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2021/01/31

只野真葛「奥州ばなし」(附・曲亭馬琴註 附・やぶちゃん注)縦書(ルビ附)一括PDF版公開

只野真葛「奥州ばなし」(附・曲亭馬琴註 附・藪野直史注)縦書(ルビ附)一括PDF版(3.24MB・118頁)を「心朽窩旧館」に公開した。作成途中で一部のテクスト不全や私の注をかなり改訂し、ブログ版にも反映した。

2021/01/30

奥州ばなし 目錄

 

目錄

 

一   狐とり彌左衞門が事幷ニ鬼一管

二   おいで狐の話幷ニ岩千代權現

三   白わし

四   七濱谷

五   熊とり猿にとられし事

六   三郞次

七   大熊

八   かつぱ神
[やぶちゃん注:本文標題では「かつは神」。]

九   柳町山伏

十   乙二

十一  てんま町

十二  猫にとられし盜人

十三  めいしん

十四  狐つかひ

十五  上遠野出豆

十六  砂三十郞

十七  澤口忠太夫

十八  四倉龍燈

十九  龍燈のこと

二十  狐火

二十一 影の病

二十二 高尾がこと

二十三 狼打

二十四 與四郞

二十五 佐藤浦之助

二十六 丸山幷ニ谷風 桑田嘉太夫
[やぶちゃん注:本文標題は「丸山」のみで、「桑田嘉太夫」ではなく「菊田喜大夫」とする。]

二十七 とら岩幷ニ富塚半兵衞 貞山公鶉の話
[やぶちゃん注:「本文標題は「とら岩」のみ。]

[やぶちゃん注:各話はカテゴリ「只野真葛」で探されたい。リンクを張るほど、僕はお目出度い人間ではない。]

奥州ばなし とら岩 /(富塚半兵衞)/(貞山公鶉の話) / 「奥州ばなし」~電子化注完遂

 

[やぶちゃん注:以下、最終標題パートであるが、前段と同じく連関性のない二話(但し、後ろの二話は和歌関連で親和性がある)が「とら岩」の標題下以下に、底本では一行空けで組まれてあり、最後に馬琴の写本した旨の辞と署名がある。ところが、「目錄」を見ると、「とら岩幷ニ冨塚半兵衞 貞山公鶉の話」となっている。されば、仮に「富塚半兵衞」及び「貞山公鶉の話」としておいた。]

 

     とら岩

 

 とらいは道辨《だうべん》と云し、外療《げりやう》、有《あり》き。寬政年中のことなるべし。大力・大男の元氣ものなりし。甥の若生(わかう)、時ならず、麻上下《あさかみしも》を着して來りしをとがめ、

「何故の禮服ぞ。」

とゝふ。若生曰、

「今日、劍術の傳授すみし、かへりがけなり。」

といふを聞《きき》て、道辨、打わらひ、

「我は長袖のことゆゑ、武藝はかつてまねばねども、その方如きの、小ひやう・非力の者に、まけてはをられじ。傳授と有《ある》は、こと、をかし。」

と、あざけりしかば、若生も、さすが、傳授もうけし身の、かくあざけられては、聞《きき》のがしがたし、とや思《おもひ》つらん、

「さあらば、こゝろみに、立合《たちあひ》て御覽あれ。我方《わがかた》よりは、そなたを打《うち》申《まうす》まじ。われを、一打、うたれなば、まけとせん。」

と、いひしかば、道辨は、

「いざ。おもしろし。」

と庭にとびおり、棒をふつてかゝるに、さすが、傳授をゆるされしほど有《あり》て、うけやう、しごく巧者《かうしや》にて、うてども、うてども、身にあたらず、

「まつかう、みぢん。」

と打《うつ》棒を、隨分、よくうけとめけるを、道辨、

「こゝぞ。」

と力をいだし、かさにかかゝりて、おしたりしかば、こらへかねて、ひしげしとぞ。

 道辨、悅《よろこび》、

「さぞあらんと、思ひしことよ。」

とて、上《あが》りしとぞ。

 

[やぶちゃん注:「とらいは道辨」不詳。「虎岩」か。とすると、岸本良信氏の公式サイト内の「仙台藩(伊達藩)3」に「虎岩吉兵衛」・「虎岩善兵衛」・「虎岩八兵衛」という名を見出せるから、この虎岩一族の者ではあろう。次男以下で、武士をやめて、医師となったものか。

「外療」外科医。

「寬政」一七八九年~一八〇一年。

「若生(わかう)」岸本良信氏の公式サイト内の「仙台藩(伊達藩)1」に、「執槍隊小人」の中に「若生作蔵」が、「周旋方」の中に「若生文十郎」の名が見える。前者か。

「麻上下」麻布で作った単(ひとえ)の裃(かみしも)。江戸時代の武士(或いは庶民)の出仕の際の通常の礼装である。

「長袖」袖括(そでぐく)りをして鎧を着る武士に対して、長袖の衣服を着ているところから公卿・神官・僧・医師・学者などを指す。長袖者 (ちょうしゅうしゃ)という謂い方もある。

「まつかう、みぢん。」「眞向(まつかう)、微塵(みぢん)。」。「額の真ん中を粉微塵にしてくれるわ!」。

「かさにかかゝりて」「嵩(かさ)に懸かりて」一瞬の優勢に乗じて攻めかかって。

「ひしげし」「拉(ひ)げし」体を押されて地面に倒れて潰されてしまった。]

 

    (富塚半兵衞)

 

 忠山公の御代に、富塚半兵衞といふ人、有し。親は寄人《よりうど》にて、あまた、よみつめたりしを、子なる半兵衞は不精ものにて、常にはよまねど、花のをり、月見の夜《よ》などには、

「父の子なれば。」

とて、うた人《びと》の内に入《いり》て、題を給はれば、とがめなく、よみて出《いだ》したりしを、かたはらより、

「父の、おほくよみたる中《うち》を見出《みいだし》て、さし出すならん。」

と云《いひ》あへりしとぞ。

 或としの秋、十五日、例の如くよみて、さしいだせしを、そこなる人の中《うち》より、

「そこのよまれしといふうたは、父のよみ置《おき》しふる哥《うた》にはあらずや。」

と云出《いひいだ》したりければ、半兵衞、取あへず、其人の袖をひかへて、

  かゝる時思ひぞ出《いづ》る大江山いくのゝ道の遠きむかしを

といひし故、人々のうたがひ、はれて、まことによめるうたなることゝは思ひしとぞ。

 時にとりては、よく思《おもひ》よりたりし。

 この人、いつたい、おどけものにて、打《うち》むかへば、おのづから、人にゑみをふくませしとぞ。

 身まづしく、物にかまはぬかたより、居《ゐ》やしきのめぐりも、荒《あれ》がちなりしを、さることを、いましむる役人の方《かた》より、

「垣《かき》、ようせよ。」

と、たびたび、いはれしとぞ。其いひふるゝ人も、したしう、きかよふ中《なか》なりつれど、おほやけのこと故、しばしば、ことあげせし事にぞ有ける。

 ある日、わたくしに、其人の來りし時、酒などのみて、扨《さて》、あるじ、書《かき》て出《いだ》したりき。

  わがやどのくものすがきもあらがきも貧のふるまひかねてしるしも

 

[やぶちゃん注:「忠山公」既出既注。第六代藩主伊達宗村(むねむら 享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)。在任は寛保三(一七四三)年から亡くなるまで。戒名「政德院殿忠山淨信大居士」。

「富塚半兵衞」岸本良信氏の公式サイト内の「仙台藩(伊達藩)3」に「富塚半兵衞」の名が見出せる。

「寄人《よりうど》」ここは藩主付きの和歌担当の者(右筆や諸雑務も行ったか)の謂いであろう。

「取あへず」すぐに。

「取あへず、其人の袖をひかへて」「かゝる時思ひぞ出《いづ》る大江山いくのゝ道の遠きむかしを」「小倉百人一首」にある和泉式部の娘の小式部内侍の一首、

 大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立

に関わるエピソードを、動作とともに、オツに返したものである。この話は説話集「古今著聞集」(伊賀守橘成季編。(建長六(一二五四)年頃に原型成立)の「巻第五 和歌」に抄入された「小式部内侍が大江山の歌の事」や、作者不詳の「十訓抄」(じっきんしょう)の「第三 不可侮人倫事」(「人倫、侮(あなど)るべからざる事」)に載るすこぶる知られた話で、ここは先行する後者(「十訓抄」の一本の序には建長四(一二五二)年のクレジットがある)で示しておく。底本は一九四二年岩波文庫刊永積安明校訂を用いた。一部に句読点と推定で読みを追加し、段落を成形した。

   *

 和泉式部、保昌(やすまさ)【右大臣致忠(むねただ)息、大納言民部卿元方(もとかた)孫。】が女にて、丹後に下りけるあとに、歌合どものありけるを、小式部内侍、歌よみにとられて、歌をよみけるに、定賴【公任卿子。】の中納言、たはぶれて、小式部内侍有(あり)けるに、

「丹後へ遣はしける人は參りたりや。いかに心もとなくおぼすらむ。」

と云入(いひいれ)て、つぼねの前を過(すぎ)られけるを、御簾(みす)より、なから計(ばかり)出(いで)て、わづかに袖をひかへて、

   大江山いくのゝみちのとをければ

   まだふみもみずあまのはしだて

と、よみかけゝる。

 おもはずに、あさましくて、

「こはいかに。かゝるやうやは、有(ある)。」

と計(ばかり)いひて、返歌にもおよばず、袖をひきはなちて、にげられけり。

 小式部、これより、歌よみの世に、おぼえ、出來(いでき)にけり。

 これは、うちまかせて、理運(りうん)のことなれども、彼(かの)卿の心には、『これほどの歌、たゞいま、よみいだすべし』とは、知られざりけるにや。

   *

注するのも失礼乍ら、老婆心で言い添えておくと、定頼の台詞は「代わりにお母上に歌を詠んで貰うために、丹後にお遣わしになった者は、もう、帰って参られましたか。いやいや、使いが帰るのが、さぞかし、待ち遠しく、じれったくお思いのことでしょうなぁ。」という厭味である。一首については、「いくのゝみち」が現在の京都市福知山市の「生野(いくの)」或いは「幾野」で「幾つもの野」に掛けられており、さらに「行く」にも掛けられていると読むべきであり、「ふみ」は「文」(手紙)と「踏み」の掛詞となっており、「踏み」の方は橋の縁語とされる。正確な歌枕や地名の読み込み及び下句の倒置表現などを以って、定頼の戯言(ざれごと)を一撃のもとに退けた彼女の才覚は驚異的である。

「時にとりては」その時に当たって。絶妙のタイミングで。

「いつたい」副詞。元来。

「いひふるゝ」「言ひ觸るる」。ここは「かなりしつこく何度もそのことに言及する」の意。

「したしう、きかよふ中《なか》」「親しく、來通ふ仲」。

「おほやけのこと」藩中での公の場の中で、しばしば彼の家の荒れ方が武家の面目上、問題であるとして批判されていたことを示す。

「ことあげ」「言上げ」。殊更に言葉に出して言い諌めること。

「わたくしに」公務としてはなく、プライベートに遊びに来たことを言う。

「わがやどのくものすがきもあらがきも貧のふるまひかねてしるしも」「我が宿の蜘蛛の巢搔き荒垣も貧(ひん)の振舞ひ予(か)ねて著(しる)しも」「巢搔き」は「蜘蛛が巣を掛けること」或いは「その蜘蛛の巣」を指す。「荒垣」に応じて「素垣(すがき)」(竹などで編んだ隙間の多い粗末な垣根)も掛けていよう。――私の蜘蛛の巢だらけの家、荒れ果てた粗末な素垣も垣根も、皆、予てよりの吾らの清貧の標(しるし)に外ならぬのです――の謂いか。和歌嫌いの私でも、いい感じがする。]

 

    (貞山公鶉の話)

 

 貞山公、昔、戰《いくさ》の有し頃、京におはせしに、鳥屋《とりや》の見世《みせ》に立《たち》よらせ給《たまひ》て、よき「うづら」の有しを、

「これは、いかほどのあたひぞ。」

と問《とは》せられしかば、鳥屋のをとこ、『今ぞ、高直《かうじき》に申《まうす》べき時』とや思つらん、

「五十兩なり。」

と申上《まうしあげ》りしを、聞《きか》せ給て、

  立《たち》よりてきけば鶉の音《ね》はたかしさてもよくにはふけるものかな

と、たゞごとに、のたまはせしを、鳥屋、聞て、大《おほき》にはぢて、あたひなしに奉りしとぞ。【解云、このうづらの歌を、あるものには、堀田侍從のよし、いへり。いまだ孰《いづれ》か是(よき)をしらず。「藩翰譜」、堀田の譜を參考すべし。】[やぶちゃん注:馬琴の頭注。]

 

   天保壬辰歲杪立春五日、以原本比校畢

                蓑笠漁隱

 

[やぶちゃん注:「貞山公」かの戦国大名にして仙台藩初代藩主伊達政宗(永禄一〇(一五六七)年~寛永一三(一六三六)年)のこと。彼の戒名は「瑞嚴寺殿貞山禪利大居士」。

「戰の有し頃、京におはせしに」知られた上洛は、文禄二(一五九三)年、豊臣秀吉の「文禄の役」に従軍した折りである。ウィキの「伊達政宗」によれば、『従軍時に政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は非常に絢爛豪華なもので、上洛の道中において巷間の噂となった』。三千名或いは千五百名の『軍勢であったとの記録がある。ほかの軍勢が通過する際、静かに見守っていた京都の住民も伊達勢の軍装の見事さに歓声を上げたという。これ以来、派手な装いを好み着こなす人を指して「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになった』といういわく付きの出来事であった。

「鳥屋の見世」鳥を売る店。知ったかぶって「鳥屋」(「塒」とも書く)を「とや」と読んではいけない。「とや」は「鳥小屋」・「鶇(つぐみ)などの小鳥を狩りの際に罠を仕掛けて待つために山中や谷間に設けた小屋」・「鷹の羽が夏の末頃から抜け始めて、冬までに生え替ること(これはその時期に巣に籠るところからかく言う)」・「歌舞伎の劇場で花道の揚げ幕の内部にある花道への出入りの際の控えの小部屋」・「旅回りの役者などが不入りなどで次の土地に出発出来ずに今の場所に居続けになること」・「遊女が梅毒で引き籠ること(転じて「梅毒」をも指す)」といった意味の語で、これだけ多様な意味がありながら、「小鳥屋」の意はないからである。

「うづら」鶉。キジ目キジ科ウズラ属ウズラ Coturnix japonica 。今はあまり馴染みのない鳥であるが、古く「古事記」や「万葉集」の歌に詠まれ、卵だけでなく、成鳥自体を食用にした(平安時代に既に本種の調理法を記した書物があるという)のみならず、ペットとして飼育された歴史も古い。「言繼卿記」(ときつぐきょうき:戦国期の公家山科言継の日記。大永七(一五二七)年から天正四(一五七六)年の凡そ五十年に渡るもの。但し、散逸部分も少なくない。有職故実や芸能及び戦国期の政治情勢などを知る上で貴重な史料とされる)によれば、室町時代に既に籠を用いて本種を飼育していた記載があり、江戸時代には、武士の間で、鳴き声を競い合う「鶉合わせ」が行われ、慶長(一五九六年~一六一五年)から寛永(一六二四年~一六四五年:慶長との間には元和(げんな)が挟まる)をピークとして、実に大正時代まで流行した。また、別に鳴き声を日本語に置き換えた「聞きなし」として「御吉兆」などがあって、珍重されることもあった。されば、ここで政宗が鶉を求めようとしたこと、法外の吹っ掛けとは言え、小鳥屋の主人が「五十兩なり」と言ったのも、真実味を持って受け取れよう。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十二 原禽類 鶉 (ウズラ)」を参照されたい。

「立よりてきけば鶉の音《ね》はたかしさてもよくにはふけるものかな」前の「富塚半兵衞」の末尾の清「貧」と対称となっていて面白い。言わずもがな、「ね」は「音」と「値」に掛けてあるわけだが、ふと思うたのは、上の句の掛詞の面白さを考えると、下の句で、「さても欲には耽るものかな」そのままでは芸がないことになる。これは――ふと、さる御屋敷に立ち寄って、鶉の高く鳴く声を聴いたが、さてもさても、音(ね)のみでその姿が見えない。いやいや、そうか、能(「よく」)ぞ庭(「には」)に「ふけ」(「ふける」には「身を隠す」の意がある)たものであることよ――の意を表に装っているのではないかと考えた。鶉の特に♀は叢に溶け込みいやすい保護色をしている。また、叢の根元に産む卵もまた、その表面の色や模様が外敵から卵を守る多様な保護色となっていることはよく知られており、「身を隠す」と鶉には縁語的関係が成立するからでもある。但し、真葛は「たゞごとに、のたまはせし」とは言っているのだけれども(「ただごと」(徒言・只言)は古くは「ただこと」で、技巧などを用いずに有りの儘の言葉・歌語でも比喩でもない日常の言葉の意。しかし「鶉の音」としたところは最早「ただごと」ではないし、この話柄そのものが後世の捏造された話とすれば、ヒネリが入っていると読んだ方がいいし、面白いと思う)。

「堀田侍從」不詳。話と前後の記載(特に「藩翰譜」)から見ると、江戸前期の大名で、下総佐倉藩第二代藩主・堀田家宗家第二代にして、堀田正盛の長男である堀田正信(寛永八(一六三一)年~延宝八(一六八〇)年)のことかと思われたが、彼は侍従ではない。彼は後の「藩翰譜」にも記されてあるが、彼のウィキから引用すると、万治三(一六六〇)年十月八日、突如として『「幕府の失政により人民や旗本・御家人が窮乏しており、それを救うために自らの領地を返上したい」といった内容の幕政批判の上書を幕閣の保科正之・阿部忠秋宛てに提出し、無断で佐倉へ帰城し』てしまい、『まもなく、幕法違反の無断帰城について幕閣で協議が』なされ、『正信の上書や行動に同情的意見もあったが、老中・松平信綱の唱えた「狂気の作法」という見解(本来なら「三族の罪」に当たるが、狂人ならば免除できるという理屈)で合意がなされ』、同年十一月三日に『処分が下り、所領没収の上、弟の信濃飯田藩主』『脇坂安政に預けられた。正信が佐倉へ無断帰城した動機については、信綱との確執や正室の叔父の松平定政が起こした出家遁世事件との関係も指摘されるが、不明』である。その後、『安政の播磨龍野藩への転封に伴い、母方の叔父である若狭小浜藩主』『酒井忠直に預け替えられる。しかし』、延宝五(一六七七)年六月、『密かに配所を抜け出して上洛し、清水寺や石清水八幡宮を参拝し』、『これにより嫡男』『正休』(まさやす)『と酒井忠直は閉門、正信は阿波徳島藩主・蜂須賀綱通に預け替えられた。配流中には「忠義士抜書」「楠三代忠義抜書」「一願同心集」などを著し』ている。延宝八(一六八〇)年五月、第四代将軍『徳川家綱死去の報を聞き、配流先の徳島にて鋏で喉を突き』、『自殺した。遺骸は江戸へ入ることを許され、菩提寺の金蔵寺に葬られた』という数奇な生涯を送った人物として私が興味を持っている人物である。なお、彼の孫で藩主に返り咲いた江戸中期の大名にして老中首座であった出羽国山形藩第三代藩主・下総国佐倉藩初代藩堀田正亮(ほったまさすけ 正徳二(一七一二)年~宝暦一一(一七六一)年)がおり、彼の官位は従四位下・侍従であるが、「藩翰譜」の記載より後代の人物である。この堀田正亮を指して真葛が書いていると読むことは特に無理はないとは思うものの、伊達政宗と話を混同するには後代に過ぎるから、違う。政宗と同時代人の堀田家となると、堀田正吉や、その子で正信の父堀田正盛であるが、彼らは孰れも「侍従」ではない。お手上げ。

「藩翰譜」は江戸時代の家伝・系譜書。新井白石著。全十二巻。元禄一五(一七〇二)年成立。元禄十三年に甲府藩主徳川綱豊の命を受けて編纂したとされる。諸大名三百三十七家の由来と事績を集録し、系図を附したもの。慶長五(一六〇〇)年から延宝八(一六八〇)年までの内容が収録されている。短期に仕上げたため、事実誤認があり、白石自身が後に補訂を加えている。

「堀田の譜」ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの大槻如電校訂明治二九(一八九六)年刊の当該箇所(第六巻)の画像)だが、馬琴は明らかに正信の記事を読めと言っているようには見える。

「天保壬辰」(みづのえたつ/じんしん)「歲」は天保三年。

「杪」「すゑ」。「終わり」の意。従って以下の「立春五日」とは天保三年十二月二十五日を指す。因みに、この日はグレゴリオ暦で一八三三年二月三日で定気法による計算でこの日に立春が合致する(いつもお世話になる、かわうそ@暦氏のサイト「曆のページ」の「二十四節気計算」のページで確認した)。

「以原本比校畢」「原本を以つて、比校(ひかう)、畢(をは)んぬ」。「比校」比較校訂。

「蓑笠漁隱」「さりふぎよいん(さりゅうぎょいん)」。馬琴は文政七(一八二四)年五十八歳の時剃髪したが、これは、それ以後の馬琴の号である。]

2021/01/29

奥州ばなし 丸山 / (菊田喜大夫)

 

     丸 山

 

 忠山公(ちゆうざんこう)と申奉る國主の御代に出《いで》しは、丸山權多左衞門といふ大男なり。これは近き頃の故にや、人も、よく、しれり。この大をとこ、江戶見物の爲、家老衆のうちのものと成《なり》て、のぼりしが、大男のくせ、道下手《みちべた》なり。身はおもし、一日に、二足づゝわらじをふみ切《きる》といへども、足に相應せしわらじ、なければ、宿につきて、藁を打《うち》、二足のわらじを作《つくり》て、はかねばならず、二足、作仕《つくりし》まへば、はや、

「御供、揃《そろへ》。」

と、いつも、ふれられ、日中、つかれても、馬にのれば、足、下へつきて、馬、あゆむこと、あたはず。ぜひなく、終日《ひねもす》あゆみては、又、わらじ作りて、夜をあかし、やうやう、江戶へはつきたれど、

「かくの如くにては、歸らんやうなし。」

とて、角力とりとは、思ひ付たりしとぞ。

 一向、手をしらず、只、立合《たちあひ》て、兩手にて、はねるばかりなれども、はねられて、脚をたつもの、なかりしとぞ。

 鐵山公と申奉る國主の御代に出し、「谷風」は、猶、人、しること、故《こと》かゝず。をりをり力持《ちからもち》の出《いづ》ること有《ある》國なり。

[やぶちゃん注:「目錄」では「丸山幷ニ谷風 桑田嘉太夫」となっている。前の「佐藤浦之助」に続いて実在した名相撲取「丸山權太左衞門」の話である。ちゃんと彼のウィキがある。丸山権太左衛門(ごんだざえもん(ごんたざえもん) 正徳三(一七一三)年~寛延二(一七四九)年)は『仙台藩・陸奥国領出身の元大相撲力士』で「第三代横綱」とされる。本名は芳賀銀太夫(はがぎんだゆう)。『陸奥国遠田郡中津山村(現・宮城県登米市米山町中津山)出身。元文年間』(一七三六年~一七四一年)『頃に初土俵を踏む。家老衆の家来になって江戸見物に出たのは良いが、体が重くて歩くのが下手だったため、二足用意した草鞋をすぐ踏み潰しては』、『徹夜で編み直すこととなり、馬に乗せれば』、『足が地に着いてしまうほどだった。やっとの思いで江戸に到着したが、これでは故郷に帰るのもおぼつかないために入門したと伝わる』。元文二(一七三七)年四月、『大坂堀江で行われた興行に西大関として出場。その後』、暫く、『出場した記録がないが』、延享元(一七四四)年八月に『京二条河原で行われた興行に東大関として出場し』、寛延二(一七四九)年『までに』、『京や大坂で行われた数興行にいずれも大関として出場している。相撲は下手だったが突っ張るだけで相手は立っていられなかったとされる』。この寛延二年の『長崎巡業の際に現役のまま没した。死因は赤痢と言われている』。享年三十七であった。『丸山が歴代横綱に加えられているのは』、寛政元(一七八九)年にここ出る(後述)『谷風と小野川に横綱免許を与える際』、『吉田司家が寺社奉行に提出した書類に「過去に綾川、丸山と申す者に免許を与えたが』、『記録は火災で失われた」と記載したことが根拠である』。『現在』、『公認されている横綱では』三『代目に数えられるが、順序が逆で』二代目と『する説もある。ただし』、『綾川五郎次が大関に昇進したとされる』享保二(一七一七)年の時点では、丸山は未だ五歳である『ことから』、『綾川が』二『代目であるとする説が濃厚であるが、いずれにせよ』、『横綱としての実質がなかったのは綾川と同様である』。『初代横綱とされる明石志賀之助と第』二『代横綱とされる綾川五郎次の』二『人と共に丸山を含む』三『人は伝説上の横綱と言う位置付けがなされているが、明石と綾川が実在自体を疑問視されているのに対し、丸山は実在が確認されているという点で大きく異なる。綾川と順序が逆とする説は』、『このあたりが関係しているものと考えられる』。『横綱免許とされている』寛延二(一七四九)年は、『実際には吉田司家故実門人になった時を指す。実力自体は現在の基準に当てはめれば横綱でも文句無しだったと言われる』。『怪力で、五斗俵』(約七十五キログラム)『に筆を差し込んで文字を書いたといわれる。「ひと握り いざ参らせん 年の豆」という句が知られている』とある。サイト「相撲レファレンス」の彼のデータによれば、七ツ森部屋所属で、身長は一メートル九十七センチメートル、体重百六十六キログラムとある。

「忠山公」第六代藩主伊達宗村(むねむら 享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)。在任は寛保三(一七四三)年から亡くなるまで。戒名「政德院殿忠山淨信大居士」。

「大男のくせ、道下手《みちべた》なり」大男の短所で、歩くのが不得手であった。

「ふみ切《きる》」体重があり、歩き方も摺り引くようにするために、昼間の一日の道中で、二足も草鞋(わらじ)を履き潰してしまうのである。しかも以下、お判りと思うが、サイズがデカ過ぎて、売り物では履ける草鞋がない。そこで、自分専用の草鞋二足を一から作るのに徹夜せねばならず、出来上がった時には、出発の触れが出る始末で、睡眠もとれない、昼間中はずっと歩き通しという、体験したことのない地獄の責め苦状態だったのである。だから、「かくの如くにては、歸らんやうなし」の「ぼやき」が真に迫って響いてくるのである。

「鐵山公」「白わし」他で複数回既注だが、再掲する。仙台藩主に「鐡(鉄・銕)山公」という諡号の藩主はいない。「鐡」「鉄」「銕」の崩し字を馬琴が誤ったか、底本編者が判読を誤ったかしかないと感じる。可能性が高いと私が思うのは、「鉄・銕」の崩しが、やや似ている「獅」で、獅山公(しざんこう)は第五代仙台藩藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)を指し(戒名「續燈院殿獅山元活大居士」。諡号「獅山公」)、元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。本書は文政元(一八一八)年成立であるが、例えば、真葛は、名品の紀行随想「いそづたひ」の中で、鰐鮫への父の復讐を果たした男の話の聞き書きを、「獅山公」時代の出来事、と記している。【二〇二三年十二月二十八日削除・改稿】真葛の「むかしばなし」の電子化注をしている中で、「119」に「鐵山樣」と出、『日本庶民生活史料集成』版の「むかしばなし」の傍注により、これは「徹山樣」の誤記であることが判った。仙台藩第七代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)で、彼の戒名「叡明院殿徹山玄機大居士」に基づく。彼は宝暦六(一七五六)年七月、父宗村の死に伴い、家督を相続し(但し、当時、未だ十五歳であったため、若年を理由に、幕府より、国目付が派遣され、叔父の陸奥一関藩主田村村隆の後見を受けた)、寛政二(一七九〇)年に次男斉村(なりむら)に家督を譲って隠居した。

「谷風」谷風梶之助(たにかぜかじのすけ 寛延三(一七五〇)年~寛政七(一七九五)年)は陸奥国宮城郡霞目村(現在の宮城県仙台市若林区霞目(かすみのめ))出身の元大相撲力士。本名は金子与四郎。大相撲史上、屈指の強豪とされる。力量・人格ともに後の横綱の模範とされたが、現役中に亡くなっている。歴代横綱では第四代横綱とされが、この谷風が事実上の「初代横綱」である。詳しくはウィキの「谷風(2代)」を参照されたい。サイト「相撲レファレンス」の彼のデータによれば、伊勢ノ海部屋所属で、身長百八十九センチメートル、体重百六十二キログラムとある。

 以下、底本で一行空けで、話も別に独立しているが、標題がない。「目錄」に従おうと見ると、これが悩ましくも、「丸山幷ニ谷風 桑田嘉太夫」となっている。「谷風」はどうみても、独立条にするには痩せ過ぎているので、標題を掲げずに「丸山」に吸収させておき(底本本文もその作りとなっている)、姓の合わないそれは、一応、本文を優先して「(菊田喜大夫)」と挟んで独立させておく。

 

     (菊田喜大夫)

 

 菊田喜大夫といへる人は、勝れて小身なりしが、獨身にて有し時、思へらく、

「味よきものをこのむほど、つゐへなることなし。心の限り、儉約せばや。」

とて、汁・香の物なく、みそ少々をなめて飯(いひ)を食《くひ》しが、膳𢌞り、淋しければ、木にて「ふな」の形を作り、竹串にさして味噌をぬり、あぶりて味噌みそ[やぶちゃん注:ママ。衍字か。]のみ食、なめつくせば、又、みそを引々《ひきひき》して、二、三年を經しほどに、金持と成《なり》て、いろいろ、功も有《あり》き。後には妻子をも具したりしが、

「我等ごとき身代《しんだい》にて、味よき物、くふべからず。」

と、いさめて、魚類《さかなのたぐひ》などは、くはせざりしとぞ。

 金のくり合《あは》せ、たのまれて有しほどに、鯛のおほくとれし時、ある人のもとより、一枚、おくりしに、喜大夫は留守なりしかば、妻子、悅《よろこび》、

「いざや、今日こそ鯛を食せん。」

と、思ひて、歸りを待《まち》ゐしに、喜大夫、かへりて、ことのよしを聞《きき》、

「よしや、もらひたりとも、かゝるものは、くはぬぞ、よき。」

とて、魚のかしらと尾先を持《もち》て、隣のかたへ、なげやりしとぞ。

 家内は、あきれて、顏見合せてをるに、しばし有《あり》て、となりの人、裏に出《いで》て、魚をみつけ、おほきにおどろき、

「どうして、こゝへ鯛が、きたぞ。犬にても、くはへ來《きた》るか。それにしては、あともなし。」

と、引返し、引かへし[やぶちゃん注:表記違いはママ。]、不審するていなり。

「何にしても、鯛をひろふは、めでたい、めでたい。」

と、うれしがり、

「いざ、祝《いは》はん。」

とて、酒をとゝのへ、折ふし來《き/こ》し人にも、ふるまひなどして、賑《にぎ》はふていなり。

 是を聞て、喜大夫、家内にしめすやう、

「あれ、あのばかものどもを見よ。鯛壱枚、ひろひしとて、酒をかひ、酢・せうゆをつゐやし、人、あつめして、飯(いひ)をも、いゐやすべし[やぶちゃん注:「つゐやすべし」の誤りか。歴史的仮名遣は「費(つひ)やす」が正しい。]。味よき物、くふ、無益なること、是にて知《しる》べし。」

と、云しとぞ。 

[やぶちゃん注:ド吝嗇もここまでくると、一つの独特の哲学である。妻は鯛が上手いことを婚前食って知っているが、その子まで喜んでいる。さて。彼はどこで鯛を食ったのだろう? 或いは、この妻子は子連れの再婚だったのかも知れない。

「菊田喜大夫」不詳。「目錄」の「桑田嘉太夫」でも不詳。

「金のくり合《あは》せ、たのまれて有しほどに、鯛のおほくとれし時、ある人のもとより、一枚、おくりしに」金の都合をつけて貰えないかと人から頼まれて貸してやっておいたことがあったが、その折り、その貸した人物から「鯛が多く獲れたので」と一尾、菊田のところへ贈ってきたのである。]

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 2

 

[やぶちゃん注:以下段落は、底本では全体が一字下げになっており、前段の補注的な扱いとなっている。]

 

 予は田舍に居り、件の坪内博士の論を見ず、纔に其槪略を友人より聞しのみなれば、姑く[やぶちゃん注:「しばらく」。]其後、自分の思ひ中りし事共を記さんに、百合若の譚、本邦の古物語や謠曲に見えず、江戶幕府初りて後、屢ば聞ゆ、(甫庵の豐臣記卷五に、天正十五年正月二日、秀吉朝飯後休む事、百合若大臣軍に疲れ、熟睡せられしにも越たり、宗像軍記に、大宮司氏重、高向某に、織幡山神社の來歷を問ふ、答る詞の中に、百合若大臣の、故鄕に放つ鷹島や、とあり、延文三年卽ち尊氏死せし歲の事乍ら、此詞は、遙か後に編者が潤色せるならん)戰國時代、幸若の舞普く持囃され、談客援て[やぶちゃん注:「ひきて」。]以て話柄と爲し事夥し(甲陽軍鑑、湯淺常山の文會雜記等を見よ)されば百合若の傳に、「ユリツセス」の傳と相似の點多きのみならず、主人公の名又相似たるを見れば、誠に博士の說の如く、其頃南蠻人が齎したる、希臘の舊譚が、日本に轉化されて、百合若の物語と成り、幸若の舞題に用ひられて、盛んに人口に膾炙したるなるべし、

[やぶちゃん注:前段で注した通り、坪内逍遙が明治三九(一九〇六)年一月に『早稻田文學』発表した「百合若傳說の本源」は、国立国会図書館デジタルコレクションの坪内逍遙の論集「文藝瑣談」(明四十年春陽堂刊)の画像でここから視認出来る。

「甫庵の豐臣記」小瀬甫庵(おぜほあん 永禄七(一五六四)年~寛永一七(一六四〇)年)は安土桃山から江戸初期にかけての儒学者・医師・軍学者で、「特に「太閤記」「信長記」の著者として知られる。名は道喜(どうき/みちよし)。甫庵は号。彼のウィキによれば、『美濃土岐氏の庶流で、尾張国春日井郡の出身であるという』。『坂井氏の養子となったといい、後に土肥氏を名乗り、最後に小瀬氏に改めた』。当初は、『医学と経史を学んで、織田氏家臣の池田恒興に医者として仕え、その死後は豊臣秀次に仕えた』。文禄四(一五九五)年の『秀次の死後には活字本「補注蒙求」など『の医書を刊行している』。「関ヶ原の戦い」の後、『堀尾吉晴に仕え』、『松江城築城の際に』は『縄張りも行った。吉晴死後は浪人となったが、播磨にしばらく住み、京都に移った』。寛永元(一六二四)年には『子の小瀬素庵が前田利常に仕えた縁で』、『加賀藩で知行』二百五十『石を貰い、藩主の世子光高の兵学の師となった』。太田牛一著「信長公記」を元に「信長記」を書いた後の、寛永五(一六二八)年から同年代にかけて「太閤記」を板行しているとあるのが、この「豐臣記」である。但し、一方、ウィキの「太閤記」を見ると、『初版は』寛永三(一六二六)年とし、全二十巻で、各種の「太閤記」の中では最も有名なものが本書であるとし、『作者の名をとって』「甫庵太閤記」とも称するとあって、『江戸時代に幾度か発禁にされたが、以降も版を重ねている』。『秀吉伝記の底本とされることが多いが、著者独自の史観や』、『それに基づく史料の解釈、改変も指摘されており、前の引用に出た通り、『加賀藩で俸禄を給っている関係からか』「賤ヶ岳の戦い」に於ける『前田利家の撤退について』、『名前が記載されていなかったり、前後の関係を無視して唐突に前田利家の活躍が挿入されている箇所も見られる』とある。熊楠が言っているのは、ここ(国立国会図書館デジタルコレクションの正保三(一六四六)年版「太閤記」第五・六巻の画像)の右頁後ろから二行目から左頁一行目。但し、熊楠の「天正十五年」は「天正十一年」の誤りである。これは「選集」でも直されていない

「朝飯後休む事、百合若大臣軍に疲れ、熟睡せられしにも越たり」以上のリンクで示した部分、判読し難いが、熊楠の読みは正確でないので、判読を試みると(〔 〕は私の推定の読み。一部に記号と濁点を添えた)、

   *

其御後、二日に、午(ひる)に眼〔めざめ〕しかば、朝餉(あさかれひ)、祝(しゆく)し給ひて、休(やす)み給ふヿ〔こと〕、「ゆりわか大臣」、軍〔いくさ〕に、しつかれ、𤍨睡(じゆくすい)せられしにも、越〔こえ〕たり。

   *

であろう。

「宗像軍記」元禄一七(一七〇四)年板行。作者不詳。筑前宗像大神宮の宮司宗像氏の武将としての活躍を中心に、大明神の縁起から、戦国後期の宗像大社第七十九代大宮司で宗像氏本流最後の当主で戦国大名であった宗像氏貞(天文一四(一五四五)年~天正一四(一五八六)年)の死去までを記した軍記物。当該部は国立国会図書館デジタルコレクションの「史籍集覽」の第十五冊の画像で確認出来る(左ページ四行目)。ここは宗像大社の歌枕としてのそれを繋げて示して連綿たる歴史を示す部分である。百合若大臣伝説には鷹が重要な役割を持つ。面倒なので、ここでウィキの「百合若大臣」を引いて説明に代える(太字下線は私が附した)。『百合若大臣は、蒙古襲来に対する討伐軍の大将に任命され、神託により持たされた鉄弓をふるい、遠征でみごとに勝利を果たすが、部下によって孤島に置き去りにされる。しかし鷹の緑丸によって生存が確認され、妻が宇佐神宮に祈願すると帰郷が叶い、裏切り者を成敗する、という内容である』。最もルーツに近い全篇と考えられる「幸若舞」の「百合若大臣」のシノプシスは以下。彼の『父親は、嵯峨朝の左大臣「公満(きんみつ)」で、大和国の初瀬寺』『の観音に祈願して授けられた男児が後の百合若大臣である』。『百合若は』十七『歳で右大臣に就任し、大納言章時(あきとき)の娘を妻に迎える』。『百合若は、日本(博多)へ押し寄せてきた蒙古(むくり)』『の大軍討伐を命じられ、当地である筑紫』『の国司という任地を与えられる。妻は豊後国』『に構えた館に残す。託宣に従い、百合若は八尺五寸の鉄弓と』三百六十三『箭の矢を持たされる』。『蒙古軍は、すでに神風に遭って唐土(もろこし)』『に引き上げていた。百合若は船団を従えてこれを追い、ちくらが沖の海上で決戦となる。蒙古側は、麒麟国の王が青息を吹いて霧をたちこめらすが、百合若が日本の神々に祈願すると』、『ようやく霧が晴れる。百合若は矢をほとんど撃ち尽くして奮戦し、蒙古側の四大将の両蔵(りょうぞう)らを討ち取り、あるいは捕虜となし勝利をおさめる』。『百合若は、玄界ガ島』『に立寄って休息し、その大力を発揮したときの常として、まる』三『日間眠りこける』。『これに乗じて、配下の別府兄弟は、百合若は矢傷で死んだと偽り、船を引き揚げさせ、百合若を孤島に置き去りにしてしまう。別府兄弟は朝廷に戦勝を奏上し、別府太郎は、百合若が配されていた筑紫の国司の役目に任命される』。『上司の地位簒奪に収まらず、別府太郎はさらに百合若の御台所に恋愛を迫る』。『御台所は、宇佐神宮で千部の写経を行っている最中だとして、とりあえず返答を引き延ばす。しかし百合若がついに帰らなければ自殺すると決めているので、身の回りの琵琶や琴を整理し、飼っている犬、馬や鷹の数々を解き放つ。このとき』、『緑丸という鷹は、玄界島まで飛んでゆき、百合若に託されて柏の葉に血で書いた文を持ち帰る。御台所は、夫の生存を知り、墨や硯などを鷹に結びつけて送り返すが、鷹はこの重さに耐えかね、死体』となって島の百合若のもとへ『漂着する』。『宇佐神宮に、御台所が夫の生還を祈願すると、その願いがかない、壱岐の浦にいた釣り人が風で流され、玄界ガ島にいた百合若を発見して、日本の本土に送り戻す。着いた場所は博多であった。百合若のあまりの変わり果てように、誰もその正体がわからない。別府は余興としてこの奇異なる男を召し抱えることにし、門脇の翁という者に預ける』。『この頃、別府は御台所がなびかないので、ついに処刑すると決めていた。しかしそうはさせまいと、門脇の翁の娘』『が身代わりになったことを百合若は知る』。『正月になり、宇佐八幡宮での初弓で、百合若は「苔丸」という名で呼ばれて矢取りの役を仰せつかる。面々の弓の技量を嘲弄した百合若は、別府に一矢射て見せよと命令される。揃えられた強弓はゆるいと言って、ついにはかの鉄の弓をもってこさせ、みごとこれを引き絞り』、『自分は百合若である』、『との』、『名乗りを上げる。大友氏の諸卿や松浦党はかしこまり、別府太郎は降参するが』、『許さず、百合若はこれを縛り上げさせ、手づかみで舌を引き抜き、首切りは』七『日かけて鋸挽きの刑に処した』。『命の恩人の釣り人には壱岐と対馬国を下賜し、門脇の翁は筑紫の荘園の政所の職につけ、百合若は、京に上り』、『将軍となった』。幸若舞の歌詞の板行原本もネット上にあるが、これは、流石に甚だ読み難い。そこで、私は国立国会図書館デジタルコレクションにある大正九(一九二〇)年金文堂書店刊の竹田秋楼著「博多物語」に所収する、非常に読み易く解説し、しかも細かな部分まで行き届いている「百合若大臣の歌」を強くお薦めするものである。

「大宮司氏重」宗像大社第五十六代大宮司宗像氏重。先の「宗像軍記」によれば、前々代の宗像重俊の子とある(「叔父氏名ノ讓リヲ受テ社務トナル」とする)。代五十五代は宗像氏頼。

「高向某」同じく先の「宗像軍記」によれば、以下の「織幡ノ神社」の「神職高向民部」とある。

「織幡山神社」宗像市鐘崎にある織幡(おりはた)神社(グーグル・マップ・データ航空写真)。宗像大社境外摂社である。画像は南西の宗像大社(辺津宮)との位置関係が判るようにしてある。

「延文三年」南朝正平十三年で、ユリウス暦一三五八年。

「尊氏死せし歲の事」延文三年四月三十日(ユリウス暦六月七日)、足利尊氏は享年五十四で亡くなっている。

「甲陽軍鑑」江戸初期に集成された軍学書。全二十巻。甲斐の武田晴信・勝頼二代の事績によって、甲州流軍法や武士道を説いたもの。異本が多く、作者は諸説あるが、武田家の老臣高坂弾正昌信の遺記を元に、春日惣二郎・小幡(おばた)下野が書き継ぎ、小幡景憲が集大成したと見られている。現存する最古の板本は明暦二(一六五六)年のもの。

「湯淺常山の文會雜記」備前岡山藩士で古文辞学派の儒学者で荻生徂徠の高弟服部南郭の門下であった湯浅常山(宝永五(一七〇八)年~天明元(一七八一)年)が徂徠学派の言行を纏めた随筆。天明二(一七八二)年宮田金峰序。

 以下の段落は底本では、さらに二字下げとなり、ポイントさえ落ちている。則ち、補説である前段の、そのまた補記の意味合いである。熊楠らしいダラダラであるが、見た目の変化を加えてあるだけマシである。

 

「ユリツセス」故鄕に歸りて、不在中其妻「ペネロペ」を競望せし輩と、射を試み、勝て彼輩を射殺せし弓は、無双の射手「ユリツセス」が手馴せし物也、其事略[やぶちゃん注:「ほぼ」。]射場某が、寬文中、備前酒折の社所藏の、百合若の鐵弓箭を試しおほせたるに似たり、(和漢三才圖會卷七八)、「ユリツセス」の名亦百合若に近し、奸人の張本別府と有るは、偶ま「アンチノウス」と「ペネロペ」を混じ違へたるやらん。

 

[やぶちゃん注:ユリシーズ(オデュッセウス)の流離の果ての帰国の後の話は、ウィキの「オデュッセウス」から引く。オデュッセウスが、やっと故郷へと故国イタケーに帰国して見ると、『妻ペーネロペーに多くの男たちが言い寄り、その求婚者たちはオデュッセウスをもはや亡き者として扱い、彼の領地をさんざんに荒していた。オデュッセウスはすぐに正体を明かすことをせず、アテーナーの魔法でみすぼらしい老人に変身すると、好き放題に暴れていた求婚者たちを懲らしめる方法を考えた。ペーネロペーは夫の留守の間、なんとか貞操を守ってきたが、それももう限界だと思い、「オデュッセウスの強弓を使って』十二『の斧の穴を一気に射抜けた者に嫁ぐ」と皆に知らせた。老人に変身していたオデュッセウスは』、『これを利用して求婚者たちを罰しようと考えた』。『求婚者たちは矢を射ろうとするが、あまりにも強い弓だったため、弦を張ることすらできなかった。しかし、老人に変身したオデュッセウスは弓に弦を華麗に張ってみせ、矢を射て』総て『の斧の穴を一気に貫通させた。そこで正体を現したオデュッセウスは、その弓矢で求婚者たちを皆殺しにした。求婚者たちも武装して対抗しようとしたが、歯が立たなかった。こうして、求婚者たちは死に、その魂はヘルメスに導かれて冥界へと下って行った』。『ペーネロペーは、最初のうちはオデュッセウスのことを本物かどうか疑っていたが、彼がオデュッセウスしか知りえないことを発言すると、本物だと安心して泣き崩れた。こうして、二人は再会することができたのである』。

「射場某が、寬文中」(一六六一年~一六七三年)「備前酒折」(さかをり)「の社所藏の、百合若の鐵弓箭」(ここでは「和漢三才図会」の記載との対照(後掲)から「てつのゆみ」と仮に当て訓しておく)「を試しおほせたるに似たり、(和漢三才圖會卷七八)」「和漢三才圖會」の地誌部の巻第七十八「備前」の「當國神社佛閣名所」の二番目に「酒折(さかをり)の社 岡山の石關に在り」として挙げて解説した最後に(原本から訓読して示した)、

   *

相傳ふ、百合若(ゆりわか)麿、持つ所の鐡弓、當社に納む。未だ然る由來を知らざるなり。人、之れを引くこと能はず、以つて奇と爲すと。而して寬文年中、當國武臣射塲(いばの)藤大夫といふ者有り、世に鳴る。是に於いて、試みに、之れを引き、難しと爲さず、且つ、之れを挽き折り納むと云々。

   *

この「酒折社」は現在の岡山県岡山市北区石関町にある岡山神社である。この話は、大朏東華(おおでとうか:人物不詳)の随筆「斉諧俗談(せいかいぞくだん)」(宝暦八(一七五八)年刊)の巻之三にも以下のようにある(吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化し、読みを総て推定で歴史的仮名遣で示した)。

   *

   〇百合若丸之弓(ゆりわかまるのゆみ)

備前國赤坂郡酒折石上(さかをりいしがみ)の社に、百合稚丸(ゆりわかまる)の鉄弓(てつゆみ)あり。人、是をひくことあたはず。しかるに、寬文年中、當國の武臣射場藤太夫(いばとうだいふ)といふ人、世に聞(きこえ)し强弓(がうきゆう)なり。この人、試にかの弓を引(ひき)て難(なん)とせず。終(つひ)に此弓を引折(ひきをり)て納むと云(いへ)り。

   *

「アンチノウス」ローマ皇帝ハドリアヌスの愛人として寵愛を受けた夭折した青年アンティノウス(Antinous 一一一年~一三〇年)のことぐらいしか浮かばない。「ユリシーズ」(オデュッセウス)の物語に近似音の名前は見出せない。

 以下、底本では再び一字下げに戻る。

 

 但し南蠻人の名は、必しも歐洲人に限らず、歐人初て來たりしより百五十餘年前、南亞細亞の囘敎國民、若狹に著せし等の例、渡邊世祐氏の室町時代史三二〇―二三頁に見えたり、采覽異言卷三に、明の章潢の回々館の記を引き、如占城日本眞臘瓜哇滿刺加諸國、皆習回回敎、遇有進貢番文、亦屬本館代譯と云り、囘々敎國ならぬ日本の假字書も、都合上回々館にて扱しと見え(大英類典二二卷六五九頁に、日本を囘敎國とせり、四年前三月二日の「ノーツ・エンド・キーリス」に、予一書を投じ、其出所を問しも、今迄答る者無し、件の明人の記抔に據る誤傳ならんか)、允澎入唐記、享德二年十月十三日、南蠻瓜哇國人百餘人、在館求通信於日本とあれば、邦人當時、海外で回敎民と交りしを知るべし、爾前囘敎勃興して、亜剌伯人[やぶちゃん注:「アラビアじん」。]全盛の時、古希臘羅馬の文字、歐州に亡て、彼輩に保存されたりてふ程なれば、邦人海外に赴きて回敎民より傳へたる、古歐洲の物語少々には非じ、棚守房顯手記に、百合若の父公光の篳篥[やぶちゃん注:「ひちりき」。]、嚴島に存すと云ひ、鹽尻、帝國書院刊本、上卷六六四頁に、百合若、豐後國船居に傳る故事なりとて、之に關せる遺蹟を列ね、紫の一本に肥後に百合若塚あり、土人云、百合若は賤き者也、世に大臣と云、大人也、大太とも云、大人にて、大力有て强弓を引き、能く礫を打つ、今大太ぼつちとは、百合若の事也、ぼつちとは礫の事也とぞと云り、(四十一年四月十五日の東洋學藝雜誌、予の「ダイダラホウシの足跡」參看)、是れ等は、本邦固より斯る巨人の俚傳有しに、後世百合若の名を附會し、隨て遺物遺跡抔と故事付けたるにや、松屋筆記、卷九三、豐後國志に、百合若は、大分君稚臣[やぶちゃん注:「おほきだのきみわかおみ」。]が事、是れ天武紀に見たる勇士、豐後大分郡の人也と云るも、其名より臆測したる牽强らしく思はる。

[やぶちゃん注:途中の「抔」が二箇所「杯」となっているが、初出・「選集」で訂した。また、「囘」「回」が混用されているのはママである(初出は総て「回」)。

「渡邊世祐氏の室町時代史三二〇―二三頁に見えたり」これは既に注した早稲田大学出版部から刊の時代別に分割された歴史叢書「大日本時代史」(「国立国会図書館サーチ」の同書の検索結果ページのこちらを参照)の一冊。原本は、後の大正期の版ではあるが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全巻が読め、ここで熊楠が示すのはこれ。著者は日本史学者渡辺世祐(よすけ 明治七(一八七四)年~昭和三二(一九五七)年:山口県生まれ。明治大学・國學院大學教授。文学博士)。しかし、このページ数は誤りのようにも思われる(大正版が初版と同ページとしてで、初版の版組みはズレているのかも知れぬ)。「二五二」ページから「二五三」ページの「第二編 室町全盛時代 第七章 室町盛世の外交」の一番最後の「第六節 琉球及び諸外國との交通」の「第二 外國との交通」の内容がまさにそれだからである(このページ数は「選集」版も変わらない)。その「二五五」ページの後ろから六行目の段落に、

   *

かく南北朝の末より亞剌比亞人と思はるゝ人既に歸化せり。これ幸に大乘院雜事記のあるありて其名を知ると雖ども他に中國及び鎭西地方にも此等と類似の人も亦歸化せしならんも記錄なければ知り難し。又若狹守護職次第【群書類從にあり】にも「應永十五年十一月十八日大風に那珂湊濱へ打上られて南蠻船破損之間同十六年に船新造。同十月十一日出濱ありて渡唐了」とあり、又若狹國税所今富名領主代々次第【類集[やぶちゃん注:ママ。]中に收む】にも此事を一層詳細に書けり、乃ち同十五年六月二十二日に南蕃船着岸。帝王御名亞烈進卿。蕃使使臣【間丸本阿】彼帝より日本の國王への進物等生象一匹【黑】、山馬一雙、鸚鵡二對、其外色々。彼船同十一月十八日大風にて中湊濱へ打上げられて破損云々」とあり。この南蠻の王名及び進貢物に付き考ふるもこの本國は印度若くは馬來半島近傍にありしならん。而してこの南蠻の國王より使聘を我邦に致せしなり。而して其使船は行路を誤りて若狹に嫡せしなり。元來南蠻とは西洋人の東洋に渡來せる者を稱して云ひしなれどもこの頃其意味は博げられ南洋印度若くは西洋人に對しても一般に南蠻人と稱せしなり。この南蠻船の來航に付き考ふるに亞細亞の一王は日本と交通する事を望みしなり、乃ちこれ外國人が貿易を日本に求めんとせし事なり。斯る時勢なれば當時ヒシリなどゝ同じく漂流船若くは貿易船にて我國に渡來せし外國人尙ほ多いかりしならん。

 

   *

とあるのを熊楠は指しているからである。「ヒシリ」というのは「靈知り」などと当てて怪しげな説明をしている記事が多いが、サイト「イスラーム文化」のこちらの、小村不仁男氏著の日「本イスラーム史・戦前、戦中歴史の流れの中に活躍した日本人ムスリム達の群像」(昭和六三(一九八八)年・東京・日本イスラーム友好連盟刊)の「第三章 室町時代」に、まさに以上に事件を記した「アラビア人と国際結婚した京の女性」を始めとして、「アラビア商船と琉球列島」・「京に伝わる七百六十余年昔のイラン文の古書」・「真言宗の大本山にイスラムの秘宝が」と標題する記事が続き、その一番最後に、「六百年昔に京で日本人女性と国際結婚したアラブ人第一号」とあって、

   《引用開始》

今から約六百年も昔に京都のど真中にひとりのアラピア人が住んでいた。場所は三条坊門烏丸で、現在の中京区御地烏丸付近にあたり、ちょうど京都市役所から南へ万百メートルあるかないかの近距離のところである。室町初期の将軍足利義満の頃のことで、その名はヒシリと一般に呼ばれていたが、京都五山の一つである相国寺の僧絶海中津らが留学先の中国(明)から京へ連れて帰ってきたのである。永和二年(二二七六)のごとく南北両朝の対立抗争のさ中であった。

彼は日本に入国後に摂津の楠葉つまり今の大阪府下枚方市樽葉在の一日本婦人と結婚して二兎[やぶちゃん注:「児」或いは「男」の誤りか。]をもうけた。長男はムスルと呼ばれいわゆる日ア混血児である。このムスルとはムスリムかあるいはアル・マウシルの転化ではなかろうか。

さて、ムスルはその後母方の姓を採って楠葉入道西忍と名乗り、次男は民部卿入道と呼んだ。次男には子供ができなかったが、長男のムスルには三人の男児が出生した。

ムスルは義満の次の四代将軍義持に重用された。彼が海外事情とりわけ明の国情に詳しくその上に航海術に精通していたからである。三十六本のをき以来[やぶちゃん注:意味不明。「三十六歳のとき」か。]再三にわたり父ヒシリゆかりの明の国に渡航して足利幕府の海外通商貿易の今くいう[やぶちゃん注:「でいう」か。]顧問のような役職に就任していた。

彼は義持将軍の没後隠退してからは大和(奈良県)の古市に転居し文明十八年(一四八六)に、九十三才の天寿を全うして長逝したと伝えられている。以上は「大乗除寺社雑事記」という史料に所載されたものの中からの摘記である。

   《引用終了》

とあったので氷解した。

「采覽異言」(さいらんいげん)は新井白石が宝永五(一七〇八)年に布教のために来日したイタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチ(Giovanni Battista SidottiSidoti) 一六六八年~正徳四(一七一四)年十一月二十七日:牢死)を尋問して得た知識などを基に著わされた日本最初の組織的世界地理書。マテオ・リッチの「坤輿万国全図」や、オランダ製世界地図などの多くの資料を用い、各州名国の地理を説明しながら、所説に典拠を明らかにしたもの。全巻を通じ、世界各地の地名、その他の地理的称呼をマテオ・リッチの漢訳に倣い、「歐羅巴(エウロパ)」(ヨーロッパ・巻之一)・「利非亞(リビア)」(アフリカ・巻之二)・「亞細亞(アジア)(巻之三・上下)・南亞墨利加(ソイデアメリカ)(南アメリカ・巻之四)・北亞墨利加(ノオルトアメリカ)(北アメリカ・巻之五)の順に、世界各国の地理が漢文で書かれたもの。正徳三(一七一三)年の成稿であるが、その後も加筆が続けられ、享保一〇(一七二五)年に最終的に完成した。国立国会図書館デジタルコレクションで江戸後期の写本で同巻が見られるが、二度ざっと見たが、この文字列は見当たらなかった。

「章潢」(一五二七年~一六〇八年)は明代の学者。江西南昌生まれ。マテオ・リッチの友人でもあった。

「回々館の記」章潢が一五七七年に完成させた類書(百科事典)「圖書編」(全百二十七巻。二百十一種の書から資料を採り、多くの図を挿入して記事の理解を助け、天地・自然・人事の全般を系統立てて要領よく述べたもの。明代史研究の重要史料とされており、西洋学の学習にも焦点を当てている)の中の「回回館」の記載であろう。「中國哲學書電子化計劃」で『「圖書編」卷五十一至卷五十二』の「回回館」が読めるが(非常に長い)、その冒頭に(漢字の一部を変更した)、

   *

回回左西域地與天方國鄰其先卽點德那國王謨罕慕德生而神靈臣服西城諸國職國尊爲別諳援爾華言天使也國中有佛經內十藏几三千八百餘卷書筵策草精西洋諸國皆用之隋開皇中國人攝吟八轍阿的幹葛思始傳敎入中璽本朝宣穗中國王遣人隨天方國朝貢由肅州入至今或三年五年一貢其地有城池宮室田園市肆大類江淮間寒署應候民物蕃感亦有陰陽星應醫藥音樂諸採藝人俗重殺非同類殺不食不食豕肉其附近諸國如土魯番天方塞馮爾堪舊隷本館諄審此外如占城日本眞臘爪吐滿刺加諸國皆習回回教遇有進貢番文亦屬本館代譯

   *

とある最後の部分が、熊楠の引くものと一致する。なお、「回々記」と熊楠は記すが、「々」は漢字ではなく、日本で勝手に作った繰り返し記号であって、中国では通じない(但し、近年、逆輸入しているとも言われる)。

「如占城日本眞臘瓜哇滿刺加諸國、皆習回回敎、遇有進貢番文、亦屬本館代譯」訓読しておく。

   *

占城(チヤンパ)[やぶちゃん注:チャンパ王国。現在のベトナム中部に存在したチャム族の国家。]・日本・眞臘[やぶちゃん注:カンボジア。]・瓜哇[やぶちゃん注:ジャワ。]・滿刺加[やぶちゃん注:「マラフカ」。マラッカ王国。マラッカ海峡に面したマレー半島とスマトラ半島に跨る地域にあったイスラム教国。]諸國、皆、回回敎を習ふ。進貢の番文有るに遇へば、亦、本館に屬(しよく)して代譯せしむ。

   *

「番文」「蠻(蕃)文」で異国人の言語で書かれた貢物の添え状。

「大英類典」英語の百科事典として最も古い歴史を持つ「エンサイクロペディア・ブリタニカ」(Encyclopedia Britannica)のこと。初版は一七六八年刊行。二〇一〇年度版を以って紙ベースの出版は終了しオンライン版のみとなった。

『四年前三月二日の「ノーツ・エンド・キーリス」に、予一書を投じ、其出所を問し』「四年前」は明治四〇(一九〇七)年。「二日」は底本では「廿日」で初出も「廿日」であるが、「選集」は『二日』とし、「二日」が正しいので、特異的に訂した。「Internet archive」の当該の「Notes and queries」を見られたい。右ページの右の欄の一番最後の投稿である。この回の発行は三月二日である(当該ページの上部欄外ヘッダーのクレジットを見られたい)。

「允澎入唐記」室町時代の臨済僧東洋允澎(とうよういんぽう ?~享徳三(一四五四)年:絶海中津(ちゅうしん)の法を嗣ぎ、京の天竜寺の住持となった。室町幕府の遣明(けんみん)正使として享徳二年に渡中し、任務を果たしたが、帰国の途中の享徳三年五月二十一日(一説に十二月二十八日)に病死した)に同行した笑雲瑞訢(しょううんずいきん)による「允澎入唐(にっとう)記」。国立国会図書館デジタルコレクションの「続史籍集覧」第一冊で活字化されている(日録)当該条はここ(右ページ八行目)。

「享德二年十月十三日、南蠻瓜哇國人百餘人、在館求通信於日本」訓読すると、「享德二年十月十三日、南蠻の瓜哇(ジヤワ)國の人百餘人、館に在りて、通信を日本に求む。」。

「爾前」「にぜん」。「に」は「爾」の呉音。それ以前。「じぜん」と呼んでも構わない。

「棚守房顯手記」野坂(棚守)房顕(ふさあき 明応四(一四九五)年~天正一八(一五九〇)年:厳島神社の神官で、厳島神社大宮の宝蔵を管理する「棚守(たなもり)職」を世襲する野坂氏の出身であるが、職名から棚守房顕の名で知られる。大内義隆や毛利元就らの御師(おし)となり、厳島神社再興に尽力した)が天正八(一五八〇)年三月に嫡男元行への置文(おきぶみ:一族や子孫に対して現在及び将来に亙って遵守すべきことを書き記した中世日本の文書。近世以後の遺言の原型とされる)様のものとして書いた「棚守房顕覚書」のこと。サイト「宮島観光旅行まとめブログ」の「棚守房顕覚書(資料)」の「棚守房顕覚書139 野坂家家宝のこと」に(そこに載る原文の漢字を恣意的に正字化し、句読点・記号を変更・追加した。読みは推定で私が補ったものである)、

   *

一、當社家、奉行を存ずる上は、何と候(さふらふ)ても、名を殘し度(た)き故、「ゆり若殿」の御父德大寺公光(きんみつ)の篳篥(ひちりき)、野間家斷絕に付き、房顯、もとめ、野間家の家書・目錄とともに、寳藏に納めをく。又、橫萩大臣の姬君、中將姬の繪掛け物、阿彌陀三尊栴檀は棚守の内儀寳藏へ納める。

將又(はたまた)、天王寺の伶人蔦ノ坊、岡兵部小輔(をかのひやうぶしやうすけ)の父、薗式部(そののしきぶ)、東儀(とうぎ)因幡守、細々(さいさい)[やぶちゃん注:「懇ろに」の意でとっておく。]、下向あり。

然(しか)る處に、京一(きやういち)の琴なれば、「法華」と名づくるを、銀子五百文にもとめ下す。當社、末世の調法なり。佐々木の「綱切り」と傳ふ「あをの太刀」、野坂家の重代たり。神領一亂の砌(みぎり)、棚守が手に渡る。社家の事なれば、寳藏に納める。末代の事なり。

   *

とある。『「ゆり若殿」の御父德大寺公光』はウィキの「百合若大臣」によれば、百合若の父は「幸若舞」では『嵯峨朝の左大臣「公満(きんみつ)」』とし、注に『説経正本には、父親が「四条公満」で、百合若の元服名は「公行(きんゆき)」と見える』とある。しかし徳大寺家・四条家にも「公光」「公満」の人物は見えない。

「鹽尻」江戸中期の随筆。天野信景(さだかげ)著。現在の通行本は門人堀田六林(ほったりくりん)が考訂した百巻本で、原書は一千巻近くあったというされるが、多くは散逸した。大部であり、且つ、近世随筆の中では時代が早いことから、世に広く知られる。信景は名古屋藩士で、本書は、元禄(一六八八年~一七〇四年)から享保(一七一六年~一七三六年)にかけて、彼が諸書から記事を抜粋し、自身の意見を記したもの。対象事物は歴史・伝記・地誌・言語・文学・制度・宗教・芸能・自然・教育・風俗など、多岐に亙っており、挿絵もある。私は吉川弘文館随筆大成版(全六冊)を、兎部屋の書庫には置きようがないなと、買いそびれてしまい、持っていない。

「帝國書院刊本、上卷六六四頁」国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ(右ページ上段中央から)で原本を視認出来る。以下に電子化する。句読点・記号と、推定で濁点を打った。

   *

○世にいふ百合若【或は大臣と稱す。】、豐後國船居に傳ふる故事也。百合若塚は船居の萬山萬壽興禪寺にあり。二十餘年前、揚宗和尙の時、塚を發く。石棺の内、立る白骨、一具あり。亦、古刀一柄、朽のこりし。領主も見られし。命して、元のごとく、埋みて祀られしとなん【此說、百合若は、淡海公の三男參議、宇合一には[やぶちゃん注:意味不明。]「島養」と稱せし、此人なり、と。されども、據ある古書を見はべらず。】百合若の女を萬壽といふ。鄕の「菖(シヤウブ)が池」に沈みし後、寺を建て、菖山萬壽寺と號す。百合若が奸臣別府太郞・同次郞が塚とて別府村にあり。高二、三尺とぞ。百合若あひせし鷹を「綠丸」といひし。州の鷹尾村より出しといふ。今、猶、よき鷹を產すといへり。凡、百合若の事、九國風土の説にして、昔し、其人有しと聞ゆ。されど、古記・實錄、所見なきにや。上野國妙義山に百合若の故をかたるも、いぶかし。浦島が事は、「丹後風土記」に見へしを、信濃國寢覺にもいふがごとし。

   *

「紫の一本」(むらさきのひともと)は江戸前期の歌学者戸田茂睡(とだもすい 寛永六(一六二九)年~宝永三(一七〇六)年:駿府城内生まれ)の仮名草子。江戸地誌の体裁をとりながら、文学的な要素も強い。成立は天和年間(一六八一年~一六八四年)前後と推定されている。当該部は巻下の「橋」の「だいだ橋」。国立国会図書館デジタルコレクションの「戸田茂睡全集」(大正四(一九一五)年国書刊行会刊)の当該箇所で視認して電子化する。一部に記号・読点を追加し、句点への変更も行った。一部に読みを推定で附した。編者注の割注も再現した(太字は底本では傍点「ヽ」。但し、これは編者が注のために打ったものである)。

   *

「だいた橋」。「だいたぼつち」が掛(かけ)たる橋のよし、云(いひ)傳ふる。四谷新町の先、笹塚の手前なり。肥後国八代領の内に「百合若塚」と云あり。塚の上に大木あり。所の者云(いはく)、「百合若は賤(いやし)き者なり。大臣と云は大人(だいじん)なり。『大太(だいた)』とも云(いひ)、大人(おほひと)にて、大力(だいりき)ありて、强弓(つよゆみ)を引き、よく礫(つぶて)を打つ。今、『大太ぼつち』と云は、百合若の事、『ぼつち』とは「礫」の事なり」とぞ。一とせ、大風にて、右の塚の上の大木、たふれて、(塚【正本アリ】、)崩(くずれ)たる中に、石の「からうと」[やぶちゃん注:「屍櫃」(からうと(かろうと))。「からひつ」の音変化。「かろうど」とも呼ぶ。遺骨を納める棺。]有り。内を見るに、常の人の首四つ・五つ合せたる程の首、有り。不思議を立(たて)て、見る内に、雪霜(ゆきしも)のごとく、消失(きえう)せぬ。依ㇾ之(これによりて)、大き成る卒塔婆をたて、右の樣子を書付(かきつけ)て、塚の上に立(たつ)る。其卒塔婆、今にありとぞ。百合若の事、筑紫人(つくしびと)にて、玄海が島に(正本ナシ)て鬼を平(たひら)ぐる事、百合若の舞に見えたり。然るに、奥州の「島の内」に「百合若島」と云ありて、「みどり丸」と云(いふ)鷹の事まで、慥(たしか)にある島あり、とぞ。又、上州妙義山の道にも、「百合若の足跡」・「矢の跡」とてあり、此外にも、「大太ぼつち」が足跡・力業(ちからわざ)の跡、爰かしこにあり。

   *

『四十一年四月十五日の東洋學藝雜誌、予の「ダイダラホウシの足跡」』。「南方熊楠 小兒と魔除 (3)」で既出既注。そこの私の注と、そこにリンクさせたものを参照されたい。

「松屋筆記」江戸後期の国学者小山田与清(ともきよ)の手になる辞書風随筆。全百二十巻。文化一二(一八一五)年頃より弘化三(一八四六)年頃にかけての筆録で、諸書に見える語句を選び、寓目した書の一節を抄出しつつ、考証・解釈を加えたもの。その採録語句は約一万にも及び、国語学・国文学・有職故実・民俗などに関する著者の博識ぶりが窺える。現存は八十四巻。明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊のこちらで視認出来る。電子化する。

   *

)百合若(ユリワカ) 百合若草子に見えたる百合若大臣いまださだかならず豐後國志に大分君稚臣(ワカオミ)が事也といへり大分君雅臣は天武紀に見えたる勇士にて豐後大分郡の人也

   *

熊楠はこれを「其名より臆測したる牽强らしく思はる」と退けているので、「豐後國志」や「大分君稚臣(ワカオミ)」(「選集」はこれに『おおきだのきみわかみ』とルビするが、従わない)や「天武紀」は注しない。悪しからず。]

2021/01/28

怪談登志男 十一、現在墮獄 / 怪談登志男卷二~了

 

   十一、現在墮獄(げんざいたごく)

 今はむかし、武陽、豐島郡の商家に、米屋與兵衞といへる者ありける。男子二人あり、兄を甚兵衞といゝしが、きはめて吝(しは)きおのこなり。次男を佐兵衞と云しが、大なる婬氣(たはけ)ものなりける。

 ある時、與兵衞が庭の中に、一夜の中に、穴、出來て、わたり四尺ばかりの口なるが、覗見れば、閽して、其深きこと、限り知れず。

 夜に入て、此穴の底より、哀(あはれ)に悲しき聲にて、與兵衞夫婦が名を、呼(よふ)事、ひまなければ、家内、何となく物冷(すさ)まじく、日暮ては、

「此聲を聞(きか)じ。」

と、夫婦、はなれ家の幽(かすか)なる所にうつれば、下部も、各、臥所(ふしど)に閉籠(とぢこも)りて、商賣の事も、おのづから、うとくなり行ぬ。

「斯(かく)ては、いかゞ。」

と、樣々の祈念などせしが、さらに其しるしもなかりけり。

 かゝることありて、

「家も、やゝ衰へたり。」

と、きゝて、靑山に住けるものの、與兵衞にしたしみ深きおのこ、來りて、始終の物語を聞、

「左樣のこと、見とゞけずんば、あるべからず。」

と、腰に長き繩を付、大勢、下部どもにひかへさせ、無二無三(むにむざん)に飛入たるに、

『十丈[やぶちゃん注:約三十メートル。]もや、あらん。』

と思ふ所の橫に、拔道(ぬけみち)あり。

 かしこに至りて見れば、猿のごとくなるもの、數十、居並(ゐなら)びたるが、各、言葉を揃て、

「我々は、與兵衞夫婦が父母をはじめ、祖父母・曾祖父母、みなみな、先祖の輩なるが、いづれの與兵衞が代にも稀なる、今の與兵衞が邪(よこしま)、世人(よひと)、皆、うとみ、にくむ。其子甚兵衞は利慾をもつぱらにし、一點の信義も、なし。次男左兵衞は、あけくれ、大酒・淫亂にして、さらに善事をなすこと、なし。先祖考妣(かうひ)は、昏々(こんこん)たる冥途に有て、猶、罪業(ざいごう)に重苦(じうく)を受得て、各、無間(けん)に落入たり。是、皆、與兵衞が利慾に他を苦しむる故なり。〆賣(しめうり)・〆買(しめがい)、二升(ます)の罪にて、我等、皆、かくのごとし。此むね、與兵衞に、つぶさにきかせよ。」

といふ言葉の下より、手に手に、筆を取て、此男の脊中(せなか)に、面々の戒名・俗名、つまびらかに書付、穴の中より、突(つき)出す。

 繩の動[やぶちゃん注:「うごく」と読んでおく。]を見て、下部共、繩を手ぐりて、引あげければ、與兵衞夫婦をはじめ、皆々、圓居(まとゐ)して、彼(かの)男を中に取まき、

「いかにや、いかにや。」

と樣子を問ければ、はじめ終(おはり)を、くはしく語り、脊中の文字を見せけるに、あらそふべき言葉も、なき。

 みなみな、先祖代々の法名・俗名、其中に、いまだ、きかざる俗名など、一家の老人にきけば、いかにも疑ひなき先祖なれば、與兵衞夫婦も、一念發起して、甚兵衞に家を讓り、剃髮受戒し、武州越谷(こしがや)に、庵をむすびて、後世を勤む。

 甚兵衞は志(こゝろざし)をあらため、つき米やを改て、小間物賣に仕替(しかへ)、年久しき住居は、あき家となりて、荒はてしが、穴もふさがり、怪しき事も、やみける。

 

[やぶちゃん注:これは私は今まで類話を見たことがない特異点の怪談である。現在地獄に苦しむという設定は数々あれど、背中に戒名・俗名を逐一書き出して証拠とするというのは、何んとも凄まじいものを感ずる。或いは芳一話の経文を体中に書くという辺りにヒントを得たものではあろうが、ともかくも面白い一篇である。

「武陽、豐島郡」「としまのこほり」。「豊嶋郡」とも表記した。武蔵国の中でも非常に古くから栄えていた郡の一つであり、多摩郡に次ぐ大きな郡であった。その郡域は現在の練馬・豊島・板橋・北・荒川・台東・文京・新宿の各区と千代田・港・渋谷区の一部を含むものであった。されば、逆にロケーションを限定することは出来ない。但し、手広くあくどい米商いを展開していたことを考えれば、現在の東京都豊島区内(グーグル・マップ・データ。以下同じ)を考えてもよかろうかとは思う。後に出る「青山」(東京都港区青山)ともここならば、近い。

「婬氣(たはけ)」当て訓。愚か者。しかし、後の祖先の批判を見れば、特に大酒呑みの淫乱であったことが判る。

「閽して」原本にもルビがない。「くらくして」と読んでおくが、実はこの漢字にはその意味はなく、「門番」・「宮門」・「宦官」・「足切りの刑を受けた者」の意である。「昏」の字を含むために、「闇」などと通字と誤解したものであろう。

「幽(かすか)なる所」普請の粗末な離れ屋の意でとっておく。如何にこの声が空恐ろしいものであったことを示す効果がある。

「考妣(かうひ)」「考」は「亡父」、「妣」は「亡母」の意。亡き父母のこと。

「無間(けん)」無間(むげん)地獄。阿鼻(あび)地獄とも呼ぶ。地獄の最下層にある最悪の地獄とされる。剣樹・刀山・熱湯などの苦しみを絶え間なく、しかも想像を絶する永い間、受け続けるとする。

「〆賣(しめうり)」江戸時代の商行為に於いて、品物を買い占めて(こちらが「〆買(しめがい)」)、供給量を意図的に制限した上で、高値を設定し、やおら売り出して、ぼろ儲けをすること。

「二升(ます)の罪」与兵衞は米屋であるから、それに掛けて、地獄の罪の裁量のそれを、米を実計量する最大の計量具たる「升」に喩え、それがさらに「〆買」と「〆賣」とで、ダブルでダメ押ししたものである。

「圓居(まとゐ)して」「まどゐして」。穴から帰還した男を中心に車座になって。

「越谷(こしがや)」埼玉県越谷市

「後世」私は常に「ごぜ」と読む。

「つき米や」「搗米屋」。搗米は精米する作業を指し、近世にはこれを専業とするものが現われ、「搗米屋」と呼ばれて、米穀流通の最終過程を担当した。江戸には延享元(一七四四)当時で十八組、凡そ二千百人の搗米屋が存在し、臼五千五百基ほどを使って営業していた。このほか、搗米を営むものとして「大道搗(だいどうつき)」が、享保一二(一七二七)年当時で千百人ほどいた。「搗米屋」・「大道搗」は、ともに玄米を河岸八町米仲買(二十五人)、脇店八ヶ所組米屋(二百七十五人)から買い入れて白米にして消費者に売っていた(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。因みに本書の刊行は寛延三(一七五〇)年であるから、「今はむかし」と始まるものの、読者の時代は上記の延享元年頃と近い。

「仕替(しかへ)」やり直し。転職し。]

怪談登志男 十、千住婬虵

 

   十、千住婬虵(せんじゆのいんじや)

 

Injya

[やぶちゃん注:挿絵は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像をトリミングした。]

 

 人、化(け)して、物となりし例(ためし)、唐(もろこし)の書にも、かずかず、しるしたれど、まさしく目に見たるといふ人もなく、遠き昔の事なれば、いかゞと疑ひけるに、近く聞つたへしは、慶長の頃にや、武州千住の在鄕に、一人の百姓の娘、眉(み)目容(かたち)、世に稀なるのみか、心ばへまで、やさしく、下ざまにも、かゝる女もあればあるものかは、茨(いばら)の枝(えた)に花咲ぬる心地、泥を出たる、はちすのごとし。あたりの人は、いふもさらなり、徃還(おふくわん)の貴賤、是が爲に足をとゞめ、かへり見ざるものもなかりける。

 それが中に、粕壁(かすかへ)の里に住(すむ)、弥一郞とかや聞へしおのこ、女を戀はたりけれど、宿(しゆく)世の契りこそ、うすかりけん、千束(ちつか)の文も、手にさへ、ふれざりければ、

「戀死(こひし)にせし。」

と聞て、娘が親共、いと心憂き事に思ひけれど、せんかたもなく、打過しけり。

 かくて後、相應の者ありて、聟に取、今宵、婚禮とて、一家、集(あつま)り、にぎにぎしく祝て、兩親も、心、落(おち)つき、

「寢覺(ねさめ)もやすくなりし。」

と、よろこびける。

 二日めの朝、夫婦、いまだ起(おき)出ざるを、

「餘り、日たけて、音もなし。」

と、家に久しき老女、部屋に入て見るに、娘は、何ともわきまヘず、泣臥(ふし)して居(ゐ)たるさま、心得がたく、立寄見れば、無慘や、聟は、息、絕(たへ)、死骸の眼(め)鼻に入たる、細虵(くちなは)、幾つともなく、身をしめ付たり。

 見るめも淺ましく、

「斯(かく)。」

といふより、家内、大きに驚き、聟が親も駈(かけ)附、よべまで、ことぶきし家の、忽(たちまち)、うれへ歎く。

 まことに、人界(がい)の習(ならい)とはいゝながら、榮枯、手のうらを翻すがごとし。

 歎暮(なげきくれ)てもゐられず、寒林に送りて、一堆(たい)の土饅頭、見る人、泪、落して、あはれびける。

 其頃、此あたりの溢者(あふれもの)に、「生鐡(かね)細金」なんど、いふめる無賴の惡少年、

「此娘を、うばひとらん。」

と、雨風烈しき夜のまぎれに、難なく、忍び入たりしが、一味同志の奴原(やつばら)、

「今や、今や。」

と待居たれど、夜も更ゆけど、先に忍び入し、豆腐屋の長助、一向に出ざれば、皆々、氣味あしくなりて、立去りし跡に、娘が方には、人、立さはぎ、

「いかなるものか忍び入て、死し居たり。」

と、あはて、まよふ。

 隣家(りんか)の人、立寄見るに、大の男の腹を、蛇(へび)、二筋(すじ)まで、まとひつき、色、かはりて、死してありしを、大路(ぢ)に出し、是を曝(さら)しけれど、元來(もとより)、忍入たるが、極めて越度(おつど)なれば、たれ、咎むる人もなく、事、濟ぬ。

 娘が親ども、いろいろ、祈禱せしが、いさゝか、しるしもなく、蛇(へび)は、娘がかたはらを、しばらくも、立さらず。

 ある人の、いはく、

「是、此娘をおもひ懸(かけ)し者の、死したる一念の、婬蛇(いんじや)なるベし。若[やぶちゃん注:「もし」。]、此蛇を喰盡(くいつき)たらん人を、むこがねにせよかし。」

と、おしへぬ。

「さらば。」

とて、此事を、あまねく、人に告(つげ)けれど、たれ、來りて喰べし、といふ者もなく、娘も瘦衰(やせおとろ)へけるが、其後、此娘が事、たれ、いふともなく、

「蛇(じや)に成て、鱗(うろこ)、生(せう)ぜし。」

と風聞せしが、次第に流布(るふ)して、江戶までも、其沙汰、もつぱらなりしに、娘は、いつの頃よりか、親にさヘまみへず、引込、打ふしけるが、ある時、雨風はげしき夜、岩渕(いはふち)の深き池に飛入て、跡かたもなく、なりぬ。

「おそろしきは、人の一念なり。これ、まつたく、粕壁の弥一郞が執念なるべし。」

と、古き人の語りし。

 

[やぶちゃん注:「蛇」「蛇」の混用は原本によって改めたもの。底本は総て「蛇」表記である。

「慶長」は一五九六年から一六一五年までであるが、慶長八(一六〇三)年二月十二日の江戸幕府を開府(徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた)以後のこととしてよかろう。

「千住」現在の東京都足立区千住(グーグル・マップ・データ。以下同じ)を始めとした旧千住町一帯。隅田川の左岸で、江戸御府内の辺縁に接する。文禄三(一五九四)年に隅田川に千住大橋が架けられて五街道の整備が進められたことで、慶長二(一五九七)年に奥州街道・日光街道の江戸から一番目の宿駅に指定された。芭蕉の「奥の細道」で、

   *

千じゆといふところにて舟をあがれば、前途三千里のおもひ、むねにふさがりて、幻のちまたに離別のなみだをそゝく

 行(ゆく)はるや鳥啼(なき)うをの目は泪(なみだ)

   *

とあるのに、あなたは違和感を持ったことはないか? 芭蕉庵から九キロメートルに満たない上流にあったのが千住大橋であったのに、芭蕉、というより、当時の「江戸っ子」にとっては、「千住」は「といふ」と記しても違和感がないほどに、江戸の外れの外の田舎町(実際には宿として繁華であっても)として認識されていたことを意味するのではないか。これは江戸御府内の北北東の境界認識が、一つ、まさにこの「千住大橋」にあったからに他ならないと私は思う(但し、厳密にその範囲を公的に幕府御府内として提示したのは、ずっと後の文政元(一八一八)年の「文政江戸朱引図」であった。因みに、そこには狭義の「御府内」と、その外縁(朱引きと黒引きの間)が示されてあり、南千住付近でさえ、その外縁に当たるとしたのである。サイト「ビバ!江戸」の「江戸の範囲」を参照されたい)。因みに、その内側にある現在の南千住の近くには、小塚原刑場があったことからも、ここが民俗社会としても江戸の日常の辺縁であったことを示す証左であると言えるように私は思う。そうでなくてどうして最後に「次第に流布(るふ)して、江戶までも、其沙汰、もつぱらなりし」と書けようか?

「粕壁(かすかへ)」表記は原本のママ。埼玉県春日部(かすかべ)市或いは同地の粕壁(かすかべ)

「弥一郞」底本は「彌一郞」であるが、原本に従った。

「戀はたりけれど」「はたる」は「徴る・債る」で「強く求める」の意。

「宿(しゆく)世」「すくせ」とも読み、前世からの因縁・宿縁のこと。

「千束(ちつか)の文」「文」は「ふみ」。千通もの(「多量」の意)恋文。

も、手にさへ、ふれざりければ、

「戀死(こひし)に」「こひじに」。

「打過しけり」「うちすぐしけり」。

「娘は、何ともわきまヘず、泣臥(ふし)して居(ゐ)たるさま、心得がたく、立寄見れば、無慘や、聟は、息、絕(たへ)、死骸の眼(め)鼻に入たる、細虵(くちなは)、幾つともなく、身をしめ付たり」描写は娘が立って泣いており、眼鼻に蛇は入っていないものの、挿絵はこちらを描いている。本文の描写の方がぬめぬめとして細部まで凄絶であり、娘もその横で泣いていてこそ、真正のホラーと言える。その「淺ましさ」に挑戦し得なかった絵師の限界であったことを私は惜しむ。

「見るめ」垣間見た目の一瞬。

「斯(かく)。」

「よべまで」「昨夜(よべ)」。

「まことに、人界(がい)の習(ならい)とはいゝながら、榮枯、手のうらを翻すがごとし」こんな過剰な(というより、状況も判らぬのに場違いな)文飾は、話が現実から離れて如何にも嘘臭くなるだけで、失敗である。

「寒林」(かんりん)はインドのマガダ国にあった林のサンスクリット名の漢訳。山が深く、気温が低い所であったために死体を捨てる場所であったされることから「尸陀林(しだりん)」とも呼ぶ。転じて「墓地」の意となった。

「溢者(あふれもの)」「あぶれもの」。無法者。というより半グレの方が相応しい感じだ。

「生鐡(かね)細金」自称の通名であろう。「しやうがねのほそかね」とでも読んでおく。意味はよく判らぬ。「生鐡」(なまがね)なら、精錬するまえの鍛えていない鉄を言うが、以下の「細金」と意味の継ぎ具合が悪い。或いはこれはそうした愚連隊の総称か、その複合名なのかも知れぬ。その場合は「生鐡(しやうがね)」族・「細金(ほそがね)」族(「がね」は同族連帯意識で共通とした)と分離出来るのかも知れない。

「難なく、忍び入たりしが」屋敷内に。

「死してありしを、大路(ぢ)に出し、是を曝(さら)しけれど」「此あたりの溢者」であるからには、一目で、彼が「生鐡細金」の一味である、「豆腐屋の長助」であることは分かっていたから、かく公道に放置したのである。父母か親族が足早にやってきて、引き取ったものであろう。「生鐡細金」の悪たれには、おのれらの悪事が暴露されてしまう危険があるから、そんな情けも度胸もあるまい。

「元來(もとより)、忍入たるが、極めて越度(おつど)なれぱ、たれ、咎むる人もなく、事、濟ぬ」本来は不法侵入者の不審死であるから、お上に届けねばならない。しかし、当時の習いとしては、こうした処置が普通に行われたのであろうことが判る。おまけに、訴え出れば、奇怪な蛇巻きの変死の事実が問題となり、娘とその父母に嫌疑が掛かって、かえって面倒だ。因みに、変死体の蛇は、先の夫のケースも同じであるが、大路に出す前に総て抜け出た(娘の近くへ戻るために)と考えねばならぬ。彼女を慕う蛇なればこそ。

「若、此蛇を喰盡(くいつき)たらん人を、むこがねにせよかし」この提案自体が、おぞましいホラー・シーンと言える。

「雨風はげしき夜」先の愚連隊の侵入時も全く同じ天候であった。これは蛇=龍の伝承習俗から理解出来る。

「岩渕(いはふち)の深き池」「岩渕」は原本に従った。底本は「岩淵」である。さて、東京都北区岩淵町が現存する。ここは実は千住から川沿いに九キロメートル弱遡った場所にあり、それほど遠くない。現行では地区内や周辺に池は見当たらないものの、そもそもがこの岩淵地区は現在の隅田川が荒川から分岐する直近上流部分に当たり、現行でも新河岸川と荒川の二本が並走しているから、河川の蛇行による三日月湖が形成されやすい場所であることが判るから、この地区附近にあった池として何ら問題はない。直線で七キロメートル離れるが、蛇=龍=見入られた美女という図式には「淵」への入水がキメに必要ではあろう。]

2021/01/27

奥州ばなし 佐藤浦之助

 

     佐藤浦之助

 

 高山公とせうし奉る國主の御代に、「布引」と云し、すまひとり有しが、其かうむりし由來は、ある時、

「ちからを、ためさん。」

とおもひて、日本橋へいでゝ、車うしの、はしり行《ゆく》を引《ひき》とゞめしに、牛は、はしりかゝる、いきほひ、此方《こなた》は、大力《だいりき》にて引とめしを、車、中よりわれて、左右へ、わかれしとぞ。

 それより後《のち》は、牛の胸へ、布をかけて引しに、いつも、とゞまりし故、「布引」とはつきしとぞ。

 天下にまれなる力士といはれしを、「松浦《まつら》ちんさい」と申《まうす》【六萬石大名。】、茶の湯好の大名のかゝへと成《なり》て、「日の下かいざん」と名のり、殊の外、祕藏せられしとぞ。【解云、布引は、烏獲《うかく》が奔牛《ほんぎう》を曳駐《ひきとど》めしといふ故事と、同日の談なり。】[やぶちゃん注:以上は馬琴の頭注。]

 さるを、かねて國主にも、松浦家と御じゆこん[やぶちゃん注:「入魂」。「昵懇」と同じで、歴史的仮名遣はこれで正しい。]なりしうへ、この御家中にも、茶之湯・御弟子、かれ是、有て、しげく御出入被ㇾ成(なられ)しとぞ。

 國主、おほせ出さるゝは、

「布引をなげむと思ふほどのもの、國中にあらば、申出《まうしいで》よ。」

と、ひそかに、ふれ、有しに、村方の役人をつとめし人に、佐藤浦之助といひし男、小兵(こひやう)にて、大力の「やはらとり」にて有しが、

「私《わたくし》も、ひしと鍛練いたしなば、なげ申べし。」

と申上たりしを、

「さあらば。」

とて、けいこ、仰《おほせ》付く。其内は、日々、鴨二羽を食料に給はりしとぞ。【鴨を食料に給はりしは、隨分、油のつよき物を食うへ、身にも油を引て、其日は出《いで》しとぞ。少し手のさはりても、油にすべりて、とらまへられぬ工夫、とぞ。つげごとにや、人の語し。】

 日《ひ》、有《あり》て、

「わざも熟したり。」

と思ひしかば、その由を申上し時、松浦家へ仰入らるゝは、

「手前(てまへ)家中(かちゆう)に、『「布引」と力をこゝろみたし』と願《ねがふ》ものゝ候が、をこがましきことながら、御慰《おなぐさみ》に勝劣を御一覽候はんや。」

と仰《おほ》せつかはされしに、もとより、すまふ好《ずき》の松浦殿なりければ、

「興有ること。」

と、悅(よろこび)給ひ、[やぶちゃん注:この引用の格助詞「と」は底本では「ゝ」。]

「いそぎ、此方《こなた》へ、つかはされよ。」

と挨拶有しかば、浦之肋をつかはされしかば、廣庭《ひろには》にて立合《たちあひ》しに、

『あなたは、名にあふ、關とりなり。こなたは、勝れて小兵(こひやう)なり。いかでか、是が勝《かつ》べきぞ。』

と、思召《おぼしめさ》るゝ風情《ふぜい》なりしが、浦之助は、こなたへ、くぐり、かなたヘ、くゞり、さらに布引が手にのらず、いかゞはしけん、大男をかつぎて、

「ひらり」

と、なげしかば、どよめき興じ給ふこと、しばしは鳴《なき》もやまざりたり。

 松浦殿、浦之助を、

「すぐすぐ、是へ、是へ。」

と、めされしかば、

「女中なみゐし奧座敷へ、いなかそだちの無骨もの、はだかのまゝにて立出《たちいで》しは、布引との立合より、かへりて臆したり。」

とぞ。

 松浦殿、そばちかくめされて、

「今日のふるまひ、誠におどろき入《いり》たり。これはいかゞしけれど、つかはすぞ。」

とて、二重切《にぢゆうぎり》の花いけ【名器なり。】を、手づから給はり、

「扨《さて》。この坐に有《ある》女《をんな》の内、いづれなりとも望《のぞみ》次第、其方が妻に得さすべし。」

と有ければ、浦之助おもふやう、

『無骨ものゝ妻には、よき女はのぞみても、末、とげまじ。』

と思ひて、一番、みにくき女に、盃《さかずき》をさしたりとぞ。

 浦之助がくふうは、

『とても、大力・大ひやうの角力《すまひ》につかまれては、かつこと、あたはず。たゞ、ぬけくゞるうち、かつぎなげにせん。』

と、多日、くふうしたりしが、うまく、其手に行《ゆき》しなり。

 布引は、殘念に思ひ、

『今一度、たちあはゞ、みぢんになさん。』

と、ひらに立合のこと、願《ねがひ》しかど、勝劣さだまるやいな、此方《こなた》より、

「ひし」

と、警護の者、つき添《そひ》、早々、浦之助をつれて引《ひき》とり、一生、他行《たぎやう》、相《あひ》とめられし、とぞ。

 布引が遺恨に思ひて、もしあやめやせん、との、心づかひなりし。

 布引も、「やはら」の手にてなげられしを、

「一生、この無念はれず。」

と、いかりて有しとぞ。

 このこと、此國人《こくじん》は誰《たれ》もしりて語れど、江戶人は、たえて沙汰せぬことなり。

 いかばかりか、興《きやう》有《ある》ことなりつらん。

 

[やぶちゃん注:この話、サイト「エキサイト・ニュース」の「相撲の褒美は結婚? 江戸時代の結婚観が凄い」に二回に亙って本篇を現代語訳したものがある。しかし、この程度の古文で直ちに訳に頼るようでは、日本の未来は、何の夢も希望もない、と私は思うことしきりである。リンク先のそれはよく訳されているが、怪奇談に領域では、古文の初級レベルの知識も欠いたとんでもない語訳が有象無象転がっている。まっこと、嘆かわしい限りである。

「佐藤浦之助」仙台藩士として実在し、主に元禄時代(一六八八年~一七〇四年)には相撲名人として「紅(くれなゐ)浦之助」の四股名で知られた人物。宮城県仙台市青葉区通町(とおりちょう)にある全玖院(ぜんきゅういん:グーグル・マップ・データ)に墓が現存する。相撲絡みの古文献の電子化などで緻密な内容を持つ、古くから好きなサイトで、坪田敦緒氏の作成になる「相撲評論家之頁」のこちらに(実は流石は同サイト、こちらに次の「丸山」(冒頭の大男丸山(相撲絡み有り)の話のみ)とともに本篇がちゃんと載っている)、彼の墓所を確認された記事があり、『戒名・円光宗室信士(旧墓正面・新墓左側面)。 紅浦之助は、「古今相撲大全」』(宝暦一三(一七六三)年叙)『の「古キ名人之部」に「紅井浦之助」としてその名を出す、仙台藩抱えの力士で、出身は宮城県北部の志波姫というところ、いまでいう大崎市である。本名を佐藤権三郎、のち浦之助に改め、当時の』第四代『藩主伊達綱村』(万治二(一六五九)年~享保四(一七一九)年:藩主在位は万治三(一六六〇)年七月から隠居した元禄一六(一七〇三)年まで)『によって紅の四股名をつけられたという。江戸にある平戸藩松浦鎮信』(これは初代藩主であるから誤りで、綱村と重なるのは第五代藩主松浦棟(まつらたかし 正保三(一六四六)年~正徳三(一七一三)年:藩主在位は元禄二(一六八九)年七月から隠居した正徳三(一七一三)年二月までであるから、綱村と被るのは棟の在任期の十三年の間となる)『侯の屋敷に招かれ、西国斎蔵(または布引ともいう)と取って勝ち、天下一と名乗れ』、『と褒めそやされたと伝えられている。また、日下開山を称した鬼巌という巨人力士が全国を歩き、仙台で相手を募ったところ、紅は鴨肉を食べ続けて体表に脂を浮かせ、千変万化と讃えられるその取り口で鬼巌を倒し、紅の名を全国に知らしめたという伝説まで残っている。しかも鬼巌はその場で死んだというから、俄かには信じがたいが。相撲をやめてからは』、『地元で郡』(こおり)『奉行と』しての藩の御役目の傍ら、『算盤塾を開いていたという。晩年は仙台で御破損方役人となり』、享保一二(一七二七)年六月七日に亡くなった(なお、この記載は、真葛の話をしっかり裏付けている。相撲の相手にやや異同があるが、問題とすべき内容ではない)。『佐藤家墓域の右奥、真ん丸の石が台座の上に乗っている。高さは台とあわせて』六十六センチメートルで、『中央に「円光宗空信士 松室妙貞信女」と彫られてある。無論、この「圓光宗空信士」が『紅のことで、右には「佐藤浦之助景次 享保十二未年六月七日 行年七十歳」とある』(これが正確であるとすれば、佐藤浦之助は明暦四・万治元(一六五八)年生まれとなる。但し、以下に続いて食い違う資料が有る)。『墓域中央には、いつの建』立『か分からないが』、『新墓「佐藤家之墓」があり、棹石』(さおいし:墓の一番上に配される石。墓標部分のメインの石)『左側面から背面に亙って多くの戒名がある。一番最初に「円光宗空信士 享保十二年六月七日 浦之助 七十二歳」とある。年齢に喰い違いがみられるが、紅をスタートとして江戸から昭和まで、丹念に彫られてある。 さて、新墓には紅のとなりに「霊光不味信女 天保三年十一月二日 妻」と彫られてあるのだが、天保』三年は西暦一八四二年で、『いくらなんでも夫婦で』百十五『年も歿年が開くはずはない。とすれば、やはり旧墓の「松室妙貞信女」が紅の妻なのだろう。どうして新墓では消えてしまったのか?』とある。ともかくも、この「松室妙貞信女」こそがこの話柄で彼が貰った妻の戒名であるのである。

「高山公とせうし奉る國主」これは、話の初っ端に示してある以上、仙台藩主の別称と考えねば筋が通らない。「高山公」の異名が見当たらないので、当初は直後に続く相撲取「布引」を抱えていた(或いは後にお抱えとした)「第五代平戸藩主松浦棟(たかし)の名と『高山公』は意味が通ずるかも」なんどと安易に考えていたものの、そう都合よくは行かず、松浦棟に「高山公」の異名は見当たらない。「困ったな」と思って今一度よく資料を見てみると、第四代仙台藩主伊達綱村の戒名が目に留まった。「大年寺殿肯山全提大居士」である。「肯山」は「高山」と音通だし、草書の「肯」を「高」と写し誤る可能性もある。さすれば、綱村の「肯山公」の誤り、と私は採ることとした。

「車うし」これは牛を轅の間に挟み込んだ牛曳きの小・中型の荷車(前後長は決して長くない)のことを指している(くれぐれも牛車(ぎっしゃ)なんぞを思い浮かべないことである)。大型のリヤカーに大きな農耕牛が繋げられたものを想起されれば、違和感がなくなるはずである。

「はしり行《ゆく》を引《ひき》とゞめしに」この場合は、行き過ぎたそれを、後ろから、荷車部分の後尾を、やおら、むんずと両手で摑んで、引き留めたのである。

「車、中よりわれて、左右へ、わかれしとぞ」牛の背後に接続されてある荷車が、引き留めている布引との間の、丁度、真ん中で、まず、前後に「バツン!」と割れたのである。さすれば、牛に装着されている荷車の轅(ながえ)の後ろ部分は左右に弾け、また、荷車の後尾を布引は一箇所ではなく、左右位置で摑んでいたものと思われるから、そのモーメントは今度は前後ではなく、左右方向に「ガバン!」と弾けたとするのは、理に適った描写と言える。

「それより後《のち》は、牛の胸へ、布をかけて引し」荷車が完全損壊してしまうので、持ち主から弁償を迫られて当然であるから、そうならないように、牛本体の頸部の下方の前胸部(両前足の付け根前部)に強靭な長い布を引っ掛けて、荷車に負荷がかからぬように、パフォーマンスを行ったということであろう。

「松浦《まつら》ちんさい」「六萬石大名」「茶の湯好の大名」平戸藩は元は六万三千二百石であったが、先に私が同定した松浦棟の先代の、父で第四代藩主松浦重信の藩政中に、分知によって六万千七百石になっていた。また、棟の藩政中の元禄二(一六八九)年には同じく分知により五万千七百石に減っている。「ちんさい」はまず間違いなく「鎭齋」と思われ、ここは棟の雅号ではないかと考える。その根拠は、棟の号に「履担齋」という「齋」称のそれがあること、また、何より平戸藩初代藩主は松浦鎭信(しげのぶ)で、例えば、棟の父重信も隠居後に、諱を曾祖父と同じ鎭信と改めるほどに歴代の当主が「鎭」(鎮)の字を好んだからである。なお、棟は名君で、荒廃で苦しむ農民の救済に尽力し、また、優れた文化人でもあった。彼の四代後が、かの「甲子夜話」(リンク先は私の進行中の電子化注)の松浦静山である。

「日の下かいざん」先の坪田敦緒氏の「相撲評論家之頁」のこちらに、『現在において』も『「日下開山」なる語が横綱の別称として用いられることがあるが、 これは元来は仏教語で、寺の開祖を指すものである。「開山」は、山を開いて寺院を創めた開祖を言う。「山」は寺のこと。開山を崇めて「祖師」と言い』、『開祖転じて最高者を表す称となり、双びなき優れた者を示すようになった。さらに、「開山」の頭に「日下」をつけ、最高峰の武芸者や芸能者がこれを称し、さらに芸能者(相撲は武芸に非ずして芸能の一なり。従って力士の身分は「士農工商」の「工」)の一たる力士にも用いられるようになった。「日下」は天ヶ下、これ』、『すなわち天下、世界のことである。室町時代から「天下一」なる語が使われたが、徳川将軍が「天下様」と呼ばれていたことから、江戸幕府は「天下一」呼称の禁令を発布した』(天和二(一六八二)年)。これ『以降、「天下一」と称えていた者は「日下開山」を呼称するようにな』り、『室町頃の職業相撲における最強者を「関」と言う(のちのち「大関」の語源ともなる。関所の意。「関を取って守る」の意から「関取」なる最優秀力士を指す呼称が生まれた)。この「関」を称える強豪やら、永年に亙って負け知らずの力士を「日下開山」と言った。日下開山の称を受けた力士は多数ある。幕末頃には横綱免許を受けた大関を指すようになり、さらに後には横綱力士の別称となった。初代横綱とされている明石が、日下開山の称を受けたというのは伝説であるというが、陣幕が明石を初代横綱としたのは、この伝説による。明治には日下開山の称が横綱の異称として定着していたという例証でもある。しかし、お分かりかとは思うが、元来は日下開山が』、『即ち』、『横綱を意味する語ではなく、また先に「日下開山の称を受けた」と書いたが、免許されるものではなく、単にそう呼ばれて持て囃されたというだけのことである』とある。

「烏獲《うかく》が奔牛《ほんぎう》を曳駐《ひきとど》めしといふ故事」烏獲(生没年不詳)は戦国時代の秦の将軍で、武王に仕えた。同国の同職であった任鄙(じんひ)や孟賁(もうほん)と並ぶ大力士として知られ、千鈞(きん:当時の換算の機会計算で七・六八トン)の物を持ち上げる力が有ったとされる。参照した彼のウィキよれば、『勇士を好む秦の武王に取り立てられ、彼らと共に大官に任じられた』。『武王は紀元前』三〇七年八月に『洛陽で孟賁と鼎を持ち上げる力比べをした際、脛骨を折り』、『出血多量で亡くなったが、その際』、『烏獲も鼎を持ち上げて両目から出血した』『と言う。孟賁は罪を問われ』て『一族諸共死罪に処されたが、烏獲は』八十『歳を越える年齢で亡くなったとされる』とある。私はそちらの孟賁が生きた雄牛の角を引き抜いたという話は聞いたことがあるが。まあ、八トンを持ち上げるのなら、鉄腕アトムのように、猛牛を人差し指の上で回転させることも出来ように。

「茶之湯・御弟子」敢えて分離した。茶之湯の御弟子も、武道武術の御弟子も。

「ふれ」「觸」。お触れ。

「やはらとり」「柔取」。柔術者。

「つげごとにや」彼の話ではなく、誰かが、そう、まことしやかに言ったことも知れぬが、の意で採る。「神のお告げ」なんぞでは、おかしい。

「女中なみゐし奧座敷へ、いなかそだちの無骨もの、はだかのまゝにて立出《たちいで》しは、布引との立合より、かへりて臆したり。」この台詞は後の浦之助の回想の直話として鍵括弧書きとした。

「二重切」竹の花入れの一種。二つの節(ふし)の間に、各々、窓を開けて、水溜めも二ヶ所設けたもの。利休の創始による。

「浦之助おもふやう、『無骨ものゝ妻には、よき女はのぞみても、末、とげまじ。』と思ひて、一番、みにくき女に、盃《さかずき》をさしたりとぞ」私は思うのだが、真葛は、この浦之助の考え方に親しみを覚えたのに違いないという気がする。そこで真葛は決して美女ではなかったけれど、浦之助と幸せに添い遂げ、ともに墓に葬られた彼女を幸せだったと感じているのに相違ない。そこにまた、真葛の淋しさがある。真葛が二人の墓に手を合わせている後ろ姿が、私には見える。「松室妙貞信女」という戒名だけが知られる、浦之助の妻は、考えてみれば、決して美人ではないのだが、では、何故、松浦棟のお側に仕えていたかを考えてみれば、名君にして文化人であった彼が、特に取り立てて選んだ女性だったからだ。さすれば、彼女は知的で気配りの利く女性だったからではないか? 浦之助よ、君の選択は正しかったのだ!

「此方《こなた》より」遊びとは言え、大名同士の引き立て者同士の力比べである。浦之助が勝った場合に、何らかの不測の事態を伊達綱村は予測し、特に手練れの藩士を警護役として同道させていたのである。

「一生、他行、相とめられし」彼の命の安全を考慮して、生涯、藩外へ出ることを禁じたのである。江戸時代の藩は国家であり、別段、おかしいことではなく、苦痛なことでもない。藩外の飛地である藩領や、江戸の藩邸詰めにならなければ、藩域から一歩も出なかった藩士はごまんといる。あまり理解されているとは思われないので言っておくと、江戸幕府の幕臣である旗本は、江戸を出るには幕府の許可が必要であり、日帰りの物見遊山でも、それが親族との面会であっても、御府外に出たり、一泊したりすることは、原則上、出来なかったし、それが公に知られた場合は、相応の処罰を受けたのである。]

梅崎春生「虹」縦書ルビ化PDF版

梅崎春生「虹」の縦書ルビ化PDF版「心朽窩旧館」に公開した。

ブログ・アクセス1,490,000アクセス突破記念 梅崎春生 虹

 

[やぶちゃん注:本篇は初出不明で、昭和二三(一九四八)年八月に刊行した作品集「飢ゑの季節」(講談社)に収録されている。発表順配置の底本では、昭和二十二年と昭和二十三年一月発表の作品の間に置かれてあるから、編者は昭和二十二年中の発表或いは脱稿と判断したようである。因みに当時、梅崎春生は満三十二歳である。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第二巻」を用いた。

 ストイックに注を附した。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが昨夜、1,490,000アクセスを突破した記念として公開する。【2021127日 藪野直史】]

 

   

 

 サーカスを出ると、もはや巷(ちまた)は黄昏(たそがれ)のいろであった。

 先刻大天幕をひとしきり烈しく打つ雨の音がしていたがそれも通り過ぎたと見え、焼跡と凸凹地に処々わずかに水たまりを残しただけで、空は淡青く昏(く)れかかる風情であった。しかし焼残りの片側街をあるくとき、まだ家の廂(ひさし)からときどき水滴が豆電気をともしたように光っては落ちた。あのざわざわしたサーカスの雰囲気のふしぎな後感(ナッハシュマック)がまだ身体の一部分に残っていて、何となく甘い気持の中に麻酔から醒めて行くようないやな味が混り、私はうすく濡れた道に足を踏み入れる度に手にした洋傘を柔かい地面につき立てるようにするのだが、先に立って足早に歩く先生の幅広い肩がともすれば私と距離をつけそうになるのであった。[やぶちゃん注:「後感(ナッハシュマック)」私は第一外国語がフランス語でドイツ語は全く分からないが、辞書だけは持っている(同学社一九七七年刊「新修ドイツ語辞典」)。しかし調べてみても、この綴りの単語は見当たらない。「ナッハ」は分離動詞の「前綴り」(Präfix)の「nach-」で、「後続・以後」の意を添えるから、それでよいとして、「シュマック」が困った。ピッタリくる単語がない。ただ、目が止まったのは、動詞ではなく、名詞ではあるが、「Schmalz」(シュマルツ)で、俗語で「感傷」・「(流行歌などの)お涙頂戴もの」といった意味が記されており、ネットで再確認すると、「プログレッシブ独和辞典」に、『ひどくセンチメンタルな気分』・『ひどくセンチメンタルな歌』とあった。「後に残る感傷」で親和性はある。動詞では「Schmerzen」(シュメルツェン)で「痛む・悲しませる」であり、その名詞「Schmerz」(シュメルツ)は近い感じはする。]

 片側街が途切れると一面の廃墟がひろがり、黒い土蔵や立ち枯れた樹や散乱する瓦礫(がれき)のむこうに、郊外電車が小さく傾きながら土手の上を走った。そのあたりから夕陽の色を残す空にかけて巨大な虹が立っていた。地平のあたりは既に色褪(あ)せてはいたが、中央のあたりのきらめく七彩は目も覚めるばかり鮮かであった。その虹をふたつに鋭く断る[やぶちゃん注:「たちきる」。]焼焦げた電柱の根本に、女がひとり煉瓦に腰をおろしていた。先生の足がその前で止った。

「どうしたんだね」

 女は顔を上げた。色白の瘦せぎすのくせに眼と眼が非常に離れていて、魚のように双眼でおのおの別の世界を眺めているように見えた。薄い外套を着て背をすくめ、しなやかそうな軀(からだ)が小刻みにふるえていた。

「寒いのよ」

「濡れてるじゃないか」

 ほとんど顔の側面についた切れ長の眼の、長いまつ毛を二三度しばたいて、女は幽(かす)かに笑ったようである。

「雨が降るときは何処かに雨宿りするものだ」

「そんな親切なところはないのよ」

「洋傘は持たないのかね」

 先生の後方一間[やぶちゃん注:三メートル。]程の位置に立ち止り、私は女の唇の動きを眺めていた。女は口紅はつけていなかった。白く乾いた唇だった。先生の言い方が真面目なので、ふと女は驚いたような目付になった。

「日が暮れるから家へお帰り。おなかもすいているんだろう」

「おなかもすいてるわ」女はのろのろと立ち上った。「洋傘も持たないんです」

 視野の中で虹は急速に頽(くず)れて行くらしかった。女の顔は空を背にしているせいか非常に蒼白く見えた。先生が私の方に振返った。鉄縁の眼鏡の奥にある眼は何か過剰な光を帯び蒼黒い頰が思い詰めたように痙攣した。先生の此のような表情は私はあまり好まないのである。

「君の洋傘を貸し給え」

 私は気持の抵抗を少し感じながら、それでも洋傘を差し出した。受取って先生は女の方にむき直った。

「これをあげよう」

 女はじっと先生の顔を眺めているので、双の瞳が心持中央に寄り、眇(すがめ)に似た印象であった。仏蘭西(フランス)のどの画家かの絵の女に似ていると思ったが、それは鳥獣魚介が持たぬ人間だけにある、あの奇体ななまなましい魅惑であった。私は思わず女の表情に心を奪われていた。女はほっと肩を落した。

「いただいとくわ」

 私の方をちらと見ながら、洋傘の曲った柄のところを腕にかけた。そしてはっきりした声で言った。

「おなかもすいている」

 先生は黙って手をポケットに入れた。広い背中の表情が妙に淋しそうであった。四五枚の紙幣を取り出した。

「此の道をずっと戻ると右側に、丹吉という飲屋がある。あそこの煮込みを食べなさい。金が足りなかったら、あとで先生が払うとおやじに言うんだ」

 女は紙幣を受取りながらはにかんだように笑いかけたが、すぐ止めた。洋傘をぶらんぶらんさせて歩き出した。[やぶちゃん注:「笑いかけたが」は行末で読点がないが、補った。]

「ありがとう。あなたいい人ね」

 まだサーカスは終らないのだろう。破れた太鼓や急速調の笛の音が風に乗って幽かに流れて来た。凸凹道を器用に歩いて行く女の後姿を眺めながら、女が素足のままであることにその時私は気がついた。

「あれはいくつ位になるのだろう」

 歩き出していた先生を追って肩を並べた時、先生は沈んだ調子でそう言った。

 焼跡のまま道が二叉にわかれるところで、私は立ち止って帽子を取った。私はこれから右の方に駅に行くのである。先生の家はここから十分ばかり、焼跡にただ一軒残った小さな二階屋であった。そこに奥さんと二人で住んでいた。先生も立ち止った。

「飜訳の方は二三日中に出来上ると思います。出来たらお届けします」

「何時でもいいんだよ」

 と先生は言った。そして眼鏡をきらりと反射させながら身体の向きを変え、低い声で口早に言った。[やぶちゃん注:底本には最後の句点がないが、補った。]

「――金が無くなったら、僕の家に来給え。傘も買い直したらいいだろう。女房にそう話して置くから――」

 言っているうちに言葉が曇って来るように思われたが、先生はすでに身体を揺るようにして道を歩き出してした。

 

 家に戻った時はもう暗かった。玄関はしまっていて、貫さんはまだ帰っていないらしかった。私は裏口から入り自分の部屋にあおむけに寝ころんだ。畳の冷えがしんしんと軀(からだ)に伝わって来る。あの物悲しいジンタの旋律が連関もなく身内によみがえって来た。[やぶちゃん注:「貫さん」「かんさん」と読んでおく。「ジンタ」明治中期に本邦で生まれた民間宣伝の市中音楽隊。その愛称は大正初期につけられた。]

 外ではぼうぼうと風が吹き、通り雨が走ったりしているのに、大天幕の内部はあかるくて、粗末な木組の舞台ではつぎつぎ妖(あや)しい演技が続けられて行った。客席の一番外側の通路に私と先生は立っているから、キャンバスのひとえ向うは連なった闇市で、ジンタが途切れると飴売りや蜜柑をせる声が私達の耳まで届いて来るのだ。足芸、はしご乗り、水芸、奇術。どの演技者もつきつめた表情であった。絶えず笑いを浮べようとしていたけれども、それはおそろしく堅く真面目なわらいだった。どういう訳か自分が次第に憂欝になって行くのを、番組が進行するにつれて私は感じ始めていた。

 ――舞台に銀線をいっぽん張り、裾模様を着た女が日傘をかざして渡って行った。足を踏みかえる度に黒く汚れた足袋(たび)の裏が見えた。そう思えば裾模様も色褪せて草臥(くたび)れていることが遠目にも伺われた。裾が乱れるとその下に青い洋袴をはいているのが見える。インキのような厭な色だった。銀線の下には男がいて、や、は、と掛声をかける。急速な三味線の音のなかで、女は銀線の上に平均を取りながら着物を脱いで見せるというのらしかった。左右に揺れながら女は帯じめを解き、そして長いことかかって帯を解いた。そういう手先や身体のこなしと関係なく、眼だけはぎらぎらと光りながら宙に固定していた。身体中から紐(ひも)が全部落ちたとき、女は着物の胸を押え、ふっと顔を観客席にむけた。そして笑ったのだ。――思わず私は眼をつむった。それは笑いではなかったのだ。必死になって顔の表情をくずそうとする風情だった。見るべからざるものを見たような厭な気持で、私は無意識に後ろに組んだ指を力こめて握っていたのだが、拍手と一緒に眼をあけた時は、女は既に舞台に飛び降りて花模様の上衣と青い洋袴の身軽な姿で、あたり前の笑い顔をしながら拍手に挨拶をかえしていた。もはやそれはごく平凡な少女に過ぎなかった。……[やぶちゃん注:「裾模様」和服の模様付けの一種で、裾にのみ配された模様、或いは、その模様のある着物。女性の礼装用で「総模様」(女性の和服で全体に施されるもの或いはその模様のある着物)に対する語。]

 背中が冷えるので私は起き上った。部屋の中には紙屑や塵埃(じんあい)が散乱し、机の上には原書や辞書が不規則に並んでいる。宵のうちは電力が衰えているから辞書の小さな字は読めないのだ。しかし私は翻訳の仕事は情熱をすっかり失っていた。復員して来て――大陸から南方へ六年間、私はブウゲンビル島から帰って来た。そして今迄、私は先生の飜訳の下請けなどして生活して来た。食うや食わずであるけれども、闇屋にまでおちたくないという小市民的な気持が辛うじて私の日常を支えて来た。そして間接的だけれども学問に関係しているという喜びに私はすがっていた。しかしそういう気持の高揚の瞬間にすら私は自分の心の中に壁みたいなものを感じていて、壁のむこうが真実の自分ではないかとふと疑われて来るのであった。所詮はそれも生活の苦しさから来るのではないかと考えもするのだが、それも判然としなかった。しないままに私は飜訳にずるずると興味を失って来たようである。[やぶちゃん注:「ブウゲンビル島」パプアニューギニア・ブーゲンビル自治州のブーゲンビル島(Bougainville Island:グーグル・マップ・データ)。太平洋戦争中の長期激戦の一つ「ブーゲンビル島の戦い」で知られ、梅崎春生には、それを扱った小説「B島風物誌」があり、既に本カテゴリ「梅崎春生」のブログ分割版及びPDF一括縦書版を公開済みである。]

 暫(しばら)くして玄関をがたがた言わせて貫さんが戻って来た。リュックサックの中に死んだ鶏が五羽も入っていた。私は上(あが)り框(かまち)に立って、土間で貫さんが鶏の死骸を引き出すのを見ていた。

「これをバラすんだょ。それから売るのさ」

「どこに売るんだね」

「どこにでも売れるさ」貫さんは明るい顔を私にむけた。

「バラして売れば三倍につくんだよ」

 蜜柑(みかん)箱をまないた代りにして、貢さんは器用な手付で庖丁を使った。毛穴のぶつぶつした皮や肉の薄い骨を巧みに剝がして、赤い身のところどころに走る黄色い脂肪を丹念にえぐって皿により分けた。鶏は薄黝(うすぐろ)く瞼を閉じてくびを台から外に垂れていた。乏しい電燈の下であったけれども、肉の色は生き生きと美しかった。貫さんの庖丁が台に当ってカタカタと鳴った。

 どういう聯想かは知らないが、私は先刻焼跡で見た巨大な虹のことを思い浮べていたのである。私は柱によりかかり足の踵をも一方の足の甲に重ね、ふしぎな慄えを感じながら解体されて行く鶏身の彩りに見入っていた。断ち落された黄色い粒々の脚が、無念げに足指を曲げて土間に何本もころがった。次々新しく断ち落される毎に、私は追われる者のように首を立てて四辺を見廻していた。

 

 持って帰った分だけはどうにか飜訳し終ったので、私は原稿を揃えて先生の家に持って行った。焼跡の畠は麦もやや伸びて季節も暖気にむかう気配があった。入口を入ろうとしたとたん、玄関から黒く光る洋服を着た奥さんが出て来た。

「あ、ちょっと」

 奥さんは小さな声でそう言いながら、冷たい感じのする視線で私の顔を見て引返そうとしたが、そのまま思い直したらしく頭をわずか傾けて急ぎ足で門の外へ出て行った。半顔の傷痕が私の視野をちょっとかすめて消えた。

 先生は階段下の三畳の部屋に欝然とすわっていた。

「今朝から痔(じ)が痛いのだ」

 厚い座布団の上で膝を組みかえながら先生はそう言った。

 私は風呂敷を解いて原稿を差出した。先生がそれをぱらぱらめくる間、膝の上に手をのせて私はじっとしていた。飜訳の仕事をこれ以上やりたくないこと、それをどんな風に切り出そうかと考えた。此の三畳の部屋は私は始めてであった。北向きらしく日の射さない、何だか畳が濡れて白くふやけているようだった。部屋のすみの畳の縁に、丸くふくれたボタンのようなものが二つ並んで落ちていた。じっと見るとそれはボタンではなくて、黄色い小さな茸(きのこ)らしかった。先生が顔を上げて原稿を机の上に押しやった。鉄縁の眼鏡の奥に羊のような暖かい眼があった。

「君、丹吉に行こう」[やぶちゃん注:「にきち」と読んでおく。]

 私が何も言う暇もなく先生は立ち上っていた。

 空は良く晴れていた。午後の陽が先生の二重まわしの背にあたり、並んで歩く私の鼻に毛の匂いがした。焼跡に一

本残る電柱のところまで来たとぎ、先生はややゆっくりし

た足どりになって話し出した。[やぶちゃん注:「二重まわし」「二重(にじゅう)廻し」。二 袖の無いケープ付きの外套。男性用のインバネス(Inverness coat)のこと。ホームズが好んで着用するあれである。]

「此の間此処に変な女がいただろう。あれは僕が昔知っていた女に感じがそっくりだったんだ。その女も生きてるか死んだか、生きてても僕と同じ位の歳なんだがね。一寸見た時その女じゃないかと思った位なんだ。馬鹿げた話なんだが、でも近づいて見ると矢張り違っていた。ずいぶん眼と眼の距離がある娘さんだったな。あんな顔は九州の山奥に行くとよくあるよ――」

 焼跡が尽きると片側街となり、やがて幽かにジンタの音が聞え出した。ぽつぽつと新しい家もまじって風船売りなどが路ばたに店をひろげていた。丹吉はその辺の露地の入口にあった。此の店へは先生に連れられて何度も来た。立てつけの悪い油障子を引きずりあけて私達は内に入った。[やぶちゃん注:「油障子」雨などを防ぐため油紙を張った障子。強い黄褐色を呈する。]

 此の飲屋丹吉は私の知っている範囲では奇妙な飲屋のようであった。主は年の頃五十近くの分別あり気な頑丈なおやじであるが、これが勘定の点になるととたんに出鱈目(でたらめ)になる。焼酎二三杯しか飲まないお客から二百円余りも取ったり、五六杯飲んでも百円程で済むこともある。焼酎一杯がいくら肴(さかな)一品がいくらという単価の観念がてんで無いらしく、勘定というのは私の見るところでは彼の心に湧く漠然たる印象によるものらしかった。昔船乗りをやっていたという男で、二の腕に刺青など彫っているが、焼酎はいい焼酎を飲ませた。

「やあ、おいで。先生」

 こう書くとまことに晴れやかな挨拶だが、おやじの顔はまことに物々しく声音[やぶちゃん注:「こわね」。]はむしろ沈重であった。重たげ瞼をゆっくり上げて油断なげに私達をじろりと見るが、暫(しばら)く通っていると油断だらけだということがすぐ判って来るのである。

 煮込みを注文して私達は焼酎を傾けた。傾けながら先生は二重まわしのかくしから紙幣入れを取り出した。

「今日持って来た分だね」

 私は四五枚の大きな紙幣を受取った。このような瞬間に私は必ず気持の抵抗を感じるのだ。私が今日たずさえた原稿がすぐ先生を通じて金になる訳ではない。またあれが役に立つのかどうかも私は知らないのだ。私に判っていることは、邦訳した枚数だけを先生が金に換算して呉れるだけである。私の仕事の成行きは宙で断たれている。そのことから私は強いて眼を閉じているものの、次第に近頃先生の柔かい好意が鎖のように重苦しく思われて来るのであった。

 向い合って焼酎を黙って飲んでいると、やがてほのぼのと酔いが廻って来る様子であった。卓に肱(ひじ)をついて先生が話しかげた。

「下請けは縁の下の力持だからね、いい加滅いやだろう。そのうちにちゃんとした仕事を出版屋から廻させるよ」

「私はいいのです」

「いいたって君、やはり生活して行かなければならないのだろう」

「ほんとにいいのです。先生」

 怒ったような口調だったかも知れない。先生は不審げな一瞥(いちべつ)を私にそそいだが、直ぐ卓を叩いてお代りを注文した。少し廻ってぼんやりした頭で、私は貫さんのことを考えていたのだ。貫さんは私の戦友である。部屋が無いから私が転がり込んだ形だが、貫さんは厭な顔もせず私を入れて呉れた。此の間の鶏を彼は山梨県から運んで来たのだ。誰の援助も借りず彼は独りで運んで来て、そしてそれを売った。鶏を解体している時の自信に満ちた手付を、私は今、酔いのためなおのこと灼けるような羨望の念をもって想い出していた。それはなにか痛苦を伴うので、私は頭をはげしく振ってそれを意識の外に追い出そうとした。新しいコップを傾けながら、私達はあのサーカスのことなどを話し合っていた。[やぶちゃん注:「私は今、酔いのため」の「今」は行末で読点はないが、補った。]

「芸を持っているということは強いな」と先生が言った。

「彼等は皆ひたむきな顔をしているだろう。他の何物をも信じていないのだよ。自分の技倆だけを信じているんだ」

「人間はしかし誰でも何か自分を信じなげれば生きて行けないでしょう」

「そうだよ。だが自分のものを徹底的に信じ切れるかどうかが分れ目になるんだ」

 薄い日射しが油障子に当って、客はまだ私達だけであった。調理台の向うでおやじが、ぐふんと沈欝なせきをした。風の加減でサーカスの音楽が断(き)れ断(ぎ)れに耳に届く。油障子を表から押すらしくカタリと鳴ったが、そして軋んで開かれた入口から灰色の外套を着た女が入って来た。私は思わず眼を挙げた。それは此の間電柱の元にうずくまっていたあの女であった。女も私達に気付いて短い叫び声を立てた。

「此の間のおじさん達なのね」女は卓に近づきながら皓(しろ)い歯並みを見せてわらった。「そして飲んでるのね」

 光を背にしているから直ぐ判り難かったが、卓の側まで来たとき先生もそれと認めたらしかった。

「飲んでいるさ。おすわり。あの時の娘さんだね。此の間は煮込み食べたかい」

 先生は二重廻しの袖をはねて椅子を引寄せた。呂律(ろれつ)は少し乱れていたが、先生の眼は何か強くさだまるような感じであった。それよりも私は女の、遠い処ばかり眺め続けて来た人の眼のような瞳を、ひき入れられるように眺めていた。気が付くと薄くではあったが唇の内側に女は紅をさしていた。女は私の視線に気付くと、居を結ぶようにして堅い顔になった。

「煮込みなんか食べなかった」椅子に腰をおろした。「わたしあのとき焼酎のんだのよ」

 先生は一寸驚いたような顔をして瞳を定めたが、すぐ眼元が柔かく崩れて来るらしかった。

「じゃ今日も焼酎飲み給え」

 おやじが侍従武官のような顔をして焼酎を新しく持って来た。置かれたコップに唇を持って行こうとして、女はふと頭を上げて首を反らした。両掌を外套から出して卓の上にきちんと重ねて揃えた。硬(こわ)ばった微笑が女の頰に突然のぼって来たのである。それはサーカスの銀線上の女曲芸師の、着物を脱ぎ捨てようとする瞬間のあの笑い顔にふしぎにそっくりだったのだ。

「私はどんな女か知ってるの?」

 少しうわずった声でうたうように女は言った。先生は口まで持って行ったコップをまた卓の上に戻した。

「知っているさ。此の間洋傘を持たないで困っていた娘さんだろう。そして今日此処でまた会ったのさ。それでいいじゃないか」

「私パンパンよ」女は低いけれどもはっきりした声で言ってじっと先生を見つめた。此の女はものを見詰める時に、あの不思議ななまなましい魅力を顔中にたたえて来るのであった。

「わたしパンパンなのよ。それでもよくって?」

「いいとも。何故そんなことを気にするんだ」

 私はそう思わず口走った。女は私に視線をうつした。幾分なごんだ調子になった。

「――此の間の洋傘は確かに貴方のね。そのうちお返しするわ」

「返さなくてもいいよ」

「でも悪いわ」

 そして女はコップを特ち上げて一口二口飲んだ。外套の手首の擦れを、私は女の視線からそっと卓の下に隠していた。此の女をもっと知りたい気持が酔いにたすけられて募った。

「名前は何というの」と私は聞いた。先生がそのとき横合いから口を出した。

「ぼくが名前をつけてやる。花子」

 身体をよじって女は苦しそうに笑い出したが、直ぐ焼酎にむせて烈しくせきこんだ。[やぶちゃん注:「パンパン」売春婦。特に第二次世界大戦後の日本で、駐留軍兵士相手の街娼を称した。「パンパンガール」「パン助」。意外なことに原語は未詳である。語源説はウィキの「パンパン」に九件載る。]

 

 その日はとうとう飜訳のことは話さずじまいであった。泥酔した先生を、お宅まで届け家に戻って来たのは九時過ぎだった。布団をふかぶかと顎(あご)まで掛けて私は花子のことを考えていた。酔いがまだ残っているので身体が布団ごと深淵に落ちて行くような気がした。先生を送って行く途中、焼跡の電信柱に先生をつかまらせ、私は一緒について来た花子を抱いて烈しく接吻した。それから花子は何処に行ったか判らない。私も酔っていたからそのときの気持は定かでないし、はき散らした言葉の数々も覚えていない。私は二十八歳。二十八歳であることが強く頭に来た。私は女を知らない。兵隊であったときも愚直な潔癖から私は頑固に女を退けて来た。しかし今、自分が未だ童貞であるということが何か不潔にいとわしいものに感じられて来るのであった。

 その夜は暖かであったが、翌日からまた薄ら寒い日がつづいた。一日中部屋にいて原稿のかきかけを整理したり、部屋を綺麗(きれい)に掃除して身の廻りを整頓したりした。すっかり整頓し終ってもまだ何だか落着かぬ気がした。以後飜訳の下請(う)けを断るということは、私の僅かな月々の定収入を失うということであった。貫さんに対しても私は一度も部屋代は払わないし、むしろ逆に御馳走によばれたりする方が多かった。私はそんなとき貫さんに憐れまれている自分が判った。私は憐れまれるより邪魔者扱いされた方がいいと時に強く思ったが、邪魔者視されればまた途方に暮れるにきまっていた。貫さんが何処からか物資を仕入れて来て、それを鮮かにさばく手際を、私は見ないようにしながらしかし羨望の思いを禁じ得ないのだ。その羨望の念に、貫さんに対する紛れもない憎しみがまじっているのを意識していた。しかしその憎しみはすぐさま私自身に鋭くはね返って来た。闇屋にすらなれない、そんな意識が私を苦しめた。

 寒い日が二三日続くとまた暖くなった。気分を変えるために私は外出の用意をした。先生の家に行こうかと思ったが、それを押えるものがあって、私はあのサーカスの近くの闇市をぼんやり歩いていた。外套を着ていると背筋が汗ばむほどだった。

 色んな露店を眺め歩いているうちに、私は私も近いうちに此のような人々に混って荒くれたかけ引きをするようになるのではないかとふと思った。私が闇屋にならなかったのは私の小市民的な虚栄に過ぎないことが近頃私には判り出していた。私はそれを自分の人間的な矜持(きょうじ)と思っていたのだが、やはり金がほしくてうずうずしている癖に闇屋をさげすんでいる勤め人や学者と知合いになるにつけ、私ははっきりと私の醜悪な像を彼等の中に見たのだ。学間に関係がある仕事、飜訳の下請けをそう考えることが自分への胡麻化(ごまか)しであることは、とうに気付いていた。贋(にせ)の感情の上にでなく、自分の力の上で生きて行く生活を私は近頃切に欲する気持になっていた。それが私が先生から離れたく思う一つの原因であった。法をくぐる闇屋の方が、他人の温情に寄生するより生甲斐があると思った。しかしそう頭では思っても私はぐずぐずと踏切りがっかないでいるのであった。所詮は生活の感傷に過ぎないのかも知れなかった。

 露店の列は一町[やぶちゃん注:百九メートル。]程で尽きる。道が乾いているので土埃がうっすら立ち、魚屋の前あたりが人混みがことに多かった。少し離れて、レグホンの黄色い雛(ひな)を蜜柑箱に入れて売っているぼんやりした老人もいた。露店の尽きる処に灰色の天幕をぶわぶわとふくらませたサーカスがあった。破れた喇叭(ラッパ)が濁った空気になり渡った。

 入口の上が二階に作られ、そこが踊子達の衣装の着換え場所になっていて、華美な着物が裏を見せて掛けられていたりした。屯(たむろ)している踊子や曲芸師は、それを眺める群集の視線に無関心に稚(おさ)なく動く風であった。脚をおおう白いタイツの膝裏のよごれが、変に肉感をそそった。外套のポケットに手をつっこんだまま私が眺めていると、誰かひそかに横に立つ気配がし、私が振り向くと同時に軽く身体をぶっつけて来た。花子ではないか、と私が驚くと花子はなおも身体をぶっつけて来ながら明るく笑い出した。

「何をぼんやり見てるのよ」

 今日は外套を着ていず、青い上衣を着ていた。唇には可成り濃く紅を入れていたが白日の下でもさほど不自然ではなかった。花子の顔は化粧すれば不自然になるものと私は漠然と思い込んでいたのであったけれども。

 私達は肩を並べて人混みを抜けて駅の方に歩き、近頃出来たらしい喫茶店に入った。甘酒を飲みながらサーカスの話などした。上衣の袖が短くてほっそりした手首が出ていたが、花子はしきりにそれを気にして引っぱるようにした。

「あれからどう暮していたの?」

 話が一寸途切(とぎ)れ、それを埋めるために私は何と無くそう話しかけた。今日は天気が良かったし花子が気持の上で私に倚(よ)りかかって来るように感じられるので、私も明るく和(なご)む気持であった。しかし私がそう聞いた時、花子は瞳を伏せて一寸暗い顔をした。

「どうって、どんな意味なの」

「暮しのことさ」

「暮しは辛いわ。昨目も外套売ったわ」

 外套なんか売らなくても誰か男から金を貰えば良いではないかと、私は言おうとしかけ、花子のはげしい視線にたじろいで口をつぐんだ。花子は真直に私を見ていた。真剣な顔をするときに花子はこんなに美しいのだと、私は胸をつかれるような気がした。

「私をパンパンだと思っているのね」

「そんなこと言いはしないよ」

「しなくても顔に書いてあるわ」花子は卓に身体を寄せて顔を近づけた。「あたしはまだパンパンじゃ無い。でももう食えないからパンパンになるのよ。でも今はまだそうじゃない」

 花子は身体をもむようにして私を見上げた。押え切れないような哀憐の情が俄(にわか)に私の胸にあふれて来たのである。手を伸ばして卓の上の手袋をつけた花子の手に触れた。

