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2021/01/14

怪談登志男 六、怨㚑亡經力

 

怪談登志男卷第二

 

   六、怨㚑(おんりやう)經力(きやうりきにほろぶ)

 藝州嚴島は扶桑第一の勝景、繁榮豐饒(ぶにやう)の所なり。此あたりに大坂町といへる所あり。攝津國難波(なんば)の商人、常に往返(おふへん)して、甚、賑はへり。

 此町に田澤屋とて、大舩(たいせん)、あまた貯置(たくはへおき)、運送自由をなすが故に、家、大に冨(とめ)るものあり。

 永祿年中、當國の座頭一人、上京のねがい、多年の功勞を積(つみ)、官金數百兩、肌に付、此湊にて田澤屋が船に乘り、海上一里も出しとおもふ頃、俄(にはか)に騷(さはぎ)立、聲を上て、

「こは悲しや、某が携へ持たる革財布(かはさいふ)、湊を出し時、首にかけ候ひしが、只今、舳(とも)に立出、小用致し候節、少の間(ま)、側(そは)に置候が、今、能々、尋れども、何方へ參りつらん、これ、なく候。あはれ、御慈悲に、各、御立合、盲人が金子の事、出世のため、幾年か丹誠を盡して用意いたしたるなり。御吟味なされ下さるべし。」

と、歎き悲しむ事、大かたならず。

 乘合(のりあひ)の人々、一同に、

「是は、氣のどく千萬。面面、幾度か此海路(かいろ)を商買(しやうばい)[やぶちゃん注:原本も漢字はママ。]のため、往(ゆき)通ふが、いまだ、かゝる事こそあらね、舩中のもの、獨り獨り、身ばれなれば、裸になり、穿鑿いたし侍らん。」

と、片端より、帶を解(とき)て改けれども、もとより掠(かす)めぬ金なれば、出べき樣もなかりしが、

「舷(ふなばた)に、何やらん、海に下(さが)りし緖(お)の見へしが、若(もし)も、それか。」

と立さはぐ。

 座頭、うれしく、舳(とも)に出、舷を探り見るを、水主(かこ)壱人、聲をはげまし、荒らかに、

「此盲人(めくら)は、危(あやふ)き所をはしり𢌞り、もし、海へ落入て、人を恨みたまふなよ。見へざる金が今と成、此船中に有べきか。もし、舩頭を疑ひての事か。左(さ)もあれば、吟味の上、金の有(あり)か、しれざるにきはまりし時、いかゞすまさるゝや。此舩に惡名(あくみやう)を付らるゝからは、覺悟、あるべし。」

と、したたかに叱(しかり)けれども、元來(もとより)、途方にくれける故、耳にもさらに聞入ず、小緣(こべり)を傳ひ出で、碇綱(いかりづな)の中程より、浪に浸りて垂りしを、

「手繰寄(たぐりよせ)ん。」

と屈(かゞ)む所を、舩頭は、とりとゞめんとせしが、誤りて落入たると見へ、海へ、

「ざんぶ」

と飛(とび)入しに、此音とともに、座頭も、おなじく、海へ落ぬ。

 舩中、周章(あわて)て、聲を上、

「誰(たそ)、助けよ。」

と立騷ぐ。

 船頭は、波にゆられながら、座頭をとらへ、たすくるやうに見ヘしが、浮(うき)ぬ、沈みぬ、見え隱れて、二人ともに、底(そこ)の水屑(みくず)と成にけり。

 船中、一同にさはぎ立、

「財布の見へざるのみならず、座頭も入水(じゆすい)したりける事の便(びん)なさよ。水主もまた、人を助けんとて、思ひよらざるあさましき死を遂(とげ)し。」

と語り合て、心ある人は經をよみ、念佛して、吊(とふら)ひける。

 此後、程經て、件(くだん)の船頭は、室(むろ)津より上りて、辛き命を助かりし、と沙汰するものもありけるが、座頭が噂は絕(たへ)て、なく、金の穿鑿する人もあらず。

 茲に田澤屋が子傳三郞は、生年、廿八歲になりしが、極て好色の者にて、あけくれ、花街柳巷(けいせいまち)にあそび、「御舩(みふね)」といヘる遊女を、そこばくの金にて請出し、蜜[やぶちゃん注:原本のママ。「ひそかに」。]にかくし置て、愛しける。

