奥州ばなし 熊とり猿にとられしこと
熊とり猿にとられしこと
これは、あや子が、こゝに下りし、又の年ばかりのことなりき。
二人組にて熊をとる狩人有しが、
「熊を、もとむる。」
とて、山をゆきしに、大木のもとに、穴、有(あり)て、其木に、ことごとく、爪にて、かきし跡の有しをみつけて、壱人(ひとり)が、
「是を、とらばや。」
といふを、ひとりは、
「益《えき》あらじ。たしかに、猿なるべし。」
とて、くみせざりしかば、歸りつれど、はじめに「とらん」といひ出(いで)し人は、とかく、心、すまで、
「我壱人、行(ゆき)て、とらむ。」
とて、いでたりしが、其夜、かへらざりしかば、
『たしかに。猿にとられつらん。』
と思ひて、外に人ふたりをたのみて、三人づれにてゆきて、穴の口をふたぎ、熊とりのしかけにして、長柄(ながえ)の鑓(やり)にて、つきころしつ。
中に入(いり)てみたれば、昨日來りし人は、とられて、くはれたると見て、着たる橫ざしと、帶ばかり、穴の中に有て、何もなし。
「皆、猿の食盡(くひつく)したるなり。」
とぞ。
その猿は、九尺ばかり有しと聞(きき)し。
すべて、「さる」といふものは大食(おほぐひ)なるものにて、また、食するものなき時は、いく日も、くはで、をるものなり、とぞ。
山にすむ獸(けもの)は、里のものと、ことなり・をかしきふし、なきことながら、大食(おほぐひ)の次(ついで)に、かきつ。
[やぶちゃん注:「あや子が、こゝに下りし、又の年ばかり」真葛、本名、工藤あや子(綾子)が、江戸を出て、仙台藩上級家臣只野行義(つらよし)の妻となって仙台に赴いたのは、寛政九(一七九七)年九月十日であった。その翌年。
「橫ざし」よく判らぬ「着たる」を文字通りに「きたる」と読むならば、「帶」との関連からも、「橫刺織」(よこざしおり)で、緯(よこ)糸を浮かせて文様を織り出した浮織物のことかと思われる。「着たる」を「つけたる」と読むなら、髻(もとどり)に挿した笄(こうがい)のことを指すとも読めなくはない。別段、猟師が総髪を絡げて房状に後頭部に纏めて、そこに笄を挿していても、日本刀の笄と同等のものを考えれば、少しもおかしくはない。但し、帯との自然さ、発見時の現場の映像からは、やはり前者が自然であろう。にしても、この猿に食われた男は槍なんぞの得物を全く持たずに熊狩り(実はやはり猿だったのだが)行くというのは、これまた、ヘンではある。
「大食(おほぐひ)の次(ついで)に、かきつ」(眞葛が確かに「おほぐひ」と訓じているかどうかはやや疑問はある)里で見掛ける獣類と見かけは特に変わらないけれども、大食いであるという点は異なっているので、それを次いでに記さんと、この話を書いた、という意でとった。]