「此の間の晩だって、あたしをパンパンだと思うから抱いたんでしょう」

 あの夜の接吻のことを言っているのに違いなかった。私が黙っていると花子は私の指を手の甲で卓に押しつけるようにした。

「私は堕落したくない。ほんとにパンパンになりたくない。どうしたらいいのかしら。ねえ、どうしたらいいの、教えて。お願い」

 身体を硬くして私はじっとしていた。酔っていたせいもあるだろうが、あの接吻のとき私は責任や気持の抵抗を全然感じていなかったのだ。私はパンパンだと言った花子の丹吉での言葉が、私に安々とそんな行動を取らせたことは否めないにしても、花子の脆(もろ)い美しさが私の一方的な愛憐をそそったという外はない。しかし未だ花子が娼婦でないとすれば、あの夜の位置も私の心の中でおのずと変って来る筈であった。花子は手巾(ハンカチ)を出して眼縁[やぶちゃん注:「まぶた」と読んでおく。]を拭いた。しかし私は今此の女に何をしてやれるというのだろう。

「では何故丹吉で自分をそんな風にいったんだね」

「――あなたがたを良い人たちだと思ったの。だからわたしみたいな女が側にすわるのが悪いような気がしたの」

「洋傘をあげたから?」

「でもあの日は私はパンパンになるつもりだった。電柱の下で通る男を呼び止めようと思って待ってたの」

「洋傘を上げたのは僕じゃない。あれは先生だ」

 花子はふと白けた乾いた眼付になって私を見返したが、一寸間を置いて、

「あのとき先生は何故私に洋傘を呉れたの?」

「君が濡れて寒そうだったからさ」

「ひとが濡れてたら先生は誰にでも洋傘をやるの?」

「先生はそういう人なんだよ」

「そうかしら。そんな人もいるのかしら。しかしそれで良いのかしら」

 私が返事をしないでいると、花子は肱(ひじ)を卓について私を睨むようにしながら言った。

「あなたの眼はいい眼ね。あなたもきっと良い人ね」

 何故かは知らないけれど、私は此のとき非常に苦痛に似た感じに胸がふさがって来るような気がした。私は思わず眼を花子から外らしながら、低い声で呟くように言った。

「もし思いに余るようなことがあったら、先生のところに相談に行きなさい。あの人は良い人だ。身体を落さなくても済むように、きっと先生はして呉れると僕は思う」

「私は真面目な仕事につきたいの」

「先生の奥さんは顔があちこち広いという話だから――」先生がそんなことを言っていたような気がするだけで私に確信がある訳ではなかった。だから私は追われるように視線を乱しながら。

 「だから良い仕事があるだろうと僕は思う。きっと幸福になれる――」

 

 君は幸福になれると言ったことが、一時逃れの胡麻化(ごまか)しであったような気がして、花子とその日別れて後からも私は不快であった。そして此のような偽りを口にしなければならぬのも、すべて私の生活の悪さから来ていると私は思うた。嫌悪が二重にかさなった。

 しかし私には良く判らない部分が花子にあったのだ。前二回と異なり、その日は可成親近な感情でいた筈だけれども、別れてあと花子の言葉や動作を思い浮べようとすると何だか嘘のようにまとまりがなく印象が散乱する感じであった。ただ花子が思い詰めたような表情をするときのあのなまなましい感じが、私の肉体を貫くような激しさで私の情感に訴えて来るのであった。(何故あの夜花子は素直に抱かれて私に唇を接して来たのであろう)花子の言葉が本当とすれば、あの夜もまだ花子は男を知らない筈であった。自分を娼婦だと思うからこそ抱いたのだろうと、花子は一寸非難めいたことを口にしたが、唇を許したその気持については彼女は何も触れなかったのだ。判らないままにあの夜の行為に対する償いが、鈍く私の胸をおしつけて来ることを感じていた。現在の生活的な不安もあって、それは取りかえしのつかぬ過失のような気にも時々なったが、私はずるくその気持から逃げていた。

 先生から先日貰った金は既に大半費(つか)い尽したし、新しく金を得るためにはまた何か売るでもしなければならなかった。貫さんは山梨県に二三日泊りで出かけたから、家には私一人だった。先生の処にまた飜訳の仕事を頼みに行こうかと心弱くも考えているうちに先生から葉書が来た。

 近頃どうしているかということ、飜訳の仕事があるから取りに来るようにということが書かれてあった。それを読んだ時、先日丹吉で先生が自分を信じ切れるか否かが人間としての分れ目であるといった言葉を私は思い出した。生活への信念の不足が私を今苦しめていることを考え、そして先生はあのような自分の善意を徹底的に信じているのだろうかと思った。先生の好意や善意を勿論疑う訳ではなかったが、善意を発するに当って先生は全然傷ついていず、傷ついているのはむしろ好意を受けている私であることを考えれば、善意の形式というものをふと訝(いぶか)る気にもなるのであった。そんな先生の善意へたよるように私があの日花子に勧めたことが、私は取りかえしのつかぬ失敗だったような気がした。しかし先生の葉書を黙殺する程の強気にもなれなくて私は出かけて行った。

 傾いた玄関に入って案内を乞うと先生は丹前を着たまま出て来た。近頃どうしてたんだと笑いながら言った。その声を聞くと私は先生に対する反撥が何か跡かたもないもののようにも思われて来るのであった。私も帽子を取って素直に挨拶出来た。

 階段下の三畳の部屋にすわると直ぐ先生が思い出したように言った。

「先日花子が私の家に来たらしいよ」

「お逢いにならなかったのですか」

「僕はいなかった。女房に会ったらしいのだ。何か職につきたいという話だったらしいのだが、どうして僕の処に訪ねて来たんだろう」

 花子にそうしろと言ったことを私は先生に話した。先生の表情は曇っていた。

「女房はそれについて何か誤解しているらしいんだ。花子とどういう応対したのか知らないが、あの女房のことだから少し気になる」

 私は奥さんのことを思い浮べていた。恰幅の良い身体に何時も黒く光る服を着て、顔半分は焼傷[やぶちゃん注:「やけど」と読んでおく。]の痕(あと)で茶色にひきつれていた。そのせいで眼だけがキラキラ光るように思え。戦争に行く前私が知っていた奥さんとは別人のような感じだった。前はおとなしそうな感じの人であった。此の奥さんと花子がどんな会話をしたのかと私は少し心配になって来た。

「四辺が皆燃えてしまって、此の家一軒が燃え残った」先生は両手を拡げて燃え尽きた形容をした。「翌日焼け残った此の家を見たとき俺の家はこんな奇妙な形かと思ったよ。今までは他の家にはさまれて、言わば安心していたんだ。処が周囲が焼けてしまったもんだから、変な形のまま一軒で立って行かねばならなくなったんだね。風にもさらされるしさ。女房の性格が変って来たのが丁度(ちょうど)此の頃からだよ。俄(にわか)に荒々しく烈しくなって来たよ。それまでは僕をたよりにしていたらしいんだが、そのとき以来何か顔の皮をわざと寒い風の方にねじむけて進んで行くような生き方を始めたんだ」

 しゃべっているうちに先生の声は段々沈欝な響きを帯びて来た。

「周囲が燃え熾(さか)って来たとき、もう駄目だと思ったからぼくは逃げようと思ったんだ。無茶苦茶に煙は来るしね。家を守るより生命を守る方が大事だと考えた。煙に巻かれながら、逃げようと僕が叫んだら、女房は必死になって僕にすがりついて来たんだ。家を燃したくないというんだ。家どころの騒ぎかと僕が怒鳴って争っているうちに、焰のために身が熱くなるしさ、どういう具合でそうなったのか覚えていないが、僕は女房を地面に突き倒していた。二三度なぐりつけたようにも思う。そして煙の中を一所懸命奔(はし)って逃げた。――翌朝僕が戻って来たら、まだぶすぶす燻(くすぶ)っている焼跡に、嘘のように僕の家だけが不思議な形をして残っていた。僕は何か言いようのない荒涼たる気持になって玄関の扉をあけたら僕はぎょっとした。顔の半分は焼けただれた女房が片手にしっかり火たたきを握ったまま、じっとうずくまっていたんだ。そして残った方の眼で僕をじろりと見たきり、何にも言わなかった。ほんとに何も言わなかった」

 先生は苦しそうに眼を二三度閉じたりあけたりした。

「その日以来さ、女房が変ったのは。あれが僕を憎んでいるのかどうか僕は知らない。そんなことをあれは何にも言わないのだ。言わないから僕も聞かない」

 うつむいた先生の髪にまじった白い毛が佗しく眼に映った。

「――ぼくは他人に自分を捨てても親切にしようと決心したんだ。善意だけで他人に対しようと思った。贖罪(しょくざい)という気持じゃない。ただ何となくそういう気持になったんだ。それ以外には生きて行く途はない。その日以来毎日僕は自分に言い聞かせつづけて来たんだが……」

 あとの方は独言のような調子に低くなって来た。そしてそのまま黙ってしまった。先生をいたわりたい気持と反撥する気持が私の胸に交錯していて、私は膝を乗り出すようにして言った。

「しかし――先生の善意は、何か無責任な気がします」

「何放?」先生は顔を上げてするどい眼付をした。私は駆られるように口走っていた。[やぶちゃん注:「駆られる」「かられる」。]

「先生の善意は恣意(しい)みたいな気がします。僕は過剰な責任のない善意は、悪意と同じだと思います」

 私の言葉を先生は聞いているのか、先生の表情は堅く動かなかった。暫くして低い声で言った。

「ぼくがかかえてやろうと言うのに、女房はそれを振り切って、半顔は焼けただれたまま自分であるいて病院に行ったんだ。病院に着くまでの道のりを、あれが何を考えて歩いたかと思うと、僕は今でもじっとしていられないような気がして来る――」

 

 飜訳の仕事を先生が私に渡そうとしたとき、私は気持の上からでは絶対に断るつもりでいた。二三度押間答しているうちに先生が、では君は外(ほか)に生活するあてがあるのか、と聞いた。私が答えかねて黙っていると、先生は更に重ねて言った。

「君は何か思い違いをしてやしないか。君が飜訳をやって呉れるので、僕は大変たすかっているのだ」

 先生の頰は少し痙攣(けいれん)し、眼に過剰な光があふれていた。先生は時々こんな表情をする。花子に洋傘をやったときも先生はこんな顔で私を振返ったのだが、私は此のようなときの先生を好きでないのだ。先生の言葉が嘘であることは直感的に頭に来た。それにも拘らず私は気弱く飜訳原文を受取っていた。

 早春の嵐が土埃(つちぼこり)をまいて、焼土の跡をぼうぼうと吹いていた。

 手巾(ハンカチ)で鼻をおさえて道を戻って行く途中、欝屈した気分に堪えかねて私は無意識のうちに歩みをサーカスのある街に向けていた。そして気が付くと私は丹吉の露地に立っていた。胸の中で計算してみると少し位飲む程度の金はまだ持っていた。しかし使い果すと明日から困る金でもあった。ためらう気持を駆るものがあって、立て付けの悪い油障子を私は引きあけた。

 煮込みの鍋をかきまわしていたおやじが、垂れ下った瞼を引っぱり上げてじろりと私を見た。

 卓に倚(よ)って焼酎を傾けているうちに、やがてせき止められていたものが快よく流れ出すような気がした。先生のことも生活のことも、何もかも虚しい別世界を吹く風の音のようであった。焼酎が咽喉(のど)を流れ落ちる熱感だけを、私はむさぼるように欲しつづけた。肩を椅子の背に落し、何杯もコップを重ね、煮込みの堅い肉を奥歯で嚙んだ。汚れた壁に張られたポスタアの女を見ていると突然花子のことが私の胸に浮んで来た。調理台のむこうにつくねんとしているおやじに私は話しかけた。

「花子は近頃来るかね」

「二三日前来たよ」そっけ無い調子でおやじが答えた。

「何か言ってたかい」

「何も特別言いやしないけれど、焼酎を沢山飲んで、その揚句泣いたよ」

「泣いたって、何故だろう」

 泣いていたという言葉を聞いただけで、花子のあの思い詰めた表情の美しさが私の眼底にきらめき渡るような気がし、私は胸がつまるような心特がした。酔いの感傷であるとも思ったが、私は半ば身体をおやじの方に向け、むしろなじるような調子で詰め寄って行った。

「何故だろう。何故泣いたりしたんだろう」

「職を頼みに行って断られたからだよ」

 おやじの断片的な言葉をいろいろ追窮して、大体私は想像出来た。あれから花子は奥さんに逢ったのだ。そして奥さんから逆に、何処で先生と知合ったのか、今何を職業にしているかということなどを問い詰められて、あるいはその揚句(あげく)面罵に近い応接を受けたのに違いなかった。

「こう言ってたよ。職業は何だいとしつこく聞くから、パンパンだいと言ってやった」

 奥さんの冷たい視線が、ぎょっとする程鮮かに脳裏に浮び上って来た。

 私はそれからまたコップを重ねて行った。或いは金が足りないとも思ったが、足りないときはそのときだと思った。そんなことは気にならなかった。何もかもむなしかった。軍隊に行っていた六年の空白が私に重く今のしかかって来た。すべての昏迷はそこから始まっていると思った。先生の心持も私には判っているようで何ひとつ判らなかった。先生のことだけではなく、何もかも自分の心ですら私には判らなかった。ただ花子と始めて逢ったときに見た焼跡の巨大な虹のことを思い浮べていた。七色に輝きわたり、それは奇怪な夢のように非現実的な美しさであった。針のように鋭く焼け細った電柱の下から、魚眼のように瞳の離れた花子の顔が、淡青の夕空を背景にして迫って来たのだ。酔い痴(し)れた頭の中で私は全生活をなげうってもあの美しさを捕えたかった。あんな壮大な虹でさえ五分も経てば跡かたも無くなるように、花子のあの美しさも男達を知って行けば束の間に頽(くず)れて行くに違いなかった。私は溺れて行けるものがほしかったのだ。それが幻のように虚妄なものであっても私は溺れてしまいたかった。そして溺れ沈んで行くところから、も一度始めてみたかったのだ。私は肱(ひじ)をつき軀(からだ)を卓にもたせながら、意味の無い饒舌(じょうぜつ)をおやじと交していた。

「おやじ。俺をこの店で雇って呉れ」

 どうせ闇物資を集めて商売しているのだろうから、それを集める係りになってやるから歩合を寄越(よこ)せ、と半ば本気で私はしつこくおやじに食いさがっているうちに、その後のことは茫として記億がなくなった。丹吉を何時出たのか判らないが、私は冷たい雨に全身を打たれながら暗い街をさまよいあるいたような気がする。花子の名などを連呼しながら歩いたような気がするが、それも定かでない。眼が覚めたら外套を着たまま私は自分の部屋の寝床に寝ていた。

 

 飜訳原書を紛失しはしなかったかと、そのことがしびれたような頭に先ず来て、あわてて私は起き上り身体を探った。内ポケットの中にそれは曲って入っていた。一先ず安心ではあったが有金は殆ど無くしていて、小額の紙幣が三四枚外套のポケットに入っているきりであった。丹吉への払いも足りなかったのかも知れないと思った。

 井戸端で顔を洗っていると、貫さんも起きてやって来た。貫さんの口から白い歯磨粉がはらはらと散った。

「どうしたね。昨夜はずいぶん酔ってたようだが」

「御馳走になったんだよ」と私は嘘をついた。そしてそのことで直ぐ不快になった。貫さんにも金を借りたり世話になったりしているから、自分の金で飲んだなどとは言えなかったのだ。顔を洗い終ると貫さんは今から小田原に蜜柑を買いに行くのだと言った。

「どうだね。一緒に行かないかね」

 何気なく貫さんが言った言葉だけれど、何か強く私の気持を引いた。すがるように私は返事していた。

「蜜柑をどの位背負うんだね」

「さあ、十貫目位かな」貫さんは私の身体を計るように上から下へ眺めながら、「大体そんなもんだな」

「捌(さば)くルートはあるのかい」

「そりゃあるさ」明るく笑いながら、「しかし君は止したがいいな。金は儲かるけれどこんな仕事はやるもんじゃない」

 身仕度して貫さんが出かけるとき、私が玄関に立っていたら貫さんは懐から大きな紙幣を出して私の手に握らせた。

「いいんだよ、そんなこと」と私は拒みながらも、自分の顔が硬(こわ)ばってくるのを感じた。そして押しつけられるまま、それを受取ってしまっていた。

 風邪を引いたらしく鼻の奥が痛かった。昨夜の雨は止んでいたが、鉛色の雲が低く垂れていて部屋は暗かった。午後になっても天気ははっきりしなかった。洋傘は無いから出かけるのは止そうかと思ったが、暗い部屋にじっとしているのは厭で、私は原書を持って玄関を出て行った。

 灰色の空の下に押し潰されたような巷(ちまた)から巷へ私はあてもなく歩いていた。そのうちに自然にサーカスのある一郭の方に足が向いていた。此の間のように、サーカスのところで偶然花子に逢うことを、私は知らず知らずのうちに予期しているのではないか。此のことが私を少し狼狽させた。花子に逢ってどうしようというのだろう。逢ってもまたすぐ別れるだけに過ぎない。花子に逢っても私は救われはしない。

 広い道を青色の頑丈なトラックが何台もつづけて通った。トラックには沢山人が乗っていて、揺れるたびに楽しそうに笑いさざめいていた。あれは何処かの使役に従事する人夫である。笑いながら行人に掌を振り、そして次々遠ざかって行った。皆健康そうに見えた。そのことが痛く私の胸に響いて来た。私はうなだれて歩きながら、歩を先生の家に向けた。

 玄関に立つと暫くして奥さんが出て来た。

「いないんですよ、先刻ひとりで出かけたんです」

 暗い玄関に斜にすわって、奥さんは妖しく光る眼で私を睨むようにした。

「それじゃ丹吉かも知れない」

「丹吉というのは何です?」

 黒天鷲絨(くろビロード)の洋服の裾が畳に触れてさやさやと鳴った。奥さんは立て膝になって、障子の桟(さん)につかまり身体を前ににじった。私は外套のポケットから原書を取り出した。しんみりと言った。

「これをお返しにあがったのです」

 奥さんはそれを受取ろうとはせず、じっと私の顔を見つめた。半顔が醜くひきつれて、その癖少し開いた頸(くび)から胸にかけては嘘のように滑らかだった。ガスマスクをかけたようだ。その残酷な聯想をいそいで断ち切ると、私は原書を上(あが)り框(かまち)のはしに置いた。

「失礼致します。暫く来れないかも知れませんが先生によろしく」

 咽喉(のど)に魚の鱗(うろこ)が貼りついたようで、言葉がうまく出なかった。お辞儀をして表に飛び出した。

 焼跡を歩きながら、私は何故となく先生は不幸だと思った。私も不幸だけれど、私の不幸は身体を一廻転ころがしさえすれば消えてなくなるようなものに違いない気がした。先生は墓穴に入るまで営々と何物かを引きずって行かねばならぬのであろう。あの女に花子という名をつけたのは先生である。昔知合いであった女に似ているんだと先生は言ったが、或いはその女の名が花子では無かったのか。知合いというのも何かぼやけている。先生が今不幸であるとすれば、その因のひとつが其処らにあるのかも知れない。

 風が少し立ちそめて、鉛色に低く垂れ下った雲がねじくれて北の方に動いて行く。錆びついた水道栓や崩れた石燈籠を見ながら行くと、道が曲る処のある廃電柱の下にぼんやり立っている人影が眼に映じて来た。何か予感めいたものに打たれて思わず足を早めて近づくと、うなだれていた人影は突然頭を上げた。それは奇妙な程的中した予感であった。電柱に背をもたせて首を反らしたその女は、紛(まぎ)れもなく花子だった。その顔はびっくりする程蒼白い癖に、唇はどぎつく真紅であった。

「ああ、あなたなのね」

 細くかすれた声であった。花子の瞳は不安気にちらちらと動いたが、私は喜びが俄(にわか)に湧き上って来るのを感じた。

「今日は何だか君に逢えるかと思っていたんだ」

「あなたも風邪を引いているのね」暫くして花子が言った。そう言えば花子は咽喉に白い布を巻いていた。

「此処で何をしているんだね」

「通る人を待ってるのよ」

 そう言いながら花子は幽(かす)かにあえいだ。何だかひどく苦しそうだった。まつ毛を伏せて私に背を向けようとする風情だった。私は片手を花子の肩に置いた。

「こんな処にいると風邪はますますひどくなるよ。丹吉に行ってあたたかいものでも食べよう」

 花子は肩に置かれた私の手から逃れようとするような身体のこなしを見せたが、思い直したように顔を私に向け、子供のように稚(おさ)なく素直にうなずいた。そして私達は歩き出した。風が正面から吹いて来るので、やがてジンタの旋律が乱れながら聞えて来た。丹吉に行けば先生がいるかも知れないということが意識にひらめいたが、それがどんな意味を持つのか判らなかった。会えば飜訳のことわりを言わねばならないと思った。花子と手を触れ合ったまま、丹吉の前まで来た。油障子の破れからのぞくと果して先生の半白の頭が見えた。何故か判らないが私はそのときほっとした感じを持ったことを記憶している。

 油障子を引きあげる音に先生は振返ったが、私を認めてあの柔かい眼でわらいかけた。

「君か。よく来たな。おやや」

 私の後から入った花子に先生の視線は固定して動かなかった。

 同じ卓について私も焼酎のコップをしきりに傾けた。昨夜の酔いが戻って来るのか、廻りが極めて早いように思われた。花子も黙って焼酎を飲んだ。蒼かった顔に赤味がさして来るのがほのぼのと美しかった。先生が言った。

「昨日君は、僕の善意は悪意と同じだといったな。あれはどういう意味なんだ」

「それはですね、先生」私は酔いが心を大胆にするのを感じながら、「悪意だとは言いませんよ。ただ無責任な感じがすると言っただけです」

「責任は持っているよ。しかし善意というものはもともと無責任なものだ」

「例えば、先生はこのひとに――」私は花子に一寸顔を向けた。「洋傘をやったでしょう。ところが洋傘をやったからといって此のひとは幸福にはなれなかった――」

「そうだ、あれは君の洋傘だった」

「洋傘が惜しいんじゃありません。僕が残念なのは、先生は洋傘をやってしまって、もう安心している。何にも傷ついていない。先生。本当の善意というものは、それを行使する人は必ず傷ついたり、又は犠牲を払ったりするものじゃないでしょうか?」

 先生は少しわらった。

「僕はだね、雨に濡れた弱そうな娘さんがいる。そして此処には洋傘がある。僕が持つより此の娘さんが持つべきだと思ったときには、ためらうことなく洋傘を渡すべきだと自分に言い聞かせるんだ。それだけでいいじゃないか。ひねって考えちゃいけない」

「しかし――洋傘を要らないときには、それはどうなるんです」

「それは貰う方で断ればいいんだ。簡単だよ」

「先生」と私は呼びかけた。「私は先生の好意はほんとに有難いと思うんです。けれどあの飜訳の仕事をつづけて行くことは何か辛抱出来ないのです」

「ではどうして生活して行くんだね」先生の言い方は急に沈んだように思われた。

「何でもやろうと思っているんです」

「――闇でもやるかね」

「闇屋にはなりません」私は胸がつまって来るのを感じながら、そのとき、先刻、曇天の街をタイヤの音を響かせて疾走して行ったトラックの人々の姿が突然胸に浮び上って来たのである。

「私は力仕事でも何でもやります。自分の力で食って行ける生活をやります」

「今だって自分の力で食っているじゃないか。君には力仕事は向かないよ。きっと又僕の処に戻って来るよ」

 私は瞼が熱くなるような気がした。先生はコップを傾けてこくこくと飲んだ。くずれそうになる意識を鞭打ちながら、私が更に言葉をつごうとしたとき風が油障子に当るのか、がたがたと鳴り、そしてそれは鳴り止まず、かぼそく軋みながら五寸程引きあけられた。黒い人の姿が夕暮を背にして影のように立った。お客かと私が目を凝らしかけたとたん、その人影は冷たい声で叫んだ。

「あなた!」

 先生は直ぐ声に応じるように首を振りむけた。入口に立ったのは先生の奥さんだった。

「あなた。まだ飲んでいらっしゃるの? まだお帰りにならないの」

「もう暫くしたら帰る」

 奥さんは店の内をずっと見廻す風だった。身体を硬くして私は卓の上のコップを握っていた。

「ああ、あの女もいるのね。そのひとは誰?」

「僕の知合いだよ」と先生は落着いた声で言った。

「あなたはその人に花子という名前をつけてやったのね。此の間その人が来たとき聞いたわ」

 先生は黙っていた。

「似ているわ」奥さんの声は少しずつ高くなって行った。「似てるわ。ほんとに花子さんに似てるわ。そっくりだわ」

 そして奥さんは甲高い声で笑い出した。

「お前はお帰り。僕もすぐ戻る」

 先生のそういう言葉を聞いたのか、奥さんの姿は突然のように外に消えた。そして発作的な笑い声がそのまま続きながら遠ざかった。先生は卓に向きなおった。コップを持つ指がぶるぶると慄えた。私は痛いような気持で、全身の神経を横にいる花子に集めていた。奥さんの笑い声が聞えなくなっても、花子は慄えが止まなかった。そして立ち上った。顔の色は水に濡れたような不思議な艶でひかっていた。卓を二三歩離れ、花子は眇(すがめ)のように瞳を寄せた。

「私はお別れするわ」低いしゃがれた声で言った。「やはりお別れするわ。でもあなた方は良い人ね。きっと良い人ね。一生忘れないわ。先生。奥様におわびしといてね。私がきっと悪かったんだわ」

「君は悪くない」と私は思わず叫んだ。

 先生は黙然としてコップを口に運んだ。眼を閉じているので、眼窩(がんか)が急に落ち窪んだ感じであった。コップを卓に置き、そして眼を開いた。懐に手を入れて紙幣を四五枚摑み出した。

「君は悪いんじゃないよ。誰も悪い人はいやしない。ここにこれだけある。これを持ってお行き。真面目な生き方をするんだよ。口紅など濃くつけちゃ駄目だよ」

 花子は片手をあげて唇をかくした。そして先生が差出した紙幣に迷ったような視線を落した。花子は僅か身体を悶えるように動かしたが、すぐ手を伸ばして紙幣をつかんだ。その指の爪が黒く汚れて伸びているのを私は見た。

「貰っとこっと」

 急に荒んだぞんざいな調子で花子は言った。そして私に視線をちらっとうつすと、そのまま土間を踏んであけ放たれた油障子から出て行った。私を見たときの眼は燃えるように烈しかった。私はじっと堪え、椅子から動かなかった。急に四辺がしんと静かになった。私も黙ってコップを取り上げた。胸に動悸が烈しかった。強い液体が咽喉(のど)をすベり落ちる。沈黙が堪え難かった。それを埋めるために、私は頭に浮んだ事象を脈絡なく捕えて言葉にしようとした。

「先生」と私は呼びかけた。「此の間のサーカス見たときですね。少女たちが皆一所懸命やっていたでしょう。あれを眺めていて、ぼくは自分の現在が厭になったんです」

「判っている、判っている」

 先生は大きくうなずいたが、私の言ったことは全然聞いていない様子だった。風の音が窓や表でした。何とか先生をいたわりたいという気持と、離れて行きたいという気持が入り乱れて、私が何か更にしゃべろうとしたとき、表からまた人影が跫音もなく入って来て土間に立ったのだ。それは花子であった。私はぎょっとした。

 花子は蠟(ろう)のように血の気を失った頰に、ふしぎな美しい微笑を浮べていた。その瞳は大きく見開かれているにも拘らず何にも見ていないようだった。もつれるような足どりで卓の方に近づいて来た。

「これはいただけないのよ」ぼんやりした取り止めもない調子だった。「あたしはねえ、一緒に寝た人からはお金は貰うけれど、何もしないのにお情は頂かないわ」

 花子の指から何枚かの紙幣が卓の上にはらはら落ちた。先生はうつむいたまま黙って焼酎を口に含んだ。その顔をじっと花子は眺めていたが、急にぎらぎら輝く眼になって、先生の身体によりそうように身体をぶっつけて来た。先生の身体は小さな椅子の上でふらふら揺れ、私の身体にも触れ響いて来た。

「先生」花子は烈しく口を開いた。「先生。私と一緒に行って、おねがい。私をどうにかして。私を救って。先生。先生」

 先生はコップを卓に置くと濁った眼を上げた。そして掌で花子の肉体を押し戻すように支えた。

「どうにかするって、どうするんだ」

 その声があまり苦しそうだったので、花子はぎょっとしたように先生から離れ、土間に立ちすくんだ。肩から腰ヘの線が着付けの具合か妙に見すぼらしく見えた。両手を下に垂れたまま、暫くして花子の顔に、冷たいあの謎のような微笑が泡に似て浮び上って来たのである。あのサーカスの銀線上の女が浮べた笑い方と全く同じだった。それは自分の意志に反して、強いられて嬌羞(きょうしゅう)に赴く瞬間の女の哀しい顔であった。湯のように生暖い涙が思わず私の瞼のうらにあふれて来た。[やぶちゃん注:「嬌羞」女の艶(なま)めかしい恥じらい。]

「私の部屋に来て――」花子は大きくあえいだ。「私と一緒に寝て」

 先生はふるえる指で眼鏡を押し上げた。花子の視線からしきりに眼を外(そ)らしながら、

「それは僕には出来ない。あんな女だけれど僕には女房なんだ。女房がいるのに僕はそんな真似はしない」

 花子のあえぐような息遣いが烈しくなって来たと思ったら急に両掌で顔一ぱいをおおった。おおったまま小走りに土間を馳け、油障子に身体をぶっつけた。障子はばさばさと音立てた。身体をはすにして花子はよろめきながら表に見えなくなった。風がひとしきりそこに吹きつけた。コップをぐっとあおると先生の指は伸びて卓の端に触れた。

「これで、君、新しく洋傘を買い給え」四五枚の紙幣が酒に濡れた台を辷(すべ)って私の方に押しやられた。

「洋傘は要りません。雨が降ったら濡れて歩きます」

 押し戻そうとする私の掌が先生の指にからまり、一二枚、卓から土間へ落ち散った。先生の指は小魚の腹のように慄えているのが判った。[やぶちゃん注:「一二枚」は行末で、読点を補った。]

「先生」私は胸が一ぱいになるような気がして思わず詰寄った。

「何故花子を救ってやらないのですか」

 先生は大きく見開いた眼で私を見つめた。その眼は乾いたばさばさの眼だった。

「僕にはあの女を救う方法が判らない」

「先生。あなたは一緒に行かなかった。自分が不幸になるのが厭なんでしょう」

「君が――」射すくめるような強い眼付になって先生は大声を出した。「君が行って、一緒に寝てやり給え」

 私は思わず立ち上っていた。その瞬間私がはっきり感じ取っていたことは、先生のあの放恣に見える善意ですらも、超え難い限界を持っているということだった。そしてその限界を超えなければ、本当の幸福はあり得ないということであった。壁のこちらで足踏みしていることが、すベての人々の不幸の因であることであった。そのとき始めて私は、此の壁を乗り超え、たといそこが奈落であろうとも悔ゆることなく落ちて行く勇気が、胸の中に湧き上って来るのを感じていた。私は手を伸ばして紙幣を摑んだ。酒に濡れて重かった。

「洋傘を買うんじゃありません。しかし此の金は頂いて置きます」

 いいともと先生は言ったらしい。がそれを後に聞き流して私は歩き出した。酔いのせいか土間が靴の下でぐにゃぐにゃと柔かい気がした。閾(しきい)を越えると薄明の道が拡がった。外套の裾を風がひるがえす。花子はきっとあの電柱の下に行ったに違いない。それは酔った私の心を摑んだ確信であった。熱くほてった顔の皮を吹き去る風の冷たさを次第に快よく感じながら、私は凸凹道を一歩一歩と段々走るように歩調を早めて行った。

 

[やぶちゃん注:私は本作を梅崎春生が書くに当たって思い当たる幾つかの知られた作家の先行作品が素材として用いられている感を強く持つが、何より、その最も確信犯のアイロニカルなそれは――夏目漱石の「こゝろ」である――ことは疑いようがない。]

2021/01/26

今さっき、ブログ・アクセスが百四十九万を超えた

しかし、少し、疲れた。記念テクストは明日で――悪しからず……

芥川龍之介書簡抄5 / 明治四四(一九一一)年書簡より(1) 山本喜譽司宛三通

 

明治四四(一九一一)年二月九日・消印十二日・本所區相生町三丁目六番地 山本喜譽司宛・署名「SATYRS」(葉書)

 

やつと引越し候 まだ何となく落ちつかず新居のさびしさ身にしみ申候

昨夜裏町へ買物にゆき候所尺八をふくめくらの若き女に逢ひ候 娼家に招かれて暮しをたつる由聞及びし女に候

あの ‘Still sad music of humanity’ の句偲ばれ候

皆々樣へよろしく願上候

    二月九日夜

 

[やぶちゃん注:本書簡時は未だ十八歳(以下の二書簡も三月一日よりも前と推定されるので、同じい)。芥川龍之介は自死する直前まで、こうした苦界や、その周縁に生きねばならぬ女たちへの哀憐の情を、終始、忘れなかった。

「やつと引越し候」既に述べた通り、芥川家は、新宿の龍之介の実父新原敏三所有の、耕牧舎の脇にある一軒家を借り受けて、前年の秋に転居したのであるが、先の私の注で示した通り、まず、十月に龍之介と伯母芥川フキが移って、翌年の二月頃までに養父母道章・トモも移って芥川家の転居が終わったとする説を紹介した。この記述はまさにそれを自然な形で裏打ちしている内容と読めるのである。則ち、この「やつと」とは、芥川家主人たる養父道章と養母トモが、晴れて転居を終え、「やつと總ての芥川家引つ越しの萬端終はり候ふ」と言うのであると、とる。決して、引っ越したばかりだったから、「まだ何となく落ちつかず新居のさびしさ身にしみ」ると、かこちているのでは――ない――のである。恐らくは――もう私はこちらに移って四ヶ月ほども過ぎたけれども、幼き日より馴染んできた懐かしき本所、愛する貴兄(山本)のいる本所に憧憬(あくが)れておればこそ、「まだ何となく落ちつかず」、海の潮の匂いの代わりに、牛の臭いが一日中する馴染めぬ牧場の片端の「新居のさびしさ」がひどく「身にしみ」る――と言っているのである。ちょっとした部分にも、自分の精神史の故郷である本所への哀惜と、山本への懸恋(けんれん)のニュアンスが染み出ているのを、私は、決して見逃してはならないと感ずるのである。

「SATYRS」先の書信で龍之介が山本を「あぽろの君」と呼んだことを覚えておられよう。それに応じて、一方の秘密の自らの称を、ギリシア神話に登場する半人半獣の自然の豊穣の化身或いは欲情の塊りたるところの精霊「サテュロス」(ラテン語:Satyrus/英語:Satyr)としたのである。次の書簡で、それが書信の中で語られてある。これは、かなり強烈な自称と言える。因みに、古い文献では「サテュロス」の名はギリシア語の「男根」に由来するとする説は複数あるそうである。

「Still sad music of humanity」正しくは「The still, sad music of humanity」(「人間の静かで、悲しい音楽」)イギリスを代表するロマン派詩人ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth 一七七〇年~一八五〇年)の記念すべき最初期の詩篇「ティンターン修道院」(Tintern Abbey :正ししくは「Lines Written a Few Miles above Tintern Abbey」・一七九八年作)の第九十一節に現われる詩句。同詩篇については、藪下卓郎氏の論文「自意識の功罪:ワーズワスの『ティンタン・アビー』鑑賞」京都大学教養部英語教室発行『英文学評論』(一九八七年三月・PDFダウン・ロード可能)がよい。]

 

 

明治四四(一九一一)年十四日(年月推定)・山本喜譽司宛

 

此頃僕は吉井勇氏が大好きになつた 角筈のうちへ行きたくつて仕方がない えらいとはちつとも思はないがなつかしい人だと思ふ 夢介と僧のモノログなんぞはまつたくうれしい 一昨日丸善へ行つたらシラノドベルジユラツクがあつた 安さうな本だつたが外に欲しいのがあつたので止めちやつた

其内によみたいと思つてる

此間クラス會があつて文科十傑の投票をしたら僕はハイカラの次點に當選したさうしてバンカラ次點にも當選した 寬嚴中を得てると大にわらはれた こんな馬鹿々々しい調子だから一高生活を嫌ふのも無理がないぢやないか

一高でいいのはかーみーゆーいーどーこだけだ、第一五錢である 其上におーやーかーたが大の相撲好で相撲の話さへしてゐれば頭が痛くなる迄髮をきつてくれる

雨がまだふつてる あした道が惡くつて悲觀だなと思ふ 君のうちの石が皆濡れて滑なつやを見せてゐるなと思ふ

こんな事を考へながら□[やぶちゃん注:底本の判読不能記号。]にてると急に逢ひたくなつた

逢ひたくなつたつて笑つちやあいけないさきおとゝひの晩も夜中に急に君が隅にねてるやうな氣がして手をのばして椅子の足をつかまへた

自分でも可笑しくなる 隨分な馬鹿だらう

これから手紙の名をかくときは本名をかくのはよさう 封筒だけは仕方がないけれど

君は APOLLO でいい僕は SATYR する

  十四日夜   柏の森にすめる SATYR

 APOLLO THE BEAUTIFUL 君ヘ

 

[やぶちゃん注:同じく旧全集からであるが、本書簡は他の印刷物からの転載である旨の注記がある。

「吉井勇氏が大好きになつた」「芥川龍之介書簡抄4 / 明治四三(一九一〇)年書簡より(3)山本喜譽司宛五通」参照。

「角筈」「つのはず」。吉井勇の父である海軍軍人・貴族院議員であった吉井幸蔵の家は、東京淀橋角筈(現在の新宿区西新宿・歌舞伎町・新宿の一部に相当)にあり、芥川家の新居に近かった。

「夢介と僧」吉井勇の戯曲「夢介と僧と」(『三田文学』明治四三(一九一〇)年十二月発表)。岩波文庫「芥川龍之介書簡集」の石割透氏の注に、同年『十一月自由劇場第三回試演として上演され、戯曲集『午後三時』(一九一一年)に収録』されたとある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像の原本(東雲堂刊)のここから同作品が読める。

「シラノドベルジユラツク」フランスの劇作家エドモン・ウジェーヌ・アレクシ・ロスタン(Edmond Eugène Alexis Rostand 一八六八年~一九一八年)の代表作「シラノ・ド・ベルジュラック」(Cyrano de Bergerac:五幕)。十七世紀フランスに実在した自由思想家シラノ・ド・ベルジュラックを、鼻が大きく醜男だが、才気煥発で無双の剣客に仕立てて、彼の恋するロクサーヌへの報われぬそれを中心に、史実と虚構を織り交ぜた擬古典的韻文劇。自然主義を脱しようとする新ロマン主義と理想主義に基づき、安易乍ら巧妙な劇作法が当時のパリで熱狂的に迎えられた。剣豪作家シラノ・ド・ベルジュラックを主人公とするもので、初演は、シラノ没後二百四十二年に当たる一八九七年で、ポルト・サン=マルタン座(Théâtre de la Porte Saint-Martin)の十二月二十八日の初日から実に五百日間、四百回を打ち続け、パリ中を興奮させたと伝えられ、以降、今日に至るまで、フランスばかりでなく、世界各国で繰り返し、上演されている。本作はフランスの「ベル・エポック」(Belle Époque:「良き時代」)と呼ばれた時代を象徴する大女優として知られるサラ・ベルナール(Sarah Bernhardt 一八四四年~一九二三年)を介して知った男優コンスタン・コクラン(Coquelin aîné)の依頼で書かれたものであった。

「寬嚴中を得たる」寛大なことと、厳格なことの、見事な中庸を得ている。

「かーみーゆーいーどーこ」髪結い床。床屋。以下ともに長音符は単なる文字遊びであろう。

「第一五錢である」「第一、五錢である」。

「おーやーかーた」親方。男主人。

「柏の森」耕牧舎の田舎染みた風景をカリカチャライズしたもの。]

 

 

明治四四(一九一一)年二月二十五日・山本喜譽司宛(封筒訣)

 

 BEFORE THE CURTAIN RISES.

    APOLLO THE BEAUTIFUL. に捧ぐ、

 

黄昏のしみじみ寒い桔梗色の羽織に

幕-合の木の鳴る音ぞうれしけれ

 

  Kachi と鳴りまた Kachi と鳴る

  緞帳に散る金と赤こそうれしけれ

 

棧敷の外には ほのかなる酒の香にほひ

曇りたる Door の硝子をへだてゝ

うす青き 雪の反射ぞいたましや

 

  Kachi と鳴りまた Kachi と鳴る

  幕-合の拍-子-木の音ぞうれしけれ

 

番附をのせた右の手の白さ

濡色の桃割れに銀釵(ぎんかん)が冷たそに

橫顏の頰のえ-みこそなつかしや

 

  Kachi と鳴りまた Kachi と鳴る

  幕-合の拍子木の音(ネ)ぞうれしけれ

 

あゝ赤が散る 金が散る また靑が散る

さゞめきの銀の乱れに紺がちる

靜なる幕のゆらぎぞ美しや

 

  Sha, Sha, Shan また tin, tin, tiun, shan

  二上りの下座の三味こそうれしけれ

          (一九一一年二月二十五日)

君の夢の話の奥に Some thing のあるを見候 もつと詳しく話していたゞきたく候 何となく不安心のやうな氣がいたし候

皆の歸つた跡はさびしきものに候 君のかへつた跡はさびしきものに候 戀しき人の去りたる後に “I love you, Do you Pardon me ? ” とつぶやける アムステルダムの少年詩人を思浮べ候

   蒼褪めし心の上に雨をきく、雨のひゞきのかなしさをきく

   冬の雨のひゞきをきけば淚流るゝ かなしかりけりかなしかりけり

   此淋しさ何とてたへむ□□□□□□□故に□□□得ざれば

[やぶちゃん注:三行目の判読不能部分は底本ではそれぞれ長方形で配されてある。推定で字数分を置いた。]

その少年詩人のやうに僕もつぶやくべく候 Do you Pardon me ?

          新宿の森なる   Satyr.

 

[やぶちゃん注:標題と添辞の後を恣意的に一行空けた。この前の来信に書かれていた山本の見たという夢が――知りたい。

「BEFORE THE CURTAIN RISES.」「幕開きの前に」。

「二上り」「にあがり」は三味線の調弦法の一つ。本調子を基準にして第二弦を一全音(長二度)高くしたもので、派手で陽気な気分や、田舎風を表わすもの。

「Do you Pardon me ?」「私を許して呉れませんか?」。]

奥州ばなし 與四郞

 

     與四郞

 

 柴田郡與倉村の内、宿といふ所の百姓に、與四郞と云者、有し。生付《うまれつき》、氣丈にて、力つよく、齒などの勝《すぐれ》て達者なることは、近鄕にたぐひなく、殼(から)くるみを、やすく、かみわりしとぞ。

 寬政年中[やぶちゃん注:一七八九年~一八〇一年。]のことなりし。十一月末に、病狼《びやうらう》、荒《あれ》て、宿の町の者ども、數人《すにん》、あやめられしこと、有き。

 其頃、與四郞、外へ夜ばなしに行て、九頃[やぶちゃん注:午前零時前後。]、歸るに、をりふし眞の闇にて有し。何心もなく、小哥《こうた》にて步行《ありき》するうしろより、狼《おほかみ》、出《いで》て、こむらを、くひたり。ハツト思ひ、ふりむく内、乳《ち》の下を食《くひ》、又、飛越《とびこえ》て、あばらをくひし時、狼とは、心づきたり。

「やれ、與四郞は、狼にくはるゝぞや。誰《た》ぞ、出《いで》て、たすけよ、たすけよ。」

と、聲かぎりによばはりしかども、夜ふけといひ、たまたま聞付《ききつけ》し人有《あり》ても、おそろしさに、耳つぶしなどして、出《いで》あはざりき。

 狼は、すきまなく、前後・左右より、とびつき、とびつき、食《くふ》こと、數所なり。

『とても、たすかる身にあらず。かたきばかりは、とらんずものを。』

と、をたけびして、とりあヘども、闇夜のことなり、狼は、つばさを得たるが如く、とびのき、飛つき、くらひつくに、棒一本だに、もたざれば、手にて拂へば、すぐに、くはれ、足もてふめば、又、くひつかれ、せんかたなし。

 くはれながらも、引敷《ひきしき》、引敷、足を、おしをりしが、三本まで、をりたれど、壱本にても、飛ぶこと、やまず。

 漸《やうやう》壱本なる足を取し時、をとがひへ食《くひ》つかれしを、兩手にて引はなせば、我《わが》肉まゝ、はなれし時、狼[やぶちゃん注:「が」或いは「の」を添えたい。]のんどに、與四郞、食付《くひつき》て、つひに、のんどの皮をくひやぶりて、かたきをば、とりつれど、惣身《さうしん》、血しほにまぶれながら、其あたりの戶をたゝき、

「狼は、仕とめつれば、氣づかひなし。明けよ、明けよ。」

と、たゝきしかば、漸、明《あけ》たる所に入《いり》て、かいほうに逢《あひ》、夜の明《あく》るを待《まち》て、長町と云《いふ》所に、狼に食れし者のみ、療治する醫の有《ある》もとに行て、疵口をあらためしに、四十八所、有しとぞ。

 醫の曰、

「かほど、くはれし人を、見しことなし。數所の内には、急所にかゝりし所もあれば、療治、屆《とどく》やいなや、うけ合《あひ》がたけれど、先《まづ》、こゝろみん。」

とて、とりかゝる。

 その療治の仕方は、狼にくはれし所をくりぬきて、疵口へ、もぐさをねぢ込《こみ》、灸を、度々《たびたび》、すゆることのよし。

 四十八所の疵口へ、十分に灸をせし内、與四郞は、少しもひるめる色なく、こらへて有しとぞ。

 醫師は、おもふほど、療治をして、この氣丈を感じ、

「いまゝで、數人、療治をせしに、只、一、二所の疵にさへ、人參をのませて療ずるに、氣絕せぬ者は、すくなし。五十におよぶ疵口をりやうずる内、かほど、たしかにて有しは、前後に稀なる氣丈もの。」

と、ほめしとぞ。

「犬毒《けんどく》は、のきたれば、よし。是よりは、きんもつ、大切なり。第一、ます・雉子・小豆の餠なり。この外、油のつよきものは、皆、いむべし。」

と、いはれて、

「私ことは下戶にて、小豆餠、ことに好《すき》なり。これを、いむことにては、生《いき》たるかひ、なし。今迄の如く、灸を又一ペんすゑ直さば、早束《さつそく》より、何を食しても、よからんか。」

と、問ひしとぞ。

 醫の曰、

「いや、さやうにやきしとて、きんもつなしに、よきことは、なし。先々《まづまづ》、かへれ。」

とて、歸しけるに、正月もちかし、三十日にもたらぬうち、「もちつき」成《なり》しに、與四郞、こたへず、小豆餠、したゝか、食せしが、少しもさはらざりしとぞ。

 もろこしの關羽が、矢疵を療治せしにも、おとるまじ。珍らしき豪傑なり。

 雄子・ますなども、ほしきまゝに食《くひ》しが、眼《まなこ》くらく成《なり》しかば、

「めくらになりては、せんなし。」

とて、後《のち》は、くはざりしとぞ。

 文化九年[やぶちゃん注:一八一二年。]の頃、五十二才なりしが、達者にて有しと、きゝし。

 同じ寬政の頃のことなり。與四郞、くはれて、五、六年過《すぎ》て、また、狼の荒るゝといふこと有しに、同じ村に劍術をたしなみし百姓有《あり》て、狼を切《きる》法を、つたへられて、一度、ためし見たく、内心に願《ねがひ》ゐたり。【狼を切には、左の手を出してゆけば、それを食つかんと來る時、手を引てきれば、見事にきらるゝと敎られしとぞ。】

 親類内にふるまひ有て、夫婦づれにて出《いで》しこと有しに、家人は、

「かならず、はやく日の暮ぬうちに、かへれ。」

とは云《いひ》つけやりしに、妻は、ことにおそれて、先方をも、はやく仕廻《しまはし》て、七ツ時分[やぶちゃん注:午後四時前後。]、歸《かへり》しに、遠く、狼のかたちを見かけしかば、いよいよ、道をいそぎて家に入《いり》たり。

 夫は、直《ただち》に、わきざしをさして、門を出《いづ》るを、妻、とゞめて、

「けが、あやうし。」

といふを、

「多年ねがひしこと故、ぜひ、切《きり》てみたし。」

とて、出たり。

 扨、はじめの所にいたりて見れば、遠くすくみてゐたるを、わきざしをぬきて、左の手をさし出《いだ》して、ちかよれば、十間ばかり[やぶちゃん注:約十八メートル。]に成し時、狼は、背をたてゝ、胸を、地につけ、このかたをめがけて、ねらふ躰《てい》なり。

『うごかば、きらん。』

と、心をくばりてゐたれど、一飛《ひととび》に手に食《くひ》つきしが、一向、目にさへぎらざりしとぞ。

 手を引《ひき》かねて、くはれながら、切しが、かしらは、そげて、きられつれど、猶、手に食付て有しを、先《まづ》、仕とめたれば、

『よし。』

と思ひ、うしろあしに繩を付て引ながら、

「與四郞は四十八所くはれてさへ、生《いき》おほせつれば、たゞ一所は、心やすし。」

と、おちつきて、かへると、すぐに、かの醫の本《もと》に往《ゆき》て、療治をたのみしが、一所の灸治さへ、氣絕して、思ふほど、灸、すゑかね、廿日もたゝぬに、むなしくなりしとぞ。

 なまびやう法、大疵《おほけが》のもとなりき。

 

[やぶちゃん注:ここに出る複数のそれは、事実、狼(哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミCanis lupus hodophilax )であったか、そうではなく、野生の犬或いは逃げた飼い犬(イヌ属タイリクオオカミ亜種イエイヌ Canis lupus familiaris)の野生化した個体であったかは、これだけでは判らない。ただ、複数、咬まれて亡くなったというそれや、最後の左手一箇所だけを咬まれただけなのに死亡したケースでは、その対象の狼或いは犬が、狂犬病に罹患していた可能性が濃厚であると考えられる(凡そ二十日経たぬうちに死亡しているのを「遅過ぎる」と感じられる方がいるかも知れぬが、狂犬病ウイルス(オルトルナウイルス界 Orthornavirae ネガルナウイルス門 Negarnaviricota :  ハプロウイルス亜門 Haploviricotina モンイウイルス綱 Monjiviricetes モノネガウイルス目 Mononegavirales ラブドウイルス科 Rhabdoviridae リッサウイルス属 Lyssavirus Genotype 1 狂犬病ウイルス Rabies lyssavirus :リッサウイルス属は七つの遺伝子型に分類に分類され、学名も通常のそれとは異なり、属名が属のそれとは一致しない)は神経系を介して脳神経組織に到達して発病し、その感染の速さは、日に数ミリメートルから数十ミリメートルとされており、脳組織に近い傷ほど、潜伏期間は短く、二週間程度であるものの、遠位部では数ヶ月以上、事例の中には二年後の発症例もあるのである)。而して、与四郎を襲ったそれは、或いは狼であったものかも知れず、幸いなことに四十八ヶ所も咬まれながら、十年以上元気に暮らしていたとするなら、その狼或いは野良犬は不幸中の幸いで、狂犬病ではなかったと言える。ともかくも本書は文政元(一八一八)年成立で、与四郎存命の確認がある文化九(一八一二)年からは僅かに六年しかたっていない点で、優れて実録譚としての基盤がしっかりしており、何より、もし、ここに出るその対象の犬様(よう)の生物が、実際にニホンオオカミであったとすれば、本篇は、ニホンオオカミ史上、稀有の人を襲った事実の驚くべき実記載であることになる。それを女流作家只野真葛が記していること自体、これはとんでもなくレアにして貴重なニホンオオカミの博物学的記録であるという点で、現代に蘇るべき逸品であると言うべきものなのである。

「柴田郡與倉」(「よくら」と読んでおくが、以下に示す通り、誤記)「村の内、宿」(「しゆく」)「といふ所」現在の宮城県柴田郡はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)であるが、「与倉」や「宿」の地名は見出せない。しかし、同郡の字名を調べると、宮城県柴田郡川崎町(まち)支倉(はせくら)を見出せる。何故、ここで目が止まったかというと、底本は新字で「与倉」とあるからで、草書の「支」は「与」と判読を誤り易いからである。さればこそ! と探してみたところが、頭に当たった! 今もこの支倉地区に「宿」があった! 「NAVITIME」のこちらを見られよ! 「宮城県柴田郡川崎町支倉宿」とある! 大字「支倉」の字「宿(しゅく)」(読みはMapFan」のこちらを見られよ!)である! 探索大団円!!! ここがロケーションだ!!!

「耳つぶし」「聞耳潰(ききみみつぶ)し」(動詞形もある)わざと聞かないふりをすること。

「をとがひ」頤。歴史的仮名遣は「おとがひ」が正しい。下顎。

「我《わが》肉まゝ、はなれし時」与四郎の顎の肉を咬み喰らったままに引き千切って、狼が与四郎の体から離れた、その瞬間。

「のんど」喉笛。

「かいほうに逢《あひ》」その家の者から介抱を受け。

「長町」旧宿場町であった宮城県仙台市太白区長町(ながまち)があるが、ここかどうかは不明。但し、狼咬傷専門の灸を主体とする医師という特殊な専門医が、支倉の山間にいたとは考えにくいから、ここを一つの候補としておくウィキの「長町(宮城県)」によれば、『長町宿は仙台城下から数えて一つ目の宿場だった。長町宿の設営には仙台城の普請奉行だった金森隠岐ならびに津田豊前景康が携わり、街道沿いに』八十六『軒の町屋敷が作られた。奥州街道の他に、長町宿から西へ延びる二つの街道もあり、総じて長町宿の伝馬役の負担は大きなもので、それに耐えかねて潰れる家もあったという』。『江戸時代の長町は、仙台城や』、『その城下町で使われる木材の集積地の一つでもあった。それらの木材は、広瀬川の支流である大倉川および新川川』(にっかわがわ)『周囲の藩有林、また』、『名取川上流』(支倉はまさにそこに当たる)『周辺の藩有林から切り出されたもので、川の流れを利用して下流へと流された。広瀬川に流された木材は角五郎木場に、名取川に流されたものは長町木場に集められ、そこから城下へ流通して、薪などに使われた。長町木場では毎年』四十五『万本から』六十『万本の流木(ながしぎ)が取り扱われたという』とあり、繁華な宿場町であったことが判る。この驚くべき多量の木材集積の場であったことを考えると、実際の林業従事者たちが、ここと関係が深かったことが判り、さすれば、山中での伐採作業中などに、狼に襲われることも日常的にあったに違いなく、ここにこの稀有の狼咬傷の専門医がいても、何ら不思議ではないではないか。調べてみてこそ分かったリアリズムである。

「犬毒《けんどく》」これは、必ずしも狂犬病のみを指すものではなく、咬傷による他の多くの細菌やウイルス感染症も含まれる謂いであろう。

「きんもつ」禁物。以下から、特に予後の禁忌の飲食物を指すことが判る。

「ます」「鱒」であるが、この「マス」とは、現在でも、特定の種群を示す学術的な謂いでは、実は、ない。広義には、サケ目サケ科Salmonidaeに属しながらも、和名の最後に「マス」が附く魚、又は、日本で一般にサケ類(ベニザケ・シロザケ・キングサーモン等)と呼称され、認識されている魚以外の、サケ科の魚を総称した言い方であり、また、狭義には以下のサケ科タイヘイヨウサケ属の、

 サクラマス Oncorhynchus masou

 サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae

 ニジマス Oncorhynchus mykiss

の三種を指すことが多い。私の「大和本草卷之十三 魚之上 鱒 (マス類)」を参照されたい。

「今迄の如く、灸を又一ペんすゑ直さば、早束《さつそく》より、何を食しても、よからんか」自分にとって都合のいいことを言っているようだが、ちょっと理屈が判らず、訳せない。まあ、四十八箇所も咬まれた直後のことなれば、やや意味不明のままの、小豆餅食いの懇請ととっておいて問題ない。

「こたへず」「こらへず」の誤判読か。堪(こら)えられず。

「關羽が、矢疵を療治せし」私は「三国志」に興味がない人種であるので、話として麻酔せずに矢傷(但し、以下を見ると判るが、古い慢性化したそれである)を手術させたということは聴いていたが、よくは知らなかった。サイト「はじめての三国志」の「関羽は矢傷をどうして麻酔しないで治療したの?」が、さらりと読めてなかなかよかった。

「眼《まなこ》くらく成《なり》しかば」一時的な視覚障害が起こったようであるが、それを狼咬傷感染症の予後に雉子や鱒を食ったことと関係づけることは医学的には言わずもがな、無理がある。この視覚障害が所謂、視野狭窄であるとすれば、狼に咬まれたのとは全く別の理由で発症したものと考えるのが自然であり、それも一過性であるから、問題にするに足らぬ。

「同じ寬政の頃のことなり。與四郞、くはれて、五、六年過《すぎ》て」寛政は十八年までしかないから、与四郎の狼との組打ち事件があったのは、寛政元(一七八九)年から寛政九(一七九七)年の間に概ね限定出来ることになる。

「同じ村」支倉村。

「ふるまひ」饗応。饗宴。

「先方をも、はやく仕廻《しまはし》て」妻が先方にそれとなく日暮れ時の狼の襲撃を恐れることを言い、先方も宴を短い時間で切り上げたということであろう。

「遠くすくみてゐたる」主語は狼。遠くに、立ち竦(すく)んで居た。この「すくむ」は、座って上半身をすっくと緊張させていたということであろう。まさに戦闘にかかるためのプレ状態である。

「一向、目にさへぎらざりし」全く以って、その飛びかかる動作が電光石火で動態を視認出来なかったというのである。]

2021/01/25

怪談登志男 九、古井殺人

 

   九、古井殺ㇾ人(ふるい、ひとをころす)

 武州長井は實盛が住所なりしと云傳へ、終る所は篠原なりときゝ、此頃、「江戶砂子」を見れば、端芝(はししば)法源寺に墳墓ありといふ。いぶかしき說なり。

 されば、此あたり近き町に、冨裕の商家(しやうか)あり。

 正德年中の頃なりしが、

「造作(そうさく)を營む。」

とて、

「あな藏(ぐら)の舊(ふり)たるを埋(うづ)め改(か)ゆる。」

とて、鋤鍬(すきくは)の末(まつ)を虧(かき)、石金(いしかね)に障(さはる)ごとくなりしかぱ、大勢、たちより、土を穿(うが)ち、其所をみるに、銅(あかゞね)の板、一枚を敷たり。

 放捨(はなちすて)て見つれば、古井の涸(かれ)たる穴なり。

 踏(ふむ)所の土、崩(くづれ)て、一人、此穴に落たり。深(ふかさ)は、只、二丈あまりにして、さのみ、深からず。

 落たるもの、絕(たつ)て音せず。

 是れを、

「たすけ出さん。」

とて、續(つゝい)て入たるものも、音せず、うごきもやらねば、又、飛入る人を、あたり近き所の老醫(らうゐ)、是をとどめ、

「古井に入て死したる例あり。率爾(そつじ)に入るべからず。」

と制し、松明(たいまつ)を燈(とほ)して入たり。

 其男、井の底に至りて見るに、初め落たるも、後に入たるも、總身、色(いろ)、變じて、息、絕(たへ)たり。

「其あたりに、仔細やある。」

と、尋、見るに、其色、綠靑(ろくしやう)のごとく、氷柱(つらゝ)に似たる物ありて、石の間より流れ出たり。

 是を取、件の死したる人の腰に、用意の綱を付て、引上させ、我身も、つゝがなく上りしが、あヘて毒氣に、ふれもせず。

 大勢、はせ集りて見るに、かのとりて出しものは、すきとほりて、靑磁のごとし。

 老醫のいはく、

「鐘乳石(しやうにうせき)なり。」

とて、取て歸りぬ。

 井は、

「人の死せし穴なれば、もちゐがたし。」

とて埋(うめ)ぬ。

 銅(あかゞね)の板には、數行(すかう)の文字ありしが、錆(さび)を生じて、字躰(じたい)、さらに、わきまへがたし。何人(なんひと)の舊跡(きうせき)なりしにや。

 すべて、「古き井には、むざむざ、入ものにあらず」と、書(ふみ)にもしるし、語りも傳へて、今は、人も、よく心得たれど、端々(はしばし)の片田舍などには、まま、あるべき事なり。心得すべし。

 其頃、

「芝(しば)邊(へん)の町にても、かゝる事のありし。」

と風聞せしが、虛實は。たゞさゞりし。

「何にもせよ、毒氣あるは、うたがひなし。うかうかと、入べからず。」

と、古き人の語り侍りし。

 

[やぶちゃん注:「武州長井」武蔵国幡羅(はら)郡長井庄(現在の埼玉県熊谷市のこの附近。グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「實盛」平安末期の、かの名将斎藤実盛(天永二(一一一一)年~寿永二(一一八三)年)。武蔵国相模国を本拠とした源義朝(頼朝の父)は父為義と不仲で、父の命により上野国に進出してきた異母弟義賢(よしかた ?~久寿弐(一一五五)年)と抗争を続けていた。実盛は当初、義朝に従っていたものの、寝返って、義賢の幕下に伺候するようになった。それを危険視した義朝の子義平(頼朝の異母兄)が義賢を急襲し、これを討ち取った(「大蔵合戦」。武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)とされるものの、合戦地には異説もある)。その後、実盛は再び義朝・義平父子の配下に戻るも、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児駒王丸を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻であった信濃国の中原兼遠のもとに送り届けていた。この駒王丸が後の「旭将軍」木曾義仲であった。「保元の乱」・「平治の乱」にあっては上洛して義朝の忠実な部将として奮戦したが、義朝没後は、関東に落ち延び、その後、平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用された。そのため、治承四(一一八〇)年の頼朝の挙兵し際しても、平氏方に留まり、平維盛(平清盛の嫡男であった重盛の嫡男)の後見役として頼朝追討に従い、寿永二(一一八三)年に維盛らと木曾義仲追討のため、北陸に出陣したものの、加賀国の「篠原の戦い」(現在の石川県加賀市篠原町附近)で敗北し、討死した。

「住所」「すみどころ」。

「江戶砂子」江戸中期の俳人で随筆家菊岡沾涼著。全六巻。「江戸砂子温故名跡志」とも称する江戸地誌。享保 一七 (一七三二) 年刊。江戸市中の旧跡や地名を図解入りで説明している。

「端芝(はししば)法源寺」現在の東京都台東区橋場(はしば)にある浄土宗帰命山薬王無量院保元寺。奈良時代の宝亀元(七七〇)年創建と伝え、法相宗・真言宗など諸宗派を経て後、増上寺開山酉誉上人の弟子であった惣誉酉公大和尚により浄土宗に改宗した。江戸時代に法源寺と名を変えたサイト「千葉一族」の「僧侶になった千葉氏」の「聰譽酉仰」によれば、酉仰が古刹である本地の『廃亡を嘆き、当地で二晩三晩念仏誦経に夜を明かすと、ひとりの老人が参詣に訪れたのに出会った。酉仰は老人にいずれから参られたかと問うが、その老人は無言で通り過ぎ、寺の大門の柱の影で姿を消した。それがたびたびに及んだことから、酉仰は大門の陰を覗いてみると、石塔があった。この石塔には齋藤別当実盛』『の名が彫られており、齋藤実盛の墓と知った酉仰は』、『新たに法名を授け』て『「篠原院前左金吾従五位徳山覺道眞阿大居士」と回向したところ、酉仰の夢に喜色を含んだ実盛が現れて「永く寺門法孫を守るべし」と約したという。その後、酉仰は保元寺を法源寺と改め、帰命山無量寿院と名づけてその開山となった』とある)、大正になって保元寺と戻し、現在に至る。現在も「斉藤実盛の石仏(墓・供養塔)」とされるものが存在する(以上の主文は私が古くからお世話になっている東京の寺社案内の堅実なサイト「猫の足あと」のこちらに拠った)。

「正德」一七一一年~一七一六年。

「虧(かき)」欠けさせ。

「總身、色(いろ)、變じて、息、絕(たへ)たり」これは、まず、第一には一酸化炭素中毒を想起させる。遺体がかなり鮮やかなサーモン・ピンク色になるからである。

「鐘乳石」このロケーションでは、その形成は、あり得ない。

「芝(しば)」東京都港区芝。

「毒氣あるは、うたがひなし」単純な致命的な酸欠状態や二酸化炭素充満が可能性として有り得る。奇妙な石の色からは硫化水素も疑われるが、この時代の、この場所でというのは、やはり無理がある気がする。或いは河川下水及び便所の汚水(便槽の桶の一部に亀裂が入っていたなどの可能性)などが、たまたまここの下に長い間をかけて知らぬうちに溜まって、何らかの酸欠が致死的なレベルにまで達していたと考えることも可能ではある。この古井戸が土砂と銅板で覆われており、外気と完全に遮断されいたことなどは、その傍証ともなろうか。]

奥州ばなし 狼打

 

     狼 打

 木幡《きはた》四郞右衞門【伊賀舍弟。】、澤口覺左衞門【同三弟。】、兩人つれだち、例の鐵砲、打かたげて、山狩に出しが、得ものもなければ、

「狼をうたん。」

と、宮崎郡多田川村の内、「若みこ」といふ所にいたりて、【此當《このあたり》は狼の巢なり。】岡山よりみおろせば、河原近き平野《ひらの》に、狼、集りゐたり。【數、十四、五疋なり。】

 をりをり、里に下り來るものなれど、かく一目《ひとめ》に見しは、はじめなりとぞ。

 兩人、めづらしく思ひ、その毛色をみるに、赤毛・白毛・白黑のぶちさへ有《あり》て、眞犬《まことのいぬ》の如し。【常に見るは、ごま犬のごとくなる多しとぞ。】

 岡より、つるびに打《うち》しに、【「つるび」とは、ひとしく打ことなり。】覺左衞門が打しは、一にあたりて、たふれたれば、とりて行つ。四郞右衞門が打しは、一たふれし玉の、又、そばなる雌(め)狼にあたりて、はでに成《なり》て逃《にげ》しほどに、

「とめ矢を付《つけ》て、二とらん。」

と追かけしが、日暮しかば、見うしなひたり。

「打捨置し狼をとらむ。」

と、人をやとひて、松、うちふらせて、先の所に行《ゆき》てみしに、得ものは、なし。

 そのほとり、おびたゞしく狼の足跡有し故、そのあとをもとめて行てみるに、河原に引《ひき》ゆきて、友食《ともぐひ》せしとみえて、ほね・肉、ともに、少しもなく、たゞ、壱尺四方ばかり、皮の殘りて有しのみなり。

 いまゝで、むつましげにつどひゐし友の、人にうたれつればとて、暫時に、くらひ盡しける、狼の心ぞ、めざましき。

 せんかたなければ、のこりし皮をとりてかへるに、四方《しはう》、山澤《やまさは》にて、狼のほゆる聲、いくそ百《びやく》にかあらん、物すごければ、やとはれし步《ふ》は、ふるふ、ふるふ、

「よしなき御供つかまつりて、命や、うしなはんずらん。」

と、わぶるを、四郞右衞門は、たけだけしく、

「惡《につく》き山犬めら、打とめし得物をくらひしうへにも、あだなさば、一打《ひとうち》ぞ。」

と、四方をにらみてかへりしが、出來《いでく》る狼は、なかりしとぞ。【解云、こは狼にあらず、「豺《やまいぬ》」にて、俗に「山犬」と唱《となふ》るものなるべし。狼には雜毛のものなく、豺には、雜毛、多かり。】[やぶちゃん注:これは頭注。]

 

[やぶちゃん注:標題は「狼打」は「おほかみうち」と読んでおく。さても、馬琴の言うように、ここに登場したそれは、確かに毛色から考えて、哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目イヌ科イヌ亜科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミCanis lupus hodophilax(北海道と樺太を除く日本列島に棲息していた)ではなく、犬(イヌ属タイリクオオカミ亜種イエイヌ Canis lupus familiaris)の野生化した個体の群れであろう。現在、確実な最後の情報は明治三八(一九〇五)年一月二十三日、奈良県吉野郡小川村鷲家口(わしかぐち:現在の東吉野村鷲家口。この附近。グーグル・マップ・データ)で捕獲された若い♂(標本として現存)である。それ以前であるが、明治二五(一八九二)年六月まで上野動物園でニホンオオカミを飼育していたという記録がありはするものの、写真は残されていない。先般、新聞でニホンオオカミが「生き残っている」として探索している方の記事を読んだが、一定のコロニーがフィールドの中になければ、生き残りは考えられないのに、誰一人としてそれを確認・記録した者がいないことから、生態学的遺伝学的に考えて、私は残存説を全く支持出来ない。何らかの野生の犬の中にその遺伝子を有意に保存しているものがいないとは言えないが、そういうなら、その裾野は普通の和犬も範疇として含まれてくる。そうしたある種の古い和犬種が一定の群れを持って、山中でひっそりと生存を続けているというのは有り得るかも知れぬとしても、それをニホンオオカミの生き残りとは私は言えないと考える。それは最早、生物学科学的生態学的発言ではなく、個人的なロマンの世界である。ロマンとは文芸的想像的で期待空想の世界であって、共有出来る者同士がそれを語り合って希望を持つのは一向に構わない。しかし、公然と生き残っていると発言し、都合のいい少数の科学的資料や、怪しげな写真や、ちょっと外れた学者の賛同説や、好事家の如何にも噓臭い話を以って、大衆に妙な期待を持たせるのは如何なものかと考える。私にとってはニホンカワウソやトキが絶滅したのと同じであり、ツチノコやヒバゴンが種として存在しているという類いと変わらないと思うのである。そういうロマンを語る人は、私に言わせれば、既に絶滅してしまった微小貝類や、地味で目立たぬ絶滅目前の生物類にこそ目を向けるべきであると言いたい。絶滅した生物の幻しを求めるのではなく、今、この瞬間に絶滅しつつある生物群を守るべきである。「大きな体のパンダは可愛い、イルカやクジラは人間に近くて頭がいい、だから守るが、目に見えないようなこんまい貝や、気持ちの悪いにょろにょろの蠕虫なんか、いなくなったっていい」というのは人間の身勝手である。というより、チェレンコフの業火を手にしてしまった自分たち自身の絶滅をこそ実は恐怖すべきである。但し、先の記事の方は、残されてある頭骨標本などを丹念に探し、絶滅したニホンオオカミを語り継ごうとしておられるのが本当の心情であられると読んだ。それには甚だ賛意を表するものである。なお、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ) (ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)」も参照されたい。また、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豺(やまいぬ) (ドール(アカオオカミ))」もあるが、そこで私が「豺」をドール(アカオオカミ。ユーラシア大陸の東部(中国・朝鮮半島・東南アジア・ロシア南東部)と同大陸の中央部から南部(モンゴル・ネパール・インド・バングラデシュ・ブータン等)に棲息するイヌ科イヌ亜科イヌ族ドール属ドール Cuon alpinus 、別名アカオオカミ(赤狼)、英名「Dhole」)を比定同定したのは、良安の記載部分が「本草綱目」に基づくものだからである。日本に無論、ドール(アカオオカミ)は棲息しない。

「木幡四郞右衞門」小早川秀秋氏のブログ「戦国武将録」の「伊達晴宗家臣団事典」に、『木幡四郎右衛門』『きはたしろうざえもん』とあり、『伊達政宗家臣』で慶長五(一六〇〇)年の『「松川の戦い」で、挙げた頸級を、位牌の描かれた敵の軍旗に包んで持ち帰った。その戦功により、位牌の軍旗は木幡四郎右衛門の軍旗として使用された』とある人物の末裔かと思われる。本文で「きはた」と読んだのは、この記事による。また、岸本良信氏の公式サイト内の「仙台藩(伊達藩)2」(「御知行被下置御帳」(延宝四(一六七六)年から三年四ヶ月かけて成立した仙台本藩士及び白石片倉家臣の内で禄高十石以上の者千九百三十二人の由緒書からの藩士・家臣のリスト。底本は一九七八年歴史図書社刊佐々久監修「仙台藩家臣録」)に「木幡四郎衛門」と出る。

「伊賀」只野伊賀。真葛の夫只野行義(つらよし)の通称。

「舍弟」すぐ下の弟の意でとる。

「澤口覺左衞門」「同三弟」とあるが、底本にある只野真葛の別な随想「真葛がはら」の「天」の部に、二篇続けて彼を主人公とする怪奇談が載り(「二、沢口覚左衛門のきつね打の次第」及び「三、同じ人奇獣をうちしこと」)、この後者の末には『沢口覚左衛門は、只野伊賀末弟なり』とある。この「真葛がはら」も、将来、電子化せずんばなるまい。今年は、只野真葛年となりそうだ。参考までに、宮城県の伝説を扱っている個人サイト「伝承之蔵」こちらと、こちらに、そのこの二話の現代語訳と見まごう話が載る。但し、そこで彼を「猟師」とするのは、一体、どの資料からなのだろう? 甚だ不審である。真葛の原本文には猟師とは記していないし、只野伊賀の弟である以上、彼は武士である。いや! 先に示した岸本良信氏の「仙台藩(伊達藩)2」にも「沢口覚左衛門」とはっきり出ている。彼は猟師ではない! 武士である! さて。このサイト主は同サイト内でパブリック・ドメインの「仙台人名大辞書」や「仙台叢書」などの素晴らしい電子化もなされておられ、そこでは異常に厳しい使用注意書を記されておられるのだが、御自身の、以上の「伝説」のパート部分では、その話の基礎資料とした書誌データや聴取記録を、一切、表示されておられない。これは確かな「伝説」だからこそ、示すのが必須にして当然である。しかもこのサイトはアメリカのフロリダ大学の学生の助力を得て、英訳までなされていて、外国の方も読むのである。民俗学の伝説記録として以上の基礎データは絶対に欠かせない。ただ、言わせてもらえば、私は以上の二つが、どう考えても、只野真葛の「真葛がはら」をもとに作話したものとしか思えないのである。「沢口覚左衛門と珍獣」の下方にある「四日切」の解説は「真葛がはら」の「三、同じ人奇獣をうちしこと」の途中に入る翁の台詞を訳したものに過ぎないからである。だのに、どうして勝手に武士「澤口覺左衞門」が「猟師」になっているのか? 不思議である。主人公を「猟師沢口覚左衛門」とする、真葛のものとは違う伝承があるのであれば、是非とも、その原拠・採集年月日を示して戴きたいのである。そうでなく、万一、誰かが勝手に「猟師」に設定を作り変えてサイト主に話したのだとすれば、これは、他の折角の面白く興味深い同サイト内の他の「宮城県の伝説」群も聊か素直に読めない気がしてくるし、民俗伝承資料としても甚だ残念なことになるのである。

『宮崎郡多田川村の内、「若みこ」といふ所』宮崎郡という郡はない。宮城郡はあったが、同郡内に今は多田川はない。しかし宮城県加美郡加美町多田川ならばある。航空写真に切り替えて拡大すると、「狼の巢」の雰囲気は、特に北西部(旧上多田川地区)辺りで文句なしだ(「スタンフォード大学」の旧地図も参照されたい)。私は、断然、ここと感じた(但し、「若みこ」は遂に発見出来なかった)。さらに、地図で字地名を調べている内に、旧下田川地区から南東に二キロメートル半ほどのところに、宮城県加美郡加美町上狼塚(かみおいのつか)」というとんでもない地名が現存することが判った。「スタンフォード大学」の旧地図では「かみおいぬつか」とルビする。なんか、呼ばれた感じがした!

「河原近き平野」この地区は北西から南東にかけて尾根が南北にあり、村域のその中央を多田川が貫流している。

「狼、集りゐたり。【數十四五疋なり。】」この群れも、あまりニホンオオカミらしくない。彼らは大規模な群れを作らず、二、三頭から多くても十頭ほどの群れで行動したとされるからである。但し、北海道・樺太・千島列島にも分布していたイヌ属タイリクオオカミ亜種エゾオオカミ Canis lupus hattai とはそこが違う。エゾオオカミは明治になって北海道開拓で捕獲駆除が奨励され、明治二九(一八九六)年に函館の毛皮商によってエゾオオカミの毛皮数枚が扱われたという記録を最後に、確認例がなく、ロシア領有地も含めて同種は絶滅したものとされている。

「一目《ひとめ》」こう読んで初めて「一度に見えること・一目で総てを見渡せること」の意となる。

「常に見るは、ごま犬のごとくなる多し」本当の狼のことを言っているととる。胡麻犬で白に胡麻を散らしたくすんだ感じの謂いか。ニホンオオカミは周囲の環境に溶け込みやすいように夏と冬で毛色が変化したとされる。東京大学大学院農学生命科学研究科収蔵の剥製(♀・体長一メートル)は冬毛のように思われ、白に薄い茶色交りの感じ。「奈良県」公式サイト内の「県民だより奈良」のこちらに、オランダの「ライデン自然史博物館」所蔵の基準標本のニホンオオカミの剥製の写真があるが、これが夏毛のようで、濃い茶色を呈している。ニホンオオカミが餌が不足して、下界へ下りてきて人馬を襲うのは冬場が多いから、常に里人が見かけるのは、冬毛で腑に落ちる気はする。

『つるびに打《うち》しに、【「つるび」とは、ひとしく打ことなり。】』「連(つる)びに擊ちしに」。ここは二人一緒に同時に撃ったの意であろう。「連(つる)ぶ」いは「並べる」の他に「続けざまに打つ・つるべ打ちに打つ」(連続して放つ)の意もあるが、ここは前者でとった。

「とりて行つ」「覚左衛門が、倒れたその獲物をとりに下って行った」の意としか読めないが、しかし、それでは後の展開と齟齬する。「とりに行かんとしつ」の意にとって読み進める。

「四郞右衞門が打しは、一たふれし玉の、又、そばなる雌(め)狼にあたりて、はでに成《なり》て逃《にげ》しほどに」前注に従い、また、ここの「一たふれし」も「一たふせし後に、その玉の」と読み換え、「四郎右衛門が撃ったそれは、まず、一頭を倒した後に、その玉が跳んで、また、近くにいた雌(めす)の狼にあたって、ひどく暴れて逃げてしまったので」の意で採る。但し、ここは「一たふれし玉の」は「一たふれし狼の」の衍字の誤りととるなら、それはそのまま「覚左衛門が倒した狼の」ですんなりと読めなくはない。

「とめ矢を付《つけ》て、二とらん。」あの手負いの雌狼にも「留めの一発を撃って、二頭とも獲ってやる!」。無論、「矢」と言っているは従来の習慣からで、鉄砲で、である。

「日暮しかば、見うしなひたり」とあって、その直後に、「打ち捨てて置いていしまった撃ち獲った狼をとりに行こう」と二人で語り決めて、それから、「人を」雇って、「松、うちふらせて」(松明(たいまつ)をかざして打ち振って、宵の口の山路を)「先の所に行《ゆき》てみしに」となると、時間経過から考えて、ロケーションはそんなに山谷の奥ではないように読める。当初は現在の多田川地区の最奥と踏んだのだが、これは案外、同地区の中央或いは南東の平地に近いところであったのかも知れぬ。

「得もの」「獲物」。

「いまゝで、むつましげにつどひゐし友の、人にうたれつればとて、暫時に、くらひ盡しける、狼の心ぞ、めざましき」先般、私はタイリクオオカミ亜種ツンドラオオカミ Canis lupus albus の子育て(♀のみが行う)を見た。母と最初の娘と新生児の子育ての協力が胸を撲った。娘は新生児を育てるために遂に餓えて巣の中で亡くなる。母狼はしかし彼女を食べることはなかった。真葛よ、何時の時代も「めざましきは人なるぞ」――

「步《ふ》」荷い人夫。

「ふるふ、ふるふ」ぶるぶると震えては。

「わぶる」嘆く。]

芥川龍之介書簡抄4 / 明治四三(一九一〇)年書簡より(3) 山本喜譽司宛五通

 

明治四三(一九一〇)年九月十六日(推定)山本喜譽司宛(封筒欠)

 

水曜日から授業有之、一週獨語九時間英語七時間と云ふひどいめにあひ居候 敎科書はマカウレイのクライブ カーライルのヒーロー ウオーシツプ及ホーソーンの十二夜物語の拔萃に御坐候 存外平凡なもののやうに候へどもそれを極めて正確に且極めて文法的に譯させ候まゝ中々容易な事には無之候 殊にクライブを講ずる平井金三氏の如きは every boy を「どの小供でも」と譯すを不可とし必ず「小供と云ふ小供は皆」と譯させ I have little money を「あまり金を持つてない」と譯すを不可とし「金を持つ事少し」と譯させる位に候へば試驗の時が思ひやられ候

Class の人々は流石に皆相當な abilityのある人ばかりに候 殊に僕の兩隣にゐる二人の如き共に哲學科の人に候ヘども學力の正確(豐富ならざるも)なると比較的廣く讀み居るとに於て 中々話せる人たちに候 四日ばかりの中にもう「です」語をやめて「だ」語を使ふくらいになり候へば Class の人々とも大かた話しをする程度までに親み來り候

され共他人の中へ出たる心細さはまだ中々心を去らず候 折にふれて何となくなさけなくなり頭をたれて獨り君を思ひ候 あまりのしげく御訪ねするもあまりたびたび手紙をさし上げるのも何となく氣が咎め候へば心ならずも差ひかへ居候へども 獨語の拗音のこちたきに 思ひまどへる時などには すぐにも君に逢ひたくなり候

豫備校に御通ひに相成候ひてよりは定めし御忙しき事とは萬々承知致候へども折々の御たより下さらばうれしかるべく されどそもそも御復習を妨げてまでには及ばず候

新宿へうつるは來月に相成り候ふべく目下二度目の通學願書をさし出し居り候猶フイルハアモニツクソサイテーの演奏の時には御一緖に聞く事が出來候や 此頃は無精をして新聞をよまない事が多く從つて同會の演奏がいつあるやら知らず候 新聞にて御見つけの折は御知らせ願度候

此手紙はたゞ一高の狀況と用事とのみを記すつもりにて認め候

しかも筆のすゝむにつれて心絃幾度かふるひて君を思ふの心いつか胸に溢れ候

正直な所を申せば僕は君の四圍にある人に對して嫉妬を惑じ候、僕の君を思ふが如くに君を思へる人の僕等のうちに多かるべきを思ふ時此「多かるべし」と云ふ推察は「早晚君僕を去り給はむ」の不安を感ぜしめ此不安は更にかなしき嫉妬を齎し來り候

恐らくは 僕のおろかなるを哂ひ給ふ事と存候へども折にふれて胸を掠むる[やぶちゃん注:「かすむる」。]此かなしき嫉妬はしかも僕をして淋しき物思に沈ましめ候 かゝる物思のさびしさは此頃になりてはじめてしみじみ味はひしものに候

されども其さびしさの中に熱きものは絕えまなく燃え居候 あゝ僕は君を戀ひ候 君の爲には僕のすべてを抛つを辭せず候

人は僕の白線帽を羨み候へども君と共にせざる一高の制帽はまことに荊もて編めるに外ならず候 哂ひ給はむ嘲り給はむ 或は背をむけて去り給はむ されども僕は君を戀ひ候 戀ひざるを得ず候

君の爲には僕は僕の友のすべてにも反くをも辭せず候 僕の先生に反くをも辭せず候 將[やぶちゃん注:「はた」。]僕の自由を抛つをも辭せず候 まことに僕は君によりて生き候 君と共にするを得べくんば死も亦甘かるべしと存候

何となく胸せまり候 思、乱[やぶちゃん注:字体はママ。]れて何を書いていゝのやらわからなくなり候

唯此ふみよみ給はむ時 願くは多くの才人の間に伍して鼠色の壁の寒げなる敎室の片隅に黑板をのぞみつゝ物思にふけれる愚なる男の上を思ひ給へ、これにて筆を擱くべく候 夜も更け候へば 心も亂れ候へば

    十六日夜          龍弟

   喜譽司兄

  追伸 近き日の夜御訪ね致したく候 何曜日がよろしく候や伺上候

 

[やぶちゃん注:山本への、読者がちょっと身を引くような、強い同性愛感情が吐露されている一篇である。

「水曜日から授業有之、……」この当時の入学期は九月で、同年は入学が九月十一日(日曜日)で、入学式は十三日であった。宮坂覺氏の新全集年譜によれば、同級には石田幹之助・菊池寛・倉田百三・成瀬正一・井川恭・松岡譲・久米正雄・山本有三・土屋文明(最後の二人は落第による原級留置)らがおり、一級上には豊島与志雄・近衛文麿らがいた。授業はこの二日前の九月十四日(水曜日)であった。なお、この九月十一日には実姉ヒサが葛巻義定と離婚している。

「マカウレイ」イギリスの歴史家・詩人で政治家のトーマス・バビントン・マコーリー(Thomas Babington Macaulay 一八〇〇年~一八五九年)。

「クライブ」英領インドの基礎を築いたイギリスの軍人・政治家ロバート・クライヴ (Robert Clive 一七二五年~一七七四年)。マコーリーの随筆に「Lord Clive」(クライヴ卿一:八四〇年)がある(没後の一八四三年刊の彼の「Critical and Historical Essays: Contributed to the Edinburgh Review」の中に収録されてある)

「カーライル」イギリス(大英帝国)の歴史家・評論家トーマス・カーライル(Thomas Carlyle 一七九五年~一八八一年)。

「ヒーロー」カーライルが一八四一年に行った講義の集成「On Heroes, Hero-Worship, and The Heroic in History.」であろう。

「ウオーシツプ及ホーソーンの十二夜物語」「ホーソーン」はアメリカの作家ナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne 一八〇四年~一八六四年)であろうと思われ、「十二夜物語」は、シェイクスピアの喜劇(Twelfth Night, or What You Will)であろうが、「ウオーシツプ」は不明(綴りは Ossip 或は Osip か?)。ロシア出身の劇作家オーシップ・ディーモフ(Осип Дымов:Ossip Dymov八七八年~一九五九年(本名は Иосиф Исидорович Перельман で、ラテン文字転写すると、Iosif(=Joseph) Isidoroviych Perelman(イョーシフ・イシドーローヴィチ・ペレルマン)でペン・ネーム名との近似性が確認出来る)がいるが、但し、彼がアメリカに移住して英語圏で活躍するのはこの後の一九一三年である。或いは、この「ウオーシツプ及」(および)「ホーソーンの十二夜物語」という少し引っ掛かる謂いは、或いはロシア語の英訳注を指すのかも知れないとも思ったことは言い添えておく。私が彼を思い出したのは、後に龍之介が書いた「骨董羹 ―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」(大正九(一九二〇)年四・五・六月発行の雑誌『人間』に「壽陵余子」の署名で(芥川龍之介のクレジットなしに)連載されたもの)に「オシツプ・デイモフ」の名が出ることを覚えていたからである。リンク先は私の電子テクストで、因みに、私は『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み やぶちゃん』という特殊な口語翻案テクストをも、ものしてある(孰れも私の注附きである)。

「平井金三」(ひらいきんざ 安政六(一八五九)年~大正五(一九一六)年)京都生まれの英文学者。反キリスト教論者として仏教復興運動の最高潮を齎し、明治二六(一八九三)年にシカゴで開催された「世界宗教会議」では「不平等条約」に関して雄弁を揮い、満場の喝采を浴びた。後には心霊研究や禅的瞑想法を実践するなど、さまざまな領域で活躍した(以上は主にこちらの論文採録を参考にした)。「世界宗教会議」での彼の一人勝ち様子は、京都・宗教系大学院連合二〇〇七年一月発行『京都・宗教論叢』の『「京都・宗教系大学院連合」設立記念シンポジウム』内の「パネルディスカッション」の中の同志社大学神学部神学研究科教授森孝一氏の「平井金三とシガゴ万国宗教会議」の採録(26コマ目以降)が圧巻である。ネット上の諸記載を見ると、かなりの「変人」の部類に入る感じがする人物で、芥川龍之介がかく具体に書いているのも頷ける気がした。

ability」能力。

「こちたき」「言痛し・事痛し」「こといたし」の音変化。「煩わしい」・「大袈裟だ」・「沢山ある。程度が甚だしい」の意。

「豫備校に御通ひに相成候ひてよりは……」既注通り、山本は、この年に同じく旧制第一高等学校を試験受験したが、不合格となった。以下、幾つかの解説は――慶應義塾大学理財科予科に進学したものの、翌年、一高を再受験し、第二部乙類(農科)に合格した――とするのであるが、所持する二〇〇三年翰林書房刊「芥川龍之介新辞典」の彼の項によれば、一高不合格となった後、『一時は慶應の理財科へ進学を決意するが、芥川と恩師広瀬雄の勧めにより翻意、しかし試験にも失敗、翌年一高を再受験して果たす事となる』とあるので、そちらが正しいと私は、とる。

「新宿へうつるは來月に相成り候ふべく目下二度目の通學願書をさし出し居り候」転居の件は「2」で既注済み。ただ、そこでは書かなかったが、この実父新原敏三の新宿の耕牧舎牧場の脇にあった家というのは、実は敏三が葛巻義定と娘ヒサの新居として建てたものであったのだが、先に注で示した通り、二人の離婚によって空家となっていたのであった。なお、当時の一高は三年制で、各学年約三百名の学生がおり、原則、一・二年生は全員が寮に入らなければならなかった。しかし、龍之介は入寮を嫌い、校外からの「通学願書」を提出して、一年次は遂に寮に入らずに済んだのであった。この「二度目の」というのは、その転居に関わっての再提出願書ということであろう。なお、そのあがきも流石にそのままでは許されず、二年次には龍之介も一年間入寮している。

「フイルハアモニツクソサイテー」Philharmonic Society。実業家で三菱財閥四代目総帥であった岩崎小弥太が、イギリス留学時代(彼は一九〇五年(明治三十八年)ケンブリッジ大学卒である)の友人を誘って、音楽愛好家団体「東京フィルハーモニック・ソサエティー」を設立している。その企画公演であろう。この後に続く山本宛書簡に『明日は休みに候へば切符は僕が行つて君のとも二人分貰つて來てもよろしく候 勿論君に貰つて來て頂いてもよろしく候 同時に別々に行て貰つて來てもよろしく候』『どれに致すべき乎伺上候』(月不明・日付十一日)とあったり、『日比谷の演奏が土曜日になりました 芝でお待ち申します』(月不明・日付八日)とあるのは、この団体の音楽会のそれなのかも知れないが、孰れも年次推定で不確かである。]

 

 

明治四三(一九一〇)年(月不明)九日(年次推定)山本喜譽司宛(封筒欠)・岩波旧全集書簡番号三九

 

昨日平塚來り候 君を訪ひ候ひしも御不在なりし由申居り候

明夕は本所に居るべく候 御誘ひ下さらば幸甚 唯天氣模樣が心配に御坐候 御手紙は難有拜讀仕候

 

   いつ知らず戀知りそめぬいつ知らず大野に草の靑ばむが如

    九日朝 雨ふらむとしてふらず雲低し

                   龍生

   あぽろの君

  追伸 之より芝へ行く所に御坐候

 

[やぶちゃん注:前に示した書簡の間に九月二十三日附と十月十四日附の山本宛書簡を挟んで旧全集に載る。或いは注意深い方は、「これはこの年次としても、ここよりも前に配されるべきではないか?」と考えるかも知れない。「この年の秋には芥川家は本所から新宿の先に示した家へ転居しているのだから」という理由からである。しかし、必ずしもそうとは言えないのである。宮坂覺氏の年譜によれば、この年の『秋』(月などの特定がない)に転居した旨の記事を記された後に、十『月に龍之介とフキが移り、翌年』二『月頃までに一家が移った、とする記述もある』とあるからである。この記述によるなら、彼が「明夕は本所に居るべく候」というのは何ら齟齬を生じないのである。にしても――芥川龍之介の生涯は生誕から自死まで――テツテ的に親族・姻族に振り回された生涯であったことを、私はしみじみ感ずる。私なら、それだけで自殺したいと思う精神状態に向かうような気さえするほど、その外的(これに関しては龍之介自身責任は殆んど全くない点で「外的」なのである)圧迫は晩年へ向けて波状的に生じているからである。因みに、山本の家は本所にあった。恋しんだったら、「自分から逢いに行けばよかろうに」という御仁は配慮が足りない。山本は再受験への猛勉強中なのだから。なお、私がこの短文書簡を選んだのは、以上のようなことを言いためでは――ない。添えられた短歌一首を採録するためである。私は「心朽窩旧館 心朽窩主人藪野唯至 やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇 縦書完備」で「定本 やぶちゃん版芥川龍之介全句集(全五巻)」や、「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」、及び、「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」をものしているが、例えば私の詩集と歌集では、書簡までは手を出していない。従って、この一首も始めて電子化するものである。されば、少なくとも、私が詩(定型・自由詩・戯詩を問わない)と和歌(俳句は書簡も総て検証したので、原則、外す)と判断したものについては、ここで電子化しようというのである(但し、新全集書簡部は所持しないのでそれは、原則、漏れることとなる)。私の「芥川龍之介 書簡抄」は気儘な覗き見趣味の変態的仕儀なんぞではないということを、ここでお断りしておくものである。

「平塚」既注

「あぽろの君」底本の「後記」を見るに、この宛名は、これ以前から『お互いの間で使われていたものと思われる』という旨の記載がある。

「芝」実父新原敏三家は芥川龍之介誕生(明治二五(一八九二)年三月一日。芥川家へ預けられたのは、はっきりしないが、母フクの精神不安定の発現が同年十月末(翌年一月ともされる)で、恐らくそれと時を同じくして出されたものと考えられる)の翌年に入船町から芝に転居している。]

 

 

明治四三(一九一〇)年(月不明)五日(年次推定)山本喜譽司宛(封筒欠)

 

酒ほがひを御貸し申します 中でいゝと思つた歌に色鉛筆でしるしをつけて置いて下さい、

是非願ひます、

    五日夜

 

[やぶちゃん注:「酒ほがひ」「さかほがひ」(現代仮名遣「さかほがい」)と読む。歌人吉井勇(明治一九(一八八六)年~昭和三五(一九六〇)年:龍之介より六歳年上)は第一歌集。この明治四三(一九一〇)年九月(昴発行所)。短歌嫌いの私が特異的に偏愛する歌集である。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで原本が読める。舌も干ぬ間だが、この書簡は全くの私の趣味で採った。但し、書簡との関連で載せてよかろうとも思ったものである。]

 

 

明治四三(一九一〇)年(月不明)七日(年次推定)山本喜譽司宛(封筒欠)

 

芳墨拜誦

「さぞく御忙しき事と察上候」は恨めしく候

五日の夜は全寮茶話會にて五時より翌曉二時に及び候 當夜舊一高選手長濱先輩の一高對早慶の勢力を比較し勝算殆我手にあらざるをつげ今や輸贏の法唯應援の如何に存するのみなるを云ひ近く高師の運動會に於て早慶の豎兒が大塚台上「一高恐るゝに足らず」と傲語したるを叫ぶや一千の兒皆悵然として聲なき事石の如く中に感極まつて嗚咽するものあり 僕亦覺えず双淚の頰を濕すを感じ候

而して昨日は駒場に大白幡を飜して應援に赴き候ひしも命運遂に非也「時不利騅不逝」桂冠をして空しく竪兒の頭に載かしむるの恨事を生じ候

來む[やぶちゃん注:「こむ」。]土曜日は大學對一高の綱引に候而して再一高の選手が敵を待つの日に候

此頃柳田國男氏の遠野語[やぶちゃん注:ママ。]と云ふをよみ大へん面白く感じ候

タイイスに御かゝりの由大慶に存候 タイイス御讀了後は何を御讀みなさる豫定に候や

酒ほがひ本所にあり未御選歌をよむの光榮に接せず明朝こつちへ送つてもらふ豫定に候

歌(歌と名づけ得べくんば)二つ三つかくつもりに候ひしもやめに致し候 拜晤の機を待つべく候

御暇の折は御光來下され度せめては折々の御たより願上候 不馨

   七日夜

  喜譽司兄

 

[やぶちゃん注:「五日の夜は全寮茶話會にて五時より翌曉二時に及び候」既に述べた通り、彼は入寮せずに特別に許可を得て(その理由を私は知りたく思うのだが)自宅通学であったわけだが、恐らくはその引け目もあって、これに参加したものであろう。

「長濱先輩」不詳。彼の檄は「感極まつて嗚咽するものあり」までであろう。

「輸贏」「しゆえい(しゅえい)」。但し、慣用読みで「ゆえい」と読むことが多いので、ここも龍之介はそう読んでいるかも知れない。「輸」は「負ける」、「贏」は「勝つ」の意。勝敗。]

「高師」高等師範学校(二年後に東京を冠した)。

「豎兒」「じゆじ(じゅじ)」。小僧っ子。卑称。

「大塚」高等師範学校と東京文理科大学は大塚校地共有していた。

「大白幡」「おほしろはた」。

「時不利騅不逝」項羽の「垓下(がいか)の歌」。楚漢戦争最後の「垓下の戦い」に於いて天運を悟った西楚の覇王項羽(項籍)が愛人虞美人に贈った詩の一節。

 力拔山兮氣蓋世

 時不利兮騅不逝

 騅不逝兮可柰何

 虞兮虞兮柰若何

  力 山を拔き 氣 世を蓋ふ

  時 利あらずして 騅(すい) 逝かず

  騅 逝かざるを 奈何(いかん)せん

  虞や虞や 若(なんぢ)を奈何せん

「騅」は項羽と命運をともにした葦毛の名馬。。

「此頃柳田國男氏の遠野語と云ふをよみ」名作「遠野物語」の芥川龍之介の誤記。佐々木喜善(明治一九(一八八六)年~昭和八(一九三三)年:名は「繁」とも称した)の語りを改変して、明治四三(一九一〇)年六月十四日に『著者兼發行者』を『柳田國男』として東京の聚精堂より刊行された。私はブログ・カテゴリ「柳田國男」で原本の全電子化注を完遂している。

「タイイスに御かゝりの由大慶に存候……」「芥川龍之介書簡抄2 / 明治四三(一九一〇)年書簡より(1)山本喜譽司宛2通」を参照。なお、そこの「明治四三(一九一〇)年六月二十二日(年月推定)・山本喜譽司宛」で、龍之介は「タイイスは皆よみきらなかつた」と言っているのだが、私は実際には、千葉勝浦での保養中にちゃんと読了していたと考えている(新全集宮坂年譜でもそう書かれてある)。受験勉強中の山本への気遣いでそう書いたものと私は思うのである。

「不馨」「ふけい」或いは「ふきやう(ふきょう)」。手紙の脇付で、芥川龍之介はよく使用するが、辞書には見えない。但し、ある人の漢文体書信では最後の記されてあるのを見たことがある。「かんばしからざる下手な手筆・書信にて失礼」といった意味であろう。]

 

 

明治四三(一九一〇)年(月不明)二十五日(年次推定)山本喜譽司宛

 

敬啓

咋夜遲く歸ると僕等が出て間もなく君の所の女中がむかへに來たと云ふ

一緖に引張りだして一緖に散步をしたのだから僕が惡い樣な氣がする

何かあつたのぢやないか

歌なんか聞いてゐて、少しのん氣すぎたと思ふ

今朝先生と山口君とからハガキが來た一枚は名古屋から一枚は伊勢から

靑空にそびへ立つ天主と松の音の響く神宮が偲ばれる 矢張旅行に出たくなつた

君の令妹の――本當は姪だね――の御快癒を祈る 不馨

    廿五日

   山喜司大兄 侍史

 

[やぶちゃん注:今まで通り、岩波旧全集版からであるが、これは書簡原本ではなく、他の印刷物からの転載である旨の注記がある。

「先生」先に出た三中の恩師廣瀨雄であろう。

「山口」山口貞亮であろう。「芥川龍之介満十七歳の明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳山行記録」で一緒に登攀している。但し、そこで私は級友としたのだが、今回、改めて調べたところ、新全集の「人名解説索引」には『三中の一年後輩』で明治四四(一九一一)年卒とあった。龍之介が山本に書くのに「君」と呼んでいるところからはそれが正しいようだ。

「君の令妹の――本當は姪だね――の御快癒を祈る」本書簡を採用したのは、この一文のためである。則ち、旧全集書簡中で初めて塚本文、後の龍之介夫人が登場する瞬間だからである。山本喜誉司が彼女の母鈴の末弟であり、この時、鈴・文母子が山本家に同居していたのである。

2021/01/24

奥州ばなし 高尾がこと

 

     高尾がこと

 むかしの國主、高尾といふ遊女を、こがねにかへて、廓(くるわ)を出《いだ》し給ひて、御館(《み》たち)までも、めしいれらず[やぶちゃん注:「らず」の右に編者ママ注記。「召し入れられず」であろう。]、川にて、切《きり》はふらせ給《たまふ》と、世の人、思へるは、あらぬことなり。

 是は、うた・上瑠璃(じやうるり)[やぶちゃん注:漢字表記ママ。]に、おもしろく、ことそへて作りなせしが、やがて誠のごとく成《なり》しものなり。

 高尾は、やはり御たちにめしつかはれて、のち老女と成て、老後、跡をたてくだされしは、番士杉原《すぎのはら》重大夫、又、新大夫と、代々、かはるがはる名のりて、【祿、玄米六百石。】今、目付役をつとむる重大夫、則《すなはち》、その末なり。只野家近親なる故、ことのよしは、しれり。杉原家にても、『世人、あらぬことをまことしやかに唱ふるは、をかし』と思ふべけれど、『我こそ高尾が末なり』と名のらんも、おもだゝしからねば[やぶちゃん注:名誉なことではないので。]、おしだまりて聞《きき》ながしをることなりき。

 又、「白石の女《をんな》あだ打《うち》」とて、「宮城野しのぶ」などいふも、またく、なきことなり。

 此兩說は、作りもの、世にひろごりしなり。【解云、只野氏は、則、このさうしの作者、

眞葛の良人なり。その實錄たること、うたがひなきものか。高尾の墓、仙臺に在り。「兎園小說」に載せたりき。倂見《あはせみ》るべし。】【解云、「白石の仇討」は、享保の比、その風聞ありしを、「月堂見聞集」に載《のせ》て、『虛實詳ならず』といへり。縱《たとひ》その事ありとても、慶安以前の事ならず。享保中の風聞なり。世に傳ふる俗書の妄誕《まうたん》、かゝること多かり。】

 

[やぶちゃん注:さても、ここで真葛は高尾が身請けされて、仙台に迎えられ、後代も出来、綱宗から杉原の姓を受けて、今もある杉原家は、その高尾の嫡孫であるのが真実だという、ちょっと驚くべきことを言っているのである。ところが、これに早くに冷徹な批判の目を向けた大家がいる。一人が「大言海」で知られる大槻文彦であり、今一人が森鷗外である。鷗外は大五(一九一六)年一月一日から同八日まで全六回で『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に「椙原品(すぎのはらしな)」という考証物をものしており(リンク先は「青空文庫」。新字旧仮名)、そこで先行して批判した大槻の評を搦めながら、記している(但し、鷗外は真葛(只野綾子)のことを『文子』と記している)。「一」と「二」の途中まで引用する(漢字は恣意的に概ね正字化し、読みは一部に留めた。「青空文庫」版には一部に不審があったので、所持する岩波書店「鷗外選集」で訂した)。

   *

 私が大禮に參列するために京都へ立たうとしてゐる時であつた。私の加盟してゐる某社の雜誌が來たので、忙しい中にざつと目を通した。すると仙臺に高尾の後裔がゐると云ふ話が出てゐるのを見た。これは傳說の誤であつて、しかもそれが誤だと云ふことは、大槻文彥さんがあらゆる方面から遺憾なく立證してゐる。どうして今になつてこんな誤が事新しく書かれただらうと云ふことを思つて見ると、そこには大いに考へて見て好い道理が存じてゐるのである。

 誰でも著述に從事してゐるものは思ふことであるが、著述がどれ丈だけ人に讀まれるかは問題である。著述が世に公(おほやけ)にせられると、そこには人がそれを讀み得ると云ふポツシビリテエが生ずる。しかし實にそれを讀む人は少數である。一般の人に讀者が少いばかりではない。讀書家と稱して好い人だつて、其讀書力には際限がある。澤山出る書籍を悉く讀むわけには行かない。そこで某雜誌に書いたやうな、歷史に趣味を有する人でも、切角の大槻さんの發表に心附かずにゐることになるのである。

 某雜誌の記事は奧州話(あうしうばなし)と云ふ書に本づいてゐる。あの書は仙臺の工藤平助(くどうへいすけ)と云ふ人の女(むすめ)で、只野伊賀(たゞのいが)と云ふ人の妻になつた文子(あやこ)と云ふものゝ著述で、文子は瀧澤馬琴に識られてゐたので、多少名高くなつてゐる。しかし奧州話は大槻さんも知つてゐて、辨妄(べんまう)の筆を把(と)つてゐるのである。

 文子の說によれば、伊達綱宗は新吉原の娼妓高尾を身受(みうけ)して、仙臺に連れて歸つた。高尾は仙臺で老いて亡くなつた。墓は荒町(あらまち)の佛眼寺(ぶつげんじ)にある、其子孫が椙原氏(すぎのはらうぢ)だと云ふことになつてゐる。

 これは大(おほい)に錯(あやま)つてゐる。伊達綱宗は万治元年に歿した父忠宗の跡を繼いだ。踰(こ)えて三年二月朔(ついたち)に小石川の堀浚(ほりざらへ)を幕府から命ぜられ、三月に仙臺から江戶へ出て、工事を起した。筋違橋(すぢかへばし)卽ち今の万世橋から牛込土橋までの間の工事である。これがために綱宗は吉祥寺の裏門内に設けられた小屋場へ、監視をしに出向いた。吉祥寺は今駒込にある寺で、當時まだ水道橋の北のたもと、東側にあつたのである。この往來(ゆきき)の間に、綱宗は吉原へ通ひはじめた。これは當時の諸侯としては類のない事ではなかつたが、それが誇大に言ひ做(な)され、意外に早く幕府に聞えたには、綱宗を陷いれようとしてゐた人達の手傳があつたものと見える。綱宗は不行迹の廉(かど)を以て、七月十三日にに逼塞を命ぜられて、芝濱の屋敷から品川に遷(うつ)つた。芝濱の屋敷は今の新橋停車場の眞中程であつたさうである。次いで八月二十五日に、嫡子龜千代が家督した。此時綱宗は二十歲、龜千代は僅かに二歲であつた。堀浚は矢張伊達家で繼續することになつたので、翌年工事を竣(をは)つた。そこで綱宗の吉原へ通つた時、何屋の誰の許もとへ通つたかと云ふと、それは京町の山本屋と云ふ家の薰(かをる)と云ふ女であつたらしい。それが決して三浦屋の高尾でなかつたと云ふ反證には、當時万治二年三月から七月までの間には、三浦屋に高尾と云ふ女がゐなかつたと云ふ事實がある。綱宗の通ふべき高尾と云ふ女がゐない上は、それを身受しやうがない。其上、綱宗は品川の屋敷に蟄居して以來、仙臺へは往かずに、天和三年に四十四歲で剃髮して嘉心(かしん)と號し、正德元年六月六日に七十二歲で歿した。綱宗に身受せられた女があつた所で、それが仙臺へ連れて行かれる筈がない。

 文子は綱宗が高尾を身受して舟に載せて出て、三股(みつまた)で斬つたと云ふ俗說を反駁する積で、高尾が仙臺へ連れて行かれて、子孫を彼地に殘したと書いたのだが、それは誤を以て誤に代へたのである。[やぶちゃん注:ここまでが「一」。以下、標題「二」を外して行空けで続ける。]

 

 然らば奧州話にある佛眼寺の墓の主(ぬし)は何人(なんぴと)かと云ふに、これは綱宗の妾(せふ)品(しな)と云ふ女で、初から椙原氏であつたから、子孫も椙原氏を稱したのである。品は吉原にゐた女でもなければ、高尾でもない。

 品は一體どんな女であつたか。私は品川に於ける綱宗を主人公にして一つの物語を書かうと思つて、餘程久しい間、其結構を工夫してゐた。綱宗は凡庸人ではない。和歌を善くし、筆札(ひつさつ)を善くし、繪畫を善くした。十九歲で家督をして、六十二萬石の大名たること僅わづかに二年。二十一歲の時、叔父伊達兵部少輔(せういう)宗勝を中心としたイントリイグ[やぶちゃん注:Intrigue。陰謀。]に陷いつて蟄居の身となつた。それから四十四歲で落飾するまで、一子龜千代の綱村にだに面會することが出來なかつた。龜千代は寬文九年に十一歲で總次郞綱基となり、踰えて十一年、兵部宗勝の嫡子東市正(いちのかみ)宗興の表面上の外舅(ぐわいきう)となり、宗勝を贔屓した酒井雅樂頭(うたのかみ)忠淸が邸(やしき)での原田甲斐の刄傷事件があつて、將に失はんとした本領を安堵し、延寶五年に十九歲で綱村と名告(なの)つたのである。暗中の仇敵たる宗勝は、父子の對面に先だつこと四年、延寶七年に亡くなつてゐた。綱宗はこれより前も、これから後老年に至るまでも、幽閉の身の上でゐて、その銷遣(せうけん)[やぶちゃん注:憂さ晴らし。]のすさびに殘した書畫には、往々知過必改(ちくわひつかい)と云ふ印を用ゐた。綱宗の藝能は書畫や和歌ばかりではない。蒔繪を造り、陶器を作り、又刀劍をも鍛へた。私は此人が政治の上に發揮することの出來なかつた精力を、藝術の方面に傾注したのを面白く思ふ。面白いのはこゝに止まらない。綱宗は籠居のために意氣を挫かれずにゐた。品川の屋敷の障子に、當時まだ珍しかつた硝子板四百餘枚を嵌めさせたが、その大きいのは一枚七十兩で買つたと云ふことである。その豪邁の氣象が想ひ遣られるではないか。かう云ふ人物の綱宗に仕へて、其晚年に至るまで愛せられてゐた品と云ふ女も、恐らくは尋常の女ではなかつただらう。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

なお、村上祐紀氏の論文「〈立證〉と〈創造力〉――森鷗外「椙原品」論」筑波大学国語国文学会発行『日本語と日本文学』(二〇〇七年二月・こちらでPDFでダウン・ロード可能)も非常に参考になるので、読まれたい。ただ、これらを読んで思うのは、結局、高尾だけでなく、それを記した真葛という女性作家も、さらに冒頭、今になって古臭い噓話を雑誌に書いている阿呆扱いの記者(これも宮城野萩子というペンネームから恐らく女性であろうか(或いはあまりにクサいペン・ネームであるのは男性の仮託かもという気はせぬでもない)。記事は「實說伊達騷動」(『家庭雜誌』大正四(一九一五)年十月発行)である。しかし、村上氏の論文で判る通り、真葛の高尾杉原説など、そこには実は、書かれていないのである。則ち、鷗外はこの女性記者をも冤罪の犠牲にして、自己の歴史検証法を闡明しているというのであるから、私は開いた口が塞がらぬのである)までも巻き込んで、三人が三人とも、単なる狂言役者の役割しか与えられず、「誤を以て誤に代へた」と鷗外から一蹴され、彼女たちそれぞれの正当な評価も微塵もされることなく、「嘘つきの変な女」として苦界へ退場させられてしまっているのが、いわくいいがたい、何とも言えぬ鷗外の女性差別の視線に対する怒りを私は激しく抱かざるを得ないのである。因みに、本文の「杉原」を「すぎのはら」と読んだのは、鷗外のそれに拠ったものである。

「高尾」高尾太夫。吉原の太夫の筆頭ともされる源氏名で、三浦屋に伝わった大名跡。吉原で最も有名な遊女で、その名にふさわしい女性が現れると、代々襲名された名で、「吉野太夫」と「夕霧太夫」とともに三名妓(寛永三名妓)と呼ばれる。ここで語られるのは、その中でも最も知られた二代目高尾太夫。ウィキの「高尾太夫」によれば、「万治高尾」「仙台高尾」「道哲高尾」とも呼ばれる。十一代あった中で『最も有名で多くの挿話があるが、その真偽は不明である』。「伊達騒動」絡みで、第三代『陸奥仙台藩主・伊達綱宗』(寛永一七(一六四〇)年~正徳元(一七一一)年)『の意に従わなかったために、三叉』(みつまた:現在の日本橋中洲)『の船中で惨殺されたというのはその一つである』とし、万治三(一六六〇)年に没し、『墓所は東京都豊島区巣鴨の西方寺(元は新吉原近くの浅草日本堤にあったが、昭和初期に移転)したとある。ウィキの「伊達綱宗」にも、『綱宗が酒色に溺れ、僅か』二『歳の長男・綱村が藩主となったことは、後の伊達騒動のきっかけになった。しかし、伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の高尾太夫の身請けや』、『つるし斬りなどは俗説とされる』とある。

「うた」不詳。この当時の以下の芝居などをもとに作られた俗謡であろうか。なお、ウィキの「高尾太夫」の画像に明治一八(一九八五)年の刷りの月岡芳年の「月百姿」の一枚の彼女の浮世絵があるが、そこに記されている、

 君は今駒かたあたりほとゝきす

という題代わりに用いられた句は、キャプションに、『隅田川を渡って帰る伊達綱宗へ詠んだものである』とある。

「上瑠璃(じやうるり)」浄瑠璃「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」が最も知られる。

「杉原重大夫、又、新大夫と、代々、かはるがはる名のりて、【祿、玄米六百石。】今、目付役をつとむる重大夫、則《すなはち》、その末なり。只野家近親なる故、ことのよしは、しれり。杉原家にても、『世人、あらぬことをまことしやかに唱ふるは、をかし』と思ふべけれど、『我こそ高尾が末なり』と名のらんも、おもだゝしからねば、おしだまりて聞《きき》ながしをることなりき」鷗外が「杉原品」の後半で考察する通り、この杉原氏が、遠く播磨赤松家の一族であった椙原(すぎのはら)伊賀守賢盛(かたもり)という由緒を持ち、その末裔の品(しな)が綱宗に近侍し、彼の子孫を伝えたとなら、まさに軍医森鷗外に言わせるなら、こう平然と書く真葛は――妄想傾向の強い性質の悪い精神病――ということになるんだろうなぁ。当の椙原家も大迷惑だわな。しかも、只野家の近親だぜ? 私(あっし)には、よく判らないねえ、幾ら御大鷗外先生でも、「杉原品」の中で、先に言ったような、嘘を書いて論展開してる日にゃ、まことしやかであっても、信ずる気には、なんねえ。だいたいからして、その三女性蔑視を差し置いておいて、最後に、『綱宗入道嘉心は此後二十五年の久しい年月を、品と二人で暮したと云つても大過なからう。これは別に證據はないが、私は豪邁の氣象を以て不幸の境遇に耐へてゐた嘉心を慰めた品を、啻(たゞ)誠實であつたのみでなく、氣骨のある女丈夫であつたやうに想像することを禁じ得ない』としっぽりゆくなんざ、三文芝居のお笑いでげしょう?! 証拠がなくても――それが文学史の授業で言うた「歴史離れ」というやつで御座んすね? 鷗外センセー? だったら、そんなセコイことせんと、高尾も真葛も、ドーンと法要、基! 抱擁しておやんなせえよ?! あんたのせいで脚気衝心で死んじまった無数の帝国陸軍兵士の供養の代わりに、よ! 都合よく失神してエリス発狂の責任を巧妙にゴマかした太田豊太郎、いやさ、森林太郎さんよ!!!