 傅三郞が親は、洞春(とうしゆん)とて、禪門なりしが、隱居住(すま)ゐの、もの閑(しづか)なるに、四季折々の草花を植(うへ)て、樂しみとし、今朝も、夙(つと)めて、庭に立出、菊の、きせわたする所へ、座頭一人、飛石を傳ひ來るを、洞春、見とがめ、

「いづ方より、まよひ入しぞ。路地を出て、裏道より、小路をつたふて、出られよ。」

と敎へければ、座頭、うちゑみて、

「それがしは、此廣島の迫(せ)戶に沈みて、見るめは得たれど、藻に住(すむ)蟲の和禮都(われいち)と申もの、我身を碎(くた)き、骨を拉思ひにて貯へたる官金三百兩、革の財布に携へ持、御身の舟に乘し時、嘉兵衞といふ兎唇(とくち)の水主が盜隱(むすみかく)して、我を海中へ落し入、たすくる風情に人には見せ、うづまく淵へ、我を沈め、其身は水底(みなそこ)を潛りて、陸路に上り、室津(むろつ)まで流(ながれ)て、からき命、たすかりしと僞り、此金を傳三郞にあたへ、己(おのれ)も配分せし事、もとより其方が子の、傳三が所爲なり。此恨(うらみ)、いづれの世にか、散ずべき。田澤が家を絕(たや)し盡(つく)し、盡未來際苦(ちんみらいさいく)を見すべし。いかなる佛事供養をも、かならず、かならず、なすべからず。詮なかるベし。」

と、いふかとおもへば、庭の淺茅(あさぢ)の露と消て、跡かたも、なし。

 洞春、茫然として、夢のさめたるごとく、おそろしさ、いはんかたなし。

 いそぎ、傳三を一間に呼寄(よびよ)せ、此事の始終を穿鑿しけれぱ、今は、つゝむ事を得ず、赤面して立去る。

「座頭が恨みはとも斯(かく)もあれ、此惡事、露顯しては、公(おゝやけ)の御咎(いさめ)、まぬがれがたし。」

と、嘉兵衞をともなひ、宮嶋領(りやう)の田舍に行、幽(かすか)に、かくれぬ。

 かくて後、洞春をはじめ、一家九人、七日が間に、死(し)しぬ。

 傳三・御(み)船・嘉兵衞、三人、一時に、兩眼、つぶれて、あまつさへ、狂亂し、

「座頭を殺し、金を盜し者は、我々なり。」

と、口ばしり、觸𢌞り、麻が原といふ所の草むらに、かばねを晒し、うせにけり。

 是より、田澤が家、荒果(あれはて)、「化もの屋敷」と名に立て[やぶちゃん注:「たちて」。]、住(すむ)人、さらになかりしに、豐前の小倉より、日蓮宗の行脚の沙門、來りて、ありし次第を聞、あはれなる事におもひ、座頭が爲、田澤屋一家が爲、此「ばけ物屋敷」に住(しう)して、日夜、法華、讀誦しければ、亡魂、得脫(とくたつ)せしにや、其後、かの荒(あれ)屋を修理(しゆり)して、人も住居しけるに、いさゝかの怪(あやしみ)もなかりし、と、濟家(さいけ)の沙門昂含(かうかん)といへるが、信州佐久郡(さくこおり)觀音寺に來りて、つぶさに語りしを、しるしとゞめしも、今は、むかしと、なりぬ。

 

[やぶちゃん注:座頭の死、及び、洞春をその亡霊が訪ねるシークエンスまでは、まことにリアリズムに富み、よく書けている。しかし、コーダが早回しの急ぎ足で、完全に失敗している。今までの本書の話柄の中では、格段にレベルの落ちるもので、不審極まりない。筆者が投げたとしか思われない。

「大坂町」不詳。

「永祿」一五五八年から一五七〇年まで。もう、戦国時代初期。

「座頭一人、上京のねがい、多年の功勞を積(つみ)、官金數百兩」「官金」これはもう、江戸時代のことを引き戻した設定で、盲人が検校などの官位を手に入れるため、江戸幕府に納めた金を指す。

