黑口と名たる三犬を隨ふ、此犬人家に近けば、住人は木片を打ち大噪ぎしてこれを驅り、小兒を緊く抱いて其去るを俟つ、マレー人が傳ふるソコム鬼、行くときは「ベリベリ」鳥先づ飛ぶ、此鳥、家に近くとき、家内聲限りに喧呼して之を厭す(Ibid.,vol.ⅴ, p. 308)」「Internet archive」の当該巻を調べたが、見つからない。他の巻も縦覧してみたのだが、お手上げ。ちょっと癪に触っている。

「姑獲が事は、倭漢三才圖會に本草綱目を引て、一名夜行遊女、又天帝少女鬼神類也云々荆州多有之、衣毛爲鳥、脫毛爲女人、是產婦死後化作、故胸前有兩乳、喜取人子、養爲己子、凡有小兒家、不可夜露衣物、此鳥夜啼、以血點之爲誌、兒輙病云々謂之無辜癇也、蓋此鳥純雌無雄、七八月夜飛害人、而して著者寺島氏之を西國海濱に多してふ「ウブメドリ」に宛て、九州人謂云、小雨闇夜、不時有出、其所居必有燐火、遙視之狀如鷗而大、鳴聲亦似鷗、能變爲婦、携子、遇人則請負子於人、怕之迯則有憎寒、壯熱甚至死者、强剛者諾負之、則無害、將近人家、乃背輕而無物、未聞畿内近國狐狸之外如此者と述ぶ」まあ、結局、こうなるとは思っていた。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)」から私の訓読を全部引いておく。

   *

うぶめどり 夜行遊女

       天帝少女

       乳母鳥 譩譆(いき)

姑獲鳥   無辜鳥(むこてう)

       隱飛(いんひ)

       鬼鳥(きてう)

       鉤星(こうせい)

タウフウニヤ◦ウ

 

「本綱」、鬼神の類なり。能く人の魂魄を收(をさ)む[やぶちゃん注:捕る。]。荊州[やぶちゃん注:湖北省。]に多く、之れ、有り。毛を衣(き)て飛鳥と爲り、毛を脫(ぬ)げば、女人と爲る。是れ、産婦、死して後(のち)、化して作(な)る。故に胸の前に兩乳、有り。喜(この)んで人の子を取り、養ひて己(わ)が子と爲す。凡そ、小兒有る家には、夜(よる)、兒の衣物(きもの)を露(あら)はにするべからず。此の鳥、夜、飛び、血を以つて、之れに㸃じ、誌(しるし)と爲す。兒、輙(すなは)ち、驚癇及び疳病を病む。之れを「無辜疳(むこかん)」と謂ふなり。蓋し、此の鳥、純(もつぱ)ら、雌なり。雄、無し。七、八月の夜、飛びて、人を害す。

△按ずるに、姑獲鳥は【俗に云ふ、「産婦鳥(うぶめ)」。】、相ひ傳へて曰はく、「産後、死せば、婦、化する所なり」と。蓋し、此れ、附會の說なり。中華にては荊州、本朝にては西海の海濵に多く、之れ、有りといふときは、則ち、別に、此れ、一種の鳥たり。最も陰毒の因りて生ずる所の者ならん。九州の人、謂ひて云はく、「小雨(こさめふ)り、闇(くら)き夜、不時に[やぶちゃん注:不意に。]出づること、有り。其の居(を)る所、必ず、燐火[やぶちゃん注:鬼火。青白い妖しい火。]あり。遙かに之れを視るに、狀(かたち)、鷗(かもめ)のごとくにして、大きく、鳴く聲も亦、鷗に似る。能く變じて婦と爲り、子を攜(たづさ)へて、人に遇ふときは、則ち、人に子を負(をは)せんことを請ふ。之れを怕(おそ)れて迯(に)ぐれば、則ち、憎(にく)み、寒・壯熱、甚だしくして死に至る者、有り。强剛の者、諾(だく)して、之れを負ふときは、則ち、害、無し。將に人家に近づくに、乃(すなは)ち、背、輕くして、物、無し。未だ畿内・近國には、狐狸の外、此くのごとき者を聞かず。

   *

「吾國には例無き事なれど、實際梟族が嬰兒を殺すこと世にあると見ゑ」当然です。フクロウは猛禽類ですから。

「Hasselquist, op. cit., p. 196」(2)に既出既注。

「鵂鶹」(きゅうりゅう)」「ふくろう(梟)」の古名として本邦でも古くから用いられ、古語では「いひどよ(いいどよ)」とも訓じた。なお、現代中国では、フクロウ目フクロウ科フクロウ目スズメフクロウ属ヒメフクロウ Glaucidium brodiei の異名にこの漢字を当てている。されば、分布域その他は中文の同種のウィキを参照されたい。本邦には棲息しない。

「Strix otus」フクロウ科トラフズク属トラフズク Asio otus のシノニム。本邦にも基亜種トラフズク Asio otus otus が棲息する。名前で判る通り、耳角を持つ。

「梟の巢に時として羽毛を混ぜる異樣の塊物ある」鳥類学用語の「ペレット・ペリット」(pellet)のこと。猛禽類や一部の鳥類などが、消化出来ない骨・羽・毛などを纏めて吐き出した塊り。ウィキの「ペリット」がよい。