「白石の女《をんな》あだ打《うち》」「宮城野しのぶ」「ニコニコ大百科」の「宮城野・信夫の仇討」によれば、『史実を元にした江戸時代の仇討伝の総称で』、『浄瑠璃、歌舞伎を始めとして神楽、狂言、浮世絵、貸本と媒体を選ばず、民衆の間で大流行を巻き起こし』、『その物語は孝女の範として日本全国へ広まり、北は青森の津軽じょんがら節から、南は沖縄の組踊「姉妹敵討(しまいてぃうち)」まで伝播の過程で様々な芸能に変化している』として、非常に丁寧なシノプシスが記されているので読まれたい。姉妹の百姓の父を切り捨てにされた仇討で、リンク先のものでは、奥州白石の逆戸村に住む百姓与太郎とその娘満千(まち)・園(その)の二人姉妹となっている。そうして、その修練のシークエンスには、かの由比正雪が登場する。さて、「史実部分の概要」によれば、『仇討の仔細が世に発せられた最古の証しは、本島知辰(もとじま ちしん/ともたつ)が著した「月堂見聞集」巻之十五』(後注する)に、享保八(一七二三)年四月のクレジットで、『仙台より写し来たる敵討の事と題し』、『おおよそ以下のように書き記して』あるとする。享保三(一七一八)年のこと、『松平陸奥守様(伊達吉村)の御家老・片倉小十郎殿(片倉村定)が知行の内』の、『足立村に四郎左衛門という百姓がいた』が、『小十郎殿の剣術師範に田辺志摩という』一千『石取りの侍がおり、領地検分の供回りをしていたところ、四郎衛門が前を横切ったとして無礼討ちにした』。『この時残された娘二人は姉』十一『歳、妹』八『歳であり、領内を退居して陸奥守様の剣術師範である瀧本伝八郎へ奉公することになった』。『姉妹は』六『年もの間』、『密かに剣術の稽古を盗み見て覚え、修練を積んだ』。『ある時、下女の女部屋から木刀を振る音が聞こえ、不審に思った伝八郎が戸を開けると』、『姉妹が稽古をしている姿を目撃した』。『わけを聞くと』、『姉妹は仇討を志していると言い、感心した伝八郎は正式に稽古をつけて秘伝の技を教え込んだ』。『寸志を遂げさせようと』、『事の次第を陸奥守様へ伝えたところ、白鳥大明神の宮の前へ矢来を組んで』、享保八年三月に『勝負することを仰せ付けられた』。『仙台御家中衆が警固検分を務める中、姉妹は数刻に渡って打ち合い、二人が替る替る戦って程なく』、『志摩を袈裟切りに斬り付けた。最後は姉が走り寄って止めをさした』。『陸奥守様は御機嫌斜めならず、姉妹を家中の者へ養女に迎えるよう申し付けたところ、二人は共に辞退した』。『その上』、『「仇とは言え』、『人殺しの罪は逃れられず、願わくば如何ようとも御仕置きを仰せ付けられ下されますよう」と申し上げたので、なお以って皆は感心した』。『そこへ伝八郎がやってきて姉妹に向かい、わたしも一時とは言え』、『二人の主人であり、また剣術指南を恩と思うならば』、『この意は受けなくてはなりません』、『と心細やかに諭されたので、姉妹は翻意して』、『お殿様の御意向に従った』。『姉は当年』十六『歳で御家老』三『万石の伊達安房殿(伊達村成)へ、妹は同』十三『歳で大小路権九郎殿へ引き取られた』。『権九郎殿は陸奥守様より妹が負った手傷の養生を仰せ付けられた』。『ただし』、『結びの部分は「実否の義は存ぜず候(ホントかどうかは知らない)」としてある』。『本島知辰がどこで執筆したかは定かでないが』、享保八年の『時点で』、『この仇討伝が仙台藩の外へ出たことは間違いない』とある。

『高尾の墓、仙臺に在り。「兎園小說」に載せたりき。倂見るべし』「兎園小說」はオムニバス共著随筆。編者は滝沢解(曲亭馬琴)。文政八(一八二五)年成立。同年、滝沢解・山崎美成を主導者として、屋代弘賢・関思亮・西原好和ら計十二名の好事家によって、江戸や諸国の奇事異聞を持ち寄る「兎園会」と称する月一回の寄合いが持たれ、その文稿が回覧されたが、その集大成が本書。本集全十二巻の他、会が絶えた後も、馬琴の怪奇談蒐集は続き、本集以外に外集・別集・拾遺・余録がある。私もオリジナル授業案「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」で二篇扱っており、いつか全篇を電子化したいと思っている。ここで言っているのは、本集の第九集(文政八年九月一日に行われた兎園会の記録)で輪池堂(国学者屋代弘賢(宝暦八(一七五八)年~天保一二(一八四一)年の号)の発表した以下。というより、最後の仙台の高尾の墓と称する戒名の拓本からの記載以外は馬琴の持っていた本篇をそっくり引き写したものである。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。

   *

   ○遊女高雄

著作堂[やぶちゃん注:馬琴。]の珍蔵に「みちのくざうし」といふ有り。それは陸奥の太守の醫師工藤平助が女の、同藩只野氏に嫁して仙臺に在りしが筆記なり。その中に、高雄が事跡をしるしたり。世の妄説を正すにたれり。曰、昔の國主、たか尾といふ遊女を、こがねにかへてくるわを出だし給ひて、御たちまでもめし入れられず。中す川【頭書、中す中は中洲川にて則三派の事なり。後までも中洲といふをもて知るべし。[やぶちゃん注:これは一言言わずにゃ気が済まない馬琴のそれ。]】にて切りはふらせ給ふと、世の人思へるはあらぬことなり。是は、うた・上るりにおもしろし事添へて作りなどして、やがて誠のごとく成りしものなり。高雄は、やはり御たちにめしつかはれて、のち老女と成りて、老後、跡をたて終はりしは、番士杉原重太夫、又新太夫と、代々、かはるがはる、名のりて、【祿、玄米六百石。】今、目付役をつとむる重太夫は、その末なり。只野家近親なる故、ことのよしはしれり。杉原家にても、世の人、あらぬことを、まことしやかにとなふるは、をかし、と思ふべけれど、我こそ高尾が末なりと名のらんにも、おもたゞしからねば[やぶちゃん注:ママ。]、おしたまりて[やぶちゃん注:ママ。]聞きながしをるとなり。これを、いと珍らしきことゝおもひて、たづねおきけるに、この比、ある人のもとより、その法號、葬地等の書付を、著作堂の主にしめさんとて、こゝに、のす。その記に曰、仙臺の人、なにがし、遊女高雄が墓碑を、すりてもちたるを、四谷にすめる醫生淺井春昌といふものゝうつしたりとて、島田某の見せたるを、しるす。

 二代目 享保元丙申年

   ○ 淨休院妙讃日晴大姉

  三巴の紋十一月廿五日                   杉原常之助

    于時正德五年二月二十九日       逆修 源範淸義母 行年七十七歲

右の碑、仙臺荒町法竜山佛眼寺に在り。仙臺の人のいふ、高尾、實は國侯に従ひて、奥州にいたる。杉原常之助といふは、義子にて、名跡をたて給ひたるにいひ傳ふ。享保元年七十八歲にて天壽を終ふといふ。

 綱宗側臣は、正德元年六月四目卒去、享年七十六歳。仙臺瑞鳳寺に葬る、法號雄山公威見性院といふ。

   *

現在の宮城県仙台市若林区荒町にある日蓮正宗法龍山佛眼寺(ぶつげんじ・グーグル・マップ・データ)にあるこの戒名「淨休院妙讃日晴大姉」とあるのは、鷗外の示した、伊達綱宗の側室の一人である品(しな)の墓である。また、「綱宗側臣」は椙原家の誰を指しているのかよく判らぬが、それよりも、この「瑞鳳寺」が、しっかり品絡みで、しかも「高尾門」と呼ぶ門があるのである。こう俗称されている門は品の屋敷にあったものを移築したものであると、サイト「かっちゃんの歩いて撮ったハイキング記録」の同寺のページにある。さても、特にこの混淆伝承自体や鷗外の称揚する「お品さん」には私は食指が動かない。飽きがきた。ケリをつけるには、岡林リョウ氏のブログ「揺りかごから酒場まで☆少額微動隊」の「仙台高尾の足跡を追え!(遊女供養塔刻銘、出身地、昭和明治写真追加、高尾考挿絵追加、仙台の高尾門、通称高尾墓写真、昭和初期写真を追記)ついでに薄雲太夫の墓参り。→結論めいたことまで→明治中期お品資料追加」という記事がテツテ的に追跡していて、写真も豊富で、且つ、面白い。これで〆とする。

「月堂見聞集」(げつどうけんもんしゅう:現代仮名遣)は元禄一〇(一六九七)年から享保一九(一七三四)年までの見聞雑録。「岡野隨筆」「月堂見聞類從」とも呼ぶ。本島知辰(月堂)著。全二十九巻。江戸・京都・大坂を主として、諸国の巷説を記し、政治・経済から時事・風俗にまで亙っており、自己の意見を記さず、淡々と事蹟を書き記してある。大火・地震・洪水の天災を始め、将軍宣下、大名国替、朝鮮・琉球人の来聘、世を騒がせた一件(御家騒動・「江島生島」事件・刃傷沙汰など)、享保十二年の美作津山百姓一揆、翌十三年の象の献上のことなど、実録体で、参考になる記事も多い。明治大正二(一九一三)年国書刊行会刊の「近世風俗見聞集 第二」国立国会図書館デジタルコレクションのここで読める(右ページ下段中央から始まる「○仙臺より寫來候敵討之事」)。確かに一番最後に、「右之書付實否之義不ㇾ存候得共、仙臺より參候由、世間風說在ㇾ之故留置候、以上」とある。ということは、風説として既に広まっていたもので、今回、現地仙台からも来書したので書き留めたと言っている辺りは、う~ん、怪しすぎるなぁ。

「慶安」(一六四八年~一六五二年)「以前の事」恐らく馬琴の読んだそれにも由比正雪が出て来るように脚色されていたからであろう。「由比正雪の乱」は慶安四(一六五一)年四月から七月にかけて起こった。

「妄誕《まうたん》」出鱈目な話。]

南方熊楠 西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語 (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究) 1

 

[やぶちゃん注:本論考は明治四四(一九一一)年三月発行の『東京人類學會雜誌』第二十六巻三百号)初出で(初出は「J-STAGE」のこちらPDF)で読める)、大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された単行本「南方隨筆」に収録された。

 底本は同書初版本を国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像で視認して用いた。

 但し、加工データとして、前の「小兒と魔除」注釈中、サイト「私設万葉文庫」(この堅実な電子化サイトは古くから知っていたが(どういう方が作っておられるかも知っている)、「万葉集」は永く私の興味圏外にあったため、ここ十数年以上、訪問していなかった)に平凡社の「南方熊楠全集」の本文電子化(全部ではないが、主要邦文論文部はカヴァーされている)があることを発見したため、今回からは、そちらにある電子テクスト(底本は平凡社「南方熊楠全集」第二巻(南方閑話・南方随筆・続南方随筆)一九七一年刊)を加工データとして使用させて戴くこととした。ここに御礼申し上げる。疑問箇所は所持する平凡社「南方熊楠選集3」の「南方随筆」(新字新仮名)で校合した。

 但し、既に「小兒と魔除」の注で遂に爆発憤激して述べたが、少なくとも、この全集を親本とした私の所持する「選集」は、熊楠の肉声を不当に(厳密な細かな書き換え基準を設けずに)、ただただ読み易けりゃいい的に恣意的に標準化しており、甚だ問題があることが判った。これは「選集」が「全集」の校訂方針に拠っていると述べている以上、「全集」もそうした変更が行われているものと思われる。そう言った舌が干ぬ間に、冒頭本文内注で、またしても、私の癇癪が暴発した。お付き合い戴きたい。

 段落に附した注の後は一行空け、前注の場合も前後を一行空けた。

 なお、欧文書誌データの表記の不審部分(実は不全・不審部分が甚だ多い)は上記「選集」に拠って修正した。但し、それは五月蠅いだけになるので、原則、注記していない。

 またしても、いろいろ本文校訂に問題が多過ぎるので、ブログでは分割して示す。]

 

 

   西曆九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語

     (異れる民族間に存する類似古話の比較硏究)

 

 明治四十一年六月の早稻田文學、予の「大日本時代史に載せたる古話三則」中に述し如く、古話に其土特有の者と、他邦より傳來のも者と有り、又古く各民族未だ分立せざりし時代すでに世に存せしと覺しく、廣く諸方に弘通され居たる者有、一々之を識別するは、十分材料を集め、整理硏究せる後ならで叶はぬ事也、而して、故「イサアク、テロロル」の原殆「アリアン」人篇に「レツツ」「リチユアニアンス」等の諸語は、由來頗る古き者乍ら、記錄無く、文章無かりし爲、希臘羅丁[やぶちゃん注:「ラテン」。]程に古く思はぬ人多しと論ぜると等しく、古話に於ても、記錄せる時代の先後は、必しも其話が出來せし[やぶちゃん注:「しゆつたいせし」。]早晚と偕はず[やぶちゃん注:「ともなはず」。]、併し[やぶちゃん注:「しかし」。]齊しく文筆の用を知りおりたる諸國民に就て、同種古話の記錄の先後と、類似せる諸點の多寡を察すれば、大要其譚の、先つて何れの國に專ら行はれ出たるを知るに難からじ、外國の古話を吾國に輸入せしと思はるゝ一二の例を擧んに、左大史小槻季繼記に、「太政大臣實基公(嘉祿元年十一月十日補せらる)檢非違使別當の時、八歲の男子を、二人の女、面々に我子の由を稱しける間だ、法曹輩計申云、任法意旨、三人が血を出して、流水に流す時、眞實の骨肉の血、末にて一つに成り、他人の血氣は末にて別也、如此可沙汰之由、計申處、大理云、八歲者可血之條、尤不便事也、今度沙汰の時、彼三人並諸官等、可參之由、被仰て、其日遂不被決雌雄、後沙汰日、彼三人諸官等令參之時、數刻之後、大理出座、被仰云、件女性兩人して、此男子を引て、引取らむを母と可申由被計ける時、二人して此子を引けるに、引れて損ぜんとする時に、一人の女は放ち、今一人は只引勝んとす、如此する事度々、其時大理云、放つる女は實母也、勞はるに由て此如放つ者也、今一人は無勞心、只勝んと思ふ心計にて引也云々、無相違、放つる女は母也、當座被引は、荒ふには似たれども、思慮の深き處也、實基公は法曹に達する人也」と見ゆ、古事類苑法律部第一册、一一七三頁に、此記を引き、次に風俗通を引て云、前漢、潁川太守、黃霸、本郡有富室兄弟同居、弟婦懷姙、其長姒亦懷姙胎傷匿之、弟婦生男、長姒輒奪取、以爲己子、論爭三年、附於霸、霸使人抱兒於庭中、及使娣(稚婦)姒競取之、既而俱至、姒持之甚猛、弟婦恐有傷於手、而情甚凄慘、霸、乃叱長姒曰、汝貪家財、欲得此子、寧慮意頓有所傷乎、此事審矣、姒伏罪、「アラビヤ」夜譚には、一人兩妻を具せしが、兩妻同時同室に、一產婆に助けられて分挽し、生まれたる男兒は活き、女兒は卽座に死しければ、兩妻一男兒を爭ふて賢相に訴ふ、賢相二婦の乳汁を空卵殼に盛り、秤り比べて、汁の重き方を男兒の母と斷定せしも、他の一婦服せず、喧嘩已まざりければ、賢相今は其兒を二つに割て[やぶちゃん注:「さきて」。]、一半を各に與んと言ふに、乳汁重き女、最早爭ひを止む可れば、子を他の女に與え玉へと言ふに反し、今一人の女は、願くは兒の一半を與へよと言ふ、賢相便ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]汁輕き女を絞殺せしめ、兒を汁重き女に附すと有り(Burton, ‘Supplemental Nights,’ 1894, Vol.xi, pp. 51―53.)、皆人の知る如く、舊約全書(1.  Kings iii, 16―20)に載せたる「ソロモン」の裁判は、此話の最古く傳はれるも者にて、色々の補刪[やぶちゃん注:「ほさん」。添削。]を經て漢土本邦迄も入來れるなるべし、又前年、坪内博士が、早稻田文學にて公表せられし、幸若の舞曲、其から淨瑠璃等に名高き百合若の話は、希臘の「ユリツセス」の傳に基くてふ考說抔、素人が日本固有の美譚と思込だる者にも、實は舶來の燒直し無きに非ざるを證するに餘有り、

[やぶちゃん注:まだこの話は次段でも続くのであるが、あまりに問題が多過ぎるので、ここで注する。

『明治四十一年』(一九〇八年)『六月の早稻田文學、予の「大日本時代史に載せたる古話三則」中に述し如く、古話に其土特有の者と、他邦より傳來のも者と有り』これは本篇の三年前に雑誌『早稻田文學』第三十一号に載った熊楠の論考であるが、初出でも同じ題名であるものの、実際には正しくは「大日本時代史に載する古話三則」である。「全集」でしか読めないが、幸い、先に示した「私設万葉文庫」の「南方熊楠全集3(雑誌論考Ⅰ)」で読むことが出来る。まず、「大日本時代史」であるが、この熊楠の論考は確信犯の投稿であって、前年の明治四十年からこの年にかけて早稲田大学出版部から刊行された時代別に分割された歴史書で、著者も異なる(「国立国会図書館サーチ」の同書の検索結果ページのこちらを参照)。原本は、後の大正期の版ではあるが、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらで全巻が読める。さて、熊楠の論考は冒頭で主に『米糞聖人の話(「平安朝史」一六一頁)、醍醐天皇哭声を聞きて婦人の姦を知りたまいし話(同、三四五-六頁)、毛利元就箭を折りて子を誡めし話(「安土桃山史」一九二-三頁)』の三つの伝承について扱うと述べていて(但し、イントロダクションで、それ以外の事例を幾つか挙げてある)、これまた、なかなか面白い。是非読まれたい。

「弘通」「ぐつう」。本来は仏教用語で、仏教が(を)広く世に行われる(せる)ことのみを指すが、ここは汎用使用したもの。

『「イサアク、テロロル」の原殆「アリアン」人篇』いろいろな欧文文字列で試してみたが、不詳。識者の御教授を乞う。

「レツツ」不詳。同前。

「リチユアニアンス」不詳。同前。

「左大史小槻季繼記」小槻季継(おづきのすえつぐ 建久三(一一九二)年~寛元二(一二四四)年)は鎌倉中期の官人で算博士(大学寮にあって計算・測量などの数学技術の教授職)小槻公尚の子。官位は正五位上・左大史(神祇官・太政官(弁官局)に置かれた。四等官四番目である主典(さかん)相当。官位相当)。元仁元(一二二四)年、壬生流の国宗の死のあとを受けて官務となり、二十一年間に亙って在職し、大宮官務家の基礎を固めたが、国宗から官務の地位とともに伝えられた所領を、大宮家のみで独占しようとしたといわれており、同家と壬生家とが相論を重ねるきっかけを作っている。他に修理東大寺大仏長官・備前権介・紀伊守・筑前守などの地方官を兼任している。但し、現在のこの「左大史小槻季継記」として流布している日記は、実は季継の息子の秀氏の日記であることが判明している。「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」の「歴代残闕日記」(第三十八巻)の「33」コマ目(左頁五行目)に当該部を発見した。明治期の写本で非常に読み易い(但し、熊楠は孫引きで、「古事類苑法律部第一册、一一七三頁に、此記を引き」(後掲する)とある。左ページ三行目から)。電子化しておく。【 】は右傍注。カタカナは概ね右寄りに小さいが、同ポイントで示し、記号・句読点などを施し、一部に( )で推定の読みを施し、段落を成形して読み易くした。一部が朱で訂された方を採った。

   *

 太政大臣實基公【嘉祿元年十一十、補。】、撿非違使別當ノ時、八歳男子ヲ、二人ノ女、面々ニ、

「我子。」

ノ由ヲ稱シケル間、法曹輩(はふさうのはい)、計申云(はかりまうしていはく)、「任法意旨(はふにまかすのいし)、三人ガ血ヲ出(いだし)テ、流水ニ流ストキ、眞實ノ骨肉ノ血ハ、末ニテ一(ひとつ)ニ成リ、他人ノ血氣ハ末ニテ別ナリ。如此、可沙汰。」

之由、計申處、大理云、

「八歳者、可血(ちすべし)之條、尤(もつとも)不便(ふびんの)事也。今度、沙汰之時、彼三人并(ならびに)諸官等、可參。」

之由、被仰テ、其日、遂不被決雌雄。

 後、沙汰日、彼三人・諸官等、令參(まゐらせしむ)之時、數刻之後、大理出座、被仰云、

「件(くだんの)女性、兩人シテ、此男子ヲ引(ひき)テ、引取ラムヲ、母ト可用(もちふべき)。」

由、被計(はかられ)ケル時、二人シテ、此子ヲ引ケルニ、被引(ひかれ)テ損セントスル時ハ、一人ノ女ハ、放チ、今一人ハ、只(ただ)引勝(ひきかたん)トス。如此スル事、度〻(たびたび)。

 其時、大理云、

「放ツル女は實母也。イタハルニヨリテ、此如、放(はなつ)モノ也(なり)。今一人ハ無勞心(いたはりのこころなく)、只、勝ント思(おもふ)心計(ばかり)ニテ引也。」云々。

 無相違(さうゐなく)、放ツル女ハ母也。當座、被引(ひかされし)ハ荒(あらき)ニハ似タレ𪜈(ども)[やぶちゃん注:当初、二人の女に引っ張らさせたのは荒っぽい仕儀には、一見、見えるけれども。]、思慮ノ深キトコロ也。實基公ハ法曹ニ達スル人也。

   *

「太政大臣實基」徳大寺実基(建仁元(一二〇一)年~文永一〇(一二七三)年)は鎌倉中期の公卿で従一位・太政大臣。

「嘉祿元年」一二二五年。

「十一月十日補せらる」これは一見誰もが太政大臣へ補任の年月日と思ってしまうが、彼が太政大臣となるのは、ずっと後の建長五(一二五三)年十一月二十四日である。では、これは誤記かと言うと、そうでもない。日付はちょっと違うが、この嘉禄元年十一月十九日に権中納言・左衛門督を兼ねて検非違使別当に補されているからである。

「荒ふには似たれども」この「荒ふ」は初出も同じである。「選集」では「荒(やぶ)る」と勝手に送り仮名まで変えてルビを振るが、こんなことは許されない。私は「荒っぽい仕方をする」の意の「あらぶる」の「る」の脱字か、「すさぶ」の「ぶ」の誤植ではないか疑っており、その次に熊楠の当て訓で「あらがふ」かと思う。それは「荒ふ」に相当する和語の動詞が存在しないからである。そもそも「やぶる」は正規の訓や意味はないから、実は話にさえならぬのである。どうしてこうした改変や、おかしな当て訓が編集方針の中でまかり通るのか私には全く以って不思議でならないのである。因みに、原本は「故事類苑」版でも「荒ニハ」であるから、私は「あらきには」と気持ちよく訓読したのである。

「古事類苑法律部第一册、一一七三頁に、此記を引き、次に風俗通を引て云」「古事類苑」が明治期に政府が編纂した類書(百科事典)。本文千巻。刊本は和装本で三百五十冊、洋装本では五十冊・索引一冊 (昭和二(一九二七)年再版では六十冊)。明治一二(一八七九)年に西村茂樹の建議で文部省に編纂係が設けられ、刊行開始は明治二十九年にずれ込み。大正二(一九一三)年になってやっと完結した。内容は歴代の制度・文物・社会百般に亙って多くの引用を示してある。天・歳時・地・神祇などの三十部門に分類されてある。現在、「PukiWiki 古事類苑全文データベース」・「古事類苑データベース」・「国際日本文化研究センター・古事類苑ページ検索システム」が起動している。それぞれに使い勝手に合わせて私は頻繁に使用させて貰っている。お試しあれ。「風俗通」は後漢末の応劭の撰した「風俗通義」の略称。さまざまな制度・習俗・伝説・民間信仰などについて述べたもの。但し、散佚しており、以下のように他書に引用された断片が残る。さてもそれを「日文研」の「古事類苑ページ検索システム」のこちらで、当該箇所の原本画像を視認出来る。以下、原文をまず電子化し(句読点を一部追加し、返り点は除去した)、後で訓読する。

   *

〔棠陰比事〕黃覇叱姒

前漢、潁川太守黃霸、本郡有富室、兄弟同居、弟婦懷姙、其長姒亦懷妊、胎傷匿之、弟婦生男、長姒輒奪取、以爲己子、論爭三年、訴於霸、霸使人抱兒於庭中、及使娣【音弟、稚婦曰娣】・姒競取之、既而俱至、姒持之甚猛[やぶちゃん注:「持」は底本は「埒」で、これはおかしい。初出は「捋」(音「ラツ」)で、「選集」も「捋」となっている。後者は漢文脈を勝手に訓読しているが、そこでは『捋(ひ)く』と訓じている。しかし、これもちょっとおかしい。何故なら、この漢字は「なでる」「扱(しご)く」「抜き取る」の意であるからである。ちょっと変だ。御覧の通り、「古事類苑」は「持」である。さらに本当の引用元である「棠陰比事」を複数見たところ、やはり「持」である。「持」には「握る・持ち合う」の意があるから納得出来る。されば、「持」を採った。]、弟婦恐有傷於手[やぶちゃん注:「手」は底本では「乎」であるが、おかしい。初出も「選集」も「手」であり、御覧の通り、「古事類苑」も「手」であるので、特異的に本文を訂した。]、而情甚悽慘、霸、乃叱長姒曰、汝貪家財[やぶちゃん注:「貪」は底本では「貧」。初出・「選集」・「古事類苑」は孰れも「貪」であるから、これも本文を訂した。]、欲得此子、寧慮意伏罪【出風俗通。】[やぶちゃん注:底本は最後が「寧慮意頓有所傷乎、此事審矣、姒伏罪」。後注参照。]

   *

〔「棠陰比事(たういんひじ)」〕「黃覇叱姒(こうはしつじ)」

 前漢の潁川(えいせん)太守黃霸(こうは)あり。

 本郡に富室有り。兄弟、同居す。弟婦(ていふ)[やぶちゃん注:弟の妻。]、懷姙す。其の長姒(ちやうじ)[やぶちゃん注:兄の妻。]も亦、懷妊するも、胎、傷(こは)れ、之れを匿(かく)す。弟婦、男を生みしに、長姒、輒(すなは)ち、奪(うば)ひ取り、以つて己れが子と爲す。

 論爭すること三年、霸に訴ふ。

 霸、人をして、庭中にて、兒を抱(いだ)かしめ、及(すなは)ち、娣(てい)【音「弟」。「稚婦(ちふ)」[やぶちゃん注:弟の妻。]を「娣」と曰ふ。】・姒、競はせて、之れを取らしむ。既にして俱(とも)に至り、姒、之れを持(じ)すこと、甚だ猛(たけ)し。

 弟婦は、手を傷つくること有るを恐れ、而して、情、甚だ悽慘たり。

 霸、乃(すなは)ち、長姒を叱りて曰はく、

「汝、家財を貪り、此の子を得んと欲す。寧(いづくん)ぞ、慮意あらんや。」

と。罪に伏す。【「風俗通」に出づ。】

   *

・「潁川」当時は現在の河南省禹(う)県を指した。

・「太守」郡州の長官。

・「黃霸」第九代宣帝(在位:紀元前七四年~同四八年)の時に廷尉正(刑罰・司法を管轄する職)となり、一時期、冤罪で獄に繋がれたが、後に抜擢され、潁川太守となり、さらに丞相に登りつめた。漢代の治民の名官吏として知られる(ここは所持する岩波文庫「棠陰比事」(一九八五年刊)駒田信二訳の注に拠った)。

さても、冒頭にある通り、引いた書である「棠陰比事」(とういんひじ)は宋の桂万栄の著になる裁判記録集で、一二〇七年成立。中国古今の名裁定百四十四件の判例を、暗唱しやすいように四字の韻語で標題して収録する。日本にも早くから伝えられ、井原西鶴の「本朝櫻陰比事」(元禄二(一六八九)年板行)や知られた「大岡政談」(実録体小説。名奉行大岡忠相の裁判を主題とし、「天一坊」「白子屋阿熊(しらこやおくま)」など十六編の話からなるが、史実とは無関係のものが多く、完全な推理小説的創作である。人情と機知に富んだ古今東西の裁判の話を江戸時代のものに巧みに改変・脚色している。原作者は不詳。江戸期の講釈に起源を持つ)などに影響を与えた。原本のそれは「上」の以下。頭に同じ事例の枕がある。「中國哲學書電子化計劃」内の「棠陰比事」(四明叢書)の原本画像から起こした。

   *

李崇還泰黃覇叱姒

後魏李崇爲揚州刺史縣民荀㤗者有子三歲失之後見在趙奉伯家各言已子竝有鄰證郡縣不能斷崇乃令二父與兒各禁數日忽遣獄吏報兒暴卒泰聞之悲不自勝奉伯嗟歎而已遂以兒還泰奉伯伏罪

漢時頴川有富室兄弟同居弟婦與長姒皆懐姙長姒胎傷弟婦生男輒奪以爲己子爭訴三年郡守黃覇使人抱兒於庭令娣姒競取之長姒持之甚猛弟婦恐有所傷於手覇乃叱長姒曰汝貪家財欲得兒寧慮頓有所傷乎乃以兒還弟婦出【出風俗通】

   *

この末尾部分が熊楠の記すものとほぼ一致する。さらに探してみたところ、この近代中国語の本書(全編)の版本画像PDF)の10コマ目にあるものの末尾が、

   *

「汝貪家財、欲得此子、寧慮意頓有所傷乎。此事審矣。」姒伏罪。

   *

と完全一致することが判った。

   *

「汝、家財を貪り、此の子を得んと欲す。寧ぞ頓(とみ)に傷つくる所有るを慮(おもんぱか)り意(おも)はんや。此の事、審らかなり。」

と。姒、罪に伏す。

   *

やっと、気が晴れた。

「Burton, ‘Supplemental Nights,’ 1894, Vol.xi, pp. 51―53.」原本確認出来ず。

「舊約全書(1.  Kings iii, 16―20)に載せたる「ソロモン」の裁判」「旧約聖書」「列王紀上」の第三章の「16」から「28」。「Wikisource」の「列王紀上(口語訳)」』(一九五五年日本聖書協会刊)の当該部を読まれたい。

「前年、坪内博士が、早稻田文學にて公表せられし、幸若の舞曲、其から淨瑠璃等に名高き百合若の話」室町時代の幸若舞を起源とするとされる貴種流離譚の一つ「百合若」伝説の主人公「ゆりわかだいじん」と「ユリシーズ」の発音の類似や、話の展開の各所に見られる類似性から、現在でも「ユリシーズ」起源説が語られるが、それの先鞭をつけたのが、坪内逍遙が明治三九(一九〇六)年一月に『早稻田文學』発表した「百合若傳說の本源」である。国立国会図書館デジタルコレクションの坪内逍遙の論集「文藝瑣談」(明四十年春陽堂刊)の画像でここから視認出来る。ウィキの「百合若大臣」によれば、そこで『坪内逍遙は、古代ギリシアの詩人・ホメロスが謡った叙事詩「オデュッセイア」がなんらかの形で(あるいは室町時代にポルトガル人の手により)日本に伝えられ、それが翻案されたものこそが「百合若大臣」であるとの説を』提唱し、『オデュッセイアのラテン語での発音「ユリシス」と「百合」が似ていることや、主人公・オデュッセウスの留守を守る妻・ペネローペーが織物をして時間を稼ぎ、求婚者をかわす逸話が、百合若の妻の行いを思わせるからであ』った。『坪内は、伝来の道筋として「いずれの国人」にもたらされたか不明であると断りながら、あるいは「堺や山口を経」たものとの思いつきに達したとする』。『これは室町時代にやってきた「南蛮人」・「ポルトガル人宣教師」による伝播説だと捉えられている』。なお、『南蛮伝播により強く執着したのは、この坪内よりも』言語学者で「広辞苑」編集やキリシタン文献の研究でも知られる者新村出(しんむらいずる)『であった』(後の大正四(一九一五)年刊「南蠻記」(東亜堂書房))。しかし、『この説は』その後、『津田左右吉、柳田國男、高野辰之、和辻哲郎などによって鋭く排撃されて』おり、『この型の説話の分布は広く、偶然の一致として懐疑的に見る意見がある』点、『また、百合若の初演が』天文二〇(一五五一)年で『ポルトガル人による種子島銃の伝来からわずか』七『年あまりで』、かくも『完成度の高い翻案を不可能と目す論旨がある』。一方、『坪内との同調派には、新村出にくわえて、アメリカ出身のEL・ヒッバード(同志社女子大学教授)があり、また日系人のジェームス・T・アラキがいる』。『アラキは、たとえ初演が』一五五一年であったとしても、その前年頃に『ザビエル神父の通訳ファン・フェルナンデズによって伝承された』と考える『ことは可能であると力説し』、『これに賛意を唱えた論文も』近年『新たに出て』おり、賛同派は「ユリシーズ」と「百合若」のみが、『いくつものモチーフが段ごとに連綿として一致する酷似性があると強調する』。『ただ、最古の記録が』一五五一『年というアラキ等の前提』は既に『覆されており』、永正一一(一五一四)年の「雲玉和歌抄」に『詳しい言及があることが今では判明しているため、ポルトガル人伝来説は困難となっている』。『しかし』、坪内逍遙や『新村出の「南蛮人」伝来説を』、『より広義的にとり、例えば』、『アジアに到達したイスラーム教徒を媒介したものだとすれば、可能性は十分にあり、このことは既に南方熊楠に指摘されている』(本篇のこの部分から、以下の段落での考察を指す。まだ続くので注意されたい)。『井上章一も』、逍遙の言う『南蛮時代に伝来したという説は成り立たないが、ユーラシア大陸全体に、前史時代に広まった説話の一つと見るのが妥当だろうとして』おり、『中央ユーラシアの叙事詩』「アルパムス」と『類似しており、これがユリシーズ伝説との中間的な媒体だった可能性も指摘されている。甲賀三郎伝説も、これと同じようなアジア経由をたどったのでは』ないかと、『大林太良などは推察』している、とある。

「ユリツセス」「ユリシーズ」。ギリシア神話の英雄で、イタケーの王であり、ホメーロスの叙事詩「オデュッセイア」の主人公オデュッセウスの物語。ラテン語で「Ulixes(ウリクセス)」或は「Ulysseus」(ウリュッセウス)ともいい、これが英語の「Ulysses」(ユリシーズ)の原型である。]

2021/01/23

奥州ばなし 影の病

 

     影の病

 

 北勇治と云し人、外よりかへりて、我《わが》居間の戶をひらきてみれば、机におしかゝりて、人、有《あり》。

『誰《たれ》ならん、わが留守にしも、かく、たてこめて、なれがほに、ふるまふは。あやしきこと。』

と、しばし見ゐたるに、髮の結《ゆひ》やう、衣類・帶にゐたるまで、我《われ》、常に着しものにて、わがうしろ影を見しことはなけれど、

『寸分、たがはじ。』

と思はれたり。

 餘り、ふしぎに思はるゝ故、

『おもてを、見ばや。』

と、

「つかつか」

と、あゆみよりしに、あなたをむきたるまゝにて、障子の細く明《あ》けたる所より、緣先に、はしり出《いで》しが、おひかけて、障子をひらきみしに、いづちか行けん、かたち、みえず成《なり》たり。

 家内《かない》に、その由をかたりしかば、母は、物をもいはず、ひそめるていなりしが、それより、勇治、病氣《びやうき》つきて、其年の内に、死《しし》たり。

 是迄、三代、其身の姿を見てより、病《やみ》つきて、死《しし》たり。

 これや、いはゆる影の病《やまひ》なるべし。

 祖父・父の、此《この》病にて死《し》せしこと、母や家來は、しるといへども、餘り忌《い》みじきこと故、主《あるじ》には、かたらで有《あり》し故、しらざりしなり。

 勇治妻も、又、二才の男子をいだきて、後家と成《なり》たり。

 只野家、遠き親類の娘なりし。【解、云《いはく》、離魂病は、そのものに見えて、人には、見えず。「本草綱目」の說、及《および》、羅貫中が書《かけ》るものなどにあるも、みな、これなり。俗(よ)には、その人のかたちの、ふたりに見ゆるを、かたへの人の見る、と、いへり。そは、「搜神記」にしるせしが如し。ちかごろ、飯田町なる鳥屋の主《あるじ》の、姿のふたりに見えし、などいへれど、そは、まことの離魂病にはあらずかし。】【只野大膳、千石を領す。この作者の良人なり。解云《いふ》。】

 

[やぶちゃん注:最後の二つの注は底本に孰れも『頭註』と記す。孰れも馬琴(既に述べた通り、「解」(かい)はこの写本を成した馬琴の本名)のものしたもので、五月蠅くこそあれ、要らぬお世話で、読みたくもない。しかし、書いてあるからには注はする。なお、本篇は実は「柴田宵曲 續妖異博物館 離魂病」の私の注で、一度、電子化している。しかし、今回は零から始めてある。

 標題は「かげのやまひ」。恐らくは真葛の文章中、最も広く知られている一篇の一つではないかと思われる。かく言う私も実は真葛を知ったのはこの話からであるからである。教えて呉れたのは芥川龍之介である。龍之介が、大正元(一九一二)年前後を始まりとして、終生、蒐集と分類がなされたと推測される怪奇談集を集成したノート「椒圖志異」の中である(リンク先は私の二〇〇五年にサイトに公開した古い電子テクストである)。その「呪詛及奇病」の「3 影の病」がそれである。

   *

  3 影の病

北勇治と云ひし人外より歸り來て我居間の戶を開き見れば机におしかゝりし人有り 誰ならむとしばし見居たるに髮の結ひ樣衣類帶に至る迄我が常につけし物にて、我後姿を見し事なけれど寸分たがはじと思はれたり 面見ばやとつかつかとあゆみよりしに あなたをむきたるまゝにて障子の細くあき間より椽先に走り出でしが 追かけて障子をひらきし時は既に何地ゆきけむ見えず、家内にその由を語りしが母は物をも云はず眉をひそめてありしとぞ それより勇治病みて其年のうちに死せり 是迄三代其身の姿を見れば必ず主死せしとなん

  奧州波奈志(唯野眞葛女著 仙台の醫工藤氏の女也)

   *

或いは、これがその「椒圖志異」の最後の記事のようにも見えるが、それは判らない。今回、この一篇を紹介するに際して、「芥川龍之介がドッペルゲンガーを見たことが自殺の原因だ」とするネット上の糞都市伝説(そんな単純なもんじゃないよ! 彼の自死は!)を払拭すべく、ちょっと手間取ったが、

芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)』

をこの記事の前にブログにアップしておいた。そちらも是非、読まれたい。

「影の病」「離魂病」「二重身」「復体」「離人症」(但し、精神医学用語としての「離人症」の場合は見当識喪失や漠然とした現実感喪失などの精神変調などまで広く含まれる)とも呼ぶが、近年はドイツ語由来の「ドッペルゲンガー」(Doppelgänger:「Doppel」(合成用語で名詞や形容詞を作り、英語の double と同語源。意味は「二重」「二倍」「写し」「コピー」の意)+「gänger」(「歩く人・行く者」))の方が一般化した。これは狭義には自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象を指す。それでも私は、この「影の病い」が和語としては最も優れていると思う。但し、広義のそれらは、ある同じ人物が同時に全く別の場所(その場所が複数の場合も含む)に姿を現わす現象を指すこともあり、自分が見るのではなく、第三者(これも複数の場合を含む)が目撃するケースもかく呼ばれる。なお、私は、「離魂病」というと、個人的にはポジティヴなハッピー・エンドの唐代伝奇である陳玄祐(ちんげんゆう)の「離魂記」を、まず、思い出す人種である。「離魂記」は、私の「無門關 三十五 倩女離魂」で、原文・訓読・現代語訳を行っているので、是非、読まれたい。

 さて、やや迂遠にあるが、日本の民俗社会にとっての「影」から考察しよう。平凡社「世界大百科事典」の斎藤正二氏の「影」の解説の「かげと日本人」によれば(ピリオド・コンマを、句読点或いは中黒に代え、書名の《 》を「 」に代えた)、『〈かげ〉ということばは、日本人によって久しく二元論的な使いかたをされてきた。太陽や月の光線 lightray も〈かげ〉であり、それが不透明体に遮られたときに生じる暗い部分 shadowshade もまた〈かげ〉である。そればかりか、外光のもとに知覚される人物や物体の形姿 shapefigure も〈かげ〉であれば、水面や鏡にうつる映像 reflection も〈かげ〉であり、そのほか、なべて目には見えるが実体のない幻影imagephantom も』、『また』、『〈かげ〉と呼ばれた。そして、これらから派生して、人間のおもかげ visagelooks や肖像 portrait を〈かげ〉と呼び、そのひとが他人に与える威光や恩恵や庇護のはたらきをも〈おかげ〉の名で呼ぶようになり、一方、暗闇darkness や薄くらがり twilight や陰翳 nuance まで〈かげ〉の意味概念のなかに周延せしめるようになった。このように、まったく正反対の事象や意味内容が〈かげ〉の一語のもとに包括されたのでは、日本語を学ぼうとする外国人研究者たちは困惑を余儀なくされるに相違ない』。『なぜ〈かげ〉の語がこのような両義性をもつようになったかという理由を明らかにすることはむずかしいが、古代日本人の宇宙観』、乃至、『世界観が〈天と地〉〈陽と陰〉〈明と暗〉〈顕と幽〉〈生と死〉などの〈二元論〉的で』、『かつ』、『相互に切り離しがたい〈対(つい)概念〉を基本にして構築されてあったところに、さしあたり、解明の糸口を見いだすほかないであろう。記紀神話には案外なほど』、『中国神話や中国古代思想からの影響因子が多く、冒頭の〈天地開闢神話〉からして「淮南子(えなんじ)」俶真訓・天文訓などを借用してつくりあげられたものであり、最小限、古代律令知識人官僚の思考方式のなかには』、『中国の陰陽五行説が』、『かなり十分に学習=享受されていたと判断して大過ない。しかし、そのように知識階級が懸命になって摂取した先進文明国の〈二元論〉哲学とは別に、いうならば日本列島住民固有の〈民族宗教〉レベルでの素朴な実在論思考のなかでも、日があらわれれば日光(ひかげ)となり、日がかくれれば日影(ひかげ)となる、という二分類の方式は伝承されていたと判断される。語源的にも、light のほうのカゲは〈日気(カゲ)ノ義〉(大槻文彦「言海」)とされ、shade darkness を意味するヒカゲは』「祝詞(のりと)」に〈『日隠処とみゆかくるゝを略(ハブ)き約(ツ)ゞめてかけると云(イフ)なり〉(谷川士清「和訓栞(わくんのしおり)」)とされている。語源説明にはつねに多少とも』、『こじつけの伴うのは避けがたいが、原始民族が天文・自然に対して畏怖の念を抱き、そこから出発して自分たちなりの世界認識や人生解釈をおこなっていたことを考えれば、〈かげ〉の原義が〈日気〉〈日隠〉の両様に用いられていたと聞いても驚くには当たらない。むしろ、これによって古代日本民衆の二元論的思考の断片を透視しうるくらいである』。『〈かげ〉は、古代日本民衆にとって、太陽そのものであり、目に見える実在世界であり、豊かな生命力であった。しかも一方、〈かげ〉は、永遠の暗黒であり、目に見えない心霊世界であり、ものみなを冷たいところへ引き込む死であった。権力を駆使し、物質欲に燃える支配者は〈かげの強い人〉であり、一方、存在価値を無視され今にも死にそうな民衆は〈かげの薄い人〉であり、さらに冷たい幽闇世界へ旅立っていった人間はひとしなみに〈かげの人〉であった。当然、ひとりの個人についても、鮮烈で具体的な部分は〈かげ〉と呼ばれる一方、隠戴されて知られざる部分もまた〈かげ〉と呼ばれる。とりわけ、肉体から遊離してさまよう霊魂は、〈かげ〉そのものであった。そのような遊離魂を〈かげ〉と呼んだ用法は「日本書紀」「万葉集」に幾つも見当たる。近世になってから「一夜船」「奥州波奈志」』(!!!)『「曾呂利話」などの民間説話集に記載されている幾つかの〈影の病〉は、当時でも、離魂病の別称で呼ばれる奇疾とされたが、奇病扱いしたのは、それはおそらく近世社会全体が合理的思惟に目覚めたというだけのことで、古代・中世をとおして〈離魂説話〉や〈分身説話〉はごくふつうにおこなわれていた(ただし、こちらのほうには唐代伝奇小説からの影響因子が濃厚にうかがわれるが)のであり、現在でさえ、〈影膳〉の遺風のなかにその痕跡が残存されている』。『ついでに、〈影膳〉について補足すると、旅行、就役、従軍などにより不在となっている家人のために、留守の人たちが一家だんらんして食事するさい、その不在の人のぶんの膳部をととのえる習俗をいい、日本民俗学では〈陰膳〉と表記する。民俗学の解釈では、不在家族も同じものを食べることにより』、『連帯意識を持続しようという念願が込められている点を重視しており、それも誤っていないと思われるが、〈かげ〉のもともとの用法ということになれば、やはり霊魂、遊離魂のほうを重視すべきであろう。もっとも、〈かげ〉をずばり死霊・怨霊の意に用いている例も多く、関東地方の民間説話〈影取の池〉などは、ある女が子どもを殺されて投身自殺した池のそばを、なにも知らずに通行する人の影が水に映るやいなや、池の主にとられて死ぬので、とうとう』、『その女を神にまつったという。同じ〈かげ〉でも、〈影法師〉となると、からっとして明るく、もはや霊魂世界とすら関係を持たない。この場合の〈かげ〉は、たとえば「市井雑談集」に、見越入道の出現と思って肝をつぶした著者にむかい、道心坊が〈此の所は昼過ぎ日の映ずる時、暫しの間向ひを通る人を見れば先刻の如く大に見ゆる事あり是れは影法師也、初めて見たる者は驚く也と語る〉と説明したと記載されてあるとおり、むしろ、ユーモラスな物理学現象としてとらえられる。〈影絵〉もまたユーモラスな遊びである。古代・中世・近世へと時代を追うにしたがい、日本人は〈かげ〉を合理的に受け取るように変化していった』とある。

 さてもそこを押さえた上で、ウィキの「ドッペルゲンガー」を見よう。『ドッペルゲンガー現象は、古くから神話・伝説・迷信などで語られ、肉体から霊魂が分離・実体化したものとされた』。『この二重身の出現は、その人物の「死の前兆」と信じられた』(注釈に『死期が近い人物がドッペルゲンガーを見ることが多いために、「ドッペルゲンガーを見ると死期が近い」という伝承が生まれたとも考えられる』とする)。十八世紀末から二十世紀に『かけて流行したゴシック小説作家たちにとって、死や災難の前兆であるドッペルゲンガーは魅力的な題材であり、自己の罪悪感の投影として描かれることもあった』。『ドッペルゲンガーの特徴として』は、『ドッペルゲンガー』である方の『人物は周囲の人間と会話をしない』・『本人に関係のある場所に出現する』・『ドアの開け閉めが出来る』・『忽然と消える』・『ドッペルゲンガーを本人が見ると死ぬ』『等があげられる』。『同じ人物が同時に複数の場所に姿を現す現象、という意味の用語ではバイロケーション』(Bilocation:超常現象用語。同一人が同時に複数の場所で目撃される現象、或いは、その現象を自ら発現させる能力の呼称)『と重なるところがあるが、バイロケーションのほうは自分の意思でそれを行う能力、というニュアンスが強い』。『つまりドッペルゲンガーの』場合は、『本人の意思とは無関係におきている、というニュアンスを含んでいる』ことが圧倒的多数である。『アメリカ合衆国第』十六『代大統領エイブラハム・リンカーン、帝政ロシアのエカテリーナ』Ⅱ『世、日本の芥川龍之介などの著名人が、自身のドッペルゲンガーを見たという記録も残されている』。十九『世紀のフランス人のエミリー・サジェ』(Émilie Sagée:女性で教師であった)『はドッペルゲンガーの実例として有名で』、『同時に』四十『人以上もの人々によって』彼女の『ドッペルゲンガーが目撃されたといわれる』。『同様に、本人が本人の分身に遭遇した例ではないが、古代の哲学者ピタゴラスは、ある時の同じ日の同じ時刻にイタリア半島のメタポンティオンとクロトンの両所で大勢の人々に目撃されたという』。『医学においては、自分の姿を見る現象(症状)は』「autoscopy」(オトスコピー:「auto-+「‎-scopy」:自動鏡像視認)、『日本語で「自己像幻視」と呼ばれる。 自己像幻視は純粋に視覚のみに現れる現象であり、たいていは短時間で消える』。『現れる自己像は自分の姿勢や動きを真似する鏡像であり、独自のアイデンティティや意図は持たない。しかし、まれな例としてホートスコピー(heautoscopy)』(この単語は心霊学用語で「幽体離脱」を示す語として有名)『と呼ばれる自身を真似ない自己像が見えたり、アイデンティティをもった自己像と相互交流する症例も報告されている。ホートスコピーとの交流は』、『友好的なものより』、『敵対的なことのほうが多い』(これは解離性同一性障害(旧多重人格障害)によく見られる)。『例えばスイス・チューリッヒ大学のピーター・ブルッガー博士などの研究によると、脳の側頭葉と頭頂葉の境界領域(側頭頭頂接合部)に脳腫瘍ができた患者が自己像幻視を見るケースが多いという。この脳の領域は、ボディー』・『イメージを司ると考えられており、機能が損なわれると、自己の肉体の認識上の感覚を失い、あたかも肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するかのように錯覚することがあると言われている。また、自己像幻視の症例のうちのかなりの数が統合失調症と関係している可能性があり』、『患者は暗示に反応して自己像幻視を経験することがある』。『しかし、上述の仮説や解釈で説明のつくものと』、『つかないものがある。「第三者によって目撃されるドッペルゲンガー」(たとえば数十名によって繰り返し目撃されたエミリー・サジェなどの事例)は、上述の脳の機能障害では説明できないケースである』。以下、「作品中のドッペルゲンガー」では、ハインリヒ・ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine 一七九七年~一八五六年)の詩篇、ドイツの多才な作家エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann)の「大晦日の夜の冒険」(一八一五年)、イギリスの作家アルフレッド・ノイズ(Alfred Noise)の「深夜特急」、エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」(一八三九年)、イングランドのラファエル前派の画家で詩や小説も書いたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの水彩画「How They Met Themselves」(「彼らはどのようにして彼らに出逢ったか」。一八六〇年~一八六四年作)、短編「手と魂」(Hand and Soul:一八五〇年)、オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像』」(一八九〇年)、ドイツの幻想作家ハンス・ハインツ・エーヴェルス(Hanns Heinz Ewers)の「プラーグの大学生」(一九一三年)、ドストエフスキーの「分身」(一八四六年)、ジグムント・フロイトが書いた病跡学的考証と独自の夢解釈理論の傑作であるドイツ人作家ヴィルヘルム・イエンセン(Wilhelm Jensen)作の「グラディーヴァ」(Gradiva:一九〇三年:特異的に、自分ではなくて他者のドッペルゲンガー幻想を抱く青年の物語である)を取り上げて分析した「W・イエンセンの小説『グラディーヴァ』に見られる妄想と夢」(Der Wahn und die Träume in W. Jensens „Gradiva“:一九〇七年)、パリ生まれのアメリカ人作家ジュリアン・グリーン(Julien Green)の「地上の旅人」(一九二七年)、既に本ブログ記事の前で示した芥川龍之介の「二つの手紙」(大正六(一九一七)年)、ドイツの作家ハンス・ヘニー・ヤーン(Hans Henny Jahnn 一八九四年~一九五八年)の「鉛の夜」(一九五六年)、梶井基次郎の「泥濘」(大正一四(一九二五)年。リンク先は「青空文庫」。但し、新字新仮名)及びそれを発展させた「Kの昇天」(大正一五(一九二六)年。リンク先は私の古い電子テクスト)をドッペルゲンガーを扱った作品として挙げている。さてもこれらを見ながら、私が驚いたのは、私自身が極めてドッペルゲンガー物の偏愛者であることに、今更乍ら、判ったからである。実にここに出ている作品は殆んど総てを読んでいるからなのである。フロイトのそれなどは、彼の芸術論の中ではピカ一に面白いものである。因みに、このウィキ、下方に『上段の項目「歴史と事例」の北勇治のドッペルゲンガーの話は杉浦日向子の漫画作品『百物語』上巻の「其ノ十六・影を見た男の話」でとりあげられている』とあるのだが(因みにこの日向子さんの漫画も持っている)、上段の「歴史と事例」に「北勇治」の話なんか出てないぜ? この記事を書いた人物は、この「奥州ばなし」の本篇を「歴史と事例」に記したつもりで、うっかりしているだけらしい。情けない。上記の作品記載がまめによく拾っているのに、残念な瑕疵だね。以下、モノローグ。――私はウィキペディアの記者だが、直さないよ。先年、ある出来事で、甚だ不快を覚えて以来、誤字・誤表現や、致命的な誤り以外には手を加えないことにしているからね。誰か僕のこの記事を見たら、直しといてやんな。ウィキペディアは自己の制作物はリンク出来ないからね。アホ臭――

「北勇治」不詳。

「あなたをむきたるまゝにて、障子の細く明《あ》けたる所より、緣先に、はしり出《いで》しが、おひかけて、障子をひらきみしに、いづちか行けん、かたち、みえず成《なり》たり」ここが本話のキモの部分である。この隙間はごくごく細くなくてはいけない! 北勇治のドッペルゲンガーは後ろ姿のまま、紙のように薄くなって(!)この隙間を……しゅうっつ……と抜けて行ってしまったのである……

「是迄、三代、其身の姿を見てより、病《やみ》つきて、死《しし》たり」この事実は、ごくごく主人には内密にされていた以上、現実の可能性を考えるならば、心因性ではなく、何らかの遺伝的な脳障害(最後には絶命に至る重篤なそれである)の家系であったことが一つ疑われるとは言えるようには思う。

「忌《い》みじき」違和感がない。真葛! 最高!

「勇治妻も、又、二才の男子をいだきて、後家と成《なり》たり」真葛の女らしい配慮を見よ!

「只野家、遠き親類の娘なりし」この未亡人が只野(真葛)綾(子)の夫の只野家の、遠い親類の娘であったというのである。その未亡人からの直接の聴き取りであろう。嘘臭さがここでダメ押しで払拭されるのである。短いが、優れた怪奇譚として仕上がっている。

「本草綱目」これは探し出すのに往生した! まず、巻十一の「草之一」の「人參」の「根」の「附方」の中にある以下に違いない!

   *

離魂異疾【有人臥則覺身外有身、一樣無別、但不語。蓋人臥則魂歸於肝、此由肝虛邪襲、魂不歸舍、病名曰離魂。】[やぶちゃん注:下略。]

(離魂異疾【人、有り、臥すときは、則ち、身の外に、身、有ることを覺ゆ。一樣にて、別(わか)ち無し。但、語らず。蓋し、人、臥すときは、則ち、魂、肝に歸す。此れ、肝虛に由りて、邪、襲ひて、魂、舍に歸らず。病、名づけて、「離魂」と曰ふ。】)

   *

「羅貫中が書《かけ》るものなどにある」羅貫中(生没年未詳)は元末・明初の小説家。太原(山西省)の人。号は湖海散人。知られたものでは「三国志演義」「隋唐演義」「平妖伝」などがあり、「水滸伝」も編者或いは作者の一人であるともされる。私は一作も読んだことがないので判らない。馬琴は彼の作品群を偏愛しており、特に「平妖伝」には深く傾倒し、二十回本を元に「三遂平妖伝国字評」を記しているが、それなら、それと書くであろう。判らぬ。識者の御教授を乞う。

『そは、「搜神記」にしるせしが如し』先の「柴田宵曲 續妖異博物館 離魂病」の本文頭に出る「搜神後記」(六朝時代の名詩人陶淵明撰とされるが、後代の偽作である)の誤りのように私には思われる。そちらを読まれたい。注で原文も示しておいた。

「ちかごろ、飯田町なる鳥屋の主《あるじ》の、姿のふたりに見えし、などいへれど、そは、まことの離魂病にはあらずかし」これは何かの皮肉を掛けているようだが、よく判らぬ。識者の御教授を乞うものである。「飯田町」は現在の飯田橋を含む広域附近。

「只野大膳」ウィキの「只野真葛」によれば、寛政九(一七九七)年三五歳の綾子は『仙台藩の上級家臣で当時江戸番頭の』只野行義(つらよし ?~文化九(一八一二)年:通称は只野伊賀)と『再婚することとなった。只野家は、伊達家中において「着坐」と呼ばれる家柄で、陸奥国加美郡中新田に』千二百『石の知行地をもつ大身であった。夫となる只野行義は、斉村』(なりむら)『の世子松千代の守り役をいったん仰せつかったが』、寛政八(一七九六)年八月の『斉村の夭逝により守り役を免じられ、同じ月に、妻を失っていた。行義は、神道家・蔵書家で多賀城碑の考証でも知られる塩竈神社の神官藤塚式部や漢詩や書画をよくする仙台城下瑞鳳寺の僧古梁紹岷』(こりょうしょうみん)『(南山禅師)など』、『仙台藩の知識人とも交流のあった読書人であり、父平助とも親しかった』。『かねてより』、『平助は、源四郎元輔』(次男。長庵元保がいるが、このウィキには彼の名を出すものの、その後の事蹟が記されていない。底本の鈴木氏の解説によれば、この長男は実は早逝しているのである)『の後ろ盾として』、『娘のうちのいずれかが仙台藩の大身の家に嫁することを希望しており、この頃より平助も体調が思わしくなくなったため、あや子は工藤家のため只野行義との結婚を承諾した。彼女は行義に』、

 搔き起こす人しなければ埋(うづ)み火の

       身はいたづらに消えんとすらん

『という和歌を贈り、暗に行義側からの承諾をうながしている』。『行義は、幼い松千代が』九『代藩主伊達周宗となったため、その守り役を解かれ、江戸定詰を免じられて』おり、一旦、『江戸に招き寄せた家族も急遽』、『仙台に帰している。したがって行義との結婚は』、『あや子の仙台行きを意味していた』とある。

 

 なお、ここに至って、実は国立国会図書館デジタルコレクションに正字正仮名版の本作「奥州ばなし」が、二つ、あるのを発見した。一つは、

「麗女小說集 德川時代女流文學集 下」のここから(標題は「奥州波奈志」で作者名は「只野綾女」と本名で出す)

で編著者は荒木田麗女で、与謝野晶子の纂訂、冨山房大正四(一九一五)年刊である。荒木田麗女(れいじょ 享保一七(一七三二)年~文化三(一八〇六)年:或いは単に「麗」とも)は江戸中期の女流文学者で、実父は伊勢神宮内宮の神職荒木田武遠(たけとお)。十三歳で叔父の外宮御師(おんし)であった荒木田武遇(たけとも)の養女となった。詳しくはウィキの「荒木田麗女」を参照されたい。しかし、何故、彼女の小説集の最後に、真葛の本作一つだけが載っているのか、実は――判らない。晶子の解題には何も書かれていないからなのである。これは異様な感じがする。まさに怪奇談である。今一つは、

「女流文學全集 第三卷」のここから

で、編者は古谷知新(ふるやともよし)、文芸書院大正八(一九一九)年刊である。孰れも総ルビに近いのであるが(後者は割注が本当に割注になっていいて、それにはルビがない)、総ルビというのが、寧ろ、気に入らない。孰れも親本が明記されていないからである。この何とも怪しい編集になる晶子の、或いは古谷氏の読みが、押し付けられる可能性が高いと言える(私の《 》の読みも私の推定に過ぎぬのだが)。しかも、後者の読みが前者を元にしている可能性も排除は出来ない。とすれば、この読みを信奉するわけにはゆかないのである。本篇は後、六篇を残すのみである。私は以上のそれを参考には一切しないことに決めた。私の自己責任で最後まで、ゆく。

 

 にしても、私は、これを以って、稀有の才媛只野眞葛と、稀有の芸術家ソロモン芥川龍之介と、そうして、最後に真に龍之介が愛した、やはり、稀有の才媛シヴァ片山廣子の三人をコラボレーションすることが出来たと感じている。……真葛の死から百九十六年……龍之介の死から九十四年……廣子の死から六十四年……三人の笑みが、私には見える……

芥川龍之介が自身のドッペルゲンガーを見たと発言した原拠の座談会記録「芥川龍之介氏の座談」(葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」版)

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の作品には、明確にドッペルゲンガー(ドイツ語:Doppelgänger:二十身/自己像幻視/離魂病)を扱ったものとしては、「二つの手紙」(大正六(一九一七)年九月発行雑誌『黒潮』初出)と「影」(大正九(一九二〇)年九月発行『改造』初出)がある(リンク先は孰れも「青空文庫」。新字新仮名)二作があり、言及では「路上」(『大阪毎日新聞』大正八(一九一九)年六月から八月まで三十六回連載。未完。リンク先は同前)の「十六」に(引用は独自に岩波旧全集に拠った)、

   *

 俊助はかう云ふ問答を聞きながら、妙な事を一つ發見した。それは花房(はなぶさ)の聲や態度が、不思議な位(くらゐ)藤澤に酷似してゐると云ふ事だつた。もし離魂病(りこんべう)と云ふものがあるとしたならば、花房は正に藤澤の離魂體(ドツペルゲンゲル)とも見るべき人間だつた。が、どちらが正體でどちらが影法師だか、その邊の際どい消息になると、まだ俊助にははつきりと見定めをつける事がむづかしかつた。だから彼は花房の饒舌つてゐる間も、時々胸の赤薔薇を氣にしている藤澤を偸(ぬす)み見ずにはゐられなかつた。

   *

とあり、また、自己告白体の遺作(但し、「一 レエン・コオト」のみは死の前月六月一日発行の雑誌『大調和』に発表済み)の「齒車」(リンク先は私の古い電子テクスト)の「四 まだ?」で小説執筆のために借りているホテルの部屋に戻った「僕」は、新らしい小説にとりかかっていたが、

   *

 けれども僕は四五分の後(のち)、電話に向はなければならなかつた。電話は何度返事をしても、唯何か曖昧(あいまい)な言葉を繰り返して傳へるばかりだつた。が、それは兎も角もモオルと聞えたのに違ひなかつた。僕はとうとう[やぶちゃん注:ママ。]電話を離れ、もう一度部屋の中を步き出した。しかしモオルと云ふ言葉だけは妙に氣になつてならなかつた。

 「モオル――Mole………

 モオルは鼴鼠(もぐらもち)と云ふ英語だつた。この聯想も僕には愉快ではなかつた。が、僕は二三秒の後、Mole la mort に綴り直(なほ)した。ラ・モオルは、――死と云ふ佛蘭西語は忽ち僕を不安にした。死は姊の夫に迫(せま)つてゐたやうに僕にも迫つてゐるらしかつた。けれども僕は不安の中にも何か可笑しさを感じてゐた。のみならずいつか微笑してゐた。この可笑しさは何の爲に起るか?――それは僕自身にもわからなかつた。僕は久しぶりに鏡の前(まへ)に立ち、まともに僕の影と向(むか)ひ合つた。僕の影も勿論微笑(びしやう)してゐた。僕はこの影を見つめてゐるうちに第(だい)二の僕のことを思ひ出した。第(だい)二の僕、――獨逸人の所謂 Doppelgaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかつた。しかし亞米利加の映畫俳優になつたK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけてゐた。(僕は突然K君の夫人に「先達はつい御挨拶もしませんで」と言はれ、當惑したことを覺えてゐる。)それからもう故人になつた或隻脚(かたあし)の飜譯家もやはり銀座の或煙草屋に第二の僕を見かけてゐた。死は或は僕よりも第二の僕に來るのかも知れなかつた。若し又僕に來たとしても、――僕は鏡に後ろを向け、窓の前の机へ歸つて行つた。

   *

とある。因みに、彼がかなり以前からドッペルゲンガーに強い関心を抱いていたらしいことは、龍之介が、大正元(一九一二)年前後を始まりとして、終生、蒐集と分類がなされたと推測される怪奇談集を集成したノート「椒圖志異」(しょうずしい:リンク先は私が二〇〇五年にサイトに公開した古い電子テクスト)の「呪詛及奇病」の「3 影の病」で、

   *

  3 影の病

北勇治と云ひし人外より歸り來て我居間の戶を開き見れば机におしかゝりし人有り 誰ならむとしばし見居たるに髮の結ひ樣衣類帶に至る迄我が常につけし物にて、我後姿を見し事なけれど寸分たがはじと思はれたり 面見ばやとつかつかとあゆみよりしに あなたをむきたるまゝにて障子の細くあき間より椽先に走り出でしが 追かけて障子をひらきし時は既に何地ゆきけむ見えず、家内にその由を語りしが母は物をも云はず眉をひそめてありしとぞ それより勇治病みて其年のうちに死せり 是迄三代其身の姿を見れば必ず主死せしとなん

  奧州波奈志(唯野眞葛女著 仙台の醫工藤氏の女也)

   *

とあることから見ても判然とするのである。【追記】本篇公開後の直後に、私は真葛の「奥州並奈志」の全文をPDF縦書版でオリジナル注を附して公開した。こちらの69コマ目が当該話である。是非、全文を読まれたい。

 さて、ネット上には、「芥川龍之介が自殺した原因は彼が自分のドッペルゲンガーを見たからである」などという無責任極まりない非科学的な糞都市伝説が横行している(龍之介がドッペルゲンガーを見たと感じたのは事実であるが、それは晩年とは限らない。但し、晩年に限るならば、そういう体験に漠然とした自身の死や致命的な災厄が近いという感じを持ったこと(これは洋の東西を問わず、民俗社会でよく普通に言われることである。私は三十代の頃に一度だけ、行きつけだった鎌倉のドイツ料理店の女主人から、「あなたと同じ顔をした同じ名前のセールスマンが、先日、来たよ」と言われてゾッとしたことがある)は「齒車」の一節から看取は出来る)。而して、そこでは大概、「ある座談会で芥川龍之介が自分のドッペルゲンガーを見たと言っている」と記してあり、その「ある座談会」という謂いに胡散臭いものを感じられる向きもあろうかと思われる。実はこのネタ元はウィキの「ドッペルゲンガー」の記載で(但し、これは河合隼雄「コンプレックス」(岩波新書・一九七一年十二月)のp.51を原拠としている。私は刊行当時に買って読み所持するはずであるが、流石に中三の時のもので書庫の底に沈んで発掘出来なかった)、多くの野次馬連中はそれを無批判に手軽に転用しているに過ぎない(縦覧した限りでは、この糞都市伝説を記しながらも、以下に示す原拠を正確に語っているのは、たった一件のみであった)。

 しかし、小説「齒車」に出現した「僕」の語るそれは、芥川龍之介自身が実体験であることを語っている活字物が存在するのである。「活字物」としたのは、彼の書いたものではなく、ウィキに記す通り、「座談会」記録であるからである。

 これは、自死する丁度二ヶ月前の、昭和二(一九二七)年五月二十四日に旧制新潟高等学校で講演(演題「ポオの一面」)を行った後の夕刻、宿泊先であった篠田旅館で行われた座談会の席上での他者による記録である。現在は岩波の新全集の第二十四巻に「芥川龍之介氏の座談」として掲載されているが、私は所持していない(新全集の新字体採用を嫌ったからであるが、この巻は買う必要があったのに、在勤していた高校の図書館にあったそれで済ませてしまった。この巻だけは未購入を甚だ後悔している)。しかし、この座談記録はもっと以前に葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(一九六九年岩波書店刊)に収録されている。「芥川龍之介氏の座談」自体は勉誠出版「芥川龍之介作品事典」(平成一二(二〇〇〇)年刊)の奥山文幸氏の解説によれば、初出は雑誌『藝術現代』(昭和二(一九二七)年八月発行)で、記事の起筆者は恐らくは出席し、発言もしている精神科医式場隆三郎(明治三一(一八九八)年~昭和四〇(一九六五)年:新潟県中蒲原郡生まれ。。新潟医学専門学校(現在の新潟大学医学部)卒業。新潟医科大学にて昭和四(一九二九)年に医学博士。多くの作家・芸術家らと交流を持ち、病跡学も手掛け、文化人としても知られる)と推定している。出席者は発言している長谷川一男(私は事蹟未詳。しかし問いや、発言から見て、相当な芥川龍之介のファンであると同時にかなりの文学通である。「ケタ平」は笑っちゃうけれど)・八田三喜(はったみき 明治六(一八七三)年~昭和三七(一九六二)年:当時の新潟高等学校校長。芥川龍之介の東京府第三中学校時代の同校校長であり、彼からこの講演要請があり、恩師のそれに快く答えたものである。しかし、龍之介は改造社の「現代日本文学全集」の宣伝講演旅行(里見弴と同社宣伝班と五月十三日に出発、講演終了は五月二十一日。新潟着はその翌日)からの帰途で、かなり疲弊していた)・式場隆三郎・伴純(生没年未詳だが、坂口安吾(新潟市生まれ)の「風と光と二十の私と」に、『今新潟で弁護士の伴純という人が、そのころは「改造」などへ物を書いており、夢想家で、青梅の山奥へ掘立小屋をつくって奥さんと原始生活をしていた。私も後日この小屋をかりて住んだことがあったが、モモンガーなどを弓で落して食っていたので、私が住んだときは小屋の中へ蛇がはいってきて、こまった。この伴氏が私が教員になるとき、こういうことを私に教えてくれた。人と話をするときは、始め、小さな声で語りだせ、というのだ。え、なんですか、と相手にきき耳をたてさせるようにして、先ず相手をひきずるようにしたまえ、と云うのだ』(「ちくま文庫」版全集によった)とある人物と断定してよい。ウィキの「新潟新聞」に、大正一四(一九二五)年、当時の社員の『親友の弁護士で『改造』に文章を発表していた伴純』『が編集主事となった』とあり、これらの情報から、この座談会に出席しているのは彼だとほぼ断定出来るように思われる)の他に、『発言はないが、出席者として掲載されているのが、井深圭太郎、中川孝、安藤宅也、羽鳥芳雄』(奥山氏解説)とある。問題は長谷川一男と伴純で、没年が判らないので、彼の発言部は著作権に抵触する可能性がないとは言えない(他の人物はパブリック・ドメイン)。そうである事実を示して指摘されたならば、彼ら二人の発言部は省略する。

 なお、上記のような次第で、新全集版との校合は出来ない。しかし、初めて芥川龍之介の「ドッペル・ゲンゲル」の発言がったあったとして広く知られるようになったものであり、正字で電子化してある点で、相応の価値があると考えている。

 底本は先に示した葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」に拠ったが、そちらでは、「新潟の座談會」となっているものの、題名は同じく示した「芥川龍之介作品事典」での、初出誌のそれと思われるものに代えた。個人の話が二行以上に亙る場合は、底本では二行目以降は一字下げになっているが、無視した。踊り字「〱」は正字化した。傍点「ヽ」は太字に代えた。禁欲的に注を附した。

 なお、底本では葛巻氏が注する中で、『その「講演」は大変力のこもったもので、盛況であったらしいが、それに比較して、この「座談」会での彼は、主催者側も案外と思ったのでないかと思う程、元気がなく、憂鬱そうな彼が出て来ている。少くも、この「記録」に残った限りでは、註に「(皆な暫く沈黙。)」となっている暗い話題に、話が発展しがちであったらしい。――只、これは新潟から家族宛の便りにも、「をととひの夜新潟着。八田さんにいろいろ御厄介になる。」とある様に、この十数年前の恩師八田校長が、いろいろこの「座談」会の中でも、彼の気を引き立てる様に話を持って行こうとしているが、――これは編者のみではなく、この深い心づかいがなかったなら、彼は青森から、羽越線の列車をたどって、中学時代の校長八田三喜氏が、いまは校長をしている新潟高等学校迄、わざわざ「講演」をしに行かなかったに違いない。――又、帰京後、彼の言葉として、編者はこの事を聞かせられた様にも記憶する。なお、これは余事ながら、この北海道講演旅行中の彼は、青函連絡線で、乗船の際履きかえた上草履のままで、函館の往来で気づいたり、――時計をどこかに置き忘れるかと思うと、つれの里見弴氏の伴れ人を驚かそうとして、樺太長官夫人の寝台の真上の船窓をいきなり外からこじ明けて、首をつっこんでしまったり、いろいろ彼の、ふだんの家庭での一面も発揮している。(これは、里見弴氏の「追憶」に詳しい。)編者はいま、それらを想い出している。同時に、「羽越線の中で作る……」と書かれた、「山吹」の詩と一しょに。-―』と記しておられる。最後の部分は私の芥川龍之介「東北・北海道・新潟」を見られたいが、そこの私の冒頭注が異様に偏執的であるのは、この直後の行動に芥川龍之介のある重大な秘密が隠されていると私が考えているからである。それは……それ……私の注のリンク先を見られれば……よろしい……

 

 芥川龍之介氏の座談

 

長谷川 「河童」と「玄鶴山房」とどちらがお好きですか。

芥川 兩方好きです。(間)貴方はどつちが好きです。

長谷川 「玄鶴山房」です。あの調子でお進みになるのかと思つてゐたら「河童」が出たので驚きました。これからどうお進みになるのです。

芥川 僕は兩方へ進むつもりです。

長谷川 「點鬼簿」からすぐ「玄鶴山房」でしたか。

芥川 いゝえ。あの間に「春の夜」、「彼」、「彼(第二)」などありますよ。

式場 「河童」には何かリアルがあつたのですか。

芥川 ありません。[やぶちゃん注:以下の改行はママ。]

「玄鶴山房」は看護婦にきいた話です。「春の夜」もさうです。「玄鶴山房」であんなに惡く書いて了つたので何處かで恨んでゐるでせう。

長谷川 先生は何時か『人間』か何かに「お律とその子ら」と云ふ小說をお書きになりましたね。

芥川 書きました。『中央公論』です。

長谷川 あれは如何なさいました。單行本にもお入れになりませんね。

芥川 書き直さうと思つて、そのまゝになつてゐます。

長谷川 「俊寬」も單行本にお入れになりませんね。

芥川 あれも書き直さうと思つて書いたのが『文藝春秋』に載つた奴です。それも完成出來なくつてあのまゝになつてゐます。

長谷川 「春」はお續けにならないのですか。

芥川 そんなことはありません。然しどうなりますか。

長谷川 「邪宗門」も未完でせう。

芥川 (微笑)あれはたうとう駄目でした。書き直さうと思つてゐるのや、先をつゞけられなくなつたのが、こんなに(手で厚さを示しつゝ)あるんです。書き直しは案外骨が折れますね。[やぶちゃん注:次の改行はママ。一字下げのままである。]

 夏目先生は書き直しなどする努力で新しいものを書けといつていられましたが、書き直しは全く大變ですね。

長谷川 「羅生門」をお書きになつたのはおいくつの時でした。

芥川 さあ二十三四でしたかね。[やぶちゃん注:満二十三の時である。]

長谷川 あれから少しも手をお加へにならないのですか。

芥川 えゝ加へません。書くのは書いたが何處でも出して吳れませんでね。方々賴んで步いたけれど駄目でした。やうやう『帝國文學』に載つたのでしたが、それを賴みに行つたのは靑木健作君の家でした。小石川で日は暮れる、雨は降る、犬には吠えられる、それに家が見つからず、全く心細かつたです。やうやう靑木君の家を見つけたんですが、引越した許りで取りこんでゐたので玄關で渡して來ました。始めは原稿料などを貰ふことよりも活字になることが嬉しかつたものです。[やぶちゃん注:「靑木健作」(明治一六(一八八三)年~昭和三九(一九六四)年)であろう。山口県都濃(つの)郡(現在の周南市)生まれ。小説家・俳人。東京帝国大学哲学科を卒。明治四三(一九一〇)年に「虻」を夏目漱石に賞賛され、「お絹」「錆たる鍬」などを発表した。この座談当時は法政大学教授。]

長谷川 初めて原稿料をお貰ひになつたのは「虱」でしたか。[やぶちゃん注:大正五(一九一六)年五月発行の雑誌『希望』に発表。「鼻」が『新思潮』(第四次。同年二月十五日発行の創刊号に発表)に載って以来、初めての依頼原稿であった。龍之介満二十四歳。]

芥川 さうです。あれで參拾錢貰ひました。[やぶちゃん注:これは原稿一枚の稿料単位額を指す。「虱」は原稿用紙十二枚で三円六十銭であった。以下、改行はママ。]

 志賀さんの「淸兵衞と瓢簞」も參拾錢だつたといふ事です。あの頃は今のやうに書いたものがすぐ印刷になるといふわけには行かなかつたやうです。[やぶちゃん注:志賀直哉の「淸兵衞と瓢簞」は大正二(一九一三)年一月一日発行の『讀賣新聞』に発表された。この時、志賀は満二十九歳で、同月には初の短編集「留女」(るめ)を刊行。後にこの集は夏目漱石に賞賛された。]

長谷川 雜誌が少かつたのでせうか。

芥川 いや相當にあつたのです。たゞ編輯者が中々出して吳れぬのです。

長谷川 初めて『中央公論』へお書きになつたのは何でした。

芥川 「手巾」でした。『中央公論』へ出たものゝあれの原稿料は九拾錢でした。とても澤山貰つたやうな氣がして嬉しかつたものです。[やぶちゃん注:「手巾」(はんけち)は同じ大正五年十月一日発行の同誌に発表された。]

長谷川 久保田万太郞さんは先生の一年上[やぶちゃん注:句読点なしはママ。]

芥川 いや二年先輩です。その上が後藤末雄君です。

八田 後藤君は今どうしてゐるね。

芥川 慶應で博士論文を書いてゐます。

八田 僕はいつか東京で遇つて一緖に夕飯を食べた事があるが、その頃もう文壇を離れてあゝいふ學究生活へ入らうとしてゐた頃と見えて、文壇て厭な奴ばかりゐるといつてこぼしてゐたね。

作川 さうでせう。今でもさういつてます。先日も東洋文庫で一寸逢ひました。勿論文壇だつていゝ所ではありませんがね。

長谷川 赤木ケタ平といふ人はどうしてゐます。

芥川 ケタ平といつちや氣の毒だな。は、は、は、(笑) コウ平といふのですよ。池崎忠孝のペンネエムですよ。今、大阪でメリヤス屋をやつてゐます。

長谷川 先生の飯田蛇笏のことを書いた中に出て來ますね。

芥川 えゝ久米の通俗小說で「赤光」といふのがあるでせう。あれは赤木の父の事を書いたのです。

長谷川 ではあの息子といふのが赤木氏ですか。

芥川 さうです。今でも發作的に時々何か書きたくなるさうですが、久しく筆を執らないと臆病になつて中々書けないものださうです。先日も仙臺で木下杢太郞君と遇つて話したんですが、木下君など文壇に遠ざかつてゐるので、下らない批評家に惡口を云はれても書く氣がなくなるらしいのですね。赤木は實に實に雄辯な男でした。あんな能辯の男は他に知りませんね。久米の戀愛事件の時なども、久米に『ガンペキの如く毅然として居れ』と云ふんです。その『ガンペキ』が盛んに出るが何の事か解らんので訊いたら『岩の壁さ』と答へたので笑つた事がありました。

長谷川 恆藤さんも雄辯家ださうですね。

芥川 いやあれは雄辯といふものではないのです。物を言ふ時理路整然としやべる丈けなのです。

長谷川 佐藤春夫さんは先生より早い人ですか。

芥川 あの男は十一二からものを書き出してゐますから書き出しは僕よりずつと早いです。佐藤は僕にもつとくだけろといつてゐます。喋舌るやうにしてどんどん書けといふのです。例へば港ヘ船が入るのを描寫するのに三十枚は書けるといふのです。その佐藤が田山花袋氏にもつとくだけていゝと云はれてゐるのですから、上には上がありますね。

長谷川 『改造』では谷崎氏と議論がお盛んですね。

芥川 二人で共謀して『改造』から原稿料をとつてゐるといふ評判ですよ。は、は、は、(笑)谷崎君は一番議論しやすい先輩なのと、近頃の谷崎君の書くものに不滿を持つてゐるのであんな議論をつゞけてゐるのです。[やぶちゃん注:次の改行はママ。]

 世界で日本の文壇ほど文學者が色々書く所はないのです。僕など去年は仕事をしないしないと云はれてゐるが六つも書いてゐるのです。もう僕も百篇ばかり小說をかきました。ゴオグなど繪を描いたのは三年ださうですからね。

式場 さうです。一番盛んに描いたのはアール・サンレミイですからね。死んだオーヴルは二三ヶ月しかゐなかつたやうですね。

芥川 あの一度死にかけた時にかつぎ込まれた玉突屋でゴオグが寐せられた玉突臺が今も殘つてゐるさうですね。

式場 オーヴルのですか。

芥川 えゝ。齋藤茂吉君がさういつてましたよ。その玉突臺で平氣で今も玉を突いてゐるさうで、毛唐は隨分呑氣だと齋藤君は笑つてゐました。齋藤君はゴオグの病氣はメニヤだといつてましたがどうなんです。[やぶちゃん注:「メニヤ」偏執病。パラノイア(Paranoia)。内因性精神病の一病態。偏執的になり、妄想がみられるが、その論理は一貫しており、行動・思考などの秩序は保たれているものを指す。妄想の内容には血統・発明・宗教・嫉妬・恋愛・心気などが含まれ、持続し、発展する。判りやすく言うと、高機能型の妄想症であるが、少なくとも本邦では最近は病名として殆んど使用されないようである。因みに、フロイトは「精神分析学入門」でパラノイアは医師に対してラポートの状態を形成し得ないから、精神分析療法では治療は出来ない、と投げている。]

式揚 中々議論が多いのです。それは私の仕事の一部なのですが、といふ說が一番有力のやうです。何しろ癲癎の遺傳は濃厚にあるのですから。リーゼなどと云ふ人はクライストが記載してゐる癲癎の一異型に當てはまるといつてゐますが、ヤスパースは早發性癡呆だといつてますし、麻痺性癡呆だといつてゐる人もあるのです。[やぶちゃん注:「リーゼ」不詳。「クライスト」ドイツの精神科医カール・クライスト(Karl Kleist 一八七九年~一九六〇年) であろう。「早發性癡呆」現在の統合失調症。「麻痺性癡呆」脳が梅毒スピロヘータに侵された様態を指す語。梅毒にかかって数年から数十年をかけて後に発症する。知能に障害が出現し、末期には痴呆状態となる。「進行麻痺」「脳梅毒」と同義。]

芥川 さうですか。ストリントベルヒは何だつたんです。

式揚 パラノイアだといつてゐる人がありますが。

芥川 モオパツサンは立派な麻痺性癡呆だつたさうですね。

式場 さうです、病症日記が出てゐます。

芥川 ニイチエも精神病でしたね。

式場 えゝ。天才には隨分あります。

芥川 さうすると精神病など豫防どころか大いに養成すべきですね。齋藤君も自分は早發性癡呆になりさうでなど云つてました、ロンブローゾの說はおかしいですね。[やぶちゃん注:「齋藤」斎藤茂吉。]

八田 いや、ロンブローゾの說は天才は狂人に過ぎぬからつまらぬといふのではないだらう。

芥川 島田淸次郞など齋藤君に云はせると「地上」に既に早發性癡呆の症狀が現はれてゐるといつてますがね。[やぶちゃん注:「島田淸次郞」(明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)小説家。石川の生まれ。大正八(一九一九)年に刊行した長編小説「地上」がベストセラーとなったが、統合失調症を病み、異常行動を起こして保養院に収容された。統合失調症の方は回復したとも伝えられるものの、結核と栄養失調に苦しみ、しかも執筆を継続したが、肺尖カタルが悪化して療養中に病死した。]

伴 僕はもつと先きからだと思ひます。金澤にゐる頃僕は時々逢つたのですが、大言壯語して何百枚書いたと意張つてゐたものです。それが十五六の少年なんで變な氣がしてゐました。私はあの頃から病氣が始まつたのだと思ふのです。

芥川 然し解りませんよ。彼の作が二三百年後にはどういふ眼で見られるかは。今の若い作家で、兎も角あれ丈け書ける人は少いと思ふですね。正宗白鳥氏が『改造』に書いてゐますが今度活動になつた「我もし王者たりせば」のフランソア・ヴョンは、十五世紀の人ですがひどい犯罪者で何年に死んだかも解らん程の男ですが今は大變な人氣で、硏究の本も出てゐるんですからね。[やぶちゃん注:「我もし王者たりせば」邦題は「我れ若し王者なりせば」(原題:The Beloved Rogue)が正しい。一九二七年公開のアメリカの無声映画。十五世紀フランスの盗賊にして詩人であったフランソワ・ヴィヨン(François Villon 一四三一年?~一四六三年以降)の生涯に基づいたもの。主演は名優ジョン・バリモア(John Barrymore 一八八二年~一九四二年)。次の改行はママ。]

然し彼が認められるまでは、三世紀もかゝつてゐます。あらゆるものを認めたアナトール・フランスまでが認めなかつたのですから、時世によつて人間の運命など變るものですね。例へば今の十人殺しとかをやる罪人も戰國時代に生れたら、どんな武將となつたか知れないし、藝術上の天 才も戰國時代などに生れたら、隨分みじめなものでせうからね。そして、さういふ天才が戰國時代に埋れてゐなかつたとは云ひ切れませんからね。[やぶちゃん注:次の改行はママ。]

 天才には隨分悲慘な最後を違げた人も多いですね。

長谷川 スウフトなどもさうだつたのでせう。「ガリバー旅行記」を書いた……。

芥川 さうです。スウフトには凄い話があります。冬の曇つた日、窓からしきりに外を眺めてゐるのださうです。『何を見てゐる』のかと家人が聞くと、一本の枯木を指しながら、『俺もあの木の樣に頭から先きに參つて了ふのだ』と云つたさうです。兎に角天才を側から凝望してゐるうちはいゝが、自ら天才になるのは悲慘ですね。その點で菊池の「屋上の狂人」などはうそですね。(皆笑ふ)夏目先生も被害妄想や幻聽があつたさうです。夏目先生はよく塀の外で誰か惡口を云つてゐると云つて怒鳴つたり、ランプを火鉢へ投り込んだりした事があるさうです。[やぶちゃん注:「スウィフトには凄い話があります。冬の曇つた日、……」『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) 「人間らしさ」』を参照されたい。「夏目先生も被害妄想や幻聽があつた」私は夏目漱石はイギリス留学中に重度の強迫神経症に罹患したと今は思っている(嘗ては関係妄想傾向の強い統合失調症を疑ったが)。]

式場 高濱虛子が書いてゐますね。

芥川 さうです。然しもつと色々の事があつたのです。夏目先生のさういふ方面が全く傳はらないのは惜しい事です。それで近い中にさういふ方面の先生を詳しく書いた本が出る筈ですが、兎も角先生の性格には病的な所があつたのは事實ですね。或時、音樂會へ行つて隣の席にゐる毛唐の女に向つて、―― Are you wood ? ――眞面目な顏をして訊かれた事があつたさうです。

八田 然し精神病の本を頂むと、その症狀がどれも自分にもあるやうな氣がしますよ。

芥川 僕なども精神病の本を讀むと自分を疑つて來ますね。それで齋藤君にあまり讀むなと云はれました。一體ノーマルといふ事はどういふ事なんでせう。

式場 さあ、それが判つきり云ひ切れないのですね。ブレークなども子供から幻視があつたのです。

芥川 昔の赤不動の繪なども空想だけでは描けないと思ふのです。誰かにそれらの畫家はさうしたものを見たと思ふんです。

式揚 僕もブレークに幻視がなければ、あの繪は描けなかつたと思ひます。「虱の幽靈」などといふ繪も自分で見て描いたといつてますね。[やぶちゃん注:「虱の幽靈」The Ghost of a Flea。ウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)の一八一九年から一八二〇年の作。親友の占星術師ジョン・ヴァーリー(John Varley)に頼まれ、降霊会のために描かれた。左手にはドングリの実で作られた杯、右手には植物の棘を持つ。サイト「MUSEY」のこちらで見られる。]

芥川 さうです。

式場 ドペル・ゲンゲルの經驗がおありですか。

芥川 あります。私の二重人格は一度は帝劇に、一度は銀座に現はれました。

八田 然し二重人格といふのは人の錯覺でせう。或はうつかりしてゐて人違ひをするのぢやないですか。

芥川 さういつて了へば一番解決がつき易いですがね。中々さう云ひ切れない事があるのです。或人の話で、自分の部屋へ入つたらちやんと机に向つてゐる第二の自分が立ち上つて出て行つたので、母に話したらいやな顏をしたさうです。そして間もなくその人は死んださうです。その家は代々さうして二重人格が現はれては人が死ぬんださうです。

式場 ドペル・ゲンゲルは死の前兆だと云はれるので僕も出たのでひやひやしましたよ。

八田 さうですか。西洋にもあるんですか。

式揚 あります。そして矢張り不吉な事とされてゐるのです。ドストエフスキーの有名な小說があります。[やぶちゃん注:「ドストエフスキーの有名な小說」「分身」(Двойник)(「二重人格」とも訳される)。中編小説。一八四六年『祖国雑記』第二号に発表された。「貧しき人々」で文壇に華々しくデビューしたドストエフスキーの第二作目。]

芥川 ゲエテも現はれたといつてます。自分の馬に乘つて行くのをゲエテは見たさうです。[やぶちゃん注:私の偏愛するサイト「カラパイア」の「自らのドッペルゲンガーを見たという10人の偉人の逸話」を参照されたい。そこに、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)が、一七七一年頃、『ある日、フリーデリケ』(フリーデリケ・エリザベス・ブリオン(Friederike Elisabeth Brion 一七五二年~一八一三年:牧師の娘であった)『という女性と別れた』(但し、ゲーテの方から関係を断ち切った)『ショックで意気消沈して馬で帰る途中、ゲーテは馬でこちらに向かってくる男に出会った。ゲーテ曰く』、『実際の目ではなく、心の目で見たというのだが、その男は着ている服は違えど、まさにゲーテ本人だったという。その人物はすぐに姿を消したが、ゲーテはその姿になぜか心が穏やかになって、このことはまもなく忘れてしまった』しかし、八『年後、ゲーテがその同じ道を』、『今度は』、『反対方向から馬を進めていたとき、数年前に会った自分の分身と同じ服装をしていることに気づいたという。また』、これとは別な時、『ゲーテは友人のフリードリッヒが通りを歩いているのを見た。なぜか、友人はゲーテの服を着ていたという。不思議に思ったままゲーテが自宅に帰ると、フリードリッヒがゲーテが通りで見たのと同じ服を着てそこにいた。友人は急に雨が降ってきたので、ゲーテの服をかりて、自分の服を乾かしていたのだという』とある。後者はドッペルゲンガーとしても特異なケースである。]

式揚 「靑い塔の中のストリントベルヒ」といふ本だつたかにもストリントベルヒの二重人格の事が書いてあつたやうです。バルコニーに現はれて帽子をとつて下を通る人に挨拶したんださうですが、事實その時ストリントベルヒは机に向つてゐたさうです。[やぶちゃん注:「靑い塔の中のストリントベルヒ」スウェーデンの劇作家・小説家ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(Johan August Strindberg  一八四九年~一九一二年日)晩年六十代の折りに恋人となった(四十一歳年下)スゥエーデンの画家で女優のフアンニイ・ヨハンナ・マリア・フアルクネル(Fanny Johanna Maria Falkner 一八九〇年~一九六三年)が一九一一年頃に書いたストリンドベリの回想録「青い塔の中のストリンドベリ」(邦訳「ストリンドベルクの最後の恋」秦豊吉(東京帝国大学法科大学独法科卒。翻訳家であると同時に実業家でもあり、日本初のヌード・ショー「額縁ショー」の生みの親としてとみに知られる)訳・大正一三(一九二四)年)のこと。]

芥川 齋藤君の話だと幻覺と錯覺と區別のつかぬ事があるさうですね。

式揚 時々判斷に困る事があります。

芥川 錯覺など面白い現象ですね。

式場 私は錯覺の一部分を調べたのですが、子供が一番少く、次はノーマルな成人で、精神病者は一番大きかつたです。頭のいゝ人や想像力の豐かな人ほど大きいと云つてゐる人があるのですがね。

芥川 さうでせうなあ。精神病者は最も進んだ人間だと云つていゝですね。(皆な暫く沈獸。)

長谷川 改造社の宜傳旅行に出られたんですか。

芥川 えゝ。北海道まで行つて來ました。靑森で里見君と別れて來ました。

長谷川 小學生全集も大變でせうね。[やぶちゃん注:「小學生全集」サイト「古本 海ねこ」のこちら(初級用。上級用はこちら)に写真入りで詳しい解説がある。それを見ると、龍之介の死の翌年の刊であるが、「小學生全集初級用 第十六卷 日本文藝童話集・下」に龍之介「杜子春」が収録されてある。]

芥川 あれは菊池の仕事ですよ。僕はそれを助けてゐるに過ぎないのです。

長谷川 菊池さんは創作を書かれませんね。

芥川 さうですね。事業家になつたんです。

式場 大變御邪魔をしました。ではこれで失禮します。(昭和二年五月廿四日夕 篠田旅館にて)

[やぶちゃん注:以下は底本ではポイント落ちで全体が二字下げ。最後の署名は「長谷川」と「式場」の合成かも知れない。]

(附記。速記した譯ではなく、あとで記憶をたどつて書いたので間違つてゐる所もあると思ひます。芥川氏並びに出席された方の御寬恕を乞ふ次第です。――H・S生記)

 

2021/01/22

奥州ばなし 狐火

 

     狐 火

 

 七月半頃、年魚《あゆ》しきりにとらるゝ時、夕方より、雨、いとまなくふりければ、

「こよひは、川主《かはぬし》も魚とりには出《いで》じ。いざ、徒《いたづら》ごとせばや。」

と、小性《こしやう》共《ども》兩人、云あはせて、孫澤の方へ、河つかひに行しに、狐火のおほきこと、左右の川ふちを、のぼり、下り、いくそばくてふ、數もしれざりしとぞ。

『此《これ》、狐共等が、魚を食《くひ》たがりて。』

と、心中に惡《にく》みながら、だんだん、河をのぼるに、魚(うを)とらるゝこと、おびたゞし。

「大ふごにみてなば、やめん。」

と、いひつゝ網うつに、【川主の家の方《かた》なり。】河上にて、大かゞりをたく、影、見えたり。

 兩人、みつけて、立どまり、

「もしや、この雨にもさはらず、川主の出やしつらん。」

と、あやぶむ、あやぶむ、

「今少しにて、ふごにも、みちなん。」

とて、魚をとりつゝ、くらき夜(よ)なれば、

『河中までは、かゞり火には、てらされじ。』

と思ゐしに[やぶちゃん注:ママ。]、かゞり火のもとより、人、獨(ひとり)、たいまつを照して、川におり來りたり。

 「夜ともし」の躰《てい》なり。【「夜ともし」とは、よる、川中へかゞりをふりて、魚をとるなり。】

『すはや。』

と、心、さわぎしかど、

『あなたは一人、こなたは二人なれば、見とがめられても、いかゞしても、のがれん。』

と、心をしづめて、見ゐたりしに、【河右衞門がいふ。】

「あれは、人には、あらじ。持《もち》たる松の火の、上にのみ、あがりて、下におつる物、なし。化物のせうなり。」

と、見あらはしたり。

 いま一人も、此ことに心づきて、よく見しに、實《げ》に、火のさまのあやしかりしかば、兩人、川中にたちて、おどろかで有しかば、一間ばかりまぢかく來りて、立《たち》ゐしが、

『ばかしそこねし。』

とや思ひつらん、人形《ひとがた》は、

「はた」

と消《きえ》て、あかしばかり、中《ちゆう》をとびて、岡へ、上りたり。

「まさしく狐の化《ばか》したるを、近く見しこと、はじめてなり。」

と語《かたり》き。

 この見あらはせしは、梅津河右衞門と云ものなりし。

 眞夜に、ひとり、川をつかひて、更に、ものにおどろかぬものなりし。

 

[やぶちゃん注:「川主」恐らくは現在のアユの漁業権や漁期規定と同じで、特定の流域・特定の時期は、川漁をする漁師が限定的に決められていたものであろう。

「徒《いたづら》ごと」暇潰しの意で「つれづれごと」とも読めなくもないが、ここは川主の目を盗んでという前振りから、かく読んでおいた。

「孫澤」宮城県加美郡加美町(かみまち)孫沢か(グーグル・マップ・データ)。田川という川の左岸であるが、すぐ下流で鳴瀬川に合流しており、この鳴瀬川ではアユが獲れることが確認出来たし、この孫沢には、北部分に大きな「孫沢溜池」(但し、これは小さな灌漑専用のダムで昭和一二(一九三七)年の竣工である)があり、附近には、ここからも含めて、南に下る小流れが、三本ほど、現認出来る。

「河つかひ」ちょっと聴いたことがないが、プライベートな川漁のことであろう。

に行しに、狐火のおほきこと、左右の川ふちを、のぼり、下り、いくそばくてふ、數もしれざりしとぞ。

「魚(うを)とらるゝこと」やや使い方がおかしく感ずるが、「らる」は可能で、意想外に多く獲ることが出来たというニュアンスであろう。

「ふご」「畚」。ここは釣った魚を入れる魚籠(びく)のこと。「大」とあるから、竹で編んだものかも知れない。

「川主の家の方なり」そこの川主の家の近くで、明確にその主人専用の漁場にまで侵入していたのである。

「夜ともし」鵜飼を考えれば、納得が行く。長良川上流の郡上市美並町や中流の美濃市で今も行われている「夜網漁」がある。夜の川に網を張っておいて、舟上の篝火の明るさと、櫂を使って舟縁(ふなべり)や川面を叩く音で、鮎を網へ追い立てる、昔ながらの漁法である。また、海辺・河口附近での漁であるが、千葉の稲毛海岸の干潟での「夜灯(よとぼ)し漁」が知られる。夜の干潟や刈田で、海老・蟹・鯊・鰈・泥鰌などを概ね新月の時に灯りをつけて獲る伝統漁法である。

「化物のせう」「せう」は「性(しやう)」であろう。火の性質が通常の物理的な現象としてはあり得ない様態であることから、魔性の妖火と見切った(最後の「見あらはせし」がそれ)のである。この河右衛門の言葉を魔性の「もの」は聴き、その「言上げ」によって自身の正体がバレた故に、退散せざるを得なかったのである。このセオリーは本邦の民俗社会に於ける古くからの呪的システムなのである。但し、言っておくと、標題や話の中での彼らが見た妖火を「狐火」と呼んでいる結果として、読者は誘導されているのであって、「人」ではないことがバレたのであって、その物の怪が果たして真に狐であったかどうかは、定かではないわけである。

「兩人、川中にたちて、おどろかで有しかば」ここは特異点の用法で、「驚かなった」のではない(最後の「ものにおどろかぬものなりし」は今の「驚く」と同じでよろしいのだが)。この「おどろく」は「気がつく」の意。闇の中で、しかも安定の悪い川の中に立っていたために、距離感をちゃんと感ずることが出来ず、気づかないうちに、ごく近く(「一間」=一・八一メートル)まで人影が近づいてくるのに気づけなかったというのである。或いは、火と人影は実は別々にあったのかも知れない。大きな松明(たいまつ)のような火を、見た瞬間に人間が手にもって掲げて持っている松明と誤認して刷り込んでしまったとすれば、別にごく近くまできていた人影様(よう)のものに気づかないとしても、さらに不自然ではない。しかもそれは人ではなく化生(けしょう)の「あやかし」であったのだから、なおさらである。

「あかし」「灯(あかし)」。ここはその怪火。

「岡」川の岸の意味で「陸(をか)」ともとれるが、ここは川岸近くの有意に高さのある「岡」ととった方が、怪奇のクライマックスとして効果的である。]

南方熊楠「小兒と魔除」(オリジナル電子化注一括縦書ルビ化PDF版)公開

「南方隨筆」の「小兒と魔除」のオリジナル電子化注一括縦書ルビ化PDF版(3.82MB・91頁)「心朽窩旧館」に公開した。

2021/01/21

怪談登志男 八、亡魂の舞踏

 

   八、亡魂の舞踏

 玉華子(ぎよくくはし)が「江戶鹿子(かのこ)」を見るに、鐡砲洲・つく田嶋・八左衞門殿嶋・西本願寺の邊は、江都の東南、海邊の致景、雨の夜は苫(とも)覆ふ舩に湘瀟(しやうせしやう)[やぶちゃん注:底本は「潮滿」であるが、原本で判読したものを採った。]の景を思ひ、なみ靜(しづか)なる遠浦(とほうら)に安房・上總の歸帆を詠[やぶちゃん注:「ながめ」。]、秋の夕は、入日の、浪の底にうつる、洞庭の磯うつ潮に鬱氣(うつき)を洗、俗塵をへだてたる境地なり。

 此邊に、棟(むね)門高き弓馬の家、岩崎氏とて隱なき人、致仕(ちし)して、閑(かん)をたのしみ、齡(よはい)すでに古稀におよべど、甚、堅固の老人にて、常に謠をすき、仕舞(しまい)を好み、坐臥徑行(けいかう)、獨、唱(うた)ひ、夜、高歌して、謠(うたい)罷(やん)で後、睡(ねふり)を甘(あまん)じて、又、夢中にあつても[やぶちゃん注:底本は「向ても」であるが、原本で判読した。]、うたふ。日用、都(すべ)て、是、謠裏(ようり)にあり、かゝるすき人も、又、世にたぐひ、すくなかりける。

 すでに、夕陽(せきやう)、西にうつり、鐘の聲、かすかに、物すごきゆうべ、じやくまくたる隱居の柴の戶に音づるゝ聲は、小網町に住居する彥兵衞といふ町人なり。

 是は、岩崎翁の若き頃より、出入して、月にも花にも、友なひ、語らひ、しかも、謠(うたい)・舞(まい)、達者(たつしや)にて、心をへだてず、是も、其年、耳順(じじゆん)[やぶちゃん注:数え六十。]に越へつれど、共に、一曲をかなで、樂みけるが、いかゞしたりけん、此程、久しく打絕て、來らず。

『かねて、京都へあつらへたりし舞扇(まいあふぎ)も、出來つらんか。』

と、ゆかしかりしに、

「よくこそ來りける。」

と、手づから、扉をひらき、まねきいれて、

「いかにや、久しく尋こざりし。一別以來、一日千秋のごとし。」

と、手を取て、安否を問(とい)れければ、彥兵衞も、

「久々、御目見も不ㇾ仕候處、先、以、御堅勝の躰を見奉、恐悅仕候。されば、春の頃、御賴あそばしつる扇の事、心ならず、道中の間違(ちがひ)にて、疾(とく)、出來(でき)ては、さふらひしが、幾(いく)たびか、江戶へ下しては、京へ歸り、今迄、遲參(ちさん)におよび、御用事、疎畧(そりやく)に致したる樣にて、千萬、氣の毒に奉ㇾ存候。若き時より、老の今迄、御憐(あはれみ)下され候御恩(おん)にそぶき、其苦しき病より、猶、切(せつ)なかりし處に、今日、京都の荷物、到着、御あつらへの御扇、是を持參し、長々、積る物がたり、御慰(なぐさみ)に申上、且は、御詫(わび)の爲ながらと、日はくれかゝり候へども、只今、參上仕候。」

と、いと恐れ入たるさま、日ごろの活氣と、打て、かへたり。

「さて、堅(かた)過たり、氣づまりかな。夫程に詫(わぶ)る事にてもなし。此程の噂には、病氣のよし、聞へしが、先(まづ)、無事なるぞ、うれしけれ。久々にての一會、あつらへの扇、好(このみ)より、彌(いや)增(まさ)りて、模樣も一入(ひとしほ)の出來。満足々々。」

と、表より、若侍共、呼あつめ、酒宴、刻をうつし、主(あるじ)、

「いで、一さし。」

と、

〽水に近き樓臺(らうだい)は 先(まづ)月を得るなり 陽(やう)にむかへる花は木[やぶちゃん注:「花木」は「くはぼく(かぼく)」と読む。]

と、たちまふ袖も、こよひの月も、主(あるじ)の髮(かみ)も、客(きやく)のあたまも、皆、白妙(しろたへ)に、氷のころも、霜のはかま、まだ、あしもとも、よはからず。

 彥兵衞も、

「久々にて、御前(ごぜん)の仕舞(しまい)、拜見いたし候。はゞかりながら、拙者も御扇出來の御祝儀なれば、其曲(くせ)の次(つぎ)、切(きり)へかけて、舞納(をさむ)べし。」

と、是も、

〽ばせをのは 袖を返し ひらく扇の 風ばうばうと 物すごき夜の にはのあさぢふ おもかげうつろう 露もきへしか ぱせをば破(やぶれ)れて

殘るは、主人(あるじ)と、酌(しやく)取(とり)し若侍・小坊主ばかり。

「こは、ふしぎや。」

と障子を明(あけ)、椽側(えんがは)より、庭の隅々(すみずみ)、隈々(くまぐま)をさがせど、彥兵衞の影も形もあらばこそ、表にも、此ふしぎを聞て、上下、ひしめきあひ、

「狐などの入來りしならんか。若もの共、心得よ。」

と、用心きびしく、くまぐま、狩(かり)たつる程に、夜も、あけぬ。

 家中の上下、

「宵の怪しみ、心得がたき。」

と語り居たる折ふし、若き町人、來りて、

「拙者儀は、小網町彥兵衞がせがれ、藤七と申もの。此間、彥兵衞、病氣ゆへ、久々參上不ㇾ仕、兼て被仰付候御扇、漸(やうやう)、出來仕候間、持參いたし候。」

と、扇を、さし出せば、取次の侍も不審ながら、主人に、此よし、披露しけるに、主(あるじ)も大きに驚き給ひ、

「扇は、昨夜、見し所に、たがはず。宵の扇、いづくにかある。」

尋ぬれど、さらに、なし。

 主、

「扨は。」

と、藤七を近くまねき、過し夜、彥兵衞が來りし有增(あらまし)を語り給へば、藤七、泪(なみだ)を、

「はらはら」

と流して、

「今は、つゝむべくもなし。有躰(ありてい)に申上侍らん。父彥兵衞は、久々、病氣にてさふらひしが、次第に重(おも)り、昨日、身まかり侍り。すでに末期(まつご)にいたる時、京都より、荷物、到着、御扇出來の書狀。日ごろ、たゞ、此御用の延引(えんいん)に罷成候を、朝暮、苦勞仕候處、いまはの際(きは)に『御扇出來』と聞(きく)とひとしく、起直(おきなを)り、御扇を拜見し、逐一、吟味をとげ、にこにこと、打ゑみ、『我、死したりとも、まづ、佛事・供養をさし置(おき)、是を持參し、此通り、殿樣へ申上、平生(へいぜい)、等閑(なをざり)に打捨置(うちすておき)はいたさねど、折ふし、間違・延引の段、くれぐれ申て、得さすべし。是、第一の供養にて、我も佛果(ぶつくは)に至るべし。』と申聞て、昨日、暮時、相果(はて)候。親が遺言(ゆいごん)、默(もだ)し難(がた)く候へば、持參は仕ながら、忌(いみ)ある身の憚(はゞか)りもなく、御屋敷へ推參(すいさん)の段、重々(じうじう)、恐れ入候。」

と、平伏(へいふく)したり。

 岩崎殿、これを聞て、落淚(らくるい)、とゞめかねて、

「扨々。不便(びん)の心入。其一念、たちまち、幻に顯(あらは)れ來りしか。昨夜、酒くみかはし、一さしの舞、あはれ、今は、形(かた)見となりけるよな。若きより、今、此老の身にいたりても、「友鶴(ともつる)」、とたのしみてありしを、片翅(かたつばさ)なる老鶴(おいつる)の、何をか、たのしみとせん。」

と、藤七に、金(こがね)・白銀(しろがね)、取出しあたへて、迫善の料(りやう)に得させ、

「藤七も、永く、出入せよ。」

と、あつく憐(あはれ)み、父が在世にかはらず、勤けるよし。

 彥兵衞が實儀、誠に世の人の鑑(かゞみ)なり。

 人は皆、信義あつきこそ、「人の人」といふべし。

 いつはり、かざれるべんぜつもの、りかう・さいかくはありとも、人の道には、あらじかし。

 

[やぶちゃん注:本作中の傑作の一つとして私は推す。江戸の風情をロケーションとして、致仕隠居した老武士岩崎と商人と思われる彦兵衛との分け隔てなき親交を描き、そこに謡曲の複式無限能の世界を以って、亡魂の来たって舞うシークエンスは、まっこと、味わい深い。雰囲気を壊さぬよう、今回は特異的に原本の読みの一部の清音表記に濁点を打ってあり、謡曲の章詞にも「〽」を用いた。また、漢文表記箇所も孰れも平易なものばかりなので、五月蠅い訓読文は附さなかった(原本には返り点さえない)。訓読なお、上田秋成の「雨月物語」(安永五(一七七六)年)の傑作「菊花の約(ちぎり)」と似ていると思われる方もいようが、言っておくが、本作は寛延三(一七五〇)年板行で、二十六年も前の作品である。

『玉華子(ぎよくくはし)が「江戶鹿子(かのこ)」』江戸前期の貞享四(一六八七)年十一月に板行された藤田利兵衛(事績不詳)作の江戸地誌「江戸鹿子」を奥村玉華子なる人物が寛延四(一七五一)年に改訂増補した「再板增補 江戶惣鹿子名所大全」のこと。編者の奥村玉華子の事蹟も不詳であるが、ウィキの「江戸鹿子」によれば、『医術や宗教への深い造詣が伺え、それらの職業に携わっていたとも考えられる』とある。

「鐡砲洲」現在の隅田川右岸の中央区湊附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。鉄砲洲稲荷や「鉄砲洲通り」などの名を確認出来る。「江戸名所図会」の「銕炮洲」の項には、『銕炮洲 南北ヘ凡八町ばかりもあるべし。傳云(つたへいふ)、寛永[やぶちゃん注:一六二四年~一六四四年。]の頃、井上・稲冨等(ら)大筒(おほづゝ)の町見(ちやうけん)を試し所なりと。或(あるひは)、此出洲(です)の形状、其器(き)に似たる故の号なりともいへり』(以下略)とある。

「つく田嶋」東京都中央区佃(つくだ)。隅田川河口の二つの中州であった石川島と佃島(現在は月島とともに一体化しているが、思うに、推定される隅田川の河口変遷からみて、元はごく小さな石川島が原河口に形成された最初の洲らしく、そこから南西方向に佃島が形成されたようである)とから発展した街。現在は埋立地の拡大により、隅田川河口は約三キロメートル南西に移動している。現在の佃地区の北が旧「石川島」で「森島」「鎧(よろい)島」などとも称された。その南隣りが旧中州としての本来の「佃島」であった。

「八左衞門殿嶋」辞書を見ると、前の石川島の異名とされるが、どうも気になるので別な辞書を見ると、寛永年間(一六二四年~一六四四年)に、この砂州である原石川島が江戸幕府船手頭石川八左衛門重次の所領となって、「石川島」と呼ばれ、別名「八左衛門(殿)島」とも呼ばれたことが判り、さらに、寛政二(一七九〇)年、老中松平定信が火付盗賊改の、かの長谷川平蔵に命じて、この島を埋め立てさせ、南西方向に拡張し、そこの「人足寄場」を建設させたという記載を見出した。ところが、別に調べると、この人足置場は石川島と佃島の間にある「鉄砲洲向島」(鉄砲洲の向かいにある島の意)に設置したとする記載に出くわす。そこで別な切絵図を見てみると、確かに、石川島はまず、北西方向で切れ込みがあって、そこから南部分が人足置場となっており、しかも、そのまた南西には、細い運河状の切れがあって島としては分れて、二つの島となっており(小橋で繋がれてはいる)、そこには漁師町屋が並んでいるのである。因みに、「人足置場」は、よく時代劇に出るが、「寄場(よせば)」とも呼ばれ、無宿者に手業(てわざ)を習得させる目的で設けられた隔離施設で、後には追放者なども収容されて自由刑の執行場所としての機能も果たしたものである。

「湘瀟(しやうしやう)」中国で、洞庭湖及びそこに流入する瀟水(しょうすい)と湘江の合流する周辺を古くより「瀟湘八景」と呼び、風光絶佳とされ、山水画の伝統的な画題とされた。私はその反転字と採った。底本の「潮滿」(左ページ上段二行目)なら、「潮汐」の意でそれらしく意味もとれなくもないが、原本は御覧の通り(左頁三行目)、「潮」よりは「湘」により近いし、そもそもがルビが「しやう」に踊り字「〱」であることが判然とするのである。だいたいからして、ここに「瀟湘」と出してこそ、直後の「洞庭の磯うつ潮」の比喩が生きてくるのである(ここで「瀟湘」「洞庭」を江戸の海景の比喩に持ち出すのに違和感があるかも知れない。しかし、だったら、「金沢八景」「湘南」などという地名がそれに基づくのはもっと滑稽で場違いな謂いとなる。いや、ここで筆者が敢えて「瀟湘」「洞庭」を出したのは確信犯なのだ。後で注で示すが、本篇で重要な役割を成す謡曲「芭蕉」の舞台はまさに楚の国の「小水」(水の少しあるの意の地名)であり、そこの山中に住む僧こそがワキ僧なのである。さればこそ、この「小水」は「湘水」或いは「瀟水」に直ちに響き合うのだ。則ち、既にしてこの何気ない前振り自体が、綿密な伏線として機能しているということなのである)。写本の誤りかも知れぬが、もし誤判読とすれば、底本「德川文藝類聚」の本作の校訂者は無粋と言わざるを得ぬ。なお、最後に言っておくと、「湘瀟」の文字列の正しい歴史的仮名遣は「しやうせう」である。

「徑行(けいかう)」思うとおりにしたいことをすること。直情径行。

「夢中にあつても」本文で示した通り、底本では「向ても」であるが(左ページ上段九行目)、そもそもが「夢中に向(むかひ)ても」という言い方はこなれていない。原本はここ(右頁一行目)。失礼ながら、同前で不審極まりないのである。

「日用、都(すべ)て、是、謠裏(ようり)にあり」日々の如何なる瞬間も、総て、これ、謡曲世界の中に生きている。

「じやくまくたる」「寂寞たる」。

「小網町」現在の日本橋小網町(こあみちょう)。同ウィキによれば、江戸『初期、慶長年間に江戸城が築城された頃には、小網町の付近は』、『日本橋川の河口洲の小さな中島であったとされ』、『八丁堀・霊岸島など、江戸の前島の埋立てが進むにつれて、日本橋川沿いの河岸の街へと姿を変えた。日本橋川に面した土地柄、水上交通の面で重要な場所として発展した町で』、『江戸に入ってくる米を扱う商店・問屋があったほか、行徳で産生する塩の扱いが多かった』とある。

「好(このみ)より」私はこれで一単語として採った。趣向。作りの風雅。

「表より、若侍共、呼あつめ」屋敷表に岩崎に従う家来がいるのである。屋敷内に長屋を作って住んでいるのであろう。されば、この岩崎氏は旗本ではないかと私は推測している。

「水に近き樓臺(らうだい)は 先(まづ)月を得るなり 陽(やう)にむかへる花木は」世阿弥の娘婿となった金春善竹作の謡曲「芭蕉」の終わりの方に現われる章詞。同曲のシテは「芭蕉の精」。唐土(もろこし)楚国の水辺に修行のために隠居するワキ僧のもとに、年たけた女性(前ジテ)が来って、仏縁に結ばれんことを願うによって、読経の聴聞を許す。女は、「法華経の経文によれば、草木も成仏できることが頼もしい」と喜び、「実は自分は庭の芭蕉の仮りの姿である」と言って、消え失せる。深夜になると、芭蕉の精(後ジテ)が現われ、「非情の草木も、まことは、無相真如の顕現にして、仏教の哲理を示して世の無常を現しているのだ」と言い(クセ:能の構成単元の一つで、一曲の核となる重要な部分を指す。地謡と大鼓・小鼓とのリズムの微妙さに狙いがある)、しみじみとした舞を舞って見せるが(序ノ舞)、やがて再び姿を消すというストーリーである。小原隆夫のサイト内の『宝生流謡曲「芭蕉」』が詞章が示されてあってよい。岩崎の舞って謡う部分は、そのクセの一節であるが、一気に最後まで示しておく。「新潮日本古典文学集成」の「謡曲集 下」を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化した。

   *

クセ

地〽水に近き樓臺は まづ月を得るなり 陽に向かへる花木はまた 春に逢ふ事易きなる その理(ことわり)もさまざまの 實(げ)に目の前に面白やな 春過ぎ夏闌(た)け 秋來(く)る風の音づれは 庭の荻原(をぎはら)まづそよぎ そよかかる秋と知らすなり 身は古寺(ふるてら)の軒(のき)の草 しのぶとすれど古も(いにしへ)の 花はあらしの音にのみ 芭蕉葉(ばせうば)の 脆(もろ)くも落つる露の身は 置き所なき蟲の音(ね)の 蓬(よもぎ)がもとの心の 秋とてもなどか變らん

シテ〽よしや思へば定めなき

地〽世は芭蕉葉の夢の中(うち)に 牡鹿(をしか)の鳴く音(ね)は聞きながら 驚きあへぬ人心 思ひ入るさの山はあれど ただ月ひとり伴なひ 慣れぬる秋の風の音(おと) 起き臥し茂き小笹原(おざさはら) しのに物思ひ立ち舞ふ 袖(そで)暫(しば)しいざや返(かへ)さん

シテ〽今宵は月も白妙の

地〽氷の衣(ころも)霜の袴(はかま)

《序ノ舞》

ワカ[やぶちゃん注:舞の直後に謡われ、呼称は五七五七七の和歌の形をしているのものを正格とすることに拠る。但し、そうでないものも多い。]

シテ〽霜の經(たち) 露の緯(ぬき)こそ弱からし

地〽草の袂も

ノリ地[やぶちゃん注:拍子をしっかりと意識しなければならない謡部分を指す語。]

シテ〽久方の

地〽久方の 天つ少女(をとめ)の羽衣(はごろも)なれや

シテ〽これも芭蕉の 羽袖をかへし

地〽かへす袂も 芭蕉の扇(おほぎ)の 風(かぜ)茫々(ばうばう)と 物すごき古寺の 庭の淺茅生(あさぢう) 女郞花(をみなへし)刈萓(かるかや) 面影うつろふ 露の間に 山颪(おろし)松の風 吹き拂ひ吹き拂ひ 花も千草(ちぐさ)も 散りぢりになれば 芭蕉は破れて 殘りけり

   *

「白妙(しろたへ)に、氷のころも、霜のはかま」前注で示した詞章を掛けたもので、月の光に冴える白い衣の清冽な表現である。

「ばせをのは 袖を返し ひらく扇の 風ばうばうと 物すごき夜の にはのあさぢふ おもかげうつろう 露もきへしか ぱせをば破(やぶれ)れて」前に示した「序の舞」のものとは、かなり変則的に異なっている。「芭蕉」は五流にあり、或いは詞章に違いがあるのかも知れぬが、亡魂の舞と扇綺譚を考えれば、寧ろ、オリジナルに変えて(特に最後の部分の断ち切り)、効果を狙ったと考えてよい。

「小坊主」小姓。年少の家来。

「こは、ふしぎや。」

「上下」私は読みがないものは「かみしも」と読むことにしている。

「狩(かり)たつる程に」ここそこを厳しく探索し尽くすうちに。]

2021/01/20

奥州ばなし 四倉龍燈 / 龍燈のこと (二篇)

 

[やぶちゃん注:今回は、同じ怪火「龍燈」(日本各地に広く伝わるかなりメジャーな怪火現象。概ね、海中より出現し、海上に浮かんだ後、幾つもの火が連なったり、海岸の木などにとまるなどとされる。龍神の棲み家とされる海や河川の淵から現れることが多く、「龍神が灯す火」として「龍燈」と呼ばれ、時に神聖視もされていた。枚挙に暇がないが、「諸國里人談卷之三」がよかろうか。「橋立龍」「嗟跎龍燈」「野上龍燈」「光明寺龍燈」がある。また、「三州奇談續編卷之七 朝日の石玉」「三州奇談續編卷之八 唐島の異觀」も見れたい)を扱っているだけでなく、二篇目は一篇目に対する真葛の考証であるから、続けて示すこととする。]

 

     四倉龍燈

 

 橋本正左衞門、りうが崎の役人をつとめしころ、少々、上《かみ》の用金を𢌞《まは》し、旅行のこと有しに、東通りの道中にて四倉《よつくら》と云所に着《つき》、人步《にんぷ》[やぶちゃん注:古くは「にんぶ」。公役に徴用された人民。夫役(ぶやく)を課された人民。]を、つぎかへしに、滯《とどこほり》て、出《いで》ず。

「このあたり、物さわがしきこと、有《あり》。」

と聞《きき》て、

「一寸も早く、此宿を行《ゆき》ぬけん。」

と、いらだちて催促せしに、日も暮《くれ》かゝりしを、

「いそぎの用事。」

と、いひたて、夜通しに人步を云《いひ》つけしかば、駕人足《かごにんそく》ばかり出《いで》たりしを、正左衞門、駕にて先へ行、養子八弥に目くばせして、用金入《いり》たる物を、さあらぬていにて殘し置、

「少しも早く、追付《おつつけ》、來《きた》れ。」

と云付て立《たち》たりしに、八弥、其とし、十八才なりし、大事の荷物、あづかり、心づかひ、いふばかりなし。宿にては、

「物さわがしきをりふし、夜通しに荷𢌞《にまは》しは、しごく、あやうし。ひらに、一宿有《あり》て、明日早く、出立《しゆつたつ》あれかし。おそれて、人步も出がたし。」

といはれて、いよいよ、氣もまどへど、

「よし。途中にて、こと有《ある》とも、おめおめ、おぢ恐れて一宿しては、養父に云譯なし。」

と、心をはりて、荷物に腰をかけて、人步を、ひたすらに、せつきしに[やぶちゃん注:せっついたところが。]、四《よつ》頃[やぶちゃん注:午後十時頃。]に、漸《やうやう》出し馬方《むまかた》は、十二、三の小女《こをんな》兩人なりし。

『まさか。時は、足手まとひぞ。』

と思ふには、有《あり》かひもなく、心ぼそけれど、

「是非にをよばず。」[やぶちゃん注:ママ。]

引立行《ひつたてゆき》しに、

「その『物さわがしき』と云《いふ》は、今、行《ゆき》かゝる海邊。うしろは、黑岩《くろいは》そびへたる大山《おほやま》、前は大海《おほうみ》にて、人家たえたる中程の岩穴に、盜賊、兩三人、かくれゐて、晝だにも、壱人旅《ひとりたび》のものをとらへ、衣類・身の𢌞りをはぎとりて、骸(から)を海になげ入《いれ》しほどに、人通り絕《たえ》しをりにぞ有《あり》し。」

と、馬子《まご》共のかたるを聞《きき》て、いよいよ、心もこゝろならぬに、はるか遠き海中より、さしわたし壱尺餘りなる、火の玉の如き光、あらはれ、くらき夜なるに、足本《あしもと》の小貝《こがひ》まで、あらはに見えたり。

「はつ」

と、おどろき、

「あれは、何《なん》ぞ。」

と、馬子にとへば、

「こゝは龍燈(りゆうとう)のあがる所と申《まうし》ますから、大方、それでござりませう。」

と、こたへて、はじめて見し、ていなり。

 ことわりや、十二、三の小女《こむすめ》、いかで、深夜に、かゝる荒磯《あらいそ》をこすべき。

 八弥も、

『おそろし。』

とは思ひつれど、さらぬだに、三人の小女[やぶちゃん注:底本では「三」の右にママ注記。]、ふるふ、ふるふ、馬、引ゆくを、

『おぢさせじ。』

と、氣丈にかまへて、ひかせ行、

「盜人《ぬすびと》の住《すむ》と云《いふ》、岩穴ちかく成《なり》たらば、聞《きか》せよ。」

と、いひ置しに、小聲にて、

「此あたりぞ。」

と、つげしかば、

「何ものにもあれ、出來《いでき》たらば、たゞ一打《ひとうち》に切《きり》さげん。」

と、鍔(つば)もとを、くつろげて、心をくばり行過《ゆきすぐ》るに、小女、云《いふ》、

「こよひは、留守でござりませう。あかりが見えませぬ。」

と云しかども、

「留守と見せても、ふと、出くるや。」

と、油斷せざりしが、盜人の運や、つよかりけん、かしらも、きられざりき。

 海中の光は、三度《みたび》迄見たりしとぞ。

 八半過《やつはんすぎ》[やぶちゃん注:午前三時過ぎ。]に、先の宿にいたりしに、正左衞門は、用金、殘して、若き者に預置《あづけおき》、

「ものさわがし。」

と聞て、いねもやられず、門に立《たち》てまちゐしが、遠く來りし影を見るより、

「やれ、八弥、不難《ぶなん》にて來りしか。よしなき夜通しして、大苦《だいく》をまうけしぞや。」

とて、悅《よろこび》しとぞ。

 

[やぶちゃん注:この話、仙台での話ではないので注意されたい。

「四倉」旧福島県石城郡四倉町(よつくらまち)。現在は福島県いわき市四倉町(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。当時は磐城平藩領かと思われる。

「橋本正左衞門」「養子八弥」ともに、最早、本書ではお馴染みの藩士とその養子である。

「りうが崎の役人」常陸国河内郡龍ヶ崎村、現在の茨城県龍ケ崎市にあった仙台藩常陸国龍ケ崎領の仙台藩龍ヶ崎陣屋の代官附きの役人であろう。初代藩主伊達政宗は、慶長一一(一六〇六)年三月に徳川幕府の代官から、常陸国河内郡(現在の龍ケ崎市と茨城県稲敷市の一部)内と信太郡(現在の茨城県稲敷郡)内の二十六ヶ村(一万石余り)を与えられて、仙台藩常陸国龍ケ崎領が生れた。現在の龍ケ崎市の大半が含まれ、龍ケ崎村に陣屋を構えて代官を置き、常陸国における仙台領支配の中心地として、また、江戸との物流の中継地としたため、龍ケ崎は繁栄した。

「上《かみ》の用金を𢌞《まは》し」藩の御用金の輸送のようである。

「東通り」福島県東部の太平洋側沿岸の南北の広域地域を指す「浜通り」のことであろう。こうした呼び方は今はないと思うが、方位的には腑には落ちる。

「つぎかへしに」「継ぎ變しに」。そこまで雇った馬方人足と駕籠人足を次ぎ替えようとしたところ。

「夜通し」夜間運行。

「荷𢌞し」馬方による荷物運送。

「その『物さわがしき』と云は、今、行かゝる海邊。うしろは、黑岩そびへたる大山、前は大海にて」地図を見るに、四倉から北へ向かう岬を回り込むルート(この道中がその方向であったかどうかは判らぬが)は、このロケーションに「バッチ・グー!」(グーグル・マップ・データ航空写真)で、「蟹洗の磯」から「鷹ノ巣」という地名の岬に次いで「波立(はったち)海岸」ときた日にゃ、ここでなくてどうしますか!?! てぇんだ!

「骸(から)」言わずもがな、殺した旅人の遺骸の意。

「くらき夜なるに、足本《あしもと》の小貝《こがひ》まで、あらはに見えたり」さりげない描写だが、怪談のキモをしっかり押さえた大切なリアリズム・シーンである。

「かしらも、きられざりき」先に八弥は「一刀のもとに斬り下げてやる!」と生きこんでいたから、「かしら」は盗賊らの頭部の意である。

「先の宿」北上が正しいルートなら、時間と距離から見て、福島県双葉郡広野町辺りか。]

 

 

    龍燈のこと

 

 海の漁をするものゝはなしに、世に「龍燈」と云ふらす物、實は、火にあらず、至《いたつ》て、こまかなる羽蟲《はむし》の、身に螢の如く光《ひかり》有《ある》ものゝ、多く集《あつま》れば、何となく、ほのほ[やぶちゃん注:「炎」。]の如く見なさるゝものなり。

 夏の末、秋にかゝりて、ことに、おほし。時有《ときあり》て、おほく、まとまりて、高き木のうら[やぶちゃん注:「末(うら)」で「うれ」とも言い、梢(こずえ)のこと。]、又は、堂の軒端などにかゝるを、火の如く見ゆる故、人、「龍燈」と名付しものなり。

 筑紫の「しらぬ火《ひ》」も、是なり。

 水上に生《うまる》る蟲にて、螢の類《たぐひ》なり。沖に舟をかけて、しづまりをれば、まぢかくも、つどひくれど、息、ふきかくれば、たちまち散《ちり》て、見えずなるなり。

 されば、「かならず、此日には、龍燈、あがる」といふ夜も、大風、吹《ふき》、又は、雨ふりなどすれば、「あがらず」と聞《きく》を、此夜、四倉にて見し光は、是とは異なり、いづれ、ふしぎの光にぞ有し。【解云、この說、極めて、よし。ためして見つるにはあらねど、ことわり、さあるべくおぼゆるかし。】

 

[やぶちゃん注:羽虫というのは正体説として全く現実的でないが(蛍以外に、そのような発光生態を持つ「昆虫」は本邦には棲息しない。下界の人工光の反射現象は問題外として、ある種の発光バクテリアを附着させた鳥や昆虫が飛翔して光る可能性は否定は出来ないが、そうした事例を実際に現認したことなければ、そうした科学的事実を立証したデータを見たこともない)、所謂、球電などの物理現象としては、理論上は成立する(実際に私自身は説明不能の火球現象を見たことはない)。ただ、真葛の言い添えている「沖に舟をかけて、しづまりをれば、まぢかくも、つどひくれど、息、ふきかくれば、たちまち散て、見えずなるなり」というのは、実態を正確に述べているとは言えないものの、ホタル類とと同じルシフェリン-ルシフェラーゼ反応(Luciferin-luciferase reaction)で発光するウミホタル(節足動物門甲殻亜門顎脚綱貝虫亜綱ミオドコパ上目 Myodocopa ミオドコピダ目ウミホタル亜目ウミホタル科ウミホタル属ウミホタル Vargula hilgendorfii )やヤコウチュウ(アルベオラータ Alveolata 上門渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科ヤコウチュウ属ヤコウチュウ Noctiluca scintillans )の発光様態と親和性を持つ内容ではある。最後に辛気臭い因果教訓を垂れたり、糞のような怪奇談種明かしもどきをして天狗になっている凡百の浮世草子怪談作家連なんぞに比べたら、真葛は遙かに優れた立派な民俗学者であるとさえ言える。]

芥川龍之介書簡抄3 / 明治四三(一九一〇)年書簡より(2) 山本喜譽司宛(龍之介描画(模写)ドストエフスキイ肖像附)

Akudosstoe0
Akudosstoe

明治四三(一九一〇)年八月五日・神奈川縣相州高座郡鵠沼村加賀本樣別莊方 山本喜穏譽宛・自筆繪葉書)

 

今日官報ニテ發表君ノ夢ノ如ク4番ニ候ヒキ西川ハ一番中原ハズーツト下ニ候上瀧ハ試驗ヲウケタ方ノ二番ニ候ヒキ

七日六時ノ汽車ニテ參ルベク悉細ハ拜晤ノ時ヲ期シ候

   匆々

5日 竜生

 

[やぶちゃん注:描画下のキャプションは「A TH DOSTOEIWSKI」。フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキイ(Фёдор Миха́йлович Достое́вский)のラテン文字転写は「Fyodor Mikhailovich Dostoevsky」であるが、フランス語表記では「Dostoïevski」となる。さても、これは芥川龍之介のオリジナル画と勘違いしている人も多いようだが、実は、龍之介が、スイスの画家で現代木版画発展に貢献したフェリックス・エドゥアール・ヴァロットンFélix Edouard Vallotton 一八六五年~一九二五年:彼はジュール・ルナールJules Renard)の「にんじん」POIL DE CAROTTE1894の挿絵でもよく知られる。リンク先は私の全挿絵入りの岸田国士訳である。因みに龍之介はルナールを偏愛しており、彼の幾つかの作品がルナールの「博物誌」(リンク先は私の岸田訳の原文附きの私の電子化注である)をインスパイアしたものであることはよく知られているが一八九五年に描いたドストエフスキイの肖像版画の模写であり、キャプションも最後の署名「FV」を除いて、そのまま写したものなのである。フランス語サイト「The Centre Pompidou」のこちらで原画を見ることが出来る。頭の「A TH.」(原画ではコンマが打たれてある)はいろいろ調べてみたが、判らずじまいであった。悪しからず。識者の御教授を乞う。「5日」は画像で判る通り、原葉書では横書。最初の画像は底本の岩波旧全集のものを、二番目のものは、所持する「もうひとりの芥川龍之介展」の冊子「もうひとりの芥川龍之介」(一九九二年産經新聞社発行)のものをトリミングした。後者の方が地塗りのタッチがよく判る(なお、同冊子は末尾に「禁無断転載」とするが、パブリック・ドメインの作品を単に平面的に撮影したものに著作権は発生しないというのが文化庁の正式見解である)代わりに、下部の書信の下方が切れているので、双方を掲げた。

 既に述べたが、この日、芥川龍之介は官報で一高に無試験合格したことを知った。一方、山本喜誉司の方は、この時、同じく一高を試験受験したのだが、不合格となり、翌年に一高を再受験し、第二部乙類(農科)に合格している(その後の事蹟は既注。但し、不合格後の山本の敬意は後に述べることとする)。

「西川」親友の西川英次郎。「芥川龍之介 書簡抄1 明治四一(一九〇八)年から四二(一九〇九)年の書簡より」で既注。

「中原」中原安太郎(生没年未詳)。三中時代、明治四二(一九〇九)年八月の槍ヶ岳登攀に龍之介らと同行している(私の「槍ヶ岳紀行 芥川龍之介」を参照)。芥川とともに一高第一部甲類に入学した。芥川の「學校友だち」(大正一四(一九二五)年二月発行『中央公論』)によると、『これも中學以來の友だちなり。諢名[やぶちゃん注:「あだな」]は狸、されども顏は狸に似ず。性格にも狸と言ふ所なし。西川に伯仲する秀才なれども、世故には西川よりも通ぜるかも知れず。菊池寬の作品の――殊に「父歸る」の愛讀者。東京の法科大學を出、三井物產に入り、今は獨立の商賣人なり。實生活上にも適度のリアリズムを加へたる人道主義者。大金儲したる時には僕に別莊を買つてくれる約束なれど、未だに買つてくれぬ所を見れば、大した收入もなきものと知るべし』とある。

「上瀧」「かうたき(こうたき)」と読む。上瀧嵬(こうたきたかし 明治二四(一八九一)年~?)龍之介の江東小学校及び府立三中時代の同級生。一高の第三部(医学)に入り、東京帝国大学医学部を卒業後、医師となって、後に厦門(アモイ)に赴いた。詳しくは「芥川龍之介手帳 1-4」の私の注を参照されたい。

「七日六時ノ汽車ニテ參ルベク」この葉書を出した二日後の八月七日に午後六時の列車で鵠沼に滞在中の山本喜誉司を訪ねた後、二人で静岡方面の旅行に出かけている。この旅には不合格となった山本への龍之介の気遣いが強く感じられる。なお、龍之介は十四日に帰宅したが、帰宅してみると、九日からの豪雨によって隅田川が氾濫しており、龍之介は旅行姿のままで三中に向かい、十八日・二十日・二十二日には、三中卒業者(卒業式は三月)及び在校生による洪水罹災の救済活動に参加している。この時の様子は「水の三日」(三中『学友会雑誌』明治四十三年十一月発行に所収)に記されてある(リンク先は「青空文庫」のもの。新字新仮名)。

「悉細」「しつさい」。あまり見たことのない熟語であるが、「細かな謂いたいこと」の意。絵で書信の余白がないことからの使用であろう。

「拜晤」親しく互いに向き合って挨拶する時。孰れもちょっとした言い添えであるが、やはり不合格であった山本への労りが感じられる。ドストエフスキイの絵も、具体的にはよくは判らないが、何かそうした彼への、ともにロシア文学を愛読した龍之介流の励ましのメッセージのつもりであるように私には思われる。

2021/01/19

奥州ばなし 澤口忠大夫

 

     澤口忠大夫

 

 澤口忠大夫と云《いひ》し人も、大力なりし。【覺左衞門が養父なり。】勝《すぐれ》て氣丈もの、なりし。

 かの三十郞がのせられたる、細橫町《ほそよこちやう》の化物[やぶちゃん注:「砂三十郞」参照。]を、ためしたく思ひて有しとぞ。【十八才の時なり。】

 外《ほか》へ夜ばなしに行《ゆき》し歸りがけ、兩三人、つれも有《あり》しが、冬のことにて、八ツ時分なりし[やぶちゃん注:定時法で午前二時頃。]。雪後《せつご》、うす月の影、少し見ゆるに、細橫町を見通す所にいたりて、つれの人々にむかひ、

「我、多日、この橫町の化物を、ためしたしと思ひしが、時といひ、夜といひ、今夜を過《すぐ》すべからずと思はるれば、獨《ひとり》行て、見とゞけたし。失禮ながら、そなた方は、これより、かへり給はるべし。」

と、いとま、こひしかば、のぞみにまかせて、壱人《ひとり》やりつれど、つれの人も、物ゆかしければ、其所をさらで、遠見してゐたりしに、中頃までも、行つらん、とおもふころ、下にゐて、少し、ひまどりて、あゆみ出《いだ》せしが、又、下に、ゐたり。少し、間、有て、又、あゆみ出せしが、また、下に、ゐたり。

 さて、月影に、

「ひらり」

と、刀の光、見えし故、

「こと有つらん。」

と、足をはやめて、つれの人々、來りたり。

「いかにしつるぞ、下にゐがちなりしは。」

と問ヘば、忠大夫、曰《いはく》、

「さて、こよひのごとく、けちな目に逢しこと、なし。けさ、おろしたるがんぢきの緖の、かたしづゝ、一度に切《きれ》て、やうやう、つくろひて、はきしに【「がんぢき」は、雪中、はく、くつの名なり。】、爰にて、兩方、一度にきれし故、『つくろはん』と思《おもひ》しうち、肩にかゝりて、おすものゝ有しを、引はづして、なげ切《ぎり》にせしが、たしかに、そこの土橋の下へ入《いり》しと見たり。尋《たづね》くれよ。」

と云し故、人々、行て、みたれば、子犬ほどの大猫の、腹より、のんど迄きられて有しが、息はまだ絕《たえ》ざりしを、引出《ひきいだ》したり。

 忠大夫、頭を、おさへて、

「誰《だれ》ぞ、とゞめをさし給はれ。」

と云しを、つれの人は、うろたへて、忠大夫が手を、したゝかに、さしたりしを、忠大夫、刀を、とりかへして、とゞめさしたりし、とぞ。

 この時、きられし跡は、一生、手に殘りて有しとぞ。

「猫には、けがもせで、人に、あやめられし。」

と語《かたり》しとぞ。

 忠大夫は鐵砲の上手なり。【はき物の緖を切しは、まさしく、猫のせし、わざなるべし。いかにして切しものなるや、ふしぎのことなり。】

 

[やぶちゃん注:今まで言い添えてこなかったが、本篇「奥州ばなし」には、真葛自身の先行作品である「むかしばなし」という作品の巻五・巻六の内容と重複する話柄が多い(私は「奥州ばなし」が怪奇談に特化していて、非常に面白いと判断して先に電子化したのだが、これが終わったら、そちらの電子化注を始動するつもりである。但し、そちらは真葛が実母の思い出を妹のために書き残す目的で書き始めたものが、いろいろな聴き書きが増えて、かなりの分量になった随想であって、怪奇談集というわけではない)。この一篇もその一つで、実は、「むかしばなし」の同じ話(巻五にある)は、「柴田宵曲 妖異博物館 大猫」の注で電子化しており、柴田が平易な現代語に訳してもいるので、参照されたい。

「澤口忠大夫」上記の通りで、以下の養父とする「覺左衞門」もともに、或いは「むかしばなし」の中で人物がはっきりしてくるようになっていると思う。さらに補足しておくと、「柴田宵曲 妖異博物館 化物の寄る笛」には、この人物が再登場し、やはり私が「むかしばなし」のそれを注で電子化してあるのである。そこに福原縫殿(ふくはらぬい)という人物を挙げて、この沢口忠太夫の弟子であったとするのである。しかして、この福原縫殿(安永六(一七七七)年~天保一二(一八四一)年)は実在した陸奥仙台藩士であったことが判っている。これを以って改めて、本篇の真葛の怪奇談が総て実録であることを、今一度、再認識して戴きたいのである。

「多日」長いこと。

「ためしたし」相手にしてみたい。

「今夜を過すべからずと思はるれば」今夜のこの時は、時刻といい、天候といい、物怪(あやかし)に逢(お)うて対峙するに絶好の折りであり、この期(ご)を逃してはなるまいぞと思うによって。

「物ゆかしければ」おっかなびっくりもあるが、何となく心惹かれ、ちょいと好奇心を掻き立てられたので。

「中頃までも、行つらんとおもふころ」遠くはないけれども、沢口のいる辺りから有意に距離をおいたところ(但し、夜目には沢口が現認出来る距離である)まで来たかと思って、振り返って見はるかしたところが。

「下にゐて」距離をおいているので、沢口が何をしているかは判然としないものの、明らかに道にしゃがんでおり。

「けさ、おろしたる」今朝、おろしたばかりの新品の。

「がんぢき」「樏」「欙」「橇」などと漢字表記し、一般には「かんじき」と呼ぶ、雪の上で作業したり、歩行する際、めり込みを防いだり、滑り止めのために装着した履物。標準サイズは長さ三十二・五センチメートル、幅二十二センチメートル、重さ七百四十グラム程で、藁靴やゴム長靴の下に履く。二本の木を組合せて輪を形作り、その接合部分に「ツメ」と称するアイゼン状の滑り止めを附す。大正前期まで使用され、冬季の作業には欠かせないものであった。

「かたしづゝ」片足ずつ。

「刀をとり、かへして」私は「自分の刀を、やおら、とって、返り斬りにして」の意でとる。誤って刺した男の刀とすると、勇猛な武士としては、ちょっと不審だからである。]

芥川龍之介書簡抄2 / 明治四三(一九一〇)年書簡より(1)山本喜譽司宛2通

 

明治四三(一九一〇)年四月・芝発信・山本喜譽司宛

 

Dear Sir

とうとう英文科にきめちやつたもう動かないつもりだ

文科の志望者は年々少くなつて今では一高が辛うじて定員だけもしくは定員を少し超過する位で地方には殆ど定員だけの志望者がないといふ、これと同じ運命にあるのが理科だ相だ[やぶちゃん注:「さうだ」。当て漢字。]

何處迄所謂 lndustrial になるンだかわからない農科は近來秀才を吸收する新傾向を生じた相だ其一人が君なンだよ、

大に得意になつていゝ

音樂がきゝたくなつた大へんきゝたくなつた今目日も靑年會館に音樂會がある行きたいなと思つたけれどやめにした、

一寸變な氣がして思切つて出掛る勇氣がない、何時かもつときゝたくなつたら君に賴むから一緖に行つてくれ給ヘ

獨ぢや何年たつたつて行けつこはない

勉强してるだらうね僕は矢張やれさうもないタイイスだけは讀ンでる

來られたら來ないか義理でいやいや來たンぢやアいやだ來てもかたくなつて遠慮しちやアいやだ遠慮しなくつても來てすぐ歸るやうに忙しいンぢやアいやだ

中々來かたが六づかしいンだよ大門行へのつて宇田川町で降りる(新橋――源助町――露月町――宇田川町)降りて少し先へ行くと道具屋と湯屋との間に狹い橫町があつて湯屋の黑い羽目に耕牧舍の廣告がある其橫町を向うへぬけると廣い往來へ出るさうすると直[やぶちゃん注:「すぐ」。]耕牧舍の看板がある狹い橫町があるからそれをはいると右側に[やぶちゃん注:ここに以下の看板の図。底本の岩波旧全集からトリミングした。改行して示すが、原本文は前後が続いている。]

Gyunyu

が立つてるその向うの右側に花崗石を二列に敷いた路次があるそれをはいるとつきあたりに門があるその門の内へはいるとどこかの代議士の御妾さんの家へはいるから其門をくゞつちやアいけない門の左に格子戶がある格子戶をあけると左に下駄箱があつて其上にロツキングの馬がのつかつてる

此處迄來ればもう間違なく僕の机の所へ來られる筈だ芝の家の玄關がこれだから

平塚の所から手紙が來て肋骨はぬかずにすンだとかいてある當分寢てゐるさうだ序があつたら見舞に行つてやるといゝ

あの黑犬さえ居なければ僕も行くンだけれど。

さぞ細くなつたらうと思つたら淚が二しづくこぼれたでも二しずくきりつきやこぼさなかつた

本當に來られたら來給へ來る前にはハガキで知らせて吳れ給へ待つてるから

これからちよいちよい手紙をかく淋しくなれば方々へ手紙を出す其度に返事はいらない此方から出した手紙も讀ンでも讀まなくってもいゝ用がある時は狀袋に特にしるしをつけるから

末ながら皆さんによろしく 匆々

    四月花曇の日         龍

  喜   兄

  川やなぎ薄紫にたそがるゝ汝の家を思ひかなしむ

  ヒヤシンス白くかほれり窓掛のかげに汝をなつかしむ夕

  夕潮に春の灯(ヒ)うつる川ぞひの汝の家のしたはしきかな

 

[やぶちゃん注:旧全集より(以下同じ)。「灯」の「(ヒ)」はルビ。芥川龍之介満十八歳。ここにある通り、第一高等学校一部乙類の英文科への進学を決め、一日十時間もかけて受験勉強に精を出した。但し、実際には、この年から一高は成績優秀者の推薦による無試験入学を開始しており、芥川龍之介は、その無試験合格で入学することとなった。無試験合格組の中では龍之介は最上位から四番目であった。本人は合格したことは同年八月五日の官報で知った(新全集の宮坂覺(さとる)氏の年譜に拠る)。芝発信で本文に実父の牧場への案内があるのは、この四月から翌五月にかけて、龍之介は芝にある実父の牧場「耕牧舎」(東京府豊多摩郡内藤新宿二丁目七十一番地(現在の新宿区新宿二丁目)にあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。)にある新原家で生活していたことによる。恐らくは落ち着いて試験勉強をするためと思われる。なお、この年の十月に、芥川家は一家でこの牧場の脇にあった敏三の持ち家に本所から転居している。

「文科の志望者は年々少くなつて今では一高が辛うじて定員だけもしくは定員を少し超過する位で地方には殆ど定員だけの志望者がないといふ、これと同じ運命にあるのが理科だ相だ」一九九二年河出書房新社刊鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」の鷺氏に解説によれば、『当時の高校の文化や理科は人気がなくて学生が集まらず、一高だけはどうやら定員を満たすという状況で、地方の高校は軒並み定員割れの状態が続いたため、この年から中学校で優秀な成績をおさめた者は無試験で高等学校への入学を許可するという制度が新しく』この年から『発足することにな』ったのであった。この制度は同年から『大正二年』(一九一三年)『まで四年間続けられた』とある。

「何處迄所謂 lndustrial になるンだかわからない」これは「日本がどこまで高度に発達した産業優先国家になろうとしているのか、私にはよく判らない」という謂いである。因みに、語りかけている大の親友で同い年の、東京生まれの山本喜誉司(明治二五(一八九二)年~昭和三八(一九六三)年)は、この年に同じく旧制第一高等学校を試験受験したが、不合格となり、翌年、一高を再受験し、第二部乙類(農科)に合格した。その後、東京帝国大学農学部に進学、大正六(一九一七)年に卒業し、三菱合資会社に入社、社長岩崎久弥から海外での農場経営の任務を与えられ、中国北京に滞在して綿花事業に携わった後、大正一五(一九二六)年にコーヒー栽培事業のためにブラジルに派遣され、サンパウロ郊外のカンピナス丘陵に岩崎彌太郎の号である「東山」を冠した東山農場を開設、翌年、三菱資本で合資会社「カーザ東山」を設立し、コーヒーを取り扱ったが、その他の産物や加工などにも事業を展開させて多角経営化を図った。第二次世界大戦中と戦後は、強いリーダーシップで日系ブラジル人の「勝ち組」と「負け組」の抗争終結と、日系人の権利回復に奔走した。大戦中に東山農場は敵国資産として、一時期、ブラジル政府に接収されたが、初代農場長だった山本のコーヒー害虫駆除・ユーカリ植林等の功績が評価され、戦後、比較的早い時期に返還されている。かく日系ブラジル人社会で活躍した農業家として、戦後混乱期のブラジル日系人社会「日系コロニア」を纏め、「コロニア天皇」とまで称された実力者となり、ブラジル日系人社会で彼を知らない人は、いない。コーヒー栽培の害虫駆除に有効なウガンダ蜂の研究で母校東京大学から農学博士を授与されている(以上は概ね彼のウィキに拠ったが、一部に疑問があるのでカットした。その部分(一高不合格と翌年合格の間)については、後に注することとする)。

「タイイス」フランスの詩人・小説家・批評家のアナトール・フランス(Anatole France 一八四四年~一九二四年)が一八九〇年に発表した長編小説「タイス」(Thaïs)。四世紀頃の原始キリスト教時代のエジプトを背景に、舞姫タイスを救おうとした修道僧パフニュスが、彼女の魅力に惹かれて、地上の恋を叫ぶに至る過程を描く。フランスの作曲家ジュール・マスネ(Jules Massenet 一八四二年~一九一二年)によって三幕七場の「抒情劇」(comédie lyrique)と題されてオペラ化され(初演は一八九四年)、特に第二幕第一場と第二場の間の甘美な間奏曲「タイスの瞑想曲」(Méditation)は名曲としてとみに知られる。

「湯屋」江戸っ子の芥川龍之介なら、確実に「ゆうや」と読んでいるはずである。

「ロツキングの馬」Rocking Horse。欧米ではお馴染みの前後に揺らせる子供用の「揺り木馬」のこと。小型のミニチュアであろう。

「平塚」府立三中時代の親友平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)。この後、岡山の第六高等学校に進学したが、ここで「肋骨はぬかずにすンだ」(気胸術式を指す)で判る通り、結核で戻ってきて、千葉の結核療養所で亡くなった。芥川龍之介は後の大正一六(一九二七)年一月一日(実際には崩御によってこの年月日は無効となる)発行の雑誌『女性』に発表した「彼」(リンク先は私の詳細注附きの電子テクスト)の主人公「X」はこの平塚をモデルとしたもので、その哀切々たるは、私の偏愛するところである。

「あの黑犬さえ居なければ僕も行くンだけれど」龍之介は大の犬嫌いであった。]

 

 

明治四三(一九一〇)年四月二十三日・芝発信・本所区相生町山本喜譽司宛

 

喜兄

朝から來給へ

平塚にも來るやうにさう云つてやりました、[やぶちゃん注:底本の岩波旧全集では、この下方に以下の龍之介の手書きのイラストがある。当初、「青い鳥」の中の光の妖精かと思ったが、耳がやや長いものの、しっかり首輪と尻尾があるから、以下の台詞の直前でチルチルを助ける犬を描いたものであろう。]

Yousei

今日は家中妙華園へ何とか云ふ花を買ひにゆきました 僕にも行けと云つたのを斷つりましたがこの手紙をかきながら「行けばよかつたつけ」と思つてます、[やぶちゃん注:底本では「斷つ」の「つ」の脇にママ注記がある。]

チユリツプが四つともさきました一つ鉢へうえたので少し變ですが紅い奴が一つ黃色い奴が一つしぼりが二つ 紅い奴は甘い香がします、

   You see that man is all alone against all in the world.