「舳(とも)」船尾。船首でも「舳」と書くが、ここは小便をしていることから、それでとるべきである。

「身ばれなれば」「身晴れなれば」で確定条件。「(皆、盗みなどしようがない。されば)身は何方も潔白であるのであるから」の謂いでとる。

「掠(かす)めぬ金なれば」誰も盗んでなどいない金であるから。

「舷(ふなばた)」広義の船の側面。

「小緣(こべり)」船(一般には小舟)の前に注した舷(ふなばた)の上縁に保護材として張った板。

「室(むろ)津」厳島の直線で南西約五十キロメートルにある室津半島(グーグル・マップ・データ)。

「菊の、きせわたする」「きせわた」は「着せ綿」。旧暦九月九日の「重陽の節句」に於いて、古く平安時代には前日の九月八日に菊の花を真綿で覆っておき、それに菊の香を移しえ、その翌日の朝、露に湿ったこの真綿を顔に当て、若さと健康を保とうとする行事があり、それを「菊の着せ綿」と称した。ここは、それを指すので、この部分で時期設定が示されていることになる。

「迫(せ)戶」「瀨戶(せと)」。

「見るめは得たれど」平知盛の壇の浦の台詞「見るべきものほどのことは見つ」を下敷きにしていると思われる。生きてゆく中で体験せねばならぬおぞましきことは総て見た、と、まず、言い、「見る目」の一方の意である「物事の真偽・優劣を見分ける力・眼力」を得て、誰が私の金を奪い、殺したかを私は知っていることを暗示させている。さらに無論、海の藻屑となって緑藻類の海藻「みるめ」「みる」「海松」「水松」(緑藻植物門アオサ藻綱ミル目ミル科ミル属ミル Codium fragile )となる身に堕ちたことを掛けた。

「藻に住(すむ)蟲の和禮都(われいち)と申もの」「みるめ」から「藻」が縁語となり、そこから「藻に住む蟲」となれば、それから「われから」(甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱フクロエビ上目端脚目 Senticaudata 亜目 Caprelidira 小目 Caprelloidea 上科の小型甲殻類のワレカラ類)がやはり縁語で引き出されるという仕儀となっている。だから、この座頭の通称名であるところの「和禮都(われいち)」をここで突然出したのは、「われから」に掛けた名として示された臭い言葉遊びなのである。かのちっぽけなみすぼらしい、海藻についてミイラになって、ぱらぱらと壊れ去る甲殻類の「われから」なればこそ、以下、「我身を碎(くた)き、骨を拉」(「ひしぐ」。「折る」ような)「思ひにて貯へたる官金三百兩……」と繋げて空しく腑には落ちるのである。但し、ちょっと粉飾し過ぎの感があって、私は座頭の怨霊の登場には、やや五月蠅い感じがなくもないように思う。しかも、この辺りから後が、まさに、ワレカラが微塵となるように、作品として、がっくり、だめになるのとまさに呼応しているからでもある。作者は、文章の飾りの調子に乗り過ぎた結果、本来の主題の展開のリアリズムをおそろかにしてしまったのである。

「兎唇(とくち)」口蓋裂。通常は鼻の直下で上唇が分離している先天性異常のこと。

「盡未來際苦(ちんみらいさいく)」「盡未來際」は「じんみらいざい(さい)」で、仏教用語。「未来の果てに至るまで」「未来永劫」の意で、普通は誓願を立てる場合などに用いるのだが、それに永遠の「苦」痛を添えて、未来永劫に続く呪詛の証として転じたものである。

「淺茅(あさぢ)」疎(まば)らに生えた丈の低い茅(ちがや)。荒涼とした風景を表わす語であるが、ここは洞春の綺麗な園中なれば、彼の心象風景ととるべきであろう。

「麻が原」不詳。

「濟家(さいけ)」臨済宗。

「昂含(かうかん)」不詳。

「信州佐久郡(さくこおり)觀音寺」不詳。長野県佐久市大沢の曹洞宗龍泉院内に観音寺という寺がある記載があるが、ここで言っているのがその寺かどうかは判らぬ。この近くにはっ独立した「観音堂」があり、佐久郡に拘らなければ、観音寺は外にもある。例えば、旧佐久郡に近い観音寺(グーグル・マップ・データ)は長野県小県(ちいさがた)郡長和町にあるが(真言宗)、ここは佐久郡であったことはない。]

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