「G. White, ‘The Natural History and Antiquities of Selborne’」イギリスの牧師で博物学者のギルバート・ホワイト(Gilbert White 一七二〇年~一七九三年)が書いた、私の愛読書の一つである「セルボーンの博物誌」。彼はハンプシャーの小村セルボーンに生まれ、そこで副牧師を務める傍ら、少年時代から興味を持っていた博物学の研究に殆どの時間を費やし、その成果を約二十年間に亙って、博物学者トマス・ペナント(Thomas Pennant 一七二六年~ 一七九八年)と動物学者デインズ・バリントン(Daines Barrington 一七二七年~一八〇〇年)に送り続けた。彼らとの親交は、ホワイトの弟ベンジャミン(Benjamin)が博物学書の出版を手掛けていたことによるものであった。後に両者に送られた書簡を纏め、一七八九年にベンジャミンの手で出版された。ウィキの「ギルバート・ホワイト」によれば、『流麗な文体と鋭い観察眼とを兼ね備えた『セルボーンの博物誌』は、博物誌の古典として今日まで受け継がれており、「たとえ英国が滅びても本書は永遠に残るだろう」と称えられることもあった』。『その特徴は、当時の標本主義の博物学とは対称的に、鳥や植物、昆虫などの生態や自然景観の観察を、当地の歴史や山彦、日時計、田舎の迷信といった風土とともに記録した点にある』。十八世紀から十九世紀にかけて『牧師らが』、『その居住地域の博物誌をまとめる習慣が流行したが』、その中でも『ホワイトの著作だけが古典となった所以でもある』とある。

「陸佃爾雅新義一七」陸佃(りくでん 一〇四二年~一一〇二年)は北宋の博物学者で、王安石の弟子。主に動植物について解説した博物辞書「埤雅」(ひが)で知られる。当該書の指示するそれは、以下(「中國哲學書電子化計劃」の原本画像から起こした。そこに電子化されている文字列(機械判読で話にならないひどいものである)は致命的に誤っている)。

   *

怪鴟梟鴟

長而食母悖類反倫可謂怪塞曩梟首木上一名土梟土梟抱塊爲兒其遭食有以也所謂酉莒人滅鄙鄶如此一名土梟[やぶちゃん注:以下略。]

   *

「梟の暖め土に毛がはえて、昔の情今の寇也」天明期を代表する文人で狂歌師として知られる大田南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)が著したものを、後に文宝堂散木が補した、南畝没後の文政八年に刊行した随筆「仮名世説」(かなせせつ)の「上」に(吉川弘文館「日本随筆大成 第二期 第二巻」を所持するが、ここでは「古典籍ビューア」のこちらで視認して起こし、句読点や記号を施し、段落を成形した)、

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 支唐禅師は、源子和が父の方外の友なり。諸國行脚の時、出羽國より同宗の寺あるかたへゆきて、其寺にしばし滯留ありしに、庭前に椎の木の大なるが朽て、半より、をれ殘りたり。一日、住持、此木を、人して、掘とらせけるに、朽たるうつろの中より、雌雄の梟、二羽、出て、飛さりぬ。其跡をひらきみるに、ふくろふの形を、土をもて作りたるが、三つ、有。

 其中に、ひとつは、はやくも、毛、少し生て、啄(クチバシ)、足(アシ)ともに、そなはり、すこし、生氣も、あるやうなり。三つともに、大さは、親鳥程なり。

 住持、ことに怪しみけるに、禅師のいはく、

「これは、聞及びたる事なりしが、まのあたり見るは、いと、めづらし。古歌に、

 ふくろふの あたゝめつちに 毛がはへて 

    昔のなさけ いまのあだなり

と、此事を、いひけるものなるべし。梟は、みな、土をつくねて、子とするものなり。」

と。

 住持も、禅師の博物を、感ぜり。

   *

私はこの古歌の出典を知らぬ。ただ、ここで注する以前に、以上は知っていた。それは、私の芥川龍之介の手帳の電子化注の「芥川龍之介 手帳3―7」で以上を示したことがあるからである。原拠を御存じの方は是非、お教え願いたい。

『歐人「ヂユゴン」を遠望して海女となし Tennent, p. 68』既注の「Internet archive」のこちらで、原本の当該部が視認出来る。ジュゴン(哺乳綱海牛(ジュゴン)目ジュゴン科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon )の挿絵も添えてある。

「兎の陰部異常なるより悉く兩性を兼ぬとし C. de Pauw, ‘Recherches Philosophiques sur les Americaines,’ Cleves, 1772, p. 92」ウサギの♂♀の生殖器が幼年の場合に判別が至難であることは、かなり知られている(ウサギを飼ったことがない私でも聴き及んでいるから)。「アニコム損害保険株式会社」公式サイト内の「みんなのどうぶつ病気大百科」の「うさぎさんの繁殖生理学」によれば、『慣れた人であれば生後』二『ヶ月頃で生殖器の形から』、『うさぎさんの性別の判断も可能ですが、一般的にはとても難しいといわれています』。『男の子の場合は、女の子に比べると』、『肛門と陰部の距離が離れていて、陰部の形が丸く見えます。一方、女の