メーテルリンクの中で「光」の精が森の樹の精にいぢめられた小供にかう云つて敎へるのですが面白いから御覽に入れます、こンな風に深奧な自然觀の片鱗が御伽芝居の中にちらばつてゐるのを見ても單なる御伽芝居でなくシムボリカルな所の多いのがわかります、來月は丸善へ來ますから獵人日記をよンだら是非よンで見給へ、匆々

 

[やぶちゃん注:「妙華園」現在の品川区西品川一、二丁目(グーグル・マップ・データ)にあった一万坪もの一大植物園。アメリカで園芸を学んだ河瀬春太郎(明治五(一八七二)年生まれ)が明治二八(一八九五)年に開園したもの。河瀬は、かのアメリカに贈られてワシントンのポトマック河畔に植えられたソメイヨシノの選定者でもある。

You see that man is all alone against all in the world.」ベルギー象徴主義の詩人で劇作家モーリス・メーテルリンク (Maurice Maeterlinck 一八六二年~一九四九年)の童話劇「青い鳥」(L'Oiseau bleu)の第三幕第五場の妖精の「光」の台詞。所持する講談社文庫の新庄嘉章氏の訳で示す。

   《引用開始》

 これでよくわかったでしょう。人間はこの世ではたったひとりで万物(ばんぶつ)とたたかってるんだということが……

   《引用終了》]

 

 

明治四三(一九一〇)年五月二十五日・消印二十六日・『二十五日松邊の寒村にて 龍之介』・東京市本所區相生町三ノ六・山本喜譽司宛・葉書

 

今朝は御見送り下され難有御礼申し上げ候大原より馬車にのり候處馬車馬が天下の名馬にて猪進少しも止らず馬車の覆らむとするもの屢少からず閉口仕候

午後一時半當地着 濤聲をきゝつゝこれをしたゝめ申し候 

Endousyoken 

[やぶちゃん注:「沿道所見」のスケッチともに旧全集より。この五月二十五日に芥川龍之介は千葉県勝浦(グーグル・マップ・データ)に出かけ、翌六月の初旬まで滞在していた。六日には西川英次郎及び山本喜譽司と三人で一高へ願書を出しに行っているので、恐らく前日夜には帰宅しているかと思われる。それにしても、芥川龍之介は三中・一高・帝大時代を通じ、頻繁に泊りがけの旅をしている。龍之介は河童で、水泳が得意であったから、中に海辺の避暑地が多いことが腑に落ちはするが、私など、三十二で結婚するまで、泊りがけの一人旅など、大学一年に鹿児島の病床にある祖父を見舞い、帰りに広島原爆記念公園を訪い、卒論に向けて尾崎放哉の墓のある小豆島西光寺に墓参したのと、教員になってから芭蕉・杜国の跡を偲んで伊良湖岬へ行った、たった二度しかない。妙に羨ましい気がした。]

 

 

明治四三(一九一〇)年六月一日勝浦発信・東京市本所區相生町三ノ六 山本喜譽司宛・繪葉書

 

晴れたる日 麥畑の黃ばめる丘の裾に橫はりて常夏月の暖き光をあびつゝ靑き海に小さき帆の蝶の如く群れたるを見卯の花の白くちりぼへる下に Thais の一卷を繙きつゝはるかに岩赤く水靑き南イタリーの橄欖の花の香を思ふ、彷弗としてヴエニス乙女らの奏づるマンドリンの響をきく心地致し候 匆々

  一日朝            靑萍生

  歸心日夜憶咸陽 龍

 

 

明治四三(一九一〇)年六月二十二日(年月推定)・山本喜譽司宛(封筒欠)

肅白

今晚はあがれなくなつた 海邊にゐて早く寐て早く起きた習慣で六時をうつともう寐くなる おまけに今日は朝から芝に行つてゐたので猶ねむい 寐るのであがらないのは甚失禮だが君は僕のよく寐るのを知つてゐるし君自身もすうすう寐るンだからまけて下さる事だらうと思ふ、

明日は芝へ行く明後日は醫者へゆく明後日の夜か明日の夜に君を訪ふかもしれぬけれどもたしかな事は云へない、

今度醫者に駄目だつて云はれたら書劍を抱いて舊都に放浪するつもりだ此頃はこンな事を考へると無やみにさびしくなる

今日のやうな雨の黃昏にあの柳若葉の滴の音のする部屋で勉强してゐる君の事を思つたら猶淋しくなつた、少し察してくれ

西川から「廿四日が早く來ないかな」と云ふ手紙が來た 廿四日も少し僕には食パンのやうに味がなくなりかけた、

冷笑と漱石近什と六人集とを御覽に入れる 雨の音をきゝながら讀ンでくれ給へ本も喜ぶだらう

六人集の中でアンドレエフの「霧」はうまく書かれてると思ふ 讀者をして讀者自身の生活を顧させる力があるやうな氣がする

アルツイバーセフの「妻」もいゝ

バリモントも面白かつた 全編を通じて伏字が多いのには恐れる、冷笑を僕が好むのは云ふ迄もない、漱石近什の中では夢十夜を最も愛すね 殊に第一夜と第六夜と第七夜がいゝ 最屢くりかへしてよンだのは三册の中で漱石近什だつた

歌いぶりもやめてる タイイスは皆よみきらなかつた

   うす靑き初春の空やほの白う山たゝなはり野は花葉さく

   黑土に芽ぐめる草の靑を見ていのちを思ふ、さびしき日なり

   豆の花うす紫に咲きぬらむ夕日にぬれし孤兒院の庭

右手帳から

勝浦へゆく途中のいたづらがきだから笑つちやアいけない、

醫者の方がしれ次第早速御しらせする いゝと云はれたらさぞ嬉しいだらうと思ふ 嬉しいにちがいないと思ふ

健康を祈る

    廿月二日        芥川生

    喜譽司樣

 

[やぶちゃん注:「廿月」の「廿」に底本編者のママ注記が附されてある。

「明後日は醫者へゆく」「今度醫者に駄目だつて云はれたら」「醫者の方がしれ次第早速御しらせする」「いゝと云はれたらさぞ嬉しいだらうと思ふ」諸年譜には一切記されていないが、この時、龍之介は何らかの体調不良(可能性としては肺)に悩んでいたことが判る。或いは結核の初期症状を疑うようなものだったのではないかと推察する。というより、この記載は神経症的な心気症を濃厚に感じさせる。

「書劍」ペン。

「廿四日」不詳。諸年譜に当たっても判らない。

「冷笑」ここでの筆運びへの自己韜晦か。

「漱石近什」「漱石近什四篇」この明治四十三年の五月に春陽堂から刊行された夏目漱石の作品集。収録作は「文鳥」夢十夜」「永日小品」「滿韓ところどころ」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で原本全篇が読める

「近什」は最近発表された文芸作品を言う一般名詞。

「六人集」まさにこの年のこの六月に刊行されたロシア文学者昇曙夢(のぼり しょむ 明治一一(一八七八)年~昭和三三(一九五八)年)訳の「露西亞現代代表的作家六人集」。収録作品は「夜の叫」(バリモント)・「靜かな曙」(ザイツェフ)・「閑人」(クープリン)・「かくれんぼ」(ソログーブ)・「妻」(アルツイバーセフ)・「霧」(アンドレーエフ)。

「アンドレエフ」レオニド・アンドレーエフ(Леонид Николаевич Андреев/ラテン文字転写:Leonid Nikolaevich Andreyev 一八七一年~一九一九年)。小説で「ロシア第一革命」の高揚と、その後の反動の時代に生きた知識人の苦悩を描き、当時、世界的に有名な作家となっていた。

「アルツイバーセフ」ミハイル・ペトローヴィチ・アルツィバーシェフ(Михаил Петрович Арцыбашев/Mikhail Petrovich Artsybashev 一八七八年~一九二七年)は十九世紀後半から二十世紀前半のロシア文壇を代表する作家。近代主義小説の代表的作品で、性欲賛美をした「サーニン」(Санин:一九〇七年)や、その続編となる自殺賛美をした「最後の一線」(У последней черты:一九一〇年~一九一二年)で知られる。

「バリモント」コンスタンティン・ディミトリエヴィチ・バリモント(Константин Дмитриевич Бальмонт/Konstantin Dmitriyevich Balmont 一八六七年~一九四二年)はロシア象徴主義の詩人で翻訳家。ロシア詩壇の『銀の時代』を代表する文人の一人。

「夢十夜」夏目漱石が明治四一(一九〇八)年七月二十五日から八月五日まで『東京朝日新聞』に連載した彼にして珍しいオムニバス形式の幻想小説。

「第一夜」「百年待つてゐて下さい」の話。後の芥川龍之介の「沼」(大正九(一九二〇)年三月発行の『改造』初出)は明らかにこの話のインスパイアである。個人的には「夢十夜」では好きな一篇である。

「第六夜」例の運慶の「荘子」みたような話。私個人は同前。

「第七夜」『何でも大きな船に乘つてゐる』が、『けれども何處へ行くんだか分らない』に始まり、『つまらなくなつた』自分は『とうとう死ぬ事に決心し』、『思ひ切つて海の中へ飛び込んだ。ところが――自分の足が甲板を離れて、船と緣が切れた其の刹那に、急に命が惜しくなった』。『けれども、もう遲い』。『自分は何處へ行くんだか判らない船でも、矢つ張り乘つて居る方がよかつたと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事が出來ずに、無限の後悔と恐怖とを抱(いだ)いて黑い波の方へ靜かに落ちて行つた』と終る話。私は昔、二十代の頃、これをイメージしながら、水上勉の「飢餓海峡」の主人公が死ぬ数時間を小説にしたことがあった。原稿の一片さえも残っていないが。]

2021/01/18

芥川龍之介 書簡抄 始動 /1 明治四一(一九〇八)年から四二(一九〇九)年の書簡より

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の書簡から編年順に電子化する。底本は岩波旧全集(一九七八年刊)及び葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」(岩波書店一九七八年刊)を用い、正字正仮名で示す。注では所持する筑摩書房全集類聚版(昭和四六(一九七一)年刊)及び岩波文庫石割透編「芥川竜之介書簡集」(二〇〇九年刊)を一部で参考にする。なお、意外に思われるかも知れぬが、私は岩波の新全集の書簡巻は所持していない。金がないから買わなかったのでもなく、旧全集にないどうしても確認したい作品が載る三巻ほどは、仕方なく買い求めてはある。ともかくも、私はあの芥川龍之介の作品を新字に変えてしまった新全集が身近にずらりと並んでいるのを想像しただけで、生理的に堪えられないと感じられるから持っていないだけなのである。

 私が気になる書簡を選んで示す。踊り字「〱」「〲」は正字化する。字下げや字配は必ずしも再現していない(ブログ・ブラウザでの不具合を考えてである)。添えられたスケッチや自筆画などは出来る限り、採録したいと思っている。底本では、「候」の草書体を活字化して示してあるが、表示出来ないので正字で示した。定型詩・自由詩・短歌を含む書簡は戯詩や狂歌っぽいものも含め、総て採用する(相似作品で大きな変化のないものは初出を選び、注で相似作品を添える)。何故なら、私が嘗て行った、「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集」は書簡を対象としなかった(する余裕がなかった)からである。

 さても、今回のこの記事の書簡当時、芥川龍之介は府立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の三、四年次生(満十六、七歳)であった。私は、とても、この年の頃、こんな豊かな読書歴を持っていなかったことを慚愧とともに告白しておく。の前年明治四十年中に、龍之介は後に妻となる塚本文(ふみ)と出逢っている(その当時の文は七歳)。以下に出る龍之介と頻繁に書簡をやりとりしている親友山本喜譽司(きよし)が文の母鈴(すず)の末弟であった関係に由るが、当時の龍之介にはそうした思いは、まだ、なかった。【2020118日始動 藪野直史】] 

 

明治四一(一九〇八)年十二月二十四日東京本所発信・葉書・表に『狂兒龍之介拜』と記す・芥川ふき宛

肅啓 本日成績發表、小生は第一番に御坐候間乍憚御休神下され度候 猶中原君二番、西川君三番、依田君四番、宮崎君五番、砂岡君六番、筒井君七番、平塚君八番、山本君十三番に候 廿四日

先は取りあへず御知らせ迄

 

[やぶちゃん注:「芥川龍之介未定稿集」から。

「肅啓」(しゆくけい(しゅく‐けい)。頭語。「謹んで申し上げる」の意。

「芥川ふき」は龍之介を育て、彼の人格形成に大きな影響を与えることになった母方の伯母(実母フクの姉で、養父芥川道章の妹)であり、龍之介の作品や随筆にも、しばしば登場する。生前の龍之介と最後に言葉を交わした相手は彼女であった。一般には「フキ」とカタカナ書きする。なお、この時、既に龍之介は芥川道章の養子問題が解決しており、本所の芥川家に一緒にフキも龍之介も住んでいたから、この葉書というのは以前から不審であった。しかし、これは、思うに、養母である道章のトモを遠慮して、学期末成績を養母よりも恐らくは遙かに――芥川家担う龍之介のそれを心配してした彼女に――言葉でなく、葉書で報告したのであって、妙なところでシャイな龍之介特有の気配りなのではないかと私は推察する。

「御休神」御安心。

「西川君」次の書簡に出る西川秀次郎。

「山本君」前注で述べた山本喜譽司。] 

 

明治四二(一九〇二)年三月六日・本所発信・廣瀨雄宛

肅啓 御手紙難有奉誦致し候ジヤングルブツクは嘗て其中の二三を土肥春曙氏の譯したるを讀み(少年世界にて)幼き頭腦に小さき勇ましきモングースや狼の子なるモーグリーや椰子の綠葉のかげに眠れる水牛や甘き風と暖なる日光とに溢れたる熱帶の風物の鮮なる印象をうけしものに御座候原作に接したきは山々に御座候へども目下の樣子にては到庭手におへなささうに候へばまづまずあきらめて Rosmersholm をこつこつ字書をひき居り候

ロスメルスホルムと云へば此篇ほどメレジユコウスキの所謂「死の苦痛卽ち生の苦痛」の空氣の痛切にあらはれたるは見ざる樣に思はれ候英譯一册にてイブセン通になる譯には無之候へどもボルクマンの懊惱。ゴーストの主人公の死。ドールスハウスのヒロインの決心。ザ、レデー、フロム、ザ、シーのヒロインの復活。皆この境に新生命の產聲をあげむとして叫び居り候へども殊に此ロスメルスホルムの男主人公と女主人公との最後ほど强く描かれたるは無之候ハウプトマンの「寂しき人々」は此作の感化を蒙る事多きよしに候へども嘗てよみたる「寂しき人々」の和譯にくらべてロスメルスホルムの方がはるかに力のつよき樣に感ぜられ候

恨らくは泰西の名著も東海の豎子には中々の重荷にて字書をひきて下調べをするときは何の事やら少しも判然せず代る代る譯をつける時に辛うじて事件の一部が明になり三度獨りでよみ返して見てはじめて全事件を望み得る次第に御座候殊に序幕にては暗示的な言の連發をうけて一方ならず閉口致し候クオバデスもロスメルスホルムの間に繙き居り候へども中々捗らず時々先の頁を勘定してがつかり致し候

今日はクオバデスとロスメルスホルムとの難解の個所を伺ひに上る豫定の所朝より客來にて一日中榮螺の如蹲りて且談り且論じ候まゝ遂に參上致し兼ね候此分にては雅邦會を訪ふも覺束なく相成目下は復活の後篇をよみ居り候談話部の龍頭蛇尾に陷りたる委員諸君の遺憾はさこそと察せられ候へども小生にとりては少くも天祐に御座候ひき、「批評の態度」の愚稿に先生の玉斧を請ひて御迷惑をかけ候夜は、歸宅後書いては消し書いては消し遂には筒井君の所へ電話をかくるに至り候「果斷ありと自ら誇りしが此果斷は順境にのみありて逆境にはあらず」其夜ひるがヘして見たる「舞姬」の言我を欺かず候

これより學年試瞼の完るまでは一週間禁讀書禁遠步の行者と相成る筈に候遠足は散步にて間にあはせ候へども禁書は兎も角も難行にて讀みたくてたまらぬ時は何となく氣のとがめ候まゝうそつと化學の敎科書などの下にかくしてよむを常と致し候今度も此滑稽を繰返す事と思へば何となく滑稽らしくなく感ぜられ候あまり自分の事ばかり長々しく書きつらね候イゴイストは樗牛以來の事と御宥免下さるべく候 匆々

    三月六日夜   芥川龍之介

   廣瀨先生 硯北

 

[やぶちゃん注:岩波旧全集第十巻から。

「廣瀨雄」(ひろせたけし 明治七(一八七四)年~昭和三九(一九六四)年)は芥川龍之介の東京府立第三中学校英語科教諭で龍之介の一年次の担任。石川県生まれ。東京高等師範学校英語専修科卒。芥川の才能を見出し、卒業までの五年間、親身になって教授し、第一高等学校を受験の際には、自宅へ呼んで講義するなどし、積極的に文学書も貸与した。広瀬は小石川に住んでいたが、後の芥川の斡旋で住居も田端に移している。英語教育者として知られ、龍之介とは自死するまで終生、交流があった。後の大正八(一九一九)年には府立三中の第二代校長となった。大正一二(一九二三)年五月には、府立三中を卒業して一高へ入学していた堀辰雄を、家が隣り合わせで交流が深かった室生犀星に紹介している(堀が龍之介の弟子となるのは、この年の終わり頃である)。後、昭和五(一九三〇)年に東京府立第三高等女学校(現在の都立駒場高等学校)へ第三代校長として転任した。英和辞典の編纂者としても知られる。

Rosmersholm」「ロスメルスホルム」(ロスメル家)。知られたノルウェーの劇作家ヘンリク・イプセン(Henrik Johan Ibsen 一八二八年~一九〇六年)が一八八六年に発表した戯曲。中学時代、親友の西川英次郎(えいじろう 後に農学博士となる)と読んだことを、龍之介は「學校友だち」(大正一四(一九二五)年二月発行『中央公論』)で、以下のように記している。

   *

西川英次郞 中學以來の友だちなり。僕も勿論秀才なれども西川の秀才は僕の比にあらず。東京の農科大學を出、今は鳥取の農林學校に在り。諢名[やぶちゃん注:「あだな」。]はライオン、或はライ公と言ふ。容貌、榮養不良のライオンに似たるが故なり。中學時代には一しよに英語を勉强し、「獵人日記」、「サツフオ」、「ロスメルスホルム」、「タイイス」の英譯などを讀みしを記憶す。その外柔道、水泳等も西川と共に稽古したり。震災の少し前に西洋より歸り、舶來の書を悉く燒たりと言ふ。リアリストと言ふよりもおのづからセンティメンタリズムを脫せるならん。この間鳥取の柿を貰ふ。お禮にバトラアの本をやる約束をしてまだ送らず。尤も柿の三分の一は澁柿なり。

   *

「ジヤングルブツク」イギリスの小説家・詩人でイギリス統治下のインドを舞台にした児童文学等で知られる作家・詩人のジョゼフ・ラドヤード・キップリング(Joseph Rudyard Kipling 一八六五年~一九三六年:ボンベイ (ムンバイ) 生まれ。四十一歳という史上最年少で、イギリス人としては最初にノーベル文学賞を一九〇七年に受賞した人物として知られる)が一八九四年に出版した短編小説集。赤ん坊の頃から狼に育てられた少年モウグリ(Mowgli)が主人公の連作「The Jungle Book」。

「土肥春曙」(どい しゅんしょ 明治二(一八六九)年~大正四(一九一五)年)は、本名庸元 (つねもと)。東京専門学校 (現在の早稲田大学) 文科の第一期生として入学し、卒業後、新聞記者や母校の講師を経て、明治三四(一九〇一)年に川上音二郎一座の通訳兼文芸部員として渡欧し、明治三十八年、坪内逍遙の脚本朗読会に加わり、「易風会」を興し、翌年、「文芸協会」が設立されると、技芸監督と代表俳優として活躍し、端麗な容姿と凛とした調子で新劇の二枚目、立役の第一人者と讃えられた。当り役はハムレットで、第二次「文芸協会」の解散の後,「無名会」を興したが、旗揚げから一年後に病没した。彼は明治三二(一八九九)年から二年かけて雑誌『少年世界』黒田湖山との共訳で同書を連載し、これが同作の本邦最初の紹介となった。

「モングース」「ジャングル・ブック」の「リッキ・ティッキ・タヴィ」(Rikki-Tikki-Tavi)の譚に出る、哺乳綱食肉目ネコ型亜目マングース科エジプトマングース属 Herpestes のインドに棲息するマングースのこと。

「モーグリー」同前で、インドのジャングルで虎のシア・カーンにより追われた、人間の赤ん坊(樵人(きこり)の子供)が、クマのバルーと黒豹のバギーラの提案により、狼の一家により、「モウグリ」と名付けられて育てられる。十年余りの後、シア・カーンは、モウグリを狼の群から追い出せと迫る。モウグリを受け入れたリーダー狼の「アケーラ」は老いて弱くなり、狼の群れは、シア・カーンに同意する。モウグリは、火を見せつけ、自分の賢さを動物たちに示し、ジャングルから人間の村に向かう、というストーリーとなる(以上はウィキの「ジャングル・ブック(小説)」に拠った)。

「メレジユコウスキ」ロシア象徴主義草創期の詩人にして当時最も著名な思想家であったディミトリー・セルギェーヴィチ・メレシュコフスキー(ラテン文字転写:Dmitry Sergeyevich Merezhkovsky 一八六六年~一九四一年) 。ペテルブルクに流行のサロンを開いて、「頽廃主義の巣窟」の異名をとった人物である。

「英譯一册にてイブセン通になる」しかし、筑摩全集類聚版脚注には『当時広く読まれたスコット、ハイネマンの英訳イプセン集のいずれにも、ここに挙げられた全作品が一巻に収められているのは見当たらない』とある。

「ボルクマン」「ヨーン・ガブリエル・ボルクマン」(John Gabriel Borkman )。一八九六年にイプセンが晩年書いた戯曲。一八九七年にヘルシンキで初演された。

「ゴースト」イプセンの一八八一年の戯曲「幽霊」(Gengangere )。筑摩全集類聚版脚注に、『主人公オスワルが発狂して「太陽を」とつぶやくのをさす』とある。後に芥川龍之介は「藝術その他」(大正八(一九一九)年十一月発行の『新潮』掲載)の中で(リンク先は私の電子テクスト)、

   *

 内容が本で形式は末だ。――さう云ふ說が流行してゐる。が、それはほんたうらしい譃だ。作品の内容とは、必然に形式と一つになつた内容だ。まづ内容があつて、形式は後から拵へるものだと思ふものがあつたら、それは創作の眞諦に盲目なものの言なのだ。簡單な例をとつて見てもわかる。「幽靈」の中のオスワルドが「太陽が欲しい」と云ふ事は、誰でも大抵知つてゐるに違ひない。あの「太陽が欲しい」と云ふ言葉の内容は何だ。嘗て坪内博士が「幽靈」の解說の中に、あれを「暗い」と譯した事がある。勿論「太陽が欲しい」と「暗い」とは、理窟の上では同じかも知れぬ。が、その言葉の内容の上では、眞に相隔つ事白雲萬里だ。あの「太陽が欲しい」と云ふ莊嚴な言葉の内容は、唯「太陽が欲しい」と云ふ形式より外に現せないのだ。その内容と形式との一つになつた全體を的確に捉へ得た所が、イブセンの偉い所なのだ。エチエガレイが「ドン・ホアンの子」の序文で、激賞してゐるのも不思議ではない。あの言葉の内容とあの言葉の中にある抽象的な意味とを混同すると、其處から誤つた内容偏重論が出て來るのだ。内容を手際よく拵へ上げたものが形式ではない。形式は内容の中にあるのだ。或はそのヴアイス・ヴアサだ。この微妙な關係をのみこまない人には、永久に藝術は閉された本に過ぎないだらう。

   *

と述べている。

「ドールスハウス」最も知られたノラ(Nora:カタカナ音写は本来は「ノーラ」が正しい)を主人公とするイプセンの戯曲で、一八七九年に書かれた戯曲「人形の家」(Et dukkehjem )。

「ザ、レデー、フロム、ザ、シー」イプセンの一八八八年発表の戯曲「海の夫人」(Fruen fra havet)。筑摩全集類聚版脚注には、龍之介の言う『復活とは最後の男女両性の新しい結合をさしている』とある。イプセンは写実主義的近代戯曲の確立者などと評されるが、私はごく若い頃、役者のなろうと思い、特に彼の作品を好んで、訳で多くを読んだが、彼には錬金術的な嗜癖が甚だしく認められると感じており、これはまさにその理論に頗る合致するものと考えている。

『ハウプトマンの「寂しき人々」』ノーベル文学賞を受賞したドイツの劇作家・小説家。詩人のゲアハルト・ハウプトマン(Gerhart Hauptmann 一八六二年~一九四六年)の一八九一年作の「Einsame Menschen 」。筑摩全集類聚版脚注に、『新しい時代思想に揺』す『ぶられる知識人を描いている点で、「ロスメルスホルム」と共通している』とある。

「豎子」(じゆし(じゅし))。卑称の漢語で「小僧っ子」の意。

「序幕」筑摩全集類聚版脚注に、『ロスメルがの妻の死の秘密が事件の背後に隠されている』とある。

「クオバデス」ポーランドのノーベル賞作家ヘンリク・アダム・アレクサンデル・ピウス・シェンキェーヴィチ(Henryk Adam Aleksander Pius Sienkiewicz 一八四六年~一九一六年)の名作歴史小説「クォ・ヴァディス――ネロの時代の物語」(Quo Vadis: Powieść z czasów Nerona)。西暦一世紀のローマ帝国暴君ネロの治世下を舞台とし、若きキリスト教徒の娘リギアと、ローマの軍人マルクス・ウィニキウスの間の恋愛を中心としつつ、当時のローマ帝国の上流階級に見られた堕落と享楽に耽ったそれや、キリスト教徒への残虐な迫害の様子を描いたもの。標題はラテン語で「どこへ行くのか?」の意。新約聖書の「ヨハネによる福音書」の第十三章第三十六節で、使徒ペトロが最後の晩餐に於いてイエスに投げかけた問い、「Quo vadis, Domine?」(クォ・ヴァディス、ドミネ:主よ、どこへ行かれるのですか?)という問いに由来する。

「雅邦會」日本画家橋本雅邦(がほう 天保六(一八三五)年~明治四一(一九〇八)年)が、生まれた武蔵国川越(後の埼玉県川越。父は川越藩の御用絵師であった)の有志と作った彼の親睦会(岩波文庫の石割氏の注に拠る)。

「復活」言わずと知れたトルストイのそれ。

「果斷ありと自ら誇りしが此果斷は順境にのみありて逆境にはあらず」森鷗外の「舞姬」一節であるが、正しくは「嗚呼、余はこの書を見て始めて我地位を明視し得たり。耻かしきはわが鈍き心なり。余は我身一つの進退につきても、また我身に係らぬ他人の事につきても、決斷ありと自ら心に誇りしが、此決斷は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との關係を照さんとするときは、賴みし胸中の鏡は曇りたり」である。私の「舞姬」を参照されたい。

「完る」「をはる」。

「樗牛」小説家・評論家の高山樗牛(ちょぎゅう 明治四(一八七一)年~明治三五(一九〇二)年)。帝国大学在学中に小説「瀧口入道」が懸賞で入選し、卒業後は雑誌『太陽』の主幹となり、当初は日本主義を標榜したが、ニーチェの影響を受け、美的生活の提唱から「本能の満足」を唱え、個人主義を主張、果ては、日蓮へ傾倒した。私は「瀧口入道」以外は全く認めない。


「研北」けんぽく。手紙のあて名の脇に添書する敬語の一つ。] 

 

明治四二(一九〇二)年一月一日本所発信・封筒に「元旦」と記す・葛卷義定宛

肅啓 新年の御慶目出度申し納め候

先達は結構なる御歳暮を頂戴致し難有くがじ候 小弟の貧しき書庫が新しき光を放つべきも近き事と思ひ候へば此上なく嬉しく覺え候

豫て御存知の旅行は愈本夕六時半の列車にて出發の事と相成候 ロングフェローが歌の巻を懷にせる瘦軀の一靑年が靑丹よし奈良の都に其かみの榮華を忍び 藥師寺の塔を仰いで 大なる「タイム」の力を思ひ 去つて又東山のほとりに銀閣を望んで 室町將軍の豪奢を懷ひ、嵯峨野のあたりに蕭條たる黄茅を踏んで祗王祗女のむかしを床しむは近く來む七日間に御座候 小生は唯今 學校の奉賀式に列するところに候 早々頓首

              芥川龍之介

  兄上 硯北

 

[やぶちゃん注:「未定稿集」から。

「葛卷義定」(明治六(一八八三)年~昭和二三(一九四八)年)年]は、この二ヶ月後の三月四日に正式に実姉ヒサと婚姻届を出して義兄となる人物。獣医。一時、実父新原(にいはら)敏三の経営する耕牧舎新宿牧場の管理を任されていた。義敏と、さと子の二子を設けたが、一度、ヒサとは離婚した。しかし、後年、再び二度目の夫西川豊を鉄道自殺で失ったヒサと再婚している。

「奈良の都に……」この元日、芥川龍之介は府立三中の奉賀式に出席した後、午後六時半、奈良・京都方面へ、一週間の旅行に出かけている。] 

 

明治四二(一九〇二)年三月二十八日東京本鄕向ケ岡洲生町西村貞吉宛・自筆絵葉書

 

 靑海原藻の花ゆらぐ波の底に魚とし住まば悶えざらむか 

  三月廿八日    銚子にありて 芥川狂生

 

[やぶちゃん注:旧全集から(次も同じ)。この三月二十六日、芥川龍之介は山本喜譽司とともに千葉県銚子に出掛け、月末頃まで滞在している。

「西村貞吉」芥川の府立三中時代の同級生で、東京外国語学校(現在の東京外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に住んだ。龍之介の「長江游記」に登場する(リンク先は私の電子化注)。また、芥川が中国から帰還した直後の大正一〇(千九百二十一)年九月に『中央公論』に発表した「母」(リンクは新字新仮名の「青空文庫」)は、蕪湖に住む野村敏子と、その夫の物語であるが、この夫は明らかに彼をモデルとしている。] 

 

明治四二(一九〇二)年 三月二十八日(年月推定)「銚子ニテ」と附記・署名「芥川狂生」・絵葉書

銚子の海は僕の戀人だ砂山に寐ころンで靑い波の雪の樣な泡をふきながらうねつてゐるのを見て限りなく嬉しかつた

宿の二階に居ると淋しい海の呟きがきこえる夜は、琴の昔が波の底の藻の花のさく國からきこへるかもしれない

                  龍生 

 

明治四二(一九〇二)年八月一日京都発信・芥川ふき及び葛巻義定宛・絵端書・『八月一日京龍之介』と記す

三十一日の夕嵐山を訪ふ、路は大堰川の流に沿うて靑葉の間をぬひながらすゝむ、川邊には筏をつないで鶺鴒が尾をふりふり其上を步いてゐる、山の崖には螢草の空色をしたのや撫子の紅なのが所々にさいたのが見える、石段を二町ばかり上ると大悲閣だ 小ぢまりした寺で川の流をはさんだ嵐山の景色が目の下に見える

春 雪のやうな落花の中を曙染の衣をきて舞つてあるいたら面白からう、寺で吉田了以の木像を見る まつ黑な像で目ばかりが「あはび」でこしらへた鈕の様に光つてゐる

 

[やぶちゃん注:「未定稿集」から。この年の七月末、芥川龍之介は再び京都方面への旅に出かけ、八月四日に帰宅している。

「大堰川」(おほゐがは(おおいがわ))は京都府中部の川。淀川水系の一部で丹波山地の東部付近に源を発し、西流した後、南東へ転じて亀岡盆地を貫流、亀岡盆地の出口から下流は「保津川」となり、さらに嵐山からは「桂川」と名が変わる。

「大悲閣」京都府京都市西京区嵐山中尾下町にある黄檗宗嵐山(あらしやま)大悲閣千光寺の別称。本尊は恵心僧都作と伝える千手観音菩薩。江戸時代の豪商角倉了以(すみのくら りょうい 天文二三(一五五四)年~慶長一九(一六一四)年:戦国末から江戸初期にかけての京の豪商。本姓は吉田氏。朱印船貿易の開始とともに安南国(ヴェトナム)との貿易を始め、山城(京)の大堰川・高瀬川を私財を投じて開削した。後、江戸幕府の命により、富士川・天竜川・庄内川などの開削も行い、地元の京都では商人としてよりも、琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎とともに「水運の父」として知られる)の木像があることで知られ、境内にある、切り立った岩肌上に建つ舞台造の観音堂(客殿とも呼ぶ)は「大悲閣」と呼ばれるため、寺そのものもかく呼ばれる。参照したウィキの了以の像画像をリンクさせておく。

「鈕」「ボタン」。] 

 

同年八月四日・ 消印五日・神奈川縣相模國高座郡鵠沼村大井別莊前加賀本樣御内・山本喜擧司宛・葉書(底本は横書)

 

啓 はるばるの御狀しみじみ難有く覺え候、

今四日小生も都に歸り四疊半の小齋に旅塵をはらひつゝ唯今本尊簡を拝頂致し候、

承れば御地に於て〝江東男兒の面目を御代表″遊さるる由いつにもなき大氣焰に恐れ入り候、小生も疲勞のなほり次第槍ケ岳登攀の行に上るべく目下は同行の諸君と共に〝江東男兒の面目を代表す″べき意氣を養ひ居り候、末ながら大兄の益〻〝江東男兒の面目を代表せ″られむこと祈申し候 勿々

    四日夕       芥川狂生

 

Yotuba

 

[やぶちゃん注:旧全集から。四葉のクローバーらしき挿絵添え。葉の中央に「敬」とある。先に示した通り、この年の七月下旬に芥川龍之介は一人で京都方面に出かけている。恐らくその旅から帰る朝、京都で投函したものと思われる。なお、この四日後には東京から、級友市村友三郎や中原安太郎らとともに槍ヶ岳登山に出発し、同十日に槍ヶ岳へ登攀しているようである。私の「槍ヶ岳紀行 芥川龍之介」を参照されたい。山本がこれに加わっていないのは、受け取った彼にして、恐らくは淋しかったに違いない。ここで言っておくと、山本と芥川龍之介は、ある種の同性愛的な近関係にあったと考えてよいからである。]

南方熊楠 小兒と魔除 (7) / 南方熊楠「小兒と魔除」正字正仮名版全電子化注~完遂

 

[やぶちゃん注:冒頭の「一四四頁狼を魔除とする事」は出口米吉の「小兒と魔除」の初出論考の末尾部分(PDFの2コマ目)。私の電子化から引くと、『狼は和名オホカミ(大嚙)と稱して、一般に恐怖する所なりと雖も、未だ魔除として用ゐられたることを聞かす[やぶちゃん注:「聞かず」の初出の誤植。]。恐らくは虎を呼ぶの本意忘却せられ、俗に小兒を威嚇するが如く解するに至りて、更に狼をも添ふるに至りしならんと思はる。張遼來も鬼魔を逐ふが爲に唱せし者にして、鐘馗石敢當加藤淸正等の武勇絕倫の豪傑の名を借りて惡鬼を驅逐すると趣旨を同くするなり。』の部分。思わず、そこで私が割注を入れたように、これは、しかし、埼玉県秩父市三峰にある三峯神社の狼を描いた護符を知らない出口氏の不勉強と言わざるを得ない。南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拜(5:狼)」を見られたい。]

 

(一四四頁狼を魔除とする事)此邊に、今もさびしき所にて、狼來たとて小兒ををどす[やぶちゃん注:ママ。]こと多し、歐州にも有りと覺ゆ、世事百談に言る、虎狼來るとて小兒をすかすも、上の張遼麻胡と同く、單に啼ば狼來り噬む[やぶちゃん注:「かむ」。]といふに過ず、但し出口氏、狼は一般に恐るゝ所なれど、未だ魔除として用られたるを聞ずとはいかゞ、狼に大噬[やぶちゃん注:「おほかみ」。]の意あると同時に又大神の義を具ふ、書紀卷十九、秦大津父[やぶちゃん注:「はだのおつち」。]、山中に狼の血鬪するを解くとき、下馬口漱手、祈請曰、汝是貴神云々今も此邊に送り狼とて、人を害せず、守衞せし狼の古語殘り、大臺原山に、神使の狼現存すと云、突厥高昌二國の祖は、人と狼と、狼と人との間種と稱し(淵鑑類函四二九卷)、歐州にも狼の子孫といへる人ある事、ハーバート、スペンサー[やぶちゃん注:底本では読点部で下線が切れるが、繋げた。]の社會學原理に見え、北米の印甸[やぶちゃん注:「インデアン」。]族、造世主を狼形とするもの多し(Ratzel, op. cit., vol. ii, p. 148)、此地(紀州田邊)に寡聞なる吾輩名を聞きしことなき物語繪を藏する人あり、土佐繪にて屛風に貼せるが[やぶちゃん注:「ちやうせるが」。]、前半計りのみ存し、山神なる狼、海中の「オコゼ」魚の美なるに懸想し、之を娶るに臨み、鮹の入道大に之を憤り、烏賊などを賴んで軍を起し、「オコゼ」姬の駕を奪んとする話なり、大和本草に見ゆる通り、舟師山神を祈て風を求むるに、今も「オコゼ」を捧ぐること、希臘海島の山神に捧るとて、麪包[やぶちゃん注:「パン」。]を海に投じ、以て漁を乞ふに同じ(Bent, p .65)、近頃迄熊野地方にて、狼を獸類の長とし、鼠に咬れて重患なる時、特に狼肉を求て煮喫せしを參するに、古え吾邦に狼を山神とする風有しならん、虎骨虎爪と等く、狼皮狼牙狼尾辟邪の功ありといふ支那說、上の邪視と視害の序に言へり、大和吉野郡十津川の玉置山は海拔三千二百尺と云、予も昨秋末詣しが、紀州桐畑より上るは、道頗る險にして水無く、甚き難所也、頂上近く大なる社あり、其神狼を使ひ者とし、以前は狐に附れしもの、いかに難症なりとも此神に祈り蟇目を行ふに退治せずと云事なく、又狐人を魅し[やぶちゃん注:「ばかし」。]、猪鹿田圃を損ずるとき、この社に就て神使を借るに、或は封の儘或は正體のまゝ渡しくれる、正體のまゝの場合には、使の者の歸路、之に先ち[やぶちゃん注:「さきだち」。]神使狼の足跡を印し續くるを見、其人家に達する前、家領の諸獸悉く逃畢るといふ、又傳ふるは、夜行する者自宅出るに臨み、「熊野なる玉置の山の弓神樂」と歌の上半を唱ふれば、途上恐ろしき物一切近かず、扨志す方え着したる時「弦音きけば惡魔退く」とやらかす也と、前述送り狼の譚は、之を言へるか、社畔に犬吠の杉あり、其皮を削り來て、田畑に插み[やぶちゃん注:「さしはさみ」。]惡獸を避けしと云、守禦の功犬に等しといふ意か、事體斯の如くなれば、虎狼を以て小兒をすかすは、魔除と何の關係なきと同時に、吾邦從來狼を魔除に用る風有しは、疑を容れずと斷云し置く、

 

[やぶちゃん注:「世事百談に言る、虎狼來るとて小兒をすかす」(6)で既出で当該部を電子化してある。但し、「世事百談」では「虎狼來(ころこん)」とルビしている。そこから考えれば、少なくとも南方熊楠も「ころくる」と読んでいると考えなくてはなるまい。平凡社「選集」では『虎狼来たる』としているが、これは如何にも発音として「ころきたる」は脅し賺す語として私は間が抜けているし、発音し難いと思うのである。ここで遂に言っておくと、平凡社の「南方熊楠選集」の書き変えは、かなり編者による恣意的な、言わせて貰うなら、「読み易けりゃ、どう操作したって構わない」的な、読みや送り仮名が頻繁に見られ、確かに総体としては原本よりも現代人には読み易くなっているものの、実際には熊楠はそんな読み方はしていないと断言出来る部分が、もう今までの電子化での比較対象にあっても、腐るほど、あるのである。私が今回、熊楠の正字正仮名の底本で電子化しようと考えた意図の中には、たとえ読み難くても、熊楠の肉声を電子的に再現すべきではないか、という強い思いがあるからである。

「書紀卷十九、秦大津父、山中に狼の血鬪するを解くとき、下馬口漱手、祈請曰、汝是貴神云々」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(5:狼)」の私の注で電子化済み。

「大臺原山に、神使の狼現存すと云」奈良県と三重県の県境にある大台ヶ原山(おおだいがはらやま:グーグル・マップ・データ。以下同じ)は標高千六百九十五・一メートル。大台ヶ原から北の高見山(たかみやま)にのびる台高(だいこう)山脈は、事実、ニホンオオカミが最後まで棲息していたと言われる山域で、人跡稀な森であった。

「突厥高昌二國の祖は、人と狼と、狼と人との間種と稱し(淵鑑類函四二九卷)」「淵鑑類函」は清の聖祖(康熙帝)の勅撰により編纂された類書(百科事典)。一七一〇年成立。四百二十九巻に、

   *

後周書曰突厥之先匈奴之别種也爲鄰國所破其族有一小兒棄草澤中有牝狼以肉飼之及長與狼交合遂有孕焉逃於高昌國北山洞穴生十男其後各爲一姓阿史那卽其一也

とあり、その少し後の「嚙宮人 配二女」の条にも、

   *

江都昜王非卒子建立宮人有過縱狼嚙殺之觀以爲樂爲北史單于二女甚美置高堂上有老狼守臺遂狼妻産子後遂爲高昌國

   *

とあった。「突厥」はモンゴル高原で活動したトルコ系の遊牧民で、五五二年にユーラシアの東西にまたがる突厥帝国(第一帝国)を建設し、西ではササン朝、東では隋・唐帝国と同時期であったが、五八三年に東西に分裂し、東突厥は隋の支配を受けた。一方の高昌は隋・唐と突厥の間に挟まれたオアシス都市国家で、中国の南北朝から唐にかけて現在の新疆ウイグル自治区トルファン市に存在した。

「歐州にも狼の子孫といへる人ある事、ハーバート、スペンサーの社會學原理に見え」南方熊楠「本邦に於ける動物崇拜」(9:梟)で既出既注。但し、調べた限りでは、同第三巻の、

   *

Hence when we read “that the ancestor of the Mongol royal house was a wolf,” and that the family name was Wolf; and when we remember the multitudinous cases of animal-names borne by North American Indians, with the associated totem-system; this cause of identification of ancestors with animals, and consequent sacredness of the animals, becomes sufficiently obvious.

   *

しか見当たらない。しかも、これは前後で熊楠が指摘する内容に酷似したモンゴル人及びアメリカ・インディアンの伝承であって、ヨーロッパにおけるそれではない。容易に想起されるのは、ローマの建国神話に登場する双子は狼によって育てられた双子の兄弟ロムルスとレムスが浮かぶ限りで、後代の所謂、「狼男」(人狼)、「ウェアウルフ」(英語:werewolf)・「ヴァラヴォルフ」(ドイツ語:Werwolf)や「ルー・ガルー」(フランス語:loup-garou)は多分に悪魔的な色づけがなされ、しかも多分に、異常なモンスターどころか、古くから多くの学者たちから、精神疾患や妄言として早くに退けられてさえいるもので、狼の血の持つ強力な超自然のそれは、欧州の伝承ではそれほどメインに登場していないようである。

「北米の印甸[やぶちゃん注:「インデアン」。]族、造世主を狼形とするもの多し(Ratzel, op. cit., vol. ii, p. 148)」既出のイツの地理学者・生物学者リードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 一八四四年~一九〇四年:社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とし、政治地理学の祖とされる)の「‘History of Mankind,’ trans. Butler, 1896」とあった英訳本の第二巻で、「Internet archive」の英訳原本のこちらの左ページの本文の(三行の脚注を除く)下から11行前にある、

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Where beasts appear as the makers of men, a creator-god is hidden in them ; manifesting himself by preference in the form of a wolf or a dog.

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が相当する。あぁっつ! 「ダンス・ウィズ・ウルブズ」(Dances with Wolves:一九九〇年・アメリカ/監督・主演・製作ケビン・コスナー)は良かったなあ!

『此地(紀州田邊)に寡聞なる吾輩名を聞きしことなき物語繪を藏する人あり、土佐繪にて屛風に貼せるが、前半計りのみ存し、山神なる狼、海中の「オコゼ」魚の美なるに懸想し、之を娶るに臨み、鮹の入道大に之を憤り、烏賊などを賴んで軍を起し、「オコゼ」姬の駕を奪んとする話なり』所持する一九九〇年八坂書房刊の「南方熊楠アルバム」(中瀬嘉陽・長谷川興蔵編)の中に、七枚あるその屏風の四つの箇所がモノクロで掲載されており、その屏風は田辺の熊楠の友人湯浅富三郎の家にあったもので(屏風絵と詞書があった)、熊楠はそれを材として、この二年後の明治四四(一九一〇)年二月発行の『東京人類学会雑誌』二十六巻二百九十九号に「山神オコゼ魚を好むということ」ことを発表している(リンク先は私の「選集」版で電子化した古いもの。初出はこれ(「J-stage」のPDF)。近い将来、新たに正字正仮版をここで公開する)。そのキャプションによれば、土佐絵で、彩色もなかなかに精密で、『狼神とオコゼ姫の祝言の宴会を中心に』『山や海のさまざまな動物が描かれて』あるもので、私も甚だそそられる逸品である。原屏風は、現在は東京に移転した湯浅家の所蔵になるものとある(熊楠は知人の画家広畠幾太郎に模写させたともある。そちらでよいから、是非見たい、まっこと、面白い絵なのである)。なお、「オコゼ」は条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科(又はオニオコゼ科)オニオコゼ亜科オニオコゼ属オニオコゼ Inimicus japonicus で、同種は単に「オコゼ」とも呼ぶ。

『大和本草に見ゆる通り、舟師山神を祈て風を求むるに、今も「オコゼ」を捧ぐる』「大和本草卷之十三 魚之下 をこぜ (オニオコゼ)」に、

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をこぜ ふぐに似て、かど、あり。背には、はり、あり。赤色まだらなり。其の長さ一寸ばかりなるを、海人、用ひて、山〔の〕神を祭り、日和〔(ひより)〕と得ものあらん事を祈る。

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とある。そこで私が注したものを引いておく。

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「得もの」は獲物。民俗学的記載を入れてくれた益軒に拍手をしたいが、ただ、「海人」というのはちょっとまずい。これは「山人」、山林を仕事場とする猟師や伐採に従事する者たちがこの儀式をするのである。山の神は女神とされるが、容貌が醜いとされ、しかも山の幸を持ち去る者には厳しい。そこで、醜悪なオコゼの顔を見ると、安心して静まり、仕事を許して守って呉れるとされるのである。現在でも、地方によっては、山入りの際に、実際のオコゼの類を仕入れて奉納し、山の神に許諾と安全を祈願している。

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「希臘海島の山神に捧るとて、麪包[やぶちゃん注:「パン」。]を海に投じ、以て漁を乞ふに同じ(Bent, p .65)」既出のイギリスの探検家・考古学者・作家ジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。「Internet archive」で調べると、当該ページはここで、右ページ中央の以下の段落の最後に現われる。

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   Accordingly next morning we set off in a boat to cross the harbour.  As we went we had a better opportunity of realising its beauty and extent: it could hold all the navies of the world within it, and it is protected by an island at its mouth. On the western point is a mountain called the Vanis, a wild, bleak spot, on which our boatman told us that it was the custom to throw bread when they sailed out, that Vanis might eat and send them fish in return.

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「虎骨虎爪と等く、狼皮狼牙狼尾辟邪の功ありといふ支那說」(3)の本文と私の注を参照。

「大和吉野郡十津川の玉置山は海拔三千二百尺と云」奈良県吉野郡十津川村にある大峰山系の最南端の玉置山(たまきやま)。標高千七十六・四メートル(「三千二百尺」は九百六十九・七メートルで違いが甚だしい。当時の測量技術が低かったか)。

「紀州桐畑」和歌山県田辺市本宮町切畑の誤りであろう。玉置山の南西山麓に当たる。

「大なる社」玉置神社。サイド・パネルの神社画像でリンクさせた。公式サイトを調べたが、狼信仰は払拭されているようである。しかし、調べてみると、玉置山の北山麓の奈良県吉野郡十津川村高滝にある高滝神社が狼信仰を伝えていることが判った。サイト「十津川探検~瀧洞夜話」のこちらに「十津川村字高瀧神社使狼のこと」として、『高瀧神社は昔より狼を使狼となす傳へあり。明治に至るまで、所々の部落民、猪の害に困憊すれば、この宮に至り、神主に祈らせ、幣を入れた箱を白布に包み〔何人か人員を要す、途中大小便を忌む〕負はせてもらひ、帰村して之を祭る。忽ちにして、次の朝あたり、所々に猪の屍ありたるよし。中作市老に聞く』とあった。ニホンオオカミを絶滅させてしまった今、せめても、彼らを神の一員として後代に伝え残すべき義務が我々には、ある。

「以前は狐に附れしもの、いかに難症なりとも此神に祈り蟇目を行ふに退治せずと云事なく」玉置神社公式サイト内の解説に、境内内の摂社三柱神社について、『玉置神社境内に古くより鎮座されております三柱神社については謎が多く、説明が難しい』としつつ、『三柱神社は別名「稲荷社(いなりしゃ)」とも呼ばれ』るものの、『稲荷信仰が盛んになる前から地主神(じぬしのかみ)としてお祀りをされており、厄除けや心願成就さらに精神の病(ノイローゼなど)また海上安全にも特別の霊験があるとされてい』るとある。私は、ここに狼の臭いを嗅ぎ取った。

「熊野なる玉置の山の弓神樂」「弦音きけば惡魔退く」玉置神社例大祭は、毎年十月二十四日に行われるが、そこでは男性の神子が巫女の衣装を身につけて、白い弓矢を手にし、舞楽を奏する「弓神楽(ゆみかぐら)」が奉納され、その折りの歌詞が、

 熊野なる玉置の宮の弓神樂

    弦音(つるおと)すれば惡魔退(しりぞ)く

である。強力な悪魔封じの特異的な神社として中古より知られていた。悪鬼に対抗するには、私は是非とも狼が必要だと思うのである。

「犬吠の杉」玉置神社の参道の近くに「犬吠檜」(いぬぼえひのき)という枯れた株が現存する。大昔に熊野浦を襲った襲った巨大津波を告げて亡くなった「白い犬」の伝承が、かわじー氏のブログのこちらに記されてあり、oinuwolf氏のブログ「狼や犬の、お姿を見たり聞いたり探したりの訪問記―主においぬ様信仰―」にも同じ伝承が記されてある(孰れも株の写真がある)が、後者はそれを「白い狼」と記しておられる。これであろう(スギ(裸子植物門マツ綱マツ目ヒノキ科スギ亜科スギ属スギ Cryptomeria japonica )とヒノキ(ヒノキ科ヒノキ属ヒノキ Chamaecyparis obtusa )は同じヒノキ科 Cupressaceae で、しばしば混同されやすい)。]

 

序に一言するは、今日は知ず、二十年ばかり前迄、紀伊藤白王子社畔に、楠神と號しいと古き楠の木に、注連結びたるが立りき、當國、殊に海草郡、就中予が氏とする南方苗字の民など、子產まるゝ每に之に詣で祈り、祠官より名の一字を受く、楠、藤、熊など是也、此名を受し者、病ある都度、件の楠神に平癒を禱る、知名の士、中井芳楠、森下岩楠抔皆此風俗に因て名られたるものと察せられ、今も海草郡に楠を以て名とせる者多く、熊楠などは幾百人あるか知れぬ程也、予思ふに、こは本邦上世「トテミズム」行はれし遺址の殘存せるに非るか、三島の神池に鰻を捕るを禁じ、祇園の氏子胡瓜を食はず、金毘羅に詣る者蟹を食はず、富士に登る人鰶[やぶちゃん注:「このしろ」。]を食はざる等の特別食忌と併せ攷ふるを要す、上文玉置山の狼も亦、其地に多き玉置一族の「トテム」たりしに非るか

 

[やぶちゃん注:「藤白王子社」厳密には現存しないと言うべきである。「若山県神社庁」公式サイト内の「藤白神社」を見られたい。いろいろと書いてあるが、『藤白王子社跡』とある。現在は海南市藤白にある藤白神社内に跡がある。結局、消失したのは、恐らく、神仏分離のためであろう。その解説に、『境内の千年楠を子守楠神社(熊野杼樟日命)として祀り、古来畿内各地から子が生まれた時、祈願して、楠・藤・熊の名を受けると長命して出世するといわれた』。『紀州が生んだ巨人、南方熊楠もその一人である』とあり、指定文化財の項に『藤白神社クスノキ群(市指定)』とある。しばしばお世話になるMotohiko Tanida氏のサイト「巨樹と花のページ」のこちらを見るに、五本の大楠が現認出来る。熊楠が見上げたそれは今も健在だ。楠は被子植物門双子葉植物綱モクレン亜綱クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora である。

「號し」「なづけし」。

「中井芳楠」(なかいほうなん 嘉永六(一八五三)年~明治三六(一九〇三)年)は銀行家・教育者。元和歌山藩士。明治八(一八七五)年、慶應義塾卒業。和歌山藩校にて教鞭を取り。第四十三国立銀行支配人となる。明治一三(一八八〇)年、横浜正金銀行に入行、ロンドンに派遣され、支店長となる。南方熊楠と親しくしており、ロンドンから送った文章を文庫に寄贈している。

「森下岩楠」(いわくす 嘉永五(一八五二)年~大正六(一九一七)年)は官僚・教育者・実業家・ジャーナリスト。紀伊生まれ。明治三(一八七〇)年、慶應義塾を卒業後、「三菱商業学校」を創立。大蔵省書記官となるが、明治十四年の政変で辞職し、時事新報に入社。北海道庁の後援で「帝国水産」「帝国生命保険」等に勤務。明治二九(一八九六)年に探偵社「東京興信所」の所長に就任している。

「海草郡」現在はここであるが、旧郡域は、その周辺の和歌山市の大部分・海南市の大部分・有田市の一部を含む地図画面全体に広がる広域である。

「三島の神池に鰻を捕るを禁じ」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(22:鰻)」を参照されたい。

「祇園の氏子胡瓜を食はず」この話はよく知られている京都八坂神社の古い習俗であるが、私にはどうもその解明を記すものに未だ出逢っていないと感じている。例として、短いながら、多くの習俗を纏めてある「祇園商店街」公式サイト内の「神紋 胡瓜、それとも瓜 祇園さんの神紋」を引く。『京の夏野菜の代表格で、もろきゅうよし、うざくよし、浅漬けよしの胡瓜が祇園社の神紋かもという説、ご存知でしょうか』。『祇園社の神さまが胡瓜の上に降臨したので』、『その切断面を模したは俗伝で、真説は、織田信長の幟印の木瓜であるなどと、こもごも』あり、『『和漢三才図会』には、「祇園神、胡瓜の社地に入る事を禁ず。産土(うぶすな)の人、これを食ふ事を忌む」との記載があり、昔の京都では胡瓜を食べる人が少なかったようです』。『「祇園会や胡瓜花さく所まで 超波」という句があるほどで、祇園祭の行列も胡瓜畑の手前で止まるのがしきたりだったようです』。『胡瓜のさなごの形と、祇園さんの棟や神輿についている瓜の紋と類似していることから、「さわらぬ神に」と食べるのを遠慮したのでしょう』。『もっとも』、『江戸時代には、牛頭天王への供物として、初なりの胡瓜は川へ流したものとか。取って食おうと天王を追いかけてきた鬼が、胡瓜の蔓に足を取られて転倒』し、『以来』、『胡瓜は祇園の神の神使となったと伝える地方もある一方、祇園神は大の好物だったが、夢で目を傷められたから、仇の胡瓜は食べませんと、きらう地方もあります』とあるのが眼を引く。ここで判るのは、ここでは、動物ではなく、食物である植物の胡瓜そのものが「トーテム」であったことになる。因みに、胡瓜を好む動物というのは、生態学的にはホンドタヌキやにニホンアナグマがおり、日本各地に人型妖獣としての河童の好物として胡瓜を食うことを禁忌とするという伝承は多いものの、祇園神と狸・穴熊・河童の関係性は全くない。但し、「トーテム」は植物の場合もあるので、これは問題ない。

「金毘羅に詣る者蟹を食はず」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(26:蟹)」参照。但し、そこで私は注をつけながら、何故、蟹なのか? という疑問の解明には至らなかったことを言い添えておく。

「富士に登る人鰶を食はざる」私の『山中笑「本邦に於ける動物崇拜」(南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拜」の執筆動機となった論文)』に、『鰶(コノシロ) 駿河山宮の淺間の氏子、鰶を食せず。鰶を身代に葬禮して病氣快復を祈願す』とあり、さらにその後の方で、『鰶(コノシロ) 子(コ)の代(シロ)として、小兒成長を祈願し、鰶を身代りに、葬式する者あり。又、駿河富士郡大宮、及、山宮淺間の氏中は、鰶を食せぬ者あり。神女の身代りになりし魚と云ふ傳說ありて、食せぬなり』とある。しかし、この禁忌は、鰶(条鰭綱新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ属コノシロ Konosirus punctatus )が「トーテム」であるとは言えない。詳しくは「大和本草卷之十三 魚之下 鱅(コノシロ)」の本文及び私の考証を読まれたいが、古くから鰶を焼く臭いが人の亡骸を焼いた臭いに似ている(そんな事実は全くないが)という話から、穢れとして禁忌となっているもの、或いは、フレーザーの謂う類感呪術的なものが発生の根っこにあると私は考えるからである。山中の言う「神女の身代りになりし魚と云ふ傳說」は後付けに過ぎぬと思う。

「玉置一族」玉置氏は中世以降、紀州に強い勢力を持った一族であることは確かであるが、サイト「戦国大名研究」の「玉置氏」によれば、『玉置氏は、家伝によれば』、『平資盛の子が熊野に逃れ、大和吉野郡十津川村の玉置山上に鎮座する玉置社の神官となったと伝える。『太平記』には玉木荘司とみえ、その本拠は大和国十津川村折立付近であったといい、いまも十津川には玉置姓が多い』。『一説によれば玉置氏は尾張連の流れを汲むともいうが、確かな系図が伝来していないこともあって出自に関しては不明というしかない』とある。以下、南北朝以降の玉置氏勢力の詳しい経緯が記されているので読まれたい。]

 

[やぶちゃん注:以下は、底本では全体が一字下げ。]

 

 後筆、本文認め畢て後 Ulrich Schmidt, ‘The Conquest of the River Plate,’ trans. Dominguez, 1891, pp. 42,43 を繙くに、ラプラタに鰐あり、兵刄破る能はず、其氣人にかゝれば必[やぶちゃん注:「かならず」。]死す、此魚、井中に在る時、鏡を示し、自ら其影を見て、其顏の獰惡なるに驚き死せしむと有り、鰐の在る處瘴氣ある故、邪氣人を殺すと看做せしならん、(本草、鼉[やぶちゃん注:「だ」。]卽ち鰐、長一丈者能吐氣成雲致雨)、邪氣と邪眼の兩信一源なるを見るべし、但し、此話白人入らぬ先已に南米に行はれしにや、或は歐人、上文に述たる「コツカトリス」鏡を見て死する談を齎來[やぶちゃん注:「せいらい」。「もたらしきたった」の意か。]して、ラプラタの鰐に附會せるに非るを得んや、後考を俟つ、又三州奇談三、加賀白山、群梟と人と相詈て[やぶちゃん注:「あひののしりて」。]、聲先づ止む人は死する話あり、故に梟鳴に答へぬことゝ見えたりパンジヤブにも梟鳴に應ずれば必ず人死すと云(North India Notes and Queris, ap. Folklore, vol. v, p. 84, 1890)狸腹鼓打つに應じて、人火鉢をたゝき、續け勝つとき狸死すと云は之に似たり、爾雅に、市人爭作犬聲逐鬼車、本文に引るマレー人大喧呼して、ベリベリ鳥を厭[やぶちゃん注:「まじなひ」。]する抔同樣の迷信より出たるか、

 本文、兒啼が其身と父母一族の安危に大影響を及す事を述るに、次の吾邦に於る好例を引くを遺したれば爰に附記す、塙保己一の螢蠅抄卷四に云く、「日蓮注畫賛云、弘安四年五月、又蒙古高麗已下國兵軍兵、驅具七萬餘艘大船乘責來云々壹岐高麗船五百艘、自壹岐對馬下、見合者打殺、人民、不堪、脫將妻子逃隱深山、聞赤子泣聲押寄打殺、父母惜我命、刺殺赤子隱居云々、八幡愚童訓云々高麗の兵船五百艘、壹岐對馬に上て見合者をば打殺す、人民堪兼て、妻子を引具し深山に逃籠る處に、赤子の鳴聲を聞付て押寄殺しける程に、片時の命惜ければ、さしも愛する嬰兒を、我と泣々差殺してぞ隱れける、失子親計り、いつ迄有ん命ぞと、身ながらうたてしく泣歎く心中をいかにせん、世の中に、糸惜しき物は子也けり、其にまさるは我身也けりと讀置し、人のすさみを今ぞ知る云々、

(明治四十二年五月、人類二四卷) 

 

[やぶちゃん注:「Ulrich Schmidt, ‘The Conquest of the River Plate,’」ネット検索で「The Conquest of the River Plate (1535-1555)」「Voyage of Ulrich Schmidt to the Rivers La Plata and Paraguai, from the Original German Edition, 1567.」と書誌が出るが、作者ウルリッヒ・シュミットの事蹟や内容は不詳。

ラプラタ」アルゼンチンとウルグアイの間を流れるラプラタ川(スペイン語:Río de la Plata:リオ・デ・ラ・プラタ)。ここはワニ目正鰐亜目アリゲーター科 Alligatoridae のアリゲーター類の南限である。但し、以下の記載も、実際に人を襲撃していない呪力的な記載であることで判るが、アリゲーターは他のワニ類に比すと、おとなしく、人を襲う確率は比較的少ないとされる。

「瘴氣」(しやうき(しょうき))は熱病を起こさせるとされた山川の毒気のこと。実態は感染症の風土病であることが殆どである。

「本草、鼉卽ち鰐、長一丈者能吐氣成雲致雨」「本草綱目」の巻四十三の「鱗之一」の「鼉龍」の「釋名」の下線部。折角なので「集解」まで引いておく。

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鼉龍【「本經中品」。】

釋名 鮀魚【「本經」。】土龍 藏器曰、本經鮀魚、合改作鼉。鼉形如龍、聲甚可畏。長一丈者、能吐氣成雲致雨。既是龍類、宜去其魚。時珍曰、鼉字象其頭、腹、足、尾之形、故名。「博物志」謂之土龍。鮀乃魚名、非此物也。今依陳氏改正之。

集解 别録曰、鮀魚甲生南海池澤、取無時。弘景曰、卽鼉甲也、皮可冐鼔。性至難死、沸湯沃口、入腹良久乃剝之。藏器曰、鼉性嗜睡、恒閉目。力至猛、能攻江岸、人于穴中掘之、百人掘、須百人牽之、一人掘、亦一人牽之。不然、終不可出。頌曰、今江湖極多。形似守宮、鯪鯉輩而長一二丈、背尾俱有鱗甲。夜則鳴吼、舟人畏之。時珍曰、鼉穴極深、漁人以篾纜繫餌探之、候其吞鈎、徐徐引出。性能横飛、不能上騰。其聲如鼔、夜鳴應更、謂之鼉鼔。亦曰鼉更、俚人聽之以占雨。其枕瑩淨、勝于魚枕。生卵甚多至百、亦自食之。南人珍其肉、以爲嫁娶之敬。陸佃云、鼉身具十二生肖肉、惟蛇肉在尾最毒也。

   *

鼉龍【「本經中品」。】

釋名 鮀魚【「本經」。】 土龍 藏器曰はく、「本經」鮀魚、改して「鼉」に作(な)し合す。鼉、形、龍のごとし。聲、甚だ畏るべし。長さ一丈の者は、能く氣を吐き、雲を成し、雨を致す。既に是れ、龍の類なり。宜しく其の魚を去るべし。時珍曰はく、鼉の字、其の頭・足・尾の形を象る。故に名づく。「博物志」に之れを「土龍」と謂ふ。鮀は乃(すなは)ち、魚の名にして、此の物に非ざるなり。今、陳氏に依りて之れを改正す。

集解 「别録」曰はく、「鮀魚甲」、南海の池澤に生ず。取るに、時無し。弘景曰はく、卽ち、「鼉甲」なり。皮、鼔を冐(おほ)ふべし。性、至つて死し難し。沸湯、口に沃(そそ)ぎて、入ること、腹、良(やや)久しくして、乃ち、之れを剝ぐ。藏器曰はく、鼉、性、睡るを嗜(この)み、恒に目を閉づ。力、至つて猛なり。能く江岸を攻す。人、穴中に之れを掘る。百人、掘れば、須らく、百人、之れを牽く。一人、掘れば、亦、一人、之れを牽く。然らざれば、終(つひ)に出づべからず。頌曰はく、今、江湖に極めて多し。形、守宮(やもり)・鯪鯉(りやうり)[やぶちゃん注:センザンコウ。]の輩に似て、長さ一、二丈、背・尾、俱に、鱗甲、有り。夜、則ち鳴き吼え、舟人、之れを畏る。時珍曰はく、鼉の穴、極めて深し。漁人、篾纜(べつらん)[やぶちゃん注:竹を細く割って繩状にしたもの。]を以つて餌(ゑ)を繫ぎて、之れを探し、其の鈎を吞む候(ころをみ)て、徐徐に引き出だす。性、能く横飛びして、上に騰(のぼ)ること能はず。其の聲、鼔のごとし。夜、鳴きて、更に應ず。之れを「鼉鼔」と謂ふ。亦、「鼉更」と曰ふ。俚人、之れを聽きて以つて雨を占ふ。其の枕、、瑩淨(えいじやう)[やぶちゃん注:艶があって清浄なこと。]にして、魚枕に勝れり[やぶちゃん注:魚の皮或いは浮袋などで作った枕か。]。卵を生むこと、甚だ多くして、百に至る。亦、自から之れを食ふ。南人、其の肉を珍として、以つて嫁娶(かしゆ)の敬と爲す。陸佃云はく、鼉の身、十二生肖[やぶちゃん注:十二支。]の肉を具ふ。惟だ、蛇の肉は、尾に在りて最も毒あり。

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下線部はもう、龍でやんす!

『上文に述たる「コツカトリス」』(バジリスクと同じ、或いは同じ仲間)『鏡を見て死する談』(2)参照。

「三州奇談三、加賀白山、群梟と人と相詈て、聲先づ止む人は死する話あり、故に梟鳴に答へぬことゝ見えたり」私の「三州奇談卷之三 白山の梟怪」を参照されたい。金沢の伊勢派の俳諧師で随筆家堀麦水(享保(一七一八)年~天明三(一七八三)年)の「三州奇談」は加賀・能登・越中、即ち、北陸の民俗・伝承・地誌・宗教等の奇談を集成したもの。私は既にカテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を終えている。

「爾雅に、市人爭作犬聲逐鬼車」「爾雅」は現存する中国最古の字書。現在は十九編が伝わる。元は四書五経を正しく読むために作られた字書とされたが、実際には「五経」に見える語は全体の三~四割に過ぎないとされる。周公の作とも伝え、遅くとも紀元前二世紀には成立していたと思われる。訓読しておくと、「市人(いちびと)、爭ひて犬の聲を作(な)し、鬼車を逐ふ」であるが、但し、この文字列は「爾雅」にはない。全く同じものも他に見出せない。敢えていうなら、「広雅」(「博雅」とも呼ぶ字書。三国時代の魏の張揖(ちょうゆう)によって編纂されたものであるが、「爾雅」の増補版に相当する。隋代に煬帝の名の「広」を避諱して「博雅」と改題されたが、後に原書名に戻った)の巻四十五に(下線太字部は私が附した。この同じ内容は前に何度か出した)、

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九頭鳥、姑獲、渠逸、皆、鬼車也。「白澤圖」之蒼鸆孔子所見之竒鶬也。「白澤圖」言、蒼鸆有九首孔子與子夏見。竒鶬九首而歌或作九尾。此鳥海上多有智在、松江親聞之、市人爭作犬聲相逐。相傳、一頭流血、著人家卽凶。「夷堅志」言、李壽翁得之呼爲渠。逸鳥十脰環簇、其一無頭、而滴血。「玄中記」、姑獲、一名天帝少女、好取人小兒養之。㸃血其衣以爲誌。「荊楚記」言以爲、姑獲、一名勾星。衣毛爲鳥、脫衣爲女。聞者、捩犬耳滅燭禳之。

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とあるのを、熊楠が合成作文したものと思われる。

「本文に引るマレー人大喧呼して、ベリベリ鳥を厭する抔同樣の迷信より出たるか」(5)を参照。

「塙保己一の螢蠅抄」「群書類従」「続群書類従」(後者は没後に弟子たちが継いだ)の編纂者として知られる盲目の国学者塙保己一(はなわ ほきいち 延享三(一七四六)年~文政四(一八二一)年)武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)生まれで、出自は百姓とされる。五歳の時に罹患した激しい疳(かん)の病い(胃腸疾患)に罹患したのが原因で、七歳の春に失明した。十五の時、江戸に出、歌を萩原宗固、国学を賀茂真淵・山岡明阿弥に学んだ。勾当・検校・和学講談所教授を務め、安永八(一七七九)年に国学・国史を主とする一大叢書「群書類従」の大事業に着手した。同正編の叢書は寛政五(一七九三)年から文政二(一八一九)年に板行されている。晩年は総検校となった。贈正四位。「螢蠅抄」(「けいようしょう」(現代仮名遣))は蒙古襲来を中心に、外国から本邦が受けた侵攻に関する資料を集成したもの。文化八(一八一一)年自序。書名は文末に「螢火のかゝやく神五月蠅なすあしき神のあらひにてえみしらの此國にあたすることありともやかて神風に吹やふられて遂にうれひなからむ理りを世人にしらせむとてなむ」とるのに基づく。「国文学研究資料館」のオープン・データの原本を当該部(まず「日蓮注畫賛」)を見ると、熊楠の引用はかなりのカットと引用不全があることが判った。以下に原文を示し、我流で書き下す(一部の返り点には不審があるので従っていない)。

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日蓮注畫賛云弘安三年庚辰蒙古襲来於筑前州志賀嶋合戰大元兵三百七十万騎大舩七万餘艘込乘責來九州人民悉逃失【按是年襲来諸書无所見恐本書誤】同弘安四年辛巳五月又蒙古髙麗已下國ニ軍兵驅具七萬餘艘大舩乘責來爲居住世路具耕作鋤類一髙麗舩五百艘自壹岐對馬下見合者打殺人民不ㇾ堪ㇾ脫將妻子隱深山赤子泣聲押寄打殺父母惜我命殺赤子隱居

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「日蓮注畫賛」に云はく、弘安三年庚辰、蒙古筑前州志賀嶋に襲来し、合戰す。大元兵、三百七十万騎、大舩(たいせん)七万餘艘に乘り込みて、責め來たる。九州の人民、悉く逃げ失す【按ずるに、是の年の襲来、諸書に、所見、无(な)し。恐らくは本書の誤りか。】。同弘安四年[やぶちゃん注:一二八一年。]辛巳五月、又、蒙古・髙麗已下(いか)、國に軍兵を驅り具すこと、七萬餘艘、大舩に乘り、責め來たる。居住を爲(な)し、世路(せいろ)の具[やぶちゃん注:生計(なりわい)に使う農具。]を持ちて、耕作を爲し、鋤(すき)の類ひを貯ふ。髙麗舩(ぶね)五百艘、壹岐・對馬より下り[やぶちゃん注:下船して上陸し。]、見合はせる者は、打ち殺す。人民、脫(のが)るるに堪えず、妻子を將(ひきゐ)て、深山に逃げ隱る。赤子が泣聲を聞かば、押し寄せ、打ち殺せば、父母、我が命を惜みて赤子を隱居(かくれが)に刺殺すと。

   *

途中の「居住を爲(な)し、世路(せいろ)の具を持ちて、耕作を爲し、鋤(すき)の類ひを貯ふ」は唐突で不審。壱岐・対馬にいた農民のことと解しておく。文脈からは、攻めて来た兵が上陸後に長期戦に備えて一時的に農耕を行ったともとれなくもないが、孰れにせよ、前後の文からどうも浮いている。元々の詞書が判らないので何とも言えないが、島民の者であることを示す脱字が私には疑われる。

以下、「八幡愚童訓」の部分。原本はここ。これは、熊楠、かなりしっかりと正しく引いている。後に自己流に訓読文を添えて終わりとする。

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八幡愚童訓云弘安四年ノ比蒙古ハ大唐髙麗已下ノ國〻ノ兵共ヲ駈具シテ三千余艘《十万七十八百余[やぶちゃん注:上記の右傍注。「イ」は「異本」の略号。]》ノ大舩ニ數千万人乘列テコソ来ケレ其中髙麗ノ兵舩五百艘壹岐對馬ニ上テ見合者ヲハ打殺ス人民堪テ妻子ヲ引具深山ニ逃篭ル處ニ赤子ノ鳴聲ヲ聞付テ押寄殺ケル程ニ片時ノ命惜ケレバサシモ愛スル嬰兒ヲ我ト泣〻差殺シテゾ隱レケル失ㇾ子親計リイツ迄アラン命ソト身ナカラウタテシク泣歎心中ヲイカニセン世中ニ糸惜キ物ハ子成ケリ其ニマサルハ我身ナリケリト讀置シ人ノスサミヲ今ソシル

   *

「八幡愚童訓」に云はく、弘安四年の比(ころ)、蒙古は大唐・髙麗已下の國々の兵共(へいども)を駈(は)せ具して、三千余艘《異本「十万七十八百余」》の大舩に數千万人、乘せ列ねてこそ、来りけれ。其の中、髙麗の兵舩、五百艘、壹岐・對馬に上がりて、見合す者をば、打ち殺す。人民、堪え兼ねて、妻子を引き具し、深山に逃げ篭(かく)るる處に、赤子の鳴き聲を聞き付けて、押し寄せ、殺しける程に、片時の命、惜(を)しければ、さしも愛する嬰兒を、我(われ)と[やぶちゃん注:自ら。]泣々(なくなく)差し殺してぞ隱れける。子を失ふ親計(ばか)り、「いつ迄あらん命ぞ」と、身ながら[やぶちゃん注:我ながら。]、うたてしく、泣き歎く心中を、いかにせん。「世の中に糸惜(いとをし)き物は子成(なり)けり 其れにまさるは我が身なりけり」と讀み置きし、人のすさみを、今ぞしる。

   *]

2021/01/17

怪談登志男 七、老醫妖古狸

 

    七、老醫妖古狸(らうゐこりにはかさる)

 

Hitotume

 

[やぶちゃん注:挿絵。国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像をトリミングした。]

 

 中華の諺に、「良醫は福醫にしかず、明醫は時醫におよばず」といへり。時醫(じゐ)とは、其時にとりて、世に擧用(きよやう)せられ、百發百中の效もあるやうに、もてはやさるゝ流行(はやり)醫者なり。福醫とも、これをいふ。

 今はむかし、江都に、陸野見道(くかのけんどう)とかや云し福醫ありしが、ある時、番町邊(へん)の澤氏とかや、いへる人の許より、使者を以て、

「内室の病氣以の外なり。御見𢌞賴奉る。」

よし、

「心得候。」

とて、疾(とく)、宿を出、序(つゐで)ながらの見𢌞、四、五軒も勤しに、おもはず、日も晚景におよぴけるが、澤氏の宅に尋(たつね)行、玄關へ仕懸(しかけ)、

「斯(かく)。」

と云入ければ、取次、下座むしろに飛下り、

「主人、『今は公用につき、他行致候が、御出候はゞ、此段を申、暫(しばらく)、御通り被ㇾ下、御待下さるべき』よし、申置て罷出候。追付、歸宅可ㇾ致間、先、御通り被ㇾ成べし。」

と、座敷へ案内して、入ぬ。

 見道、初て見𢌞たるに、

「亭主留守にて殘念なれども、病用に來り、待(まち)兼て歸るも、率爾(そつし)ならん。」

と、座敷に至りて、其住居を見などして、待居たるに、多葉粉盆を持て出、茶など運(はこび)ける小僧、其年の程、漸(やうやう)十二、三斗なるが、立振(ふる)𢌞[やぶちゃん注:「たちふるまひ」と読んでおく。]、小ざかしく、眼(まなこ)ざし、凡(たゝ)者ならず。

「其方の名は、何とか申。」

など、手など、取て愛(あい)しけるに、はづかしげに赤面して、次の間に、はしり、ふりかへりたる姿、顏の大さ三尺斗、二つの眼、一つになりて、額にあり。

 鼻、ちいさく、口、大きにして、見道をうち詠(ながめ)て、消(きへ)うせたり。

 見道も、人にかはりし剛氣者にて、怪しくはおもひながら、立さりもせず、

「猶も、あやしき事や、ある。」

と、心を付る折ふし、主(あるじ)の何某(なにがし)、

「歸り來りし。」

とて、座敷へ立出、一禮、事終り、内室の樣躰(やうだい)など物語し、

「嘸(さぞ)、待久しく、おはしけん。無禮の至り、御免あるべし。然ば、貴殿の顏色(がんしよく)、何とやらん、心得がたく相見へ候。いかゞ候やらん。」

と尋られ、見道、しばらく『穩密(おんみつ)せん』と思ひしが、

「以後迚(とて)も、人々の心得にも成なん。」

と小聲(こゝゑ)に成て、

「先刻、かやうかやうの怪(あやし)みありし。」

と語りければ、主、打わらひ、

「扨々。彼(かの)法師めが、出(いで)て候や。例(れい)の顏(かほ)ばせ、御覽じたるか。いつも、いつも、罷出、しらぬ人をおびやかし候が、けふは、いかなるふるまいをか、なしつる。もし、かやうには、なかりしか。」

といふ、其かほ、見るうちに、大さ三尺斗、口は、耳の根まで裂(さけ)、眼、たゞひとつ、額に光り、はじめ見し小僧に十倍して、さしも肝ぶとき見道も、魂(たましい)も身にそはず覺へて、玄關へ、はしり出、睡(ねふ)り居ねる供の者を呼(よび)起せしに、皆々、歸りたると見へて、草履取、只一人、居たるが、

「何事か、おはしつる。騷々敷(そうそうしく)見えさせ給ふ。」

といふを、いらへもせで、はしり行しに、提灯は、なし、闇(くら)さはくらし、

「いかゞせん。」

といふを、草履取、

「いや。くるしからず。ちやうちんは、これに、候。」

といふ言葉の下より、道、はなはだ、あかるくなりて、這(はふ)蟲のすがたも見ゆべく、四方、燦然たり。

「こは、ふしぎや。」

と、下部が姿を見れぱ、面は、長きこと、二尺餘り、まなこは、日月のごとくかゞやき、口より、火炎を吹出しければ、見道、今は、たまりかね、

「はつ」

といゝて、倒れしが、其後は、何とも覺えず、と後に語りし。

 かくて見道が宿にては、

「供の者は、皆、返して、初ての所に、斯(かく)、長座し給ふこそ、心得ね。いざ、さらば、迎(むかい)にゆかん。」

と、提灯とぼし、つれて、晝行し所へいたり、屋敷のさまを見るに、大きに、樣子、かはりて、門、もふけたり[やぶちゃん注:「設けたり」。]といへども、柱、かたぶき倒れ、軒端は荒(あれ)て、月さし入りたる、くまぐまには、蜘(くも)の家居の糸引はへたる、あづま屋の、餘りにあきれ果(はて)、近所の町屋に立寄、

「あれなる屋敷は、いかにや、荒たる住居ぞ。」

と、とへば、

「あの化物やしき、しらざるは、きのふ、けふ、田舍より來りし人々にや。年ふりたる荒地にて、東隣(となり)の石澤氏より預りながら、人の通路も絕(たへ)て、狐狸(きつねたぬき)のみ、住居し侍る、おそろしき所なり。」

といふに、肝、つぶれ、

「晝、供して來りし時は、『いみじ』と見へし屋敷なりしに。扨は。妖怪の所爲(しよい)なりける。さるにても、主人はいかゞし給ひけん。」

と、千駄谷(せんだがや)、大番町の邊、かなた、こなた、さまよひ、漸(やうやう)、「鮫(さめ)が橋」に至りて、物淋しき藪道に、見道は、うつぶしに倒れ居しを、見付出して、大勢にて、取卷、介抱して、宿へつれ歸りけれど、一日、二日は、茫然として、ものも、えいはで、居りし。

 一月餘、惱(なやみ)て、やうやく、元のごとく、なりけるとぞ。

 是を、聞人、おそれて、其邊を通る人も、なかりし。

 後に聞ば、古狸のわざなるよし。

 其以後、古狸を駈(かり)出せしが、今は其跡もなく、人も住居し、いづくとも、さだかに知る人さへなく、繁昌の地となりける。

 

[やぶちゃん注:実は底本では「古狸妖老醫」(「こり、らういをばかす」と読んでおく)である。原本のそれを採った。

『中華の諺に、「良醫は福醫にしかず、明醫は時醫におよばず」といへり。時醫(じゐ)とは、其時にとりて、世に擧用(きよやう)せられ、百發百中の效もあるやうに、もてはやさるゝ流行(はやり)醫者なり。福醫とも、これをいふ』原拠は不明であるが、貝原益軒の「養生訓」の「擇ㇾ醫」(醫を擇(えら)ぶ)に、

   *

文學ありて、醫學にくはしく、醫術に心をふかく用ひ、多く病になれて、其の變(へん)をしれるは、良醫なり。醫となりて、醫學をこのまず、醫道に志なく、又、醫書を多くよまず、多くよみても、精思の工夫(くふう)なくして、理に通ぜず、或は、醫書をよんでも、舊說になづみて、時の變をしらざるは、賤工也。俗醫、利口にして、「醫學と療治とは別の事にて、學問は、病を治するに用なし」と云て、わが無學をかざり、人情になれ、世事に熟し、權貴(けんき)の家に、へつらひ、ちかづき、虛(きよ)名を得て、幸にして世に用ひらるゝ者、多し。是れを名づけて「福醫」と云、又、「時醫」と云。是、醫道には、うとけれど、時の幸ありて、祿位ある人を、一兩人療して、偶(ぐう)中すれば、其の故に名を得て、世に用ひらるゝ事、あり。才德なき人の、時にあひ、富貴になるに同じ。およそ、醫の世に用ひらるゝと、用ひられざるとは、良醫のゑらんで、定むる所爲(しわざ)にはあらず。醫道をしらざる、白徒(しろうと)のする事なれば、幸にして、時にあひて、はやり行はるゝとて、「良醫」と、すべからず。其の術を信じがたし。

   *

とある(「中村学園大学」公式サイト内の「貝原益軒アーカイブ」にある九州大学医学部教授貝原守一博士(益軒の子孫)の校訂本PDF版 (昭和一八(一九四三)年福岡市で発行されたもの)の「20」コマ目を参考に視認した)。また、少し後(「21」コマ目)には、

   *

醫師にあらざれども、藥をしれば、身をやしなひ、人をすくふに益あり。されども、医療に妙を得る事は、醫生にあらざれば、道に專一ならずして成がたし。みづから、医薬を用ひんより、良醫をえらんでゆだぬべし。醫生にあらず、術あらくして、みだりに、みづから、藥を用ゆべからず。只、略醫術に通じて、醫の良拙をわきまへ、本草をかんがへ、藥性と食物の良毒をしり、方書をよんで、日用急切の藥を調和し、醫の來らざる時、急病を治し、醫のなき里に居(をり)、或は、旅行して小疾をいやすは、身をやしなひ、人をすくふの益あれば、いとまある人は、すこし心を用ゆべし。醫術をしらずしては、醫の良賤をもわきまへず、只、世に用ひられるを良工とし、用ひられざるを、賤工とする故に、醫說に、明醫は時醫にしかず、といへり。醫の良賤をしらずして、庸醫[やぶちゃん注:凡庸な医師。]に、父母の命をゆだね、わが身をまかせて、醫にあやまられて、死したるためし、世に多し。おそるべし。

   *

ともある。しかし、どうもこれでは、それらの違いは明白ではないように思われるが、益軒は「明医」は過去の実績で評価される者を指し、優秀ではあるものの、定説に捕われて、日々の研鑽や努力を怠るだめな医師だと断じ、一方で、「時医」は時流に即して患者を診る流行(はやり)医者であるが、同時に進歩し続ける医の世界の智を吸収し、最前線で研究と研鑽を積む真の医師であると言っているらしい。「明医」は碩学の理論に拘る旧来然とした時代遅れの医師であり、「時医」は現在と未来を見据えた臨床医とし評価しているようである。則ち、益軒は本当の確かな「時医」を選ぶことが肝要だと言っているようである。なお、この最後の部分では、こちらの記事を参考にさせて貰った。

「陸野見道(くかのけんどう)」原本通り。「くがの」であろう。人物不詳。

「番町」現在の皇居より西に位置する一帯で、南の「新宿通り」、北の「靖国通り」に挟まれ、東端は「半蔵濠」から「牛込見附」、西端は「JR東日本中央線」が走る旧江戸城の外濠跡に当たる。現在のこの附近(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「番町」によれば、『江戸時代の旗本のうち、将軍を直接警護するものを大番組と呼び、大番組の住所があったことから』、『番町と呼ばれた。大番組は設立当初、一番組から六番組まであり、これが現在も名目だけ一番町から六番町に引き継がれている。しかし』、『江戸時代の大番組の組番号と、現在の町目の区画は一致しない。江戸時代の番町の区画は、通りに面して向かい合う二連一対の旗本屋敷の列を基準に設定されたものだからである』。『概念的に説明すると、江戸城の内堀に面する縦軸の番町として、千鳥ヶ淵に沿った南北に走る道(現青葉通り)を基準に一/二番町(新道一/二番町)が置かれた。次に江戸開府以前からの古道である、東西に走る麹町通り(新宿通り)を横軸にし、それに平行する道路を基準に、麹町通り側から北上して、裏/表二番町、裏/表六番町(表六番町は現在の二七通り沿い)、三番町(現在の靖国通り沿い)、表/裏四番町(靖国神社境内の北半分から富士見町一帯)と配置されていた』。『五番町だけは新道一番町の南側に続く半蔵壕に面した地区(現英国大使館とその裏側)とされ面積も狭い。西に連なる麹町通りの北側は、千鳥ヶ淵に連続する水面を埋め立てた谷間の低地(麹町谷町)を中心にして元園町とされているが、江戸切絵図(尾張屋版「番町大絵図」など)によれば、さらに西側の四谷見附寄り(現在の千代田区二番町と麹町四丁目の境界付近)まで五番町と表示されているところから、本来の五番町は、麹町通りの町人地の北側に沿って細長く設定されていたものと考えられる』。『また』、『直線状の区画から外れた堀端の三角地帯を、土手三番町(現五番町)や土手四番町(現富士見二丁目一帯)、堀端一番町(現千鳥ヶ淵戦没者墓苑一帯)などと呼んで、番町の独立した一街区とした』。『近代以降、番町の区画は何度か改編されて』おり、『全く別の場所に新たに一番町・四番町・五番町が設定されるなど、番町の数字順は大きく入れ替わっている』。『このため』、『近代の文学作品や記録を考証するときには注意が必要である。例えば、現在の四番町は、もと中六番町であり、明治~大正時代の四番町は九段北四丁目・三丁目の一部(三輪田学園中学校・高等学校周辺)であった。また現在の五番町は市ケ谷駅前にあるが、昔の五番町は英国大使館周辺であった』。『塀をめぐらし、樹木が鬱蒼とした中に、人気のない古い旗本屋敷が連なる地域であったことから、「番町皿屋敷」や「吉田御殿」「番町七不思議」などの怪談が生まれた。表札もなく、同じような造りの旗本屋敷ばかりが密集しており、住民でさえ地理を認識することが困難であったため』、『「番町の番町知らず」という諺が流布した』とある。

「澤氏とかや、いへる人」後で「東隣(となり)の石澤氏」の「預り」地とあるので、もしや、モデルがあるかと思い、切絵図を調べてみたが、目が痛くなるばかりで、諦めた。

「御見𢌞」「おんみまはり」。往診。

「率爾(そつし)」「そつじ」。相手に対して無礼であること。

「凡(たゝ)者ならず」「ただものならず」。この時には普通の顔らしく見え、且つ、美童であったのである。

「手など、取て愛(あい)しけるに」ここで、この陸野見道が、救いがたい好色な藪医者なることが、確かに示されるわけである。そもそもが、急病往診に呼ばれたのに、その途次に別な往診を複数こなし、しかも夕方になって、先の屋敷に趣くなど、最早、見下げた医師であることは、判然としていたのである。

「待久しく」「まちびさしく」或いは「まち、ひさしく」。長くお待たせし、の意。

「穩密(おんみつ)せん」怪異のあるは、武家にとって不名誉なれば、内密にして、言わずにおいた方がよかろうと当初は思ったのである。

「以後迚(とて)も」「これ以降、何か御座った場合を、これ、考えましても。」。

「騷々敷(そうそうしく)」歴史的仮名遣は「さうざうしく」が正しい。

「道、はなはだ、あかるくなりて、這(はふ)蟲のすがたも見ゆべく、四方、燦然たり」ちょっとした気遣いだが、ここは、リアリズムの出し方が上手い。

「其後は、何とも覺えず、と後に語りし」この怪異を離した聴き手(時制がかなり昔のことと設定されているからには作者ではあるまい)に、直接、見道が語ったという補足で、怪奇談としては、やはり、リアリズムを出す方途として考えてある部分である。

「長座」「ちやうざ」か。或いは当て訓して「ながゐ」がよいか。

「蜘(くも)の家居の糸引はへたる、あづま屋の」蜘蛛の巣(「家居」)が糸を引いてみっちりと生えたようになっている四阿(あずまや)のさまに。

「千駄谷(せんだがや)」現在の東京都渋谷区千駄ケ谷で代々木駅附近(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。番町の西方。

「大番町」番町の異名・広域名で、先の千駄ヶ谷や四谷(現在の新宿区大京町(だいきょうちょう)などに、その名が嘗て添えられてもあった。

「鮫(さめ)が橋」鮫河橋(さめがはし)は桜川支流鮫川に架けられていた橋及びその周辺の地名。現在の新宿区若葉二・三丁目及び南元町一帯を指す。この附近。江戸時代は岡場所があった。「今昔マップ」で見ると、「元鮫河橫町」という地名が認められる。迎賓館の北西直近に当たる。]

奥州ばなし 砂三十郞

 

     砂三十郞

 

 鐵山公と申せし國主の御代には、「ちから持」といはれし人も、かれ是、有《あり》し中に、砂(いさご)三十郞と云《いひ》し士、男ぶりよく、大力にて、知惠うすく、みづから力にほこりて、大酒なりしが、酒に醉《ゑひ》て歸る時には、夜中、通りかゞり次第に、辻番所を引《ひき》かへすが、得手物にて、度々のことなりし。寺にいたりては、つき鐘をはづしてこまらせなど、大の徒人(いたづら《びと》)なり。

「細橫町《ほそよこちやう》といふ所に、あやしきものゝ出《いづ》る。」

と聞《きき》て、三十郞、行しが、餘り歸のおそき故、跡より、行《ゆき》てみたれば、塀(へい)かさ[やぶちゃん注:「塀笠」。]の上に、またがりて居たり。

「何故、そこにはのぼりし。」

と、聲かけしかば、

「いや、此馬の口のこわさ、中々、自由、きかぬ。」

と云て有しとぞ。

「とく、ばかされしぞ。」

とわらはれて、心付しとなり。

 其ころ、淸水左覺と云し人も、大男に大力なりしが、おとなしき人にて、さらにいたづらはせざりしが、三十郞と、常に力をあらそひて、たのしみしとぞ。

 左覺、三十郞にむかひ、

「その方、力自慢せらるれど、尻の力は、我にまさらじ。先《まづ》、こゝろみよ。」

とて、尻のわれめに、石をはさみて、三十郞にぬかせしに、拔《ぬき》かねて有しとぞ。

 左覺は、我《わが》おもふ所に、一身のちからを集《あつむ》ることを、得手《えて》たりし。

 三十郞、男だてに、いろいろの惡食《あくじき》をせしとぞ。

「何にても、食《くひ》たるものを、はかん。」

といふに、心にしたがひて、はかれしとぞ。

 是、一藝なり。昨日、食《くひ》たるこんにやくのさしみを、味噌とこんにやくと、別々に、はきてみせなど、したりき。

 さかやきをすらせる時、頭中《あたまぢゆう》にちからをあつむれば、髮そり、をどりて、すられざりし。

 ある時、酒の肴《さかな》に、うなぎを、生《いき》ながら、食《くはん》とせしに、早く、手をくゞりて、腹中《はらなか》ヘ一はしりに入《いり》しとぞ。腹中にてうなぎのあばれしこと、やりにて、つかるゝ如く、さすがの三十郞も、大《おほい》によはり、鹽壱升を、なめつくしても死せず、にごり酒二升、たてのみに仕《し》たりしかば、是にて、うなぎ、しづまりしとぞ。

 この惡食にて、四、五日、腹の病《やまひ》にふしたりし。見廻《みまはり》に、左覺、來りて、やうす見合《みあはせ》、

『又々、なぶらん。』

と思ひて、

「いや、そこもとは、いろいろ、惡食せらるれども、犬の糞(くそ)は、くはれまじくや。」

と、とふ。三十郞、

「いや、是は、一向、氣なしなり。」

と、こたふれば、

「われらは、たて引《びき》なれば、食《くふ》てみせやう。いざ、ゆきて、みられよ。」

と、すゝめて、うす月夜のことなりしが、かねて、麥こがしをねりて、きれいなる石の上に、糞のごとく、つきかけて置しを、

「むさ」

と、つかみて食《くひ》てみせしかば、三十郞、大あやまりなりしとぞ。【昨日、當作饗《まさにつくれるあへ》、食物、既に腹内《はらうち》に入れば、半時にして消化せざること、なし。さるを、昨曰くらひしものを、一夜歷《ひとよへ》て、そがまゝに吐くこと、理《ことわり》のなき所なるべし。解[やぶちゃん注:曲亭馬琴の本名。]、云《いふ》。】

 度々、江戶づめもしたりしが、新橋の居酒屋へ入《いり》て、酒をのみてゐたりし内、はき物を、とられしとぞ。【此頃までは、みだりに履物をとらるゝことも、なかりしなり。この時より、江戶中、客のはき物を、しまつすること成《なり》し、とぞ。大あばれして、町人に仕置せしは、三十郞が手柄なり。】歸らんとおもひて見るに、はきものなければ、亭主をよびて、

「はきものゝしまつせぬこと、あしゝ。」

と、りくつ、云《いひ》かゝる。亭主は、

「しらぬ。」

よし、こたへしかば、大《おほい》にいかりて、

「此みせに有《ある》うちは、旦那なり。『だんなの、はき物、しらぬ』といはゞ、よし。その過怠(くわたい)に、酒代、はらはじ。」

と云《いふ》を、

「それは、いかにも、御無理なり。」

といふ時、醉《ゑひ》きげんのあばれぐさに、

「さあらば、食《くひ》しものは、吐《はき》て、かへすぞ。」

と、いひながら、かの得手ものゝ分《わけ》ばきに、酒は、ちろりに、肴は、鉢に、味噌は、猪口《ちよく》と、其《その》入《いり》たりし器々《うつはうつは》へ、吐《はき》ちらすを見て、

『あばれもの。』

と思ひ、かやうの時、とりしづむる爲、かねて、たのみおきし若きもの、五、六人、つれ來《きたり》、かゝらせしに、片手につかみて、人つぶてに、打《うち》し故、

「すは、こと、有《あり》。」

とて、むらがる人を、なげのけ、なげのけ、屋敷をさしてもどる道筋、

「あばれもの、あばれもの。」

と聲かけしかば、何かはしらず、棒を持《もち》て出《いづ》る人あれば、とりかへして、なぐりのけ、

「はしごをもちて、とゞめん。」

とすれば、又、とり返して、むかふの人を、兩方へ、なぐり、なぐりて、おしとほる故、木戶を打《うち》しも[やぶちゃん注:閉じたところが。]、おしやぶり、むらがる人中《ひとなか》を、平地《ひらち》の如く、大わらはに成《なり》て、かへり、白晝に、はだしにて、御門《ごもん》へ入《いり》しかば、早々、仙臺へ、追《おひ》くだされたりき。

 さりながら、

「氣味よき、あばれやうなりし。」

と、人々、かたりき。

 三十郞、娘兩人、有しが、とりどり、美女、大力《だいりき》なりし。

 姊、七ツなりしころ、大根漬《つけ》るに、

「おもはしき、おし石、なし。」

と云しを聞《きき》て、川近き家なりしかば、河原にいたり、

「是や、よからん。」

と思ふ石を、ひとり、とり持て、家に來り、

「此石が、よかろふ。」

と云しを見るに、子共《こども》の持《もつ》べしとも思はれぬ大石《おほいし》なりしかば、見る人、おどろき、

「其やうな大石を、子共はもたぬもの。」

と、しかりしかば、『ほめられん』と思ひし、心、たがひて、いそぎ、手をはなせしに、足の上に當《あたり》て、ゆび、壱本、ひしげし、とぞ。

 其石を、かたづけんとせしに、大男、兩人して、やうやう、うごかしたりき。

 外《ほか》に嫁しては、力は、かくして、さらに出《いだ》さゞりしが、ある年のくれに、年始酒《ねんしざけ》を作りて有しが、置所《おきどころ》、あしかりしを、

「置直《おきなほ》すには、皆、とり分《わけ》て、せねばならぬ。」

と云し時、

「このまゝにて、もたるゝや、いなや、心みん。」

とて、手も𢌞《まは》らぬほどの大桶《おほをけ》に、酒の、なみなみと入《いり》たるを、かろがろと、外の所へもち行《ゆき》て、すゑたりし、とぞ。

 次の娘は、八才より、江戸の御殿につとめて有しが、誰《たれ》も力の有《あり》とはしらざりしに、御風入《おんかざいれ》有しころ、俄《にはか》に夕立して、雨の落かゝりたれば、外に出して有し長持を、片手打《かたてうち》に、上へなげ入《いれ》たりしを見て、

「力、有《あり》。」

とは、人、しりたりし。葉賀皆人《はがみなと》といふ人の妻と成《なり》て終りし。

 

[やぶちゃん注:大正一〇(一九二一)年実業之日本社刊の熊田葦城(くまだいじょう:文筆家で歴史学者。報知社(現在の報知新聞社)の編集局長などを務めた。徳富蘇峰と親交し、彼と同じくジャーナリストとして歴史に関わる著作物を多く出版した)著「少女美談」のこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの画像)に、本篇の後半部がやや表現に手を加えた形で載っている。流石に、この標題の本に「犬の糞云々」の話のカットは仕方ない。なお、「葉賀皆人」の読みは、そのルビに従った。

「鐵山公と申せし國主の御代」「白わし」で既出既注であるが、再掲すると、仙台藩主に「鐡(鉄・銕)山公」という諡号の藩主はいない。「鐡」「鉄」「銕」の崩し字を馬琴が誤ったか、底本編者が判読を誤ったかしかないと感じる。可能性が高いと私が思うのは、「鉄・銕」の崩しが、やや似ている「獅」で、獅山公(しざんこう)は第五代仙台藩藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)を指し(戒名「續燈院殿獅山元活大居士」。諡号「獅山公」)、元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。本書は文政元(一八一八)年成立であるが、例えば、真葛は、名品の紀行随想「いそづたひ」の中で、鰐鮫への父の復讐を果たした男の話の聞き書きを、「獅山公」時代の出来事、と記している。【二〇二三年十二月二十八日削除・改稿】真葛の「むかしばなし」の電子化注をしている中で、「119」に「鐵山樣」と出、『日本庶民生活史料集成』版の「むかしばなし」の傍注により、これは「徹山樣」の誤記であることが判った。仙台藩第七代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)で、彼の戒名「叡明院殿徹山玄機大居士」に基づく。彼は宝暦六(一七五六)年七月、父宗村の死に伴い、家督を相続し(但し、当時、未だ十五歳であったため、若年を理由に、幕府より、国目付が派遣され、叔父の陸奥一関藩主田村村隆の後見を受けた)、寛政二(一七九〇)年に次男斉村(なりむら)に家督を譲って隠居した。

「砂三十郞」不詳。

「辻番所を引《ひき》かへす」「引きかへす」というのは、「引っ繰り返す」で、無体な乱暴狼藉を働くということであろう。

「細橫町」現在の仙台市中心部を南北に走る幹線道路の一つである晩翠通(ばんすいどおり)の旧称。同ウィキによれば、『かつてこの通りの大部分は細横丁(ほそよこちょう)と呼ばれていた』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「いや、此馬の口のこわさ、中々、自由、きかぬ」塀笠に跨っている訳だから、化かされて、塀を生き馬と錯覚させられている(笠は鬣(たてがみ)で腑に落ちる)為体(ていたらく)なのである。

「淸水左覺」取り敢えず「しみづさかく」と読んでおく。

「心にしたがひて、はかれしとぞ」南方熊楠と同んなじだ!!!

「たてのみ」立て続けに休まず一気に呑むことことであろう。

「いや、是は、一向、氣なしなり。」「さても、いやいや、それは、いくら何でも、全く食う気にはならんよ。」。

「たて引《びき》なれば」「立て引く」は「達て引く」などとも書き、「義理を立て通す・意地を張り合う」の意であるから、ここは「私が、かくも言い出したからには意地がある。食うて見せよう!」と言ったものであろう。

「麥こがし」「麦焦がし」「麦粉菓子」とも書く。大麦や裸麦を炒って、挽き粉末にしたもの。関西では「はったい粉」「炒り粉」とも呼ぶ。砂糖を混ぜて粉末のまま食べたり。熱湯や牛乳を注いで練って食べたりする。和菓子の落雁の材料でもある。安土桃山時代から、湯水に点じて、「こがし」 (今日の香煎(こうせん)に同じ)として好まれた。

「ちろり」酒を燗するための容器で、酒器の一種。注(つ)ぎ口と取っ手の附いた筒形で、下方がやや細くなっている。銀・銅・黄銅・錫などの金属でつくられているが、一般には錫製が多い。容量は一合前後入るものが普通。「ちろり」の語源は不明だが、中国にこれに似た酒器があることから、中国から渡来したものと考えられている。江戸時代によく使用された。

「猪口」「ゐぐち」「ちよこ(ちょこ)」とも読める。日本酒を飲む際に用いる陶製の小さな器。上が開き、下のすぼまった小形の盃(さかずき)。江戸時代以降に用いられた陶製の杯について称する。

「人つぶてに」拳固(げんこ)で。

「平地の如く」何の障害物もないかのように。

「白晝に、はだしにて、御門へ入しかば」この酒を飲んだ果ての大立ち回り、実は真っ昼間だったわけだ! 御門は仙台藩下屋敷であろう。品川区東大井(鮫洲)にあった(グーグル・マップ・データ)。

「ひしげし」潰れた。拉(ひしゃ)げた。

「御風入」夏の土用に、虫害や黴(かび)を防ぐために、屋敷全体に風を入れたり、仕舞ってある物品などを、庭や座敷に出して陰干しすることを指す。

「片手打に」片手だけでヒョイと取り上げて。

「葉賀皆人」不詳。]

2021/01/16

奥州ばなし 上遠野伊豆

 

     上遠野伊豆

 

 上遠野伊豆《かどのいづ》と云し人、明和・安永[やぶちゃん注:一七六四年~一七八一年。]の頃、つとめし人なり。【祿八百石。】武藝に達せしうへ、分《わき》て、工夫の手裏劍、妙なりし。針を一本、中指の兩わきにはさみて、なげいだすに、その當《あたり》、心にしたがはずといふこと、なし。元來、この針の工夫は、

「敵(てき)に逢《あひ》し時、兩眼をつぶしてかゝれば、いかなる大敵にても、おそるゝにたらず。」

と、思ひつきしことゝぞ。

 常に針を兩の鬢(びん)に、四本づゝ、八本、かくしさして置《おき》しとぞ。【此世の頃までは、いまだ、こわき敵も有《あり》つらんによりて、かくは思《おもひ》よりつらん。今の世人の弱きこと、たとへに取《とり》がたし。】

 先々《さきざき》國主の御このみにて、うたせられしに、御杉戶の繪に、櫻の下に駒の立《たち》たる形、有《あり》しを、

「四ツ足の爪を、うて。」

と有しかば、二度に打《うち》しが、少しも、たがはざりしとぞ。

 芝御殿類燒の前は、その跡、たしかに有し。

 昔、富士の御狩《おんかり》には、仁田の四郞、猪にのりし、といふより、工夫にて、御山追《おんやまおひ》[やぶちゃん注:藩主による鳥獣の山狩り。]の度每《たびごと》に、いつも、猪に乘し、と云《いひ》傳ふ。

 正左衞門繼母(けいぼ)は、上遠野家より來りし人なり。【この伊豆には[やぶちゃん注:にあっては、の意。]、また、甥なり。】この人のはなしに、

「伊豆は、狐をつかひしならん、あやしきこと、有《あり》。」

と云しとぞ。

 手裏劍と、猪にのるとの工夫など、あやうきことなり。さるを、

「なるや、ならずや。」

といふことを、とひあはするもの有《あり》て、

「思立《おもひたち》しことなり。」

と語《かたり》しとぞ。されば、正左衞門も、飯綱(いづな)の法、習はんとは、せしなるべし。 

 八弥、若年の頃迄は、伊豆も老年にてながらへ有しかば、夜ばなしなどには、猪にのることを、常に語りて有しとぞ。

「逃てゆく猪にはのられず、手追《ておひ》[やぶちゃん注:「手負ひ」。]に成《なり》て、人をすくはん[やぶちゃん注:「掬(すく)はん」であろう。鼻と牙で下から掬うように襲うことであろう。]とむかひ來る時、人の本《もと》[やぶちゃん注:直前。]にいたりては、少し、ためらふものなり。その時、さかさまに、とびのるなり。猪は、肩骨、ひろく、尻のほそきもの故、しり尾にすがりて、下腹にあしをからみてをれば、いかなる藪中《やぶなか》をくゞるとても、さはらぬものなり[やぶちゃん注:背にある自分のことを襲うことは出来ぬものなのである。]。扨(さて)、おもふまゝ、くるはせて、少し弱りめに成たる時、足場よろしき所にて、わきざしをぬきて、しりの穴に、さし通し、下腹の皮をさけば、けして[やぶちゃん注:決して。]、仕とめぬことなし。」

と云しとなり。

「手利劍は[やぶちゃん注:ママ。]、一代切《いちだいぎり》にて、習《ならふ》人、なかりき。尤(もつとも)人のならはんといふこと有ても、元來、人にをしへられしことならねば、何と、つたふべきこともなし。たゞ、氣根(きこん)よく[やぶちゃん注:根気よく。]、二本の針を手につけてうちしに、おのづから得しわざなり。」

と答しとぞ。八弥にも、

「とせよ、かくせよ。」

と、其はじめをつたヘられし故、少しはまねびしが、終《つひ》に、なし得ざりし、とぞ。

 

[やぶちゃん注:「上遠野伊豆」上遠野広秀(かどのひろひで 生没年不詳)は江戸中期の兵法家で剣客。願立(がんりゅう)流剣術・上遠野(かどの)流手裏剣術の使い手で、特に手裏剣の名人として「手裏剣の上遠野」と称された。伊豆守は通称。参照したウィキの「上遠野広秀」によれば、『上遠野氏は旧姓』は『小野氏』で、応永一一(一四〇四)年に『磐城国菊田庄(菊多郡、現いわき市)上遠野に住んだことから』、『この地名を名乗るようになった。第』十『代上遠野高秀(伊豆守)が伊達政宗に招かれて家臣となり』八百四十三『石を扶持された。広秀は明和、安永』『の頃の人で、仙台藩で』三『千石取りとなっていた。家伝の願立』流剣術(正しくは単に「願立剣術」と呼ぶ)『のほか、独自に手裏剣術を工夫した』。『広秀が手裏剣の技を工夫したのは、相手の眼を潰してしまえば』、『いかなる大敵でも恐るるに足りない、という考えからであったといわれる。広秀はいつも両の鬢に』四『本ずつ、計』八『本の針を差しており、この針を指の脇にはさんで投げると』、『百発百中といわれた。広秀は「手裏剣の技は一代限りのもので、教えてもらって上達するものではない。根気よく自分で工夫して針』二『本打つことを習得すれば、自然に上手になる。」と語ったという』。『あるとき、仙台藩』七『代当主、伊達重村』(在職は宝暦六年(一七五六)年七月から寛政二(一七九〇)年(隠居)まで)『が江戸・芝の上屋敷で、御杉戸の絵に、桜の下に馬が立っている図を見て、この馬の足の爪に針を打ってみよ、と命じたところ』、二『本打って』二『本とも』、『命中した。このときの針の痕は、後に上屋敷が焼失するまで残っていたという』。『また』、『治承・寿永の乱(源平合戦)の昔、仁田四郎が富士の巻狩りで猪の背に乗ったという逸話を聞き、広秀も山狩りのたびに猪を見つけて飛び乗ることを得意とした。広秀は、猪の背に後ろ向きに乗り、尻の穴に脇差を刺し通せば』、『必ず』、『仕留めることができる、といったという』。『また、広秀の打針は、後に仙台侯の息女が水戸藩へ輿入れした際に笄』(こうがい)『として伝わり、これを水戸弘道館の剣術師範をしていた海保帆平(北辰一刀流)が工夫し、安中藩師範の根岸松齢に伝えたのが根岸流手裏剣術の始まりである』とある、大変な達人なのである。真葛の言っていることは、ここに書かれている事実と殆んど違わない。凄いことだ。

「芝御殿類燒」これは、恐らく明和九年二月二十九日(一七七二年四月一日)に発生した大「明和の大火」であろう。真葛は当時十歳で、江戸にいた。父平助は仙台藩藩医として、特別に築地に邸宅を構えており、父の付き添いで上屋敷に入ることもあったに違いない。ここは、直接過去の「き」が用いられているからには、これ以前に、彼女自身、その上遠野広秀が杉戸の馬の蹄に放ち打った針の痕を実見したことを意味しているのである。なお、この「明和の大火」の庶民の惨状が僅か十歳の彼女に強く刻印され、彼女をして後に救民思想を持つに至る引き金となった回禄だったのである。

「仁田の四郞」仁田忠常(仁安二(一一六七)年~建仁三(一二〇三)年は『仁田伊豆国仁田郷(現静岡県田方郡函南町)の住人で』、治承四(一一八〇)年の『源頼朝挙兵に加わっている。頼朝からの信任は厚く』、文治三(一一八七)年一月、『忠常が危篤状態に陥った時、頼朝が自ら見舞っている。平氏追討に当たっては源範頼の軍に従って各地を転戦して武功を挙げ』、文治五(一一八九)年の「奥州合戦」に『おいても戦功を挙げ』ている。建久四(一一九三)年五月二十八日に発生した「曾我兄弟の仇討ち」の際には、『兄の曾我祐成を討ち取』っている。『頼朝死後は跡を継いだ二代将軍・源頼家に仕えた。頼家からの信任も厚く、頼家の嫡男一幡の乳母父となっている』。ところが、建仁三(一二〇三)年九月二日、頼家が病いのために危篤状態に陥って「比企能員の変」が『起こると、忠常は北条時政の命に従い、時政邸に呼び出された頼家の外戚・比企能員を謀殺した』。五日、『頼家が回復すると、逆に頼家から』、『時政討伐の命令を受ける。翌晩、忠常は頼家の命を受けながらも、能員追討の賞を受けるべく』、『時政邸へ向かうが、帰宅の遅れを怪しんだ弟たちの軽挙を理由に』、逆に『謀反の疑いをかけられ、時政邸を出て御所へ戻る途中』、『加藤景廉に殺害され』てしまった。享年三十七であった。頼朝の代に『行われた富士の巻狩りにて、手負いの暴れる大猪を仕留めたとされて』おり、頼家の代では、『富士の狩り場へ行った際、頼家の命』を受けて『静岡県富士宮市の人穴を探索し』てもいる(以上は彼のウィキに拠った)。

「橋本正左衞門」「めいしん」「狐つかひ」に登場した、間接的乍ら、真葛の大事な情報元である人物。

「なるや、ならずや。」「修練を積めば、上達するものか? そうでないか?」。

「思立《おもひたち》しことなり」ここは少しウィキで言っていることと相違しているように見える。則ち、「ある時、思い立って始めた」ことである、と言っているのである。しかし、これは必ずしも違っているとは言えない。「ある時、自分には、その特異な能力があると、気が付いたから、鍛錬を始めた」という意味でとれば、納得がゆくのである。しかし、正左衛門はそういう意味ではなく、鍛錬すれば、誰でも、その能力を引き出せる、という意味に勝手に解釈したと理解出来るからである。だから「飯綱の法」を習おうとした。しかしそれは、小姓の軽率な使用によって和尚本人が封印してしまう結果となり、正左衛門は習得出来なかった。しかしそれも考えてみれば、「心定まらぬ人」が使えば、途轍もなく危険なものであったという点で、このケースと親和性があると言える。そうして、上遠野伊豆の手裏剣術に生来の素質無き者には習得不能であることは、最後の八弥の事実が証明しているのである。

「正左衞門も、飯綱(いづな)の法習はんとは、せしなるべし」「狐つかひ」を参照されたい。

「八弥」橋本正左衛門の養子。「めいしん」の本文を参照されたい。「弥」を正字化しなかったのもそれに準ずる。]

南方熊楠 小兒と魔除 (6)

 

[やぶちゃん注:冒頭のそれは、出口米吉の初出の一四三ページ(最終コマ)から、一四四ページ(2コマ目)にかけての部分を指す(PDFは分離している)。私の電子化はこちら。]

 

(一四三頁兒啼を止るに偉人の姓名を呼ぶ事)歐州各部、古來タークヰンブラツクダグラスハンニアデスマールポロ、那翁[やぶちゃん注:「ナポレオン」。]、ウエリントン、英皇リチヤード一世、ナルセスラミアリリツスジヨン、ニツコルソン[やぶちゃん注:底本は、「ジヨン」の後の読点に下線を含まないが、初出で訂した。]、タルボツト卿抔の名を以て兒啼を止め、ケンタツキー州の一部にクレーヷーハウス[やぶちゃん注:底本は「ヷ」を「ゾ」とするが、初出で訂した。]、墨西哥[やぶちゃん注:「メキシコ」、]でドレークと呼で、躁兒を靜むる(N. and Q., 10th ser., x, p. 509, 1908; xi, p. 53, 1909; Rundall,‘Memorials of the Empire of Japan,’ 1850, p. 54)風今に殘れり、近時の小說にグラツドストーンと呼で兒をおどすことすら有り、吾輩幼時、殿樣、親爺抔來れりと聞いて、騷動を止めしこと每度なりき Rundall, l. c. に、慶長十八年六月、英艦長サリス、平戶侯に饗せらるゝ記あり(此時、英艦長の私室に、羅[やぶちゃん注:羅馬(ローマ)。]の婬神ヰヌス美童クピツトと戲るゝ圖を揭たるを、日本上流婦人、葡人[やぶちゃん注:ポルトガル人。]に天主敎化され居たるもの、歸命頂禮して、マリアと基督母子也とせる珍談有、百家說林第一板所收、司馬江漢の春波樓筆記八十八頁にも摘出せらる)中に、平戶人、英吉利黑船とて歌唄ひ、劒舞して、英人西班牙[やぶちゃん注:「スペイン」。]船を掠むる[やぶちゃん注:「かすむる」。奪わんとする。]の狀をなし、小兒輩を威す[やぶちゃん注:「おどす」。]と有、後年難波に黑船忠右衞門有しも、人に怖らるゝこと黑船の如くなりし故ならん、多少の誇張は有るべきも、近年石川縣の遠藤秀景氏、名兒啼を止むるに足れりと云事新紙[やぶちゃん注:新聞記事。]にて見たり、蒙昧の蕃民、敵襲來するを憚り默靜を重んずるは、サビムバ人の祖先、鷄鳴の爲に在處を知られて、度々海賊に犯されし故、全く林中の浪民となり、鷄を忌むこと甚しく(Logan, “The Oramg Binua of Johore,” The Journal of the Indian Archipelago and Eastern Asia, vol. i, Nov., p.296, 1847)、ブラジルのツピ族の一酋長、朝早く村中の廬[やぶちゃん注:「いへ」。家。]を廻りあるき、鋭き魚齒もて、小兒の脛をヒツカク、是れ小兒從順ならぬ時、父母、酋長搔きに來ると言て之を脅さんが爲なり(Hans Stade, ‘Captivity in Brazil in A. D. 1547-1555,’ 1874, p. 144)、近世伊太利の山賊ビツツアロが、官軍を寒洞中に避けし時、兒啼て止ざるを怒り、其脚を操て[やぶちゃん注:「とつて」。]腦を岩壁に打付け、碎て[やぶちゃん注:「くだきて」。]之を殺しけれは、其妻之を恨で、翌夜夫の睡に乘じて、之を銃殺し、其首を獻して重賞を得、更に他人に嫁して良婦慈母たりしと云ふ(D. Hilton, ‘Brigandage in S. Italy,’ 1864, vol. i, pp. 171-2)、古スパルタ、又殊に我邦など尙武の俗、男は泣ぬものと幼少より敎えしは[やぶちゃん注:ママ。]、主として女々しき振舞無なからしめんとの心がけ乍ら、兼て輕躁事を敗らざる可き訓練にて、戰鬪多き世には、兒啼を戒めて敵寇に見顯されぬ事、一人にも一社會にも、大緊要の件なるべし、趙の始祖と源義滿、幼少乍ら啼ずして身を全せし由、風俗通と碧山日錄に出づ、今、三國志舊注、倭漢三才圖會、世事百談などを案ずるに、張遼合淝の戰に吳人を震懾[やぶちゃん注:「しんしやう」。震えおののくこと。]せしめし故、其名を呼んで兒啼を止し迄にて、上述の諸例と比較して、理は能く通ぜり、別に出口氏の言の如き、兒の爲に魔を威し去るの意と見えず、加之[やぶちゃん注:「しかのみならず」。]支那に麻胡希臘にラミア(Bent, p. 98)抔、鬼來ると言て兒を脅し靜むること少なからず、之をも魔を去らんがために、更に小兒が好まざる他の魔の名を呼で、之を招くと云はば、其辨は迂にして、その說は鑿せりとやいはまし、事物紀原には、會稽有鬼、號麻胡、好食小兒腦、遂以在小兒啼、則謂麻胡來恐之、乃啼聲絕と有て、鬼なれども、空華日工集一には廣記を引て、石勒の將、太原の胡人麻姓のもの大惡人なりし故、母其名を號して啼兒をおどすとせり、吾邦に元興寺[やぶちゃん注:「がこじ」。]と唱て小兒をおどすも此類にて、若し元興寺の鬼を呼來て、他の兒に害ある鬼を嚇すと言ば、直ちに其元興寺の鬼を平げたる道場法師[やぶちゃん注:「だうぢやうほふし」。]の名を呼で、强弱の諸鬼を合せて之を驅るの手段を、何故其時代の父母が氣付かざりしにや(群書類從卷六十九道場法師傳參看)、因に云ふ、嬰兒をあやして「レロレロ」と云ふは、今も紀州一汎に行はる、これは英語に所謂 Tongue-Twister(舌捩り[やぶちゃん注:「したもじり」。])の最も簡單なる者で、小兒に早く言語を發せしめんとの一助なり、吾邦の小兒、親を困らすほど成長せんに、「レロレロ」位で啼止むべきかは「レロレロ」と遼來と稍や音近き故、博識を衒わん[やぶちゃん注:「てらはん」。]とて、前者後者に出づと說き出せるなるべし、實際「レロレロ」と呼で小兒を怖し賺す[やぶちゃん注:「おどしすかす」。]こと有しに非じ、

 

[やぶちゃん注:「タークヰン」セクストゥス・タルクィニウス(英語:Sextus Tarquinius ?~紀元前五〇九年)。王政ローマ最後の王ルキウス・タルクィニウス・スペルブス(タルクィニウス傲慢王)の三番目の末子。ローマ神話によれば、彼が人妻ルクレティアを陵辱したことが、結果として王政の崩壊と共和政の設立を招いたとされる。同じ姓であり、先王セルウィリウスを殺害、ラティウム地方に覇権を伸ばしたという凶悪な父もそれらしく見えるが、後に示す原拠記事から、伝説的人物(実在は疑われている)ルクレティアに纏わる一五九四年に書かれたシェイクスピアの物語詩「ルークリース凌辱」(The Rape of Lucrece)に基づくとあるから、やはり、子の方である。

ブラツクダグラス」Black Douglas。十二世紀のスコットランドで最も強力な一族の一つであったブラック・ダグラス家。特にその創始者にして、スコットランド国王ロバートⅠ世の筆頭副官の一人であったジェイムス・ダグラス卿(James Douglas 一二八六年~一三三〇年)の異名。聖地への埋葬を望んだ主人の最後の望みを果たすために、その心臓を携えて、ムーア人相手の十字軍遠征に従軍したという逸話が知られており、部下の兵たちは、そうした彼を恐れ、「ブラック・ダグラス」と呼んだ。

ハンニアデス」ハンガリー国王マティアス・ハンニアデス(Matthias Hunniades 一六二一年~一二五〇年)

マールポロ」イングランド貴族の公爵位マールバラ公爵(Duke of Marlborough)か。この爵位は一七〇二年に「スペイン継承戦争」でイングランド軍司令官を務めた初代マールバラ伯爵ジョン・チャーチル(John Churchill 一六五〇年~一七二二年)に授与されたことに始まる。後のイギリス首相ウィンストン・チャーチルやイギリス皇太子妃ダイアナ・スペンサーの先祖でもある。

ウエリントン」ウェリントン公爵(英: Duke of Wellington)は、イギリスの公爵位で「ナポレオン戦争」の英雄初代ウェリントン侯爵アーサー・ウェルズリー(Arthur Wellesley 一七六九年~一八五二年)が一八一四年に叙されたのに始まる。連合王国貴族の中では筆頭爵位。

「英皇リチヤード一世」第二代イングランド王リチャードⅠ世(Richard I 一一五七年~一一九九年)。彼のウィキによれば、『生涯の大部分を戦闘の中で過ごし、その勇猛さから獅子心王』(Richard the Lionheart/フランス語:Cœur de Lion)と称され、中世ヨーロッパに於いて騎士の模範と称えられたが、十年の在位中、イングランドに滞在したのは、僅か六ヶ月で、『その統治期間のほとんどは戦争と冒険に明け暮れた』とある。

ナルセス」東ローマ帝国の政治家で宦官のナルセス(ラテン文字転写:Narses  四七八年~五七三年)か。ユスティニアヌスⅠ世に仕え、東ゴート王国を征服した人物。

ラミア」Lamia。古代ギリシア伝説の女の妖怪。子供を攫うとされ、言うことを聞かない子供を嚇す際、この名を出す。元はゼウスに愛された美女であったが、嫉妬したヘラに子を殺されてより、妖女に変じたとされ、若者を誘惑し、血肉を飲食したとも言われる(中経出版「世界宗教用語事典」に拠る)。

リリツス」Lilith。ユダヤの伝承で、男児を害すると信じられていた女性の悪霊。「リリト」とも表記される。ウィキの「リリス」によれば、通俗語源説では「夜」を意味するヘブライ語「ライラー」と結びつけられるが、古代バビロニアの「リリートゥ」(シュメール語の「リル」、「大気」「風」の意)とも言われる。旧約聖書では「イザヤ書」に言及があるのみで、そこではは夜の妖怪或いは動物の一種とされる。また、『古代メソポタミアの女性の悪霊リリートゥがその祖型であるとも考えられている。しばしば最初の女とされるが、この伝説は中世に誕生した。アダムの最初の妻とされ、アダムとリリスの交わりから悪霊たちが生まれたと言われ』、『そのリリスの子どもたちはヘブライ語でリリンとも呼ばれる』。『アダムと別れてからもリリスは無数の悪霊たち(シェディム)を生み出したとされ』、十三『世紀のカバラ文献では悪霊の君主であるサマエルの伴侶とされた』。『サタンの妻になったという俗説もある』とある。私は「新世紀エヴァンゲリオン」に登場する呼称として、気になって調べたことがある。

ジヨン、ニツコルソン」アイルランド出身で東インド会社所属の軍人ジョン・ニコルソンJohn Nicholson 一八二二年~一八五七年)か。一八五七年のインド反乱を冷酷に鎮圧する中で亡くなったが、イギリスでは讃美を受けた一方、インドでは悪名を馳せた。

タルボツト卿」イングランドの貴族・軍人で初代シュルーズベリー伯爵ジョン・タルボット(John Talbot, 1st Earl of Shrewsbury ?~一四五三年)であろう。「百年戦争」中のイングランド軍の主要な指揮官の一人で、ランカスター朝に於ける唯一のフランス軍総司令官であった。

クレーヷーハウス」スコットランドの貴族・軍人で初代ダンディー子爵ジョン・グラハム・オブ・クレーヴァーハウス(John Graham of Claverhouse, 1st Viscount Dundee 一六四八年~一六八九年)はステュアート朝に仕え、ジャコバイトに与し、名誉革命政権に反乱を起こし、「流血のクレーヴァーズ(Bluidy Clavers)」とも呼ばれる。

ドレーク」フランシス・ドレーク(Francis Drake 一五四三年頃~一五九六年)であろう。エリザベス朝のイングランドのゲール系ウェールズ人航海者にして海賊・海軍提督で、イングランド人として初めて世界一周を達成した人物として知られる。彼のウィキによれば、『ドレークはその功績から、イングランド人には英雄とみなされる一方、海賊行為で苦しめられていたスペイン人からは、悪魔の化身であるドラゴンを指す「ドラコ」の呼び名で知られた(ラテン語名フランキスクス・ドラコ(Franciscus Draco)から)』とある。

「N. and Q., 10th ser., x, p. 509,1908; xi, p. 53, 1909」「Internet archive」で原本が見られ、前者はこちらの左ページの、

   *

NAMES TERRIBLE TO CHILDREN. ―In many a crisis in history the name of some conqueror or tyrant has been used to still unruly children. I am conscious of having read of many such, but not having the fear of ' N. & Q.' before my eyes, I failed to make the necessary notes, and now plead guilty

in an apologetic query. Can anybody add to my brief list, and give serious, not mere

farcical, authorities ?

   Tarquin. Shakespeare, ' Rape of Lucrece ' (' Poems,' ed. R. Bell, p. 111).

   Black Douglas, 1319. Sir W. Scott,

' History of Scotland,' 1830, i. 137.

   Hunniades, 1456. Hallam, * Europe during Middle Ages,' 1872, ii. 106.

   Marlborough.

   Napoleon Bonaparte.

   Wellington.                   W. C. B.

   *

という投稿で、後者はこちらの右下から次のページにかけての、

   *

   NAMES TEBRRIBLE TO CHILDREN (10 S. x. 509 ; xi. 53, 218, 356, 454).― To the names that have appeared surely Morgan should be added. See Prof. Rhys's ' Celtic Folklore,' 1901, vol. i. p. 372. It is about the lake of Glasfryn in Wales : ―

   " Mrs. Williams-Ellis's own words : ' Our younger boys have a crew of three little Welsh boys who live near the lake, to join them in their boat-sailing about the pool and in camping cm the island, &c. They asked me once who Morgan was, whom the little boys were always saying they were to be careful against. An old man living at Tal Llyn, " Lakes End," a farm close by, says that as a boy he was always told that " naughty boys would be carried off by Morgan into the lake." Others tell me that Morgan is always held to be ready to take off troublesome children, and somehow Morgan is thought of as a bad one.'"

   There is more, but any one interested had better see the book.

  1.   L. PETTY.

   Ulverston.

 

   The name of Grimshaw was a bugbear to children in the latter part of the eighteenth century. He was Incumbent of Haworth, near Bradford, the home of the Brontës.

   Macaulay in his essay on Warren Hastings tells us :

   " Even now, after the Lapse of more than 50 years, the natives still talk of him as the greatest of the English ; and nurses sing children to sleep with a jingling ballad about the fleet horses and richly caparisoned elephants of Sahib Warren Hastein."

                    JOHN PICKFORD, M.A.

   Newbonrne Rectory, Woodbridge.

   *

という記事があるものの、そこから熊楠は引いてはいない。

「Rundall,‘Memorials of the Empire of Japan,’ 1850, p. 54」作者はトマス・ランドール(Thomas Rundall)なる人物であるが、書かれている内容は江戸初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人航海士三浦按針の日本名で知られるウィリアム・アダムス(William Adams 一五六四年~元和六(一六二〇)年)から得た部分が多いようだ。当該書は「Internet archive」で原本が読めるが、ここの左ページの頭から四行目に、フランス人が子供を嚇すために「Lord Talbot」の名を出す習慣が書かれてある。

「近時の小說」事例不詳。

グラツドストーン」Gladstone。近頃の小説と言うところから思うには、イギリスの政治家で貿易商にして黒人奴隷農場主であった初代准男爵ジョン・グラッドストン(John Gladstone, 1st Baronet 一七六四年~一八五一年)か。彼のウィキによれば、一七九二年『以降、イギリスはフランスと二十数年に渡る戦争に突入したが(フランス革命戦争、ナポレオン戦争)、これによって貿易は賭博的事業となり、貿易商は極端に成功する者と極端に失敗する者の二極分化し』、『グラッドストンスは成功者の側に入った』。『彼は』当初、『東インドでの貿易を主としていたが、後には西インド貿易にも手を伸ばした。また西インド、英領ギアナ、英領ジャマイカなどにおいて広大なサツマイモ耕地、コーヒー耕地を所有した。イギリス本国においては奴隷貿易は』一八〇七年に『禁止されたが、大英帝国植民地においては』、『奴隷貿易は未だ合法であり、グラッドストン』『も大量の黒人奴隷を自身の農地で酷使した』。一八二三年には、『ギアナでイギリス農場主の支配に抵抗する黒人奴隷の一揆が発生したが、その一揆の中心地はグラッドストンス所有の農場だった』とある。

「慶長十八年」一六一三年。先の書のこちらに一六一三年六月十一日(慶長十八年五月四日)に平戸に到着した旨の記載があり、以下の「平戶人、英吉利黑船とて歌唄ひ、劒舞して、英人西班牙船を掠むるの狀をなし、小兒輩を威す」というのは先の「Rundall,‘Memorials of the Empire of Japan,’ 1850, p. 54」で示した原本のページとその前の部分に相当する。

「英艦長サリス」イギリス船として初めて日本に来航したイギリス東インド会社の貿易船「クローブ号」(Clove)の指揮官ジョン・セーリス(John Saris 一五七九年或いは一五八〇年~一六四三年)。イギリス東インド会社はアダムス(三浦按針)がイギリス本国に送った書簡によって日本事情を知り、国王ジェームズⅠ世の許可を得て、彼を仲介人として日本との通商関係を結ぶ計画を立て、艦隊司令官であった彼を日本に派遣したのであった。

「婬神ヰヌス」ローマ神話の愛と美の女神ウェヌス(古典ラテン語:Venus)。言わずもがな、本邦では現在は英語読みの「ヴィーナス」が一般。

「美童クピツト」Cupid。キューピッド。

「百家說林」明治後期に作られた江戸時代の学者・文人らの随筆・雑考等、八十六部を集録した叢書。今泉定介・畠山健の校訂。明治二三(一八九〇)年から三年掛かりで十巻本として刊行し、同三十八から翌年には既刊を正編二巻とし、続編三巻と索引一巻を刊行している。

「司馬江漢の春波樓筆記」江戸後期の蘭学者で画家として知られる司馬江漢(延享四(一七四七)年~文政元(一八一八)年)が著した随筆集。文化八(一八一一)年成立。一巻。著者の目に映じた江戸末期の社会風俗についての所感や、人間観・死生観・学問観を記したもので、当時の世相を窺う上でも貴重な資料。約二百項目の全体に、著者の鋭い世相批判があふれ、近代に通じる観点が見られるのが興味深い(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。まず、幸いにして、小泉八雲がこの話を記しているので、私はそれとは別に既に知っていた。「神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(60) ジェジュイト敎徒の禍(Ⅴ)」に、『キアプテイン・サリスは一六一三年に日本から手紙を送つて、極めて暗示的な感傷的な一事件を記してゐる。彼は言つて居る。『私はやや上注の多くの婦人に、私の船室に入つてもよいといふ許を與へた。この室にはヴイナスが、その子息のキユウピツドをつれてゐる繪が、大きな額緣に嵌められて、幾分だらしない飾り方で懸かつてゐた。彼等は之をマリヤとその子であると思つて、ひれ伏し、非常な信仰を表はして、それを禮拜した。そして私に向つて囁くやうに(信徒でなかつた仲間の誰れ彼れに聞こえないやうに)自分達はキリスト教徒であると云つた、之によつて吾々は彼等がポルトガルのジエジユイト派によつて改宗させられたキリスト教徒であることを知つた』と』とある。八雲のそれは、元書簡の英訳からの引用である。さて、「春波樓筆記」から引く。所持する吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。一部に無関係な記載があるので、前を略してある。探す方は、「随筆大成」第一期第二巻の五十八ページの「○予が近隣に八十余の老人あり」で始まる条々の中間にある。

   *

又日く、壱岐守松浦侯[やぶちゃん注:松浦(まつら)静山。私は彼の「甲子夜話」の電子化注を手掛けている。]予に向つて日く、朽木隱岐守に蘭書あり。ウエイレルドベシケレイヒングと云ふ、此の書を求めん事を欲す、余爾を以てす。余江漢諾して應命、則朽木侯に謁して此の事を話す、竟に其の書を松浦侯に贈る。其の中イギリス船平戶島に入津したる事を誌す。其の頃松浦法眼と云ふ人隱居して政治を取る。或時婦女を從へ、イギリスの船に乘る。船の内數品の額あり。其の中に春畫ありけるを、婦人是を熟視せずして拜す。イギリス人おもへらく、嚮[やぶちゃん注:「さき」。]の頃吾國の佛法[やぶちゃん注:キリスト教のことをかく言っているので注意されたい。]、此の日本に來る事あり、其ならん事を思ひて春畫を拜するかと。[やぶちゃん注:以下略。]

   *

「黑船忠右衞門」これ自体は歌舞伎男伊達狂言の主人公の名で、モデルは宝永・享保年間(一七〇四年~一七三六年)頃に実在した大坂堂島の男伊達であった根津四郎右衛門こと、沖仲仕住吉屋四郎右衛門とされる。上町の町奴(片町の馬士頭とも)茶筌庄兵衛との新町橋での達引を、当時、侠客役で古今独歩の初代姉川新四郎が自ら脚色し、新町橋の船宿の黒船の行灯から黒船忠右衛門の名で演じ、大当たりをとった。以後、歌舞伎・浄瑠璃に「黒船忠右衛門」物と総称される一連の作品が書かれ、明治期まで上演された。新四郎が、この役でかぶった投頭巾は黒船頭巾、一名、姉川頭巾と呼ばれ、一世を風靡し、新四郎は後年、頭巾を中山新九郎に譲ったが、没後、三途の川を頭巾姿で渡河中、鬼に出会ったという伝説が生まれたという(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「遠藤秀景」(安政元(一八五四)年~明治四四(一九一一)年)は政治家・漁業家・自由民権運動家。石川県立中学卒。彼のウィキによれば、『加賀藩士で素封家の父、遠藤柳の長男として加賀国河北郡浅野村(石川県河北郡中口村、小坂村を経て現金沢市小橋町および昌永町)に生まれる』。『幼くして関兵次郎、矢野三内、太田清蔵、秦秀植、南部虎之助などに』ついて、『剣術や槍術を学んだ』。『ついで』、『島田定静の門に入り』、『文学を修め、同門の塾長となった』。明治一〇(一八七七)年、『西南戦争が勃発すると』、『島田一郎らが西郷隆盛を援けることを主張したが、これに反対した』。『翌年、西郷に与したとして一時投獄されるが赦され』、明治十三年、『内務省より就官するよう声が掛かる』も、『これを辞し、同年』、『父の訃報と共に郷里に戻り、金沢区選出の石川県会議員となった』。『この頃、盈進社を設立』、『以降』、『国会開設請願運動に関与』した。『ついで』、『旧藩主前田家に士族授産金を要請し』、『北海道に渡り、岩内に前田村を拓』いて、『漁業事業に着手』し、『千島海域などで操業した』。後、『再び石川県会議員となり、同議長を歴任した』。明治二十三年)七月に行われた第一回『衆議院議員総選挙では石川県第』一『区から出馬し』、『当選』、『衆議院議員を』一『期務め』ている、とある。

「Logan, “The Oramg Binua of Johore,” The Journal of the Indian Archipelago and Eastern Asia, vol. i, Nov., p.296, 1847」既注であるが、再掲すると、作者ジェームス・リチャードソン・ローガン(James Richardson Logan 一八一九年~一八六九年)は、イギリスの弁護士で民俗学者。インドネシアやマレー半島の民俗を調べ、「インドネシア」という語を広めた人物でもある。指示すると思われる当該原本(但し、発行年が違う)部分を見い出せない。されば、「サビムバ人」もお手上げ。

ブラジルのツピ族」ポルトガル語「tupi」。南アメリカ大陸で用いられる七十ほどの言語からなる語族トゥピ語族。狭義にはその中のトゥピ語を用いる一族。分布域はウィキの「トゥピ語族を見られたい。因みに、「カシューナッツ」(cashew nut)の木(ムクロジ目ウルシ科カシューナットノキ属カシューナットノキ Anacardium occidentale )は南米ブラジル並びに西インド諸島が原産地とされているが、「カシューナッツ」の名の由来は、このブラジルのツピ族の言葉でそれを指す「アカジュ」が十六世紀にポルトガル人に伝わり、「カジュー」と訛ったのが元で、広く伝えられたものらしい。

「Hans Stade」綴りが違う。Hans Staden(一五二五年~一五七六年)が正しい。ドイツの航海士で探検家。ブラジルを踏査したが、そこで出会ったトゥピ族のある集団がカニバリズムをすると書いて、大ベストセラーとなった。この人肉食を嘘とする学者もいたが、現在は民俗的事実として支持されているようである。

ビツツアロ」Bizzarro。「ビッツァロ」はイタリア語で「奇抜な・風変わりな」という意であるから、綽名であろう。以下に示す原本を見ると、一八〇一年から一八一〇年頃に荒らしまわった山賊のようである。

「D. Hilton, ‘Brigandage in S. Italy,’ 1864, vol. i, pp. 171-2」正式書名は「Brigandage in South Italy」(南イタリアの山賊)で、作者は学者・新聞記者・大学学長にしてリンカーン政権下で大使を務めたウィラー・デヴイッド・ヒルトン(Wheeler David Hilton 一八二九年~一九〇二年)。本書はイタリア史に関する彼の著作でも最も知られた著作である。当該部は「Internet archive」の原本のここ。それを見ると、恨んだ母親(ビッツァロの部下の妻と子であるようだ)は眠っているビッツァロの頭を銃で撃ち、首を切断して、盗賊団を掃討していた司令官のもとに持って行き、報酬を得、三十五年後までミレット(Mileto)という町に幸福に暮らした、と記されてある。但し、ビッツァロのことは前の「168から、ずっと書かれてある。

「趙の始祖」戦国七雄の一つである趙(紀元前四〇三年~紀元前二二八年)の始祖は趙無恤(ぶじゅつ/むじゅつ ?~紀元前四二五年)。

「源義滿」室町幕府第三代将軍足利義満(正平一三/延文三(一三五八)年~応永一五(一四〇八)年/在職:正平二三(一三六八)年~応永元(一三九四)年十二月)のこと。

「風俗通」後漢末の応劭の撰した「風俗通義」の略称。さまざまな制度・習俗・伝説・民間信仰などについて述べたもの。但し、散佚しており、現行の纏まっている断片にはそれらしい記載が見あたらないから、熊楠が見たのは、何かに引用されたもののように思われる。

「碧山日錄」南方熊楠「本邦に於ける動物崇拜(追加発表「補遺」分)」に既出既注。

「世事百談」随筆家で雑学者の山崎美成(よししげ 寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年)の書いた考証随筆。天保一二(一八四一)成立で同十四年の板行。当該部は巻之二の以下。「日本古典籍ビューア」で原本当該部を視認して示す。句読点と記号を添えた。

   *

   ○児啼(じてい)を止(やむ)る諺 手々甲(ぜゝがかふ)

「籠耳(かごみゝ)」といふ册子に、小児(せうに)の啼(なき)を止るとき、「むくりこくりの鬼が來る」といふこと、後宇多院の弘安四年[やぶちゃん注:一二八一年。]、北條時宗が執權のとき、唐土(もろこし)元の世祖、たびたび日本をせめけることあり。元の國を蒙古國(もうここく)とも、いふなり。世祖よりこのかた大元(たいげん)と号せり。さるによつて、「むくりこくり」といふは、「蒙古國裏(もうここくり)」といふことの、いひあやまりなり。「鬼がくる」とは、この夷賊をいふなり。又、いとけなき子を威謙(おどしすかす)ときに、顏をしかめて、「元興寺(がごじ)」と、いふことあり。むかし、大和國元興寺(ぐわんこうじ)といふ寺に、鬼すみて、人をなやます、とて、世間、さはがしきこと、あり。「本朝文粹(ほんてうもんずゐ)」に見えたり。これよりして、「元興寺」とて、顏をしかめておどせば、小児、なきやむ、と、いへり。又、小児をすかしゆぶる[やぶちゃん注:「搖ぶる」。揺り動かす。]とき、「虎狼來(ころろん)々々々」と、いふこともあり。もろこしにては、「張遼來(ちやうれうらい)」といへば、小児、なきやむ、とあり。張遼といふもの、たけき兵(つはもの)にてありし、となり。又、日本にて、手をくみ、顏にあて、「手々甲(ぜゝががふ)」と、いふて、小児をおどすこともあり、といふこと、見えたり。「むくりこくり」のことは、「櫻陰腐談(あふいんふだん)」に見ゆ。「元興寺(がごじ)」のことは、「南畝莠言(なんぽいうげん)」[やぶちゃん注:現行では「なんぽしゅうげん」と読んでいるが、正しくは「なんぽゆうげん」が正しいので、歴史的仮名遣はこれでよい。]にありとおぼえたり。「手々甲」といふことは、今、土佐國にて、児女などの常の遊戲にすることとて、その國人(くにびと)祖父江氏(そぶえうぢ)の、過(すぎ)しころ、訪(とぶら)ひ來(きた)られしをりの物がたりに、『その戲れは、左右の手を組合(くみあは)せて、手の甲(かふ)を、たがひに、うち鳴らしながら、となへて、その詞(ことば)の終るところに、あたれるものを、「鬼」と、さだむる』よし。その唱へ詞、

  むかいの河原で土噐(かはらけ)やけば、

  五皿(いつさら)六(む)皿七(なゝ)皿八(や)皿、

  八皿めにおくれて、づでんどつさり、

  それこそ鬼よ、これこそ鬼よ、

  蓑きて、笠きて、くるものが鬼よ。

   *

「張遼」(一六五年或いは一六九年~二二二年)は後漢末から三国時代の武将。後漢末の動乱期に丁原・董卓・呂布に仕えた後、曹操の配下となり、軍指揮官として活躍した。

「合淝の戰」「合肥の戰ひ」でよい。地名の読みは「ごうひ」或いは「がつぴ(がっぴ)」。曹操領の南方の要衝の合肥を巡って、魏と呉の間で行われた戦いで、後に三国時代を通じて、この方面では攻防が続けられたが(二〇八年から二五三年まで実に四十五年も間歇的に続いた)、ついにこの戦線の決着がつくことはなかった。孫権が劉備に荊州の一部を返還する代わりに曹操を攻めるという依頼から始まったもので、二一五年に起こった戦いが最も知られ、十万人の孫権軍が僅か七千の曹操軍に大敗を喫した。その時、活躍したのが、この張遼である。詳しくはウィキの「張遼」の「合肥戦線」がよい。

「麻胡」後注「事物紀原」参照。

ラミア」(ラテン文字転写:Lamiā)はギリシア神話に登場する古代リビュアの女性で、ゼウスと通じたため、ヘーラーによって子供を失い、その苦悩のあまり、他人の子を殺す女怪と化した。眼球を取り出すことが出来るが、これはヘーラーに眠りを奪われた彼女にゼウスが憐れんで与えた能力ともされる。「ラミア」は、ここに出る通り、古くから、子供が恐怖する名として、躾けの場で用いられた(ウィキの「ラミアーに拠る)。

「Bent, p. 98」イギリスの探検家・考古学者・作家ジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。「Internet archive」のこちらの左ページから。ラミアは「Lamiæ」「Lamia」と出、水の女怪サイレン(Sirens)の仲間のように記されてある。

「事物紀原」宋の高丞の撰になる類書(百科事典)。原本は二十巻二百十七事項であるが、現存本は十巻千七百六十五事項。成立年は未詳。事物を天文・地理・生物・風俗など五十五部門に分類し、名称や縁起の由来を古書に求めて記したもの。巻十「麻胡」に、

   *

朝野僉載曰後趙石勒將麻胡性虎險鴆毒有兒啼每輒恐之麻胡來啼聲絕本草拾遺曰煬帝將幸江都命麻胡濬汴河以木鵝試波深淺止皆死每兒啼言麻胡來卽止人畏若是演義曰今俗以麻胡恐小兒俗傳麻胡祜爲隋煬帝將軍開汴河甚毒虐人多懼之胡祜聲相近以此呼之耳誤矣會稽錄云會稽有鬼號麻胡好食小兒腦遂以恐小兒若麻祜可以恐成人豈獨小兒也

   *

とある。熊楠は最後と前の方を合成して作文していることが判る。熊楠のそれは、勝手な合成なれば、それを気持ちよく手前勝手に訓読しておく。

   *

會稽に鬼有り、「麻胡」と號し、好んで、小兒の腦を食ふ。遂に以つて小兒の啼く在れば、則ち、「麻胡(まこ)、來たれり」と謂ひて之を恐(こはが)らすに、乃(すなは)ち、啼き聲、絕ゆ。

   *

後注で示すが、これは胡人であった残酷な武将麻秋(ましゅう)のことである。

「麻胡來」は現代中国語で音写すると、「マァーフゥーラァィ」である。

「空華日工集」(くうげにっくしゅう:現代仮名遣)本邦の南北朝時代の禅僧で詩人としても知られた義堂周信(ぎどうしゅうしん)の日記。正しくは「空華日用工夫略集」或いは「空華老師日用工夫集」と呼ぶ全十巻。正中二(一三二五)年の誕生から元中五/嘉慶二 (一三八八)年の晩年にいたるまでを、日記形式で要点を抄出したもの。その生涯を知るに便利なばかりでなく、当時の禅宗の様相及び将軍足利義満の行状や、室町幕府の政治を知る上で有益にして貴重な史料である。同書巻一の応安二(北朝の元号で、南朝は正平二十四年でユリウス暦一三六九年)年追抄(月不詳)に、

   *

才侍者問麻龝、引廣記答之、後趙石勒將麻龝者、太原胡人也、植性虓險鴆毒、有兒啼、母輙恐之曰麻胡來、啼聲絕、至今以爲故事。

   *

とある。「廣記」は「太平廣記」。北宋時代に成立した類書の一つで、太宗の勅命を奉じて李昉(りぼう)ら十二名が、九七七年から翌年にかけて編纂したもの。全五百巻・目録十巻。その二百六十七巻「酷暴一」の冒頭に出る「麻秋」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した。句読点を打った。

   *

     麻秋

後趙石勒將麻秋者、太原胡人也。植性虓險鴆毒。有兒啼、母輒恐之麻胡來、啼聲絕。至今以爲故事。出「朝野僉載」。

   *

麻秋(?~三五〇年)は五胡十六国時代の後趙の武将で太原出身の胡人。のウィキに経歴が詳しいが、その後に、『麻秋は凶悪で残酷な性格であり、しばしば毒酒を以て人を害していた。築城の為に百姓に労役をさせていた時は、昼夜関係なく休み無しで働かせ続け、ただ鶏が鳴いた時(夜明け時)にのみわずかな休息を取らせていたという。この為、周囲からも大いに恐れられ、泣く子に対して母が「麻胡が来る」と言うと、子は泣き止む程であったという』また、「列仙全伝」に『よると、彼の娘は麻姑という名であり、仙人であったとされている。父が百姓に過酷な労役を課す事に心を痛め、複数の鶏を代わる代わる鳴かせる事で休息の時間を伸ばしていた。後にこの事が麻秋に発覚し、麻秋より暴行を受けそうになったので、逃走を図ってそのまま入仙したという』とある。さても、熊楠は「石勒の將、太原の胡人麻姓のもの」と、この「秋」を「姓」と誤判読していることが判る。

「元興寺」これで「がごじ」の他「がごぜ」「ぐわごぜ」「がんごう」「がんご」とも読み、「元興寺(がんごうじ)の鬼(おに)」の意。飛鳥時代に奈良の元興寺(グーグル・マップ・データ)に現れたとされる妖怪。ウィキの「元興寺(妖怪)によれば、平安時代の「日本霊異記」(私の愛読書の一つ)の「雷の憙(むかしび)[やぶちゃん注:好意。]を得て生ましめし子の强き力在る緣(えに)」(以下にシノプシスが語られる)や、「本朝文粋(ほんちょうもんずい)」などの文献に話がみられ、『鳥山石燕の「画図百鬼夜行」などの古典の妖怪画では、僧の姿をした鬼の姿で描かれている』。『敏達天皇の頃』、『尾張国阿育知郡片輪里(現・愛知県名古屋市中区古渡町付近)のある農夫が落雷に遭う。落雷と共に落ちてきた雷神はたちまち子供の姿に変化した。農夫が杖で殺そうとすると雷神は命乞いをし、助けてくれれば恩返しとして、雷神のように力強い子供を授けると言った。農夫は雷神の求めに応じて楠の船を作ると、雷神は農夫の見守る中それに乗って空中を昇り、雲や雷とともに空へ帰って行った』。『やがて農夫の妻が、雷神の申し子とでも言うべき子供を産んだ。それは頭には蛇が巻きつき、頭と尾を後頭部に垂らしているという異様な姿だった。雷神の言う通り』、『生まれついて怪力を持ち』、『歳の頃には力自慢で有名な皇族の王(おおきみ)の』一『人と力比べで勝つほどだった』。『後にこの子供は元興寺の童子となった。折りしも元興寺の鐘楼の童子たちが毎晩のように変死する事件が続き、鬼に殺されたものと噂が立っていた。童子は自分が鬼を捕まえて見せると言い、鬼退治をかって出た。あらかじめ鐘堂の四隅に灯を置いて蓋をしておき、自分が鬼を捕まえたら四人の童子たちに蓋を開けさせて鬼の姿を実見しようということになった。ある夜に鐘楼で待ち構え、未明の頃に鬼が現れるや、その髪の毛を捕えて引きずり回した。四人の童子たちは仰天して蓋を開けずに逃げてしまった。夜が明けた頃には鬼はすっかり頭髪を引き剥がされて逃げ去った。血痕を辿って行くと、かつて元興寺で働いていた無頼な下男の墓まで続いていた。この下男の死霊が霊鬼となって現れたのであった。この霊鬼の頭髪は元興寺の宝物となった。この童子は後にも怪力で活躍をした末に得度出家し、道場法師』(どうじょうほうし)『となったという』。『山折哲雄は、日本古来の神(カミ)の観念の本質を論じる文脈の中で、この説話の背景となる世界観に注目している。すなわち、前半の落雷が「小子」に変身して直ちに昇天してしまう点、後半の「霊鬼」が夜のみ登場し』、『灯に寄せなければ』、『その実体を確かめられない点を挙げ、ともに神霊の正体というものが本来そなえている秘匿性(隠れ身)をよく示すものであると指摘している』。『江戸時代の古書によれば、お化けを意味する児童語のガゴゼやガゴジは』、『この元興寺が由来とされ、実際にガゴゼ、ガゴジ、ガンゴジなど、妖怪の総称を意味する児童語が日本各地に分布している。しかし』、『民俗学者・柳田國男はこの説を否定し、化け物が「咬もうぞ」と言いながら』、『現れることが起因するとの説を唱えている』とある。

「若し元興寺の鬼を呼來て、他の兒に害ある鬼を嚇すと言ば、直ちに其元興寺の鬼を平げたる道場法師の名を呼で、强弱の諸鬼を合せて之を驅るの手段を、何故其時代の父母が氣付かざりしにや」少し意味がとりにくくなっているが、――もしも「元興寺(がごじ)の鬼」を呼んできて、他の児童にも害のある鬼を以って諌め「嚇」(おど)すと言うのならば、どうして、手っ取り早く、「直ちに」、「元興寺の鬼」を平らげた、かの怪力無双のゴースト・バスター「道場法師」の名を呼んで、ありとある「强弱の諸鬼を」も「合せて」これらを総て駆逐するという最も有効な児童の保護「手段を、何故」、その「時代の父母が氣付か」なかったのだろう? と、私(熊楠)は思うのである――というのである。

「群書類從卷六十九道場法師傳」国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここ。次の頁で終了している短いものである。日本漢文であるが、字も明瞭で、頗る読み易い。

『嬰兒をあやして「レロレロ」と云ふ』あなたもやるでしょう? 幼児をあやすに際して、舌で上顎を弾いて出す音や、そのさまを表わす語。「れろれろばあ」などとも言う。

「Tongue-Twister(舌捩り[やぶちゃん注:「したもじり」。])」若干、違和感を持つ人がいるやも知れぬ。「Tongue Twister」というのは「早口言葉」のことで(「Twister」は、日本のツイスト・ドーナツのイメージのように「捩じれる」という意がある)、「舌捩(したもじ)り」というのも、言葉遊びの一つで、発音しにくい言葉を続けて普通に或いは早く言わせる、やはり早口言葉のことを指す。「れろれろ」はしかし、確かに早く言葉を喋らせようとする、最も始原的なものであり、早口言葉との親和性はあるのである。因みに、私は、子どもが――最初に覚える身体表現としての言語的行為は――「さよなら」を意味する手を開いて振るところの「ばいばい」である――と考えている。そうだ……人間は誰もが……「愛してる」でも「好きよ」でもなく、宿命的に「さよなら」を最初に教え込まれるのである…………

『「レロレロ」と遼來と稍や音近き』張「遼」が「來」るで、「遼來」(リョウライ)、歴史的仮名遣だと「レウライ」、現代中国語音写だと「リィアォ・ラァィ」である。]

2021/01/15

奥州ばなし 狐つかひ

 

     狐つかひ

 

 淸安寺といふ寺の和尙は、「狐つかひ」にて有しとぞ。

 橋本正左衞門、ふと出會《であひ》てより、懇意と成《なり》て、をりをり、夜ばなしにゆきしに、ある夜(よ)、五、六人より合《あひ》て、はなしゐたりしに、和尙の曰、

「御慰に、芝居を御目にかくベし。」

と云しが、たちまち、芝居座敷の躰《てい》とかはり、道具だての仕かけ、なりものゝ拍子、色々の高名の役者どものいでゝはたらくてい、正身《しやうしん》のかぶきに、いさゝかたがふこと、なし。

 客は思《おもひ》よらず、おもしろきこと、かぎりなく、居合《ゐあはせ》し人々、大に感じたりき。

 正左衞門は、例のふしぎを好《すく/このむ》心から、分《わき》て悅《よろこび》、それより又、

『習《ならひ》たし。』

と思《おもふ》心おこりて、しきりに行《ゆき》とぶらひしを、和尙、其内心をさとりて、

「そなたには、飯綱(いづな)の法、習たしと思はるゝや。さあらば、先《まづ》試《こころみ》に、三度《みたび》、ためし申べし。明晚より、三夜つゞけて、來られよ。これをこらへつゞくるならば、傳授せん。」

と、ほつ言《げん》[やぶちゃん注:「發言」。]せしを、正左衞門、とび立《たつ》ばかり悅て、一禮のべ、

「いかなることにても、たへしのぎて、その飯綱の法ならはゞや。」

と、いさみくて、翌日、暮るゝをまちて、行ければ、先、一間にこめて、壱人《ひとり》置《おき》、和尙、出むかひて、

「この三度のせめの内、たへがたく思はれなば、いつにても、聲をあげて、ゆるしをこはれよ。」

と云て、入《いり》たり。

 ほどなく、つらつらと、鼠の、いくらともなく出來《いでき》て、ひざに上り、袖に入、襟(ゑり)をわたりなどするは、いと、うるさく、迷惑なれど、

『誠のものにはあらじ。よし、くはれても、疵(きづ[やぶちゃん注:ママ。])はつくまじ。』

と、心をすゑて、こらへしほどに、やゝしばらくせめて、いづくともなく、皆、なくなりたれば、和尙、出《いで》て、

「いや。御氣丈なることなり。」

と挨拶して、

「明晚、來られよ。」

とて、かへしやりしとぞ。

 あくる晚もゆきしに、前夜の如く、壱人、居《をる》と、此度《こたび》は、蛇のせめなり。

 大小の蛇、いくらともなく、はひ出《いで》て、袖に入、襟にまとひ、わるくさきこと[やぶちゃん注:「惡臭きこと」。腥いのである。]、たへがたかりしを、

『是も、にせ物。』

と、おもふばかりに、こらへとほして有しとぞ。

「いざ、明晚をだに過しなば、傳授を得ん。」

と、心悅て、翌晚、行しに、壱人、有て、待ども、待ども、何も出《いで》こず。

 やゝ退屈におもふをりしも、こはいかに、はやく別《わかれ》し實母の、末期《まつご》に着たりし衣類のまゝ、眼《まなこ》、引《ひき》つけ[やぶちゃん注:釣り上がり。]、小鼻、おち、口びる、かわきちゞみ[やぶちゃん注:「乾き縮み」。ミイラ化している雰囲気である。]、齒、出《いで》て、よわりはてたる顏色《がんしよく》、容貌、髮の、みだれ、そゝけたる[やぶちゃん注:解(ほつ)れて乱れている。]まで、落命の時分、身にしみて、今もわすれがたきに、少しも、たがはぬさまして、

「ふはふは」

と、あゆみ出《いで》、たゞ、むかひて座したるは、鼠・蛇に百倍して、心中のうれひ悲しみ、たとへがたく、すでに詞《ことば》をかけんとするてい、身に、しみじみと、心わるく、こらへかねて、

「眞平御免被ㇾ下べし。」[やぶちゃん注:「まつぴらごめんくださるべし」。]

と、聲を上《あげ》しかば、母と見えしは、和尙にて、笑《ゑみ》、座して有しとぞ。

 正左衞門、面目(めんぼく)なさに、それより後、二度、ゆかざりしとぞ。

 

[やぶちゃん注:実は、本作は既に一度、「柴田宵曲 妖異博物館 飯綱の法」の注で、電子化してある。但し、今回はそれを元とせず、零からやり直した。なお、これは恐らく正左衛門の作話で(実録奇譚である本書の性質から、私は真葛の創作とは全く思わない)、その元は、かの唐代伝奇の名作、中唐の文人李復言の撰になる「杜子春傳」であろう。リンク先は私の作成した原文で、「杜子春傳」やぶちゃん版訓読「杜子春傳」やぶちゃん版語註「杜子春傳」やぶちゃん訳、及び、私の芥川龍之介「杜子春」へのリンクも完備させてある。但し、柴田はそれ以外に、『「宇治拾遺物語」にある瀧口道則が、信濃の郡司から異術を習ふ話に似てゐる』とも記す。その「瀧口道則習術事」(瀧口道則(たきぐちのみちのり)、術を習ふ事)も「柴田宵曲 妖異博物館 飯綱の法」の注で電子化しておいたので、比較されたい。実際には、私の電子テクストには、この「飯綱の法」に纏わる怪奇談や民俗学上の言及が十件以上ある。「宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 始めて聞く飯綱の法」や、「老媼茶話卷之六 飯綱(イヅナ)の法」も読まれたい。

「淸安寺」不詳。この話、ロケーションが記されていないので判らない。本「奥州ばなし」は概ね仙台及び奥州を舞台とするものの、江戸と関わる話柄もあるからである。敢えて、陸奥の比較的、仙台に近いところ(と言っても、仙台からは直線でも九十キロメートル以上ある)を調べると、山形県西置賜郡小国町白子沢にある曹洞宗清安寺(「曹洞禅ナビ」のこちらを参照されたい)はあるが、ここかどうかは不明である。青森県弘前にも曹洞宗の同名の寺がある。私が禅宗に拘ったのは、「和尙」を「おしやう(おしょう)」という呼称とするならば、狭義には臨済宗や曹洞宗などの禅宗系或いは浄土宗系で用いられるからである。

「狐つかひ」後の「飯綱(いづな)」使いに同じい。

「橋本正左衞門」先の秘術をテーマとした「めいしん」にも主人公として登場し、そこで真葛は『正左衞門は、近親の内、伊賀三弟《さんてい》に八弥《はちや》と云《いふ》人、養子にせしかば、正左衞門の傳は八弥が語《かたり》しなり』と割注している通り、この手の妖術が大好きだったこと、真葛の怪奇譚蒐集の有力な間接的情報屋であったことが判然とする。

「飯綱(いづな)の法」先の幾つかの怪奇談のリンク先で注してあるので、そちら参照されたいが、簡単に言っておくと、管狐(くだぎつね。或いは「イヅナ」「エヅナ」とも呼んだ)と呼ばれる霊的小動物(狐とあるが、狐様の場合もあれば、全く形容し難いニョロニョロ系の身体の場合もある)を使役して、託宣・占い・呪(のろ)いなど、さまざまな法術を行った民間の呪術者である「飯綱使い」の法術で、「飯綱使い」の多くは修験系の男であるケースが殆んどで、江戸時代の実話で、れっきとした僧侶が駆使するというケースは、比較的、レアと言えよう。]

2021/01/14

怪談登志男 六、怨㚑亡經力

 

怪談登志男卷第二

 

   六、怨㚑(おんりやう)經力(きやうりきにほろぶ)

 藝州嚴島は扶桑第一の勝景、繁榮豐饒(ぶにやう)の所なり。此あたりに大坂町といへる所あり。攝津國難波(なんば)の商人、常に往返(おふへん)して、甚、賑はへり。

 此町に田澤屋とて、大舩(たいせん)、あまた貯置(たくはへおき)、運送自由をなすが故に、家、大に冨(とめ)るものあり。

 永祿年中、當國の座頭一人、上京のねがい、多年の功勞を積(つみ)、官金數百兩、肌に付、此湊にて田澤屋が船に乘り、海上一里も出しとおもふ頃、俄(にはか)に騷(さはぎ)立、聲を上て、

「こは悲しや、某が携へ持たる革財布(かはさいふ)、湊を出し時、首にかけ候ひしが、只今、舳(とも)に立出、小用致し候節、少の間(ま)、側(そは)に置候が、今、能々、尋れども、何方へ參りつらん、これ、なく候。あはれ、御慈悲に、各、御立合、盲人が金子の事、出世のため、幾年か丹誠を盡して用意いたしたるなり。御吟味なされ下さるべし。」

と、歎き悲しむ事、大かたならず。

 乘合(のりあひ)の人々、一同に、

「是は、氣のどく千萬。面面、幾度か此海路(かいろ)を商買(しやうばい)[やぶちゃん注:原本も漢字はママ。]のため、往(ゆき)通ふが、いまだ、かゝる事こそあらね、舩中のもの、獨り獨り、身ばれなれば、裸になり、穿鑿いたし侍らん。」

と、片端より、帶を解(とき)て改けれども、もとより掠(かす)めぬ金なれば、出べき樣もなかりしが、

「舷(ふなばた)に、何やらん、海に下(さが)りし緖(お)の見へしが、若(もし)も、それか。」

と立さはぐ。

 座頭、うれしく、舳(とも)に出、舷を探り見るを、水主(かこ)壱人、聲をはげまし、荒らかに、

「此盲人(めくら)は、危(あやふ)き所をはしり𢌞り、もし、海へ落入て、人を恨みたまふなよ。見へざる金が今と成、此船中に有べきか。もし、舩頭を疑ひての事か。左(さ)もあれば、吟味の上、金の有(あり)か、しれざるにきはまりし時、いかゞすまさるゝや。此舩に惡名(あくみやう)を付らるゝからは、覺悟、あるべし。」

と、したたかに叱(しかり)けれども、元來(もとより)、途方にくれける故、耳にもさらに聞入ず、小緣(こべり)を傳ひ出で、碇綱(いかりづな)の中程より、浪に浸りて垂りしを、

「手繰寄(たぐりよせ)ん。」

と屈(かゞ)む所を、舩頭は、とりとゞめんとせしが、誤りて落入たると見へ、海へ、

「ざんぶ」

と飛(とび)入しに、此音とともに、座頭も、おなじく、海へ落ぬ。

 舩中、周章(あわて)て、聲を上、

「誰(たそ)、助けよ。」

と立騷ぐ。

 船頭は、波にゆられながら、座頭をとらへ、たすくるやうに見ヘしが、浮(うき)ぬ、沈みぬ、見え隱れて、二人ともに、底(そこ)の水屑(みくず)と成にけり。

 船中、一同にさはぎ立、

「財布の見へざるのみならず、座頭も入水(じゆすい)したりける事の便(びん)なさよ。水主もまた、人を助けんとて、思ひよらざるあさましき死を遂(とげ)し。」

と語り合て、心ある人は經をよみ、念佛して、吊(とふら)ひける。

 此後、程經て、件(くだん)の船頭は、室(むろ)津より上りて、辛き命を助かりし、と沙汰するものもありけるが、座頭が噂は絕(たへ)て、なく、金の穿鑿する人もあらず。

 茲に田澤屋が子傳三郞は、生年、廿八歲になりしが、極て好色の者にて、あけくれ、花街柳巷(けいせいまち)にあそび、「御舩(みふね)」といヘる遊女を、そこばくの金にて請出し、蜜[やぶちゃん注:原本のママ。「ひそかに」。]にかくし置て、愛しける。

 傅三郞が親は、洞春(とうしゆん)とて、禪門なりしが、隱居住(すま)ゐの、もの閑(しづか)なるに、四季折々の草花を植(うへ)て、樂しみとし、今朝も、夙(つと)めて、庭に立出、菊の、きせわたする所へ、座頭一人、飛石を傳ひ來るを、洞春、見とがめ、

「いづ方より、まよひ入しぞ。路地を出て、裏道より、小路をつたふて、出られよ。」

と敎へければ、座頭、うちゑみて、

「それがしは、此廣島の迫(せ)戶に沈みて、見るめは得たれど、藻に住(すむ)蟲の和禮都(われいち)と申もの、我身を碎(くた)き、骨を拉思ひにて貯へたる官金三百兩、革の財布に携へ持、御身の舟に乘し時、嘉兵衞といふ兎唇(とくち)の水主が盜隱(むすみかく)して、我を海中へ落し入、たすくる風情に人には見せ、うづまく淵へ、我を沈め、其身は水底(みなそこ)を潛りて、陸路に上り、室津(むろつ)まで流(ながれ)て、からき命、たすかりしと僞り、此金を傳三郞にあたへ、己(おのれ)も配分せし事、もとより其方が子の、傳三が所爲なり。此恨(うらみ)、いづれの世にか、散ずべき。田澤が家を絕(たや)し盡(つく)し、盡未來際苦(ちんみらいさいく)を見すべし。いかなる佛事供養をも、かならず、かならず、なすべからず。詮なかるベし。」

と、いふかとおもへば、庭の淺茅(あさぢ)の露と消て、跡かたも、なし。

 洞春、茫然として、夢のさめたるごとく、おそろしさ、いはんかたなし。

 いそぎ、傳三を一間に呼寄(よびよ)せ、此事の始終を穿鑿しけれぱ、今は、つゝむ事を得ず、赤面して立去る。

「座頭が恨みはとも斯(かく)もあれ、此惡事、露顯しては、公(おゝやけ)の御咎(いさめ)、まぬがれがたし。」

と、嘉兵衞をともなひ、宮嶋領(りやう)の田舍に行、幽(かすか)に、かくれぬ。

 かくて後、洞春をはじめ、一家九人、七日が間に、死(し)しぬ。

 傳三・御(み)船・嘉兵衞、三人、一時に、兩眼、つぶれて、あまつさへ、狂亂し、

「座頭を殺し、金を盜し者は、我々なり。」

と、口ばしり、觸𢌞り、麻が原といふ所の草むらに、かばねを晒し、うせにけり。

 是より、田澤が家、荒果(あれはて)、「化もの屋敷」と名に立て[やぶちゃん注:「たちて」。]、住(すむ)人、さらになかりしに、豐前の小倉より、日蓮宗の行脚の沙門、來りて、ありし次第を聞、あはれなる事におもひ、座頭が爲、田澤屋一家が爲、此「ばけ物屋敷」に住(しう)して、日夜、法華、讀誦しければ、亡魂、得脫(とくたつ)せしにや、其後、かの荒(あれ)屋を修理(しゆり)して、人も住居しけるに、いさゝかの怪(あやしみ)もなかりし、と、濟家(さいけ)の沙門昂含(かうかん)といへるが、信州佐久郡(さくこおり)觀音寺に來りて、つぶさに語りしを、しるしとゞめしも、今は、むかしと、なりぬ。

 

[やぶちゃん注:座頭の死、及び、洞春をその亡霊が訪ねるシークエンスまでは、まことにリアリズムに富み、よく書けている。しかし、コーダが早回しの急ぎ足で、完全に失敗している。今までの本書の話柄の中では、格段にレベルの落ちるもので、不審極まりない。筆者が投げたとしか思われない。

「大坂町」不詳。

「永祿」一五五八年から一五七〇年まで。もう、戦国時代初期。

「座頭一人、上京のねがい、多年の功勞を積(つみ)、官金數百兩」「官金」これはもう、江戸時代のことを引き戻した設定で、盲人が検校などの官位を手に入れるため、江戸幕府に納めた金を指す。

「舳(とも)」船尾。船首でも「舳」と書くが、ここは小便をしていることから、それでとるべきである。

「身ばれなれば」「身晴れなれば」で確定条件。「(皆、盗みなどしようがない。されば)身は何方も潔白であるのであるから」の謂いでとる。

「掠(かす)めぬ金なれば」誰も盗んでなどいない金であるから。

「舷(ふなばた)」広義の船の側面。

「小緣(こべり)」船(一般には小舟)の前に注した舷(ふなばた)の上縁に保護材として張った板。

「室(むろ)津」厳島の直線で南西約五十キロメートルにある室津半島(グーグル・マップ・データ)。

「菊の、きせわたする」「きせわた」は「着せ綿」。旧暦九月九日の「重陽の節句」に於いて、古く平安時代には前日の九月八日に菊の花を真綿で覆っておき、それに菊の香を移しえ、その翌日の朝、露に湿ったこの真綿を顔に当て、若さと健康を保とうとする行事があり、それを「菊の着せ綿」と称した。ここは、それを指すので、この部分で時期設定が示されていることになる。

「迫(せ)戶」「瀨戶(せと)」。

「見るめは得たれど」平知盛の壇の浦の台詞「見るべきものほどのことは見つ」を下敷きにしていると思われる。生きてゆく中で体験せねばならぬおぞましきことは総て見た、と、まず、言い、「見る目」の一方の意である「物事の真偽・優劣を見分ける力・眼力」を得て、誰が私の金を奪い、殺したかを私は知っていることを暗示させている。さらに無論、海の藻屑となって緑藻類の海藻「みるめ」「みる」「海松」「水松」(緑藻植物門アオサ藻綱ミル目ミル科ミル属ミル Codium fragile )となる身に堕ちたことを掛けた。

「藻に住(すむ)蟲の和禮都(われいち)と申もの」「みるめ」から「藻」が縁語となり、そこから「藻に住む蟲」となれば、それから「われから」(甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目 Senticaudata 亜目 Caprelidira 小目 Caprelloidea 上科の小型甲殻類のワレカラ類)がやはり縁語で引き出されるという仕儀となっている。だから、この座頭の通称名であるところの「和禮都(われいち)」をここで突然出したのは、「われから」に掛けた名として示された臭い言葉遊びなのである。かのちっぽけなみすぼらしい、海藻についてミイラになって、ぱらぱらと壊れ去る甲殻類の「われから」なればこそ、以下、「我身を碎(くた)き、骨を拉」(「ひしぐ」。「折る」ような)「思ひにて貯へたる官金三百兩……」と繋げて空しく腑には落ちるのである。但し、ちょっと粉飾し過ぎの感があって、私は座頭の怨霊の登場には、やや五月蠅い感じがなくもないように思う。しかも、この辺りから後が、まさに、ワレカラが微塵となるように、作品として、がっくり、だめになるのとまさに呼応しているからでもある。作者は、文章の飾りの調子に乗り過ぎた結果、本来の主題の展開のリアリズムをおそろかにしてしまったのである。

「兎唇(とくち)」口蓋裂。通常は鼻の直下で上唇が分離している先天性異常のこと。

「盡未來際苦(ちんみらいさいく)」「盡未來際」は「じんみらいざい(さい)」で、仏教用語。「未来の果てに至るまで」「未来永劫」の意で、普通は誓願を立てる場合などに用いるのだが、それに永遠の「苦」痛を添えて、未来永劫に続く呪詛の証として転じたものである。

「淺茅(あさぢ)」疎(まば)らに生えた丈の低い茅(ちがや)。荒涼とした風景を表わす語であるが、ここは洞春の綺麗な園中なれば、彼の心象風景ととるべきであろう。

「麻が原」不詳。

「濟家(さいけ)」臨済宗。

「昂含(かうかん)」不詳。

「信州佐久郡(さくこおり)觀音寺」不詳。長野県佐久市大沢の曹洞宗龍泉院内に観音寺という寺がある記載があるが、ここで言っているのがその寺かどうかは判らぬ。この近くにはっ独立した「観音堂」があり、佐久郡に拘らなければ、観音寺は外にもある。例えば、旧佐久郡に近い観音寺(グーグル・マップ・データ)は長野県小県(ちいさがた)郡長和町にあるが(真言宗)、ここは佐久郡であったことはない。]

南方熊楠 小兒と魔除 (5)

 

[やぶちゃん注:以下冒頭のページ数は出口米吉の論文(前のリンクは私の電子化)の以下の当該譚の初出ページ(PDFの「7」コマ目上段)を指す。そこで出口は「鬼車鳥」のことを、民間の国学者で狂歌師・随筆作者であった梅園静廬(うめぞのせいろ 明和二(一七六五)年~嘉永元 (一八四八) 年:和漢の書を読破してその博識を謳われた)の「梅園日記」から引いている。「日本古典籍ビューア」のこちらの「七草」に「鬼車鳥」が語られてある。以下に電子化しておく。句読点や記号を打ち、漢文部は訓読し、推定で一部の読みや送り仮名を添えた。

   *

   七草 十五

「世說故事苑」に七草を搥(う)つ事、「事文類聚」に歲時記を引きて曰はく、『正月七日、鬼車鳥(きしやてう)の度(わた)ること多し、家〻、門を搥ち、戸を打ち、燈燭を滅(け)し、之れを禳(はら)ふ。和俗、七種の菜を打つ唱(となへ)に、「唐土(もろこし)の鳥、日本の鳥、渡らぬさきに」と云へるは、此の鬼車鳥を忌む意なり。板を打ち鳴(なら)すは、鬼車鳥、止(と)まらざるやうに禳(はら)ふなり』といへり。按ずるに、此の說、是(ぜ)なり。「桐火桶」【定家卿の作と稱す】に、『正月七日、七草をたゝくに、七づゝ、七度、四十九、たゝく也。七草は七星なり。四十九たゝくは、七曜、・九曜・廿八宿・五星合せて、四十九の星をまつる也。唐土の鳥と日本の鳥と、わたらぬさきに、七草なづな、手につみいれて、亢觜斗張(こうしとちやう)』とあり。「亢觜斗張」は、廿八宿の中の星の名なり。【また、「旅宿問答」に、『七日の七草は、天に在る七星、地に在る七草』とあり。】星の名を書きて、鬼車鳥の類の夭鳥(うてう)[やぶちゃん注:妖鳥。]を逐(おふ)事は、「周禮」の「秋官」に、『蔟(てきぞく)氏、夭鳥の巢を覆ひ掌(も)ちて、方(かた)を以つて【注に「方は版なり」と。】十日の號・十有二辰の號・十有二月の號、十有二歲之號・二十有八星の號を書き、【注に「角より軫に至る」と。[やぶちゃん注:星座の位置情報を指す。]】其の巢の上に縣(かか)れば、則ち、之れ、去れり』と云へり。夭鳥は鬼車の類ひなり。元の陳友仁が序ある無名氏の「周禮集說」に、『劉氏曰はく、「夭鳥は陰陽の邪氣の生ずる所、故に、妖怪、人間をして不祥(ふしやう)せんと欲し、夜、則ち、飛騰(ひふつ)し、至る所、害を爲す。鬼車の類のごとき、皆、是れなり」』【「書錄解題」に、『「周禮中義」八卷、祠部員外郞長樂劉彝執中撰』とあり。劉氏は、これにや。】と見えたり。三善爲康の「掌中歷」に、永久三年【「三年」の二字、「拾芥抄」に據りて補ふ。】七月の比、都鄙に鵼(ぬえ)ありしに、十日・十二辰・十二月・十二歲・廿八星の號を、方(いた)に書きて、懸けたる事、見えたれば、こゝにも「周禮」の說、行れたるを知るべし。後世の書にも、「淸異錄」に、『梟は見聞く者、必ず殃禍(わざはひ)に罹(かゝ)る。急に梟に向ひ、連(つゞけ)て唾(つばきす)る、十三口。然る後、靜坐し、北斗を存(そん)すること、一時許り、禳ふべし。また、「埤雅」の「釋鳥」に、『傳へ曰ふ、「梟、星の名を避く」』と。これ亦、星の惡鳥を禳ふ事を知るべし。彼の鳥、夜中、飛行すといへる故に、六日の夜より、七日の朝まで、七草を打つなり。「七草雙紙」に、『七草を柳の木の盤に載せて、玉椿の枝にて、六日の酉の時に芹をうち、戌の時に薺(なづな)、亥の時にごげう、子の時にたびらこ、丑の時に佛の座、寅の時に鈴菜、卯の時にすヾしろをうちて、辰の時に七草を合せて、東の方より、岩井の水をむすびあげて、「若水」と名づけ、此水にて、はゝが鳥[やぶちゃん注:「はくが鳥」かも知れぬ。孰れにせよ不詳だが、流れからは、鬼車鳥を指している。鬼車鳥は姑獲鳥(うぶめ)の別名とされることも多く、さすれば「うぶめ」は「産女」と書き、これは「母が鳥」と親和性があると言えるように思う。]のわたらぬさきに、服するならば、一時に十年づヽの齡(よはひ)をへかへり[やぶちゃん注:「經返り」で、時間が戻る・若返ることであろう。]、七時には七十年のとしを忽(にはか)に若くなりて』云々、此の「はゝが鳥」の事は、いふにもたらぬ作りごとなれど、今も、六日の酉の時よりたゝく也。【亦、根芹の謠(うた)にも云へり】「桐火桶」に、『七度たヽく』とある、證とすべし。

   *]

 

(一四一頁)(鬼車、小兒を害する事)酉陽雜爼十六に云、鬼車鳥、相傳此鳥昔有十首、能收人魂、一首爲犬所噬、秦中天陰有時聲、聲如力車鳴、或言是水鷄過也、水鷄[やぶちゃん注:「すいけい」。何故、「くひな」と読まないかは、後注を参照されたい。]は Vanellus cristatus Mey. et Woif. (Möllendorff, “The Vertebrata of the Province of Chichi,” The Journal of the North China Branch of the Royal Asiaic Society, New Series ⅩⅠ, Shanghai,1877, p. 97)其鳴聲怪きより斯る訛語を生ぜしこと、吾邦の鵺[やぶちゃん注:「ぬえ」。]。の如きにや、錫蘭[やぶちゃん注:「セイロン」。]にも似たる話有るは Knox,‘An Historical Relation of the Island of Ceylon,’ 1681, p. 78 に、島の高地部に魔鳴く事有り、低地には無し、其聲、犬の鋭く吠るが如く、忽ち一方にあると思へば、忽ち他方に聞ゆること常の鳥類に異なる、故に魔の所行たるを知る、此聲聞ゆるすぐ又後に、王人を刑死するを奇とす、犬之を聽ば戰慄す、シンガリー人之を聞く每に、惡言を放て罵れば、暫く止め遠く去るものゝ如しと云り、一三三〇年頃の書 Fr.Jordanus,‘Mirabilia descripta,’ trans.Yule, 1863, p. 37 にも、錫蘭にて夜屢ば魔人と語ると云り、ユール之を其地に只今所謂魔鳥に充て、褐色の梟なりと云れども、ミトフヲードは、魔鳥は夜鷹の一種、其聲童子が經せられて息絕ゆるまで苦吟する如く、悽愴極りて聞くに堪ずといひ、テンネントは、村近く之を聞ば不祥の兆とて、民之を惱むと云り、(Tennent, ‘Sketches of Natural History of Ceylon,’ 1861, pp.246-8)、而して古え錫蘭を虐治せし兄王キスツアカン、鬼車と同く十頭ありしと云は奇遇頗る妙也(James Low,in the Jouynal of the lndian Archipelago and Eastern Asia, vol.iv. p. 203, Singapore, 1850)、ミンチラ人が信ずるハンツ、サブロ(獵師鬼)は、湖及川の淵に棲み、體黑く、黑口と名たる三犬を隨ふ、此犬人家に近けば、住人は木片を打ち大噪ぎしてこれを驅り、小兒を緊く抱いて其去るを俟つ、マレー人が傳ふるソコム鬼、行くときは「ベリベリ」鳥先づ飛ぶ、此鳥、家に近くとき、家内聲限りに喧呼して之を厭す[やぶちゃん注:「まじなひす」。](Ibid.,vol.ⅴ, p. 308)、是れ鬼車と事は酷だ[やぶちゃん注:「はなはだ」。]相肖たり[やぶちゃん注:「にたり」。]、姑獲が事は、倭漢三才圖會に本草綱目を引て、一名夜行遊女、又天帝少女鬼神類也云々荆州多有之、衣毛爲鳥、脫毛爲女人、是產婦死後化作、故胸前有兩乳、喜取人子、養爲己子、凡有小兒家、不可夜露衣物、此鳥夜啼、以血點之爲誌、兒輙病云々謂之無辜癇也、蓋此鳥純雌無雄、七八月夜飛害人、而して著者寺島氏之を西國海濱に多してふ「ウブメドリ」に宛て、九州人謂云、小雨闇夜、不時有出、其所居必有燐火、遙視之狀如鷗而大、鳴聲亦似鷗、能變爲婦、携子、遇人則請負子於人、怕之迯則有憎寒、壯熱甚至死者、强剛者諾負之、則無害、將近人家、乃背輕而無物、未聞畿内近國狐狸之外如此者と述ぶ、吾國には例無き事なれど、實際梟族が嬰兒を殺すこと世にあると見ゑ[やぶちゃん注:ママ。] Hasselquist, op. cit., p. 196 に據ばシリアの鵂鶹[やぶちゃん注:「きうりう」。底本では「鶹」の部分は活字が無く、「▲」というひどい処理となっている(右ページ五行目)。初出・選集に従ったが、「鶹」の(へん)は「留」が正しい。] Strix otus 貪戾[やぶちゃん注:「たんれい」。欲深(よくぶ)かにして人の道に背くこと。]にして、夜窻を閉るを遺れたる[やぶちゃん注:「わすれたる」。]に乘じ、室に入て孩子[やぶちゃん注:「をさなご」。]を殺す、婦女之を怖るゝこと甚し、梟の巢に時として羽毛を混ぜる異樣の塊物あるを G. White, ‘The Natural History and Antiquities of Selborne’ に記せるを見れば、其成分等は別に硏究する事として、兎に角倭漢共、梟が土を化して其子と成す(陸佃爾雅新義一七、古歌にも「梟の暖め土に毛がはえて、昔の情今の寇也」)と云るに、核子[やぶちゃん注:「たね」。]なきに非ず、鳥の形色を以て容易に雌雄を別つ可らざるや多し、故に一種の夜鳥、胸前の斑紋兩乳に似て、多少女人の相有るを純雌無雄とするも尤もにて(歐人「ヂユゴン」を遠望して海女となし Tennent, p. 68 兎の陰部異常なるより悉く兩性を兼ぬとし C. de Pauw, ‘Recherches Philosophiques sur les Americaines,’ Cleves, 1772, p. 92 異物志、靈猫一體、自爲陰陽と謂ふ抔見合すべし)、之に件の鵂鶹嬰兒を食ふ事、土梟抱塊爲兒の語抔を和して、姑獲養人子の迷信を生ぜるやらん、邦土により、鳥が毛羽を人家中庭に落し、兒の衣中に置く位の事は屢なるべく、家外に露せる衣布、忽ち黴菌等を生じて、血點に酷似せる斑を生ずるは予も親く見たり、夜啼點血爲誌の語も、爪哇[やぶちゃん注:「ジヤワ」。]に、男女の魑魅、檳榔噬し[やぶちゃん注:「かみし」。]赤唾を人の衣に塗り汚す(Ratzel, ‘History of Mankind,’ trans. Butler, 1896, vol. i, p. 474)といふも之に基くならん、兎に角、支那の鳥類の精査遂られん日、必ず此誕[やぶちゃん注:「はなし」。]の由來を明知すべしと信ぜらる、ダイヤツク人、カミヤツク魔、鳥の如く飛で孕婦を害し子生まるゝを妨げ、クロアー魔は、胸の正中に一乳房のみ有り、兒產まるゝや否、來て其頸を摑み、之を不具にすと信ぜるも似た事なり(T. F. Beeker, “The Mythology of the Dyaks,” The Journal of the lndian Archipelago and Eastern Asia, vol. iii, pp. 106, 113, 1849)、而して、鬼物が人の子を隱し養ひ、或は之を不具にし、或は醜くし、或は痴にするは此他例多し、蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコツトランド」。]等のフユヤリース希臘のネレイヅ(Hazlitt, vol. ⅰ, p.102 ; Bent, p. 14)、本邦の天狗(老媼茶話十七章、著聞集アコ法師の事)等也、惟ふに[やぶちゃん注:「おもふに」。]婦女が產褥に苦むは、所謂宍食た[やぶちゃん注:「ししくふた」。]報いで、誰を怨みん樣なしとは申せ、人間繁殖てふ大義務の爲に粉骨するものなれば、たとひ事遂ずとも、其社會の爲に盡すの功は、たしかに燦爛たる勳章を値す、以是、苗氏コラヷンバスクの諸民、產每に夫「クーヷード」して、妻と苦樂を俱にするの意を示し、北ボルネヲには、產死の女、極樂え[やぶちゃん注:ママ。]直ぐ通りとす(Ratzel,ⅱ,p.479)、但し男の身は苦まずして女のみ生死の境に出入すとは、至て割の惡い儀なれば、之が爲に命を殞せる[やぶちゃん注:「おとせる」。]者姑獲となり、「ウブメドリ」となり、啾々として夜哭し、他の安く子を擧たる婦人を羨んで、其母子に禍せんと欲すとは、理の詰んだ所も有る也、パンジヤブにて產死の女、チユレル魔となり、顏は女ながら甚怖しく、乳長くして肩上にかゝげ、反踵黑衣、長くて黑き兩牙あり、廢壘墓塚に住み、小兒を食ふ(Panjab Notes and Queries, vol. i, note 334)と傳え[やぶちゃん注:ママ。]、安南にて、吾兒を續け亡ひ、第六兒產んとて死せる女、白衣にして樹上に死兒を抱き、他の產室に入て流產せしむ(Landes, “Notes sur less Mœurs et Superstitions Populaires des Annamites,” Cochinchine Francaise, vol.ⅰ, p. 448, Saigon, 1880)と信ず、吾國又古くより產女靈の迷信ありしは、今昔物語卷十三、平季武之に値ふ[やぶちゃん注:「あふ」。]話あり、倭漢三才圖會卷六十七、鎌倉產女寶塔の談あり、耳袋中編に、產後死せる女、人に預たる嬰兒を抱きに來りし事を載す、肥後の人に聞けば、其地に「安からう」といふ怪あり、產婦の靈にして、雨夜に安かろうと呼ぶとこは難產を心配せし執念の殘りしと云ふ意か、蒼鷺など夜燐光を放つを、上に引ける倭漢三才圖會の文とくらぶるに、何にか、九州には夜燐光有て鳴聲宜しからぬ鳥あるを、產死の女靈に附會して「うぶめ」鳥の話を生ぜるにや有ん、小兒の衣類、何なりとも戶外に遺るゝときは、夜其兒安眠せず、又それに鳥糞掛るときは、出世を妨ぐとは、此邊にもいふことにして Bent, op.cit, p. 181 にも希臘のシキノス島にて、夜戶外に乾せし衣は、香爐にて薰べし[やぶちゃん注:「ふすべし」。]後ならでは、決して產婦と嬰兒に着せず、此島濕氣甚ければ、全く無稽の冗談に非じ、と云り、

[やぶちゃん注:底本はここで珍しく改行されている。これは初出でも同じである。但し、次の頭の字下げはご覧の通りないし、話として、ここで敢えて改行すべき理由も、私は見出せない。敢えて言うなら、話が夜泣きの咒(まじない)に少しずれるからであろう。パートとしては独立しているわけではないので、電子化は一緒にする。]

此邊にて小兒夜驚き啼くを防がんとて、今も玄米を撒く人あり、豆粒樣とて、甲冑着たる小き者來り襲ふが米を畏れて去ると也、昔よりの風と見えて、今昔物語二十七卷三十章[やぶちゃん注:底本は「卷十四十七章」であるが、全くの誤認であるので、「選集」で訂した。]に、「今は昔、ある人方違え[やぶちゃん注:ママ。]に、下京邊に幼兒を具して行けり、其家に靈有しを彼人は知ざりけり、幼兒の枕の上に火を近くとぼして、側に二三人計り寢たり、乳母は目をさまして、兒に乳を含めて居たりけるに、夜半計りに塗籠の戶を細目に開て、長[やぶちゃん注:「たけ」。]五寸許の男の裝束したるが、馬に乘て十人計り、枕の邊を渡りければ、乳母怖しと思乍ら、打撒[やぶちゃん注:「うちまき」。]の米を摑んで擲懸[やぶちゃん注:「なげかけ」]けるに、此渡る者共颯と[やぶちゃん注:「さと」。]散て失けり、打撒の米每に血付けり、幼き兒どもの邊りには、必打まきを置事也となん、語り傳たると也」と見ゆ、御伽草子の「一寸法師」に、一寸法師「或時みつ物のうちまきとり、茶袋に入れ、姬君の臥しておはしましけるに[やぶちゃん注:底本「おはじましける」。初出で訂した。]、謀[やぶちゃん注:「はかりごと」。]を運らし[やぶちゃん注:「めぐらし」。]、姬君の御口にぬる」ことあり、みつ物の打ちまきとは、姬君の父の領分より收むる貢米の落散たるをいひしにて、今俗にいふ「つゝを」米を指すか、然ば、米を打ちまきと云に、「つゝを」米と鬼に擲ち[やぶちゃん注:「なげうち」。]撒く二原意有りと思はる、豆穀を擲て鬼魅を奔らす事 Frazaer,‘Golden Bough’ 其他に、例多く擧げ、理由をも辨じたればこゝに繰り返さず、

 

[やぶちゃん注:「酉陽雜爼十六に云、鬼車鳥、相傳此鳥昔有十首、能收人魂、一首爲犬所噬、秦中天陰有時聲、聲如力車鳴、或言是水鷄過也」原文はもっと続く。

   *

鬼車鳥、相傳此鳥昔有十首、能收人魂、一首爲犬所噬。秦中天陰、有時有聲、聲如力車鳴、或言是水雞過也。

「白澤圖」謂之蒼鸆、帝嚳書、謂之逆鶬、夫子、子夏所見。寶歷中、國子四門助敎史逈語成式、嘗見裴瑜所注「爾雅」言、鶬糜鴰是九頭鳥也。

   *

 鬼車鳥、相ひ傳ふ、「此の鳥、昔、十首有り、能く人の魂(たましひ)を收す。一首、犬に噬(か)まれたり。秦中、天、陰(くも)れば、時、有りて、聲、有り、聲、力車の鳴るがごとし」と。或いは是れ、「水雞(すいけい)の過ぐるを言ふなり」と。

 「白澤圖」は、之れを「蒼鸆(さうぐ)」と謂ふ。帝嚳の書は、之れを「逆鶬(げきさう)」と謂ふ。夫子(ふうし)[やぶちゃん注:孔子。]、子夏と見らる。寶歷[やぶちゃん注:八二五年~八二六年。中唐末期。]中、國子四門助敎史たる逈(けい)、成式[やぶちゃん注:筆者段成式。]に語るに、『嘗つて見し裴瑜(はいゆ)の注せる「爾雅」に言ふに、「鶬は糜鴰(びかつ)、是れ、九頭の鳥なり」と』と。

   *

ここに出る「白澤圖」の「白澤」は聖獣の名。人語を操り、森羅万象に精通する。麒麟・鳳凰同様、有徳の君子ある時のみ姿を現すという。一般には、牛若しくは獅子のような獣体で、人面にして顎髭を蓄え、顔に三個、胴体に六個の眼、頭部に二本、胴体に四本の角を持つとする。三皇五帝の一人、医薬の祖とされる黄帝が東方巡行した折り、白澤に遭遇、白澤は黄帝に「精気が凝って物体化し、遊離した魂が変成したものはこの世に一万千五百二十種ある」と教え、その妖異鬼神について詳述、黄帝がこれと白澤の姿を部下に書き取らせたものを「白澤圖」という(偽書以外の何物でもない)。因みに、本邦では江戸時代、この白澤の図像なるものは、旅行者の護符やコロリ(コレラ)等の疫病退散の呪いとして、甚だ流行した。さて。私は実はこの十の頭(但し、一つは犬に食われて欠損しているか)を持つという如何にも中国大陸然とした過剰なハイブリッド妖鳥に、ある種の呆れを感じ(多けりゃ怖い的な物量至上主義はアメリカ軍と同じで心底、馬鹿にしたくなるのである)、あまり注する気が起こらないでいる。しかし、それでは今までのやっぱりマニアックになってしまった注と比して、ここのバランスが悪くなるので、やはり、注せずんばならずなのである。

 まず、熊楠に物申したいのは、この「酉陽雜爼」に出る「水雞」は鳥のクイナ(鳥綱ツル目クイナ科クイナ属クイナ Rallus aquaticus或いはそれに似た同じ水辺にいる水鳥。次注参照)なんぞではないということである。「水」の中にいる「雞」(にわとり)のような味のする蛙のことである。則ち、この部分は、俗伝の中には「鬼車鳥なんていやしないよ! 蛙が鳴いて通り過ぎたのを化鳥の声と思っただけさ!」という否定論も含まれているということなのである(と私は読む、ということである)。

 「鬼車鳥」及びそれと同類と思われる鳥の他の漢籍記載は、概ね、以上と変わらない。所持する東洋文庫訳注(今村与志雄訳。一九八一年刊。上の訓読は今村氏の現代語訳を参考にして独自に読んだものである)の注によれば、他の特異点は出口米吉のかの論文にも「梅園日記」の孫引きの形で引かれてある「北戸録」(「酉陽雑爼」の作者段成式の甥段公路の作)の「孔雀媒」記載で(原文全文を「中國哲學書電子化計劃」から丸ごと引いておく。但し、同書の影印画像で視認して電子化されたそれを敢えて字を正しておいた。下線は私が附した)、

   *

              孔雀媒

雷羅數州收孔雀雛養之使極馴擾致於山野間以物絆足傍施網羅伺野孔雀至卽倒網掩之舉無遺者或生折翠羽以珠刀毛編爲簾子拂子之屬粲然可觀眞神禽也【又後魏書龜兹國孔雀羣飛山谷間人取養而食之字乳如鷄鶩其王家恒千餘隻】一說孔雀不【必疋】偶但音影相接便有孕如白雄雌相視則孕或曰雄鳴上風雌鳴下風亦孕見博物志【又淮南八公相鵠經曰復百六十年變止雌雄相視目睛不轉而孕千六百年形定也又稽聖賦豪豕自爲雌雄缺鼻曾無牝牡卽雌兔䑛雄而孕是矣】又周書曰成王時方人獻孔鳥方亦戎別名山海經南方孔鳥郭璞注孔雀也宋紀曰孝武大明五年有郡獻白孔雀爲瑞者噫象以齒而焚麝因香而死今孔雀亦以羽毛爲累得不悲夫愚按說文曰率鳥者繫生鳥以來之名曰字林音由今獵師有也淮南萬畢術曰鴟鵂致鳥注云取鴟鵂折其大羽絆其兩足以爲媒張羅其旁衆鳥聚矣博物志又云鵂鶹休【留鳥】一名鴟鵂晝日無所見夜則目至明人截手爪棄露地此鳥夜至人家拾取視之則知有吉凶凶者輒更鳴其家有殃也莊子云鴟鵂夜撮蚤察毫末晝出冥目而不見丘山言性殊也陳藏器引五行書除手爪埋之戸內恐爲此鳥所得其鵂鶹卽姑獲鬼車鴞鵩類也姑獲中記云夜飛晝藏一名天帝少女一名夜行遊女一名隱飛好取人小兒食之今時小兒之衣不欲夜露者爲此物愛以血其衣爲誌卽取小兒也又云衣毛爲鳥脫毛為爲女人昔豫章男子見田中有六七女人不知是鳥扶匐往先得其所解毛卽藏之卽往就諸鳥各走取毛衣飛去一鳥獨不去男子取爲婦生三女其母後使女問父知衣在積稻下得之衣而飛去後以衣迎三女兒得衣亦飛去鬼車一名鬼鳥今猶九首能入人屋收魂氣爲犬所噬一首常下血滴人家則荊楚歲時記夜聞之捩狗耳言其畏狗也白澤圖云昔孔子子夏所見故歌之其圖九首今呼爲九頭鳥也毛詩義䟽曰鴞大如鳩惡聲鳥入人家其肉甚美可爲炙漢供御物各隨其時唯鴞冬夏施之以美也禮内則曰鴞胖莊子云見彈求鴞炙陳藏器又云古人重其炙尙肥美也又按說文曰梟不孝鳥至日捕梟磔之如淳曰漢使東郡送梟五月五日作梟羮賜百官以其惡鳥故食之愚謂古人尙鴞炙是意欲滅其族非爲其美也又淮南萬畢術甑瓦止梟鳴取破甑向梟抵之輙自止也

   *

で、「毛詩義疏」(恐らく「隨志」の引用)には、鬼車鳥と同類と考えられる鴞(きょう)は鳩ぐらいの大きさで、『悪い声を出す。人家に入ると、凶である』としながらも、『その肉は、たいへん美味で、焼肉にしてよい』と俄然、実在する鳥の様相を示し、漢代に既に冬も夏も鴞の肉を供物として用意したが、それは一年を通して、『美味だからである』とあり、唐代の本草学者で明の李時珍の「本草綱目」にもよく引かれてある、陳蔵器は古人がこの鳥の炙り肉を好んだのは、脂が乗って『美味であることを尊んだのである』とあり、それは以上の原文からも判る。

 さても! ここでは、もう禍々しい首だらけの怪鳥なんぞではない、鳴き声が厭な感じだけれど、実在する鳥であることが判る。それは「彼らに外ならない」でないか! 一応、ウィキの「鬼車」を引いてみようか。『中国に伝わる怪鳥』で、『東晋の小説集『捜神記』には「羽衣女」として、以下のように記述されている。江西省のある男が、数人の女を見つけた』。一『人の女の脱ぎ捨てた毛の衣があったので、男がそれを隠して女たちに近寄ると、女たちは鳥となって飛び去ったが、毛衣を隠された』一『人だけは逃げられなかった。男は彼女を妻とし、後に子供をもうけた。後に女が隠されていた毛衣を見つけ、鳥となって飛び去り、さらに後に別の衣を持って子供たちを迎えに来て、皆で鳥となって飛び去った』。『西晋代の書『玄中記』によれば、この羽衣女が後に「鬼車」と呼ばれるようになったという』(いやいや! 何で私の好きな「捜神記」の羽衣伝説マンマのしみじみした話が、何で! 九頭の醜い凶鳥になるんでしょうか? と聴きたいのだよ!)。『『太平御覧』には、斉の国(現・山東省)に頭を』九『つ持つ赤い鳥がおり、カモに似て』、九『つの頭が皆』、『鳴くとある』。『唐代の『嶺表録異』によれば、鬼車は』九『つの頭を持つ鳥で、嶺外(中国南部から北ベトナム北部かけて)に多くいるもので、人家に入り込んで人間の魂を奪う。あるとき』、『頭のうちの一つを犬に噛まれたため、常にその首から血を滴らせており、その血を浴びた家は不幸に苛まれるという』。『『正字通』では「鶬虞(そうぐ)」の名で記述されている。「九頭鳥(きゅうとうちょう)」ともいい、ミミズクの一種である鵂鶹(きゅうりゅう)に似たもので、大型のものでは』一『丈あまり(約』三『メートル)の翼を持ち、昼にはものが見えないが、夜には見え、火の光を見ると目がくらんで墜落してしまうという』(いやいや! それって! フクロウ・ミミズク類、そのマンマでしょうが!?!)『南宋代の書『斉東野語』では、鬼車は』十『個の頭のうちの一つを犬に噛み切られ、人家に血を滴らせて害をなすという。そのために鬼車の鳴き声を聞いた者は、家の灯りを消し、犬をけしかけて吠えさせることで追い払ったという』。『また、鬼車とはまったく別の伝説として、人の子供を奪って養子にするといわれる神女「女岐(じょき)」がある。『楚辞』には「女岐は夫もいないのになぜ』九『人もの子供がいるのか」とあり、この言い伝えが前述の『捜神記』での鬼車と子供にまつわる話と習合し、さらに「九子」が「九首」と誤って伝えられたことから、鬼車が』九『つの頭を持つ鳥として伝えられたものと見られている』。『前述の『玄中記』では、これらの鬼車、羽衣女、女岐の伝承を統合した形で「姑獲鳥(こかくちょう)」という鬼神として記載されているため』、『書籍によっては鬼車が姑獲鳥の別名とされていることもある』。『頭の』一『つは犬に噛まれたのではなく、周王朝の宰相・周公旦の庭師に撃ち落されたという説もある』とある。

 私の憤懣は増大するばかりである。私が不満たらたらなのは、とどのつまりは、こうした中国で形成された畸形醜悪の「鬼車鳥」が何で我らの「七草粥」の穏やかな習俗に強引に結合してしまいったのかという点にあり、しかも、その凶鳥の声も姿も古文では語られていない不審(鬼車鳥が本邦の妖怪伝承の潮流の中で全く進化していない点)にあるわけだ。私はその原因こそが、「多頭」性にあると睨んでいる。日本人には、この手の「コレデモカ・ハイブリッド」系妖怪は人気が出ないのである。正直、鳥の本体に十も九つも頭があっては、怖いどころか、滑稽なだけだからだ。しかも、犬に弱いときたもんだってえの!

 小学館「日本国語大辞典」には、「鬼車」を立項するも、『頭が九つあり、幼児をさらうとされる想像上の妖鳥。「易経―睽卦[やぶちゃん注:「けいけ」。]」の「載鬼一車」の句による名という。鬼車鳥。』とあるだけだ。この解説、何も我々に有益な情報を与えて呉れてはいない。「何でそうなるの?!?」という痛切な期待を完全に裏切っている。

 しかし、賢明な諸君は、もう、お判りだろう、「鬼車鳥」の正体、その実在が。

 私の乏しい知識から考える「鬼車鳥」論を示す。

 「鬼」は元来、中国語では既に示した通り、幎冒(べきぼう)を被せた「死者」の姿を表わす。死者以上でも以下でもない。本来は人の遺体である。しかし、されば、それは冥界の存在をシンボルライズする。「車」は「廻(めぐ)る」物である。人の死者の顔のように見えるもので、人の頭部とは異なり、ぐるりと車のように背後の方まで廻るのである。冥界は夜の闇に通ずる。夜の闇の中に跳梁し、不気味な人の顔のようなもので、ぐるりと回る顔のような「鳥」である。そ奴は家の中にも侵入する。家の中は屋根裏を含む。そうだ――これはフクロウやミミズクに他ならないのだ。十の首とは、古代人には足を動かさないで首だけを動かすとは思うことが出来ないから、十方に顔があるとしたのだ。しかし実際には彼らは真後ろは流石に向けない。そんな背後からの彼らを見た者が、そこに全数からマイナス一が生じた。それがしょぼくも犬に食われたとする一つの首だ。また、或いは、その妖鳥の魔力を事前に封ずる手だてとして、弱点としてのマイナス一を加え、而して絶対最大の陽数である「九」を「鬼車鳥」そのもののなかに負のシステムとして組み込んだのだとも言えるのかも知れない。彼らの博物誌は私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴟鵂(みみづく) (フクロウ科の「みみづく」類)」及び、続く「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鴞(ふくろふ) (フクロウ類)」を参照されたい。

 最後に、鬼車鳥を吸収合併して、本邦では消失させてしまった、張本人と思われる強力な日本の妖鳥のそれを示して、終わりとする。本文前の冒頭注でも触れた、そう、「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)」である。私の言いたいことはそちらで言い尽くしている。まさか「オオミズナギドリ」がモデル鳥というのも、誰も考えちゃあ、いないだろうから、どうぞ! そちらをお読みあれかし!!!

「水鷄は Vanellus cristatus Mey. et Wolf. (Möllendorff, “The Vertebrata of the Province of Chihi,” The Journal of the North China Branch of the Royal Asiatic Society, New Series ⅩⅠ, Shanghai,1877, p. 97)」熊楠が参考にしたのは、ドイツの言語学者で外交官であったパウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ(Paul Georg von Möllendorff 一八四七年~一九〇一年:十九世紀後半に朝鮮の国王高宗の顧問を務め、また、中国学への貢献でも知られ、満州語のローマ字表記を考案したことでも知られる。朝鮮政府での任を去った後、嘗ての上海で就いていた中国海関(税関)の仕事に復し、南の条約港寧波の関税局長官となり、そこで没した)が書いた、河北省の脊椎動物についての論文である。「Vanellus cristatus」はチドリ目チドリ亜目チドリ科タゲリ属タゲリ Vanellus vanellus のシノニムである。全長約三十二センチメートル。長い冠羽をもった大型のチドリで、ヨーロッパからシベリア南部にかけてのユーラシア大陸の中緯度地方で繁殖し、冬は少し南へ移動する。日本には主に冬鳥として渡来するが、石川・新潟・福井・茨城などでは少数が繁殖している。頭上・後頸・背・翼は黒く、光沢がある。上尾筒は橙栗色で、尾は基部が白く、先が黒い。翼の下面は風切が黒く、雨覆は白色で対照が著しい。鳴き声は猫のように怪しい。サイト「サントリーの愛鳥活動」の「タゲリ」で聴くことが出来る。そこには、『翼は金属光沢のある緑黒色。頭には後方へ伸びるかざり羽があり』、『「ミューウッ」あるいは「ミャーッ」と聞こえる猫の鳴き声に似た声を出』すとし、『冬鳥として北方から渡って来て、積雪のない地方で冬枯れの田んぼの刈りあとや』、『湖沼畔に群れを』作り、『飛ぶときは丸みのある翼をフワフワとはばたかせ、白と黒の模様をあざやかに浮き立たせ』るとある。私は熊楠のように「鬼車鳥」の正体がタゲリだとは思わない。しかし、この鳴き声、空中をふわふわと人魂のように飛ぶ白黒のそれは、不吉な霊魂の象徴、冥界の禍々しい鳥と名指されても、必ずしも違和感は抱かないとは言っておこう。因みに、イギリスでは本種群を不吉な鳴き声の鳥として「wandering jew」(彷徨えるユダヤ人)という差別的呼称が残っている。

「鵺」私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 鵼(ぬえ) (怪獣/鳴き声のモデルはトラツグミ)」を参照されたい。なお、ここで熊楠は、文脈上は妖獣としてのそれを念頭に置いている。

「Knox,‘An Historical Relation of the Island of Ceylon,’ 1681, p. 78」イギリス東インド会社に属したイギリス海軍大尉ロバート・ノックス(Robert Knox 一六四一年~一七二〇年)が現地に赴いた際の記録に基づくもの。原本を綺麗に電子化したものが「gutenberg」にあるのを発見、少し手間取ったが、その「The Devil’s Voice often heard.」と頭書する条に、

   *

   This for certain I can affirm, That oftentimes the Devil doth cry with an audible Voice in the Night; ’tis very shrill almost like the barking of a Dog. This I have often heard my self; but never heard that he did any body any harm. Only this observation the Inhabitants of the Land have made of this Voice, and I have made it also, that either just before or very suddenly after this Voice, the King always cuts off People. To believe that this is the Voice of the Devil these reasons urge, because there is no Creature known to the Inhabitants, that cry like it, and because it will on a sudden depart from one place, and make a noise in another, quicker than any fowl could fly: and because the very Dogs will tremble and shake when they hear it; and ’tis so accounted by all the People.

   This Voice is heard only in Cande Uda, and never in the Low Lands. When the Voice is near to a Chingulaye’s house, he will curse the Devil, calling him Geremoi goulammah, Beef-eating Slave be gone, be damned, cut his Nose off, beat him a pieces. And such like words of Railery, and this they will speak aloud with noise, and passion, and threatning. This Language I have heard them bestow upon the Voice; and the Voice upon this always ceaseth for a while, and seems to depart, being heard at a greater distance.

   *

とあるのが、当該部である。

「Fr.Jordanus,‘Mirabilia descripta,’ trans.Yule, 1863, p. 37」著者はインドに於ける最初の司教カタラーニ・ジョルダヌス(Catalani Jordanus 一二八〇年頃~一三三〇年頃)。当該書の「Internet archive」のここの右ページに、

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  1. What shall I say then? Even the Devil too there speaketh to men, many a time and oft, in the night season, as I have heard.

   *

とある。

ユール」前書の英訳者で、イギリスの軍人にして東洋学者であったヘンリー・ユール(Henry Yule 一八二〇年~一八八九年)。以下のそれは、上記のページにある彼の注の後半に現われる。

   *

The notion of catching Shaitan without any expense to Government was a sublime piece of Anglo-Indian tact, but the offer was not accepted. Our author had, however, in view probably the strange cry of the Devil-bird, as it is called in Ceylon.  "The Singhalese regard it literally with horror, and its scream by night in the vicinity of a village is bewailed as the harbinger of impending calamity."  " Its ordinary note is a magnificent clear shout, like that of a human being, and which can be heard at a great distance, and has a fine effect in the silence of the closing night.  It has another cry like that of a hen just caught ; but the sounds which have earned for it its bad name, and which I have heard but once to perfection, are indescribable, the most appalling that can be imagined, and scarcely to be heard without shuddering; I can only compare it to a boy in torture, whose screams are stopped by being strangled."  Mr. Mitford, from whom Sir E. Tennent quotes the last passage, considers it to be a Podargus or night-hawk, rather than the brown owl as others have supposed. (Tennenfs Nat. Hist. of Ceylon, 246-8.)

   *

「ミトフヲード」イギリスの貴族で外交官のアルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォード(Algernon Bertram Freeman-Mitford 一八三七年~一九一六年)か。幕末から明治初期にかけて外交官として日本に滞在した人物としても知られる。

「童子が經せられて」「選集」でも『経(けい)せられて』とあるが、これは上記原文の「I can only compare it to a boy in torture」の部分で、「torture」は「折檻・拷問」であるから、「經」ではおかしい。これは思うに、熊楠の誤記か誤植(但し、初出も「經」ではある)であって「縊(くびくくり)せられて」で「首を絞められること」の意ではあるまいか? 「縛」でも何でもいいが、「息絕ゆるまで苦吟する如く、悽愴極りて聞くに堪ず」なのだから、私はそれで採りたいわけである。

テンネント」「Tennent, ‘Sketches of Natural History of Ceylon,’ 1861, pp.246-8」イギリスの植民地管理者で政治家であったジェームズ・エマーソン・テナント(James Emerson Tennent 一八〇四年~一八六九年)のセイロンの自然史誌。Internet archive」のこちらで、原本の当該部が視認出来る。「THE "DEVIL BIRD"」の挿絵もある。そのフクロウの絵の前後に、

   *

The Singhalese regard it literally with horror, and its scream by night in the vicinity of a village is bewailed as the harbinger of impending calamity.

   *

「古え錫蘭を虐治せし兄王キスツアカン、鬼車と同く十頭ありしと云は奇遇頗る妙也(James Low,in the Jouynal of the lndian Archipelago and Eastern Asia, vol.iv. p. 203, Singapore, 1850)」作者は正しくはジェームス・リチャードソン・ローガン(James Richardson Logan 一八一九年~一八六九年)で、イギリスの弁護士で民俗学者。インドネシアやマレー半島の民俗を調べ、「インドネシア」という語を広めた人物でもある。「Internet archive」の原本のここ(右ページの改行された段落の冒頭部)に、

   *

The freed soul of Nontheok fell down to the earth, and was born again under the form of a Rakhsha. In process of time he was horn again as Kistsakan or Ravan, the ten handed tyrant of Ceylon styled Lanka.

   *

と確かにある。

ミンチラ人が信ずるハンツ、サブロ(獵師鬼)は、湖及川の淵に棲み、體黑く、黑口と名たる三犬を隨ふ、此犬人家に近けば、住人は木片を打ち大噪ぎしてこれを驅り、小兒を緊く抱いて其去るを俟つ、マレー人が傳ふるソコム鬼、行くときは「ベリベリ」鳥先づ飛ぶ、此鳥、家に近くとき、家内聲限りに喧呼して之を厭す(Ibid.,vol.ⅴ, p. 308)」「Internet archive」の当該巻を調べたが、見つからない。他の巻も縦覧してみたのだが、お手上げ。ちょっと癪に触っている。

「姑獲が事は、倭漢三才圖會に本草綱目を引て、一名夜行遊女、又天帝少女鬼神類也云々荆州多有之、衣毛爲鳥、脫毛爲女人、是產婦死後化作、故胸前有兩乳、喜取人子、養爲己子、凡有小兒家、不可夜露衣物、此鳥夜啼、以血點之爲誌、兒輙病云々謂之無辜癇也、蓋此鳥純雌無雄、七八月夜飛害人、而して著者寺島氏之を西國海濱に多してふ「ウブメドリ」に宛て、九州人謂云、小雨闇夜、不時有出、其所居必有燐火、遙視之狀如鷗而大、鳴聲亦似鷗、能變爲婦、携子、遇人則請負子於人、怕之迯則有憎寒、壯熱甚至死者、强剛者諾負之、則無害、將近人家、乃背輕而無物、未聞畿内近國狐狸之外如此者と述ぶ」まあ、結局、こうなるとは思っていた。私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 姑獲鳥(うぶめ) (オオミズナギドリ?/私の独断モデル種比定)」から私の訓読を全部引いておく。

   *

うぶめどり 夜行遊女

       天帝少女

       乳母鳥 譩譆(いき)

姑獲鳥   無辜鳥(むこてう)

       隱飛(いんひ)

       鬼鳥(きてう)

       鉤星(こうせい)

タウフウニヤ◦ウ

 

「本綱」、鬼神の類なり。能く人の魂魄を收(をさ)む[やぶちゃん注:捕る。]。荊州[やぶちゃん注:湖北省。]に多く、之れ、有り。毛を衣(き)て飛鳥と爲り、毛を脫(ぬ)げば、女人と爲る。是れ、産婦、死して後(のち)、化して作(な)る。故に胸の前に兩乳、有り。喜(この)んで人の子を取り、養ひて己(わ)が子と爲す。凡そ、小兒有る家には、夜(よる)、兒の衣物(きもの)を露(あら)はにするべからず。此の鳥、夜、飛び、血を以つて、之れに㸃じ、誌(しるし)と爲す。兒、輙(すなは)ち、驚癇及び疳病を病む。之れを「無辜疳(むこかん)」と謂ふなり。蓋し、此の鳥、純(もつぱ)ら、雌なり。雄、無し。七、八月の夜、飛びて、人を害す。

△按ずるに、姑獲鳥は【俗に云ふ、「産婦鳥(うぶめ)」。】、相ひ傳へて曰はく、「産後、死せば、婦、化する所なり」と。蓋し、此れ、附會の說なり。中華にては荊州、本朝にては西海の海濵に多く、之れ、有りといふときは、則ち、別に、此れ、一種の鳥たり。最も陰毒の因りて生ずる所の者ならん。九州の人、謂ひて云はく、「小雨(こさめふ)り、闇(くら)き夜、不時に[やぶちゃん注:不意に。]出づること、有り。其の居(を)る所、必ず、燐火[やぶちゃん注:鬼火。青白い妖しい火。]あり。遙かに之れを視るに、狀(かたち)、鷗(かもめ)のごとくにして、大きく、鳴く聲も亦、鷗に似る。能く變じて婦と爲り、子を攜(たづさ)へて、人に遇ふときは、則ち、人に子を負(をは)せんことを請ふ。之れを怕(おそ)れて迯(に)ぐれば、則ち、憎(にく)み、寒・壯熱、甚だしくして死に至る者、有り。强剛の者、諾(だく)して、之れを負ふときは、則ち、害、無し。將に人家に近づくに、乃(すなは)ち、背、輕くして、物、無し。未だ畿内・近國には、狐狸の外、此くのごとき者を聞かず。

   *

「吾國には例無き事なれど、實際梟族が嬰兒を殺すこと世にあると見ゑ」当然です。フクロウは猛禽類ですから。

「Hasselquist, op. cit., p. 196」(2)に既出既注。

「鵂鶹」(きゅうりゅう)」「ふくろう(梟)」の古名として本邦でも古くから用いられ、古語では「いひどよ(いいどよ)」とも訓じた。なお、現代中国では、フクロウ目フクロウ科フクロウ目スズメフクロウ属ヒメフクロウ Glaucidium brodiei の異名にこの漢字を当てている。されば、分布域その他は中文の同種のウィキを参照されたい。本邦には棲息しない。

「Strix otus」フクロウ科トラフズク属トラフズク Asio otus のシノニム。本邦にも基亜種トラフズク Asio otus otus が棲息する。名前で判る通り、耳角を持つ。

「梟の巢に時として羽毛を混ぜる異樣の塊物ある」鳥類学用語の「ペレット・ペリット」(pellet)のこと。猛禽類や一部の鳥類などが、消化出来ない骨・羽・毛などを纏めて吐き出した塊り。ウィキの「ペリット」がよい。

「G. White, ‘The Natural History and Antiquities of Selborne’」イギリスの牧師で博物学者のギルバート・ホワイト(Gilbert White 一七二〇年~一七九三年)が書いた、私の愛読書の一つである「セルボーンの博物誌」。彼はハンプシャーの小村セルボーンに生まれ、そこで副牧師を務める傍ら、少年時代から興味を持っていた博物学の研究に殆どの時間を費やし、その成果を約二十年間に亙って、博物学者トマス・ペナント(Thomas Pennant 一七二六年~ 一七九八年)と動物学者デインズ・バリントン(Daines Barrington 一七二七年~一八〇〇年)に送り続けた。彼らとの親交は、ホワイトの弟ベンジャミン(Benjamin)が博物学書の出版を手掛けていたことによるものであった。後に両者に送られた書簡を纏め、一七八九年にベンジャミンの手で出版された。ウィキの「ギルバート・ホワイト」によれば、『流麗な文体と鋭い観察眼とを兼ね備えた『セルボーンの博物誌』は、博物誌の古典として今日まで受け継がれており、「たとえ英国が滅びても本書は永遠に残るだろう」と称えられることもあった』。『その特徴は、当時の標本主義の博物学とは対称的に、鳥や植物、昆虫などの生態や自然景観の観察を、当地の歴史や山彦、日時計、田舎の迷信といった風土とともに記録した点にある』。十八世紀から十九世紀にかけて『牧師らが』、『その居住地域の博物誌をまとめる習慣が流行したが』、その中でも『ホワイトの著作だけが古典となった所以でもある』とある。

「陸佃爾雅新義一七」陸佃(りくでん 一〇四二年~一一〇二年)は北宋の博物学者で、王安石の弟子。主に動植物について解説した博物辞書「埤雅」(ひが)で知られる。当該書の指示するそれは、以下(「中國哲學書電子化計劃」の原本画像から起こした。そこに電子化されている文字列(機械判読で話にならないひどいものである)は致命的に誤っている)。

   *

怪鴟梟鴟

長而食母悖類反倫可謂怪塞曩梟首木上一名土梟土梟抱塊爲兒其遭食有以也所謂酉莒人滅鄙鄶如此一名土梟[やぶちゃん注:以下略。]

   *

「梟の暖め土に毛がはえて、昔の情今の寇也」天明期を代表する文人で狂歌師として知られる大田南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)が著したものを、後に文宝堂散木が補した、南畝没後の文政八年に刊行した随筆「仮名世説」(かなせせつ)の「上」に(吉川弘文館「日本随筆大成 第二期 第二巻」を所持するが、ここでは「古典籍ビューア」のこちらで視認して起こし、句読点や記号を施し、段落を成形した)、

   *

 支唐禅師は、源子和が父の方外の友なり。諸國行脚の時、出羽國より同宗の寺あるかたへゆきて、其寺にしばし滯留ありしに、庭前に椎の木の大なるが朽て、半より、をれ殘りたり。一日、住持、此木を、人して、掘とらせけるに、朽たるうつろの中より、雌雄の梟、二羽、出て、飛さりぬ。其跡をひらきみるに、ふくろふの形を、土をもて作りたるが、三つ、有。

 其中に、ひとつは、はやくも、毛、少し生て、啄(クチバシ)、足(アシ)ともに、そなはり、すこし、生氣も、あるやうなり。三つともに、大さは、親鳥程なり。

 住持、ことに怪しみけるに、禅師のいはく、

「これは、聞及びたる事なりしが、まのあたり見るは、いと、めづらし。古歌に、

 ふくろふの あたゝめつちに 毛がはへて 

    昔のなさけ いまのあだなり

と、此事を、いひけるものなるべし。梟は、みな、土をつくねて、子とするものなり。」

と。

 住持も、禅師の博物を、感ぜり。

   *

私はこの古歌の出典を知らぬ。ただ、ここで注する以前に、以上は知っていた。それは、私の芥川龍之介の手帳の電子化注の「芥川龍之介 手帳3―7」で以上を示したことがあるからである。原拠を御存じの方は是非、お教え願いたい。

『歐人「ヂユゴン」を遠望して海女となし Tennent, p. 68』既注の「Internet archive」のこちらで、原本の当該部が視認出来る。ジュゴン(哺乳綱海牛(ジュゴン)目ジュゴン科ジュゴン属ジュゴン Dugong dugon )の挿絵も添えてある。

「兎の陰部異常なるより悉く兩性を兼ぬとし C. de Pauw, ‘Recherches Philosophiques sur les Americaines,’ Cleves, 1772, p. 92」ウサギの♂♀の生殖器が幼年の場合に判別が至難であることは、かなり知られている(ウサギを飼ったことがない私でも聴き及んでいるから)。「アニコム損害保険株式会社」公式サイト内の「みんなのどうぶつ病気大百科」の「うさぎさんの繁殖生理学」によれば、『慣れた人であれば生後』二『ヶ月頃で生殖器の形から』、『うさぎさんの性別の判断も可能ですが、一般的にはとても難しいといわれています』。『男の子の場合は、女の子に比べると』、『肛門と陰部の距離が離れていて、陰部の形が丸く見えます。一方、女の子は肛門と陰部の距離が男の子に比べると近く、陰部が丸ではなく、やや細長く見えます』。『生後』三『ヶ月を過ぎると、男の子は包皮をお腹側にやさしく押すことでペニスを確認できますが、やはり慣れていないと難しいので、動物病院などで確認していただくと良いでしょう』。『なお』、六『ヶ月を過ぎると』、『睾丸が降りてくるので、はっきりと区別がつきます』とある。コーネリアス・フランシスクス・デ・パウ(Cornelius Franciscus de Pauw  一七三九年~一七九九年)はオランダの哲学者・地理学者で外交官。書名は「アメリカ人に関する哲学的研究」か。

「異物志、靈猫一體、自爲陰陽と謂ふ」「異物志」は後漢の広東出身の政治家楊孚(ようふ 生没年未詳)の書いた地誌。但し、これは明の李時珍の「本草綱目」の孫引き。その巻五十一上の「獸之二」にある「靈貓」の「集解」に、

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藏器曰、靈貓生南海山谷。狀如貍自爲牝牡、其隂如麝。功亦相似。按「異物志」云、「靈貓一體自爲隂陽、刳其水道連囊以酒洒隂乾、其氣如麝。若雜入麝香中罕能分别用之亦如麝焉」。

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とある。「靈貓」は食肉目ネコ型亜目ジャコウネコ科 Viverridae のジャコウネコ類。詳しくは私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 靈貓(じやかうねこ) (ジャコウネコ)」を見られたい。但し、熊楠はアンドロギュヌス(雌雄同体)に惹かれて、ここに出したものと思われ、あんまり関係ない気がする。

「家外に露せる衣布、忽ち黴菌等を生じて、血點に酷似せる斑を生ずるは予も親く見たり」粘菌の王者南方熊楠ならではの実体験! いいね!!!

「夜啼點血爲誌」「本草綱目」の巻四十九の「禽四」「姑獲鳥」の項の「集解」にある、

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凡有小兒家不可夜露衣物。此鳥夜飛以血㸃之爲誌、兒、輒病驚癎及疳疾謂之無辜疳也。

(凡そ、小兒有る家、夜、衣物(きもの)を露(さら)すべからず。此の鳥、夜、飛(とびきた)つて、血を以つて、之に㸃じて、誌(しるし)と爲(な)す。兒、輒(すなは)ち、驚癎及び疳疾を病む。之れを「無辜の疳」と謂ふなり。)

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の一節であるから、「啼」ではなく、「飛」が正しい。「選集」では訂してある。「無辜の疳」とは言い得て妙だ。小児自身の内因性・心因性の疾患ではなく、子に責任のない、干しっぱなしにした親に重大な責任がある外因性の「疳の虫」だという優れた鑑識だからである。さても、この際だから、この「姑獲鳥」の項の次の次(間に「治鳥」(私の「和漢三才圖會卷第四十四 山禽類 治鳥(ぢちやう) (実は妖鳥「冶鳥(やちょう)」だ!)」を是非、参照されたい)とその附録の「獨足鳥」という妖鳥が入る)に出る、今まで抜粋だった「本草綱目」の「鬼車鳥」も全文をちゃんと示しておこうじゃないか。原文(句読点・記号は私が附した)・訓読は国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九風月莊左衞門板行版の画像を視認し、参考にした(訓読では従っていない部分も多い。また、読みは独自に推定で歴史的仮名遣で附した)。太字は底本では囲み罫。

鬼車鳥【「拾遺」。】

釋名 鬼鳥【拾遺「拾遺」。】九頭鳥【同上。】蒼鸆【「白澤圖」。】竒鶬【時珍曰、鬼車妖鳥也。取周易載鬼一車之義。似鶬而異。故曰竒鶬。】

集解【蔵器曰、鬼車晦暝則飛鳴。能入人家收人魂氣。相傳、此鳥昔有十首、犬囓其一猶餘九首。其一常滴血。血着人家則凶。荆楚人夜聞其飛嗚但滅燈打門捩狗耳以厭之。言其畏狗也。「白澤圖」、蒼鸆有九首。及孔子與子夏見竒鶬。九首皆此物也。「荆楚歲時記」、以爲姑獲者非矣。二鳥相似故同名鬼鳥。時珍曰。鬼車狀如鵂鶹而大者翼廣丈許。晝盲夜瞭。見火光輒墮。按劉恂「嶺表錄」云、鬼車出秦中而嶺外尤多。春夏之交稍遇陰晦、則飛鳴而過。聲如刀車鳴。愛入人家鑠人魂氣。血滴之家必有凶咎。「便民圖」云、冬月鬼車夜飛鳴。聲自北而南。謂之出巢。主雨。自南而北、謂之歸巢。主晴。周密「齊東野語」云、宋李壽翁守長沙。曾捕得此鳥。狀類野鳬赤色、身圓如箕。十頸環簇有九頭、其一獨無而滴鮮血。每頸兩翼、飛則霍霍並進。又周漢公主病。此鳥飛至砧石卽薨。嗚呼、怪氣所鍾、妖異如此。不可不知。

   *

鬼車鳥【「拾遺」。】

釋名 「鬼鳥」【拾遺「拾遺」。】・「九頭鳥」【同上。】・「蒼鸆」【「白澤圖」。】・「竒鶬」【時珍曰はく、鬼車は妖鳥なり。「周易」に鬼一車の義を載すといふ。鶬に似て異なり。故に「竒鶬」とも曰ふ。】

集解【蔵器曰はく、鬼車、晦暝なるときは、則ち、飛び鳴く。能く人家に入りて人の魂氣を收(をさ)む。相ひ傳ふ、此の鳥、昔、十首、有り、犬、の其一を囓みて、猶、九首を餘す。其の一、常に血を滴らす。血、人家も着くときは、則ち、凶なり。荆楚の人、夜、其の飛び嗚くを聞けば、但だちに、燈を滅(け)し、門を打ち、狗(いぬ)の耳を捩(ねぢ)りて、以つて之れを厭(まじな)ふ。言(いは)く、其れ、狗を畏るるなりと。「白澤圖」に、蒼鸆、九首有りと。及び、孔子、子夏と竒鶬の九首あるを見ると。皆、此の物なり。「荆楚歲時記」に、以て姑獲と爲すは、非なり。二鳥、相ひ似たり。故に同じく鬼鳥と名づく。時珍曰、鬼車、狀(かたち)、鵂鶹のごとくして、大なる者の翼の廣さ、丈許り。晝、盲(めしひ)し、夜、瞭なり。火光を見て、輒(すなは)ち、墮つ。按ずるに、劉恂が「嶺表錄」に云はく、鬼車、秦中に出づ、嶺外に尤も多し。春夏の交にして稍(やうや)く陰晦(いんかい)に遇ふときは、則ち、飛び鳴きして過(よ)ぐ。聲、刀車[やぶちゃん注:時珍の「力車」の誤記か誤写ではあるまいか?]の鳴るがごとし。人家に入ることを愛(この)みて、人の魂氣を鑠(とか)す。血の滴れる家、必ず、凶咎(きようきう)有り。「便民圖」に云はく、冬月、鬼車、夜、飛び鳴く。聲、北よりして、南す。之れを「出巢」と謂ひ、雨を主(つかさど)る。南よりして北す。これを「歸巢」と謂ひ、晴を主る。周密が「齊東野語」に云はく、宋の李壽翁、長沙に守となる。曾(かつ)て此の鳥を捕へ得(う)。狀、野鳬(のげり)に類(るゐ)して赤色、身、圓(まどか)にして、箕(み)のごとし。十頸、環簇(くわんぞく)して[やぶちゃん注:輪のように連なって群がり。]、九頭有り、其の一、獨り無くして鮮血を滴らす。頸每(ごと)に兩翼あり、飛ぶときは、則ち、霍霍(かくかく)として[やぶちゃん注:砥石でシュッシュッと音を立てて研ぐような音を立てて、或いは鋭角になって、の意か。]並び進む。又、周漢の公主、病ひす。此の鳥、飛びて砧石(きぬたいし)に至りて、卽ち、薨ず。嗚呼(ああ)、怪氣の鍾(あつま)れる所や、妖異、此くのごとし。知るべからず。

   *

「檳榔」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ビンロウ属ビンロウ Areca catechu の実。長楕円形を成し、長さ五センチメートル前後で熟すとオレンジ色・深紅色となる。ウィキの「ビンロウ」によれば、『檳榔子を噛むことはアジアの広い地域で行われている。檳榔子を細く切ったもの、あるいはすり潰したものを、キンマ』(双子葉植物綱クレン亜綱コショウ目コショウ科コショウ属キンマ Piper betle )『の葉にくるみ、少量の石灰と一緒に噛む。場合によってはタバコを混ぜることもある。しばらく噛んでいると、アルカロイドを含む種子の成分と石灰、唾液の混ざった鮮やかな赤や黄色い汁が口中に溜まる。この赤い唾液は飲み込むと胃を痛める原因になるので吐き出すのが一般的である。ビンロウの習慣がある地域では、道路上に赤い吐き出した跡がみられる。しばらくすると軽い興奮・酩酊感が得られるが、煙草と同じように慣れてしまうと感覚は鈍る。そして最後にガムのように噛み残った繊維質は吐き出す』。『檳榔子にはアレコリン(arecoline)というアルカロイドが含まれており、タバコのニコチンと同様の作用(興奮、刺激、食欲の抑制など)を引き起こすとされる。石灰はこのアルカロイドをよく抽出するために加える』。『檳榔子には依存性があり、また国際がん研究機関(IARC)はヒトに対して発癌性(主に喉頭ガンの危険性)を示すことを認めている』。地面や『床に檳榔子を噛んだ唾液を吐き捨てると、血液が付着したような赤い跡ができ、見るものを不快にさせる。そのためか低俗な人々の嗜好品として、近年では愛好者が減少している傾向にあ』り、『台湾では現在、道路に檳榔子を噛んだ唾液を吐き捨てると罰金刑が課せられるため』、公道は概ね清潔になった、とある。

「Ratzel, ‘History of Mankind,’ trans. Butler, 1896, vol. i, p. 474」ドイツの地理学者・生物学者リードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 一八四四年~一九〇四年:社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とし、政治地理学の祖とされる)の英訳本。「Internet archive」の英訳原本のこちらの左ページにある、

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   The countless portents of death point to a life passed in a state of fear ; to these belong, among the Dyaks, the sight or the cry of an owl, snakes coming into the house, the falling of a tree in front of any one, a singing in the left ear, but most especially an abrupt change of mood.

   Invisible spirits fill up the gaps which intervene in the substances of visible things.  To them belongs in Javanese superstition the great race of the Jurigs ; when the other spirits have left a spot unoccupied you may be certain of finding Jurigs.  They become visible only occasionally as tigers or fiery serpents, actually they are evil spirits.  A milder form is found in the Ganderuva and Veves, who are equally indigenous to Java; mischievous cobolds, male and female, who torment men invisibly, most commonly by throwing stones, but also by bespattering their clothes with saliva dyed red by betel-chewing.  Resembling both these the Begus are conspicuous among the Battaks, all the more that their spirit world is otherwise completely embodied.  They are like a breath or bodiless air, to them belong the invisible spirits of disease, the only visible Begu is the dreaded Nalalain, the spirit of strife and murder, who may be seen creeping about in the evening with fiery eyes, long red tongue, and claws on his hands.  Apparently resembling him is Swangie the most dreaded of the Burungs of Halmahera, the evil one who creeps on the earth.  The Begus even try to take possession of corpses, and the incessant word -strokes of the Ulubelang or champions who surround the coffin in a funeral procession, are directed against them.

   *

が当該部である。「betel-chewing」が「キンマを噛むことで」の意である。

ダイヤツク人、カミヤツク魔、鳥の如く飛で孕婦を害し子生まるゝを妨げ、クロアー魔は、胸の正中に一乳房のみ有り、兒產まるゝや否、來て其頸を摑み、之を不具にすと信ぜるも似た事なり(T. F. Beeker, “The Mythology of the Dyaks,” The Journal of the lndian Archipelago and Eastern Asia, vol. iii, pp. 106, 113, 1849)」Internet archive」で原本を見ることが出来、「106」はここで、丁度、右手中央の段落から下部までがそれで、「ダイヤツク人」の綴りは「the Dyaks」で「ダヤク族(Dayak/Dyak)はボルネオ島に居住するプロト・マレー系先住民の内でイスラム教徒でもマレー人でもない人々の総称である。以下、「カミヤツク魔」は「第二の悪者」と称して「Kamak」とあり、「クロアー魔」の方はこちらの「113の頭に出、「kloā」である。

フユヤリース」fairies。妖精(英語:fairy/faery)の複数形。語源はラテン語「fata」(運命)に由来する。

ネレイヅ」ネレイス。ギリシア神話で海に棲む女神ら或いはニュムペー(ニンフ)らの総称。

「Hazlitt, vol. ⅰ, p.102 」既出既注のイギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「信仰と民俗学」。

「Bent, p. 14」既出既注のイギリスの探検家・考古学者・作家ジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。「Internet archive」で調べると、当該ページはここ頭。初行に出る「Nereids」がネレイスの英訳。

「老媼茶話十七章」作者は松風庵寒流或いは三坂春編(みさかはるよし 元禄一七・宝永元(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚(実録物も含む)を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序(そこでの署名が「松風庵寒流」)を持つ「老媼茶話(らうあうさわ(ろうおうさわ))」。三坂春編は三坂大彌太(だいやた)とも称した会津藩士に比定されている。私は完全電子化注をカテゴリ「怪奇談集」で終えている。「老媼茶話巻之三 天狗」を、どうぞ。

「著聞集アコ法師の事」「古今著聞集」の巻第十七の「變化第二十七」の「御湯殿の女官高倉が子あこ法師失踪の事」。

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 これも建保[やぶちゃん注:一二一三年~一二一九年。]の比、御湯殿(みゆどの)[やぶちゃん注:清涼殿の西北にあった帝の湯浴み所。]の女官(によくわん)高倉が子に、七歳になる「あこ法師」といふ小童(こわらは)ありけり。家は樋口高倉にてありければ、ちかぢかに小童部(こわらはべ)あそびともなひて、小六条へ行にけり。かいくらみ時(どき)[やぶちゃん注:夕暮れ時。]に、小六条にて、

「相撲(すまひ)とらん。」

とて、ねりあひたるところに[やぶちゃん注:ゆっくりと寄り合ったところが。]、うしろの築地(ついぢ)のうへより、なにとは見えわかず、垂布(たれぬの)のやうなるものの、うちおほふ、と見えける程に、この「あこ法師」、うせにけり。おそろしきこと、かぎりなし。かたへの童部、みな、にげぬ。恐れをなして、人にも、かくとも、いはず。

 母、さはぎかなしみて、いたらぬ所もなく求むれども、見えず。

 三日といふ夜の夜半ばかりに、女官が門を、ことごとく、たゝくもの、あり。恐れあやしみて、左右(さう)なくあけずして、内より、

「たそ。」

と問ふに、

「うしなへる子、とらせん。あけよ。」

と、いふ。

 猶ほ、おそろしくて、あけず。

 さるほどに、家の軒(のき)に、あまた、聲して、

「はあ。」

と、わらひて、廊(らう)の方(かた)に、物をなげたりけり。

 おそろしながら、火をともしてみれば、げに、うしなへる子なりけり。

 なへなへとして[やぶちゃん注:ぐったりとしてしまって。]、いける物にもあらず、物もいはず、ただ、目ばかり。しばたゝきけり。

 驗者(げんざ)・よりまし[やぶちゃん注:「憑坐」。靈を移しとるための少女。]など、すゑて、いのるに、物、多く、つきたり。みれば、馬のくそなりけり。三たらひばかりぞ、ありける。

 されども、なほ、物いふこともせず。

 「よみがへり」のごとくにて、十四、五ばかりまでは、生きてありし。

 「その後(のち)、いかがなり侍りけん。」

と、その時、見たりける人の、かたり侍しなり。

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「苗氏コラヷンバスクの諸民、產每に夫「クーヷード」して、妻と苦樂を俱にするの意を示し」「苗氏」はミャオ族。中国国内に多く居住する民族集団で、同系統の言語を話す人々はタイ・ミャンマー・ラオス・ベトナムなどの山岳地帯に住む。自称はモン族。「クーヷード」ウィキの「男のつわり」によれば、『未開社会では、妻が妊娠すると男性が産褥(出産用の寝床)につく真似をする風習をともなう地域があり、couvade』(クーバード。英語。)『(擬娩、擬産)と呼称される』とし、『妻が妊娠すると』、『夫の身体の調子が悪くなることをいう。福島県では「トモクセ」、岩手県沿岸地方では「男のクセヤミ」といい、ひどい人は妊婦と同じく汗をかいて衰弱し、嘔吐をもよおしたりもするが』、『妻の出産が終わると治る。「病んで助けられるのはクセヤミばかり」という民俗語彙もある。岩手県岩手郡では「クセヤマイ」、長野県下伊那地方では「アクソノトモヤミ(悪疽の共病み)」、奈良県高市郡地方では「アイボノツワリ」と呼ぶところがある』とあった。私は二十代の頃に読んだ、人類学の本で、ニューギニア辺りであったか、夫が実際の妻の産屋とは別に同じ形の贋の産屋を作り、そこで夫が出産の苦痛の叫びを挙げて、魔物を惑わすという同様の風習があることを読んだ(写し書きしたのだが、そのメモ帳自体が残念なことに書庫の底に沈んで出てこない)。これは、前にも書いた通り、民俗社会では、一つの人体に二つの魂が宿っている妊婦の状態は、魔物が侵入しやすい危険な状態と認識されるからで、非常に腑に落ちるのだが、本邦にも心因性の病的な状態として夫に起こるというのは初めて読んだ。興味深い。

「北ボルネヲには、產死の女、極樂え[やぶちゃん注:ママ。]直ぐ通りとす(Ratzel,ⅱ,p.479)」既出既注のドイツの地理学者・生物学者リードリヒ・ラッツェル(Friedrich Ratzel 一八四四年~一九〇四年:社会的ダーウィニズムの影響の強い思想を特徴とし、政治地理学の祖とされる)の英訳本。Internet archive」の英訳原本のこちらの右ページ中央やや下にある一節。

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For this reason, also, in North Borneo some sago palms are felled for every person who dies, and the wine which the living drink at the funeral feast serves equally for his refreshment.  The man who commits robbery and murder without reason is punished there if he has died without undergoing a penalty, and punished too by being pierced with a lance by another soul.  But the souls of all those who have lost their lives by a spear wound or in any other violent, manner, as well as women who have died in child-birth, arrive at a more desirable place, the residence of the gods. The Malagasies hold that their souls go into the air or on to the mountain, Ambongdrombe in the Betsileo country, which excites fear with its cloud-wrapped summit and the roaring of the storms. In their language we find echoes of a better hereafter; dead people are said to have gone to rest, among the Hovas indeed to have become divine.

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太字部分が当該する。

「反踵」「はんしよう(はんしょう)」。初生児に見られる概ね先天性の奇形に外反踵足(がいはんしょうそく)がある。足が外側に捩じれるように変形している。

「廢壘墓塚」「はいるいぼちよう(はいるいぼちょう)」。崩れた古い砦や墓や塚。

「安南」ヴェトナム。

「Landes, “Notes sur less Mœurs et Superstitions Populaires des Annamites,” Cochinchine Francaise, vol.ⅰ, p. 448, Saigon, 1880」フランス人でベトナムの管理官であったアントニ・ランデス(Antony Landes 一八五〇年~一八九三年)が一八八二年に刊行した「アンナンに於ける民俗と一般的迷信についての記録」。南方熊楠「本邦に於ける動物崇拜」の「海豚(イルカ)」の条で引用している。

「今昔物語卷十三、平季武之に値ふ話あり」既に『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)』の私の注で電子化してあるので参照されたい。

「倭漢三才圖會卷六十七、鎌倉產女寶塔の談あり」「相模」の部の「大巧寺(だいぎやうじ)」の一節。所持する原本から訓読して電子化する。〔 〕は私が附した読み。

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大巧(ぎやう)寺 妙隆寺近處に在り。【法華。】 寺領七貫二百文。

當寺、初めは眞言宗にて、大行寺と號す。而るに、日蓮、妙本寺に在りし時、法華と成る。日澄上人を以つて、開山と爲す。卽ち、妙本寺の院家なり。

産女(うぶめ)の寳塔 堂内に在り。一間四面、二重の塔。

相ひ傳ふ、當寺第五世日棟上人、毎夜、妙本寺の祖師堂に詣でて、或夜、夷堂橋の傍らより、産女の幽靈(ゆうれい)出でて、日棟の廻向を乞ふ。日棟、之れの爲めに廻向す。産女、䞋金〔しんきん〕一包を投じ、之れを謝す。日棟、用ひて、造立する所の塔なり。

曼荼羅 三幅。共に日蓮の筆【祈禱の曼荼羅・瓔珞〔やうらく〕の曼荼羅・星降〔ほしくだり〕の曼荼羅。皆、珍寳と爲す。】

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「䞋金」は施しのための金。ここでは、自身の廻向をして呉れたことへの謝礼の布施。この一連の説話については、大功寺公式サイトの「沿革」に詳細な現代語の「産女霊神縁起」PDF別ファイル)がある。一読をお薦めする。しかし、この記載は、どうにも、しょぼ過ぎる。鎌倉史を手掛けている私としては大いに不満がある。私の水戸光圀の「新編鎌倉志卷之七」から、私の注も併せて丸ごと引き添えておく(リンク先は私の古い仕儀なので一部で表記を変えた)。

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〇大巧寺 大巧寺(ダイギヤウジ)は、小町の西頰(ニシガハ)にあり。相ひ傳ふ、昔は長慶山正覺院大行寺と郷し、眞言宗にて、梶原屋敷(カジハラヤシキ)の内にあり。後(ノチ)に大巧寺と改め、此の地に移すとなり。梶原屋敷の條下に詳かなり。昔し日蓮、妙本寺在世の時、此の寺法華宗となり、九老僧日澄上人を開山とし、妙本寺の院家になれり。今二十四世なり。寺領七貫二百文あり。棟札に、延德二年二月廿一日とあり。

[やぶちゃん注:「梶原屋敷の内にあり」とあるのは「後に」「此の地に移す」で分かるように、この寺は元は十二所の梶原屋敷内にあった。寺伝によれば、源頼朝がこの十二所の大行寺で軍評定をして合戦に臨んだところ勝利を得たことから寺号を大巧寺と改め、その後にこの地に移転したとある。]

產女(ウブメ)の寶塔(ホウタフ) 堂の内に、一間四面の二重の塔あり。是を「産女の寶塔」と云ふ事は、相ひ傳ふ、當寺第五世日棟と云僧、道念至誠にして、每夜妙本寺の祖師堂に詣す。或夜、夷堂橋(エビスダウバシ)の脇より、產女の幽魂出て、日棟に逢ひ、廻向に預つて苦患を免(マヌカ)れ度(タ)き由を云ふ。日棟これが爲に廻向す。產女、䞋金一包(ヒトツヽミ)を捧げて謝す。日棟、これを受て、其の爲に造立すと云ふ。寺の前に產女幽魂の出たる池、橋柱(ハシバシラ)の跡と云て、今、尚、存す。夷堂橋の少し北なり。

寺寶

曼荼羅 三幅 共に日蓮の筆。一幅は、「祈禱の曼荼羅」と云ふ。「病則消滅 不老不死」の八字を書加ふ。日蓮、房州小湊(コミナト)へ還(カヘ)り、七十餘歳の老母に逢ふ。老母、頓死す。日蓮、悲哀にたへずして祈誓す。「弘法(グハフ)の功、むなしからずば、再び母の命(イノチ)を活(イカ)し給へ」と念じ了(ヲハ)つて此を書す。たちまちに氣を吐いて、よみがへる。命延ぶること、四年也、と云傳ふ。經文は散書(チラシガキ)也。妙本寺にも、是、あり。一幅は、「瓔珞の曼荼羅」と云ふ。上に瓔珞あり。一幅は「星下(ホシクダ)りの曼荼羅」と云ふ。日證、此を庭前の靑木に掛て日天子を禮す。時に、星下る。故に名く。其の靑木、今、猶を存す。

[やぶちゃん注:「妙本寺にも是あり」私の電子テクスト「鎌倉攬勝考卷之六」の「妙本寺」の「曼陀羅」の項に、日蓮の「臨滅度時の御本尊」と呼称される十界曼荼羅の画像を示してある。参照されたい。「瓔珞」は珠玉を連ねた首飾りや腕輪を言う。本来はインドの装身具であったが、仏教で仏像を荘厳しょうごんするための飾り具となり、また寺院内の蓮台などの宝華(ほうけ)状の荘厳全般をも指し、ここでは天蓋からぶら下げるタイプのものを指しているか。なお、上記の大巧寺公式サイトによれば、現在この二幅は本山の妙本寺霊宝殿に寄託されており、うち一幅が日蓮聖人による御真筆とされ、大巧寺が真言宗から日蓮宗に改宗した際のものと思われる、とある。そこには弘安二(一二七九)年のクレジットがあるらしい。「星下り」流れ星の出現は日蓮の奇瑞としてもしばしば語られている。]

無邊行菩薩の名號 壹幅 日蓮の筆。

[やぶちゃん注:「無邊行菩薩」日蓮宗や法華宗で言う「法華経」に登場する四菩薩(四士とも)の一人。上行(じょうぎょう)・無辺行・浄行・安立行(あんりゅうぎょう)。彼らは特殊な菩薩で、菩薩行の修行者ではなく、既に悟達した如来が末法救済のために再び再臨した大菩薩とされている。]

日蓮の消息 壹幅

曼荼羅 壹幅 日朗の筆。

舍利塔 壹基 五重の玉塔なり。

[やぶちゃん注:これは高さ約三十センチ程の、産女霊神神骨を収めたとされる水晶の五輪塔。非公開であるが、上記大巧寺公式サイトに画像がある。]

  已上

濵名(ハマナ)が石塔 北條氏政(ホウデウウヂマサ)の家臣、濵名(ハマナ)豐後の守時成(トキナリ)、法名妙法、子息蓮眞、母儀妙節、三人の石塔なり。

[やぶちゃん注:「北條氏政」(天文七(一五三八)年~天正十八(一五九〇)年)は戦国期の相模国の大名で後北条氏の第四代当主。武田信玄の娘婿で、武田義信・武田勝頼は義兄弟。父氏康の後を継ぎ北条氏の関東での勢力拡大に務めたが、豊臣秀吉との外交策に失敗、小田原の役を招いて最後には降伏、切腹した。「濵名豐後の守時成」については、ネット上に大巧寺の譜代旦那であったこと、現在の横須賀市にあった相模国三浦郡森崎郷に関わって、天正三(年二月十七日附の浜名時成証文写が現存し、「今度三浦森崎郷永代致買得候」とあり(「神奈川県史」による)、更に時成はこの森崎郷を買い取った後、鎌倉大巧寺に永代寄進しているという。さればこそ彼とその家族の墓がここにあるのも頷ける。]

番神堂(バンジンダウ) 濵名(ハマナ)時成建立すと云ふ。

[やぶちゃん注:「番神堂」とは三十番神を祀った堂のこと。三十番神は神仏習合の本地垂迹説による信仰で、毎日交替で一ヶ月(陰暦では一ヶ月は二十九か三十日)の間、国家や民を守護し続けるとされた三十柱の神仏を指す。鎌倉期に流行し、特に日蓮宗で重要視された。]

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因みに、この寺(「おんめさま」の通称で知られる)は、私の父が幼少の頃、初めて鎌倉に来た折り、この本堂に間借りさせて貰ったという貧しい時代の藪野家には甚だ因縁の深い寺なのである。さればこそ、敢えて詳しく添えた。

「耳袋中編に、產後死せる女、人に預たる嬰兒を抱きに來りし事を載す」紛らわしい書き方しておくれな、熊楠センセ! これは巻之二「幽靈なしとも難極(きはめがたき)事」でんがな! 「耳囊」は江戸の南町奉行(寛政一〇(一七九八))年として名奉行の名の高い旗本根岸鎭衞(しづ(ず)もり 元文二(一七三七)年~文化一二(一八一五)年)が書いた十巻全一千話からなる随筆で、私は六年弱かけて二〇一五年に全話の電子化訳注を終わっている

『肥後の人に聞けば、其地に「安からう」といふ怪あり、產婦の靈にして、雨夜に安かろうと呼ぶとこは難產を心配せし執念の殘りしと云ふ意か』不思議なことに、どこにも見つからない。何らかの方法で記録を残しておかないと、忘れ去られてしまう。ご存知の方は、是非、御情報を戴きたい。ここに追記したく思う。

「蒼鷺など夜燐光を放つ」「古今百物語評判卷之三 第七 叡山中堂油盜人と云ばけ物附靑鷺の事」の私の注で考証し、幾つかの怪談もリンクさせてあるので、そちらを読まれたい。なお、古くより怪を成すと誤認(真正の鷺の妖怪譚・怪奇譚は江戸以前のものでも――哲人の如く黙想しているかのように佇んでいる彼らにして予想外かも知れないが――実は極めて少ないのである)されたものは、「蒼鷺」とあっても、それは現在のペリカン目サギ科サギ亜科アオサギ属亜アオサギ亜種アオサギ Ardea cinerea jouyi ではなくて、サギ亜科ゴイサギ属ゴイサギ Nycticorax nycticorax であることが多い。

「Bent, op.cit, p. 181 にも希臘のシキノス島にて、夜戶外に乾せし衣は、香爐にて薰べし後ならでは、決して產婦と嬰兒に着せず、此島濕氣甚ければ、全く無稽の冗談に非じ、と云り」既出のイギリスの探検家・考古学者・作家ジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。「Internet archive」で調べると、原本の当該ページはここ。

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   For many days to come no one is allowed to enter the house after sunset, and mother and babe are strictly forbidden to wear clothes which have been exposed to the stars unless they have been fumigated by a censer. There is something practical in this rule, for in damp Sikinos everything that is exposed to the night air becomes impregnated with moisture.

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『今昔物語二十七卷三十章に、「今は昔、ある人方違えに、下京邊に幼兒を具して行けり、……』「今昔物語集」巻第第二十七の「幼兒爲護枕上蒔米付血語第三十」(幼(をさな)き兒(ちご)、護らんが爲めに枕上(まくらがみ)に蒔く米に、血(ち)、付く語(こと)第三十)。「□」は欠字。

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 今は昔、或る人、方違(かたたが)へに下邊(しもわたり)[やぶちゃん注:下京附近。]なりける所へ行きたりけるに、幼き兒を具したりけるに、其の家に、本(もと)より靈有りけるを知らで、皆、寢(ね)にけり。

 其の兒の枕上に、火を近く燃(とも)して、傍らに、人、二、三人許り寢たりけるに、乳母(めのと)、目を悟(さま)して、兒に乳(ち)を含めて、寢たる樣(やう)にて見ければ、夜半許りに、塗籠(ぬりごめ)の戶を細目に開けて、其より長(たけ)五、六寸許りなる、五位(ごゐ)共(ども)の、日(ひ)の裝束[やぶちゃん注:束帯姿。]したるが、馬に乘りて、十人許り次(つづ)きて、枕上より渡りけるを、此の乳母、

『怖ろし。』

と思ひ乍ら、「打ち蒔きの米(よね)」を、多らかに搔(か)き爴(つか)みて、打ち投げたりければ、此の渡る者共、

「散(さ)」

と、散りて、□□失にけり。

 其の後(のち)、彌(いよい)よ怖しく思ける程に、夜(よ)暛(あ)けにければ、其の枕上を見ければ、其の投げたる「打ち蒔きの米」每(ごと)に、血なむ、付きたりける。

『日來、其の家に有らむ』[やぶちゃん注:予定では、その家での「方違え」は数日に及ぶはずだったのである。]

と思ひけれども、此の事を恐れて、返りにけり。

 然(しか)れば、

「幼き兒共(ちごども)の邊(ほとり)には、必ず、『打ち蒔き』を爲すべき事也。」

とぞ、此れを聞く人、皆、云ひける。亦、

「乳母の心の賢くて、『打ち蒔き』をばしたる也。」

とぞ、人、乳母を讚めける。

 此れを思ふに、知らざらむ所には、廣量(くわうりやう)して[やぶちゃん注:うっかりとして。]、行き宿りすべからず。世には此(かか)る所も有る也、となむ語り傳へたるとや。

   *

実際、京の市街はおろか、内裏の中でさえも、古くからゴースト・スポットが意想外に甚だ多くあったことは御承知の通りである。しかし、私は、この枕元を過ぎて行く「小人の五位の行列」となると、即座に私の偏愛する「病草紙(やまひのさうし)」(絵巻。平安末から鎌倉初期頃に描かれた詞書附きの疾患や治療法を描いたもので、作者未詳)の、一般に「小法師の幻覚を生ずる男」と通称される一枚を真っ先に思い出してしまう(ネットにはいい画像がないね。yamasanの「桃山日記」の「病草子を読む その2」のこちらのブログ主のキャプション入りの画像をリンクさせておく)。さすれば、怪しくて「危険が危ない」のはマイクロ五位ゴブリンなんぞではなくして、この乳母自身である。視覚的幻覚を見るのは、かなり進行した統合失調症の可能性が高い。この童子も彼女のためにどうなったものか……判らぬぞ……

『御伽草子の「一寸法師」に、一寸法師「或時みつ物のうちまきとり、……』一寸法師の本格展開のプレ部分。岩波古典文学大系版を参考にして示す。一寸法師のゴブリン的な悪巧み部分で、元を読まれたことのない方は、結構、一寸法師が嫌いになるやも知れぬ(正直、私はこれで大学時代に「御伽草子」は嫌いになったのを思い出す。演習で一年掛かりで「物くさ太郎」だけを延々と講義されたのも別な原因の一つである)。

   *

 かくて年月送る程に、一寸法師、十六になり、せいはもとのまゝなり。さる程に、宰相殿に、十三にならせ給ふ姬君おはします。御かたちすぐれ候へば、一寸法師、姬君を見奉りしより思ひとなり、

『いかにもして、案をめぐらし、わが女房にせばや。』

と思ひ、ある時、みつものゝうちまき取り、茶袋に入れ、姬君の臥しておはしけるに、はかりことをめぐらし、姬君の御口(おくち)にぬり、さて、茶袋ばかり持ちて、泣きゐたり。

 宰相殿、御覽じて、御尋ねありければ、

「姬君の、わらはが、このほど、取り集めて置き候(さふらふ)うちまきを、取らせ給ひ、御參り候。」

と申せば、宰相殿、大きに怒らせ給ひければ、案のごとく、姬君の御口に、つきてあり。

「まことは。いつはりならず。かかる者を都に置きて何(なに)かせん。いかにも、失(うしな)ふべし。」

とて、一寸法師に仰せつけらるる。一寸法師、申しけるは、

「童が物を取らせ給ひて候ほどに、とにかくにもはからひ候へとありける。」

とて、心のうちにうれしく思ふこと限りなし。姬君は、ただ、夢の心地して、あきれはててぞおはしける。

   *

この「みつ物のうちまき」の「みつ物」はよく判らない。岩波では『みつきもの(貢物)の誤りか』と頭注(市古貞次校注)する。さすれば、次の注と連結する。

『「つゝを」米』現代仮名遣「つつおごめ」。「筒落米」。年貢米は「サシ米」(刺米・差米・指米)と呼ばれた品質検査を行った。竹筒の先を斜めに切った「サシ」と呼ばれる道具を用い、これを米俵へ突き挿し、その竹筒へ零れ入った米を調べた。その検査の後の、竹筒の米や、その作業の途中で俵から零れ落ちた米を「つつを米」と呼んだ。熊楠はその現実風俗としての落ち零れ散る米に、鬼を打ち払うために撒き散らす米という呪的機能が「今昔物語集」の話にも、「一寸法師」のそれにも(後者はその意味が二重に顕在化しており、このシークエンスの直後に奇体な島へ姫と二人して向かい、鬼退治が行われるのである)掛けてあるのを、甚だ興味深い、非常な古えより魔除けとして米を散布する習慣があったことを指示しているのである。この米の霊力「稲霊(いなだま)」のそれを用いた咒(まじな)いは、既に「源氏物語」にも見られるのである。

「Frazaer,‘Golden Bough’」イギリスの社会人類学者ジェームズ・ジョージ・フレイザー(James George Frazer 一八五四年~一九四一年)が一八九〇年から一九三六年の四十年以上、まさに半生を費やした全十三巻から成る大著で、原始宗教や儀礼・神話・習慣などを比較研究した「金枝篇」(The Golden Bough)。私の愛読書の一つである。]

★私の根岸鎭衞「耳囊」第一巻のブログ版のリンク集★

先ほど、南方熊楠の注作業で必要があって、2015年4月にとうに完成していた根岸鎭衞の「耳囊」が、実はその時点で記事数が1,000件を超えており、カテゴリ表示をしても、本ブログ・システムの制約で、第一巻の頭が表示されないことに、愚かにも、今頃、気づいた(本体だけで一巻百話で全十巻、全一千話なんだから、気がつかなかった私が阿呆なわけだ)。このカテゴリは、もう、増える可能性がまずないので、されば、余裕を考えて、以下の第一巻のリンクを作成し、ここに添えておくこととした。リンクの後は当時の公開日である。

耳囊 怪僧墨蹟の事 / 卷之一 全訳注完成 2010.01.30

耳囊 武邊手段ある事 2010.01.28

耳囊 異物又奇偶ある事 2010.01.27

耳囊 名君世の助を捨給はざる事 2010.01.26

耳囊 一心の決處願ひ成就する事 2010.01.25

耳囊 尊崇する所奇瑞の事 2010.01.24

耳囊 不思議なしとも難極事 2010.01.23

耳囊 前生なきとも難極事 2010.01.22

耳囊 土屋相模守御加増ありし事 及び 時代うつりかはる事 2010.01.21

耳囊 有德院樣御鷹野先の事 附羅漢寺御請殊勝の事 2010.01.19

耳囊 奇病并鍼術の事 2010.01.17

耳囊 舊室風狂の事 2010.01.16

耳囊 天命自然の事 2010.01.14

耳囊 人性忌嫌ふものある事 2010.01.13

耳囊 蜂の巣を取捨る呪の事 2010.01.12

耳囊 實母散起立の事 2010.01.11

耳囊 雷を嫌ふ事あるまじき事/碁所道智御答の事 2010.01.10

耳囊 信念に奇特有し事 2010.01.09

耳囊 人の運不可計事 及び 又 2010.01.08

耳囊 足利聖像の事 2010.01.07

耳囊 藥研堀不動起立の事 2010.01.06

耳囊 金春太夫藝評を申上し事 2010.01.04

耳囊 京都風の神送りの事 又は 忘れ得ぬ思い出 2010.01.01

耳囊 兩國橋幾世餠起立の事 2009.12.31

耳囊 大木口哲大坂屋平六五十嵐狐膏藥江戸鄽最初の事 2009.12.30

耳囊 澤庵壁書の事 / 200000アクセス記念テクスト暴露 2009.12.23

耳囊 山中鹿之助武邊評判段の事 2009.12.23

耳囊 物は一途に無候ては成就なき事 2009.12.21

耳囊 鬼谷子心取物語の事 2009.12.19

耳囊 松平康福公狂歌の事 2009.12.16

耳囊 井伊家質素の事 2009.12.14

耳囊 頓智不可議事 2009.12.12

耳囊 戲書鄙言の事 2009.12.10

耳囊 江戸武氣自然の事 2009.12.09

耳囊 天道の論諭の事 2009.12.06

耳囊 下賤の者にも規矩見識のある事 2009.12.05

耳囊 弓術故實の事 2009.12.04

耳囊 江戸贔屓發句の事 2009.12.01

耳囊 水野家士岩崎彦右衞門が事 2009.11.29

耳囊 小刀銘の事 2009.11.28

耳囊 酒井忠實儉約を守る事 2009.11.27

耳囊 紀州治貞公賢德の事 2009.11.24

耳囊 儉約を守る歌の事 2009.11.23

「耳囊」公開分総てに『○前項連関』注追加 2009.11.22

耳囊 犬に位を給はりし事 2009.11.22

耳囊 河童の事 2009.11.21

耳囊 惡女歌の事/女をいましめし歌の事 2009.11.20

耳囊 諺歌の事 2009.11.19

耳囊 大通人の事。并圖 2009.11.18

耳囊 烏丸光榮入道卜山の事 2009.11.17

耳囊 池田多治見が妻和歌の事 2009.11.16

耳囊 相學奇談の事 2009.11.15

耳囊 狂歌の事 2009.11.14

耳囊 下わらびの事 2009.11.13

耳囊 妖怪なしとも極難申事 2009.11.12

耳囊 大岡越前守金言の事 2009.11.11

耳囊 柳生家門番の事 2009.11.10

耳囊 柳生但馬守心法は澤庵の弟子たる事 2009.11.09

耳囊 爲廣塚の事 2009.11.08

フルベフルヘト解読2009.11.07

耳囊 傾城奸計の事 2009.11.07

耳囊 不義には不義の禍ある事 2009.11.05

耳囊 山事の手段は人の非に乘ずる事 2009-11-03

耳囊 金精神の事 / 陽物を祭り富を得る事2009-10-29

耳囊 怨念無之共極がたき事2009-10-24

耳囊 微物奇術ある事2009-10-23

耳囊 藝は智鈍に寄らざる事2009-10-22

耳囊 鼻金剛の事2009-10-21

耳囊 金春太夫の事2009-10-20

耳囊 燒床呪の事 / 蠟燭の流れを留る事2009-10-18

耳囊 羽蟻を止る呪の事(☆既公開分を全文掲載方式に改造の上、ブログ・カテゴリ「耳囊」創成した)2009-10-17

耳囊 石谷淡州狂歌の事2009-10-15

耳囊 大陰の人因果の事 ≪R指定≫2009-10-14

耳囊 御力量の事2009-10-13

耳囊 人の精力しるしある事2009-10-12

耳囊 奇術の事2009-10-11

耳囊 貨殖工夫の事2009-10-10

耳囊 長尾全庵が家起立の事2009-10-09

耳囊 妖氣不勝強勇に事2009-10-08

耳囊 南光坊書記を寫せる由の事2009-10-07

耳囊 和國醫師僧官起立の事2009-10-07

耳囊 淨圓院樣御賢德の事2009-10-05

耳囊 仁君御慈愛の事2009-10-04

耳囊 やろかつといふ物の事/ちかぼしの事2009-10-03

耳囊 萬年石の事2009-10-01

耳囊 觀世新九部修行自然の事2009-09-30

耳囊 惡敷戲れ致間敷事 附惡事に頓智の事2009-09-29

耳囊 兩國橋懸替の事 / 盲人かたり事いたす事2009-09-27

耳囊 有德院樣御射留御格言の事 附 御仁心の事 / 積聚の事2009-09-26

耳囊 小野次郎右衛門遠流の事 附御免にて被召歸事2009-09-24

耳囊 小野次郎右衛門出世の事 附伊藤一刀齋の事2009-09-23

耳囊 下風道二齋が事2009-09-22

根岸鎭衛「耳囊」10巻1000条全テクスト化全やぶちゃん訳注プロジェクト始動 禪氣狂歌の事2009-09-22

奥州ばなし めいしん

 

     めいしん

 

 「めいしん」といふ法《ほふ》、有《あり》とぞ。

 是は、出家の災難に逢し時、身をのがるゝ爲の心がけにして、一生一度とおもふ時、おこなふ法なり。

 ある和尙、「この法をしりたる」といふことを、橋本正左衞門といふ人、聞《きき》つけて、若きほどのことなりしが、奇なることをこのめる本性なりしかば、【正左衞門は、近親の内、伊賀三弟《さんてい》に八弥《はちや》と云《いふ》人、養子にせしかば、正左衞門の傳は八弥が語《かたり》しなり。】一しきりに習得《ならひえ》たく思《おもひ》て、和尙にしたしみて、常に行《ゆき》つゝ、夜ばなしのゝち、とまりなどせしことも多かりき。ことにふれつゝ、

「其法を傳へ給はらん。」

と、こひけり。

 和尙の曰《いはく》、

「やすきことながら、今、少し、心さだまらば、つたへ申べし。」

とて、ゆるさず。

 其寺に、幼年よりつとめし小性《こしやう》の有しが、是も正左衞門に先立《さきだち》て、

「我、ならはゞや。」

と、いどむ心有しが、正左衞門、其執心によりて、和尙にしたしむを、

『もし、先《せん/さき》こされなば、くやしからん。』

と思《おもひ》て、しきりに、

「法を習はん。」

と、ねがひしかば、和尙も、もだしがたくや有けん、

「さほど深切に願《ねがふ》ことならば、つたふべし。さりながら、正左衞門も、あの如く願《ねがひ》をるを、『そこにばかり傳へし』と聞かば、うらむべし。必《かならず》、他言無用なり。」

とて、ひそかに傳へたりしとぞ。

 正左衞門は、例の如く、夜ばなしして、とまりゐしに、十月末のことなりしが、宵はさしもなくて、夜(よ)の間に、雪の降つもりしを、音なければ、誰《たれ》もしらざりしを、丑(うし)みつともおぼゆる頃、

「ばつたり」

と、大きなる音のせしかば、和尙はもちろん、正左衞門も、とびおきて行《ゆき》てみしに、和尙のはだつきゞぬを、晝、洗《あらひ》て、棹に懸て置たりしを、宵には雪のふらざりし故、とりも入《いれ》ざりしに、おほく雪のかゝりしかば、物有《ものあり》げに見えしを、かの小性、目もろくにさめずに小用たしにおきて、ふと、見つけ、

『大入道《おほにふだう》の立《たち》て有《あり》。』

と思ひて、

『是や、一世一度の難ならん。』

と、このほどならひし法をかけしに、あたらしき木綿肌着をかけたるが、棹共《とも》に、切物《きれもの》にて、きりたるごとく、眞二《まつふた》つにさけたる音にて、有《あり》しとぞ。

 小性は、おもてもあげず、ひれふしながら、

「眞平御めん被ㇾ下《まつぴらごめんくだされ》。」

と、わびゐたり。

 和尙、大《おほい》に立腹して、

「それみよ。『心の定まらぬうちは、ゆるしがたし』といひしは、爰《ここ》ぞや。にくきやつかな。多年、目かけて召仕《めしつかひ》しも、是切《これきり》ぞ。明朝、早々、立《たち》され。」

と暇《いとま》申渡し、正左衞門にむかひ、

「そのもとには、たゞ愚僧が法をゝしむとのみ、思はれつらんが、あれぞ、手本《てほん》なる。心定まらぬ人にゆるせば、けが有《ある》のみならず、法もかろく成行《なりゆく》なり。かならず、うらみ給《たまふ》べからず。是は、幼年より召つかひしもの、他事なく願《ねがふ》故、『心もとなし』とは思ひつれど、ゆるしたりき。かくの如くの、けが、有《ある》ことにては、我さへ、こりて、さらに人には、つたへがたし。」

と云《いひ》しとぞ。

 其小性には、二度おこなひても、しるしなき、「けし法《ほふ》」をかけて、早々、追出《おひいだ》されしとぞ。

 正左衞門も、

『實《げ/まこと》に、おそろし。』

と、思《おもひ》て、ならはざりし。

「法といふものは、不思議のものぞ。たゞ、となへごとせしばかりにて、棹と、ひとへぎぬのさけたるは、あやしとも、あやしかりき。」

と、常に語《かたり》し、とぞ。

 

[やぶちゃん注:本篇では「法」は「はふ」ではなく、総てを「ほふ」で読むこととした。通常一般の「法」の歴史的仮名遣は「はふ」であるが、仏教用語に於いては有意に「はふ」と読むからである。ここは密法中の秘中の秘術なればこそ、かく読んでおいた。

「めいしん」「めいしんといふ法」中国由来の「禅密気功」なるものが現存し、それを伝えるサークルも実際にあり、そこに「明心法」なるハイ・レベルの気功法があり、ある当該サークルの解説には、遠隔を含む「以心伝心」が可能となるように「三位一体」の精神状態に貫入し、「心」を悟ることが出来る気功法という解説がなされてあったが、それと同じとも思われない。但し、「めいしん」に当てる漢字としては腑には落ちるし、小姓(しばしば「小性」とも書く)の成した、その鎌鼬的斬法にもマッチするようには思われる。

「橋本正左衞門」不詳。

「正左衞門は、近親の内、伊賀三弟に八弥と云人、養子にせしかば、正左衞門の傳は八弥が語しなり」この真葛の割注は、「私の近親のうちに、夫只野行義(つらよし)伊賀を長兄とする三兄弟おり、その内の八弥と通称する人が正左衛門を養子に迎えたので、この正左衛門直話のこの話は、私自身は、その八弥から直接に又聴きして書き取ったものである」の意であると採る(「弥」の通称漢字は、当時の通行作品や地下文書などでも、「彌」ではなく「弥」と表記されることが多いので、敢えて正字にはしなかった)。真葛の怪奇談集が非常に優れている点は、徹頭徹尾、実話譚であることを、本篇内の表現でも、また、こうしたわざわざ添えた割注でも、注意深く、しかもわざとらしくなく、ごく自然に配慮されて叙述してある点にある。これは、糞のように見え見えな、確信犯の創作怪奇談が蔓延していた(現代のそれも九十九%がそうだ。だから、少しも怖くない)当時にあっても、特異的に真実味を細かな部分にまで施してあることにある。これは、近世怪奇談集の中でも飛び抜けていると言ってよく、しかもそれが数少ない女性作家によって成されている点でも、もっと広く知られてよいと私は思っている。

「切物」名物の太刀・刀。

「となへごとせしばかりにて、棹と、ひとへぎぬのさけたるは、あやしとも、あやしかりき」竿と下着は雪の中で氷に近い温度まで下がっているとはいえ、有意に降り積もって大入道の影に見えるほどになった柔らかな雪の被ったそれを、例えば大太刀であっても、一太刀で、「ばらりずん!」と、一刀両断に成すことは、当時の人を斬ったこともない多くの武士にも到底、出来まいという気がする。「めいしんの法」、恐るべし!]

2021/01/12

奥州ばなし 猫にとられし盜人

 

     猫にとられし盜人

 

 奧の正ほう寺、消失のこと有《あり》しのち、諸國の末寺へ、納物《をさめもの》の事、沙汰有しに、江戶なる德安寺は末寺につきて、半鐘と雙盤(そうばん)をわりつけられしに、其品、出來《しゆつたい》せしかば、和尙、

「持參して、奧へ旅立《たびだつ》。」

とて、曉天に立《たち》て、千手《せんじゆ》[やぶちゃん注:千住のことであろう。]に小休《しやうきふ》して有し時、

「希代の珍事、出來《しゆつたい》せし。」

とて、寺より、飛脚、追付《おひつき》たり。

 その故は、

「和尙、立後《たちしのち》、人、少《すくな》なるを見込《みこみ》て、盜人《ぬすびと》の、『内をうかゞふ』とて、障子の紙を、舌にてぬらし、穴を明《あけ》んとせしを、かねがね、和尙のひぞうせし猫の、其所《そのところ》にふしゐたりしが、舌の先へ、とび付《つき》て、かたくゝはへて、はなさず。盜人は、思ひよらぬこと故、もだへ、くるしみ、障子ごしに、猫をつよくひきしかば、いよいよ、猫も强く食《くひ》たりしほどに、人々、音を聞《きき》つけて、見しに、猫もころされしが、盜人も死《しし》たりき。」

と告《つげ》たりける。

 和尙、つぶさに、ことのよしを聞て、猫を哀《あはれ》とかんじ、又々、もとの寺に歸りて、猫と盜人のあとをとぶらひ、しるしの石をたてゝのち、奧には下りしとぞ。

 此僧、最上《もがみ》、出生《しゆつしやう》なり。幼年より、出家のこゝろざし、深切なりしが、勝《すぐれ》たる美僧にて有しかば、十八、九のころ、娘子共(むすめごども)のしたふこと、さわがしかりしを、自《おのづと》うれひて、廿一、二の頃なりしに、寺に、談義有て、人、多くつどひし時、諸人のみる前にて、羅切《らせつ》したりき。

 生國《しやうごく》のもの共《ども》は、感じ、たふとみし、とぞ。

 最上より來りし、はしたばゝの、ことのよしをよくしりて、語《かたり》し、まにまに、しるす。

 出家の道に忠《ちゆう》有し故、手ならせし猫も、信《しん》有て、主《あるじ》の爲に命をすてしなるべし。

 

[やぶちゃん注:「正ほう寺」奥州にこの名の寺は幾つかあるが、恐らくは最も知られた、東北地方で最初に開創された曹洞宗古刹で仙台藩主伊達氏の帰依を受けていた、岩手県奥州市水沢黒石町字正法寺にある大梅拈華山圓通正法寺(しょうぼうじ)のことではないかと思われる。南北朝時代の貞和四(一三四八)年に無底良韶禪師によって開山された寺である。

「消失」回禄による焼失。

「德安寺」不詳。この名の寺は現存せず、「江戸名所図会」にも載らない。名前が違う可能性が高いが、所在地の片鱗も真葛は記していないのを恨みとする。なお、先の正法寺の公式サイトによれば、現在も七十三ヶ寺の末寺を有するとし、宗門において特別の格式を保持する古刹として広く知られているとある。正法寺に直接聞けば、答えは出るかも知れぬが、そこまでやる気はない。悪しからず。

「雙盤(そうばん)」底本表記は『双盤』。仏具としての金属製の打楽器。台に伏せ置きに据えるか、木製の吊り台に吊って槌状の木製の桴(ばち)で打ち鳴らすもの。「鉦」「鉦鼓」とも呼ぶ。「双盤」の名称は、本来、二つ一組で用いたことに由来するものの、現在は一つだけで用いられることが多いようである(参考にしたサイト「浅野太鼓楽器店」のこちらで画像が見られる)。

「最上」山形県最上郡附近(グーグル・マップ・データ)。

「羅切《らせつ》」男根(陰茎)を切除すること(睾丸も含めて切除する場合もかく呼ぶ)。本邦の仏教では修行の妨げになるという意味で、インドの悪魔「マーラ」に由来する「魔羅」という隠語で男性器を呼んだことから、その「魔羅」を「切断」するという意で「羅切」と呼ばれるようになった、とウィキの「羅切」にある。]

奥州ばなし てんま町

 

     てんま町

 

 仙臺新てんま町といふ所に、小鳥をかひ、鉢植《はちうゑ》のつぎ木などして、世をわたる人、有し。文化十年[やぶちゃん注:一八一三年。]の頃、四十ばかりと見えたり。何方《いづかた》の生《うまれ》といふことを、しらず。武藝は何にてもたづさはらぬこと、なし。分《わけ》て、

「馬をよくせし。」

とて、

「のりて見たし。」と、常に云しとぞ。【武藝にたづさはりしをもて思へば、武士の末なるべし。】

 はじめは、妻をも具したりしが、久々《ひさびさ》、病氣にて、終に、むなしくなりしを、

「人の生死《しやうじ》は天より給はるもの。」

とて、さらに、藥用も、くはへず、貧、極りて、食事さへ、心にまかせずして終《をは》らせしが、いづくよりとり出《いだし》けん、金三兩を布施にして、院號をこひうけしを、近邊の人、とがめていはく、

「三兩の金、たくはへあらば、妻女、存世中、藥用をもくはへ、食事をもこゝろよくさせて、看病せよかし。死《しし》て後、名のみ高くつきたりとて、何の益かあらん。」

と、もどき云《いふ》[やぶちゃん注:逆らって非難して言う。]を、此人、かしらをふりて、

「いや、さにあらず。虎は死て皮をのこし、人は死て名を殘《のこす》。藥用・食事についえをかけしとて、死《しす》べき命の、とゞまること、なし。是は、上なき、あつかひなり。」

と、そこ淸く思ひとりしていにて、いさゝかも悔《くい》の色なかりしとぞ。

 獨身《ひとりみ》となりては、一衣《いちえ》の外、たくはへなく、冬になれば、家の内、一面に土穴《つちのあな》をふかくほり、あたりに段をつけて、鉢植をならべ、其中に琴をひきてたのしみ、寒をしのぎゐしとぞ。

 詩歌俳諧などのたぐひ、遊藝、すベて、勝《すぐれ》たり。「いやしからぬ人の、なり下りたるならん」と察しられたり。【記者の思へらく、かゝる人には、添《そひ》たくなし。】

 

[やぶちゃん注:「仙臺新てんま町」現在の宮城県仙台市青葉区中央(仙台駅及びその西方)附近(グーグル・マップ・データ)の旧町名。公園(ドットした)名やビル名に今も残る。

「そこ淸く思ひとりしていにて」「底淸く思ひ取りし體(てい)にて」。心中深く清貧の思いを強く守っている様子で。

「記者の思へらく、かゝる人には、添たくなし」真葛の半生の経験や個人の女としての痛烈な述懐が、ガツンとくる。]

奥州ばなし 乙二

 

     乙 二

 

 片倉小十郞、領地なる白石に、「千壽院」と言《いふ》山伏、有《あり》き。元來、風流をこのみ、雅情に心をなげうちて、祈禱・守札《まもりふだ》などのことは、「わけもなきもの」と思《おもひ》ながして、「乙二《おつに》」といふ俳諧師なりしが、其やど守《もり》に、越後より來りし夫婦の者、おきたりし。心だてあくまで正しく、身をゝしまず、人の爲にはたらくをもて、心のたのしみとし、たぐひなき慈悲心の者なりしが、さる故にや、はじめ來りし時は、夫婦ともさしつゞりたる袢纏(はんてん)を着て有しが、次第に仕合《しあはせ》よく、今は、馬をも、たておくほどになりし。其ほとり、娶《よめ》とり・聟《むこ》とり、又、凶事等にて、いそがしきことの有折りは、しる・しらぬをわかたず、未明に行《ゆき》て、夫は薪《たきぎ》をわり、婦は水を澤山にくみ入《いれ》、手つだひて、すぐにかへり、野かせに[やぶちゃん注:連字するこの「に」の右手に編者による衍字指示と思われるママ注記がある。]にかゝり、ふるまひには、あづからず。是、常の諸業なり。稀代(きたい)の夫婦とて、人々、ほめものにしたり。

[やぶちゃん注:本話は本書の中でも長いもので、特異的に段落ごとに注を附した。

「片倉小十郞」伊達家の古くからの名臣の家系片倉家の直系子孫。初代は伊達政宗の近習にして後には軍師的役割を務めたとされる片倉景綱で、通称の「小十郎」は代々の当主が踏襲して名乗るようになった。

「白石」現在の宮城県白石(しろいし)市。白石城(グーグル・マップ・データ)は景綱が政宗から下賜されている。

「千壽院」後は『「乙二」といふ俳諧師』と(脱字が疑われる)「なりしが」で、同一人物である。この人物、奥州白石の俳人として実在し、しかも小林一茶や夏目成美と親しい友人でもあった。中田雅敏氏の筑波大学学位論文「小林一茶の生涯と俳諧論研究」(二〇一六年。PDFでダウン・ロード可能)によれば、本名・通称を岩間清雄(宝暦五(一七五五)年~文政六(一八二三)年)で、俳人としては松窓乙二と称した。論文の注「57」に(下線は私が附した)、『陸奥国白石の亘理山千手院権大僧都岩間清馨の息の修験者として京都、江戸、蝦夷地函館、松前、東北、北陸を行脚している』とあり、俳『風は「芭蕉よりもなお悄然としてわびに徹し」とされた(『白石市史』、一九八一年)。中村真一郎の『蠣崎波響の生涯』(新潮社、一九八九年)に詳述されている』とあり、論文内にも書かれてある通り、当時、拿捕されたゴローニンを函館で目撃するなど、ただ者ではない。平凡社「世界大百科事典」では、生年を宝暦六年とし(諸辞書も同じ)、『江戸後期の俳人。姓は岩間,通称は清雄,松窓と号す。奥州白石の人』で、享和三(一八〇三)年に『江戸に出』、成美・巣兆・道彦らと交わり「はたけ芹(せり)」を刊行し、文化七年から十年(一八一〇から一八一三年)にかけては、『北海道滞在をはじめとし』て、『越後などに旅を重ね』たとする。芭蕉・『蕪村を慕った化政俳壇の雄で』、『誠を重んじ』、『作風は感覚的また重厚閑寂である。没後』に「乙二七部集」が編まれた』と記し、「夏霧にぬれてつめたし白い花」の一句を引いている。

「やど守」留守番。以上の通り、若き頃より乙二は各地を行脚して、家を空けていたのである。後で出るが、乙二には嫁はいる。

「馬を」「たておく」馬を飼い養う。

「野かせ」「野良稼ぎ」の略であろう。農耕。

「ふるまひには、あづからず」所持手伝いの御礼や報酬は一切、受け取らなかった。]

 

 扨、その所の足輕に、大のあばれもの有て、諸人、もてあましたりし。又、百姓にも、同じたぐひのもの有、兩親もなし、妻に成(なる)人もなくて、心まかせにあぶれありきしが、この兩人、酒醉(さけゑひ)のうへ、口論におよび、兩方、名におふあくたれどし[やぶちゃん注:「同士」。]、おそろしさに、よりつく人もなかりしに、終に刄傷にいたりて、足輕を、百姓の切ころして有し。折節、他より來りゐし野良山伏、通《とほり》かゝり、このていを見るより、百姓をたすけて云《いはく》、

「其方、人をころしては、命たすかるべからず。我は見のがし得さすべきまゝ、早くこの地を立されかし。」

と、をしへたりしに、百姓は、いまだ酒きげんや、さめざりつらん、

「かほどの惡人をころせしに、いかで、にげかくることのあらん。いらざる山伏の心ぞへや。」

と、ほこりゐたり。

 山伏は、云かけしことも、どかれて[やぶちゃん注:「退(ど)かれて」。退(しりぞ)けられて。]、『にくし』とや思つらん、

「爰を立さらばこそ、見のがさんとはいひつれ、その儀ならば、われも通《とほり》かゝりて、たゞには、過《すぎ》がたし。いざ、我にしたがひ來れ。」

とて、役所へつれゆき、有しこと共《ども》を云《いひ》あげしに、足輕を、まさしう、ころせしうへは、所仕置《ところしおき》とて、論なく、首をはねられたりし。

[やぶちゃん注:「所仕置」仙台藩内にあった支配・法制度で、罪科が判然としていて、「所仕置」と確定するや仙台から当該地に速やかに引き戻された上、当地のまさに足軽組の者が罪人の刑執行を行ったもののようである(諸論文を参照)。]

 

 所にては、

「二人の惡者、一度にうせたり。」

とて、悅《よろこび》ゐしに、かのやど守夫婦、その夕方かせぎも仕廻《しまはし》て、家にくつろぎゐて、たばこのみながら、ふと、語いでゝ、

「人には、もてあまされし人々なりしが、誰それの御仕置になりしこそ、思へば、ふびんなれ。跡とふ人も、なきに。」

と、夫のいへば、婦も、

「げに。さなり。心がらとはいひながら、今更、いとほしきことなり。いざ、我々兩人して、なきがらを納《をさめ》つかはさばや。」

といふを、夫も、

「されば、仕事もしまひたれば、それ、よからん。」

と、いひ合せて、やどをたち出しは、七ツ半[やぶちゃん注:午後五時。]頃なりしと。

 棺箱をとゝのへて、仕置場迄は、【大道[やぶちゃん注:通常の里単位。]。】壹里餘も有所を、夜にかゝりて行て、【深切のいたり極れば、きたなし、おそろしとも、思はざるものなるべし。なみなみの人の思《おもひ》よりがたきこと共なり。】から[やぶちゃん注:「骸」。]を納《をさめ》、夫婦、さしになひて、其ほとりの寺にいたりて、

「かくかくの次第なり。餘りふびんに存《ぞんぜ》らるゝまゝ、わたくし共夫婦にて、からを納參りたり。法號をさづけ給はらん。」

と、こひしとぞ。

 俗さへ、かほどの功德をおこなふこと故、法師は一言もいふことなく、何とか書《かき》てとらせしを、とりをさめ、

「さて。とてもに、御さしつかへなくば、此寺中へ、此からを、かくしたし。」

と願し故、住持も感じ入《いり》て、

「さほど思はゞ、藪の際《きは》になりとも、をさめよ。」

と云《いひ》し故、兩人して、穴を堀《ほり》[やぶちゃん注:漢字はママ。]て埋《うづ》め歸りき。

 扨、法號は、佛壇へも入《いれ》がたければ、出入口の柱にはりて、あかしをかゝげ、飯を備へなどして置《おき》しとぞ。

[やぶちゃん注:「俗」この場合はこの奇特な夫婦(の行い)を限定して指す。

「何とか」戒名を聴き及んではいたが、真葛が忘れたものであろう。]

 

 此妻女、あしき積(しやく)[やぶちゃん注:差し込み。]ぞ、もちて、おこる時には、本性《ほんしやう》なく成《なり》て、のけさまに、たふれて、くるしむ、となり。月には兩三度[やぶちゃん注:何度も。]、きはめて[やぶちゃん注:激しく。]、おこりしを、このから、はうむりて後、絕ておこらねば、

「心やすし。」

と悅ゐたりしとぞ。

 ある日、かの野良山伏、守札《まもりふだ》を持《も》て來りしを、とりいれて、壁に張《はり》しに、【のら山伏、みだりに札を引《ひく》ことも、乙二がおこたりより、おこりしことなり。】其夜、例の積《しやく》つよくおこりて、くるしみ、たへがたく、乙二が嫁も行《ゆき》て、介抱して有しに、次の夜夫婦の夢に、からを納《をさめ》られし百姓みえて、しめすやう、

「我身こと、誠に思ひよらぬ御とぶらひにあづかり、御かげにて成佛いたせしこと、重々有がたく、御禮盡しがたし。されば、我は何もいたすべきこともなし。婦人の身に、あしき積をもたれしを、せめての御禮に、御一生おこらぬやうに守らんと思ひしに、このほど、參りし山伏の爲に、ころされし身にさふらへば、あの山伏の引《ひき》たる守札の候《さふらふ》ては、われは此所に居《をる》ことあたはず、立《たち》さりし故、又々、御積はおこりしなり。守札をだにとりすて給はらば、又もとの如く、御積をまもるべし。」

と、つげしとぞ。

 夫婦は奇異の思《おもひ》をなし、翌朝、早々、守札をとりすてつれば、積は、跡もなく直りしとぞ。

「かゝる野良山伏の引し守札も、かほどのしるし有《ある》からは、けなすべき事、ならず。」と、乙二も大《おほい》に感心して、不動尊を祈《いのり》奉りしとぞ。

 野良山伏も、

「のらものゝ分《ぶん》として、百姓を引立《ひきたて》、しまつせしこと、あし。」

とて、所を拂はれたりき。

 伊勢の尼は、俳人の便《たより》によりて、乙二が方に逗留せしなり。乙二が娘は、松井其甫《きほ》といふ醫師の妻なりし故、尼も此所にては其甫が方を、やどゝせしなり。

[やぶちゃん注:「のら山伏、みだりに札を引《ひく》ことも、乙二がおこたりより、おこりしことなり」本来なら、乙二も修験者であるからして、彼が咒(じゅ)した守り札を屋敷に張るべきであるところを、修験者のくせに祈禱も守り札も効果は怪しいと常日頃考えている乙二が、そうした心遣いを怠って全くしなかったことを指す。

「伊勢の尼」不詳。女流俳人で、しかも真葛の知り合いであったのであろう。則ち、この話も、直接にはこの伊勢の尼なる人物より親しく聴いたものだったのであろう。彼女が医師の娘であったとする点からも(真葛の父は仙台藩江戸詰医師であった工藤周庵平助(享保一九(一七三四)年~寛政一三・享和元(一八〇一)年)であった)、親和性が認められる。

「俳人の便によりて」俳人である乙二の俳句仲間の関係から。

「松井其甫といふ醫師」不詳。]

怪談登志男 五、濡衣の地藏

 

    五、濡衣(ぬれぎぬ)の地藏

 攝州大坂、西の御堂の東に、金銅丈六の地藏ありしが、何の頃、いづくの冶工(いりし)が鑄(い)たるとも、誰(た)が納めしとも、知る人さへなくて、衣體、綠の錆(さひ)、生じて、最(いと)舊(ふり)たる像なりしが、いつの頃よりか、此像、夜な夜な、出て、寺中を𢌞り、或時は庫裏(くり)に來り、食事をなし、樣々、稀有成事あるよし、風聞せり。

 其頃、此寺に、美童、あまた有ける中に、「犬丸(いぬまろ)」と云ける兒(ちご)、すぐれて、僧俗ともに、心を懸(かけ)ざる者も、なし。

 或夜、寺内の人、用事有て、堂の後(うしろ)の小路(こうぢ)を通りけるに、地藏の臺より、一人の僧、立あらはれ、方丈の方に行を、怪しび思ひ、慕ひて見れば、間每(まこと)の戶を明け、奧ふかく、入ぬ。

 此事を人に告(つげ)ければ、起(おき)出て、うかがふに、犬丸が閨(ねや)に入ぬ。

 かくて後、每夜、忍(しのび)入ければ、上人、犬丸を密(ひそか)に呼(よび)て、

「汝が方へ通ふものは、誰(たれ)なるらん。つゝまず、語るべし。」

と、きびしく問(とは)れ、犬丸、せんかたなく、

「いか成人とはしらず、幾夜か通來(かよひき)ぬれど、はじめの程は、堅く防ぎさふらひしかども、さまざま、詫(わび)、いろいろにかこち、『汝が難儀ともなるべくば、是を、人に見せよ、誰(たれ)咎(とが)むる者も、あらじ』と。」

守り本尊の、ちいさきづしに入たるを、蜀錦(しよくきん)の袋に入しを、取出したるを見るに、まさしく一山の棟梁、當寺の法主(ほつしゆ)と仰ぎ奉る上人、平生(へいぜい)、尊信まします所の本尊なり。

「扨は。まぎるべうもなき、門主にてましましけるぞや。はしたなき御ふるまひかな。」

と、寺中の役者も、夜、いねず、遠見して、犬丸が部やをうかゞひけるに、其夜、また、忍び來りしを、犬丸、つくづくおもひけるは、

『何人にもせよ、我も仇(あた)なる名をたてられ、ゆびざさるゝも恥しく、且、又、忍びし人の名をも漏らしぬれば、其人に對しても、口惜しき次第なり。此人を指殺(さしころ)して、われもともに、死なんものを。』

と、短氣を起し、いつものごとく、しめやかに打かたらひ、僧の、少、ねむれるを、見すまし、短刀を拔(ぬき)て、胸のあたりを、突(つき)通しければ、ふしぎや、此僧、手負(ておひ)ながら、鴨居(かもい)を飛越(とびこへ)、迯(にげ)て行。

「すはや。」

と寺僧、手に手に、棒(ぼう)引提(ひきさけ)、追(おい)かけ見しに、後堂の地藏の、もすそに立隱れて、見へざりける。

 人々、

「さればこそ。」

と、血(のり)をしるしに、さがしみれば、金銅の地藏尊の、御(み)足に踏(ふみ)たまへる邁花座の下、石垣の落入たるより、少しの、穴、あり。

 掘崩(ほりくづ)して、能、見れば、下は、大きなる、穴、なり。

 熊手を入て、さがしたるに、

「何やらん、かゝりたるは。」

と、ひしめき、人々、打寄、引揚(ひきあげ)たるを見るに、古き狐の死したるなりけり。

 犬まろも、其時、

『死すべかりし。』

が、僧の、鴨居を飛こしたるに鷺き、

「扨は。變化(へんけ)なりけり。」

と心づきて、死せざるは、命一つ、ひろひたるなり。

 狐といふもの、人に化(ばく)る事は、むかし、今、人も知りける事にて、其ためしも、數々なれど、女に化(け)して、男をまよはせ侍るは、常のことなり、男の姿にて美童に通ぜし事、いと、珍らしき。

 此後、地藏の、あるきて、わるさし給うという沙汰も、やみぬ。

 彼(かの)「一山の法主なりし」といゝし事、おそろしきたくみなり。

 其「守り本尊」と見へしも、跡にて見つれば、

「古き木の切を、もみぢせし木葉(このは)に、つゝみたるなりけり。」

と。

 其頃の取沙汰を、難波(なには)の人の、かたり侍りし。

 

[やぶちゃん注:「攝州大坂、西の御堂」現在の浄土真宗本願寺派本願寺津村別院、通称「北御堂」のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「金銅丈六の地藏」銅に金の鍍金(めっき)或いは金箔を押した一丈六尺(四メートル八十五センチメートル)の身長の地蔵菩薩像である。古いものであれば、立像で同長であるが、比較的新しい造立では、座像でしかも右足を蓮華座から外して垂らしているタイプもある。ここは「御足に踏たまへる蓮華座の下」とあるので正規の同長の背丈の正立像である。

「蜀錦(しよくきん)」模造した西陣以外では、古いものは二種ある。一つは上代錦の一つで、緯糸(よこいと)に色糸を用いて紋様を表わした錦で、赤地に連珠紋を廻らした円紋の中に花紋・獣紋・鳥紋などを織り出したもの。奈良時代に中国から渡来したもので、現在法隆寺に伝えられる。蜀江で糸をさらしたと伝えるところからこの名がある。次いで、下って明代を中心にして織られた錦で、その多くは室町時代に本邦に渡来している。八角形の四方に正方形を連ね、中に花紋・龍紋などを配した文様を織り出したもので、この文様を「蜀江型」と称し、種々の変形紋が存在する。

「いか成人とはしらず、幾夜か通來(かよひき)ぬれど、はじめの程は、堅く防ぎさふらひしかども、さまざま、詫(わび)、いろいろにかこち、『汝が難儀ともなるべくば、是を、人に見せよ、誰(たれ)咎(とが)むる者も、あらじ』と。」という犬丸の台詞の後には、さらに引用の格助詞「と」が欲しい。

「一山の棟梁、當寺の法主(ほつしゆ)と仰ぎ奉る上人」問い質している「上人」は当北御堂一山棟梁であるところの法主(浄土真宗の管長を指す場合が多い)であるところの上人である。では、この「一山の棟梁、當寺の法主(ほつしゆ)と仰ぎ奉る上人」とは誰なのか? 理屈から言えば、本山たる西本願寺門主となるが、それでは、物理的な距離や、前振りの部分で寺僧たちがこの僧を見ている(どころか、飯まで食わしている)ところなどから考えても、シークエンスが如何にも現実離れしており、おかしい。しかし、この上人は犬丸の見せた守り本尊を見るや、驚いて、「門主にてましましけるぞや」! 「はしたなき御ふるまひかな」! と激しく嘆いているのだから、やはり、そうらしい。しかし、対して、犬丸の反応はどうか? 「何人にもせよ、我も仇」(あだ)「なる名をたてられ、ゆびざさるゝも恥しく、且、又、忍びし人の名」(!)「をも漏らしぬれば、其人に對しても、口惜しき次第なり。此人を指殺(さしころ)して」(!)「われもともに、死なんものを」と思い、実際の殺害行動に出るというのは、相手が西本願寺門主ではトンデモなことになってしまい、展開自体が如何にも現実離れして、逆に浮(うわ)ついて白けてくる。私には、どうもその辺りの関係設定に、怪談としての最低限の真実らしさが致命的に欠落しているとしか思われず、腑に落ちないのである。設定自体の面白さを現実の高位の人物の擬態に狙い過ぎて、逆に白けさせてしまっていると感じるのである。しかし、まあ、正体は結局は妖狐で、菩薩に化ける話もあればこそ、玉藻の前は帝の命さえ危うくし、だいたいからして白蔵主(はくぞうず)の少林寺(臨済宗)もここからそう遠くないし、門主・門跡に狐が化けても、まんず、よかろうかい。まあしかし、この怪談、「お西さん」の信者は破り捨てるであろうなあ。だって、この上人以下、誰一人として妖狐と見抜けぬ為体(ていたらく)は、当寺にとっても甚だ冒瀆的でマズいでショウ! しかも法主のマジな若衆道でっせ? 編纂に関与していると考えてよい静観房好阿は名前からして真宗の信者らしい感じだから、或いは彼は「お東さん」だったのかも知れぬ、などと妄想してみた。

2021/01/11

南方熊楠 小兒と魔除 (4)

 

 讀者予に、何を以て日本にも邪視と視害との蹤[やぶちゃん注:「あと」。]有りといふかと問はゞ、予は答て言ん、書紀皇孫天降の條に一書を引て[やぶちゃん注:以下、底本には錯字がある。初出で訂した。]、先驅者還曰、有一神天八達之衢、其鼻長七咫背長七尺云々且口尻明耀、眼如八咫鏡、而赩然似赤酸醬也、卽遣從神往問、時有八十萬神、皆不得目勝相問、天鈿女乃露其胸乳、抑裳帶而臍下、咲噱向立、其名を問て猿田彥大神なるを知り、天鈿女復問曰、汝將先我行乎、將抑我先汝行、對曰吾先啓行云々因曰發顯我者汝也、故汝可送我而致之矣とて、伊勢の狹長田五十鈴川上に送られ行くとあるは、前出埃及のラー神同樣、猿田彥の邪視、八十萬神の眼の堪え能ざる所なりしを、天鈿女醜を露して之に打勝ち、之をして皇孫の一行を避て自ら遠地に竄れ[やぶちゃん注:「かくれ」。]しめたる也、今は知らず三十年ばかり前迄、紀州那賀郡岩手の大宮の祭禮、神輿渡御の間、觀者例として閉眼せしは、原と印度人と同く、神も邪視を忌むと思ひしを示す(Dubois,‘Hindu Manners,’ 1897, p. 151)、而して此等にも優りて、邪視の信、曾て我邦に存ぜしを證する最好例は、近松門左の戲曲「大織冠」に、忠臣山上次官有風、逆臣入鹿と眼力を角る[やぶちゃん注:「すまへる」。]を述て、前者睥めば一雙の鴉、念力の眼に氣を打たれ落て死し後者睨めば南門の棟瓦作り据たる赤銅の唐獅子搖ぎ鎔け湯と成り軒に滴り流れしは恐しかりける眼力也と作られ、予も幼時常に、不文至極なりし母が、入鹿大臣能く人を睨み殺せりと語るを聞たれば、かゝる俗話古く行はれし事なりやとおぼし、又柳原紀光の閑窻自語に、裏辻公風少將、姿艷に、男女老若悉く之を慕ひ、參内の日を計りて街に出て待ち見る人も有けるが、漸く二十歲にて元文三年四位にも陞らず[やぶちゃん注:「のぼらず」。]死せり、戀したる人々の執念付るにやと人言りとあるは、詞こそかわれ[やぶちゃん注:ママ。]、視害に中て[やぶちゃん注:「あたりて」。]早世せりと謂るに非ずや、印度の禮、いかに壯健の友に逢ふも、之をほめず、反て卿は一向瘦せて來た、餘程惡いんぢやないか、氣の毒千萬でござる抔いふが常式にて、他人の子供、邸苑、牛羊の美にして繁榮するを見るも、其人の仕合せよきを知るも、一言なりとも譽たが最期卽座に妬念及視害の嫌疑を受くるを參考せよ(Dubois, p. 331) さればちと故事附けならんも、西鶴の胸算用卷四に載る、祇園殿にて、除夜に詣衆左右に分れて惡口言合ひ、松浦侯の武功雜記に出る、同夜千葉寺に諸人集り、執權奉行等の邪儀を云出て哄笑せるなど、詮じ詰れば、言はるゝ者の幸福を增進せん爲にて、結局其人に邪視を避しめん爲、傷を付るものに非るを保し難しとやいはまし、然し乍ら、支那の邪氣、釋敎の執念の思想到來してより、判然たる邪視、視害の迷信は蚤く[やぶちゃん注:「はやく」。]殆ど消失しと見え、一汎俗傳に大澤主水、又佐久間盛政、人馬共に秀吉の眼光に敗られしとか(片廂後篇、懲毖錄に秀吉容貌矮陋、面色黧黑、無異表、但微覺目光閃々射光とありと聞)、和田賢秀を斬し湯淺某、其末期の眼ざしを怖れて、病付き死んだとか(太平記廿六)、眼其物よりも、專ら其人の威勢、怨念の强大なるを指せる樣也、降て[やぶちゃん注:「くだつて」。]、本町二丁目の糸屋の娘、姊が二十一妹が廿、此女二人は眼元で殺すといふ唄文句は、支那の蛾眉伐性之斧の類で、譬辭[やぶちゃん注:「ひじ」。比喩。]なり、別嬪共の爲に累をなすに足らず、是より邪視と視害を予防する本意に起れりと思はるゝ本朝風習を列示せんに、先づ嬉遊笑覽卷八云、「中古陰陽家の說行はれて、物忌を付る事有、男子は烏帽子、女房は頭に付し事、古物語に往々有、拾芥抄に、迦毘羅國に桃林有、其下に一人の鬼王有、物忌と號す、其鬼王の邊に他の鬼神寄ず、鬼王誓願して云々我名を書持ん人には、如願守護すべしと儀軌に出たりと有、此物忌二字を細紙に書て付る也、河海抄に昔は忍草に物忌を書て、御簾にも冠にもさしける、事無草と云に付て也、又柳の枝三寸許り簡[やぶちゃん注:「ふだ」。]に作りて、物忌と書て御冠の纓[やぶちゃん注:「えい」。]に付られ、又白紙に書て付らるゝ事有、是は禁中の事也と有」類聚雜要抄三「五節の童女頭物忌付事、二所に有之、左は耳の上程、右は頰後に寄て付之云々、物忌の薄樣は弘三分に切之(紅一重、短手をば後に結之)、云々」、滿佐須計裝束抄一に筆せるは之より詳にて、末に「本は物忌は左を先として[やぶちゃん注:初出も「左」だが、「選集」は『右』とする。そこで、原本に当たったところ(国立国会図書館デジタルコレクション。草書写本。ここの左頁五行目以下)、これは明らかに「左」である。]、後にも付け、三つ付たれども、此家の習にてかく二を附る也、左の前に寄て、物忌の首の差出たるを、くゝり[やぶちゃん注:「選集」は『ひねり』。原本(同前左頁八行目末)も「ひねり」である。]反して赤く見せて付る人あり云々されども今は白かしらに成りにたり云々常に人知ず、幼なからん者の額髮抔透きなどしたらんに、物忌を附ん折隱すべし、人知ず祕すべし」、是にて、或は顯著なる色を用て邪視を惹き、其力を消すこと、印度の田園に外を白く塗れる大碗を高竿に揭げて、專ら惡眼力を吸收せしむる如くせると(Dubois, p. 152)、或は前述パンジヤブの文人紙を卷て字を汚す如く、故らに[やぶちゃん注:「ことさらに」。]辟邪の具を設けたるを悟られて、更にその備えの巧なるを羨まるゝを避んとて、却て之を目立たぬ樣に裝しと、二風俱に並び行はれたるを見るべし、又笑覽卷八に、嚔る[やぶちゃん注:「はなひる」。]時結ぶ糸(產所記に長一尺三寸許と云りと)を長命縷の類ならんと云、今小兒の衣の背に守り縫とて付る是にやと云り、熊楠案ずるに、酉陽雜俎卷一、「北朝婦人五月云々又長命縷、宛轉繩、皆結爲人像帶之」とあれば大に守縫と異なる[やぶちゃん注:行末で句読点がないが、ここで文は切れている。初出は「り、」で、「選集」は『異なり。』であるが、思うに、どちらもこれは「異(ことな)れり」の脱字で文が切れていると断ずるべきで、どちらの仕儀も不全であるのに対して、底本は口語で「異(こと)なる」で終わって抵抗がないように読めてしまう、不幸中の幸いと言うべき、珍しいケースである。] 守り縫此邊(紀州田邊)にて背縫ひ、背紋などいひ、衣に固著して結び得る物ならず、近世風俗志十二編に、何とも名をいはずに之を記せり、云く、「兒服に一つ身四つ身と云有、一幅を身として左右を兼るを一つ身と云、背縫目なき故に一つ身といふ、衣と異色の糸を以て縫之、或は[やぶちゃん注:図は底本はこちら(右ページ四行目)で、初出では「12」コマ目(上段中央二行)であるが、「選集」の図も、これら皆、どれも図のタッチが微妙に異なる。国立国会図書館デジタルコレクションの「近世風俗志」の当該部(同書は刊期によって巻数に異同が生じており、そこでは確かに十二巻なのだが、私の所持する岩波文庫版では巻十三である)はここ(右ページ下段後部)である。最終的に熊楠の模写したものに基づく図ではなく、原拠のものを掲げるのが最良と考え、最後の国立国会図書館デジタルコレクションの画像を最大でダウン・ロードして、以下にトリミング(汚損も除去した)して改行して中央に示した。次の図も同じ仕儀で挿入した。]

Mamorinui1

此類を縫も有、又江戶は緋縮緬等の小裁[やぶちゃん注:「こだち」。]を以て袷にくけ

Mamorinui2

如此結び背に付るも有、共に定紋の座に付る也、漸[やぶちゃん注:「やうやく」。]長じて四つ身を著す、四つ身は背の縫目有故に不製之」此邊の俚傳に、一つ身は縫目なくて不祥なれば、その厭勝[やぶちゃん注:「まじなひ」。]に背紋を縫付る、菊桐松葉鶴兜などを衣と異色の絲もて、女兒十二男兒十三針にぬひ付く、又舌と稱し、長方形の切れを背紋の代りに縫ひ付け、一端自在に動き得ること舌の如くす、今は色々なれども、予の幼時は主として赤を尙べり[やぶちゃん注:「たつとべり」。]、古老謂ふ、小兒躓き倒れんとするを、神此舌を援て[やぶちゃん注:「ひきて」。]起立せしむるに便せるとは、何かで見たる、後印度の民、頭頂に長髮束を留るは、地獄に墮ちかゝる時、神に牽上もらう爲といふと同規にて、隨分面白いが、中古歐州諸名族の紋章に、諸獸舌を出す像多きは邪視を避くるため(E. Peacock, in Notes and Queries, March 14, 1908)なると支那に赤口日凶神百事不宜用(倭漢三才圖會五)抔いふを參して、背縫も邪視を防がんとて創製せりと見るが優れり、又佛敎入て後、印度の神も邪視に害せらるとて、其予防具を捧ぐる風を輸入しながら、原意を忘却せりと思はるゝは庚申、淡島等の神前に美しき浮世袋を掛る事にて、印度の王公、「アラツチ」(不幸の義)とて避邪視式を行んが爲、特に妓女を蓄え、神廟にも一日二度、妓女神の爲に此式を行ふなど思合すべし、用捨箱中卷(十三)に、「友人曰、眞云の檀門の金剛橛[やぶちゃん注:「こんがうけつ」。](四方の柱也)に掛る金剛寶幢[やぶちゃん注:「こんがうはうとう」。]と云物有、錦を以て火形を象り、三角に縫ひ、裏[やぶちゃん注:「うち」。]に香を入るゝ、又入れざるも有、浮世袋其形に似たる故、寶幢になぞらえて[やぶちゃん注:ママ。]神佛に捧るなるべしと云々」上に云える、パンジヤブで三角袋を小兒の守りとする事參看すべし、また下卷(四)に、「昔は遊女に戯るゝを浮世狂ひと云し也、傾城の宅前には云々布簾を掛、それに遊女の名を書て、下に三角なる袋を自分の細工にして付し也、是を浮世袋と云習したる也と載せられたり、是れ匂ひ袋なるべし云々、昔は云々遊女は云々伽羅を衣に留ざるはなき樣なれば、斯る餘情も成たるにや有ん、其れが云々後には香類を入れず、布簾の縫留と成しなるべし」妓女に緣多き印度神より轉化せる金剛の爲に、邪視を防がん本意もて捧げし三角袋が、吾邦遊女屋の裝飾と成たる也、推古帝の時、支那に摸して始て行える藥獵に伴ゑりてふ、續命縷卽ち藥玉(久米氏日本古代史八一五頁)は、歐州諸民も之を仲夏の式事とし、邪氣を除き古病を癒し好夢を招き牛畜を安んず(Lloyd, ‘Peasant Life in Sweden,’ 1870, p. 267 seqq.; Gubernatis, tom.i, p. 181 seqq.)と云ば、多分は例の邪視の用心に發端せるならん、此邊の若き男女、不慮に煤など飛び來たり、顏を汚すを戀墨と名け、艷福の兆とするも、もとは邪視、邪害の迷信より出たるにて、奴の小萬が、顏に墨ぬり、痣作りて、貌を見盡されぬ樣計ひしと、趣は歸一す、

 

[やぶちゃん注:本文の太字は底本では傍点「ヽ」。ここでやっと「邪視・邪害」の話が終わる。

「書紀皇孫天降の條に一書を引て」「先驅者還曰、有一神天八達之衢、其鼻長七咫背長七尺云々且口尻明耀、眼如八咫鏡、而赩然似赤酸醬也、卽遣從神往問、時有八十萬神、皆不得目勝相問、天鈿女乃露其胸乳、抑裳帶而臍下、咲噱向立、其名を問て猿田彥大神なるを知り、天鈿女復問曰、汝將先我行乎、將抑我先汝行、對曰吾先啓行云々因曰發顯我者汝也、故汝可送我而致之矣とて、伊勢の狹長田五十鈴川上に送られ行くとある」猿田彦が天孫の降臨を迎える以下のシークエンス。訓読は国立国会図書館デジタルコレクションの昭和八(一九三三)年岩波書店刊黒板勝美編「訓讀 日本書紀 上卷」を参考にした。

   *

已而且降之間。先驅者還白。有一神。居天八達之衢。其鼻長七咫。背長七尺餘。當言七尋。且口尻明耀。眼如八咫鏡、而赩然似赤酸醬也。卽遣從神往問。時有八十萬神。皆不得目勝相問。故特敕天鈿女曰。汝是目勝於人者。宜往問之。天鈿女乃露其胸乳。抑裳帶於臍下。而笑噱向立。是時、衢神問曰。天鈿女、汝爲之何故耶。對曰。天照大神之子所幸道路。有如此居之者誰也。敢問之。衢神對曰。聞天照大神之子、今當降行。故奉迎相待。吾名是猿田彥大神。時天鈿女復問曰。汝將先我行乎。將抑我先汝行乎。對曰。吾先啓行。天鈿女復問曰。汝何處到耶。皇孫何處到耶。對曰。天神之子則當到筑紫日向高千穗槵觸之峯。吾則應到伊勢之狹長田五十鈴川上。因曰。發顯我者汝也。故汝可以送我而致之矣。天鈿女還詣報狀。皇孫、於是、脫離天磐座。排分天八重雲。稜威道別道別、而天降之也。果如先期。皇孫則到筑紫日向髙千穗槵觸之峯。其猿田彥神者。則到伊勢之狹長田五十鈴川上。

   *

 已にして降(あまりくだ)り且(ま)さんとする間(ところ)に、先驅者(さきはらひのかみ)還りて白さく、

「一つの神、有り。天八達之衢(あめのやちまた)に居り、其の鼻の長(たけ)七咫(ななあた)[やぶちゃん注:手の親指と中指を開いた際の長さ単位。一メートル二十六センチメートル。]、背(そびら)の長七尺(ななひろ)餘り。當に七尋[やぶちゃん注:両手を左右に伸ばした際の長さ単位。十一~十二メートル。]と言ふべし。且(また)、口、尻(かく)れ、明(あか)り耀(て)れり。眼、八咫鏡のごとくにして、赩然(てりかかや)けること、赤酸醬(あかかがち)[やぶちゃん注:熟した酸漿(ほおずき)の実。]に似れり。」

と。卽ち、從(みもと)の神を遣し、往(い)いて問はしむ。

 時に八十萬の神、有り。皆、目勝(まが)ち[やぶちゃん注:相手の持つ眼力が激しく、眼が眩んでしまって相手を見ることが出来なくなることを指す。]にて、相ひ問ふことを得ず。

 故(かれ)、特に天鈿女(あめのうづめ)に敕して曰(のたま)はく、

「汝(いまし)は、是れ、人に目勝(まか)つ者(かみ)なり。宜しく往いて之に問ふべし。」

と。

 天鈿女、乃(すなは)ち、其の胸乳(むなち)を露(あら)はかきたて、裳帶(もひも)を臍(ほそ)の下に抑(おした)れて、笑噱(あざわら)ひて向ひ立つ。

 是の時、衢の神、問ひて曰はく、

「天鈿女、汝(いまし)、之(か)く爲るは何の故ぞや。」

と。對へて曰はく、

「天照大神の子(みこ)の幸(いま)す道路に、此くのごとくにして居り有るは誰(た)そ。」

と、敢へて之れを問ふ。衢の神、對へて曰はく、

「天照大神の子、今、當に降行(いでま)すべしと聞きまつる。故、迎へ奉りて相ひ待つ。吾(あ)が名は、是れ、猿田彥大神(さるたひこのおほんかみ)。」

と。時に天鈿女、復た問ひて曰はく、

「汝、將に我に先(さきた)ちて行かんや。將-抑(はた)、我れ、汝に先ちて行かんや。」

と。對へて曰はく、

「吾、先ちて啓(みちひら)き行かむ。」

と。天鈿女、復た問ひて曰はく、

「汝は何處(いづこ)に到りまさんぞや。皇孫(すめみま)、何處に到りまさんぞや。」

と。對へて曰はく、

「天神(あまつかみ)の子は、則ち、當に筑紫の日向の高千穗の槵觸(くしふる)の峯に到りますべし。吾は、則ち、應に伊勢の狹長田(さながた)の五十鈴(いすず)の川上に到るべし。」

と。因りて曰はく、

「我を發-顯(あらは)しつるは、汝(いまし)なり。故、汝、以つて我を送りて致るべし。」

と。

 天鈿女、還りて詣で、報狀(かへりごとまふ)す。

 皇孫、是に、天磐座(あまついはくら)を脫(お)し離ち、天八重雲を排し分け、稜威(いつ)[やぶちゃん注:神の威光。]の道別(ちわ)きに道別きて、天降ります。果(つひ)に先の期(ちぎり)のごとく、皇孫、則ち、筑紫の日向の高千穗の槵觸の峯に到りまし、其の猿田彥神は、則ち、伊勢の狹長田五の十鈴の川上に到ります。

   *

「紀州那賀郡岩手の大宮の祭禮、神輿渡御の間、觀者例として閉眼せし」和歌山県岩出市宮にある大宮神社(グーグル・マップ・データ)。和歌山県企画部企画政策局文化学術課作成の「和歌山県ふるさとアーカイブ」の「大宮神社のよみさし祭」に、地元では「よみさしまつり(齋刺祭)」「ヨミサシ」「イミサシ」と呼ばれ、十月に今も行われている。そこに、『昔は、深夜渡御の御榊(ミサキ)は、直接見てはいけない、見ると目がつぶれるといわれ、その枝をいただくと、東の枝は、上半身の、西の枝は下半身の病が治ると言われている』とあった。

「Dubois,‘Hindu Manners,’ 1897, p. 151」作者はインドで布教活動に従事したフランスのカトリック宣教師ジャン・アントワーヌ・デュボア(Jean-Antoine Dubois 一七六五年~一八四八年)。

『近松門左の戲曲「大織冠」』室町後期に成立した作者未詳の幸若舞の一曲で、藤原鎌足が、八大竜王に奪われた宝珠を、海士(あま)を使って取り返すという「玉取伝説」に取材したものなどを素材とし、近松門左衛門が書いた浄瑠璃「大織冠」(歴史的仮名遣「たいしよくわん」。正徳元(一七一一)年大坂竹本座初演)。鎌足の蘇我入鹿討伐に玉取伝説を配して脚色してある。第一部の終曲部で、サイト「音曲の司」内のこちらPDF。「有朋堂文庫 近松浄瑠璃集 下」(昭和五(一九三〇)年刊)の当該外題全篇) の「一一」から「一二」頁で当該部が読める。

「柳原紀光の閑窻自語」江戸時代中・後期の公卿柳原紀光(やなぎわらのりみつ/もとみつ 延享三(一七四六)年~寛政一二(一八〇〇)年)の随筆(成立は寛政五~九年)。ネットで写本を見つけ、探してみたが、当該話は見つけられなかったものの、この本、かなりの量の怪奇談を載せており、なかなか面白そう。

「裏辻公風少將」正五位下右近衛少将であった羽林家の当主裏辻公風(享保四(一七一九)年~元文三(一七三八)年)。事実、確かに享年二十歳で若死にしている。

「西鶴の胸算用卷四に載る、……」井原西鶴作の全二十章の短編から成る浮世草子町人物の代表作の一つ「世間胸算用」(せけんむねさんよう)。元禄五(一六九二)年に京の板行。当該部は巻四の「一 闇の夜のわる口」の一節。岩波古典文学大系版と新潮日本古典集成を参考に、正字で示す。

   *

 又都の祇薗殿に、大年の夜、「けづりかけの神事」とて、諸人詣でける。神前のともし火、くらふして、たがひに人の見えぬとき、參りの老若男女、左右にたちわかれ、惡口のさまざま云ひがちに、それはそれは、腹かゝへる事也。

「おのれはな、三ケ日の内に餅が喉につまつて、鳥部野へ葬禮するわいやい。」

「おどれは又、人賣(ひとうり)の請(うけ)でな、同罪に粟田口へ馬にのつて行わいやい。」「おのれが女房はな、元日に氣がちがふて、子を井戶へ、はめおるぞ。」

「おのれはな、火の車でつれにきてな、鬼のかうのものになりをるわい。」

「おのれが父は、町の番太をしたやつぢや。」

「おのれがかゝは、寺の大こく[やぶちゃん注:坊主の隠し妻。]のはてぢや。」

「おのれが弟はな、衒云(かたりいひ)の挾箱(はさみばこ)もちじや。」

「おのれが伯母は子おろし屋をしをるわい。」

「おのれが姉は、襠(きやふ)[やぶちゃん注:腰巻。]せずに味曾買ひに行くとて、道でころびをるわいやい。」

 いづれ口がましう、何やかや取まぜていふ事、つきず。中にも廿七、八なる若い男、人にすぐれて口拍子よく、何人出ても云すくめられ、後には相手になるもの、なし。時にひだりの方の松の木の陰より、

「そこなおとこよ、正月布子(ぬのこ)[やぶちゃん注:晴着用の木綿の綿入れ。]したものとおなじやうに、口をきくな。見れば此寒きに、綿入着ずに何を申ぞ。」

と、すいりやうに云ひけるに、自然と此男が肝にこたへ、返す言葉もなくて、大勢の中へかくれて、一度にどつと笑はれける。

   *

この「けづりかけの神事」というのは、現在の八坂神社の新年の行事。新潮版の松原秀江氏の頭注によれば、『おけら祭とも。大晦日の夜、子の刻に神前以外のすべての灯を消し、参詣人は暗闇の中でお互に悪口を言い合い、丑の刻になると、係の者が読経』し、『東西の欄に立て』置かれてあった各『六本の削掛の木を焼き、煙の』立つ方向から、丹波・近江『両国の豊凶を占う』神事を指す。但し、現在は悪口を言い合うそれは行われていないようで、実につまらぬ。

「松浦侯の武功雜記」肥前平戸藩第四代藩主松浦鎮信(重信・天祥)が記した天正から元和年間に活躍した諸将の武勲を記した武辺咄集。元禄九(一六九六)年頃成立。恐らくは現在の千葉市中央区千葉寺町にある真言宗海上山千葉寺(せんようじ/ちばでら:グーグル・マップ・データ)の特異行事である。同寺のウィキによれば、『開始年代は不明であるが、江戸時代には名の知れた行事として千葉寺で行われていた奇習』で、『類似の風習が「悪口祭」「悪態祭」として全国各地に存在する』。『毎年の大晦日の深夜から元日の未明まで、面や頬かむりなど素性が分からないように仮装をして千葉寺に集い、権力者の不正や人の良くない行いなどを罵り合い、笑って年を越すという風習』で、『徳川家康が黙認して「声の目安箱」として意見を取り入れていたともされている』。『この習俗を題材にし』て『小林一茶が』、

 千葉寺や隅に子どもゝむり笑ひ

の一句を残している(文政六(一八二三)年の句帳所収)。『千葉笑い復興会・千葉笑い実行委員会ではこの伝統ある地域文化を継承するために、笑い納めや初笑いとして』二〇一〇年『度より活動している』とある。

「大澤主水」「太閤記」によれば、美濃の斉藤家の忠臣大澤主水(もんど)正之。信長を刺殺せんとして、秀吉と槍の大試合をしたとされるが、怪しい。

「佐久間盛政」(天文二三(一五五四)年~天正一一(一五八三)年)は織田信長及びその嫡孫秀信の家臣。官途及び通称は玄蕃允。勇猛さから「鬼玄蕃」と称された。ウィキの「佐久間盛政」によれば、『尾張国御器所(現名古屋市昭和区御器所)に生まれ』、『「身長六尺」』(約一メートル八十二センチメートル)『とあり(『佐久間軍記』)、数値の真偽は別としてかなりの巨漢であったことが窺える』。永禄一一(一五六八)年の「観音寺城の戦い」『(対六角承禎)で初陣』し、いろいろな戦闘に参加して『戦功を挙げた』。天正三(一五七五)年、『叔父柴田勝家が越前一国を与えられた際にその与力に配され、柴田軍の先鋒を務めた』。『以後、北陸の対一向一揆戦などで際立った戦功を挙げ、織田信長から感状を賜った』。天正四年には『加賀一向一揆勢に奪取された大聖寺城の救援に成功』し、翌五年に『越後の上杉謙信が南下してきた際には』、『信長の命令で加賀に派遣され、御幸塚(現在の石川県小松市)に砦を築いて在番した』。天正八(一五八〇)年、『加賀一向一揆の尾山御坊陥落により、加賀金沢城の初代の城主となり、加賀半国の支配権を与えられた』。しかし、『柴田勝家は清洲会議以後、羽柴秀吉との対立を深め』、天正一一(一五八三)年の「賤ヶ岳の戦い」で激突し、一時は賤ヶ岳砦を陥落手前まで追い詰めたが、丹羽長秀の増援と秀吉の「美濃大返し」に『よって盛政は敵中に孤立してし』まい、『前田利家らの部隊が撤退したため、盛政の部隊と勝家の本陣の連絡が断たれた』。『結果的に勝家軍は秀吉軍に大敗し、盛政は再起を図って加賀国に落ち延びようとした』が、『落ち延びる途上、盛政は越前府中付近の中村の山中で郷民に捕らえられた』。『命運の尽きたことを悟った盛政は、自ら直接秀吉に対面したいので引き渡すよう言った(盛政を引き渡した郷民は直ちに処刑された)。引き渡されたとき、浅野長政に「鬼玄蕃とも言われたあなたが、なぜ敗れて自害しなかったのか」と愚弄されたが、「源頼朝公は大庭景親に敗れたとき、木の洞に隠れて逃げ延び、後に大事を成したではないか」と言い返し、周囲をうならせたという』。『秀吉は盛政の武勇を買って』、『九州平定後に肥後一国を与えるので家臣になれと強く誘った。しかし盛政は信長や勝家から受けた大恩を忘れることはできず、秀吉の好意を感謝しながらも』、『「生を得て秀吉殿を見れば、私はきっと貴方を討ちましょう。いっそ死罪を申し付けて下さい」と願った。秀吉は盛政の説得を諦め、その心情を賞賛して』、『せめて武士の名誉である切腹を命じたが、盛政は敗軍の将として処刑される事を望んだ。そのため、秀吉に「願わくば、車に乗せ、縄目を受けている様を上下の者に見物させ、一条の辻より下京へ引き回されればありがたい。そうなれば秀吉殿の威光も天下に響き渡りましょう」と述べた』という。『秀吉はその願いを聞き届けて盛政に小袖二重を贈るが、盛政は紋柄と仕立てが気に入らず、「死に衣装は戦場での大指物のように、思い切り目立ったほうがいい。あれこそ盛政ぞと言われて死にたい」と大紋を染め抜いた紅色の広袖に裏は紅梅をあしらった小袖を所望し、秀吉は「最後まで武辺の心を忘れぬ者よ。よしよし」と語って希望通りの新小袖』二『組を与えた』。『盛政は秀吉により京市中を車に乗せられて引き回されたが、その際に「年は三十、世に聞こえたる鬼玄蕃を見んと、貴賤上下馬車道によこたわり、男女ちまたに立ち並びこれを見る。盛政睨み廻し行く」とある(『佐久間軍記』)。その後、宇治・槙島に連行されて同地で斬首された』。『秀吉は盛政の武辺を最後まで惜しみ、せめて武士らしく切腹させようと連行中に密かに短刀を渡す手配もしたが、盛政は拒否して従容と死に臨んだという』。私は大の秀吉嫌いで盛政好きである。

「片廂」(かたびさし)「後篇」国学者斎藤彦麻呂の考証随筆(嘉永六(一八五三)年自序)。古来の制度・風俗・古言古歌その他の考証的記事に及ぶも、学問的な内容を扱った条は杜撰な説が多いとされ、後に岡本俊孝によって「片廂糾謬」が書かれるに至っている。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。

   *

   ○秀吉公の御目のひかり

秀古公いまだ木下藤吉といふ時に、大澤主水と鎗合(やりあはせ)せし給ひしに、主水、眼(まなこ)くらみて、向ふ事、能はず。うつぶしたる事、又、羽柴筑前守の時に、志豆(しづ)が嶽(たけ)にて、佐久間玄蕃允をにらみ給へば、人馬ともに、まばゆくて、跡じさりしつる事など、人のしりたる事なり。「懲毖錄(びひつろく)」[やぶちゃん注:誤字誤読。次注参照。]に、『秀吉、容貌矮陋(わいろう)、面色(めんしよく)黧黑(りこく)、無異表(いへう、なし)。但(たゞ)、微(すこし)覺目光閃々射一ㇾ人(めのひかり、ひかひかとして、ひとをいるを、おぼふ)』とあり。

   *

「懲毖錄」(ちょうひろく:現代仮名遣)は十七世紀前後に書かれた李氏朝鮮の史書で、著者は同王朝の宰相柳成龍。「文禄・慶長の役」を記録したもの。

「和田賢秀を斬し湯淺某、其末期の眼ざしを怖れて、病付き死んだとか(太平記廿六)」「楠正行(まさつら)最期の事」の一節。和田賢秀(けんしゅう/和田賢快 ?~正平三/貞和四(一三四八)年)は楠木正成の甥。「四條畷の戦い」で敗れ、正行らが自刃した後、高師直の陣に潜入していたところを、嘗て味方であった湯浅本宮(ほんぐう)太郎左衛門に討たれた。討死の際、敵将の首に噛み付き、睨んで放さず、本宮太郎左衛門はそれが元で病んで死んだとされており、土地の人々は賢秀の霊のことを「歯噛様(はがみさま)」「歯神様」として祭っている。

   *

 和田新發意(しんぼち)[やぶちゃん注:賢秀の異名。]如何(いかが)して紛れたりけん、師直(もろなほ)が兵の中に交りて、武藏守[やぶちゃん注:師直。]に刺し違へて死なんと近付きけるを、この程、河内より降參したりける湯淺本宮太郎左衞門と言ひける者、これを見知つて、和田が後(うしろ)へ立ち囘り、諸膝(もろひざ)切つて倒るるところを、走ろ寄つて首を搔かんとするに、和田新發意、朱(しゆ)をそそぎたる如くなる大の眼(まなこ)を見開いて、湯淺本宮を、

「ちやう」

ど、睨む。その眼、終(つひ)に塞(ふさ)がずして、湯淺に首をぞ取られける。大剛(たいかう)の者に睨まれて、湯淺、臆してやありけん、其日より、病(やま)ひつきて、身心、惱亂しけるが、仰(あふの)けば、和田が怒りたる顏、天に見え、俯(うつぶ)けば、新發意が睨める眼、地に見へて、怨靈(をんりやう)、五體を責めしかば、軍(いくさ)散じて七日と申すに、湯淺、あがき死にぞ死にける。

   *

「本町二丁目の糸屋の娘、姊が二十一妹が廿、此女二人は眼元で殺すといふ唄文句」サイト「大垣つれづれ」の『星巌は「糸屋の娘」で起承転結を説いたか』が本邦域内での考証として面白い。

「蛾眉伐性之斧」伐性之斧」(ばつせいのふ(ばっせいのふ))は「呂氏春秋」(りょししゅんじゅう:戦国末の秦の呂不韋が食客を集めて共同編纂させた書。紀元前二三九年完成。天文暦学・音楽理論・農学理論などの論説が多く見られ、自然科学史上、重要な書物とされる)の「孟春紀」の「本生」が出典。

   *

貴富而不知道、適足以爲患、不如貧賤。貧賤之致物也難、雖欲過之奚由。出則以車、入則以輦、務以自佚、命之曰招蹙之機。肥肉厚酒、務以自彊、命之曰爛腸之食。靡曼皓齒、鄭、衛之音、務以自樂、命之曰、「伐性之斧」。三患者、貴富之所致也。故古之人有不肯貴富者矣。由重生故也、非夸以名也、爲其實也。則此論之不可不察也。

   *

「伐性」は「人としての心身を害すること」で、熊楠が「蛾眉」と添えた如く、女性・淫乱なる音楽に溺れたり、たまたま起こったに過ぎない良い出来事に過度に期待する悪弊を諌めたもの。

「嬉遊笑覽卷八云、……」国学者喜多村信節(のぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の代表作。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会全般の記事を集めて二十八項目に分類叙述した十二巻付録一巻からなる随筆で、文政一三(一八三〇)年の成立。以下、当該部(「忌諱」のパート内)を所持する岩波文庫版第四巻(長谷川強他校注・二〇〇九年刊・新字)を基礎データとし、国立国会図書館デジタルコレクションの成光館出版部昭和七(一九三二)年刊の同書の下巻(正字)の当該部で校訂し、読点・記号等を変更・追加し、一部の漢文脈を訓読した。また、送り仮名を増やして、歴史的仮名遣で推定の読みを添えた。熊楠の引用は省略がある。

   *

中古陰陽家(おんやうか)の說、行はれて、物いみを付(つく)る事あり。男子は烏帽子(ゑぼし)、女房は頭に付けし事、古物語に徃々あり(又、物いみとて、家に籠り居て深くつゝしみてある事もあり)「拾芥抄」、「物忌」の條に、『迦毘羅國(かびらこく)に桃林あり、其の下に一人の鬼王あり、「物忌」と號す。其の鬼王の邊に、他の鬼神、寄らず。鬼王、誓願して、「六趣有情(うじやう)を利益す云々、我名を書きて持たむ人には、願のごとく、守護すべし」と、「儀軌(ぎき)」に出たり』と有る。この「物忌」二字を細紙(ほそがみ)に書きて著(つ)くる也。「河海抄」に、『昔は忍草(しのぶぐさ)に「物忌」を書きて、御簾(みす)にも冠にもさしける也。「事無草(ことなしぐさ)」と云ふに就いて也。又、柳の枝、三寸許り、簡(ふだ)に作りて、「物忌」と書きて御冠の纓(えい)に著けられ、又、白紙に書きて付けらるゝこと有り。是は、禁中の事也』といへり。

   *

・「拾芥抄」(しゅうかいしょう)鎌倉中期に原型が成立し、南北朝期に改訂編纂された類書(百科事典)。

・「迦毘羅國」現在のインド・ネパール国境付近に存在した国で、釈迦の出身地として知られる。

・「六趣有情」六道を輪廻せねばならない有情の衆生。

・「儀軌(ぎき)」バラモン教・仏教などに於いて、神々や仏・菩薩を対象に行う儀式や祭祀の法式を規定した書。

・「河海抄」室町初期に四辻善成が著した「源氏物語」の注釈書。

・「纓(えい)」冠の付属具で、背後の中央に垂らす部分。古くは、髻 (もとどり) を入れて巾子 (こじ) (「こんじ」の撥音無表記。冠の頂上後部に高く突き出ている部分。髻を入れ、その根元に笄(こうがい)を挿して冠が落ちないようにするもの。元来は、これをつけてから、幞頭(ぼくとう:上部前頭を覆う部分) を被ったが、平安中期以後は冠の一部として一体型の作り付けとなった)の根を引き締めた紐の余りを後ろに垂らした。後には、幅広く長い形に作って巾子の背面の纓壺 (えつぼ) [やぶちゃん注:頭部全体を平面的に覆う部分の後頭部の中央にある纓を差し込むための溝状の部分。]に差し込んで付けた。時代により、形状が異なる。なお、平凡社「選集」はこれに「よう」と振っているが、「瓔」と誤ったものか、甚だしい誤りである。

「類聚雜要抄三……」平安時代に書かれた寝殿造の室礼と調度を記した古文献「類聚雑要抄」(るいじゅうぞうようしょう)は摂関家家司であった藤原親隆が久安二(一一四六)年頃に作成したと推定されているもの。国立国会図書館デジタルコレクションの写本画像のこちらで当該部(「五節の童女頭物忌付事、二所に有之、左は耳の上程、右は頰後に寄て付之云々、物忌の薄樣は弘三分に切之(紅一重、短手をば後に結之)、云々」)が読める。「一 同頭物忌付事」の条の抄出である。

「滿佐須計裝束抄」(まさすけしょうぞくしょう:現代仮名遣)は平安後期の貴族で有職家であった源雅亮(まさすけ 生没年不詳:醍醐源氏。従五位下伊賀守。平清盛の長男重盛と次男基盛とは親戚筋)作の仮名文の平安装束の有職故実書。甲斐守・源雅職の子。本文内注で原本写本にリンクさせた。

「笑覽卷八に、嚔」(はなひ)「る時結ぶ糸(產所記に長一尺三寸許と云りと)を長命縷」(ちやうめいる)「の類ならんと云」「方術」のパートの冒頭。同前の国立国会図書館デジタルコレクションのここ。「嚔(はなひる)の頌(じゆもん)」の中の一節。かなり長いが、重要なので、同前の仕儀で引く。但し、漢文部は底本通り、白文で示し、後に岩波版の訓点を参考に訓読したものを添えた。

   *

「萬葉集」十一、「眉根(マユネ)搔鼻火(カキハナビ)紐解待八方(ヒモトキマテリヤモ)何時毛(イツカモ)將見蹟(ミント)戀來吾乎(コヒコシワレヲ)」。集中、はなひることをよめる歌、この外にもあり。「詩」、「邶風(はいふう)」に、「寤言不寐、願言則嚔」(寤(さめ)て言ふに寐(ね)れず、願ひて言ふに、則ち、嚔る)といへると同じくて、人におもはるれば、はなひる、となり。後には、其意、うつりて、我事を後言(しりうごつ)[やぶちゃん注:陰口を言う。]ものあれば、嚔るとて、わろき事とす。又、天竺には、もとよりよからぬ事とするにや、「四分律」に、「世尊嚔。諸比丘呪願言長壽」(世尊、嚔(てい)す。諸比丘、呪願して「長壽」と言ふ)とあり。「古今集」雜、「出て行む人をとゞめむよしなきにとなりのかたにはなもひぬかな」。「袖中抄」に、「はなひる事、いかにもよからぬこと也。年の始(はじめ)に鼻ひりつれば、祝ひごとをいひて、祝ふ也。されば、人の所へゆかんずる初めに、隣の人、嚔らむを聞きても、くせぐぐせしからん人は、立ちどまるべき也」と有り。「枕草子」、「にくき心の、はなひて誦文する人云々」。又、宮に初めて參りたる頃といふ條、「物など仰られて、我をば思ふやと問はせ給ふ御いらへに、いかにかは、と、けいするにあはせて、臺盤所(だいばんどころ)のかたに、はなを、たかく、ひたれば、『あな、心う。そらごとするなりけり』云々(こは、淸少が我をおもふといひしは僞(いつはり)ならん、隣に、はなをひつれば、との御戲(おたはむれ)なり)。わが願ふこと・おもふことある時、人のはなひるだに、そのこと、かなはず、とする習ひ、と、みゆ。「徒然草」、くさめくの段、「文段抄」に云、「乳母がたのならはしに、其兒(そのちご)の嚔る時、かたはらの人、『はなを合す』とて、又、『くさめ』といふ也。もし、はなを合せざれば、其嚔したる兒に害あり、といひ習はせり。其故に、今も、守り刀などに、「鼻の糸」とて、靑き糸をつけて、兒の嚔る時、かのはなを合す代りに、其糸をむすぶなり」とあり。伊勢守貞陸(さだみち)が「產所記」、『御はなのむすび糸、長さ一尺三寸許り、かずをとるもの也」と、云へり。糸は「長命縷」の類ひなるべし[やぶちゃん注:岩波版には熊楠が引くこの大事な『糸は「長命縷」の類ひなるべし』の部分がない。]。今、小兒の衣の背に、「守(まも)り縫(ぬひ)」とて付くる、是にや。「拾芥抄」、『嚔時頌、休息萬命急々如律令』(嚔る時の頌、「休息萬命急々如律令(きふそくばんめいきふきふによりつれい」)と有り。この頌文は、佛家(ぶつけ)に「呪願言長壽」と、いへるより出(いで)しなるべし。「袖中抄」に「四分律」の文を引きて、「今俗、正月元日、若早旦嚔、卽稱曰千秋萬歲急々如律令是緣也。何只在元日哉、尋常禱之」(今、俗、正月元日若しくは早旦、嚔れば、卽ち、稱して、「千秋萬歲急々如律令」と曰ふ。是れ、緣(ゆかり)なり。何ぞ、只だ、元日のみに在らんや、尋常、之れを禱(いの)る)といへり。「帝京景物略」、『正月元旦五鼓時、不臥而嚔。々則急起、或不及衣曰、臥嚔者病也。不臥而語言、或戶外呼、則不應曰、呼者鬼也云々』(正月元旦の五鼓時、臥しては嚔(はなひり)せざるに、嚔するときは、則ち、急ぎ、起きて、或いは、衣(ころもき)るに及ばすして曰はく、「臥して嚔る者、病ひなり。臥して語り言(ごと)せず」と。或いは戶外に呼ぶあらば、則ち、應ぜずして曰はく、「呼ぶ者、鬼なり。」と[やぶちゃん注:私はこの辺り、岩波の訓点(送り仮名)に大いに不審を持っているそのままでは意味が通るように到底思えないからである。されば、かなり自由に訓じた(後も同じ)。なお、以下、岩波では別な引用がかなり入る。岩波を少しだけ使用してジョイントする。])。今兒女など、くさめをすれば、「德萬歲(とくまんざい)」といひ、下賤は「くそをくらへ」といへり。「休息萬命」のひゞきに似たるも、おかし。「寬永發句帳」、『くつさめや德萬歲のはなの春』(志滿)。「鷹筑波集」、『人々や我身の上をそしるらんひたものはなをひる刀鍛冶」「嬾眞子錄(らんしんしろく)」に、『俗說以人嚔噴、爲人說。此蓋古語也。終風之詩曰云々。漢藝文志、雜占十八家三百一十卷内、嚔耳鳴雜占十六卷。然則嚔耳鳴皆有吉凶。今則此術亡矣』(俗說に「以つて、人、嚔り噴(ふけ)れば、人、說(はなし)を爲(な)す」と。此れ、蓋し、古語なり。終風の詩に曰はく、云々。漢の「藝文志」に、「雜占十八家」三百一十卷の内、嚔・耳鳴の雜占は十六卷あり。然れば、則ち、嚔・耳鳴、皆、吉凶有り。今、則ち、此の術、亡ぶ)。」。

   *

以上の私の引用に語注を附し始めると、またまたエンドレスになるので附さない。悪しからず。熊楠の引用している部分の以下の二つだけに注する

・「產所記」は室町中期から戦国にかけての有職家にして山城守護で政所執事を務めた伊勢貞陸(さだみち 寛正四(一四六三)年~永正一八(一五二一)年)が書いた「産所之記」。産所で用いられる用具についての解説書。「国文学資料館」の写本の最後(三行目)に引用された原文が見える。

・「長命縷」古代中国以来、端午に飾る五色の糸飾りで、長寿を祈る祭具である。本邦の祝儀の薬玉 (くすだま) は、その流れを汲んだものである。

『酉陽雜俎卷一、「北朝婦人五月云々又長命縷、宛轉繩、皆結爲人像帶之」』巻一「禮異」の一条に、

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北朝婦人、常以冬至日進履襪及靴。正月進箕帚長生花、立春進春書、以靑繪爲※、刻龍像銜之、或爲蝦蟆。五月進五時圖、五時花、施帳之上。是日又進長命縷、宛轉繩、皆結爲人像帶之。夏至日進扇及粉脂囊、皆有辭。

[やぶちゃん注:「※」=「革」+「識」の(つくり)のみ。]

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 北朝の婦人、常に冬至の日を以つて、履襪(りべつ)[やぶちゃん注:現在の靴下相当のもの。]及び鞾(くわ)[やぶちゃん注:靴。]を進ず。正月は箕帚(きさう)[やぶちゃん注:塵取りと帚(ほうき)。]と長生花[やぶちゃん注:花持ちのよい生花のアレンジ物の謂いと思われる。]を進ず。立春は春書[やぶちゃん注:春を言祝いだ色紙であろう。]を進じ、以つて靑繪(せいさう)で※を爲(つく)り[やぶちゃん注:この一句は意味不明。]、龍の像を刻みて、之れを銜(くは)はす。或いは蝦蟆(がま)に爲る。五月は、「五時圖」・「五時花」を進じ、帳の上に施す。是の日、又、長命縷・宛轉繩(えんてんじやう)を進ず。皆、人の像(かたち)に爲りて結び、之れを帶ぶ。夏至の日は、扇及び粉脂の囊(なう)を進ず。皆、辭(ことば)有り。

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段成式の書いた「酉陽雑俎」は晩唐の作品であるが(八六〇年)、これはずっと前代の隋の前の南北朝期の記録を引っ張り出して言っている特異点の記載であることに注意する必要がある。則ち、少なくとも、ここの書かれた習俗は、同書の完成の遙か二百八十年も前の、中国北部の習俗の古記録であるということである。熊楠が「大に」日本の「守縫」(まもりりぬひ)「と」中国のそれは「異なる」と言う時、その記載の時間差を理解しているようには、私には思われないし、況や、読者も無批判に「中国と日本は全然、違うね」と思うのは、これまた、早計であると私は思うからである。

「近世風俗志」(2)で既出既注。

「兒服に一つ身四つ身と云有」幼児用の「一つ身」とは乳児から二歳位までの幼児用の着物で、並幅の布を使い、背縫いをぜずに仕上げる。特に乳児の間は肩揚げや腰揚げをせずに衿に付け紐をして、帯の代わりにする。手を動かし始めたら肩揚げを施し、歩き始めればm腰揚げをする。「四つ身」は四歳から十二歳までで汎用された子供用の着物で、並幅の反物の、身長の四倍の長さの布を裁断して作る。子供の成長に合わせ、肩揚げ・腰揚げにより、丈や幅を調整する。七歳程度までの子供であれば、一反の布から長着と羽織の対を作ること可能である。なお、他に「三つ身」と呼ぶ両者の中間型のもの(二歳から四歳の子供用着物)があり、これは並幅の反物の半反を使って仕立てる。乳児用の「一つ身」に比して、全体のバランスが取れているものの、身幅が、多少、狭いので、着られる期間は短くなる。この「三つ身」は三歳児の祝い着として用いられることが多い(以上はサイト「着物買取ガイド」のこちらの解説を参照した)。

「E. Peacock, in Notes and Queries, March 14, 1908」Internet archive」の原本のここの左ページ右下から右ページ左上にある EDWARD PEACOCK 氏の投稿「THE EVIL EYE IN ITALY」に書かれてある。

「支那に赤口日凶神百事不宜用(倭漢三才圖會五)」巻第五「曆占類」の「赤口日(しやつくにち)」。所持する原本から電子化する。図は阿呆臭いので(私は一切の占いに関心がないため)、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の当該部の画像をリンクさせるに留める。

   *

按赤口日凶神百事不宜用而三才圖會亦不出圖今以圖備便覽順廻六宮照月正與七相合【余月亦如圖】三月上起朔日逆廻六宮照日則知

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按ずるに、赤口日は、凶神にして、百事。用ふるに宜しからず。「三才圖會」にも亦、圖を出ださず、今、圖を以つて便覽に備ふ。順に六宮(りくきう)を廻(くわい)して、月を照(しやう)す[やぶちゃん注:各月に照応させるの意。]。正(しやう)と七とは相ひ合(がつ)す【余月、亦、圖のごとし。】。三月の上に、朔日(ついたち)を起し、逆に六宮を廻る。日と照らせば、則ち、知る。

   *

「庚申」庚申信仰に基づく庚申堂や庚申塔。

「淡島」淡島神(あわしまのかみ)。和歌山県和歌山市加太の淡嶋神社を総本社とする全国の淡島神社や淡路神社の祭神。神仏習合期の名残から同神を祀る淡島堂を持つ寺も各地にある。参照したウィキの「淡島神」によれば、『婦人病治癒を始めとして安産・子授け、裁縫の上達、人形供養など、女性に関するあらゆることに霊験のある神とされ、江戸時代には淡島願人(あわしまがんにん)と呼ばれる人々が淡島神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻った』ことから、『信仰が全国に広がった』。しかし、明治の神仏分離によって、多くの神社では祭神を少彦名神などに勝手に置き変えられてある。こういう子供でさえ鼻白む馬鹿げたことをするから、近代神道はダメだ。

「浮世袋」近世初期に流行したもの(袋)で、絹を三角に縫って中に綿を入れ、上の角(かど)に糸を附けたもの。遊女屋の暖簾に飾として附けたり、匂い袋にしたり、針仕事の縁起物などにしたが、早くに廃れてしまい、後には単なる子供の玩具となった。正月の屠蘇袋はこれに由来するとされる。

『印度の王公、「アラツチ」(不幸の義)』不詳。識者の御教授を乞う。

「用捨箱中卷(十三)に、「友人曰、眞云の檀門の金剛橛(四方の柱也)に掛る金剛寶幢と云物有、錦を以て火形を象り、三角に縫ひ、裏に香を入るゝ、又入れざるも有、浮世袋其形に似たる故、寶幢になぞらえて神佛に捧るなるべしと云々」上に云える」「用捨箱」は(2)で既出既注。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの原本の「地」(中巻・PDF)の「七色賣(なないろうり)」(この前の部分も庚申信仰との関係があって非常に興味深い)の最後の「18」コマ目八行目以下に出現する。また、同コマの二~四行目の部分には、中目黒(私は大学時代そこに三年下宿した)の庚申塔の青面金剛(せいめんこんごう:原本には「靑靣金剛」で「かうしん」とルビしてある)の石像が狭苦しい雨覆いに入れられてあるものに、「浮世袋(うきよふくろ)にくゝり、猿を釣(つり)たるが納めありしを十年ばかり前に実たり」とあって、案外、この記載が熊楠の前述の謂いの本来の震源地ではないかと読める(熊楠の本篇執筆時には庚申信仰も淡島信仰も神社合祀に向けて急速に廃れていたからである。或いは、それに大反対者として立ち向かった彼にして、これは言っておくべき信仰の形だったのかも知れない)。

『下卷(四)に、「昔は遊女に戯るゝを浮世狂ひと云し也、傾城の宅前には云々布簾を掛、それに遊女の名を書て、下に三角なる袋を自分の細工にして付し也、是を浮世袋と云習したる也と載せられたり、是れ匂ひ袋なるべし云々、昔は云々遊女は云々伽羅を衣に留ざるはなき樣なれば、斯る餘情も成たるにや有ん、其れが云々後には香類を入れず、布簾の縫留と成しなるべし」同前の下巻で「8」コマ目に、「四 蚊帳に香袋を掛」の条の「9」コマ目に、

   *

「赤鳥の巻」に大嶋求馬の説なりとて、「昔は、遊女にたはるゝを『浮世狂ひ』と云ひしなり。傾城の宅前(たくぜん)には柳を二本植(うゑ)て横手(よこて)をゆひ[やぶちゃん注:籬を拵えることか。]、布簾(のうれん)をかけ、それに遊女の名を書(かき)て、下に三角なる袋を、自分の細工にして付しなり。是(これ)を『浮世袋』といひならはしたるなり」といふ事を載(のせ)られたり。是(これ)、「匂袋」なるべし。風にあふつて[やぶちゃん注:「煽つて」。煽(あお)られて。]自然(おのづから)香(にほひ)を散(ちら)さん料(れう)なれば、蚊帳(かちやう)へ掛(かく)るも同事(おなじこと)のやうにおもえる。昔は太夫ととなへし遊女は更なり、格子などいひて、それに次(つぐ)者も伽羅(きやら)を衣(きぬ)に留(とめ)ざるはなきさまなれば、かゝる餘情(よぜい)もなしたるにやあらん。其れが彼(かの)誰(たが)袖(そで)の如く、後には香類(かうるゐ)を入れず、布簾(のうれん)の縫留(ぬひとめ)となりしなるべし。

   *

とある。

「推古帝の時、支那に摸して始て行える藥獵に伴ゑりてふ、續命縷卽ち藥玉(久米氏日本古代史八一五頁)」元佐賀藩士で近代日本の歴史学における先駆者である久米邦武(天保一〇(一八三九)年~昭和六(一九三一)年:明治政府に出仕して、明治四(一八七一)年の特命全権大使岩倉使節団の一員として欧米を視察、一年九ヶ月後に帰国して太政官吏員となり、独力で視察報告書を執筆。明治一一(一八七八)年、四十歳の時、全百巻から成る「特命全権大使 米欧回覧実記」を編集、太政官の修史館に所属して「大日本編年史」などの国史の編纂に尽力した。明治二一(一八八八)年、帝国大学教授兼臨時編年史編纂委員に就任したが、明治二十五年に雑誌『史海』に転載した論文「神道ハ祭天ノ古俗」の内容が問題となり、両職を辞任した。三年後、大隈重信の招きで、東京専門学校(現在の早稲田大学)で教壇に立ち、大正一一(一九二二)年の退職まで、歴史学者として日本古代史や古文書学を講じた)が明治三八(一九〇五)年に早稲田大学出版部から刊行した「日本古代史」。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で当該部が読める。視認して以下に示した。太字は底本では傍点「ヽ」、下線太字は傍点「○」。

   *

 物部氏大連敗滅し、蘇我大臣一派の改府となり、法興寺を建立したるを第一着として、多年潜養したる禮制を興隆し、二十餘年を經て隋使韓使の接待にて略成功しければ、十九年五月五日に兎田野の藥獵を擧行したり。其時諸臣の服色は冠色に隨ひ冠に髻華を着け、德は金、仁は豹尾、禮以下は鳥尾を用ゐ、雞鳴に藤原上池に集まり、黎明を以て兎田【郡の足立村】に往く。栗田細目前部領たり、額田部比羅夫後部領たり。重五の藥獵は荆楚歲時記に、五月五日、雞未ㇾ鳴時、釆艾似人形者、攬而取ㇾ之、用ㇾ炙有ㇾ驗、是日競採雜藥とあれば、支那中部に居住する南人種の風俗にして、日本にも早く行はれたるべし、後世菖蒲船(シヨウブフネ)を献ずる例は是に起る。又、藥玉(クスダマ)は延喜式に出づ、藤原明衡往來に、今朝自或所、給藥玉一流、作以百草之花、貫以五色之縷、模草蟲形、棲其花房、芳艶之美、有ㇾ興有ㇾ感、古人云、此日懸續命縷、則益人命、とある、續命縷は卽ち藥玉にて、是も藥獵より起りたる物なり。集解に太平御覽田夏正曰、五月、此月畜ㇾ藥、蠲除毒氣とあれど、夏小正には畜蘭[やぶちゃん注:フジバカマのことか。]とあり、傳に爲沐浴とある。蘭湯は北部の俗にて畜藥は南部の俗なり、大平御覽に畜藥の文あるとは疑はし。是まで貴族尙武の習氣は、山野の獸獵を最快樂の事となし、男女相會して肉を割て宴飮したる風俗は浸潤の久しき、止むベからざるものあらん。佛敎は殺生を戒しめ、慈悲を宗とす、欽明帝の時に醫藥曆筮を佛敎の前驅となして智識を聞き、三寳の崇敬始まり、天王寺は敬田の外に施藥療病悲田の四院にて成る等、傳道の初め僧徒の民衆に心を竭す[やぶちゃん注:「つくす」。]信切なりと謂べし。是に於て藥獵を始めて山野に會集し、藥草を採て鳥獸獵に代たるは、亦野民麁暴の風を去りて禮文溫和の品行を誘くの意なり、毎年々五月五日に藥獵を行ふこと是より例となれり。

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「Lloyd, ‘Peasant Life in Sweden,’ 1870, p. 267」作者はイギリス(ウェールズ)生まれでスウェーデンに二十年以上住んだナチュラリストのルウェリン・ロイド(Llewelyn Lloyd 一七九二年~一八七六年)。主にスカンジナビア地方の民俗習慣・農民生活及びその自然(特に鳥類学と狼)についての叙述が多い。

「奴の小萬が、顏に墨ぬり、痣作りて、貌を見盡されぬ樣計ひし」浪華(なにわ)の女侠客「奴の小万」(やっこのこまん 生没年不詳(亨和三(一八〇三)年没とも))。大阪長堀の豪商三好家の娘「お雪」で、婿取り娘であったが、望みあって二十歳の時、長局(ながつぼね)[やぶちゃん注:宮中や江戸城大奥などで、長い一棟の中を幾つもの局(女房の部屋)に仕切った住まい。また、そこに住む女房をも指す。]に奉公する女祐筆となったが、父の死去にあって、禁中を去って、遺産を相続し、「お亀」と「お岩」という召使を抱えて、「女伊達(おんなだて)」となり、その侠気を以って知られた。後に尼となって「正慶」と号し、「関白秀次二百年忌大追善」を天王寺で営み、折からの俄雨には雨傘五千本を集めて、参詣人を濡らさせなかったという。その居を「月江庵」と称し、生前はそこの門頭に棺桶を掛け、人を集めては宴を催し、また、遺産金を「京都大仏」に喜捨して、徳川家を憚ることなく、「豊太閤の冥福を修する」と触れるなど、その奇行で世間を大いに驚かせた(以上はウィキの「奴の小万」に拠った)。]

2021/01/10

怪談登志男 四、古屋の妖怪

 

    四、古屋の妖怪

 備後の鞆(とも)の浦は、九州・中國にならびなき繁華の津[やぶちゃん注:「みなと」と当て訓しておく。湊。]にして、分(わけ)て時めく有曾町(ありそまち)は、艷冶(ゑんや)の少艾(しやうがい)に船をつながれ、茲を去(さる)順風を恨む、旅客の思ひ、皆、此湊(みなと)に焦(こが)れ來(く)るにぞ、商家、日夜に冨を重(かさね)たり。

 此所に、金屋嘉平治といふ酒屋あり。家、冨榮(さかへ)けるが、このいへのうちの一間に、最(いと)あやしき事あり。

 嘉平治は元來、所久しき者なり。人にも員(かず)まへらるゝものから、

「かゝる事あり。」

と、たまたま、もれ聞(きゝ)たるものも、口を閉(とち)しが、次第に城下に咄傅(はなしつた)へて、怪(あや)敷沙汰、取々なりし。

 其仔細は、かれが座敷三間四方、昔普請(むかしふしん)の物好(ものすき)もよく、奇麗に構へし一間なるが、何(いつ)の頃よりか、目なれぬ調度、取ちらしたる時もあり、十二、三のわらべの、美目・形、淸げなるが、文[やぶちゃん注:「ふみ」。手紙。]など見入て居たるときもあり、又は、座敷に應(おう)ぜざる俵物(たはらもの)、數おゝくつみ重て、半時斗、置時もあり、或は、武具・馬具、きらびやかに飾り並べ、又は、小法師、二、三人、出、戲(たはふ)れあそぶ事もあり。

 先の嘉平治、甚、怪しび、其座敷を打敗(やぶ)らんと、大工をかり催して、已に毀(こぼ)たんとせしに、工匠(こうしやう)、皆、目を開くこと、あたはず、あるひは、足、すくんで、起(たつ)こと、あたはず。

 禰宜(ねぎ)・山伏を招(まね[やぶちゃん注:原本のママ。])て、祈念すれぱ、貴僧・高僧、顯れ出て、其ものどもより、はるかに嚴重に法を修(しゆ)する故、はづかしくなりて、迯(にげ)さる程に、今は術計(しゆつけい)、盡て、其儘に差置たるに、さして家内のものに、さはることもなく、今に至て災(わざはひ)も、なし。家内、見馴て、誰(たれ)も皆、恐ろしとも思はねば、後は、つれすれを慰む種とぞ、なしける。

 當嘉平治も、幼時より見馴たれば、彌、怪ともおもはで過ぬ。

 此事、誰(たれ)申上けん、領主、聞(きこ)し召、

「左樣の事、城下にありと聞ては捨置(すておき)がたし。」

と、俄に此評議、事募(ことつの)りて、侍、大勢、金屋が家に至り、金屋が座敷に詰(つめ)て、樣子を伺ふ所に、今まで見へざる臺子、飾(かざり)て、しほらしき老法師が、手前、見事に、あいしらひたる茶の湯に、上客(しやうきやく)を見れば、領主、御入にて、日頃、御側(そば)をはなれぬ橋本右膳(うぜん)とかや云し出頭、御つめに出たるさま、各、

「はつ。」

と驚、恐れ入て、覺へず、飛退(とびしさり)、頭(かうべ)を地に付たる内に、臺子(だいす)も、老人も、一座の客も、跡かた、なし。

「こは、口をしや、化物めに、たぶらかされし。左もあれ、殿の御姿に、みぢんも違(たが)はず。一盃喰(く)ふまじきものにも、あらず。」

と、はせ歸りて、此だん、つぶさに言上しければ、領主、甚、驚き給ひ、

「其方共、はせむかいし刻限に、我、汝等が見たる所の衣服にて、島倉了閑といふ茶の湯者(しや)を、始(はしめ)てまねき、會席(くわいせき)過るとひとしく、汝等が注進。其見つる老人が形(かたち)も衣服も、了閑が今日の出立(でたち)に少(すこし)も、たがはず。そも、かゝるふしぎなる事こそ、なけれ。」

と、金屋が宅を外へ移し、替地(かへち)を下し給はり、所替せし跡は、「金屋が古屋(ふるや)」と名に立(たち)、間口九間の大肆(みせ)、いつの頃より荒地となりしや。

 此時代、さだかならず、いかさま、文祿・天正のいにしへなるらし。今は其跡を知る人もなし。

 

[やぶちゃん注:「備後の鞆(とも)の浦」現在の広島県福山市鞆町鞆(ともちょうとも)の鞆の浦(グーグル・マップ・データ)。同ウィキによれば、『戦国時代には毛利氏によって鞆中心部に「鞆要害」(現在の鞆城)が築かれるなど備後国の拠点の一つとなっていた。室町幕府』十五『代将軍足利義昭は』元亀四(一五七三)年に『織田信長により京を追放された後、毛利氏などの支援のもと渡辺氏の援助で』天正四(一五七六)年に『鞆に拠点を移し』、『信長打倒の機会を窺った。伊勢氏や上野氏・大館氏など幕府を構成していた名家の子弟も義昭を頼り』、『鞆に下向していたとされる。このことから「鞆幕府」と呼ばれることもある』。『また、前述のように足利尊氏が室町幕府成立のきっかけになる院宣を受け取った場所でもあるため、幕末の歴史家頼山陽は“足利(室町幕府)は鞆で興り鞆で滅びた”と喩えた』。『尼子氏滅亡に際しては』、『播磨国上月城より移送途中に誅殺された山中鹿之助の首級が鞆に届けられ』、『足利義昭や毛利輝元により』、『実検が行われた。この遺構として首塚が現在も残されている』とある。なお、ウィキの「鞆城」によれば、『戦国時代になると』、『備後地方は大内氏の勢力下となり、鞆の浦は』天文一三(一五四四)年に『村上水軍の村上吉充に与えられた。鞆には吉充の弟である村上亮康が派遣され、村上氏の本拠は大可島城に置かれた。このため』、『亮康は「鞆殿」と呼ばれた』。『織田信長によって京都を追われていた室町幕府最後の将軍足利義昭が、毛利氏を頼って』『鞆に滞在しており(鞆幕府)、後に鞆城となる鞆要害が築かれ』、『義昭の居館があったとされている。義昭の警護は一乗山城の渡辺元と大可島城の村上亮康があたっていたという』。天正六(一五七八)年になると、『毛利氏は、信長と対峙するため鞆を本陣に定め、信長方の尼子氏を滅ぼした際には、山中幸盛の首級が鞆に運ばれ、義昭と毛利輝元が共に実見を行ったと伝えられる。義昭は』六『年間』、『鞆に留まり』、天正一〇(一五八二)年に『津之郷(現在の福山市津之郷町)へ移ったといわれる』とある。筆者自体が時制を朧ろにしてしまっており、創作怪談であるから、あまり意味はないとは思うが、一応、以上の知れる史実だけは示しておく。

「有曾町(ありそまち)」サイト「鞆物語」のこちらによれば、現在、当地にある「鞆ノ津ギャラリーありそ楼」(グーグル・マップ・データ)のある附近は、『江戸時代の頃は「有磯(ありそ)」と呼ばれる、全国有数の遊郭街だったといいます。この建物自体も』、五十『年ほど前までは、実際に遊郭として営業していたらしく、今日にも、その遊郭建築の妙味が色濃く保存されています』とある。

「艷冶(ゑんや)」艶(なま)めいて美しいこと。

「少艾(しやうがい)」歴史的仮名遣は「せうがい」が正しい。「艾」は「美しい」の意で、若くて美しい女を指す。ここでは風待ちの鞆の浦の遊女である。

「人にも員(かず)まへらるゝものから」鞆の浦の町人の代表者に数えられる大家(たいか)であったから。

「三間」五・四五メートル。

「昔普請(むかしふしん)の物好(ものすき)もよく」古い職人の丁寧な趣向を凝らした優れた普請で。

「應(おう)ぜざる」相応しくない。

「俵物(たはらもの)」江戸時代には狭義には、長崎貿易に於いて、対清貿易向けに輸出された煎海鼠(いりなまこ/いりこ)・乾鮑(干鮑(ほしあわび))・鱶鰭(ふかひれ)の海産物(乾物)のことを指した。俵に詰められて輸出されたことに由る。

「臺子」後で原本に振られてある通り「だいす」と読む。茶道具の棚物の一つで、風炉(ふろ)・釜・水指などの一式を飾るもの。入宋した南浦紹明(なんぽじょうみょう)が帰朝の際、仏具として齎したと伝えられる。

「橋本右膳」不詳。

「出頭」筆頭家老相当か。

「御つめ」「御詰」。茶会に於いて亭主を助けて正客への茶碗などの取次、待合、その他の後始末等に気を配り、茶事を円滑に進める役。末客。

「一盃喰(く)ふまじきものにも、あらず」「いっぱい食わされたのでないとも、言えまい!」。

「島倉了閑」不詳。

「九間」十六・三六メートル。

「文祿・天正」天正が先で、一五七三年から一五九六年まで。]

奥州ばなし 柳町山伏

 

     柳町山伏

 

 本《もと》、柳町《やなぎまち》といふ所に住《すむ》、つかまき師夫婦の者有き。代々有德にして、ほどにつけたる調度やうの物までも、ともしからで、實心《じつしん》の者なりし。

 娘、二人、もちしが、とりどり、相應の生れなりしを、祕藏して有し。

 姊娘、十三ばかりの時、庭におりて、あそびて有しが、春のことにて、

「凧(たこ)の上《のぼ》りを、みおくる。」

とて、石につまづき、くつぬぎ石にて膝を打しが、つよく痛《いたみ》、はれて直らず、終《つひ》に足なへに成《なり》て、二、三年わづらひて、死《しし》たりき。

 妹娘も、ほどなく十三と成しが、同じく庭におりて、同じ石につまづき、膝を打たりしかば、二親《ふたおや》、心にかゝりて、醫師《くすし》をもとめ、いろいろ、藥用をくはへしかども、いゆることなく、又、足なえになりて、十六までながらへしかば、其間、たからをつくして、祈禱・まじなひにいたるまで、よしとあるかぎりのことはせしかども、いさゝか、印《しるし》、なし。終に息引とりしかば、水なども手向《たむけ》て、屛風、引𢌞して置《おき》しに、うなる聲の聞えしかば、

「すは、息吹《いきふき》かへせし。」

と悅《よろこび》て、母の行《ゆき》て見つれば、娘が云樣《いふやう》、

「扨、至極、快《こころよく》寢入《ねいり》て有しが、今、何方《いづかた》へやら行《ゆく》所を夢に見たりし。又、ねむたく成し故、寢《いね》んと思ふが、よく寢入てあらば、夜具をはぎてみ給へ。」

と、いひて、ねむりしかば、二親、うちゑみ、

「もし、快氣にもやなる。」

と、思ひいさみて、少し程をへて、夜具をまくりて見たれば、こはいかに、其面《おもて》、むすめにはあらで、鬼のごとし。

 色、赤黑く、眼中、

「きらきら」

と光《ひかり》て、いたく、いかれるおもざしの、おそろしさ、云《いふ》ばかりなかりしかば、思はず、とびのきて、夫にその由をつげて、兩人して行《ゆき》てみしに、前に、かはらず。

 夫婦、あきれてゐたる時、かの變化《へんげ》、おき直りて、眼をいからし、聲たてゝ云やう、

「汝等二人に、いひきかすべきこと有《あり》て、あらはれたり。そこさらずして、吾《わが》云ことを、よく、きけ。われは是、此家の七代先の祖に金をとられて、殺害(さつがい)せられし山伏の㚑《れい》なり。我、昔、官金をもちて上方へゆきし時、先祖の男と、ふと、道づれに成《なり》たりしが、茶屋に入《いり》て、ともにのみ食《くひ》してのち、『あたひを、はらはん』と、懷中より金入《かねいれ》をとり出せしを、【此山伏のふるまひ、油斷のやうなれ、凡(およそ)百五六十年か、又は二百年に近きほどのむかし故、人の心もおだやかにて、金などみせしなるべし。】此家のあるじの見て、山中にいたりし時、無躰(むたい)に打擲(てうちやく)して、終に切ころし、官金をうばひとりて、出世をなせしぞや。其時の無念さ、骨髓にとほるといへども、代々、運、さかんにして、たゝりをなしがたかりしが、やうやう、七代にいたりて、運かたぶきし故、うらみをはらすなり。かくいふことを僞《いつはり》と思はゞ、外《ほか》にたしかなる證據、有。たんすの引出しに入て有《ある》、太刀こしらへの大小は、わが、さし料なり。」

 尺は何寸、銘は何々といふことを、つまびらかに云《いひ》て、【此大小の尺と銘を、女の言《こと》にて、おぼえぬぞ、くちをしき。】

「いそぎ出《いだ》し、みよ。是、たがはぬ證據ぞ。」

と、いひしとぞ。

 夫婦は夢のこゝちして、おそろしさに手もふるう、ふるう、大小をとり出して見しに、變化のいふに露(つゆ)たがはざりしとぞ。

 此大小は、先祖よりのつたはりものとて、代々、仕𢌞《しまはし》てのみ置しことにて、銘も寸も、夫婦、しらで有しを、まして、娘子共《こども》のしるべきよし、なし。

「實《げ》に、昔、さることや、有つらん。」

と、あやまり入《いり》て有しに、又、變化の曰《いはく》、

「此娘の命、たすけたく思はゞ、我、のぞみし官位のほどの供𢌞りにて、この家より葬禮を出《いだ》すべし。【そうしき[やぶちゃん注:ママ。]・供𢌞り、いくたりといふことも、たしかにしらず。】さあらば、命、たすくべし。さなきにおきては、これ限りぞ。」

と、いはれて、二親は、ふしまろび、

「いかやうのことにても、仰《おほせ》にそむくまじ。娘が命、たすけ給へ。」

と願しかば、

「いそぎ、葬禮の仕度せよ。」

とて、夜具、引かづきしが、又、もとの娘の面《おもて》にぞ成たりし。

 變化《へんげ》は、かくいへど、かゝる大病人《たいびやうにん》の有《ある》家より、葬禮を出さんは、外聞《ぐわいぶん》、かたがた、きのどくに思ひて、寺へ其よしを談じて、法名をもらひ、人をやとひて、寺の門前より、したくして、はふりのていをなしたりしに、その人々の、寺の門に入《いり》たるころ、變(へん)化、あらはれ、母をよびて曰、

「此家よりいださば、娘が命たすけんと思ひしが、餘りに略過《りやくか》たる仕方なり。是にては、命ごひは叶《かなふ》まじ。」

と、いかりて有しとぞ。

 父は、葬式とゝのへて、

「是にて、娘が命、たすかるや。」

と、心悅《こころよろこび》、かつ、案じながら、歸りしに、有しことどもを聞て、おぢ恐れ、又、家より葬式をとゝのへて出《いだ》したりしかば、山伏の㚑も、しづまりや、したりけん、あらはれずなりし。

 むすめも、一度、引とりし息の、かへりしこと故、怨靈、たち去《さり》ては、へたへたと、よわりて、消《きえ》うせしとぞ。

 このほどの心盡しは、むだごとゝ成て、月のうちに、三度、葬式を出したるとぞ。

 むこ養子なども有しが、此變化に恐れて、家をいでゝ、をらず。二親も氣ぬけして、家をもうりつ、數代《すだい》の富家《ふけ》も、長病中《ながわづらひのうち》の物入《ものいり》につかひはたし、やれ衣《ごろも》一重ならで身に添《そふ》ものもなく、ゆくへ、しれず、なりしとなん。

 山伏は七代までたゝるとは聞つれど、かく、たしかに見聞しことも稀なれば書置《かきおく》。

 娘の、うなり、くるしみし聲は、近邊の人、

「聞《きく》に、たへがたかりし。」

とぞ。二親のおもひ、まして、いかならん。【このはなしも、はやく聞て有しが、「もし、僞《いつはり》にや」と、心もとめざりしに、召つかふ女の、筋むかひなる家にて、娘のやうす、變化《へんげ》の有し次第も、くはしくかたるを聞て、しるしぬ。】

 

[やぶちゃん注:本篇は既に「柴田宵曲 妖異博物館 大山伏」の注で、一度、本文のみを正字化して電子化しているが、再度、零からやり直した。

「柳町」「本柳町」ウィキの「柳町(仙台市)」が町の歴史について、非常に詳しく書かれてあり、本篇の当時のロケーションを想起する上で甚だ有益である。是非、読まれんことをお勧めする。『柳町(やなぎまち)は、日本の宮城県仙台市青葉区に位置した町である。伊達氏に従って米沢から岩出山に、次いで仙台に移転し』、『さらに移転して現在地に落ち着いた』六『つの御譜代町の一つで』、二十四『の町人町の中では』五『位につけたが、江戸時代から現在まで』、『豪商や大店舗を見ない庶民的な商工業地である』とあり、一九七〇年の『住居表示で一番町一丁目に属して地図から消えたが、町内会が柳町でまとまり、街路に歴史的町名の表示がなされ、存在感を残している』して、以下、より細かな変遷が記されてある。ここ(グーグル・マップ・データ。仙台駅の南西直近)。

「つかまき師」「柄巻師」。貧しい守備範囲外の注を附すより、サイト「刀剣ワールド」の『日本刀職人「柄巻師(つかまきし)~日本刀の柄を仕上げる」』を読まれるのがよかろうと存ずる。

「有德」富裕。「いうとく」「うとく」孰れの読みでも、この意味も持つ。

「ほどにつけたる調度やうの物までも、ともしからで」ほどほどに設けた家内の調度品といったものに至るまで、貧相なものはなく。

「實心」誠実。

「とりどり、相應の生れなりし」二人とも、相応の美形の生まれであった。

「よしとある」何らかの効果があるとされる。

「此山伏のふるまひ、凡(およそ)……」ここは「此山伏のふるまひこそ、油斷のやうなれ、」(已然形)「凡そ……」の「こそ」を省略した逆接用法である。

「百五六十年か、又は二百年に近きほどのむかし」本書の成立は文政元(一八一八)年であるから、一六六八年から一六一八年となり、寛文八年から元和四年の江戸前期となる。

「官金」この山伏は、後で「我、のぞみし官位のほどの供𢌞りにて」と述べているから、何らかの官職を金で求めるか、幕府の隠密の職務に就かんとしていた者であったようである。さすれば、大金を所持していてもおかしくない。

「仕𢌞《しまはし》てのみ置しことにて」大事に仕舞っておいただけであったために。

「むすめも、一度、引とりし息の、かへりしこと故、怨靈、たち去《さり》ては、へたへたと、よわりて、消《きえ》うせしとぞ」山伏の怨霊によってではなく、一度、仮死した後、怨霊が憑依したことによって、弱り切っていて、そのまま空しくなったというのである。

「月のうちに、三度、葬式を出したるとぞ」山伏の略式葬儀と、やり直しのそれに、娘の葬儀で、三度である。

「山伏は七代までたゝる」全国的に「猫を殺すと七代祟る」とか、「坊主(山伏)殺せば(或いは「騙せば」)七代(或いは「八代」「百年」「末代」)祟る」と言う伝承は広く分布しており、文芸でも怪奇談から落語まで、かなりメジャーな祟りとして使用されている。山伏は修験者であり、本来は古くから祟りを成すものを調伏することを重要な生業としていたが、さればこそ、魔道との接点も濃密であるが故に、彼自身が執拗(しゅうね)き怨霊と化するというのは頗る腑に落ちはする。上記の通り、「七」は確定数ではなく、単に長いことを意味するもので、「七」自身には限定的な由来はあるまい。

「召つかふ女」只野家の下女。]

2021/01/09

南方熊楠 小兒と魔除 (3)

 

 「ナザル」Nazar (今假りに視害と譯す)は、コツクバーン氏の說に、其義邪視(「イヴル、アイ」)より廣し、乃ち何の惡意邪念なくて、若くは最も愛敬[やぶちゃん注:「あいぎやう」。]親切に、人及び有生無生の物を、心足り意滿つる迄視るにより、視られたる人物に害惡を惹起すことなり。パンジヤブ隨筆質問雜誌(前出)より要を撮で[やぶちゃん注:「つまんで」。]述べんに、コツクバーン氏、印度アグラ地方にて、この迷信の原因を調査して報ずらく、人慾故意に出ざるもの多し、たとへば、眇人[やぶちゃん注:「すがめのひと」。]いかに寡欲の天禀[やぶちゃん注:「てんりん/てんぴん」。生まれつきのもの。]なりとも、双眼優麗なる人を見れば、何心なく之を羨望し、忽ち視害を双眼の人に加へて其身を損ずるに及ぶ、今、雙眼いかに美なりとも、其瞼に「カジヤル」を塗て黑汚し、或は瘢痕を眉邊に留め、又白糸を懸下して其貌を傷つけたるを見れば、之を瑕[やぶちゃん注:「きず」。]とするの念、不知不識[やぶちゃん注:「しらずしらず」。]、之を羨むの念と相剋して視害起らず、殊に「カジヤル」を付たる眼は、眼力爲に減障せられて、視害を他人に及ぼすの嫌[やぶちゃん注:「きらひ」。]を免るゝの利を兼ぬとて此地方の男女好で之を用ゆ、エジプトの婦人が「コール」粉を眼の緣に塗て黑くするも、裝飾の爲とはいへ、實は同理に基くならん、と、蓋し婦人は成女期に達せる後視害を受ず視害を他に加へ得と信ぜらるればなり、父母其兒の初めて片言いひ、又步み出すを見て、滿足せば、必ず其兒に視害を及すを以て、額の一側、又匍匐中ならば、左足底に煙墨(「カジヤル」)を塗て之に備ふ、不具六指等の兒は視害を受る事なければ、大吉として親に悅ばるとは餘程變な事也、肥健の壯年は、瘦男の視害を防んとて、左臂に赤布を絡ひ[やぶちゃん注:「まとひ」。]、頸に靑糸を卷き付けなどし、甚だしきは其疑ひある場合に臨み、突然卒倒痙攣の眞似して、瘦男の執念を擾す[やぶちゃん注:「みだす」。]に力む[やぶちゃん注:「つとむ」。]、文人は其筆跡見事にして人に羨れん事を憂ひ、わざと一字を汚點して邪視を避く、但し巧みに仕組んで汚點せりと知れる樣では、是又人にほめらるゝの惧あり、故に一枚書き畢りて、最後の字の墨汁まだ乾かぬ中、急に之を卷きて、汚點は實に不慮の過失に出しと見するを要すとは、呆れ返つた次第と言ざるを得ず、又布帛の模樣なども、一ケ所をわざと不出來にして邪視を防ぐ、黃金珠玉は人の欲する所なれば、最も邪視を避るに功あり、小王(ラジヤ)[やぶちゃん注:ルビではない。]輩の書翰に、金箔をちらせるも、飾りとせるに非ずして、これが爲めなり、兒童が盜に遭ひ命を失う迄も、珠璣[やぶちゃん注:「しゆき」。丸い玉と角ばった玉。大小様々の美玉。]を飾れる、亦是が爲なり、凡ての海產物、殊に珊瑚、この故に重んぜられ、之を買ふ能はざる貧民は、銀の楊枝或は環を佩ぶ、又安物店に、三角或は金剛石形に金箔を切て韋[やぶちゃん注:「なめしがは」。]に貼じて[やぶちゃん注:「てふじて(ちょうじて)」。]賣る、是れ正三角形に靈妙の力ありと信ぜらるゝに出づ、甚しきは三角形の小さき羅紗袋を小兒の頸に懸けて護りとす、而して金剛石形は正三角形を二ツ底を攝して生ずるを以て、又護身の功有りとす云々、用捨箱卷上(九)二月八日、目籠を出すことをいひて、昔より目籠は鬼の懼るゝところと云習はせり、是は目籠の底の角々[やぶちゃん注:「すみずみ」。]は⚝如此、晴明九字(或曰晴明の判)といふものなればなりといひ、又方相の目になぞらへ、邪氣を攘ふ事也といへりと雖ども、類を以て推すに、是れも印度あたりに、古く邪視を防ぐに用ひたるを傳習したらしく思はる(柳亭の考證に、件の日、目籠を出す江戶の風は、もと遠州三州にて節分の日出すを摸し誤る也と、東京の俗、除夜に金箔もて飾れる籠を長竿頭に揭げて戶前に樹て、鬼を追ふと、F.de Marini, ‘Historia et Relatione del Tunchino e del Giappone,’ Roma, 1665, p. 133 に出ず、古今要覽稿卷七十一に、昔し追儺は除夜に限り行はわれしを、後世、節分の豆撒と同事と心得たるを辨ぜるを參考するに、遠參の俗も、もと東京のと同源に出でたるが如し)吾邦の事歷に關係最[やぶちゃん注:「いと」。]厚き支那に、視害及邪視の迷信の有無は、予從來指を染ざるを以て一言も出し得ず、其猓玀[やぶちゃん注:「から」。]間に邪視(Evil ege を十の九まで Evil eye の謬刊として)の信有るは、貴學會雜誌三月の分、二一六頁に於いて纔かに知り得たり、今案ずるに、歷代の本草、諸品の藥效を序して、[やぶちゃん注:以下、底本の漢文引用は不全。初出及び「選集」を参考にしてつつ(それらにも誤りと思われる箇所がある)、正しいと思われる表記に代えた。]狼皮辟邪、狼牙佩之辟邪、狼尾繫馬胸前辟邪氣、令馬不驚、羚羊角辟邪氣不祥、辰砂殺鬼魅、雄黃辟百邪抔いひ、酉陽雜俎續集八に衞公言、鵞警鬼云々孔雀辟惡交廣志に西南夷、土有異犀、三角云々王者貴其異、以爲簪、能消除凶逆と筆せる、邪といひ惡といへるは、主として邪氣の義に解せらるれども、遠き世には邪視を意味せしもあるべし、英國のサー、トマス、ブラウン(一六〇五-八二)すら、「コツカトリセ」(上出)が睨むばかりで能く人物を殺すと、人間同士觸れざるに疾を傳染し、傳鱝[やぶちゃん注:「選集」は『でんふん』と音を附すが、私は「しびれえひ」と訓じておく。]が身外に電氣を及ぼすを同似の例として、此爬蟲の眼、極微の毒分子を現出して、之に對せる人物の眼より、其腦次に其心を犯し、命を致さしむるに外ならずと謂たれば、上古の支那人、邪視と邪氣を混同したればとて怪むに足らず(Hazlitt, i. 133 參照)、其西南夷が犀角を以て凶逆を消除すといへるは、疑ひなく印度阿非利加邊に行はるゝ邪視の事と見ゆ、但し支那の古史に、孟賁[やぶちゃん注:「まうほん」。]項籍の瞋て[やぶちゃん注:「いかりて」。]恐しき伍子胥の執念深き眼盧𣏌[やぶちゃん注:「ろき」。]の忌はしき顏相など多く擧たるに、視害、邪視の俗傳すら見當らず、范雎[やぶちゃん注:「はんしよ」。]の列傳に、睚眦[やぶちゃん注:「がいさい」。ちょっと睨まれること。]の怨をも必ず報ずとて、人に視らるゝを至て些細な事とせるを見れば、邪視の信餘程古く亡びて邪氣の觀念早く之に代りしを知る、貝子は、今も土耳古、アラビアヌビア等にて廣く邪視を避るに用ひられ(Elworthy, op. cit, p. 250)、吾國にも子安貝と稱し、產婦に握らせて其難を防ぐ(男色大鑑卷四第一章)是れ古希臘人が之を女神アフロジテの印しとせし如く、其形甚女陰に似たる故、最も人と鬼の邪視を避るに效ありとせるに基くならん(Otto Jahn, “Uber einige griechischen Terrcottengefäss des archaeologischen Museums in Jena,” Berichte über die Verhandlungen der Königlich-Sächsischen Gesellschaft der Wissenschaften zu Leipzig, Phhilologisch-Historische Classe, I, S. 18, Leipzig, 1853 參照) 支那に臂足類[やぶちゃん注:「ひそくるゐ」。現在の腕足類。]の介化石を石燕と呼び、產婦に握らせて平產を助け、歐州諸地に燕窠[やぶちゃん注:「えんくわ」。ツバメの巣。]中の石を持てば幸福ありといひ、竹取物語に赫耀姬、燕の子安貝をくれなん人に妻たるべしと望める抔合せ攷ふべし(予未刊の著、燕石考、師友F. V. Dickins, ‘Primitive and Mediaeval Japanese Texts,’ Oxford, 1906. p. 361 に抄出さる) 而して漢の朱仲作というなる相貝經に、一種の貝子を產婦に示せば流產せしむるとあるより推して、支那の古え、亦之を安產の助けとせるを知り、それから遠廻りながら、一層古え、邪視の信ありしを知る、Forlong, ‘Short Studies in the Science of Comparative Religions,’ 1897, p. 108 に錫蘭[やぶちゃん注:「セイロン」。]暹羅[やぶちゃん注:「シヤム」。]等の佛場に、足と眼を岩に彫れるは、實は陰陽の相に形れる[やぶちゃん注:「かたどれる」。]にて、邪視の防ぎなりとあるを參するに、支那に佛仙の足跡多きは、吾邦にて門戶に元三大師の手形を貼ると共に、根源は邪視に備へたるにやあらん(予の “Foot-print of Gods, etc.,” Notes and Queries, 1900 及び去年四月の東洋學藝雜誌「ダイダラホウシの足跡」參看)又酉陽雜俎卷十四に、晉の大始中、劉伯玉の妻、夫が洛水の女神の美を稱せるを恨んで水死し、後七日、夢に託して伯玉に語て、君本と神を願ふ、吾今神たるを得たりといひければ、伯玉終身復た水を渡らず、美人此津を渡る者は、皆衣を壞り[やぶちゃん注:「やぶり」。]粧を枉げて敢て濟る[やぶちゃん注:「わたる」。]、然[やぶちゃん注:「しか」。]せずんば風波暴發す、醜婦は粧飾すとも、神妬まざれば無難に渡り得、婦人此妬婦津を渡るに、風浪なき者は不器量故、水神怒らざると心得、皆な自ら形容を毀て[やぶちゃん注:「こぼちて。」]嗤笑[やぶちゃん注:「ししやう」。]を塞がざるなし、故に齊人[やぶちゃん注:「せいひと」。]の語に、欲求好婦、立在津口、婦立水傍、好醜自彰とあるも、いはゞ妬神の邪視を畏れて、貌を損ぜしに歸す、同書卷八に、百姓の間に面に靑痣を戴くこと黥[やぶちゃん注:「いれずみ」。底本「點」。初出で訂した。]の如きあり難產にて妻に死なれたる夫の面に墨を點ぜるなり、かくせずんば、後妻に不利なる由言るは、矢張り死靈の邪視を怖れしに基くか、

[やぶちゃん注:やっとここで「邪視」の全体一字下げの附記が終わる。但し、邪視の考証はまだ続く。

『「ナザル」Nazar (今假りに視害と譯す)』今、思い出した。二十年余り前、トルコに旅行した際に貰ったお守りが、トルコ語で「nazarboncuğu」(ナザールボンジュウ)で、今も目の前の書棚にガラス製のそれがぶら下がっていた。「邪悪な目」から保護することを目的とした伝統的なガラス製のお守りである。「nazar」は「邪悪な目」、「boncuğu」で「お守り」を表わす。フランス語の「Nazar boncuk」のウィキを見ると、アラビア語で「nazar」は「凝視」を意味するとあり、ギリシャ語ではラテン文字転写で「Matiasma」とあった。

コツクバーン氏」下記雑誌記事に当たれないので不詳。綴りは「Cockburn」であろう。

パンジヤブ隨筆質問雜誌(前出)」(1)の冒頭部参照。

「カジヤル」『煙墨(「カジヤル」)』「選集」は『カジャル』と表記。ギー(インドを中心とした南アジアで古くから作られている食用に用いるバター・オイル)にココナッツオイル等のオイルから出る煤(すす)を混ぜたもの。これを指で目の下(目蓋の縁)や額に塗布する。目に爽快感が生ずるという実利的効果もあるが、子供や女性のそれは魔除けとしての目的が主である。サイト「アーユルヴェーダ」のこちらと、こちらを参照した。但し、コックバーンの熊楠の要約では、自身の持つ視害を減衰させるとあって、利他的な魔除けということになる。

『「コール」粉』古代エジプトでは硫化アンチモンや硫化鉛などを原料とした黒い粉で眉やアイラインを描いていた。これを「コール」(khol)と呼んでいた(平凡社「世界大百科事典」の「眉墨」に拠った)。

「布帛の模樣なども、一ケ所をわざと不出來にして邪視を防ぐ」トルコで未婚の少女の織った買った絨毯が居間に掲げてあるが、端の縁部分にある、順に変わった楕円形の模様が、一つだけ、同じものなっている。

「小王(ラジヤ)」「選集」は『ラジャ』。ラージャ或いはラージャー(RajaRajah・漢音写「羅闍」)とはサンスクリット語の語彙で、「君主号」または「貴族称号」である。強大な権勢を持つラージャが、知られた「マハーラージャ(Maharaja)」である。日本語に訳せば、「王」、意訳するなら「豪族」の意である。インドのみでなく、その影響を強く受けたヒンドゥー教時代の東南アジアにも伝播し、王又は王族・貴族の称号として定着した。日本では「閻魔大王」が「閻魔羅闍」と訳されたことがある(ウィキの「ラージャ」に拠る)。

「用捨箱卷上(九)二月八日、目籠を出すことをいひて、……」以下総て(2)の私の注で原本から引用済み。

「方相の目になぞらへ、邪氣を攘ふ事也といへり」これは「用捨箱」ではなく、喜田川守貞の「近世風俗志」の記載の誤り。同じく(2)の私の「守貞の近世風俗志廿三編」注の原文を参照されたい。「除夜に金箔もて飾れる籠を長竿頭に揭げて戶前に樹て、鬼を追ふ」という図も「近世風俗志」のそれで、リンク先に掲げておいた。

「F.de Marini, ‘Historia et Relatione del Tunchino e del Giappone,’ Roma, 1665, p. 133」南方熊楠 の「本邦に於ける動物崇拜(13:鳩)」の私の注「東京で鳩を殺さしめて、キリスト敎徒か否を檢定せる(Marini, ‘Historia del Tunchion’ Roma, 1665, p. 7)」を参照。

「古今要覽稿卷七十一に、昔し追儺は除夜に限り行はわれしを、後世、節分の豆撒と同事と心得たるを辨ぜる」「古今(ここん)要覽稿」は幕命により屋代弘賢が編集した類書(百科事典)。全五百六十巻。文政四(一八一二)年から天保一三(一八四二)年の三十年をかけて完成した大著。自然・社会・人文の諸事項を分類し、その起源・歴史などを古今の文献を挙げて考証解説してある。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認したが、七十一巻は「姓氏部」で、どうも巻数が違うように思われる。一応、他巻も探してみたが、諦めた。

「猓玀」(から)は中国の少数民族の一つである彝(い)族のこと。ウィキの「イ族」によれば、『民族名の自称は「ノス」「ラス」「ニス」「ノポス」など様々な地域によって異なった呼び方をする。中国の古典文献に登場するこの民族の民族名は「夷」「烏蛮」「羅羅」「倮倮」など多様に存在し、蔑称の「夷」が通称であったのを、中華人民共和国成立以降に同じ音である「彝」の字に統一した。彝は「祭器」転じて「道徳」などを意味する雅字。「ロロ族」という呼称もあり、かつては自称であったが現在は中国側では蔑称である。「ロロ」とは、イ族自身が先祖崇拝のために持つ小さな竹編み。当て字の「玀猓」では、部首にけものへんを付け加えるなど、多分に蔑視的な要素を含んでいる。但し、漢字を全廃したベトナム側では今日でも差別的な意味合いはなく』、『ロロ族』『と呼ばれている』とある。

「貴學會雜誌三月の分、二一六頁」「J-STAGE」の『東京人類學雜誌』明治四二(一九〇九)年三月発行の「雜錄」に載る「西支那に於ける及び其他の種族」(PDF)で、イギリスの『人類学雑誌』に発表された、A. Henry 氏の論考を、本邦の人類学・考古学の黎明期を代表する研究者の一人である鳥居龍蔵(明治三(一八七〇)年~昭和二八(一九五三)年)が和訳したもの。当該ページ(論考の最後。「15」コマ目)に僅かに、「Evil ege」はママ。

   *

 巫人、Evil ege 幸福の日、幸福ならざる日等は、彼等によく信仰せらる、而して巫婆の死を招くことに就ての長き祈禱存在す、これに因て鬼は爲めに皮膚粉碎し、其肉は食はれ、呼吸を止めらる。

   *

とある。原著者はアイルランドの園芸家で中国研究家でもあったオーガスティン・ヘンリー(Augustine Henry 一八五七年~一九三〇年)と考えてよい。彼には「雲南省西部のロロ族と非漢民族に関する人類学的研究」(Anthropological work on Lolos and non-Han Chinese of Western Yunnan)があるからである。

「歷代の本草、諸品の藥效を序して、狼皮辟邪、狼牙佩之辟邪、狼尾繫馬胸前辟邪氣、令馬不驚、羚羊角辟邪氣不祥、辰砂殺鬼魅、雄黃辟百邪抔いひ」訓読しておく。

   *

狼の皮は邪を辟(さ)く。狼の牙は之れを佩(お)ぶれば、邪を辟く。狼の尾は馬の胸の前に繫がば、邪氣を辟け、馬をして驚かしめず。羚羊(れいやう)の角は邪氣不祥を避く。辰砂は鬼魅を殺し、雄黄(ゆうわう)は百邪を避く。

   *

これ、恐らくは李時珍の「本草綱目」辺りの諸箇所を繋げたもののように見受けられる。例えば、「狼」の記載は同書を元として記述した寺島良安の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 狼(おほかみ) (ヨーロッパオオカミ・ニホンオオカミ・エゾオオカミ)」(リンク先は私の電子化注。以下同じ)の記載とよく一致する。また、「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 麢羊(かもしか・にく)・山驢 (カモシカ・ヨツヅノレイヨウ)」にも、「角」の条の末尾に『辟邪氣不祥』とある。「辰砂殺鬼魅」は明代の医書で龔信(きょうしん)と子の龔廷賢の著した「古今醫鑑」に載り、他でもしばしば見かけるし、「雄黃辟百邪」は同義の文字列が淸の張璐(ちょうろ)作の臨床実用本草書「本經逢原」に出る。後者は非常に古くからこれを浸した酒がそうした効果を持つことが言われていた。

「酉陽雜俎續集八に衞公言、鵞警鬼云々孔雀辟惡」「酉陽雜俎」(ゆうようざっそ:現代仮名遣)晩唐の官僚文人段成式(八〇三年~八六三年)撰の荒唐無稽な怪異記事を蒐集した膨大な随筆。八六〇年頃の成立。その原本に「衞公言鵞警鬼、鵁鶄壓火、孔雀闢惡」(衞公の言はく、「鵞(がてう)は鬼を警(いまし)め、鵁鶄(かうせい)は火を壓(おさ)へ、孔雀は惡を辟く」とある。「鵁鶄」はゴイサギの異名。

「交廣志に西南夷、土有異犀、三角云々王者貴其異、以爲簪、能消除凶逆と筆せる」「交廣志」不詳。「後漢書」巻百十六「西南夷傳」の、京牢夷の条にある、唐の李賢の注に引かれている「廣志」のことと思われる。但し、「中國哲學書電子化計劃」にある複数の「後漢書」を調べたが、この文字列に出逢えなかった。そこで別に探したところ、「太平御覽」巻第七百九十一の「四夷部」の「南蠻」の冒頭「西南夷」に(訓読は自然流)、

   *

     西南夷

梁祚「魏國統」曰、『西夷土有異犀。三角、夜行如大炬、火照數十歩。或時解脫、則藏於深密之處、不欲令人見之。王者貴其異、以爲簪札、消除凶逆。』。

(梁祚が「魏國統」に曰はく、『西夷の土(くに)に異犀有り。三つ角(づの)にて、夜行するに大いなる炬(たいまつ)のごとく、火、照らすこと、數十歩。或る時、解脫(げだつ)せば、則ち、深密の處に藏(かく)し、人をして之れを見しむを欲せず。王者、其の異(めづ)らしきを貴(たふと)び、以つて簪札(しんさつ)と爲して、凶逆を消除す。』と。)

   *

とあるのを見出せた。「梁祚」(りょうそ 四〇二年~四八九年)北魏の学者で官吏。「簪札」は笄(こうがい・かんざし)のこと。

サー、トマス、ブラウン(一六〇五-八二)」十七世紀のイングランドの著作家サー・トーマス・ブラウン(Sir Thomas Browne 一六〇五年~一六八二年)。彼のウィキによれば、医学・宗教・科学・秘教など、さまざまな知識に基づいた著作で知られるが、特に『フランシス・ベーコンの自然史研究に影響を受け、自然界に深い興味を寄せた著作が多い。独自の文章の技巧で知られ、作品に古典や聖書の引用が散りばめられており、同時にブラウンの独特な個性が現れている。豊かで特異な散文で、簡単な観察記録から極めて装飾的な雄弁な作品まで様々な作風を操った』とある。

『「コツカトリセ」(上出)』(2)を参照。但し、そこでは熊楠は「コツカトリス」と音写している。「選集」もそう訂してある。

『傳鱝[やぶちゃん注:「選集」は『でんふん』と音を附すが、私は「しびれえひ」と訓じておく。]』軟骨魚綱板鰓亜綱シビレエイ目 Torpediniformes に属する二科十二属六十種を含むシビレエイ類。防御・捕食(一部の種群は未確認)のための発電器官を持つことで知られ、その電圧は八~二百二十ボルトに達する。タイプ種はヤマトシビレエイ科 Torpedininae 亜科ヤマトシビレエイ属 ヤマトシビレエイ Torpedo tokionis

「孟賁」(もうほん ?~紀元前三〇七年)は戦国時代の衛又は斉の出身で秦の将軍。武王に仕えた。またの名を孟説とも言う。彼のウィキによれば、『武王に仕えた任鄙・烏獲や夏育、成荊、呉の慶忌と並ぶ大力無双の勇士』『と知られ、孟賁は』、『生きた牛の角を抜く程の力を持って』『おり、勇士を好む秦の武王に取り立てられ』て『仕えた』。しかし、紀元前三〇七年八月、『武王と洛陽に入り、武王と力比べで鼎の持ち上げを行った際、武王は脛骨を折って亡くなってしまった。その罪を問われ、孟賁は一族と共に死罪に処されたと言う』とある。

「項籍」項羽の本名。

「伍子胥の執念深き眼」司馬遷の「史記」の「列傳」巻六十六の第六 伍子胥列傳」で知られる、暗愚な春秋時代の呉王夫差に従った名臣伍子胥(ごししょ ?~紀元前四八四年)。佞臣であった宰相伯嚭(はくひ)の讒言により、自害を命ぜられた。私の好きなシークエンスで、漢文の教科書にあれば、必ずやった。よく採られていた「十八史略」版を以下に引く。

   *

夫差乃賜子胥屬鏤之劍。子胥告其家人曰、必樹吾墓檟。檟可材也。抉吾目、懸東門。以觀越兵之滅吳。乃自剄。夫差取其尸、盛以鴟夷、投之江。吳人憐之、立祠江上、命曰胥山。

   *

 夫差、乃(すなは)ち、子胥に屬鏤(しよくる)の劍を賜ふ。

 子胥、其の家人(かじん)に告げて曰はく、

「必ず、吾が墓に檟(か)を樹ゑよ。檟は材(ざい)とすべし。吾が目を抉(ゑぐ)りて、東門に懸けよ。以つて越兵の吳を滅ぼすを觀(み)ん。」

と。

 乃(すなは)ち、自剄(じけい)す。

 夫差、其の尸(しかばね)を取り、盛るに鴟夷(しい)を以つてし、之れを江(かう)に投ず。吳人(ごひと)、之れを憐れみ、祠(し)を江上(かうじやう)に立てて、命じて「胥山」曰ふ。

   *

「屬鏤の劍」名剣の名。臣下が主君から剣を与えられるとは、「その剣を用いて自害せよ」と命ぜられたことを意味する。「檟」はキントラノオ目トウダイグサ科エノキグサ亜科エノキグサ連アカメガシワ属アカメガシワ Mallotus japonicus 。昔、棺桶の材料とした。ここは夫差のそれであることに注意されたい。「東門」呉の都の東の門。越は呉の東方にあった。「自剄」自分で自分の首を刎(は)ねること。「鴟夷」馬の皮革で作った酒を入れる袋で、下品なみすぼらしいものである。「鴟」は梟、「夷」は「鴺」でペリカンのことで、袋の形が梟の腹やペリカンの嘴に似ていたところからの呼称である。「江」長江。ちなみに「河」は黄河を指す。而して十年後、子胥の予言通り、越は呉を攻めた。吳は連戦連敗し、夫差はおぞましくも和睦を乞う。越王勾践(こうせん)受け入れようとしたが、名臣范蠡(はんれい)が聞き入れなかった。

   *

夫差曰、吾無以見子胥。爲幎冒乃死。

(夫差、曰く、「吾れ、以つて子胥を見みる無し。」と、幎冒(べきぼう)を爲(つく)りて、乃(すなは)ち、死す。)

   *。

言わずもがなであるが、「無以見子胥」は「私はあの世で子胥に合わせる顔がない」の意。「幎冒」死者の顔を覆う布のこと(これ自体が死者の邪眼からの防衛装置と私は見る。なお、「鬼」という漢字は私の尊敬した故吹野安先生によれば、死者にこの幎冒を被せて取れぬように十字に紐で縛った形に基づくと説明されたのをよく思い出す)。死ぬ前に自らそれを被って自殺したのである。

「盧𣏌」「選集」もそうなっているが、これは盧杞(ろき 七三四年?~七八五年)でよい。唐の徳宗に取り立てられて宰相となったが、非常な奸臣として知られる。優れた改革者であった宰相楊炎を失脚させて政務を専断し、賢能の人士を忌み遠ざけ、酷刑を濫用したので吏民の恨みを買った。「李懐光の乱」で罪を得て、新州司馬に流され、さらに吉州長史に貶された後、別に流謫された任地で没した。

「范雎」(はんしょ ?~紀元前二五五年?)は戦国時代の秦に仕えた政治家。秦の昭襄王に対して、遠交近攻策を進言して、秦の優勢を決定的なものとした。人物として知られる。ウィキの「范雎」によれば、王の信任を得て、『権力を確保した范雎は』『領地を貰』って『応侯と名乗った』。『この頃、魏では秦が韓・魏を討とうとしているとの情報を掴み、須賈』(しゅか)『を使いに出した』(彼は実は若き日、魏の中大夫であった須賈に仕えていたが、恐ろしくおぞましい扱いをされて恨みを持っていた。その辺りはリンク先を読まれたい)。『須賈が秦に来ていると知った范雎は、みすぼらしい格好をして須賈の前に現れた。須賈は范雎が生きていたことに驚き、范雎にどうしているのかと聞いた。范雎は「人に雇われて労役をしている」と答えた。范雎のみすぼらしさを哀れんだ須賈は絹の肌着を范雎に与え、「秦で宰相になっている張禄という人に会いたい」と告げた。范雎は主人が』、『つてを持っているので会わせることができると言い、自ら御者をして張禄の屋敷(すなわち自分の屋敷)へと入った。先に入った范雎がいつまでも出てこないので、須賈は門番の兵に「范雎はどうしたか」と聞くと、「あのお方は宰相の張さまである」との返事が返ってきた』。『驚いた須賈は大慌てで范雎の前で平伏し、過去の事を謝った。范雎は須賈にされたことを』挙げて『非難したが、須賈が絹の肌着を与えて同情を示したことで』、『命は助け、「魏王(安釐王』(あんきおう)『)に魏斉』(ぎせい:魏の公子で政治家)『の首を持って来いと伝えろ。でなければ大梁(魏の首都。現在の開封)を皆殺しにするぞ」と言った』。『帰国した須賈は魏斉にこのことを告げ、驚いた魏斉は趙の平原君の元へ逃げた』。『その後、范雎を推挙してくれた王稽が范雎に「自分に対して報いが無いのでは」と暗に告げた。范雎は内心不快であったが、昭襄王に言って王稽を河東(黄河の東)の長に任命した。更に鄭安平を推挙して秦の将軍にし、財産を投げ打って自分を助けてくれた人に礼をして回った。この時の范雎は、一杯の飯の恩義にも睨み付けられただけの恨み(睚眦の恨み)にも必ず報いたと言う』という部分を指す。

「貝子」(ばいし)はタカラガイ(腹足綱直腹足亜綱 Orthogastropoda Apogastropoda 下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科 Cypraeidae のタカラガイ類)の別名。貝貨幣としても知られる。

ヌビア」(Nubia)はエジプト南部のアスワン附近からスーダンにかけての地方の名称。古代エジプト語の「ヌブ」(金)から古代ギリシア・ローマ人がそう呼んだのが始まり。アラビア語では「ヌーバ」。ウィキの「ヌビア」で位置を確認されたい。

「Elworthy, op. cit, p. 250」イギリスの言語学者で好古家のフレデリック・トーマス・エルワージー(Frederick Thomas Elworthy 一八三〇年~一九〇七年)の「The Evil Eye : an account of this ancient and widespread superstition.」(邪視――この古く、且つ、広く普及した迷信に就いての解説)。当該原本はInternet archive」のこちらで読め、左中央部分に「cowries have always been distinct amulets against the evil eye,」とある。「cowrie」(ケリィー)が「タカラガイ」の意。

「男色大鑑」(なんしょくおおかがみ:現代仮名遣)は井原西鶴の浮世草子。貞享四(一六八七)年板行。この宝貝の安産のお守りは日本中で非常に古くから知られているものであるから、わざわざ西鶴の若衆道のそれを引くまでもない。南方熊楠はわざと面白がって(性的な話の裾野をずっと大風呂敷に開けっ広げるため)確信犯でこれを選んでいる点に気づかねばなるまい。

「Otto Jahn, “Uber einige griechischen Terrcottengefäss des archaeologischen Museums in Jena,” Berichte über die Verhandlungen der Königlich-Sächsischen Gesellschaft der Wissenschaften zu Leipzig, Phhilologisch-Historische Classe, I, S. 18, Leipzig, 1853 參照」ドイツの考古学者・文献学者で美術や音楽に関する著作もものしたオットー・ヤーン(Otto Jahn  一八一三年~ 一八六九年)の「イエナの考古学博物館の幾つかのギリシャのテラコッタについて」か。

「臂足類」動物界真正後生動物亜界冠輪動物上門腕足動物門 Brachiopoda に属する、一見、貝に似ているが、全く異なる(貝状部分は貝類のような体幹の左右ではなく、前後に存在する)「生きている化石」と称してもよい原始的な生物群である。本邦には舌殻綱シャミセンガイ目シャミセンガイ科シャミセンガイ属ミドリシャミセンガイ Lingula anatina ・ウスバシャミセンガイ Lingula reevii ・ドングリシャミセンガイ Lingula rostrum ・オオシャミセンガイ Lingula adamsi の四種が、シャミセンガイ目スズメガイダマシ科Discinidaeのスズメガイダマシ Discradisca stella ・スゲガサチョウチン Discradisca sparselineata の二種が棲息しているものの、彼らは潮間帯に分布するため、個体数が急激に減少しており、日本における絶滅は最早、不可避となってしまっている。化石種は非常に多く、古くは古生代カンブリア紀初期(約五億四千二百万年前)の地層からも出土している。因みに、私が電子化注を終わっている「日本その日その日」Japan Day by Day:原本は一九一七年刊)の作者で、「お雇い外国人」として進化論を日本に初めて紹介し、大森貝塚を発見したエドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse 一八三八年~一九二五年)は、この腕足類の研究が専門であった。

「赫耀姬」「選集」は『かぐやひめ』とルビしているが、私は清音で「かくやひめ」と読むべきであると考えている。

「燕の子安貝をくれなん人に妻たるべしと望める」かくや姬に求婚した五人の貴公子の殿(しんがり)の最もついていなかった不幸な男中納言石上麻呂(いそのかみのまろたり)。私が教師時代に作った「竹取物語」完全ダイジェスト版から、その部分を引用しておく。

   *

 中納言いそのかみのまろたりは、生きた燕を殺して体内を探してみても貝が見つからないので、こりゃ、卵を産む時にいっしょに出て来るのであろうと、忠実な家臣を屋根に登らせて、燕の巣を見張らせます。しかし、人がいては燕は巣にさえ寄り付きません。ある人の言を入れて、燕が卵を産みそうな時を見計らって、人が入った大きな籠(かご)をつり上げて探ることにします。上手くその時期が来て、人に探らせますが、見つかりません。苛立ったまろたりは、自らかごに乗ります。すると、巣に差し入れた手が何かをつかみました。「ヤッタ! こやす貝や! はよおろさんかい!」と叫ぶ彼。その声に部下たちは慌てたのでしょうか、かごは見事に墜落し、助け起こした部下に、……「物は少しおぼゆれども、腰なん動かれぬ。されど、子安貝をふと握りたれば、うれしくおぼゆる也。まづ、紙燭(しそく)さして來(こ)。この貝、顏(かほ)、見ん。」と御髮もたげて、御手をひろげ給へるに、燕のまりおける、ふる糞を握り給へるなりけり。それを見たまひて、「あな、かひなのわざや」とのたまひけるよりぞ、思ふにたがふ事をば、「かひなし」とは言ひける。ここは「貝無し」と「甲斐無し」が掛けてあるのは判りますね。恐らくはしかし、「腕(かひな)」(通常は二の腕であるが、腕全体をも指す)で糞を握ったという洒落にもなっているのかも知れません)……遂にまろたりの腰は折れてしまいました。これを聞いたかくや姫は、見舞いの手紙を送ります。まろたりは、返事にと、やっとの思いで、「かひはかく有りける物をわびはててしぬる命をすくひやはせぬ」(貝はありませんでしたが、あなたからお手紙を頂けたので、腰の骨を折った甲斐は、この通り、ありました。でも、思い悩んで死に行くこの私の命を、その「かい」ついでに、どうして結婚して救って下さろうとはなささらないのですか。)という歌を書き終えるや、息を引き取ってしまいました。……『これを聞きて、かくや姫、すこし「あはれ」と思しけり。それよりなむ、すこしうれしきことをば、「かひある」とは言ひける。』……

   *

五人の貴公子中、最後に確かに死んでしまうのは彼だけである。正直、かくや姬、マジ、残酷だわ!

「予未刊の著、燕石考、師友F. V. Dickins, ‘Primitive and Mediaeval Japanese Texts,’ Oxford, 1906. p. 361 に抄出さる」「南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(14:燕)」で既注。フレデリック・ヴィクター・ディキンズ(Frederick Victor Dickins 一八三八年~一九一五年)はイギリスの日本文学研究者・翻訳家。彼のウィキによれば、当初はイギリス海軍軍医・領事館弁護士として来日し、帰国後はロンドン大学の事務局長(副学長)を務めた。初の本格的英訳とされる「百人一首」を始め、「竹取物語」・「忠臣蔵」・「方丈記」などを英訳、日本文学の海外への紹介に先駆的な役割を果たした人物として知られる。駐日イギリス大使ハリー・パークスや親日派として「日本学」の基礎を築いたアーネスト・サトウと交流があり、南方熊楠も、熊楠が翻訳の手助けをする代わりに、イギリス留学中の経済的支援を受けるなど、深い交流があった、とある。

「漢の朱仲作というなる相貝經」早稲田大学図書館「古典総合データベース」の大枝流芳著「貝盡(かひづくし)浦の錦」の下巻(寛延四(一七五一)年刊・PDF)の巻末に附録されてあり(短い)、その「28」コマ目二行目に(訓点を除いて示し、後にそれに従って(一部補足した)訓読した)、

   *

䂃貝使胎消勿以示孕婦赤帶通背是

(䂃貝は胎を消せしむ。以つて孕める婦に示す勿(なか)れ。赤き帶、通背せる、是れなり。)

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「䂃貝」の「䂃」は「瞋」と同じで「目を怒らす」の意があるから、邪眼と親和性があり、眼のように見える紋はタカラガイの中になんぼでもある(タカラガイ自体の形が眼玉っぽい)。殼の上部に赤い筋があるとなれば、示せぬことはないが、これは中国の記載であるから、差し控える。それにしても、この江戸の貝類の博物古書、なかなか素敵!

「Forlong, ‘Short Studies in the Science of Comparative Religions,’ 1897, p. 108」イギリスの土木技師・軍人にして比較宗教学者でもあったジェームス・ジョージ・ロッシェ・フォーロング(James George Roche Forlong 一八二四年~一九〇四年)の「比較宗教学小考」。当該部は「Internet archive」のこちらの左ページ上の以下。

   *

   Most Bud or Bod rocks and symbols are marked with the euphemistic "Foot," "Eyes," or circles, as infallible charms against evil. Hence the Prā-Bat of Siam and similar " Sacred Feet" on the Buds of Akyāb and Ceylon, and the oval or Yoni charm on Kaiktyo.

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幾つかの単語がよく判らないものの、「Yoni」は「ヨニ」=リンガ(男根)である。

「元三大師」「ぐわんざんだいし(がんざんだいし)」と読む。私の居間の飾り棚の中に鎮座ましましている。但し、熊楠の言う「手形」というのは不審。「角大師(つのだいし)」の図(参考にした同人のウィキの「角大師」の図(右側))を手形と勘違いして書いているように思われる。平安中期の天台僧良源(延喜一二(九一二)年~永観三(九八五)年)。「元三」は永観三年正月三日に没したことに因む呼称で、正しい諡号は「慈恵(じえ)」で大師号はないが、一般には通称の方で専ら知られる。第十八代天台座主で、延暦寺中興の祖とされる。「元三大師縁起」などの伝説によれば、良源が自ら修羅の夜叉の姿に化し、疫病神を追い払った時の像であるとされる。二本の角を持ち、骨と皮とに痩せさらばえた夜叉像と、眉毛が角のように伸びたものの二種がある(私の家を守護するそれは後者)。これは中世以降、民間に於いて「厄除け大師」などとして、独特の信仰を集めて現在に至っている。三峰の狼の御札と並ぶ私偏愛のお札である。

『予の “Foot-print of Gods, etc.,” Notes and Queries, 1900 及び去年四月の東洋學藝雜誌「ダイダラホウシの足跡」』「Internet archive」で英文記事を探したが、見当たらない。ところが、幸いなことに、南方熊楠を調べておられる大和茂之氏のブログ「南方熊楠のこと、あれこれ」の『足跡関連の熊楠の文章3:「ダイダラホウシの足跡」』で電子化されていて、全文を読むことが出来る。そこに示された、「南方熊楠と『ノーツ・アンド・クエリーズ』誌―― `Foot-print of Gods, etc.,’から「ダイダラボウシの足跡」へ――」(PDF)も甚だ有益で、特にその第三章で英文の原記事の内容が記されてある。必見。

「酉陽雜俎卷十四に、晉の大始中、劉伯玉の妻、夫が洛水の女神の美を稱せるを恨んで水死し、……」巻十四「諾皋記(たくこうき)上」の一節に(原文は「中國哲學書電子化計劃」のものを少し漢字を入れ替えた)、

   *

妒婦津、相傳言、晉大始中、劉伯玉妻段氏、字明光、性妒忌。伯玉常於妻前誦「洛神賦」、語其妻曰、「娶婦得如此、吾無憾焉。」。明光曰、「君何以水神善而欲輕我。吾死、何愁不爲水神。」。其夜乃自沉而死。死後七日、托夢語伯玉曰、「君本願神、吾今得爲神也。」。伯玉寤而覺之、遂終身不復渡水。有婦人渡此津者、皆壞衣枉妝、然後敢濟、不爾風波暴發。醜婦雖妝飭而渡、其神亦不妒也。婦人渡河無風浪者、以爲己醜、不致水神怒。醜婦諱之、無不皆自毀形容、以塞嗤笑也。故齊人語曰、「欲求好婦、立在津口。婦立水旁、好醜自彰。」

   *

 妒婦津(とふしん)あり。相ひ傳へて言ふ。晉の大始中、劉伯玉が妻、段氏、字(あざな)は明光、性(しやう)、妒忌(とき)たり。伯玉、常に妻の前に於いて「洛神賦」を誦し、其の妻に語りて曰はく、

「婦を娶(めと)るに此くのごときを得ば、吾、憾(うら)み無し。」

と。明光曰はく、

「君、何ぞ水神を以つて善として、我を輕んぜんと欲す。吾、死し、何をか愁へて水神と爲らざるや。」

と。

 其の夜、乃(すなは)ち自から沉(しづ)んで死す。

 死後七日、夢に托(たく)して伯玉に語りて曰はく、

「君、本(もと)、神を願ふ。吾、今、神と爲るを得たり。」

と。

 伯玉、寤(ねむり)より、之れ、覺めて、遂に、終身、復(ま)た水(みづ)を渡らず。

 婦人有りて此の津を渡る者は、皆、衣を壞(やぶ)り妝(よそほひ)を枉(ゆが)め、然る後、敢へて濟(わた)る。爾(しかせ)ざれば、風波、暴發す。醜婦(しこめ)は妝(よそほ)ひ飭(ただし)くすと雖も、渡れたり。其の神、亦、妒(ねた)まざるなり。婦人の、河を渡るも風浪の無き者は、以爲(おもへ)らく「己の醜ければ、水神の怒を致さず。」と。醜婦、之れを諱(い)み、皆、自から形容を毀(こぼ)たざる無く、以つて嗤-笑(あざわら)はるるを塞(ふせ)ぐなり。故に齊人(せいひと)、語りて曰はく、

「好婦を求めんと欲さば、津口(しんこう)に立ち在(あ)れ。水旁(みづぎは)に婦の立たば、好醜(よしあし)は自から彰(あきら)かなり。」

と。

   *

・「妒婦津」は現在の山東省聊城市臨清市。所持する東洋文庫訳注(今村与志雄訳。上の訓読は今村氏の現代語訳を参考にして独自に読んだものである)の注を参考にすると、恐らく同市の西南端を南北に流れる衛河と、東からの運河が合流する附近に、この渡しはあったものと思われる。

・「晉の大始中」今村氏注に、晋代には大始、或いは太始の年号はないとされ、晋の武帝司馬炎の代に、秦始(二六五年~二七四年)があり、これか、とされる。

・「洛神賦」魏の曹植(そうち 一九二年~二三二年)の代表作の一つ。二二二年作。洛神は洛水(黄河の支流洛河の古名)の女神洛嬪(らくひん)。本来は伝説の帝王伏羲(ふっき)の娘であったが、洛水を渡渉する際に溺れて亡くなった。洛嬪の美貌を仔細歌い上げて華麗にして優雅。

「同書卷八に、百姓の間に面に靑痣を戴くこと黥の如きあり……」「酉陽雑俎」の巻八の「黥(いれずみ)」のパートの一節に(同前の仕儀)、

   *

百姓間有面戴靑志如黥。舊言婦人在草蓐亡者、以墨點其面、不爾則不利後人。

   *

百姓、間(まま)、面(おもて)に靑き志(しるし)を戴(いただ)ける有りて、黥のごとし。舊(ふる)く言ふ、「婦人の草蓐(さうじゆく)にして亡(な)くなれる者の在(あ)れば、墨を以つて、其の面に點ず。爾(しか)せざれば、則ち、後人(のちぞへ)に利あらず。」と。

   *

さても。今村氏の現代語訳を見ても、『むかしから、婦人が出産で亡くなった場合、墨でその顔にしるしをつける』。『そうしないと、後継ぎの人に不吉だから』であって、「難產にて妻に死なれたる夫の面に墨を點ぜるなり」等とは訳されていない。強いて別に訓読するなら、「婦人を草蓐にして亡(な)くせし者、在らば」で、そういう意味にはなりそうだが、どうもそんな読み方は出来そうもない(と私は思う)。だいたいからして、後妻を迎えた男がみんな顔に大きなほくろ見たような点を描いて一生を過ごすというのは、とても考え難いことではないか? 伝奇や志怪小説はかなり読んできたが、そんな面相の男の出てくるのを読んだことは一度たりともない。これは、則ち、難産で亡くなった婦人の遺体の顔に大きく「墨で点を打つ」の意であろう。恐らくは難産死(二つの魂が一つの人体内にあるというのは、霊的には非常に異常な状態である)の場合、妻の魂がこの世に遺恨を持って残り、夫が後妻を迎えると、死霊が復讐にくるといった伝承が、まず、その大元に考えることができ(これは本邦に普通に見られる風俗迷信である)、そうした墨で点を描いて醜い顔にしておくと、妻の亡霊は恥ずかしくて後妻に災難を齎すために墓から出ることが出来ない(落語の「三年目」みたようなものである)ということであろう。私は、これ、邪視とは、ちょっと関係がないように思うのだが、如何?

2021/01/08

奥州ばなし かつは神

 

     かつは神

 

 在所中《うち》、新田といふ所に、合羽神《かつぱがみ》とせうする社《やしろ》有《あり》。みたらしめきて、池の如くなるもの有、いかなる晴天つゞきても、かるゝこと、なし。それより、用水の堀、つゞきて有し。

 此家人なる、細產甚之丞と云しもの、十七、八の時分、下まちの若き者兩人と、同じく水をあみて、用水堀をくくゞりくらして有しに、三人、おなじくくゞりしが、いつのほどにや、水無《みづなき》所に出《いで》たりしに、きれいなる家居有て、内に、はた織《おる》音の聞へしかば、いぶかり思ひて、

「爰は、いづくぞ。」

と、うちなる人に問ひしかば、

「爰は、人の來る所、ならず。早く歸れ。」

と、こたへし故、驚《おどろき》、さらんとせしかば、よびとゞめて、

「こゝに來りしといふことを、三年《みとせ》過《すぎ》ぬうちは、人に語るべからず。身に、わざはひあらん。」

と敎《をしえ》たり。

 いよいよおそれて去しが、また、もとの用水堀に出たりき。

 その往來の間、いつも、心おぼえず成て有し、とぞ。

 さるを、町のもの、壱人、そのとしの内に、酒に醉《ゑひ》て語出《かたりだし》たりしが、ほどなく、死《しし》たりしかば、是に、みごりや、したりけん、甚之丞は、一生、かたらざりし。

[やぶちゃん注:この話、河童伝承としては類がない龍宮伝承と語りを禁忌する異類異界型の混淆が感じられる非常に変わったものである。

「新田といふ所に、合羽神とせうする社有」これは仙台からはかなり北に離れるが、現在の宮城県大崎市岩出山上真山街道上(いわでやまかみまやまかいどうかみ)にある磯良(いそら)神社は「カッパ明神」と通称する(グーグル・マップ・データ)のことではあるまいか。そのサイド・パネルにある岩出山町の説明版画像によれば、

   *

 この西方にある[やぶちゃん注:この説明板は本殿から東南に離れた鳥居脇にある(ストリート・ビューで確認済み)。]磯良神社は、カッパの虎吉を祀ったものと言伝えられています。
 虎吉は、陸奥の豪族、藤原秀郷の馬屋に仕え、主人に大変気にいられていましたが、ふとしたことからカッパの正体がばれ、暇をもらって主家を出ました。主人から持仏の十一面観音をもらい平泉をあとにした虎吉は、諸方を転々とし、ここを永住の地と定めました。その後、ここを通る酒売商人がお堂をつくって祀ったと伝えられています。
 例祭は、旧暦の6月15日です。  宮城県 岩出山町

  *

とある。河童が人に化けて、しかもかの秀郷に仕えていたというのは、河童伝承の中では稀に見る話といえよう。言ってみたい。拡大して見ると(サイド・パネルにも画像有り)、祭殿の前に有意に大きな池(沼)がある。

「細產甚之丞」不詳。この姓も検索に掛からない特異な姓である。仮に「ほそうみじんのじょう」(現代仮名遣)と読んでおく。

「いつも」現実世界に戻る、その間中、ずっと。

「町のもの」甚之丞と一緒に泳いでいて、堀端で待っていた残りの二人には、甚之丞は少しだけ話たものであろうから、その両人に孰れかであろう。

「みごり」「身懲り」であろう。]

奥州ばなし 大熊

 

      大 熊

 

 熊とりといふものは、身のあやうきものなり。頭《かしら》壱人、組する者二人、みたり組にて熊とるもの有しが、ある年の暮に、不仕合《ふしあはせ》つゞきて、うゑにのぞむこと有しかば、雪中、山に入《いり》て、

「もし、穴に入そこねたる熊や有《ある》。」

と、【熊といふものは、穴に入て冬ごもりすれども、堀[やぶちゃん注:ママ。]て入ものにはあらず。おのづから岩穴の明《あき》て有に入なり。身、大きく成て、入べき穴なければ、熊笹などにかこみて、背のかくるゝ程につみし中に入て、上にさと木の枝などを、雪よけの爲ばかりに、引《ひき》かけて有ものなるとぞ。[やぶちゃん注:原割注。]】ひらおしに尋《たづね》もとめたるに、折よく、見あたりしかば、頭立《かしらだつ》ものは、

「ほそきかはをへだてゝ、二ツ玉をこめてひかへゐて、壱人の組子をやりて、後《うしろ》より鑓《やり》にて、したゝかに、つくべし。手おひに成しを、爰にて、うちとめん。」

と云合《いひあひ》て有しに、つきにゆきしもの、心おくれして、ふるふ、ふるふ、そと、尻をつきしかば、すぐに、はね出《いで》たり。熊とり、逃るとすれど、すでに頭をくらはれんとせしほどに、鐵砲を持《もち》し男、

「それそれ、熊にくはるゝぞ。」

と、今壱人につげんため、さけびしかば、其聲を聞《きき》て、その者のをるかたへよぢもどりて、一かみにせんとかゝりしが、河をとびこえんと、少しためらひし所を、打とめたりき。

 さて、めでたく春をむかへしと聞《きく》。

 この時、打そんじてかまれなば、それきりのことなるべし。あやうし、あやうし。

[やぶちゃん注:「不仕合」上手く行かないこと。ここは熊の捕獲が例年に比して有意に低かったことを謂うのであろう。無論、それ以外に凶作も重なったものであろう。

「うゑにのぞむ」「飢に臨む」。すっかり飢餓に陥ったことを謂う。

「さと木」「里木」。自然の樹木。

「ひらおし」「平押」。しゃにむに押し進むこと。

「其聲を聞て」主語は熊。]

奥州ばなし 三郞次

 

      三郞次

 

 又、爰なる家人に、菅野三郞次といふもの有し。【若きほどの名なり。今は三力と云。】知行は平地にて、【大みち。】一里の餘をゆねば、山なし。故に薪《たきぎ》に不自由なれば、十六、七の頃、さしたる役もなき故、朝、とくおきて、一日の薪、朝とくおきて、一日の薪をとりに、いつも山に行しに、ある朝、松山の木の間より、女の、髮をみだしてあゆみくるを見て、

「いづちへ行くものならん、髮をもとりあげずして、早朝にたゞ壱人《ひとり》、爰を行《ゆく》は。」

と、心とゞめてまもりをれば、こなたをさして、ちかよりこしが、松の上より、頭ばかり出《いで》て、面(おもて)を見あはせしに、色白く、髮は眞黑にて、末は見えず、眼中のいやなること、さらに人間ならず。朝日に照て、いとおそろしかりしかば、つかねかけたる薪も鎌もなげすてゝ、逃歸りしが、二度《ふたたび》、その山に、いらず。家にかへりておもひめぐらせば、松山の梢の上より頭の出《いで》しは、身の丈、二丈もやあらん。頭の大《おほい》さも、三尺ばかりのやうにおぼえしとぞ。

 これ、世にいふ「山女《やまをんな》」なるべし。

[やぶちゃん注:【2021年1月30日追記】ここから以降、「奥州ばなし」の最後まで、誤って、底本の読みを( )で、私の推定の歴史的仮名遣の読みを、《 》で添えてしまった。後を修正するのも面倒で、前を作り直すのも厭なのでそのままとする。悪しからず。

「家人」家臣。

「菅野三郞次」知行地を持つ以上、相応の重臣でなくてはならない。

「大みち」通常の里程単位。

「眼中のいやなること」所謂、尋常の目つきでないことを謂う。所謂、「邪眼」である。

「山女」山姫(やまひめ)。ウィキの「山姬」より引く。『日本に伝わる妖怪。その名の通り、山奥に住む女の姿をした妖怪で』、『東北地方、岡山県、四国、九州など、ほぼ全国各地に伝わっている]『山女の名は民俗資料、中世以降の怪談集、随筆などに記述がある』。『各伝承により』、『性質に差異はあるものの、多くは長い髪を持つ色白の美女とされる。服装は半裸の腰に草の葉の蓑を纏っているともいうが』、『樹皮を編んだ服を着ている』とか、『十二単を着た姿との説もある』。『熊本県下益城郡でいう山女は、地面につくほど長い髪に節を持ち、人を見ると』、『大声で笑いかけるという。あるとき』、『山女に出遭った女性が笑いかけられ、女性が大声を出すと』、『山女は逃げ去ったが、笑われた際に血を吸われたらしく、間もなく死んでしまったという』。『鹿児島県肝属郡牛根村(現・垂水市)では山奥に押し入ってきた男を襲い、生き血を啜るという』。『信州(長野県)の九頭龍山の本性を確かめるために山中に入った男が、山姫に遭って毒気を浴びせられ、命を落としたという逸話もある』。『屋久島では山姫をニイヨメジョとも呼び、伝承が数多く残る。十二単姿で緋の袴を穿いているとも、縦縞の着物を着ているとも、半裸でシダの葉で作った腰蓑を纏っているともいうが、いずれも踵に届くほど長い髪の若い女であることは共通している。山姫に笑いかけられ、思わず笑って返せば』、『血を吸われて殺されるという。山姫をにらみつけるか、草鞋の鼻緒を切って唾を吐きかけたものを投げつけるか、サカキの枝を振れば難を逃れられる。しかし、山姫が笑う前に笑えば』、『身を守れるとの伝承もある』。『かつて屋久島吉田集落の者が、山に麦の初穂を供えるため、旧暦』八『月のある日に』十八『人で連れ立って御岳に登った。途中で日が暮れたため、山小屋に泊まった。翌朝の早朝、飯炊きが皆より早く起きて朝食の準備をしていたところ、妙な女が現れ、眠る一同の上にまたがって何かしている。結局、物陰に隠れていた飯炊き以外の全員が血を吸われて死んでいたという』。『宮崎県西諸県』(にしものかた)『郡真幸』(まさき)『町(現・えびの市)の山姫は、洗い髪で』、『山中で綺麗な声で歌を歌っているというが』『やはり人間の血を吸って死に至らしめるともいう』。『同県東臼杵郡では、ある猟師が猿を撃とうとしたが』、『不憫になってやめたところ、猿が猟師にナメクジを握らせ、後に猟師が山女に出遭ったところ、実は山女はナメクジが苦手なので襲われずにすんだという』。『大分県の黒岳でいう山姫は絶世の美女だという。ある旅人が山姫と知らずに声をかけたところ、山姫の舌が長く伸び、旅人は血を吸い尽くされて死んでしまったという』。『高知県幡多郡奥内村(現・大月町)では山女に出遭うと、血を吸われるどころか出遭っただけで熱病で死んでしまったといわれる』。『岩手県上閉伊郡上郷村(現・遠野市)の山女は性欲に富み、人間の男を連れ去って厚遇するが、男が精力を切らすと殺して食べてしまうという』。『これらのように山姫、山女は妖しげな能力で人を死に至らしめる妖怪とされるが、その正体は人間だとする場合もある』。『例として、明治の末から大正初めにかけ、岡山に山姫が現れた事例がある。荒れた髪で、ギロギロと目を光らせ、服は腰のみ』、『ぼろ布を纏い、生きたカエルやヘビを食べ、山のみならず民家にも姿を見せた。付近の住民たちによって殺されたが、その正体は近くの村の娘であり、正気を失ってこのような姿に変わり果てたのであった。妖怪探訪家・村上健司は、各地に伝承されている山姫や山女もまた』、『この事例と同様、人間の女性が正気を失った姿である場合が多いと推測している』。『昭和に入ってからも山女の話はあり』、昭和一〇(一九三五)年頃、『宮城県仙台市青葉区で山仕事に出た女性が』三『歳になる娘を草むらに寝かせて仕事をしていたところ、いつしか娘が姿を消していた。捜索の末、翌朝に隣り』の『部落の山中で娘が発見され』、『「母ちゃんと一緒に寝た」と答えていたことから、人々は山女か狐の仕業と語ったという』。『また、屋久島では昭和初期になっても山姫やニイヨメジョの目撃例がある。「旧正月と』九月十六日『には山姫がバケツをかついで潮汲みに来る」「小学生が筍取りに行ったところ、白装束で髪の長い女に笑いかけられた」「雨の夜、宮之浦集落の運転手が紫色の着物の女に出会った。車に乗るよう勧めたが、そのまま行ってしまった」など、現代的な要素を含んだ実話として伝承されている』とある。]

2021/01/07

怪談登志男 三、屠所の陰鬼

 

   三、屠所(としよ)の陰鬼(いんき)

Tosyo

[やぶちゃん注:ずっと後の離れた位置にある本篇の挿絵を、国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして示した。]

 

 今はむかし、越後の國の名高き城下の侍町(さむらいまち)に、不思議の屋敷有りける。門戶、かたぶき壞(やぶ)れ、蓬生(よもぎふ)の露、打はらひて、誰(たれ)尋入る人もなければ、蜘蛛の網に日の光さへ照(てら)さず。

 ある時、其頃の城主、追烏狩(おいとりがり)の歸るさに、此躰(てい)を見咎め給ひ、

「何とてか樣に荒たるや。うち見たる所、能(よき)屋敷なり。修理して何者にても相應の輩(ともから)にあたへよ。」

と仰ければ、近習(きんじふ)の人々も、委しき事をしらず、早速、返答申あぐる人もなかりける。

 さすが、大家(たいけ)の大樣(おうやう)、漸(やうやく)、當所町改(まちあらため)岩本某(それがし)を召出して、樣子を尋られけるに、

「此屋敷、いか成怪(あやしみ)や、さふらふらん、むかしより、二日と住居いたすものなく、立退(たちのき)候ゆへ、古城主、幾人か、御代々、『化もの屋敷』と名附、其儘に差(さし)置給ひ候。當御領に罷成、いまだ、幾(いく)程も無御座候間、御存なき[やぶちゃん注:「ごぞんじなき」。]段、御尤に候。」

と申あげければ、近習の人、此由を言上(ごんじやう)せらる。

 城主、聞給ひて、屋形(やかた)へ歸らせ給ひ、其後、程經て、霖雨(りんう)[やぶちゃん注:幾日も降り続く長雨。]打續たる徒然(つれつれ)に、近習(じゆ)・外(と)樣のへだてなく、みなみな、御前に出て、酒を給り、城主、手づから肴を給はり、其樣子、何とやらん、常にかはりぬ。

『いかなる御意にや。』

と、いぶかしけれども、各、數盃(すはい)をかたぶけたるに、御小姓・諸士の姓名を𤲿て[やぶちゃん注:「かきて」。]、玉としたる鬮(くじ)を持出て、座中に轉(ころば)し出し、

「誰も皆、其玉を一つ宛(づゝ)取りて、披(ひら)き見給へ。もし、我名を、我と、とりあたりたる者あらば、申上らるべし[やぶちゃん注:謙譲の自敬表現。]。其段、是にて着到(ちやうくとう)すべし。御用の儀、あり。」

と云(いゝ)わたせば、

『さればこそ。』

と、おもひながら、手に手にとりて、披き見るに、大かた、他人の名ぞ、取あたるに、御前伺公(しこう)[やぶちゃん注:「伺候」。]の數、四十三人、各、歷々の侍の中にて、わけて武勇すぐれたる者、九人まで、我名に取りたるぞ、ふしぎなる。

 此由、披露しければ、一々、御前の帳にしるされ、又、前のごとく、玉を投(なげ)て取せ給ふに、此度は、四人あり。三度めの鬮に、七人、何れも、すぐれし勇士なり。

 城主、甚、喜悅あり、

「いつぞや見たる化物屋敷へ、まづ、一番手の人數九人、今宵、彼地に罷[やぶちゃん注:「まかり」。]むかひ、夜中の樣子、つぶさに申上ベし。二番は明夜、三番は明後日の夜、發向(はつかう)すべし。」

と仰出され、警固のため、足輕・中間、高提灯・突棒(つくぼう)・鋏子俣(さすまた)を備へ、立走り向ひ、荒(あれ)屋敷の門内へ亂れ入り、暮六ツ[やぶちゃん注:不定時法。先の「霖雨」を梅雨とするならば、初夏ともとれ、だとすると、午後八時前ぐらいとなる。]過る比より、夜の明るを待居たるに、初夜[やぶちゃん注:夜の初め。戌の刻。午後八時時から二時間相当。]過、後夜(ごや)[やぶちゃん注:これは通常は寅の刻で、夜半から夜明け前の午前四時頃を指すが、以下の「丑みつ」(午前二時から四時)と合わないので、ややおかしな用法であるが、午前零時を過ぎたことを言っているものととる。]も告(つげ)、丑みつばかりの頃より、並居たる者共、何とやらん、しきりに心凄く、闇(くら)き後(うしろ)の覺束なく、淋(さみ)しさ限りなきに、

「すは。怪物(ばけもの)の出るならん。」[やぶちゃん注:「出る」は「いづる」と読みたい。]

と、各、互(たがい)にこぶしを握り、勇氣をはげまし、居たる所に、床(ゆか)の下にて、數十人、泣聲高く、太刀音(おと)、響(ひゞき)きこへけるが、其後は音もなし。

 わづかに、板敷一重(ひとへ)なれば、

「いかなる仔細のあらん。」

と、刀の柄(つか)に手を懸(かけ)、白眼(まなこ)あいて居たるに、此度は、梁(うつばり)のうヘに、瘦たる男の首、百ばかり、並(ならび)出て、上になり、下になり、互に打當(うちあて)、

「どう」

と、座中へ、落たりし。

 おそろしさ、たとヘがたし。

 然ども、名ある侍共なれば、落たる首ども、かき集(あつめ)て、一所に積(つみ)置、夜あけ迄、守(まもり)居たるに、すでに、しのゝめの、ひたと、しらめる頃、一度に消(きへ)、あとかたも、なかりける。

 皆々、立歸りて、此ありさま、つぶさに言上におよびければ、

「怪(あやし)き事かな。今宵も左あるか、急ぎ、支度(したく)して、むかふべし。」

との、仰にまかせ、二番手の四人の勇士、はせむかふ。

 其夜、また八ツ過におよび、年の頃、三歲斗(ばかり)の小兒(しやうに)、奧より出て、臺所へ逃まよひ、泣叫(なきさけぶ)。

 跡より、數十の瘦(やせ)首ども、轉(ころび)出て、小兒(ちご)を追行しが、頓(やが)て、小兒に、

「ひし」

と取付、喰盡(くいつく)して、消(きへ)うせたり。

 又、跡より十歲ばかりの男子(のこ)[やぶちゃん注:「をのこ」。「を」は振られていない。]、小脇指(きわきざし)を橫たへ、振(ふり)かへり、振かへり、是も、さきのごとく、臺所へ逃出たるを、首ども、あまた取付て、わらべを喰ひ盡して、首ども、皆、庭へ轉行(こけゆき)しが、

「ぱつ」

と消(きへ)て、夜は、ほのぼのと明にけり。

 此旨、つぶさに訴ヘければ、人々、皆、奇異のおもひをなす。

 次に、三番の七人組(ぐみ)のむかいし第三の夜にあたりて、れいの頃、小兒(ちご)を抱(いだ)きたる女一人、泣悲(なきかな)しみて、逃まよふ。

 數百の首、顯はれ出、喰ひ盡して消(きへ)る事、先の人々の注進のおもむきに違(たが)ふ事、なし。

 此後、しばらく、何事もなく、最(いと)しんしんと更闌(こうふけ)て、鷄(とり)のこゑ、遠里(ゑんり)に聞ゆる頃、大の男が、髮をし、みだし、血刀(ちがたな)提(さげ)て、板敷を荒らかに踏鳴(ふみなら)して、人々並居たる中を、ちと、會釋して通りけるを、各、一同に、言葉をかけて、拔打(ぬきうち)に切懸(きりかけ)しが、手ごたへもなく、消うせて、薄(うす)紙を切ごとくなりしに、又、大の男、顯れ出て、刀を捨(すて)、近く居寄(いより)、むね、苦げに、坐したるさま、おそろしなんども、おろかなり。

 各、詞(ことば)をそろへ、

「汝、何者ぞ。我君の下に住(すみ)ながら、狐狸(きつね・たぬき)にもせよ、かゝる妖怪(ようくわい)をなして、人をおどし、あたら、屋敷を、かく、荒地となすを、其儘にすておかんや。疾(とく)、去べしや。左なくば、此土を掘(ほり)かへしても、狩出す[やぶちゃん注:「かりいだす」。]。」

と、あらゝかに罵りければ、大男、泪(なみだ)を流し、

「此間よりのありさまを御覽じ、狐狸の妖怪と思召も、尤ながら、某(それがし)、まつたく、左樣の類(るい)にあらず。我は、往古(わうご[やぶちゃん注:原本のママ。])、此城の舊主に仕へし藥師寺外記(やくしゞげき)と申者、他國迄、沙汰におよびし、多年の惡行(あくぎやう)、超過(てうくは)し、人を伐(きる)事、甚、面白く覺え、役儀にあらぬ斬罪の事を業(わざ)とし、五日とも人を殺伐(さつばつ)せざれば、心うき事におもひ、男女の罪人、手にかけし所、千人に餘る。此惡因、積(つもり)、死せる時、種々の惡想(あくさう)を現じ、幾年(いくとし)か、此屋敷に住人に、此ありさまを見せて、追善をも請度(うけたく)、人さへ入來れば、まみゆれど、まづ、我苦痛の想(さう)を顯はし後ならでは、我、至る事を得ざれば、是まで、終に、我姿を見たる人なく、初のあやしみを、人々、見はてもやらず、逃出る故、年月を、ふる。我苦(くるし)みを『あはれ』と思召て、此事、上に申て給べ[やぶちゃん注:「たべ」。]。」

と、言下(ごんか)に、消(きへ)うせて、跡かた、なし。

 人々、つぶさに此事を注進しけれぱ、急、其屋敷を打崩(うちくづ)し、臺所の庭一ケ所、中の間一ケ所、奧の座敷とおぼしき所、板敷の下、掘穿(ほりうがち)、各、四、五尺づつ、掘て見るに、枯骨(ここつ)、山のごとく重り、年久しき血に染替(そみかへ)て、濃紫(こきむらさき)の岩となり、淺ましげなる髑髏(どくろ)の、累々たるを、一つ所につみ重ね、寺院に仰(おゝせ)て、追善の法事、一七日[やぶちゃん注:「ひとなぬか」と読んでおく。]が程、修行(しゆぎやう)し、骸骨を厚く葬(ほうむり)給へば、其後、其屋敷、普請ありて、名ある侍に下し置れしに、いさゝかの妖怪もなく、靜(しづま)りける。

 これも、ひとへに、國の守(かみ)の惠(めぐみ)ならずや。恩澤、枯骨におよぶ、民、いづくんぞ、歸服(きぶく)せざらむ。

[やぶちゃん注:この手の、亡者が怪異の正体で供養を求める展開の怪談は、枚挙に暇がないが、本篇は怪異出来のシークエンスがこれでもかという感じに波状的で、なかなかヴィジュアルとしても迫ってきて、非常に優れていると思う。

「屠所」本来は食肉用の家畜を殺して処理する所を指すが、ここはシリアル・キラーとなった薬師寺外記が正規の咎人の斬首とは別に、秘かに私的に、無理矢理、無垢の民草を罪人扱いにしては捕縛し、その人々を屋敷内で斬り殺しており、その血塗られた外記の元屋敷こそが「屠所」なのである。しかも、彼はその惨殺した遺体を、ばれぬように自身の屋敷内に埋めていたということが最後に明かされる点でも真正の「屠所」というわけなのである。

「追鳥狩(おいとりがり)」歴史的仮名遣は「おひとりがり」が正しい。山野で雉子(きじ)などを勢子(せこ)に追い立てさせて狩ることを言う。

「大樣(おうやう)」歴史的仮名遣は「おほやう」が正しい。落ち着きがあって、小さなことにこせこせしないさま。ここは、事態が一向に明らかにならず、重臣らもまるで情報を持たないにも拘らず、城主がそれに苛立たなかったことを指す。

「町改(まちあらため)」江戸時代の町奉行相当か。この話柄、場所も時制も特定出来ない。

「無御座候間」「御座無く候ふ間(あひだ)」。

「鬮(くじ)を持出て」実は底本では以下、「出て」とした部分は、総て「出で」となっている。しかし、原本は皆、「出て」である。私はこれは「出(い)で」ではなく、「出(いで)て」と読むべきと考える。されば、総てを清音にした。

「御前伺公(しこう)の數、四十三人、各、歷々の侍の中にて、わけて武勇すぐれたる者、九人まで、我名に取りたるぞ、ふしぎなる」筆者は、この籖(くじ)の仕儀が、既にして神霊の力の領域に入っていることを示している。妖怪か悪霊か判らぬ対象を退治するために必要な人物を託宣に任せることで、本篇のゴースト・バスターの選択が神意に適(かな)ったものであることを示し、以下の展開に於いても、彼らが恐懼するシークエンスはあっても、読者の期待通り、大団円に進むことが、この呪的システムの発動によって伏線化されているわけである。

「突棒(つくぼう)」江戸時代に使用された捕物道具の一つ。頭部は鉄製で、形はT字型を成し、撞木(しゅもく)に酷似する。この鉄製部分には多くの歯(棘)がついており、長柄(ながえ)は凡そ二~三メートルほどである。

「鋏子俣(さすまた)」同前。「刺股」「指叉」「刺又」とも表記する。頭部は同じく鉄製であるが、こちらはU字形の金具がつけられているが、狭義のU字部分には齒はなく、平たくなっており、長柄に差し込む部分には歯を持つものが多い(長柄の長さは前と同じ)。先端部分で相手の首や腕などを壁や地面に押しつけて動きを封ずる。また、先端金具の両端には外側に反った返しがあり、これを対象者の衣服の袖などに絡め、引き倒す際にも利用される。

「わづかに、板敷一重(ひとへ)なれば」荒れ屋敷であるから、薄い床板だけで畳や上にさらに打った敷板なども既にないのである。

「三歲斗(ばかり)の小兒」「小兒(ちご)を抱(いだ)きたる女一人」この子供は私は再登場ではないと考える。後の子は女に抱かれているところから、三歲より小さい。それと筆者は語っていないが、まず、これは明らかに亡き薬師寺外記の亡き妻と亡き二人の子なのではなかろうか。則ち、この二つのシークエンスは、実は外記の長子と次子と妻が外記への怨念を持った亡者によって食い尽くされるという、亡者たる外記の心内に繰り返し展開される地獄絵としての悪業の生み出す恐るべき凄惨な幻想(外記本人の言う「惡想」である)なのだろうと思うのである。そう読み込んでみて、初めて、これらのキャラクターの登場の意味が私には腑に落ちるからである。但し、幻想であるからして、輪廻の中で反復されるのあってみれば、別に、この小児は同一人の外記の子であっても構わない(それは寧ろ残酷な印象となるが、筆者はそこをも狙っているのかも知れない)。

「藥師寺外記(やくしゞげき)」不詳。ネット検索を掛けると、伊豆国の薬師寺外記と掛かってくるが、これは後の怪談絵巻「模文畫今怪談」(ももんぐわこんくわいだん:唐来参和作・細田栄之(鳥文斎栄之)画。板行は天明八(一七八八)年)での設定変更で、本書の載る怪談本集成も持っているものの、電子化する気も起らないもので、本篇を恐ろしく短縮した(キャプションの話はたった十七行である)話にならない剽窃物である。国立国会図書館デジタルコレクションの合本の当該画像(左頁)を見られたい(見て失望されても私の責任ではない)。まあ、詞書だけ、翻刻しておこう(斜線は改行部。「起」は本篇で判る通り、「超」の誤字)

   *

伊豆のくにゝ/たくし寺外記と/いへるもの多ねん/あく行起過して/人をきる事を/このみやくぎに/あらぬさんざいの/事をわざとし/てにかけしざい人/千人にあまれり/此あくいんつもり/しせるときかづの/くび家ぢうに/むらかり出て/くるしめし/となり

   *

「まづ、我苦痛の想(さう)を顯はし後ならでは、我、至る事を得ざれば」やや表現に不足がある気がする。ここは、

「まづ、我が苦痛の想を顯はして後(のち)ならでは、我、至る事を得ざれば」

とあって落ち着くように思われる。

奥州ばなし 熊とり猿にとられしこと

 

     熊とり猿にとられしこと

 

 これは、あや子が、こゝに下りし、又の年ばかりのことなりき。

 二人組にて熊をとる狩人有しが、

「熊を、もとむる。」

とて、山をゆきしに、大木のもとに、穴、有(あり)て、其木に、ことごとく、爪にて、かきし跡の有しをみつけて、壱人(ひとり)が、

「是を、とらばや。」

といふを、ひとりは、

「益《えき》あらじ。たしかに、猿なるべし。」

とて、くみせざりしかば、歸りつれど、はじめに「とらん」といひ出(いで)し人は、とかく、心、すまで、

「我壱人、行(ゆき)て、とらむ。」

とて、いでたりしが、其夜、かへらざりしかば、

『たしかに。猿にとられつらん。』

と思ひて、外に人ふたりをたのみて、三人づれにてゆきて、穴の口をふたぎ、熊とりのしかけにして、長柄(ながえ)の鑓(やり)にて、つきころしつ。

 中に入(いり)てみたれば、昨日來りし人は、とられて、くはれたると見て、着たる橫ざしと、帶ばかり、穴の中に有て、何もなし。

「皆、猿の食盡(くひつく)したるなり。」

とぞ。

 その猿は、九尺ばかり有しと聞(きき)し。

 すべて、「さる」といふものは大食(おほぐひ)なるものにて、また、食するものなき時は、いく日も、くはで、をるものなり、とぞ。

 山にすむ獸(けもの)は、里のものと、ことなり・をかしきふし、なきことながら、大食(おほぐひ)の次(ついで)に、かきつ。

[やぶちゃん注:「あや子が、こゝに下りし、又の年ばかり」真葛、本名、工藤あや子(綾子)が、江戸を出て、仙台藩上級家臣只野行義(つらよし)の妻となって仙台に赴いたのは、寛政九(一七九七)年九月十日であった。その翌年。

「橫ざし」よく判らぬ「着たる」を文字通りに「きたる」と読むならば、「帶」との関連からも、「橫刺織」(よこざしおり)で、緯(よこ)糸を浮かせて文様を織り出した浮織物のことかと思われる。「着たる」を「つけたる」と読むなら、髻(もとどり)に挿した笄(こうがい)のことを指すとも読めなくはない。別段、猟師が総髪を絡げて房状に後頭部に纏めて、そこに笄を挿していても、日本刀の笄と同等のものを考えれば、少しもおかしくはない。但し、帯との自然さ、発見時の現場の映像からは、やはり前者が自然であろう。にしても、この猿に食われた男は槍なんぞの得物を全く持たずに熊狩り(実はやはり猿だったのだが)行くというのは、これまた、ヘンではある。

「大食(おほぐひ)の次(ついで)に、かきつ」(眞葛が確かに「おほぐひ」と訓じているかどうかはやや疑問はある)里で見掛ける獣類と見かけは特に変わらないけれども、大食いであるという点は異なっているので、それを次いでに記さんと、この話を書いた、という意でとった。]

南方熊楠 小兒と魔除 (2)

 

[やぶちゃん注:以下、邪視に関する考察は、底本では、全体が一字下げで始まり(「三五」ページ)、実にこの字下げの付随部分は「四八」ページまで続くのである。しかも、さらに邪視と邪害の考察は、その後も延々と続くのである。]

 

 邪視のことは F. T. Elworthy, ‘The Evil Eye,’ 1895 に諸國の例を擧て[やぶちゃん注:底本は「譽て」であるが、初出で訂した。]詳說せり。予も屢ば讀みたれども、忘れ畢りたるを以て、只今身近く藏せる多少の書籍と、自分の日記手抄とに據て其の一斑を筆せんに、ブリチツシユ博物館人類學部長チヤーレスヘルキュルス、リード氏の直話に、氏の本國なる愛爾蘭[やぶちゃん注:「アイルランド」。]には、今も貪慾、憎惡、嫉妬等の邪念を以て人畜物件を見れば、見らるゝ者に害ありと信ずる輩多く、往古邪視の力よく高厦を燒き亡ぼすとさへ傳え[やぶちゃん注:ママ。]たれば、古寺觀[やぶちゃん注:「こじくわん」。]の前に女人陰を露せる像を立たる有り。こは一生懸命に其建物を睨み詰んとする中、女陰を見て、忽ち視力の過半を其方に減じ去らるべき仕組、恰も落雷の際避雷柱よく電力を導散して、災禍無からしむるに同じと(Ramusio,‘Navigationi et Viaggi,’ Venetia, 1588, vol.i, fol.92 F. にレオ、アフリカヌスが、婦女山中に獅子に出くわせたる時、陰を示せば忽ち眼を低して去る、と云るも似たる事也)。ベーコンの說に、好事家あり、居常注意して調査せしに人盛勝なる時、最多く之を羨む者の邪視に害せらると、蘇格蘭[やぶちゃん注:「スコツトランド」。]には十八世紀迄邪視を信ずる人多く、以爲く[やぶちゃん注:「おもへらく」。]、或る特殊の人邪視して、小兒牛畜之に中れば[やぶちゃん注:「あたれば」。]必ず病み、時として落命すと、其ハリス島に「モラスカ、ビーンス」と名くる果あり、白き者頗る巫蠱[やぶちゃん注:「ふこ」。]及邪視を防ぐの效有りとて、小兒の頸に懸るに、自ら其害を受引きて黑く變ずと云(W.C.Hazlitt, ‘Faiths and Folklore,’ 1905, i. 216-217)。鎌田榮吉氏歐州漫遊の間見聞せる所を予に話せしに、和蘭[やぶちゃん注:「オランダ」。]とかの一小島の俗、男兒を女裝する所有りと言り、そは、多分埃及[やぶちゃん注:「エジプト」。]と同く、女兒邪視に中てらるゝこと[やぶちゃん注:底本「こ」なし。初出を見ると、ここは「こと」の約物が用いられている(二九三ページ下段後ろから五行目)ことが判る。脱字と見なして訂した。]男兒より稀なりとの觀念に出しならん(Lane, ‘Manners and Customs of the Modern Egyptians,’1871, p. 70)八犬傳に番作が、其子の安寧を冀ふて[やぶちゃん注:「ねがふて」。]、信乃を童時女裝せしめしは、これに類せり、J. T. Bent, ‘The Cyclades,’ 1885, p. 15 に、希臘の一島にて、百歲許りの老嫗來訪せしに、さしも生き過ぎたる身のなほ生を貪りけむ、著者の邪眼を慮り、頻りに十字を𤲿せし由見ゆ。古え[やぶちゃん注:ママ。熊楠の書き癖。以降は注さない。]羅馬に此迷信有しは、ヷーギルの詩に明かにして、一八四六至七八年の間法王たりしピウス九世邪視の聞え高かりければ、其祝を受くる者、面を背け唾吐きて其害を防げり(Hazlit, I. 217; ii, 561.)。伊太利人今日、表面は基督敎徒乍ら、邪視を惧るゝ風少しも非基督敎徒たりし上世に異ならず、邪視の嫌[やぶちゃん注:「きらひ」。]ある者に逢ふ每に、竊かに手を握り固めて、拇指を食指と中指の間に挾み露はす、之を「フイコ」(無花果)と呼び、「フイコ」を仕向けらるゝもの、大に怒りて仕向るものを殺すことすら有り、リード氏話しに、是れ陰囊の間より男根の顯はれたるに象ると、思ふに此果未だ開かざるときの形狀、又其皮白汁に富る抔より、此稱呼を生ぜしか[やぶちゃん注:行末にて読点なし。]但し吾邦には、「フイコ」を男根ならで女陰に象るとし、邪視に關する事と見ずして仕向らるゝものの好婬なるを意味する者とす、又思ふに、山岡明阿彌陀佛の戲作に係るてふ逸著聞集に、好色博士女陰の四具を說る中に、石榴に資て[やぶちゃん注:「よつて」。]名づけたる箇處有る如く、無花果の熟し裂て、多くの赤色瓤子[やぶちゃん注:「じやうし」。果実。]を露はせる姿に因み、之に女陰の意を寓せしこと、古歐州にも有りしならん、そは無花果は、ハールメスプリアプス等の男神の好む所たりしと同時に、女神ジユノデメター等にも捧げられたればなり(A. de Gubernatis, ‘La Mythologie des Plantes,’ 1882, tom. ii, pp. 138-140 參取)。アシユビー氏の說に、伊太利の民上下共、邪視を禦ぐ爲、護りを佩る[やぶちゃん注:「おぶる」。]事頗る盛んなれども、其事を話し、殊に外國人に說明するを不祥なりとする故、容易に知れ難し、ペルシアベルツチ敎授、最も廣く此事を硏究せる其說に、此等護りの尤も古きは隕石なり、其中多く星及び點を具え[やぶちゃん注:ママ。]たるありて、その數定かならず、邪視する者之を算え[やぶちゃん注:ママ。]盡すの後に非れば其力利かず、故に最も珍とせらる、砂、穀粒を無數袋に盛れるを尊ぶも亦同理に出づと(Notes and Queries, Feb.22, 1908, PP. 145-146)。種彥の用捨箱卷上(九)守貞の近世風俗志廿三編に見えたる、二月八日籠を揭げて鬼を避るには、色々の理由も有なんが、一つは鬼が籠目の數をよみ盡す中に、其邪力耗散すとの意もなきに非じ、土耳古[やぶちゃん注:「トルコ」。]人亦邪視の用心周到にして、家の外部に「コラン」の文を題し、天井よりは玻瓈[やぶちゃん注:「はり」。玻璃に同じ。ガラス。]球を懸下し、又馬の息災の爲に、其飭具[やぶちゃん注:「ちよくぐ」。手綱などの制禦馬具。]を美にして之を防ぐ(Hazlitt, i . 217)。レヷント地方に、蠶を他人に見すれば、全く絹を成さずと信ずと云も、其眼力を怖るゝに由るなるべし(Hasselquist, ‘Voyages and Travels in the Levant,’ 1766, p. 167)。西方亞細亞と北阿非利加[やぶちゃん注:「北アフリカ」。]に此迷信弘く深く行なはるゝは衆の知悉する所にして、アラビア夜譚にも鐵又拔刀を以て邪視を除く事あり、(Burton, ‘The Book of the Thousand Nights and a Night,’ ed. 1894, vol.ii p. 209; vol.ⅹ, p. 105.)。又カイロの賈長[やぶちゃん注:「かちやう」。大商人か。]シヤムサツヂン其子の邪視に犯されんことを憂え[やぶちゃん注:ママ。この手の「へ」も「え」と熊楠は書きがちであるので、向後はこれも五月蠅いだけであるから、附さないこととする。不審に思われた方は、底本を確認されたい。]、七歲より成人近くなる迄地窖[やぶちゃん注:「ちこう」。穴倉。]中に育て、後始て相伴ふて外出するに及び、市人一同其親子たるを知ず、年甲斐もなく美童の艷色に惑溺せる者と心得、退職を强勸する話あり(vol. iii, pp. 157-165) カイロには近年も盛裝の富豪婦人、襤褸を絡ひ[やぶちゃん注:「まとひ」。]面に泥塗れる兒女を伴ひ步むを見ること少なからず、是れ其生む所にして、家内に在ては錦衣玉食しながら、外出するご每に、邪視に打たれざる樣にとて、故らに[やぶちゃん注:「ことさらに」。]相好を損ぜるなり(同上、百六十五頁注)。蓋し其害を受ること男兒は女兒より多く、兒童は成人より甚しといふ、現時埃及人及びスーダン人堅く回敎を奉じて一神を尊信すと稱すれども實際沙漠を旅行するに當り、邪神の眼力を懼るゝこと甚く、種々に其馬を華飾して其灾[やぶちゃん注:「わざはひ」。「災」に同じ。底本は「實」であるが、初出で訂した。]を薄くせんとす(Budge,‘The Gods of the Egyptians,’ 1904, vol.i, pp. 13-14)。バートン曰く、邪視の迷信は古埃及に始つたらしいと(x. 393, note.)。是れ現存の文獻中此事を徵すべき者、埃及より舊きは無きを以てなり。間嘗[やぶちゃん注:「つねづね」。]、右に引けるバツチ氏の書を繙て[やぶちゃん注:「ひもときて」。]攷るに、吾國にも眼に緣[やぶちゃん注:「ちなみ」。底本では「綠」。初出で訂した。]して神を神明と呼び、佛像に性根入れるを開眼と稱し、神佛の精力威勢特に眼に集ると心得たる如く、埃及の古民、神の眼を恐れ敬ふ餘り、之に神自身と等しき力を附し、諸神はケペラ神の口より出で、人間は其眼より生ぜりなど、神の眼に造化の力を賦すると同時に、諸大神の眼又大破壞力を具せりと謂へるに似たり、例之に[やぶちゃん注:「これにれいするに」。]ホルスは日を右眼とし、月を左眼とす其眼力能くアペプの首を斬落す(アペプは大蛇にして神敵たり)又神怒りて其眼叢林を剿蕩す[やぶちゃん注:「さうたう(そうとう)す」。「掃討」に同じ。]、又ラー神の眼、魔を平ぐるに足る、諸神、ラーに申す、汝の眼をして進んで汝の爲に、汝の惡言する者を破滅せしめよ、汝の眼ハトール形を現ずる時、諸眼一つも之に抗し得ずと、是れ取も直さず、ラーの邪視異常に强きをいへるものなり、因に云ふ、紐育出板、ハムボルト文庫に收めたる、某氏の「ヒプノチズム」篇に、佛國の術士村女を睨んで、忽ち身を動かすこと能はざらしめ、輙ち[やぶちゃん注:「すなはち」。]就て姦婬し了れる由載たるを見し事あり、斯ること他にも聞及し例あり、こは、魅視とも譯すべき「フアツシネーシヨン」に屬し、理則の如何は扨置き、間々實事として在ることゝ承り及ぶ、人間に限らず、蛇が蛙鰻鱺[やぶちゃん注:二字で「うなぎ」。]などを魅視して逃去る能はざらしむと聞り、古え歐州人が信ぜる「バシリスク」の譚、吾國に今も殘存する牛鬼の誕[やぶちゃん注:「はなし」。]など、こんなことを大層にして傳えしに非ざるか、「バシリスク」一名「コツカトリス」は、蛇若くは蟾蜍[やぶちゃん注:「ひきがへる」。]が鷄卵を伏せ孵して生じ、蛇形にして翼と脚あり、鷄冠を戴くとも、單に白點を頂にせる蛇王なりともいふ、諸動物及び人之に睨まるれば死せざるなく諸植物も亦凋枯[やぶちゃん注:「てうこ(ちゅうこ)」。]せざるなきも、鼬と芸香[やぶちゃん注:「うんかう」。]のみ其害を受ず、古人これを獵りし唯一の法は、每人鏡を手にして之に向ふに、「バシリスク」の眼力鑑の爲に其身に返り、矢庭に斃れ畢るにあり(Hazlitt,i. p. 133; J. Scoffern, ‘Stray Leaves of Science and Folk-lore,’ 1870, pp. 342-346)牛鬼吾邦に存せしこと今昔物語東鑑等に出れども、予が熊野地方にて聞けるは大に之と異なり、則ち一種の有蹄獸にて、山中、人に遭へば見詰て去らず、其人遂に疲勞して死す、之を影を呑まるといふ、爾[やぶちゃん注:「その」。]時、「石は流れる木の葉は沈む牛は嘶き馬吼る[やぶちゃん注:「ほゆる」。]」と、逆まごとを述べたる歌を誦すれば、其患を免る。而して牛鬼が草木の葉を食たる跡を見れば、箭羽頭[やぶちゃん注:「やばねがしら」。]の狀をなし、他の諸獸の食し跡に異なると、予至て不案内の事ながら、種々聞及し所を併せ考るに、或は無識の徒、本州唯一の羚羊(かもしか)[やぶちゃん注:以上はルビではなく本文。]を誤解して、件の怪談を生ぜしかとも思ふ、二年計り那智に僑居せし時、牛鬼出で吼るといふ幽谷へ、所謂逢ふ魔が時(神代に大まがつみの神あるを見れば大禍時[やぶちゃん注:「おほまがどき」。]の意か)を撰み、夜に入る迄其邊にたゝずみし事屢々なりしも、境靜かにして、小瀑布の深淵に落る音の、岩壁に響きて、異樣に聽取らるゝ有りしのみ、他に何物をも見ること無りき。

 

[やぶちゃん注:「F. T. Elworthy, ‘The Evil Eye,’ 1895」イギリスの言語学者で好古家のフレデリック・トーマス・エルワージー(Frederick Thomas Elworthy 一八三〇年~一九〇七年)の「The Evil Eye : an account of this ancient and widespread superstition.」(邪視――この古く、且つ、広く普及した迷信に就いての解説)。当該原本はInternet archive」のこちらで読める。

「チヤーレスヘルキュルス、リード」考古学者チャールズ・ハーキュリーズ・リード(Charles Hercules Read 一八五七年~一九二九年)。大英博物館で英国及び中世の骨董と民族学の管理者となり、イギリス王室の勅許を受けた学術機関「ロンドン考古協会」の会長も務めた。彼の生まれはイングランドのケント州であるが、家の出自がアイルランドなのであろう。

「高厦」大家。大きな屋敷。

「古寺觀」古い教会堂。

「陰」「いん」。陰部。「女陰」(ぢよいん)。女性生殖器。

「Ramusio,‘Navigationi et Viaggi,’ Venetia, 1588, vol.i, fol.92 F.」ベネチア共和国の官吏(元老院書記官など)を務めた人文主義者で歴史家・地理学者のジョヴァンバティスタ・ラムージオ(Giovanni Battista Ramusio  一四八五年~一五五七年)が、先達や同時代の探検旅行記を集大成した、大航海時代に関する基本文献とされる「航海と旅行」(Delle navigationi et viaggi :全三巻。一五五〇年~一五五九年刊)のこと。

「レオ、アフリカヌス」レオ・アフリカヌス(Leo Africanus 一四八三年?~一五五五年?)の名前で知られる、本名をアル=ハッサン・ブン・ムハンマド・ル=ザイヤーティー・アル=ファースィー・アル=ワッザーンという、アラブの旅行家で地理学者。「レオ」はローマ教皇レオⅩ世から与えられた名で、「アフリカヌス」はニック・ネーム。

ベーコン」イギリスの哲学者フランシス・ベーコン(Francis Bacon 一五六一年~一六二六年)であろうが、出典は不詳。

「人盛勝なる時」「ひとさかりがちなるとき」。ある人が成功して世間で華々しく知られている折り。

ハリス島」スコットランド西部に浮かぶ「ルイス(Lewis)島」の南部は「ハリス(Harris)島」と呼ばれている。二つの島名は同じ島にもかかわらず、併用されている(地図表記参照)。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「モラスカ、ビーンス」以下の原本に当たれないので綴り不詳。但し、熊楠の叙述からは「ビーンス」は「beans」(豆)ではあるまいか。

「W.C.Hazlitt, ‘Faiths and Folklore,’ 1905, i. 216-217)」イギリスの弁護士・書誌学者・作家ウィリアム・カルー・ハズリット(William Carew Hazlitt 一八三四年~一九一三年)著の「信仰と民俗学」。

「鎌田榮吉」(安政四(一八五七)年~昭和九(一九三四)年)和歌山県出身。紀州藩の家臣鎌田鍬蔵の子。和歌山藩校・同白修学校を経、明治七(一八七四)年、慶応義塾入学、卒業後に慶應義塾の教諭となった。その後、帰郷し、白修学校校長を経て、再び慶応教諭とある。明治十四年、鹿児島造士館教頭などを務めた後、明治十七年、内務省御用掛となり、その後、内務省御用掛・県治局・大分中学校長・同師範学校長を経て、明治二十七年、和歌山から衆院議員に当選した。明治三十年、欧米を巡遊し(この時、同郷であった熊楠に逢い、かの孫文とも、ともに接触し、孫文の訪日の端緖を作った。この辺りは私の南方熊楠の「履歴書」のこちらを参照されたい)、二年後に帰国し、慶応義塾長となった。高等教育会議議員・教育調査会委員を務め、明治三十九年には勅選貴院議員となっている。大正八(一九一九)年の「ワシントン第一回国際労働会議」の政府代表となり、大正十一年には加藤友三郎内閣の文相を務めた。昭和二(一九二七)年、枢密顧問官(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。

「和蘭とかの一小島の俗、男兒を女裝する所有り」情報を得られない。オランダではない可能性もあるか。

「Lane, ‘Manners and Customs of the Modern Egyptians,’1871, p. 70」イギリスのアラビア学者エドワード・ウィリアム・レーン(Edward William Lane 一八〇一年~一八七六年)。ページが違うが、Internet archive」で原本を調べたところ、「58の頭にこの内容と、後に書かれる汚れた姿で子を連れ歩くことが記されてあるのを発見した。

   *

I naturally inquired the cause of what struck me as so strange and inconsistent, and was informed that the affectionate mothers thus neglected the appearance of their children, and purposely left them unwashed, and clothed them so shabbily, particularly when they had to take them out in public, from fear of the evil eye, which is excessively dreaded, and especially in the case of children, since they are generally esteemed the greatest of blessings, and therefore most likely to be coveted. It is partly for the same reason that many of them confine their boys so long in the hareem. Some mothers even dress their young sons as girls, because the latter are less obnoxious to envy.

   *

「八犬傳に番作が、其子の安寧を冀ふて、信乃を童時女裝せしめしは、これに類せり」馬琴の「南総里見八犬伝」では私は読んだことがない(妻は大ファンで既に三度以上、全篇を読んでいるが)。八剣士として最初に登場する犬塚信乃戍孝(いぬづか しの もりたか)は、ウィキの「南総里見八犬伝の登場人物」によれば、長禄四(一四六〇)年七月『戊戌の日、武蔵大塚で生まれる。父は犬塚番作、母は手束(たつか)』。『番作夫婦には』三『人の子があったが、いずれも育たずに夭折している。手束が子を願って』、『滝野川の弁才天に参拝した帰り道で』、『神犬に騎乗した神女(伏姫神)に遭遇し』、『珠を授けられるが、この時は取りこぼしてしまい、代わりに傍らにいた仔犬(与四郎)を連れて帰る。その後』に『出産したのが信乃である。元服まで』、『性別を入れ替えて育てると』、『丈夫に育つという言い伝えに』、『母が願いを託したため、女名をつけられ、女装されながら育てられた。作中の番作の説明によれば、「しの」は「長いもの」を意味する古語であり、また』、『番作夫婦が出会った信濃国に通じる』とある(太字は私が附した)。

「J. T. Bent, ‘The Cyclades,’ 1885, p. 15」イギリスの探検家・考古学者・作家ジェームス・セオドア・ベント(James Theodore Bent 一八五二年~一八九七年)の「キクラデス諸島又は島内のギリシャ人たちの生活」(The Cyclades; or, Life among the Insular Greeks)。「Internet archive」で調べると、当該ページはここだが、熊楠の記載は面白いものの、どうもかなり翻案してあることが判る。

ヷーギル」ラテン文学の黄金期を現出させたとされるラテン語詩人プーブリウス・ウェルギリウス・マーロー(Publius Vergilius Maro 紀元前七〇年?~紀元前一九年)。共和政ローマ末の内乱の時代から、オクタウィアヌスの台頭に伴う帝政の確立期にその生涯を過ごし、「牧歌」・「農耕詩」・「アエネーイス」の三作品によって知られる。ヨーロッパ文学史上、ラテン文学において最も重視される人物(同人のウィキに拠った)。私は彼の訳詩集も持たないので、当該内容を持つ詩篇は不明。

ピウス九世」第二百五十五代ローマ教皇ピウスⅨ世(Pius IX 一七九二年~一八七八年)。在位は一八四六年六月から一八七八年二月。本名はジョヴァンニ・マリア・マスタイ=フェレッティ(Giovanni Maria Mastai-Ferretti)。実に三十一年七ヶ月という最長の教皇在位記録を持つ。初めは自由主義的で、「イタリア統一運動」を支持したが、後に反意したため、一八四八年にイタリア軍によって教皇庁を追われた。一八七〇年にイタリア王国が成立しても、これと対立し、自ら、バチカン宮に幽囚の身となった。「第一バチカン公会議」の召集者であり、マリアの無原罪懐胎と教皇不可謬性の教義の採択でも知られる。

『手を握り固めて、拇指を食指と中指の間に挾み露はす、之を「フイコ」(無花果)と呼び』「南方熊楠 小兒と魔除 (1)」の私の「視害(ナザル)」「邪視(Evil Eye)」の注を参照されたい。

「リード氏話しに、是れ陰囊の間より男根の顯はれたるに象ると、思ふに此果未だ開かざるときの形狀、又其皮白汁に富る抔より、此稱呼を生ぜしか」私は文句なく賛同する。

「山岡明阿彌陀佛」通常は「山岡明阿彌」(やまおか みょうあみ)と表記する。既に注した旗本で国学者の山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年)の通称。林祭酒から漢学を学び、その後、賀茂真淵から古学を学んだ。熊楠が盛んに引く江戸時代の類書(百科事典)の一つ「類聚名物考」を始めとして多くの著作を残した。

「逸著聞集」俗に「色道の三奇書」と称される一つ(他に黒沢翁満著「はこやのひめごと」・沢田名垂著「あなをかし」)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらに写本があるが、内容的に労多くしての感が私には強いので調べる気にならない。悪しからず。

ハールメス」ギリシア神話の青年神でオリュンポス十二神の一人、神々の伝令で、特にゼウスの使いとして知られ、旅人・商人の守護神であるヘルメース(ラテン文字転写:Hermēs)。

プリアプス」既注であるが、引用途中に入れた注なので再掲しておくと、ギリシア神話に於ける羊飼いで、庭園・果樹園の守護神にして生殖と豊穣を司り、男性の生殖力の神プリアーポス(ラテン文字転写:Priāpos)。巨大なファルスを持つ。

ジユノ」ローマ神話で主神ユーピテルの妻であり、女性の結婚生活を守護する女神で主に結婚・出産を司るユーノー(ラテン語:Juno)。ローマ最大の女神]。神権を象徴する美しい冠をかぶった荘厳な姿で描かれ、孔雀を聖鳥とする。ギリシア神話のヘーラーと同一視される。

デメター」ギリシア神話に登場する豊穣神で、オリュンポス十二神の一柱にして穀物の栽培を人間に教えた女神デメテル(ラテン文字転写:Dēmētēr)。その名は古代ギリシア語で「母なる大地」を意味する。

「A. de Gubernatis, ‘La Mythologie des Plantes,’ 1882, tom. ii, pp. 138-140」イタリアの文献学者コォウト・アンジェロ・デ・グベルナティス(Count Angelo De Gubernatis 一八四〇年~一九一三年)の「植物の神話」。

アシユビー」後に記す「Notes and Queries, Feb.22, 1908, PP. 145-146」(後注参照)の記者「R. E. ASHBY」とある人物。事蹟不詳。

ペルシアベルツチ敎授」同前記事に「Prof. Belucci, of Perugia」と登場する。

「隕石」原記事に「a meteoric stone」とある。

「Notes and Queries, Feb.22, 1908, PP. 145-146」Internet archive」のこちら及び次のページで当該記事が読める。タイトルは「THE EVIL EYE IN ITALY.」で先の署名が最後にある。

「種彥の用捨箱」(ようしやばこ)「卷上(九)」「偐(にせ)紫田舎源氏」で知られる戯作者柳亭種彦(りゅうてい たねひこ 天明三(一七八三)年~天保一三(一八四二)年)の天保一二(一八四一)年の考証随筆。早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの原本の「天」(上巻・PDF)の「17」コマ目の「九」の「お事始」の中に、「江戸砂子」を引いて、

   *

事初【江府中にて籠(ざる)をつるなり】

   *

とあり、その次のコマに、

   *

此日、目籠(めかご)を出す由縁

   *

について、結論を言って、

   *

是は、参州・遠州の風俗の移りしなりとぞ。彼國にては、節分の日に出すを此日に誤りし

   *

ものだと断じ、

   *

昔より、目籠は鬼(おに)のおそるゝといひならはせり。是は、目籠の底にの角々(すみずみ)は⚝、此くのごとし。晴明九字(せいめいくじ)【或いは晴明之判。】といふ者なればなり

   *

と記して、慶安三年の吟とされる、

   *

 籠(かご)の目をあらあら作るは詮(せん)もなし

    悪魔いれじとつゝしめる門(かど)

   *

という句と付句を掲げた上で、

   *

籠の目を鬼(き)のおそるゝといふ諺(ことわざ)のありし証(あかし)にあれ

   *

と擱筆している(原文はもっとねちっこく、ぐちゃぐちゃと書いているのだが、五月蠅いだけなので、私がカットして判り易くしてある。一部は訓読しておいた)。

「守貞の近世風俗志廿三編」江戸後期の風俗史家喜田川守貞(文化七(一八一〇)年~?:大坂生まれ。本姓は石原。江戸深川の砂糖商北川家を継いだ)が天保八(一八三七)年から嘉永六(一八五三)年にかけての、江戸風俗や民間雑事を筆録し、上方と比較して考証、「守貞漫稿」として纏めた。この書は明治四一(一九〇八)年になって「類聚近世風俗志」として刊行された。但し、熊楠の編数は誤りで、「卷之二十六【春時】」で、新春の行事を記述した中に、「二月八日 御事始め」として絵入りで出る。私は岩波文庫版を所持するが、ここは国立国会図書館デジタルコレクションの写本の当該部を底本に電子化し(カタカナはひらがなに代え、句読点・記号を打った。読みは岩波版(ルビは新仮名)を参考にして歴史的仮名遣で添えた。文中に出る図形は画像からトリミングして差込んだ)、画像もそこからトリミングして補正(裏の映り込みがひどいので)して添えた。

   *

二月八日。御事始め。江戶士民、毎戶、竿頭(かんとう)に篭をつけ、栽(た)つ。或書に曰、「籠目は、

Gobousei

如此。俗云、『晴明九字』也」。又、曰、「方相(はうさう)の眼に似たり」。又、一書に、篭と味噌漉(みそこし)とを檐(のき)に釣るの圖あり。味噌漉の目、

Amime

是、亦、道家の秘呪とする九字に似たり。𪜈[やぶちゃん注:「とも」の約物。]に邪を除[やぶちゃん注:「のぞく」。]の意なるべし。

Kagomeno

[やぶちゃん注:挿絵のキャプションは、竿の右脇が、『竿頭に篭を捧く』(ぐ)『圖』、上の町屋の俯瞰図の上に添えてあるのが、『御事の日、䈰を栽(たつ)るの圖』(上部右寄りの「意ナルベシ」は本文の末部分で、キャプションではない)。]

   *

「栽(た)つ」は植え込むの意であろう。最初の引用は種彦の「用捨箱」の可能性が高い。「方相」は「方相氏」のこと。元は中国周代の官名であるが、本邦に移されて、宮中に於いて年末の追儺 (ついな)の儀式の際に悪鬼を追い払う役を担う神霊の名。黄金の四ツ目の仮面をかぶり、黒い衣に朱の裳を着用して矛と盾を持ち、内裏の四門を回っては鬼を追い出した。見たことがない人のためにグーグル画像検索「方相氏」をリンクさせておく。

レヷント地方」レヴァント(Levant)は東部地中海沿岸地方の歴史的名称。広義にはトルコ・シリア・レバノン・エジプト及び現在のイスラエルを含む地域を指す。

「Hasselquist, ‘Voyages and Travels in the Levant,’ 1766, p. 167」はスウェーデンの旅行家にしてナチュラリストであったフレデリック・ハッセルキスト(Fredrik Hasselquist 一七二二年~一七五二年)。「Internet archive」のこちらであるが、英語の綴りが古く、熊楠の言っているような内容なのかどうか、私には判らなかった。

「Burton, ‘The Book of the Thousand Nights and a Night,’」一九世紀イギリスを代表する探検家にして、軍人・外交官・人類学者・作家(翻訳家)としても知られたリチャード・フランシス・バートン(Richard Francis Burton 一八二一年~一八九〇年)の訳した「バートン版千夜一夜物語」(アラビアン・ナイト)。

カイロには近年も盛裝の富豪婦人、襤褸を絡ひ[やぶちゃん注:「まとひ」。]面に泥塗れる兒女を伴ひ步むを見ること少なからず、是れ其生む所にして、家内に在ては錦衣玉食しながら、外出するご每に、邪視に打たれざる樣にとて、故らに相好を損ぜるなり」Lane, ‘Manners and Customs of the Modern Egyptians,’1871, p. 70」に私が引用した英文を見られたい。同じことが書かれてある。

「Budge,‘The Gods of the Egyptians,’ 1904, vol.i, pp. 13-14」イギリスの考古学者エルネスト・アルフレッド・トンプソン・ウォーリス・バッジ(Ernest Alfred Thompson Wallis Budge 一八五七年~一九三四年:古代エジプト・アッシリア研究者として大英博物館の責任者を長く務めた)の原本の当該部は「Internet archive」のこちら右ページから、次のページにかけてである。

「開眼」老婆心乍ら、この狭義にあっては「かいげん」と読むのが正しい。

ケペラ神」「ケプリ」或いは「ケペラ」。エジプト神話に於ける太陽神「ラー」の形態の一つであり、「日の出」を表わす。男性の体にスカラベ(彼らが聖なる虫と限定して指したのはヒダリタマオシコガネ(昆虫綱 Coleopterida 上目コウチュウ目コガネムシ科ダイコクコガネ亜科Scarabaeini 族タマオシコガネ属ヒジリタマオシコガネ Scarabaeus sacer )とされる)の頭を持つ姿で表現される。これはスカラベが丸めた獣糞を自分の前で転がしながら運ぶ姿が、太陽の運行を象徴すると考えられたことによる。また、その糞の玉からは、スカラベが生み付けた卵が孵って生命が出てくることから、スカラベは自分自身を創造する太陽神を象徴するものと見做されたのである。ラーは、夜の間に冥界を渡り、この姿で東の方向に天空の女神「ヌト」の腿の間から地上に姿を現わすと考えられていた(概ねウィキの「ケプリ」に拠った)。

ハトール形」不詳。神名とならば、ラーを父と配偶神に持つ愛と美の女神ハトホル或いはハトル(Hathor)がいるが、当該ウィキを読んでも眼力のことは出ていない。

「紐育」老婆心乍ら、ニュー・ヨークのこと。

ハムボルト文庫」不詳。

「ヒプノチズム」hypnotism。「催眠術」の意。音写するなら、「ヒプニティズム」である。

「フアツシネーシヨン」fascination。「魅惑」・「魅力」・「うっとりした状態」・「蛇が蛙などを竦ませること」等の意がある。

「バシリスク」バジリスクとも。ラテン語「basiliscus」・英語「basilisk」。古代ヨーロッパ以来の想像上の妖獣。名称はギリシア語で「小さな王」の意に由来する。「全ての蛇の上に君臨する蛇の王」を指す。蜥蜴・蛇・鶏(にわとり)がハイブリッド化したような姿で、王冠の鶏冠(とさか)を持ち、睨んだり、息を吹きかけただけで人を殺すことが出来るとされた。因みに、後にリンネによって中南米に棲息する蜥蜴、有鱗目トカゲ亜目イグアナ下目イグアナ科バシリスク亜科 Corytophaninae バシリスク属 Basiliscus Laurenti, 1768)の属名に当てられている。同属種の成体の♂が頭頂部・背面・尾に鶏冠や帆状突起が発達することに由来する。

「牛鬼」現行でも「うしおに」「ぎゅうき」二様に読まれる。主に西日本に伝わる妖獣的妖怪である。主に海岸に現れ、浜辺を歩く人間を襲うとされている。海辺や河川の淵に出没することが殆どで、圧倒的に獰悪にして残忍で、毒を吐き、人を食い殺すことを好むと伝える(祭祀されて神となっているケースもあるにはあるが、これは原祖型の零落からの先祖返りか、或いは御霊信仰の変形であろうと思われる)。一般には、頭が牛で、首から下は獸類或いは鋭い爪を持った昆虫型の奇体な「鬼」の胸腹部で描かれる。資料として牛鬼と認め得るもので、第一級レベルに属する記載は、「吾妻鏡」で、建長三(一二五一)年三月六日に浅草寺に出現したそれである。

   *

丙寅。武藏國淺草寺。如牛者忽然出現。奔走于寺。于時寺僧五十口計。食堂之間集會也。見件之恠異。廿四人立所受病痾。起居進退不成。居風云々。七人卽座死云々。

   *

丙寅(ひのえとら)。武藏國淺草寺に、牛のごとき者、忽然と出現し、寺に奔走す。時に、寺僧、五十口(く)計(ばか)り、食堂(じきだう)の間(ま)に集會(しふゑ)するなり。件(くだん)の恠異を見て、廿四人、立所(たちどころ)に病痾(びやうあ)を受け、起居・進退、成らず。「居風(きよふう)」と云々。

七人、卽座に死ぬと云々。

   *

この病名の「居風」というのは判らない。私は牛頭天王や地獄の獄卒牛頭から派生的に生じた妖怪であり、娘の頭に牛体とする「件」(くだん)も、その直系親族の成れの果てと考えている。

『「バシリスク」一名「コツカトリス」』コカトリス(英語:Cockatrice/フランス語:Cocatrix(音写するなら「コケトゥリ」))は雄鶏と蛇とを合わせたような姿の伝説上の妖獣。ウィキの「コカトリス」によれば、『雄鶏の産んだ卵から生まれるという』。『雄鶏は』七『歳で、卵はヒキガエルが』九『年間温める、などという民話も生まれた』。『同じく伝説の生物であるバジリスクから派生したとされているが、そのきっかけは』十四『世紀にジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』において』、『バジリスクがバシリコック(Basilicok)という名前で登場したことである。その名はやがてコカトリスに変化していき』、『その名が指す生物の外観も、元々は蛇であったものが、首から上と下肢は雄鶏、胴と翼はドラゴン、尾は蛇というふうに、複数の生き物が混合した姿に変貌していった』。『能力はバジリスクと同じようなものを持ち、人に槍で襲われるとその槍を伝って毒を送り込んで逆に殺したり、水を飲んだだけでその水場を長期間にわたって毒で汚染したり』、『さらには、見ただけで相手を殺したり』(邪眼の特徴である)、『飛んでいる鳥さえ』、『視線の先で焼いて落下させたりする』『とされた』。『中世の聖書のさまざまな版のいくつかにコカトリスが登場したため、当時の多くの人がコカトリスが本当に存在すると信じていたという』。『ウィリアム・シェイクスピアの『十二夜』の中でも、登場人物がコカトリスについて言及している』とある。なお、ウィキの「バジリスク」の方には、『コカトリスとは雌雄関係にある(どちらが雄か雌かは不明)とも言われ、「バジリスク」の別称として「コカトリス」が用いられるようにもなった』とあっさりしている。

「凋枯」しぼんで枯れること。

「芸香」以下に示す香草を指す「芸」(音「ウン」。他に「盛んなさま」・「草を刈る」或いは「木の葉が枯れかけて黄ばむ」の意などがある。正しくは(くさかんむり)の間が切れたもの)と「藝(新字「芸」)」は全くの別字であるので注意されたい。バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ヘンルーダ属ヘンルーダ Ruta graveolens。常緑小低木。地中海沿岸地方原産。葉に山椒を少し甘くしたような香りがある。本邦には江戸時代に渡来し、葉に含まれる「シネオール」(cineole:ユーカリ(フトモモ目フトモモ科ユーカリ属 Eucalyptus)の精油の主成分)が通経剤・鎮痙剤・駆虫剤などに利用され、料理の香りづけにも使われていたが、ウルシのように、接触すると、かぶれるなどの毒性があるとされ、現在は殆んどそうした薬剤としては使用されていない。精油はグラッパなどの香り付けに使われている。古くは書斎・書庫を「芸室(うんしつ)」とも称したが(日本最初の公開図書館とされる奈良末期に石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)によって平城京に設けられた「芸亭(うんてい)」も有名)、漢名「芸香」としては、草体を栞に使うと、本の虫食いを防ぐとされた。また、古くから「眼鏡のハーブ」と呼ばれるほど、視力を高める効果があると信ぜられていたため、古代ローマでは画家がこれを大量に食べたという(以上は主に当該ウィキに拠ったが、冒頭や一部はオリジナルに記したものである)。最後の部分は邪視との対抗性が判る話のように思われる。

「牛鬼吾邦に存せしこと今昔物語東鑑等に出れども」「東鑑」は既に引用して出した。「今昔物語集」のそれは、恐らく巻第十七にある、「於但馬國古寺毘沙門伏牛頭鬼助僧語第四十二」(但馬國の古寺に於いて、毘沙門、牛頭(ごづ)の鬼を伏(ふく)して僧を助くる語(こと)第四十二)かと思われる。以下に電子化する。所持する複数の諸本を校合した。□は原本の欠字で、それは小学館の「日本古典文学全集」に従った。読みも小学館版を参考にした。なお、この話は典拠があり、「大日本国法華験記(げんき)」(平安中期に書かれた仏教説話集。著者は比叡山の僧鎮源(伝不詳))の「中」の「第五十七 鬼の害を遁れたる持經者法師」(原本は本文ともに総て漢文表記)である。

   *

 今は昔、但馬の國の□□郡(こほり)の□□の鄕(さと)に、一つの山寺有り。起ちて後(のち)、百餘歲を經にけり。而るに、其の寺に、鬼、來り住みて、人、久しく寄り付かず。

 而る間、二人の僧、有りけり。道を行くに、其の寺の側(かたはら)を過ぐる間、日、既に暮れぬ。僧等(そうら)、案内を知らざるに依りて、此の寺に寄りて、宿りぬ。一人の僧は、年若くして、法花(ほふくゑ)の持經者(ぢきやうじや)也。今一人の僧は、年老いたる修行者也。夜(よる)に入りぬれば、東西に床(とこ)の有るに、各々、居ぬ。

 夜半に成りぬらむと思ふ程に、聞けば、壁を穿(うが)ちて、入る者、有り。

 其の香(か)、極めて臰(くさ)し。

 其の息(いき)、牛の鼻息を吹き懸くるに似たり。

 然(しか)れども、暗(くら)ければ、其の體(すがた)をば、何者と見えず。

 既に入り來りて、若き僧に、懸かる。

 僧、大きに恐ぢ怖れて、心を至して「法花經(ほふくゑきやう)」を誦(じゆ)して、

「助け給へ。」

と念ず。

 而るに[やぶちゃん注:「すると」の意。]、此の者、若き僧をば、棄てて、老いたる僧の方(かた)に寄りぬ。

 鬼、僧を爴(つか)み、刻みて、忽ちに噉(く)らふ。

 老いたる僧、音(こゑ)を擧げて、大きに叫ぶと云へども、助くる人、無くして、遂に噉はれぬ。

 若き僧は、

「老いたる僧を噉らひ畢(は)てば、亦、我れを噉はむ事、疑ひ有らじ。」

と思ひて、逃(に)ぐべき方、思(おぼ)えねば、佛壇に掻き登りて、佛の御中(おほむなか)に交(まじ)はりて[やぶちゃん注:複数の仏像の中に紛れ込んだのである。]、一(ひとり)の佛の御腰(おほむこし)を抱きて、佛を念じ奉り、經を心の内に誦して、

「助け給へ。」

と念ずる時に、鬼、老いたる僧を、既に食ひ畢(は)てて、亦、若き僧の有りつる所へ來たる。

 僧、此れを聞くに、東西、思ゆる事無くして、尙、心の内に「法花經」を念じ奉る。

 而る間、鬼、佛壇の前へに倒れぬ、と聞く。

 其の後(のち)、音も爲(せ)ずして、止みぬ。

 僧の思はく、

「此(こ)は、鬼の、『我が有り所を伺ひ知らむ』と思ひて、音を爲(せ)ずして聞くなめり。」

と思へば、彌(いよいよ)、息・音(こゑ)を立てずして、只、佛の御腰を抱(いだ)き奉りて、「法花經」を念じ奉りて、夜の曙(あ)くるを待つ程に、

「多くの年を過ぐす。」

と思ゆ。更に、物思(おぼ)えず。

 辛(から)くして、夜(よ)、曙けぬれば、先づ、我が抱(いだ)き奉る佛(ほとけ)を見れば、毘沙門天にて、在(まし)ます。

 佛壇の前を見れば、牛の頭(かしら)なる鬼を、三段に切り殺して置きたり。

 毘沙門天の持ち給へる鉾(ほこ)の崎(さき)に、赤き血、付きたり。

 然(しか)れば、僧、

「我を助けむが爲めに、毘沙門天の、差し殺し給へる也けり。」

と思ふに、貴(たふと)く悲しき[やぶちゃん注:「悲しき」は感涙するさまである。]事、限り無し。

 現(あら)はに知りぬ、此れ、「法花(ほつくゑ)」の持者(ぢしや)を加護し給ふ故(ゆゑ)也けり。

 「令百由旬内(りやうひやくゆじゆんない) 無諸衰患(むしよすいげん)」の御誓(おほんちかひ)、違(たが)はず。[やぶちゃん注:「令百由旬内 無諸衰患」句意は『「法華経」を奉じて心から信ずる者の周囲は遙かな彼方まで諸々の患いや災いはこれ全く無い』の意。]

 其の後(のち)、僧、人鄕(ひとざと)に走り出でて、此の事を人に告ぐれば、多くの人、集まり行きて見れば、實(まこと)に僧の云ふが如し。

「此れ、希有の事也。」

と、口々に云ひ喤(ののし)る事、限り無し。

 僧は、泣々(なくな)く、毘沙門天を禮拜(らいはい)して、其所(そのところ)を過ぎぬ。

 其の後、其の國の守(かみ)□の□□と云ふ人、此の事を聞きて、其の毘沙門天を□□[やぶちゃん注:ここは破損。他本「以て」とする。]奉りて、京に向へ奉りて、本尊として供養し、恭敬(くぎやう)し奉りけり。

 僧は、彌(いよい)よ、「法花經(ほくゑきやう)」を誦(じゆ)して、怠る事、無かりけり、となむ、語り傳へたるとや。

   *

「羚羊(かもしか)」哺乳綱鯨偶蹄目ウシ科ヤギ亜科ヤギ族カモシカ属ニホンカモシカ Capricornis crispus 。本邦固有種で京都府以東の本州・四国・九州に棲息し、本州では東北地方から中部地方にかけて分布し、京都府北部・鈴鹿山脈・紀伊半島などに隔離分布し、九州では大分県・熊本県・宮崎県に分布する。されば、熊楠の謂いは問題ない。]

ブログ・アクセス1,480,000アクセス突破記念 梅崎春生 服

 

[やぶちゃん注:本篇は昭和二七(一九五二)年十二月号『文芸』に発表されたもので、後、昭和三十二年一月に刊行した作品集「馬のあくび」(現代社)に収録された。

 底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第三巻」を用いた。

 冒頭に出る「汽車」の「阿比留だったか江比留だったか」「名前はちょっと忘れた」「小さな駅」とあるが、「阿比留」・「江比留」・「あびる」・「えびる」の文字列の駅名は現存しない。旧駅名でも検索に片鱗も掛かってこない。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが昨夜、1,480,000アクセスを突破した記念として公開する。精神的にやや疲弊しているので、短いもので悪しからず。【202117日 藪野直史】]

 

   

 

 夜汽車だった。汽車は夜風を切って、海沿いの線路をぐんぐん走っていた。海には月が照っていた。やがて、阿比留だったか江比留だったかな、名前はちょっと忘れたが、その小さな駅に汽車がガタンと停ると、僕が乗っている客車に、そいつがトランク一つぶら下げて、乗り込んできたのだ。そいつは僕の前に腰をおろした。

 僕はそいつの顔を見た。それからそいつの着ている服を見た。そいつは僕の顔を見た。それから僕の着ている服を見た。そしてイヤな顔をした。おそらく僕もイヤな顔をしていたのだろうと思う。

 そいつの着ている洋服の柄が、僕のとそっくり、いや、全然同じだったのだ。

 洋服地のことはよく知らないが、鼠色の地に、こまかい縞がちりちりと走っている。見かけはちょっと厚味があり、どっしりしているが、どういうものか、すぐ皺になる傾向がある。純毛らしく見せかけながら、インチキな繊維が相当に混入されているらしい。僕はこの服地を、家にやってきた行商人から、七千円というのを、五千円に負けさせて買ったのだ。あとで仕立屋に見せたら、五千円なんかとんでもない、三千円止りのしろものだと聞かされて、大へんしゃくに障ったんだが。――でも捨てるわけにも行かず、とにかく仕立てさせ、こうして着て歩いている。それと同じ地の服を、そいつが着ていたのだ。

 そいつは厭な顔をして、僕の方をちらちらと横目で見ていた。それから、急に立ち上ると、網棚のトランクから週刊雑誌を取出して、眼の前にひろげて読み始めた。そいつは三十五六の、顎の角ばった男で、どこか会社員らしい風体の男だった。顔はかくれて見えないが、週刊雑誌のむこうで、そいつの癖ででもあるのか、しきりにチュッチュッと歯をすする音が聞える。僕は何となくじりじりしてきた。汽車の速度が、急にのろくなってきたような気がする。オシッコが出たくなってきた。(マヌケめ!)と僕は胸の中でつぶやいた。(お前も行商人か何かから、インチキな服地を摑まされたんだろう!)

 汽車がトンネルに入ったらしい。音が突然車内にこもった。僕はふと窓ガラスを見た。窓ガラスにうつったそいつの顔が、じっと僕を横目使いに見ている。僕はあわてて視線を外らした。と同時に、そいつも視線を外らしたらしい。そしてかざしていた週刊雑誌を、乱暴な動作で網棚の上にほうり上げた。僕の方を見ないようにしながら、ぐいと立ち上った。

 そいつは座席の背をつかみ、よろよろしながら、通路を向うに歩いてゆく。便所に行くのらしい。と思ったら、僕の尿意も急に激しくなった。(畜生!)と僕は心の中で呪いの声をあげた。先手を打たれたみたいで、しごく業腹だった。(あいつが便所に行っている間に、席を変えちまおうかな?)もうそれは僕の自尊心が許さなかった。ボウコウが破裂しそうになって来た。

 「よし!」

 僕もはずみをつけて立ち上った。とたんに車体がごとりと揺れて、網棚からさっきの週刊雑誌がすべり落ち、僕の頰を叩いたのだ。僕はそれを拾い上げ、そいつの座席にたたきつけてやった。そして憤然と座席を離れ、通路に出た。

 大急ぎで通路をあるき、二車輛向うのトイレットにころがり込んでやっと用を果たした。手を洗って出てくると、その隣りの車輛が、食堂車になっているではないか。そうだ、あいつと面つき合わしてるより、食堂車でビールでも飲んだ方が、よっぽどましだ。そうだ、あいつと面(つら)つき合わしてるより、食堂車でビールでも飲んだ方はよっぽどましだ。そう思って、バターやカレーやラードの匂いのするその明るい車輛に、僕は胸をそらして足を踏み入れたのだ。

 とっつきの卓に腰をおろすと、給仕女が来た。僕はビールとオムレツを注文しながら、ふと見ると、僕の直ぐ前に、そいつがちゃんと腰掛けているのだ。僕はギョッとした。そいつの眼が、ぎりぎりと吊り上って、僕をにらんでいる。とっさに僕は悟った。こいつも僕から逃げるつもりで、食堂車にやってきたに違いないのだ。

 そいつの顔がコチコチに硬ばって、肩をいからしている。僕だって対面の客と同じ服を着てるのが、もう居ても立ってもいられない。時間の動きののろさ加減といったら、生涯にこんなウンザリしたことはないよ。新聞か雑誌でもあれば、それを読むふりも出来るんだが、それも手もとにない。向うだって同じだから、コチコチになっているんだ。

 給仕女が、そいつの注文を運んできた。再び僕は飛び上りたくなった。だって、そいつの注文品も、ビールとオムレツではないか。

 給仕女はとってかえすと、つづいて僕の注文品を運んで来た。真白い卓布の上に、ビールが二本、オムレツが二皿、シンメトリカルな構図をつくって並んだのだ。給仕女がそれぞれのビールの栓をシュッとあけ、それぞれのコップにビールを満たした。その液体の色や泡の形までが、双生児のようにそっくりだったよ。そいつは、嫌悪に満ちた表情で、コップに手を出した。僕も同じ表情で、同じことをした。そいつはヒマシ油でも飲むような恰好で、コップを唇にもって行った。同じく僕も。

 生れて今まで、僕は数知れぬほどビールを飲み、数知れぬオムレツを食べた。しかし、この時ほど不味(まず)いビールとオムレツは、初めてだったね。思い出してもうんざりする。死にたくなるぐらいだ。――この旅行以来、僕はその服を着ないのだ。あれを着るぐらいなら、ハダカで歩いた方がいい。欲しけりゃ君に上げようか。

 

[やぶちゃん注:梅崎春生好きなら、直ちに思い出す《鏡像》の主題である。最高傑作の「鏡」(二篇構成のオムニバス小説「破片」で「三角帽子」と「鏡」から成る(ブログ版。他にPDF縦書版もある)、その後者)は、既にこの前年の昭和二六(一九五一)年一月号『文学界』に発表されている(後の単行本「春日尾行」(昭和三〇(一九五五)年十一月近代生活社刊)に所収)。但し、この「服」は、「鏡」のような日常へ鏡像関係の反日常的事実が侵犯してくる戦慄性が全くなく、至ってコミカルな展開に終始している。「鏡」を未読の方は、この機会に、是非、読まれんことを強くお薦めしておく。]

2021/01/06

ブログ・アクセス1,480,000突破

先ほど、21:44:18に、『日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 またしても「よいとまけ」/謎の禅語二種――漢詩の同定と判読のご協力を乞う!――』を見にこられた方を以って、ブログ・アクセスが1,480,000を超えた。少し、疲れたので、もう横臥する。記念テクストは明日にする。悪しからず。

奥州ばなし 七ケ濱

 

     

 

 いにし文化[やぶちゃん注:文化は一八〇四年から一八一八年まで。]のはじめ、蝦夷松前に防人(さきもり)をいだされし間のことなりき。

 七ケ濱の内、大須といふ所にて【十五が濱、七ケ濱など云て、又其の小名ありて、取あつかふ人の爰よりこゝ迄と切(きる)ためにわけたり。[やぶちゃん注:原割注。]】、もがさおこりて、うれふるものは、大方、死(しに)たり。

 其ころ、こゝかしこの墓をほりて、何ものゝわざにや、死人(しびと)をくひしとぞ。

 稀有のこと故、所のもの寄合(よりあひ)て、死せし子共(こども)の菩提、又は「あくまよけ」の爲とて、祈禱などして、いと大きなる角塔婆《(かく)たうば》を山の頭(いただき)【風越峠。[やぶちゃん注:原傍注。]】にたてたりし。下は大石にてたゝみ上げたりしを、夜の間に、たうばを、引ぬき、石をも、なげのけて、土をふかくほりかへして有しとぞ。

[やぶちゃん注:「文化」一八〇四年から一八一八年まで。

「蝦夷松前」北海道南部の渡島半島南西部にある現在の北海道松前郡松前町(まつまえちょう:グーグル・マップ・データ(以下同じ)。なお、かなり知られていることだが、現在の行政上では北海道では茅部(かやべ)郡森町(もりまち)以外は総て「町」は「ちょう」と読む)附近。江戸時代、松前藩が置かれ(福山藩とも称した)、蝦夷地松前地方を領有していた。足利義政に仕えた武田信賢の子信広が蝦夷を平定し、光広・義広・季広を経て、慶広の代に徳川家康に所領を安堵され、松前福山に立藩し、松前氏を称した。寒冷地のため、米作が出来ず、当時の藩としては例外的に石高がなく、蝦夷一円を実質領有し、アイヌとの蝦夷交易権を独占した。寛政一一(一七九九)年に北辺防備のため、東蝦夷地 (蝦夷地の東部・南部) が仮収公され(享和二(一八〇二)年正式収公)、文化四(一八〇七)年に残っていた西蝦夷地 (蝦夷地の北部・西部) が収公されて全島が江戸幕府直轄となり、松前藩は陸奥国伊達郡に移封された。しかし、文政四(一八二一)年には蝦夷全島が返還され、復封となり、当初の仮称石高は九千石であったが、天保二(一八三一)年には一万石格となった。しかし,安政二(一八五五)年には、再び北辺防備のため松前福山、江差二港を含む小部分を残して蝦夷地の大半が収公されると、陸奥梁川・出羽東根 (山形県) 合せて三万石を与えられ、ほかに出羽尾花沢 (山形県) 一万余石を預地 (あずかりち) として付せられ、毎年一万 八千両の金子が交付されたが、藩庁は依然として松前福山に留まり、領地には代官を送るだけであった。明治元(一八六八) 年、福山から厚沢部 (あっさぶ) 村の館 (たて) に居所を移し、版籍奉還後、館藩と称した後に廃藩となった(「ブリタニカ国際大百科事典」による)。

「防人をいだされし間」江戸後期、松前藩は千島列島を南下しつつあったロシアに備え、蝦夷地北辺の警備に当たっていたが、二〇一八年、択捉島中部の振別で現地ロシア人によって現地で亡くなった彼ら防人の墓が発見されている。新聞記事によれば、択捉島には松前藩の他、弘前・盛岡・仙台藩から送り込まれた多くの「北の防人」が現地で亡くなっている、とあった。

「七ケ濱」「大須」話からてっきり松前福山周辺の旧地名・旧通称と思って調べたが、見当たらない。この「蝦夷松前……」という部分は単に時制設定を示すためのものであり、これは、真葛が後に磯づたひ」(リンク先は私のPDF一括版) で旅した、旧宮城県宮城郡七ヶ浜村、現在の宮城県宮城郡七ヶ浜町(しちがはままち)のことである。「大須」の地名は現認出来ないが、この付近の地図を見るうち、七ヶ浜町南西端に接して、多賀城市大代(おおしろ)という地区があることに気づいた。「大須(おほす)」と「大代(おほしろ)」とは東北弁では近似した発音に聴こえはすまいか?

「もがさ」疱瘡。天然痘。

「角塔婆《(かく)とうば》」四角柱状を成した供養用(墓に立てる地方もある)の卒塔婆のこと。四角塔婆。年忌法要等の際に墓の傍に建てる薄い板状の板塔婆に対する柱状の塔婆で、形状は板塔婆と同じく頭部五輪塔を模したもので、上から空輪・風輪・火輪・水輪を刻し、一番下の地輪の部分が埋め込む部分まで長くなっている。板塔婆よりも遙かに長く(三~六メートル)、形状も安定を持たせるためにからも有意に太い(一辺幅十三~三十センチメートル)。

「風越峠」不詳。地名としては、あるにはあるが、とんでもない入海の彼方の宮城県石巻市折浜風越であるから、違う。仮に私が仮に措定した先の「大代」ならば、旧地図を見るに、北部が丘陵ではある(今昔マップ)。

「土をふかくほりかへして有しとぞ」この死人(しびと)を喰らう鬼は供養塔婆を墓と勘違いしているのである。]

 

「いかなる大力ものゝ惡《わる》いたづらならん。」

と、いひて有しが、それより疱瘡の波、いよいよ、あしく、日々、死人(しびと)數々有(かずかずある)を、あらたに土をうがちし所は、ほりかへして、くはれぬこと、なし。

 かゝれば、親々は嘆きうれひて、是をふせがん爲に、隨分、重き石を墓におけども、とりのけて。くふこと、やまず。

 其くらへるさま、着せたるものを殘せしのみ、骨・髮ともに跡も、なし。

 たゞ、手首をひとつ、石の上に殘しおきしこと、ありき。

 諸人、おぢおそるゝこと、かしがまし。

 雨後に行てみれば、足跡とおぽしく、人の腕にて、おしたる如くなる形に、壱尺餘のあと有。【足跡の形。

Asigata

[やぶちゃん注:原割注。底本の原文から画像で採った。]

 是にて、化生(けしやう)の大(おほい)も知られたり。

 あるは、狩人の打(うち)たる鹿の、皮をはぎし肉を、外に置(おき)しをも、一夜の中に、骨まで、食(くひ)たり。

「これ、しゝ・むじなのわざ、ならじ。甚(はなはだ)大食(おほぐひ)なるものなり。」

と、いや、まし、おそれたりき。

 其ころ、誰いふともなく、

「『ほうそうばゞ』[やぶちゃん注:「疱瘡婆」。]といふものありきて、死人(しびと)をくらはん爲に、おもく、やませて、人を、ころす。」

と、となヘしかば、公(おほやけ)にうたへて、鐵砲打の人を、くだし給はらんことを願申(ねがひまうし)たりし。

 さる間に、所のきもいりをつとむるものゝ倅(せがれ)三人、十五・十三・十一なり、一度にほうそうにとりつかれしが、只一夜の内に、一時に死たりしかば、父は狂氣の如くになりて、

「死せしことは、是非もなし。このなきがらを、むざむざ、化生の食(じき)とは、なさじ。」

とて、ひとつ所にうづめて、十七人してもちし、平(ひら)めなる大石を上におき、たいまつを兩方にたてゝ、きびしく番人をつけ、外にものなれたる獵師を二人、一夜百疋[やぶちゃん注:金一分(ぶ)。一両の四分の一。一万八千七百五十円相当。]のあたひにやとひて、まもらせけり。二、三日有(あり)て、狩人の云出(いひいづ)るは、

「かく、あかしを置(おき)ては、化生のよりつくこと、有べからず。くらくして、兩人めぐりありきて、こゝろみたし。」

と、いひしかば、それにまかせて、ともしを引(ひき)てありしに、夜中に、何やらん、土をうがつやうなる音の聞えしかば、

「さてこそ、あやしきものよ、ござんなれ。」

と、しのびてよせしが、かねての手なみにおぢおそれて、今さら物すごく、兩人、ひとつにかたまりて近づき見れば、暗夜(やみよ)にて、ものゝ色目は見えわかねど、何か、うごくやうなりしかば、かくし持(もち)たる火繩を出(いだ)せしを、見るやいなや、驚(おどろき)て、はねかヘり、柴山を分(わけ)て逃去(にげさり)し勢ひ、つばさはなけれど、飛(とぶ)が如し。しう【「ウ」、引く。[やぶちゃん注:原割注。シュウー!]】と、なる音して、柴木立(しばこだち)の折(をり)ひしぐる音、すさまじく、そのあほる餘風に、兩人共、引(ひき)うごかされて、前にのめらんとせしほどなりしとぞ。

 十七人して、やうやうもちし石も、とりのけて有しが、番せし人の音をきかざりしは、木の葉の如くとり廻せし。力のほどもしられたり。

 されど、親の念や屆(とどき)つらん、うづめし子は、くはれざりし。夜明(よあけ)てのち、其逃去(にげさり)し跡を、人々、行て見るに、一丈五、六尺ばかりなる柴木立【こゝは大濱といふ所なり。[やぶちゃん注:原傍注。]】の、左右へわかれて、なびきふしたるさま、いと、物すごし。いづくまでかく有しや、往(ゆき)て見ねば、しらず。これ迄、ここゝり來つらんと、心づくほどの跡もなかりしが、火繩におぢて、まどひ逃し故、かく荒しなるべし。

 其のち、絕(たえ)て來らず。

 柴の分れしあとは、二、三年は、たしかに見えしとぞ。【是は、はやく聞(きき)しことなりしが、『僞にや』と、いぶかしく思ひて有しを、藤澤幾之助[やぶちゃん注:不詳。]と云人、其濱に知所(しるところ)有て、とし每に山狩に行しかば、よくことのやうをしりて語るによりて、書きとめたり。柴木立の分れし跡も行て見たり。[やぶちゃん注:原頭注。]】

 其頃、まちの市日(いちび)に、用たさんとて、二人づれにて女の來りしが、【五十ばかりの女壱人、また、三十ばかりにて、子をおひたるが一人。[やぶちゃん注:原割注。]】五十ばかりの女、ものにおぢたる如くのていにて、氣絕したり。

 市人、驚きさわぎて、

「藥よ、水よ。」

と、いたはりしが、ほど有(あり)て、いき出(いで)たりしを、つれの女の介抱して、ともなひゆきしこと有つれど、何の故といふことを、しる人、なかりき。

 さて、三年をへてのち、氣絕したる女、語出(かたりいだし)たるは、

「さいつころ、市町(いちまち)にゆきしに、ふと、むかひの山を見たれば、そのたけ、一丈餘りもやあらんと思はるゝ毛ものゝ、大木の切口に腰をかけて有しが、頭には、白髮、ふさふさと生(おひ)たるが、山風に吹みだれ、つらの色は、あかくして、めんてい、ばゝの如し。目の光、きらきらとして、おそろしきこと、いふばかりなし。『是や、此頃、死人を堀出(ほりだ)して、くらひし獸ならん』と、おもふやいな、五體、すくみて、氣も消(きえ)て有しが、其ほどに、『語(かたり)いでなば、身にわざわひもやあらん』と、おそろしさにつゝしみて有しが、獸の通りし跡さへなくなりし故、今、語るなり。」

と、いひしとぞ。

 是をもて思へば、「ほうそうばゝ」といひしも、より所、あることなりき。塔婆をぬきしも、かゝる邊土にて、かばかりのことせし人あらば、誰と名のしれぬこと、なし。あらたに土を堀[やぶちゃん注:ママ。]、石をすゑなどせし故、『ものや、あらん』と、ほりみしことなるべし。死人の有無をだにさとらぬは、いきほひはあれども、神通(じんつう)を得しものには、あらざるべし。いづちより來りしや、古來、前後、聞(きき)およばぬこととぞ、人、かたりし。

[やぶちゃん注:妖怪を集成したサイトのこちらの「疱瘡婆」に、本篇の訳物を扱った記事があり、そこで水木しげるの「日本妖怪大全」(私も所持している)の「疱瘡婆」の同話引用があるが、そこで水木は本篇総てを松前の出来事として書いている。サイト主は『北海道の松前と宮城県での話は、場所の違いだけでほとんど同じ内容になっている。これが何を意味しているかはよくわからない』と述べているが、要するに、水木は初読時の私と同じく、本篇を誤読しているのである。

 なお、所持する湯本豪一編著「妖怪百物語絵巻」(二〇〇三年国書刊行会刊)の「ばけもの繪卷」(作者不詳。近畿・北陸・関東・東北の十二の妖怪譚を挿絵附きで記す。絵巻物自体の制作は明治時代のものと推定される)に載る人肉を食う婆の化した鬼婆の話を画像とともに添えておく。以下に文を表記通りに電子化する。踊り字「〱」は「々」若しくは正字化した。

   *

 

Housoubaba

 

みちのくしのふ郡に住ける

農人の母心かたましく生る[やぶちゃん注:「いくる」。]

ものゝ命をとり後にはこれ

            を

食とせしを其子いろいろ

いさめけれと聞入れす日〻に

長して[やぶちゃん注:「ちやうじて」。増長して。]ある夜墓原に

行てしゝむらを

喰ひ[やぶちゃん注:「くらひ」]終には

ゆきかた[やぶちゃん注:「行方(ゆきがた)」。]

なくなり

にける 一と歳[やぶちゃん注:「ひととせ」。]も立て杣

人[やぶちゃん注:「そまびと」。]奥山に分入しに此老女

にあへり 兩の手に

人の首を持さなから鬼の如くなる

面赤しおそろしさ云わんかたなし

杣人 からき命をひろひ人に語りけれは

國の守より伝[やぶちゃん注:「つげ」。下命(かめい)。]ありて飛道具をもつてうちころ

すへしと七村に觸[やぶちゃん注:「ふれ」。]あり村々立合て其

ありし所を取まき鉄砲をうちたつれは[やぶちゃん注:「擊ち立つれば」。]

誠の鬼とかたちをなし雲に乘りて

失ぬ

   *

「みちのくしのふ郡」は陸奥国信夫(しのぶ)郡。現在の福島県福島市に概ね相当する。北で宮城県に接する。底本の図像解説で湯本氏は『宮城県には疱瘡で死んだ子供の墓をあばいて食べる「疱瘡婆」の話が伝わっている。疱瘡婆もここに描かれた妖径と同様に鉄砲で追われており、両者は関連のある言い伝えであろう。「かたまし」とは、悪賢いこと』と記しておられる。本篇の異人は「婆」ではないが、これは恐らくは本篇の内容を意識されて附記されたものと考え、ここに挙げることとした。雲に乗って消え失せたところは、既にして妖仙という感じではある。]

2021/01/05

怪談登志男 二、天狗の參禪

 

   二、天狗の參禪

 

 木賊刈(とくさかる)そのはら山を尋て、月見にまかりし比、彼地の人の咄けるは、

「當國橫湯山に、溫泉寺といふ一刹あり。越後の雲洞庵の末寺にて、曹洞宗なり、此あたりの田舍人の、『七不思議』と稱するも、此寺の奇怪を語り傳ふるなり。

 抑[やぶちゃん注:「そもそも」。]、開山禺巴和尙の時、一人の山伏來りて、和尙に參じ、朝夕、傍をはなれず、給仕しける。和尙、熟視(つくつくみ)て、

「凡者ならず。」

と、心を付られしが、ある時、山臥[やぶちゃん注:ママ。こうも書く。]を呼寄せ、問て言、

「汝、個翅を以て海砂の雲を凌ぎ、天に颺(あがり)て、鱗を生じ、闇に空破(は)するや無や[やぶちゃん注:「いなや」。]。」

と。

 山臥、起て、忽、つばさを生じ、鼻、高く、おそろしき姿ながら、和尙を禮拜し、

「我に一則をあたへ給へ。報恩に御寺を後世迄、護り奉らん。」

と、身を大地に投じ、頭をたゝいて乞(こひ)ければ、和尙、則[やぶちゃん注:「すなはち」。]、一語を、さづく。

 天狗、再拜して去る。

 是より、このかた、今に至て、住職、凡[やぶちゃん注:「およそ」。]、廿代の餘におよぶ。

 然るに、代々の和尙、遷化の時、未、近寺の僧も知らぬうちに、門前の橋の下、谷川の流に、歷代の石碑、かならず來る。其石の形、石工の上手の、日夜、巧に彫(ほり)たるより、猶、勝れて、見事なる自然石にて、世に云所の無縫塔なり。歷代の住寺の石塔、皆、是、流れ來る自然石(ぢねんせき)を用ゆ。[やぶちゃん注:七不思議第一。「七不思議」と呼ぶ以上、命数を私なりに以下で数える。]

 又、此寺にて、門戶をとざすこと、なし。盜人(ぬすびと)、來つても、出る所の道にまよひ、盜得(ゑ)たる寺の財寶、皆、歸しぬれば、去る。さもなければ、いつまでも、のがれ出る道を得ず、今に至ても、あやまつても、忍向(うかゞ)ふもの、なし。此故に寺中迄も、門戶を固(かたむ)る事、なし。[やぶちゃん注:七不思議第二。]

 又、寺中に、ちり・芥(あくた)あること、なし。今、捨(すつ)る塵芥(ぢんかい)、暫(しはし)有て見るに、奇麗に掃除する者ありて、其人を見ず。今に及で[やぶちゃん注:「およんで」。]、かはらず。[やぶちゃん注:七不思議第三。]

 又、書院のむかふに、築山(つきやま)・泉水(せんすい)の風景、甚(はなはだ)よし。自然の木石(ぼくせき)、人意(じんゐ)を假(か)らず、己(おの)が儘(まゝ)に聳(そびへ)、本來の面目、誠に禪刹相應なり。[やぶちゃん注:七不思議第四。]

 後[やぶちゃん注:「うしろ」。]の山の根に、方三尺の丸(まる)き穴、あり。此中より、風雲を吐き出す。穴の淺深、誰(たれ)試みたるもの、なし。奧ふかく、蟲(むし)・獸(けもの)のすむ事もなく、風の出る斗(はかり)なり。年中、晝夜、かくのごとし。夏は、食物(しよくもつ)を此穴のそばに置ば[やぶちゃん注:「おかば」。]、日を經ても、味を損ぜず。冬は、かへつて、熅(あたゝか)にして、爐火(ろくは)のごとし。[やぶちゃん注:七不思議第五。]

 門外に小橋あり。此橋の邊[やぶちゃん注:「あたり」。]まで來る者、寺門内外を不ㇾ論(ろんぜず)、遍參(へんさん)の僧、客、來までも[やぶちゃん注:「くるまでも」。]、住持の、耳に足音を聞(きゝ)知る事、側(そば)に在(あり)て見るがごとし。夜中、猶、かくのごとし。[やぶちゃん注:七不思議第六。]

 かゝる事ある寺院なれば、通途(つうつ)[やぶちゃん注:どこにでもいるような平凡な僧侶。]の沙門、住持すること、一日片時(いちじつへんじ)も、ならず。まして、今時(こんじ)の貪慾邪智(とんよくぢやち)の鉦法師(どうほうし)は、山内(さんない)に入ことも、あたはず。[やぶちゃん注:七不思議第七。売僧に至っては、広義の寺の山域に入ること自体が出来ないというのは、不思議に数えてよい。]

 然ども、此異靈(いれい)ありとて、あへて、ほこらず。

 祖翁一片の閑田地(かんでんち)、獨(ひとり)、兒孫(ぢそん)に囑(ぞく)して、種(たね)を植(うへ)しむ。いと、殊勝なる禪林なり。

[やぶちゃん注:「木賊刈(とくさかる)そのはら山を尋て」謡曲「木賊」(別名「木賊刈」)に基づく謂い。謡曲の内容その他は、高橋春雄氏のサイト「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」のこちらがよい。「そのはら山」は「園原山」で、現在の長野県下伊那郡阿智村(あちむら)智里園原(ちさとそのはら)周辺(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「當國橫湯山に、溫泉寺といふ一刹あり」長野県下高井郡山ノ内町平穏にある曹洞宗横湯山温泉寺サイト「長野県:歴史・観光・見所温泉寺」の「渋温泉:温泉寺」によれば、『創建は』嘉元三(一三〇五)年、名僧『虎関師練国師(京都の東福寺・南禅寺住持、南北朝時代の僧)が巡錫で渋温泉に訪れた際、草庵を設けたのが始まりとされ、渋温泉の効能を広めると共に臨済宗の寺院として寺観を整えたと伝えられ』る。『その後、一時荒廃し』『たが』、弘治二(一五五六)年に『渋温泉在住の大檀那が貞祥寺(長野県佐久市)の円明国師を招いて再興し』、『曹洞宗に改宗し』た。『戦国時代には武田信玄が帰依し』、永禄四(一五六一)年の「川中島の戦い」の『後には』この『渋温泉で疲れを癒したと伝えられて』おり、『その感謝もあってか』、永禄七(一五六四)年には寺領七十貫文を寄進し、現在でも寺紋には武田菱を掲げてい』る。『江戸時代に入ると』、『松代藩(長野県長野市松代町・藩庁:松代城)の歴代藩主である真田氏が庇護し』、『寺運も隆盛し』た。『寺宝には信玄直筆の寄進状や軍配などが残され、開基も武田信玄となって』おり、『境内は広く』、『山門、楼門(入母屋、桟瓦葺、一間一戸)、鐘楼、本堂』、『経堂』『などが建ち並んでい』るとある。

「越後の雲洞庵の末寺にて」JR東日本の観光案内には、『渋温泉の一角にある曹洞宗貞祥寺の末寺』とする。雲洞庵(うんとうあん)は新潟県南魚沼市雲洞にある曹洞宗金城山雲洞院雲洞庵。末寺制度は江戸幕府が寺院を管理支配するために行ったものであるから、特に詮索しない。

「禺巴和尙」不詳。虎関師練はこう名乗ったことはない。曹洞宗改宗時の新たな開山の意か。にしてもこの号は検索に掛かってこない。

「熟視(つくつくみ)て」原本のそれは「つくづくみて」の意。

「個翅」「こし」と音読みしておく。一箇の翼。この和尚の台詞は、これ全体が見事に禅の公案の形を成していて小気味よい。

を以て海砂の雲を凌ぎ、天に颺(あがり)て、鱗を生じ、闇に空破(は)するや無や。」

と。

 山臥、起て、忽、つばさを生じ、鼻、高く、おそろしき姿ながら、和尙を禮拜し、

「我に一則をあたへ給へ。報恩に御寺を後世迄、護り奉らん。」

「和尙、則、一語を、さづく」これは先の公案に対する一つの答えを与えたということになるのだが、本来は、天狗自身が、先の公案に対して、ある答え(それは言葉でなく、ある行為の場合もある)を成し、それを師僧が「諾(だく)」とすることでのみ、禅問答の公案と答えは完成するものであるからして、ここはそうした問答部と禺巴が「諾」した最終場面を示さずに語っていることを意味している。普通、それはただ一度のものであり、その師とその弟子の間で、ただ一回性の遣り取りとして生ずるものであって、普遍的模範解答などというものはない。さればこそ、そこを隠しているのは、却って私には至って腑に落ちるものなのである。

「代々の和尙、遷化の時、未、近寺の僧も知らぬうちに、門前の橋の下、谷川の流に、歷代の石碑、かならず來る。其石の形、石工の上手の、日夜、巧に彫(ほり)たるより、猶、勝れて、見事なる自然石にて、世に云所の無縫塔なり。歷代の住寺の石塔、皆、是、流れ來る自然石(ぢねんせき)を用ゆ」「北越奇談 巻之二 古の七奇」(私の電子化注)に酷似した現象が現在の新潟県五泉市川内(かわち)にある同じく曹洞宗の雲栄山永谷寺(ようこくじ)で起こっていることが記されている。しかも、筆者橘崑崙(たちばな こんろん)は、この温泉寺の怪現象を挙げて、そっくりだ、と言っているのである。

「忍向(うゝが)ふ」「しのびうかがふ」。こっそりと寺内を覗(うかが)って忍び込もうとする。

「鉦法師(どうほうし)」「どう」は「銅」で「かね」、真鍮製の鉦を打ち鳴らしては、人に代わって寺社を参詣したり、祈願・修行・水垢離 (みずごり) などを代行したり、或いはさらに堕ちて、門付け代わりの怪しい経や呪文を唱えたり、妙な大道芸能を演じたり、した僧形の乞食。「願人坊主(がんにんぼうず)」の類いのことであろう。

「祖翁一片の閑田地(かんでんち)、獨(ひとり)、兒孫(ぢそん)に囑(ぞく)して、種(たね)を植(うへ)しむ」永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山である總持寺の開山である鎌倉時代の僧瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)の遺偈(ゆいげ)である「自耕自作閑田地 幾度賣來買去新 無限靈苗種熟脫 法堂上見插鍬人」(自ら耕し 自ら作る 閑田地 幾度か 賣り來り 買ひ去つて新たなり 限り無き靈苗の種 熟脫す 法堂(ほふだう)の上 鍬を插(さしはさ)む人を見る)に基づく。超個人主義の禅宗にあっては、閉鎖された系の中で自己完結しているシステムを、まず、第一に尊ぶのである。]

奥州ばなし 白わし

 

     白わし

 

 近きころまで、此國の家老をつとめたりし、中村日向といふ人の在所、岩が崎といふ所の百姓に、山狩をこのみて、春夏秋冬ともに、山にのみ、日をおくるもの有し。外に「狩人(かりうど)」といはれて世をわたるともがらも、四、五人ありつれど、山路の達者、およびがたくて、友とする人なく、いつも壱人にて、かりありきしに、ある夕方、うしろより、しう【「ウ」、引(ひく)。[やぶちゃん注:原割注。シュウー!。]】といふ音して、

『頭をはたかれし。』

と思ひしが、のけさまに、たふれたりき。耳のわきより、血、出(いで)しかば、

『こは、たしかに、鷲にかけられたるならん。』

と、氣ばやくさとりて、終(つひ)に出合(いであひ)しことはなけれど、

『かゝる時はうごかぬぞよき、と聞(きく)を。』

と思ひて、卽死のていにて、もてなしてゐたりしは、ものなれしふるまひなりき。

 眼をほそく明(あけ)て、あたりを見めぐらせば、ほど遠からぬ木の枝に、白羽(しらは)なる大わしの、すは、ともいはゞ、飛(とび)かゝらんず、と思へるさまにて、尾羽をひらきて、とまりゐたり【鷲の、一あて當てうごかねば、打ころしたりと思ひて、又、かゝらず。「うごく時は死なず」とて、又、かけらるゝ故、終に命うしなふものとぞ。[やぶちゃん注:原割注。]】。

『扨こそ、かれめが、なすわざなれ、につくし、につくし、とおもへども、うごかば、かけんのおそれ有(あり)。さりとて、むなしく見過(みすご)さんや。』

と、ひそかに、鐵砲を𢌞(めぐら)せしに、鷲の運や、つきつらん、さらにおどろかで有し故、一うちに打おとしてみれば、世に稀なる大鷲にて、足のふとさ、一束(いつそく)有しとぞ。

 此羽《は》を、國主に奉りしかば、

「天下一の羽なり。」

とて、ことにめでさせ給ひしとぞ。

 鐵山公御代のことなり。

 この男は、一年に、熊、十の餘(あまり)を、いつも、えたり。

 すべて、鐵砲をかつぎて山を行(ゆく)時は、鳥獸も懼(おぢ)おそれて、影かくすを、この鷲、あまり猛意にほこりて、狩人にあだなせし故、かへりて、やすくうたれしぞ、こゝちよき。

 

[やぶちゃん注:「中村日向」中村家は仙台藩重臣の家系であるが、真葛が直接に話を聴き得る人物とすれば、中村景貞(宝暦五(一七五六)年~天保四(一八三三)年:別名に「日向」がある。真葛より七つ年上)であろう。明和二(一七六五)年に家督相続、安永元(一七七三)年には第七第藩主伊達重村の同母妹を娶っている(但し、彼女は三年後に二十七歲で亡くなっている)。近習番頭から小姓頭を経、天明二(一七八二)年に奉行職(他藩の家老職相当)に就任、第八代藩主伊達斉村(なりむら:二十三歲で病没)の末期養子として幼少で相続した第九代藩主伊達周宗(ちかむね)を補佐した。しかし、その周宗も疱瘡で十四歳で死去してしまう。ところが、幕府によって大名の末期養子は相続時の当主の年齢を十七歳以上五十歳未満に規定していた。そこで景貞は幕府はもとより、藩内に於いても、周宗の死を三年間秘匿し、末期養子の規定抵触することなく、伊達斉宗の藩主就任に貢献したとされる(ここまでは主に彼のウィキに拠った)。真葛はこの前後に仙台藩江戸上屋敷に奥女中として奉公しており(安永七(一七七八)年九月十六歳に始まり、天明三(一七八三)年まで。その後は重村娘詮の嫁ぎ先であった彦根藩井伊家上屋敷に移ってさらに五年勤めている)、重貞との接点を充分に考え得るからである。

「一束」握り拳の親指を除いた指四本の幅。通常は矢の長さの単位に用いる。ここは後で矢羽になってしまうことから、謂いとしては自然である。

「鐵山公御代」仙台藩主に「鐡(鉄・銕)山公」という諡号の藩主はいない。「鐡」「鉄」「銕」の崩し字を馬琴が誤ったか、底本編者が判読を誤ったかしかないと感じる。可能性が高いと私が思うのは、「鉄・銕」の崩しが、やや似ている「獅」で、獅山公(しざんこう)は第五代仙台藩藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)を指し(戒名「續燈院殿獅山元活大居士」。諡号「獅山公」)、元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。本書は文政元(一八一八)年成立であるが、例えば、真葛は、名品の紀行随想「いそづたひ」の中で、鰐鮫への父の復讐を果たした男の話の聞き書きを、「獅山公」時代の出来事、と記している。【二〇二三年十二月二十八日削除・改稿】真葛の「むかしばなし」の電子化注をしている中で、「119」に「鐵山樣」と出、『日本庶民生活史料集成』版の「むかしばなし」の傍注により、これは「徹山樣」の誤記であることが判った。仙台藩第七代藩主伊達重村(寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)で、彼の戒名「叡明院殿徹山玄機大居士」に基づく。彼は宝暦六(一七五六)年七月、父宗村の死に伴い、家督を相続し(但し、当時、未だ十五歳であったため、若年を理由に、幕府より、国目付が派遣され、叔父の陸奥一関藩主田村村隆の後見を受けた)、寛政二(一七九〇)年に次男斉村(なりむら)に家督を譲って隠居した。]

2021/01/04

奥州ばなし おいで狐の話幷ニ岩千代權現

 

     おいで狐の話幷ニ岩千代權現

 

[やぶちゃん注:前回で述べた通り、以上の標題は目次に拠った。]

 

 また、安永年中、江戶なる眞崎に、「おいで狐」とて、きつねの晝中(ひるなか)に出(いで)て、人に見られしことありき。

[やぶちゃん注:「安永」一七七二年~一七八一年。

「眞崎」この中央付近の旧呼称(グーグル・マップ・データ)。ドットした石浜神社内には旧「眞先稻荷明神社(まつさきいなりみやうじんしや)」、現在、真先(まさき)稲荷がある(旧地は同神社の南端部分に当たる)。]

 

 伊勢の宮を移し奉りしかたはらに、人いかふ[やぶちゃん注:「憇ふ」。]家の有し。其家のうしろに狐の穴有しに、家なるばゞの慈悲ふかゝりしによりて、客にうりあましたる團子・でんがくやうの物を、狐穴の口に持行て、

「これくへ。」

と、いひつゝ置たりしが、いつとなく無なりしかば、

「はこび入(いれ)て食しならん。」

と、おもひて、いつも、あまりあれば、もち行ておきしに、ある年の頃よりか、ばゞのゆけば、穴の口につらをさし出して、くひなどせし故、食をもちゆきては、

「おいで、おいで。」

と、よぶに、後々は穴よりいでゝ、人の來るところまでも、ばゞにつれて行し故、大評判と成て、江戶中の人、

「狐見ん。」

とて、墨田川に小舟うかめつゝつどひしに、夏の末になりて、よべども、よべども、いで來ず。

 見に來し人は、手もちなく、

「だまされたり。」

と惡口して歸るを、正直なるは、ばゞは、人にいひわけなきのみならず、

「狐のいかになりつらん、あたへし物もつみたるまゝにて、くひしてい[やぶちゃん注:「體」。様子。]にもなければ、もし、犬にや、くはれつらん。」

と、淚おとして、おもほれゐたり。

 其頃、日本堤にて、駕《かご》のものゝ、狐をころせし、と、いひしは、

「それにや。」

と、よくきけば、大きなる雄狐なりし。この出(いで)しは、ちひさき雌狐にて有し。

 さて、夜中に、うば、大熱いでゝ、なにやらん、ものゝつきしてい[やぶちゃん注:「體」。]なりしかば、近き稻荷の別當《べたう》に申して、

「祈禱加持。」

と、のゝしりけり。

 うばのいはく、

「さ、なさわがれそ、かたがた。我はこのうばの情(なさけ)によりて、食をやすくせし狐なり。語(かたり)おくべきことの有によりて、しばし、うばの身を借(かり)たり。しづまりて、わがいふことを、きかれよ。我は、みちのおくの宮城野に、雌雄(めを)、年へてすみし狐なり。故有(ゆゑあり)て、この所に來りて住(すみ)しに、此うばの情により、心やすく年月《とし》(つき)をおくりし、大恩を報ぜんと思ふより、この家に德つけんため、日の光のおもてぶせなるをしのぎて、人にも見えしことなりし。このほど、雄狐の、人に、ころされたりき。是はさる故有て、のがれがたき命なることは、『こつ通』[やぶちゃん注:意味不明。多く、変化の妖獣は自分の逃れ難き死期を察することは多くの伝承や怪談に出る。例えば、先に示した私の偏愛する一篇『想山著聞奇集 卷の四 古狸、人に化て來る事 幷、非業の死を知て遁れ避ざる事』を是非、見られよ。]といふことのうへにてしりたれば、くやむべきならねど、千年に近き契りのほど、かく、わかれしかなしさに、たへがたく、有にもあらでをるを、ひたすらによび給ふもくるしく、またことのよし有て、今、故鄕の宮城野へ歸るなり。されば、のちの形見に書おくこと有。筆紙、給へ。」

といひし故、とりあたへつ。

「このうば、物かゝぬを、なにとかすらん。」

と、人々まもりゐたるに、いとゝ、くはしり書て、

「是ぞ、宮城野の狐なる、しるし、よ。」

といひつゝ、

「さ」

と、たちて、外の方にあゆみ行きしが、うばは、のけざまに、たふれたりき。

 いき出て後、有しことどもを語るに、

「さらにおぼえず。」

と、こたふ。

 今、わがかきしといふものも、手にはとりつれど、よむべきやうもしらねば、人によませたり。

  草はつゆ露はくさ葉にやどかりて

     それからそれへ宮城のゝはら

とぞ有し。

 かくてのちは、この書たるものを寶にしつゝ、入りくる人ごとに、いだして見せし故、かはほりにうつしなどして、いぬる人も有し。【宮城野の狐の爰に來りしは、かの勝又彌左衞門を恐てなるべし。大がい、年來(としごろ)、同じ故に、爰に入(いれ)たり。彌左衞門が子、今、文化十四年、八十の翁、ながらへて有。狐は食のとぼしきものか、かく食をあたへられしを大恩と思ひ、又、油鼠(あぶらねづみ)に通(つう)を失ふも、もはら、食にまよひし故ならずや。雄狐の彌左衞門が爲に命失(うせ)ん事を恐れて、爰に來りつれど、定命(ぢやうめい)にて、人にころされしと、さとりしにや。[やぶちゃん注:原頭注。]】

[やぶちゃん注:「かはほり」「蝙蝠扇」(かはほりあふぎ(かわほりおうぎ))の略。開くと蝙蝠(コウモリ)が羽を広げた形に似るところから、薄い骨の片面或いは両面に紙を張った扇を指し、この紙には詩歌や絵を描いた。

「勝又彌左衞門」前話「狐とり彌左衞門が事幷ニ鬼一管」参照。

「年來、同じ故に」前話の割注で馬琴自身が、享和年間(一八〇一年~一八〇四年)に、モデルとなったとぼおしい狐狩名人「勝又彌左衞門」、人呼んで「丹平」の話を採取した、と述べている。

「文化十四年」一八一四年。

「油鼠」秘伝の味付けをした油で揚げた鼠。同じく前話を参照。]

 あや子父は藥師(くすし)にて有しほどに、日々、入くる人の、「世にめづらし」とおぼゆることは、あらそひかたる中に、この狐の書し歌を寫してもてこし人有しかば、同じく寫しとりて、殿(との)[やぶちゃん注:藩城。]にもて出(いで)て、人々にみせしに、但木下野(ただきしもつけ)といふ人、これをとりみて、

「實(げ)に、これや、宮城野の狐なるべし。やつがり、むかし、寺社奉行の職なりしころ、仰(おほせ)ごと蒙りて、寺社の緣起を、くはしく尋しに、宮城野のかたほとりに、岩千代權現といふ宮、有し。その、よりおこりは、むかし、松島なる瑞巖寺に、岩千代といふ兒(ちご)有き。年のほど、十六ばかりにて、かたちよく、心もしづまりて、ものゝ哀(あはれ)思ひしれるが、一とせ、

『宮城野の月みん。』

と、師にいとまをこひて、從者(ずさ)ひとり、ゐて、ゆきけり。をりしも、秋の草のさまざまに、ひもとき、わたせし、眞(まつ)さかりなるに、月さへ、くまなくて、夜更(よふく)るまゝに、草葉の露ごとに光のうつりしは、えもいはれず、

『歌よまん。』

と、かたぶきて、

  月はつゆ露は草葉にやどかりて

と、世のはかなさをおもひつゞけしに、下のさらに出(いで)こねば、ひたすらに、此上をうち返し、打かへし、口ずさみて有しが、やどりにつきても、食(くひ)もくはで、この歌をのみ、となへしが、

『風のこゝち。』

とて、打ふしたりき。二日三日にいたくおもりて、そこに、はかなくなりぬる迄も、歌を、くり返し、となふることは、やまざりし、とぞ。それよりいづくともなく、夜每夜每に、宮城野の中にて、この歌の、かみをとなふる聲しければ、おぢおそれて、道行(みちゆく)人も、たえき。師の禪師、このよしを聞(きき)て、いと哀(あはれ)におぽして、

『敎化(きやうげ)せばや。』

と出立(いでたち)て、宵より、かの野に、あなうらをむすびて[やぶちゃん注:坐禅して。]、おこなひゐ給ひしに、夜中ばかり、かの聲の聞えければ、

  それこそそれよ宮城野のはら

と、一句の偈《げ》を添給へば、㚑(れい)のまどひや、はれつらん、そのゝちは、音なく成しとぞ。所の者、これをあはれがりて、宮居をたてしなり。むかし、この野に有しことを狐の知(しり)しは、年經て住しこと、あきらけし。」

と、さだめしとぞ。【解、按ずるに、「松嶋圖誌」に云(いはく)、『宮千代が墳は、天童庵の境内にあり。高云々』。又云、「封内名蹟志」、『宮城郡南目村、宮城野、廿四間、東、畑中に、空地の小塚有。里人是を「兒塚(ちごづか)」といふ。昔、松島寺の兒(ちご)宮千代といふもの云々』と、しるして、歌も、その傳も、この書にしるせしと、おなじ。かゝれば、下にしるせし岩千代は、宮千代をあやまれるにや、猶、たづぬべし。又、按ずるに、宮千代が事は「奧羽聞老志」に出(いで)たり。こゝに餘(あまり)なければ、贅(ぜい)せず。「觀迹聞老志」、「宮城郡」の條下を倂(ならび)見るべし。○解、云ふ、あや子は、このさうしの作者、眞葛の俗名なり。「おあや」といへるを、物には「あや子」と書(かけ)るなるべし。父は工藤平助、名は「平」といひし、仙臺侯の醫官なり。[やぶちゃん注:原頭注。]】。【此兒(ちご)、秋の夜中、露ふかき野を分(わけ)て、夜氣にうたれ、ゑき[やぶちゃん注:「疫」。病い。]をうれひしものならんか。[やぶちゃん注:原頭注。]】。【「月は露云々」「それこそそれよ云々」とありしを、かの狐は、ほゝゆがめて、おぼえしなるべし。[やぶちゃん注:原頭注。]】

 

[やぶちゃん注:「岩千代權現といふ宮」本文でも過去形で語っている通り、現存しないようである。

「但木下野」台藩の非常に古くからの家臣に但木氏がいる。本姓は橘氏で、遠祖は伊賀守重信に始まり、下野国足利郡但木に八千石を領し、郷名を氏とした。

 馬琴も添えている通り、只野真葛は本名を「工藤あや子」「綾子」「あや」「綾」と言い、父は仙台藩江戸詰の医師工藤(周庵)平助(享保一九(一七三四)年~寛政一三・享和元(一八〇一)年)であった。馬琴の糞のような波状的に馬鹿付けした考証割注には注を付ける気にならない。特に最後に附したそれは、私にはひどく厭味な感じがしてならず(私の読みの間違いかも知れぬが)、出来れば、ここからカットしてやろうという気さえした。

「但木下野」但木氏は本姓橘氏、遠祖は伊賀守重信に発し、下野国足利郡但木に八千石を領し、郷名を氏とした。重信は伊達家初代伊達朝宗に仕えたなど、諸説があり、家歴は極めて古い(以上は幕末の仙台藩士但木土佐のウィキに拠った)。]

 

○又、是にひとしきこと有。人の子の十五なる男子、月のあかきをみて、「寄(よせて)よまん」とかたぶきしに、

  こよひの月は空にこそあれ

といふ下の思ひ、よられしかば、またの日、學友の童(わらは)どもの中にいでゝ、

「昨夜、月をみて、うたをよまんと思ひしが、半ば考出(かんがへいで)て、いまだ、上を思ひえず。」

と、いひしかば、

「それは、いかにといひし。」

と問し時、

「こよひの月は空にこそあれ」

と、いひ出しかば、

「月が空になくて、いづくにかあるらん。」

と、學友、こぞりて笑ひそしりしを、十五童(じふごのわらは)、かつ、恥(はぢ)、かつ、無念に思ひて、

「これが上を考得(かんがへえ)て、笑(わらひ)し人々の口、ふたがん。」

と、食をとゞめて考へしが、終(つひ)に思ひえずして、死(しし)たりき。

 その㚑(れい)の、あまかけりて、いづくともなく、此(この)下(した)を、となふる聲の、家の上に、聞へしかば、人、おそれたりき。

 あるうたよみの、これを聞(きき)て、

  池水のかげは氷にとぢられて

と上を示しかば、其のち、聲やみたり。

 同じたぐひのことゝて、ともに岩千代の社(やしろ)につたはりて有と、いふ。

 

怪談登志男 始動 序・目録・卷之一 一 蝦蟇の怨敵

 

[やぶちゃん注:「怪談登志男」(くわいだんとしをとこ(かいだんとしおとこ))は寛延三(一七五〇)年に江戸で板行された前期読本奇談集。慙雪舎素及子(ざんせつしゃそきゅう)著になる「怪談實妖錄」なる著作を、談義本(宝暦年間(一七五一年~一七六四年)から安永年間(一七七二年~一七八一年)頃にかけて多く刊行された滑稽本の濫觴となった読本)の創始者として知られ、本篇の「序」もものしている静観房好阿(じょうかんぼうこうあ)の弟子である静観房静話が編集したものとされる。なお、書名は生まれの十二支に合った「年男」のことで、序にある通り、節分に厄払いの豆撒きをする役を担う追儺の「おにやらい」役のそれを、新生の怪談話を撒く役と反転させて洒落て喩えたものと思われる。

 私が以前から電子化したいと狙っていた作品であったものの、活字本を所持しないため、躊躇していたが、ここで意を決して電子化することとした。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの二種を用いた。一つは活字本である「德川文藝類聚第四 怪談小說」(大正三(一九一四)年国書刊行会編刊)のそれを基礎データとし、今一つ、正しい原版本版のそれで校合した(以下を参照)。

 前者は読点のみのベタ本文であるので、読み易さを考え、句読点や記号を追加し、段落を成形した。踊り字「〱」「〲」は正字化した。前者にはルビがないが、後者の版本が豊富に振られてあるので、難読と思われる箇所はそちらから読みを添えた。注は、今回は原則、校合して不審な箇所や、私の知見の守備外のものや意味不明の部分、及び、難読・難解、補説が必要と判断した語句に限ってストイックに附した。]

 

怪談登志男

 

 

 彥作が言葉の花も嵐にさそはれ、曾呂理が紙帳も短夜の夢、武右衞門が鹿五郞兵衞が露、ともに見ぬ世の秋となりて、腹をかゝゆる輕口もなく、御伽ぽうこの了意法師も、功德、池の遠見に往(ゆ)れて、脊中のみらるゝ怪談もなし、冬籠(ふゆごもり)のつれづれ、なぐさむ咄の本のすくなきを恨むと、歎息する書林をいさめて、方八百里の廣い都に、怪談風情に事缺(ことかく)べきや、いで、もの見せんと腕まくりして、素及子(そぎうし)の撰置(えらひをか)れし實妖錄の其所此所を拾ひ、さらさらと五册につゞりし靜話房が例の筆まめ、誰(た)が口まめに告(つげ)やしつらん、予が隱家(かくれが)に尋來りて、序を乞事もいと眞實(まめけ)に、しかも今宵は大豆撒(まめまく)夜(よ)なれば、柊(ひらぎ)刺(さす)片手わざに、登志男と名付てやりしも、赤鰯(あかいわし)のあたまがちならんか。

  寬延二年節分の日       靜觀堂書

[やぶちゃん注:冒頭の「彥作」が誰れを指すのか私には判らない。識者の御教授を乞うものである。

 以下、目録。版本との異動が激しい。原版本には各話の頭の通し番号(読点附)はない。本文中でもないが、使い勝手はいいと思われるので、附した。]

 

 

怪談登志男卷一

  目錄

一、蝦蟇(がま)の怨敵(おんでき)

二、天狗の參禪

三、屠所の陰鬼

四、古屋の妖怪

五、濡衣(ぬれぎぬ)の地藏

 

怪談登志男卷二

  目錄

六、怨㚑亡經力

[やぶちゃん注:「怨㚑(をんりやう)、經力(きやうりき)に亡ぶ」。原版本には返り点はない(以下同じ)。]

七、古狸妖老醫

[やぶちゃん注:原版本は「老醫妖狸(らうのたぬきにはかさるゝ)」とある。]

八、亡䰟(ばうごん)の舞曲(ぶぎおく)

九、古井(こせい)殺人(ひとをころす)

十、千住の淫蛇

十一、現在墮獄

 

怪談登志男卷三

  目錄

十二、干鮭(からざけ)の靈社

十三、望見(もちみ)の妖怪

十四、江州の孝子

十五、信田の白狐

十六、本所の孝婦

 

怪談登志男卷四

  目錄

十七、科澤(しなさは)の强盜(かうとう)

十八、古城の蟒蛇(まうじや)

十九、白晝(ひるなか)の幽㚑

二十、舩中の怪異

廿一、沓懸(くつがけ)の大蛇(をろち)

 

怪談登志男卷五

  目錄

廿二、妖怪浴溫泉

[やぶちゃん注:「妖怪、溫泉に浴す」。]

廿三、吉六虫妖怪

[やぶちゃん注:「吉六虫(きちろくむし)の妖怪」。]

廿四、亡魂通閨中

[やぶちゃん注:「亡魂(ほうこん)、閨中(ねや)に通(かよ)ふ」。]

廿五、天狗攫ㇾ人

[やぶちゃん注:「天狗、人を攫(つか)む」。]

廿六、天狗誘童子

廿七、庸醫得ㇾ冨

[やぶちゃん注:「庸醫(へたいしや)、冨(とみ)を得(う)」。]

 

 

 怪談登志男卷第一 

              慙雲舍素及子著

   一、蝦蟇の怨敵

Gamanoonteki

[やぶちゃん注:底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

 過し寶永の頃にや、信浪國川中嶋より半路斗(はかり)、戌亥(いぬゐ)の方、善導寺とかやいへる淨刹に、空恩(くうおん)といふ沙門ありける。初、東武に來り、緣山(ゑん)に修學(しゆがく)し、年經て舊里に歸しが、行脚の志、しきりに起り、寺を出て、破笠爛筇(はりつらんきやう)、西にはしり、ひがしにおもむき、南去北來、しばらくも一所に足をとゞめず、一年(とし)、甲斐國身延山に至りて、つらつら其境(きやう)を見るに、聞しは物の數ならず、梅香(ばいかう)、梢にかほりて、栴檀(せんだん)、沈水(じんすずい)の芬(ふん)をほどこし、鶯鳥(かくてう)、軒に囀(さへつり)て、梵音、和雅(わげ)のひゞをたすく。

「無雙の靈場、實(げに)も一宗の本山とあほぐに足れり。」

と、こゝかしこ見𢌞るほどに、おもはず、日も西にかたぶきぬ。

[やぶちゃん注:「破笠爛筇」旅笠も破れて、竹の杖もぼろぼろになること。概ね、僧の行脚の凄絶なるを謂う。]

 一宿(しゆく)をもとむれども、此所の習ひ、他宗の沙門に一夜の宿(やと)をもゆるさず、漸々(やうやう)として畝尾坂(うねおさか)と云、細道をつたひ、木の根につまづき、ころびたほれて、からふじて、二里餘も分過る比、夜も、はや、子の刻に過ぬ。行べき方も知れず、もとより、人家もなければ、

「いかゞせん。」

と、おもひわづらひしが、かしこを見れば、ふりたる宮居の、鳥居、たほれ、瑞籬(みづがき)、破(やふれ)れたるさま、

「あら、ぶさたの宮守(みやもり)や。」

と歎息しながら、

「究竟(くつきやう)の宿りにてあれ。今宵は此所に一宿せん。」

と、階(かい)をのぼりて、拜殿にひざまづき、掌(たなこゝろ)を合せ、いづれの神ともしらねど、かしはで打ならして、法施(ほつせ)の經など讀誦しける所に、轡(くつは)の音、

「りんりん」

として、衣冠正しき老人來り、社にむかひ、何事にや、云(いゝ)入給へるを、

『あやし。』

と、おもひ、耳をかたぶけ、聞居たるに、社の内より、又、異相の人、出むかひて、しばし、物語し給ふ樣なり。

 漸(やゝ)ありて、來臨(らいりん)の異人の曰(いはく)、

「今宵、竹無村(たけなしむら)の與左衞門が女房、子を產(うめ)り。夫は當社の氏子なり、女は此叟(おきな)が氏子なり、足下(そこ)にも、出生の男子、守護に御出あらば、我も同道仕らん。」

と、のたまふ、

 明神、答(こたへ)て、

「甚(はなはだ)よし。足下には、はやくいたり給へ。我は、今宵、客人(まろうと)あり。此所、無人(むにん)の境(きやう)なり。我、茲にあらざりせば、客僧、もし、怪我あらんか、此ゆへに往(ゆき)がたし。」

と答たまへば、

「然ば、我等ばかり參り侍らん。」

と、駒(こま)牽(ひき)かへし、急(いそき)給ふ。

 空恩、感淚、肝に銘じ、五體投地(ごたいとふち)して、神恩のかたじけなきを拜謝す。

 先の老人、亦、はせ來り、

「與左衞門が子の棟札(むねふだ)は、いかゞ侍らん。」

と問給へば、内陣より、

「此男子、蝦蟇(がま)の怨敵(おんてき)なり。十二枚の札を打給へ。」

と、のたまふ。

 異人、諾(だく)して去(さる)とおもヘば、鷄(とり)の聲、かすかに聞ゆ。

「人家も遠からず、夜もあけぬ。」

と、よろこび、立出れば、はたして、人里あり。朝、草刈に出る童(わらへ)に、

「此山上の祠は何の神ぞ。」

と、とへば、

「道祖神なり。」

と、こたへぬ。

 斯(かく)て人里に至り、此あたりの樣子を見るに、何れも、木、舞搔(まいかき)たる下地窻(したちまと)に、麻穀(あさから)をもちひたる、

「これなん、神勅の竹無村なるべし。」

と、

「此村の名は、いかに。」

と、とへぱ、

「竹無村。」

と、こたふ。

 不思議の事におもひ、

「與左衞門といふ人や、ある。」

と尋ぬれば、

「當村の庄屋なり。」

と、こたふ。

「扨は。うたがひなし。」

と、與左衞門が家に立寄、火をもらひて、たぱこなど吞(のみ)ながら、

「御亭主は道祖神を信じ給ふか。」

と問ふ。

「中々の事、道祖神は當所の鎭守にておはしませば、我のみならず、一村、悉く、信ず。」

と答ふ。

 空恩、過し夜の靈異、神勅の事、つぶさに語りければ、與左衞門は少し文才もありて、所の口利(くちきゝ)といはるゝ者なりしが、空恩が側へ、

「つ」

と、より、

「此賣(まい)僧、ぬくぬくと、我をたぶらかすおかしさよ。それは、道公(どうこう)とやらんいへる僧の、古き宮居に宿して、繪馬の足、つゞくりし舊(ふる)事。猿樂の能にも仕組(しくみ)て、皆人、知たる、かびのういたる昔語で、此與左衞門、いかぬ奴、はやふ出て、ゆかれよ。」

と、わるごふ[やぶちゃん注:「惡口」の訛か。]のありだけ、空は寬廣(くわんかう)の量ある長者の氣象、さらにあらそふ事なく、

「うたがひ給ふは理(ことは)なり。我、さらに物を貪る心なければ、何しに僞を說べき。足下の子息、十二歲を越給はゞ、其時、われを、賣僧とも、願人(くわんにん)とも、罵(のゝしり)給へ。」

と、袂をふるひ立さりしを、與左衞門、いかゞおもひけん、衣の袖をひかへ、

「和僧、此所に足をとゞめ、我子の老さきを見はやしたびてんや。もし、しからば、庵室(あんしつ)をしつらひ、薪水(しんすい)の勞を、たすけまいらせん。」

と、手のうら、返したる挨拶、元來(もとより)、喜怒をはなれたる沙門なれば、

「とも斯(かく)も。」

といらへて、終(つゐ)に後園(こうゑん)[やぶちゃん注:与左衛門の家の裏庭。]に庵を營み、十二年の星霜を此所に經たり。

 村里(そんり)の人、空恩が人となり、寬大にして、曾て、いからざるを愛し、物よみ・手習の師匠にかしづき、たふとみける。

 與左衞門が子は、智惠、さとく、愛らしく生立(おいたち)ぬるに付ても、父母、只、空恩が物語を心にかけて、今は僧にも馴染ぬれば、

『僞なりとも、にくみはせじ、あはれ、彼(かの)物語の誠ならざる樣にせまほし。』

と、朝夕おもひ出ぬ日も、なかりける。

 光陰の矢の留る事なく、空法師が手づから植し松も、ことし、すでに棟梁の材とも成べく、秋風高く軒に闇[やぶちゃん注:「止(や)み」の当て字。]、山田の稻の、例より能(よく)實(み)のりて、民生(たみくさ)の悅べるさま、いはんかたなし。

 與左衞門は庄屋といひ、數代(すだい)の百姓にて、家、甚(はなはだ)冨(とめ)るゆへ、田地餘多(あまた)[やぶちゃん注:「數多」に同じ。]あれば、猶(なを)しも、賑はしく、大勢の下部をひきぐし、刈取(とる)稻の、山をなして、手に手に、鎌を田の畔(くろ)に置(おき)、晝の餉(かれゐ)喰(く)ふもあり、煙草くゆらし、物語するもある中に、與左衞門が愛子(あいし)も、父と、ともなひ來り、爰(こゝ)かしこ、はせめぐりて遊び居たるが、深田(ふけた)の面(おも)の、涸わたり、璺(ひゞれ)たる[やぶちゃん注:罅割(ひびわ)れた。底本ではひらがな。]中に、大なるかへるの、眼(なまこ)をいらゝげ、腹をはりて、此愛子を目懸(かけ)、にらみたるさま、いとおそろしきに、何のわきまヘもなく、下男の刈捨置(かりすておき)たる尖(すると)なる鎌を取直(とりなを)し、田の畔(くろ)にひざまづき、鎌の柄にて、ねらひ、突(つき)に突たるが、鎌の刃(は)の、己が首筋にかゝるとも、露、しらず、力にまかせて突たる程に、我(われ)と、わが首を搔落(かきおとし)て、あへなく、田の面(も)の露と、きへぬ。

 與左衞門、はじめ、上を下へと、さはぎけれど、せんかたなし。

 與左衞門、

「きつ」

と、心を取直(なを)し、

「おもひ出たり、『蝦蟇の怨敵なり』との神勅、十二歲迄の定業(ちやうこう)、悔(くやみ)ても、甲斐なし。」

と、其鎌にて、卽座に髻(もとどり)[やぶちゃん注:原本の漢字表記は「元取」。]を拂ひ、去(きよ)々年出生の男子に跡を讓り、弟に後見(うしろみ)させて、空恩と連(つれ)て、廻國行脚しけるが、後(のち)に空恩と、東西へわかれ、空恩は今に存命にや、其所在[やぶちゃん注:原本は「在所(さいしよ)」。]、しれがたし。

 與左衞門は覺念法師と號す。

 享保四年の秋、信州善光寺に尋來りて、此事を語り置ぬ。

 則、善光寺三十一世の住、淳遇法師の直談なり。

 

2021/01/03

只野真葛 奥州ばなし 始動 / 狐とり彌左衞門が事幷鬼一管

 

[やぶちゃん注:本書は文政元(一八一八)年成立した、怪奇談集である。考えてみると、私が初めて手掛ける女性の書いた怪奇談集である。私がこれを高く評価するのは、男性作家の怪奇談の有意な多くが、確信犯の創作性を基本として、それを何ら、自己批判なく成しているのに対して、これは後の民俗学的な意味での採話としての語りを崩していないからである。

 底本は天保三年から翌年にかけて曲亭馬琴によって成された写本を親本とした所持する一九九四年国書刊行会刊の「江戸文庫 只野真葛集」(鈴木よね子校訂)を用いたが、恣意的に漢字を概ね正字に直して示す。

 読みは殆んど振られていないので、私が丸括弧で推定読みを歴史的仮名遣で附した。元の真葛が振ったルビは《 》で示した。私の判断で段落を成形し、改行も行った。句読点や記号も追加してある。【 】で示したのは底本にある原本の割注・傍注・頭注である。]

 

     狐とり彌左衞門が事幷ニ鬼一管

 

 

此宮城郡なる大城の、本川内にすむ小身者に、勝又彌左衞門といふもの有き。天生、狐をとることを得手にて、若きより、あまたとりしほどに、取樣(とりざま)も巧者に成(なり)て、この彌左衞門が爲に、數百(すひやく)の狐、命をうしなひしとぞ。狐はとらるゝことをうれひ歎(なげき)て、あるは、をぢの僧に【狐の、をぢ坊主に化るは、得手とみへたり。[やぶちゃん注:原割注。]】」化て來り、

「物の命を、とること、なかれ。」

と、いさめしをも、やがて、とり、又、何の明神とあふがるゝ白狐(びやくこ)をもとりしとぞ。

 其狐の、淨衣を着て、

「明神のつげ給ふ。」

とて、

「狐とること、やめよ。」

と、しめされしをも、きかで、わな、懸しかば、白狐、かゝりて有しとぞ。

 奇妙ふしぎの上手にて有しかば、世の人「狐とり彌左衞門」とよびしとぞ。

 其とりやうは、鼠を油上(あぶらあげ)にして、味をつけ【此の味(あぢ)付(つく)るは口傳《くでん》なり。[やぶちゃん注:原割注。]】、其油なべにて、さくづをいりて、袋にいれ、懷中して、狐の住(すむ)野にいたりて、鼠をふり𢌞して、歸りくる道へ、いりさくづを、一つまみづゝふりて、堀有(ある)所へは、いさゝかなる橋をかけなどして、家に歸入(かへりいり)て、我やしきの内へわなをかけおくに、狐のより來らぬことなし。[やぶちゃん注:「さくづ」は宮城方言で「米糠(こめぬか)」を指す。]

 ある人、

「目にもみえぬきつねの有所(ありどころ)を、いかにして知(しる)。」

と問ひしかば、彌左衞門、答(こたへて)、

「狐といふものは、目にみえずとも、そのあたりへ近よれば、必(かならず)、身の毛、たつものなり。されば、野を分(わけ)めぐりて、おのづから、身の毛、たつことの有(あれ)ば、狐と、しるなり。」

と、こたへしとぞ。

 勝又彌左衞門と書(かき)し自筆の札をはれば、狐、あだすること、なかりしとぞ。【解(とく)[やぶちゃん注:馬琴の本名。]、云(いはく)、相模の厚木より、甲州のかたへ五里ばかりなる山里、丹澤といふ處に、平某(なにがし/ぼう)といふものあり。これも狐を捕るに妙を得たり。土人、彼を呼(よび)て「丹平」といふ、といふ。その術、大抵、この書にしるす所と相似たり。享和年間[やぶちゃん注:一八〇一年~一八〇四年。]、予、相豆[やぶちゃん注:相模と伊豆。]を遊歷せし折、是を厚木人(あつぎのひと)に聞(きき)にき。[やぶちゃん注:原頭注。]】

 又、其ころ、鯰江六大夫[やぶちゃん注:「なまづえろくだいふ」か。この話とこの本文は、実は「柴田宵曲 妖異博物館 命數」で既に電子化している。参照されたい。]といふ笛吹(ふゑふき)の有(あり)し。國主の御寶物に、「鬼一管(きいちくわん)」といふ名(な)有(ある)笛、有けり。是は、昔、鬼一といひし人のふきし笛にて、餘人、吹こと、あたはざりしとぞ。さるを、六大夫は吹(ふき)し故、かれがものゝごとく、あづかりて有しとぞ。【世の常の笛と替りたることは、うた口(ぐち)の節(ふし)、なし。もし、常人、ふく時は、かたき油にてふさげば、ふかるゝとぞ。[やぶちゃん注:原割注。]】

[やぶちゃん注:本冒頭の長めのこの一篇は、実は後に続くものと異なり、標題を持たない。但し、冒頭に配された目録に以下の標題が掲げられてあるので、それを配した。また、かなり長いので、注を段落の後に挟み込んだ。注の後は一行空けた。

「鯰江六大夫」「まなづえろくだいふ(なまずえろくだゆう)」か。この話と、この本文は、実は「柴田宵曲 妖異博物館 命數」で既に電子化している。参照されたいが、そこで私は以下のように注している。

   *

「鯰江」「なまなづえ(なまずえ)」列記とした姓氏(及び地名)である。ウィキの「鯰江」によれば、『藤原姓三井家流、のち宇多源氏佐々木六角氏流』。『荘園時代には興福寺の荘官であったという。室町年間、六角満綱の子高久が三井乗定の養子となり、近江愛知郡鯰江荘に鯰江城を築き』、『鯰江を称して以降、代々近江守護六角氏に仕え、諸豪と婚姻を重ね勢力を蓄えた』。永禄一一(一五六八)年に『鯰江貞景・定春が観音寺城を追われた六角義賢父子を居城に迎えたことから織田信長の攻撃を受けて』、天正元(一五七三)年九月に『鯰江城は落城、以後一族は各地に分散した。一部は同郡内の森に移住して森を姓とし』、『毛利氏となった』。『なお』、『定春は豊臣秀吉に仕えて大坂に所領を与えられ、同地は定春の苗字を取って鯰江と地名がついたという地名起源を今日に残している』。このほかにも、『豊臣秀次の側室に鯰江権佐の娘が上がっていたという』とある。

「六太夫」この通称と「笛吹き」から見て能の囃子笛方か。

「鬼一管」「きいちかん」と読んでおく。原典にもルビはないが、「鬼一」を前の持ち主の名とし、これは通称としては「きいち」が一般的である。

   *]

 

 故(ゆゑ)有(あり)て、六大夫、「網地二《あせふた》わたし」といふ遠島(ゑんたう)へ流されしに、笛のことは、御沙汰なかりし故、わたくしに、もちて行しとぞ。

[やぶちゃん注:「網地二わたし」現在の宮城県石巻市の沖合にある網地島(あじしま)か。ウィキの「網地島」によれば、『隣の田代島とともに流刑地でもあった。重罪人が流された江島に対し、網地島と田代島は近流に処せられたものが流された。気候が温暖で地形がなだらか、農業にも漁業にも適した土地であったので、罪人の中には、仙台から妻子を呼び寄せて、そのまま土着した者もいたという』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 島にいたりては、笛をのみ、わざとして吹たりしに、いつの頃よりともしらず、夕方になれば、十四、五歲ばかりなる童(わらは)の、笆(たけがき)の外に立(たち)て聞(きき)ゐたりしを、風ふき、雨降(あめふり)などする頃は、

「入(いり)て、きけ。」

と、いひしかば、後は、いつも入(いり)て聞ゐたりしとぞ。

 かくて、數日(すじつ)を經しに、ある夜、この童、笛、聞終りて、なげきつゝ、

「笛の音のおもしろきを聞(きく)も、こよひぞ、御なごりなる。」

と、いひしかば、六大夫、いぶかりて、その故をとふに、童のいはく、

「我、まことは人間にあらず、千年を經し狐なり。爰に『年經し狐有(あり)』と、しりて、勝又彌左衞門、下りたれば、命、のがるべからず。」

と云。

 六大夫曰(いはく)、

「しらで命をうしなふは、世の常なれば、是非もなし。さほどまさしう知(しり)ながら、いかでか、死にのぞまん。彌左衞門がをらん限りは、我、かくまふべし。この家にひしとこもりて、のがれよかし。」

と、いひしかば、

「いや、さにあらず。家にこもりてあらるゝほどの義ならば、おのが穴にこもりても、しのぐべし。彌左衞門がおこなひには、神通をうしなふこと故、『命なし』と、しるしるも、よらねば、ならず。いまゝで心をなぐさめし御禮に、何にても御のぞみにまかせて、めづらしきものをみせ申(まうす)べし。いざいざ、望(のぞみ)給へ。」[やぶちゃん注:「しるしるも」底本は「しるしる」の後半は踊り字「〱」であるが、思うにこれは「しるく知るも」(はっきりと判っていたけれども)の謂いではあるまいか?]

といひしかば、

「『一の谷さかおとし』より、源平合戰のていを、みたし。」

と、いひしかば、

「いとやすきことなり。」

と、いふかと思へば、座中、たちまち、びやうびやうたる山とへんじ、ぎゞ、どうどうと、よそほひなしたる合戰の躰(てい)、人馬のはたらき、矢のとびちがふさま、大海の軍船に追付く、のりうつるてい、おもしろきこと、いふばかりなしとぞ。

[やぶちゃん注:この狐が自身が捕獲されて命を失うことが判っていながら、それを避けることが出来ないことを奇異に感ずる御仁もおられようが、これは私などには極めて腑に落ちるところの、彼らの宿命的システムなのである。私の「怪奇談集」の中にも実は枚挙に暇がないほどあるのである。中でも私が偏愛する一篇が「想山著聞奇集 卷の四 古狸、人に化て來る事 幷、非業の死を知て遁れ避ざる事」である。是非、読まれたい。

「びやうびやうたる」「渺渺たる」。但し、その場合は歴史的仮名遣は「べうべうたる」が正しい。「果てしなく広く、遠く遙かなさま」を謂う。

「ぎゞ」「巍々」原義は「山の高く大きいさま」で前を形容するものと思うが、同時にこの語は「徳が高く尊いさま」の意があり、武将の決然たる振舞いを名指して、以下に続く。

「どうどうと」「堂々(だうだう)と」だが、馬を馭(ぎょ)し、特に制止する際のかけ声の感動詞「どうどう」(歴史的仮名遣はこのままでよい)を掛けてもいよう。]

 

 ことはてゝ消(きゆ)ると思へば、もとの家とぞ、成たりける。

 さて、童のいふ。

「何月幾日には、國主、松が濱[やぶちゃん注:現在の宮城県宮城郡七ヶ浜町(しちがはままち)松ヶ浜(グーグル・マップ・データ)。]へ御出馬有べし。そのをりから、鬼一管をふき給ふべし。必(かならず)吉(よき)事、あらん。我なき跡のことながら、數日(すじつ)、御情(おんなさけ)の御禮に、敎(をしへ)奉るなり。」

とて、さりしとぞ。

 扨、彌左衞門、わなをかけしに、七度までははずしてにげしが、八度目に懸りて、とられたりき。

 六大夫、是を聞(きき)て、

「いと哀(あはれ)。」

と、おもひつゝ、敎の如く、其日に笛を吹しに、松が濱には、空、晴(はれ)て、のどかなる海づらを見給ひつゝ、國主、御晝休(おんひるやすみ)のをりしも、いづくともなく、笛の音(ね)の、浦風につれて聞えしかば、

「誰(たれ)ならん、今日しも笛をふくは。」

と、御あたりなる人に問はせ給ひしに、こゝろ得る人なかりしかば、浦人をよびてとふに、

「是は、網地二わたしの流人、鯰江六大夫が吹(ふき)候(さふらふ)笛なり。風のまにまに、聞ゆること、常なり。」

と申(まうし)たりしかば、君(くん)、聞しめして、

「あな、けしからずや。是より、かの島までは、凡《およそ》海上三百里と聞くを、【小道なり。[やぶちゃん注:原割注。「小道」とは「坂東道(ばんどうみち)」などと呼ばれる短い里程単位。一里を六町とする。しかしそれでも百九十六キロメートル相当になってしまうので謂いはおかしい。網地島と松ヶ浜は三十五キロメートル弱ほどであるから、「三十里」の誤りか、遠島の島としての誇張表現であろう。]】

「ふきとほしける六大夫は、實に笛の名人ぞや。」

と、しきりに御感有しが、ほどなく、めしかへされしとぞ。

[やぶちゃん注:以下、底本ではポイント落ちで、全体が本文二字下げ。一行空けて示す。]

 

 狐の笛をこのみて、後《のち》、化(け)をあらはし、源平の戰のていをしてみせしといふこと、兩三度、聞しことなり。其内、是は、誠に證據も有て、語(かたり)つたへしおもむきもたゞしければ、是をもとゝして、外(ほか)を今のうつりとせんか。又、是も狐の得手(えて)ものにて、をぢの僧に化(ばけ)るたぐひならんか。笛吹は猿樂のもの故、さるがくの中に、「やしま」・「一の谷」などのたゝかひを、おもしろく作りなして、はやす故、笛吹の心、みな、『このたゝかひを見たし』と、願(ねがふ)ことも同じからんか。かの笛、いまは、上(かみ)の寶物(ほうもつ)と成(なり)て有(あり)。金泥にて、ありしことどもを、蒔繪にしたるといふ。

 

南方熊楠 小兒と魔除 (1)

 

[やぶちゃん注:初出は明治四二(一九〇九)年五月発行の『東京人類學雜誌』二百七十九号で、初出原題は「出口君の『小兒と魔除』を讀む」である(指示論考は本文内後注参照)。「j-stage」のこちらで初出が読める。長いので、ブログ版では分割して示す。段落に附した注の後は一行空けた。なお、欧文書誌データの不審部分は平凡社「選集」に拠って修正した。但し、それは原則、注記しない。また、本篇では熊楠は外国の地名のカタカナ表記の場合に右傍線、同前の人名の場合、左傍線という区別をつけているのだが、そうなっていない部分もあり、これをいちいち注するのは五月蠅いだけなので、本電子化では総て下線で統一する。地名か人名かが判り難いものは、当然の如く、私が注を附すはずであるからである。

 

         小兒と魔除

 

 人類學會雜誌二七四號出口君の所篇を讀み、思ひ中りし事ども書き留て送呈すること左の如し、

(一三七頁人名を穢物もて附る事)瀧澤解の玄同放言卷三上、姓名稱謂の條に國史を引て、押坂部史毛屎、錦織首久僧、倉臣小屎、阿部朝臣男屎、卜部乙屎麿[やぶちゃん注:やぶちゃん注:底本は「卜部」が「下部」となっている。原本と確認、特異的に訂した。まあ、下の話だからねぇ。]、節婦巨勢朝臣屎子、下野屎子等の名を列し、いとも異なる名なれども、時俗の習ひ亦怪むに足ずと云り、今案ずるに Panjab Notes and Queries, vol. i. note 219, Allahabad, 1883 に云く、印度パンジヤブの俗、小神輩が兒童の美を嫉むを避けんが爲め、之に命ずるに卑蔑の意ある名を以てす、例せば一兒痘を病で死すれば、次に生まるゝ兒に名附るに、「マル」(惡)「ルブリア」(漂蕩人)「クリア」(掃除人)「チユラ」(探塵人)「チハジユ」(篩ホド賤キ奴)等の諸名の一を以てするなりと、吾國の丸の語に惡の意なければ、パンジヤプの「マル」と同原ならで、偶合ならんも、邪鬼を避けんがために、人名に屎、丸等の穢きを撰べりと云る消閑雜記の說は、件ん[やぶちゃん注:「くだん」。]の印度の例に因て强味を增すなり。

[やぶちゃん注:「人類學會雜誌二七四號出口君の所篇」出口米吉の論考。先だって『出口米吉「小兒と魔除」(南方熊楠「小兒と魔除」を触発させた原論考)』として電子化済み。

「一三七頁人名を穢物もて附る事」上記リンク先及び初出の当該ページを参照されたい。

「瀧澤解の玄同放言」「瀧澤解」は「たきざはかい」で曲亭馬琴の本名。「玄同放言」は考証随筆。全三巻。瀧澤琴嶺(馬琴の長男)・渡辺崋山画。文政元年から同三年(一八一八年~一八二〇年)刊。天然・人事・動植物等に就いて和漢の書から引用し、考証を加えたもの。以下、所持する平凡社「南方熊楠選集」と、吉川弘文館随筆大成版と、「日本古典籍ビューア」の原本画像(当該部)によって読みを示す。後二者では読みの送り仮名の「ノ」を一部で本文に出した(読みを添えていない部分があるため)。

「押坂部史毛屎」「随筆大成」版及び原本では「押(オシ)坂ノ史毛屎(フヒトケソ)」。選集では「おしさかべのふびとくそ」。

「錦織首久僧」同前で「ニシコリノオホトクソ」。選集は「にしこりのおびとくそ」。

「倉臣小屎」同前で「倉ノ臣小屎(オミヲクソ)」。選集「くらのおみおくそ」。

「阿部朝臣男屎」同前で「阿部ノ朝臣男屎(ヲクソ)」。選集「あべのあそみおくそ」。

「卜部乙屎麿」同前で「卜部乙屎(ウラベノオトクソ)麿」。選集「うらべのおとくそまろ」。

「節婦」(節操を堅く守る)女性。

「巨勢朝臣屎子」同前で「巨勢ノ朝臣屎子(クソコ)」。選集「こせのあそみくそこ」。

「下野屎子」同前で「下野ノ屎子(クソコ)」。選集「しもつけのくそこ」。

「Panjab Notes and Queries」索引は「Internet archive」で見つけたが、原本を見出せなかった。「印度パンジヤブ」インド北西部からパキスタン北東部に跨る地域。インド・パキスタンの分割の際にインド側とパキスタン側に分割されており、現在の行政区分ではパンジャーブ州(インド、パキスタン)・ハリヤーナー州・ヒマチャル・プラデーシュ州付近の広域に相当する。この付近(グーグル・マップ・データ)。

「篩ほど賤しき奴」「篩」は「ふるひ(ふるい)」。篩は穀物文化圏では大切な農具であるが、或いは、カースト制度の中では、塵を選別する道具であることから、前後の蔑称と類感するのであろうか? 或いは、それを製造する民が差別される階級に属したからであろうか? 篩には竹や馬の毛が用いられ、本邦でも古くは竹細工をする放浪民(サンカなど)や、動物に関わる職業が差別されてきた経緯があるのと、軌を一にする部分があるのか? 原文に当たれないので、詳しくは判らない。

「邪鬼を避けんがために、人名に屎、丸等の穢きを撰べりと云える『消閑雜記』の說」出口が冒頭で引いている「消閑雜記」は西山宗因門の談林の俳人岡西惟中(いちゅう 寛永一六(一六三九)年~正徳元(一七一一)年:因幡鳥取生まれ。本姓は松永。名は勝。談林派の理論家として知られ、井原西鶴一門とともに宗因一門の双璧となったが、宗因没(天和二(一六八二)年没後は同門の反感を買い、俳諧自体から離れた。後、晩年には、明から来日した黄檗僧南源性派(しょうは)から漢詩を学んだり、儒者菊池耕斎に教えを受けたりし、若き日の俳論(「俳諧蒙求」等)以外にも多くの著作がある)の考証随筆。「新日本古典籍総合データベース」のこちらで原本の当該部が読める。]

 

 又右に引るパンジヤプ隨筆質問雜誌 note 447 に、父母其子の爲に視害(ナザル)を豫防せんとて、「マラ」(死人)「サラ」(腐物)「ルラ」(不具)「チヨツツ」[やぶちゃん注:底本は「チヨソツ」であるが、初出は「チヨツツ」であり、選集では「チョッツ」とするので、特異的に訂した。](盜賊)、「ビカ」(乞丐)等の惡稱を以て之を呼ぶ由を載す、神代に、葦原醜男あり(書紀卷一)、延曆の頃美濃國人村岡連惡人(玄同放言三類聚國史を引く)あり、今日視害を懼るゝこと最も印度に行なわれ、邪視(Evil Eye)の迷信は極て南歐、西亞、北アフリカに盛んにて、本邦には此等に相當する詞すら存せずと雖も古書を閱し俚俗を察するに、二者の蹤[やぶちゃん注:「あと」。]と覺らるゝもの全く無きに非ざれば、醜男惡人等の名は、日本にもいと古く視害又邪視を避んとて、故らに子に惡名を命ずる風有りし跡を留めしものと思はる(今も厄年生れの兒に捨の字を名とする抔似ゆ)。

[やぶちゃん注:「視害(ナザル)」(しがい)「邪視(Evil Eye)」(じやし(じゃし))後者は「邪眼」とも呼ぶ。人や物に災いを齎す超自然的な力を目・視線に持つ人・鬼神・目のシンボルを持った対象物の存在、及びその邪悪な眼力を行使することやその作用を指す。ブラック・マジックに類するこの信仰は汎世界的に広く見られるものの、特に地中海地域・中近東・南アジアに多く、他に北ヨーロッパ・北アフリカ・東アフリカでも信じられ、新大陸では邪視地域からの移民の風俗として確認出来る。東アジア・東南アジア・オセアニアでは、相対的に見ると、ごく稀である。邪視の力を持つとされる人間集団は社会によって様々であり、たとえば、インドでは王や聖職者らの地位の高い者、エチオピアのアムハラ族では低いカーストの者がこれを持ち、また、中東では人は誰でも邪視を持ち得ると考えられている(ここまでは平凡社「世界大百科事典」に拠った)。また、ウィキの「邪視」によれば、『世界の広範囲に分布する民間伝承の一つ。悪意を持って相手を睨みつけることにより、対象者に呪いを掛ける魔力。イーヴィルアイ(evil eye)、邪眼(じゃがん)、魔眼(まがん)とも言われる』。『様々な民族の間でこの災いに対する信仰は形成されている。また、邪視、邪眼はしばしば魔女とされる女性が持つ特徴とされ、その視線は様々な呪いを犠牲者にもたらす』。『邪視によって人が病気になり』、『衰弱していき、ついには死に至ることさえあるという』。『ちなみに邪視という言葉は博物学者南方熊楠による訳語であり、彼が邪視という概念を日本に紹介した』とある。『いくつかの文化では、邪視は人々が何気なく目を向けた物に不運を与えるジンクスとされる。他方では』、『それは、妬みの眼差しが不運をもたらすと信じられた。南ヨーロッパそして中東では、青い瞳を持つ人間には邪視によって故意に、あるいは故意ではなく呪いを人々にかける力があるとして恐れた』。『中東では、邪視に対抗するアミュレット』(英語:Amulet:お守り)『として青い円の内側に黒い円の描かれた塗られたボール(または円盤)が用いられた。同様のお守りとしてファーティマの手』(英語:Hand of Fatima。アラビア語「ハムサ」。主に中東やマグリブ地方(北部アフリカのエジプトを除いた地中海沿岸諸国とモロッコ・西サハラ・モーリタニア等)で使われる、邪視から身を守るための護符で手の形をしており、多くは五指のうちの中央の三本が山形を成し、親指と小指が同じ長さの手の形をしており、中央には目・ダビデの星・イクトゥス(ichtus:弧を成す二本の線を交差させて魚を横から見た形に描いたシンボル。初期キリスト教徒が隠れシンボルとして用いた)を配したものも多く見かける因みに「ファーティマ」とはイスラム教開祖ムハンマドの娘で、第4代正統カリフたるアリーの妻となった女性の名で、イスラーム圏に於ける理想の女性の象徴と見做されている)『がある。同様の目的で広くユーラシアでは天然石の虎目石や天眼石(縞瑪瑙)も利用される』。『ヨーロッパ人の間では、地中海沿岸が最も邪視の信仰が強い。邪視を防ぐ伝統的な方法として地中海沿岸の船の舳先に大きな目が描かれているのをしばしば目にする。また邪視の信仰は北ヨーロッパ、特にケルトの圏内へ広まった。古代ローマでは、ファリックチャーム』(phallic charm)『(陽根の魔除け)が対邪視に有効とされた』(本邦では「金精(こんせい)さま」として、また、古く『アイヌにも似た』信仰『があった』とする)。『同様に日本でも縄文時代に儀式に用いられたと考えられている男性器を模した石棒が出土している。同じく邪視から身を守る動作としてコルナ』(イタリア語:Gesto delle corna:「角の手振り」の和製略)『またはマノ・コルヌータ』(ラテン語:Mano cornuta:「角の手」)『(人差し指と小指を伸ばして後の指は握り込む動作)、マノ・フィコ』(ラテン語:mano fico:「無花果の手」)『(親指を人差し指と中指の間に挟んで握り込む動作)『で古代ローマでは男性器を表す)がある。また』、『今日』、『侮蔑の意味でつかわれるファックサインは』、『元来』、『古代ローマでは上記のサイン同様に邪視除けのサインであった』。『その一方で』、『プリアーポス』(ギリシア神話に於ける羊飼い・庭園及び果樹園の守護神にして生殖と豊穣を司る巨大なファルスを持った生殖男神のシンボルライズされたそれ)『は侮辱の意味でも使われたことから』、『両面性を持ち合わせたサインでもある可能性が残る』。『ブラジルでは、 マノ・フィコの彫刻を幸運のチャームとして常に持ち歩く。これらの風習は、邪視文様を』「ほと」(本邦の女性生殖器を指す古語)『として見たとき』、それ『に対応する男性器の象徴で対抗する、あるいは眼に対して先端恐怖症を想起させる事や、見るに堪えない見苦しいもので対抗する呪術の方法である』。『邪視の迷信はヨーロッパからアメリカ』『に持ち込まれた』。一九四六年、『アメリカ合衆国のマジシャン、アンリ・ガマシュ』(Henri Gamache (一八八九年~?))『が出版した邪視についてのいくつかのテキストはアメリカ合衆国南部のヴードゥー医に影響を与えた』とある。但し、最後に言っておくと、この後、熊楠はこの「邪視」を、またしても天馬空を翔けるが如く、延々とドライヴして語って行くことになるのであるが、そこで彼はインドの「視害」(ナザル)と「邪視」を、作用は同系統ながらも、別なものとして扱っていることが判ってくる。これは実にこの公開後も熊楠の中で燻り続け、大正六(一九一七)年二月に『太陽』に発表した「蛇に關する民俗と傳說」で、自分が本論考中で「邪視」と訳したこと、インドの「ナザール」は、当人が悪念を持たずして、何の他者を害する気もなく、逆に賞讃せんとして人や物を眺めただけで、眺められた対象が必ず害を受けるので、私は「視害」と訳しておいたが、調べた仏典の経文から見て、「見毒」(けんどく)という訳語にして「邪視」と区別するべきであると述べ、さらに燻りは続いて、遂に、昭和四(一九二九)年十月発行の『民俗学』(第一巻四号)で、短いながら、「邪視について」を再びものしているのである。この拘りについて優れた論考がなされている姜竣(カン ジュン)氏の論考「イメージとことばの近代」(日本口承文芸協会『口承文芸研究』第二十五号所収・二〇〇二年三月発行・PDF)を読まれんことを強くお薦めする。

「乞丐」「かたゐ」「かつたゐ」「こつがい」などの読みがある。乞食。古くはハンセン病患者を「かつたいぼ」と呼んだ差別史がある。

「葦原醜男あり(書紀卷一)」多様な別名を持つ大国主命の異名の一つ。但し、「日本書紀」巻之第一の「第八段」の「一書第六」に、

   *

一書曰。大國主神。亦名、大物主神。亦號、國作大己貴命。亦曰、葦原醜男。亦曰、八千戈神。亦曰、大國玉神。亦曰、顯國玉神。其子、凡有一百八十一神。

   *

と、この一箇所だけに出る。

「延曆」七八二年~八〇六年。

「村岡連惡人(玄同放言三類聚國史を引く)」「選集」では『むらおかのむらじ』と振るが、「悪人」は読みを振っていない。「日本古典籍ビューア」の原本画像(当該部。左頁最終行)を見ても、やはり振っていない。「あくんど」と私は読みたくなるが、先に示した姜氏の論考では、この「惡人」を「マガヒト」と読んでおられる。「三」は「玄同放言」の第三巻の意。「類聚國史」は編年体である「六国史」の記事を、中国の類書に倣って、分類・再編集した歴史書。菅原道真の編纂により寛平四(八九二)年に完成した。写本を見つけたが、読みは一切振っていないので、調べるのをやめた。「玄同放言」は「類聚国史」の八十七巻の刑法部の引用と記し(訓読した)、

   *

桓武天皇延曆十七年、二月壬子の美濃國の人、村岡の連(むらし)悪人を、淡路の國に配流す。群盗を停留(とゞ)め、百姓を侵犯(をか)すを以てなり。この悪人も、悪名を賜ひしにやあらざるか。おのづからなる名にしあらば、その謫罰(てきばつ)、名詮自性(みやうせんじしやう)ならずや。

   *

以下、「惡」の字の名乗りを持った著名な人物を馬琴は挙げて、『その暴悪非義を憎(にく)みて、悪のを被(おは)せし』なんどと十把一絡げに言っているが、これは馬琴にして「何言いてけつかるッツ!?!」と突っ込みたくなる呆れた謂いである。悪源太義平や悪七兵衛(あくしちびょうえ)藤原景清、最上氏家臣で出羽国飽海(あくみ)郡朝日山城主であった名将池田悪次郎盛周(もりちか)でご存知の通り、この「悪」は「強い」の意であって、「悪い」の意ではない。自ら名乗り、同輩諸氏も親愛の意を込めてそう呼んだのだ。アホか? 馬琴!

出口米吉「小兒と魔除」(南方熊楠「小兒と魔除」を触発させた原論考)

 

[やぶちゃん注:南方熊楠の「小兒と魔除」を電子化注するに際して、こちらも前の論考と同じく、別の人物の論考に触発されたものである故に、その原論考を先にここで示すこととする。

 その原論考は、熊楠が冒頭で述べるように、『東京人類学会雑誌』の明治四二(一九〇九)年一月十二日発行の第二百七十四号に載った、出口米吉氏の「小兒と魔除」である。在野の民俗学研究者であった出口米吉(明治四(一八七一)年~昭和一二(一九三七)年)は石川県金沢市生まれで、元教師(各地の中学校・各種学校等)で、概ね、学校関係職(最後は大阪府福島商業学校主事)に就いていた。明治三四(一九〇一)年頃から、民俗学関係の論文を発表し始めており、その初期の投稿先は、この『東京人類学会雑誌』であり、明治三七(一九〇四)年十二月(当時は奈良県立畝傍(うねび)中学校教諭)には、人類学への大きな貢献を成したとして、まさにこの「東京人類学会」から表彰されてもいる。しかし、現在、彼の存在はあまり知られているとは言えない。詳しくは、Theopotamos(Kamikawa)氏の「忘れられた民俗学研究者・出口米吉の生涯」がよい。そこでは、彼が排除されていった経緯には民俗学のアカデミズム化が挙げられているが、今一つ、そこに書かれてある、彼の研究の大きな柱の一つが「性器崇拝」であったことが、アカデミズム側からの排除対象の餌食になったものだろうと私は思う(リンク先の年譜を見ても、彼の知られた論考には「日本における生殖器崇拝」・「地蔵尊が道祖神を併合せし一類例――欧州に於ける耶蘇教の生殖器崇拝併合――」・「陰崇拝より陽崇拝へ」が認められる)。柳田國男と折口信夫は恐らくある時期に秘密裏に性的民俗事例はなるべく扱わないようにしようという非学術的な密約が成され、それがアカデミックな民俗学では主流化されて学問的にも変形・変質してしまったと私は考えているからである。

 底本は「J-STAGE」のこちらこちら(後者は別画像で本文最終ページがある)の原本画像を視認した。踊り字「〱」は正字化した。【 】は底本では二行割注。基本、ここでは極力、必要と思われた部分以外には注を附さないこととする。そうしないと、何時まで経っても、本来の目的である熊楠の論考に移れないからである。]

 

    ○小兒と魔除

          出 口 米 吉

下世話に「弱味に附け込む厄病聯」といふことあり。獨り厄病の神に限らず、總て惡魔は人の弱點に乘して害惡を人類に及ぼさんと慾すと想像せられたり。特に小兒の如きは、身體薄弱にして精紳神固ならず、外部の勢力に抵抗する力少くして、比較的疾病に罹り易く、死亡する者多きが爲に、彼等は惡魔の乘ずべき機會を甚多く有すと考へられたるが如し。故に父母たる者は其發育を希ふ心より、あらゆる厭勝咒禁を利用して其侵害を防遏[やぶちゃん注:「ばうあつ」。防き止めること。]せんことを企てたり。而して其禁厭ある者は、亦これ古人が惡魔に對する思想の一端を窺知[やぶちゃん注:「きち」。]すべき好材料たれば、左

に其二三を擧げて聊說明を試みんと欲す。

 岡西惟中の消閑雜記に、

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が一字下げ。前後を一行空けておく。]

 

人の名に丸といふ字をつく事。まるは不淨を入るゝ器なり。不浮は鬼魔のたぐひも嫌ふものなり。されば鬼魔の類近かつかざる心を祝して、名の下につく心なり。古今集の作者に屎といひ、貫之か幼名をあこくそといふ類多し。今も穢多の子にして其名を穢多とつけ、又い綴と付くること皆同し。是玄旨法印の古今にて沙汰し給ふとぞ。

[やぶちゃん注:「古今集の作者に屎といひ」巻第十九の「雑体」に源屎(みなもとのくそ生没年不詳)の一首が載る(一〇五四)。女性で源作(つくる)の娘とされ、源久曾とも表記される。姓は源朝臣であるものの、詳しい系譜は全く不明である。]

 

といへり。是甚奇說あるが如くなれども、他の諸種の風習に照合して考ふれば、決して首肯し難き妄說にあらず。俗に重病の時に病者の知らざる間に馬糞を其寢床の下に入れ置けば効驗ありと云ひ、東京にて癲癇病の發せし時に泥草鞋を患者の頭上に戴かすれば卽治すといひ、世事百談「鬼魔たるものゝ治療」の中に、「扨病人の眼をあけたらば、あつき小便一ぱい口に入るべし。しばしありて正氣になるなり。」とあるも、皆汚穢物を以て病魔妖鬼の類を除んとの考より出てたる風習なり。又小兒の夜泣を防ぐには牛の糞を床の下に入れをくも良しといふ。迷信の日本夜泣の事は後に云ふべかれとも、固より同一趣意の風習なり。本草綱目に刮屎柴木を燒て魔病を薰し邪氣を除くの効能を載せたり。此等を以て見れば、幼名を不淨物の名に取るは惡魔を避けん爲なりとの說必ずしも根據なりと云ふべからず。

[やぶちゃん注:「本草綱目に刮屎柴木を燒て魔病を薰し邪氣を除くの効能を載せたり」巻三十八の「服器之二」の終わりの方に、「厠籌」(しちう(しちゅう):紙が普及する以前、排便の際に肛門附近の汚れを掻き落とすために用いた細長い木製片。籌木(ちゅうぎ/ちゅうぼく)のこと。糞箆(くそべら)。があり、その「附方」の「小兒驚竄」(小児性の癲癇或いは痙攣発作のことのようである)の下りに(下線太字は私が附した)、「兩眼看地不上者皂角燒灰以童尿浸刮屎柴竹用火烘乾爲末貼其𩕄門卽甦 王氏小兒方」(兩眼、地を看て、上らざる者は、皂角(さいかち)を燒灰にし、童の尿を以つて刮屎柴竹(かつしさいちく)を浸し、火を用ひて烘乾(こうかん)[やぶちゃん注:炙り乾かすこと。]し、末と爲し、其の𩕄門(ひよめき:幼児の頭蓋骨の泉門 (せんもん) 。骨がまだ癒合していないため、脈動に合わせてヒクヒクと動く、頭頂部の柔らかい部分)に貼ず。卽ち、甦(よみがへ)る。【「王氏小兒方」。】)とはあった。「刮屎柴竹」は「厠籌」「籌木」「糞箆」の同義であろう。]

小兒婦人が守刀を帶ふるにつきて、松屋筆記九十二に、

[やぶちゃん注:同前。]

 

和泉式部草子に、道命が持けるまもう刀を、などやらん心にかけ給ふけしきにて、おほせけるやうは、女房の身こそあれ、男の守刀をかけたるためしはいかにとおほせければ、云々。按に、かくては女にかぎるやうなれど、吾妻鏡二卷同十二卷などに、若君御誕生の時御家人等御護刀を奉る事見ゆ。

 

といへり。小兒の生れたる時、守刀を贈ること古くより行はれしと見え、後拾遺集拾九雜に、「三條院春宮と申ける時、式部卿敦儀[やぶちゃん注:「あつのり」。]親王生れてはへりけるに、御はかし奉るとて結つけてはべりける。」とあり。守刀は婦人小兒に限らず、男子も之を携へしことは、既に和泉式部草子に云へる道命が之を持ちけるにても知るべく、猶他の書にも其證あれども、和泉式部草子に記せる所にて見れば、主として小兒婦女子の携ふる者と思はれたることを察すべし。依て按するに、此守刀なる者は其目的敵を防ぐ爲よりも、寧ろ主として鬼魅に對して其身を衞るが爲に之を帶ぶるにあらざりしか。古來鬼神も刀劍を恐ると想像せられし例證諸書に散見せり。源氏夕顏の卷に、源氏が夕顏を率ゐて河原の宿に到りしことを敍して、

[やぶちゃん注:同前。]

 

宵過ぐる程に、少しく寢入り給へる御枕上に、いとをかしげなる女居て、おのがいとめでたしと見奉るをば、尋ねもおもほさで、かくことある事なき人をゐておはして、時めかし給ふこそいとめざましくつらけれ、とて、此御傍の人をかき起さむとすと見給ふ。物におそはるゝ心地して驚き給へれば、火も消えにけり。うたておほさるれば、大刀を引き拔きて、うち置き給ひて、右近を起し給ふ。

 

と記せり。今昔物語第二十七卷には鬼魅に劃する刀劍の德を示す話二三條あり。就中雅通中將家在同形乳母二人話[やぶちゃん注:「話」はママ。「語」の誤植が疑われる。「雅通中將家在同形乳母二人語第二十九」(雅通の中將の家に同じ形の乳母(めのと)二人在る語(こと)第二十九)。「やたがらすナビ」のこちらで原文が読める。]は、鬼魔が乘ずべき機會だにあらば、小兒に害を加へんと欲すと信ぜられたることを示す者なれは、左に之を引用せんと欲す。

[やぶちゃん注:同前。]

 

今昔源の雅通の中將と云ふ人有き。丹波中將となむ云ひし。其家は四條よりは南、室町ようは西也。彼の中將其家に住ける時に、二歲許の兒を乳母抱て、南面也ける所に、只猫う離れ居て、兒を遊ばせける程に、俄に兒の愕たゞしく[やぶちゃん注:「おびただしく」。]泣けるに、乳母も喤る[やぶちゃん注:「ののしる」。叫ぶ。]音のしければ、中將は北面に居たらけるが、此を聞て何事とも不知て[やぶちゃん注:「しらで」。]、大刀を提て走り行て見れば、同形なる乳母二人が中に此兒を置て、左右の手足を取て引しろふ、中將奇異く思て[やぶちゃん注:「あさましくおもひて」。]、吉く[やぶちゃん注:「よく。]守れば、共に同乳母の形にて有り、何れが實の[やぶちゃん注:「まことの」。]乳母ならむと云ふ事を不知ず。然れば一人は定めて狐などにこそは有らめと思て、大刀をひらめかして走り懸ける時に、一人の乳母搔消つ標に失にけり。(中略)然れば人離れたらむ所には幼き兒共をば不遊[やぶちゃん注:「あそばす」。否定の「不」を残して示すのは同書の常套。]まじき事也となむ人云ける。狐の□[やぶちゃん注:原本の欠字。「すかし」或いは「ばけ」に相当する漢字表記を期した意志的欠字。]たりけるにや、亦物の靈[やぶちゃん注:「りやう」。]に有けむ、知る事无して止にけりとなむ語り傳へたるとや。

 

猶鬼現板來人家致人語及通鈴鹿山三人入宿不知堂語の中にも鬼帥の刀に恐れたることを述べたり[やぶちゃん注:「今昔物語集」同巻の「鬼現板來人家殺人語第十八」(鬼、板と現じ人の家に來りて人を殺す語第十八)と「通鈴鹿山三人入宿不知堂語第四十四」(鈴鹿の山を通る三人(みたり)、知らざる堂に入りて宿る語第四十四)。リンクはやはり「やたがらすナビ」の原文。但し、後者は太刀の効果例としては如何にもしょぼい。太刀を引く抜くと、鬼神どもは去るが、その際に一度にどっと大笑いして消えているからである。]。又謠曲紅葉狩の結末に、

[やぶちゃん注:同前。]

 

維茂すこしもさわぎ給はず、南無や八幡大菩薩と、心に念じ、劒を拔いて待ちかけ給へば、微塵になさんと飛んでかゝるを、飛び違ひむずと組み、鬼神の眞中さしとほす所を、頭を摑んであからんとするを、切り拂ひ給へば、劒に恐れて巖へのぼるを、引き落し、さし

とほし、忽ち鬼神をしたがへ給ふ、威勢の程こそおそろしけれ。

 

と謠ひたり。大祓の時、東西の文忌式部[やぶちゃん注:「やまとのふみのいみきべ」と読む。現在は祝詞(呪文)名として残る。]より橫刀を獻る時の咒にも、捧以銀人、請除禍災、捧以金刀、請延帝祚と云へり。現時に於ても、志摩の國にては、產婦の枕許に稻荷除けとて短刀を置き、【日本奇風俗】死人の上に拔きかけたる刀を載せ置くも、皆惡魔の害を避けんが爲なり。此の如く刀に避邪の德ありと思考せられしを以て見れば、件の守刀も小兒婦女子に對しては、主として鬼魔の類を防がんが爲なりしか如く思はるゝなり。此德は刀劒のみ に限らず、弓矢の類にも存すと想像せられたる者にして、續古事談武勇部に、白河院御寢の後、物に襲れおはしける比、義家朝臣より眞弓の黑塗なるを一張進らせ、御枕上に置かせられたることを載せ、今昔物語二十七挑薗柱穴指出兒手招人語に、寢殿の辰已の母屋の柱に、開きたる木の節の穴より、夜每に小き兒の手を指出して人を招きけるを防がんが爲に、征箭を一筋其中に指し入れたることを云へり[やぶちゃん注:引用標題の「挑」は「桃」の誤植であろう。「桃薗柱穴指出兒手招人語第三」(桃薗の柱の穴より兒の手を指(さ)し出だして人を招く語第三)である。これは私が超弩級に偏愛する一篇で、私のブログ・カテゴリ『「今昔物語集」を読む』『「今昔物語集」巻第第二十七 本朝付靈鬼 桃薗柱穴指出兒手招人語 第三』で原文とオリジナル訳注を示してある。]。又出產の時に蟇目を射、鳴弦せしことは中世上流社會の風習にして、近松作天鼓には、山路判官梅豊か蟇目を以て狐の女に取り付きたるを落さんとすることを敍せり。其他俗に瘧病を治する厭勝として剃刀を病者の知らぬ間に枕の下に入れ置くも、【○本誌一〇六號[やぶちゃん注:明治二八(一八九五) 年一月発行の第一〇六号に収録されている田中正太郎氏の飛驒を中心とした民俗風習採取リストである「妄信材料集」(「j-stage」の当該論文原本。PDF)の一六五ページの「三一」条を参照。]】婦人が寢ぬる時に大蛇の寄らぬ禁咒なりとて胸に針を刺しをくも、【迷信の日本】皆同一の思想に由來する風習なり。

伊勢貞陸の產所之記に「御伽の犬箱あるべし」とあり。犬箱とは犬張子の事なり。雌雄二個を供へ、小兒誕生の時守札などを之に入る。犬は魔性を退くる者なれば其形を作ると云ひ傳へたり。恐らくは、犬は夜間家を守護し、怪しき者を見て之に吠ゆる能あるより、小兒に對しても等しく之を衞り、惡魔を退くるとの俗信を生ずるに至りたるなるべし。凡そ未開時代に於ては、夜間を以て鬼魅の橫行跋扈する時間と考へたるを以て、夜に至れば一般に惡魔を警戒し、殊に小兒に對しては厚く保護を加へたり。昔は加賀金澤にては。暮六ッになれば、逢ふ魔が時なりとて小兒をして悉く家に歸らしめたり。播磨姬路にても、日暮を逢ふ魔が時といひ、此時小兒を外出せしむれば魔が隱くすといへり。【本誌一〇六號[やぶちゃん注:前に注した論考の前にある同種のリストで、播磨姫路の和田千吉氏の「妄信材料」(同じく「j-stage」の当該論文原本。PDF)の「一三」条。]】甲斐にては、日沒後カクレンボウをして遊べば、カクレ神にかくされるとて恐るといふ。【本誌二〇九號[やぶちゃん注:明治三六(一九〇三)年八月発行の第二〇九号の山中笑(えみ)氏の「甲斐の落葉」(同前)の四六二ページ上段中央附近にある。】故に此時小兒の外出して歸宅せざる者ある時は、魔が隱くしたとて之を搜索したり[やぶちゃん注:これは前記の山中氏の論考には記されていないので注意。まあ、探すに決まってるんだが。]。俚言集覽に「迷ひ子をたづぬるに、江戶にては鉦と太鼓を鳴して、五六人も同行して、呼に其名をいふ。大阪にては太鼓ばかりを鳴して、是も五六人以上にて、一人先に立ち、カヤセカヤセと呼び步くとなり。これを俗にかやせ太鼓といふといヘり。」と見ゆ。大和にては此の如き塲合には「ジーサヤバーサや子がかわい」とて一升桝の底を叩きて呼びあわき、金澤にては天狗の棲處と思ほしき松樹の下に至りて「サバ食た某」と叫びたりと聞けり。俗に死人に供ふる飯をサバ飯と云へば、「サバ食た某」と云へば、天狗は之を稼れたる者として直に其者を戾すと想像せられしならん。此の如く夜は妖魅の類橫行して、害を小兒に加へんとすと考へられたるより見れは、犬張子は夜間小兒を守護せしむる意にて其傍に置きたるなるべし。又夜中小兒を抱きて他行する時は、紅指にて小供の額に犬の字を書き、是をインノコと云ふ。斯の如くすれば狐狸妖猫の類小兒を脅かすことなしとぞ。【貞丈雜記】常陸龍ヶ崎にては、出生後二十一日未滿の子を戶外に連れ行く時は、狐狸に魅せられさる爲に

とて、犬の字を額に書くこと近頃までも行はれたる由なり。【本誌一〇九號[やぶちゃん注:明治二八(一八九五)年四月発行の第一〇九号の常陸龍ケ崎の川角寅吉氏の「妄信録第二」(同前)の二七三ページの「二五」条。但し、生後二十一日未満の子という条件が附けてある。]】此事は古く行はれたる習慣にして、年山紀聞一に左の如く云へり。

[やぶちゃん注:同前。]

 

大府記。【爲房卿日記】康和五年入月廿七日云。東宮遷御高松第。戌四刻御出。宗通卿御額奉ㇾ書犬字。先日女房奉仕。爲房卿の子息【顯隆卿】日記には、戌刻行啓。依可ㇾ奉ㇾ書阿也都古人。以ㇾ予爲御使。被ㇾ申ㇾ院。爲章按するに、犬字をかく事を阿也都古人をかくともいひけんかし。【北愼言は依可ㇾ奉ㇾ書阿也都古人事云々と讀むべしといへり】[やぶちゃん注:高貴な階級では新生児の宮参りの際に「阿也都古」(あやつこ)と呼んで額に犬の字を書いたのである。]

 

又此習慣の起源につきては、梅園日記卷之三に、

[やぶちゃん注:同前。]

 

考ふるに、是小兒を守護の爲の厭勝なり。其證は菟玖波集に、「犬こそ人の守りなうけれ【といふ句に】良阿法師「みとり子のひたひにかける文字を見て」とつけたるにて知るべし。さて此もとは前條にいへる鬼車鳥(同し卷七草の條に說きたり)は犬を畏るれば彼鳥を禳はん[やぶちゃん注:「はらはん」。]とてのわざなり。犬をおそるゝ事は、北戶錄に、鴟鵂卽姑獲、鬼車、鴟鵂類也。姑獲玄中記云。好取人小兒食之。今時小兒之衣。不欲夜露者。爲此物愛。以血點其衣爲誌。卽取小兒也。鬼車今猶九首。能入人屋收魂。爲犬所噬。一首常下。血滴人家。則凶。荊楚歲時記。夜聞捩狗耳。言其畏狗也。太平廣記【四百六十三】に酉陽雜爼を引て、杜鵑。厠上聽其聲不祥。厭法當爲犬聲應之。方以智が通雅に、蒼鸆有九首。智在松江。親聞之。市人爭作犬聲相逐。相傳一頭流血。著人家卽凶。と見え、又千金方に、姑獲喜落毛羽於人中庭。置兒衣中。便令兒作癇病必死。是以小兒衣被不可露。七八月尤忌。とあれば、七八月は殊にまじなふあるべし。(中略)外臺秘要【三十五】に小兒夜啼方。取犬頭下毛。以絳囊盛。繫兒兩手。立效。とあり。婦人養草に、犬はりこといふ物は產屋に用ゆる器なり。產衣を先此犬箱に著せはじめて、其後子に著する。箱の内へは守札等又は產屋にて用ゐる白粉疊紙又は眉はらひなど入るなり。」といへり。此犬はり子も亦まじなひなり。さて額にかくは、荊楚歲時記に、八月十日。四民竝以朱墨。點小兒頭額。名爲天灸。以厭疾。と見えたる說をも合せたるにや。養生類纂に瑣碎錄を引て、小兒額上。寫八十字。此乃栴壇王[やぶちゃん注:ママ。]押字。兒崇見則廻避。とあり。是も似たる事なり。

[やぶちゃん注:「鬼車鳥」元来は中国由来の妖鳥。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」の「鬼車鳥(きしゃどり)」によれば、『唐土の嶺南山に鬼車鳥という毒をもった鳥がおり、夜中は人家の軒下にいて、捨てた人の爪を食べるという。この鳥は子供の乾いた着物に毒を掛け、それを知らずに着ると疳の病を患うという』とある。「鴟鵂」は「みみづく」。ミミズク。]

 

と詳論せり。之を以て見れは、兎に角此習慣は支那より移り來り、中世以後我國の上下に流行せし者にして、犬箱は更に犬に樹する此習慣を基として起り、足利時代に古來出產の時に用ゐられたる虎頭などに傚ひて製作せられたるにもやと思はる。外臺秘要に云へる小兒の夜啼を止むる方も我國に傳はり、犬の色を紅木綿の袋に入れて小兒の背に縫ひ付て置けば小兒の夜泣を防く【迷信の日本】といふ。上述の如く衣間[やぶちゃん注:「夜間」の誤植であろう。]は鬼神惡魔の活動する時間と考へられたるを以て、小兒の夜泣を以て惡魔の所爲と推定せしは無理ならぬ歸着と云ふべし。伊勢四日市地方にて夜中襁褓を戶外に露せば小兒夜啼す【風俗𤲿報】といひ、常陸龍ケ崎にてオシメを失ふ時は子供が夜泣す【本誌一〇九號[やぶちゃん注:既注の川角寅吉氏の「妄信録第二」の二七三ページの「二六」条。]】

といひ、其他の地方にても同樣の傳說存する所多し。此等は其昔惡魔が有らゆる機會を利用して害を小兒に加へんとすと考へられたること、及小兒の夜啼を以て惡魔が何等かの害を小兒に加へつゝありと考へられたることを示す者なり。未開人の思想する所に依れば、甞て其人の身躰の一部をなしたる者、例せば髮若しくは爪の如き者、又は其人の身躰に觸接したる者、例せば衣服の一片を得れば、惡魔は其物に依りて、其人に勢力を及ぼすを得べき譯なれば、此塲合に於ても、鬼魔の橫行する夜間に小兒の襁褓を戶外に暴露すれば、惡魔は直に之を利用して害を其小兒に加ふと考へられたるべし。此說の支那より流傳せし者あることは、上に引ける梅園日記卷三の中なる玄中記及千金方の述ぶる所に依りて之を見るべし。然れども以血點其衣爲誌といひ、喜落毛羽於人中庭置兒衣中といふが如きは、固より後世の附說に過ぎざるべし。既に夜啼を以て惡魔の所爲に歸する上は、夜泣を止むる法は卽ち惡魔を防ぐ法ならざるべからず。之に關する厭法種々ありて其一二は上文に既に之を云へり。猶其一二を添記せんに、鏡の紳靈視せられたることは我邦に限らず、支那にても古より之を奪重し、避邪の用に供せしことは、西京雜記上に、

[やぶちゃん注:同前。]

 

宣帝被收繋郡邸獄。臂上猶帶史良娣合釆婉轉絲繩。繫身毒國寳鏡一枚。大如八銖錢。舊傳。此鏡見妖魅。得佩之者。爲天神所福。故宣帝從危獲濟。及卽大位。每持此鏡。感咽移辰。常以號珀笥盛之。緘以戚里織成錦。一日斜文錦。帝崩不知所在。

 

五雜爼十二に、

[やぶちゃん注:同前。]

 

凡鏡逾古逾佳。非獨取其款識斑色之美。亦可避邪魅禳火灾。故君子貴之。庚已編載。吳縣陳氏祖。傳古鏡。患瘧者照之。見脊上一物驚去。卽瘧。

 

と見えたり。我國の此習慣は支那より傳りたる者なりや否や詳ならずと雖も、岩瀨京山の謂へる如く、禁中の篇又は御船に鏡を掛くるを以て魔除の爲なりし【歷世女裝考一】とせば、これ亦古く行はれたる習慣なり。

世事百談、兒啼を止むる諺の條に、籠耳といふ册子を引きて、「小兒をすかしかぶる時、虎狼來虎狼來といふこともあり。もろこしにては張遼來といへば小兒なきやむといへう。張遼といふものたけき兵にてありしとなり。」といへり。諺草五の卷、遼來遼來の條に、「魏志曰。張遼字文遠。雁門馬邑人。武力過人。數有戰功。累轉前將軍。蒙求舊註曰。江東小兒啼。怖之曰遼來々々。無不止者。日本にも些言傳はりて小兒を怖しすかすとて遼來遼來と云來れり。」と記せり。思ふに、こは後世小兒を威嚇して啼泣を止むるが爲に唱する諺の如く云傳ふと雖も、去るにては其理通せざる所あり。恐らくは、其始は小兒を襲ふ鬼魔を威し去らしめんが爲に唱せし詞にして、小兒を威嚇して啼泣を止むるが爲にはならざりしならん。虎か魔除として有効なるを信せられしことは、古より皇子降誕ありて御湯をめさせられ給ふ時に、邪魅を退けんが爲に虎頭[やぶちゃん注:「とらのかしら」或いは「とらがしら」。虎の頭骨或いは張り子の虎の頭部。]を其傍に置きたるにて之を知るべし。紫式部日記に、後一條院御降誕の時、御ふまゐらせ給ふ所に[やぶちゃん注:意味不明。これは原本を確認するに、御湯殿の儀のシーンで「御ふ」は「御ゆ」の誤りのように思われる。]、「宮は殿いたき奉う給ひて、御はかしこ少將の君、虎のかしら宮の内侍とりて、御さきにまゐる。(中略)殿の公達二所源の少將雅道などうちまきをなげのゝじり、われたからうちならさんとあらそひさはく。へんち寺の僧都護身にさぶらひ給ふ。かしらにも眼にもあたるべければ、扇をさゝげて若き人に笑はる。文よむ博士藏人弁ひろなり、高欄のもとにたちて、史記の一卷をよむ。弦うち廿人、五位十人、六位十人、ふたなみにたちわたれり。」と記したり。【榮花初花の卷に記す所もおほよそ同し】大刀も虎頭と共に魔除として携帶せられたるを見るべし。將軍家に於ても、出產の時虎頭を用ゐたることは、御產所日記に、義勝誕生の時の例を記せる中に見えたり。俗に丙寅の二字を朱にて認め、小供の枕頭に置けば夜泣を止むといふ【迷信の日本】も其由來する所一なり。虎は我國に產せざる動物なれば、恐らくは虎に對する此俗信も虎の觀念と共に大陸より移傳し來れるなるべし。風俗通卷八に、

[やぶちゃん注:同前。]

 

虎者陽物。百獸之長也。能執榑挫鋭。噬食鬼魅。今人卒得惡遇。燒悟虎皮飮之。擊其爪亦能辟惡。此其驗也。

 

と云へり。狼は和名オホカミ(大嚙)と稱して、一般に恐怖する所なりと雖も、未だ魔除として用ゐられたることを聞かす[やぶちゃん注:「聞かず」の誤植。しかし、これは全くの不勉強の極みの誤りである。南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拜(5:狼)」を見られたい。]。恐らくは虎を呼ぶの本意忘却せられ、俗に小兒を威嚇するが如く解するに至りて、更に狼をも添ふるに至りしならんと思はる。張遼來も鬼魔を逐ふが爲に唱せし者にして、鐘馗石敢當加藤淸正等の武勇絕倫の豪傑の名を借りて惡鬼を驅逐すると趣旨を同くするなり。

 

2021/01/02

只野真葛「いそづたひ」縦書(ルビ附)PDF版


2021/01/01

新春事始電子テクスト注 只野眞葛 いそづたひ 附 藪野直史注(ブログ・カテゴリ「只野真葛」創始)

 

[やぶちゃん注:只野眞葛(ただのまくづ 宝暦一三(一七六三)年~文政八(一八二五)年)は私の好きな江戸中・後期にあって稀に見る才能を開花させた女流随筆家である。仙台藩医で「赤蝦夷風説考」の著者でもあった工藤平助の娘で、名は綾子。江戸生まれ。明和九(一七七二)年二月、十歳で「明和の大火」(目黒大円寺から出火、麻布・京橋・日本橋に延焼、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くした。死者は一万四千七百人、行方不明者は四千人を超えた)に遭遇し、苦しむ貧民に心を寄せ、後々まで続く経世済民の志を抱いた。荷田蒼生子(かだのたみこ:国学者で伏見稲荷神官であった荷田春満(あずままろ)の弟高惟(たかのぶ)の娘で、春満の養女となった女流歌人。紀州藩に仕えた)に古典を学び、国学者で歌人の村田春海(はるみ)に和文の才を認められ、また、滝本流の書もよくした。仙台藩に奥勤めした後、家へ帰り、母亡き後の家政を見た。三十六歳で、落魄れた工藤家復興を期し、仙台藩士千二百石取りの只野伊賀行義の後妻となり(彼女はその前に望まない老人と、一度、短期間、結婚し、離縁している)、仙台へ下る。江戸勤めの多い夫の留守を守りながら、思索に耽り、文政二(一八一九)年、五十五歳の時、胸の想いを全三巻に纏め、「独考」(ひとりかんがへ)と題して江戸の滝沢馬琴に送り、批評と出版を依頼したが、馬琴は禁忌に触れる部分があるとして出版に反対し、自ら「独考論」を著し、真葛の論に反撃し、手紙で知り逢ってから一年余りで絶縁した。しかしまた、真葛の事跡が、現在、ある程度まで明らかとなっているのも、馬琴が「兎園小説」に書き留めたからででもあった(第十集の最後にある著作堂(馬琴の「兎園小説」での号)作の「眞葛のおうな」)。真葛は体系的な学問をしたわけではないが、国学・儒学・蘭学などの教養を身に着け、その上にオリジナルな思想を築いていった。「独考」には一種の偏頗な部分もあるものの、江戸期の女性の手になる社会批判書であり、当時としては稀有の女性解放を叫ぶ書として評価できる。著作には他に・「むかしばなし」・「奥州ばなし」などが残る(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠りつつ、オリジナルに補足を加えた)。「いそづたひ」(「磯通太比」「磯つたひ」とも表記する)は、文政元(一八一八)年に宮城郡七浜(現在の宮城県宮城郡七ヶ浜町(しちがはままち)へ彼女が仲間と旅した際の紀行文で、途中で採取した海辺の珍しい話も挟まり、まことに優れたものである。既に一部を南方熊楠の「本邦に於ける動物崇拜」で言及された「海龜」及び「鮫(サメ又フカ)」の私の注で電子化しているが、これは、その全文である。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの明治四二(一九〇九)年博文館刊の岸上質軒校訂「續紀行文集」(「續帝國文庫」第二十四編)に所収する「磯つたひ」(正字正仮名版)を視認して示す(底本は何を底本としたかは示されていない)。上記の既に電子化したものを加工用にしたものの、再度、検証してある。但し、読み易さを考え、独自に段落を成形し、句読点・記号等を追加し、読みは必要と思われる箇所に留めた。踊り字「〱」は正字化した。途中に見られる丸括弧表記の平文のそれは原本の割注である。必要と思われる箇所に注を施した。歴史的仮名遣の誤り(非常に少ない)はママ。なお、所持する一九九四年国書刊行会刊の「江戸文庫 只野真葛集」(鈴木よね子校訂)所収の「いそづたひ」(曲亭馬琴自写本底本)と校合した。また、向後、彼女の著作の電子化を纏めて行うことを企図し、ブログ・カテゴリ「只野真葛」を創始した。]

 

磯 つ た ひ

    只 野 眞 葛 女   

 

 葉月はじめの頃、磯づたひせんと思ふこと有て、鹽竃(しほがま)の浦より舟にのりて、東宮濱を過ぎて、代(よ)が崎(さき)につきて、むねむねしう見ゆる所に寄(より)て、憇ひたれば、あるじ出(いで)て物語す。

[やぶちゃん注:「葉月はじめ」文政元八月一日はグレゴリオ暦で丁度、一八一八年九月一日に当たる。

「鹽竃の浦……」「今昔マップ」のこちらで、中央西部附近が「鹽竃の浦」(真葛の住んでいた仙台城下からは、東北に直線で約十四キロメートル)で、東部に「東宮濱」があるのが判る。「代が崎」はそこから浦伝いに西浜の岬を回り込んだ西に「代ヶ崎」を見出せる。]

「今は汐の湛(たゝ)へたる時に侍れば、海の樣、同じくて、興、薄し。十一日より、汐かはり候(さぶら)へば、滿干(みちひ)の侍り。水中の大魚ども、其輩(ともがら)を集(つど)へて、爭ひ戰ふこと、侍り。鯨は味よく、肉(み)がちなる故、諸魚、取食(とりはま)むことを願ひ侍れども、大魚にして、力、强く、容易(たやす)くは捕得(とりえ)はべらず。先年、鯨の、諸魚に逐(おは)れて、濱に逃上(にげあが)りしこと侍りし時、續きて飛ぶが如くに逐來(おひき)て、眞砂の上に落(おつ)るはづみに、鰭を深く突込(つきこみ)て、根(もと)より、ふつと、折れ候へば、即ち、死したる魚の候ひし。總身(さうしん)の鰭、針の如(ごと)尖りて、鎌の形したる鰭、兩腋に生(おい)て候し。是に裂(さか)れては、如何なる者も、耐(たま)り得つべしとも、思はれ侍らず。この魚(いを)、濱人さへ始めて見候らへば、名は識り侍らず。鎌形の鰭、折れて即死侍しは、大事の物なるべし。文月(ふみづき)[やぶちゃん注:陰暦七月。]半(なかば)のことに候ひしかば、一の宮[やぶちゃん注:鹽竈神社(グーグル・マップ・データ)。同社は陸奥國一之宮である。]の邊へ持行(もちゆき)て、諸人に觀せて後、服(ふく)し[やぶちゃん注:夏場で、腐敗が速いので、その場で「食べた」の意であろう。]侍つれど、障(さは)りたる人も候はざりき。水中に大魚の爭ひ戰ふ時は、沖に恐ろしき波立ち、水上に跳上(はねあが)りて、落る拍子に、下なる魚(いを)を搏(うた)んとにや、鯨の如(しか)ふるまふこと候(さぶら)ふ。魚には根魚(ねを)・浮魚(うきいを)、侍るなり。鯨は浮魚なる故、根魚の攻むる時は、水を離れて跳上り侍る也。鯱(しやち)に懸けられて、隕魚(おちいを)と成て、浦々に寄り侍ることは、珍らしからず候。一つ鯨に、鯱、多くつき候らはねば、捕得ぬ物に侍り。懸(かけ)られたる跡は、深さ七寸許(ばかり)に長さ、二、三間[やぶちゃん注:三・六四~五・四五メートル。]ほどの疵、幾筋もつきて、肉は左右に割(われ)て、最(いと)恐ろしげなる者に侍り。鯱は海中第一の荒魚に侍れば、諸々の魚共、恐れて逃去(にげさ)り候也。和(なぎ)たる時、釣しても、さらに魚を得ぬ時は、『鯱の通りしならん』と、申侍れど、其形を見しことは侍らざりしに、一年[やぶちゃん注:「ひととせ」。ある年。]、鯨に搏(う)たれて死したる鯱、此濱に浮み寄(より)しことの侍し。初めて見し事ながら、頭勝(あたまがち)に[やぶちゃん注:頭がやけに大きく。]、口、濶(ひろ)く、牙は、尖(とが)りて長く、齒、太く、背、そりて、劍(つるぎ)を植(うゑ)し如くの鰭、生(お)ひ、尾の上下に分れて、巍(いらゝぎ)たる[やぶちゃん注:高く突き出ている。]狀(さま)、最(いと)りゝしく、又、恐ろしげなるものに候ひし。大城の棟(むね)なる鯱の形(かた)に、少しも違(たが)はざりし故、鯱とは定め侍りし。齒も、皆、具して持(もち)侍しを、濱見に來(こ)し旅人の中(うち)、香具屋(かうぐや)どもの見侍りて、『角細工(つのざいく)によし』とて、强(あなが)ちに求め侍るによりて、與へつゝ、今は一つだになくなり侍り。坪[やぶちゃん注:この語る老人の庭の意と思われる。]の内なる石に交りて有るは、其鯱の頭(かしら)の骨にて侍り。」

と云故、よりてみれば、白き岩のさまにて、苔むしたり。わたり、七、八寸ばかりに、まろき穴のふたつ有は、鼻の穴なりと敎るぞ、いとけしからぬものと思はる。

身の丈も、六、七間[やぶちゃん注:十・九~十二・七メートル。]は有つること、しるし。

[やぶちゃん注:「この魚、濱人さへ始めて見候らへば、名は識り侍らず」これだけの表現から特定は不能だが、前脚鰭が鎌状に有意に突き出ており、他のクジラ類と全体の様子が違うのだとすると、一つ、哺乳綱鯨偶蹄目ヒゲクジラ亜目セミクジラ科セミクジラ属セミクジラ Eubalaena japonica を挙げることが出来ようか。

「鯱」鯨偶蹄目ハクジラ亜目マイルカ上科マイルカ科シャチ亜科シャチ属シャチ Orcinus orca 。ヒトを例外とするなら、自然界での天敵は存在しない、海洋系食物連鎖の頂点に立つ肉食獣である。

「香具屋」所謂、「香具師(やし)」。人の集まる所で日用品や食品或いは奇体な怪しげな物などを並べ、大声で品物の説明・宣伝をしながら売る大道商人。或いは見世物興行などもする人。]

 家主(いへあるじ)、案内(あない)して、「はちが森」といふ所に登りて見れば、來(こ)し方の舟路を、淸し、めづらし、とおもひしは、數ならず、おもしろき崎々(さきさき)に波の打寄(うちよ)る狀(さま)、果もなき海原に、釣舟のうらゝに浮かべるなど、云ふ由なし。嶋ども、數多(あまた)ある中に、牛島といふは、實(げ)に大牛の居たる形(かた)たり。

[やぶちゃん注:現在、宮城県宮城郡七ヶ浜町代ヶ崎浜八ヶ森(グーグル・マップ・データ)の地名があり、多門山(標高五十六メートル)は景勝地として知られる。

「牛島」不詳であるが、思うに、多門山から眺望したとすれば、北北東の塩竃湾に浮かぶ大きな馬放島(まはなしじま)を指しているようには思われる。但し、別称を確認は出来ない。]

 爰を離れて、よし田濱を過て、花淵にいたりて[やぶちゃん注:「今昔マップ」のここの旧地図に孰れも浜名その他で見える。]、宿りとれり。此家は、昔し、沖に流寄(ながれよ)りし大木を拾ひて、唯一本、挽割(ひきわ)りて建(たて)たる家なれば、「珍らし」とて、人の見に來る所なりき。

 あくる日、家あるじ、出(いで)て、事の由を語る。

「爰より三十里沖に(小道なり[やぶちゃん注:「坂東道(ばんどうみち)」などと呼ばれる単位の短い「里」。一里を六町とする。十九・六三キロメートル相当。])、凪(なぎ)たる時も、汐の折返(をれかへ)る所、侍り。海底に深く沈みて、宮殿の形したる岩の候ふが、宮岩・拜殿岩・鳥居岩と、三つ、並びて侍り。これを『大根[やぶちゃん注:「おほね」。]の神社』と申て、舟人ども、恐れて、此上は、舟、乘(のり)侍らず。もし、誤りて、乘ることの候へば、必ず、過失(あやまち)し侍り。海を司り給ふ御神に侍り。こゝによき鮑(あはび)が候(さぶら)へば、海士(あま)ども、かづきして、取(とり)候へども、最(いと)深く、然(しか)も荒き所故、尋常(よのつね)の海士は入り難し。こゝにかづきするを、水の上手と、定め侍り。舟の行交(ゆきすが)ふ時に、鈴ふる音の聞ゆること、常に侍り。むかし、此家ぬし(天正年中[やぶちゃん注:ユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年。]の事也)、村長(むらをさ)にて有りしに、不圖(ふと)、家を燒失(やきうしな)へることの侍りき。さる折りしも、大根のわたりに、黑く大きなる物、浮きて有しを、『鯨ならめ』と思ひて、徃(ゆき)て見侍しに、類(たぐひ)もなき大木の懸りて候ひしかば、舟、數多(あまた)催(もよふ)して、引寄せ侍しに、磯邊までは寄侍らざりし故、海中にて挽割(ひきわり)て、舟に積(つみ)て運びつゝ、家を作り侍りき。敷板・緣板・建具迄も、只、一本の木にて、し侍りし。根は幾許(いくら)侍しや、及びがたさに、量り侍らざりき。先のふとさ、二丈餘(あまり)八尺(やさか)[やぶちゃん注:「江戸文庫」版はここに原割注があり、『弐丈八尺』(八メートル四十八センチメートル)とする。]、長(たけ)は千尺[やぶちゃん注:三百三メートル。]、と計(はかり)侍しとなん(十七間半[やぶちゃん注:約三十一メートル。])。挽割るべき刄物、さぶらはざりし故、瓜(うり)の皮を剝(と)る如く、能(よき)程に段(きだ)を付(つけ)て、裂取(さきと)りつゝ、柱に造り侍りつれば、半(なかば)を過(すご)して、流し遣(やり)さふらひつると、申傳へ侍り。此木、今は本淵唐木[やぶちゃん注:「江戸文庫」版では『花淵唐木』とあり、地名から考えてその方が正しいようには思われる。但し、この非常に興味深い伝承、ネットでは確認出来ない。]と申し侍り。僕(やつがれ)まで十一代、恙なく、渾(すべ)て家内に惡病を患(うれ)ひしこと、なし。疱瘡(もがさ)・產の怪我(けが)も、なし。他(ほか)の家にて、熱病・瘧(おこり)、其外、難病あるときは、此木を削り、煎じて飮ませ侍れば、免(まぬが)れ侍りし由によりて、[やぶちゃん注:「江戸文庫」版はこの部分は『まぬがれ侍り。此木拾侍りしよりによりて、』とある。]代々(よゝ)御國(みくに)知(しろ)しめす君の、一度はよらせ給ひ、諸(もろもろ)の役を御免(ゆる)しあるのみならず、屋(いへ)の損ずれば、上(かみ)より、葺換(ふきかへ)て給はりぬ。」

と、いさまし、かたるを聞くにも、大根の、御神より給はりし寳(たから)の木也けりと思はるゝ。

[やぶちゃん注:「宮岩・拜殿岩・鳥居岩」この根の呼称は現在、残っていないようである。少なくともネット検索の網は引っ掛からない。或いは、或いは漁師の間では今もよく知られているのかも知れない。識者の御教授を乞うものである。]

 こゝを立(たち)て、菖蒲田濱を經て、松が濱にいたる。爰は濱々の中に、分(わき)て愛(めで)たき所なりき。松が浦島などいふは、ここの分名(わけな)[やぶちゃん注:「別名」。別称。]なりけり。海中まで、程よくさし出たる岩山有り、四方の能く見遣(みやら)るゝ故、代々御國知(しろ)しめす君の、出(いで)ます所に定められしかば、御殿崎[やぶちゃん注:「ごてんざき」。]とはいふ也。暫し休みて見渡せば、水際(みぎは)、やゝ遠く聳えたる岩に、松、ほどよく生たり。向ひ(南)は、空も一つに、際(きは)なき海なり。左(東)の方に、金花山の寶珠(ほうじゆ)の形して、浮たり。右(西)の方に遠く見ゆるは、相馬の崎、其前に黑う、木立の引續きたるは、蒲生(がまふ)の松原也けり。其處(そこ)より此わたりまで、磯つゞきたる直濱に、絕(たえ)ず波の打寄(うちよす)るは、白布を曝(さら)せるとぞ思はる。海の水面に、日の影さし移りたるは、黃金白銀(こがねしろがね)の浮べる樣にて、橫折れる松の葉越(はごし)に見ゆるも、目(ま)ばゆし。面白き岩どもの多く有るに、打かゝる波の、白沫(しろあは)をきせ流し、あるは、玉と成て、砕けつゝ散るも、いと淸し[やぶちゃん注:「すずし」。]。底の深さは七丈有りとぞ。

[やぶちゃん注:「菖蒲田濱」「松が濱」「今昔マップ」のこちらを参照されたい。

「蒲生の松原」ここ(「今昔マップ」であるが、少し時代が新しい。古いものは欠損があるのでこちらを示した)。

「直濱」「なほはま」と読んでおくが、これ、思うに、現在の「長浜」(「今昔マップ」)ではあるまいか? アプローチからここを指していることは間違いなく、「ながはま」と聴いたのを、「なをはま」と聴き違えた可能性もある。或いは浜名ではなく、真っ直ぐな浜という意味で一般名詞として「直濱」(ぢきはま)と読み書いたのかも知れない。]

 昔、西の方の國より、海士人夫婦(あまびとふうふ)、男子[やぶちゃん注:「をのこ」。]一人(ひとり)伴ひて、此處(こゝ)に留(とゞ)まりて、かづきしつゝ、鮑とりしに、日每に、最(いと)大きなるを獲(え)て、鬻(ひさ)ぎしほどに、幾程(いくほど)もなく、富(とみ)たりき。

 此海には、鰐鮫(わにざめ)などいふ荒魚[やぶちゃん注:「あらいを」。]の栖(す)めば、こゝなる海士は、恐れて、底迄は入らで、小(さゝ)やかなるをのみ、取(とり)て有りしを、此海士は、然(さ)る事も知らざりし故、水底に入て取りつるを、

「危(あやふ)き事。」

と、此處なる人は思ひ居しに、果して、大鰐(おほわに)、見つけて追ひし故、

「命を、はか。」[やぶちゃん注:「はか」は「計・量・果・捗」などを当て、「目当て・当て所(ど)」の意であろう。「命あっての物種!」の謂いである。]

と、眞手かた手[やぶちゃん注:「利き手とそうでない手の両の手を使って全力で」の意であろう。]、暇(いとま)なく、浪、搔分(かきわ)けつゝ逃(にげ)つれども、最(いと)速くおひ來て、こゝなる岸に登りて、松が根に取縋(すが)りて、上(あが)らんとせし時、鰐、飛付て、引おくれたる方(かた)の足を食たりしを、海士は上らん、鰐は引入れんと、角力(すま)ふほどに、足を付根より引拔(ひきぬ)かれて、狂ひ死(じに)に死(しに)にけり。鰐は、荒波、卷返(まきかへ)して、逃去りけり。

 子は、まだ廿(はたち)に足らぬ程にて有りしが、岸に立て見つれども、爲(せ)ん術(すべ)なければ、唯、泣きに泣きけり。

 其骸(から)を納めて後、

「父の仇(あだ)を報ひん。」

とて、日每に、斧・鉞(まさかり)を携へて、父が縋りし松が根に立て、瞬(まじろ)ぎもせず、海を睨(にら)みて、

「鰐や、出づる。」

と、窺(うかゞ)ひ居(ゐ)けるを、人々、

「孝子也。」

とて、哀(あはれ)がりけり。

 扨、年、半計(なかばゞか)りも過(すぎ)たる頃、釣の業(わざ)を能(よ)うせし海士の、修行者(すぎやうざ)に成て、國巡(くにめぐ)りするが、爰に舍(やど)りけり。

 かゝることの有といふ事は、人每に語りつれば、其修行者も聞知りて、最(いと)哀れがりて、敎へけらく[やぶちゃん注:「けらく」は過去の助動詞「けり」の「ク語法」。「けり」の未然形「けら」に接尾語「く」が付いたもので、「~であったこと:~であったことには」の意を作る。]、

「鰐を捕らんと思ふに、斧・鉞は不要ならめ。良き鋼(はがね)にて、兩刄(りやうば)にとげたる[やぶちゃん注:「硏(と)ぎたる」の意。]、尺餘の大釣針を鍛(うた)すべし。夫(それ)に五尺の鐡鎖(かなぐさり)を付(つけ)て、肉を餌(ゑ)に串(さ)して、沖に出て、釣すべし。鰐、必ず、寄來(よりき)ぬべし。」

と傳へけり。

 孝子、甚(いた)く悅(よろこ)びて、敎へし如くに設(まう)け成(な)して、釣せしに、鯨の子を獲(ゑ)しこと、二度、あり。

 幾年、往回(ゆきか)へりて、父がくはれし時を算(かぞ)ふれば、十餘三(み)とせに成にけり。

 其日の回(めぐ)り來(こ)し時、法(のり)のわざ、慇(ねも)ごろにして、來集(きつど)ひたる浦人にむかひ、

「今日ぞ、必ず鰐を獲(ゑ)て、父に手向(たむけ)ん。」

と誓ひて、

「力(ちから)戮(あは)せ給はれ。」

と語らひつゝ、年比(としごろ)飼置(かひお)きし白毛なる犬の有りしを喚びて、

「父の仇を討たんと、汝(いまし)が命を、乞ふなり。我と、一つ心に成て、主(しゆ)の仇(あだ)なる鰐を、捕れ。」

と言聞(いひき)かせつゝ、淚を拂(はら)いて、首、打落し、肉(しゝむら)を切裂(きりさ)きて、釣針につき串(つらぬ)きて、沖に出て、針、卸(おろ)せしに、孝子の一念や、屆きつらん、誤たず、大鰐、針に懸りしかば、

「思ひし事よ。」

と悅びつつ、浦人にも、

「かく。」

と告げて、設置(まうけお)きたる、「か□らさん」[やぶちゃん注:不詳。「囗」なのかも知れぬが、恐らくは判読不能だったのではないか。国書刊行会「江戸文庫」版(曲亭馬琴自身の写本)では『かつらさん』とあるが、これも不詳。桟を葛で組み縛ったものか? 識者の御教授を是非とも乞うものである。]と云物(いふもの)に懸(かけ)て、父が食(くは)れし斷岸(きりきし)に引寄せて、遂に鰐を切屠(きりはふ)りけり。

 其鰐の丈は七間半[やぶちゃん注:十三・六三メートル。]有りしとなん。

 かゝる事の聞え、隱れなかりし故、國主にも聞(きこ)し召付(めしつけ)られて、

「松が濱の孝子」

と、賞(ほめ)させ給へる御言書を給はりて、

「鰐を釣(つり)し針は、永く其家の寳(たから)にせよ。」

と仰せ下りつれば、今も持(もち)たり。

 鰐の頭(かしら)の骨は、海士人(あまびと)を埋(うめ)し寺の内に置(おき)たり。獅山公の御代の事なりき。此の二つの物は、今も正(まさ)しう有て、道ゆく人は、寄りて見つ。

[やぶちゃん注:「獅山公」(しざんこう)は第五代仙台藩藩主にして「中興の英主」と呼ばれる伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)のこと(戒名の「續燈院殿獅山元活大居士」に拠る)。元禄一六(一七〇三)年から隠居した寛保三(一七四三)年まで、実に四十年もの長きに亙って藩主を務めた。本書の作品内時制は文政元(一八一八)年。]

 かゝる事も有けり、と思へば、畏(かしこ)し。

  人とりし鰐に增(まさ)りてたくましや

     仇をむくひし孝の一念(おもひ)は

 海士人のすがりしといふ松、今も枯れずて、たてり。

 此島の周圍(めぐり)を離れぬ小舟ありき。

「人を乘せてんや。」

と、問はせつれば、

「二人、三人は可(よし)。」

といふ故、乘(のり)て見れば、蛸釣る舟には有し。今、捕(とり)たるを、膝の下(もと)に打入るゝは、珍らかなるものから[やぶちゃん注:逆接の接続助詞。「のであるけれども」の意。]、心よからず。

 此釣人の語るやう、

「今よりは、七、八年前(さき)に、龜の持來(もてこ)し、『浮穴(ふけつ)の貝』といふものを、持はべり。我家は、道行く人の必ず過ぎ給ふ所なれば、立寄(たちよ)らせ給ひて、見給へかし。今、僕(やつがり)も參りてん。」

とぞ、言ひし。

 舟より上るとて、今、捕りたる蛸を乞求(こひもと)めて、家苞(いへづと)にしたり。

 釣人の家にいたりて、

「浮穴(ふけつ)の貝てふもの、持(も)たりと聞くを、見せてんや。」

と乞へば、内なる女、足高き折敷(をしき)に白き箱を据(すゑ)て、持出たり。

 この磯屋(いそや)の樣(さま)、板敷(いたしき)にて、引網(ひきあみ)・たく繩[やぶちゃん注:「たくなは」。「栲繩」で楮(こうぞ)の繊維で作った繩。]など、多く積入(つみい)れて、折敷などは有(あり)げにも見えぬに、斯(か)く振舞ふは、いみじき寳と思へる樣也。

 執りて視るに、目馴れぬ貝の形也。徑(わたり)一束半(四寸五分)に過ぎぬべし。貝、最(いと)厚く、外の色は白くて、茶色に虎斑(とらふ)の如き文(かた)あり。中は夜光貝(やくわうがひ)に似て、濃(こまやか)なることは、甚(いた)く增(まさ)れり。内に、汐、籠りて、打(うち)振れば、

「こをこを」

と鳴(な)りながら、聊(いさゝ)かも、こぼれ出でず。

「是を得て、八歲(やとせ)になれども、乾きもせず。」

とぞ言ひし。

 兎角する中に、釣人、歸り來りて、事の由(よし)を語る。

「今よりは十年許(ばか)り前(さき)、沖に出(いで)て釣し侍りし時、四尺餘の龜をえ侍りき。乘合(のりあ)ひし釣人も、六、七人候ひしが、

『龜は酒好む物と聞けば、飮ませてん。』

と、僕(やつがり)申したりしを、海士(あま)共も、

『よからん。』

と申して、飮ませ侍りしに、一本許り、飮み候ひき。扨、放ち遣(やり)候ひしに、翌(あく)る年の夏、又、沖中にて釣せし時、龜の出て候ひつれば、捕へて、酒を飮ませて放ち侍りしに、一年有て、此度(こたび)は此貝を背に負ひて、磯より半道許り隔てたる所に、浮(うか)び寄(より)て候ひき。僕(やつがり)は、每(いつ)も、朝、とく、磯邊(いそべ)を見回(みめぐ)り侍りつれば、見怪しみて、汐をかつぎ分て、往(ゆき)て見侍りしに、例の龜にぞ候ひし。初め放ち侍りし時、目印(まじるし)を付(つけ)侍りつれば、見る每(ごと)に違(たが)はずぞ候ひし。

『例の如く、酒を飮ませて、放たん。』

と、し侍しに、左の手を物に囓取(くひど)られんと思(おぼ)しく、甚(いた)き疵(きづ[やぶちゃん注:ママ。])を負ひて、動くべくもあらず見え侍りつれば、人を集(つど)へて、舟に擔載(かきの)せて(四人して漸持たり。)、沖に漕出(こぎい)でゝ、放ちて歸り侍りしに、夕つ方、又、元の所に來て死(しに)侍りき。

『言葉こそ通(かよ)はね、酒飮ませられし酬(むくひ)に、貝を持(も)て來しならめ。』

と、最(いと)哀れに悲しまれ侍りつれば、骸(から)を陸(くが)に擔上(かきあ)げて、小高き所の地を掘(ほり)て、埋(うづ)め候ひて吊(とふら)ひ侍りき。今は、公より仰せ蒙りて、「亀靈明神」と申し侍る。此貝を、初めよりよき物と識り侍らば、斯(かく)は仕(し)候らはじを、只、珍らしとのみ思ひ侍りしかば、海士乙女(あまおとめ)共の、

『亀の持(も)て來(こ)し貝、得させよ。』

と言ひつゝ、手々に[やぶちゃん注:「てんでに」。]打缺(うちか)き打缺きして、取らるゝ程は取り侍りつれば、斯く損(そむ)じ侍る。此半(なかば)にて、脹切(はりきり)たる所にも、針もて突きたる程の穴、あきて候ひしを、

『汐をぬきて、孫共に與へん。』

と思ひ侍りて、角(かど)ある鐵箸(かなばし)もて、突抉(つきくじ)りなどし侍し故、穴も崩れ侍り。されど、聊(いさゝ)かも汐の出侍らねば、其儘にて半年許、翫弄物(もてあそびもの)として置候ひしを、ふと、休みたる旅人の、執見(とりみ)て、

『是(こ)は。正(まさ)しう「浮穴(ふけつ)の貝」といふものなり。如何にして得し。』

と、其故を問聞(とひき)き侍りて、且、感じ、且、缺損(かけそん)じたることを、惜(あたら)しみ[やぶちゃん注:「あたらしむ」は「惜(を)しむ」の意の上代の古形。]侍りて、

『得がたき物なるを、今よりは寳とせよ。』

と、教へ侍りしによりて、俄(にはか)に尊(たふと)み候ひぬ。」

とぞ語りし。

 こゝをはなれて山路にかゝるは、心づきなかりしを、出離れて、海のみおもの、ふと、見えたるは、晴やかにて、際(きわ[やぶちゃん注:ママ]。)なく快(こゝろよ)し。又、居たちて、磯づたひの道にかゝる。湊濱のわたりは、殊に淸し。眞砂の中に、黃金(こがね)の箔を敷(しき)たらん様(やう)に見ゆるが交りて、波の打寄るにつれて、下り上りするが、打上げられたるは、蒔繪に異なることなし。

 かゝるを、愛(めで)つゝ、磯づたひし行けば、湊藥師(みなとやくし)[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ)。]の立たせる邊(わたり)は、よそに過行きたり。後、思出て悔(くゆ)るも、かひなし。

『千鳥は冬ならでは、居(を)らじ。』

と思へりしを、十羽許り、群居て、水際を去らず、求食(あさる)は、最(いと)めづらし。人のちかづけば、遠く居つゝ、每(いつ)も同じ樣(さま)也。繪に書(かき)たるを見しとは異なり、身は細りて長く、「をしへ鳥」[やぶちゃん注:セキレイの異名。「日本書紀」で伊耶那岐・伊耶那美に交合を教えたことに由来する。海辺にもいるが、同種であるかどうかは、怪しい。シギの類は飛翔様態がツバメに似る種がいる。]の形、したり。飛立(とびた)てば、羽勝(はがち)にて、燕に似たり。小波の寄する時は、步みながら逃行き、退(ひ)く時は、又、隨ひて、あさり、大浪の打かゝれば飛立(たち)て、即ち、水際(みぎは)にゐる樣(さま)、波に千鳥とは、いはまほし。

  磯千鳥みぎは離れずあさりつゝ

      淸き渚によをやつくさん

日の斜(なゝめ)に成ぬれば、家路に歸らんことの、煩(わづら)はしく思はるゝを、所得がほに、心おだしうて[やぶちゃん注:「気持ちが自ずと落ち着いてきて」の意か。]、

『あれは、うらやまし。世に千どりがけといふことのあるは、何の故ぞ。』

と思ひしを、

『打波(うつなみ)、引波に連(つれ)て、步む樣を以(も)て、准(よそ)へしことぞ。』

と、思ひ合せられし。此磯は、御殿崎より見し時だに、程あるやうなりしを、下立(おりた)ちては、最(いと)測りなし。

「家づとに貝拾ふ。」

とて、時移しつゝ、蒲生(がまふ)の濱[やぶちゃん注:ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。サイド・パネルを見ると、現在もチドリだけでなく、野鳥の楽園のようである。]行く頃は、心あはたゞしくなりぬ。

                (かえ子)[やぶちゃん注:この旅に同行した友人女性と思われる。]

  かへりゆく道もわすれて打寄する

       眞砂にまじる貝ひろひけり

いと飽かねども、濱を離れて、先に遠く見し松原を經て、家路へと赴きたりし。

    おもひはかるおしあてごと

『此貝を、龜の、痛手負ひながら、持(も)て來(こ)しをもて考ふれば、此貝の在る所は、海の底にして、恐ろしき荒魚(あらいを)ども栖(すみ)て、中々、人の及び難き所故、取得(とりう)ることもなきを、此龜、海士(あま)に捕られて、死すべき命、助けられしのみならず、珍らしき酒を飮ませられしも、度々故、此報ひに、龜も、『珍らしき物を贈らん』と、强(しひ)て求むとて、海底の荒魚と戰ひ、身を傷(あや)められながら、辛き思ひに取得て來りしとにや。』

と思へば、哀(あはれ)なり。

 世に强き例(ためし)に引く龜の、弱り果(はて)たるをもて思ふに、海の底にて、甚(いた)く戰ひしとは、知られたり。命(いのち)盡きなんとするに依りて、貝を持(も)て來(こ)しには非じ、貝を獲(え)んとして、命、失ヘるなるべし。

[やぶちゃん注:以下の長歌は、底本では全体が二字下げ。前後を一行空け、歌は読み易いように、字空けを添えた。前書下の原割注の「川子濱」はかなり手間取ったが、当地のある古文書に「宮城郡松ヶ濱之內川子屋敷」という記載を見出せた。さすれば、現在の宮城県宮城郡七ヶ浜町松ヶ浜浜屋敷(グーグル・マップ・データ)の海浜部であることは間違いないと思われる。因みに、古い時代のこの辺りの地形は、かなり現在と異なる。「今昔マップ」のそれを参考に示しておく。]

  海中のさまをよめる歌(海士人の住所は川子[やぶちゃん注:不詳。]濱也)

河子なる はまの磯屋にすむ海士の 沖に出居て例のごと 釣れる雜魚(いさな)に加はりて 四尺餘(よさかみあまり)の大龜の 浮びたりしを俱乘(とものり)の 海士(あま)とはかりて美酒(うまさけ)を 與へ飮(のま)せて 元のごと 放ち遣りしに 又の年 同じき龜のたく繩に 寄りて來ぬれば うま酒の ゆかしとにやと 飮ませつゝ 又も放ちて遣(やり)つれば 龜の思はく 死(しぬ)る命 全(また)く保ちしのみならず 美酒をさへ惠(めぐま)れし 人の情(なさけ)の報ひには 得難き物を捧(さゝ)げもて 奉らめと思ひつゝ 浮穴(ふけつ)といへる玉貝を 得めと思へど 荒魚(あらいを)の 怒りかしこみ 事なくは 取得(とりえ)がたしと 窺(うかゞ)へり 海の中には垣もなく 行易(ゆきやす)けめと 世の人は 思ひぬれども 浮(うか)ぶ魚(いを) 根(ね)に栖(すむ)魚(いを)の 別(わき)有りて 潮(うしほ)の階(きだ)も異(こと)なれば そこに有りとは知りつれど 千尋(ちひろ)に餘る 荒根(あらね)には 行觸(ゆきふ)れがたみ 容易(たやす)くも 取得られねば 悔(くや)しとは 思ひ染(しみ)つゝ荒魚の 寄來(よりこ)こぬ隙(ひま)に 大龜は 入得(いりえ)ぬ方(かた)に分(わけ)ゆきて 貝を取得て 背に負ひつ 心勇みて 荒波を いかき上りつ 搔(かき)のぼり 潮のさかひを超(こえ)ぬべく 成ぬる時に荒いをの 睨(にら)み視るより 鰭(ひれ)をふり 齒を剝出(むきい)でゝ飛ぶがごと 追(おひ)て來(き)ぬれば 荒汐は うな逆立(さかだち)て卷返(まきかへ)り 底の闇は千萬(ちよろづ)の 神鳴(かみなり)騷(さは)ぐ如くにて 聞くも畏(かしこ)く肝(きも)迷ひ 沈(しづ)まじ浮んと空樣(そらさま)に 尻を成しつゝ 逃行くを いとひかゝれば 拂ふ手を ふつと囓(くは)れて 一度に 汐の境(さかひ)は去りぬれど 重傷(いたで)にあれば 潮さへ 血しほと成(なり)て 大龜は 心消えつゝ一向(ひたすら)に 弱りてあれど やうやうに 海路(うなぢ)辿りて 海士人の 家の邊(ほとり)の磯邊まで 貝を負來(おひき)て 生命(いのち)歿(しに)けり

  萬代を經ぬべき龜はうま酒の

     あぢに命をつくしぬるかも

  龜がよはひ酒にたちけり短かる

     人の命は捨るもうべなり

  萬代の齡ゆづりしかひなれば

     手にとる人も千代はへぬべし

   文政はじめのとし葉月五十六歲にてしるす

                   眞  葛

 

[やぶちゃん注:底本では、ここで終わっているが、所持する国書刊行会「江戸文庫」版では、以下の漢文が附されてある。返り点を除去して恣意的に正字化して示し、後に私の推定訓読を附す。作者「南山大師」とは釈南山(しゃくなんざん 宝暦六(一七五六)年~天保一〇(一八三九)年)。相模国高座郡上九沢村(現在の相模原市)生まれで、俗姓笹野。学深く得道して松島瑞巌寺の住職となった人物である。彼は死後、名取郡閖上(ゆりあげ)の海に水葬されている。]

 

 松濱之漁父、網而獲一大龜、飮之酒而放之、如此者二囘矣。賤而有仁、可不賞乎。龜既洋々焉而去、後數日、負珍貝來、少焉殭矣。怪而視之、損其一足、似爲物所齕斷。意采貝重淵、與巨魚鬪、而至此乎。介而知恩以死報之、可不哀且賞乎。然而細民有仁、衆漁中蓋不數人、介族知恩、亦所希覩也。可謂奇遇耳。夫、龜以壽稱者也。而爲恩强死、爲人所哀、傳以爲美談。其不朽也、勝徒壽遠矣。[原割註―こは、かの國にいます南山禪師のそへ給へるなり。]

   *

 松濱の漁父、網にて一大龜を獲り、之れに酒を飮ませ、而して之れを放つ。此くのごとき、二囘たり。賤しくして、しかも、仁、有り。賞すべからざるか。龜、既に洋々焉(ようようえん)[やぶちゃん注:はるか遠いさま。]として去り、後、數日(すじつ)、珍貝を負ひて來り、少焉(しばし)にして殭(し)す。「怪し」として之れを視るに、其れ、一足を損じ、齕斷(けつだん)せる[やぶちゃん注:噛み切られたる。]物たるに似たり。意(おも)ふに、重淵に貝を采(と)り、巨魚と鬪ひ、而して此に至れるか。介[やぶちゃん注:広義の魚介で、亀を指す。]にして、而(しか)も、恩を知り、死を以つて之れに報ふ。哀れみ、且つ、賞すべからざるか。然して、細民、仁、有り。衆漁の中(うち)、蓋し、人を數ふべからざるに、介族、恩を知る、亦、希覩(きと)[やぶちゃん注:まれに見るものであること。]とせんや。奇遇と謂ふべきのみ。夫(そ)れ、龜、壽を以つて稱す者なり。而して恩を爲(な)し、强(しひ)て死す。人、哀れむと所と爲(な)し、傳へて以つて、美談と爲(な)す。其の不朽や、徒(いたづら)に壽とするに勝(まさ)れるに遠し、と。【こは、かの國にいます南山禪師のそへ給へるなり。】

 

[やぶちゃん注:以下は底本にはなく、国書刊行会「江戸文庫」版に続けて付随する。されば、恣意的に正字化して示す。但し、これは前の眞葛の本文自体を読むに、原「いそづたひ」を完成した後、それを読んだ誰彼が、心ない批評をしたのに対して、彼女がその内容にカチンときて附したものと考え、原「いそづたひ」にはなかったもの斷ずる。しかし、読めば判るが、この毅然たる反論の仕方は、後の南方熊楠を髣髴とさせると、私は思う。そこが、如何にも面白いし、眞葛姉さんを私がかっているところでもあるのである。最後の部分は眞葛が亡くなってからの曲亭馬琴の添書である。]

 

     わにのあげつらひ

 

 近頃繪ざうしに、鳥獸魚などをも、人とひとしき樣に作りなすを、ものゝたどりふかゝらぬ、をとめのともは、まことにやとおもふから、わにゝしるしもなきを、其釣よせしは海士(あま)のくはれしわにゝや、又外のにやと、うたがふことも有べし。よりてあげつらひ置なり。

 天地の中のことは、心のかこみせばき女の、ふと思はかるとは、いたくたがへるものなり。此世界なる人のごとく、海中の大魚ども、すり違、行合などして、すむものならず。小魚は、おほくむれてあれども、七八間の大魚に至ては、いくその年を重てか、そだつことにて、人にたとへば一家の大名にひとしく、それ是とまぎるゝばかり多くはすまず、其遊ぶ所も、其魚々の領、おのづから定有て、其中へ外の魚の入來る時は、卽たゝかひおこるなり。門を守る犬の强ければ、他の犬をよせつけぬをも思ふべし。敎をうくることのあたはぬものゝ際には、又おのづからなる法有習なり[やぶちゃん注:「はふ、ならひあるなり」か。]。人にしては、領地のかこみ廣きをさして、大名といふならずや。大魚もおのづから廣く遊所を得て、すむことならでは、七間八間にそだつことはあたはじ。

 大海には、雌雄(めを)有て、子もうみつゝ、あまたすむことならめど、入海などにふとより來ることは、必一魚なり。うたがふべからず。人は地につきてすめば、爰と限らねば、みだりに行ちがふ故、垣を結て是をとゞむれども、絕てしめゆふ[やぶちゃん注:前の「垣を結」ぶに、「締め結ふ」と縁語のように使用し、そこに「占(し)め有(ゆう)」(占有する)を掛けたものか。]ことのあたはぬ、大空をかける鳥、又海中に住魚の際にいたりては、おのづから其居所おごそかなるが、天地の道理なり。人とひとしきものと思ふべからず。年每に渡る雁にまじるしなければ、人はしらねど、いつも同じ田面に落るものなりとぞ。今よりは三十年ばかり先のことなりしが、むれたる雁の中に、白雁の一羽有しを、其田主みつけて、生どりて君に奉らばやと思ひて、心をつけしに、三年迄同じ田におりしを、三年目に網をはりて、取て奉りしことも有き。此外にも、あるは羽に疵有鳥、又足を引たるなどを、まじるしとして見れば、其鳥はいつも同じ所に居ものぞと、人いへり。[原頭註―木村默老の手簡に云、「舊冬致恩借候『磯通多比』、返璧仕候。御落手可ㇾ被ㇾ下候段々、新奇の說有ㇾ之、和仁のあげつらひ抔(など)は、實に尤(もつとも)之說と奉ㇾ存候。右に付、おもひ出し候。讚城の乾の方の海に、千尋の深さもあらんと存候深淵、百年前迄有ㇾ之候よし。右深底に、八右衞門鱘(フカ)と稱候鰐サメ居申候。是は原八右衞門と申漁夫を吞候より、かく名づけ候由に御座候。後に八右衞門が幼少の男子致成長、父の仇たる鰐を、術を以擊とり候次第有ㇾ之、誠に暗合致し候事に候。然るに、桑田碧海にて、當今は右の深淵は淺瀨に成候也。」]

[やぶちゃん注:「木村默老」(きむらもくろう 安永三(一七七四)年~安政三(一八五七)年)は讃岐高松藩家老。名は通明。。通称は亘(わたる)。砂糖為替法の施行や、塩田開発などによって藩財政を再建したことで知られる名臣。和漢の学問に通じ、歌舞伎や戯作を愛好、曲亭馬琴とも親交があった。以上の書簡引用を推定訓読しておく。

   *

舊冬、借(か)るに致恩(ちおん)に候ふ、「磯通多比」、返璧(へんぺき)仕つり候ふ。御落手下さるべき候ふ段々、新奇の說、之れ有り、「和仁のあげつらひ」抔(など)は、實(まこと)に尤もの說と存じ奉り候ふ。右に付き、おもひ出し候ふ。讚城(さんじやう)の乾(いぬゐ)の方(かた)の海に、千尋の深さもあらんと存じ候ふ深き淵、百年前まで、之れ有り候ふよし。右深底に、「八右衞門鱘(やゑもんぶか)」と稱し候ふ「鰐(わに)ざめ」、居り申し候ふ。是れは、原八右衞門と申す漁夫を吞み候ふより、かく名づけ候ふ由に御座候ふ。後に八右衞門が幼少の男子、成長致し、父の仇たる鰐を、術(じゆつ)を以つて擊ちとり候ふ次第、之れ有り、誠に暗合致し候ふ事に候ふ。然るに、桑田碧海にて、當今は右の深淵は淺瀨に成り候なり。

   *

この感想も熊楠っぽくて面白い。]

 又一くだり、あげつらふこと有。いとけなき、をのわらはの、有ともしらで、みゝずにまりをしかけて、その氣にあたりて、しゝ[やぶちゃん注:「尿(しし)」。本来は「おしっこ」の幼児語・女性語であるが、ここはそれを出す「おちんちん」のことである。]のはれることあり。是をいやすには、それかあらぬか、土をうがちて、みゝずをだに、ひとつとり得て、淸水によく洗ひてはなてば、卽時にいゆ。かゝることも有をや。ましてそのわに、またく父を喰しにあらでも、父がまう㚑[やぶちゃん注:「亡靈」。亡き御霊(みたま)。]をしづむるには、たれりとすべし。

○此國にして、鯨を產とせざる故は、くじらのなきにはあらねど、海の便のあしければなり。是もあまの語しことなりき。さいつとし、沖に釣して、おほく得たる魚(いを)をふご[やぶちゃん注:「畚(ふご)」。魚籠(びく)。]に入て、舟に結つけて、汐にひたして、生ながら引てかへる時、此ふごを鯨のみつけて、二にて、うなさか[やぶちゃん注:「海境」。海神の国と人の国とを隔てると信じられていた境界。]たちて追しこと有し。大魚の水をはしるの早ことは人力の及ぬことなれば、さらに生きたりとは思はざりしを、刄物[やぶちゃん注:「はもの」。]恐ると聞し故、まな切はものゝ[やぶちゃん注:「爼切(まなぎ)り刃物の」であろう。]、よくとぎたるをこそ、舟の兩わきにさげたれば、是を恐しにや、追ことをやめたり。扨萬死をいでゝ一生にかへりしと語き。此海にして鯨をとる時は、たえて小舟にて沖につりすることの叶ぬ故、鯨をばたゞにいたはりて、あだせぬやうに願が故なりとぞ。

[やぶちゃん注:以下の一文は底本では前後一行空けで、全体が四行下げ。「※」は「黑」+「戈」。意味不明。「弆」は「去」の異体字。]

 

 天保四稔玄※執徐二陽月立春後六日、校于神田岱下東坊著作堂之南軒早梅開處。今夜又薄雪、寒風射紙門搦管不使、至四鼓方卒業。

[やぶちゃん注:「※」の漢字の読みも意味も判らぬが、無理矢理に訓読しておく。これは要するに、「磯づたひ」の写本終了の擱筆である。

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天保四稔[やぶちゃん注:天保四年癸巳は一八三三年。真葛の死から八年後。]、玄※[やぶちゃん注:不詳。何らかの時節(前年末?)を指すか。]に執りて、徐(おもむろ)に二陽月[やぶちゃん注:不詳。「陽月」は陰暦十月で二を足して十二月の謂いか。]、立春後六日[やぶちゃん注:前年天保三年は年内立春で十二月十五日であった。]、神田の岱下(たいか)東坊が著作堂[やぶちゃん注:馬琴の号の一つ。この頃の馬琴は神田明神下に住んでいた。]の南軒、早や、梅、開く處に、校せり。今夜、又、薄雪たり。寒風、紙門(ふすま)を射(い)搦管(じやくくわん)不使(つかはず)[やぶちゃん注:「筆を執って特に書き添えることもなく」の意か。]、四鼓[やぶちゃん注:暮れ四つ時(午後十時)のことか。]に至りて、方(まさ)に業を卒(をは)る。

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『奧州說話』『磯通太比』二書、眞葛老姐所ㇾ著。老媼名綾子、一稱眞葛、仙臺醫官、工藤平助長女也。年至四八、遣ㇾ嫁於仙城、爲只野甲後妻云。良人沒後、娶居數年矣。性好國風和文、頗得其趣。文政元年冬月、遙寄書於余、且有ㇾ問。當日亦使其女弟萩葊楮尼[原割註-法名瑞祥院、在越前侯築地第。]淨書是二書、以問可否。余留其本藏弆梢久。友人知ㇾ之、欲ㇾ看者間ㇾ有ㇾ之、乃者又製一本、爲貸進料。灰聞、老媼文政七年某月某日物故、享歲六十二。鳴呼可ㇾ惜焉。若其往來問答載『兎園小說』卷第十。今不亦贅

  天保三年壬辰冬閏月既望

𪈐齋陳燈灯下識  

[やぶちゃん注:訓読を試みる。但し、表記自体にかなりの問題があるように見受けられる。

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「奧州說話(わうしふばなし)」・「磯通太比」の二書、眞葛老姐(らうそ)、著はす所なり。老媼、名は「綾子」、一稱に「眞葛」。仙臺醫官の、工藤平助が長女なり。年、四十八に至りて、仙城に嫁せしめ、只野甲の爲めに後妻となると云ふ。良人の沒後、娶居(しゆきよ)すること、數年たり。性(しやう)、國風の和文を好み、頗(すこぶ)る、其の趣きを得たり。文政元年冬月、遙かに書を余に寄こし、且つ、問ふこと有り。當日、亦、其の女弟萩葊(はぎあん)楮尼【法名、瑞祥院。越前侯が築地の第に在り。】淨書せる是の二書をして、以つて可否を問ふ。余、其の本を留め、藏し弆(さ)ること、梢久し。友人、之れを知り、看んと欲する者、之れ、有る間(あひだ)、乃(の)ちには、又、一本を製し、貸進の料(れう)と爲せり。灰聞、老媼、文政七年某月某日、物故す。享歲六十二。鳴呼(ああ)、惜しむべし。其の往來問答、「兎園小說」卷第十に載せるごとし。今、亦、贅せず。

  天保三年壬辰(みづのえたつ)冬閏月既望(きぼう)

𪈐齋陳燈灯下識  

   *

最後の署名「𪈐齋陳燈」は一応、「らいさいちんとう」と読んでおく。これは、馬琴でないとおかしい訳だが、この号は全くヒットしない。

「奧州說話」奥羽地方で伝え聞いた伝説を中心に収録した怪奇談集。近日中に電子化を始動する。

「老姐」年老いた姐(あね)さん。真葛は宝暦一三(一七六三)年生まれで、馬琴(明和四(一七六七)年)より四つ年上であった。

「只野甲」「甲」は匿名表記か。只野行義(つらよし ?~文化九(一八一二)年)で仙台藩上級家臣。結婚当時は江戸番頭。通称は只野伊賀。

「娶居」嫁した家に未亡人として住み続けたことか。

「文政元年冬月」一八一八年から一八一九年年初(十二月)。

「遙かに書を余に寄こし、且つ、問ふこと有り」実際に半生の記とオリジナルな思想随想を合わせた稀有の著作「独考」を彼女を知らない馬琴に唐突に送りつけた(江戸在住の彼女の妹の萩尼に持参させた)のは、文政二(一八一九)年二下旬であったが、同稿の末尾には、「文化十四年十二月一日五十五歲にて記す あや子事眞葛」の署名があり、また、翌文政元(一八一八)年十二月には同書の自序を書いているので、その日付を以つて、真葛の発信の日をかく記したのである。

「其の女弟萩葊楮尼」「葊」は「庵」の意。「楮尼」は「拷尼」の誤り。彼女は出家前の名は「拷子」(たえこ)である。「楮尼」も「たへ(或いは「たえ」)に」と読んでおく。

「梢久し」「稍久」(稍(やや)久し)の誤字であろう。

「灰聞」は「仄聞」(そくぶんす)の誤字ではあるまいか? 「江戸文庫」! 六千八百円も大枚払わしといて、杜撰の極みじゃて! 補正注、つけんカイ!

『「兎園小說」卷第十に載せる』これも近い将来、このブログ・カテゴリ「只野真葛」で電子化する。

「天保三年壬辰冬閏月」同年には閏十一月があった。この閏十一月一日は既にグレゴリオ暦一八三二年十二月二十二日であった。さらに後の「既望」(「既に満月を過ぎた」の意)というのは、陰暦の十六日の夜を指すから、一八三三年一月六日となる。]

迎春

今年もブログ「鬼火~日々の迷走」及びサイト「鬼火」をよろしく。  心朽窩主人敬白

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